スポンサーサイト

.-- -- スポンサー広告 comment(-) trackback(-)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

宮城県の猫神・水沢の「唐猫」

.22 2011 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していくシリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。


水沢のカラ猫
宮城県伊具郡丸森町水沢
 
水沢付近
「水沢」付近の「阿武隈川」
「@丸森の巨石伝説 ! 」HPより
http://zuiunzi.net/igu/bsrisuto8/38.html
 
1. はじめに

今回、紹介 しょうかい するお話は、「宮城県」の南部と「福島県」北部との境 さかい 、「阿武隈川 あぶくまがわ 」が滔々 とうとう と流れる「丸森町 まるもりまち 」の北部に伝 つた わるものです。いまでこそこの地は、緑の深い低山間地 ていさんかんち といった景色が広がりますが、かつては、古くからこの地域 ちいき の大切な交易路 こうえきろ でありつづけた「阿武隈川」に沿 って、多くの船や人、それにお米や物資 ぶっし が行き来して栄 さか えた土地でした。「水沢」は、その中でも特に栄えた港として知られているところだったのですが、いまは完全に草木におおわれた廃墟 はいきょ となっています。

ところで、この地域 ちいき では、
古くから「猫」の姿 すがた を石に彫 って、神様としてお祭りする風習 ふうしゅう がありました。いまでも、そんな「猫」を彫った石碑 せきひ が、「丸森」町内とその周辺の地域にたくさん残されています。 くなった飼 い猫を供養 くよう するためとも、よくない死に方をした猫のたたりを防 ふせ ぐためとも言われますが、はっきりしたことは分かりません。明治時代ころから昭和三十年代あたりまでは、特にネズミよけの神様として崇 あが められていたようです。このあたりは、むかし、「蚕 かいこ 」を飼って「絹 きぬ 」をつくるのがさかんだったのですが、気をつけないと、大切な「蚕」をネズミたちに食べられてしまうことも多かったからだそうです。

これらの「猫碑 ねこひ 」と、今回紹介するお話とが関係あるかどうかは分かりませんが、いずれにしても「丸森町」周辺 しゅうへん は、「猫」と縁 えん の深い土地のようです。



2. 水沢の「カラ猫」

それでは、お話に入ります。

昔、「水沢」に「御城米 ごじょうまい 問屋 どんや 」があって、船で来る書状 しょじょう「峠 とうげ 」の「御番所 ごばんしょ 」に届けなければならなかったのだが、「水沢」から「羽出庭 はでにわ 」に出て、それから「鳥木 とりき 」を通っていくので、「御番所」につくのは晩方 ばんかた になってしまった。

ところで、「水沢」の「御城米問屋」では大きな「カラ猫 ねこ 」を飼 っていたのだが、書状を持ってゆく人が、途中 とちゅう 、川べりの畑の中で、その猫が子供の「大黒頭巾 だいこくずきん 」をかぶって、「狢 むじな 」とおどっているのを見てしまった。その人は青くなってもどってきて報告 ほうこく したという。

しばらくして、「カラ猫」が家にもどってきたというので、家の人が、なんだ、主ゃ、おらいの誰 だれ それの帽子 ぼうし 持ってってかぶって、おどりおどっていたってなァ、と語ると、それきり猫の姿 すがた は見えなくなった。そして、その帽子を持ってくると、家に返して、また見えなくなったと云う。

それから、「水沢」は猫の化物 ばけもの が出たから、立たねーつーことになった。新しい時代がやってきていたというのもあったが、あそこはつぶれるだろうと云うこと。実際 じっさい 、「御城米問屋」も、汽車 きしゃ というものができて、川筋 かわすじ を歩くものはいなくなり、不要 ふよう になってしまった。



3. この話について

このお話には、説明するのが難しい言葉がいくつか出てきます。特に「御城米問屋」「御番所」の二つは、分かりにくいですね。でも、この二つの言葉は、説明するのも大変むずかしいのです。むかし、日本を「将軍 しょうぐん  (徳川 とくがわ さん) 」が支配 しはい していたころ、全国 ぜんこく のあっちこっちに「徳川幕府 ばくふ 」の領地があったのです。その土地から納 おさ められる税 ぜい としての「年貢米 ねんぐまい 」は、必ず「将軍」の住む「江戸 (東京のこと) 」に運ばなければなりませんでした。大量の米を何百キロも運ぶのですから、これは大変な仕事でした。この大変な仕事を政府 (幕府  ) や人々の代わりにやってくれたのが「御城米問屋」です。上の伝説の舞台 ぶたい である「福島県」では、「阿武隈川  」を使って船でお米を運びました。「水沢」というのは、その「阿武隈川」の最 もっと も重要な港の一つだったのです。

御番所 ごばんしょ 」というのは、昔の「役所」「警察署」のようなものです。ここのお話でいえば、政府 (幕府) に納める税としての年貢米が、正しく運ばれているかをチェックするための役所のことです。「カラ猫」は、「御城米問屋」からこの「御番所」に向かう途中の道でおどっていたようです。

「猫」がいっしょにおどっていた「狢 むじな 」というのは、大体みなさんの知っている「タヌキ」のことです。「大黒頭巾」というのは、「大黒様」がかぶっているような、あの赤くてふにゃっとした帽子 ぼうし のことです。昔は、小さな子供や、六十歳 さい を過 ぎたおじいさんがよくかぶっていたものです。

でも、みなさんは、猫が「タヌキ」といっしょに、帽子をかぶっておどりをおどっていたら、どう思いますか? かなりカワイイ場面だとわたしは思うのですが、みなさんはどうでしょう? けれども、昔の人は、真剣 しんけん に「猫」は化けるものと考えていたようで、猫がおどりをおどったりすることを、たいそう気持ち悪がり、こわがったようなのです。何だか、もったいないですね、カワイイのに...。

ちなみに、「御城米問屋」というのは、大変なお金持ちで、たいそう栄 さか えた家だったのですが、「明治時代」に「汽車 きしゃ 」や「舗装 ほそう 道路」ができ始 はじ めると、川を使う人はいなくなって、「御城米問屋」もつぶれてしまったそうです。



4. むすび

今回のお話は、いかがでしたか? 「猫」もいろんなお話に登場 とうじょう しますね。「猫」がおどりをおどったから、化け猫だと思われて追いはらわれるという内容 ないよう の話は、全国各地に見られます。猫が好きなわたしとしては、この手の話を読むといつでも心が痛 いた むのですが、今度の話には別 べつ の悲しさもありました。それは時代の移 うつ り変わりとともに、ずっとお世話になってきたものに対する感謝 かんしゃ の思いを忘 わす れて、人々がより便利 べんり なものにとびついてしまい、そのためにそれまで一生懸命 いっしょうけんめい に人々のために働 はたら いてきた人や家が、あっけなく滅 ほろ びてしまうという悲しさです。

「阿武隈川」は、川の底が岩でごつごつした、船の通りにくい川でした。それを
「御城米問屋」の一家は、先祖 せんぞ 代々、自分のお金で工事をして、船を通れるようにしてきたのです。たくさんの船を用意し、多くの船頭 せんどう  (船をこぐ人) をやとい、仕事がある時もない時も、いつでも人々のために準備 じゅんび をしていたのです。たしかに、「問屋」さんですから、お金持ちではありました。しかし、実は、上の言い伝えに登場する「問屋」さんの前の「御城米問屋」は、人々のために「阿武隈川」の船の輸送路 ゆそうろ を準備しておくのにお金がかかりすぎて、破産 はさん してしまいました。だから、お金持ちとはいっても、決して楽な仕事ではなかったのです。でも、地域のみんなの生活がかかっていたから、がんばれたのだと思います。

ところが、新しい時代がやってきて、より便利な道路や鉄道が通るようになると、人々はまるでゴミを捨 てるかのように、「川船」のことは記憶 きおく から捨て去 ってしまいました。何百年も、苦労して、人々のために川船を用意していた「御城米問屋」さんも、あっという間に滅んでしまったそうです。

人間は、どこに行ってもあまりやることは変わらないようで、このようなことは、世界中どこでも見られるようです。フランスの小説家 しょうせつか 「アルフォンス・ドーデ」の『風車小屋だより』という作品の中にも、「コルニーユ親方の秘密 ひみつ 」という、似たような悲しい話があります (猫は出てきません...) 。「ドーデ」の作品は、子供むけの本も出ていますので、機会 きかい がありましたら、ぜひ読んでみて下さい。


次回は、「茨城県」の「唐猫」を紹介します。
お楽しみに。


「水沢」の地図は、こちら 付近です。

 
 
*

5. 追補・大人の方々へ

a) 「阿武隈川舟運」について

「阿武隈川」は、それこそ「古代」から、地域の人々の輸送路として利用されていたことは間違いないのだが、本格的に「舟運」が開かれたのは、「江戸初期」、「信達地方」の多くが「上杉領」から「天領」に替わったことが、最も大きな契機となったと云われている。これ以前から既に川運の航路開拓は進められていたようなのだが、大々的な交易が可能になるのは、大体この時期からだと見ていいようである。

「信達地方」は、元来、「蒲生氏」から「米沢藩・上杉家」へと至る「会津領」の一部だったのだが、寛文四年 (1664) 、藩主「上杉綱勝」の死去に伴い、養嗣子「吉良三郎」が家督を継ぐことになり、これに際して、三十万石のうち十五万石が「天領」とされた。『信達一統志』に、「寛文年中渡部友意なる人、公朝に訴水脈を開発し信達両郡の賦税を運送せむことを願ふ」とあるように、寛文四年、「伊奈半十郎」の代官時に、「江戸」の豪商「渡辺友意」が、この「御城米 (天領米) 」の回送を請負い、巨費を投じて「猿跳 さるぱね 」などの難所の開削などを行なって、「梁川」から「丸森」までの航路を開き、翌年までに通船している。寛文十年 (1670) には、「幕府」が「河村瑞軒」に「信達地方」の「御城米」の「江戸」廻米を命じ、「瑞軒」は同十一年までに航路を開拓することに成功した。これが世に云う「東廻り航路」である *。
 
* 「河村瑞軒」は、この翌年、「最上川」の舟運をも整備して、「酒田」を起点とした「西回り航路」を完成させ、全国的な流通の画期を築いたことは周知の通りである。
 
「阿武隈川舟運」の通船以後は、古記録に、「寛文十二子年より福嶋渡辺十衛門と申すものご公儀より金五百両拝借いたし阿武隈川通し水沢沼の上より上の川滝々切り開き普請いたし小鵜飼通船いたしお請負申し上げ候」とあるように、「渡辺家」が「小鵜飼船問屋」として一手に「信達地方」の年貢米の回漕を請負うことになった。

次いで、天和二年、「福島」城下に店舗を持つ江戸商人「上総屋兵吉」と「亘理郡荒浜村」の「武者宗三 *」が、共同で「伊具郡耕野村」付近の川底の岩石を壊すなどの改修を行なっているが、この時期に、「上総屋」は「武者」と共に、「沼ノ上」以北の「ひらた船 (高瀬船も) 」請負業者として活動するに至ったものと思われる。また、「渡辺家」も、天和二年及び明和年度に、「伊達郡五十沢柴崎」と「伊具郡沼ノ上」間の改修整備を行なっている。そして、おそらく明和期以降、大まかに見て「福島-水沢・沼ノ上」間の回漕を「渡辺家」が、それより下流の「荒浜」までの回漕を「上総屋」が請負うことになったのだと思われる。ただし、この請負事業は、莫大な私財の投下を要するものであったため、明和四年 (1767) には「渡辺十郎右衛門」が借金返済不能を理由に廃業するに至り、明和五年以降、「阿武隈川舟運」の年貢米回漕の一切を「上総屋」が独占して請負うことになったのである。
 
* 恐らくは、「河村瑞軒」と行を共にした人物と思われる。
 
「福島河岸」から「水沢・沼ノ上」までは、浅瀬や急流が多く、船底の浅い「小鵜飼船」に年貢米・四十俵が積まれて運ばれ、「水沢・沼ノ上」の両河岸で百俵積みの「ひらた船 (高瀬船) 」に積み替えて「松島湾」に面する河口の「荒浜」に回漕し、ここで年貢米を「千石船」に移して、「江戸」へと運んだのである。

「阿武隈川舟運」の要所である河岸には番所が置かれていたが、現在の「羽出庭橋」付近には、特に重要だった上記の「水沢河岸」と「沼ノ上河岸」があり、さらに「水沢」には、「仙台藩」の「御石改御番所 (水沢番所) 」が置かれていたことが知られている。廻米はここで「小鵜飼船」から「ひらた船」に積み替えられて「荒浜」へと運ばれたことは、上に見た通りである。

「明治」に入ってからも、「信達地方」がわが国の主要な外貨獲得源であった「生糸」の大生産地であったため、「福島・御倉町」を起点とした「阿武隈川」の舟運は、さらに整備が進められたのだが、明治十年代からは道路の改修が進められた影響で舟運は次第に利用されなくなってゆき、明治二十年 (1887) に「東北本線」が開通すると、物資輸送の中心は鉄道へと移り、「阿武隈川舟運」の二百年に及ぶ歴史は、静かにその幕を閉じたのであった。

ところで、明和五年 (1768) 以降、「阿武隈川舟運」を一手に請負っていたのが「上総屋」であることは、上に見た通りであるが、と云うことは、今回紹介した言い伝えに登場する「
御城米問屋」と云うのも、この「上総屋」だと云うことになる。そして、この言い伝えの年代と云うのも、「幕末」から「廃藩置県」の直前までの時期に絞り込めることになる。ここまで伝説の背景や年代が明らかに出来ると云うのも、稀なことであるだけに、筆者にとってこの伝承は貴重なものとなっているのである。
 
*
 
ついでながら付記すると、「水沢」には「仙台藩」の「御石改御番所」が置かれ、ここでの船の積替えを監督していたのだが、上の言い伝えに登場する「御番所」と云うのは、別の番所のことである。この番所があった「峠」と云うのは、実は固有名詞で、現在の県道101号・丸森梁川線を「伊達市」から「丸森町」に入ってすぐの辺りの地を指しており、現在も「峠」の字が残っているだけでなく、同名のバス停留所もある。

今でこそ、「阿武隈川」北岸の国道349号線、あるいはこの辺りでは南岸を主に走る「阿武隈急行」などがこの地域の主要な幹線に思われるかも知れないが、「江戸期」には前記の県道101号線の前身をなした道の方が主たる陸路として利用されていたのである。現在の「丸森横町」から「伊具高等学校」脇を通り、「川田島」「欠入」「峠」を経て、「伊達市梁川」に通ずる道は、「藩政時代」の公用路だったのであり、「峠」集落には、人馬・物資の出入りを監視する「御境御番所」が置かれていた。「伊達政宗」が「小田原」へ参陣したのもこの道を通じてである。安永八年 (1779) の『風土記御用書出』 (『安永風土記』) にも「峠御境御番所 壹ヶ所 貞山様御代御境被相定候節より右番所被相立候由申伝候處年月相知不申候事」と記されており、正確な年月日は不詳ながら、「伊達政宗」の時代に
「御境御番所」が設置されたことが書かれている。

そもそも、「丸森町」の「峠・欠入・筆甫」の領域は、文禄三年 (1594) の「検地帳」には「伊達郡」と記載され、「会津・蒲生氏郷」の領地だったことが分かっている。現在のように「伊具郡」すなわち「伊達政宗」領になったのは、「関ヶ原」以降、混乱期に乗じて「政宗」が横取りしたのではないかと考えられており、そのため、以降も「相馬領・上杉領 (会津領) 」との間に、度々境界争いが生じているのである。「峠」の
「御境御番所」も、そのような情勢の中で、本来は「福島」側からの人馬・物資の往来を監視する目的で設けられたものと思われる。後に、「阿武隈川舟運」が整備されるに至り、年貢米だけでなく、物資の交易も盛んにおこなわれるようになると、特に荷の積み替えが行なわれる「水沢」での通過の手続きは、「仙台領」に入ってから最初の湊と云うこともあり、「峠」の「御境御番所」に報告されたのであろう。

上の伝承で、「カラ猫」が踊るのを目撃されたのは、「水沢」から「峠」へと至る川辺の畑中と云うから、「阿武隈川」の畔であれば、それでも水田が中心であったと考えられるので、「猫の踊り」の舞台は、より内陸の地であろうと推測されるのだが、これ以上のことは言い伝えだけからでは分からない。今後、もう少し絞り込めるよう、調査を続けたい。


b)
「コルニーユ親方の秘密」とその周辺

「ドーデ」の『
風車小屋だより』の第三話として書かれたこの掌編は、ある意味では『月曜物語』の中の「最後の授業」と並んで、「ドーデ」畢生の名作だと云えるかも知れない。もちろん、「ビゼー」によって組曲化された『アルルの女』を除いては...。

「コルニーユ親方の秘密」は、極めて短いコント (小話) なので、どなたでも簡単に読めるものなのだが、以下に筆者による乱暴な要約を載せることとする。ちょっとしたどんでん返しがあるので、読む前に知りたくないと云う人は、下の要約文は、まるまる飛ばして下さい。
 
製粉業で栄えた「フォンヴィエイユ」の村は、かつて丘と云う丘すべてに風車が回っていた。小麦を運ぶ驢馬、金の十字架をつけて笑う美しい粉屋の奥さん、ミュスカぶどう酒、みんなで踊るファランドール、地中海の風を受けて力強く回る風車、これが「フォンヴィエイユ」の日常の風景だった。しかし、「パリ」に蒸気の製粉工場が出来ると、人々はこの村の風車のことを見向きもしなくなり、風車は一つ、また一つと減ってゆき、もはや誰も風車で麦を挽こうとはしなくなった。ただ一人、「コルニーユ親方」を除いては...。

村の誰もが風車小屋に小麦を持っていかなくなっても、「コルニーユ親方」の風車だけは、来る日も来る日も回り続けていた。かつては教会の評議員すら務めたことのある親方は、今は穴あき帽にぼろぼろの胴着を着て、ミサに来ても教会の片隅に座るほど落剥していたのだが、人々はそれでも時折、重そうな小麦の袋を運ぶ親方を見かけることがあった。村のみんなは、それをたいそう不思議に思っていたが、親方は風車小屋の中へは誰も入れてくれなかった。

あるとき、親方の留守中に、親方の娘とその婚約者が小屋の中を覗くと、山と積まれた粉袋に入っていたのは壁土だった。親方は、風車の顔を立てるために、毎日、壁土を運んでは、粉を挽いている風に見せていたのだ。

そのとき、秘密を知られては、もう生きていけないと嘆く親方の前に、本物の小麦をいっぱいに詰めた袋を乗せた驢馬がやってきた。話を伝え聞いた村の人たちが、ふたたび親方のところへ粉を挽いてもらいに来たのだった。それからは、親方が死ぬまで風車は回り続けた。しかし、彼の死後、後継者のない風車は、今度こそ永遠に止まってしまったのであった。
 
Alphonse Daudet (1866) "Le secret de maître Cornille", dans Lettre de mon moulin
アルフォンス・ドーデ (1866) 「コルニーユ親方の秘密」
桜田佐/訳 (1958) 『風車小屋だより』岩波文庫、改訳版
 
この小話は、「近代文明」対「伝統文化」と云う社会文化的な衝突を、作家の感傷的な筆で見事に描き切っているものだと云ってしまえばそれまでなのだが、実は「ドーデ」自身は必ずしも後者の立場に立って、この小品を書いた訳ではなかった。作品の中で「ドーデ」は、自身の言葉として「
しかたがありません、この世のものには何でも終わりがあります。ローヌ河の伝馬船や最高裁判所、大きな花の着いたジャケットなどの時代が過ぎたように、風車の時代も過ぎたと思わなければなりません。 (桜田佐/訳) 」と述べている。

感動を減殺するようなことを云うな、と叱られるかも知れないが、「ドーデ」はそもそも、「パリ」の有力者や時代の先端をゆく人々の機嫌を損ねるようなことは書かない作家だったのである。「普仏戦争」に負けて、「フランス」は「ドイツ」に「アルザス・ローレーヌ地方」を奪われるのだが、「ドーデ」は、いち早くこの問題を採り上げて、「最後の授業」を書いている。進駐する「ドイツ軍」によって、地元「アルザス・ロレーヌ」の人々は、母語の「フランス語」を奪われ、学校でも「フランス語」を教えることが禁じられると云う話である。学校嫌いで、普段は授業をサボってばかりいる主人公の「フランツ」は、「フランス語」の美しさと、母語を護持することの大切さを熱く語る「アメル先生」の言葉が、初めてすんなりと耳に入ってくるのである。そして、今まで真面目に勉強してこなかった自らの愚を、「最後の授業」になって初めて自覚する、そんな筋である。

筆者も、小学校時代にこの話を教科書で読んだときは、いい知れぬ感動を覚えたものである。しかし、「ドーデ」のこの作品には、大きな嘘がある、と云うよりも、そのプロット自体が大嘘で塗り固められているのである。大人になってその事実を知ってからは、もはや少年の日と同じ感動で、この小品を読むことは出来なくなった。当然、そうなってしまっては、あの時の感動を、素直に次の世代に伝えることは出来なくなってしまう。

そもそも、「最後の授業」の最も大きな嘘は、歴史的な事実として「ドイツ」は「アルザス・ロレーヌ地方」での「フランス語」の使用を禁止などしていないと云うことであろう。ましてや、学校での授業を取りやめさせたりもしていないのである。これにはきちんとした証拠がある。それは、「アルザス・ロレーヌ」の人は、当時、「フランス語」を話さなかったと云うれっきとした事実によって支えられるのである。最初から話していないものを、どのように禁止したり、取りやめさせたりするのだろうか?

作中、「アメル先生」は、有名な名言を吐いている。曰く、「
たとえ民族が奴隷の身にされようとも、自分の国の言葉を守ってさえいれば、牢屋の鍵を握っているようなものだ」と。これは確かに名台詞なのだが、この言葉ほど「ドーデ」の不誠実を明らかにする言葉はない。何故なら、この言葉は「ドーデ」の故郷の大先輩、「プロヴァンス文学」の旗手「ミストラル」自身の言葉だからである。

「南仏プロヴァンス」は、「パリ」の標準「フランス語」とは異なる「ブロヴァンス語」を話す地域だったのだが、近代化の波の中でフランス中央政府は、統一的な国民語としての標準「フランス語」を国民に押しつけ、各地の「パトワ (方言) 」を抑圧していった。その急先鋒を担ったのが学校であったことは、日本と事情は変わらない。「ミストラル」や「ドーデ」の故郷「プロヴァンス」もまたそのような文化的抑圧に屈しつつあった地方であり、「ミストラル」はそれに対抗するために敢然と戦い続けた言葉の闘士だったのである。したがって、上の名言を「ミストラル」が述べたとき、「民族」とは「プロヴァンス人」のことであり、「自分の国の言葉」とは「プロヴァンス語」のことだったのである。「ドーデ」は、故郷の人々の心の叫びを無視して、これを「フランス」と「フランス語」に、見事にすり替えてしまったのである。

ましてや「最後の授業」の舞台「アルザス・ロレーヌ地方」では、人々が話していたのは「ドイツ語系」の「方言」だったのであり、むしろ「フランス政府」によって地元の人々は「フランス語」を強要されていた立場にあったのである。「ドーデ」は、単に「パリ」の人々に認められ、名声を得んがために、当時、主流派の「フランス人」たちの琴線に最も触れたであろう話題を選んで、事実を作為的に捻じ曲げた物語をものしたのである。

これらの点に関して、かつて「蓮見重彦」や「田中克彦」がその著作で触れて、批判を寄せていることは、よく知られているところである。「蓮見」は『反=日本語論』 (筑摩書房、1977) において、「アメル先生」を「アルザス人にとっての他人の言葉を、国語として彼らに強制する加害者にほかなら」ないと述べ、同様に「田中」は『ことばと国家』 (岩波新書、1981) の中で、「最後の授業」を「言語的支配の独善をさらけ出した、文学などとは関係のない、植民者の政治的煽情の一篇でしかない」と切り捨てている。このような事実が広く知られるようになったためか、近年、「最後の授業」は、小学校の教科書からすっかり姿を消している。
 
*
 
もちろん、このような風潮に対して異論を唱える人もいる。『月曜評論』平成十五年六月号において、「岡田俊之輔」氏は、次のように述べている。
 
成程かうした批判は論理的に筋が通つてをり、この短篇を學校教科書から葬り去るのに與つて力があつた。しかし、アルザス人は知らず、殆どの讀者は、やはり今後も「誤讀」して感銘を受けるであらう。元小學校教諭・府川源一郎 (現・横濱國大教授) の勞作『消えた「最後の授業」』 (大修館書店) によれば、「初めて讀んだ子供たちは、たいがいひどく感動する」といふ。さうした素朴な「感動」を、例へば蓮實のやうに、ドーデの詐術に誑かされた「贋物」と斬つて捨てる譯にはゆかぬ。何となれば、作者の底意が奈邊にあれ、母 (國) 語を奪はれまいと決意してその學習に情熱を燃やすといふテーマそれ自體は、依然として普遍的・心情的に訴へかける力を有するからだ。
 
岡田俊之輔 (2003) 「アルフォンス・ドーデ『最後の授業』 」
『月曜評論』平成十五年六月号、月曜評論社、pp. 46-47
 
「岡田」氏は、この後、「ところで田中にせよ蓮實にせよ、彼等の主たる關心は自國語中心主義の相對化、すなはちアルザスを日本統治下の朝鮮等に置き換へ、殖民地の言語抑壓状況に思ひを致す事にあるのだが、私にはその種の言語相對主義にかかづらふ暇は無い」と述べているので、ははーん、この人はそっち系の人なのだなと分かる訳だが、そもそも掲載雑誌も今はない超・保守系のものだから、これはもうやむを得まい* 。

* 「岡田」氏の意見はそれとして尊重するにしても、『消えた「最後の授業」』からの氏の引用の仕方は、少なからず恣意的な感を否めない。 著者「府川源一郎」の全編を通した主意は、決して子供たちの初期の感動を貫いて、国語愛を喚起せよ、と云うものでないのは、本書を一読でもすれば明白である。著者の意図と異なる形で引用するのがいけないとは思わないが、そのような場合は、そうであると断らねば、善意的に云っても不誠実だと捉えられかねないし、悪意的に云えば、他人の著作の権威だけを借用しているとの誹りを免れまい。

ただし、氏の云うように、読者が感動するものを、何も作者の詐術的な作為の故に否定するのはおかしい、と云う見解には、全面的ではないにせよ、ある程度までは頷ける。そもそも、文学に限らず、創造的な産物すべてに関して云えることなのだが、「ニュークリティシズム」以降の文芸批評の理論を援用して、ある作品とその意義をどのように受容するかは、実は読み手の側の問題だと理解さえすれば、顕在的なものであれ、潜在的なものであれ、作者の意図などをとやかく云々すること自体が、さして重要なことではないとさえ云えてしまうのである。「岡田」氏の議論も、一見「国語に対する愛」を絶対視することで、「ドーデ」の作品を擁護するように見えて、その実、読み手としての自己の価値評価を作品に潜在する主体的な意図よりも重視しているのであり、その意味では、まさに作品の意義を相対化しているのである。作者の意図すら相対化出来るならば、無数に存在し得る個々の受け手の受容など、それこそ、その数と同じほどには相対化出来るはずで、その中の一つをのみ前提的に絶対化することは出来ないはずなのだが...。

ただ難しいことは抜きにして、別の視点から見るならば、ここで問題なのは、劣悪な意図の下に書かれた作品をわざわざ擁護せずとも、別の良い作品を見つければよい、と云う方向に話が進まないのは不思議だと云うことである。既に述べたように、筆者も子供時代に「最後の授業」を読んでいたく感動した。しかし、長じて「ドーデ」の意図を知るに至って、その感動はまったく色褪せた無価値なものになってしまった。はたして、そのような失望を将来与えるかも知れぬ素材を、国民の教科書に意地でも残す必要があるのだろうか? そんなことをきっかけに、むしろ、青少年たちが国語に対する愛を失ったら返ってコトである。

民族派の人々は、「最後の授業」を「國語への愛を高らかに謳ひ上げた名作」として捉え、「母 (國) 語を奪はれまいと決意してその學習に情熱を燃やすといふテーマ」を表わす崇高なものだとするならば、同様に「ドーデ」が揉み消した「ミストラル」の「ブロヴァンス語」に対する情熱も肯定しなければならないはずである。しかし、「最後の授業」を無闇に賞揚する限り、そこで語られる「国語への愛」は、永遠に二枚舌的な詭弁を逃れることは出来ないのである。「言語相對主義」を議論もせずに否定するのは楽だが、本来、この種の相対的な思考は、筆者が上に述べたような二枚舌的な詭弁が、特定の歴史的な文脈の中で暴力化した時のための防波堤をなすために存在するのである。これを否定するようでは、自らに対する批判を、事前に検閲することに等しい、と云う点で問題があると云える。

国語をひたすら相対化してしまったら、そもそも国語教育など出来なくなる、と云う理屈は分かる。筆者もまた行き過ぎた相対化には反対である。ただし、絶対化も同様に、いやそれ以上に、危険であることを見落としてはなるまい。何故ならば、あまり現実的な話ではないながらも、仮に我が国がより大きな政治体の中に強制的に取り込まれ、その「国家」の「国語」を強要されるとしたならば、まさに言語の相対性を認めようとしない「国語絶対化」の理論こそが、我々を虐げ、抑圧し、搾取する理屈として、そのまま転用されるだろうからである。面白いことなのだが、そのような状況に陥った時、我々が自らの母語を守るための戦いの武器としうるのが、唯一、「岡田」氏の嫌悪する「国語相対主義」なのである。少なくとも、敵から見たら、それは言語の相対化なのである (大体、フランス語が世界一だ、と云っている内容に対して、民族派の人々が何ゆえにさまでに同調せねばならないのか、少し冷静になってほしいものである) 。

繰り返すが、何ごとも行き過ぎた相対化は、社会の価値観を混乱させ、社会の有機的な絆のすべてを烏有に帰させしむるが故に警戒せねばならないが、同様に、何事かを絶対視する思考は、常にその時代の強者に有利に働き、声なき人々の声を拾い上げる力を欠くが故に、合意形成への力動を決定的に欠くのであり、最終的には社会的な調整機能を発揮することが出来ずに、硬直した紛争を引き起こす原動力になるので、要注意なのである。

少なくとも、筆者はこのように考えている。
 
*
 
話を元に戻そう。

「ドーデ」は、生涯「フランス学士院」に入らなかった、と云う事実を以て、彼が権威に靡かない高潔の士であると唱える人もいるが、実際には彼は選ばれなかっただけで、心中は選ばれたくてしょうがなかったと云う見方もある。このことは、1883年に、彼のことを「アカデミー会員」になれるはずがない、と書いた文人「アルベール・デルピ」に、病いの身を押して決闘を挑んでいることから見て取れる。彼が作品『不滅』の中で、「アカデミー」に対する批判を記しているのは、単に自分を選んでくれない人々に対する腹いせだったと考えるのが妥当である。

「ドーデ」が、彼の成功にも関わらず何故「アカデミー」に選ばれなかったのかについて、筆者は知るところがほとんどない。今後、その辺りの専門的な見解を聞いてみたいものだとは思っている。ただし、「ドーデ」には、多くの個人的な問題が存在しており、それらが彼の「アカデミー」入りの障碍となった可能性は否定出来ない。例えば、彼は生前からその作風や主題が隣国の「チャールズ・ディケンズ」に酷似していると指摘されており、事実その類似は偶然以上のものであることが明白だったにも関わらず、自身は決してそのことについて影響関係を認めることがなかった。さらには、既に見たように、「ミストラル」の言葉を、「ミストラル」の真意とはおよそ正反対の意味で剽窃したりしているのも、故郷の文人たちの怒りを買ったことは当然としても、中央文壇でも顰蹙を買っただろうことは想像に難くない。確かに、彼が「ブロヴァンス」出身だったことで、中央の文人たちから有形無形の差別は受けたかも知れないし、「印象主義」とまで呼ばれた彼の新鮮な文体が、保守的な長老たちの支持を得られなかった可能性もある。だが、同等、あるいはより斬新な文体や主題を駆使した「ゾラ」や「フロベール」らが文壇の認知を得られたことを考えると、これもやはり「ドーデ」の個人的な問題に帰結することなのかも知れない。

結局、「コルニーユ親方の秘密」は、少年時代以来、常に筆者の心を捉えてきた名編だと云えるのだが、現在、その作品を丁寧に読むと、どうしても筆者の感じる感動と、「ドーデ」が潜在的に主張していることとが背反するように思えてしまうのである。彼が作中で云う「風車の時代も過ぎたと思わなければなりません」と云う言葉の裏には、時代の流れ、すなわち主流派の意向を、逆らわずに受け容れよ、と云うメッセージが隠されていることに一旦、気づいてしまうと、一個の大人としては、もはや子供のころと同じような感動をもってこの作品に接することが出来なくなる。彼が提示する感動は、飽くまでもノスタルジーの枠を出るものではなく、それは感傷的な同化を喚起するだけで、当時のフランスが抱えていた無数の社会問題のどれ一つに対しても、何ら積極的な批判を内包するものではなかったのである。

誤解のないように云うならば、それでも筆者はこの作品を名作だと思うし、やはり多くの青少年に読んでほしいとは思う。「最後の授業」も同様である。無理に教科書に載せてほしいとまでは云わないが、別段、載っていたからと云って文句はない。そして、そのような作品に感動すればこそ、いずれ、そのような作品に隠された、作品の感動を打ち消すようなものの考え方に疑問を呈したり、さらにはそれらの作品から離れて、日常の社会生活の中で、忘れ去られたものや注意さえされない弱者たちに目を向けられるようになっていってほしいものだと、切に願うばかりである。

 
*
 
最後に、「最後の授業」を巡るやや私的な話を申し述べておく。

この作品を教科書で初めて読んだ当時、筆者の一家は父の仕事の関係で外地にいたのだが、筆者兄弟は祖国の学校を知らず、まるで外国語が母語であるかのように育っていた。この傾向は特に兄に顕著で、彼はこの時期、ほぼ日本語の読み書き能力を失いかけていた。そのため、週に一回だけ通う日本人学校では劣等生の名に甘んじざるを得ず、いよいよ自らの母語に対する嫌悪感を高めていたようであった。そんな時期に、教科書で「最後の授業」をやったのである。彼はすぐに主人公を自らと重ね合わせて読んだようだったが、感動の中心である後半部にはほとんど興味を示さなかったのである。むしろ、何かしら押しつけがましいものを感じたようであった。兄にとって「フランツ」少年は、自分と同じく、学びたくない言語を学ばされている悲劇の主人公であり、「アメル先生」はその学びたくない言語を押しつけてくる「敵」であり続けたのである。その意味では、意外にも「劣等生」であった兄の解釈は、文豪「ドーデ」の名文を透かして、その裏にある醜い意図を、図らずも露呈させていたのである。そして、兄の解釈は、その意味では、「ドーデ」のねじ曲げた「ミストラル」の言葉を、その本来性により近い形で再生させていたのである。そして、もちろん、兄はこの作品を読んだことによって、国語に対する愛を喚起されることもなく、相も変わらず「劣等生」として、残りの小学校生活を送ることになったのである。彼が一念発起して、この自身の言語状況を克服するのは、より後年、中学校時代になってからであった。その切っ掛けが何であったかは、本人に聞いてもよくわからないことが多い。ただ、それに「最後の授業」が一片でも与って力があったかと云えば、それは否である。
 
*
 
今回も、結局、議論がくどくなったので、この辺で筆を置くこととする。


参考文献

・山本明/編 (1981) 『陸前伊具昔話集』全国昔話資料集成34、岩崎美術社

・庄司吉之助 (1962) 「近世阿武隈川における舟運の発達」
 福島大学経済学会/編 (1962) 『商学論集』三十一巻・三号
・小野寺淳 (1990) 「絵図にみる近世阿武隈川水路の空間認識」
 地学雑誌編集委員会/編 (1990) 『地學雜誌』九十九巻・七号、東京地学協会
・竹川重男 (2005) 『阿武隈川の舟運』歴史春秋社

・阿武隈急行沿線開発推進協議会/編 (未詳) 『あぶくまの里・ウォークガイド』阿武隈急行
・村川友彦/監 (未詳) 「阿武隈川舟運図・パンフレット」


Alphonse Daudet (1866) "Le secret de maître Cornille", dans Lettres de Mon Moulin
 アルフォンス・ドーデ (1866) 「コルニーユ親方の秘密」
 桜田佐/訳 (1958) 『風車小屋だより』岩波文庫、改訳版
Alphonse Daudet (1873) "La Dernière Classe", dans Contes du Lundi
 アルフォンス・ドーデ (1873) 「最後の授業」
 桜田佐/訳 (1959) 『月曜物語』岩波文庫、改訳版

・蓮實重彦 (1977) 『反=日本語論』筑摩書房
・田中克彦 (1981) 『ことばと国家』岩波新書
・岡田俊之輔 (2003) 「アルフォンス・ドーデ『最後の授業』 」
 
『月曜評論』平成十五年六月号、月曜評論社
スポンサーサイト

宮城県の猫神・田束山の「カラ猫」

.05 2011 北海道・東北地方 comment(1) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していくシリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。

田束山の「カラ猫」

宮城県本吉郡南三陸町
 
計仙麻大嶋神社
「田束山」山頂の「計仙麻大嶋神社」「羽黒山・清水寺」の跡地とされる。
「陸奥総社宮」HPより
http://mutsusousya.web.fc2.com/tazukanesan/tazukanesan.html#tazukane
 
1. はじめに

このお話は、インターネット上の「伝承之蔵」というサイトを全面的に参照いたしました (お話の元の題名 だいめい は「義理猫情」でした) 。こちらのサイトは、単に民話を紹介 しょうかい するサイトとして優 すぐ れているだけでなく、その設立 せつりつ の方針 ほうしん や運営 うんえい の仕方が素晴 すば らしいサイトです。「百貨店 ひゃっかてん 」のページなど、ところどころ「おふざけ」があるのも面白 おもしろ いです。特に子供むけというわけではありませんが、機会 きかい があったら訪 たず ねて見て下さい。
 
勝手にリンク・「伝承之蔵


2. 田束山の「カラ猫」

それでは、お話に入ります。
 
昔、「歌津 うたつ 」の「 田束山 たづかねやま 」には「カラ猫」が、「貞任山 さだりやま 」には「トラ猫」が、「鳥ヶ森 ちょうがもり? 」には「三毛猫」が、それぞれ住んでいました。

ある日、猫たちは、長者の美 うつく しい一人娘 むすめ が、悪代官 あくだいかん に無理矢理 むりやり 、花嫁 はなよめ にさせられそうになっているという話を聞きました。三つの山の猫たちは怒 いか り、何とかしようと話合いを持ちました。

ところが、ちょうどその時、いちばん力のある「貞任山」の親猫が、全国の猫たちが集まる「京 きょう の都 みやこ 」での寄合 よりあい に出るため、留守にしていましたので、「カラ猫」と「三毛猫」だけの話合いでは、なかなか意見がまとまりませんでした。

困り果てた二ひきの猫は、「田束山」にある「清水寺 せいすいじ 」の「薬師如来 やくしにょらい 」に、「貞任山」の親猫をもどして下さい、とお願いしました。すると不思議なことに、たちどころに「貞任山」の親猫がもどってきました。夢に「薬師如来」が現われて、事件のことを知らせてくれたのだと、親猫は言いました。

その後、「貞任山」の親猫を中心にまとまった三びきの猫たちは、悪代官をこらしめ、長者の娘を助けました。長者は、たいへん喜 よろこ び、「いつもは、犬猫などとバカにされているが、この義理人情 ぎりにんじょう の厚 あつ さは、人間でも及 およば ばない」と言って、たいそう感謝したということです。
 


3. この話について

何だかわたしが題名 だいめい に選 えら んだ「田束山 たづかねやま のカラ猫」よりも、「貞任山 さだりやま のトラ猫」の方が主人公のような話ですが、「田束山」の「薬師様」の力にすがったのですから、そこに住む「カラ猫」も重視 じゅうし されるということでお許 ゆる し下さい。

しかし、このお話では、仏さまを敬 うやま う猫たちの信心 しんじん も立派 りっぱ なのですが、やはり、猫たちが力を合わせて、自分たちとは関係のない、むしろふだんは自分たちのことをバカにしている人間のために悪者と戦うという心意気 こころいき に胸 むね を打たれますよね。わたしたちは、いざという時、この猫たちの半分ほども勇気のある行動がとれるでしょうか? もちろん、猫たちだって、信頼 しんらい できる仲間がいたからこそ、勇気もわき起こったのでしょう。

このお話を語りついできた「歌津」の人々は、近所の猫が庭でトイレや砂浴びをしたり、あるいは単に昼寝 ひるね をしたくらいで、その猫たちを追いはらったり、殺すべきだと言ったりしている現代人のことをどのように思うでしょうか? ときおり考えてしまいます。

人間から見れば、本当は大変 たいへん に弱い立場 たちば の猫たちが、その強い人間を助けるために、さらにもっと強い人間に戦いをいどむ今回のお話には、色々 いろいろ なことを考えさせられます。人間も、自分たちとは立場がちがったり、あるいは自分よりも弱い人間や生き物に対して、「負け組」などと言って馬鹿にしたり、「関係ない」と言って目をそむけたりしないようになれば、ずいぶんと生きよい社会になるのではないかとわたしは思うのですが、みなさんはどのように考えますか?

このお話が伝わる「歌津」は、いまは「南三陸町」にふくまれるのですが、みなさんもニュースで見たり聞いたりしたように、この町は三月に起きた「東日本大震災」で壊滅的 かいめつてき な被害 ひがい を受けたところです。人間社会をおそったこの大きな危機 きき に、「 田束山 たづかねやま 」「貞任山 さだりやま 」「鳥ヶ森の猫たちは、きっとすでに立ち上がっていることでしょう。はたして、おなじ人間であるわたしたちは、仲間の人間に対して、どのような心意気を見せることができるのでしょうか?

わたしは、いま、自分が三びきの猫たちや、「田束山」の「薬師様」に、みずからの心意気を試されているような気がしてなりません。



4. むすび

今回のお話は、猫が人を助けるという明るい内容でしたが、このお話を伝える「南三陸町歌津」が、いま、大震災の被害に苦しんでいることを記したことで、少し重い記事にはなってしまいました。しかし、子供だからといって、社会の重苦しい現実からただ目をそむけて、ひたすら楽しいことばかり考えていては、健全 けんぜん な心は育ちません。

考えるべきは、もちろん、地震 じしん のことだけではありません。「弱い者」と「強い者」、「都会」と「田舎 いなか 」、「お金のある人」と「お金のない人」、「人間」と「動物」などなど、さまざまなものの関係が問題 もんだい なのです。

子供が社会に向 けて、直接 ちょくせつ できることはあまりありません。大人だって、一人一人はほとんど無力 むりょく です。そこで、みなさんは無理 むり なことを考えず、身近 みぢか で自分のできることを中心に、あれこれと考え、行動にうつしていくようにすれば、それでいいのだと思います。とりあえず、自分よりも弱い存在 そんざい 、自分ができることができない人々などに目を向けてみるのは、よい出発点 しゅっぱつてん になるかしれませんね。

子供時代にしかない、明るく前向きな気持ちで、考えてみて下さい。

次回は、同じ「宮城県」でも、ずっと南の方、「福島県」との県境の土地である「伊具郡 いぐぐん 丸森町 まるもりまち 」の「唐猫 からねこ 」を紹介します。
お楽しみに。


この伝説に登場する土地の地図に関しては、以下のページを参照して下さい。
「伝承之蔵」さんのページです。

http://legend.main.jp/50-minamisanriku-003-girineko-02-map.htm



*

5. 追補・大人の方々へ


a) 「田束山」などについて

旧「歌津町」と旧「本吉町」の境に立つ「田束山 (幌羽山) 」 (512m) は、山の形が龍の伏す姿に似ていることから名がついたとされ、「歌津村」の『安永風土記』には「龍峯山」とも記されており、「りゅうほうざん」と主に訓まれたようなのだが、「たつがみね」とも訓めることから、これが訛って「たづかね」になったと云う説もある。

「峯・峰・嶺」などと表記して「みね」と訓む語は、本来、神聖さを表わす接頭語の「み (御) 」が「山」を表わす語根の「ね」について成立したものなので、「ね」と訓むこともあるのは人名などでも明らかである。したがって、「龍峯山」と書いて「たつがね」と訓んだのではないか、と云うのが筆者の見解である。実際、『平泉雑記』 (1773) には、「辰金トモ書ス」と記されており、この辺りが往古、金の産出地であったことを併せ考えると、こちらの説も捨て難い。

ただし、いずれの場合であったとしても、この山が「龍神」信仰と関係があった可能性は高い。そもそも、『本吉郡誌』によれば、「歌津」と云う集落名の由来自体が、霊山とされた「田束山」の卯辰の方角 (東南東) にあったからだとされ、何かと「たつ」とは関係の深い土地柄なのである。ちなみに、「馬籠村」の
『安永風土記』には「田束山」とあり、『奥羽観蹟聞老志』には「田束嶺」とある。

その霊山としての「田束山」の開山は、「仁明天皇」の承和年間 (834-848) と伝えられ、当初は「天台宗」の一山だったと云われている。
「坂上田村麻呂」や「源頼義・義家」父子が、その東征のおりに、この地で祈願したとも云うが、定かではない。「高倉天皇」の安元年間 (1175-1177) に「平泉」の「藤原秀衡」が再興、「清水寺・寂光寺・金峰寺」などの七堂伽藍の寺院を築き、新たに七十余坊も設けたと伝えられる。このとき、山中には大小の寺院が四十八、坊は旧来のものも併せて百を越えたとされる。

「鎌倉初」の「平泉」の滅亡後、「田束山」は一時、荒廃したが、後に「葛西氏」が新たに四十余坊を造営して再興し、一族の「千葉刑部」に祭祀を司らせたと『奥羽観蹟聞老志』巻之九 (1719) に記されている。この「千葉氏」とは、「館崎」にある「歌津館跡」に関して、『安永風土記』に館主「千葉刑部」と記され、「古城書立之覚」に「馬籠四郎兵衛」とされていることからも、「馬籠千葉氏 (後、馬籠氏) 」のことだとされている。伝・延元元年 (1336) の「馬籠合戦」に敗れて「馬籠氏」は「歌津」に移ったのだが、「戦国期」に入って「館浜」に「臥牛ヶ館 (歌津館) 」が築かれるまでの「馬籠氏」の居住地は、はっきりしていない。「馬籠氏」の菩提寺である「津龍院」が「田束山麓」の「樋の口」から移転してきたと伝えられることから考えて、「馬籠氏」も当初は「樋の口」周辺に居住したものと思われ、おそらく移封後も変わらずに「田束山」の祭祀を担っていたと推測されている。ただし、「葛西氏」が「小田原」に参陣せず、「豊臣秀吉」の「奥州仕置」にて滅亡すると、「田束山」の「三峯職」と呼ばれ、七堂伽藍を備える由緒ある寺院として栄えた「清水寺・寂光寺・金峰寺」の三寺も衰微することとなり、「近世」初頭には荒廃を極めたと記録されている。

しかし、貞享二年 (1685) に「清水浜・肝入」であった「与右エ門」の三男「一明院長衛」と云う修験者が、「本吉郡」中の肝入連署の下に「田束山」再興を願い出ると、元禄十年 (1697) には「寂光寺」が早くも再建された。その後、「小泉村・妙心院」が「幌羽山」に「阿弥陀堂」を建立して「金峰寺」と称し、「歌津村・明学院」が「寂光寺」東側に「大黒堂」 (後に「薬師堂」) を建立して「清水寺」としたことで、かつての「三峯職」は曲がりなりに復活したのである。ただし、明和年間 (1764-1772) の記録では「三寺遺跡小堂を存す」とあり、かつてのように七堂伽藍の繁栄ではなかったことが伝わっている。また、「相原友直」による安永二年 (1773) の『平泉雑記』巻之一には、「田束権現」と記され、「今寺塔僧坊悉ク発シテ社ノミアリ」とあり、『南部叢書』脱漏には「本山流山伏妙学院司ル所」ともあるので、再興されたとは云えども、やはり神仏混淆の進んだ修験道の影響下にあり、かつての一山寺院の体はなしていなかったことが看て取れる。

「江戸期」に書かれた『安永風土記』には、「田束山寂光寺・観音堂」「羽黒山清水寺・薬師堂」「母衣羽 ほろは 山金峯寺・阿弥陀堂」の三寺院は、「歌津村」の神社の部に記載されており、神仏混淆が極めて進んだ状態にあったことを窺わせる。同書によれば、「細浦」の「法明院」、「伊里前」の「明学院」、「小泉 (本吉町) 」の「妙心院」がそれぞれが山上にある「観音堂・薬師堂・阿弥陀堂」の別当として活動していたと云うが、これはおそらく「東北」に多く見られた「里修験」だったろうと思われる。

しかし、「明治」以降、「神仏分離」が新政府によって精力的に推し進められた結果、「近世」までの「修験道」勢力は徹底的に排除されることになり、それまで「本吉郡」の「鎮守」とされていた「田束三峯職」の権威も棄却され、「本尊」はそれぞれ「細浦・伊里前・小泉」の別当宅に降ろされるることとなった。明治六年 (1873) には、新たな「国家神道」に基づく「計仙麻大嶋神社」が「郷社」に列せられ、明治十八年 (1885) には四間四方の「柾屋根葺」の「社殿」が「清水寺・寂光寺」跡に完成した。この「社殿」は明治四十三年 (1910) の山火事で焼失し、神社はしばらく石宮となっていたが、昭和三十四年に現在のコンクリート造の「社殿」が再建されている。再建当時まだ車道はなく、建築資材はすべて「樋の口・御坂」から人力で背負い上げたと云うから頭が下がる。

「計仙麻大嶋神社」は『延喜式』
の「神名帳」に見える古社で、「牡鹿郡計仙麻神社」あるいは「桃生郡計仙麻大嶋神社」の論社であるとの説があるが、特に「計仙麻大嶋神社」の論社としては「気仙沼大島」の「大島神社」が古くから擬せられてきただけに、何故、「明治期」に突然「田束山」に祀られることになったのか、その経緯はよく分かっていない。「古老の伝えによれば社格決定時の事務的行き違いによるもの」と『歌津町史』に記されているほどである。『明治神社志料』によれば、「計仙麻神社」は、「羽黒山清水寺・田束山寂光寺・幌羽山金峰寺」を合祀したものと云う。

山頂には、「平安期」のものと目される「経塚」群 (十一基) が残され、
古文書に「清水寺」は「山上」に位置すると記されていたことから、従来はこの地が「清水寺」の跡地で、現「計仙麻大島神社」境内が「寂光寺」跡だと考えられてきたのだが、旧「歌津町」による近年の発掘調査の結果などから、山頂部に寺院が立地したとは考えにくく、少なくとも「江戸後期」には、神社境内に「清水寺」はあり、「寂光寺」は「井戸の杉」から下の「平場」のどこかに立地したものと、現在は推測されている。なお、「江戸期」には両寺とも、それぞれ「薬師堂」「観音堂」として現在の「計仙麻大島神社」境内にあったようである。


b) その他のことについて
 
貞任山
「貞任山」
「南三陸町 VIRTUAL MUSEUM 」HPより
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/museum/index.php?content_id=145


一方、伝説の中では親猫のいた「貞任山」 (360.3m) と云うのは、旧「歌津町」と旧「志津川町」の境に立ち、「伊里前川」の流れる「払川」の谷を挟んで、「田束山」の西南にある高く、険しい山である。「前九年の役」で敗れた「安倍貞任」が隠れ住んだと伝えられ、「貞任の隠れ穴」や「貞任屋敷」と云う場所などもあり、南麓の「米広・大上坊」の集落では、かつて全戸が「阿部」姓を名乗っていたと云う。一応、「南三陸町」では、この山名を正式には「さだとうやま」と訓んでいるそうなのだが、麓の集落などでは「さだりやま」と呼んでおり、「田束山頂」を「龍の頭」、「尾崎」を「龍の尾」と見立てた場合、「貞任山」が左足に当たるのでこう呼ぶのだとの説もあると云う。寛保元年 (1741) に成った『封内名蹟志』には、「高遊嶺」の名の下で記され、「往昔、貞任、妓を携え来りて此の山に遊び、遠望を称せしという。後人、貞任高遊嶺と称し、左足 さたり 山長川森という。何によって名とするや詳らかならず」とある。このことから、少なくとも十八世紀半ば頃には既に「さたり」の呼び名があったことが窺い知れる。
 
貞任岩
「貞任岩」
「南三陸町 VIRTUAL MUSEUM 」HPより
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/museum/index.php?content_id=150

 
しかし、「歌津地区・払川」から「伊里前川」を下った「まあと」付近の川中には、「貞任岩」と云う大岩もあり、この地には「安倍貞任」に関わる伝説が多いことは間違いない。
「貞任岩」と云うのは、「安倍貞任の手投げ石」とも呼ばれ、「安倍貞任」が「貞任山」の頂上から投げ落としたものと伝えられている。「まあと」と云う地名も、「貞任」が「貞任山」の山頂から放った矢の的があったことからつけられたと云われている。いずれにしても、地元の人は、「安倍貞任」贔屓の人が多い。

そんな「貞任」贔屓の気質は、今回紹介した伝説にも見て取れる。既に見たように、「歌津」の人々にとって「田束山」は古来、霊山として崇められ続けてきたにも関わらず、そして、伝説の中で猫たちが願をかけた神仏が「田束山」の「薬師様」だったにも関わらず、伝説で中心的な役割を果たすのは「貞任山」の「トラ猫」であって、われらが「カラ猫」ではないのである。もっとも、これも前回稿で述べた、「気仙地方」と近接地域で、「カラネコ」が指し示す猫の種類が違うことから起きた重複的な混同と関係があるのかも知れないが、もちろん、これは今のところ証明する手立ては何もない。

この件に関して云うならば、三匹の猫たちの出が、それぞれ
「田束山・三峯職」の別当に当たる「細浦・法明院」「伊里前・明学院」「小泉・妙心院」に対応していたならば、「里修験」のことも絡んで、色々な意味で面白かったのだろうけれど、そうでない以上、「田束山のカラ猫」は伝説中の「薬師様」と対応するので措くとして、他の二匹の棲む「貞任山」「鳥ヶ森」には、何か特別な意味や伝承がその背景にあったものなのか、気になるところである。これは、何故「田束山」の「カラ猫」だけが実際の信仰的な背景を有しているのかと云う疑問や、逆に、そうであるにも関わらず何故「貞任山」の「トラ猫」が三匹の元締めのように語られているのかと云った疑問にも関わってくることである。しかし、残念ながら、このような疑問に対しても、筆者は今のところ、推測をすらまともにする準備がない。

ところで、筆者は上の伝説の中で、もう一点興味深いと思っていることがある。それは、この伝説の時代性のことである。この伝説がいつ頃から語り伝えられているのかと云うことに関しては、明確な解答はついに出せないが、しかし、いくらか見当がつけられそうな材料もある。その材料とは、「田束山」の「薬師如来」である。

「田束山」の「清水寺」の信仰の歴史に関しては、多くの盛衰が繰り返された結果、詳しいことはほとんど伝わっていない。したがって、「平安・鎌倉・室町」と通して、「薬師如来」がその本尊として奉ぜられていたかは不明なのである。「貞任山」の「トラ猫」が登場する伝説とあっては、その山名だけからでも、筆者は「平安」の香りを嗅いでしまうのだが、この伝えがさまでに古い可能性は、もちろんほとんどない。

一方、各種資料から、「江戸初」には荒廃していた「田束山」が再興されるのは、元禄十年 (1697) 以降であり、初めに再建されたのが「寂光寺・観音堂」だと知ることが出来るのは、既に見た通りである。「清水寺・薬師堂」がいつ再建されたのかは、寡聞にして知らないのだが、
享保四年 (1719) に「佐久間洞巌」の手によって成った『奥羽観蹟聞老志』 からは、当初は「太子」「大黒宇賀神」を奉祭した「大黒堂」であったことが分かり、しかも「薬師堂」には一切触れていないので、当該書の成立時点ではいまだ「薬師堂」へと信仰が推移していないことが分かるのである。だが、『安永風土記』 には、既に「伊里前の明学院」が「田束山上」の「薬師堂」の別当であると記されているので、この半世紀余の間に、「田束山」の「薬師」信仰は成立したものと思われる。したがって、その「薬師」信仰を広める効験譚ともとれる「田束山のカラ猫」伝説が成立したのも、「薬師堂」成立よりは後、すなわちどんなに遡っても、十八世紀半ば以降であることはほぼ間違いないのである。

筆者が、上記の伝説に関連して考えていることは、現時点では大体、この程度のことである。


c) 筆者のつぶやき

今回のシリーズを書いていていつも思うことなのだが、子供向けにものを書くのは極めて難しいと云うことである。普段、自分が使っている言葉が自由に使えない、などと云った用字・用語上の難易度の問題だけではなく、本来なら決して述べないような陳腐なことを、どこまで述べる必要があるか、と云う選択にしばしば迫られると云うことの方が、なお厳しいのである。

陳腐なことを述べる、と云うことには、単に幼稚で「くさい」ことを云ったしまうというだけではなく、実は、その裏で議論したい多くのややこしい理屈を省略すると云うことでもあり、しかもそのようにすると、どうしても結論だけが突出してしまい、それが善意ある内容だったりすると、余計に「くさい」内容と受け取られかねないことを云ってしまうことでもある。それだからこそ、より一層、上で述べた選択は難しく体感されるのである。

子供をやたらと子供扱いすることに対しては、日頃から反対の立場をとっているのだが、かと云って、すべての話題に大人と同じレベルで語ればよいと云うものでもないのは明らかである。簡単に出来る内容は簡単にすればよいが、世の中には簡単に出来ない複雑なことも多いのだから、簡易化と云う手段だけでは事が足りない。通常、このブログで述べているやや理論的な話は、このシリーズでは便宜上、ほぼ省略しているのだが、今回のように、東日本大震災のような、子供だからと云ってただ目を背けていればよいと云う訳ではない話題に当たって、どのように対処すればよいのかは悩むところである。また、子供が読める文の長さにもおのずと限界があろうから (平均的な意味で...) 、その点も留意しながら書かねばならない。

もちろん、初等教育の専門家に云わせれば、このシリーズとて、難しすぎるし、長過ぎる、と云うことにはなろう。しかし、これはもうやむを得ない。簡単にすればいい訳ではないことも、簡単にならないことがあることも既に述べた通りなのだから、文の長短に関しても、短ければよい訳でもあるまい (普段の筆者のブログ記事は長過ぎると反省しています...) 。要するに、筆者としては「子供向け」の文は書きたいが、「子供だまし」の文を書くことなどまっぴら御免なのである。

このようなジレンマに近い作業を行なうに当たって、結局、云いたいことをなるべくストレートに云う、と云う方針が、いま筆者の中で固まりつつある。ただ、これをやるとどうしてもあれこれと留保条件を付けたり、様々なありうべき論理的な可能性を探究したりすることは出来なくなり、悪く云ってしまえば、「くさい」「陳腐な」話になりかねないのである。

今回は、こう云った筆者の苦悩を告白すると共に、それをそのまま言い訳に使っちゃおうと云う、小ずるい算段を最後に申し述べて終りとしたい。




参考文献・サイト
 

・佐藤信要・高橋以敬/編 (1741) 『封内名蹟志』寛保元年
 鈴木省三/編 (1925) 『仙臺叢書』第八卷、仙臺叢書刊行會
・佐久間洞巌 (1719) 『奧觀蹟聞老志』卷之九、享保四年
 鈴木省三/編 (1928) 『仙台叢書』第十五巻、仙台叢書刊行会
・相原友直 (1773) 『平泉雜記』卷之一、安永二年
 南部叢書刊行会 /編 (1928) 『南部叢書』第三巻、自刊
・明治神社誌料編纂所/編 (1912) 『明治神社志料』自刊
・本吉郡町村長会/編 (1949) 『本吉郡誌』自刊
・歌津町史編纂委員会/編 (1986) 『歌津町史』歌津町

・大塚徳郎ら/編 (1990) 『日本歴史地名大系 4・宮城県の地名』平凡社
・竹内理三ら/編 (1991) 『角川日本地名大辞典 4・宮城県』角川書店
・政岡伸洋等/監 (2008) 『波伝谷の民俗』東北歴史博物館


  (『安永風土記』の内容は、諸書からの孫引きである。)

「伝承之蔵」HP
  http://legend.main.jp/50-minamisanriku-003-girineko-00-a.htm

・「陸奥総社宮」HP
  http://mutsusousya.web.fc2.com/tazukanesan/tazukanesan.html#tazukane
・「南三陸町 VIRTUAL MUSEUM」HP
  http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/museum/index.php?content_id=145
  http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/museum/index.php?content_id=150



岩手県の猫神・三陸町の「唐猫」と増長寺の猫

.03 2011 北海道・東北地方 comment(5) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していく
シリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。


岩手県大船渡市三陸町

 (旧・気仙郡三陸町)


臨済宗・妙心寺派
亀嶋山・増長寺

奥州市水沢区字寺小路 26
0197-25-8815
 
増長寺
「増長寺」
「龍源山・長福寺」HPより
http://www.chofukuji.or.jp/column/jiin_h17_b.htm#0024
 
1. はじめに

今回は、二つの「猫」話を紹介 しょうかい します。どちらも「岩手県」のものですが、一つは「気仙 けせん 地方」に伝わるもので、もう一つは「奥州 おうしゅう 市・水沢区」に残 のこ されたものです。
「気仙地方」のお話の「舞台 ぶたい 」はお寺なのですが、このお寺の名前や具体的 ぐたいてき な位置 いち などは分かっていません。ただ、旧「気仙郡・三陸 さんりく 町」と知られているだけです。ただ、全国的にも珍 めずら しい「唐猫 からねこ 」が登場するので、たいへんに貴重 きちょう なお話と言えます。「奥州市水沢区」のお話には、「唐猫」は登場しませんが、話が「気仙地方」のものときわめてよく似 ているので、あわせて紹介することにしました。

それでは、どうぞ。



2. 
「気仙地方」の「唐猫」


今回のお話は、二つとも短 みじか いです。まず、初めのお話です。
 
貧乏 びんぼう 寺に、「虎猫 とらねこ 」と「唐猫 からねこ 」がそれぞれ一ぴきずついた。ある時、長者 ちょうじゃ の娘 むすめ の葬式 そうしき があり、式の途中 とちゅう で棺 ひつぎ  (かんおけ) が宙 ちゅう づりになって降 りてこなくなった。貧乏寺の和尚 おしょう がお経 きょう をとなえると棺は降りてきた。この結果、檀家 だんか が増 えて寺は栄 さか えた。

そのころ、猫二ひきは和尚を殺す相談をするが、事前 じぜん にこのことを知った和尚は、二ひきの猫を追いはらい、ことなきを得 た。
 
参照・國學院大學民俗文学研究会/編 (1968) 『伝承文芸 6・岩手県南昔話集』自刊
成田守ら/編 (1985) 『日本伝説体系』第二巻・中奥羽編、みずうみ書房
 


3. 増長寺の猫

それでは、二つ目のお話です。
 
旧「水沢町」にある「増長寺」の猫は、和尚 おしょう が寝 ると必 かなら ずわらしべをくわえてきて、和尚の身長を測るような真似 まね をしたので、和尚は不思議 ふしぎ に思っていた。ある日、立町の「オカリヤ」という「御本陣 ごほんじん 」のおじいさんが、寺に碁 を打ちにきたので、和尚は、猫の怪 あや しいふるまいを物語った。それを聞いたおじいさんが、「なァに、猫だって悪い気があってするのではなく、いたずらのつもりでするのだらう、なァ玉や」と猫に声をかけると、猫は「糞 くそ くれァ」と叫 さけ んで、飛び出して、そのままついに帰ってこなかった。後に、和尚さんが寺のまわりを探 さが してみたら、後ろの薮 やぶ の中に和尚さんの身体 からだ がかくれるほどの大きな穴が掘 ってあった。たぶん、猫は、和尚さんを殺 ころ してその穴に埋 め、自分が化けて住職 (和尚のこと) になろうとしていたのだらうという噂 うわさ であった。
 
参照・森口多里 (1939) 「陸中水沢町聞書 (第四回) 」
萩原正徳/編 (1939) 『旅と伝説』十二巻・六号/百三十八号、三元社
 
 
 
4. これらの話について

a) 言葉の説明

「檀家 だんか 」とは、そのお寺に所属して、法事や葬式などを行ってもらうだけでなく、時には土地や金品を寄付 きふ して、お寺を支える家や人々のことを指します。要 よう するに、この「檀家」が多ければ多いほど、お寺は栄えるのです。

「御本陣 ごほんじん 」あるいは「本陣」というのは、殿様 とのさま などが行列で通る街道 かいどう 沿 いにある立派な家のことで、旅の途中 とちゅう 、殿様たちはふつうの宿にはとまらず、このような「本陣」にとまったのです。「本陣」をやっているような家は、たいていその地域の長者さんでした。

「碁 」は、「囲碁 いご 」とも言い、「将棋 しょうぎ 」とならんで、昔は男の人たちの間で最も人気のある遊びでした。みなさんも、この「碁」のための「碁盤 ごばん 」と「碁石 ごいし 」を使って、「五目ならべ」なんかしたことないですか? でも、最近 さいきん は、あまり見る機会 きかい はないかもしれませんね...。


b) その他のことについて


貧乏寺の「猫」が、恩返しに寺を栄えさせると云う筋の民話を「猫檀家」説話とよぶのですが、「岩手県」は、「気仙地方」だけでなく、「猫檀家」の話が極 きわ めて多い県です。有名なところだけでも、「福蔵寺」や「龍岩寺」、それに「龍昌寺」などの伝説があります。

ただ、今回紹介した「猫檀家」話は、ちょっと変わっていましたね。ふつうは、和尚さんに恩返しをしておしまいになるのですが、このお話では、後に「虎猫」と「唐猫」が相談して、和尚さんを殺そうとしています。うーん、何だかよく分かりませんねぇ...。

ただ、この地方には「増長寺」のお話のように、単に「猫」が和尚さんの墓穴を掘ろうとして、身長を測るというお話も知られていたようなので、もしかしたら、このようなお話の影響を受けてしまったのかもしれません。もちろん、このようなお話は、あまり多くはありません。全国に百以上の「猫檀家」話がある中で、和尚の体を測るというお話は、二個か三個くらいしか思いつきません。

それに、ふつうの「猫檀家」話は、圧倒的 あっとうてき に「とら猫」が多いのです。和尚さんが上げる「ナムカラタンノートラヤァヤァ」というお経 きょう のセリフをもじっているからでしょう。だから、「唐猫」も登場するというのは、たいへん珍 めずら しいのです。

さらに云えば、二ひきの猫が登場するときは、わが国の民話の世界では、ほとんどの場合、二ひきで力を合わせて、和尚さんを殺して取ってかわろうとする「大ネズミ」を退治 たいじ するパターンのお話になるのですが、この意味でも、「気仙地方の猫檀家」のお話は変わっていましたね。まるで、悪い「大ネズミ」の役割まで、猫たちが担 にな っているようです。案外、どこかで「大ネズミ退治」の話とまざってしまったのかもしれませんね。



5. むすび

前二回の記事が長かったので、今回はこれで終りとします。
次回は、「宮城県」の「唐猫」伝承を紹介します。
お楽しみに。

 
*
 
6. 追補・大人の方々へ : 「気仙地方」の「唐猫」の成立に関する仮説、など

a) プロット及び話型の不自然さ

上で紹介した「気仙地方に伝わる虎猫と唐猫の猫檀家」譚 (以下、「唐猫の猫檀家」) は、一見して分かるように、典型的な「猫檀家」譚ではまるでない。何よりも特異なのは、それが「猫」による報恩を一方で描きつつも、その一方で、「猫」たちが和尚を殺害しようとすると云う、ほぼ真逆の事象を描いている点にある。

また、上二つの伝承は、その話型からして一風変わっていることは、本編でも述べた。すなわち、寺の猫の話に、二匹以上の猫が登場する場合、それは力を合わせて、和尚の命を狙う「化け鼠」を退治すると云う設定の中であることがほとんどなであり、「猫檀家」譚としては極めて稀だと云うことである。

同様に、寺の飼い猫が、和尚の命を狙うと云う説話で云えば、代表格は「鶏報恩」として知られる話型である。「猫」が飼主に殺意を抱いていることをその家の鶏が察知して、宵鳴きして知らせようとするが、返って川に流されてしまい、それを拾った人の夢枕に現れて、ようやく飼主の危難を救う、と云うお話である。そして、この種の話では、猫は一匹で行動するのが通例である。猫が、飼主やその客人に危害を加えようとすると云う説話では、他に「猫と南瓜」として知られる話群があり、「鶏報恩」と接近する話も多く存在するのだが、こちらも猫は単独行動であるのが基本だと云える。そう云った意味で、上記の「唐猫の猫檀家」は、やはり特異な伝承なのである。

もちろん、特異な形の説話があってはいけない訳ではないのだが、「唐猫の猫檀家」の話は「猫檀家」譚の後ろに、まったく矛盾する「和尚殺害計画」が語られたり、その殺害への準備が、和尚の背丈を測ると云う「猫の怪異譚」としてはかなり寡少のモチーフを形成していることなど、三重に特異性が重なっていることを鑑みると、いくら何でもその逸脱は不自然に過ぎると云える。そこへ持ってきて、同じ「岩手県」に、ちぐはぐにくっ付けられたかに見える「猫檀家」と「和尚殺害計画」の話の、後半部分だけを伝える独立した説話が存在するとなると、どうしても、これはある時期に「気仙」の伝承から「和尚殺害」のプロット部分が欠落して伝わったと考えるよりは、元は完結した「猫檀家」譚だった「気仙地方」のお話に、ある時期、別の「和尚殺害計画」系の話が流入し、雑然と合体したと考える方が自然に思えてくるのである。問題、どうしてそんなにも不自然な接合が引き起こされてしまったのか、と云うことになる。


b) 「化け鼠退治」譚とのつながり

筆者がこのように考えるのには、別の理由もある。寺の二匹の猫が共謀して事に当たると云うモチーフは、既に述べたように、民話研究では「鼠退治」とか「猫寺」「猫塚」などと呼ばれる「化け鼠退治」譚によく見られるものである。有名なところで云うと、「御前崎の猫塚」があるが、当ブログで云えば、「千葉県の猫神」として紹介した「長禅寺の猫」の話がこれに該当する。この「化け鼠退治」譚の中の二匹の猫と鼠の三者の役まわりを、二匹の猫の中に合わせてしまうと、「猫の報恩」と「和尚殺害」の二つのモチーフがいびつに合わさったプロットが成立するのである。このため、「唐猫の猫檀家」譚における二つの系統の説話の合体様相は、この「化け鼠退治」譚の介在によって引き起こされている気が、筆者にはするのである。

何しろ、「岩手」には「正法寺の猫塚」と云う近隣に知られた「化け鼠退治」譚があるのだから、この地域の民話の伝承者たちは少なからずこの伝説には馴染んでいたものと思う。この「正法寺」と云うのは、「奥州市水沢区黒石町」にあり、旧「三陸町」のある「大船渡市」とは、「気仙郡住田町」を挟んで近接している。「正法寺」の伝説に関しては、「増長寺の猫」の説話を採録した『旅と伝説』誌の同じ連載の中で、「森口多里」氏が紹介しており、その末尾に「この忠猫譚は正法寺の伝説としてこの地方に相当広く知られている」と注意書きを付しているほどであるから、よほど近隣に聞こえた伝説だったと考えてよさそうなのである。「東京女子大学史学科民俗調査団」の調べによれば、「宮城県」の「栗原市金成普賢堂」でも「正法寺の化け鼠退治」の話は採集されているのである (東京女子大学史学科民俗調査団 、1973) 。これは現在でこそ県境を越えていることになるが、「江戸期」には「奥州市」も、「栗原市」も、共に「仙台藩」の領域に含まれていたこと、そして両者が真っすぐ「奥州道中」によって結ばれていたことなどを考えると、距離こそやや遠いが、決して不自然と云うほどの伝播ではない。そして、これは、仮に「正法寺」の伝説が旧「三陸町」に伝わっていたと仮定した場合でも同様のことが云えるのである。「気仙地方」も、「幕藩時代」は「仙台領」だったのであり、明治九年 (1886) までは「宮城県」に属していたほどである。また、内陸の「水沢 (現・奥州市) 」とは、「盛街道」および「気仙道 (浜街道) 」と云う二つの重要な交易路によって結ばれていたのである* 。
 
* 「盛街道」と云うのは、「明治」以降の呼び名で、「近世」には区間によって「気仙街道」「江刺街道」「遠野道」などと呼ばれていた。「浜街道」と云うのも近代以降の名称である。ちなみに、「欧州道中」「盛街道」「気仙道」は、それぞれおおまかに現在の国道4号線、県道397号線、県道45号線に当たる。
 
交易における物品の移動は、人の手で行なわれるものであり、人が移動すれば、何らかの形でその精神的な活動も移動することは必然である。その精神活動の移動は、もちろん双方向的なものなのだが、いかなるコミュニケーションもそうであるように、その流れには偏向性がある。この偏向性は一律的に顕現するものではないが、それぞれのコミュニケーションの文脈に沿って、政治的、経済的、あるいは文化的に権威の高い方から低い方へとより強く流れる傾向が生まれ易い。殊に、特定の場所や出来事、人物、集団などと関わりの深い「伝説」の伝播に関しては、やはり特定の移動方向が発生しやすいと思われ、寺などを巡る話は、末寺を多く持つ大寺がその流布源として影響する可能性は低くない。

「増長寺」同様に「水沢」にある「正法寺」は *、現在でも国の重要文化財に指定されている建造物を二つ有する名刹なのだが、貞和四年 (1348) の開山からわずか二年足らずで、「曹洞宗」の第一本山「永平寺」、第二本山「総持寺」に次ぐ第三本山の寺格を得たほどの寺で、当初から「東北地方」に「曹洞宗」を広める前線基地として、特に重視された寺である。最盛期には、末寺は千二百を越えたと云うから、その勢威のほどは想像してあまりがある。「正法寺」の伝説が、「水沢」を起点に、各街道を通じて周辺地域に拡散する条件は、十分過ぎるほど整っていたのである。
 
* この二つの寺院が異なる宗派に属することは承知している。ただし、「増長寺」も「臨済宗」と云う「禅宗」の寺であったことは、「東北」全体を包み込む「猫檀家」的な世界観に取り込まれ易い土台とはなったはずである。これは、この地方では「猫檀家」譚は、「禅宗」の経文と深い関係を持って広がったと云う背景があるのだが、これについては追々述べていくことになる。
 

c) 「岩手の方言」と「カラネコ」

既に見たことだが、旧「三陸町」 (現・大船渡市) は、「近世期」には、旧「仙台領」だったのだが、この地は、同様に「仙台領」として「気仙地方」を形成していた現在の「陸前高田市」「気仙郡住田町」「釜石市唐丹町」と共に、維新後も明治九年 (1876) までは「宮城県」に入れられていたと云う歴史がある。このため、言語的には、この地方の方言は、「仙台弁」の系統に入れられる独自のものとなっている。余談だが、近年、地元出身の医師「山浦玄嗣」氏が「ケセン語」を提唱していることは、メディアにも採り上げられ、ときおり話題になっているところである。

一方、現「奥州市」に属する「水沢」地区も、「水沢伊達氏 (留守氏) 」の支配をほぼ幕藩期のすべてを通して受けたため、やはり「仙台弁」に近い方言系統に属すると云う。しかし、「気仙地方」及び「奥州市」の方言は、共に隣接する「南部弁」系の「盛岡弁」との連絡を強く持った独自の「仙台」系方言を形成しているにも関わらず、一方で、「気仙地方」の方言は、「奥州市」の方言のような内陸部の「仙台弁」系列のものとは、また異なった特徴を有していると云う。

ここで興味深い事実として浮かび上がるのは、既に本編でも述べた、「岩手県」に存在する「カラネコ」と云う方言の語彙である。「カラネコ」と云う語は、「盛岡」周辺では「濃い茶トラの猫」を指し、「気仙地方」では「白黒のブチ猫」を指すと云う事実を、「東北」の「猫檀家」譚の主役は、「虎猫」が多いと云う事実と照らし合わせることで、新たな分析が可能になるのである。

「東北地方」の「猫檀家」譚の中心的な趣向に、宙吊りになった棺を、和尚が「ナムカラタンノートラヤァヤァ」と唱えて無事に降ろす、と云うのがあるのは、既に述べた。こここでの「トラヤァ」の部分は、「虎猫」を呼ぶときの「虎や」と云う呼びかけに掛けた駄洒落まがいの妙味から発していることは明らかで、したがって、この系統の「猫檀家」譚では、主役の「猫」は、常に「虎猫」でなければならないと云うことになる。「柳田國男」は、「二戸郡御返地村」の「三蔵の猫」と云う「猫檀家」譚を紹介するに当たり、「猫の名がトラだつたのでトラヤアヤアの趣向も面白いのだが、それが三藏であつては一向に話にならず、從つて用法を呑込まなかつた者の輸入らしい」と述べているのを見ても、この辺りの消息は分かる (柳田、1937) 。

また、このこととは別に、何故、「岩手県」地方では、特定の柄の猫のことを「カラネコ」と呼んだのかも考えてみる必要がある。特に「中国」伝来の猫が隣接する地方で、「濃い茶トラ」だったり、「白黒のブチ猫」だったりと、区別して輸入されたはずはないので、この方言が「外来の猫」と云う意味で使われたものでないことは分かる。一方、全国に残存するわずかな数の「唐猫」たちの性質と云うのを比較考量すると、多くが現在「唐獅子」や「狛犬」などと呼ばれるものであるか、それと関連してか何かしら霊妙な力を発揮している猫であるかのいずれかなのである。寺社の結界を守る「狛犬・唐獅子」が、霊獣として意識されるのは当然であるから、要約すれば、「カラネコ」とは何かしらの不思議な力を持つ「霊なる猫」と云う含意を持つ言葉だったと云えそうである。そして、そのような霊妙なる力を持った猫と云うのが、「盛岡」周辺では「濃い茶トラの猫」と見なされ、「気仙地方」では「白黒のブチ猫」とされたのであろう *。
 
* これはまったくの予断なのだが、「気仙地方」では霊力のある猫を「虎猫」としていなかった時点で、もしかしたらこの地域は元々「猫檀家」伝承の普及の弱い地域だったのではないかとさえ思われる。そうであるならば、これから述べるような、他の地域の伝承と「猫檀家」譚の混同は、余計に起こりやすかったのではないかと思われる。
 
このように考えると、「盛岡」から「水沢」の辺りに掛けて広がった「猫の怪異譚」は、その多くが「カラネコ」を主人公としたものであり、その説話が肯定的な「猫檀家」系であろうと、否定的な「化け猫」系であろうと、そこに登場する猫が「カラネコ」と呼ばれた時期があったのではないかと推測することが出来るのである。「方言周圏論」を引き合いに出すまでもなく、「唐猫」伝承の残存する地域は、筆者の把握している限り、ほとんどすべてが我が国の南北の端か、「中部地方」に限られ、しかも南北の端でない場合は、得てして山岳地帯や離島などの、地勢的な辺境に伝承されているのである。これは逆に云えば、ある時期、「唐猫」の語が、我が国の比較的広い範囲に渡って使用されていた可能性を示唆するのに十分な状況証拠と云える。「東北」では、それが「狛犬・唐獅子」としてよりは、「霊妙な猫」と云う含意を持つ語として残ってしまった時期を経て、最終的には局地を除いて消滅していったのではなかろうか。

このような前提に立てば、「化け鼠退治」譚と「増長寺の猫」のような「化け猫」譚が合体しやすい状況は、両説話の主人公の「猫」が、その霊的な能力の故に、当時は双方とも「カラネコ」と呼ばれていたのではないか、と云う推測によって、後押しされるものである。しかも、「正法寺」も「増長寺」も共に「水沢」の寺であり、混同が起き易い下地は十分にあった。その上、一方の寺が他方よりも遥かに知名度が高いことも、二つの伝承が一つにされてしまう傾向を促進するものと思われる。また、仮に「正法寺」の名さえ定かでない土地の人には、どちらも「水沢の方の寺」なのである。ここまでくれば、いずれ「遠くの或る寺」と云う段階を経て、これらの伝承が匿名化する蓋然性は極めて高いと云えるだろう。そして、そのような段階に至れば、匿名化された伝承が、地元の類似する「寺と猫」の伝承などと統合されたとしても、何ら不思議はなくなるのである。

このことを頭に入れて、もう一度、「気仙地方の唐猫」の話と、「増長寺の猫」の話を比較すると、一つの仮説を組み立てることが可能になる。この仮説の骨格を、順を追って箇条書きで記すと次のようになる。
 
1.旧「三陸町」に、既に「虎猫」を主人公とする「猫檀家」譚が知られている。
2.「水沢」辺りから「濃い茶トラの猫」を「カラネコ」と呼ぶ「猫檀家」系の説話が、新たに旧「三陸町」に伝播する。
3.「気仙地方」では、「白黒のブチ猫」を「カラネコ」と云うため、この新しい話では、「虎猫」の趣向が消えてしまうので、新来の「カラネコ」も、旧来の「虎猫」も共に残して、二匹の猫が活躍する「猫檀家」譚へと変容する。
4.猫が二匹になったことにより、「正法寺」系の「化け鼠退治」譚と合わさり易くなる。
5.一方、「正法寺」系の「化け猫退治」譚は、同じく「水沢」の伝説である「増長寺」の説 話と共に、街道を通って、「気仙地方」に伝えるられるが、知名度において劣る「増長寺」の名前は、「正法寺」の陰に隠れてしまいやすい状況に置かれ、やが て両者は渾然とした状況になっていく。
6.この地域では、「霊妙なる力を持つ猫」を「カラネコ」と云っていたため、古くは「正法 寺」と「増長寺」の伝説にあっても、猫は「カラネコ」と呼ばれていたものと思われる。そして、両者の伝えが渾然とした状況下で、「カラネコ」つながりで、 既に猫が二匹に増えていた「気仙地方」の伝承に、崩れた「化け鼠退治」譚の影響もあって、「増長寺」伝説の「和尚殺害」のモチーフが加えられた。
 
この仮説の前半部 (1~4) は、伝説の主人公たる猫が、いかにして二匹に増えたかを論証するい過程なのだが、ここの論理的展開は、無理なく、完結していると思う。一方、後半の「和尚殺害」モチーフの混入に関しては、必ずしも論がすっきりしていないことは、筆者も自覚している。ただし、「カラネコ」の方言の差異によって、「岩手」内陸部から海岸部の「気仙地方」に説話が伝わるときに、話の原型を崩しかねないほどの変形が引き起こされたのではないか、と云う見解には、それなりに自信がある。後半部の論展開の完成度を高めることが、筆者に与えられた今後の課題となろう。


d) また別の解釈 : 「合理化」解釈の可能性

もちろん、「唐猫の猫檀家」における、互いに背反するモチーフに関して、上記のような解釈を採らず、より「合理化」するような解釈を行なうことは出来る。例えば、「御前崎の猫塚」に見られるような、「化け鼠」が和尚を殺して、それに取って替わろうとする設定を、そのまま「猫」に当てはめれば、「報恩」の話も、自分たちが乗っ取る寺をあらかじめ栄えさせておいたのだ、とも云える。しかも、このような解釈に有利な材料が、同じ「岩手県内」に存在するのは、既に見た。「増長寺の猫」の話である。

この、猫の相矛盾する二つの行為は、また、この説話が現在伝わるような形で成立したと思われる「近世」の人々にとっては、意外にも矛盾していなかったのかも知れない。我々がいま駆使する合目的的な思考とは別の次元で、「近世」の人々は、棺を宙吊りにして寺を栄えさせるようなペテンを働く「猫」ならば、忘恩不忠もまた敢えて避けはしないだろう、くらいに理屈づけていた可能性はある。

ただ、当然ながら、このような「合理化」解釈には、それが「近代的」なものであれ、「近世的」なものであれ、とうてい不満を禁じ得ない。理論的なことは抜きにしても、合理化するのであるならば、その自らの合理的な認識の中で、理屈が完結していないのは片手落ちと云わざるを得ないからである。「近代的」な合理性に基づいた場合、何故、可愛がられている飼い猫が和尚を殺してまで寺を乗っ取らねばならないのか、と云う付随する疑問に答えられず、あるいは「近世的」な解釈に則っても、「悪事を働くものがやることはすべて悪事」式の理解をするならば、何故その悪の具現者たる「猫」たちが、前半で「報恩」と云う善事を為しているのかの説明がつかなくなる。これらの問いに対する合理的な説明は、おそらく誰にも提示出来ないだろう。仮に、何とか無理なこじつけを考えついたとして、それは表面的には筋の通った説明になったとしても、民俗的な意味で「猫」の持つ二面性の理解へとは、少しも我々を近づけてはくれないはずである。

そもそも、猫が葬列の棺桶を宙吊りにしたり、人間の背丈を測って墓穴を掘ったり、などと云う話の内容自体が、現代の合理的精神から見れば荒唐無稽なもので、およそ説明的な合理性とは程遠いのだから、その行為の主体的な解釈のみを合理的に処理したからと云って、得るものは何もないのが当然である。我々が分析のメスを入れるとするならば、そのような猫の非合理的な性質そのものに対してであるべきなのである。言い換えれば、「猫」が、その本質において非合理であるなら、その非合理とは一体、どのような点においてそうなのか、と云うことが問題になるはずである。この問題を追究した先に、「猫」の本質的な二面性に対する理解の可能性が開けるのである。

したがって、a) ~ c) までに力説した筆者自身の「伝播変容」仮説も、この本質を見落とすならば、ただの理屈のこねくり回しに過ぎなくなってしまうのである。これは、筆者自身、強く自戒するところである。

今後は、この点について述べていく機会を見つけていこうと思っている。


参考文献

・柳田國男 (1937) 「八戸地方の昔話」
 民間傳承の會/編 (1937) 『昔話研究』第二卷・第八號
・鹿児島県立大島高等学校郷土研究部/編 (1963) 『奄美民俗』通巻四号、自刊
・國學院大學民俗文学研究会/編 (1968) 『伝承文芸 6・岩手県南昔話集』自刊
・東京女子大学史学科民俗調査団 (1976) 『普賢堂の民俗』通巻十六号、自刊
・稲田浩二ら/編 (1977) 『日本昔話事典』弘文堂
・成田守ら/編 (1985) 『日本伝説体系』第二巻・中奥羽編、みずうみ書房
・森嘉兵衛/監 (1990) 『日本歴史地名大系 3・岩手県の地名』平凡社
・竹内理三ら/編 (1991) 『角川日本地名大辞典 3・岩手県』角川書店


青森県の猫神・木の上の「唐猫」

.15 2011 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していく
シリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。

木の上の「唐猫」

青森県中津軽郡
西目屋村・砂子瀬地区
 
遠州綿紬
 
浜松市の伝統工芸品
「遠州綿紬」ロゴマークの糸車
 
1. はじめに
 
今回から、各地 かくち の「唐猫 からねこ 」の伝承 でんしょう について紹介 しょうかい していくことにしましょう。第一回の今日は、「青森県の唐猫」の話です。もとの題名 だいめい は「木の上のあねさま」でしたが、この「あねさま」は、話の中では「唐猫」になっていますので、このブログでは「木の上の唐猫」に題名を変 えてみました。

このお話は、インターネット上 じょう の「スーちゃんの妖怪通信 ようかいつうしん 」という、民話 みんわ ・伝説 でんせつ を紹介する
たいへん優 すぐ れたサイトから、要約 ようやく して借 りてきました。もとの話は、方言を多くふくみ、しかも、もっと長いものでした。興味 きょうみ のある人は、ぜひこのサイトを訪 たず ねて、ほかの民話・伝説も読んでみて下さいね。



2. 木の上の「唐猫」
 
それでは、お話に入ります。

昔、村の真ん中に、墓 はか の上に立つ大銀杏 おおいちょう があり、晩 ばん になると、その上に、「行灯 あんどん 」 (=昔 むかし のランプ) をつけて、針 はり 仕事 しごと をする「あねさま (=若 わか い女の人) 」が現 あらわ れた。この村はマタギ (=狩人 かりゅうど ) の村だったので、女に向 かってみんな鉄砲 てっぽう を撃 ったが、弾 たま は一つもあたらず、退治 たいじ はできなかった。

ある「あんさま (=若い男) 」が、退治に行くと、女は木の上の行灯の下で、やはり裁縫 さいほう をしていた。男が、女の影 かげ に向かって鉄砲を撃つと、明かりは消え、何かが落 ちる音がした。朝、見にゆくと、血 のあとが残 のこ っていたので、それをたどって山に入ってゆき、川をこえた山むこうの洞穴 ほらあな についた。

洞穴の近くには、二人のわらべ (=子供) が遊 あそ んでおり、誰 だれ か来たかとたずねると、一人は誰も来ないと答 こた え、もう一人は、お父 とう が夕べ村で怪我 けが して、おくの座敷 ざしき で寝 ている、と言った。男がのぞくと、大きな「唐猫」が頭に包帯 ほうたい を巻 いて、うなって寝ていたので、鉄砲で撃ってこれを殺 ころ した。このとき、「唐猫」は、おまえは家にもどるのに、茨 いばら の原を三年、茅 かや の原を三年、石ころの原を三年歩かないとならない、と告 げた。

男が洞 ほら の外 そと に出ると、辺り一面、茨の原になっていた。全身 ぜんしん とげで血みどろになりながら、男は必死 ひっし に歩き続 つづ けた。そのうち、髪 かみ はぼうぼうになり、爪 つめ も伸びてきた。それでもひたすら歩き続けると、やがて一面 いちめん の茅の原に出た。来る日も来る日も、その原を歩き続けると、今度 こんど は石ころだらけの原に出た。転 ころ んで顔 かお の皮がはげて、血だらけになり、手足にマメができ、男はもうすっかり化 け物 もの であった。

このように永 なが い時間 じかん を歩き続けると、突然 とつぜん 、男は自分の家の前に出たので、喜んで入ろうとすると、みんな「化け物だ」といって入れてくれなかった。男のお葬式 そうしき は、もう九年も前に出されていたのだった。それでも家の人がよくよく化け物の顔を見ると、それはその家の「あんさま」だった。

だから、いたずらしない生き物を、いじめたり殺したりしてはいけないのだという。
 
話・成田キヌヨ (昭和七年生)
聞取り・藤井和子
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/03_aomori/01_anesama.html



3. このお話について

日本には、「狸 たぬき や猫 ねこ が女の人に化けて、糸車を引く」という内容 ないよう の民話が、おどろくほど各地にあります。中でも、「青森県」をふくむ「東北地方」は、このタイプの民話が多いことで知られています。

わたしが小学校一年生か二年生だったとき、国語の教科書に「たぬきの糸車」というお話がのっていました。このお話は、「東北地方」ではなく、「静岡県・伊豆地方」の民話を、児童文学者の「岸なみ」さんが現代の子供むけに、少し話を変えて書いたものです。したがって、純粋な民話とは言えませんが、大変 たいへん いい話だったのは覚 おぼ えています。わなにはまった「狸」を助 たす けた木こりのおかみさんに、「たぬき」がたくさんの糸をつむいで恩 おん 返しをする、心あたたまるお話でした。わたしは、このお話が大好きで、よく自転車をひっくり返して車輪 しゃりん を回 まわ しては、「キーカラカラ、キークルクル」などと言って、糸車を回す真似 まね をしたのを思い出します。みなさんの学校で使った教科書には、この話はのっていましたか?

ところで、「東北地方」の「山姥 やまんば と糸車」のお話というのは、大体 だいたい 、次 つぎ のような内容 ないよう のものが多いようです。
 
一人の猟師が暗い山道を通ると、大木の上でお婆 ばあ さんが行灯 あんどん をつけて糸車を回していた。鉄砲でこれを撃ってもお婆さんは平気で笑っている。お婆さんでなく、行灯を撃つと何かが落ちる音がする。翌朝、見にゆくと、大きな狸が死んでいる。
 
地方によっては、殺される動物は「フクロウ、ヒヒ、サル」だったりしますし、もちろん、「猫」であることもあります。

たような話は、他 ほか にもあります。昔話 むかしばなし を研究 けんきゅう している人の間 あいだ では、「猫と茶釜 ちゃがま のふた」という話のグループがあるのですが、この話には三つのタイプがあるとされていて、その一つは、次のようなものなのです。
 
狩人が狩 りに行くと、女の人が灯 あか りの下で糸車を引いていた。化け物だと思って、いくら鉄砲で撃っても平気 へいき なので、灯りの下を撃つと、火は消 えた。翌朝 よくあさ 、見にゆくと、「狸 たぬき 」 (「猫・猿 さる 」の場合もある) が死んでいた。
 
どうですか? 上に挙 げた二つのお話と、最初 さいしょ に紹介 しょうかい した「木の上の唐猫」の話は、何だか似 ていませんか? お裁縫 さいほう と、糸車で糸を紡 つむ ぐという違 ちが いはありますが、話のあらすじはほとんど同 おな じですよね。もちろん、「木の上の唐猫」の話は、後半 こうはん に猫を殺した人が苦労する話がくっついていますが、これを除 のぞ いた前半 ぜんはん 部分 ぶぶん は、だいたい同じ話だといえます。

その他にも、山おくで遊んでいる子供から化け物の秘密 ひみつ を知るという部分は、「大工と鬼六 おにろ 」の話にも似ていますよね。みなさんは、「大工と鬼六」のお話は知っていますか? わたしは、小学生のとき、一つ上の兄が夏休みの宿題で読んでいるのをいっしょに読んだのが最初でした。学校の図書室にあるかもしれませんから、興味 きょうみ があったら読んでみましょう。学校の先生に聞いても、知っている人は多いはずですよ。

このように、日本の民話というのは、色々 いろいろ なお話がそれぞれおたがいに影響 えいきょう しあっている場合 ばあい が、結構 けっこう あるのです。みなさんも、昔話などをたくさん読んでいけば、他の人が気づいていない、似通 にかよ ったお話を見つけることができるかもしれませんね。

それにしても、どうして日本のあっちこっちに伝 つた えられる色々なお話が、似通 にかよ ってしまうのでしょう? それに「唐猫」はなぜお裁縫 さいほう をしていて、「猫 ねこ 」や「狸 たぬき 」は、なぜ糸車を回していたのでしょう? こんな簡単 かんたん そうに見える問いかけに答 こた えることは、実 じつ は大人 おとな でもむずかしいことなのです。みなさんが大きくなったとき、そんなことに興味 きょうみ を持 つ人が一人でも出てきたならば、わたしにとってそれは大変うれしいことです。



4. むすび

今回も、なかなか長かったですね。
次回は、「岩手県」の「唐猫の恩返し」の話です。
よかったら、次回もおつきあい下さいね。


*

5. 追補 : 大人の方々へ


普段、当ブログを訪問して下さっている諸姉諸兄にとっては、ここ数回の記事は物足りないものに感じられていることと思う。ここで、その不足する内容を補完することは出来ないけれども、一応、大人の方々に向けてだけ、以下の点に注意を喚起しておきたい。


a) 「創作民話」について

まず、第一点は、検定教科書にも載る『
たぬきの糸車』についてなのだが、これは「文・きし なみ」「画・むらかみ ゆたか」による「創作民話」だと云うことを強調しておきたい。「創作民話」と云うのは、要するに現代作家が「民話」風に新たな物語を創作して発表したもののことで、大抵は実際の民話にいくらかは取材しているものの、子供向けに大きく改変したり、新たな創意工夫を加えたりしたもののことである。もちろん、まったくの創作の場合も多々ある。「松谷みよ子」の龍の小太郎や「斎藤隆介」の『モチモチの木』、あるいは「浜田廣介」の『泣いた赤鬼』など、優秀な作品が目白押しなのもこのジャンルの特徴と云えよう。

ただし、いかに優れた情緒豊かな作品であろうと、それが現代と云う時代に、一人の個人によって (時には複数人のときもあるが) 創作されたものだと云うことは忘れてはならない。その事実がその作品の価値を寸分でも低からしむるものではないが、少しでも学術的な話をするときには、それと口承文芸としての民話群を混同してはならない、と云うことは明らかである。

ただし、教科書に載る「たぬきの糸車」は、「創作民話」としての「創作性」は、極めて低いものだと云うことも付加えておきたい。お話の筋は、作者の「岸なみ」氏が現「伊豆市吉奈」で採録したものとほぼ同じだとさえ云える。ただ、原話が「狸の悪戯」「樵夫の罠」などより強調され、結果として罠にかかった狸をおかみさんが助けたことに対する報恩譚のニュアンスが強くなっている。教科書版は、どちらかというと、おかみさんと狸の心の交流に主眼が置かれていて、「いたずら」「罠」などの悪意的要素は、さらりと流されている感がある。さらに云えば、樵夫の仕事の一部として炭焼きがあることが抜け落ちており、それ故に民話では炭焼きは貧しい、無教養な人々として描かれると云った「山/里」の対比も排除されている。したがって、おかみさんがいつも一生懸命糸を紡いでいるのは、いつか豊かになって里に住みたいと願っているからなのだ、と云う設定も語られていない。筆者 (私) が、教科書版のお話が、元の民話と筋の上ではほとんど変わっていないにも関わらず、それを「創作民話」に入れるのは、この「報恩譚」の構成要素として最も重要な観点を敢えて抜き取り、狸とおかみさんの微笑ましい交流と云う部分をのみ強調する形で児童文学化しているからである。


b) 「猫=渦巻」「猫=水神」説について

第二点は、筆者自身の考え方についてである。上では、子供向けに民話を紹介することに主眼に置いたため、理論的な話は一切しなかったが、実は、「狸」や「猫」「猿」などの類いが、山中で糸車を回していると云うモチーフを含む民話は、筆者が常日頃から提唱している「猫=水神」「猫=渦巻」と云う考えを補完してくれるものなのである。

既に他の稿で、何度か「狸=猫」の民話の中での互換性については説いてきたところだが、この互換性は、実は「猿」や「蛇」とも、往々にして関連するものなのである。同様に、「蛇」や「猿」が、民俗的なイマジネーションの中では、「水神」と深く関わる動物であることも説いてきた。この件については、子供向けの「唐猫」紹介シリーズを終えた後に再開する「小野神社の唐猫・中編」以降において、詳細に論じていくことになる。特に、いままでは証明出来ずにいた「狸」の「水神」的な性格についても、ある程度以上の説得力をもって論証していけると思っている。

そこで、何故、「狸」や「猫」と「糸車」の登場する民話のイメージ性が、それらの動物、特に「猫」の「水神」的な性格を保障するのかと云うと、何よりもそれが「渦巻」とその回転運動を潜在的に象徴しているからなのである。「糸車」の民話には、また常に「渦」高く積まれる糸の緒のイメージもあり、多重的に「渦巻」を指示しているとも解釈出来るのである。

以前、「福島の猫神」シリーズの中でしつこく強調したことだが、この「渦巻」は、単に「水」のみを表わすのでなく、「風雨」「雷」なども表わし、さらにその根柢では「渦巻」の持つ「生成力」にこそ、人々の畏敬は向けられていたのだと、筆者は考えている。

一方で、一般に多くの研究者が定説化しているように、「猫神」が「養蚕」の神様であるなら、「狸の糸車」「猿の糸車」の話が、「猫の糸車」と並行して存在し、かつその伝承数において優勢していると云う状況を、合理的に説明することは出来なくなるのである。

今後、子供向け「唐猫」シリーズが終了したならば、
さらに資料を増やしつつ、以上のような点に焦点を当てつつ、筆者自身の「猫=渦巻」「猫=水神」論を展開していきたいと願っている。


参考文献

・きしなみ (未詳) 「たぬきの糸車」
 光村図書『こくご・一年下・ともだち』
・岸なみ/編 (1957) 『伊豆の民話』未来社
・勝呂弘/編 (1976) 『伊豆の民話集』長倉書店
・稲田浩二ら/編 (1977) 『日本昔話事典』弘文堂


福島県の猫神・徳本寺の猫涅槃図

.31 2010 北海道・東北地方 comment(3) trackback(0)
曹洞宗
光明山・徳本禅寺

伊達市梁川町東大枝字住吉 8-1
024-577-1598

徳本寺04・本堂
「徳本寺・本堂」

1. はじめに


この日の「猫神」探訪の主たる目的は、「山舟生」地区の「猫神」探索にあった。あわよくば、県境を越えて隣りの「丸森町」の猫神も少々探索してみたい、などと欲張ったことを考えていたのだが、初日に続く雨模様に、台風の接近上陸も心配されたため、「山舟生」を探しまわるのもほどほどに、帰路につくことにしたのである。もしも、台風が北へと逸れ、天気が大きく崩れなかったら、途中で「玉川村」の探索もしようとは考えていたが...。

「山舟生」地区から、東北自動車道に向かうとなると、取り敢えずは「国見インターチェンジ」を目指すことになる。これは、筆者にとっては一つのチャンスであった。薄曇りとは云え、日はまだ十分にあったから、インターまでのルートに無理なく入る「徳本寺」に立ち寄ることが出来そうだったのである。こう云う余録があると、中途で探索を引き上げたと云う沈鬱な気分は払拭され、どこか新しい目的地を目指しているだけのような、そんな明るい気持ちになれるから、人は単純である。



2. 「徳本寺」へ

と云う訳で、まずは「山舟生」の奥地から、宮城/福島県道101号・丸森梁川線に戻り、来た道 (前回記事の話です...) を逆に東へと辿ることになる。「山舟生小学校」の前を通り、「小手内観音堂」のある山を右に見上げつつ進むと、やがて「富野」地区の北東で、県道の分岐点に出るが、来たとき同様、分岐路の方は無視して、そのまま「富野」駅や「舟生不動堂」の方へと道なりに進む。

要するに、走っている県道の「福島県」側の終着点である国道349号との突き当たりまで戻れば良いのである。「福島交通・梁川出張所」のバス・ターミナルがある角である。ただ、来た時はこの国道を南から来たのだが、帰りはここを右折して北上しなければならない。

「梁川橋」で「阿武隈川」を渡ると、最初の信号で県道320号・五十沢国見線が左へと分岐するので、この道に入る。小さな川を越え、少し行くと、左に公民館の見えるY字路の信号に遭遇する。右に進むと県道321号・大枝貝田線だが、こっちに行ってはいけない。

徳本寺前
県道のY字分岐。左に「徳本寺」の寺号標。

目を左側に向けると、信号のほとんど左真横に二台分くらいの駐車スペースがあり、前方には寺の入口らしい寺号標と石柱が見えるはずである。

徳本寺01・入口から
信号の左前方の目の前に、こんな光景が...。

石柱の間から覗くと、参道の奥には、お堂らしき立派な建物も見える。ここが目指していた「徳本寺」である。



3. 「徳本寺」案内

寺への進入路を入ると、正面の「本堂」の手前左側に駐車スペースがあるが、既に述べたように、門の外にも駐車する場所はあった。筆者らは、こちらの門前のスベースに車を駐めた *。

* 実は、後で確認したらこちらの二台分の駐車場は隣りの公民館のものらしい。役場の人には、自由に使って下さいとは云われたが...。

徳本寺02・巳待塔
徳本寺02・巳待塔
「巳待供養牌」

寛保四年 (1744) の「巳待供養牌」がまず最初に訪問者を迎え入れてくれる。「巳待」とは、「近世」によく行われた庶民信仰の「月待」の一つで、「講」をつくって、「巳の日」の晩に講中で集まり、掛軸を拝んで直会をしたものである。特に養蚕関係の人々が、秋季に行なったようではある。「巳」は「蛇」を表すと同時に、その「蛇」を使わしめとする「弁財天」をも表し、「巳の日」は「弁財天」の縁日とされる。「弁財天」は「仏教」の「天部」の神で、原初は「ガンジス河」そのものを表した河川神だったが、「仏教」に取り入れられてからは音楽など諸技芸の神として崇められた。その技芸の中には、しばしば「養蚕」や「機織り」も含まれると考えられ、「蚕」を食べてしまう鼠除けの「蛇神」と云う側面も働いて、養蚕農家の守護神になることが多かった。

徳本寺03・鐘撞き堂

「鐘撞堂」

「巳待供養牌」の先、今度は左手には立派な「鐘撞堂」があり、参道の右手には新しい地蔵像などが建ち並んでいる。

徳本寺09・おもいやり小僧
徳本寺08・まもり傘地蔵
左) おもいやり小僧、右) まもり傘地蔵

正面の大きな「本堂」に接近すると、「おもいやり小僧」だの「まもり傘地蔵」だのが、「庫裏」の前に佇んでいた。まあ、洒落と云うことで...。

徳本寺05・文殊菩薩堂
小さな「文殊菩薩堂」

「本堂」の左手前には、ささやかな「文殊菩薩堂」が祭られ、その後ろは境内の南半分を占める墓地になっている。季節柄、「文殊菩薩堂」横の絵馬棚には、まだ絵馬はあまり掛けられていなかった。

筆者が、この寺に来たのは、ここの「涅槃図」に猫が描かれており、それに関する伝説が伝えられていたからなのだが、「涅槃会」からも離れたこんな季節に、「涅槃図」が掲げられているはずもなく、取り敢えず、時間が押していたこともあって、筆者の「徳本寺」探訪は、短時間で終わった。

この後は、門の外の「秋葉神社」や、境内を取り巻く水堀や土塁等、「住吉館」の遺構を見て廻るばかりである。



4. 二つの「徳本寺」?

ここの寺は「曹洞宗・興国禅寺」末の古刹で、「本尊」は「聖観世音菩薩」である。『宮城県坂元町史』* を引く『梁川町史』第十巻によれば、嘉吉元年 (1441) に、「越後国・村上耕雲寺」の六世「太庵梵守** 」を「岩代国伊達郡大枝村 (福島県梁川町) 」に「開山」として招き、「地頭・大條 おおえだ 孫三郎宗行」が「開基」したものと云う。したがって、当初は「耕雲寺」の末寺だったと云うことになる。寺の所在地も、初めは字「町裏」にあったそうなのだが、後に変遷を経て、現在地に遷ったものと云う。

* 宮城県坂元町史』---筆者はこの名の書籍を確認出来なかった。もしかしたら、猪股幸次郎/編『宮城県亘理郡坂元村誌』 (自刊、1925) ではないかと思うが、どうだろうか。
** 太庵梵守---『梁川町史』第十巻における『宮城県坂元町史』からの引用では「大庵梵守」となっているが、寺に問合せたところ、「太庵梵守」が正しいと云うことであった。

天正十九年 (1591) に「大枝宗直」は、「伊達政宗」の「岩出山城」移封に従って、「志田郡・大倉城」へと移り、八代領主「大條宗綱」は、元和二年 (1617) 、さらに「仙台領」南端の「宮城県亘理郡坂元」へ二千石で入部し、以降「大條氏」が「幕末」まで「坂元本郷」など四千石を領することとなった。これに伴い、「大條氏」の菩提寺であった「徳本寺」も、元和三年までに「山元町坂元白小路」に遷されたと云う。だが、困ったことに、ここからこの寺の変遷は、理解し難くなるのである。
『梁川町史』によれば、「東大枝」の「徳本寺」は、住職不在の時期を経て、寛文十年 (1670) 頃、「梁川町」の「興国寺」から「厳道和尚」を招聘して「中興」したと云うのである。問題は、この記述では、遷った先の「坂元」の寺との関係が突然曖昧になってしまうのである。何しろ、「坂元」には現在も「光明山・徳本寺」と云う同名の「曹洞宗」の寺院があり、寺の歴史の前半は、「東大枝」の「徳本寺」と共有しているのだから、『町史』の記述のままでは、混乱が生じてしまうのである。しかも、「町裏」の元の寺地はどうしたのか、重要な事実が記されていないのである。

『梁川町史』は、以下のように続ける。「厳道和尚」が元禄七年 (1694) に遷化した後、「東大枝」の「徳本寺」は「耕雲寺」を離れて「興国寺」の末寺となっている。この時、「興国寺」の「二世・快山貫益大和尚」を当寺開山とし、「国保厳道和尚」を当寺の二世と定めている。

元禄十三年 (1700) 、「松平氏」が「桑折藩主」となると、「忠尚・忠暁・忠恒」と三代に渡っての庇護を受け、当寺は隆盛の機運を示した。そして「五世・昌山和尚」の時代、「享保年間」 (1716- 1736) の後期に、「住吉古館」跡の現在地に移転し、七堂伽藍を整えた。これに関しては、檀徒「佐藤次郎左衛門家次」の力が大きかったと云う。

「徳本寺」は、「享保年間」、「米沢林泉寺 (厳山形県米沢市) 」の権限のうち、「伊達郡」北方の一宗諸寺院の「触頭役」を務め、十三ヶ寺を統轄して宗務行政を掌する寺格までになった。現在は、「松平氏」の「忠尚・忠暁」二代の位牌と、「大條氏」七代の宝珠が安置されていると云う。

一方、「坂元」の「徳本寺」の歴史を、同寺のホームページで概観すると、元和三年に「大條家」の移封により、「坂元白小路」に移転された後は、貞享二年 (1685) と安永五年 (1776) の二回、火災に遭って焼失したため、その後に現在地 (山元町坂元字寺前) に移り、今に至っていると云う。

現在、筆者の手元には、これ以上の資料がないため、二つの「徳本寺」がどのように分離成立するようになってしまったかの、有力な推論を立てる手だてがない。普通に考えれば、「坂元」移転後、領主と共に遷った寺は「坂元」で法灯を継ぎ、旧地はその後、しばらく無住で放置されてから、現地の「興国寺」の「厳道和尚」によって再興された、と云うのがありそうな筋書きである。ただし、現在の「坂元」の「徳本寺」も「興国寺」末となっており、それは何故なのか、いよいよ知る術がない。

今後は、この辺りの事情についてより正確に調査し、適宜、書き足していきたいとは思うが、次の「東北」行きはいつのことになるやら分からぬ。また、詳しいことをご存知の方がいらしたら、何とぞ御教示くださるようお願い致します。

曹洞宗
光明山・徳本寺

宮城県亘理郡山元町坂元字寺前 13
0223-38-0320

直接、行っていないので、こっちの寺の写真はない...。



5. 「住吉館」跡

秋葉神社
伊達市梁川町東大枝字住吉

徳本寺12・神社1

「秋葉神社」

「徳本寺」は、別段、「神仏混淆」の色合いを強く残している訳ではないが、寺門の外ながら、その真隣り、明らかにかつての境内域と思われる土地の高台に「秋葉神社」が祀られている。もちろん、祭神は「秋葉三尺坊大権現」で、「徳本寺」の守護神である。本来の姿である「防火」の神様としてだけでなく、ここでは「養蚕」の神様としても位置づけられているのが面白い。先ほど紹介した「巳待供養牌」を建てた人々と関係しているのだろうか。「昭和」の中頃までは、檀徒たちの間で「秋葉講」も組織されていたと云うから、生活の近代化だけでなく、「養蚕」の衰退と共に、講もなくなったのかもしれない。

もっとも、このお社が寺の守り神だと云っても、元々この地にあったのは「大條氏」の「住吉館」であったことを考えると、この神社が古ければ古いほど、本来は「徳本寺」と関係しないものなのかも知れないが、真実のほどは知らない。

また、この神社の麓に二台分の駐車スペースがあることは前にも述べたが、ここには「住吉館」の説明板が立っている。下の数文字分が剥落してしまい、はっきりと読み取れない部分もあったが、大体、次のような内容だった。

住吉館跡


台地上に築かれた平城で、土塁と水堀をめぐらせた本格的な館跡である。築城は室町時代の初めとされる。伊達郡内の平地館のなかで最も整った館であったといわれ、伊達氏の分家である大篠氏の根古屋 (住宅) として用いた場所と考えられている。のちに大篠氏の菩提寺であった徳本寺が町裏からここに移されたが、土塁・堀がよく残り県内でも当時の姿を伝える数少ない館跡である。

現地説明版より

「伊達氏の分家」とあるのは、「伊達氏・八代・宗遠」の三男、「孫三郎宗行」が、「大枝城」を築城して「大條氏」を立てたとされることによるようだ。「住吉館」は、周囲に土塁を築き、幅九メートル、周囲三百六十メートルの外堀を巡らせた本格的な城塞の体をなしている。築館年代は不明で、『信達二郡村誌』には「酒井大学と云ふ者住みたりし館跡」とあるが、通常は、「大枝城主」の平時の居館として応永年間 (1394-1428) に築かれたとされる。

土塁は東側と南西側に残っており、高さは郭内から二メートルほどはあるか。つまり、「秋葉神社」が鎮座している高台は、実はこの館の北東土塁の上と云うことになるのだ。また、北側を除く、ほぼ三方に幅五メートルほどの立派な水堀も残されている。

現在、館跡地 (徳本寺境内) の北側は、県道を通すために削り取られてしまっており、土塁も水堀も、ここだけは原形をとどめていない。しかし、県道320号と321号が分かれるY字路の内側の分離帯を見ると、そこだけが高く盛り上がっているのが分かるのだが、これが北側土塁の遺構であろう。実は、北側の水堀跡も、公民館の向い側に少しばかりあるらしいことは、後で妻から聞いた。妻はそれが水堀跡だと分かった訳ではないのだが、筆者が寺や館の遺構を訪ねて写真等を撮っている間、妻は地元猫を発見して交流を図る過程で、猫と一緒に道向こうも探索する結果となっていたようなのである。その妻が、途切れた変な池だか、用水路みたいなものがあったと云っていたのだが、おそらくそれが北側水堀の跡なのだろう。



6. 「徳本寺」の「猫」

今回の報告は、何だか分からないことが多くて、要領を得ないものになってしまった。滞在時間が少なかったのも関係したが、元々、探索予定のリストに入っていなかったものを、急遽訪れたのがいけなかったのだろう。そして、まとまりの悪さに加えて、ここに至るまで、未だに本題であるはずの「猫話」を紹介していないこともある。

そこで、以下、その「猫譚」を披瀝することにするが、困ったことに、これがまた実に呆気ないほど短い話なのである。悪しからず、お付き合いください。

「徳本寺」に、絵師が来て「涅槃図」を描いたとき、寺で飼われていた「猫」がその絵師の脇に座って、涙を流しているものだから、絵師が、お前も交ざりたいのか、と考えて、「涅槃図」の中に猫を描き入れたと云う。

参照・梁川町史編纂委員会/編 (1984) 『梁川町史』第十二巻・民俗篇 2、梁川町、p. 513

ほんと、これだけなのである (面目ない...) 。

シンプルな話だが、各地の「猫の涅槃図」のある寺に残る逸話と、ほぼ同じ内容であるのは興味深い。「京都・東福寺」に残る「兆殿司」作「大涅槃図」にも、似たような話が伝わっている。今後、各地の「猫涅槃図」の寺なども記事にしていきたいと考えているので、今回はその第一回となったのだが、記念すべき初回にしては、やや迫力不足の内容となってしまった。

ただ、今後とも、「猫涅槃図」の寺の取材は、あまり実りの豊かなものにならないのではないかと云う予感はする。何しろ、何故、猫が「涅槃図」に描かれないのかに関する有名な説話* を紹介した後は、「徳本寺」の伝承 (絵師と猫の話) とほぼ同一のストーリーを寺院ごとに紹介するだけになってしまうからである。ところによっては、言い伝えそのものがなく、ただ「猫涅槃図」を伝えているだけの寺もあるほどである。
,,* 「釈迦」の入滅に際して、天界の「摩耶婦人」が霊薬を詰めた薬壺を鼠に持たせて下界に遣わせたが、途中その鼠を猫が捕まえてしまったために霊薬は「釈迦」の下に届かず、結果、その死を食い止めることが出来なかった。そのため、猫は「釈迦」の「涅槃図」に描かれない、と云う起源譚。



7. 「猫供養」について

本当は、ここで今回の記事は終えるはずだったのだが、「徳本寺」に関しては、もう少しばかり、「猫」がらみの因縁があったことが新たに分かったので、話を延長することにした。そして、このことから、
この寺院に「猫涅槃図」が遺されているのは、もしかしたら元々、地元の「猫神」信仰と何らかの関わりがあったからではないかとも疑えるようになったのである。

どう云うことかと云うと、あれこれ調べているうちに、「徳本寺」には、「猫」の墓なるものがあると云うことを知ったのである。いや、現在も継続的にそう云うものが設けられているかは調べがついていないのだが、少なくともかつてはあったと云う話である。もちろん、「猫の墓」と云っても、近頃流行のペット霊園とかではない。昔から、この地方に伝統的に行われてきた畜生墓の習俗のことである。

「徳本寺」に見られる畜生墓は、「猫」専用ではなく、「犬猫」と双方のためものである。ただ、同じ習俗は「関東」から「福島/宮城」県境の各地にも見られ、一般には「犬供養」「犬卒塔婆」として知られている。特に「関東」では、「犬」専用と云うイメージがあるため、この珍しい習俗を知っている人でさえ、「猫」の供養もまた同様に行う地方が、「北関東」から「東北南部」にかけて広く存在することに驚かれる場合も多い。「徳本寺」の「犬猫」の供養は、そんな習俗の一例である。

ただし、「犬卒塔婆」「犬供養」について書き始めると、議論が極めて長大になるのは請け合いなので、ここでは、やがて「猫供養」へとつながる形で取りまとめたいと考えている筆者の「犬卒塔婆考」の導入となる程度の話題に少しずつ触れつつ、「徳本寺」の「猫供養 (犬供養) 」について考えてみたい。


a) 「犬卒塔婆」とは?

まず初めに、「犬卒塔婆」と云う言葉を初めて聞いたと云う方のために、便宜上、いくつか辞書的な定義を見ておくのも有意義かと思う。そこで、所与の目的に合うよう、ここでは、普段はあまり参照しない所謂「教養本」からも引用することとする。

犬卒塔婆は、「犬供養」とか「犬送り」などとも呼ぶように、多産な犬を供養して安産・子育て守護を願うものである。中国では、出産直前の妊婦が犬の肉を食べて安産を願うという習俗があったという。日本でも同じ目的で犬を殺して神に捧げる「供犠」が行なわれていたらしい。こうした宗教的儀式は、犬の霊力を認める考え方に基づくもので、犬はこの世とあの世の境界を行き来して、道案内を務めるという伝承も、そうした背景から生まれたものである。

犬卒塔婆は、二叉に分かれたY字形で、長さ七〇センチ前後の雑木の棒の側面を削って、そこに供養の「如是畜生発菩提」といった経文を書き、それを村境の路傍や川辺、墓場の入口などに挿し立てて祀る。一般に、これを立てるのは子安講の縁日が多い。

戸部民夫 (2006) 『「頼れる神様」大事典』PHP研究所、p. 164


千葉県や茨城県の利根川下流域をはじめ、栃木、福島、宮城の諸県にかけて行われる女の行事。この行事には、動物の死を弔うという性格と人間の安産を祈願するという性格とがある。福島、宮城では前者の、利根川下流域や栃木では後者の性格が強くみられる。利根川下流域では十九夜講やユサン講などの講員である若い嫁が、毎年二月から四月ころにかけて定期的に行うが、雌犬が死んだ際に臨時に行うこともある。犬卒塔婆とよぶY字形の塔婆に握飯を入れた藁苞 (わらづと) をつけて、村はずれの川や三差路まで鉦 (かね) ・太鼓で送っていき、そこに立ててくる。これは無事に子どもが生まれてくることを願う安産祈願の行事である。同時に、犬供養は犬卒塔婆を村境まで送っていって立てることから、虫送りなどと同じく、村の中の災厄を村外に送り出し、再び入ってこないようにする行事ともいえる。
『世界大百科事典』第二巻 (2007) 平凡社

最初の引用文の「中国」に関するくだりは、いかにも漠たる記述で、広い「中国」のどの辺りなのか、どんな人々なのか、しかも長い歴史の中のどの時代なのか、すべてが未確定の話であるから、慎重に読まねばならないのは言を待たないが、我が国の「犬の供犠」に関する記述も、典拠くらい欲しいところである。筆者の知る限り、女衆によって、「安産祈願」目的のためのみに「犬の供犠」が行なわれるのが、我が国の一般的な事象であるかのような記述は、定説としては受け容れ難いのだが、もしも筆者の考えが間違っていたなら、蒙を啓いて頂ければ幸いである。ただし、『世界大百科事典』の記事と合わせれば、大体のイメージをつかむのには役に立つであろう。もっとも、「千葉・茨城」の「利根川流域」では、ある村で産死者が出たときに、その村で行われる「流れ灌頂」とセットで、境界を接する村々で「犬供養」が相対する村境で行われ、順次、隣接する村々に送られていく、と云う事象については触れられていないので、ここで補っておく。

さらに、もう少しだけ基本的な知識を補足すると、「関東」から「南東北」にかけては、かつて「馬」などの家畜が死んだとき、それを葬るに当たって特殊な習俗があり、どこもかしこもと云う訳ではないのだろうけれど、かなり広い範囲で、家畜などの死体を辻や三叉路の俣、あるいは単に路傍や河原などに埋めたりしたようで、多くの場合、墓標として二股に分かれた生木の卒塔婆を立てたりしたと云うのである。「馬」の場合は、よく知られているように「馬頭観音」の石碑などを建てることもあったが、「犬」の場合は既に記した二股の卒塔婆を立てるのが専らだった。このような卒塔婆を、俗に「犬卒塔婆 *」と云うのは、このためであるとされる。

* 犬卒塔婆---家畜を供養するために、二股の木の枝をY字に伐ってつくる卒塔婆。「ザクマタ」「ザカマタ」「サンマタ」「チキショウトウバ」「フタマタトウバ」「マダガリトウバ」「マツタ木塔婆」など。「ザクマタ」系の名称が最も多く普及している気がするが、それは筆者が「千葉県・下総地方」に住んでいるからかも知れず、確証はない。大きさは一定しないが、四十センチから六十センチくらいのものが標準的である。

各地の二股塔婆の呼称について
名称使用地域例典拠 etc.
犬卒塔婆茨城県・東茨城郡・酒門村
(現・水戸市)
千葉県・印旛郡・印旛村吉高
 (現・印西市)
(高橋、1929/1930)

筆者聴取
犬塔婆千葉県印西市松山下
千葉県白井市木・所沢地区
筆者聴取
ザクマタ茨城県・真壁郡・明野町
(現・筑西市)

栃木県・芳賀郡・逆川村
(現・茂木町)
茨城県・稲敷郡・江戸崎町・戸張
(現・稲敷市江戸崎)
 (井之口、1985)

(高橋、1929/1930)

 (菱木敏子、1995)
ザグマタ千葉県成田市 (菊池、1980)
ザカマタ茨城県・新治郡・美並村
(現・かすみがうら市)
千葉県成田市
千葉県富里市高野
千葉県香取市与倉
 (寺神戸、1943)

(千葉県の歴史・民俗1)
 (広報とみさと、525号)
筆者聴取
ザガマタ千葉県成田市
大生・北須賀・吉倉・十余三
千葉県成田市赤荻
千葉県白井市富塚
(菊池、1980)

 (成田市史・民俗編)
筆者聴取
ザッカ千葉県成田市
千葉県成田市
東和泉・西和泉
(千葉県の歴史・民俗1)
(菊池、1980)
ザッガ千葉県成田市(菊池、1980)
ザッカキ茨城県かすみがうら市加茂筆者聴取
サンマタ東京 (小島、1991)
ザンマタ千葉県白井市神々廻
千葉県白井市木・所沢地区
千葉県八千代市真木野
筆者聴取
マダカリ福島県・田村郡・滝根村
(現・田村市)
 (蒲生、1949)
マダガリ塔婆青森県・三戸地方 (小井川、1947)
マツタ木塔婆福島県・伊達郡・保原町・柱田
(現・伊達市)
 (梁川町史11)
チキショウ塔婆福島県・田村郡・滝根村
(現・田村市)
 (蒲生、1949)
二叉塔婆記述用か?

用語として見ると、「犬卒塔婆」は、「犬」に限定した時の用法で、それ以外では「ザクマタ」系統か、あるいは「畜生塔婆」のような一般称が使われていることが多いようである。「二叉塔婆」は、地誌類や民俗書によく見かけるが、実際に使用しているのを筆者は聞いたことはないので、使用地域に関しては未確認である (ただし、筆者の見聞が広い訳ではない...) ため、表には入れなかった。「犬卒塔婆」と「ザクマタ」系の言葉を併用することは、「犬卒塔婆」を使用する土地では、しばしばあるようであるが、これは「ザクマタ」系の言葉が、まさに二叉に分れた形状をした木の棒を指すのに対して、「犬卒塔婆」「犬塔婆」は、「犬供養」に使用する塔婆と云う意味があるからであろう。要するに、前者の方が意味範囲が広いのである。したがって、「犬供養」の習俗はないものの、Y字形の棒や道具を表わすのに、「ザクマタ」系の言葉が使われる地域は数多い。また、「犬供養」を行う地域でも、「二叉塔婆」を指して単に「塔婆」とか「トバ」とだけ呼ぶところもある。

反対に、「ザクマタ」の語は、『日本国語大辞典』にも載っているが、用例が「長塚節」の『土』から出されているのを見れば分かるように、やはり「犬供養」優勢地域の語彙だと考えられるのである。「小島瓔禮」氏が記す「東京」の「サンマタ」の語は、逆に大抵の大きな国語辞典には載せられ、捕物などで登場する「刺股 さすまた 」と並んで、「江戸期」には既に文献に登場する語であるから、もしもこの語が見た目の通り「ザカマタ」や「ザクマタ」などの語と同根のものであるならば、
「ザカマタ」「ザクマタ」の語が、「逆股」に由来すると思うには、やや慎重な考察が要されることになりそうでる。

*

筆者が育ち、住む「千葉県」のかつての「東葛飾郡 *」地域は、「下総国」の西半分を構成し、「戦後」の高度経済成長期に急速なベッドタウン化を見せた地域のため、住民の多くは自らの系譜をこの地で辿ることは出来ない。筆者がまさに育った町は、昭和四十年代以降に急速に発達した町であり、現住する地域はそれよりやや速いが、やはり昭和三十年代に急発展した土地である。いまとなっては、地域の古老を見つけて過去のことを聞くと云うのも、なかなか難しくなっている。しかし、隣接する「印旛郡 *」地域は、主要な高速道路や鉄道網から外れてしまったため、都市開発の波及が遅れ、つい最近までは農村地帯の風情を色濃く残す地域であった。そのため、古くからの習俗なども、「東葛飾郡」「千葉郡 *」地域に比べると保存されているか、近年までされていたかする度合いが高い。

* 東葛飾郡---「千葉県」北西部。「平成の大合併」で、「関宿町」が「野田市」に、「沼南町」が「柏市」に合併されたことによって、行政区域としては平成十七年 (2007) に消滅した。「市川市・浦安市・船橋市・鎌ヶ谷市・松戸市・柏市・流山市・野田市・我孫子市」。「柏市」のうち「富勢」「風早」「沼南町」、「我孫子市」は全域が、旧「南相馬郡」。「船橋市」の東半分は「千葉郡」。「鎌ヶ谷市」のうち「軽井沢」地区は、「印旛郡」。

* 印旛郡---旧「佐倉藩領」を中心とした「千葉県」の中央北部。「佐倉市・四街道市・八街市・印西市・白井市・富里市・栄町・酒々井町」など。平成二十二年 (2010) までは、「印旛村」「本埜村」を抱えたが、同年三月末に「印西市」に編入。現在は、「栄町」「酒々井町」のみが郡域に当たる。

* 千葉郡---「千葉県」の「東京湾岸」の中央部。「習志野市・千葉市・八千代市」など。昭和四十二年 (1967) に、「八千代町」が市制移行したことによって、行政区としては消滅。

ここ数年で云うと、県内では、筆者は「印旛郡栄村」や「白井市」「印西市」の各地で、「犬卒塔婆」を度々、観察している。この地域はたまたま出掛ける機会が多いだけで、「成田市」近辺もやはり「千葉県」の「犬供養」のメッカとなっており、この地域でも「犬卒塔婆」を見かけたことは再三ならずある。その他、「佐倉市」「酒々井町」「八千代市」などでも見かけたことがある。

つい先日は、「千葉ニュータウン」のホームセンターに、我が家の猫たちの食料を仕入れに出掛けるついでに、かつて「犬卒塔婆」を目撃したことのある「白井市」の「神宮寺」及び「所沢薬師堂* 」の二箇所に立ち寄ってみたが、「神宮寺」には現在、「犬卒塔婆」は立てられていなかった。
ただし、「神宮寺」では、境内の枯れ葉を掃いていた上品な女性にお会いして、直接あれこれと尋ねることが出来た。その女性曰く、この地域の「二股塔婆」は「犬の供養」のためではなく、純粋に「安産祈願」のためのものだそうである。

* 所沢薬師堂---「印旛郡白井町」の「木」と云う土地にあり、別名「馬頭塚」とも云う。国道16号の「馬頭塚」交差点を東へと入ったすぐ右 (南) 、交番の隣りの集会所のような建物が「薬師堂」である。この東側の空き地の塀に沿って石仏群が並んでいる。車は、この空き地の東の外れのスペースに駐めることが可能。「神宮寺」は、地図上で簡単に発見出来るだろう。ただし、門前は目立たないため、車での探索時には通過してしまいやすいので注意。駐車スペースはない。

県外では、「茨城」方面で何回か「犬卒塔婆」群を目撃しているけれど、通過がてらであったことと、地元ほど地理感がよくないのとがあって、正確な位置は確認していない (ただし、「つくば市」の旧「大穂町」地域ににある「高エネルギー加速器研究機構」の裏手の三叉路に、二叉塔婆が立てられていたのは覚えている。) 。ただ、現在は「つくば市」になってしまった旧「真壁郡」の「真壁町」や「明野町」の地域では、いまだかなり盛んに「犬供養」が行なわれているようであるから、近くに行かれた時は、道端などに目を向けていると案外、簡単に見つかるかも知れぬ。ただし、車で行かれる場合は、くれぐれも安全運転を...。

所沢観音堂・ザンマタ01
「白井市木」の「所沢薬師堂」並びの「子安観音」と「ザンマタ」
前に見えるのは、昭和十八年 (1943) の「子安観音」

所沢観音堂・ザンマタ02
同上

所沢観音堂・ザンマタ03
同上

下総歴史民俗博物館
さがまた (犬供養) 」
下総歴史民俗博物館

ちなみに、「下総地域」は、いわゆる「犬供養」「犬卒塔婆」の風習が、比較的色濃く残った地域であり、「印旛郡」や「香取郡」ではしばしば見かけることがあるのは、すでに見た通りである。ただ、これらのものは臨時の墓標のようなもので、材質も木なものだから、それほど永続的に立てられているものではないため、ここに行けば必ず見られるよ、と云った場所は、博物館以外にはない。実際には路傍に立つ実物を見たくても、これはある程度やむを得ない。その代わり、「下総歴史民俗博物館」や「県立・房総のむら」などで展示が見られるはずである。あるいは、「房総のむら」のある「栄町・龍角寺」の付近なら、ちょっと探せば、わりと野辺や路傍でも見つけることが出来るかも知れない。

房総のむら
犬供養
「藁苞」は「ツトッコ」と云い、お供えのお握りなどを入れ、子供に振る舞う
県立・房総のむら


b) 本当に「犬」で、本当に「卒塔婆」か? 

さて、簡単な説明を済ませたところで、話を進めると、この「犬卒塔婆」と「犬供養」は、各地においてそのヴァリエーションがあり、必ずしも事典類のように簡単にひとまとめに出来る性質のものではない、と云う事実を認識しておくことから議論を開始したい。

そもそも、「犬卒塔婆」あるいは「犬塔婆」と民俗学関係者に呼ばれる「二叉」に分かれた「木の棒」自体は、「犬供養」と必ずしも関係することなく、各地に存在するのである。それらの習俗の特徴を概観すると、おおよそ、1) 畜類の死に関わるもの、2) 妊産婦及び嬰児の死に間接的に関わるもの、3) 人の弔い上げ (最終年忌) に関わるもの、そして 4) 「庚申信仰」に関わるもの、と云う四つの類型に分けることが出来るように思われる (この他の事例もさらに探せばあるかも知れぬが、現在筆者が把握しているのは、この四つですべてである) 。一方、懸案の「犬供養」との関わりの中で、まず第一に関連づけられるのは、当然ながら、畜類の死に関わる事象である。そして、今回の記事では、この「畜類の死に関わるもの」以外には、取り敢えず触れないでおくこととし、他のものについては、別の機会をうかがうこととする。

民俗学の父、「柳田國男」がその慧眼で「犬卒塔婆」の民俗的な重要性を察知したときも、この「畜類の死に関わるもの」と云う側面のみ強調している。これは、当時の民俗学者一般には、他の習俗が知られていなかったと云う事情があるのである意味当たり前なのであるが、筆者としてはやはり残念ではある。もしも「柳田」が、上記の 2) ~ 4) の習俗をすべて「犬卒塔婆」と関連づけて考えていたならば、どんな結論を導き出したものか、今となっては決して聞くことは出来ないからである。しかも、「柳田」は「畜類の死」全般ではなく、「犬の死」についてのみ情報を得ていたため、「犬供養」を狭義に捉えてしまったのは重ね重ね惜しいことであった。

「柳田」は、「犬そとばの件」の中で、「しかし不審に思はれることの一つは、家畜の中でも猫や飼鳥、又は牛馬の為には立てるといふ話をまだ聴かない。何か犬だけに限つてさうしなければならぬわけがあるのか」と記して、慎重な姿勢を維持しつつ、結果的には「動物供養」全般と云う性格を見落としてしまい、さらには疑いを抱きつつも、この地域での「犬供養」の基本性格である「安産祈願」を極めて重視して論を展開したのは、おそらく彼の調査した地と云うのが「関東」、しかも「利根川下流域」に止まったからなのではないかと思われる。何しろ、この地では「二叉塔婆」を立てる習俗は、圧倒的に「犬供養」の側面が優勢し、しかも「安産祈願」と密接に結びつけられて行なわれているので、それに目を引かれるのはやむを得ないことだったと云えるのである。

*

しかし、何と云っても、「民俗学」における「犬卒塔婆」「犬供養」の考察は、事実上、「柳田國男」の「犬そとばの件」 (1947) から開始されたと云える。確かに「柳田」に先だって、「水野葉舟」「榎戸貞治郎」「蒲生明」などが、『民間伝承』誌に「犬卒塔婆」に触れる文を寄せているが、どれも簡単な報告に止まり、その考察に筆が及んでいるとは言い難い。したがって、筆者は「柳田國男」を「犬卒塔婆」論の嚆矢とするのに何の躊躇いもない。そこで、まずは「柳田」自身の「犬卒塔婆」の把握と理解を、以下、本人の文章を抜粋して示すこととしたい。

犬そとばといふのは、さきが二叉に岐れた二尺ばかりの木の棒で、通例はその一側面を削り白めて、ソトバらしい供養の文句が書いてあり、今まで見たところでは、路の傍の土に突き挿したものが多かつた。 (中略) 斯ういふやゝ手数のかゝる工作と行事を、たゞ何と無くするといふことは有り得ない上に、木だから忘れてしまふほどは長く残らず、従つて近所の人ならば、皆理由をまだ記憶して居るだらう。今までに私がきいて居るのは、犬が死んだので憫んで供養をしてやつたのだといひ、現に木の表面の文字には、如是畜生発菩提心と書いてあるのも見た。

柳田國男 (1947) 「犬そとばの件」
柳田國男 (1998) 『柳田國男全集』第二十巻、筑摩書房、pp. 34-35

「柳田」が、「犬そとば」を立てるきっかけを単に「犬の死」としているのは、「或はどの犬でもといふわけでも無く、難産で死んだ母犬の為といふ話もあるが、是も合点の行かぬことは、犬は元来産の至つて軽いものといひ、 (中略) その犬の難産といふのは、ごく稀な筈だが、実際は、犬そとばは可なりそちこちに立つて居り、又一箇所に何十本を立てゝある例も私は知つてゐる」と述べ、「犬の産死」説は事実上、却下している。筆者も、これは当然なことと思う。

これに対して「柳田」は、「何の為に又どういふ場合に、誰が犬そとばを立てゝ行くのか」と云う問いを中心に据え、「之を立てる日は多くの者が集り、それは専ら婦人であり、しかも壮年の主婦や嫁が多く、普通は子安講といふ信仰団体に属して居る」と述べ、「犬そとば」を立てることが「子安信仰」と深く関わっていることを指摘した上で、それが故に、もしも「子安信仰」と関わらない事例を二三でも挙げられれば、「犬そとば」を巡る信仰の本質を比較検討するに当たって、非常に大きな意味を持つことになるだろうと云っている。問題は、この後も、どうやら「
子安信仰』 と関わらない事例は、「柳田」の下にあまり集まらなかったようだ、と云うことである。

最終的に、「柳田」は、「関東北部」の「子安様」が「地蔵でも観音でも無く純然たる日本の上臈姿をして、緑児を抱かれて居る」ことを受け、「中央の記録の上には、さう大きな痕を遺して居ない信仰でも、可なり遠い昔から連続して、今なほ民間に伝はるものが、有るといふこと」を明らかにしていきたいのだと、自らの企図を語っている。とくに「犬そとば」に関しては、それが一般の「卒塔婆」の原型の姿を遺しているのではないかと考え、だからこそ、その根底にある精神を追求していくことの大切さを唱えているのである。

残念でならないのは、「柳田」は「犬そとばの件」で上記のような重要な提起をしておきながら、それ以降、「犬そとば」に関して特にこれと云った論考を発表していないことである。特に、「柳田」の呼びかけに応ずる形で、「犬」以外の情報は少なかったにせよ、それなりに多くの情報が寄せられるようになった中で、何故、「柳田」自身が沈黙を守ったのかは謎である。

情報が少なかったとは云え、その後の資料の集まり具合から推して、「犬そとば」を立てると云う習俗が、専ら「犬の死」や「安産祈願」にのみ由来するものではないと云う事実も知り得たはずの「柳田」が、それを元に新たな考えを開陳しなかったことは不思議である。少し穿ったものの見方をすれば、「犬そとば」の考察が、やがて「最終年忌塔婆」へとつながり、それが「柳田」の目指す「祖霊信仰」の根幹を揺るがす可能性を秘めていることに、当人がいち早く気づいたため、極めて慎重に経緯を見守っていたのではないかとさえ思えるのだが、このことに関しては、また別の機会で述べることとしよう。

もっとも、「柳田」の議論の本筋とは違うことかもしれぬが、彼が「犬そとば」が「犬の産死」を機に行なわれることを本質視せず、また「犬ばかり特に産が軽いやうに伝へられる」ことに対しても、何かしら因縁があるのではないかと捉えたのは流石である、と筆者は思っている。今では、「千葉県」の「犬供養」は、ほとんどその「動物供養」としての性格は失い、祭祀を伝承する人々はそれを純粋に「安産祈願」のためのものだと考えているようである。しかし、これは「千葉・茨城」の「利根川流域」の人々の間で、「犬供養」が「十九夜信仰」や「子安信仰」と習合した結果と思われる。「犬卒塔婆」を立てる地域の分布と、それぞれの地域での伝承内容を鑑みると、やはり「犬」のみに限定されぬ「動物供養」の性格の方が、「安産祈願」に先行するものと考えられる。

このことに関しては、「
岩田重則」氏が、簡潔に以下のようにまとめている。

犬供養の分布には二つのパターンがある。すでに見たように、東北地方の犬塔婆は犬だけではなく他の動物も含め、その死をめぐる動物供養としての性格が強いが (茨城県・栃木県北部も同様の傾向がある) 、関東地方の場合には子安講・遊山講・念仏講などの女人講が主催し動物供養のみならず安産祈願としての性格が強い。 (中略) 仮にこれら二つのパターンを東北地方型 (動物供養型) と関東地方型 (動物供養・安産祈願型) と呼んでおくとすると、双方の犬塔婆地域に普遍的に存在しているのは動物供養であり、関東地方型の女人講の主催や安産祈願はこの地域の独自の分布であるので、動物供養のみの東北地方型の方を犬塔婆の原初的形態であると考えることができる。

岩田重則 (2003) 『墓の民俗学』吉川弘文館、p. 195


*

筆者はまた、「犬卒塔婆」「犬供養」についてあれこれ考える過程で、そこに見られる畜類の供養をする特殊な葬法と云うのが、「犬」の供養だけにとどまらないと云う事実に、
まず何よりも興味をそそられたのであった。「小島瓔禮」氏の「馬頭観音以前のこと」 (1991) によれば、「関東」から「南東北」にかけては、かつて「馬」などの家畜が死んだときにも、それを葬るに当たって特殊な習俗があったことが知られていると云う。どこもかしこもと云う訳ではないのだろうけれど、かなり広い範囲で、家畜などの死体を辻や三叉路の俣、あるいは単に路傍や河原など、「日常」の生活の境界域をなす場所に埋めたりしたようで、多くの場合、標として二叉に分かれた生木の卒塔婆を立てたと云うのである (小島、1991) 。

ただ、「東北地方」に多く見られる「馬」の供養の場合、その供養の「年忌」明けのときには「馬頭観音」の石碑や石塔などを建てることが多いことから、「二叉卒塔婆」を立てると云う、後代に残らぬ営為の方は、どうしても印象が薄くなってしまうのである。一方、「関東」に優勢する「犬」の供養の場合は、二叉の卒塔婆を立てるのが専らで、「弔い上げ」に石碑などを建てることはないので、それだけ特殊な形をした卒塔婆の印象が、見たものの記憶に残りやすいのだろう。もちろん、首都に近いと云う地理的な条件も、学会での認知の高さに貢献しただろうことは疑い得ない。

また、地方によっては、「馬」や「犬」以外の動物の場合にも、この二叉の塔婆を立てる土地がある。要するに、このような卒塔婆を、広く「犬卒塔婆 *」と云うのは、どうにも不自然なのだが、初めにこれに興味を抱いた民俗探求者たちが、たまたま「千葉・茨城」の「利根川」沿いに優勢する「犬供養」の習俗の中で考察を開始したため、いつの間にか、「犬」を冠するのが通例となってしまっただけなのである。したがって、「犬卒塔婆」の探求をしようとするとき、我々が最も気をつけなければならないことの一つが、実は、「犬」に気を取られ過ぎないと云うことなのである。

このような問題意識を持って、以下、「犬卒塔婆」の分布とその祭儀の内容に基づいて、大まかにその地域的な特性を分類すると、次のようになる。

分布型県名Y字塔婆の呼称祭祀の対象祭祀の性格
東北型福島・宮城マタガリ・畜生塔婆系馬 (牛) ・猫・犬動物供養
関東型茨城・千葉ザクマタ・ザカマタ系犬・産婦安産祈願 (動物供養)

*

さらに筆者は、この手の「Y字形の卒塔婆」が、地域によっては、人間の葬送や供養のとき――例えば、三十三年とか五十年目のお弔い上げの節目などのとき――にも立てられると云う事実から判断して、それが元は「犬」などの動物のためのものとは限らなかったのではないかと考えている。何しろ、「犬」の葬り方を、人の大切な区切りの供養のときに適用すると云うのは、いくら何でも考えにくいからである。したがって、「犬卒塔婆」の名称も、実際には別の意味があるか、あるいは別の語源があるか、どちらかなのではないかと疑っている。ましてや、人のお弔い上げだけでなく、「馬」や、この後見るように「猫」などにも使われるのだから、少なくとも「犬」と云う名を冠しているのは、何らかの後世の付会であろうと思われる。



c) 旧「犬卒都婆村」についての覚書
 ~最も「犬」らしくとも、「犬」とは限らない可能性~

白石市・犬卒塔婆
「白石市白川」の「犬卒都婆」
http://plaza.rakuten.co.jp/areasommelier06/diary/200908130000/より

「宮城県白石市」には、「犬卒都婆」と云う地名がある。民俗学者の「谷川健一」によると、「そこには高さ五尺、横三尺五寸の石があって、それを犬卒塔婆と呼んでいたのが、後に地名にもなったのだという」。それは、「岩の上」と云う場所で良犬を飼っていたが、死んだので、そこに石碑を建てて供養したことに因んだと云う『安永風土記』の説明によるらしい (谷川、1998、p. 134) 。残念ながら、筆者の力不足で、いまだ『安永風土記』の原文を見ること能わずにいるので、話にこれ以上の詳細があるのかどうかについては、調べがついていないが、他の地誌類で確認した限り、どうやらこれで全てのようではある。ちなみに、「岩の上」とは一般的な名詞ではなく、正式な地名の「字」だそうである。

面白いことに、この伝説には、別伝もある。『宮城縣史 民俗 3』 (1956、p. 236) に載る、その別伝の概略を以下に記すこととする。

「嵯峨天皇」の御代、頸に二階枝の松を生やした年を経た大猪が現れ、「京」の人々を脅かした。「小野篁」は、勅命を受けてこれを追い、「会津磐梯山」まで至って、「番二」「番三郎」と云う「マタギ」の兄弟に遭遇し、二人に加勢を命ずる。兄弟は畏まって、大きな白犬をつれて猪を追跡し、「蔵王」山麓に追い込めることに成功する。白犬が大猪と大格闘を展開する中、兄弟は一矢ずつ射込んで、ついに猪をしとめた。しかし、この闘いで白犬も重症を負って死に、その供養のために塔婆が建てられたと云う。

参照・宮城縣 (1956) 『宮城縣史 民俗 3』宮城県史刊行会、p. 236

上の二つの伝説は、比較すると色々と面白いことが見えてくる。どちらの伝説も、一般に単なる石碑を「卒塔婆」あるいは「塔婆」と称することが非常に稀であると云う点で、「犬卒塔婆」と云う地名の起源譚としては、舌足らずの観は否めない、と云うのが第一点である。さらには、双方を比べると、特に目立つのが第一の伝説からの「猪」の不在である。この二つの話が、表面的な類似は勿論のこととして、基本的に同系統のものであると云えるのは、この「猪」のモチーフの欠落がそのまま話の筋の上での違いを説明しているからである。後者の伝承には「狩猟」のイメージがあるのに対して、前者にはないと云う点を除けば、大筋に置いて両者は同一の伝説なのである。

一般的に、言い伝えなどは、妙に長い方が後世の所作であることが多い。そして、上記の例でも概ねそうだと云えそうである。ただし、一見、短い方は、長い方の退化した類型だと見られやすいのも事実である。「犬卒塔婆」の二つの伝説で云うならば、「狩猟」と「猪」のモチーフを第一モチーフ、「犬」の埋葬のモチーフを第二モチーフとしよう。その場合、第二モチーフだけでは話から明らかな筋がなくなってしまうので、第一モチーフが欠落してしまう積極的な理由がここには見当たらないのである。欠落する必然性がないのに、欠落していると云うことは、元からその部分はなかったところへ、話の筋がはっきりしないので、細部を後から付加えた可能性が高いと筆者は考えている。

ただ、第一モチーフにしても、「良犬」と云う語が引っかかる。もしも、仮にこの起源譚が古い民俗に根差しているならば、それを伝承した民衆が「良犬」と云うおよそ口語的とは云えない漢語を言い伝えの中に遺したかどうか、と云う疑問が浮かぶのである。この「良犬」と云う用語は、しかも「谷川」氏個人に由来するものではないようで、「谷川」氏の著作に先立つ他の地誌類を見ても「良犬」と記述しているものが多い。これは、いよいよ不自然である。「良犬」の音が「猟犬」に通ずるだけに、この不自然さは見逃せない。

「犬」、特に「白い犬」が、人の苦難を助けた末に死に、人々が供養のために塚を築いた、と云うプロットの「犬塚」伝承は、細部こそ違っても、全国各地に存在する。ここ、「犬卒都婆」の伝承も、そう云った物語群の一つだと理解することは出来るのだが、それにしては大切な人々の苦難のモチーフが伝承の一つから完全に欠けているのは変である。

もう一つ筆者が気になることに、第一モチーフに登場した「猪」がある。「イノ」と「イヌ」は、古来、民俗的には相通ずるものがあり、共にまた「井の」と云う意味を潜在させる事例があることも知られている。「リョウ犬」と云う語の音が、一般的に「良犬」よりも「猟犬」を喚起すると云う感想を筆者は持っているのだが、そうなると、「狩猟」と「猪」のイメージを有していた第一のモチーフも、あながち捨てられない、と云うことになる。

いずれにせよ、「犬卒都婆」と云う地名の「犬」は、単純に動物の「イヌ」のことだと決めつけてしまうには、いまだ多くの疑問が残されていると云える。しかも、「白石市」と云うのは、いわゆる「犬卒塔婆」文化圏で云えば、一番北の外縁にあり、この地域はすでに見たように「馬」の供養と云う側面が強調される地域でもある。

結局、「犬供養」の民俗の「東北型」「関東型」や、「白石市犬卒都婆」にまつわる二つの地名起源譚をひっくるめても、すべてに共通するのは「死」のイメージだけである。したがって、筆者は「犬卒都婆」の地名の起源について、未だに正確に推論するには至っていないのだが、少なくとも単純に「イヌ」と関わるものではなかろうと予感している。

*

繰り返しになるが、筆者は、この地の言い伝えが、「馬」の供養のためにY字形の木を立てる習俗のある地域の真っただ中で語られていることに対して、ことさらに興味を覚えている。しかも、「犬卒都婆」自体は石碑であり、二叉の木ではないのである。要するに「犬卒都婆」と 云う言葉も、二叉の木も、必然的には互いに結びつくものではなさそうなのである。敢えて云えば、第二の地名起源譚に、二叉の角が生えたと思しき怪異の 「猪」が登場するのが、わずかばかり「二叉」とのつながりを見せているだけである。

ただ、「白石市犬卒都婆」の地はそうでないとしても、実際に「犬卒塔婆」を立てる習俗が残っている地域の人々の多くが、死んだ犬の供養のために立てるのだ、と説明するのもまた事実である。特に、難産で死んだ「犬」を供養するためだとする地域は多い。いずれの場合でも、 「犬」はお産が軽いため、それにあやかって供養するのだと説明するのが一般的である。確かに、妊婦は「戌の日」に「岩田帯」を巻いたり、安産の神様として知られる 「水天宮」が「戌の日」にお祭りを行なったりする事実はあるが、実際には我々の身の回りの動物でお産が軽いものは、「犬」以外にもいくらでもいることを考えると、「犬」が人と近しい関係にあると云う要素を考慮しても、やはり「犬」にだけ安産の願いをかけるのは、「謎の習俗」だとさえ云える。

そこで「犬卒塔婆」そのものでなく、その立てられる場所にもう一度目を向けると、辻や三つ辻、路傍や河原などに葬られたり、供養されたりするのは、やはり家畜や犬猫だけではないことが分かってくる。かなり広い地域で、死産あるいは早死にした子供や、胞衣などが埋められる習俗があったとも聞かれる。
「二叉塔婆」や、それに類似する塔婆 (あるいは枝や棒) を立てるのもまた、「馬」や「犬猫」のためだけとは限らず、人の弔い上げの時や、「庚申塔」との絡みで立てられることもあると云う。

したがって、今後の筆者の考察の方向は、一つ「犬卒都婆」の地名に限らず、「犬供養」や「犬卒塔婆」と、それらに関わる様々な習俗とのつながりを見ていくことに力点が置かれていくと思うのだが、その出だしとしての結節点が「死」のイメージのみであることは、改めて肝に銘じておかねばなるまいと感じている。

*

ちなみに、「犬卒塔婆」と云う地名は、「谷川」氏も、『角川日本地名大辞典』も、「犬卒塔婆」と表記するが、「国土地理院」の地図では「犬卒都婆」とある。筆者としてはどちらでもよいのだが、気になる人のために念のために記した。


c) もう一つの徳本寺の犬供養

本稿を終りにする前に、表題である「徳本寺」がらみの話題を二つ、付け足しておこう。

「岩崎敏夫」の編集した『東北民俗資料集 (三) 』の中に、「阿部和郎」氏の「弔いあげの風習について」と云う章があるが、その冒頭に「亘理郡山元町坂元」の習俗を紹介している。そこでは、この地域では人の最終年忌には、「スギボトケ」と云う「二又塔婆」に類似する「梢付き塔婆」を立てることや、「牛・馬の供養の為として股木の塔婆を建てる」ことが記されている。後者は何の木でも構わないが、「坂元」では「栗」の木が多いと云う。「馬頭観音碑の前、三又路、わかれ道などに多く建てられ、地元ではマッタギといっている」とも述べている。

この「
山元町坂元」と云うのは、「曹洞宗・徳本寺」のある町であるのは、本稿の前半に記した通りである。分裂した「徳本寺」のいずれの所在地にも「二又塔婆」を立てる「動物供養」の習俗があるのは、近接する地域同士の、ただの習俗的な類似性によるものなのか、あるいは双方に、お寺を介した何らかの関係があるのか、現段階では何も分からない。

ただ、「
山元町坂元」では、「二又塔婆」は専ら「牛馬」のために立てると記述されているが、「梁川町東大枝」では、「犬猫」の供養にも立てると云う違いはある。また、「梁川町」では、「牛馬」供養の塔婆は三叉路や辻などに立てたが、決してその動物の埋葬地には立てなかったそうなのだが、「犬猫」の塔婆は、埋葬地と供養地が一致することもあり得たようである。一方、「山元町坂元」の方は、「牛馬」の埋葬場所と塔婆を建てる場所に関しては記述がないが、隣接する「山元町真庭」では埋葬地と供養地に区別をつけていない旨が書かれている。


d) 「徳本寺」および「梁川町」の「猫供養」

ちなみに、折角だから、「梁川町」各地域における「犬猫」の供養に関して、「町史」に従って、紹介しておこう。「山舟生」では、「犬猫」を旧墓地内に埋めたと云い、また、平野部では「五十沢」の「安禅寺」前や、「東大枝」の「徳本寺」墓地内に埋葬したと云う。しかし、「新田」地域では、特に「猫」をY字路に埋めると「町史」が強調して書いているのは、非常に興味深い。何故なら、「町史」は、「新田」におけるこの「猫の葬法」は、「古い葬り方が残った」ものと考えているからである。

「梁川町」や、その他「東北」の各地では、「牛馬」の供養をする地が多いのだが、伝統的な意味でいうならば、本来は「馬」の供養しかしなかった。それは、「東北地方」が元々、「西日本」の「牛」文化圏と鋭い対照を見せる「馬」文化圏であったことから、近年まで「牛」を飼養する農家などなかったからである。逆に、「明治」以降、「牛」を飼うことも増えてくると、従来の「馬」の供養に準じて「牛」の供養も行われるようになったと云う事情が知られている。

それでは、もし「梁川」地域で、「猫」をY字路に埋めて「二叉塔婆」を立てるのが古式ならば、「犬卒塔婆」と「犬供養」に対する一般的な認識としての、「犬」に対する供養の上に「猫」の供養が後に乗っかったと云う考え方とはまるで裏腹に、少なくとも「梁川」では「猫」の供養が「犬」の供養に先立つ可能性も出てくる。実際、「徳本寺」の「犬猫」の供養に関して地元の人 (たまたまお盆で展墓に来ていた人々) に質問をすると、「犬」よりは「猫」を強調する雰囲気が感じられたものである。

「茨城県」の北部 (那珂郡を中心とする) や、「栃木県」の一部で「猫供養」が優勢な地域が存在するのも、あるいは「犬供養」から派生した異態なのではなく、むしろある種の古態を遺した習俗なのかも知れないし、そうでなくとも、同様の民俗的な想像力に支えられているが、元々は互いに自律した別個の習俗だったのかも知れぬ。

いずれにせよ、「伊達市」の「梁川」地域では、取り敢えずは「犬」も「猫」も、供養の塔婆は二股の木で作ったものを使用することが知れたのは、今回の訪問の大きな収穫であった。そして、これらの塔婆を建てる際には、股木を削って寺に持参し、僧侶に経文を書いて拝んでもらうと云う。「五十沢」では、三叉路に立てられた「マッタギ」を通行人が見かけると、二つに割ったと云うが、その理由は「町史」には記されていない。「徳本寺」墓地内にも、「犬猫」供養の「マッタギ」は立てられたそうだが、筆者の聞いた限りでは、二つに割ると云う習俗は、近年はなかったようである。
これは、「利根川下流域」の「犬供養」が、実際には「産婦の死」と連動した「厄送り」として行なわれている気配が濃厚なことを考え合わせると、亡くなった「産婦」自身の供養の為に行なわれる「流れ灌頂」が、四本の竹の間に白い布を張って、通行人に柄杓で水をかけてもらうと云う習俗と通底するものが感じられる。

*

今回の「猫供養」 (実際にはほとんど「犬供養」) の項は、まとまりに欠け、支離滅裂になってしまった観がある。しかも、ここでこの項を終りにするのであるから、なおさらである。書きたいことは沢山あるのだが、そうなると各方面に手を伸ばさねばならなくなるので、ここで一旦、区切りを付けることにしたのである。

とは云え、この項を終わるに当たって、筆者は『梁川町史』の 当該解説箇所の文言を借りて、今後の議論の方向性だけは示しておくこととする。

実はこの二叉塔婆は、人間の場合にも三十三回忌や五十回忌の弔い上げの時に立てられるところがあり、犬猫の塔婆と共通するのは大変興味深い。人の場合弔い上げ後は人の霊が神になるというが、山で山の神をまつる木がまた二叉、三叉の木であるのもどこかでつながっているのであろう。そういえば犬猫の供養をするのもY字二叉になった道のところである。道の神の道祖神が、道路のそばやこうしたY字の場でまつられるのも辻、Y字のところが神や霊の止まる場と意識されて来たからであろう。

梁川町史編纂委員会/編 (1981) 『梁川町史』第十一巻・民俗篇 1、梁川町、p.708



8. おわりに

「徳本寺」訪問の後、筆者らは、天気の回復を祈りつつ、次なる探索地の「玉川村」へと向かうこととなった。この「玉川村」探索に関しては、既に順番を破ってブログに載せているので、御高覧頂けると幸いである。

また、「犬供養」「犬卒塔婆」に関しては、前回記事までにやや詳しく述べてきた「ハヤマ信仰」や「祖霊信仰」とも、非常に深い位相で批判的に関わってくるので、今後とも、機会を見つけて議論和していきたいと思う。そのことが、最終的には我が国にかすかにしか残存を許されなかった「猫神」たちの、根幹的な性格に接近するのにも大きく役立つと思われるからである。

と云う訳で、今回は、ここまで。そして、長らく続いた「福島の猫神」シリーズは、ここでいったん区切ることとします。そして、次回からは、いよいよ懸案の「長野編」に突入します!!


「徳本寺」の地図は、こちら


参考文献


A. 主要文献
・中川英右 (1900) 『信達二郡村誌』
    福島県史料集成編纂委員会/編 (1953) 『福島県史料集成』第五輯、福島県史料集成刊行会
・梁川町史編纂委員会/編 (1981) 『梁川町史』第十一巻・民俗篇 1、梁川町
・梁川町史編纂委員会/編 (1984) 『梁川町史』第十二巻・民俗篇 2、梁川町

・梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻、梁川町

B. 地誌類
・猪股幸次郎/編 (1925) 『宮城県亘理郡坂元村誌』自刊
・宮城縣 (1956) 『宮城縣史』民俗 3、宮城県史刊行会
・文京区役所/編 (1981) 『文京区史』第二版・第四巻、文京区
・成田市史編纂委員会/編 (1982) 『成田市史』民俗編、成田市
・山武町史編纂委員会/編 (1988) 『山武町史』通史編、山武町
・印旛村史編纂委員会/編 (1990) 『印旛村史』通史 2、印旛村
九十九里町誌編集委員会/編 (1992) 『九十九里町誌』各論篇・下巻、九十九里町長
・千葉県史料研究財団/編 (1999) 『千葉県の歴史』別編・民俗 1、千葉県


C. 辞典類
大塚民俗学会/編 (1972) 『日本民俗事典』弘文堂
・石上堅/編 (1983) 『日本民俗語大辞典』桜楓社
・市川彰 (1995) 「安産祈願に猫供養をするのは何故」
 
石塚真/編 (1995) 『茨城県の不思議事典』新人物往来社
・新谷尚紀・関沢まゆみ/編 (2005) 『民俗小事典 死と葬送』
・加藤周一ら/編 (2007) 『世界大百科事典』改訂新版・第二巻、平凡社

D. 広報
・富里市総務部企画課/編 (1999) 「富里の石造物」
 『広報とみさと』平成十一年 (1999) 九月号・No.525、富里市
・菱木敏子 (1995) 「戸張の犬供養
 江戸崎小学校PTA会報誌『しろやま』平成七年 (1995) 十二月号

E. その他 (「犬卒塔婆」関係)

・高橋勝利 (1929) 「覺え書」
 高橋勝利ら/編 (1929) 『芳賀郡土俗研究会報』第三號、芳賀郡土俗研究會
・高橋勝利 (1930) 「覺え書き (二) 」
 高橋勝利ら/編 (1929) 『芳賀郡土俗研究会報』第四號、芳賀郡土俗研究會
・蒲生明 (1949) 『畜生トウバの事』
 民間承の會/編 (1949) 『民間傳承』第十三卷・一號、自刊
・石原誠 (1949) 「下總成田附近の犬供養」
 民間承の會/編 (1949) 『民間承』第十三卷・一號、自刊
・三谷栄一 (1950) 『日本文学の民俗学的研究』有精堂
・井之口章次 (1954) 『仏教以前』民俗選書、古今書院

・大森義憲 (1972) 「犬卒塔婆とおほんだれ及び門入道」
 日本民俗学会/編 (1972) 『日本民俗学』第七十九号、自刊
・藤田稔/編 (1973) 『日本の民俗 8・茨城』第一法規
・大木卓 (1975) 『猫の民俗学』田畑書店

・井之口章次
(1977) 『日本の葬式』筑摩書房
菊池健策 (1977) 「卒論発表要旨・犬供養の民俗学的考察」
 
日本民俗学会/編 (1977) 『日本民俗学』第百十一号、自刊
・内野久美子 (1978) 「七里法華と子安講」
 
日本仏教研究会/編 (1978) 『日本仏教』第四十五号、自刊
・菊池健策 (1979) 「犬供養の研究 (一) 」
 大塚民俗学会/編 (1979) 『民俗学評論』第十七号、自刊
菊池健策 (1980) 「犬供養と産死供養」
 
成田市立図書館/編 (1980) 『成田市史研究』第七巻、成田市教育委員会
・永野忠一 (1982) 『猫と日本人』習俗同攻会
・井之口章次 (1985) 『筑波山麓の村』名著出版
・赤坂六郎 (1985) 「印旛沼周辺の石仏」
 日本石仏協会/編 (1985) 『日本の石仏』夏・第三十四号、自刊
・永野忠一 (1986) 『猫の民俗誌』習俗同攻会
 小島瓔禮編/編著 (1991) 『人・他界・馬』東京美術
・勝又俊実/編 (1988) 『学習院民俗』第四号、学習院大学民俗研究会
・小島瓔禮 (1991) 「馬頭観音以前のこと
 小島瓔禮編/編 (1991) 『人・他界・馬』東京美術
・大和田正広 (1997) 「那珂郡美和村民俗調査報告」
 茨城高校史学部/編 (2002) 『茨城の民俗』自刊
・谷川健一 (1998) 『続・日本の地名』岩波新書
・白井市民俗文化財調査会/編 (2003) 『白井市の民俗 1』白井市教育委員会
・岩田重則 (2003) 『墓の民俗学』吉川弘文館


 HOME 

プロフィール

clubey

Author:clubey
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。