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愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」中編

.26 2012 中部地方 comment(0) trackback(0)
糟目犬頭神社
岡崎市宮地町馬場 31
 
犬頭神社・唐猫
「糟目犬頭神社」の「唐猫」
たくきよしみつ (2008) 『狛犬かがみ』バナナブックスより
撮影「liondog」氏
 
1. はじめに

「糟目犬頭神社」の「唐猫」を巡って、筆者が多くの考察をするに至ったきっかけは単純なものである。それは、このシリーズの構成を御覧頂ければ一目瞭然であるように、「糟目犬頭神社」と比較的近距離に当たる「名古屋市中区上前津 (大須) 」に、かつて「おからねこ」と呼ばれた神社が存在した、と云う一点の事実によっている。一見、何ら共通するもののないこれら二つの「唐猫」の間に、始源的には何かしらの関係があったのではないか、と云うのが筆者の疑問の始まりだったのである。何しろ、「唐猫」と云う言葉自体が、全国的に見ても極めて珍しいだけに、「尾張」と「三河」の目と鼻の先で、その珍しい語が二つも残っていること、しかも神社の信仰物の一種として残されていることを単なる偶然とは考えられなかったのである。

そもそも、現代の「狛犬」の源泉が本来は「獅子」であることは、その外観がいわゆる「唐獅子」と何ら変わらないことからも、同様の造形物が「沖縄」では「獅子さん」が転訛した「シーサー」と呼ばれていることからも、かなり明らかではある。したがって、「狛犬」が、「獅子」を介して、「ネコ科」の動物と縁が深いことは先刻承知ではあった。しかし、それは飽くまでも「獅子」を介してであり、どこまで「猫」そのものと縁があるのかは、まったくの未知数であった。敢えて云えば、「唐猫」と云う語が、具体的な造形物と共に残っていると云う意味では、我が国で最も顕著な「唐猫」文化圏を形成する「長野県」において、多くの場合、「唐猫」とは「狛犬」あるいは「唐獅子」様のものを指していると云う事実から、「唐猫」は「唐獅子」からの転用に発するのではないかと疑わせる節があると云う程度のつながりであった。

したがって、これだけの材料では、「上前津」の「おからねこ」と「糟目犬頭神社」の「唐猫」を直接結びつけるのには、やや無理があり、やはり、当初推論していたように、「長野」方面の「唐猫」文化圏が、それと接する現在の「愛知県」地方に、語彙の上で影響したと考えるのが妥当なのではないかとも思われた。しかし、「唐猫」の語彙が、「鹿児島・宮崎」を重点地域として、わずかだが「九州地方」に残存していること (しかも「狛犬」を主に指す) 、「東北」の一部でやはり「唐猫」の語彙が残っていること (「狛犬」ではなく、特定の毛並みの猫を指す) なども鑑みると、「唐猫」文化を解釈するときに、「長野」のみを中心に据えて考察することの非合理性も念頭に入れておかねばならない。何故なら、かつて、「唐猫」文化が、「東北」から「薩南諸島」北部にまで至る、より大きな広がりを持っていたことが、残存する用法・方言の分布からも明らかだからである。

こんなジレンマを抱える中、筆者は視点を変えて、マクロな視座からの考察が行き詰まったならば、より考察範囲を限定して、その中でのより具体的な事象からのつながりを模索すると云う手法に切り替えることにした。その中で浮上してきたのが、「糟目犬頭神社」の「犬頭」伝説だったのである。「上前津」の「おからねこ」に関しては、ほとんど史料が残されていない中、かつて「狛犬」の首だけが祭られていたと云う記述が古書にあることを考え合わせると、「唐猫」と云う珍しい語彙を伝える近接地域の二つの神社に、共に霊獣の頭部に対する信仰と云うやはり極めて珍しい信仰があった、と云う事実を筆者は重視したのである。

もちろん、一方は「唐猫」で、一方は「犬」ではないか、と云う反論はされうるだろう。しかし、それは伝説のみを見た場合の反論であって、そもそも議論がここに至った出発点に戻れば、「糟目犬頭神社」に「唐猫」と呼ばれる「狛犬」があるところから筆者の探究が開始されたのであり、「三河・尾張」の北側に隣接する「長野」地域で、「唐獅子・狛犬」様の造形物を「唐猫」と呼ぶのだから、このような反論がまるで無効なのは御理解頂けるだろう。

そこで筆者の考察は、次のような二つ方向に向けられた。

1. 各地の、特に「三河・尾張」地域の「犬頭」伝説を整理すること
2. 霊獣の頭部に対する信仰について整理すること

その過程で、1. に関しては、それが「唐猫」の語彙とどのような時代的接点があるのかを、ある程度明確にする必要性は感じた。そうでなければ、やはり「唐猫」と「 (狛) 犬」を無闇に混同していると云う誹りを受けやすいと云うこともあったが、より正確には、「糟目犬頭神社」の「唐猫」を、「狛犬」の歴史的な発達史の中で位置づけることで、この地方での「唐猫」の用語法の歴史的な下限が明らかにされ、「上前津」の「おからねこ」信仰の終焉時期を考察するに当たって有益だと考えたからでもある。この時代性がある程度明らかになれば、それを巡る背景もまた探りやすくなるのは言うまでもないし、何よりも、民俗学や比較民話学がしばしば批判される根拠となる、時代やその背景を無視して、文化的な断片を乱暴に比較すると云う手法に全面的に拠らないで済むと云うのは大きい。

また、1. の探究は、必然的に筆者をさらに二つの方向に導いてくれた。それは「三河」地域の「犬頭」伝説には二つの系統があると云う単純な理由による。詳しくは、前回記事に記したが、一つは「飛犬頭」伝説であり、一つは「犬頭糸」伝説である。しかも、一部の神社で、この二つの伝承は交錯することも判明した。

その上で云うならば、「糟目犬頭神社」にあって、現在は「飛犬頭」伝説が採用され、多くの書籍などでも紹介されているが、この神社の「飛犬頭」伝説は、歴史的に極めて不安定な足跡を残しており、その考察には注意が必要だとさえ云える。一方、「三河地方」に見られる「犬頭糸」伝説も、それが「平安末期」の『今昔物語集』に既に現在の形で載せられているため、歴史的に安定した伝承だと考えられがちだが、調べていくと、それにしては伝承母体となる神社が、「岡崎市大和町字宮地」と「豊川市千両」と云うやや離れた地に別々に残されていること (この距離は「上前津」の「おからねこ」から「糟目犬頭神社」までの距離と大体同じ) や、およそ百七十年前 (天保期) の地元の国学者による社伝調査の時には、「千両」の「犬頭神社」には「犬頭糸」伝説はまったくなく、別の「金の糞をひる犬」系統の由来譚が語られていたこと、他方の「桑子」の「犬頭神社」には「大正期」より遡る古い記録がまったくなく、しかも口碑で伝えられる伝説が『今昔物語集』のものとはやや異なるなど、いずれにしても不安定な歴史があることが明らかになった。

しかし、「犬頭糸」伝承を伝える二つの「犬頭神社」に関しては、共に『今昔物語集』の「犬頭糸」説話には含まれていない、「犬頭石 (瘧石) 」の伝承と云う、ほとんど同一の伝えを有していることも分かった。これは本文で見ていくように、我が国の西南地域に多く分布する「金の糞をひる犬」説話、 その中でも特に珍しい「金の糞をひる猫」の説話などとも深い縁戚関係が想定されうるものであり、「天保年間」に「千両」にて語られていた「金の糞をひる犬」の話が、はるかに古い『今昔物語集』の説話の上に、その時代に新たに付加されたものではない可能性を示唆していて、極めて興味深いのである。

「犬頭糸」の語そのものに関しては、『延喜式』にも記され、既に何度も言及しているように『今昔物語集』にその由来譚が載せられていることから、その由来が自明のものとして受け容れられる傾向が強い。しかし、『今昔物語集』の説話は、ある意味では「犬頭糸」の名前をあとづけで説明した内容になっているとも云え、必ずしもその起源を確定するほどの説得力ある内容になっている訳ではない。筆者は、この点により注意を払って、「犬頭糸」と「犬頭神社」を巡る諸伝承を比較検討して、それが「金の糞をひる犬」譚と、極めて深い層でつながっているものだと考えるに至った。

したがって、今回以降の記事の大まかな構成は、以下のようなものになる。

1. 「糟目犬頭神社」の「唐猫」を巡る時代的な位置づけ
2. 「飛犬頭」伝説を巡る諸伝説の検討
3. 「犬の頭」の霊威の古層の探究
4. 「獅子頭」そのものに対する信仰の考察

そして、記事の長さを鑑みて、今回は、上の2. までの議論を扱い、3. 以降は、次回の記事に譲ることとしたい。
 
*
 
記事の構成上、「糟目犬頭神社」の「唐猫」の時代性を確認する次節のみが、孤立した感があるのは否めない。先に記して、御寛恕を乞うておきたい。



2. 「石造狛犬」小考 —「犬頭神社」の「唐猫」を巡って—

さて、後編を始めるに当たって、本題の「唐猫」の石像について、もう一度簡単に見てみよう...などと云っても、実際にはこの遺物について確実に分かっていることは極めて少なく、書けることとてほとんどない。大体、非公開の「社殿」内に据えられているため、一般には目にすることも出来ないのだから、直接訪問したからとて、「唐猫」目当ての訪問者には、これと云った収穫もない神社なのである。

したがって、この「唐猫」像に関して筆者が知っている具体的なことは、『新編・岡崎市史 17・美術工芸』に記された解説の範囲を一切越えるものではない。要するに、この像の腹部に「奉寄進 石唐猫  慶長十乙巳六月吉日 市川猪兵衛正重」と五十九文字の銘文が刻まれていること、そのことから、その制作年が慶長十年 (1605) だと分かること、奉納者の名前、奉納者が初めから正式にこの一対の石造物を「唐猫」と呼んでいたこと、などを知っているだけである。『新編・岡崎市史 17』は、その解説で、「よく見ると滑稽といえるので、狛犬でなく唐猫を表現しているのがよく表れている」と記すが、なぜ滑稽だと「唐猫」なのかの説明がない限り、この解説は微塵ほども価値はない。同様に、狛犬研究の第一人者「上杉千郷」氏は、「糟目犬頭神社」の「唐猫」について、「この狛犬は『獅子』や『犬』というより、『猫』に近いものだったのかもしれません。これは、白山狛犬* の外見のイメージとかなり重なるのではないでしょうか」 (上杉、2008; 95) と述べているが、これもまたまるで無根拠な印象の記述に過ぎない。似ているのは大きさくらいで、おかっぱ頭のような鬣 たてがみ のある「猫」など筆者は見たことも聞いたこともない。まったく重要ならざる議論なので目くじらを立てるほどのことではないが、「市史」が郷土史研究に占める重要性や、それが有する権威、あるいは「上杉」氏のような優れた研究家の持つ影響力を考えた場合、これからの研究者や論者は、あまりに主観的で根拠のない記述と、そうでない部分を明確に書き分けてくれることを、筆者は強く願っている。
 
* 「上杉」氏は、筆者が「たくき」氏説に従って「越前禿狛犬」と呼ぶものをこのように呼ぶ。
 
この「唐猫」と呼ばれる石造文化財は、高さ二十センチほどの、現代の「石造狛犬」と比べると、かなり小さなものなのだが、「狛犬」全体の歴史を振り返るならば、これは決して例外的なものではない。「狛犬」と云うものは、元々は宮殿や社殿の屋内に奉祭されていたものであるため、古いものは、その像容も小さいと云うことが知られている。

我が国の「石造狛犬」の起源については、しばしば、建久七年 (1196) 制作の「東大寺南大門」の像が挙げられるが、こちらは「犬頭神社」のものとは打って変わって、かなり大きい。国家的な規模の大改修の目玉の一つとして制作されたモニュメントだけに、この「石像獅子」一対は、東側のもので高さは約百八十センチ、西側でも百六十センチほどある。東西とも口を開けており、我が国「狛犬」の伝統的な「阿吽」スタイルは見られない。また、石材は中国からの直輸入で、しかも制作は、宋人石工たちによると云うことが『東大寺造立供養記』によって知られている。したがって、この一対の石像は、正確に云えば「狛犬」ではなく、いまだ中国直伝の「獅子像」と呼ぶべきものである。また、この像は、よほど後世になるまで、その像容を模倣されることもほとんどなく、そう云った意味では、「中世」以降、少しずつ増えていった「石造狛犬」の形成にさほどの影響を与えたとは考えられていない。
  
しかし、「狛犬」の歴史に特別な興味を抱いていなければ、「狛犬」ではなく「獅子」だなどと云われても、どちらも同じものではないのか、と不思議に思われることだろう。確かに、現在、我が国で「狛犬」と呼ばれている造形物は、神社の参道入口などに据えられる一対の「獅子」様の動物をかたどった石像のことを指していると云っても過言ではなかろう。しかし、多くの狛犬研究家・愛好家たちが明らかにしてきているように、現在、神社で見る「石造狛犬」は、我が国の「狛犬」の歴史の中で見た場合、実は極めて新しく誕生し、かつ普及した形態・様式なのである。

独自のスタンスの「狛犬」研究で知られる「三遊亭円丈」師匠は、現在最も普及している神社参道に見られる「狛犬」のタイプを「参道狛犬」と呼ぶことを提唱し (三遊亭、1995) 、愛好家たちの間で一定の普及を見ている。筆者もまた、この呼称を採用したい。
  
白山比咩神社・木造狛犬
「白山比咩神社」ホームページより
平安末期・国重要文化財
吽像の前頂部に角を矧いだ跡がある。
 
「参道狛犬」以前となると、誰が提唱したのかは定かではないのだが、「狛犬」がより小型で、寺社のお堂や社殿内に奉祭されていたことから「神殿狛犬」と云う呼び名が定着している。このタイプの「狛犬」は、その起源を九世紀から十世紀くらいまで遡ることが出来るとされ、初めは宮中で、天皇や后妃たちを守護する珍獣として祭られていたものだとされる。
 
大宝神社・狛犬
「大宝神社・狛犬」
鎌倉時代・国重要文化財
 
しかも、古い時代には、この一対の神獣は、実は「獅子」と「狛犬」と云う、異なる霊獣の組合わせからなっていたことが知られており、実際、古くは「獅子・狛犬」と並称されることが多かったのである。角の有無や金銀 (黄白) の体色など、造形や彩色も、「獅子」と「狛犬」で古くは異なっていたのだが、両者の区別が曖昧になってゆくにしたがって、そのような区別も重視されなくなっていったのである。以前、このブログで採り上げた、「長野県東筑摩郡山形村」に鎮座する「建部神社」の「唐猫さま」は、明らかにこのタイプの「狛犬」であった。
 
建部神社・唐猫
 「建部神社・唐猫さま」
撮影者「古川敏夫」氏より提供

このように高貴な出自を持つ「神殿狛犬」は、本来は木造が基本で、専門の仏師たちによって彫刻され、漆を塗られた上に金銀の箔を張って、彩色を施した豪華なものであったとされる。しかし、後には、陶製のものや、金属製のもの、そしてやがては少数ながら石造りのものも登場してくるのである。

この石造の「神殿狛犬」が、「近世」以降、全国に広まった「参道狛犬」の祖先に当たるのは間違いない。しかし、その関係がどの程度近縁のものかは、なかなか確定しづらい。「石造狛犬」の古い作例の中には、その像容が、極めて個性的でかつ地方色に富み、神社参道に一対で置かれていなかったならば、現代人の目には「狛犬」だとすら分からないのではないかと思われるほど、稚拙な姿をしているものもある。このような初期の「参道狛犬」と、伝統的な意味で芸術性の高い姿を誇り、それ故に一定の表現的類型に収まっている「神殿狛犬」とを、単純に時系列的に結びつけるのには、筆者はどうしても躊躇いを感じずにはいられないのである。

一方、数は少ないが、「南北朝期」まで遡る「石造狛犬」も存在する。そして、それらの多くは、文化財指定などを受けている「木造狛犬」類と同系統の意匠を、より単純化したような姿をしているのである。要するに、古い「石造狛犬」に関しては、すべてのものを一つの時系列的な発展史の中に括ろうとすると、より古く「南北朝期」にまで遡るものは洗練された技巧を示すものが多く、より後代の「安土桃山」あるいは「近世初期」頃のものの方が稚拙な造りをしているものがほとんどだと云う、明らかに矛盾する現象が起きてしまうのである。

「狛犬ネット」を主宰する「たくきよしみつ (鐸木能光) 」氏は、この筆者の疑問に対して、極めて明快に、「現在の参道狛犬を生んだルーツが神殿狛犬だけかというと、そうではない。神殿狛犬とはまったく違う出発点を持つと考えられるもうひとつの系譜がある (たくき、2006; 23) 」と唱えている。氏は、このような「狛犬」は、権力者の奉納によった前代までの「神殿狛犬」と異なり、庶民の奉納に発していると見た上で、次のように非常に重要な論点を二つ提示している。
 
宮中や格式の高い神社の神殿内に上がれる貴族や武家の支配者層とは違って、庶民や地方の村石工は狛犬を実際に見たことがない。宮中には「こまいぬ」というものがあるらしいという話が伝わってきたとしても、手本にする作品を目にすることはできなかった。その結果、石工の数だけユニークな狛犬が誕生することになる。
 
また、次第に獅子・狛犬という呼び方が消えて、両方まとめて「狛犬」と呼ばれるようになっていった。そのせいだろうか、庶民が奉納した初期形の狛犬は、獅子には似ても似つかず、むしろ「犬」を模している。また、獅子はライオンで実在の動物だが、当時の日本では誰も生きているライオンを見たことはないから、狛犬同様に想像上の動物だった。いずれにせよ空想するしかなく、獅子・狛犬の区別が曖昧になっていったのは自然なことだろう。
 
たくきよしみつ (2006) 『狛犬かがみ』バナナブックス、p. 24
 
このような「神殿狛犬」とは系統を微妙に異にする初期の「参道狛犬」を、「三遊亭円丈」師匠は「江戸はじめ」と呼び、「たくき」氏はよりシンプルに「はじめ狛犬」と呼んでいる。この初期型の「参道狛犬」の分布は、地域も時代も、必ずしも「江戸」に限定されない、と云うのが主な理由である。筆者も、「たくき」氏に倣って「はじめ狛犬」と云う呼名を踏襲していきたい。

ただ、「はじめ狛犬」と云っても、その年代を特定するのは非常に難しい。まず注意したいのは、古い「石造狛犬」でも、形態上、「神殿狛犬」の系譜に属するものは「はじめ狛犬」には数えないと云うことである。このタイプの代表例としては、「鎌倉時代」の制作と伝えられ、国の重要文化財にも指定されている「京都府宮津市」に鎮座する「籠神社」の「狛犬」* や、その近隣で発見された「高森神社」や「藤社神社」のものが挙げられるだろう (共に南北朝期) 。また、人によっては「東大寺南大門」の「石造獅子」を「我が国最古の狛犬」などと謳うものもあるが、これが当たらないことは既に見た通りである。
 
* 「籠神社」の「狛犬」に関しては、以前から、一部の研究者から「鎌倉時代」制作説を疑問視する声が上がっている。古くは狛犬研究の先駆者の一人、「橋本萬平」氏によって「風雨の激しい山陰の地で、石造狛犬が六〇〇年余りの寿命を保ち得るかどうか、いささか疑問に思っている」と述べ (橋本、1985) 、「藤倉郁子」氏は、その著『狛犬』 (1995) の中で実証的な根拠を提示して、同様の見解を示しながらも、次著『狛犬の歴史』では「参道狛犬の走りになったと思われる」と述べて、説明抜きで見解を転じている。近年では、ネット上で「liondog」氏が、「雪舟」の『天橋立図』や『成相寺参詣曼荼羅』など、十五世紀から十六世紀にかけての絵画作品に描かれた「籠神社」風景の中に「狛犬」が描かれていないこと挙げて、この「狛犬」の「鎌倉時代」制作説に、説得力のある疑義を唱えている (「狛犬雑感 17」) 。一方、「ねずてつや (小寺慶昭) 」氏は、これら懐疑説に対して、真っ向から反論している (ねず、1994) 。こちらも、なかなか面白い。
 
それでは、「はじめ狛犬」とはどんなものなのか。

具体的な「はじめ狛犬」の遺物から判断する限り、このタイプの「狛犬」の出現と普及は、やはり十七世紀を中心とした時期に起きたと判断してよさそうなのだが、現在、最古の「はじめ狛犬」とされる「山梨県市川三郷町」の「熊野神社」の「狛犬」には、 腹部に応永十二年 (1405) 二月の銘が刻まれており、時代的に一つだけ突出している。この他にも、「岐阜県高山市」の「賀茂神社」の「狛犬」は、「弘仁年間 (810-824) 」に造られたものと謳われているが、これはいくら何でも設定が古すぎる。「たくき」氏は、この「狛犬」は十七世紀の作品だと推測しており、どんなに早くとも1500年代の制作だろうと述べている (たくき、2006; 27) 。

「三遊亭円丈」師匠も、このタイプの草創期は、 1600年頃からだと考えているようである。ただ、「たくき」氏は、「はじめ狛犬」類の年代について「時代的には江戸中期くらいまでが多いようですが、『江戸』や『浪花』の狛犬を知らなかった地方の石工たちは、江戸時代後期に入っても、まだこうしたはじめタイプを造ることがあった」と述べ (狛犬分類学 2) 、その制作された年代が、地域によって広く拡散していることを指摘している。

不明確で茫洋としつつも、大雑把な年代のイメージが描けたところで、ついでに「はじめ狛犬」の形態的な特徴についても確認しておこう。そして、このことに関しては、そもそも「はじめ狛犬」の名前を提唱した「たくき」氏の見解をそのまま紹介することとする。
 
顔の特徴

1) 彫りが浅い。
2) 巻き毛や牙などの「パーツ」が少ない。
3) 鼻や目が小ぶりで、あまり怖くない。

 
からだの特徴
1) 全体に小ぶり。
2) 渦巻き模様など装飾的な要素が少なく、平板。
3) 前脚の間をくり抜いていないものも多い。

4) 尾も目立たず、ほとんどないものもある。

 
『狛犬ネット』「狛犬分類学 2・はじめ」
 
筆者としては、これに敢えて付け足すならば、「はじめ狛犬」の中でも初期のものは、蹲踞した姿勢ではなく、大概は四つん這いに近い硬直したポーズをとっている、と云う特徴を挙げておこう。もちろん、造った石工自体は、蹲踞のつもりだったかは分からない。
 
*
 
さて、この辺りで、ようやく「糟目犬頭神社」の「唐猫」に話を戻すことが出来る。問題は、「糟目犬頭神社」の「唐猫」が、「狛犬」の歴史の中で、どのような位置を占めるのか、と云うことであろう。幸い、この「唐猫」一対は、慶長十年 (1605) と云う制作年代がはっきりとしている。しかし、慶長十年と云えば、「江戸時代」の最初期であるが、はたして、この時期は「石造狛犬」の造られた年代としては古いのだろうか、新しいのだろうか。
 
糟目犬頭神社・唐猫
「糟目犬頭神社」の「唐猫」
『新編岡崎市史 17・美術・工芸編』より
 
既に触れたように、「石造狛犬」と云うのは、「江戸期」に入ってから普及した「参道狛犬」の一大特徴ではある。しかし、「石造」の「狛犬」は、それ以前の「神殿狛犬」の時代から存在している。例えば、「京丹後市」の「高森神社」には、文和四年 (1355) と云う「南北朝期」の刻銘のある「石造狛犬」が収蔵されている。近くの「峰山町」の「藤社神社」にも「南北朝期」の「狛犬」がある (ねず、1994; 176) と云うが、これらはいずれも小型の「神殿狛犬」で、「高森神社」のものを見る限り、形態の上でも木造の「神殿狛犬」の系譜を引くもののようである*。この他、「和歌山県伊都郡九度山町」の「河根丹生神社」や「和歌山市津秦」の「薬徳寺」などの「狛犬」も、それぞれに応永二十六年 (1419) 、長禄三年 (1459) の銘があるが、どちらも像容は小さく、やはり屋内の「神殿狛犬」だったと推測される (金沢、1975 / 黒田、2005) 。
 
* 現在、「京丹後市」がネット公開している映像は、斜め上方からの撮影であるため、この「狛犬」の形態上の特徴が分かりにくくなっている。「藤倉郁子」氏の『狛犬の歴史』186頁の画像の方が、全体の意匠が分かり易い。 
 
したがって、これらの「狛犬」と比較した場合、「糟目犬頭神社」の「唐猫」は、極めて古いとは云えない。ただ、「糟目犬頭神社」の「唐猫」は、上記の「南北朝期」の「狛犬」たちのように、「石造参道狛犬」の発展史から先行、孤立して存在するものではなく、連続して先行すると云う点で際立っているのである。さらには、「糟目犬頭神社」の「唐猫」を、「狛犬」の発展史上、特異なものとしているのは、それが「越前青石」とも云われる、「福井」の「笏谷石」を材料とし、その形態の上からも、「たくき」氏が「越前禿狛犬」と呼ぶ、極めて特殊なグループに属する石造物だと云うことなのである。

そもそも、「笏谷石」と云うのは、「福井市足羽山」付近で採取される「火山礫凝灰岩」のことで、肌理細やかでやや灰青緑色を呈した色合いの良さに加え、軟らかく細工がしやすいことから、かつては「三国湊」を出る「北前船」に積まれて遠く「蝦夷地」まで、石材として運ばれたと云う。ついでながら記しておくと、「笏谷石」と云う名称は、石の産出地の旧地名 (現在は足羽四丁目付近) に由来すると云われている。
 
「越前禿狛犬」の作例
白山神社・禿
「白山比咩神社・越前禿狛犬」
上杉千郷 (2001) 『狛犬事典』より
弘前八幡宮・狛犬jpg
「弘前八幡宮」寛文四年 (1664)
『狛犬ネット』「狛犬分類学 4・越前禿」
「たくきよしみつ」氏のサイト!!
劔之宮王子神社・兵庫県加西市西剣坂町
「劔之宮王子神社」加西市西剣坂町
ブログ『神社のある風景』より
ここのブログは、写真が美しい!!
串茶屋資料館・狛犬
「串茶屋資料館」
ブログ『加賀日和』「おかっぱ頭の狛犬、白山狛犬」より
「串茶屋」に遊郭があった時代、遊女らが「正八幡神社」に寄進したもの
 
このタイプの「狛犬」の名前に関しては、過去に多くの呼名が提唱され、かなり混乱している。「橋本萬平」氏は、その著『狛犬をさがして』の中で、「笏谷石」製の「狛犬」は「越前」の「三国湊」から「北前船」に乗せられて運ばれたことから、「三国湊狛犬」と呼ぶことを提唱した。「関西」の狛犬研究家「小寺慶昭 (ねずてつや) 」氏は、「越前」の研究者がこのタイプの狛犬を「白山狛犬」と呼んでいたことを紹介している。これらの名前に対し、単純に「笏谷石狛犬」と呼んだり、「越前狛犬」と呼んだりする人々もいる。「たくきよしみつ」氏は、「『白山狛犬』は、白山神社とこの狛犬の結びつきが今ひとつはっきりしませんし、『三国湊狛犬』というのも、あまりにも地名が限定的」だとして、その「特徴的な頭部と生産地から、『越前禿狛犬』と名づけて」いる。これについても、筆者は「越前禿狛犬」の呼称を踏襲する*。
 
* 近年、地元「福井県」の研究家・愛好家の間から、地域興しを兼ねて、この独特の「狛犬」を「越前狛犬」と呼ぼうとする動きが高まっている。今年 (2012) の十月七日に「福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会」主催で開かれた「越前狛犬—その特徴と地方進出について—」と云う講演会などが好例である。これは、しかし、ようやく「たくき」氏の「越前禿」で落ち着きつつあった名称問題をいたずらに混乱させるだけでなく、そもそも「越前」には「禿」以外の「狛犬」の方が多いのだから、総称的に「越前狛犬」と呼ぶのは、厳密な命名法上の観点からも好ましくないと云う点で問題である。「笏谷石狛犬」と云う呼称に対しては、このタイプの「狛犬」の代表例の一つである、「白山比咩神社・宝物館」収蔵の一体は、「笏谷石」製ではなく、また、より後の時代の新しいスタイルの「狛犬」も「笏谷石」で造られた物は多く存際するため、やはり総称としては普遍性がない。

ちなみに、インターネット上で「獅子」あるいは「狛犬」などについて数々の秀逸な議論を展開している「liondog」氏は、「越前禿狛犬」を「越前古式狛犬」と呼び、その他、後世のものを「越前新式狛犬」と呼び分けている。この卓越した所説も捨て難かったのだが、これだと、近年「福井」の地元グループ「市民まちづくりゼミナール」などが「越前狛犬」と云う総称を提唱しつつ、それをさらに「禿型」「しぼり出し型」「新式」の三つのサブ形式に分類していることと対応させた場合、「古式」と「新式」の分かれ目が混沌としてしまう問題があるため、筆者としては「越前禿狛犬」と云う呼び方に賛同したのである。

この地元グループの三分類は、そのまま使えば整合性の高いものと思えなくもないのだが、上位形式名として「越前狛犬」を設定している辺りに、地域興しの狙いが、学究的な誠意に優先され、無闇に呼称上の分類を複雑にしていると云う点で共感出来ない。また、三分類における「しぼり出し型」と「新式」の形式的な区別についても、いまだ曖昧な点が目立ち、筆者の個人的見解としては、これら二つの分類はほぼ同一のものと思われる、と云うのも筆者がこの分類に賛同出来ない理由の一つである。

要するに、「たくき」氏の命名には、地域分類上の用語と視覚的な特徴を表わす用語が過不足なく簡潔に籠められており、「liondog」氏の命名法は、分類上の整合性と云う点で極めて優れているのである。にも関わらず、後者の場合は、最近の地元グループなどによる地域興し願望を優先させた、混乱した三分類と命名が部分的に被ってしまうために、その有用性を発揮出来なくなってしまっているのは、残念な限りである。
 
ところで、この「越前禿狛犬」の特異性は、その姿形だけにある訳ではない。このタイプの「狛犬」は小さいものが多く、現存する遺物の祭祀例などを鑑みると、元々は「社殿狛犬」として屋内で祭られていたものと推測されるのである。それが、「越前禿狛犬」でも、やや後世の作例になると、像容も少しずつ大型化し、次第に「参道狛犬」へと転じていった跡が、はっきりと見て取れると云う意味で、極めて重要な「狛犬」群を成しているのである。

「糟目犬頭神社」の「唐猫」は、「越前禿狛犬」のうち、制作年代の分かっているものの中では、実は最も初期のものなのである。このタイプの古い遺物としては、「京都府福知山市 (旧・大江町) 」の「豊受神社」にある「越前禿狛犬」があり、元和七年 (1621) と刻銘されている。「弘前市」には、三体の同系統の「狛犬」が残されるが、いずれも寛文四年 (1664) と刻まれている。「大阪府守口市」の「津嶋部神社」にある「越前禿」には、慶長十三年 (1608) 紀年名があると云う (奈良文化財同好会、1999) 。

「たくきよしみつ」氏は、1600年代と云うのが、「越前禿狛犬」にとって、どのくらいに古い年代なのかを次のように説明している。
 
加賀百万石で知られる米所・加賀藩は、大阪で毎年七万石以上の米を売りさばいていましたが、瀬戸内海と関門海峡を経た日本海側の航路を使って米を運ぶのに初めて成功したのは寛永十六年 (1639) とされています。後に、幕府がこれに倣って、河村瑞賢に命じて出羽国の米を大阪へ運ばせるのに成功したのが寛文十二年 (1672) 。これが有名な「北前船」の始まりです。つまり、大江町や岡崎市にある越前禿型狛犬は、公式な北前船航路開通以前に運ばれたことになるのです。これがまず驚くべきことのひとつ。
 
次に、関東地方最古の狛犬とされるのが日光東照宮奥の宮参道にいる狛犬で、寛永十三年 (1636) の建立。橋本万平さんは、これが狛犬が参道に設置されるようになった始まりで、それを知った江戸の庶民が、自分たちの町の神社、先祖ゆかりの神社に狛犬を奉納するようになったという説を唱えたことがあります。しかし、慶長年間や元和年間の禿狛犬の存在は、その橋本説に疑問を投げかけています。
 
越前禿型狛犬は、もともとは木造の神殿狛犬を石で造ったと思われます。つまり、最初は屋外ではなく、社殿内に置かれていたのかもしれません。しかし、発注しているのは地方の武士や豪族でしょうから、庶民がまったく目にすることがなかったとも考えにくく、その意味では宮中や有名神社の奥深くにあった神殿狛犬とは違うでしょう。神殿狛犬と参道狛犬を結ぶ貴重なリングの役割を果たしていると考えられま
す。
 
たくきよしみつ『狛犬ネット』
「狛犬分類学 4・越前禿」より
 
要するに、「糟目犬頭神社」の「唐猫」と、その五年後の慶長十五年 (1610) に奉納された「狛犬」は、その両者が「笏谷石製」の「越前禿」型であること、その設置場所が屋内か、覆い屋の下であること、後者が前者に比べて大型化していることなど、一つの神社の中にあって「石造狛犬」がどのように「参道狛犬」へと変化したかの過渡的な過程をそのまま内在化させて保存していると云う点で、「参道狛犬」の発展史上、刮目すべき存在なのである。

筆者は、もちろん「狛犬」の発展史そのものを論じようとしているのではなく、「糟目犬頭神社」の小型石造「狛犬」が、「唐猫」と呼ばれていると云う事実に興味を抱いているのは自明のことだが、そのような興味関心から見ても、この「唐猫」が「石造狛犬」の発展の歴史過程の中にあって、かなり特異な位置にあることは、極めて興味深い事実なのである。

要するに、「糟目犬頭神社」の「唐猫」像は、同社に奉納されたもう一対の「越前禿」方の「駒犬」と併せて考えた時、以下の事実を明らかにしてくれるのである。

1. 「唐猫」と云う言葉自体が、慶長五年時点の「岡崎」で、現に使用されていたことが分かる。
2. 「唐猫」と云う言葉が、「石造狛犬」を指すのに使われていたことが分かる。
3. 同じ場所で、同じ物を指すのに、慶長五年から同十年の間に、言葉が「唐猫」から「駒犬」に変わっていることが分かる。

特に第三点に関しては、「糟目犬頭神社」所蔵の慶長五年奉納の「唐猫」一対と、同十年に奉納された「駒犬」一対は、その石材の産地も同一で、その造形の様式にも連続した共通性が見られ、しかも時代も五年しか隔たっていないのだから、「唐猫」と云う言葉に代わって、「コマイヌ」と云う言葉が一般化していく時期を、ほぼ正確に我々に示していると云う点で極めて重要な論点だと云えるのである。

「狛犬 こまいぬ 」と云う言葉自体、「慶長期」頃にいきなり我が国語に普及したものではなく、「平安」の古きから、特定の様式を持った「獅子」様の造形物を指す語として、中央貴族らに使用されていることが知られている以上、ここでは「唐猫」の方が地域的・局地的な特殊性を有しているものと判断して間違いはなかろう。ただ、今回の一連の記事とは別に、本ブログの他の「唐猫」関係記事でも見てきた通り、現在の我が国にも、「東北地方」や「鹿児島」周辺などを中心に「からねこ」と云う方言は残されており、特に「鹿児島」周辺では、「からねこ」が「狛犬」を指す語として近年まで使われてきたと云う事実がある。そのため、「尾張・愛知」地域で、「中世末期」の頃に、「唐猫」と云う言葉が、特定の対象
特に「獅子・狛犬」系の造形物—を指す言葉として使用されていたと仮定出来たとしても、それが現代の方言地図における「からねこ」の分布にどの程度直接関わってくるかに関して、筆者は言及しようとは思っていない。

いずれにしても、「三河・尾張地方」で「唐猫」の語彙が、衰退していったのが「近世初期」の慶長年間だったとするならば、「上前津」の「おからねこ」の信仰の形成は、少なくともそれ以前だったと考えるのが妥当である。今後は、この時代的な枠組を念頭において、この地域での「狛犬の頭」、すなわち「獅子頭」に対する信仰の有無を探っていくことになる。

ただし、その前に、「糟目犬頭神社」の縁起の中心をなす「飛犬頭」伝説を巡る諸伝説を考察することを通して、我が国においてこれらの伝説が、「犬の忠義」ではなく、「犬の霊威」、特に「犬の頭部の霊威」に語りの中心があることを見ておくこととしたい。しかも、それはそのまま、「上前津」の「おからねこ」と「糟目犬頭神社」のつながりを明らかにする作業でもある。



3. 「おからねこ」とのつながり —「犬の頭」の霊威について—
 
おから猫04
『尾張名陽図会』挿絵 (拡大) の「おからねこ」
 
「名古屋市中区・上前津」の「おからねこ」は、「猫の神様」と云う伝承を持ちつつも、その由来をほぼ失ってしまっているために、現在は、神社側から、明治四十二年 (1909) に新たに創り出された「大直禰子神社」と云う社名と、「記紀」から写し取っただけの由緒を被せられ、その「おから猫」伝承に終止符を打たれようとしていることは、前々回記事で見た通りである。

そんな状況の中、「おからねこ」と「猫」との結びつきを手繰ってゆく唯一の便りは、『尾張名陽図会』にある「狛犬=唐猫」転化説だけなのである。ただ、『尾張名陽図会』は文政期 (19C初) の成立とは云え、「おからねこ」について記した最古の文献であることは軽視されるべきではなく、天保期 (19C前半) までに成立した『作物志』も、戯文ながら、「おからねこ」を「猫」扱いしていることは忘れてはならない。何故なら、この二つの事実は、十九世紀の初頭にあってなお、「上前津」の「おからねこ」は「猫」として意識されていたことを意味するからであり、またその裏には「狛犬」のイメージが介在していることも明らかにされるからである*。
 
* 『作物志』における「背に数株の草木を生」じ、神社境内に「わだかまりて寸歩も動かず、一声も吼ず、風雨も避けず、 寒暑を恐れ」ぬ「猫」の如き「異獣」と云うのが、「狛犬」の謂いであるのは明らかである。
 
以上が、『尾張名陽図会』の記す転化説の強みなのだが、その他にも、「名古屋」近郊の「岡崎市」に鎮座する「糟目犬頭神社」の「狛犬」が「唐猫」と呼ばれている事実は、この説の信憑性を高らしめている。しかも、「おからねこ」の伝えでは、「からねこ」の「頭部」が非常に重要なモチーフとなっているが、これは「岡崎・糟目犬頭神社」を始めとする「三河の犬頭神社」群の「犬頭」のイメージ性ともつながるのである。要するに、「上前津」の「おからねこ」は、一見したよりも、「糟目犬頭神社」の「唐猫」との接点が多いと云えそうなのである。


A. 「糟目犬頭神社」縁起、再訪


前回の記事で、この「糟目犬頭神社」の由緒について、既に軽く触れたが、ここからはその歴史的な成立過程を意識して、より本格的にその来し方を概観していこうと思う。まずは、「尾張藩」の「天野信景」が著した『塩尻』巻二十八に記されている縁起から見てみよう (巻五十七にも同様の記事あり) 。
 
上和田村に首犬頭神の祠あり。傳へいふ、和田某晝寢せし時、近池の大蛇これを呑んとはひよりけるを、手飼の犬彼蛇をふせぎあれわたりしに、和田氏目をさまし、己れをあやまつと思ひ犬を切ころしけり。後其事をしり悔て、犬頭を捨てし所に祠を立まつりし社といふ。
 
天野信景 (c. 1705) 『鹽尻』卷二十八、寳永年間
日本随筆大成編輯部/編 (1977) 『日本随筆大成・第三期 14』吉川弘文館、pp.86-87
 
『塩尻』以降の文献では、「糟目犬頭神社」縁起譚に登場するのは、「和田氏」ではなく、「大久保氏」の支族「宇津氏」と云うことになっている。これは縁起の変遷と云うよりは、単純に「和田城主」を「和田氏」と見なした「天野信景」の誤りと思われ、後の「大久保氏」の祖「宇都宮氏・宇都氏・宇津氏」とするのが正しいようである。あるいは「天野信景」は、この伝承を「宇津氏」より遡るものと見なして敢えて「和田氏」と記したのかは、今の時点では分からない。あるいはまた、この神社の縁起が、いまだ後世の形に落着していない過渡期に「信景」が聞取りをしたのかも知れない。仮に、ここの縁起が既に確立していたとしても、「天野信景」ほどの碩学が、地元に近い「糟目犬頭神社」の縁起を聞き間違えたと云う事実は、その縁起が「三河・尾張」地域でも、当時はあまり広く知られていなかったと云う事情を示唆していると云える。

しかし、「天野信景」の記す「犬頭」縁起譚における、最も注意すべき点は、その中に「犬の頭が飛ぶ」と云う大切なモチーフが含まれていないことである。これが「信景」の書き落としなのか、当時はいまだ縁起譚が正確に出来上がってなかったからなのか気になるところである。『塩尻』の記述からおそらく、十年と経たないうちに刊行された『和漢三才図会』では、既に領主は「大久保一族・宇津氏」になっており、「飛犬頭」のモチーフも含まれているのだから、「信景」の記述に於けるこの点の脱落は、否が応でも気になる。以下、『塩尻』の記述からおよそ四十年ほど後の『諸国里人談』と併せて記す。
 
犬頭社 在二上和田森崎一 社領四十三石
犬尾社在下和田天正年中領主宇津左門五郎忠茂一-時獵入山家有
白犬從走行到一樹下忠茂俄-爾催睡-眠犬在傍咬衣裾稍寤復寐犬頻吠于枕-頭忠茂怒熟-睡腰刀犬頸頭飛于樹梢嚙-着大蛇頸主見之驚切-裂而還家感犬忠情頭尾於兩和田村祠祭之 (中略) 宇津氏大久保一族先祖也
 
私訓】犬尾社ハ下和田ニ在リシモ、天正年中、領主・宇津左門五郎忠茂、一時、獵 カリ シテ山ニ入ル、家ニ白犬有リ、從テ走行ク、一樹ノ下ニ到ルニ、忠茂、俄-爾 ニハカ ニ睡-眠ヲ催ス、犬傍ニ在リ、衣ノ裾ヲ咬 クハヘ テ、稍ク引ク、寤 サメ テ復タ寐 ル、犬頻ニ枕頭ニ吠フ、忠茂、熟-睡ヲ妨クルヲ怒テ、腰刀ヲ拔テ、犬ノ頸ヲ切ル、頭、樹ノ梢ニ飛テ、大蛇ノ頸ニ嚙-着ク、主之ヲ見テ驚キ蛇ヲ切-裂キ、家ニ還ル、犬ノ忠情ニ感シ、頭尾ヲ兩和田村ニ埋ミ、祠ヲ立テ、之ヲ祭ル (中略) 宇津氏ハ大久保一族ノ先祖也
 
寺島良安/編 (c. 1712) 『和漢三才圖會』卷六十九「參河國」正德二年頃
九州大学デジタルアーカイブ
 
犬頭社  犬尾社は下和田にあり
 
三河國碧海郡上和田村 岡崎に近し に犬頭社といふあり。 (中略) ○天正年中領主宇津左衞門五郎忠茂、ある時獵して山に入、一樹の下にして俄に睡を催しけるに、手飼の白犬、裾を咬て行に目を寤し、又睡るに犬、頻に枕の上に吠る。睡眠の妨を怒て、腰刀を拔て犬を伐る。その頭飛て樹の上の□蛇* の頭に嚙付たり。忠茂、これを見て大きに驚き、則□蛇を殺す。彼犬の忠情を感じ、兩和田村に犬頭犬尾を埋て是を祭る。 ▲東君聞召甚感ジサセ玉フ

 
* □は「虫」扁に「白」。「蛇」と合わせて「うはばみ」と訓む
 
菊岡沾涼 (1743) 『諸國里人談』寛保三年
日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成・第二期 24』吉川弘文館、p. 429
 
『和漢三才図会』『諸国里人談』の縁起譚は、ほぼ現在伝わる形に仕上がっているが、それでも現在の由緒とは、主人公の名前や年号など、わずかだが異なっている部分も見られる。近年の由緒は、既に前回記事の「糟目犬頭神社」の紹介部分で、『平成「祭」データ』に載る縁起を記しているので、そちらを参照されたい。念のために、相違点を挙げておくと、1) 年号が貞和二年 (1346) になっていること、2) 「上和田城主」の名が「宇都宮泰藤」になっていることが挙げられる。

実は、「糟目犬頭神社」には、「新田義貞 (1331-1338) 」の首を祀った「首塚」が元となったと云う裏の縁起もあり、現在の境内では、「弁財天」を祀る浮き島となっている場所が、本来の「首塚=犬塚」だとされていることは、これまた前回記事で触れた通りである。創建時の領主を天正年間 (1573-1592) の「忠茂」から、「南北朝期」の「泰藤」に変更しているのには、おそらく年代的に「新田義貞」の時代と符合させるためだと思う (それでも正確には合っていないのだが...) 。この「泰藤」伝承がいつ頃から語られているのか、精しいことは分からないが、筆者の知る限り、慶応・明治初年頃に「豊橋市」の「羽田八幡宮」の宮司であった「羽田野敬雄」が著した『三河国事蹟考』には載せられている。「羽田野敬雄」自身、この著作の中で、「犬頭神社」縁起の考証を行なっているので、ここにその該当部を引くこととする。ただし、原書が筆者の手元にないため、ここでは「吉田東伍」の『大日本地名辞書』から孫引きすることとする。
 
犬頭神社は (中略) 文和二年*、上和田城主宇都宮泰藤、飼犬の爲めに蛇の危難を免れたるに因り、熊野社の末社に犬頭靈神を祝ふと傳ふ、三川雀、三河堤、删補松等には泰藤といはず、大久保忠俊の父の事とす (後略)
 
* 文和二年=西暦1352年
 
羽田野敬雄 (c. 1868) 『三河國事蹟考』慶応・明治初年頃
吉田東伍 (1917) 『大日本地名辭書 5』北国・東国、富山房より引用
 
ちなみに、上記文の「三川雀〜」以下が、『三河国事蹟考』の原文なのか、「吉田」博士の筆なのかは原書に当たってみないと判然としないのだが、『三河雀』は宝永四年 (1707) 、『三河删補松』は安永四年 (1775) 、『三河堤』は寛政二年 (1790) 頃の成立であるから、この時期までは、「犬頭神社」縁起譚の主人公は、「忠茂 (大久保忠俊の父) 」とされていたようである。何よりも、筆者が調べたところ、「愛知県立図書館」が「貴重本デジタルライブラリー」で公開している天保七年 (1836) 成立の『参河志』によれば、やはりこの縁起の主人公は「忠茂」と書かれているので、「泰藤」伝承の流布した時期は、「幕末」まで下ることになる。面白いのは、上の「愛知県立図書館」公開の写本に、「羽田野敬雄」の書き入れがあることで、彼は『三河國事蹟考』を記すに当たって、敢えて「忠茂」を「泰藤」と記録したことになる。この辺りの事情については、いずれはっきりとさせたいと思っている*。
 
* この縁起の推移は、「江戸後期」における「尊皇論」の勃興と深い関係があるのではないかと、現時点で筆者は考えている。すなわち、「江戸前中期」にあっては「徳川家」崇拝が圧倒的に強かったため、地元の「大久保氏」が「徳川家」とつながる契機となった「忠茂」が崇拝の対象として選ばれたのに対して、「尊皇論」によって「南朝正統」論が高まると、「南朝」と連なる「泰藤」に白羽の矢が立てられたのではなかろうか。しかも、「新田義貞」となれば、「徳川氏」自身が「新田源氏」系の「世羅田氏」を祖としていたため、天皇家及び将軍家双方に連なる伝承として好都合だったのだろう。
 

B. 我が国の「飛犬頭」伝説の発祥について

「犬頭神社」の縁起譚の内容に話を戻すと、言うまでもなく、この伝説は、各地に「猫」を主人公とした類話が存在している。「薄雲太夫の猫」の話も、「高山陣屋の猫」も、「仙台」の「若林神社」や「高畠」の「猫の宮」の縁起など、有名な話だけでも、挙げていけば楽に両手に余るだろう。内容は、「犬頭神社」のものとはわすがに異なり、主人公は女性で、厠に行くと猫が必ずついてゆくのを、猫がその女性に魅入った (恋慕して憑いた) 所為だろうと判断した夫や父親が、猫の首を斬り落すと、その首が天井裏に飛んでいって大蛇を噛み殺す、と云うパターンの話である。

「犬頭神社」の縁起譚に見られる「忠義な犬と蛇」型の説話は、古くは『今昔物語集』二十九巻「陸奥國狗山狗、咋殺大蛇語第三十二」にも、「陸奥国」の「犬山」の犬が、大蛇を食い殺した話として見られる、としばしば指摘される。原文は、引用するには長過ぎるので、下に筆者の要約を載せておこう。
 
昔、「陸奥」の賤しい男がおり、多くの犬を飼って、狩りで生計を立てていたため、しばしば二、三日、山で過ごすことがあった。その夜も、大木の洞に入って夜を過ごしたのだが、夜も更けて犬はみな臥したが、殊に勝れた犬だけは俄かに起きて、男の方を激しく吠え立てたが、何も怪しいものはなかった。犬は吠え続け、ついには男に向かって躍りかかってきたので、犬は自分を食おうとしているのだと思い、太刀を抜いて威したが、犬は吠えるのをやめなかった。
 
男は、狭い洞で噛みつかれたらまずい、と思い、洞から外に飛び出すと、犬は、躍り上がって、何かに食いついた。洞の上から犬が落ちてきたのを見ると、その口にしっかりと二丈あまりの大蛇をくわえていたので、男はこれを斬り殺して助かったと云う。

 
参照・作者未詳 (c. 12C前) 『今昔物語集』卷第二十九・第三十二
森正人/校 (1996) 『今昔物語集・五』新日本古典文学大系 37、岩波書店、pp. 368-370
 
このような説話が『今昔物語集』に載っているため、その後の我が国の「忠義な犬と蛇」説話は、すべて『今昔物語集』がその淵源だと考えられたり、「猫」伝説との関係で云えば、一般には、この系統の報恩説話は、「忠義な犬と蛇」説話が先行し、その後にそれになぞらえて「猫」伝説が創り出されたものと考えられている (関、1978 etc.) 。「平岩米吉」の『猫の歴史と奇話』 (池田書店、1980; 68) によれば、この説話の「猫」版で最も古い文献は、万治年間 (1658-1660) 『松下庵隨筆』の記事だと云うから、「犬」の伝説が先行すると考えるのは一応、もっともな説である。しかし、上に見たように、『今昔物語集』では、いまだ「犬」は頭を切り離されていない、と云う点では、必ずしも「犬頭神社」や「猫の報恩」系の諸伝説と一致する訳ではないのである。

そこで、首が切り離される内容を含むもので古い文献はないかと探してみると、「室町中期」頃に成立したとされる『三国伝記』巻二、および文亀二年 (1502) 筆写の『七宝寺縁起』に、次の二つの説話が含まれていた。
 
不知也河狩人事。犬上明神本所也*。
 
むかし、江州、いさや川のほとりに、狩人有けり。出でては、山の鹿 かせき を殺し、菩提を求むることなく、入ては、家の犬を飼ふて、煩惱を厭はす。晝は、千鳥が岡に遊んで、遲々たる春の日を暮し、夜は、鳥籠の山に臥して、耿々たる秋の夜を明かす。かの所は山深うして、うつうつたり。林茂うして、森々たり。ある時、林のなかに入て、獸を射んとするに、日すでに暮れぬ。人跡遠うして、何やらん、ものすごかりしかば、弓に雁俣取そへて、朽木のもとに立ち寄り、夜を明かさんとするところに、比良の片目檢枷といふ犬の子に、小白丸とて、祕藏の犬を引きつれたり。深更及んで、この犬、主に向かつて吠ゆることしきり也。獵師、これをしつすれども、猶とび上がりとび上がり吠えけるほどに、腹を立てて、打刀を拔き、犬の首をうちおとす。その首、朽木の上に飛あがり、大蛇の、獵師を呑まんとて、口を開き、はひさがるのどぶえにかみ付きて、やがて、咋ひ殺しけり。狩人、これを見て、驚き悲しみけれども、詮かたなし。則、そのところに社をたてて、かの犬を神と崇む。
 
今の、犬神の明神これ也。かのところを、犬神の郡と云も、この故也。

 
* 本文は、平仮名本・巻二・第十七話から採ったが、標題は片仮名本・巻二・第十八話から借りた。
 
玄棟/撰 (15C前) 『三國傳記』卷第二、應永・文安年間
名古屋三国伝記研究会/編 (1982) 『平仮名本・三国伝記』古典文庫
鈴木学術財団/編 (1972) 『大日本佛教全書 92』自刊
 
 
山於犬鳴濫觴者、彼古刹數多之送春秋、漸至天德年中、紀伊州池田庄山田某トカヤ云人、獵師ニテ一疋ノ犬ヲ具シテ、葛城ノ山中ニ入、猪鹿狩テ朝夕ノ資糧トス。或時今ノ瀧ノ邊ニ至テ、此犬主ニ向テ吠事頻ナリ。主ノ怪ニヤト驚テ刀ヲ拔、犬ノ頸ヲ打落ス。然ニ上ノ岩崛ヨリ大虵出テ、彼獵師ヲ呑トスルニ覺悟ナカリシヲ、此犬ノ頸飛上大虵ノ喉ニ噉付、兩ナガラ亡ケリ。ゲニヤ畜類ナレドモ恩ヲ報コトノ憐ヲ愁感シテ、獵師立所ニシテ發心シテ、則弓ヲ二ニ切テ率都婆ニ造リ、彼亡獸ニ手向テ其マヽ山林斗藪ノ身ト成畢。獵師知行セシ所ノ田地ヲ悉不動堂ニ寄附ス。 (中略) 山ヲ犬鳴ト稱スル事、此由來ニヨリテナリ。 (後略)
 
九條政基/写 (1502)『七寳瀧寺緣起』文龜二年
宮内庁書陵部/編 (1970) 『諸寺縁起集』明治書院
 
『三国伝記』の成立したとされる応永・文安年間と云えば、十五世紀のことであり、『七宝寺縁起』も、既に門外不出とされていた縁起を、「九条政基」が写したのが文亀二年 (1502) なのだから、縁起書自体はもう少し古くから存在したことになる。これらの年代を見る限り、やはり「飛犬頭」譚が「猫の報恩」譚に時代的に先行することは間違いないようなのだが、『今昔物語集』に比べれば、それでも随分と時代が近づくことも確かである。

いずれにせよ、この『三国伝記』『七宝寺縁起』の説話を以て、我が国に広く見られる「忠義な犬と蛇」説話の類型的要素は、すべて出揃うのである。ここまでくれば、「犬頭神社」の縁起譚も、「巌谷小波」の『こがね丸』として名高い、「千葉県流山市思井」の「犬塚」伝説* なども、みな同工異曲のものだと云える。
 
* 現在はあまり有名でなくなったが、「戦前」は「修身」の教科書に載せられていたため、全国的な知名度を誇っていた伝説である。
 
問題は、これらの「飛犬頭」譚が、世界各地に見られる「忠義な犬」型の説話の類型に、どれほど当てはまるのか、と云うことである。民話学とその周辺の学問では、これまで、「飛犬頭」譚は「忠義な犬」型の説話であると云うことをまったく前提視してきており、「飛犬頭」譚がそもそも、我が国独特の説話かも知れぬと云う事実さえ、ろくに指摘してきていない。もちろん、細かく見ていけば、勉強不足の筆者などが知らないだけで、このような指摘もなされてきたことだとは思うが、全般的な傾向としては、ほぼ等閑視されてきたと云う筆者の感想は動かないだろう*。筆者としては、以下、この点について、少しばかり見てゆきたいとおもう。
 
* 徳田和夫」氏の論考「彼我の『忠義な犬』譚と『犬神明神の縁起』」 (徳田、1990) は、数少ない例外であるが、「飛犬頭」譚の独自性については、専門家らしく、慎重で、控え目な言い回しに終始している。結構な手柄だと思うんだけどなあ...。
 
 
C. 世界の「忠義な犬」型説話について

このような「忠義な犬と蛇」説話などと、それに類する「猫の報恩」譚などを比較して、かの「南方熊楠」は、その「犬の民俗と伝説」の中で、「これらの話、種々異態あれど、もと仏説に出たのだ」と述べ、『
摩訶僧祇律』巻三の説話を紹介している (南方、1926; 499) 。ここでは、以下、原文と並記する煩雑を避け、筆者の危うい『摩訶僧祇律』の訓読のみを載せるので、予め諸姉諸兄の御寛恕を乞う。細かい誤読は措いて、大意は通じているものと思う。ちなみに、「那倶羅 (虫) 」とは、虫の一種ではなく、いまで云う「マングース」のことである。
 
過去世の時、婆羅門あり。 (中略) 婦あり、兒子を生まず。家に那倶羅蟲あり、便ち一子を生む。 (中略) 彼の那倶羅子を念じて、其の兒の如く想ふ。那倶羅子も婆羅門を亦父の如く想ふ。 (中略) 後の時、婆羅門の婦、忽便として娠あり。月滿ちて、子を生む。 (中略) 時に婆羅門、出行して乞食せんと欲す。時に便ち、婦に勅して言はく、汝若し出行せんとせば、當に兒を將て去り、愼んで後に留まること莫かるべし。婆羅門の婦 (中略) 便ち比舍に至りて碓を借り、穀を舂く。是の時、小兒酥酪の香あり。時に毒蛇あり、香に乘じて、來至る。口を張り、毒を吐きて、小兒を殺さんと欲す。那倶羅虫 (中略) 便ち毒蛇を殺す。 (中略) 時に婆羅門、始めて外より來たる。 (中略) 門に入らんと欲して、那倶羅の口中に血あるを見る。 (中略) 瞋恚して言はく、徒らに此の虫を養ひて、其の害するところと爲る。旣ち前の杖を以て、那倶羅を打ち殺す。既に門に入り、内より其の兒を見る。庭中に坐して、指をあじはひて戲る。又、毒蛇七分にして地に在るを見る。是の事を見るに、已に旣ち大いに憂悔す。時に婆羅門、深く自ら苦責す。 (中略) 旣に便ち迷悶して地を躄る。 (後略)
 
北顯ら/訳 (c. 417) 『摩訶僧祇律』卷第三
高楠順次郎/編 (1924) 『大正新脩大藏經 22』大正一切經刊行會、p. 243
国会図書館デジタル資料
 
古代インドには、『摩訶僧祇律』の他に、類話を載せる古典が幾多とあるが、かの『パンチャタントラ』にも同様の説話が採られている。『
摩訶僧祇律』も『パンチャタントラ』も、その成立年代などに関して詳しいことは知れていないが、どちらも紀元前には既にその原型を形成し終わり、『パンチャタントラ』は、紀元後三四世紀の「グプタ朝期」に現存する最古の伝本『タントラ・アーキヤーイカ』にまとまったのではないかと云われている。研究者によっては、その始源は、紀元前十世紀代にまで遡ると唱えるものもいる (Witzel, 1987 etc.) 。
 
婆羅門の妻とマングース

昔、「デーヴァシャルマン」と云う婆羅門があり、結婚して子をなした。時に、雌マングースも、子を産んで死んだ。婆羅門の妻は、仔マングースを哀んで、自ら乳を与え、我が子と同じく撫育した。
 
ある日、妻は、婆羅門に子を頼み、水汲みに発った。婆羅門は、托鉢に去って、子一人残した。時に、毒蛇が現れて子を窺ったので、マングースは、激しく戦って、これを弊した。マングースは、弟を救って喜び、家先で婆羅門とその妻の帰りを誇らし気に待った。
 
婆羅門の妻は帰ると、マングースの口が血塗みれなのを見て、子を喰らったと思い、水壺でマングースを叩き殺した。家に入ると、子は、寝台の上で遊んでおり、寝台の下には毒蛇の屍があった。妻は、事を悟って嘆き悲しみ、自らを呪ったと云う。(抄訳・筆者)

 
विष्णु शर्मा Vishnu Sharma (c. 200AD) पञ्चतन्त्र Pañcatantra
ヴィシュヌ・シャルマ『パンチャタントラ』
参照・
T. Benfey (1859) Pantschatantra, vol. 2, F. A. Brockhaus, pp. 326-327
 
これら古代インドの二つの説話は、早まってマングースを殺すのが婆羅門か、その妻か、と云う違いを除けば、ほぼ一致していると云え、そのことから、このタイプの説話が古代インドにおいては、他所の地域に比べて古いと云うだけでなく*、ある程度以上に斉一的な内容を持って、広く普及・伝播していたと考えられるのである。そのために、「AT (アールネ・トンプソン) 分類」でも、この系統の説話分類「178A」の典型話の一つとして採用されているのであろう。
 
* このすぐ後に言及する『イソップ寓話』を例外とする。
 
しかし、筆者にとっての興味関心は、飽くまでもこの話型の説話が、我が国の「飛頭」伝説と、どの程度、どのような意味で関わるか、と云う点に絞られる。ただ、単に想定しうる起源を明らかにして、世界中に類話があることに感心するのが目的ではない。そこで、普段、このブログでは、諸外国の伝説や説話、民俗などを議論に含めるのは極力避け、国内のものに集中するよう心がけているにも関わらず、ここでは、古代インドに発したと思しいこの説話型が、どのように東西に伝播していったかを、極めて大雑把に見ることで、逆に我が国の同系統の説話の諸特徴を浮き上がらせたいと思う。

まずは、成立時期が知られた中では、古代インドの説話群に次いで古い『イソップ寓話』から。ただし、筆者の探索不足で、次の例話を含む和訳本を見つけることが出来なかった。今後、見つけ次第、筆者の拙訳と差し替えたいと思う。
 
農夫とその犬
 
農夫が、柵に開いた穴を直しに野良に出てから戻ると、ただ一人の子を眠らせた揺籃は覆され、その子の服は血塗みれに引き千切られており、その近くで犬が、これまた血に塗みれて寝そべっていた。犬が子を殺したと思い、農夫は手に持った手斧で犬の脳みそをぶちまけた。揺籃を起こすと、子は傷もなく無事におり、巨大な蛇の屍がその横に横たわっていた。その蛇は、忠義な犬に殺されたのだが、主人の子を助けるために発揮した勇気と忠節に対して、主人は異なる形で犬に報いるべきであった。 (訳・筆者)

 
Αἴσωπος (c. 7CBC) Αισώπου Μύθοι
アイソポス (c. 6CBC) 『イソップ寓話』

L'Estrange & Croxall (1903) The Fables of Æsop, Thomas Y. Crowell Co., pp. 201-202
 
次いでは、「中世」の「ヨーロッパ」の例を、十三世紀から十四世紀にかけての代表的な作品から選んで、時代順に三つ挙げておこう。『七賢人物語』は、『シンディバッドの書』のヨーロッパへの伝本の一つで、多くの異本を生んだ書であり、『ゲスタ・ロマノールム』も類する説話を集めた修身書で、「ヤコブス・デ・ヴォラギネ」の『黄金伝説』と並ぶ人気を博した書籍として知られている。「聖ギヌフォール」については、「松原周一」氏の『中世の説話』 (東京書籍、1979) や「渡辺昌美」氏の『中世の奇跡と幻想』 (岩波新書、1989) などに扱われているが、特に後者が詳しい。
 
聖ギヌフォール

リヨン司教区のヴィルヌーヴと云う修道女村の近くの、ヴィラール・ザン・ドーム領に城があり、その城主には妻との間に一人の男児がいた。だが、城主と奥方と、乳母までが留守にして、赤子をひとり揺籃に残した時、非常に大きな蛇が館に這い入って、赤子の揺籃に迫った。留守番のグレイハウンドはこれを見るや、蛇を追って揺籃の下に駆け込んでそれを倒すと、その牙で蛇を襲い、蛇と犬は互いに激しく噛み合った。終には、犬は蛇を殺し、赤子の揺籃から遠いところにその屍を放ると、蛇によって満身創痍にされたままの姿で、揺籃の傍らに立ったが、揺籃も、犬の口や頭と同様に、蛇の血に塗みれていた。乳母が帰り、これを見ると、子が犬に殺され食われてしまったと思い、あらん限りの悲鳴を上げた。母親はそれを聞きつけて駆け込むと、同じ状景を見て同じく思ったので、やはり悲鳴を上げた。城主の騎士も、現場に着くと、同じように信じ、刀を抜くや、犬を殺した。その後になって初めて、みな赤子に近づき、子が無傷で、むしろすやすや眠っていることに気づいた。丁寧に観察すると、彼らは犬に嚙み裂かれて死んだ蛇を見つけた。いまや、みな、事の真実を知り、彼らにこれほどまでに役立った犬を、かほどまで不当に殺してしまったことに慙じ入り、犬の身体を城門の前の井戸に納めると、上に多くの石を積み、犬の行ないを記念するために、周りに木々を植えた。
(訳・筆者)
 
E. de Bourbon (1240) "De Adoratione Guinefortis Canis", De Supersticione
id. J.-C. Schmitt (1979) Le saint lévrier. Guinefort, guérisseur d'enfants depuis le XIIIe siècle, Flammarion
 
 
騎士とグレイハウンド

非常に立派な騎士がおり (中略) 一人の男児があったが、その子には、愛するあまり三人の乳母をつけていた。 (
中略) 騎士は、子の次に、最良のグレイハウンドと鷹とを可愛がっていた。 (中略) 騎士は馬上試合も大変好きで、ある時、自らの城下で大会を呼びかけ、多くの貴族が集まった。騎士は甲冑を着て館を発ち、妻や家僕もみな続いた。乳母たちも、赤子をひとり揺籃に置いて出かけた (中略) 。猟犬は壁際に寝そべり、鷹は止まり木に繋がれていた。以前から人知れず館の穴に棲んでいた蛇が、皆が大会見物に出かけたのを聞きとって、 (中略) 赤子を食い殺そうと揺籃に迫った。それに気づいた鷹は (中略) 翼を羽ばたかせたため、犬は目を覚まし、 (中略) 蛇に向かって突進した。二匹が (中略) 激闘している間、犬は蛇に噛みつかれて激しく出血し、揺籃の周りの床一面が、犬の流した血で覆われた。 (中略) 犬は、蛇に跳びかかって激しく争ううちに、揺籃をひっくり返した。 (中略) 終に犬は蛇を殺し (中略) 壁際に横たわって傷を舐めた。 (中略) 乳母たちが最初に帰ると、揺籃が覆り、周りの床と犬が血だらけなのを見て、犬が赤子を噛み殺したと思い、言い争った。 (中略) 私たちは御主人様に罪を問われて殺されるわ、と云って逃げる途中、奥方と鉢合わせになり、どこへ行くのか問われて、 (中略) 犬がお二人の子を噛み殺して寝そべっているのです (中略) と告げた。奥方はそれを聞くや (中略) 嘆き叫びつつ、その場にひれ伏した。馬上試合から戻った夫は、妻のあまりの悲嘆に、その訳を詳しく尋ねた。 (中略) 激怒した騎士が広間に駆け込むと、主人を見た犬は、いつものように身を起こしてすり寄ったが、騎士は剣を抜くと、その首を叩き斬った。それから駆け寄って揺籃を起こすと、赤子は無事で、傍らに蛇の屍を見つけたため、騎士は (中略) 犬が赤子を守って蛇を噛み殺したことを知った。騎士は激しく嘆き、涙を流し、髪を掻きむしって (中略) 息子の命を救い、蛇を殺した、かけがえのない犬を、妻の言葉のままに、殺してしまった (中略) と泣き叫ぶや、槍を三つに折り、裸足で聖地に旅立ち、その地で残りの生涯を過ごした。 (訳・筆者)
 
Anonymus (1342) Die Historia septem sapientum nach der Innsbrucker handschrift
作者未詳 (1342) 『七賢人物語』インスブルック写本・羅語版
Alfons Hilka (1912) Historia Septem Sapientum I, Carl Winter

 
 
フォリキュルスとグレイハウンド

狩猟と馬上試合が好きな騎士フォリキュルスには、一人きりの男児があり、乳母が三人も付けられていた。彼は、子の次には、我が鷹とグレイハウンドを愛していた。

ある日、彼は馬上試合によばれ、妻と家僕たちもみな連れて出かけ、揺籃には一人息子を、そしてその傍らにはグレイハウンドと止まり木に繋がれた鷹を置いていった。城の近くの洞に棲む蛇は、城を包む静寂に乗じて、巣穴から這い出ると、赤子を呑み込まんと、揺籃に迫った。鷹は危険を察知して、犬が目覚めるまで激しく羽ばたき、犬は瞬時に侵入者を襲うと、自らひどく傷つきつつも、激闘の末、蛇を弊した。それから、犬は、自らの負った傷を舐めるために、地に横たわった。

乳母たちが戻ると、揺籃がひっくり返り、子は投げ出され、床も犬も血に覆われているのを見て、瞬時に犬が子を殺したと思った。主人夫妻の怒りを怖れて、乳母たちは逃亡することに決めたが、その途次、奥方に遭遇したため、犬による子の殺害容疑の報告をせざるを得なくなった。

すぐ後にやってきた騎士も、悲痛な話を聞き、激しい怒りに、現場に急ぎ走った。哀れにも傷ついた忠義心あふれる犬は、いつもと変わらぬ愛情で、身を起こして主人を迎えようとしたが、怒り狂った騎士は、刀の切先でそれを迎え、犬は命を失って地に崩れ落ちた。

揺籃を見ると、子は無事に生きているのが見つかり、横には蛇の屍があった。いまや騎士は、事の次第を悟り、忠犬の死を悲痛に嘆くや、妻の言葉をあまりに性急に恃んだことで自らを責めた。そして、騎士の道を棄て、槍を三つに折り、聖地巡礼の誓いを立てるや、その地で残りの一生を平和に終えた。
(訳・筆者)
 
作者未詳 (14C初) Gesta Romanorum
C. Swan (1877) Gesta Romanorum, trans. from the Latin, George Bell and Sons, pp. xlii-xliii
 
この他に、「忠義な犬と蛇」の系統の説話で、英米で群を抜いた知名度を誇るものに、「ルーウェリンとその犬ゲラート」の物語がある。これは詩人「スペンサー W. R. Spencer 」が『ベズゲレルト、或いはグレイハウンドの墓』 ("Beth Gêlert; or, the Grave of the Greyhound", c. 1800) と云う美しい詩を謳い上げてから、急に巷間に膾炙されるようになり*、「南方熊楠」も「犬の民俗と伝説」の中で、西洋の話例として、真っ先にこの伝説に言及しているほどである。「アールネ・トンプソン」の分類型でも、この話型の典型話の一つに挙げられている。
 
* かの「ヨゼフ・ハイドン」が「スペンサー」の詩に、地元「ウェールズ」のアリア「エリーリ・ウェン」の曲を合わせて流行させた (Morgan, 1983) 。この曲自体は、「E. ジョーンズ」の『ウェールズ吟遊詩人の音楽と詩』 (1794) に初めて記録された (Edward Jones, Musical and Poetical Relicks of the Welsh Bards, 2nd ed.) 。 
 
 Gelert.jpg
『ゲラート』
Gelert by Charles Burton Barber
from Wikimedia Commons, Public Domain
 
名犬「ゲラート」は、主人の留守中に、赤子の命を狙った狼を斃して血塗みれになり、帰って来た主人に、赤子を喰らったと誤解されて殺害されるのだが、この伝説の故地「ベズゲレルト」には、この犬の墓まで建てられているため、この伝説を史実として疑わぬ人も多いと云う。

これに対しては、古くは犬研究家の「P. ガードナー」が、ある伝説が広く民間に流布しているからと云って、それが史実だとは云えないと記し (Gardner, 1931) 、「J. フィスク」は、さらに一歩踏み込んで、「ゲラート」の類話が世界各地に分布することから、これを史実と考えることも、「ウェールズ」固有の伝説と考えることも出来ないと述べ、多くの「ゲラート」伝説ファンに失望を与えた (Fiske, 1942; 7-8) 。しかし、近年は、さらに衝撃的な事実が明らかにされているのである。

犬研究家の「E. パーカー」は、1899年に発行された「D. E. ジェンキンズ」氏によるガイドブックにある現地調査の記述を元に、「ゲラート」の伝説は、「ベズゲレルト」の「ロイヤル・ゴート・ホテル」所有者の「デイヴィッド・ プリチャード」によって、観光客を引き寄せて、金儲けを図るために、1793年頃に創作された「作り話」であると指摘している (Jenkins, 1899; 56-73 / Parker, 1949) 。我が国では、今でも「ゲラート」の話を「忠義な犬」の典型話として採り上げる研究者が多いが、一方で、我が国初の犬の本格的な民俗誌の本と云える『犬のフォークロア』の中て、「大木卓」氏は、既にこの「プリチャード」による伝説の新造を採り上げている (大木、1987; 160) 。

とは云え、いまや「ウェールズ」の国民的な伝説となった説話の存在を全否定するこの議論の重大性を鑑み、典拠を明らかにすると云う意味合いから、「パーカー」が「ジェンキンズ」氏の調査結果を紹介している該当箇所の原文を載せておくこととしよう (ジェンキンズ氏の原書は、転載するには該当箇所が長過ぎるので避けた) 。

 
It is that in the year 1793, before which date no one in North Wales had heard of a dog named Gelert, a certain enterprising person of the name of David Pritchard, came north from South Wales to Bedd Gelert and took up his residence of the Royal Goat Hotel. He needed customers; how should he attract them? The name, decided Pritchard, the name of the place, the "grave of Gelert", shall bring them to my inn. Was there not a Welsh proverb, "I repent as much as the man who slew his greyhound"? Then here shall the greyhound have been slain, and his name shall be Gelert. All that was necessary was help from the parish clerk, and the placing of a gravestone on a suitable spot; so the stone was placed and the story told, among others to William Robert Spencer, who made a set of verses about it, and so came the name into the speech and hearsay of local tourists in Wales, from the nineteenth century to this day.
 
E. Parker (1949) Best of Dogs, Chapter X, Hutchinson
http://www.irishwolfhounds.org/parker.htm
 
私訳】それまで、北ウェールズの誰もゲラートと云う名の犬のことを聞いたことがなかった1793年と云う年に、デヴィッド・プリチャードと云う企業心あふれる人物が、南ウェールズから北部のベズゲレルトに移って居を構え、ロイヤル・ゴート・ホテルの営業に身を乗り出した。彼は宿泊客に切実に来てほしかったが、どうすれば人々を引き寄せられるか? そこでプリチャードは、土地の名前、「ゲラートの墓」と云う意味にもとれる土地の名前を使って、人々を自分のホテルにおびき寄せようと決めた。ウェールズには、「私は自分のグレイハウンドを殺してしまった男ほどに後悔している」と云う諺があるではないか。ならば、この土地こそが、そのグレイハウンドが殺された土地だとしよう、そしてその犬の名前はゲラートだと。必要だったのは、教区の牧師のちょっとした手助けと、相応しい場所に墓碑を据えることだけだった。かくて墓碑は据えられ、物語は語られた。ウィリアム・ロバート・スペンサーもその物語を聞き、それを詩に謳い上げた。このようにして十八世紀から今日に至るまで、ウェールズを旅する観光客の口説や伝聞に、ゲラートの名前がのぼらぬ日はなくなったのである。
 
桂冠詩人「ワーズワース」は、1791年の夏、友人「ロバート・ジョーンズ」と共に、「ベズゲレルト」に近い「スノードン山」の頂上から日の出を眺めようと、夜中、羊飼いの案内で山を登ったときの啓示に近い体験を元に、かの『プレリュード』 (1890) の一節を賦している。しかし、この詩人が後年、再び同地を訪れたとき「ほぼ三十年前、スノードン山頂に深夜登るに際し、私が軽食を取ったみすぼらしいパブは、瀟洒なホテルになっていた」と驚いていたと云う (古賀、2004; 341) 。「プリチャード」の奸計について、何ら知るところのなかった「ワーズワース」の驚きに、我々はむしろ鮮明に事の劇的な経緯を感知することが出来るのである。

いずれにせよ、以上のような理由で、筆者は欧米で名高い「ゲラート」の物語を本稿の考察には含まないことにしたのである。この件については、より近年では、「P. モーガン」が、「ウェールズ」の近代史の枠組の中で、「ウェールズ人」の近代的な国民意識の黎明を画した文化復興と故郷の再発見と云う視点から考証している (Morgan, 1983) 。この論考での問題意識は、ある意味で「近世」における「国学」の勃興と、国民意識の高揚が深い関係を持ち、かつこの時期に各地で名所旧跡を同定しようとする運動が、観光業と云う新しい産業の誕生とも連関して盛んになったと云う、我が国の事情とも相通ずる点があり、その意味では前回記事における筆者の潜在的な問題意識とも重なってくると云える。「モーガン」の論考は邦訳も出されているので、御興味のある方は、是非、御参照下さい (前川啓治/訳『創られた伝統』所収) 。ただし、かなり読みにくい邦訳になっているのが残念ではある。


D. 「忠義な犬」説話の比較

さて、ここまでに「インド」から「ヨーロッパ」にかけての「忠義な犬と蛇」説話の代表的なものを見てきたのだが、これらはどの程度に互いに異同を有し、また、我が国の類話群とも、同じく、どの程度の異同を有すると云えるのだろうか、と云うのが、筆者の目下の関心である。この比較を容易にするために、あらすじは別として、主な相違点を中心に、諸国の「忠義な犬と蛇」説話の個別の特徴を決定する要因を、以下、大きく五つの項目にまとめてみた。
 
①動物の戦いは主人公の目の前で起きるか
②仮想の被害者は誰か
③主人公以外に登場人物はいるか
④忠義の動物の首は飛ぶか
⑤主人公たちが最後にどのような言動をとるか

 
一見しただけでは分かりにくいかもしれないが、ここで、この五つの要因は、相互に関連し合うものと、他とは独立したものとの二つの種類に分けることが出来る。つまり、前の①②③は、互いに連動的に関連するもので、例えば、動物の戦いが主人公の目の前で起きないならば、仮想の被害者は主人公ではあり得ない、などと云うように、一つの要因が他の要因と密接に関わって、説話全体の運びに、ある種の規制力を発揮しているのである。つまり、これらの差異としての要因は、実際には説話の進行を巡る時空上の配列と関わるものであると考えれば、大きく一つのブロックにまとめてもよい項目群だとも云えるだろう。

とは云え、これら三つの中では、空間上の配置を決定する①が最も重要である。何故ならば、②③は、①による空間的配置の決定に付随し、それによってのみ、全体の筋としての時系列を結果的に創り出していると云えるからである。いずれにせよ、ここでは、あらすじと関係がないために、あまり表立った重要性がないかに見える空間の譬喩が、実は、説話の「意味の決定」と云う点では極めて重要な役割を果たしていると云うことを覚えておきたい。
 
逆に、互いに、筋の中での関わり合いがないのが④と⑤の特徴で、その意味で、これらは独立した項目だと云える。すなわち、これらの特徴は、説話の顕在的な内容に関わる部分では、必ずしも必要のない要素なのである。これは例えば、④などは、犬の首が飛ぼうが飛ぶまいが、要するに犬が蛇を殺し、主人公が犬を殺してさえいれば、話の筋と云う意味では、もはやあってもなくてもよい要素のはずなのである。⑤ も同様に、それが主人公の悲嘆や後悔、自責の念を表わすだけならば、本来は恩人である犬を主人公が誤解から殺してしまうと云う語りが完結していれば、そこに悔悟や自責の念が表われるのは当然の成りゆきであって、その後の主人公たちの言動は、表面的には、ただの修飾的な意味合いしか持ち得ないのである。

しかし、このようなどうしても必要な訳ではない要素が、ある系統の説話群に共通して付随していると云う事実こそ、それら要素に単なる修辞的な意味合いを超えた重要性があることを我々に示唆しているのである。それ故に、それらは返ってその説話に別の象徴的な意味を付加していることが明らかにされ、そのためにこそ、④⑤の方が、それぞれの説話とそれを語り伝えた集団の性質・特徴をより強く反映しているのだと、筆者は考えている。

いずれにせよ、以上の考察を土台として、「忠義な犬と蛇」説話の、説話としての骨格を、我が国と諸外国のものとの間で比較してみると、次のような表になった。と云うよりも、比較作業を通して分類を試みたら、必然的に日本と諸外国の対比となった、と云う方が正確であろう。念のために断っておくと、我が国の話例は、おおよそ三つ紹介したが、『今昔物語集』のものだけ、基本的構造に他と異なる部分が多かったため、ここでは『今昔物語集』は例外的なものとして扱い、他の説話を中心に比較を行なった。
 

「忠義な犬と蛇」説話の比較
日本インド〜ヨーロッパ
留守の性質留守の外出先留守中の家
動物の戦いの場主人公の目の前主人公不在
仮想の被害者主人公
主人公の子
見えぬ敵
誤解の要因主人公に激しく吠え立てる蛇を殺した血に塗みれている
誤解の結果斬られた首が飛んで蛇を殺す斬り殺される
主人公の
最終行動
犬を神に祭る倒れる、自らを呪う、
世を捨てる、etc.
蛇を殺す
タイミング
自分が殺されてから自分が殺される前
 
この表が明らかにする「忠義な犬」説話の二つの系統と云うのは、次のようなものだと云えるだろう。すなわち、第一は、我が国以外の「忠犬」伝説に見られる特徴的な筋で、それは...
 
①主人公の留守中の家で、
②主人公の子が、
③見えぬ蛇に襲われそうになったのを、犬は蛇を殺すことで未然に防ぐ、

 
...と云うものである。それに対して、第二の系統は、我が国の伝説に顕著に見られるもので...
 
①主人公の出掛け先で、
②主人公自身が、
③見えぬ蛇に襲われそうなのを、犬は
④斬られた首を飛ばして、蛇に喰らいついて殺すことで未然に防ぐ、

 
...と云うものである。これも念のために、表にまとめると、④の「余剰性 redundancy 」が、一層はっきりと見て取れるだろう。
 
「忠義な犬」説話の二系統の骨格
諸外国=第一系統つ日本=第二系統
①主人公の留守宅で、①主人公の出先で、
②主人公の子が、②主人公自身が、
③見えぬ蛇に襲われそうなのを、③見えぬ蛇に襲われそうなのを、
犬は...
蛇を嚙み殺すことで、危機を回避
犬は...斬られた首を飛ばして、
蛇を嚙み殺すことで、危機を回避
軽卒・性急を諌める教訓
 
さらに云うならば、諸外国のバージョンでは、おおよそ主人公の行動の軽卒・性急を諌めることが目的になっており、殺してしまった犬に対しては、憐れみ以外の特別な感情は、「イソップ」が不当感を訴えている他は、まるで現れていない、と云う特徴がある。したがって、主人公の最終的な行動と云うのも、自らを痛めつけて罰したり、世を捨てて隠棲したりと、主に自ら不正義をなしたことに対する悔恨と贖罪と云うことに焦点が当てられている。そして、上で「忠義な犬と蛇」説話の第一系統と名づけた説話群のみが、この特徴を有しているのである。このことを通して、我々が受ける最大の示唆は、④の「飛頭」の要素が、まるで分水石のように、これら説話の第一系統と第二系統を分離させていると云うことである。

これによって、我々は、④も⑤も、その「余剰性」において、説話の意味を象徴的に左右する力を持っていることが分かるのである。ただし、④「飛頭」は能動的に、第一系統にない新たな象徴的意味を説話に付け加えて第二系統の説話を形成する目印になるのに対して、逆に
⑤は、受動的に説話が第一系統に留まることを保障する役割を担っているようである。ただし、⑤については、ここまでに第一系統の説話を紹介するに当たって、話の筋の紹介を優先したため、諸外国の説話のほとんどに見られる末尾の教訓部分をすべて省いてきたので、これについては、後ほど、改めて教訓部分を紹介した上で、確認することとする。

さて、この辺りで、筆者の考察が一定の妥当性を有しているものなのかどうかを試す意味合いから、地域をやや変えて、もう二つばかり類話を見ておこうと思う。『ユダヤ民話集 (原題: The Folklore of the Jews) 』 (Rappoport, 1937) 」と『マレーの魔法 (原題: Malay Magic) 』 (Skeat, 1900) から採った二話である。
 
忠犬と蛇
 
離れ小島の町に子に恵まれない敬虔な男と妻がいたが、ある日、妻が妊娠し、子を生した。妻は、禊の日が来ると、浴場に出かけるにあたって夫によくよく子守を頼んでいった。しかし、王の呼び出しを受けたため、夫は戸締まりを厳重にして王宮へ出かけた。留守中に蛇が這い込み、子を嚙もうとすると、家を守っていた犬が躍り出て蛇を殺した。夫は帰ると、血に塗みれた犬が駆け寄るのを見て、子を殺したと思い、杖で犬を打ち殺した。部屋に入り、子が無事なのを見て喜んだのも束の間、横たわる蛇の屍を見て、忠実な犬を殺してしまったことを悔やんだ。(抄訳・筆者)

 
参照・A. S. Rappoport (1937) The Folklore of the Jews, The Soncino Press, pp. 173-175
 
 
熊と虎

あるマレー人が、自分の留守中に、家と、その中で寝ている娘を守るよう置いていった、馴らされた熊の物語がある。男が家に帰ると、彼は娘はおらず、家は争いがあったかのように荒らされ、熊は血に塗みれているのを発見した。熊が娘を殺して喰らってしまったと云う結論に瞬時に至り、激怒した父親は、熊を槍で屠ったが、その直後に、忠義の熊が勝利し、かつ殺した虎の屍骸を見つけた。そして、娘は逃げ込んでいたジャングルから、無傷で現れた。
(訳・筆者)
 
W. W. Skeat (1900) Malay magic, Macmillan & Co., p. 184
 
一読して分かるように、『ユダヤ民話集』における説話は、筆者が指摘してきた話の筋や、その骨格を構成する諸要素の組合わせなどにおいて、これまでの分析結果と見事な合致を見せている。それどころか、その他の点においても、「忠義な犬」説話の源流と見なされる「古代インド」の二説話とは、不妊の妻の懐妊と出産と云う要素まで共有しているのである。この類似に対しては、「ユダヤ (ヘブライ) 」民族が初期に活躍した「地中海東岸」地方が、「インド」と「ヨーロッパ」の間に位置することと関連するのか、それともこの民族が「中近東」に進出する以前は、「インド亜大陸」の西北部にいたと云う伝承があることと関係するのか、さらには、後世、より直接的に「古代インド」系の説話の受容がなされたのか、と云う三つの問いを発することが出来るかに見える。しかし、この説話が、『ヒトーパデーシャ』や『カリーラとディムナ』に見られる説話とは、「犬」が「鼬」「マングース」になっていることを除くと、細部に至るまで一致しているため、三つ目の問いのみが正解なのではないかと見なしうるのである*。以下に、上記二書の説話も載せておく。
 
* 十二世紀には、「ジョエル師 (ラビ) 」によって、『パンチャタントラ』の「ヘブライ語」訳がなされているが (Bedekar, 2008) 、これは「イブン・アル・ムカッファ」による「アラビア語」テキスト『カリーラとディムナ』に拠ったものなので、『ユダヤ民話集』の説話がこの書の説話と酷似しているのは、その直接的な影響を強く推測させる。ただし、なぜ「鼬」が「犬」になってしまったかは、検証の価値がありそうではある。単に、「パレスティナ」方面には「マングース」が棲息しないと云うだけのことなのだろうか。
 
信心家といたち
 
「ジュルジャーヌ」の国に信心家がおり、長いこと身籠らなかった妻が妊娠し、男児をもうけた。それから幾日か後、妻は禊に行く間、赤ん坊の側にいて下さいと頼んで出かけたが、勅使の迎えがあったので、男は飼い馴らした鼬だけを子の側に残して、宮廷に向かった。すると、コブラが穴から這い出てきて、子を嚙もうとした。鼬はすかさず蛇に跳びかかり、ずたずたに引き裂いた。信心家が帰ると、誇らし気に入口に飛んで主人を迎えに来た血塗みれの鼬を見て、子を殺したのだと思い、持っていた棒で鼬を打ち殺した。家に入ると、子は生きており、死んでいるのはコブラだった。男は胸を叩き、平手で顔を打ち、髭を掻きむしって悔悟の叫びを挙げた。帰った妻に男は、これは慌てて、よく確かめないで行動した罰なのだ、と云った。

 
ابنالمقفع Ibn-al-Muquaffa (c.750) كتابكليلةودمنة Kitāb Kalīlawa-Dimna, Azzam (1941) ed.
参照・菊池淑子/訳『カリーラとディムナ』東洋文庫331、平凡社、pp.212-215
 
 
婆羅門とナクラ
 
「ウッジャイニー」に「マーダヴァ」と云う婆羅門がおり、最近、妻が子を生した。妻は、子の番を夫を残して、水浴に出かけた。そこへ王から、「サルヴァ・シュラーッダ祭」の布施をすると云う招待状が来た。貧乏な婆羅門は堪らず、ナクラ (マングース) を番において出かけた。その後、ナクラは赤子に近寄った黒蛇を殺して食べた。婆羅門が帰ると、ナクラは血塗みれのまま急いで駆け寄った。その姿を見た婆羅門は、ナクラが子を食べたと思い、その場で殺した。その後、よく見ると、子は眠っており、蛇が殺されていた。 (後略)
 
人もし事実を確かめず、
怒りにその身を委ねなば、
ナクラ殺せし愚かなる
婆羅門のごと悲しまん
  
नारायण Nārāyana (12C) हितोपदेश Hitopadeśa
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参照・金倉圓照・北川秀則/訳 (1968) 『ヒトーパデーシャ』岩波文庫、pp. 249-251
 
一方、『マレーの魔法』に採られた説話も、筆者の云う第一系統の説話と、その基本的な性格において一致することは明らかであろう*。しかも、この説話が、「インド」から西へと伝わるルートの上ではなく、「マレー半島」と云う、「インド」と我が国の間に位置する地域から採取されたことの意義は大きい。
 
* 残念なことに、『マレーの魔法』を書いた「スキート」は、この説話を非常に手短に紹介しているだけなので、はたして、上に紹介した内容が、地元に伝わる説話の全容なのかは分からない。そして、「スキート」の紹介に従えば、この説話には直接の教訓的文言は含まれていない。
 
『パンチャタントラ』の伝播については、西への伝播ばかりが有名だが、実際には東方への流伝も見られたことなどについては、『筑摩世界文学大系 9』の解題部分に簡潔に記されている。
 
「パンチャ・タントラ」は (中略) ヨーロッパに伝訳されたのみでなく、アジアの諸民族のあいだにも流伝されて、各民族の情操生活に大きな足跡を残した。 (中略) さらに、サンスクリット語の原典からインドの諸言語にも数多く訳され、すでに早くから存在したタミル語からマライ語* など東南アジアの諸言語にも重訳されたという歴史もある。シャム、ラオスなどの文学作品の中にも「パンチャ・タントラ」の模倣作があり、またこの地方の民間説話の中にも「パンチャ・タントラ」から知られるいくつかのものが指摘されている。
 
* 「マレー語」と同じ。「Malay」から。
 
「パンチャ・タントラとヒトーパデーシャ」
辻直四郎ら/訳 (1999) 『インド/アラビア/ペルシア集』筑摩世界文学大系 9、筑摩書房、p. 186
 
現在、「東南アジア」方面への『パンチャタントラ』の伝本は、年代不詳ながら最古の系統と見なされる「南インド」系もの (Hertel, 1914; 294) 、「アラビア語」から「マレー語」に翻訳された『カリラとダミナの物語』、1835年と云う年代のはっきりした「タミル語」訳の『パンジャ・ダンダラン』など、三種類が確認されている (岩本、1963) 。したがって、「スキート」が上記の説話をどのように採取したかは不明ながら、それが「マレー語」系の伝本に由来するものであることは、およそ間違いなさそうである。

ただし、仮に、「忠義な犬」説話の原型は「古代インド」で成立して東西に伝播したと云う一般的な仮説が正しいとしても、その説話群のうち、原形を強く残す第一系統から、ある種の亜型と云える我が国に顕著な第二系統への変化が、「マレー半島・インドネシア諸島」から「日本列島」の間で起きたものなのか、「マレー語」とは別に、中国を経由して起きたものなのかは、簡単には確定出来ない。『今昔物語集』の成立は、我が国が「東南アジア」方面と盛んに交易を行なった「室町末期」に先立つため、我が国への伝播は、中国経由でなされたのではないか、と考えるのが穏当ではある。もちろん、いかなる結論を導くにしても、実際にはより多くの話例を集めて、考察を進めていかねばならないのは明らかであるが、ここでは一つの突破口として、以上のような可能性を意識することとする*。
 
* 「宮崎県」には「犬熊山」の伝承があり (『宮崎縣史蹟調査 5』1931 / 鈴木、1933 etc.) 、これは「忠義な犬」の「大蛇」を「熊」に置き換えた説話となっており、『マレーの魔法』と不思議な一致を見せている。一方、その主人公も「彦火火出見尊」となっており、「糟目犬頭神社」の祭神とも不思議な一致を見せている。また、この「彦火火出見尊」には、忠犬を過って殺してしまったことを悔やんで、今後は殺生をやめると決意し、弓を三つに折って捨てたと云う伝承があるのは、我が国の『七宝寺縁起』にも似るが、弓を二つに折るこの縁起よりも、槍を三つに折る『七賢人物語』や『ゲスタ・ロマノールム』などの結びの方が似通っているとも云える。ただし、これらの類似は、断片的なものであり、我が国の「忠義な犬」説話への伝播関係を系統的に仮定するには、その間を埋める連続的な論証に必要な資料がいまだ欠けている状態だと云えるだろう。ただし、「熊」が登場するのが、生活文化上「熊」と密接な関係を持っていて、「熊」の登場する説話も多く有している「アイヌ」と直接つながりの深い地域の説話ではなく、南洋からの文化的な伝播が想定されやすい、「太平洋岸」の「宮崎県」であると云うのも、興趣の尽きない事実ではある。
 
当然、このように考えるならば、第一系統から第二系統への変遷が起きた「東アジア」地域の中でも、「マレー半島」と我が国の間にあり、諸民族の興亡に彩られ、日本とは密接な交流の歴史のある中国と云う土地は、その変遷の起きた候補地の最有力の候補として想定することが出来る。少なくとも、その作業なしに、第二系統の説話群を、我が国独自のものであると断定するのには、躊躇を感じざるを得ない。

ただ、筆者の勉強不足が祟って、いまのところ、中国の説話の中から、「忠義な犬」説話の典型的な類話を見つけられないでいることは告白せねばならないだろう。何でもかんでも、熟読もせずに流し読みしているから、単に見落としているだけかもしれないとは思う。筆者の感覚としては、広い中国になら、必ず類話はあるものと思われるし、実際には既に我が国で紹介されているものさえあるかも知れない。しかし、いまのところ、筆者は適当な話例を見つけていないのも事実である。

その智識、峨々として聳ゆる泰斗「熊楠翁」でさえも、筆者がここで見てきた条件を満たす「忠義な犬」の類型に当てはまる説話を中国に見出していないのだから、筆者の如き鯫生が見つけられずとも驚くに足るまい。同様に、「熊楠」より後に「犬の民話・民俗」について著作をものした「平岩米吉」や「大木卓」の両氏とも、「忠義な犬」説話の典型譚を中国の古典から抽出することに成功はしていない。

今後、漢民族以外の少数民族の民話採集とその日本語への翻訳・紹介が進めば、広大な中国大陸に「忠義な犬」型説話が出現しないとも限らないが、その場合でも、少数民族の民話の年代的な古さの検証と共に、少数民族の民話が、古い時代に日本へと直接伝わりえたか、その可能性についても確認せねばならないだろう。現時点では、どれも筆者の限界を凌駕している事項であるため、慙愧に堪えぬが、ここでは中国の類話を分析の中に入れられないことに対して、諸姉諸兄のお許しを乞うしかない*。

 
* 『パンチャタントラ』の研究者たちも、中国に直接、伝本が渡ったと断言出来ずにおり、多くは「仏典」類の「ジャータカ」などを通して、その一部が伝わったと見なしているようである。そう云った意味では、早い時期に『摩訶僧祇律』の存在を指摘した「南方熊楠」の博識と慧眼には、改めて脱帽する。ただし、「マングースと蛇」の類型に当たる説話が、個別に中国に伝わっているかどうかは、今後とも検証していかねばならない。
 
さて、この辺りで、先ほどいったん棚上げにしておいた「忠義な犬」説話の骨格の主たる構成要素として挙げた⑤の問題、より厳密に云えば、特に第一系統の説話に付された教訓性について、少し見てみたい。そのためには、以下、改めて、それぞれの説話の末尾に見られた教訓部分を紹介しておく。該当するものがない場合は、短い横線で表わしている。訓読や翻訳は、すべて筆者の責任に帰すものである。
 
「忠義な犬」伝説に付された教訓性と飛頭の関係
典拠内容説話系統飛頭の
有無
『摩訶僧祇律』宜しく審諦に觀察すべし、卒 にわ かなる威怒、行なふ勿 なか れ、善友の恩愛離れ、枉害 おうがい 、良く善を傷む第1
『パンチャタントラ』婆羅門が寄進物を手に帰宅すると、妻は、あなたが私の頼んだことを全うせずに、欲を先に立たせたばかりに、いまや自らの息子 (マングース) の死と云う、自らの罪の樹の果実を味わなければならないのだ!! と嘆き叫んだ。第1
『カリーラとディムナ』帰った妻に男は、これは慌てて、よく確かめないで行動した罰なのだ、と云った。第1
『ヒトーパデーシャ』人もし事実を確かめず、
怒りにその身を委ねなば、
ナクラ殺せし愚かなる
婆羅門のごと悲しまん
第1
『イソップ寓話』主人の子を助けるために発揮した勇気と忠節に対して、主人は異なる形で犬に報いるべきであった。第1
「犬、ギヌフォール信仰について」犬を、かほどまで不当に殺してしまったことに慙じ入り、犬の身体を城門の前の井戸に納めると、上に多くの石を積み、犬の行ないを記念するために、周りに木々を植えた。 第1
『七賢人物語』槍を三つに折り、裸足で聖地に旅立ち、その地で残りの生涯を過ごしたと云う。第1
『ゲスタ・ロマノールム』 (フォリキュルスは) 事の次第を理解し、忠犬の死を嘆くや、甲冑を捨てて、槍を折り、聖地巡礼の誓いを立てて、その地で一生を平和に終えた。第1
『ユダヤ民話集』男は、もしも私がこれほど性急に判断しなかったならば、このようなことはしなかったのに、と云った。妻が帰宅すると、 (中略) これは性急に行動してはならないと云うあなたへの教訓になるでしょう、何故なら、このように行動する者は、手遅れになってからしか自らの行ないを悔い改めず、悔恨の念は永遠に心に残るからです、と賢くも云った。第1
『マレーの魔法』第1
『今昔物語集』此レヲ思フニ、実ニ狗ヲ殺タラマシカバ、狗モ死テ、主モ其ノ後蛇ニ被呑 ノマレ マシ。然レバ、然様ナラム事ヲバ、吉〻 ヨクヨク 思ヒ静テ、何 イカ ナラム事ヲモ可為 スベ キ也。第2
『三国伝記』第2
『七宝滝寺縁起』 ゲニヤ畜類ナレドモ恩ヲ報コトノ憐ヲ愁感シテ、獵師立所ニシテ發心シテ、則弓ヲ二 フタツ ニ切テ率都婆ニ造リ、彼亡獸ニ手向テ其マヽ山林斗藪ノ身ト成畢。第2
「糟目犬頭神社」縁起類第2
 
上の表を見て筆者がまず思うことの第一は、やはり第二系統の典型を形成するに当たって、「飛頭」のイメージが果す役割が極めて大きいと云うことである。第二には、先ほども少し述べたが、我が国の類話の中では、最古のものである『今昔物語集』のもののみが、典型的な第二系統の説話を構成せず、犬も死なぬし、当然、首も飛ばず、しかも最後に教訓がつくのである。犬を殺していない分だけ、その教誡のニュアンスも、諸国の第一系統のものほど深刻だとは云えないが、その基本的な訓戒の内容は共通しているのである。『七宝滝寺縁起』の終わり方は、不思議にも、西の『七賢人物語』系統の説話の終わり方に似ている。

第一の点からは、「忠義な犬と蛇」説話において、「教訓」と「飛頭」が、どうやら背反関係にあるらしいことが理解される。そして、この「教訓」と云うのは、おおよそ「性急な判断は重大な間違いを引き起こす」と云う内容に統一されているのである。『ゲスタ・ロマノールム』の「フォリキュルス」の説話のみは、主人公が激しい悔恨のあまり、世を捨て、聖地巡礼に旅立つ形で結ばれているが、これも自身の性急な判断が、自らに絶大な忠節を示して信義を貫いた愛犬を殺すと云う重大な過ちを引き起こしてしまったことに対する悔恨と自責の念を表わしているため、何ら他の教訓と変わるものではない。

問題は、
『七宝滝寺縁起』の終わり方なのだが、ここではこれが「インド〜ヨーロッパ」の説話の原型の我が国への伝播によるのか、あるいは単なる洋の東西での偶然の一致なのかについては考察しない。ただ、「フォリキュルス」が悔恨のあまり自らの心の救済を求めて、より分かりやすく云えば、自らの犯した罪の許しを乞い、自らの心の平和を求めて巡礼の旅に出るのに比べ、『七宝滝寺縁起』の猟師の発心は、明らかに獣類にも人と変わらぬ情誼のあることを知り、それを知らずに殺生を生業としていた自己に対する懺悔を契機として発露したのであり、それは『涅槃経』に見られる「一切衆生悉有仏性」の日本的な発展とされる「草木国土悉皆成仏」の思想を介して、最終的には「諸行無常」の境地へと連綿と続く心の発明であった点で、両者はその本質において異なるのである。

この他には、第一系統に属する説話の中では、唯一、『マレーの魔法』の例のみが教訓を含まないと云う問題があるが、これは何事にも例外がある、などと云って等閑視しなければならない性質のものではない。これも既に述べたように、単に教訓が省略されている場合は、その説話自体が「性急な判断を戒める」訓戒の役割を果たすのであるから、教訓の直接的な記述の欠落を以て、その説話を第一系統の例外と見なすことは出来ない。

先ほど述べた第二の点からは、「忠義な犬と蛇」説話が我が国に中国経由で伝わり、『今昔物語集』に収載されたものだと仮定した場合にあってさえも、その説話が伝わった当初は、「飛頭」のイメージを含んでいなかった可能性を読み取れる、と云う意味で重要なのである。もしも、我が国の「忠義な犬と蛇」説話が、みな何らかの形で同系統の説話の我が国最古の話例とされる『今昔物語集』の説話の影響を受けているものと仮定すると、現時点では、『今昔物語集』の成立したと考えられる十二世紀前半から、初めて「飛頭」のイメージを含む説話を載せた『三国伝記』の成立した十五世紀前半までの三世紀の間に、この説話的イメージの抜本的な増幅が行なわれた可能性が示唆される。そして、そのように考えた場合、取り敢えず現時点では、「飛頭」のイメージを内包することで第二系統を形成した説話群は、我が国に典型的なものであると云っても、さほど支障のないものとなるだろう。
 
*
 
この辺りで、「忠義な犬と蛇」説話を巡る諸外国との対比の議論を、ここまでの記述との重複を怖れずに、総括しておくこととしよう。

大まかに云うと、諸外国の説話例は、第一系統と呼べる説話群を形成し、以下の特徴を有していた。
 
1. 事件が主人公の留守宅で起きること、
2. 仮想の被害者が主人公の子であること、
3. 誤解から犬を殺した主人公の悔恨や自責の念を強調することで...
4. 性急な判断を戒める道義的な色彩が強いこと

 
これに対し、我が国に見られる説話例は、第二系統と呼べる説話群を形成し、以下の特徴を有していた。
 
1. 事件が主人公の出先で、本人の目の前で起きること、
2. 仮想の被害者が主人公自身であること、
3. 誤解から犬を殺してしまった主人公の悔恨や自責の念が無視される訳ではないが...
4. 死んだ犬を神として祭ると云う後日談に力点が置かれていること
 
結果として、諸外国のバージョンが、「寓話」とも呼ぶべき、動物に仮託した典型的な教訓譚となっており、そこで強調されているのは道義や美徳なのに対し、我が国のバージョンは、明らかに犬の扱いが第一系統の説話群とは異なり、そこで描かれているのは、単に美徳としての犬の忠義ではなく、見えぬ敵を察知する慧眼を持ち、断首の後にも敵を倒す妄念の如き霊威を持つ「犬」に対する畏怖なのである。また、だからこそ、主人公は犬を「神」として祠に祭るのである。その点、ただ犬の死を記念するモニュメントを築く、と理解しただけでは、我が国に典型的な「忠義な犬と蛇」説話の性格を完全に見誤ることになるのである。


E. 「飛犬頭」譚の特質

あまり緻密な論証とは云えないが、ここまでに筆者は、諸外国に広く見られる「忠義な犬」説話が、我が国の「飛犬頭」譚と、一見した強い類似を示しつつも、その間には単なる伝播関係では説明出来ないような、深層イメージの相違
と云うか、断絶—があるのを、大雑把に見てきた。そして、それは要約すれば、説話の強調する力点が、人としての道義や資質に向けられるか、それとも「犬」就中その頭部の霊的な能力に向けられるか、と云うものであった。もっとも、この違いは、本来が肉食の狩猟動物である「犬」が「蛇」を殺すと云うある意味、ありきたりの行為を行なっているだけの説話と、「犬の頭」が、胴体と切り離された後に、虚空を飛んで樹上の蛇を噛み殺すと云う凄まじい設定とを引き比べれば、誰でも思い至ることではある。

もちろん、実際には、「犬」が「蛇」を殺すと云うのは生態的には例外的な行為であるのは承知しているが、西洋には蛇狩り専門の犬種もあるようだし、ここでは広く「獲物を捕まえる」と云う意味に解して「ありきたり」と表現した。ただ、このことを巡っては、より複雑な意味の推移があったのではないかと推測することは可能である。

説話に登場する動物がいまだ「マングース」だった時代、「マングース」が「蛇」を捕るのはそれこそ当たり前な行為である一方、「マングース」ほどの小動物が人間の赤ちゃんを襲うことは基本的にはあり得ないと云う事実もあって、説話の語られる目的が、その当たり前の行為を疑わずに、ありえない方の行為を疑って、「マングース」を殺してしまった男の軽率な愚かさを批判することにあったと見なすことが出来る。

それが、この説話が西に伝わり、動物が「犬」と化すに従い、「犬」の殺傷力が高く、「蛇」を殺すのも当たり前でないことから、語りの運搬するイメージも、本来「忠義なるもの」である「犬」の「忠義」を疑って取り返しのつかない過ちを犯してしまった男の軽率な愚かさに向けられることになったのであろう。

一方、我が国にこの説話か伝播したとして、その伝えられた語りの「感動の中心」は、軽率さを戒める教訓的要素ではなく、「蛇」を殺す動物の霊的な能力に向けられたのであろう。「インド」にあってさえ、「蛇」を常食にし、時には「キングコブラ」でさえ退治する「マングース」と云うのは、特異な存在なのである。だからこそ、説話の中心的な動物にも選ばれたのだろう。それはちょうど「蛇」を食べる「孔雀」が、それ故に霊視され、原始密教の発生と深く関わる形で、後の「孔雀王経」を生み出してゆくイマジネーションの源泉になっていったことにも似ている。

もしも、「忠義な犬」型の説話が、大陸から我が国に伝播したものなら、それはこの説話が本来持ちつつ、その発祥地でも、西伝してゆく過程でもあまり強調されることのなかった「蛇をも殺す霊獣」のイメージと共に伝わってきたのではないかと、筆者は考えている。特に、「蛇」自体を霊的な存在として畏怖する気持ちの強かった我が国の人々には、このイメージはいよいよ強烈な衝撃を持って受け容れられたものと推測される。

---「蛇をも殺す霊獣」と云うよりは、「身を隠した蛇を察知するほどの霊獣」と見なした方が正しいかも知れない。『今昔物語集』の「狗山の犬」の説話を考えても、あるいは、我が国の「忠義な犬」譚には、犬は単に蛇を察知するだけで、蛇殺害の中心的な役割を担うのは犬の主人の方であると云う特徴も見られることを考え合わせると、こちらの方が妥当かも知れない*。
 
* 既に挙げた「犬熊山」の説話では、猟犬を連れて狩りに出た「彦火火出見尊」は、「尊 みこと 」を狙う「大熊」に向かって犬が激しく吠え立てていると知らずに犬を射殺すると、「大熊」が襲いかかってきたのでこれも射殺し、自らの過ちに気づく云々と云う話である。ここでは敵の殺害に犬は参加しておらず、その察知に長けているのみである。
 
今回は、この辺りで、一旦、議論を切ることとする。


4. おわりに

次回は、冒頭で述べた通り、
今回の議論を引き継いで、まずは、「犬の頭」の霊威を巡る民俗的なイメージの古層を探究した後、そのような信仰が顕在化した一つの様態と考えられ、わが国の「中世」から「近世」初頭にかけて各地で勃興した気配のある、「獅子頭」そのものに対する信仰の考察に至りたいと思う。そして、これらの考察を通して、最終的には、「上前津」の「おからねこ」伝承や、「糟目犬頭神社」の「唐猫」などは、このような過去の神秘思想を基盤とした民間信仰の名残りを、現代に伝える数少ない残滓なのだと云うことを追究していきたい。



※おまけ
  
白茶01b
保護後、三日の「白茶 ぱいちゃ
 
まだ、耳が横についているぜ!!

白茶02_1
保護後、三日の「白茶」その二

本当にちっちゃい仔猫って、
まだ肉球がなくて、鼠の手みたいなんです...。


白茶11:26_1
本日の「白茶」!!

だいぶ立派になりました!!
でも、まだ一キロくらいです。


薄茶01_1
保護後、三日の「薄茶」

薄茶11:26_1
本日の「薄茶」!!

こっちも立派になりました。
あたしは、ちょっとチータ顔なんだよぉ。


濃茶01a
保護後、三日の「濃茶」

忘れないよ...。




参考文献


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参照サイト・その他

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 http://www.orientalthane.com/speeches/speech2008.htm
・神社本庁教学研究所研究室/編 (1995) 『平成「祭」データ』神社本庁、CD-ROM

・「liondog の勉強部屋」=めちゃくちゃ秀逸なサイト
 
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愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」前編

.11 2012 中部地方 comment(0) trackback(0)
糟目犬頭神社
岡崎市宮地町馬場 31
 
糟目犬頭神社01
HP『み熊野ねっと・全国熊野神社参詣記』
「糟目犬頭神社」より
 
1. はじめに

今回からの記事は、前回の「おからねこ」から引き継いで、「尾張・三河」地域にかつて存在したと筆者が推測する、「狛犬の頭」を巡る信仰の跡を辿るのが目的である。予定としては、前後編の二回に分けて発表するつもりであるので、今回の記事は前編と云うことになる。そのため、今回の記事も、理論的な深化はほとんど見られず、「三河」地域の「犬頭」伝承に関わる遺跡や伝えを、総括・概観するにとどまる内容となるだろう。

そして、その探索の「三河」地方での端緒となってくれるのが、今回の標題となった「岡崎市」の「糟目犬頭神社」である。

「名古屋」と「岡崎」では、旧国名で云えば、「尾張」と「三河」の国境を跨ぐ訳だが、距離にすると四十キロばかりの旅で、昔の徒歩旅行でも一日か一日半、自動車ならば一時間と少し程度の旅路である。ただ、市街地を抜けることになるので、交通事情によっては、一時間半以上かかるかもしれない。時間を惜しむならば、短い距離だが有料道路を乗り継ぐとよいのだが、「名古屋」近郊の有料道路と云うのは、結構、乗り換えが複雑なので、標識なども凄いことになっている場合が多く、慣れないドライバーには少し不安な道のりになるかもしれない。もっとも、筆者が旅をした六年前に比べれば、標識事情もよくなっているかもしれないが...。

「関東」から向かうならば、東名高速道路の「岡崎西インターチェンジ」を降りて、「矢作川」東岸の沖積低地にあるこの神社に向かえばよいのだが、神社周辺は細かい道が錯綜している辺りなので、はたしてどの道を通るのが一番よいのか、地元民ならぬ筆者には見当がつかない。したがって、以下に述べるのは、一応、一つの案に過ぎない。

インターチェンジを降りたら、国道1号線を西へ、「島町」交差点まで進む。ここで左折して県道293号・桜井岡崎線に入り、そのまま県道を維持しつつ、「東岡崎駅前」では右直角に曲がる。道は県道のままである。名鉄名古屋本線の高架をくぐりつつ、大きく左にカーブを辿って三キロほど南下する。途中、愛知環状鉄道東海道本線も過ぎ、「サークルK」のある「法性寺」交差点を左折、四つ目の四辻を左折すると百メートルほど先に、目的の「糟目犬頭神社」はある。

ただし、この「糟目犬頭神社」を巡る際には、このお社と密接に関わる神社が、「岡崎・豊田・豊川」市域にいくつか点在するので、実際には下の道を辿りながら、自分なりにそれらの神社を回れる効率的な道順を探るのがよいように思われる。具体的な神社名については、今回の記事の中で順々に出てくる事になるだろう。もちろん、中には跡地しかないものもあるが...。

いずれにせよ、今回の出だしは、シンプルにこれだけである。



2. 「糟目犬頭神社」の概要

この神社は、『日本文徳天皇実録』仁寿元年 (851) 十月十日条に「三川国糟目神社授従五位下」の記述があり、『延喜式』神名帳 (927) にも「正四位下 糟目神社 坐碧海郡」と記載された社に比定される、社格「旧郷社」の神社である。祭神は、「彦火火出見尊」を筆頭に「伊弉諾尊・伊弉册尊・素盞嗚命」、それに「犬頭霊神」を奉祭しており、この他に「豊受姫命」も合祀していると云う。現地説明板は、実に簡潔な内容で、神社そのものの縁起については、あまり詳しいことは記していない。その代わり、所蔵文化財については、簡潔かつ丁寧な説明となっている。
 
岡崎観光文化百選
犬頭神社

 
701年に、今の上和田町にあたる糟目というところに建てられたので糟目神社と呼ばれていました。しかし、たびたび洪水にあったため現在地へ移されたと伝えられます。
 
境内には、越前鯖江産の凝灰岩の狛犬、唐猫、鳥居などの石造文化財や、本多作左衛門重次の墓、新田義貞の首塚と伝えられる祠があります。また、神社にまつわる伝説もいくつか残っています。
 (後略)
 
現地説明板より
 
岡崎市指定文化財
糟目犬頭神社
建造物 犬頭神社石鳥居 一基
越前式鳥居の形式を示すものとして価値があり、慶長十年 (1605) 岡崎城主本多豊後守康令 (康重) の奉納である。原石は越前 (福井県) 産の笏谷石と呼ばれる凝灰岩である。
 
彫刻 犬頭神社石造狛犬 一対
狛犬は仏教守護の獅子として渡来し、形、名前も変わってきた。この狛犬も越前石製で、慶長十五年本多豊後守康令の寄進。
 
彫刻 犬頭神社石造唐猫 一対
小型の狛犬で、奉納者は「唐猫」としている。愛らしい猫の形で、猫には毛髪というべきものはないが、これは頭から放射状にたてがみがあり、獅子彫刻の伝統を残している。越前石製で、慶長十年市川猪兵衛正重の寄進。

昭和四十二年九月十四日指定
 
現地説明板より
 
それにしても、これだけの社頭説明では、何故、この神社が「犬頭」などと云う変わった名前を、鎮座地の名前でもないのに冠しているのかは、さっぱり分からない。そこで、他に説明板はないものかと、境内をもう少し見回すと、神社の「拝殿」に向かって右側にある蓮池の手前に朱塗りの鳥居があり、その後ろに立札が一つ見えた。鳥居をくぐったさらにその先には、曲線の美しい、やはり朱色に映える神橋が、石囲いされた、樹木の覆う島を境内と結んでいた。この島の中央に立つ小さな祠に祭られるのは「大和田島弁財天」なのだが、一説には、この島こそが「犬頭神社」の社名の元となった、本来の「犬塚」だと云うのである。説明板には、次のように書かれて いる。
 
御由緒
一、社名 大和田島弁財天
 (中略)
この島は犬塚* と称し今より六百四十年前南朝の忠臣宇都宮泰藤公が新田義貞の首を京都よりうばい埋めて、犬頭霊神を祀ったと伝えられ其の後星霜久しく荒廃していたが篤志家と氏子崇敬者の請願に依り神殿を造営神橋鳥居を建築神池を整備 昭和四十九年六月滋賀県の竹生島より祭神を勧請して奉斎する

 
現地説明板より
 
 * 墨書きの文字が風化していて、この二文字が「犬塚」なのか「大塚」なのか判然としなかったが、内容から判断して、ここでは「犬」とした。誤りであった場合、謹んでお詫び申し上げます。
 
筆者は、この説明板を読んで、思わず、うーむ、と唸ってしまったように覚えている。何しろ、これでは新たな事実をいくつか知り得るものの、「犬頭霊神」やら 「宇都宮泰藤」などの名がいきなり登場し、前より分かるようになったのか、そうじゃないのか、さっぱり分からないのである。そこで、以下に、大正五年 (1916) 刊『碧海郡誌』掲載の縁起と、「神社本庁」の調査に基づく縁起を下に掲げて、「近代」に入ってからのこの神社に伝わる縁起の全容を把握することとしよう。
 
鄕社 糟目犬頭神社 鎭座 六ッ美村大字宮地

祭神には彥火火出見尊を祀れり。社の由来を明にせず。大寳元年の遷座にして、永延元年に紀伊國熊野三神を勧請し、以て糟目神祠中に合祀せりと云ふ。また犬頭社とは大久保氏の祖左近將監宇都泰藤、延元興國年間に當り、狩獵の歸途大蛇に遇ひ、其の狗の難に殉せしに感じ、一小宇を建てゝ是れを祀り犬頭社と號せしに 初まり、後孫に及び糟目神社の屬社となすと傳ふ。慶長八年大久保景實の男大久保忠實の時、祖先の事に關し犬頭社のために家康に申請する所ありて、社領四十 三石を賜ひ改めて糟目神社犬頭大明神と號しき。後明治五年額田縣廳より敎部省へ具申する所ありて祠號を糟目犬頭神社と定めらる。
 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、pp. 649-650
 
由緒
 
大宝元年九月創立彦火火出尊を鎮祭し糟目神社と称す。永延元年六月十五日紀州熊野三所大権現を合祭す。
 
旧社は今の隣村上和田村の西糟目森崎に在り、往来矢作川洪水につき今の地に遷座、 観応元年足利尊氏熊野権現領として百貫文目を寄付し、豊太閣の世まで相続すると云う。
 
犬頭霊神の由緒は相伝う上和田城主宇都宮泰藤なるもの貞和二年壬辰五月当社に於て鷹狩す。時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹下に憩い仮寝す。樹に巨蛇あり、首を垂れ将に泰藤呑まんとす。率いる処の白犬頻に吠へ泰藤を警す。泰藤驚き覚む、然れども此事あるを知らず。亦眠り亦吠ゆ此如再三、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す。泰藤驚き且つ悔いその犬を以て犬頭霊神として当社に合祀す。
 
実に当年九月十五日なりと云う。天正十年岡崎城主田中平部少輔吉政豊大閣の命を以て大杉樹を伐り同郡大浜村に於て船に造ると云う。慶長八年八月二十八日東照公より犬頭社領四十三石の朱印を賜うてより以後徳川氏代々準之、依て社号を犬頭大神明と称す。明治四年額田県の命を以て即ち今の糟目犬頭神社と改称す。
 
明治五年九月十八日郷社に確定。明治四十年十月二十六日神饌

 
神社本庁教学研究所研究室/編 (1995) 『平成「祭」データ』神社本庁、CD-ROM
 
以上が、現在、「糟目犬頭神社」に伝わる縁起の概要である。より委しくは、以降の節で、適宜、述べていこうと思っている。



3. もう一つの「糟目神社」
「糟目春日神社」
 
糟目春日神社_1
「糟目春日神社」鳥居
HP『中部の花火情報館・愛知の祭りと神社』より

さて、前節で「糟目犬頭神社」を扱ったからには、片手落ちを免れるためにも、ここでどうしても述べておかねばならないことがある。それは、『延喜式』「神名帳」に載る「三河国碧海郡・糟目神社」には、「糟目犬頭神社」とは別の有力な候補があると云うことである。

もちろん、「岡崎市」の「糟目犬頭神社」は、式内社「糟目神社」に比定される論社であるのは間違いない。だが、論社と云うのは、飽くまでも「〜とされる社」と云う意味で、「〜である社」と云う意味ではないのである。したがって、特定の式内社に対して、論社が二つ以上存在することは、全国的にも決して珍しいことではない。「三河国式内社」の「糟目神社」の場合も、有力な論社が二つ知られている。「糟目犬頭神社」は、その一つに過ぎない。

そして、もう一方の論社と云うのは、「豊田市渡刈町北田」の地に立つ「糟目春日神社」である。「糟目犬頭神社」とは、「矢作川」を挟んで対岸だが、距離にして十三、四キロ上流の地に鎮座している。「糟目春日神社」からは、「鴛鴨町長根」で国道248号に出て、南下しつつ途中で「矢作川」を東に渡り、「六名一丁目」で県道293号・桜井岡崎線に入れば、三十分くらいで「糟目犬頭神社」に着くだろう。

実は、「糟目犬頭神社」には、
建久元年 (1190) 、洪水のために下流へと流されて、現在の社地に遷ったのだと云う伝えがあるのだが、その神社旧地と云うのは、現在の「糟目春日神社」の周辺の土地なのである。したがって、鎮座地の立地を見る限りでは、「糟目春日神社」の方が、本当の意味で「糟目」の地にある分だけ、論社争いでは断然有利である...はずなのだが、何故か、実際にはまったくその逆の感さえある。何故そうなってしまったのかについては追々見て行くとして、ここではひとまず、こちらの神社についても、簡単に紹介しておこう。

「糟目春日神社」の歴史的な来歴は、それを式内社「糟目神社」だと見なした場合、同じ史料を元にすることになるのだから、『日本文徳天皇実録』であるとか『延喜式』であるとか云う部分は、「糟目犬頭神社」の紹介で述べたこととまったく同じ内容になる。したがって、これらの内容には重ねて触れず、ここでは、初めに、それ以外の主な来歴を、境内の石碑から引くこととする。
 
祭祀殿竣工記念碑
七級社 糟目春日神社

 (中略)
由緒
一、大宝二年持統上皇三河國に行幸当地に御駐蹕の砌り鷹狩し給うよつてこの地を鳥狩鳥捕都賀利戸苅と言ひ今日渡刈と書くに至れり当時すでに糟目神社を祀れり
一、第六十代醍醐天皇の御代に延喜式に載せられ、文徳実録に正四位糟目神社とあり勝女大明神又は塩指大明神と云はれ矢作川上流西方一大原野をカスメ郷末野ヶ原と称し三河の海の満潮時には潮指し来たれりと伝う
一、明治二年神祇官より延喜式内社に確定される
一、明治五年七月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年九月郷社に確定される
 (後略)

 
現地碑文より
 
この碑文から、この神社が、古来「糟目春日神社」を名乗っていた訳ではなく、かつては「塩指 (汐差) 大明神」や「勝女明神」と称していたことが知れる。「塩指」については、碑文にも説明があるが、「勝女明神」と云うのは、「糟目」が転訛したものだろうか。上記記念碑には記されていないが、「羽田野敬雄」『三河国官社私考 (三河国官社考集説) 』上巻
(1839) には、「又云。上渡刈村潮崎社アリコレ糟目社也村人云」ともあり、『碧海郡誌』 (1916) には、「古來人呼で是れを潮進宮と云へり (碧海郡誌; 652) 」ともある。現社名に落ち着いたのは、明治五年 (1872) だと云うから、かなり新しいことである。この辺りの事情も全て、「糟目犬頭神社」と類似している。ちなみに、この記念碑自体は、昭和五十二年 (1977) に建てられたもののようである。

「糟目春日神社」の境内は、その現在地さえ「矢作川」西岸に程近い位置にあるが (現在地のほぼ真横を流れているのは明治用水) 、古くはさらに一キロほど川寄りの字「大明神」の地に鎮座していたと云うから、 「塩指」の名も頷ける。この「糟目」「塩指」などの名称、及び近年の社地の移動などについて、「
羽田野敬雄」は次のように記す。
 
○渡刈村ノ神主神谷仙太夫云オコセケラク。此社古クハ社地ヨリ廿間許東。川岸ニアリ。然ルヲ洪水ニテ社鳥居等マデ押流レタル故。天明年中今社地セリ。古城ナリ社地ニハ神池アリテ。古ハコレマデサシタルニ。俗鹽指大明神。其所東額田郡。北加茂郡。西南碧海郡ニテ。此邊凡八百間地名糟目
 (中略)
ニハカスモトモ。渡刈人家モカスモノ產土神也シヲ。人家村地ニウツシ。其處ニモ鹿島社勸請シテ。今兩產土神也。サレド社田モカスモノニアリ。又棟札先年流失後先規書記シタルニテ年號月日モナシトイヘリ
 
羽田野敬雄 (1839) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』上卷、天保十年
豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
 
神社の旧地につけられた「大明神」と云う字 (地名) は、『碧海郡誌』 (1916) によれば、どうやら「大正期」にはより具体的に「糟目大明神」と呼ばれていたらしいので (碧海郡誌; 653) 、この神社が鎮座していたと云う由来に基づく地名であることは疑いない。ただし、古い史料類を見る限りでは、ここの社が「糟目大明神」と呼ばれていたことはどうやらなさそうであるから、「糟目」がついたのは、論社認定争い激しかりし「明治五年」の社号改称と関係があるのだろう。また、上記所引の石碑には刻まれていなかったが、「大明神」の旧社地から現在の社地へは、大正三年 (1914) に遷座しているそうである。したがって、「羽田野」が「
天明年中今社地セリ」と記した「社地」と云うのは、字「大明神」の旧社地のことだと云うことになる。

要するに、大正三年以前にも、「矢作川」の洪水によって、何度か社地を替えてきた歴史が、この神社にあるのは明らかなのである。伝承に従えば、上記の「末野 (ヶ) 原」と云うのが発祥地と云うことになるのだが、今の地図で見ると「末野原」と呼ばれる辺りは「豊田市豊栄町」付近を指すようで、随分と内陸に当たる。「古代」の「末野原」は、より広い範囲を指す地名で、「矢作川」の辺りまで含んでいたのだろうか、それとも「矢作川」の流路がこの千三百年の間に抜本的に変わってしまったのだろうか (これについてはすぐ後に述べる) 。

この「大明神」の旧社地には、現在も「郷社糟目春日神社之跡地」と云う石碑が建てられている。「伊勢湾岸道・豊田東インターチェンジ」のすぐ北東、豊田市老人福祉センター「豊寿園」の東坂の下、「大明神橋」と云う小さな橋で「明治用水」を渡った「矢作川」の西岸、「渡刈町字大明神 12」の地に石碑は立っている。この石碑の脇に立つ小さな説明板には、次のようにある。
 
矢作川畔の汐差神社
 
渡刈町で祭られている汐差神社は、昔三河の海 (碧南) が満潮になると、川下から舟が上がってくる程汐が差してきたと言います。

これを「汐差」と言い、満潮・干潮の自然現象を利用して、農作物や味噌・醤油などを舟で運ぶ、物流の大動脈に利用されていました。

反面、水害にあう事もしばしばで、水難除け・商売繁盛のためこの神社が建てられたと言い伝えられています。
(渡刈町)
現地説明板
 
「糟目春日神社」のある土地は、「豊田市渡刈」の一部なのだが、この「渡刈」の地名は、石碑にあった「持統天皇御幸」伝説と深く関わるものと、地元ではされている。この「持統天皇」伝承については、前回記事でも、「おからねこ (鏡御堂) 」がその跡地なのではないかと云う『尾張名陽図会』の説を見たが、「三河」にもこの手の伝承が多い。これは「持統天皇」の「三河御幸」について、唯一の史料である『続日本紀』が、わずかに数行記す
ばかりで、具体的な記述がまるでないため、返って後世に様々な憶測を呼び、多くの伝説を生み出したのだと思われる*。
 
* 『續日本紀』卷二、大寳二年 (702) 條
九月十九日 「○癸未。遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五國。營造行宮」
十月三日  「○丁酉 (中略) 鎭祭諸神。爲將幸參河國也」
十月十日  「○甲辰。太上天皇幸參河國 (後略) 」
十一月十三日「○十一月丙子。行至尾張國 (後略) 」
十一月十七日「○庚辰。行至美濃國 (後略) 」
十一月廿五日「○戊子。車駕至自參河 (後略) 」
十二月十三日「○乙巳。太上天皇不豫 (後略) 」

 
「渡刈」の地名伝説も、この大宝二年 (702) の「持統天皇三河御幸」の折り、一行がこの地で鷹狩りをしたことから「鳥狩・鳥捕・都賀利・戸苅」と呼ばれるようになったと云うものである。この鷹狩りの故地は、現在、豊田市老人福祉センター「豊寿園」の裏手にある「鳥狩塚古墳」の辺りだとされ、それを記念する「持統天皇鳥狩記念之塚」も建てられている。ただし、「渡刈 とがり 」の地名に関して、歴史的には、「戦国期」の文明九年 (1477) 十二月二十六日『鹿島社棟札銘』に「大檀那三州國碧海庄都賀利郷」云々とあるのが初見であり (豊田市史、1978) 、「持統天皇」の時代まで遡らせるのには、やや無理があると云わざるを得ない。

この伝説に関して、大正五年刊の『碧海郡誌』 (碧海郡教育会、1916) と、そのさらに前年に建てられた、「糟目春日神社」の境内にある「末野原聖蹟」碑裏面の碑文を、以下に写すこととする。
 
末野の原
 
上鄕村大字渡刈附近一帶の原野を云ふ。傳へ云ふ嘗て鸞輿參河に行幸し、此所末野原にて鷹狩し給ひしとか。此の附近に殘存する數個の塚は其の當時狩の爲めに築き給ひしものなりと云ふ。村名登加利は鷹狩の意に出づるものなりとか。

續日本紀云、大寳二年十月甲辰太上天皇幸參河國、令諸國無出今年租云々、十一月戊子車駕至自三河、免從駕騎士調、とあり此所に云ふ太上天皇とは、當に持統天皇にして、傳へ云ふ、鸞輿行幸とは、此の時の事にして、末野の原にて鷹狩し給ひしは亦此の持統天皇にて御在すべきか。

 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、pp. 657-658
 
末野原聖蹟
 
傳云フ大寳二年持統上皇三河二行幸アラセラレ蹕ヲ此ノ地二駐メ鷹狩ノ事ヲ行ヒ給フ依テ地名ヲ鳥狩ト稱シ後世都賀利戸刈等ノ字ヲ用ヒ遂二渡狩ト記スルニ至ルノ所、梓弓末之腹野爾鷹田爲君之弓食將絕跡念甕屋ノ歌ハ此ノ地ヲ詠ジタルナル可其ノ他古詠頗ル多シ今茲ニ大典ニ當リ謹ミテ聖蹟ヲ顯揚シ碑ヲ建設シ以テ之ヲ後世二傳。
 
 梓弓末の腹野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや
 梓弓 末之腹野尓 鷹田爲 君之弓食之 將絕跡念甕屋
 
大正四年十一月建立
 
実は、先ほど「末野原」の地が随分内陸にある、と述べたが、それは「末野原中学校」や、愛知環状鉄道の 「末野原」駅などを念頭に入れての記述だった。しかし、よくよく調べてみると、前者は昭和六十年 (1980) に創立され、後者はその三年後に開業しており、極めて近年に「末野原」を名乗り出していることが判明した。いずれも『萬葉集』の歌から名前をとったに過ぎず、この地に「末野原」と云う現行地名が存在した訳ではなかったのである。近くには「寿恵野小学校」と云う学校もあるが、こちらも元々は「遍照寺」境内に創られた「尋常鴛鴨学校」 (明治六年創立) と云ったものを、昭和三十六年 (1961) に改名したものらしい。

そこであれこれ調べてみたのだが、その過程で、筆者の辿りつけた最も古い「末野原」「
寿恵野」関係の地元名は、「豊栄町」の鎮守様である「寿恵野神社」であった。流石に「鎮守様」と聞けば、大抵はその地域で最も由緒のあるお社であるから、その社号も自ずと古かろうと思われるものだが、この神社は少しばかり事情が違った。論より証拠で、この神社の境内に立つ由緒を記した石碑の碑文を見てみよう。
 
御由緒
 
紀州大納言徳川茂承公廃藩の後西三河の俗称論地山周辺を開拓するに先立ち、明治十六年一月八日現在地に神殿を造営し、天照座皇大御神 持統天皇 東照公の御 霊を奉祀し、鎮座際を行った。その後天鈿女尊、大山祇神を合祀し、当地の産土神として祭祀を怠ることなく斎行今日に至る。
 
紀州公開拓後、当地を徳川偕楽園と称し、地方史にも掲載された。
この偕楽園の中心をなすものが当寿恵野神社である。 (後略)

 
昭和五十七年十月吉日
豊栄町氏子一同
 
現地石碑より
 
要点だけ云えば、この神社は明治十六年 (1883) に新たに創設されたもので、それ以前は、この「豊栄町」一帯は「論地山」と呼ばれ、開拓すらされていなかったようなのである。新しく開拓された村だったからこそ、新しく創ったお社がそのまま鎮守様におさまったのである。いずれにせよ、筆者が簡単に調べた限りでは、「寿恵野」と云う地名も、最も早い時期でここまでしか辿れないのである。

行政地名としての「
寿恵野」はさらに新しく、明治二十二年 (1889) の町村制開始に合わせて、「渡刈・鴛鴨・隣松寺・永覚新郷」の四村が合併して成立した新たな自治体の名前に「寿恵野村」が選ばれていることに始まる。この村名は、明治三十九年 (1906) の「上郷村」との合併まで続いたが、合併後、旧村名四つは、そのまま大字として引き継がれたが、「寿恵野」の名前の方は公式な地名からは消滅している。生活に根ざさぬ新地名の宿命だったのだろう。

「尋常鴛鴨学校」で使用された「鴛鴨」の方はと云えば、いまだ「鴛鴨町」と云う地名が残っており、こちらが本来の地名のようである。この「鴛鴨」の地名の初見は「戦国期」で、天正八年 (1580) 五月二十一日の「徳川家康安堵状」に「上野隣松寺」領として「鴛鴨領之内」とあるのや、天正十九年 (1591) 『上宮寺末寺帳』 (上宮寺文書) に「おしかも 和泉」と記されているのが最古の記録だと云う (豊田市史、1978) 。また『角川日本地名大辞典』には、「鴛または鴨が多く生息するからとも、鴨氏の関連からとも、鴨部の居住からなど諸説ある」と、『岡崎市史』を引いて解説している。

ところで、上で見た「末野原聖蹟」碑に引かれた萬葉歌は、巻第十一 (2638) に収められたものなのだが、実は、この「末の原野」と云うのが一体どこの地を指すのかは、いまだ萬葉学者たちの間でも判明していないのである。それもそのはず、この「末の原野」と云う言葉が、そもそもどこで切れるのかさえ、いまだ確定されていないのだから、これは当たり前。したがって、これを現在の「豊田市」の一部に比定する根拠は、まったく存在しないのである。『上郷風土記』 (中根和光、1988) は、『碧海郡誌』の「上鄕村大字渡刈附近一帶の原野を云ふ」と云う一文を敷衍してか、さらに具体的に「現在の鴛鴨町、渡刈町、豊栄町、大林町、御幸本町を『末の原野』と称したよう」だと記しているが、そもそも『碧海郡誌』の記述さえ根拠のない希望的な推測に過ぎないのだから、これはとんだまやかしでなければ、少なくとも激しい勇み足なのである。ただ、この地域の郷土誌関係の書籍やネット上のサイトなどを参照しても、この地の「持統」命名伝説は、大抵は既出の『上郷風土記』と、その他では『上郷町誌』 (上郷町誌編纂委員会、1966) などが参照元とされているのだから厄介である。せめて『大日本地名辞書』あるいは『碧海郡誌』くらいを手にしてもらえると、この地名の起源に関して、もういくらか落ち着いた見解に辿り着くだろうに...。そう、『碧海郡誌』は上のように記してはいるが、全般的には断定口調を避けているのである。
 
 
 沙彌明空の郢曲撰要 (文保三年撰) の追加なる海道曲に「鳴海がた、干潟も遠き浦つたひ、風吹送る二村山、打過ぎぬれば是やこの、又國こゆる堺川、遠里遙に立のぼる煙の末野ひとすぢに」、按に末野を當國の名所とすること、古書に明徴なし、郢曲の詞によれば、碧郡の平郊渺々たるをさして云へることもありけるにや。

吉田東伍 (1907) 『大日本地名辭書 5』
冨山房


文保三年選、沙彌明空の郢曲撰要の追加なる海道曲に、「鴨海かた干潟も遠き浦つたひ風吹送る二村山、打過ぎぬれば是やこの、又國こゆる堺川、遠里遙に立のぼる、煙の末野ひとすちに、」とあり郢曲の詞によれば、末野の原とは必ずしも渡刈附近の原野を云へるものにあらず、碧海郡の平郊渺々たるを指して云へるものと見るべきか。
 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、p. 658
 
実際、『萬葉集』には、大宝二年の「持統天皇御幸」の際に詠われた和歌が五首か六首、残されているのであるが、そのうちの五首までもが巻第一に「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」と云う題詞の後に連なって、まとまった形で記されているのである*。しかし、「梓弓」の歌は、この中にはなく、載っているのも巻第十一であり、しかもその場所を特定出来る題詞などは一切ない。
 
* 参・日本古典文学大系『萬葉集・一』
卷第一・57-58
二年壬寅太上天皇幸二于参河國一時歌
右一首長忌寸奧麻呂
引馬野ににほふ榛原入り亂れ衣にほはせ旅のしるしに
右一首高市連黒人
いづくにか船泊てすらむ安禮の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟

卷第一・61
舎人娘子從駕作歌
大夫がさつ矢手狹み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし

卷第三・276
高市連黒人羈旅歌
妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
 一本云ふ、三河の二見の道ゆ別れなば吾が背も吾れも獨りかも行かむ
 
その上、これら『萬葉集』に載る「持統天皇」の「三河御幸」関連の歌で、「鷹狩り」など、遊猟を行なったことを詠ったものは一つもない。「舎人娘子 (61) 」の歌には「さつ矢」が現れているが、この歌は「丈夫 ますらを 」から「立ち向ひ射る」までが、「円方 まとがた 」と云う地名* を導き出すための序詞となっているから、この「さつ矢」云々は実際の狩猟を描いている訳ではなく、「円方」の「まと」を引出すイメージ遊びに過ぎない。しかも、「円方」と云うのは「伊勢」の地名であって、「三河」のものではないのである。
 
* 円方---三重県松坂市東黒部のこと (日本古典文学大系) 。
 
こうなってくると「末野原」と云う地名自体が、「
鳥狩渡刈」 と云う地名起源説から発して、その「鳥狩」と云う語から『萬葉集』の歌と結びつけることで導き出された新しいものなのではないかと疑わざるを得なくなってくる。もちろん、だからと云って、そのことが「糟目春日神社」のゆかしさを幾分でも減殺するものではない。何も、歴史上の有名人と結びつけずとも、由緒と云うものは、それだけで十分に独立した価値があるものなのである。

前回記事でも言及したことだが、我が国各地の神社は、「明治」の終わり頃に吹き荒れた「神社合祀令」の嵐の影響で、随分と強引な再編が行なわれている。その過程でなす術無く合祀されたり、単に廃止された神社も多い中で、それぞれの土地の人々は、おらが村の鎮守様を守るべく、あの手この手と、必死の保全策を講じたのである。その中の代表的な策と云うのが、神社の祭神を皇祖神か、「記紀」に登場する有名な神様に改めたり、歴史上、天皇家や有名人物との縁故があったことなどを強調することであった。

「江戸末期」から「明治」にかけて活躍した
国学者「羽田野敬雄」は、自身「羽田村八幡宮」の宮司だったのだが、「天保年間」には地元「三河」の古社を実地で巡って調査し、その結果を『参河国官社考集説』にまとめ上げている*。その中で、「羽田野」氏は、「上渡刈」に「糟目神社」の論社ががあることに丁寧に言及しながら、「持統御幸」に関しては何も触れていない。「羽田野」氏は、「明治」に入ってからも、自らの著に加筆訂正する機会はあったが、やはり「渡刈」の「持統御幸」伝説には触れることがなかった。筆者の見るところ、元々、この地には「渡刈」が「鳥狩 (鷹狩り) 」から発生した地名だと云うことが強く意識されていただけで、「持統」云々と云うのは、「糟目春日神社」が、おそらくは「明治」に入って以降、自らの生き残りを賭けて、式内社としての名乗りを死守しようとした過程で主張されはじめたのではないか、と思われるのである。
 
* この『参河国官社考集説』は、「羽田野」の約一世紀以前、享保十六年 (1729) に、やはり神主だった「彦坂常征」が、「三河」国内の神社の調査報告書としてまとめた『参河国官社考』を下敷きとして、それ以降、同じテーマでまとめられた多くの著作を参照して、「羽田野敬雄」が自説と絡めて総括したものである。上下巻と表現することが多いが、上巻を『参河国官社考集説』、下巻を『参河国神明名帳集説』と呼ぶこともあり、実際、両巻の間には重複する内容も多い。
 
明治二年 (1869) には「神祇省」によって式内社として認められつつ、三年後の明治五年には、今の「糟目犬頭神社」が自らを式内社として強くアピールしたのを受けて、結局、両社ともそれぞれに「糟目」を冠して、「糟目犬頭神社」「糟目春日神社」と名乗るとになった辺りに、その複雑な事情が見え隠れする。もっとも、この改称の時期を鑑みると、その主たる動機は「式内論社」認定争いであるのは明白であるから、その後の縁起の形成なども、「神社合祀令」の影響は少なく、この争いが原動力となっていた可能性の方が高い。
『碧海郡誌』には、以下のように記されている。
 
明治二年三年の頃渡刈村に於ては、官の調査を仰ぎ、その地の神社を式内社なりとの是認を受く、其の後明治五年に至り宮路村の犬頭社また古來糟目神社と稱し來りし故を以て官に具申する所ありて、式社たらんとの論爭ありしが、同年額田縣廳より敎部省に具申する所ありて宮路村犬頭社を糟目犬頭社と改稱し、渡刈村糟目神祠を糟目春日神社と改稱せしめられ、式社云々の件に就ては改まりての令達はあらざりき
 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、p. 644
 
ただし、「糟目神社」と云う「式内社」の論社認定争いに関して云っておかねばならないのは、「持統御幸」と云う事実の有無は、この論争の帰結に何ら影響するものではないと云うことである。「持統」伝承は、飽くまでも「糟目春日神社」の由緒正しさを強調するための小道具に過ぎず、その由緒の本質的な部分ではないからである。

しかし、この論社認定争いに関しては、「明治」以来、灰色決着のまま現在に至っている。明治五年* に、両者痛み分けのような官側の「大人の解決」によって、結局、以降、両社共に「式内社・糟目神社」は自社であると主張し続ける運命に置かれることになったのである。もっとも、明治三年頃に、「糟目春日神社」は政府から「式内社」のお墨付きをもらっており、明治五年の改称騒動以降も、「式社云々の件に就ては改まりての令達はあらざりき」と云うのが本当ならば、厳密には「糟目春日神社」のみが「式内社」認定されていることになるはずではあるのだが...。
 
* 『新編・岡崎市史 20』では、「糟目犬頭神社」の社名が確定したのは明治四年 (1871) としている。
 
その上、現に「糟目」の地にあると云うのが、「論社」比定論争にあって「糟目春日神社」にとって、大きく有利な点であることは、既に述べたように、疑い得ない。しかし、それにも関わらず、現在では式内「糟目神社」の論社と云えば、多くの文献や資料が、真っ先に「糟目犬頭神社」を挙げ、「糟目春日神社」の名は、並べてさえ挙げるものは少ない。何故このようなことになってしまうのかを十全に説明するのは難しいが、かいつまんで要点だけ云うならば、それは両社の知名度の違いに行き着くと云える。「糟目犬頭神社」は、「近世期」を通して幕府の譜代名門「大久保氏」の氏神としての地位を保持し、「家康」直々の朱印地を持ち、歴代の領主たちの尊崇を受けてきたと云う歴史がある。このことが、結局のところ、論社認定争いに際しても、「声の大きい方の意見が通る」式の現象を引き起こしたのであろう。

しかし、この点を除いても、もう一点ばかり、ことを複雑にしている事象がある。それは、
論社認定争いをしているどちらの神社も、過去に洪水のために移動を繰り返していることで、その移動の歴史の故に、現在「糟目」の地にあるから、『延喜式』に記された「糟目神社」に間違いない、と云うほど、議論は簡単には済まない、と云う事実である。現代的な観点からすれば、洪水で神社が流されたら、また元の地に再建すればいいことで、流れ着いた下流の地でそのまま祀られると云うのは、何だか奇妙な風に聞えるのだが、かつての我が国では、必ずしも例外的な出来事ではなかったのである。
 
*
 
筆者の住む「千葉県」には、その中央部に「高瀧神社」と云う、『日本三代実録』貞観十年九月十七日条にも名を残すなかなかの古社がある。神社の立つ「加茂山」の麓にある小湊鉄道と云うローカル線の駅名が「高滝駅」なのを見ても分かる通り、ここの土地の名前も「高滝」 (市原市) と云う。弘安六年 (1283) に成立した『沙石集』巻一「和光ノ方便ニ依リテ妄念ヲ止ムル事」条に、「上總國高瀧トイフ所ノ地頭熊野ヘ年詣シケリ」とあり、既に「鎌倉期」には知られていた由緒ある地名である。

ただ、不思議なことに、「高滝」の付近には、その名に相応しい滝がないのである。これは近年の「高滝ダム」建設に伴って、この辺りの地形が根本から変わってしまったからだと思って調べてみても、やはりダム建設以前から、この近くに「高滝」と呼べるほどの滝はなかったようなのである。だが、「高滝」の地から 「養老川」を二十キロほど遡ると「粟又」 (夷隅郡大多喜町) と云う渓谷の地があり、ここには大きな滝がある。現在は観光目的から「養老の滝」と呼ばれたり、その地の旧村名から「粟又の滝」などと呼ばれたりしているが、古い地誌などを繙くと、この滝の正式名称は「高滝」だと云うことが判明する*。これと云った高山のない「房総半島」にあっては、落差約三十メートルで、およそ百メートルに渡って岩の斜面を滑落するこの滑滝が、県下随一の規模を誇るのだから、この名前も納得がゆく。
 
* 滝そのものに限らず、この滝のある土地の字地名も、実は「高滝」と云う。「粟又」と云うのはこの滝を含んだより広い範囲を現わす大字 (旧村名) である。
 
そして、面白いことに下流の「高滝」の地には、この上流の「高滝」にまつわる伝承が残されているのである。曰く、かつて今の「粟又の滝 (高滝) 」の上に神様が祀られていたが、大昔の洪水の際に、「粟又の滝 (高滝) 」の上から流され、「養老川」を伝って、現在の「高滝神社」の地に流れ着いたのが同社の起源だ、と云う伝承である。しかも、その時期については、白鳳二年あるいは白雉二年の八月と、いやに詳しく伝えられている。
 
上古鎭座于夷隅郡粟又村之高瀧、後遷于本村。故稱高瀧神社云。
 
安川惟禮 (1877) 『上総國誌』明治十年
同叢書刊行会/編 (1959) 『改訂・房総叢書』第四輯、自刊
 
養老川は地内高滝で大きな滝となって流れ下る。この滝 (高滝) の岸の上に高滝加茂神社 (旧加茂大明神) が鎮座。もと滝頭にあった巨石に祀られていた神体が洪水によって市原市高滝に流され、同地の高滝神社の祭神となったという。
 
下中邦彦/編 (1996) 『日本歴史地名大系・千葉県の地名』 平凡社
 
この伝承 (特に年代) がどれほどの史実を伝えているかに関しては確かなことは何も云えないが、ここの神社が古くは「加茂大明神」と号していたことと (「高滝」の地も旧「加茂村」にある) 、「房総半島」の南北には「養老川」を介するように「カモ」地名が複数あり (eg. 鴨川市、市原市加茂、南房総市加茂、旧・加茂村など) 、かつて「鴨氏」が割拠した形跡は見られることを併せて考えると、このような伝承もまるで荒唐無稽とは言い切れなくなるのである*。しかも、幸いなことに、「高滝 (市原市) 」と「大多喜町」の「高滝 (粟又の滝) 」の間では、「高滝」の名を巡っての本家争いは起きていない。まあ、どちらも式内論社じゃないし、元宮と云うのが滝上の中之島にあるちっぽけな祠だからね...。
 
* 「高滝」の旧地とされる「粟又」は、隣りの「田代」地域とも一括りにされ、「吉田東伍」も、『大日本地名辞書』の中で、「田代、粟又七村は今夷隅郡に属し、老川村と改む (中略) 高滝郷とも呼ばれたり。山渓の形状より観察すれば、市原郡 (古代海上郡) の域内たること勿論にして、加茂の高滝神は、即此地より現境へ転ぜしめたりと云ひ、由来市原の属なるが、後世夷隅郡ヘ入りたるなり」と記している。一方、 この「田代」には「田代池の大蛇」の伝説がある。この蛇が元々「大多喜」の池に棲んでいたが、その地を「戦国」の「正木氏」の武勇に追われ、「田代池」 「平沢の撲沢池・内梨の滝」と移り渡って、最後は「関平内左衛門」に討たれる (しかも犬頭伝説!!) と云う伝えである。舞台となっているのが、「夷隅川」「養老川」の源流域が交錯する地で、なおかつその地が「市原郡」から「夷隅郡」に編入されたりした過去があること (田代は夷隅郡側の西畑村と市原郡側の田代粟又七村に分割されていた) 、「高滝神社」の奉ずる「加茂神」が「蛇婿入」型の神話で知られる「蛇神」であることなどを併せ考えると、あるいは、この「高瀧神」の遷宮伝説は、この地に於ける過去の勢力の変遷の記憶を留めるものなのかもしれない。
 
要するに、この「高瀧神社」の例からも分かるように、川の流域沿いでは、神社や神様が流されて、他所の地に鎮座するなどと云うことがしばしば見られるのである。どこそこの観音様やら地蔵様やらが流れてきたなどと云う創建伝承を持つ寺院まで入れれば、それこそ結構な数になるだろう。そして、それらの例の中には、その神様を奉祭していた集落が、神様と一緒にまるごと移住したなどと云う場合もあったようである。こんなとき、はたして元宮と新宮で、どちらが本来の神様かと問われても判断に困ってしまうだろう。
 
*
 
「糟目犬頭神社」と「糟目春日神社」の場合は、そもそも、両社がかつて同一のものだったと云う伝承もなければ、そのような認識もないのだから、上に挙げた「高滝」の例とは微妙に違うのは確かである。だが、このような事実が全国に散見され、両「糟目社」にも洪水移転の歴史があるとなると、どちらが本来の「糟目神社」かの議論が錯綜してしまうのは避けられない。何しろ、その上で、身も蓋もないことを云ってしまえば、実はどちらの神社も、自らを式内「糟目神社」だと主張する決定的な史料に欠いているのだから、尚更である。

「彦坂常征」が享保十六年
(1729) に取りまとめた『三河国官社考』に は、式内「糟目神社」に関して「或云重原荘上渡刈村塩指社也、又云青海荘宮路村、犬頭社と」と云う記述が見られ、既に「江戸中期」にはこの二社を式内「糟目神社」に比定する向きが存在したことが知られる。しかし、この所説が果してどの程度普及していたかについては、疑問がないでもない。元文五年 (1740) に成った『三河国二葉松』や、寛政二年迄 (c. 1790) に成立した『三河堤』などの地誌には、『日本文徳天皇実録』『延喜式』に載る「糟目神社」と「犬頭・春日」両神社を関係づける記載は、基本的にはない*。
 
* 『碧海郡誌』 (1916) は、『三河国二葉松』に「糟目神社、渡刈村鹿島大明神」とあると誌すが、筆者は該当箇所を見つけられなかった。あるいは、写本の内の一本にあるのかもしれない。
 
個別に見た場合、式内「糟目神社」を「犬頭霊神」と結びつける (筆者の知る限り) 最初の記述は、上に見た享保十六年 (1729) の『三河国官社考』のものなのだが、『三河国内神明名帳』には二つの別個の社として記された「糟目神社」と「犬頭霊神」を説明的に結びつけたのは、天保七年 (1836) の『参河』にある「上和田犬頭宮に併祭る」と云う一文であろう。『六ツ美村誌』 (1986) によれば、寛政五年 (1793) の「拝殿造立棟札」には、既に「式内糟目神社犬頭大明神」と記されていると云うから、十八世紀の後半辺りから、自らを「式内社」と謳う「糟目犬頭神社」の自覚的な運動が開始されたものと思う。

もっとも、『参河志』は、
「糟目犬頭神社」だけでなく、「糟目神社」と「糟目春日神社」をも、次のように結びつけて考えていた
 
或曰上渡刈村に加須茂と云處あり所の產土神鹿島大明神社領三石神主神谷氏或曰細河渡し西岸に小祠あり是糟目社と云今は汐さし明神と云上古此邊りまで潮のさし來る故に名とす
 
渡邊政香/編 (1836) 『參河志』第三卷、天保七年
愛知縣幡豆郡教育會/編 (1921) 『參河志』自刊、p. 131
 
ただし、『參河志』の編者「渡辺政香」は、「犬頭・春日」両社が、それぞれに式内「糟目神社」と自らを結びつける伝承を持っていることに触れつつも、それらの伝えに対して、明確な自己の考えを持っていたようでもある。例えば、「糟目犬頭神社」の方の伝えには、「後風土記三才図会に依れば、糟目社は延喜以前祭之、犬頭は天正の頃祭之。其首を埋みて社を建るとあれば、新に社を建しにて、古よりある糟目の神社に併祭るとは見えず (句読点、筆者) 」と論じている。より後年「羽田野敬雄」も、『参河国官社考集説』の中で、「当社を糟目神社也と云説あり。されど此帳* に糟目社と犬頭社と別に載たれば非言なるか (仮名・句読点、筆者) 」と述べ、「糟目神社=犬頭神社」説に疑いの目を向けている。

* 『三河国内神明名帳』のこと

これに対して、「糟目春日神社」の方の伝えに関して、「渡辺政香」は、上記引用文の他にも、「又云上渡刈村堤の下にある神祠是なりと云」などと記し、いくつかの異説を唱えた後に、最終的には「糟目神を祭る社数々あり何れ是なるや後世博識の考をまつ」と述べているが、異説の筆頭に「渡刈村」の「鹿島大明神」を挙げていることからも、それを最重要視していることが知れる。

「羽田野敬雄」
は、『参河国官社考集説』において以下のように記し、「糟目犬頭神社」「糟目春日神社」のいずれに対しても、かなり懐疑的だったようである。
 
○按豫天保十年八月。其社地參詣シニ。社地上渡刈村今村間。細川渡シ塲川岸ニアリテ。上渡刈ニテ。鹽指大明神。其棟札糟目神社トアリサレドトハエズ。例祭八月朔日也天明八申八月建タル石燈樓アリ。銘鹽指大明神トアリ又寳曆二年タル石鳥居モアリサレド社地四尺許小社ナリ (中略) 町村守山氏云。上今村ニアリ岸也。トアルト同所ナルベシ。尙ヨクムベシ
 
羽田野敬雄 (1839) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』上卷、天保十年
豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
 
*
 
ここまでに式内「糟目神社」の比定を巡る「糟目犬頭神社」と「糟目春日神社」の争いを概観してみたが、ここらで筆者がはっきりさせておきたいことは、どの社が「式内社」であるかどうかについては、筆者はあまり重視していないと云うことである。何故なら、筆者が興味を抱いているのは、「犬頭霊神」を祀る信仰なのであって、「糟目神社」の比定は当面の目標に含まれていないからである。

ただ、ここまで、二つの「糟目神社」の来歴を概観することを通して、筆者にとって重要な論点が二点、浮上してきたのも事実である。一つは、いったん「持統天皇御幸」伝承の影響を取り払えば、「糟目春日神社」とその地を巡る伝承類が、実際には「鳥狩」伝承に集中している、と云うことである。これは、この後に見てゆくことになる、「糟目犬頭神社」以外のいくつかの「犬頭神社」がみな、「三河の犬頭糸」伝説にあやかって、一般に「養蚕」と関わる神様であると考えられていることを考えると、「糟目春日神社」が、その縁起の基層に「狩猟」文化の名残りを見せていることは、極めて興味深い事象である。何故なら、「糟目犬頭神社」もまた、その他の「犬頭神社」と異なり、その縁起は「養蚕」 色が極めて薄く、著しく「狩猟」伝承に偏った内容となっているからである。この点については、後の節で、より詳しく見ていかねばならない事項である。


もう一つ気づいたことは、これらの神社の縁起には、「国学」の勃興した「近世」より前の時代との間に明白な断絶があると云う点である。これは何も「三河」地域の 「犬頭神社」類に限らず、「国学」の勃興が「尊王攘夷」や文芸・学術上の復古的な「古典主義」化の動きを全国規模で喚起したことは疑い得ないのだから、「糟目神社」の論社認定争いが、各地の同様の争いと時を同じくして、「江戸後期」に盛んになっているのは当然のことである。しかし、それにしても十八世紀より以前の縁起がまったく不明の中、「糟目犬頭神社」が「南北朝期」の創建伝説を語ったり、「平安末期」の『今昔物語集』の説話などと強い類似を見せたり、あるいは、「糟目春日神社」の縁起に「持統天皇」の「三河御幸」伝承が登場したりするのは、筆者としては、何かしら不自然なものを感じずにはいられないのである。

そして、この疑問は、「三河」に鎮座する、もう二つの「犬頭神社」の来歴を見ることで、さらに深まるのである。



4. もう二つの「犬頭神社」

この節の見出しに使った「もう二つの〜」と云う表現が、我が国語として規範的なものかどうかについては、まるで自信のないところだが、実際、筆者の知る限り、「三河」地方には「犬頭神社」と呼ばれる (呼ばれた) お社が、少なくとも後二つ存在するのである。以下、それぞれについて、簡単に見てゆくこととする。

1) 「豊川犬頭神社」
 
豊川犬頭神社01
「豊川犬頭神社」
NET-PLAZA
「犬頭神社犬頭神社の大クス 豊川市」より
 
ここまでは、『延喜式』神名帳に記された式内社「糟目神社」に比定される二つの神社を見てきた。そして、その過程で、図らずも「渡辺政香」がその『参河志』 の中で、「犬頭神社」が「糟目神社」と併せ祀られたと記している記事に出くわした。しかし、その際に触れなかった事実に、その同じ記事が、「糟目犬頭神社」の縁起である「飛犬頭」伝説のみならず、『今昔物語集』巻二十六に第十一語として収められた「犬頭糸」伝説にも触れていると云う事実があった。

そこで、まず、『今昔物語集』に載せられる「犬頭糸」の話を紹介しておこう。原文がやや長いのと、所々に脱字や意味不明の部分があるため、ここでは筆者の要約を載せることを許されたい。
 
参河国に犬頭糸を始むる語
 
昔、「三河国」の郡司は二人の妻に養蚕をさせていたが、どうしたことか本妻の飼っていた蚕がみな死んでしまったため、夫も愛想を尽かし、本妻の家は困窮していった。ある時、桑の葉に一匹の蚕がついているのを見つけ、飼うことにした。この家ではその頃、一匹の白犬も飼い始めたのだが、この犬が蚕を食べてしまった。蚕一匹のために犬を打ち殺すべきでないと、ただ泣き悲しんでいると、くしゃみと共に、犬の鼻の穴から二本の糸が出てきた。引いても引いても糸は出てきて、ついには四五千両ばかり巻き取ったとき、糸はようやく巻き尽くされ、犬も倒れて死んだ。これは仏の助けだったに違いないと思った妻は、桑の木の根元に犬を埋めた。たまたま夫が訪ねてくると、荒れた家に一人、妻だけが大量の糸を扱いかねて座っていた。話を聞いた夫は、仏の加護がある人を粗末にした自分を悔い、それからは新しい妻のところには通わずに、元の妻の家に留まった。犬を埋めた桑の木にはびっしりと蚕がつき、素晴らしい糸が採れた。そのことを国司に伝えると、国司はこれを朝廷に報告したので、以降、犬頭と云う糸を三河国から献納することになり、この糸で天皇の衣服が織られたと云う。
 
参照・作者未詳 (c. 12C前) 『今昔物語集』卷第二十六
「參河國始犬頭糸語」第十一

森正人/校 (1996) 『今昔物語集・五』新日本古典文学大系 37、岩波書店、pp. 51-53
 
この説話について、『碧海郡誌』は、次のように記している。
 
犬頭絲の物語
參河國は上絲國なりき。今昔物語に犬頭絲の物語載す。本郡六ツ美村に犬頭犬尾の兩神社あり。又矢作町の里間に古來此の犬頭絲の物語を傳承せり。(中略)
此の物語今昔物語に參河とあれど何れの郡なるか明ならず只だ本郡に於て此の事を傳へ又犬頭神社と稱するあるを見れば何かの因緣あるにや興更に多し。

 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、pp. 811-813
 
ただし、「三河」の「犬頭神社」として最も知られた「糟目犬頭神社」の縁起では、この由緒ある「犬頭糸」の説話にまったく触れていない。これについて、現在の郷土史関係者たちは、あまり注意も向けず、単に「違う」と云う事実を受け容れ、「糟目犬頭神社」と「犬頭糸」説話との関係を深く追及、あるいは考察する姿勢を見せていないことが多い。しかし、上記のように「渡辺政香」が、「糟目犬頭神社」の「飛犬頭」譚を紹介するのに並べて、『今昔物語集』の「犬頭糸」譚も紹介することを通して、早くも十九世紀の前半期に、
「糟目犬頭神社」の縁起譚を歴史化しようとする意欲を見せていることを考えると、現代の我々の姿勢は怠慢の誹りを受けたとしてもやむを得ない。

「渡辺政香」の考えを代弁するならば、要するに「三河」と云う極めて狭い範囲に「犬頭」と云う全国的に見ても極めて稀な社号や伝えを持つ神社があることと、『今昔物語集』に「犬頭糸」伝承と云うものが「三河国」に伝わるものとしてと記されている事実は、ただの偶然では片付けられない因果関係によって結ばれている可能性が高い、と云うことなのだろう。そして、もしもこの伝えと
糟目犬頭神社」との間に、元々は密接な関わりがあったとするならば、それが「平安末期」の物語集に採られている以上、その関係の方が、「近世」の書誌以降にしか散見出来ない、現在に伝わる「飛犬頭」譚型の縁起よりも本来的なものだと云うことになる、と云う主張なのだろう「渡辺」よりはわずか後に活動を開始した「羽田野敬雄」も、おそらくは同様の意図を以て、「糟目犬頭神社」の縁起の時代的な安定性の欠如を重視しているものと思われる。もちろん、「近世期」から「明治初期」の著述家と云うのは、筆者のような駄弁は弄さず、極めて簡潔な紋切の漢文調で筆を運ぶため、以上のことを上に挙げた二人が明確にその著作に述べている訳ではないが、敢えて筆者がここで得意の駄弁で言葉を補ったら、こんな感じではなかろうか、と云う程度の話ではある。

ところで、
「糟目犬頭神社」と「犬頭糸」伝承との関係については、以上のような傍証を通しての疑問を通じて論ずることしか出来ないが、「三河」には、この伝説と直接関係のあるとされる神社が、今も確かに存在しているのである。その社は、「豊川市千両 ちぎり 町糸宅 いとげ 」の「佐奈川」べりに鎮座しており、その社名もまた「犬頭神社」と云う。「羽田野敬雄」の『三河国官社私考 (三河国官社考集説) 』下巻に、「○宝飯ノ郡兎渡ノ庄千草郷下千両村産土神ニモ。犬頭大明神ノ社アリ」と書かれた神社である。

この「犬頭神社」への道のりは、どこから行くかによって異なるのは当たり前なのだが、とにかく「豊川市内」で、県道21号・豊川新城線に乗り、「千両町」の信号で県道334号・千万豊川線に入って北上するばかり。「豊川インターチェンジ」からならば、「本野町東浦」で県道334号に入るルートになるだろうか。後は、九百メートルほど北に進んで、左にJAや消防団の建物のある一角を左に曲がると、その先に神社の杜はある。地理的には、「佐奈川」と「水久保川」の合流する地点のわずか南に辺り、「佐奈川」対岸には「曹洞宗」の「善秀寺」があり、その裏山には「熊野神社」が鎮座している。神仏混淆時代には、これら三つの寺社は、互いに互いの別当だの鎮守などを務めていたことだろう。

それにしても、『今昔物語集』に載っているのが地元の伝えだともなれば、これが大きく取り扱われないはずはなく、「三河」の郷土誌関係の書籍を手にすると、これとほぼ同じ話が、より具体的な固有名詞などを含んで伝えられていることを知ることになる。例えば、『愛知県の歴史散歩・下』 (愛知県高等学校郷土史研究会、1992; 187) では、『今昔物語集』と基本的に同じ物語だが、匿名の郡司が「 (国司) 門野経時」になり、無名の「白犬」も「源九郎」と云う立派な名前を与えられている*。登場人物の具体名は登場しないものの、同様の説話は、他の書籍にも多く見られる (豊川市史、1973; 132- 133/ 豊川市教育委員会、1977; 72-75 /豊川の歴史散歩、1993: 130-131 / 滝川、1996 / 豊川信用金庫、1998; 24-28 etc.) 。
 
* この「門野経時」「源九郎」伝承の文献上の初見がいつになるのか、現在、調べている最中である。「愛知県立図書館」からは、これらの名前が載るのは『愛知県の歴史散歩・下』旧版 (1992) のみで、同書の新版 (2005) にも、同館所蔵の他書にも記載はないとの回答を得ている。
 
しかし、「門野経時」の名前はさて措き、「源九郎」などと云う明らかに「近世」的な名前のついた犬の存在から判断しても、流石にこれらの言い伝えの方が、「平安末」に成ったとされる『今昔物語集』よりも古いものとは思われない。したがって、どちらかと云わずとも、これら地元の伝承の方が、後々、『今昔物語』に載る話を元に、より具体性を持たせた形で再創造されたのではないかとは思う。

伝説は別として、実質的な産物としての「犬頭糸」の由来については、地元の郷土史家「
豊田珍比古」が、その著『東三河郷土雑話』 (豊橋新聞社、1961) において、「東三河は平安朝時代から屈指の蚕業地で、上質な繭糸、精巧な絹布を産することで有名であった。犬頭糸の名で朝廷の御用に備えるとともに、大嘗会の御用となり、赤引糸の名で、伊勢神宮の神衣祭の御料になった」と簡潔に述べている。『碧海郡誌』にも次のように紹介されている。
 
犬頭絲は其色雪の如く白くして美麗なりしかば、每所蔵人所に納めて天皇御召服の料に供し奉り、又赤引絲は其質善良なりしを以て伊勢の皇大神宮に献じて神服の御料に供し奉りしこと古史に明かなり。
 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、p. 567
 

「三河国」は、『延喜式』巻二十四「主計寮上」では既に、「十二国並上糸」に入れられ、古くから優れた養蚕地として知られていたことは間違いない。『延喜式』には、さらに、「凡貢夏調絲者。 (中略) 參河二千絇。 犬頭絲。  (中略) 竝七月卅日以前納訖」と云う記述や、「參河國 (中略) 調、襷羅、藻羅各一疋、一窠綾十五疋、二窠綾五疋、犬頭白絲二千鉤」という記述が見えるが、これらが歴史上の「犬頭糸」の初見である。要するに、『延喜式』によれば、「三河」は「犬頭糸」と云われる上質の生糸の名産地で、十世紀には既にその糸を「調」として朝廷に貢納していたのである。

さらには、十二世紀に書かれた「平信範」『兵範記』仁安三年 (1168) 七月六日条には、後の「碧海郡」地域の大部分を内包する「碧海荘」は、仁安三年 (1168) 以前に「三条女御 (鳥羽天皇女房・斎宮研子母、保延四年没) 」所領として立券され、「犬頭糸」六十勾を年貢としたが、これは「三河国」からの進上分四百勾の内であったから、国司からの貢進分は三百四十勾となっている旨が記され、引き続いて七月七日条には、「犬頭糸」が天皇の衣服を織るのに用いられたことも記録されている。念のため、原文を下に記す (訓読点は筆者が私に付したものなので、あまり信頼されないように....) 。
 
六日乙未  (中略) 參河糸解文、藏人信廣申-上犬頭絲解文二通、下官取之先内覽、次持-參奏聞、次啓皇太后宮御方、件絲自參河國衙一向調進四百勾惣數二千兩、勾別五兩定、近年以後三條女御々領碧海庄立券之中被此所出、仍彼庄分進六十勾、國領分進三百四十勾、仍解文有二通也、年中御服用途大略申入宮御方
 
七日丙寅 内裏御遊具於清凉殿東庇佳例、被
於東庭、乞巧奠如例、藏人基光奉行於桂芳坊御服犬頭糸織女例、白河殿御節供、家司左衞門佐信基調-進
 (太字・筆者)
 
平信範 (1168) 『兵範記』仁安三年七月七日条
増補史料大成刊行会/編 (1975) 『増補・史料大成 20』臨川書店
 
また、元弘三年 (1333) の『内蔵寮領等目録』には、「碧海荘」の年貢として「犬頭糸」七十七両 (五両で一勾) と銭二百文を納めた、ともあるので (宮内庁書陵部所蔵文書/新編岡崎市史 20) 、少なくとも「中世期」には、「犬頭糸」と云えば、「三河」の特産品として、一定の知名度を誇っていたようなのである。

一方、「犬頭糸」伝説の方もまた、独自の普及・展開を見せていたようで、十五世紀には、この伝説が独立した絵巻物の形で流布していた形跡が残されているのである。
『看聞御記』の永享六年三月二十四日条には、以下のように、他二つの絵巻物と並んで、「犬頭糸の絵」が、門外不出の秘蔵品として挙げられている。
 
廿四日 (中略) 寳藏繪三卷 粉河觀音繪。書寫上人繪。犬頭糸繪。見參。此繪有子細軒外。雖然依召-進

私訓】宝蔵の絵は三巻 (粉河観音の絵・書写上人の絵・犬頭糸の絵) 、見参に入る。此絵は子細有りて軒外に出さず。然か依ると雖へども、之を召進す。
 
伏見宮貞成親王 (1434) 『看聞御記』永享六年三月二十四日条
塙保己一/編 (1980) 『続群書類従・補遺二下』訂正三版、続群書類従完成会、p.193
 
残念ながら、この「犬頭糸」の絵巻は、現在までに完全に散逸してしまい、その内容を知ることは不可能になっているが、筆者は、この絵巻の内容は基本的には『今昔物語集』と同工のものでありつつ、一方で、これが現在、「三河」地域の二つの「犬頭神社」に伝わる「犬頭糸」伝説と関わりがあるのではないかと、推測しているのだが、このことについては、また後ほど触れることとする。
 
*
 
ここからは完全な余談ながら、せっかく「犬頭糸」の話が出たのだから、「豊田」氏も挙げていた「三河」特産とされるもう一つの絹、「赤引糸」のことにもを少々触れておこう。

「犬頭糸」と並び称されるほどであるから、当然、「赤引糸」についても、古い来歴が知られている。実際、その史料上の初見は、「犬頭糸」よりもかなり古い。『日本書紀』
持統天皇六年 (692) 閏五月丁未 (十三日) 条に「○伊勢大神奏天皇曰、免伊勢國今年調役。然應其二神郡赤引糸三拾伍斤來年其代 *」とあるのが最古の記述であろう。ただし、ここには産地が「三河」であるとの言及がなく、文面を読む限り、むしろ「伊勢」の産である印象が強い。
 
* 「伊勢国の今年の調役免したまへり」の部分は、同三月十七日条に「神郡、及び伊賀・伊勢・志摩の国造等に冠位を賜ひ、并て今年の調役を免し」云々と見られる調役免除のことだと思われるが、それ以下は、「度会・多気」の両神郡の「赤引糸」も貢納を免除されると、四月に行なわれる神宮の「神衣祭」に必要な量も確保出来なくなるので、三十五斤は徴収するが、その代わりに来年の調庸からこれに相当する分を免除したい、と云う内容を、「伊勢大神」の神託に託して神官たちが上奏した、と云う意味だと思われる。日本古典文学大系本、参照。
 
そこで、「赤引糸」を「三河」の産物と明記した最古の史料は何かと問うと、それはおそらく
貞観十年 (868) 頃に成立した令集解』の以下のくだりだと思われる (飽くまで筆者の素人判断で...) 。

謂。伊勢神宮祭也。此神服部等。齋戒潔清。以參河赤引神調絲。織-作神衣。又麻績連等。績麻以織敷和衣。以供神明。故曰神衣。釋云。伊勢大神祭也。其國有神服部等。齋戒淨清。以三河赤引調糸。御衣織作。又麻績連等。麻績而敷和御衣織奉臨祭之日。神服部在右。麻績在左也。敷和者。宇都波多也。此常祭也。古記无別。 (太字・筆者)

惟宗直本 (c. 868) 『令集解』卷第七
「神祇令天神地祇條」孟夏・神衣、貞観十年頃


この他にも、「大林卯一良」氏は、その『三河絹の道』 (東海日日新聞社、1992) の中で、「伊勢神宮」の古文書に、「三河地方」から「赤引の糸」が奉献された記録があると記しているが、これは、十三世紀初め (鎌倉初期) に成立したと考えられる『神宮雑例集』巻二に、「任式條三河國神調赤引御絲。可神御衣由所言上也」と記され、「三河国」の「赤引糸」が「伊勢神宮」の「神御衣」を織るのに使われたことが記されていることを指しているものと思われる。

いずれにせよ、『
令集解』や『神宮雑例集』に限らず、「赤引糸」の産地を「三河国」とする信頼すべき史料は多く (eg. 『貴嶺問答』『公事根源』) 、「三河」がその主産地だったと云うことは動きそうにない。しかし、延文五年 (1360) の『神鳳鈔』には、「尾張国」で「赤曳糸」を産したとも記されており、あるいは「赤引糸」と云うのは、特定の産地に限定された蚕糸ではなかったのかもしれない。「芝山宗太郎・野村彦太郎」の『日本蚕業史』 (1893) には、その書の執筆時、「福島県下岩代国」で「赤引種」と云う蚕の品種があることも指摘して、「赤曳といへるハ地名にあらずして美麗なる染糸をいふなるべし」と述べている。両氏はさらに、「祝詞式に明妙、照妙 あかるたへ とかけるを見てもしるし又儀式帳に赤曳糸を明曳糸ともかけり年中行事に赤良曳荷前御調糸とあるをみても地名にあらざるが如し」と述べている。前記文中の「儀式帳」とは、延暦二十三年 (804) の『止由気宮儀式帳』中の「六月例」における「次大神宮司、次多気度会二箇神郡所進 明曳 調糸乎、内人等持立」とあるのを指すのであろうが、「年中行事」とあるのは『建武年中行事』のことなのかは、確認出来ていない。

ちなみ
に、「大林」氏は、上掲書にて、「赤引糸」を「青く光りある糸」と述べているが、この典拠としている『日本蚕糸史略』と云う書に就いては、確認出来なかったが、次田潤」も『祝詞新講』の中で「赤引の糸というのは、光艶がある糸の意で、絹糸のことである (次田、1927; 434) 」と述べているから、「青く」の部分は措くとして、光沢のある絹糸と云う点では当たっているのかもしれない。ただし、『日本書紀』の日本古典文学大系本は、「赤引糸」を「あからひきのいと」と訓み、その注で「アカラヒキは赤い色を帯びているの意」としている。大系本は、「赤引糸」の異称「赤良曳荷前御調糸」 (典拠、示さず) を挙げ、「あからひき」の訓みと同時に「赤い糸」の意の根拠としているが、これは既に見たように、「赤引糸」の場合、「アカ」が「赤」と云うよりは「明」を意味する用例がいくつか見つかっている以上、それを「あか」と訓もうが「あから」と訓もうが、説得力は低い。
 
*
 
さすがに余談が過ぎたので、この辺りで、「豊川犬頭神社」の話に戻ろう。


現在、この神社に関しては、『今昔物語集』に載る「犬頭糸」伝説とほぼ同じものが地元に伝えられているのは、既に見た通りである。
ただ、この伝説の来し方については、やや不確かなことがある。「糟目犬頭神社」の縁起については、まだあまり詳しく見ていないが、こちらの話も、時代設定が「南北朝期」だったり「戦国末」だったり、伝説の主人公の名前が異なったり、極めて不安定な伝えなのだが、少なくとも「忠義な犬」型の説話の原型は、「近世期」には確立されていた気配がある。それに対して、「豊川犬頭神社」の縁起として語られる『今昔物語集』以来の「犬頭糸」型の説話の原型が出来上がったのはいつの時代なのか、まったく手掛かりがないのである。「近世期」の地誌類にも、「犬頭神社」と「犬頭糸」説話を直接結びつけて触れているものを筆者は見つけられないでいる。

地元の郷土史関係の書籍を渉猟すれば、きっと「犬頭糸」伝説がいつ、「犬頭神社」の縁起譚として定着したのかを推測するに足る情報が出てくるものと思えるが、筆者が今すぐ思いつく限りで、最も古い資料は、昭和五年 (1930) での「柳田國男」の証言である。

「柳田國男」は、論考「海神少童」の中で、ここの神社の伝承について、興味深いことを述べているのだが、その過程で、論考の執筆時には、現在の「豊川市千両」の辺りには「犬頭糸」伝承があったことを確認している。しかし、それに引き続いて「柳田」は、興味深いことを書いている。
 
三州寳飯郡八幡町の千兩大明神は、又の名を犬頭宮とも稱へて、昔ある正直な女の爲に、鼻から多くの絹糸を出したといふ靈犬の故跡と認められて居たが、今から百年ほど前に或學者が其地を訪ひ、故老に就いて尋ねて見たところが、所謂犬頭糸の由來は痕形も無くて、ただ浪人が此里を開いた時に、その飼犬に金を糞するものがあつて、毎年得る所の黃金が千兩であつた。故に又千兩 ちぎり といふ村の名が出來たと語つて居たさうである (神祇全書卷四) 。 (下線・筆者)  
  
柳田國男 (1930) 「海少童」
萩原正德/編 (1930) 『旅と傳說』三元社、p. 67
柳田國男 (1998) 『柳田國男全集 6』筑摩書房、p. 304
 
ここで「柳田」が「今から百年ほど前」の「学者」と云っているは、本記事にも既に何度も御登場頂いている「羽田野敬雄」のことであり、言及されているのは『
三河国官社私考』における、以下の彼の聞き書きだと思われる。

○天保五年 (1834) 二月廿八日。豫此ノ社ニ參詣テ。其ノ村人ニ問ヘルニ古老ノ云傳ヘニ古ヘアル浪人體ノ人來テ。此ノ村ヲ開發セシトキ。其ノ人犬ヲ連レ來レリ。然シテ其ノ犬金ヲ糞ス。其ノ金每年千兩アリ。故村ノ名ヲ千兩ト號ク。其ノ犬死テ埋メタル所ニ社ヲ建テ。犬頭大明神ト號ス。
(中略)
其社地邊ノ字ヲ糸家ト云其南一丁許ニ字ハチギリト云畠アリ石アリ手ヲフルレバタヽリヲナストイヘリ。

 

羽田野敬雄 (1843) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』下卷、天保十四年
豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
 
これに対して「柳田」は、次のように述べて考察している。
 
昔話は一所不在に流傳するものであつたけれども、やはり何等かの因緣ある土地だけには、引掛つて殘る傾向を持つて居た。是が三河の犬頭の宮などに、第二の犬の傳說が入替つて居た理由であるらしい。卽ち住民は曾て靈ある犬の說話を聞知つて、それを稍忘れかけて居た所であるが爲に、比較的多くの注意を、次に來るものに拂つたとも考へられるのである。
 
柳田國男 (1930) 「海少童」
萩原正德/編 (1930) 『旅と傳說』三元社、p. 68
柳田國男 (1998) 『柳田國男全集 6』筑摩書房、p. 305

ここの部分は、短いくだりながら、実は至って難解な文章となっている。その最たる要因は、「柳田」の云う「三河の犬頭の宮」と云うのが、「糟目犬頭神社」を指しているのか、「豊川市」の「千両犬頭神社」を指しているのか、はっきりしない点にある。これがはっきりしないと、「柳田」が言及している「第二の犬の伝説」と云うのも、いわゆる「忠義な犬」型の「飛犬頭」伝説のことなのか、それとも「金の糞をひる犬」の話なのか、あるいは「犬頭糸」型の説話のことなのかさえ、まるで分からなくなってしまうのである。

もし仮に前者だとすると、「柳田」は、「糟目犬頭神社」の縁起譚は、現在の「飛犬頭」譚に落着する前は、「豊川犬頭神社」と同様に、『今昔物語集』系統の「犬頭糸」伝説を伝えていたと考え、しかる後に「第二の犬の伝説」としての「飛犬頭」説話が置き換わったものと見なしているかのように受け取れるのである。

しかし、逆に、後者だとすると、今度は、「柳田」が「豊川犬頭神社」の縁起譚のうち、いずれが先だと考えていたかがはっきりしないために、彼の考察にも二つの可能性が生まれてしまうのである。第一のものは、通念通り、「犬頭糸」型の説話が古い層だとして、その上に被さった「第二の犬の伝説」は「金の糞をひる犬」譚と云うことになる。反対に、第二の可能性は、地下 じげ で語られていた「金の糞をひる犬」譚の方が基層を成しており、「犬頭糸」型の説話が「第二の犬の伝説」として、後から混入したと云うことになる。

ただ、上記引用文の直前まで、数頁に渡って、「金の糞をひる犬」の話をしていたため、素直に考えれば、「柳田」の意図は、「豊川犬頭神社」の縁起譚を、元は『今昔物語集』に見られるのと同系統の「犬頭糸」譚だったものの、その記憶が薄れるに従って、また別の犬の霊異譚としての「
金の糞をひる犬」譚を受け容れるに至った、と見なしていると理解するのがよいようである。また、 (ここまで柳田は示唆していないのだが) このように考えた時、「糟目犬頭神社」の縁起譚に関しても、かつては「犬頭糸」型の説話が語られていたが、ある時期から「飛犬頭」譚に置き換わってしまったと、すなわち、「三河国」にはかつて「犬頭糸」を巡る信仰が一定の地理的な広がりを持って広まっていたが、後に、それぞれ固有の理由で、別々の伝承へと発達したのだと、両者の間に齟齬なしに考えることが可能になるのである。

しかし、筆者は、残念ながらこの解釈には、あまり賛同していない。さして深い根拠とてないので、極めて恐縮なのだが、筆者の考え方は、同じ「三河」と云う限定的な範囲に、「犬頭神社」と云う、全国的に見てもかなり稀な名の神社が複数存在する以上、それらの間に何かしらの関係があるものと見なすのが自然だ、と云う一点の理解に基礎を置いている*。
 
* 実際、「三河」に限らずとも、全国にどれだけ「犬頭神社」と云う名の神社があるかを調べれば、筆者の前提の正当性が理解されるだろう。「近江」地方には、「犬上氏」にまつわる「犬上神社」に絡んで、「犬頭」と表記して「いぬがみ」と訓ませる神や社をわずかだが見ることが出来るが、それ以外では、「神奈川県平塚市」の「諏訪部神社」に「犬頭霊神」が分祀されているものくらいしか筆者は知らない。だが、これとてこの地が「小田原・大久保氏」の領地であり、そのために一族の発祥の地である「碧海郡・六ツ実村」 (現・岡崎市) の「糟目犬頭神社」から分霊を請うたものなのである。そもそも、「三河」の「犬頭神社」群とは基本的に無関係だと目される「近江」の「犬上神社」群でさえ、一部に「飛犬頭」縁起と云う類似した伝承を有しているものがあるのだから、同じ地域内で「犬頭」などと云う変わった名前を冠しておきながら、互いにまったく関係がないと云うことはなかなかあり得そうにはないのである。
 
もちろん、ここまでは前々段落において述べた考え方とも基本的には通じているのだが、その後の変容の様態に対する推測が少し違うのである。要するに、ただ単に木に竹を接ぐように、新しい層の伝承が、古層の上に、覆い被さったと見なすことに少なからず疑問を抱いているのである。

そして、この疑問の核心を成すのは、ただ「変わった」と云うだけの姿勢では、その変化・変容の複雑な諸契機や諸様態について、何ら汲むところがないと云う思いなのである。筆者はむしろ、分析の第一段階としては、変容の契機と、それを可能にした諸要因を検討する中で、仮に「犬頭糸」譚からの変容があったとしても、はたしてこの「犬頭糸」譚が、複数存在する「三河」の「犬頭」譚の基層を成すものなのか、それともこれ自体にさらに復元や推測の可能な古層を探ることが出来る性質のものなのか、と云うことを追及すべきだと感じるのである。そして、もしもこの考察を通して、より古い層を探ることが可能だと云うことになれば、逆に、「犬頭糸」譚を、現在流布する「三河」の諸々の「犬頭」譚よりも本質的に古い層を成すものだと前提的に考えること自体が、分析上の手続きとして偏向してはいないか、と云う新たな疑問を提示していかねばならなくなるのである。

同じことを、別の言い方で表現しよう。単純に見れば、今のところ見てきた、「三河」に鎮座する二つの「犬頭神社」は、伝承上、互いにまったく無関係な体をなしているのであるが、この事実を筆者は、ある種の驚きを持って受け止めている。そして、その事実を通して、特に二つの点に自らの注意が強く引きつけられるのを禁じ得ないのである。一つは、その一見した相違にも関わらず、両者に共通する基層の部分は、「犬頭糸」譚以外にあるか、と云うことであり、もう一つは、逆に、何が二つの神社の縁起をまるで異なるもののように見えるまでに分離させてしまったのか、と云う点である。

もちろん、これらの疑問は、元々、二つの「犬頭神社」が同じ源から発していると見なすと云う前提の上に立っていることは忘れていない。しかし、逆説的に云えば、同源であると云う前提に立って、そこから発生する様々な疑問に真摯に立ち向かっていけば、その理論的な営為がどうにもならぬ袋小路に入り込んでしまったとき、それは筆者の立脚点としての前提が間違っていたと云うことの何かしらの証明にはなるだろう。

ここでは、以上のような問題意識を持って議論を発展させていくことになるのだが、さらに話を進める前に、筆者には、一つだけ小さな仕事が残されている。それは、最後に残された、三つ目の「犬頭神社」について概観しておくことである。

 
2) 「旧・桑子神社」—犬頭大明神
 
白鳥神社・熊野森03
「白鳥神社・熊野森」
original photo by masaki
 
『今昔物語集』に見られる「犬頭糸」伝説の 「犬の頭」を祀ったとされる神社が、実は、上に見た「豊川市千両」の「犬頭神社」の他に、もう一つ「三河」の地には存在した。その神社は、東海道本線「西岡崎」駅から北に徒歩で六、七分、「岡崎市大和町」の「妙源寺」北、字「宮地九番地」の地に鎮座していた。かつては「碧海郡桑子村」と云ったこの地の鎮守であったため、「明治期」には「村社・桑子神社」となったが、それ以前は一般に「犬頭大明神」として通っていたとされる古社である。

ただし、残念なことに、この古社に関する史料等については、「明治初期」の火災ですべてが焼亡してしまっており、さらに、昭和二十一年 (1946) 二月には、同じ町内 (字平野) の「白鳥神社」に合併されてしまったため、この神社に関する文献資料は一切残されていないと云う。当然、神社そのものも、いまはもうその旧地にはない。分かっていることは、祭神が
「木祖神 (=久久能智神) 」だと伝えられることと、上記の合併のことだけである。したがって、現在の「白鳥神社」および「岡崎市役所」は、旧「桑子神社」の由来については不詳である、と云う立場を採っている。社頭石碑にも、次のように誌されている。
 
社碑
 (中略)
由緒
大正四年四月御祭神伊弉那美命の熊野神社へ御祭神日本武尊の白鳥社が合併され白鳥神社と改称された
昭和二十一年二月御祭神木祖神配祀市杵島比賣命の桑子神社が合併になり現在の白鳥神社となる
熊野神社の由来については不詳である 白鳥社は往古日本武尊東征の折御駐軍の地で尊の三世の孫大荒田命の後裔が父祖の神霊を奉齋したと傳えられている
桑子神社の由来も不詳である
(中略)
白鳥神社社務所
 
社頭石碑より
 
地元に伝わる口碑によれば、「桑子神社 (犬頭神社) 」は、その社号からも察せられる通り、「養蚕」の神様だったとされ、この地がかつて「矢作川」の自然堤防を利用して「養蚕」を盛んに行なっていたことに関係するものと考えられている。「三河」の地は、「古代」、極めて優秀な生糸産地として知られており、この地で生産された絹は、朝廷や「伊勢神宮」に物納されたと伝えられているのは、「千両・犬頭神社」の項で見た通りである。しかし、文献上は、『碧海郡誌』の云うように「其の創始年歴を詳にせず。桑子の村名また詳ならず。或は桑蚕なりし云ひ、或は桑椹なりし云ふ (ibid.; 174) 」と云うのが実態である。

この神社は、文献記録も残らず、神社自体が近隣の神社に合併されてなくなってしまっているとは云え、その跡地は、幸運にも、比較的良好な状態で残されているのである。何故、この地ばかりが宅地化もされずに残されたのかについては詳しくは知り得ていないのだが、とにかく、その地は今も「桑子児童遊園」と云う名の公園として残り、市民の憩いの場となっている。
 
桑子児童公園
写真 1.「犬頭神社跡地」の「桑子児童遊園」

桑子神社跡地01桑子神社跡地・石碑
写真 2.
「村社 桑子神社」石柱      写真 3.「桑子神社趾地」碑

桑子神社跡地02
写真 4.「社殿基壇跡」
桑子神社跡地・犬頭石
写真 5.「犬頭石」
 
写真 1., 3.-5.
ブログ『深爪 ON THE NIGHT
「さんぽ《西岡崎編》その1」より
写真 2.
ブログ『リミッターのある生活って
「桑子神社 (跡地) 」より
 
この跡地には、上掲写真を見ても分かる通り、神社のうわものとも云える狛犬や灯籠、社殿類を除けば、逆に、ほとんどすべてのものが残っている感さえある。中でも、「桑子神社趾地」の石碑の立つ石組みの立派な基壇の後ろに、一回り小さく、わずかばかり高い石壇が残されており、その中央に据えられた一つの自然石は、大切な信仰の遺物である。この石は「犬頭石」と呼ばれ、基壇の配置から判断して、かつては拝殿後ろの本殿内陣に秘蔵されていた御本体だったのではないかと思われる。この辺りのことは、文献史料が一切ない以上、昭和二十一年以前の状態を明瞭に記憶している古老を探すしかないのだが、一介の訪問者には、そう都合よく地域の歴史伝統に詳しい老人に出会えるはずもない。

この「桑子犬頭神社」の信仰については、いまだ往時のことをよく覚えている人々が多くいたと考えられる昭和四十年代に、『名古屋タイムズ』と云う、いまはもうない (2008年休刊) 懐かしの地域夕刊紙にちょっとした記事が載せられていた。詳しくはないが、簡潔に「桑子犬頭神社」のことに触れ、肝心要の「犬頭石」についても説明を残してくれている。
 
岡崎市大和町に、桑子神社というのがある。同じ町内の白鳥神社に合祀され、碑をとどめるにすぎないが、かつては独立した社としてあり、元の名を犬頭神社と呼んだ。その桑子神社のもとあった場所——現在は遊園地になっている——には、伝説の犬が死んで石になったといわれる ”犬頭石” が残っている。この石にさわるとオコリになるといわれた。むろん、それを信じる人は、今はいない。また生糸の産地であることも、いまは昔かしの物語である。
 
黒部節子 (1972) 「東海のロマン——白糸奇譚」
『名古屋タイムズ』昭和四十七年 (1972) 三月十八日
 


実は、この記事の脱稿後に、「大正天皇」即位記念事業として計画されたまま、ついに刊行されることのなかった「幻の『矢作町誌』」に「桑子神社」に関する記事があると聞き、方々、調べてみると、この郷土誌の書は、編纂委員の「鈴木徳松」氏によってまとめ清書されていたものが、平成九年に『大正版・矢作町誌』として覆影版が刊行されていると云うことであった。この中の「桑子神社」の記事を読むことで、ここまでに筆者が述べたことの一部が妥当性を欠くことも判明した。しかし、全文を書き直す時間的ゆとりが現在筆者にないことと、訂正を要する内容と云うのが些細なことであると云う事情も合わさり、また、「桑子神社」に関する古い文献が他に残されていないと云う文献史上の重要性をも鑑みて、ここでは以下、『大正版・矢作町誌』の中の「桑子神社」の記事を転載することで、全面的な書き直しに代えさせて頂きたい。途中、『今昔物語集』の「犬頭糸」説話を引用した箇所は省いた。
 
桑子神社 桑子字宮地 境内八畝歩 民有地 境外所有地八歩
     祭神 木祖神  配祀 市杵島比賣命
     末社 稲荷社 保食神
当社ハ往古ヨリ犬頭神社ト申シ現在地ニ鎮座マシマセシガ社殿焼失ノ為メ字沓市場ヘ御遷座申シタリシガ明治八年十一月十九日村社確定ト共ニ社号ヲ桑子神社ト改称シ九年二月現境内ニ遷ス
本社傍ニ一ノ靈石アリ世ノ人犬頭石ト云フ以前ハ妙源寺地内太子堂ノ西北ノ方ニ犬石ト云ヒテ往古ヨリ地上ニ石面出テタリ人此石ニ觸ルレバ忽チ瘧病ニカヽル依テ俗ニ一名ヲ瘧リ石トモ称ス是レ全ク犬塚ノ石ナリ明治維新トナリ神佛混交ノ許可ナキニヨリ字宮地神地境内ニ移セシナリ大正三年拝殿ヲ新築ス (中略)
稲荷社ハモト北組郷中ニアリシガ明治八年当境内ニ移シ仝四十二年社殿ヲ改築シタリ
 
鈴木徳松/編 (c. 1925) 『大正版・矢作町誌』自筆本
覆影版 (1997) 岡崎地方史研究会、pp. 307-308
 


この石にさわるとオコリになる」と云う伝えは、「堀田吉雄」の『東海の伝説』にも、「おこり石」と云う見出しのもと、「今の桑子社は、もと犬頭社といわれ、犬頭石というのがあった。この石にさわるとおこりにかかるといった」とあり (堀田、1973; 85) 、かつてはよく知られた伝承だったようである。しかもこの伝え (迷信) は、実は「豊川犬頭神社」の社地辺ノ字ヲ糸家ト云。其南一丁許ニ、字ハチギリト云畠アリ*。石アリ。手ヲフルレバ、タヽリヲナストイヘリ (句読点、筆者) 」と云う「羽田野敬雄」が『三河国官社私考 (三河国官社考集説) 』下巻に注記した伝えとまったく同じであるとさえ云え、両社の信仰の間に、何かしらの行き来があったことが想像される。
 
* 字ハチギリト云畠---この部分は、どこで区切って読むかによって、その示唆する内容が大きく変わることになる。先入観を持って読めば、これは「字は、ちぎりと云う畠」と云うことになるが、一般に土地の名を云うときに、「字」の後に助詞の「は」を入れることは稀であるため、素直に読めば、この部分は「字はちぎりと云う畠」と云うことになる。字が「はちぎり」となれば、これは「鉢切り」とも解釈出来、この地にかつて「犬の頭を斬り放した」と云う内容の伝説があった可能性が示唆されるのである。しかし、もしもこの可能性を認めると、「糟目犬頭神社」の縁起である「飛犬頭」譚と、「千両・犬頭神社」の縁起である「犬頭糸」譚とは、まったく無関係なものである、と云う従来の考え方は通用しなくなる。問題は、一見して、「犬頭」以外共通点のないこの二つの説話に、過去どのような接点があり、それが、その後どのように乖離して、現在のような別々の伝承へと発達したのか、と云うことになろう。
 
ただ、「豊川市千両」の「犬頭神社」には、『今昔物語集』とほぼ同じだが、固有名詞などが確定してより具体的になった「犬頭糸」伝説が伝わっていたのを見たが、ここ「桑子」に伝わる「犬頭糸」伝説は、『今昔物語集』とも「千両」の伝説とも、微妙に異なる内容となっている。残念ながら、この地の伝えは、『
岡崎市史』など、公にされている資料には記載がなく、地元の口碑としてのみ残されているので、ここで典拠を示すことは出来ない。「岡崎市教育委員会・社会教育課」の御協力を仰いで確認した限りでは、次のような簡略な伝承が残されている*。
 
村人が飼っていた犬が、ある時、村中の蚕を食べてしまい、死して石と化すに際して、大量の絹糸を吐いたと云う。なお、この石は神社旧地に残されており、触ると「オコリ」になるという言い伝えが残されていた。
 
筆者聞取りによる
  
*
後日、「愛知県立図書館」の御協力を得て、「桑子犬頭石」の伝説について次のようなヴァリエーションがあることを知った。「矢作地区小中学校合同研究会」が出した『矢作の里』に載る「犬頭の糸」と云う章に、「桑子神社」に伝わる話として、「平田」に住む和尚が飼っていた「白い犬」の「しろ」が、村中の「蚕」を全部食べてしまい、口から白い糸を吐き出し、やがて石になってしまった、と云う古老から採取した話である (ibid., 1973; 65-67) 。『続おかざきのむかしばなし』も、犬の名前を「しろ」としている (岡崎の昔話編集委、1984; 92-95) 。
 
当然、これよりも詳しい内容が確認出来ればそれに越したことはないのだが、それでも辛うじて「犬が村中の蚕を食べてしまう」と云うモチーフが採取出来たのは幸いである。何故なら、ここに初めて我々は「三河」の「犬頭」伝承の中に、単なる報恩型ではないモチーフを見出し得たからである。「糟目犬頭神社」の「飛犬頭」譚も、「千両・犬頭神社」の「犬頭糸」譚も、いずれも犬の飼主に対する恩返しを主題とした説話となっており、そのままでは「羽田野敬雄」が「千両」の地で採取した「手を触れると祟りのある石」の伝えとは、まるで接点がなかったのであるが、「村中の蚕を食べてしまう」害なす獣としての「犬」が立ち現れたことで、その退治と後日の祟りと云う説話の展開が留保されたのである。
 
*
 
ここまで来て我々は、ようやくついうっかり見過ごしてきた事実に気づかされるのである。それは、『今昔物語集』に載る説話を典型とする「犬頭糸」型の説話では、「犬の頭」を、「犬の胴体」あるいは他の身体部位と、別々に分離して祭る必然性がないと云うことである。

「糟目犬頭神社」の縁起に見られた「飛犬頭」譚であれば、斬り放された「犬の頭」が大蛇を退治する霊威を発揮するのであり、さらには斬り放されているが故に、それを埋 うず めて祀ると云うことにも、一定の合理的な必然性が確保されるのである。しかし、一方の「犬頭糸」譚においては、犬が「絹糸を出す」と云う霊威を発揮しているときは、確かに頭の一部である鼻の穴から糸が出ているとは云え、いまだ五体満足の状態にあり、糸を出し終わって死ぬときも、やはり五体満足のままなのであって、首と胴とは別れを告げていないのである。そして、そうであるならば、何故、残された人々はことさらに「犬頭」を祭ったのか、そしてそれ以上に、何故そのために福徳をもたらした「犬」の首をわざわざ斬り落さねばならないのか、と云う疑問が生じるのは避けられないのである。

奇跡を起こしたのは、正確には「犬の鼻」なのだが、それとておおまかに云えば「犬の頭部」なのだから、その部位に対する崇敬の念から、特に頭部を強調して敬ったのだ、などと一応はそれらしい解釈を試みることも出来る、しかし、どうもこれではとってつけたような印象は免れない。この程度の理由づけでは、何故祭るのかまでは辛うじて説明出来ても、首を斬り落とすと云うグロテスクな行為の方の動機の説明にはまるでなっていないのは明らかだからである。

ましてや、「桑子」の例に限って見れば、何しろ、犬が死して化した石のことを「犬頭石」と呼んでいるのだから、これはやはり「犬の頭の霊威の象徴」などと云うよりは、より直截的に「犬の頭」を祭ったものだと考えるのが妥当だろう。石自体は、「犬」そのものなのだが、石の名前だけが「犬頭石」なのだと云う説明は、何にせよ通りが悪い。石自体が犬ならば、単純に「犬石」と呼ぶのが民衆の情と云うもので、何も的を射ていない小難し気な漢語を当てることもなかったのである。「犬の頭」にしては、石が大きすぎる、などと云うのは、
「犬」が絹糸を吐いたり、死後に石化したりなど、多くの霊異が既に語られている中では、たいした問題ではないし、反論を構成する要素にすらなるまい。

しかし、どうして「犬の頭」を祭るのか、と云うことと共に、やはり筆者は、そもそも「犬」の「頭」と「胴体」が分離した状態で埋葬され、かつ敬われるのは何故か、と云う点にも強く興味を引かれる。しかも、現在活字化されている縁起譚には登場しないモチーフだが、天保年間には、ただ単に「頭」と「胴体」を分葬するのではなく、より根本的に屍骸をバラバラにしていたかのような印象を与える伝えがあったことが知られている。これは「千両・犬頭神社」のことだが、
「羽田野敬雄」の『三河国官社私考 』下巻には、先ほど紹介した「金の糞をひる犬」の伝えを紹介した箇所に引き継いで、次のようなくだりがある。
 
...犬死テ埋メタル所ニ社ヲ建テ。犬頭大明神ト號ス。又此ノ村ノ出鄕ニ。大崎。六角ト云ル二村アリ。大崎ハ舊クハ尾崎ト書テ。其ノ犬ノ尾ヲ埋メタル地。又六角ハ彼ノ犬ノ頭ニ六角ノ角ノ如キモノアリ。ソヲ埋メシ地也。今東隣ニ足山田トイヘル村アリ。ソハ其ノ足ヲ埋メタル處也ト云傳ヘタリト物語レリ。

 
羽田野敬雄 (1843) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』下卷、天保十四年
豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
 
これを読んですぐに抱く疑問は、六角の角が生えていたら「犬」ではなかろうと云う素朴なものから始まり*、何故、上質の絹糸を出して斃れただけの「犬」の体が、頭だとか尾だとか足だとかに分解されてしまっているのか、と云う本質的なものにまで至る。
 
* ここで「角のある犬」なら「狛犬」だ!! と主張する「狛犬」通もいるかもしれないが、筆者としては、その角が六角であると云われている以上、ここではそのような考えは留保する。しかし、実際には、「六角村」の地名語源説自体、既にあった地名に対する後世の付会だろうから、この故事つけを行なった時点で、人々のイマジネーションの中には、「角のある犬」と云うイメージがあったと考えられる。このことは、「千両」の「犬頭糸」伝説の形成因の一つに、「狛犬」のイメージが含まれていた可能性を示唆しているとも云える。
 
死んだ「犬」の屍骸がバラバラに埋葬されると云うモチーフは、「糟目犬頭神社」の縁起に見られる特徴的なもののはずであるが、「犬頭糸」説話とは、まったく接点もなく、相容れないものである。仮に、相当無理な屁理屈を並べて、「絹糸」を紡ぎ出した霊威高い「犬の頭」だけを特別に個別化して祀るために、死後、その頭部を切り離したと言い張ったところで、「角」は措くとしても、何故「足」までも首を失った骸から切断せねばならなかったのかは説明出来ない。要するに、「犬頭糸」伝説だけでは、何故、「犬」の屍骸は分断されるのか、と云う問いに答えられないのである。

『日本歴史地名大系 23』 (平凡社、1981) は、『穂原村誌*』の一部を引いて、「一説ニ、犬ノ吐キタル糸ヲ本郡東上村ニテ籰ヲ繰リ、足山田村ニテ機ヲ織リ、其ノ絹ヲ天照皇大神宮ノ御簀ニ献ジケルニ、其糸千両ノ価アルヲ以テ村名千両ト号スト云ヘリ。其故ニヤ、東上氏神ヲ籰繰神社、足山田氏神ヲ服織神社ト号セリ」と誌している。そして、この口碑の内容を以て、「犬頭糸」伝説に見られる屍骸分断との関連を訴える人もあるかもしれない。確かに、「犬頭神社」を筆頭に、近隣の三つの神社が一揃いで一つの機能を果たしていると云う点においては、屍骸を分断して祀ったと云う縁起と共通しなくもないが、死体をバラバラにすると云うモチーフは三つの社の祭祀の起源を説明するのに対して、
『穂原村誌』に紹介されている伝えはその祭祀の起源にはまるで触れないと云う点で、両者は本質的にはまったく異質の伝承なのである。
 

* 「穂原村」は、明治二十二年 (1889) の町村制発足に当たって、「宝飯郡」の「千両・市田・野口」の三村が合併して誕生し、明治三十九年 (1906) に「平幡村」と合併して「八幡村」を形成するに当たって消滅した自治体名である。ちなみに、この『穂原村誌』の原書は発見出来なかったため、刊行年などは未詳。
 
また、屍骸を分断して祀る「千両・犬頭神社」の伝承は、「屍骸分断」のイメー ジを離れて、内容面から見れば、かつての郷村連合などの成立過程を語る「村系図」のような役割を果たしているものであり、飽くまでも「六角」「尾崎 (大崎) 」が「千両」本村の分村なのだと云うことを子々孫々に記憶させるための伝承である。したがって、そこに語られているのは「屍骸分断」の話ではない、と云う 人もいるだろう。だが、これに対しては、伝承の内容からは無関係であるからこそ、何故、「屍骸分断」のイメージが採用されるのか、と云うことが大きな問題 となるのである。ましてや、それが社号と関係が深い伝えであり、近接する地域の類似する神社にも、同様の傾向が見られるとなると、いよいよその水面下での 重要性は無視出来なくなるのである。

さらには、「犬頭神社」縁起に見られる「屍骸分断」の要素を説明するのに、祭神が養蚕の神とされる「保食神」であることなどから、これは「
月夜見尊」に斬られた「保食神」の身体各部位から、五穀や家畜、蚕などが発生したと云う『日本書紀』の神話との共通性を唱える人もあるかもしれぬ。しかし、「保食神」は、首を斬られていないし、体もバラバラにはされていない*。しかも、眉から蚕を発生させたのは確かだが、その他にも「牛馬・稲・麦・稗・粟・大豆・小豆」なども発生している訳で、作物・家畜類の「屍体発生」が「養蚕の神」とされる「犬頭神社」の専売特許のように語られるのは明らかにおかしかろう。
 
* 「屍骸分断」の観点から見るのであれば、「記紀」における「イザナギ」による「カグツチ」の斬殺と園屍体の分断の方がはるかに類比として適している。ただし、これとて、その他の要素にまるで共通性が見られないため、「犬頭神社」縁起との直接の関係は想定しにくい。
 
いずれにしても、我々が「三河地方」の「犬頭神社」群の縁起類を見渡すと、その表面で語られている「忠義な犬」や「福徳を持たらす犬」のイメージのさらに奥深くに、「妖獣退治」譚としての性格も潜在していることが分かり、それによって「屍骸分断」のイメージが、よりはっきりと浮上してくることを、ここでは観察した。

しかし、誤解のないように確認しておくと、筆者としては、この「屍骸分断」こそが、これら縁起・信仰の最古の基層を成す部分だと唱えている訳ではなく、現在語られている、別々の形の縁起類が成立する以前のいずれかの時期に、どうやらほとんどの「犬頭神社」で「屍骸分断」のイメージを負っていた痕跡がある、と述べているだけである。今後は、この点が、どのように社号としての「犬頭」と関わってくるのかと云うことにわり重点を置いて、考えをまとめていきたいと思っている。



5. おわりに

結局、今回の記事でも、前回から引き続き検討している「唐猫」「狛犬」「唐獅子」の頭部の霊力を巡る議論に入れなかったばかりか、その前段階としての「犬頭」伝説の吟味にも、十分に入れたとは云えない内容になってしまった。

しかし、一方で、この記事を通して、「尾張」に隣接する「三河」の広い地域に渡って、古くから「犬頭」の霊力を巡る伝承が存在すると云うこと、そして、その伝承類が必ずしも安定的に伝えられてきたものではないこと、などを確認することは出来た。中でも、今後の議論にとって特に重要な事実として、この地方の「犬頭」伝説が、必ずしも「養蚕」関係に限られる性質のものではないと云うことを確認出来たのは収穫であった。

さらには、「犬頭糸」伝説を伝える地域にあっては、その伝承が多分に『今昔物語集』のものと接近してしまっているものの、少なくともつい最近まで、それと異なる系統の伝えも残されていたらしい気配を見出したのは、重大な事実である。特に、「柳田國男」が「羽田野敬雄」の「幕末期」の調査から、「千両」の「犬頭糸」伝説が、「天保期」には「金の糞をする猫」と云ういわゆる「花咲か爺」「鼻たれ小僧」譚に通ずる「海神少童」型説話として語られていたと云う事実を指摘していることは、この地方の「犬頭糸」伝承を考えるに当たって、極めて重要な視点を我々に提供してくれる。

また、「千両」および「桑子」の両「犬頭神社」に、『今昔物語集』には見られない「犬頭石」の伝承があり、その石に触れると「オコリ」になると云う「祟り」の伝説があることも興味深かった。このような「恵みをもたらしつつ、祟りもなす」と云う二面性こそが、「千両」および「桑子」の「犬頭神社」の「犬頭糸」伝説が、『今昔物語集』の説話と大きく異なる点であり、またこれら説話が単なる福徳譚ではないことを示す、原説話の残滓と考えられるのである。

そして、このことを通して、我々は、この地の「犬頭糸」伝承が、単なる福徳の示現譚としての「海神少童」説話であることにとどまらず、ある種の「妖怪・霊獣退治」譚をその下敷きにしていたのではないかと云う、合理的な疑念を抱くに至るのである。この事実は、「犬頭糸」伝承とは別系統の「犬頭」伝説であり、「忠義な犬」型に属する「糟目犬頭神社」の縁起に見られる「飛犬頭」伝承と、そこに含まれる「犬頭・犬尾」の分祀と云う、「屍骸分断」のイメージとも連携すると云う点で、極めて重大なものだと筆者は考えている。

「桑子」に伝わる「犬頭糸」伝承は、また、「犬が村中の蚕を食べてしまう」と云うモチーフを持つことによっても、これらの説話が元「妖怪・霊獣退治」譚であったと云う考えを補強してくれ、かつ、この地の「犬頭」伝説がただの福徳譚ではなかった可能性を強く示唆するのである。

次回以降は、これらの事柄に対する考察を深化させつつ、より具体的に「犬の頭」の霊威に焦点を絞り、「尾張・三河」地域にかつて存在したと筆者が推測する、「狛犬の頭」を巡る信仰の跡を辿るってみたいと思う。その過程で、「忠義な犬」型の「飛犬頭」譚の分析に当ててゆこうと考えている。

参考文献

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・安川惟禮 (1877) 『上総國誌』明治十年
 同叢書刊行会/編 (1959) 『改訂房総叢書』第四輯、自刊
・千葉縣敎育會/編 (1916)『千葉縣市原郡誌』千葉縣市原郡役所
・藤澤衛彥 (1917) 『日本傳說叢書・上總の卷』日本傳說叢書刊行會
・神社本庁調査部/編 (1963) 『神社名鑑』同名鑑刊行会
・同辞典編纂委員会/編 (1984) 『角川日本地名大辞典 12』角川書店
・ねずてつや (1994) 『狛犬学事始』ナカニシヤ出版
・三遊亭円丈 (1995) 『THE 狛犬! コレクション』立風書房
・藤倉郁子 (1995) 『狛犬』岩波出版サービスセンター
・下中邦彦/編 (1996) 『日本歴史地名大系・千葉県の地名』 平凡社
・藤倉郁子 (2000) 『狛犬の歴史』岩波出版サービスセンター
・山川均 (2006) 『石造物が語る中世職能集団』山川出版社
・たくきよしみつ (2006) 『狛犬かがみ』バナナブックス


参照サイトなど


・神社本庁教学研究所研究室/編 (1995) 『平成「祭」データ』神社本庁、CD-ROM
・「東三河を歩こう」NET-PLAZA
・「liondog の勉強部屋」=めちゃくちゃ秀逸なサイト
・「すずかハイキング」のうち「ヤマイヌ」「ヤマイヌ附録」=めちゃくちゃ秀逸なサイト
・「岡崎市役所教育委員会事務局社会教育課」には、大変なお世話になりました!!

愛知県の猫神・おからねこ

.31 2012 中部地方 comment(2) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していく
シリーズがつづけていきたいと思っていたのですが、
時間的な制約から
子供むけの文体・内容と大人向けの内容の二本立ての記事を保つことが困難となり、
今回からは子供向けの記事は終わりとします。
「唐猫」シリーズは、後少しばかり続きます。御了承下さい。

大直禰子神社
おからねこ
名古屋市中区大須 4-11-20

 
おから猫01  
「大直禰子神社」
 
1. はじめに

名古屋地下鉄「上前津」駅の「12番出口」を出て、南へ徒歩数十秒、距離にしておよそ二十メートルほど行くと、地元の人々からは「おから猫」と呼ばれて親しまれて来た小さな神社が右に現れる。入口の石段の右には、「大直禰子神社」と刻まれた石の社号標が立てられ、左には、町中にしては大きな木が立っている。石段を四五段上った先に石の鳥居が構えており、その奥に「拝殿・覆屋」があって、その下に祭神を祀った「本殿祠」がある。南から訪ねていく場合は、前津通りに沿って「上前津郵便局」の北へ、二つ隣りくらいだったと思う*。
 
* 筆者の「大直禰子神社」訪問は、六年前 (2006) のことである。
 
筆者が、ここの神社を訪ねたのは、実はもう六、七年前のことで、「足助」の番茶や、「新城」「西尾」「四日市」のお茶産地を巡ると同時に、「四日市」や「桑名」、それに「常滑」の名窯を特殊な急須を求めて行脚した際、「大須観音」の骨董市に出かけたときだった。時間が早すぎて、いまだ開いている店は二三店しかなく、やむなく近くを散歩したり、喫茶店で名古屋名物のモーニングを満喫したりして時間を潰したのである。散歩は、十五分くらい真っすぐ東に歩いてから引返したのだが、その切り返し点の近くでふと目に入ったのが、ビルの谷間にちんまりと収まった、由緒ありげなお社だったのである。

このときは、この神社のことは知らなかったのだが、ちょうど社号標の右後ろに当たる、瑞垣のうちに、木製の高札が建てられ、墨書きでこの神社の由来などの説明が記されていたので、これを読んで初めてここの一風変わった縁起などを知ったのである。以下、その説明板の内容を紹介しよう。

大直禰子神社由緒

        祭神 大直禰子命
        例祭 六月十日

当社の祭神は大直禰子命にして人皇㐧八代崇神天皇の御代国内に疫病流行して天皇痛く宸襟を悩まし給ひしが一夜夢中に大物主命 (大国主命) 枕上に立ち給ひ我を大直禰子をして祭らしめよ 然らば国内の疫病直ち止まむとの神告によって河内国に住みし大直禰子命をして祭祀を掌どらしめ給ふ之に依て国内の疫病止まりしといふ (古事記) 之は即ち現今奈良県三輪町鎮座、大神神社 (元官幣大社にして大和国の一宮) 初代の神職にして大直禰子命は之大国主命の子孫なり

尚当社は古来より「おからねこ」の俗称を以て猫の守護の如く云ひ慣ひしも祭神とは何ら関係なきにして家内安全無病息災の霊験あらたかなるものなり
 
現地説明板より
 
当然、このとき初めて、筆者は、えっ、なんか猫に関わる話があるの? と思ったのである。しかし、いくら大都会の「名古屋」でも、こう云う小さな神社に人が朝から常駐しているはずもなく、近くに事情通の御老人などが歩いていないかと目で探ったが、休日の朝に人通りもさほどなく、めぼしい相手を発見することは出来なかった。この時は、しょうがなく、参拝だけして「大須観音」に帰ったのであった。

しかし、縁とは不思議なもので、骨董市も盛りを迎えた頃、筆者がさる骨董屋で急須をいくつか手にして店の主人と話しているとき、ふと、先ほどの神社の話をしてみると、色々な情報が集まってきた。もっとも、店の主人は、「おから猫」は知らない様子で、猫なら「東仁王門通り・ふれあい広場」に巨大な招き猫がいるけど、その神社のことは聞いたことがない、と云うことであった。
 
 大須・招き猫
「大須
・ふれあい広場」の「招き猫」
MAPPLE 観光ガイド提供
http://www.mapple.net/spots/G02301029301.htm
 
 
そんな話をしていると、隣りにいた五十がらみの男性が、「赤門通り」と「新天地通り」が交錯する角に「美奈須 ビーナス
と云う喫茶店があり、そこには木の「招き猫」が祀られているよ、と教えてくれた。でも、新しいものらしいよ、とも付け加えていた。公式ブログ (?) では、百年くらい前のものではないか、と書かれていたが、本当にそうであるなら、「招き猫」としてはかなり古い部類である。しかも、一般にそれほど古い招き猫は、首にひらひらした前掛けを着けていることが多く、鈴に首輪と云うのはもう少し新しいことが多いので、そのタイプとしては、かなり草創期のものと云うことになる。
 
venus.jpg
美奈須」公式ブログ? のバナー

喫茶店
美奈須 ビーナス

名古屋市中区大須 3-19-8
052-241-6686
営業時間 12 : 00 - 17 : 00
日祭は休み

結局、話はこの辺りから大きく逸れはじめ、「招き猫」ならあっちの店にあったよ、何て情報をくれる人もあり、話題は自然に「招き猫」の話に移っていってしまった。筆者は、この頃はまだ「猫神」探訪を始める準備をしている段階で、しかも「招き猫」自体を収集する意図はなかったのだが、話自体は面白かったので、色々な人の「招き猫」話を聞くことにした。そして、ひとしきり「招き猫」話に花が咲いて、一段落がついた頃、そろそろ引上げようと思った筆者が、今一度だけ「おから猫」の話を切り出してみたら、自分ちはそこの氏子だと云う老人に出会えたのである。これはもはや僥倖としか言いようがなかった。

「大直禰子神社」は、地元では単に「猫神社」で通っているそうで、説明板にあった通り、本来は疫病を治す神様だと云う。面白かったのは、この人が祭神を「少彦名神*」だと教えてくれたことである。説明板では、「大直禰子命」だったはずだから、これもまた神社側の主張と食い違うのである。昔は、近所で飼い猫が迷子になるとここの神社に「おから」をお供えして猫が無事に帰ってくるよう願かけをしたとも話してくれた。しかし、祭神が「大直禰子命」だから、「ねこ」の語呂から、「猫」の神様のように云われ始めたのならば、祭神が「少彦名神」であっては語呂が合わない。もちろん、氏子だからと云って、その人の云うことが社頭の説明板より正しいとは断言出来ないが、逆もまた然りなのである。
 
* 少彦名神」は、「大国主命」と共に、我が国の国土を開拓した神であると同時に、古くから医薬の神様として知られている。その意味では「大直禰子命と共通する性格を有している。ちなみに、筆者が話を聞いた老人は、「少名彦神」と云ったか「少名彦命」と呼んだかは定かに覚えていないのだが、ここで「記紀」にしたがって「神」にしておいた。 

話ついでに記しておくと、こう云う議論を嫌う風潮が神職や僧侶、あるいは熱心すぎる信徒や氏子の中にあったりするが、それは大きな勘違いで、むしろこう云ったことが存在するのが、その寺社が生きた信仰の歴史を保持していることの何よりの証拠なのである。あんまり整然と統一されて、齟齬のない縁起などと云うものは、大抵古くとも「明治時代」に、新しければ「戦後」になってから、出来上がったものであったりするのだから。それでも、「戦前」の縁起創成までは、往々にして「明治期」の「神仏分離令」や「神社合祀令」を生き延びるための必死の方策だったり、あるいは御維新で失った諸侯の保護に代わる収入の道を探るためのものが多く、ある種の捏造とは云え、十分に関係者たちの敬虔かつ真剣な討議の上で遂行されたのでまだまだよい。ところが、現代に近づけば近づくほど、信仰の延命と利得沙汰が混淆してくるのは、色々と難しい問題があるのは分かるが、やはり諸手を挙げては歓迎出来ない。しかも、地元の商工会と寺社が結託して人気取りの縁起をつくり出したのなどはまだよい方で、広告代理店に金を払って大衆受けしそうな縁起や伝説をオーターメイドする輩まで現れてくるとなると、尚更である。もちろん、過疎や高齢化が進んでいる地方などについては、やむを得ない場合も多い (でも、タチの悪いのは都会の寺社に多いんだよなぁ...) 。まあ、これらのことも数百年も経てば、「昭和・平成」の頃の文化的風潮として、特筆するに値する文化史的な事項になるのかもしれないが...*。
 
* 筆者は、新しい縁起の創出は絶対駄目だ、と云っているのではなく、それを通してそれ以前の縁起や由来などを抹殺迫害することを批判しているのである。縁起を変えてもいい、と主張するほどに柔軟な考えを持っているならば、次いでに複数の縁起があってもよい、と云う程度の柔軟さを兼ね備えてほしいだけである。自分の主張を通すときだけ寛容さを求め、他人に対しては非寛容と云うのでは、いずれがまともな対応か、およそ知れるものである。こう云う良識が通りにくい世の中になってはいるが...。
 
いずれにしても、色々なヴァリエーションの縁起があるのは、決して恥ずべきことではない。大体、「出雲大社」にしたって、「伊勢神宮」にしたって、その他、どんな由緒正しい寺社だって、完全に統一された縁起を持っているところなんて本当はない。仮に、いまの執行部がそう主張していたって、一部右翼がどんなに騒いだって、古い歴史と、古い記録を持っていればいるほど、こう云うズレは生じやすいのである。したがって、複数の縁起が存在することは、恥どころか、誉れだ、とさえ云えるのである。だからと云って、「
大直禰子神社」の祭神が「少彦名神」だと云うのが、筆者が偶々話を聞いた方の記憶違いじゃないとも限らないから、これを以て何かしらの立場を言い張ろうとは毛頭思っていない。ただ、色んな人の話を聞くのは、面白いと云いたいだけ。
 
そう、筆者はこのとき、また、別の老人の話を聞くことが出来たのである。その人によると、
昔は子供の麻疹や疱瘡に御利益のある神様、いわゆる「疱瘡神」の一種として信仰を集めていたようで、その点では、 祭神の「大直禰子命」の由緒と概ね合致する。当時は、親が子を連れてお参りし、無事治ったときは、神様送りに桟俵の上に「おから」を載せ、その真中に御幣を立ててお供えしたと聞く。「おから」と云うのは、おそらく「おから猫」から来た連想なのだろう。

しかし、それにしても、こんな美しい伝統があったなんて、何で隠す必要があるのだろうか。しかも、後者の風習は、神社の「本来」の由緒とも、見事に溶け合っていると云うのに...。
実は、後で分かったことなのだが、神社の頑な姿勢には、ちょっとした事情が隠されていたのである。その事情については、もう少し後で...。
 


2. 闇に葬られつつある「猫」の由来
 

それにしても、社頭の由緒書きの最後の二行は、「猫神」探訪の徒としては、やや気勢を挫かれる感は禁じ得ない。この時の筆者は偶然の巡り会わせに過ぎなかったが、もしもこれがわざわざ「千葉」くんだりから訪ねた「猫神」の社だったならば、まるで門前払いを食らうようなこの一手には、流石に気も殺がれそうなものである。もちろん、こんなことで意気消沈してしまうようでは「猫神」探訪などと云うマイナーな行脚は出来ないのである。ましてや、ここの神社が、地元では昔から「おから猫」と呼ばれて親しまれてきたと云う確かな氏子の証言を得た上での訪問なのだから、心強さも人一倍である。

神社からすれば、問題はこの「おからねこ」と云う名前にあるのだろう。「記紀」に登場する「大物主命」とか「大田田根子 (大直禰子) 」などのいわゆるビッグネームの方が、「猫」などと何処の路地にでもいる半家畜などよりは有難いと云う思いがあって、躍起に「猫」を否定するのだろうか。しかし、「おからねこ」の伝承だとて、実際には「猫」と決まっていた訳ではなかったようなのだから、そんなに目くじらを立てることもないのに、とは思う。表記上も、「おからねこ」「おから猫」を筆頭に、「御唐猫」「御空根子」などが知られ、それぞれに由緒が語られていたようなのである。「猫」話は、飽くまでも「ワン・オブ・ゼム」に過ぎないのである。

以下、そのような亜流の由緒を紹介してゆく。


A. 「お空猫/根子」系の由緒
 
まず、ここのお社に関する筆者の知る最も古い資料から紹介しよう。資料は、「江戸後期」に成った『尾張名陽図会』である。
 
おから猫01
『尾張名陽図会』巻之六より
 
おから猫

むかしよりおからねこをいひつたふ。或説には往古此地は老人の咄に幸行 ぎやうこう の御車もたちし其跡に社をたつといふ。
 
愚按ずるにむかしより左有事をしらず。しかはあれど持統天皇三河國尾張國へ御幸あり。もし是等に據 よりどころ とせば佳ならん。三州には宮路山 みやぢやま とて御行の跡定しきに、本州には其御舊跡をしらず。これも其跡ならずや。
 
鏡御堂

むかしおからねこといふ所ハ鏡の御堂の事なり。市橋如蘭翁の隨筆の中に相傳ふ鏡の御堂とて到て古く荒はてし堂あり。其中央にハ本尊も無くして小さき三方の上にこまいぬの頭一ツを乘たり。世におこまいぬをおからねこといふ異名をつけたりとぞ。其後年月を經るにしたがひて其堂も跡無。こまいぬの頭をも今はいづちへ行たらんもしらず。しかるに其傍に大なる古榎の大樹ありて枯くちはてて其根斗りのこれるをおからねとよび又はおからねことも云たり。猶此隨筆に有を聞ば尤ときこゆ。
 
高力種信 (c. 1818) 『尾張名陽圖會』卷之六、文化文政年間
国会図書館・近代デジタルライブラリー
 
要するに、このお堂には御神体がなく三宝の上に「狛犬」の頭ひとつが載せてあった。里人はこの「お狛犬」に「おからねこ」と異名をつけるようになった、と云う説である。
 
おから猫04
三宝に載った「おからねこ」
「高力種信」による想像図
 
他方の説は、やがて年月を経るにつれてお堂が跡かたもなくなり、「狛犬」の頭もどこにいったか分からなくなってしまっていた。そして、お堂のかたわらにあった大きな榎の樹も枯れ果てて、根っ子の部分だけが残っていたのを「お空根子 (からねこ) 」と呼ぶようになった、と云う説である。ちなみに、上記引用文中に登場する「市橋如蘭翁の隨筆」と云うのは、現在のところ未詳であると云う。

ここまでは、『尾張名陽図会』の記事に基づいて書いたのだが、次にあげる文章などは、さしたる根拠もなしに、前提的に「おから」と記し、それをまた脈絡なしに、「お空根子」説と折衷しているから面白い。別に非難しているのではなく、むしろ、それほどまでに、地元の人にとっては、「おから」のイメージと用法が定着していると云えそうなことを指摘したいだけである (この後、実はそれどころの話ではなかったことを知るのであるが...) 。
 
昔、鏡御堂というお堂の中に狛犬の頭が一つまつられていた。人々は狛犬を唐の猫と思い、「おから猫」と言っていた。江戸時代後期には御堂も狛犬の頭も無くなってしまったが、傍らにあった榎の大樹が朽ち果てて、根だけが残っていたのを、「おから根」とも「おから猫」とも呼ぶようになった。
 
名古屋市博物館/編 (2006) 『富士見の里・昔の前津』自刊
 
*
 
この節は、結局、『尾張名陽図会』の記事の紹介にとどまった。しかし、その中で現れた「頭だけの狛犬」と「大木の虚ろな洞」と云うイメージは、意外にも後ほど重要な要素として、再登場してくることだけは、ここであらかじめ述べておく。もっとも、その再登場は、次回の記事の中になるのだが...。


B. 「お唐猫」系の由緒

正直云って、以下に紹介する由緒は、おそらくはその著者によって新しく創作されたものである。出典元の『作物志』も、『尾張名陽図会』よりはわずかばかりだが後の成立である。

『作物志』を著した「石橋庵真酔」 (1774‐1847) は、安永三年生まれの戯作者で、「市岡猛彦」に「国学」を学んだ後、「名古屋」の貸本屋の読物作家となり、雑俳・狂俳の宗匠もつとめた文人である。弘化三年 (1847) 十一月二十七日あるいは二十八日に、七十三歳で死去したとされている。名は「時恭」で、字は「豹恵」であった。別号に「増井 (万寿井) 山人」「彙斎 いさい 」。号は「せっきょうあん」「しゃくきょうあん」「いしばしあん」などと訓む。作品には、『小説不実梅』『津島土産』などが知られている。もちろん、この辺りのことは、すべて『名古屋叢書』の解題の受け売りである。

さて、その『作物志』の中の記事なのだが、以下にそれを書き出そう。
 
異獣

城南の前津、矢場の邊に、一物の獸あり。大きさ牛馬を束ねたるが如し。背に數株の草木を生ず。嘗ていづれの時代よりか、此所に蟠 わだか まりて寸歩も動かず。一声も吼ず、風雨も避けず、寒暑を恐れず、諸願これに向て祈念するに、甚揭焉 はなはだいちじるし。然れども人、其名をしらず、形貌 かたち 自然と猫に似たる故に、俚俗都 すべて 御空猫と稱す。
 
石橋庵眞醉 (c. 1840) 『作物志』天保期までに成立
名古屋市教育委員会/編 (1950) 『名古屋叢書』
正編・第十六巻「風俗芸能編」愛知県郷土資料刊行会、p. 274
 
この「石橋庵真酔」の戯文に近い「おからねこ」紹介に関しては、「沢井鈴一」氏が、自身監修の『堀川端ふしぎばなし』 (堀川文化を考える会、2003) の中で、短編の佳品をオマージュとして載せている。なかなか品位もあって暖かく、しかして哀切で渺々とした小品である。機会があったならば、是非とも手にとってみて下さい。
 
*
 
ここから少しばかり、筆者の予断のみに頼って記述するならば、「石橋庵真酔」が上の「おからねこ」のイメージをどこから得たのかについて、個人的には臆見がある。

一つには、
高力種信」が『尾張名陽図会を書くに当たって入手出来なかった、別の地元の伝承を「石橋庵」が手に入れていた可能性である。後ほど詳しく述べることになる「東北」の信仰の一つに、「権現様」信仰と云うものがある。筆者の想像は、この民間信仰を手掛かりに広がるのである。

詳細は、「おからねこ」を巡る民間信仰の背景を理論的に考証してゆく次回の記事に譲るとして、簡単に云ってしまえば、「獅子舞」の「獅子頭」を神仏がこの世に垂迹した仮の姿として、崇め敬う信仰の形態のことである。具体的には、「獅子舞」などを通して、災厄の防除を祈願するのを主とした信仰であるが、「岩手山」などを中心として、一部、「獅子頭」そのものを神として崇める極端な形態へと深化した「権現様」信仰も見られるのである。そして、そのような地域では、野辺や山腹、山頂の祠堂に、石の「獅子頭」を祭る風習がある。

この「石造獅子頭」を祀る信仰形態が、「岩手山」周辺以外に現在も残るかは分からないのだが、筆者のわずかな知見の限りでは、あまり聞いたことはない。しかし、かつてそのような民間信仰が存在したのではないかと疑われる痕跡は、各地に散見される (後に少しばかり記す) 。このことを念頭に入れると、かつてこの系統の民間信仰が、「尾張」地方に存在した可能性も、一概には否定出来ないのである。特に、「狛犬」と「唐猫」を混同した形跡がはっきりと残る「おからねこ」の伝承や、これまた後ほど触れる「岡崎市」の「糟目犬頭神社」の「唐猫」と呼ばれる「狛犬」の存在 (そして、犬頭と云う社名そのもの) などから、この地域にはかつて「狛犬」の頭を崇める信仰が行なわれていたのではないかと疑われる傍証が意外にも豊かに存在するからである。

もしも、かつてそのような民間信仰が行なわれていたが、「東北」を除いて、その他の地域では皆その後、衰退してしまったのと同様に、「尾張」の地でも衰退してしまったと仮定するならば、何故、「江戸後期」の頃には、既に「おからねこ」の信仰の実態が不明になってしまっていたかの説明もつく。「岩手山」周辺の祠に祀られる石造の「権現様」は、古いものは風化し、苔や草に覆われて野辺にあるものも多い。「おからねこ」の御神体だった「狛犬の頭」も、あるいはその信仰が衰退した晩年には、似たような状態で野ざらしになっていたのではあるまいか。そして、その記憶がまだ完全には消え去らぬうちに、「石橋庵」が地元を取材したならば、なくなってしまう前は、朽ちた大木の根本で苔蒸して、草に覆われていたよ、などと云う古老の昔語りを聞けたかもしれないのである。あるいは、「高力種信」が御三家「尾張藩」の馬廻組三百石と云う中級武士の家に生まれ、生涯、藩の重鎮たちと交際があったお堅い教養人だったのに対し、「石橋庵」が狂俳や戯文・滑稽本の類を専らとした市井の文人だったこととも関係して、二人が自らの取材から得た情報が、それぞれに異なっていたのかもしれない。

この他にも、「石橋庵」が、『釈日本紀』巻十二に見える『摂津国風土記』逸文の「夢野の鹿」の説話に触発された可能性と云うのも、考えてみた。あまり露骨に似ている訳ではないが、基本的なイメージの借用による翻案であってみれば、換骨奪胎こそが戯文の命脈なのだから、これくらいの類似は似ているうちに入るのではないかと思われる。個人的には、『日本書紀』仁徳天皇三十八年七月条の同一説話の方が好みなのだが、「石橋庵」の「おからねこ」のモデルたりうるのは、『摂津国風土記』逸文の方なのである。
 
攝津の國の風土記に曰はく、雄伴の郡。夢野有り。 (中略) 昔者、刀我野に牡鹿ありき。其の嫡 むかひめ の牝鹿は此の野に居り、其の妾 をむなめ の牝鹿は淡路の國の野島に居りき。彼の牡鹿、 しばしば 野島に往きて、妾と相愛しみすること比ひなし。旣にして、牡鹿、嫡の所に來宿りて、明くる旦 あした 、牡鹿、其の嫡に語りしく、今の夜夢みらく、吾が背に雪零 りおけりと見き。又、すすきと曰ふ草生ひたりと見き。此の夢は何の祥 さが ぞ、といひき。其の嫡、夫の復妾の所に向 おもむ かむことを惡みて、乃ち詐り相せて日ひしく、背の上に草生ふるは、矢、背の上を射むの祥なり。又、雪零るは、白鹽 あわしほ を宍に塗る祥なり。汝、淡路の野島に渡らば、必ず船人に遇ひて、海中に射殺されなむ。謹 ゆめ 、な復往きそ、といひき。其の牡鹿、感恋 こひのおもひ に勝へずして、復野島に渡るに、海中に行船に遇逢ひて、終に射死されき。 (後略)
 
* 「嫡」は本妻、「妾」は妾 めかけ のこと
 
卜部兼方/撰  (c. 1300) 『釋日本紀』卷十二、文永・正安年間
黒板勝美/編 (1965) 『新訂増補・国史大系 8』吉川弘文館
秋本吉郎/校 (1958) 『風土記』日本古典文学大系 2、岩波書店、pp. 422-423
 
背中に雪が降り、薄が生えて、死に向かう牡鹿は、何となく「おからねこ」に似ている気がするのだが、どうだろうか。この逸話は、寛政十年 (1798) に、「秋里籬島」編纂で刊行された『摂津名所図会』巻四にも詳細に紹介されており、「石橋庵」が仮に『釈日本紀』を閲覧していなかったとしても、こちらは一読していた可能性が高い。最も、若い日に国学を修めた「石橋庵」からしてみれば、『日本書紀』にも異伝が載っているのだから、『釈日本紀』の「夢野の鹿」に馴染んでなかったと云うのは考えにくい。背中に植物の生える動物の話などさほど多くもないのだから、一見すれば印象に残っていたことだろう。

以上、何ら具体的な証拠のないままに、純粋な推測のみを頼りに、「石橋庵」の「おからねこ」の誕生過程を想像してみた。学術的な正確さや可証性はないけれど、さほど突拍子もない推論ではないつもりなのだが、いかがだろうか。



C. 「大直禰子」系の由緒

i) 「大直禰子神社」の誕生秘話

しかし、これら「江戸時代」以来の諸説に対して、「おからねこ」は「大直禰子」が訛ったものとする説が、何てことはない、「明治」の末頃に唱えられるようになった。『前津旧事誌』によると、氏子をはじめその他多くの人々が、この「大直禰子」転訛説に賛同したため、明治四十二年 (1909) 四月に、社名を正式に「大直禰子神社」に改めて、「春日神社」の末社として奉斎することとなったと云う。念のために、原文を引用しておこう。
 
明治半頃まではここは猫の神社なればとて、失踪せる猫の歸來を祈るもの等ありしが、甚しきは死猫の骸をここへ捨てゆくものもありて、近隣の迷惑一方ならざりしとぞ。然るに明治の末年頃に若原敬經、こは奈良にある大直禰子神社を春日三輪の兩社と共に遷せるものにして、おからねこは大直禰子の訛れるなりとの新說を唱へ、氏子其他これに同ずるもの多かりしかば、四十二年四月今の名に改め、春日神社の末社として奉齋することとなれり。 (太字下線、筆者)
 
山田秋衛 (1935) 『前津舊事誌』曾保津之舎
 
前津旧事誌』は、あっさりとこう書いているが、これはなかなか由々しき話である。しかし、それにしても、うーむ、思わぬところで思わぬ人が出てきたものである。「若原敬経」と云えば、明治四十一年 (1908) に『宿曜経真伝』なる奇書をものしたことで、その筋の人々には知られている、「密教占星術」の大家である。かつては幻の本として法外な値段で取引されていたが、近年、復刻されたことから少し入手しやすくなっている (それでも高いけどね) 。でも、興味のある方は、「国会図書館」の「近代デジタルライブラリー」で閲覧出来ます、念のため。

筆者も、この人物については、以前から名前を聞いていただけで、実はほとんど何も知らないのだが、「密教」と「両部神道」を接合した先に、「密教占星術」の極意を見出そうとしていたような印象を受けている。いまのところ、「若原敬経」がどのような根拠を元にして、「おからねこ」の祭神を「大直禰子」だと同定し、いかなる理由で「奈良」の「大直禰子神社」を「春日神社」「三輪神社」と一揃いで遷したものだと断言出来たのかは、皆目、分からないでいる。いまはとにかく、彼の思想大系などは措いて、この件に関する彼の考えの道筋だけでも知りたいと願っているが、これは今後の課題としておく。

ちなみに、筆者は初めて前津旧事誌』の文章を読んだとき、「奈良県桜井市」の「三輪山」西麓に共に鎮座し、一方が他方の摂社でもある「大神神社」と「大直禰子神社」がセットにされているのは理解出来たのだけれど、何で「奈良市春日野町」の「春日山」西麓に坐します「春日大社」がこの鼎立関係の中に含まれるのか、ちょっと分からなかった。

「上前津」に「春日神社」があることと附会させるために、やや強引に「奈良県」の有名な神社を組み合せたかな、などと思ったのだが、よくよく「大神神社」周辺の地図を見てみたら、「大神神社」から見て東南に七百メートルほどの距離に、「春日神社」と云う社が立っていたのである。おそらく、「若原敬経」が「これだ!!」と思ったのも、この三角形だったに違いない。最初に誤解して、御免なさい...。

要するに、下の地図にあるように、「奈良県桜井市」には「大神神社・大直禰子神社・春日神社」が、三角形に鼎立してあり、それを三社揃いで勧請したのが「名古屋」は「上前津」の地だと云う見解なのだろう。
 
大神神社周辺地図
「大神神社〜大直禰子神社 (若宮社) 〜春日神社」
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ただ、残念なことに、この「春日神社」の由緒がほとんど分からないのである。「奈良県」の「春日神社」は、「摂関藤原氏」の氏寺としてあまりに名高い「春日大社」の存在のおかげで、すべて「藤原氏」系の神社と思われやすいが、必ずしもそうではなく、「奈良」南部の「春日社」は、実は「物部氏」所縁のものが多い。ただ、滅んでしまった「物部氏」よりも、生き残った名族「藤原氏」との縁故を語った方が有利なためか、後世、「物部」系の「春日社」も少なからず、その祭神を「藤原」系のものへと変えていると云う。したがって、「奈良」南部の中小の「春日社」の本来の性格を同定するのは、なかなか困難なことなのである。

ところで、「三輪」の土地は、「大神神社」の祭主であった「三輪氏/大三輪氏」の根拠地である。しかし、この「大神神社」及び「大三輪氏」と、「物部氏」との間には深い結びつきがあることは、その道の人々には常識でも、一般にはあまり知られていない。

「上前津」の「大直禰子神社」社頭説明板で見た通り、『日本書紀』崇神天皇七年八月条に、国中に疫病が蔓延したとき、天皇の夢の誣告で「大物主大神」の祟りと分かったので、その子孫「田根子」を探し出して「三輪山」に「大物主大神」を祀らせたところ、疫病は止んで、国は治まったと云う記事がある。このとき、「神班物者」に任じられ、「大物主大神」と「倭大国魂神」を祭った後、更に八十万の群神を祭って、差配役として疫病の終熄に大きな役割を果たしたのが、「物部氏」の祖とされる「伊香色雄命」なのである。したがって、「大神神社」「大直禰子神社」と「春日神社」が並び立つのは、それが「物部」系であることを考えると何ら不思議ではないのである。

しかし、このこととは別に、よくよく考えて見ると、上の地図の三角形では、「春日神社」だけが、いやに遠くはないだろうか。何しろ、「上前津」の三社は、最も遠い二つの間の距離が四百メートルくらいで、三つともほぼ直線で結ばれているのだから、「三輪」山麓の三角形はやや西南にいびつだと云うことになる。これくらいいいじゃないか、と云う考え方もあるが、一応、念のために、もう一度あれこれ調べて見ることにした。その結果、筆者がまたもや誤解をしていた可能性が高いことが判明してしまった。
 
大神神社・地図03_1
大直禰子神社 (若宮社) 〜大神神社〜春日神社」
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(春日神社は、筆者書込)
 
地図にはほとんど載っていないが、「平等寺」の東方の林の中に、小さな祠堂があるのだが、これが「春日神社」なのである。「平等寺」は、かつて「大神神社」の神宮寺だったのだが、この「春日神社」は、その神宮寺の鎮守社だったようであり、「廃仏毀釈」によって「平等寺」が廃毀されるまでは、この神社付近まで伽藍が立ち並んでいたそうである。現在の「平等寺」は、その後、「河内」から遷された「翠松寺」と云う寺の後身で、本来の「平等寺」ではない。

しかし、いずれにせよ、こちらの「春日神社」の方が、三社一体の連合としては、距離的にも近く、地理的にもほぼ一直線に並んでおり、信仰の性格 (i.e. 大神神社の神宮寺の鎮守) も並べられるに相応しい。ただし、この神社の現在の祭神は「藤原」系の「春日大社」と同じになっており、これだけは過去のいずれかの時点で、「物部」系の祭祀から変えられたのではないかと推測される。そもそも、位置的に、この「三輪」山中に「藤原」系の社が、元から存在する必然性がないのである。

ii) 「若原敬経」説の検証

さて、ここからは「上前津」の「春日神社」及び「三輪神社」について、分かる範囲で、その由緒を概観し、それを通じて「若原」説の妥当性を検証してみよう。

まずは、「上前津」の「春日神社」であるが、ここの古い由来については、文献上、確かなことを知ることは出来ない。「春日神社」の社頭説明板には次のようにある。
 
由緒
  (中略)
当社は創立の起源は称徳天皇の御宇神護景雲年間奈良春日大社創祀に際し常陸国鹿島神宮の御祭神武甕槌命の御神霊を大和国春日山に御遷座の途次当尾張国山田庄 (現社地) に御假泊あらせられたるに因み天暦二年時の郡司藤原某南都春日野を模して春日四柱大神を奉祀したものである
 
その後文亀年間前津小林城主牧与三左衛門尉長清 (正室織田信長の妹) の崇敬を受け牧氏退転の後尾州藩主も亦代々崇敬の誠を捧げ殊に二代徳川光友公の母君乳の疾に惱まれし折神木椎の木を採りて祀られ平癒しその頃より婦女はこの木を崇め何時の頃よりか変じて産の守となった惜しくも戦災の為椎の木は焼失した現在当市中央の地にあり氏子数四千余戸を擁す
 
社頭説明板より
 
神護景雲二年 (768) の「奈良・春日大社」の創建時に関わる由緒と、「常陸国」の「鹿島神宮」から祭神を「大和国」の「春日山」に迎える途中、「郡司・藤原某」による天暦二年 (947) の勧請の間には、二世紀近い時が流れており、この間に何があったのか、気になるところである。寺社の縁起類を見るときに、あまり重箱の隅をつつくようなことをするのは野暮なのは百も承知だが、「上前津・春日神社」の場合は、おそらく「天暦二年縁起」が先にあり、後に「神護景雲二年縁起」が起こり、近年、その二つを上のような形で接合したのではあるまいか。だからこそ「平凡社」の『日本歴史地名大系 23・愛知県』は、「天暦二年縁起」のみを採用しているのではないだろうか。

既に筆者自身の考えは述べた通りであるから、二つの縁起があるからと云って、その神社の尊さを微塵とも揺るがせに出来るとは思わぬが、ただ、「春日大社」の創建云々の辺りは、必ずしも明確ではない、と云うことだけ認識しておけばよいのだと思う。

それにしても、「織田信長」は天文三年 (1534) から天正十年 (1582) までの生涯を過ごした訳だが、文亀年間 (1501-1504) となると、最後の年でさえ、それより三十年は遡るのである。「牧与三左衛門尉長清」の正室は、「信長」の十二番目の妹「おとく (信徳院) 」だったと云うから、いかに「長清」の生没年が未詳とは云え、これはちょっと無理がある。「長清」は天文十七年頃 (1548) に「小林城主」となり (岡田、1923; 8) 、以後、「尾張・名古屋」の留守居のような存在として活躍したとされている。仮に、文亀四年に二十歳の若者だったとしても、「信長」より五十歳年長になる。これは、「春日神社」が自らの由緒を間違えていると考え、「文亀年間」が実は「元亀年間 (1570-1573) 」だったと考えれば、穏当な年代になるのだが、どうだろうか。「牧氏」子孫の「岡田穎斎」による『牧氏始祖墳墓発見録』 (1923) には、天文十七年段階で、「長清」は二十三歳だったと記している。これから逆算すれば、「長清」の生年は大永五年 (1525) 前後と云うことになる。

実際、一方の「三輪神社」の由緒では、「牧長清」による創建を「元亀年間」としている。以下、その由緒書を見てみよう。
 
創建に関しては詳らかではありませんが元亀年間 (一五七〇〜一五七二) に奈良桜井三輪町から小林城 (現在の矢場町交差点辺り) に移った牧若狭守長清氏が深く崇敬する生れ故郷大和三輪山に鎮まります大物主神 (大国主神) を築城と共に鎮め祭ったと言われています。 (下略)
 
「三輪神社由緒書」より
 
ただし、この「元亀年間縁起」にも多少、問題は存在する。それは『尾張群書系図部集』によれば、「長清」が元亀元年 (1570) 二月二十五日には没していると云うことである。もしも「長清」が「元亀年間」に「三輪神社」を創建しているならば、それは元亀元年の一月一日から二月二十四日までの間に、よほど性急に行なわれたものでなければならない。あり得ないことではないが、極めてあり得そうな話とも云えない。これとは別に、『尾張群書系図部集』は「長清」が「清浄寺」に葬られたとも記しており、実際に現在も寺内に墓所があるにはあるのだが、この寺自体が元禄十二年 (1699) に、「海東郡津島」から旧「小林城」の跡地に遷されたものであるから、この年代考証に齟齬があると思われる人もあるかもしれない。しかし、これについては「天野信景」の『塩尻』や、前記の『牧氏始祖墳墓発見録』に詳しく経緯が記されており、どうやら「小林城」廃城後も、祟りの騒ぎなどがあって、旧城跡敷地内に墓所は残されていたようで、後に続く「土方彦左衛門」「柳生厳包」の屋敷時代にも、やや散逸しつつも現存したようなのである。詳しくは、『牧氏始祖墳墓発見録』や、その参照元となった「天野信景」の『塩尻』卷三十「金鱗九十九之塵」卷五を参照されたし (天野、c. 1711 / 岡田、1923) 。

また、「三輪神社」の縁起中の記述では、「牧長清」が「大和」の生まれである、と云うのも少々解せない。筆者は、「尾張牧氏」については、ほとんど知る所がないので、その一人一人の伝記に詳しいはずもないのだが、「長清」が「大和国・三輪山」近郊の生まれだと云う記録は、何か残されているのだろうか。「長清」の父親の「長義」は、大永・天文年間 (1521- ) に「尾張川村北城 (名古屋市守山区) 」を譲られ、そこに居住した後、天文十七年 (1548) に「前津小林城」を築城して根拠としたとされている。「牧氏」は、そもそも「尾張国守護」の「斯波氏」一族で、代々「尾張」に居したものと思っていたのだが、どうなのだろうか。『塩尻』には、「愛知郡長湫村 (長久手) の人」とある。母方の血統も「尾張」の一族であるようであり、前述の『牧氏始祖墳墓発見録』の系図考証にも、「長清」の「大和」生誕説は載っていない。

確かに、文化文政年間 (19C前) に成立した『尾張名陽図会』には「△三輪社 牧氏の建立なり此人は本國大和国の生なれば」云々とあるのだが、これに対する確証のある資料が見つからないのである。「長清」の「大和」生誕説を裏付ける資料に心当たりのある方がいらしたら、是非とも御一報下さい。いずれにせよ、どうもこの「牧長清」を巡る縁起の詳細と云うのは、「春日神社」にしても「三輪神社」にしても、現時点では、あまり確かな話ではなさそうだと捉えておくしかないようである。ただ、「長清」が「前津小林」を領するに当たって、「前津」「小林」の両地域を円滑に納めるために、「前津の春日社」「小林の三輪社」の祭祀を改めて強化したらしいことは、「天野信景」の「城南三輪社、春日社、及び村西芦御堂等をも再建重修せられしと云々」とあることからも、ある程度は信用出来そうである。

ところで、「三輪神社」の由緒書きは、「春日神社」に比べると、その穏健で謙虚な書きっぷりに思わず好感を抱いてしまうのだが、残念ながら、ここに見られる「元亀年間縁起」でさえ、同時代記録による裏づけはないのである。むしろ、寛文年間 (1661-1673) に「尾張藩」によって編纂された村勢調査書『寛文村々覚書』には、この地域の氏神としては「春日大明神、おんない明神」が記されているだけで、「三輪神社」に当たる名前は見当たらないのである。その社名は漸く、宝歴二年 (1752) の『張州府志』に「三輪社」、文政五年 (1822) の『名古屋府城志』に現れるのみであるから、『塩尻』の「三輪社」の記述は、最古の部類に入るのかもしれぬ。

地誌のような文献に載っていないから、その神社は存在しなかったと云う訳ではないのは、そもそも「おからねこ」がどの地誌にも掲載されていないが、『尾張名陽圖會』や『作物志』には、既に存在して久しい旧蹟として紹介されていることからも理解されよう。ただ、それが旧村社あるいは旧郷社クラスの神社である場合、大抵はその村落の鎮守様であったろうから、何かしらの記録に残りやすい傾向は強い。そのため、そのような神社に限っては、文献への登場時期は、その実際の創建時期と、そんなにも離れていないことが多い。「三輪社」に関しては、それが「牧若狭守」時代に、「名古屋」周辺の村落の再編が進められた時代に勧請されたと考えるのが、妥当と思われる。そして、そうであるならば、それよりはかなり古い創建年代を誇る「春日神社」とセットで「大和国」から勧請されたと云うのは、あり得ない話となってしまう。
 
*
 
それにしても「若原敬経」は、よくぞ「春日神社」「三輪神社」「おからねこ」の三社に目を付けて、一セットにしたものである。変な感心の仕方だが、彼の提唱した仮説は、表面上は、実によく出来ているのである。ただ、その仮説を本格的に支える証拠らしい証拠が何もない、と云う欠陥は覆い隠しようがない。それでも、「若原」説に対する、一番有力な援護は、「三輪神社」の社伝にある、「牧長清」が「大神神社」から「三輪神社」を勧請したと云う縁起であるが、これも既に見たように、やや怪しい節があって、真剣に採用することは躊躇される。その上、この三者が同時に「大和」から勧請されたと考えるには、「春日社」と「三輪社」の創建に関わる社伝が、余りに時代的にかけ離れていると云う問題が立ちはだかる。

ついでに云うならば、そもそも、「春日神社」の方が、かなり古くから、自らを「奈良・春日山」の「春日大社」と強く結びつけているようであるから*、少なくともここの神社自身は、「三輪山麓」の「春日神社」のいずれかと自らを関係づけるつもりは、さらさらないようなのである。また、逆に、「若原」の唱えていた元の「春日社」と云うのが「春日大社」だと云うならば、何故、「大神神社」や「大直禰子神社」とは地理的にもかなり離れ、まったく異なる氏族の氏神を祀る社を組み合せて「上前津」の地に遷したのかの説明が必要とされる。
 
* このことは「春日社」近くの池を、「春日大社」近くの有名な池にちなんで「猿沢の池」と呼んでいたことからも明らかである。参照「△春日大明神 (中略) 當社は牧氏城の近邊にまつる所にして別建立なり 又此邊に大池を堀りて猿澤の池をうつさしむ今にいたりてその地を池の内といふ (下略) 」『尾張名陽圖會』
 
敢えて傍証らしき事例を挙げるならば、伝説の「田根子」は、「須恵器」を焼く窯群のある「河内国・茅渟県・陶邑」 (大阪府堺市東南部の陶器山からその西方にかけての地域) に住していたとされていることであろうか。何故なら、「おからねこ」からも程近い、「大須」の南西に当たる「正木町遺跡」などからは、「陶邑」形式の「須恵器」が多数出土していることが報告されているからである (城ヶ谷、2007 etc.) 。もちろん、この遺跡の発掘が開始されたのは「戦後」のことで、明治四十年頃の「若原敬経」がこんな事実を知るはずもなかったのであるから、もしも彼の仮説が当たっているならば、それは物凄いことである。

この他にも、「大須・前津」の土地は、「大田田根子」の故郷である「河内国」の「陶邑」と関わりそうな、間接的事由が多くある。例えば、「前津小林村」の東隣りの村は「御器所村」と云い、『熱田御祭年中行事記』によれば、その名の由来は、「熱田社」へ土器 かわらけ を貢進していたことによると云う。文献上の初見は、『吾妻鏡』文治六年 (1190) 四月十九日条で、「尾張國松枝保御器所長包庄」と記されている。また、近くの「新栄一丁目」の土地は、かつて「瓦町」と呼ばれていたが、『名古屋府城志』によれば、この地に瓦師が居住していたことによると云う。『塩尻』卷之三十「金鱗九十九之塵」では、瓦師頭「齋賀六左衛門」などが住んだと云い、『尾陽寛文記』には瓦師「十左衛門」が住んだために「瓦町」と呼ばれたとある (大日本地名辞書) 。また、「春日神社」の北、「萬松寺」に続く森は「隠れ里」と呼ばれ、陶物師「豊八・豊助」が住んだと云う。要するに、古代以来、「大須・前津」周辺の地は、陶器造りとは一貫して縁深い土地柄であったのである。

話ついでに、もう一つだけ述べておくならば、「河内国」の「陶邑」は、その遺跡の発掘調査から、「奈良時代」以降、急激にその「須恵器」生産を減少させ、十世紀頃には土器制作は完全に途絶したと考えられている。原因はいくつか考えられているが、この地区では既に九世紀には土器制作民の間で土器焼成用の薪の伐採を巡って争論が生じており (三代実録) *、長きに渡って近在の森林を伐採し尽くしたことによる、良質の薪炭材の欠乏が一因に挙げられている。一方、「陶邑」の粘土層 (大阪層) は、「瀬戸」の「猿投窯」から広まったとされる新たな施 (灰) 釉陶器の焼成をするには耐火度が低過ぎたため、この新潮流に乗れなかったことが、薪材の不足と相まって、「陶邑」の衰退につながったとも考えられている。そして、このことは逆に推測すれば、この時期に「河内国・陶邑」から、新しい施釉陶器の生産に適した土地への制作工たちの移動があったとも考えられるのであり、そのような移動先の有力候補の一つに、「瀬戸」に近い「須恵器」産地だった「大須・前津」界隈を含むことは、決して飛躍ではないのである。また、この推定時期が、「上前津・春日神社」の「天暦二年縁起」と時期的に合致するのも興味深い。
 
* 『日本三代實錄』卷二・貞観元年四月「○廿一日丙午 (中略) 河内和泉兩國相爭燒陶伐薪之山」云々とある。
 
だが、誤解しないで頂きたいのは、筆者は、「ここで極めて穿った見方をすれば」「かなりの飛躍的な推論を重ねれば」と云う前提で、以上の議論を提示しただけだと云うことである。今後、より直接両者を結びつける資料を発掘しない限り、ただ「明治末」に新しく決定された「おから猫」の祭神「大田田根子」を以てして、「河内国・陶邑」と「大須・前津」界隈の土地を直接的に結びつけることは出来ないのは、言を待たない。
 
*
 
要するに、「若原敬経」の推論は、「上前津」の地に「三輪神社」と「春日神社」があり、その間に「おからねこ」と呼ばれている由緒が不確かな古社があると知って、各地の神社に関する自らの該博な知識を動員して、「おからねこ」の「ねこ」が、「奈良県」の「三輪」山麓にある「大直禰子神社」の「禰子」に当たれば、この地の 「大神神社」「春日神社」「大直禰子神社」との対応関係が成立すると考えたことに拠るのであろう。ただ、これは純粋に本人の主観的な直観に過ぎず、論拠として認めうる性質のものではないのは、上に見た通りである。それに、「大直禰子」が訛って「おからねこ」になったと云うのも、よくよく考えてみるとかなりのこじつけである。「お」と「ねこ」は分かるとして、一体どう訛れば「ただ」が「から」になると云うのだろうか。

結局、この一連の議論を通して、我々が明白に理解出来たことはただ二つ、現在の「上前津」の「大直禰子神社」は、①かつては「おからねこ」とのみ呼ばれており、「大直禰子神社」と呼ばれ始めたのは明治四十二年 (1909) からであると云うこと、②祭神が「大直禰子」だと云うのもこのときに決められたことだと云うこと (これは江戸期の書物に祭神名の記載がないこととも一致する) 、くらいなのである。『前津旧事誌』は、「明治半頃まではここは猫の神社」だったとまで言い切っている。

①に関しては、「江戸期」の『尾張名陽図会』に「鏡の御堂」と云う名が仮に挙げられているが、これもまた、同書執筆時点での仮説の一つとして紹介されているに過ぎない。当時、既に「おからねこ」と云う呼び名以外は、はっきりとしなくなっていたことが読んでとれる。②に関しては、現在でも、一部の氏子によって、祭神は「少名彦神」だとされていて、混乱が見られることに現れている。大直禰子」も「少名彦神」も、いずれも医薬の神と云う側面がある。

要するに、古い記録を見る限り、この社に「〜神社」のような社名は確認出来ず、単に「おからねこ」と呼び慣わされていたことだけが分かり、「おからねこ」が 「大直禰子」の愛称であるかのように主張する現在の神社側の主張は、完全な誤りであると云うよりも、まったく本末が転倒した説明であることが知れるのである。真実はその逆で、 「おからねこ」と云う呼名から、「大直禰子」が連想されたのである。「名古屋市丸田町」の交差点に遺る「江戸末期」ごろの道標にも、「おからねこ道」とあり、それが当時の人々の標準的な呼び方であったことが分かる。

それにしても、地元の人々は、意味もなく神社名を変えたり、新しい祭神を創出したりはしないだろう。そこで、明治四十二年前後に、そのような動きを生み出してしまう社会的な背景があったのか、少しく探ってみたいと思う。

しかし、
今後の検討課題として辛うじて残されたのが、「陶邑」と「大須・前津」の「須恵器」生産集団とのつながりを巡る議論なのだが、このことについては、「大阪府」の「猫神探訪」で「陶器山・猫坂の猫」を扱うときに述べてゆこうと思うので、今回は割愛する。



3. 「大須」の町と「猫」のイメージ性

a) 「精進川」と「おからねこ」

「大直禰子神社」の「おからねこ」とどの程度関係あるかは未知数なのだが、
「大須」界隈には「猫」のイメージが秘かに漂っている。既に触れたように、「東仁王門通り・ふれあい広場」には巨大「招き猫」がでんと構え、「赤門通り」と「新天地通り」が交錯する角の喫茶店「美奈須」には木の「招き猫」が祀られていると云う。しかし、これらはすべて近年のもので、「大須」の再開発や、個人の趣味が、偶然「招き猫」と云う接点を持ったものに過ぎない。

しかし、「ふれあい広場」の「招き猫」を見れば分かる通り、二頭身のフォルムに、くっきりと大きな垂れ目とくれば、これは、今ではすっかりスタンダードとなってしまった「常滑」系の猫である。ただし、このタイプの「招き猫」の流行は歴史的には新しく、せいぜいが「戦後」から流布したものに過ぎない*。それ以前の「招き猫」となると確実なことは云えないのだが、中部圏では少なくとも「瀬戸」のものが主流だったはずである**。ピエロのような多色のヒラヒラした襟のような前掛けを着け、すらっとした、より実際の猫に近いフォルムの「招き猫」だった。
 
* 現在の主流となっている「常滑」系の「招き猫」のデザインは、「常滑市」の「冨本人形園」の「冨本親男」氏が生みの親だと多くのメディアで断定調に書かれることが多いが、「親男」氏が「招き猫」の生産を手がけるようになったのは昭和二十五年頃からだと云うから、既にそれ以前から存在した二頭身かつ垂れ目で小判を持った「招き猫」を「冨本」氏が単独で創造したかのような認識は誤っていると云わざるを得ない。筆者の知る限り、二頭身の「招き猫」は、「三河土人形」系の産地で「戦前」から少しずつ現れ始め、「愛知県半田市」の「乙川土人形」では早くから垂れ目で小判を持った、現在の「常滑」系の原型と一目で分かる作品が造られている。

** 昭和六十三年に出版された「宮崎良子」氏の『招き猫の文化誌』では、氏が「常滑」の「陶美園」の「伊藤」氏に取材して、「常滑」の「招き猫」は氏が四十四、五年前に「乙川土人形」を真似て造ったのが始まりだと云う回答を得ている (宮崎、1988; 122-123) 。
ただし、同書で「宮崎」氏が「瀬戸」最大の「招き猫」業者である「丸靖製陶所 (まねきねこや) 」への取材で、「招き猫づくりを始めたのは約二十年程度前からで、常滑から伝わってきた (ibid., 127) 」と教えられたことを根拠に「瀬戸焼きの猫よりも、常滑焼の方がその歴史が古い (ibid., 122) 」と述べているのは、完全な誤り。これは「常滑」系の「招き猫」のことで、当の「丸靖製陶所」自身が、「戦前」から「瀬戸」系の「招き猫」を製造しており、現物も型も残されているのである (阿木、1996a: 60 / 1996b; 78) 。また、「立命館大学・木立雅朗」教授らは、近年「五条坂・かわさき商店」で発見された「招き猫」を含む大量の色絵磁器人形が「大正期」を中心とした「瀬戸焼」であり、 「瀬戸」の「西茨1号窯遺跡」からも類例が出土していることを確認している (木立、2011 etc.) 。やや詳しくは後述。 
 
丸靖製陶所・招き猫
「丸靖製陶所」ホームページより
「戦前」の「招き猫」の復刻版
http://www2.ocn.ne.jp/~maruyasu/index.html
 
ただ、今見ればやや奇妙な感じのする「瀬戸」系の「招き猫」が、「招き猫」界のモードの先端を走っていた頃、「名古屋」には「堀川駅」と云う名鉄瀬戸線のターミナル駅があった。元々、「瀬戸」の焼物を遠隔地に移出・輸出する場合、「瀬戸川」から「矢田川」に船を流して「庄内川」に入れ、途中、「堀川」で荷揚げして「名古屋」市中に運ぶか、そのまま「堀川」を辿って「名古屋港」に持ち込んだものだったと云う。明治四十四年 (1911) に開業した「堀川駅」は、この古来の水運と新時代の鉄道と云う陸運を合体させた、当時の貨物輸送の新機軸だったのだろう。そして、一方では、その時代まで地域を支えた川運に、最終的な引導を渡すことになった、一連の出来事の始まりの一つでもあったであろう。

「堀川」と云うのは名の示す通り、天然の河川ではなく、人力によって掘削されたいわば運河であり、「名古屋市守山区」で「庄内川」から取水する形で発祥し、市の中心部を南流して「伊勢湾」に注いでいる。「庄内川」が直接「名古屋港」に出ないのに対し、「堀川」は元々資材の積み出しのために掘削された堀だけに、「名古屋港」にそのまま接続する。そして、それ故に、かつてはこの地方の舟運の中心的な川だったのである。歴史的には、慶長十五年 (1610) 、「福島正則」が「名古屋城」築城のための資材運搬を目的とした水路を掘削したのが始めと云う。

この「堀川」は、「名古屋城」の西側を回り込みつつ、「熱田台地」の西を流れてゆくのだが、この「熱田」の地とお城の間に挟まれたのが「大須」の町で、元はお城の南を外敵から防御するために、巨大な「寺町」として計画されて造られた町であった。この「寺町」と東西の水流を利用して、城の防衛を図ったのであろう。したがって、「大須」の地は、地名が「大洲」に通ずるだけに、西をこの「堀川」、東を「精進川」に囲まれた水の豊かな土地なのである。

中でも「大須」の東側に当たる「前津」の辺りは、名前の示す通り、豊かな湧水の見られる「精進川」沿いの低湿地だったのであり、蛇行する「精進川」が溢れればすぐにも水没する土地であった。「天野信景」の『塩尻』巻三十「金鱗九十九之塵」によれば、「前津」の地名は、かつてはすぐ南の「古渡」の辺りまで「熱田」の海が湾入していた頃の船着場であったため「前の津」と呼ばれたと云う説と、海辺の「舞鶴」に由来すると云う説の、二説を紹介している。

「大直禰子神社」附近の「上前津」は、これまた名前の示す如く、本来は、低湿地の「前津」に望む高台なのである。いまは土地整理などで、大分地形が変わってしまったそうだが、かつては「上前津」から「鶴舞」方面にかけては、「幽霊坂」だの「宇津木坂」だの、幾多の坂があったと聞く。

さて、「前津」を流れた「精進川」は、かつて「今池」附近の「古井村」を源流として、「前津小林村」「御器所村」と、南に「名古屋台地」を流れ、「熱田」で「堀川」と合流していた。川の名前は、昔「熱田神宮」の社人が六月の「名越の祓」に際して「鈴の宮 (元宮) 」の傍らを流れるこの川で禊をしたことに由来すると云われ、「熱田」では別に「僧都川」とも呼んだそうである。普段は、湧水量の多い美しい川だったが、その紆余曲折する川道は頻繁に洪水を引き起こすことで知られていた。

この川の治水は為政者にとっては頭痛の種であり続けたのだが、予想される膨大な費用が枷となって、工事はなかなか実行に移されなかった。そのため、藩政時代の文政十三年 (1830) 以来の懸案だった「精進川」の水利工事は、ようやく明治四十三年 (1910) になって、現在の「新堀川」の流路に付け替えられることになったのである。そして、旧川道は、大正十五年 (1926) までに完全に埋め立てられ、今はもうない。しかし、この付け替え工事の後も、新しい川自体はしばらくの間「精進川」と呼ばれていたと聞く。その辺りの消息を知るために、ここで『前津旧事誌』を参照してみたい。
 
此工事起こるや工區を四區に別ちしため請負者を異にせる區境に於ては土工の紛爭しばしば起り、ために土運車に拔身の日本刀を突立て或は腹卷の間に短刀を包むなど、工事場の土工間に殺氣滿ち滿ちて一時は付近住民ら安き心なく、婦女子らの通行杜絶せる事ありたり。尙竣工後此川に入りて水死するもの多かりしかば、これ精進川といふ名の祟りなりとて (佛敎にては死者のあるとき又は佛の命日には精進する慣しなるより連想して) 新堀川と改められしが、かくても尙入水者絶えざりしかば前津邊にてこれ「死に堀川」なりと噂せり。
 
山田秋衛 (1935) 『前津舊事誌』曾保津之舎
 
郷土史家「沢井鈴一」氏によると、『大井学区町の沿革誌』には、さらに陰惨な話が載せられている。
 
新堀川の工事中、土工の某が瀕死の重傷を負った。なぜ、自分はこんな事故で死ななければならないのか。自分の運命と世の中を呪った土工は「自分は、あの世から、この川で千人の人を死なしてやる」と言って息を引き取った。その後、何人もの人が新堀川に魅せられるようにして生命を断った。
 
『大井学区町の沿革誌』
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行・精進川の霊—乗円寺」より引用
http://network2010.org/article/548

この記事を『前津旧事誌』の記事と照らし合わせると、この重傷を負った土工の怪我の元と云うのは、もしかしたら工事中の事故ではなく、土工同士の出入りだったのではないかと想像されてしまう。また、その方が、土工の呪詛の言葉とすんなりつながるのである。いずれにせよ、この「祟り」のせいか、あるいは単に川の底が泥土で、一度、川にはまったら二度と浮かばないと云われたためか、工事が終わってからも、川で身投げをする者は後を絶たなかった。そのため、当時の「乗円寺」住職「中井俊童」は、土工の霊を慰めるために近在の人から浄財を募り、明治四十三年 (1910) 、一体の石地蔵を建立した。「新堀川」沿いには、この他にも、「宇津木橋」の南側に水死者の霊を供養する碑が、同じく明治四十三年に建てられ、いまに残っている。川の名前が「新堀川」に変えられたのは、慰霊碑が建てられた翌年の明治四十四年だったと云うが、その証を立てるかのように、「宇津木橋」南の石碑台座には、いまだ「精進川 溺死者諸群霊」と刻まれている。
 
*
 
この辺りで、「おからねこ」に話を戻すと、この神社の社地が、現在の場所に遷されたのは、およそ四十年ほど前のことだそうで*、それ以前は元の「長松院」のすぐ脇にあったのだが、地下鉄工事で移転を余儀なくされたと云うことである。「長松院」は、現在「大須 4-14-44」にある「曹洞宗」の古刹であるが、この寺も元は「春日神社」の東隣りに立っていたらしく、「大直禰子神社」と共に現在地に移転させられたようである。要するに、「大直禰子神社」も「長松院」も、本来は「大津通」の「上前津」交差点の北側辺りにあったのだろう。今度、古い地図を探して確認してみよう、などと思っていたら、偶然「名古屋市博物館」発行の『名古屋城下図集・幕末編』と云う簡易な古地図集を手にとる機会に恵まれたのだが、やっぱり「長松院」は「春日神社」とくっついていて、いまの「上前津」交差点の北側にあった。ただし、残念ながら、「大直禰子神社」も「おからねこ」も、この地図集には記載されていなかった。もっと本格的な古地図を見ればあるのだろうか。
 
* 伝聞情報。ちゃんと市町村史で調べたり、役所に問い合わせたりしていないことをお詫び致します。そのうち、きちんとした調査をする機会を狙っています (こればっかり...) 。おそらくは、昭和四十二年 (1967) の「名城線・上前津駅」開業時のことではないかと思っている。
 
しかし、このような「おからねこ」の歴史的変遷との関連で、古地図を見ながら、上記の「新堀川」悲話に再び耳を傾けると、また別の事実が浮んでくる。それは、現在の地図からでは分かり難いことだが、「おからねこ」の「大直禰子神社」は、かつて水の豊かな「精進川」とその周辺の掘割に囲まれた高台に立つお社だったと云うことである。

氾濫を繰り返す低湿地と云うのは、近代的な水利と衛生防疫の知識がなかった時代には、しばしば疫病の大発生地になったことが知られている。あるいは、死病に罹ったものを河原に棄てると云う風習も、かつての都市部では広く行なわれたと聞く。それに、「精進川」の付け替え工事とは関係なく、実はその以前から身投げは多かったものと思われる。「熱田神宮」の精進潔斎と、低湿地での氾濫疫病、それに無数の水死者と云うイメージを重ねると、疫病除けのお社としての「
大直禰子神社」の存在が、別の意味で深みを増してくる。堂社や「おからねこ」の頭部が失われてしまったと云う現実自体が、実は、「精進川」が過去には繰り返し氾濫して猛威を奮ったことの傷跡だったのかもしれない。

既に述べたことだが、『作物志』のお話は、おそらくは「石橋庵」先生の洒脱な作り話だとは思うのだが、「
石橋庵」は次のように想像したのではなかろうか。あるときまで境内に遺されていた首だけの「唐猫」と云うのは、かつては五体満足だった彫像が、洪水に流されて、堂社や胴体とは別れ、首だけ泥砂に埋もれて発見されたのだ。見つかったときは、苔や草に覆われていたのではないか。そして、三宝に祀られた後、またしても行方不明になるのだが、その後もきっとどこかの野原で、砂礫と塵埃にまみれ、草木に覆われ、時と人と、その推移を見守っていたに違いない、と。そんな想いが、「石橋庵真酔」の寓話の裏に隠されているように思える。

しかし、筆者は、これに対して水を差さねばならない。筆者は、「おからねこ」と呼ばれた狛犬の頭部のような御神体は、元あった彫像の欠落した部分なのではなく、初めから頭部として造られた、現在の「獅子頭」のようなものではなかったかと考えている。「獅子頭」やそれを使った「獅子舞」が、本来、疫病などの災厄を払う目的を持った祭物であることはよく知られるところだが、それと「おからねこ」の「疫病払いの神」としての性格が似通うことからも、筆者の推測に一定の信憑性が得られるものと思う。このことについては、既に述べた通り、次回の記事でより詳しく触れたいと思う。
 
*
 
ここで、ちょっとおまけの話。

現在の「名古屋市千種区」には、「猫ヶ洞池」と云う大きな池がある。昔は、「上池」と「下池」の二つがあったそうなのだが、現在は「下池」だけが残されている。この池は、「江戸期」には農業用の溜池として利用され、ここから引かれた「猫ヶ洞用水」は、周囲の村々の灌漑に一役を買っていた。今は周囲に水田などあるはずもなく、この池を水源とした「山崎川」もすっかり暗渠化され、「猫ヶ洞通り (
キャットロード本山商店街) 」と名を変えてしまっているため、この通りが南方で、「末盛通り」とぶつかる「本山」交差点付近までは、流路を見ることすら出来ない。

この「猫ヶ洞用水」と云うのには、実は二つの流路があったようで、一つは現在の「徳川園」付近の「大曽根屋敷」方面の灌漑を目的とし、他方は「御器所」方面の灌漑に利用されたようである。既に、『
延享二年村絵図』 (1745) において、東部台地を南下して、「大曽根屋敷」から「井戸田」にかけての「名古屋新田」の水田化に役立つ水路と、「辰ヶ池」を通って「精進川」へと入る水路の二つが描かれている。『天保村絵図』 (c. 1840) では、「末森村」の「猫ヶ洞池」と「古井村」の「蝮ヶ池」を水源とする「新川 (長根川) 」が、「御器所村」の西で「精進川」に合している様子が見て取れると云う。

「猫ヶ洞池」の名前の由来については、一般には
、池が作られた当時のこの地の地名である「兼子山」が転じたものだとされている。より具体的には、「明治」頃まで、池の周辺は「金児硲・金子狭間 かねこはざま 」と呼ばれていたが、この「金子」が「猫」に、「はざま」は「洞」と同じく丘陵の谷間のことだから、「金子はざま」が「猫ヶ洞」に転じたのだと云う説もある (小林、1984) 。この他にも、「磯谷滄州」が中国の「猫堂」に因んで名づけたと云う説などもあり (千種区婦人郷土史研究会、1983) 、どれも尤もらしくは聞える。

「猫ヶ洞」については、いずれ丁寧に扱う機会があろうかと思うが、筆者は「兼子山」転訛説や、
「磯谷滄州」の「猫堂」説には、はっきりと懐疑的である。それは、同じ「中部地方」の「岐阜県」にも「猫ヶ洞」と云う地名が見られるからである。これは、「千葉県浦安市」の「猫実」と云う地名について述べたときにも力説したことだが、たとえ珍しい地名の由来説明が地元に残っていたとしても、近接地域に同じ地名があり、かつ別の地形、あるいは別の地名起源を有していたならば、どちらの由来も、精査なしには事実として認めることは出来ないと云う原則を筆者は採用している。特に、「兼子山」説・「猫堂」説のように、はっきりとその地元にのみ限定される起源説明は、他所の地に同一地名があった場合、その信憑性は大きく揺らぐと云わざるを得ない。

もちろん、「猫ヶ洞」に関しては、それが「猫」と直接関わる地名なのかさえ、筆者には確証がない。古い地誌類には、「猫ヶ洞」にまつわる伝説は、あまり伝えられていないようであるが、比較的新しい書籍には、「猫ヶ洞」の伝説を載せるものが、一応、二三はある。それらを総じて見ると、「猫ヶ洞」の伝説には、大きく二つの系統があるようで、一つは「猫ヶ洞の鬼婆」系 (eg. 小島勝彦、1975 / 黒柳、2001) で「猫」は登場せず、他方は、「猫ヶ洞の化け猫」系の説話である
(eg. 毎日新聞社学芸部、1975)

しかし、「猫ヶ洞池」は、「上池」が寛文四年 (1664) 、「下池 (大池) 」が寛文六年 (1666) に造成されたものであることが、歴史的に分かっているのだから、「中世・那古野荘」の時代にまで遡ってその起源を語る
「猫ヶ洞の化け猫」系の説話は、逆に、その説話が「寛文年間」以降の創作であることが証明されるのである。「猫ヶ洞の鬼婆」系のものにしても、その話型はより古いかもしれないが、こちらも「猫ヶ洞池」の起源を語っていることから、自らの新しさを露見しているのである。

ただ、このことを以て、「猫ヶ洞」と云う地名自体が新しいことの証明とすることは出来ないのは云うまでもなかろう。だが、現時点で筆者は、この地名の起源に関して、新たな自説を唱える準備もないので、ここでは「猫ヶ洞池」からの水流が、「大須」の真南に至っていた、と云う事実だけを、何かしらの符合であるかのように提示しておくことに留める。実際、筆者にとっても、このことは、それ以上でも以下でもないのである。


b) 「旭廊」と「猫飛び横丁」

さて、今度は「大須」の話をしよう。

現在の「大須」の土地がいわゆる「大須観音」を中心に発達した門前町であることは言を待たないが、この地の東には既に見たように、往時の「名古屋」物流の動脈であった「堀川」が流れている。この「観音様」から「堀川」までの間の地は、「堀川端」などとも呼ばれ、古くはここの門前町の中でも指折りの歓楽街を形成していた。

「大須」の歓楽街の原型は、「徳川宗春」の開放政策に基づき、城下にそれまで禁止されていた芝居小屋や遊廓を造ることが許可された際の享保十七年 (1732) 、「前津小林村」の南、「長栄寺」の東辺りに営まれた「富士見原遊廓」に見ることが出来る。この遊廓は、四年ほどで廃止されたが、以降も風光明媚なこの地には、料亭や茶屋などが開かれ、質素ながら遊侠の風流子などを多く集めた。藩の重臣で、文人としても高名な「横井也有」の別荘地でもあり、「北斎」の『富嶽三十六景』にも「尾州不二見原」の一枚がある。

その後、この地域の歓楽街は、「幕末」の「安政年間 (1854-1860) 」に、「玉屋町」 (現・中区錦) の宿屋「笹野屋庄兵衛」の上願により、「大須観音」の北にあたる「北野新地」
に役者芸人の宿が置かれたのを受けて、やがては遊女を置く私娼も現れ、本格的な歓楽街としての様相を帯び始めたと云われる。維新後の明治七年 (1874) 十月には、「大須」の「北野新地*」が公認の遊郭に指定されたが、翌年、より広い敷地を求めて「西大須」に移転した**。この遊郭が「旭廊」と名付けられたのも、元の「北野新地」があった「日之出町」に因んだものだと云う。
 
* 北野新地---現「北野神社」付近。「清安墓地」の南、「大光院墓地」の西の区画。
**
北野新地の南西、園町以東。「大須観音」の堂裏、「堀川」以東の五箇所。
 
この地は、大正元年 (1912) には、「萬松寺」が寺領の山林を一般の商業用地として開放したのが切っ掛けで、遊郭のみならず、劇場、演芸場、映画館などが軒を並べる「名古屋」随一の歓楽街として栄えるようになった。しかし、「名古屋市」の拡大に伴い、遊郭が市街地と接することになり、風紀の面と用地不足が問題となり、大正十二年 (1923) には、現在の「中村区大門地区 (旧・中村) 」に移転して「中村遊廓」へと発展解消された。

ところで、「明治」から「大正」にかけて隆盛したこの「旭廊」にあって、その中心街たる「花園町」から、一本北に入った路地は旧「音羽町」と云った。東西を「常盤町」と「富岡町」に挟まれた小さな町である。そして、このささやかな遊郭の一角には、かつて胸を締めつけられるような哀切な俗地名があったと云う。その名も「猫飛び横丁」...。

えっ、何で哀切かって? 籠の鳥である遊女たちが、抜け出すことの出来ぬ窓の向こうの、狭い路地の庇の間を飛び交う「猫」たちを見ていたのかと思えば、これが哀切じゃなくて何だと云うのだろう...。しかも、「猫」と云うのは、「遊女」たち自身を指す隠語としても広く普及した言葉だったことを思うと、なおさらその感が強められるのである*。いつか自分たちも本物の「猫」のように、自由にこの横丁をひとっ飛びしたい、そんな思いが隠されているように感じられるのである。
 
* 遊女や芸者を「猫」と異称するのは、少なくとも「江戸中期」から行われているが、これについて多くある文献的な例証はここでは省く。ただし、大正十年 (1921) の「樋口紅陽」による『芸者哲学』と云う書に、「其の何れのためかは判明せぬが、既に猫と言へば藝者の別名であるといふ事は、金と言へば錢の別名であるといふ如く、兒童と雖も能く之れを知るところであります」とあるのだけは、この用語法が比較的近年まではかなり行き渡っていたことの例証として挙げておく。
 
この「猫飛び横丁」について、「堀川文化を伝える会」顧問の「沢井鈴一」氏は、端的にこのことを述べておられる。
 
二階のひさしからひさしまで猫が飛び移れるほど狭い町で、猫のような自由を求めた遊女の境遇を、俗名として呼ばれた『猫飛び横町』から思い浮かべることができる。
 
沢井鈴一・講演「猫飛び横町 おから猫」
第29回堀川文化講座「大須路地裏ものがたり 猫飛び横町おから猫」 報告
http://www.city.nagoya.jp/ku/naka/machi/miryoku/horikawa/h_21/nagoya00075524.html
 
実際、明治末期に執筆された「名古屋」の遊郭案内記の一種には、次のようなくだりがある。
 
猫飛びある記
 
富岡町の各樓を素見果てし西側を 御園にぬける小路あり いと狹ければ猫飛びと 誰がつけたるか面白し 軒近ければ しかいふかわれも軒下傳ふ猫 北のかゝりを美の宇とて こゝにお職はまるぼちやの愛嬌ざかり賣れざかり それにも似たる勝山は 瓜實ならでまる切の 其片われとしられたり したゝるゑがほこがね齒の げにすてがたきけしきなり ある人が

みのうへのこともわすれてあそふかな
けに勝山のけしき みとれて
 (中略)
次を松花樓といふ いろに秋花みつる花 まぶの色花 ひとよ花 月の花山さむし花 よし花つけてあげずとも 一言こゑをかけしやんせ 客をまつ花線香花、仲居は客の花をまち 小猫も緣のはなにねて はなをならすか面白し
 
福田由道/編 (1911) 『花くらべ』梅之卷、花競會、pp. 41-42
 
明治八年に誕生した「旭廊」が、大正十二年には、旧「中村」 (現・中村区大門地区) に移転して「中村遊廓」となったことは、既に触れた。ここで変に法令史に詳しい人なら、明治八年にせよ、大正十二年にせよ、どちらの時期も既に我が国では娼妓たちの身体的な拘束を禁止する法令が出されて久しいのではないか、と疑われるかもしれない。

確かに、明治五年 (1872) 十月二日、時の政府は、我が国の「アミスタッド号事件」とも云える「マリア・ルス号事件*」を切っ掛けに、「芸娼妓解放令 (太政官達295号) 」を発し、続く十月九日に「
司法省達第二十二号**」を発令して、遊廓の女たちを縛っていた芸娼妓の前借金を無効にすることを確認している。しかし、これは国内での人身売買や奴隷労働を禁止することを通じて、西欧列強に対して、日本国が対等外交に値する近代国家であることを示したかった当時の政府の思惑を性急に反映した法令であったため、娼妓たちの解放後の生活保障などの施策がなく、結果的に新たな「貸座敷」制度***を生み出す形で、公娼制度は継続されたのである (牧、1979 / 下重、2012) 。要するに、娼妓の解放と云うのは建前ばかりで、実際にはまったく法令は遵守されることなく、ほとんどすべての遊廓では遊女たちの身分的拘束は依然として続けられたのであり、「旭廊」「中村遊廓」もその一つだったのである。「猫飛び横丁」と云うのは、そのような時代の呼び名なのだと、理解されねばなるまい。
 
* 明治五年 (1873) 「横浜」に寄港した「ペルー」船籍の「マリア・ルス号」が、大量の清人苦力を乗船させ、その身体的自由を奪い、逆らったものには拷問を行なったのは奴隷貿易に当たるとして、日本政府が、これら清人を解放した事件。これに対し「マリア・ルス号」側は、国内で「遊女」と云う奴隷契約を公認している政府が、自分たちの移民契約を奴隷契約と批難するのはおかしいと論駁したことがきっかけとなって、「芸娼妓解放令」は発令された。
** 「牛馬とりほどきの御触」とも云われた。特にその第二項の「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事」の文言で知られ、「芸娼妓の前借金の無効」を確認したものだった。
*** 娼妓たちが個人の資格において売春を営業するに当たって、妓楼の主人たちが営業の場としての「座敷」を貸すと云う契約形態に変えることで、旧態依然とした遊廓が経営されたのである。「人身売買」は禁止するが「売春は禁止しない」と云う「芸娼妓解放令」の限界であった。
 
ただし、「招き猫」と「遊廓」の関係は、娼妓たちが「猫」に擬されたことや、妓楼の主人たちが、商売繁盛を願って入口の縁起棚に置いた、と云うだけの関係ではなく、より個別的に、「籠の鳥」であった娼妓・娼婦たちと関わるものであった、と云うことを「神崎宣武」氏は、その著『聞書・遊郭成駒屋』 (講談社、1998) の末尾で明らかにしている。
 
「成駒屋」の残存民具のなかで、ひとつだけわけのわからないものがあった (中略) それは、人形・玩具の類である。娼妓の部屋には何種類かの人形や玩具が残っていた。もちろん、それらは装飾品であり遊具なのである。その景色がふつうの人形や玩具といささか異なっているのである。 (中略) 部屋に残されていたのは土器や磁器の稲荷の狐像と招き猫像であった。 (筆者・改行は無視した)
 
神崎宣武 (1989) 『聞書・遊郭成駒屋』講談社、p. 216
 
「神崎」氏は、もちろん、これらの玩具が商売繁盛、千客万来を願っての縁起物であるのは百も承知の上でこのように云っているのである。要するに、それ以上の何かを感じ取ってこそ、上のように述べているのである。そして、そのことに関しては、直後に明らかにしているのだが、その謎解きは折角だから原著に任せておくこととしよう。

ただ「神崎」氏が、これらの「稲荷さま」や「招き猫」に最初に強い興味を抱いたのは、それらが取り壊された妓楼の玄関や帳場の近く、すなわち商店の縁起棚が飾られているべき辺りからではなく、奧の女郎衆の個人部屋などから見つかったことであった。縁起棚の「招き猫」については、幾多の文献から、花柳界のお店での存在が確認出来る。しかし、そこに働く個々の女たち、すなわち「籠の鳥」と称されて、外出の自由などを奪われていた女郎衆と「招き猫」のつながりで云うと、必ずしも直接に関係づける資料はなかったのである。

有名な「吉原」の「薄雲太夫」の話だとて、どこまで真実を伝えているかははっきりとしないのだが、仮に本当だったとしても、松の位の最高の花魁ならぱ「猫」を飼うことも許されたか知らないが、一般の遊女たちがそんな自由を与えられたはずはない。しかも、「東日本」の遊郭は、一般に「廻し」と云われた接客方法を導入していたため、遊女と云うものは個室を与えられていないのが通例だった。そう云う中で、愛玩動物の飼育はおろか、私物の玩具さえもが普及していたとは、実物が明確な状況を伴って見つからない限り、なかなか信じにくい。「神崎」氏が「招き猫」を発見した「中村遊郭」などのように、「名古屋」や「関西」の遊郭には「廻し」のシステムがなかったために、廓内の女たちは狭いながらも個室を与えられていたのである。少なくとも、「貸し座敷」制度の確立以降はそのようであったと考えられる。そして、「中村遊郭」の前身、「旭廊」も同じようだったと云える*。その個室から、「招き猫」が見つかったのである。
 
* 「中村遊郭」の時代のことについては、「神崎」氏が、「成駒屋」の間取図や帳簿への記載事項の分析から証明し、かつ当事者の証言を得ている。「旭廊」時代のことに関しては、「中村」への移転直後の「関東大震災」時に既に確立されたシステムとして語られていることから、およそ推測出来る。
 
成駒屋・招き猫
「成駒屋」跡から出た「招き猫」
 (神崎宣武、1989; 217)
  
このとき「神崎」氏が発見したのは磁器製の「招き猫」であったが、昭和三十三年 (1958) 当時で、既にだいぶ使い込まれていた「招き猫」が磁器で出来ていると云うのは、「招き猫」の発展史の中で見ても貴重な情報である。上の写真を見る限り、どちらも「戦後」普及した「常滑」型の「招き猫」とは似つかず、特に右側は、地理的に近い「瀬戸」でかつて焼かれていた「招き猫」か、あるいは「三河土人形」系の「招き猫」に間違いなさそうである。左側のものは、どこかで見た覚えがあるので、もしかしたら何かしらの作家ものかもしれないが、今は思い出せない。御存知の方がいらしたら、是非、御一報を...。

いまでこそ「招き猫」と云えば、ほとんどが磁器製になっているが、これは飽くまでも「戦後」しばらくしてからの特徴で、現存する遺物を見る限り、より古くは土製や木彫りが中心で、大型のものを中心に、稀に石製のものなどが見られる程度である。

そもそも、「江戸期」から「明治期」にかけて、我が国の玩具人形の代表格だったのは、各地で生産された土人形であったが、「明治」を最後に、これら土人形は衰退の一途を辿った。従来は、西洋化や交通体系の変化によるものと説明されてきたが (木立、2008 etc.) 、近年、この衰退は、「瀬戸焼」から新たに起こった磁器人形との競合に敗れたためと理解されるようになってきている。これは、「五条坂・道仙化学製陶所窯跡」の出土品整理の過程で、「立命館大学」の「木立雅朗」教授の研究班が、平成二十三年 (2011) 二月二十二日に、「五条坂・かわさき商店」で大量の色絵磁器人形が残されていることを確認、調査の結果、これらは「大正期」を中心とした瀬戸焼であり、「瀬戸焼・西茨1号窯遺跡」から類例が出土していることが判明したことによって提唱されたのである (木立、2011 etc.) 。
 
かわさき商店・招き猫
「五条坂・かわさき商店」発見の玩具人形
『立命館大学グローバルCOE・木立研究室』2011/03/19より
 
磁器製の「招き猫」の正確な起源については、現在知りうるところはないが、「木立」教授らの調査報告を元に考えるならば、「瀬戸焼」がその起源と深く関わっている可能性は極めて高そうである。そして、既に見たように、「遊廓」で、一人一人の娼妓が個室を与えられていると云うのは、大まかには「名古屋」以西の「西日本」に限られた慣習だったのだから、遊廓で働く女たちが個人的な玩具人形などを飾れたのもこの地域に限られることであろう。「中村遊廓」の跡から、「瀬戸焼」らしき磁器製「招き猫」が出てきたと云うのも、このような地理的な条件に影響された象徴的な出来事なのかも知れない。
 
*
 
「中村遊郭」は、昭和三十三年 (1958) の「売春防止法」を控えて、その年の一月のうちにすべての業者が自主転廃業に踏み切り、その遊廓としての歴史に終止符を打った。全国の遊廓・赤線は、最終期限であった、この年の四月までに皆これに続いた。

この「中村遊廓」の自主廃業に見られた従順さには、しかし、裏があったそうである。妓楼の経営者たちでつくっていた組合「名楽園」は、「新名楽園」と名称を改め、旅館業や特殊浴場 (トルコ風呂) 、それに飲食店などに転業したが、これは遊廓建築からの改修なども最小限に済ませられ、設備をほとんど居抜きで使えるように考えた転業だったのである。多くの楼主たちは、「売春防止法」は、それまでの多くの反売春立法と同様、建前だけの一時的なもので終わり、やがてまた遊廓は復活するものとタカをくくっていたのだと云う。

結果として、この見通しの甘さが、繁華街として「中村」が生き残っていくことの命取りとなり、以降、この町は衰退の一途を辿ることになった。現在は、廃墟や空地に交じって、辛うじて人が生活しているような古びた建物がチラホラする中、かつての遊廓の中心地には駐車場も備えた大型のスーパーマーケット (ユニーだったと思う) が構える、不思議な町になっている。ただ、その中にも何軒かは、往時を偲ばせる遊廓建築の風情を漂わして佇む建物が残されている。おそらくは、「中村遊廓」盛んなりし頃でも、何本かの指には入れられた一流の妓楼だったのだろう。そのような建築物は、「売春防止法」から半世紀以上が経ち、人々の記憶から「遊廓」や「赤線」と云う言葉さえ消え失せつつある今、「大正」から「昭和初期」の貴重な文化財として、特に四軒が、市から「名古屋市都市景観重要建築物」に指定されている (うち一軒は平成十六年に取り壊された) 。

今も残るそのような遊廓建築のうち、大門通り寿町通りの交点にある「長寿庵」には、遊廓と「招き猫」の縁を今に伝える造形物が残されている。あでやかな赤壁と黒光りする桟格子を背景に吊り下げられた青銅の燈籠を見つけ、それを提げている綱に沿って目を軒下に移すと、迫り出した梁の木鼻に、まるで空を飛ぶが如き見事な「招き猫」が彫り出されているのである。場所は「旭廊」ではないが、その後身たる「中村遊廓」にも、「猫飛び」はあったのである。
 
中村遊廓・長寿庵・猫02
 「長寿庵」の「招き猫」の木鼻
 
かつて「熊谷市」の赤線跡に残った旅館風情の建物の軒下にも、「招き猫」をあしらった木彫りの額が掲げられていたのを見たことがあるが、それも四五年前には撤去されてしまったと聞く。興味のある方は、「木村聡」氏の名著『赤線跡を歩く』 (
自由国民社、1998) を参照されるとよい。旧「中村遊廓」の「長寿庵」は、現在、この地域の地主でもある病院経営者の所有だと云うから、しばらくは安泰かも知れない。しかし、近い将来には、「遊廓」の記憶と共に、ここの「招き猫」も失われてしまわないか、筆者としては不安でならない。


 
4. おわりに
 
それにしても、本来の名前 (少なくとも古い歴史のある方の名前) である「おからねこ」を頭から否定して、明治の終わり、二十世紀に入ってから創作された祭神と神社名を「正しい」ものとして押しつけようとする神社の社頭説明板には、正直、からくりを知ってしまえば興ざめする。しかも、神社が躍起になって否定する「猫」関連の由来の方が、少なくとも「江戸期」にまで遡れると分かったからには、なおさらである。

「明治末」の頃は、政府が拡大し続ける我が国の帝国主義的膨張を支える戦費を稼ぎ出すために、あらゆる方面で歳出を抑えようと躍起になっていた時代である。「神社合祀令」も、実は宗教政策と云うよりは、一種の財政的な措置として運用されたのである。「平成の大合併」が、とにかく自治体の数を減らすことで、交付金や支出金を減額して、国の歳出を抑制しようと云う目的で、強引に推し進められたのと同じように、国の「国家神道」政策に見合う規模の神社のみ残すことで、天皇と国家の威信を高めつつも、その上で財政の負担を逓減化しようと図ったのである。これは同時に、政府の進める地方自治政策とも相まって、一町村に一つの神社と云う形を創り出し、地方の自治は神社を中心に行なわれるべきだと云う、いわゆる「神社中心説」の理念の実現のためにも利用された。結果的には、住民の居住域の神様が廃されたことで、集落単位の生活暦に組み込まれた祭祀も中断させることになり、現在へとつながる、我が国の近代化の中での大きな問題である「地方の弱体化」が大きく推進されることになったのである。

しかし、この「神社合祀令」を受け入れる側に回った当時の住民たちからすると、こんな国家の意図とは無関係に、寝耳に水で、先祖伝来のお祭りを廃されるかも知れないと云うのは、驚天動地の出来事でもあった。各地で、おらが村の神様を守るために、当時の常識に則って、必死の工夫や抵抗が行なわれたのである。かつては、各地に鎮座したそれぞれの地に土着の神々も、生き残りのために、この時期に多く、「記紀」神話に登場する皇祖神系の神様、あるいは国神でも、
国造りに活躍した「出雲」系や「三輪・加茂」系などの有名どころの神様に変身を余儀なくされたのである。最後は、とにかく「記紀」や『延喜式』に載る神や神社と何かしらの縁戚関係を築くことで、「合祀=廃絶」を免れようとしたのである。

そして、われらが「おからねこ」の数奇な運命も、この時代の趨勢と無縁には済まなかったのである。神社の合祀が盛んに執行されていた頃、ちょうど「精進川」 の水利工事が始まり、「おからねこ」を巡る状況は、急激に悪化したからである。合祀推進派からすれば、「おからねこ」などと云う由緒不明な、天皇中心的な神道観からすれば「怪しい」の一言に尽きる神社など、廃絶するのにちょうど良い機会だったに違いない。大体、「ねこ」とは何だ、と云う論法である。そもそも、遊廓の近くで「ねこ」を名乗っていること自体が、この場合は、頭の固い、中央の教養人からは軽蔑に値することだったのだろう。神社や氏子たちからすれば、生き残りへのただ一つの有効な手段が、有力な「記紀」神話の神様との縁を掘り起こすことだったのであろう。

この辺りの具体的な経緯は、まったく把握していないのだが、おおよそこのような心理の下で、明治四十二年 (1909) の「大直禰子神社」への改称は断行されたのではなかろうか。逆に、そうでなければ、何も拙速に祭神を新たに決定したり、社名を変更したりする必然性がないのである。

ただ、現代と云う時代が、もはや「神社合祀令」の発せられ、「国家神道」が幅を利かせている時代でないのは、いまさら言を待たない。その状況の中で、神社側が、「大直禰子」を祭神とすると云う、「明治末」に考え出された縁起や祭祀を頑なに守ろうとするあまり、少なくとも同じほどに古く、おそらくはそれよりもずっと古いだろう「猫の神様」としての性格を揉み消そうとしているのは、甚だ残念だと云わざるを得ない。まあ、「猫の神様」なんて謳ってしまうと、捨て猫などが増えて大変だろうから、事前に危険な火は消しておこうと云うことなのかも知れない。

現在、狭い境内は、隣りの不動産屋さんの女性によって毎日、綺麗にされていると云う。又聞きに、ちょこっと耳にしただけなので、それが信仰心から来るものなのか、純粋な社会奉仕の精神から来るものなのかは分からない。ただ、この女性のことを考えると、確かに捨て猫が増えたり、あるいは「東京」は「谷中」の寺などが悩んでいるように、猫の亡骸を置いていく輩が現れたりしては困ろうものである。

けれども、節度ある範囲で、地域の猫好きの人々が、ささやかな「猫の神様」の古習を受け継いでいって下さったらいいな、とは願っている。もちろん、他所の地からお参りするものは、マナーを守るのは当然として、「猫神」さまへの感謝の気持ちを込めて、お賽銭もお忘れなきよう、お願いしたい。


今回の記事は、内容的には次回の記事に理論的な考証部分のほとんどを持ち越しつつ、この辺りで終わりにしたいと思う。
 
*
 
いまでも「丸田町」交差点の南西角近くに「東 天道 八事みち 南 さん王 すみよし あつた道 西 矢場地蔵 おからねこ道 北 法花寺町 大曽根道 」と記された道標が残り、かつての「おから猫」様の繁栄ぶりを偲ぶ縁 よすが となっている。
 
大直禰子神社」の地図は、こちら
 
  
参考文献


A. 「おからねこ」関係

・高力種信 (c. 1818) 『尾張名陽圖會』文化文政年間
 林秀夫/編 (1984) 『日本名所風俗図会 6・東海の巻』角川書店
・石橋庵眞醉 (c. 1830) 『作物志』天保期までに成立
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福田由道/編 (1911) 『花くらべ』梅之卷、花競會
・山田秋衛 (1935) 『前津舊事誌』曾保津之舎
・名古屋市中村区制十五周年記念協賛会/編 (1953) 『中村区史』自刊
堀川文化を伝える会/編 (2002) 『堀川端ものがたりの散歩みち』名古屋市中区役所
・堀川文化を伝える会/編 (2003) 『堀川端ふしぎばなし』自刊
・名古屋市博物館/編 (2006) 『富士見の里・昔の前津』自刊
・名古屋市博物館/編 (2010) 『名古屋城下図集・幕末編』自刊

B. その他
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 黒板勝美/編 (1966) 『新訂増補・国史大系 4』吉川弘文館
・藤原時平・藤原忠平/撰 (927) 『延喜式』卷九・十、延長五年
 黒板勝美/編 (1965) 『新訂増補・国史大系 26』吉川弘文館
・尾張藩/編 (17C後) 『寛文村々覚書』寛文年間
 名古屋市教育委員会/編 (1966) 『名古屋叢書・続編 3・寛文村々覚書』自刊
・天野信景 (1704-1711) 『鹽尻』卷之三十、寳永年間
 日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成・第三期 14』吉川弘文館
・刑部善三左衛門 (1744) 『尾陽寛文記』延享元年
・平出鏗二郎 (1898) 『東京風俗史』第三稿、自筆稿本
・石田孫太郎 (1910) 『猫』求光閣書店
 
国会図書館・近代デジタルライブラリー

・高田十郎/編 (1920) 『なら』四號、自刊
・樋口紅陽 (1921) 『皮肉風刺 藝者哲學』寳學館
 国会図書館・近代デジタルライブラリー

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 牧昭/編 (1990) 『追補再版・牧氏始祖墳墓発見録』自刊
・松川二郎 (1929) 『全國花街めぐり』誠文堂
・牧英正 (1979) 『人身売買』岩波新書
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・斎藤良輔 (1984) 『増補・日本の郷土玩具』未来社
・池本正明・藤澤良祐ら (1987) 「西茨第1・2号窯発掘調査報告」
 瀬戸市歴史民俗資料館/編 (1987) 『研究紀要 6』自刊
・司馬遼太郎 (1985) 『街道をゆく 26・嵯峨散歩』朝日新聞社
成城大学民俗学研究会/編 (1986) 「信仰」『成城大学民俗調査報告書』九号、自刊
・下中邦彦/編 (1986) 『日本歴史地名大系 28・大阪府』平凡社
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・神崎宣武 (1989) 『聞書遊廓成駒屋』講談社
・明田鉄男 (1990) 『日本花街史』雄山閣出版
・阿木香 (1996a) 『瀬戸やきもの風土記』陶磁郎BOOKS、双葉社
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・加藤國光/編 (1997) 『尾張群書系図部集・下』続群書類従完成会
・井上章一 (1998) 『人形の誘惑』第三章「招き猫のセクソロジー」三省堂
・加藤政洋 (2005) 『花街』朝日新聞社
・木立雅朗 (2008) 「考古学から見た土人形の出現と展開」
 関西近世考古学研究会/編 (2008) 『関西近世考古学研究 16』自刊
・下重清 (2012) 『〈身売り〉の日本史』吉川弘文館

C. 外国語文献
D. Keene (2005) Emperor of Japan: Meiji and his World, 1852-1912, Columbia Univ. Pr.


参照サイト

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 第29回堀川文化講座「大須路地裏ものがたり 猫飛び横町おから猫」 報告
 http://www.city.nagoya.jp/ku/naka/machi/miryoku/horikawa/h_21/nagoya00075524.html
・沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」2-5「精進川の霊—乗円寺
 http://network2010.org/article/548
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」4-3「死に堀川」
 http://network2010.org/article/904
・ブログ『愛知限定・歴史レポ』「牧氏の歴史、No.11-12」
 http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/44801057.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/44801337.html
・『立命館大学グローバルCOE・木立研究室』2011/03/19
 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/KCSG/kidachi/2011/03/post-8.html
・「デジタル版・日本人名大辞典 +Plus」出典 : 講談社

「MAPPLE 観光ガイド」
 http://www.mapple.net/spots/G02301029301.htm
・木立雅朗ら (2011) 「京都における工芸の民俗考古学的研究」PDF公開・報告書
 
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/oldarc/houkokusho/houkokusho2011/pdf/3-1-2_houkokusho2011_kidachi.pdf


 

愛知県の猫神・法住寺の「唐猫」

.29 2012 中部地方 comment(0) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していくシリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。

曹洞宗
呑海山・法住寺

愛知県豊川市御津町赤根百々 61
0533-75-3543
 
法住寺・正面
「呑海山・法住寺」
 
1. はじめに

今回紹介する「唐猫」は、「愛知県豊川市」の旧「宝飯郡 ほいぐん ・御津町 みとちょう 」の地域 ちいき にある「法住寺」というお寺の「観音堂」に納められています。この「観音堂」は、新しい建物のようでしたが、屋根の瓦 かわら が左右にぴんと張った下に、全体が真っ白に見える姿 すがた は、優雅 ゆうが であると同時に、いい知れぬ風格も漂 ただよ わせていました。

このお寺のある「御津」というのも、読むのがむずかしい地名ですが、これで「みと」とよむのだそうです。「みつ」じゃないんですねぇ...。ちなみに、「兵庫県たつの市」にも「御津町」という地名がありますが、こちらは「みつちょう」とよむのが正しいそうです。

ここのお寺は、地元の人々に愛される、たいへん美しいお寺です。表通りからは見えないため、初めて行くとなかなか見つけるのがむずかしいのですが、参道も建物も、お庭も、すべての手入れが行き届いていて、何とも気持ちのよいところです。特に、トイレが汚 きたな くないというのは、お寺としてはかなり珍 めずら しいのではないでしょうか。

ところで、ここのお寺は、わたしにとっては何と言っても「唐猫様」のお寺ということになりますが、多くの人には、国の「重要文化財 (旧・国宝) 」にも指定されている「千手観音菩薩像」が有名な寺として知られています。実際、国道23号からの道沿いに立つ案内板も、大きく「千手観音」と書かれています。この「唐猫」シリーズの記事では、「唐猫」以外の話はしないつもりだったのですが、この「千手観音様」には、不思議な物語が伝えられているので、今回は特別に紹介することとします。
 
法住寺・千手観音
「法住寺・千手観音菩薩像」
 
ここの「観音菩薩像 かんのんぼさつぞう 」は、「藤原時代末 ふじわらじだいすえ 」の作品と見られる、非常 ひじょう に貴重 きちょう な仏像 ぶつぞう なのですが、元からこの寺にあったものではないのです。「明治」の初め、「廃仏毀釈 はいぶきしゃく 」の嵐 あらし の吹きすさぶ中、「三重県・宇治山田 うじやまだ 」の「上善寺 じょうぜんじ 」にあったこの仏像は、地元の人々によって海の中へと投げ捨てられそうになったのですが、それを「御津 みつ 」の信心深い船乗 りであった「今泉 いまいずみ 唐左衛門 とうざえもん 」がゆずり受けて、「法住寺」に寄進 きしん したものだと云うことです。一説では、海に捨てられたものが、寺の近くの海に打ち上がったものだとも伝えられます。

「廃仏毀釈  」というのは、「明治時代」のはじめ、「天皇」や「神社」を大切にするあまり、各地でお寺や仏像が取り壊 こわ されてしまった動きのことを指します。「三重県」は、昔は「伊勢 いせ の国」とよばれ、「天皇」の先祖とされる「天照大神 あまてらすおおみかみ 」という女神様を祭る「伊勢神宮 いせじんぐう 」の足元ということもあって、わが国の中でも最もはげしく「廃仏毀釈」の嵐 あらし が巻き起こった地域だったのです。「御津町」の面する「三河湾 みかわわん 」は、ちょうどその「伊勢」の反対側の海岸に当たるので、「法住寺」の「観音様」の他にも、似 たような伝来 でんらい の歴史 れきし を持つ仏像が、湾岸 わんがん に多く残 のこ されているとも聞きます。

それにしても、「縁 えん 」というのは、不思議 ふしぎ なものですね。



2. 法住持の「唐猫」
 
法住寺・観音堂
「法住寺・観音堂」

今日は、「法住寺」の「唐猫」の横に立ててある札 ふだ の説明文をそのまま載 せることとします。ふりがなだけは、つけ足しておきます。むずかしい言葉に関しては、「3. この話について」で説明します。

法住寺・唐猫05
旧「山門」の「蛙股」と「唐猫」
反射 はんしゃ が強くてきれいには撮影
さつえい できなかった...。

 
法住寺の猫
 
当山 とうざん はもと神場山 かんばさん にあつたが慶長九年 (1604) 頃 ころ 今のところに移転した。当山の山門 さんもん は神場山より移 うつ されたもので山門に飾 かざ られた蛙股 かえるまた にこの猫が彫刻 ちょうこく してあった。 (後 のち 伊勢湾 いせわん 台風にて山門取りこわす)
この猫は左甚五郎 ひだりじんごろう の作である。昔 むかし 夜になると山門よりぬけだして庫裡 くり に入り食物をあさつたりしたので困 こま つて時の住職 じゅうしょく が、この猫の足を切り落としたらおとなしくなったという
 
宝飯郡御津町赤根
呑海山 法住寺蔵

現地説明札より


法住寺・唐猫02
法住寺の「唐猫」

しかし、この説話には、寺の説明札とは少しだけ内容の異 こと なる別の話も伝わっています。とても短い内容なのですが、次のようなものです。
 
「法住寺」の、「左甚五郎」の彫刻の「虎猫」が家畜や田畑を荒らしたので、足を切った。
 
参照・福田祥男 (1975) 『増補・愛知県伝説集』泰文堂、p. 256
 
ごらんの通り、こちらのお話では「唐猫」は登場せず、単に「虎猫 とらねこ 」とされています。そして、この「虎猫」のするいたずらというのも、庫裡 くり の食べ物を食い散らすのではなく、周囲の家畜 かちく や田畑を荒らすことになっています。しかし、それ以外の点では、話の筋 すじ をふくめて、お寺の説明札とほぼ同じ内容だといえるでしょう。



3. この話について

1) 言葉の説明


今回は、お寺にある説明をそのまま載せたので、少し分かりにくい言葉もあったことでしょう。以下、むずかしいと思われる言葉を説明します。
 
法住寺・山門
「法住寺」の現在の「山門」
 
a) 「山門」

「山門 さんもん 」というのは、要 よう するに「お寺の正門」のことです。お寺は元々、山の上に建てられることが多かったため、「~寺」という寺名の前に、「~山」という「山号 さんごう 」をもっているものが多いのです。だから、「山門」というと「寺の門」という意味になるのです。上の伝承 
でんしょう の説明文の中で「当山 とうざん 」といっているのも、「この寺」という意味です。
 
蛙股01
蛙股02  
色々な「蛙股」
鶉功 (1993) 『図解・社寺建築・各部構造編』理工学社より

b) 「蛙股 (蟇股) かえるまた


「蛙股」は「かえるまた」とよみ、「蟇股」とも書きますが、これはお寺や神社の「梁 はり  (柱と柱の間を結ぶ横木) 」などの上に置かれる山の形をした木材部分のことです。もとは柱を補 おぎな う役割 やくわり を果 たしていたのですが、いまは完全 かんぜん な飾 かざ りとなっています。ちなみに漢字は、「蟇股」が正しいという人もいます。

c) 「庫裡 くり

お寺用語の説明をしているついでに、「庫裡 くり 」の説明もしてしまいましょう。「庫裡」というのは、元々はお寺の建物のうち、食事をつくる建物のことでした。後には、和尚 おしょう さんやその家族が住む建物のことを指すようになりましたが、上の説明文だけではどちらだか分かりませんね。

d) 「伊勢湾 いせわん 台風」

「伊勢湾台風」というのは、昭和三十四年 (1959) 九月二十六日に、「紀伊 きい 半島」から「東海地方」を中心に、全国で死者・行方不明者5,098人を出すなど、大きな被害 ひがい をもたらした台風です。台風による被害としては、これがいまだに戦後最大のものとなっています。

e) 「左甚五郎 ひだりじんごろう

最後に、「左甚五郎」の説明です。この人物は、「江戸時代初期」に活躍 かつやく したとされる伝説的な名大工・彫刻 ちょうこく 職人 しょくにん です。本当にいたかどうかは、はっきりしないのですが、「日光東照宮 とうしょうぐう 」の「眠り猫」などを彫 った人物とされています。
 
眠り猫
「日光東照宮・蛙股」の「眠り猫」
 
「甚五郎」は、多くの伝説を残 のこ していますが、どれも大変おもしろいものばかりなので、ぜひ図書館に行って調べてみて下さい。インターネットでも、調べられることはたくさんあると思います。子供のころ、わたしは、「カツオブシ」で「ネズミ」を彫 る話が一番好きでした。大人になってからは、落語「ねずみ」の下らない「オチ」が気に入ってます。


2) 「浮かれ動物」説話について

「法住寺の唐猫」伝説は、私にとって特別に思い入れの深い説話なのですが、それはこの説話が「長野県塩尻市」の「小野神社」に伝わる「唐猫」伝説と非常によく似 ているからなのです。「唐猫」という言葉は、いまや「生きた化石」のように珍 めずら しいものになってしまい、全国の方々に見られるものの、その数はほんのわずかで、地元の人々にさえ忘 わす れ去られた存在となっているものがほとんどなのです。そんな中で、「南九州」の「熊本」から「鹿児島」にかけての地域 ちいき 、「北東北」の「宮城・岩手・青森」など、そして「佐渡島」に少しばかり伝わっている他は、「愛知・静岡・長野」地域に圧倒的 あっとうてき に多く残 のこ されているのです。

ただ、この地域に多く残されているといっても、それらの伝えのほとんどは、内容も違 ちが えば、「唐猫」が指しているものも一致 いっち しなかったりで、どうもまとまりに欠 ける感じがするのです。全体としては、神社などに見られる「狛犬 こまいぬ 」や「唐獅子 からじし 」のようなものを「唐猫」といった可能性が強いのですが、それもはっきりとはいえません。ましてや、それらの伝説や説話に登場する「唐猫」がとんな性格を持った霊獣 れいじゅう  (霊力 れいりょく のある動物) なのかということになると、それがまったく見当もつかなかったのです。「法住寺の唐猫」は、「小野神社の唐猫」の伝説とあわせたときに、少なくとも「中部圏 けん 」での「唐猫」をめぐる信仰 しんこう について考えるきっかけを与えてくれます。その意味で、とても大切な説話なのです。

実は、「小野神社」の伝説については、本編記事では紹介していないのですが、簡単に紹介すると、神社に収 おさ められた木彫 りの「唐猫」二体が、夜ごとに抜け出して鶏 にわとり を襲 おそ ったり、田畑を荒らしたりしたので動けないように釘 くぎ を打ったら、悪戯 いたずら もなくなった、というお話です (長野県、1990) 。「法住寺」の話に似ているでしょ?

実は、これに似た話は、全国の神社や寺に数多く伝わっているのです。ただ、伝説の主人公が「唐猫」ではなく、たいていは「絵馬 えま の馬」か「龍 りゅう の絵 (彫刻 ちょうこく ) 」である、というのが違 ちが う点です。これらの説話では、造られた絵や彫刻の動物が、夜に浮 かれ出てきて、周囲の川や池沼 いけぬま 、あるいは田畑家畜 かちく を荒らすという内容であるため、私は特に共通する部分をとって「浮かれ動物」説話と呼 んでいます。

「絵馬の馬」が抜け出したとか、「彫刻の龍」が暴れたとか、探せばみなさんの近くの神社やお寺にも似たようなお話が伝わっているかもしれません。私は、いままで全国で百例以上の「浮かれ動物」説話を見つけました。丁寧に調べていけば、今後この数はさらに大きくなっていくでしょう。

今後は、これにの「浮かれ動物」説話に、どうして「唐猫」という珍 めずら しい霊獣 れいじゅう が、二つまで紛 まぎ れ込んでしまったのか、という謎 なぞ を解 いていきたいと考えています。



4. むすび

次回は、「愛知県名古屋市」に伝わる「おからねこ」を紹介します。
こちらには、「江戸 えど 時代」の本にも載 せられた「猫」のお話が伝わっています。ちょびっと悲しくて切ない話ですが、各地のどの「猫」のお話とも違 ちが う、貴重なお話です。ぜひ、楽しみにしていて下さい。

「法住寺」の位置は、この辺り
本編、終わり
 
 

 
5. 追補・大人の方々へ

1) 「法住寺」への行き道

旧「宝飯郡御津町」に位置する「法住寺」への道は、季節によって潮風が漂ったり、蜜柑が薫ったりする、緑の多い道である。

ただし、既に述べたことだが、寺の姿は表通りに当たる県道372号・大塚国府線からはほとんど見えないので、東名高速道路の「豊川インターチェンジ」から向かう場合、ナビゲーションシステムなどで検索される北からの最短ルートは、お薦め出来ない。もちろん、カーナビを車に搭載している多くの皆さんは、よいのだろうけれど、ネットの検索サイトのみを利用する場合は、北からの接近ルートは絶対に避けるべきである。地図を片手にこの寺を訪ねる場合は、素直に国道23号に出て、お寺の南から接近するルートをお薦めしたい。こちらのルートだと、やや遠回りになるが、国道からは曲がり角ごとに案内板が出ているので、格段、分かり易いはずである。北からのルートだと、少し間違えると、あっと云う間に切り返しも利かぬような小路の迷路に入り込んでしまいかねないのである。


2) 「法住寺」について

この寺は「大日如来」を「本尊」とする「曹洞宗」の「小本寺」であり、「室町時代」の永正五年 (1508) に十一代将軍「足利義澄」を「開基」として、その家臣が創建したと伝えられる。しかし、創建当初は「赤根山・法住院」と号する小庵に過ぎなかったが、慶長九年 (1604) に現在地に移転し、寛永十九年 (1642) 、城主「松平長三郎忠高」によって中興され、慶安年間に (1648-1652) に現在の山号・寺号に改めた歴史を持っている。

ただ、近くの「大恩寺」のように、「徳川家」や領主「松平家」の保護を受けて隆盛した寺院と異なり、以前はそんなに大きな寺院ではなかったようで、むしろ庶民の強い信仰心に支えられて、我が国の仏教の衰退期である「明治」以降に、逆に興隆した尊い寺院と見るべきようである。この辺りの事情は、この寺の所蔵する「千手観世音菩薩像」の来歴を見ることで、おおよそ明らかにされる。

「法住寺」所蔵の「木造・千手観世音菩薩像」は、基本的には「檜」の「一木造」で、高さは百六十八センチのほぼ等身大の仏像で、かつては仕上げに「截金」を使用していたらしく、その名残がいまでも裾の辺りに残されている。詳細に云うならば、前面を一木とし、後頭部・背部・両手等を矧寄せている。頭頂仏、持物、垂下の天衣などは後補である。「宝髻」に群青、唇に朱、瞳・眉・鬚等は墨描きである。ただ、「裾衣」に「亀甲つなぎ」以下各種文様の「截金」が置かれているのが、興味深い。年代的には、「藤原時代末期」の作と考えられ、昭和六年 (1931) に旧「国宝」、現在は国の「重要文化財」に指定されている秘仏である。


3) 「法住寺の猫」についての補足事項

a) 「蒲郡市大塚町」か「豊川市御津町」か


この項では、たいしたことは云わない。ただ、筆者が参照した資料の一つに、この伝説が「蒲郡市大塚町」の伝えと書いてあったことに対して少々。この記事の冒頭に記した通り、「法住寺」があるのは、「蒲郡市」ではなく、隣りの「豊川市」である。言い伝えと云うものは、現地でなく、近接地に残されると云うこともしばしばあるので、さほど不自然なこととは思わないが、実際には、この例に限っては「法住寺」のある「豊川市御津町赤根」と云うのが、かつては「宝飯郡大塚村大字赤根」だったことに由来する誤記のような気がする。

以前「栃木県の猫神」シリーズの中で、「独鈷沢の金花猫大明神」を扱ったとき、この伝承が「独鈷沢」のある「中三依」では実は伝えられず、「鬼怒川」をやや下った山向こうの「五十里」集落で伝えられたものだったことを紹介した。しかし、
「独鈷沢の金花猫大明神」は純然たる怪異譚で、内容も猫の斬殺や疫病などと関わり、「独鈷沢」を血の流れる川と形容したりする禍々しいものである。それに対して、「法住寺の猫」は、もちろん「猫 (の彫刻) の怪異」の話ではあるが、基本的には寺に関わる霊験譚と云う性格が強い。そのため、「独鈷沢」の伝えが地元でなく山向こうの集落のものであったことは極めて納得のゆく話なのだが、「法住寺」に関しては隣りの集落にのみ伝わる性質の話ではないのである。第一、「独鈷沢」の伝承について、地元「独鈷沢」の人々は、近年、「五十里」集落と縁故のある人によって聞かされるまで知らなかったと云うのに対して、「法住寺の猫」の話は、地元で大切にされる寺院に伝わるものだけに、お寺の住職も、地元の御老人も、少なからず知っているようであった。

そもそも、「法住寺」の地元が属する自治体に関しては、勘違いが生まれやすい変遷の歴史がある。昭和三十年 (1955) を境とする「昭和の大合併」に際し、旧「蒲郡町・三谷町・塩津村」が合して「蒲郡市」が誕生したのに連動して、「大塚村」が新生「蒲郡市」への編入を検討したが、地元での調整が着かず、結局、同年の十月十日付けで、「大字大塚」「大字相楽」で構成される「大塚村」の大部分のみ編入し、残された「大字大草」「大字赤根」は、隣りの「御津町」に編入すると云う合併分合で決着したのである。このときの傷跡は意外と深く、「平成の大合併」に際しても、結局「御津町」は「蒲郡市」との合併を選ばず、新たに「豊川市」を発足させる道を選択することとなったのである。

このような事情を加味して考えると、「法住寺」の話に関する限り、単にかつては「大塚村」の伝承と書かれたものだから、昭和三十年以降、「蒲郡市大塚町」として残った地域の伝えだと勘違されやすいところに問題があるのではなかろうか。

とは云え、もしも筆者の手にした資料の執筆者が、自身、具体的に聞取り調査をした結果として、「蒲郡市大塚町」の伝えだとしたのならば、素直にお詫び申し上げますそれと同時に、その場合は、是非、執筆者あるいは編集者が、後の版に関してはその旨を明記されるよう、烏滸がましくも提案したいと思います。
 

b) 「御津町」を含む地域の「養蚕」
 
最後に、つけたりのような一言。「猫神」が最後にいくらかでも華々しく信仰されたのは、「近世後期」以降、特に「明治」から「昭和前期」にかけての、我が国の「養蚕」最盛期であったのは、その道では頓に知られるところである。そのため、多くの人々が「猫神=養蚕の神様」のように定式化して、それ以上に踏み込まない傾向があるのは、常日頃、筆者が慨嘆している通りである。筆者は、「猫神」には、かつて「水神」あるいは「風雨神」としての性格があったと提唱しているのだが、一方で、最も近年には「養蚕」の盛んな地域で、「養蚕の神様」として祀られていたと云うのも事実である。したがって、「猫神」伝承がある地域に、かつて「養蚕」が栄えたかどうかを確認することも怠っていない。

実は、「静岡県浜松市大平」の「唐猫」さまの記事を書いたときには申し遅れたのだが、「静岡県」や「愛知県」、特に「三河」や「遠州」地方は「養蚕」が盛んな地域だったのである。現在の地名で云うならば、「愛知県」では、特に「新城」辺りから「渥美」までが盛んで、隣接する「静岡県」でも、現在の「浜松」地域はこぞって養蚕を行なっていた。

ただ、我々が学校時代に歴史で学ぶように、「三河」は我が国の「綿産業」の発祥地であり、長らく綿花と綿織物の主産地として知られていたのは周知の通りである。この地域が「養蚕」への大転換を遂げたのは「明治」以降のことで、開国以降、外国から安価な綿花が大量に輸入され、「三河」とその周辺地域の「綿作り」は、壊滅的な大打撃を受けたのである。この危機を乗越えるため、県や地域の篤農家たちが結集して、当時としては大いに将来性があると考えられた「養蚕業」への切替えを、地域の人々に勧めていったのである。明治九年 (1875) には、県の「養蚕伝習所」が設立され、また「養蚕」の先進地、「群馬県富岡」の「国立製糸場」などへも多くの研修生を派遣して、地域の「養蚕業」の興隆に尽した。

「法住寺」のある旧「御津町」地域も例外ではなく、『御津町史』によれば、この地の「養蚕」のピークとなった大正八年 (1919) の繭生産額は、米生産額の約三倍を占め、「繭」は、当地の主要農産物の地位を恣にしていた。翌、大正九年 (1920) の「御津村事務報告」は、「本村ノ農業ハ、十年前ニハ米麦作ニ最モ重キヲ置キ、養蚕業ヲ副業トセシモ、今ヤ養蚕ハ主タル業トナリ、畑ハ皆桑園トナル」と記しているから、この「養蚕」への転換は、ちょうど「明治」から「大正」へと時代が変わる時期に進行したようである。

ただし、我が国の「養蚕・製糸業」は、「戦後」の重化学工業への国家的な転換によって引き起こされたと考えている人が多いのは承知しているが、実はそれ以前に、国際的な「繭・生糸」の暴落で、「戦前」には既に衰退の兆しを明らかにしていたのである。「御津」でも、大正九年の繭生産額は、前年比四割減となり、それでも数年はその規模を維持したが、「昭和期」に入ってからは漸次衰退した。したがって、「御津町」周辺の「養蚕」ブームは、決して長期に渡って続くことはなかった。実際、「明治末期」には十六を数えた当地の製糸工場も、第一次世界大戦後の不況時には、わずか四つが残るのみとなっていたと云う。

「法住寺の猫」の伝説が、「養蚕」と結びついた「猫神」系統のものであるかは、いまのところ分からない。ただ、その伝えが直接、「養蚕」の保護に触れる内容がないこと、また、この地域の「養蚕」の歴史が新しく、しかも永続しなかったことなどを考えると、この伝説が「養蚕」と関わって成立した可能性は、極めて低いと云えるだろう。そもそも、「唐猫」が近隣の農村を荒らすと云うのは、「鼠退治」を介して発達した「養蚕の神様としての猫」と云うイメージからは程遠い。

もちろん、「法住寺」周辺の人々が、お寺の「唐猫」を直接「猫神」として崇めた形跡はない。しかし、寺の装飾にある以上、それが当初から「悪霊」や「害獣」と見なされていたはずもなく、むしろある種の「霊獣」として見られたか、少なくとも信仰の寓意として掲げられたことは間違いのないところである。そうして見ると、「法住寺の唐猫」の伝説には、「正しく祀らねば祟る霊的存在」と云う寓意が、その基底をなしていると云えるだろう。

結局、「猫神」を「養蚕」と直接に結びつけ、かつて「養蚕」の盛んだった地域にありさえすれば、「鼠退治」用の「猫神」だと断定することの危うさを、「法住寺の猫」の伝えと、地元「御津町」の産業の変遷史は伝えている。


3) 「唐猫」の蛙股について


a) 「蛙股」の意匠

さて、寺社建築の「蛙股」については、それがどの部位を指すのかくらいは筆者も承知していたが、「法住寺の唐猫」に遭遇するまでは、あまり深く考えることも、注意を向けることもなかったことは告白せざるを得ない。時折、極彩色に塗られたものや、微細かつ絢爛な彫刻を施されたものを見ては、ほほう、などと一人感心するくらいが関の山であった。したがって、世の方々にはどんな蛙股が存在しているか、細かいことは何も知らない。ただ、「唐猫」の蛙股ともなれば、かなり珍しかろうことは察しがつく。何しろ、「唐猫」と云う代物自体が稀少価値が高いのだから...。

とは云え、世間の寺社一般の蛙股では、どのような意匠が最も多く採用されているのかさえ、筆者には見当がつかない。いままで見てきた寺社の記憶を掘り起こしつつ思い出してみると、何となく植物文様が多かった気がするのだが、どうなのだろう。動物で云えば、十二支や四獣、それに麒麟や鳳凰などの霊獣が多かったか。鷹や鶴・鶏・孔雀・雀・虎などもしばしば見かける気がする。そして、我らが「唐猫」との絡みで云えば、名前も意匠も似た「唐獅子」の彫刻も、探せば結構見つかるものである。


b) 「唐獅子」の「蛙股」

その気になって探して初めて知ったことだが、「唐獅子」の意匠のある「蛙股」と云うのは、当初の予想に反して、かなり多いのである。
「蛙股」に限定せずに、「向拝・扉彫刻・欄間・脇板」等々、すべての寺社彫刻の中から探すなら、「唐獅子」の意匠は、あるいは最も多いものかもしれない。「蛙股」に限ってみても、その数はかなり大きい。それこそ具体的にどこそこと寺社名を挙げたならば切りがないほどである。ここでは参考までにいくつかの例のみを紹介しよう。

まずは全国的に有名な寺社から...
 
東大寺・大仏殿・唐破風
「東大寺・大仏殿・唐破風」
 (奈良市雑司町)

北野天満宮・三光門02
「北野天満宮・三光門」
 (
京都市上京区馬喰町)
二条城・二の丸御殿・車寄
「二条城・二の丸御殿・車寄」
 (京都市中京区二条通堀川西入二条城町)
 
続いては、「法住寺」の「唐猫の蛙股」とやや構図の似たものを (左右は逆だが) ...
 
加太春日神社
加太春日神社・御社殿
 (
和歌山県和歌山市加太)
 
最後に、筆者の地元・千葉県の神社から...
 
葛飾八幡宮
「葛飾八幡宮・
隨神門
(千葉県市川市八幡)
 


4) 「唐獅子」と「牡丹」

a)  問題点の所在

さて、ここでは上の数例しか紹介しないが、実際に各地の「唐獅子」の「蛙股」を多く見聞してゆくと、その中でも「唐獅子」と「牡丹」を組み合せた意匠のものが多いことに気づかされる。まあ、この組み合せは、かつて「高倉健」の任侠映画の題名になったくらいだから、古来の定番とも云えるのだろうけれど (映画は背中の刺青のことだったが...) 、実際のところ、何故この二つを組み合わせるのかについては、諸説あって一定しないようである。

仏教関係者からよく聞くのは、「百獣の王・獅子」は恐れるものはないが、ただ一つ「獅子身中の虫」だけには敵わない、ところが「牡丹」の花から落ちる夜露はこの虫を退治してくれるので、「獅子」は「牡丹」の下に眠るのだと云う話である。

この由来譚については、「臨済禅・黄檗禅公式サイト」で説かれているためか、ネット上では多くの人が鵜呑みにしているが、どうもいま一つ釈然としない。何故なら、ネット上には、この他にも別の由来を説く僧侶の話がチラホラ見えるからである。もしも、「獅子に牡丹」が何やらの仏説に基づくものならば、少なくとも仏門の徒の間では何かしらの共通理解くらいあってもよさそうである。もしも、そのようなものがないのであるなら、それはもはや由来不明になっていると判断するのが妥当であろう。それにも関わらず、この「仏典起源」説は、根強く出回っている。しかも、一部の権威ある書籍などに、平気で確定した定説のような顔をして載っているときもあるから困りものである。

例えば、「春日大社」に伝わる「伝・源義経」奉納の「赤糸縅鎧」の胴などには、「獅子牡丹文弦走染革」が張られていることが知られる。

赤糸縅鎧・獅子牡丹文弦走染革・春日大社_1
赤糸縅鎧・獅子牡丹文弦走染革」
 (春日大社蔵)

「源義経」奉納伝承とは別に、実際にはこの鎧は「鎌倉時代」の制作とされるのだが、それでも現存する我が国の「唐獅子牡丹」文様としては、かなり初期のものである。ところで、この鎧について、『日本の意匠 3・牡丹/椿』巻末の図版解説中に「切畑健」氏は、「文様は、牡丹の間を勇躍する獅子。この組合わせは仏説によるが、いずれも動物及び花卉の王者ということで古くからとりあげられたと考えられる (強調下線、筆者) 」とあっさりと書いているが、これは何を根拠にしているか、筆者にはさっぱり分からない。同様の無反省な見解は、ネット上ではいよいよ多く見られ、「京都和装産業振興財団ホームページ」でも、「獅子は仏・菩薩の三昧耶形 (誓願を象徴するもの) で、牡丹を愛しこれを食したという伝説から由来します」と、典拠を示すことなく記している。

既に見た「臨済禅・黄檗禅公式サイト」に載る説話は、仏典などには収載されていないから論外として、「獅子」と「牡丹」の関わりを「文殊菩薩」に求める見解もしばしば耳にする。しかし、「文殊菩薩」が「獅子」に乗って、「牡丹」の園に顕現するなどと云うのは後世の創作で、このイメージ自体の起源が分からないのに、それを根拠にして「唐獅子牡丹」の起源を語っても何の役にも立たない。

そもそも、「文殊菩薩」云々と云っても、これら「大乗仏教」の概念は、既に「漢代」には中国に入っており、逆に「牡丹」の普及はどう早く見ても「南北朝期」を遡らないのだから、「文殊」を以て「獅子」と「牡丹」の組合わせの起源とするのは十分ではない。後世、そのように附会され、以降、そのイメージが普及したと云うのが妥当な理解であろう。

さらに云えば、現在の植物学では、「牡丹」の原産地は、「四川省・陜西省・甘粛省」辺りだと考えられている。寡聞にして、「牡丹」のインドへの伝来時期は知らないのだが、中国西北部の原産地から、中央中国に普及するのに「南北朝期」までかかったものを、中国への「仏教」伝来より以前にインドに伝わっていたと云うのは、控え目に云ってさえ考えにくい。

また、世に「天竺牡丹」と云う花があり、仏教絵画などに描かれる「蓮」や「牡丹」などにも姿が似ているため、あるいは「文殊菩薩」と関わる「牡丹」は本来、こちらの花だったのではないかなどと思うなかれ。「天竺牡丹」とは名ばかりで、これは洋名「ダリア」と云われるわりとありふれた園芸種で、原産地は「メキシコ」から「グアテマラ」、日本へは「幕末」の天保十二年、または十三年 (1841-42) に伝えられた。インドへの伝来時期は分からないが、「メキシコ・グアテマラ」原産の植物であってみれば、少なくとも新大陸発見後の十六世紀までは旧世界のどの地域にも広まっていないはずである。大体、この花を世界に広めたと目される西洋人の故郷「ヨーロッパ」にさえ、十八世紀までもたらされていないと云う*。
 
* 天保十二年説については、弘化三年 (1846) の松平菖翁」による『百花培養考』に「天竺牡丹 三品アリ極紅吹結ノ一品ハ天保十二丑年初テ巣鴨ノ地ニ住ム場師長太郎トナン呼モノ長崎ヨリ取入今年六トセ経タレトモ俄ニ流布セリ紫花黄花の二品ハ今年浪花ヨリ来レリ」とある。この文中の「長太郎」とは、我が国に近代的な園芸を普及させた最初期の功労者の一人「内山長太郎」のこと。天保十三年説は、いまだ典拠を明らかにし得ていないが、一部の園芸書で、ポルトガル人によって「薬玉」と称するポンポン咲きのものが初めて輸入されたとされている (cf. 松尾、1960 etc.)
 
** ヨーロッパへの「ダリア」の伝来年は、1789-90とされる。1789年に、現「メキシコシティー」の植物園々長「セルバンテス氏」が、「マドリード宮廷植物園長・カヴァニレス Cavanilles 神父」に、「ダリア」の種子を送付、翌年、「カヴァニレス神父」の手で開花。「カヴァニレス」は、この新種の花を、かの「リンネ」の直弟子で、「マドリード植物園」で学術的仕事に携わっていた「スウェーデン」の植物学者「アンドレアス・ダール Andreas Dahl」 (1789年死去) を記念して、Dahlia pinnata Cav. と命名し、1791年に『植物図説』第一巻に記載した。1798年には、「マドリード」から「イギリス」の「キュー植物園」に送られ、以降、十九世紀にはヨーロッパ各地、そして世界へとに広まった (Hanelt, 2001)
 
もう少し気の利いた見解に、曼荼羅の注釈書である『兩部曼荼羅鈔』には、「牡丹草獅子食之。故餘毒蟲等不近此牡丹 (牡丹草は、獅子、之を食す。故に、余の毒虫は此の牡丹に近づかず) 」とあるのが「獅子」と「牡丹」を組み合せる根拠となった仏説だと云うものがある。しかし、これとても
「臨済禅・黄檗禅公式サイト」の「夜露」を飲む話とは微妙に違うのだから、やはり仏教側に信憑性のある説明は用意されていないと見るべきなのであろう。もっとも、上のサイトを作成した僧侶の方々も、何らかの根拠はあって記しているのだろうから、新しい仏教書でもよいので、ピンポイントに「獅子が牡丹の夜露を飲んで体内の虫を駆除する」と云った内容の典拠を御存知の方がいらしたら、何卒、教えて下さいませ*。
 
* 普段なら直接問合せをするところなのだが、過去の経験から、仏教関係者 (僧侶) に、コネなしでこう云う質問をすると、どんなに丁寧に尋ねても激昂されると云う経験しかしたことがないので、現在は、「猫」に関わる真にその当事者にしか尋ねることの出来ない質問以外は、僧侶にはしないことにしています。上の件については、もちろん、筆者自身、鋭意調査中である。
 
しかも、『兩部曼荼羅鈔』は、我が国の「戦国期」に成立したものであるから、仏説としての起源を探るにはあまりに新しい。「臨済禅・黄檗禅公式サイト」の所説と関わりがありそうなところで、より古くは、「鳩摩羅什 (クマラジーヴァ) 」の漢訳『梵網経』 「十重四十八軽戒」第四十八軽戒に「如師子身中蟲、自食師子肉」とあるのは承知しているが、これは「獅子身中の虫」の出典に過ぎず、「獅子と牡丹」の由来説明にはまるでならない*。逆に、このお経が「獅子身中の虫」の出典元ならば、この時点で「牡丹」のことが書かれていない以上、この故事と「牡丹」を結びつける説明は、少なくとも『梵網経』以降の後説と云うことの証明にはなる。大体、「鳩摩羅什」の頃、「牡丹」はいまだ「長安」に伝わっていないかった可能性が高い。
 
* 大乗仏典『梵網経 (梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品) 』は、我が国の仏教史に大きな位置を占める経典だが、「鳩摩羅什」 (344-413) 訳と伝えられるものの、実際には五世紀後半に中国で成立した偽経だと云うことが判明している。筆者としては偽経でもまったく構わないのだが、「唐獅子牡丹」の由来を知る手助けにはならない。ついでながら、『仁王護国般若波羅蜜経 (仁王経) 』嘱第八にも同等の語句がある。
 
ここまで見てくると、「唐獅子牡丹」の起源は、どうも原仏典類にはなく、当然、「牡丹」の存在するはずのない古い時代の仏教発祥の地であるインドが起源地でもないことが悟られる。しかし、そうだとすると、「唐獅子牡丹」が元々発生した土地と云うのはどこなのだろうか。我が国には、やたらとある「唐獅子牡丹」の意匠だが、はたして他所の国ではどのくらい目にすることが出来るのだろう。完全な伝聞情報ながら、「唐獅子と牡丹」の意匠は、我が国のみならず、「中国」や「チベット」「ネパール」などにもあると、現地の人から聞いたことはあるが (ただし、確認は出来ていない) 、これは現地の人の弁で、具体例の教示はなかったので、いま一つ不確かな話である。また、仮にその意匠が見られたとして、それがどの程度に古い時代のものなのかも確認せねばならないだろう。だが、いまのところ、このことに関しては、確かな情報は得られていない。どなたか、事情に通じてらっしゃる方がいらしたら、何卒、情報をお寄せ下さいませ。

もちろん、中国では、「牡丹」は「百花の王」などと呼ばれ、富貴のシンボルとして大切にされると云う事実はある。そして、一つの図案として組み合わされているとは言い難いが、「獅子」と「牡丹」が同一の造形物の中に含まれている古い例は、中国の「金代」に見つけることが出来る (後述) 。

そうであって見れば、「獅子に牡丹」の組み合せは、元は「百獣の王」である「獅子」と、「百花の王」である「牡丹」をセットにした縁起物で、我が国の「松竹梅」と同様、そもそも何かしらの厳めしい由来があったような性質のものではなく、その起源は、多くの文物がそうであるように、中国の文物にあるのだろうか。

この素朴な問いは、一人筆者のみならず、以前から多くの人々を悩ませてきた疑問なのである。例えば、「香取忠彦」氏は云う。
 
このような牡丹と獅子の組み合せは何によるのか、その思想的背景については明らかでないが、宝相華唐草文のなかには獅子 (俊猊など) を配する図様はすでに盛唐時代にみられる。獅子と牡丹の文様は日本の創案なのであろうか、あるいは中国始源の組み合せ文様なのであろうか。
 
香取忠彦 (1987) 「洲浜牡丹蝶鳥鏡の発生」
今永清二郎ら/編 (1987) 『日本の文様9・牡丹』小学館、p.157
 
何しろ、この手の起源論は、多くの国や民族の文化的ナショナリズムを刺激するために、なかなか冷静な議論がされないところがある。国を挙げて他所の国の文化はすべて自国起源だと言い張る人々もいるし、また逆に、文化的なナショナリズムに陥るまいと自戒するあまり、自国の文化は何でもかんでも外国由来のものだと決めつけて止まない人々もいる。

大体、いかなる文化的事象と云うのも、最終的には多岐に渡る複雑多様な要素の重層的なコンテクストの中に立ち現れるもので、絶対の起源であったり、完全な借用品であったりすることは、原理的に不可能なのである。仮に伝播経路がはっきりしているもので、ある事物が一方の地から他方へと伝えられた場合であっても、その受容のあり方さえもが、伝播の両端で同じであるとは限らないのである。伝播の道筋を明らかにすることは、多くのナショナリストが信じているように、特定の国や民族間の優劣を量る役に立つものではまったくなく、飽くまで人類がどのような相互作用を繰り返してきたのかを探り、そこから現在の我々の生活へと活かせる教訓や知恵を導き出したりするためのもので、本来は追求すればするほど頑迷かつ固陋な排他思想を克服する力があるはずのものなのである。まあ、これも結局、我々がどのように知識を受容するかと云う問題に行き着くのだが...。

この件について、筆者の考えが誤解を呼ばないようにするために、「唐獅子牡丹」の成立を巡る考究に関して、まず初めにはっきりさせておかねばならないことが二点だけある。
 
①「獅子」も「牡丹」も、いずれも中国経由で我が国に伝わったものであるから、これらの組合わせに関しても、それが完全に我が国に由来すると云う結論に達すると云うことはない。

②一方で、現在遺されている文物を見る限り、「唐獅子牡丹」の図案は、圧倒的に日本に流行・普及した形跡があり、それがそのまま定着したのもまた我が国においてだけだ、と云う事実も重視されるべきである。

 
要するに、筆者の知る限り、「獅子」も「牡丹」も、日本起源のものではないが、これらの組合せは特に日本人に好まれてきたような気がするのである。「唐獅子牡丹」のイメージ性は、能「石橋」や歌舞伎の一連の「石橋物」 (特に「連獅子」が有名か...) などにも見られ、一つ寺社装飾のみならず、我が国の大衆文化に深く根差したものとなっている。

既に述べたが、「戦後」になってまでも「高倉健」主演の映画の題名に採用されるほどなのだから、その根強い定着度は以て量るべし、である。しかも、美術史家「杉原たく哉」氏によれば、刺青を通しての「唐獅子牡丹」のイメージの普及は、完全に我が国の「近世期」に起きたもので、これも起源こそ「中国四大奇書」の一つ『水滸伝』によるものだが、実際に「唐獅子牡丹」が採用されたのは、我が国における工夫なのだと云う 。

文政八年 (1825) に、「滝沢馬琴」は『傾城水滸伝』と云う翻案物の読本を発表したのだが、これが我が国に一大『水滸伝』ブームを引き起こしたのである。このブームに乗って、奇才「歌川国芳」は『通俗水滸伝豪傑百人之一個』と云う大人気シリーズを発表した。これは登場人物の百八人の英雄一人一人を、一枚絵に見立てた豪壮な図柄で描いた錦絵で、多くの豪傑たちは全身に極彩色の刺青を背負って描写されたのである。
 
国芳・浪士燕青02国芳・浪士燕青04
「浪士燕青・歌川国芳」
 
中でも、「梁山泊」随一の伊達男「浪士燕青」は、「伝・施耐庵」の原作では花の刺青を入れていることになっているが、ここでは「国芳」の独創で、「唐獅子牡丹」を背中一面に彫り込んでいるのである。

実は、この頃まで、中国でも日本でも、刺青は筋彫りと云う、輪郭線を中心に彫る単純なものだったのが、「国芳」の『水滸伝』物の大流行を受けて、町火消や鳶など気っ風を売りとする町の人や、任侠を売る博徒たちなどが、「国芳」の絵のような極彩色で、ぼかしなどを駆使した図柄を彫師たちに要求するようになり、彫師たちもそれに必死で答えて腕を競ったのが、いまや我が国のサブカルチャーを代表するほどに発達した日本の「刺青」なのだそうである (杉原、1997 ; 36) 。

このように、寺社装飾から、祭の飾り、能はもとより歌舞伎の演目まで、そして浮世絵から博徒の刺青にまで登場すると云う変な流行には、何か我が国独自の民俗的基盤が寄与したものなのかどうか、今後はそんなことも考えてはいきたい。ただ、能や歌舞伎の影響で「唐獅子牡丹」が普及したと云う見方は、民衆の知識と云う面ではある程度正しいかもしれないが、寺社彫刻にかくまでも普及した論拠としては本末が転倒していると云わざるを得まい。そして、当然、刺青の影響なども二次 (三次) 的なもので、そもそも初めに「唐獅子牡丹」の図様があって、刺青として流行ったのである。

将来は、この辺りの問題について特に考察したいと願っている。
 

b) 「唐獅子牡丹」誕生仮説の概略
 
本記事では詳しくは述べないとは云え、「唐獅子・牡丹」の組合せの誕生について、筆者の一応の考えを、極めて大雑把に述べておこう。

第一に、「獅子」は当初から「霊獣」として大陸から我が国に伝えられた、と云うのが前提である。「獅子=ライオン」が国内にも近隣地域にも棲息せず、かつ「獅子」と云う日本語自体が漢語と云う借用語である以上、この前提は動かし難い。「獅子」がどのように日本に定着していったかと云うことについて述べるのは、また別の機会に譲るとして、ここでは、我が国に導入された「獅子」が、いかにして寺社の最有力な装飾モチーフの一つとして受け容れられていったか、と云う点を重視したい。さらにその上、今回は、「牡丹」文様との関連で「獅子」を捉えていくことを主目的とするので、その他のことについては必ずしも考察を深めない。

縁起物、あるいはお守り的な意味合いで、「獅子」の意匠や文様が利用されていたと思しき「奈良・平安初期」を過ぎると、「獅子」は少しばかり「神獣」としての性格を強めていった。文献で確認出来る限りでは、「唐獅子・狛犬」一組で宮廷や寺社の境界域の守護獣をなしていたことが、最古の例なのではあるまいか。

「江戸時代」の文献だが、「源宗隆」撰の『鳳闕見聞図説』には、古くからの由緒正しい姿として、「紫宸殿・賢聖障子」の中央の門戸に左方「獅子」、右方「狛犬」が描かれている。建長六年 (1254) 頃成立したとされる『古今著聞集』には、「南殿の賢聖障子は、寛平御時始めてかかれるなり」とあり、この習俗が、古ければ「寛平年間」 (889-898) まで遡る可能性を示唆している。このことは、「平安時代」の「大治年間」 (1126-1130) 頃に成立した『類聚雑要抄』の「后宮御料用浜床時物云々」註に、「左獅子於色黄口開、右胡麻犬於色白不開口在角」とあることなどからも、補強される。また、承久四年 (1222) 、「順徳天皇」が宮中の行事・故実・慣例・事物などを記述した『禁秘抄』には、「清涼殿」の御簾や几帳の裾の左右に獅子形が鎮子として置かれたとある。


ところが、「中世」以降は、時と共に、「狛犬」のみが独立して寺社の入口の守護獣の座を確立していくことになり、「唐獅子」は門番としてはお役御免になってしまったのである*。しかし、このことで相対的な自由を得た「唐獅子」は、今度は自分もまた単独かつ独立した意匠として寺社の装飾に取り入れられていく可能性を見出したのであり、これによって第二段階の準備がなされたものと思われる。

 
* 余談だが、本来神社の本殿の外陣の中にあって、神像を守っていた「狛犬」も、「随身」が発生するに及び本殿を出て、正面階段の両側の回廊に置かれた「随身」のさらに前に追いやられ、屋外へと居場所を変えられた。おかげで一番目立つ位置に置かれることになったが、役目が余りに目立って特化してしまい、以降は、かつてのような複雑で多様な霊的意味合いを失っていったのは、逆に汎用性を高めた「唐獅子」とちょうど正反対である。
 
第二に、「唐獅子・狛犬」が分離してしまった「中世」と云う時代は、現代の日本文化につながる所謂「和風文化」の基礎が形成された時代であると同時に、「禅宗」の影響が大きな波として到来し、その余波として、中国の道教的な文化も、秘かながら大いに導入された時代である。「唐獅子牡丹」が、いまだに寺社の聖域と外界とを結ぶ門や扉の装飾に多く用いられるのは、閾の番人を務めた「唐獅子・狛犬」時代の名残りだと考えられるが、「唐獅子」と「牡丹」が結びついたのは、この「中世」における中国文化の招来期に、汎中国文化圏に見られる「百獣の王・獅子と百花の王・牡丹」の縁起物としての「獅子」と「牡丹」の意匠が、個別にだが、極めて密接な関係を維持した文脈の中で輸入されたからではないだろうか。

ちなみに、この時代、我が国に入ってきた「禅宗」が、実は「道教」的要素を多分に持っていたことは、意外と知られていない。これはちょうど「禅宗」が「隋・唐・五代」の時期に、既成の「仏教」宗派と競合し、その克服の上に自らの存在意義を見出そうとしたのと同様、「道教」も古くからの中国土着の神仙思想などを基礎としながらも、教団組織や教義の整備が遅れていたために「仏教」各派にとっていた遅れを取り戻そうと、この時代にその組織化と教義の確立を推し進めたことと密接に関わっているものと思われる。既に旧「仏教」勢力は、「密教」の導入以来、この新旧勢力のせめぎ合いに身を置いており、この争闘は、「天台・華厳・密教」と云う、「中国仏教」の中核を為す思潮の教理が完成される、思想的に稔りの多い時代を創出したが、一般レベルでは、結局は国際化華々しかった「唐代」にあって、「ネストリウス派キリスト教 (景教) 」や「ゾロアスター教
(祆教) 」「マニ教 (摩尼教) 」までをも巻き込んだ、「鎮護国家」を巡る呪力競争の感を呈していったのである。これは「安史の乱」に際して、「唐朝」が各宗教に調伏を命じ、特に新興の「密教」を率いる「不空三蔵」の修法が効験絶大だったとして、以降、朝廷の深い帰依を受けたエピソードからも見て取れる。

「隋唐」の思想的爛熟期を過ぎると、「宋代」は「仏教」の民衆浸透の時代を迎えた (鎌田、1978) 。ここで忘れてはならないのは、「仏教」はその伝来以来、民衆レベルでは常に、病気や天災などの災厄を取り除き、怨霊などを払うと云った現世利益の呪術的な機能を期待されてきていたと云うことである。「宋代」の「仏教」は、その教理の発展よりも、「道教」などの民間の神仙思想・信仰・習俗と急速に習合しつつ、この祈祷の側面を前面に出して社会に浸透していったのであり、入宋した我が国の僧侶たちが触れたのも、そのような思潮の中での「仏教=禅宗」だったのである。「仏教」各派の中では、本来最も祈祷に特化していたはずの「中国密教」が、「唐代」を最後に事実上消滅したのも、「禅宗」が呪術性を求められる背景をつくり出していたかもしれない。また、「老荘」の「無為自然」や「空」の観念に見られるように、「道家思想」と「中国禅」の間には、思想的に類似あるいは共通する部分が多かったのも影響しただろう。


日本の「禅宗」で云えば、「曹洞宗」などは、宗祖「道元禅師」が呪術的な宗教行為を排除しようとしたにも関わらず、結局は「秋葉信仰」の「可睡斎」を例に挙げるまでもなく、後には呪術的行為を教線の拡大の命脈にしたほどで、時には「密教」顔負けの祈祷を行なう要素もあるのは、単に「密教」各派や修験道と対抗しなければならなかったと云う、当時の国内の宗教事情だけでなく、本来、中国から伝わった「禅宗」が自身に内在させていた性格の一端なのである。

我が国の禅刹 (
泉涌寺系の律宗寺院も) には、寺院伽藍の守護尊である「伽藍神」を複数祀るものが多いのも、その証左である。これらの「伽藍神」を、寺院の「土地堂」に祀るようになった「宋代中国」の影響を受けて、「鎌倉時代」以降、我が国でもしばしば造立されたのであるが、これらは皆、「道教神」の姿をしていることが特徴的である。「禅宗」以外では、「泉涌寺」などの「宋代仏教」の影響の強かった寺院に見られるのも、これら「道教」的な影響が、「宋代仏教」に感化されたものであることの証である*。
 
* 「泉涌寺」の場合は、「真言律宗」を打立て、「叡尊」や「忍性」などの影響が強く、「宋代仏教」でも「禅宗」と云うよりは「念仏宗」との縁が深かった。「叡尊」「忍性」は、共に「元寇」における「元軍」の撃退の呪法を行なったことで知られる。
 
ここで「道教」の複雑な信仰体系について語る能力は、筆者にはない。ただ云えることは、あらゆる宗教や信仰がそうであるように、「道教」においても、信仰に関わるすべての像容や装飾には、その姿形から彩色に至るまで、高度に象徴的な意味が籠められていると云うことである。もしも、「獅子」と「牡丹」の装飾文様が、特に「宋代仏教」の思潮を通して我が国に伝わったならば、そこには「仏教 (禅) 」における象徴的意味が必ずや含まれていたはずであり、同時に中国の民間信仰に根差した「道教」的なイメージも内在していたと考えるのが妥当なのである。この件については、いずれ「獅子座」の考察をするときに、「聖樹と水」の思想の一環として追究したいと思っている。ここでは、「獅子」と「牡丹」が「宋風」美術の移入と云う形で我が国に紹介されたことを指摘するに留める。
 
*
 
以上のことを踏まえて、結局、本稿との関連で筆者の頭を悩ましているのは、「獅子」と「牡丹」の意匠が我が国に導入されたときに、それがどの程度まで単一の組み合せられたデザインとして意識されたものだったか、と云う点である。

しかし、云うまでもなく、「唐獅子牡丹」の図案の発生を時代的にどの程度まで遡りうるかは、判断するのが難しい問題である。本稿では深入りしないが、いわゆる「花唐草文」と「獅子」の組合せを「唐獅子牡丹」の発生と見なしうるのか、あるいは「牡丹」様の模様と「獅子」が一緒に描かれてさえいれば、他の構成要素との相対的な関係は無視して、それを「唐獅子牡丹」と見なすことは可能なのか、と云うのが、筆者が断定に困難を感じる主な点である。


c)  具体例の図示・中国編

以上、前節では、筆者の考えの概略を示したが、図を見ながらでなければ筆者が何を云っているのかは分かりにくいだろうから、次にいくつの図例を挙げつつ、論点を整理したい。まず第一に挙げるのは、「
永泰公主墓」の「石刻浮彫・牡丹獅子」である。
 
永泰公主墓石刻・牡丹獅子01
「永泰公主墓石刻・牡丹獅子」 (部分)
 
「永泰公主墓石刻・牡丹獅子」については、美術史家の「杉原たく哉」氏は、日本の「唐獅子牡丹」流行の遡源を「石橋」に見た上で、さらにその「石橋」の原型が「唐代の伎楽や舞楽の獅子舞」と「唐代に流行した『牡丹唐草と獅子』の文様だ」とし、後者の例としてこの図を挙げている (杉原、1997; 35) 。
 
*「永泰公主 (李仙蕙) 」 (685-701) ---「唐・中宗 (李顕) 」の七女で、通説によれば、「武則天 (則天武后) 」の十二年 (大足元年=701) 九月、兄の「邵王・李重潤」や夫の「武延基」と共に「武則天」の寵臣であった「張易之・張昌宗」兄弟を排除する謀議を行なったとして「武則天」により自殺を命じられたとされている。「則天武后」の退位後の神龍元年 (705) 、「永泰公主」に追封され、翌・神龍二年、「乾陵」に陪葬された。
 
ただし、この「永泰公主墓」の「獅子」図を以て「唐獅子牡丹」文様と云えるかは、残念ながらかなり疑わしい。この図の「獅子」を取り巻く「唐草文」をよく見ると、そこに描かれている花はいわゆる「宝相華」文様であって、「牡丹」ではないからである。
 
永泰公主02
「永泰公主墓」の「花唐草」 (模写)
 (林、1990) より
 
それに「唐代」に「牡丹」は華々しいまで流行したのは確かだが、文様として流行したと云う事実は残念ながらなく、ましてや「牡丹唐草と獅子」の文様が流行ったなどと云う事実はどこを探してもなさそうなのである。しかし、この件については、この後に触れるとして、まずは「宝相華」なる、やや聞き慣れぬ花について、少々。

宝相華」について手近な辞書で調べると、大体、次のような説明を得ることになる。
 
「宝相華」とは?
1)
仏教的意匠で、蓮華・パルメット・ザクロ・牡丹などを組み合わせた空想上の花文。唐代に盛行。日本では奈良時代に盛んに使用され、正倉院宝物の文様に多く残る。
三省堂『大辞林
2)
唐草文様の一種。唐草に、架空の五弁花の植物を組み合わせた空想的な花文。中国では唐代、日本では奈良・平安時代に装飾文様として盛んに用いられた。
小学館『大辞泉
3)
唐代、また奈良・平安時代に盛んに装飾として用いた唐草文様の一種。
岩波書店『広辞苑

 
いずれの辞書も、「宝相華」は「唐代」に流行ったと解説しているが、念のために記しておくならば、美術史家「林良一」氏によると、「宝相華」と云う言葉自体は、中国「宋朝」以降に初めて登場し、「唐代」までの文献には現れないそうである。特に華紋としては、「北宋」の元符三年 (1100) 「李明仲」が著した建築技術の専門書『営造方式』*に、海石榴華、牡丹華、宝相華、蓮荷華など九つが挙げられているそうである。もちろん、氏はその上で「これらの花文は、 (中略) すでに唐朝の工房で考案されていた各種の花唐草や唐花文を、唐末より五代北宋にかけて分類し、それぞれに命名された可能性が大きい」と述べ、「宝相華」の「唐代」からの存在を肯定している (まあ、現物が多く遺されているのだから、当たり前なのだが...) 。

 
* 『営造方式』の成立年に関しては、正確な年代に識者の意見は一致していないようである。ここでは「林良一」氏の論文から引いたが、「矢部良明」氏は元祐六年 (1091) としている (林、1990 / 矢部、1984) 。両氏がいかなる文献史学的な研究を参照したかは未調査。 
 
ところで、上の辞書の説明では、特に『大辞林』のものが「蓮華・パルメット・ザクロ・牡丹」を主要なモチーフとして挙げている点で、詳しく、かつ要を得ている。これに「葡萄文」を足しておけば、ほぼ万全か。
 
大智禅師碑 大智禅師碑02
「大智禅師碑」
(西安碑林蔵)
 
多くの専門家が、「唐代」に爛熟期を迎えた「花唐草文」の代表的な作例として、開元二十四年 (736) 銘の「大智禅師碑々側」を挙げている。東洋美術史家の「長廣敏雄」氏は、この碑側に見られる大ぶりの華麗な花について、それが「牡丹花」の現実的な特徴を採り入れた花形で、その背景には当時の人々の「牡丹」に対する愛賞があると、慧眼にも指摘していると云う (林、1990) 。


唐楊執一夫人獨孤氏墓志唐草獅子飾紋02
唐楊執一墓志蓋唐草獅子飾紋03
「唐・楊執一墓志蓋唐草獅子飾紋」 (部分)
 
この他にも、「永泰公主墓」に遅れること二十年に造営された「楊執一墓」の「墓志蓋」にある図案も、この時代を代表する「花唐草」と「獅子」の取合せを見せており、図案の中心を為しているのは、「長廣」氏の云う「牡丹」様の「大ぶりの花」である。しかし、「牡丹」様とは云っても、この図案も、「唐風」一流の想像的な意匠であって、写実性をまったく欠くために、厳密な意味では「牡丹」だとは言い切れず、したがって、この図も「唐獅子牡丹」図だとは云えないと筆者は考えている。
 
*楊執一」 (661-726) ---「唐」の「高祖・太宗」二代の宰相を務めた「観国交公・楊恭仁」の従孫に辺り、早く「武則天」に出仕したが、その硬骨の故に寵臣「張易之」に嫌われ左遷されるも、後に武功によって遊撃将軍・右衛郎将・右衛中郎将・ 押千騎使などを歴任した。「則天武后」退位後の神龍元年 (705) 、「張易之・張昌宗」誅殺事件に参与した功績によって「中宗」に採り上げられ、後、「凉州都督・河西節度使」などを務め、最終的には右金吾衛大将軍に至っている。『唐會要』巻七十八・節度使条の「景雲二年 (711) 四月、賀抜延嗣爲凉州都督充河西節度使、自此始有節度之號、至開元二年 (714) 四月、除楊執一、又兼赤水九姓本道支度營田等」と云う記述や、『新唐書』巻五・巻二百十五上の「 (開元三年・715) 以右羽林軍大將軍薛訥爲涼州鎭軍大總管、節度赤水、建康、河源等軍、屯涼州、以都督楊執一副之」と云う記述から、開元二、三年頃に「凉州都督・河西節度使」を務めていたことが分かり、最も早い時期の節度使としても知られる。開元十五年 (727) にその夫人と合葬されている (黃惠賢、1997; 383)
 
長廣」氏が云うように、「唐代」の花唐草文に見られる「大ぶりの華麗な花」には、明らかに「牡丹」の影響が見られるのも確かである。何しろ、「隋朝」の頃から少しずつ普及し出した「牡丹」は、「唐代」に空前の大ブームを引き起こしたのである。「白楽天」が「花開き花落つ二十日、一城の人皆狂ふが若し」と謳い*、「王叡 (あるいは王轂) 」は「牡丹妖艶人心を乱し、一国狂ふが如く金を惜しまず」と詠んでいる* ほどである。散文でも「李肇」は「京城の貴游は牡丹を尚ぶこと三十余年。春の暮れ毎に、車馬は狂ふが若し、躭玩せざるを以て恥と為す。執金吾鋪官囲外、寺観は種ゑて以て利を求め、一本直 あたい 数万なる者あり」 (『唐國史補』卷中) と述べているから、どうやらこの時代の「唐人」は、みな「牡丹」に「狂って」いたようである。この辺りの消息については、「石田幹之助」の『長安の春』に詳しいので、御興味のある方々は、是非とも御参照あれ。
 
* 「花開花落二十日、一城之人皆若狂」『白氏長慶集』卷四「牡丹芳」
** 「牡丹妖艶亂人心、一國如狂不惜金」『全唐詩』卷五百五・第十六首および卷六百九十四・第十九首「牡丹」
***
「京城貴游尚牡丹、三十餘年矣。每春暮、車馬若狂、以不躭玩爲恥、執金吾鋪官圍外、寺觀種以求利、一本有直數萬者」
 
しかし、一方で、「牡丹」は装飾文様としては、かなり後の時代になるまで隆盛しなかったのである。
  
このように貴族文化全盛の初・盛唐の時代に一躍百花の寵児となった牡丹であったが、工芸や建築などの装飾空間につかわれる文様の素材として、牡丹がこの時期に用いられることはなかったようである。 (中略) 初・盛唐時代の装飾意匠の世界にあって、いわゆる花卉の意匠の主役は何といっても宝相華であり、 (中略) この世にみることのできない理想の花々がめくるめく典麗な表情をつくって器面をかざっていた。(中略) この時期の造形世界は現実を直視し、その現実世界の美しさを造形意匠の骨格に据えようとする美意識がなかったからである。
  
矢部良明 (1984) 「牡丹と椿」
吉岡幸雄/編 (1984) 『日本の意匠 3 / 牡丹・椿』京都書院、p. 160
 
「矢部」氏は、「牡丹」が文様として「宝相華」と同等の位置を与えられるのは、実在の花卉を忠実に、あるいは抽象化しつつも描こうとする動きが胚胎した、「晩唐」から「五代」にかけての九-十世紀と推測しており、実際にも、「南唐」の保大三年 (945) に造営された「南唐・高祖李昪」とその夫人の合葬墓の壁面浮彫を例に挙げている。
 
ここまでは、中国における装飾文様としての「牡丹」の台頭の歴史を追ってきたが、問題は、ではいつ、どこで、この「牡丹」文様が、古来の「獅子」の意匠と不可分に組み合せられていくのか、と云うことである。この問題に関しては、先程来、引用している「矢部良明」氏が、筆者の抱いている問題意識を完全に先取りする形で述べているので、ここでは少し長くなるのを覚悟で、氏の見解を引用してみよう。
 
牡丹と獅子の結びつきはあたかも龍と雲、竹に雀、鳳凰に桐と同じく、ともに相性をもつ二つの図様である。それぞれに意味をもって組み合わされているこれらの図様ではあるが、そのなかにあって何故に獅子と牡丹とが共存するのか合点がいかないものを感ずる。そしてその思想上の共通点は何かと反論されると解答に困惑してしまう。はたして日本の創案か、中国起源の組み合わせ文様であろうか。宝相華唐草文のなかに獅子 (あるいは狻猊か、獬豸か) を配する図様はすでに盛唐にみるが、五代・北宋、ひいては南宋・元代の中国文物に牡丹と獅子の組み合わせはほとんどみない。
 
矢部良明 (1984) 「牡丹と椿」
吉岡幸雄/編 (1984) 『日本の意匠 3 牡丹・椿』京都書院、p. 164
  
「矢部」氏は、以上のように述べた上で、1964年に「山西省長治県李村溝」から発見された「金代」 (1115-1234) の無名氏墓には、「獅子」と「牡丹」が一図を成す浮彫りが施されていたことを報告している。氏は、「金代のこうした資料は鎌倉後期の獅子牡丹文様にとって、直接的ではないが、その造形の手本として考慮するに足るものではあるまいか」と、極めて穏当な意見を述べている。
 
山西省長治県李村溝発掘無名氏墓・獅子牡丹図02
「山西省長治県李村溝発掘無名氏墓・獅子牡丹図」
 (矢部、1984) より
 
ただし、この「金代」の「無名氏墓」の図案は、確かにその中心に「獅子らしき獣」と「牡丹」をいくつか添えているが、その背景の文様には「パルメット文」や「葡萄文」のようにも見える植物文様が散らされ、「獅子」以外の「犬のような獣」も描かれている。また、図の四隅には、「牡丹」ではない、「桜」様の四弁花、あるいは五弁花が配置されている。飽くまでも私見なのだが、この図様からは、「花鳥文」や「鳥獣文」を複雑に組合せる、「殷代」の「饕餮文」から、「唐代」の「海獣葡萄鏡・鳥獣葡萄文鏡」や、我が国の「三角縁神獣鏡」から「洲浜牡丹蝶鳥鏡」に至るまでの、中国の青銅器文化以来、継承されてきた図様の延長線上にあると云う印象しか受けない。これらのことから、筆者は「矢部」氏ほど積極的に、この無名氏墓に見られる図案が、我が国で後に大流行する「唐獅子牡丹」の組合わせ文様の先駆けになったとは信じられないのである。


d)  具体例の図示・日本編

それでは、我が国における「唐獅子牡丹」の発達史のようなものは、どの程度描けるのだろうか。例えば、「牡丹唐草と獅子」に先行する「花唐草と獅子」の図案は、我が国にも何例か見られるのだが、これを舶来品と見るか、国産品と見るかで、自ずと発達史の描き方が変わってくるが、「獅子」および「唐草」と云うそれぞれのデザインが純国産と云うことは考えられないので、むしろ我々が考慮すべきは、どのような「獅子と唐草」の文様が我が国に入ってきて、それがどのように後世の「唐獅子牡丹」文様と連結していくのか (あるいは連結しないのか) と云うことであろう。

いま筆者が思いつく、我が国に伝わる「獅子と唐草」文様の遺物と云うと、やはり「正倉院」の御物が真っ先に挙がってくる。かなり変わった姿勢の「獅子」が「花唐草」文の中をまるで踊っているかのように描かれた「紫地獅子唐草文錦」などは、すぐに脳裡に浮ぶ。その他では、復元された図様なのだが、「花唐草獅子文綾」や「彩絵獅子唐草文白布文様」などが思い出される。
 
紫地獅子唐草文錦花唐草獅子文綾・復元図・正倉院
彩絵獅子唐草文白布文様復元図02

 左上から、a) 「紫地獅子唐草文錦」 b) 「花唐草獅子文綾・復元図」
c) 「彩絵獅子唐草文白布文様・復元図」
 
「正倉院」の御物は、「奈良時代」に我が国にあったと云う事実の他では、その生産国などは分からず、多くのものが舶来品だろうと考えられているため、上に挙げた「花唐草と獅子」の意匠にしても、それが我が国由来のものであるどころか、中国から学んだ図柄を、日本人が自らの手で再現したか、あるいは独自の工夫を加えたものなのかさえ、はっきりとは云えないのである。いずれにしても、上に挙げた三つの「花唐草」図柄は、どれも「長廣」氏が云うように、実在の「牡丹」の花の影響を受けた形跡は見られるが、中でも b) の「花唐草獅子文綾」の中の一つ (上図の左上部) は「牡丹花」に極めて類似して見える。
 
正倉院・銀薫炉03正倉院・銀薫炉01
左) 「正倉院・銀薫炉」      右) 「正倉院・銀薫炉」 (拡大部分)
 
以上三例は、「正倉院裂」の遺例であったが、「正倉院」には、他に「銀薫炉」と呼ばれる「唐獅子牡丹」もどきの図柄を持つ遺品がある。この薫炉は、中央から上下方向に開くようになっており、中には後の忍者たちの使った龕灯と同様の構造のジャイロがつくり込まれ、薫炉本体をどの角度に傾けても、中で焚かれる香は動かないようになっていて、それ自身が非常に興味深い逸品である。そして、その表面は、線彫りと透し彫りの技法によって、「獅子」と「鳳凰」が「花唐草」文に取り囲まれる図案で埋め尽くされている。

ただ、これらの図案に見られる「花唐草」は、厳密な意味では「牡丹唐草」とは云えない。それは既に中国の文様を見たときに述べたとおりである。「牡丹唐草」文は、やはり、「晩唐」以降、特に「宋代」に入ってからの写生的精神に支えられて、「唐代」までに流行った想像上の理想的な植物文としての「宝相華」文様を克服する形で生まれたものであることは、前述の『営造方式』の図解を見ただけでも明らかである。
 
営造方式02
『営造方式』巻三十三「彩画作制度図様上・五彩雑花第一」
 (矢部、1984) より
 

上の図では、「海石榴華」の下には「枝條卷成」と注記が書き込まれているが、「牡丹華」の下には「寫生 (写生) 」と記されている。これは両図を比較してみれば一目で分かることだが、「枝條卷成」とは伝統的な「唐草」文様に見られる想像的な植物の繁茂を描いた様式であるのに対して、「写生」は、実在の「牡丹」を意識し、それをより写実的な描写と構成の中で図案化している。したがって、「正倉院裂」や「銀薫炉」に見た「花唐草」の図様が、一部、明らかに「牡丹」のモチーフの影響下にあったとしても、全体としては、いまだ「牡丹唐草」と呼べる段階にはなく、「北宋」の『営造方式』の分類に照らせば、明らかに「枝條卷成」と注記された「海石榴華」文の方が、「正倉院」御物に見られる文様と映像的に近い印象を受けるのである。

また、これら図案の「宝相華」が、仮に「牡丹」だったとしても、そのいずれからも、後世の「唐獅子牡丹」につながるような定式化された「獅子と牡丹」の関係は見出されないのである。それは飽くまでも、それぞれ別個の文様として「花唐草」と「獅子」があり、たまたまその工芸品・美術品をつくるときに、その作者によって図案として組み合わされたと云う以上の契機を感じさせないのである。より必然的に二つの文様が併せられて初めて、それは複合文様としての「唐獅子牡丹」と呼べるのだと、筆者は考えている。
 
*
 
ここで、少しばかり脇道に逸れるならば、上に挙げた「正倉院」御物の遺例などには、「獅子」「牡丹」などとは直接関係ないのだが、一つだけ不思議な共通点がある。それは、いずれも極めて珍しい図柄だと云うことであろう。これらの図柄に採用されている様式は、はっきりと「唐風」だと云えるものなのだが、そして多くの専門家がそれらは「唐」でつくられてから我が国に舶載された品々だと見ているにも関わらず、同様の図案が、国内にも中国にも、あまり見出せない、と云うのは、やや奇妙な事実ではある。

しかも、この奇妙な事実は、「花唐草と獅子」にのみ云えることではなく、少なくとも「獅子」文様の古例とされる遺物にも、例えば「法隆寺・四騎獅子狩文錦」や「正倉院・花樹獅子人物文白橡綾錦几褥」などにも云えることである。これら二つの錦綾の図様についても、「ササン朝ペルシア」や「唐」の影響などが盛んに論じられるが (そして筆者もその通りだと思うのだが) 、興味深いことに、これらも国内外に類例の少ない作例なのである。

今後、中国や「中央アジア」方面などで、考古学的な発掘が進むにつれて、この事情は変化していくかもしれないが、仮に一、二の例が新たに出土したところで、「珍しい」と云う状況は、一朝日によって覆るものでもないだろう。しかし、もしも偶々、日本に遺例が残り、大陸では同系統の遺物が湮滅してしまったと云う、かなり偶然性の高い (したがって可能性の低い) 事情があったのでないならば、当然、我が国に伝来した遺物に、極めて珍しい意匠のものが多いのには、それなりの事情があったと推定せざるを得ない。

これは「奈良期」の我が国の中国貿易に携わった人々が (公私いずれの側でも) ...
 
敢えて変わった意匠のものばかり、制作依頼をしていた
特定の地域や工房などと深い縁故があり、結果的に、その地域や工房に限定的に見られる特徴を有した品々ばかり請来した。
「唐風」の意匠を学びつつ、日本の工人たちが模倣してつくった品々だから、独自の特徴が出た。
 
...などと考えられる。普通に考えれば、③が最も分かり易く、あり得そうなのだが、例えば「法隆寺・四騎獅子狩文錦」などのあまりに異国的な意匠を、敢えて日本の工人たちが、独自の工夫の下で模倣したと云うには、それ相応の根拠を示さずには、この立場は成立しそうにない。もっとも、この錦は、一般には「遣隋使・小野妹子」によってもたらされたものだと考えられているようなのだが、そうならば、今度は何故、中国でも類例の少ないこのような錦が我が国に伝わったか、と云う点も考慮に入れなければならなくなるだろう。
 
法隆寺・四騎獅子狩文錦法隆寺・四騎獅子狩文錦02
「法隆寺・四騎獅子狩文錦」
 
その上、我が国でつくられた模倣品ならば、その類似品や伝統が後の時代に伝わっていてもおかしくないのだが、現在のところ、そのような気配はあまりない。また、仮に模倣した場合でも、やはりその手本となった舶来品があったことになるから、実はこの立場は、単独では成立し得ない。

①は、理論的にはあり得るが、冷静に考えると、我々の先祖はどのようにして見たこともないような意匠の工芸美術品を中国側に依頼出来たのか、と考えると、この立場も意外と根拠が薄弱になる。仮に無理してこのような注文を出したところで、結局は中国の工人たちの「おまかせ」になるだろうから、あまり独自のものは生まれなかったのではないだろうか。

したがって、実は一見すると一番あり得そうにない②の立場が、意外にも論理的には整合性が高いことが理解される。筆者は、それと③の立場が合わさって、複合的な状況がつくり出されたのではないか、と考えている。ただし、これは中国のどこかに、日本に伝来した品々の類品が埋まっていると云う前提に立つか、あるいは現在は不明の理由でそのすべてが失われてしまった、と考えなければならないと云う点で、どうしても想像や仮定に基づくため、聞こえが悪いのは否めない。しかし、後に「唐獅子牡丹」が、我が国に独自の受容状況の中で、ほぼ日本固有のものに近いほどの図案構成を創出し、かつ独特の流行を生み出していくことになる背景には、何かしらこのような伝統があったのではないか、と推測したくもなるのである。
 
*
 
元の話に戻ろう。

既に見たように、はっきり「牡丹」と分かる作品が登場するのは、中国では「晩唐」から「五代」にかけてであったが (矢部、1984) 、我が国では「鎌倉時代」初頭からだと云える。
 
十世紀といえば中国では五代、北宋時代にあたる。すでに述べたとおり、新様式確立にむかって邁進する中国では絵画を含めて造形思潮はすっかり貴族時代のそれから脱皮して、現実の自然を直視する写生の造形を重んじる新時代を築きつつあった。それゆえ、日本がこの十、十一世紀に中国の新意匠を受け入れているならば、平安時代に牡丹文様が出現する可能性があったはずではあるが、結局、その導入は次の鎌倉時代まで待たねばならなかった。
 
矢部良明 (1984) 「牡丹と椿」
吉岡幸雄/編 (1984) 『日本の意匠 3 牡丹・椿』京都書院、p. 162
 
「矢部良明」氏は、「牡丹と椿」の中で、我が国の美術工芸品の中で、最初期に「牡丹」を装飾文様に取り入れたのは、十二世紀末から十三世紀初頭につくられた「教王護国寺 (東寺) 」所蔵の「紫檀塗螺鈿金銅荘舎利輦だとしている。
 
板絵神像・堯儼・薬師寺
「板絵神像 (部分) 」堯儼・作
 (薬師寺蔵)
紫檀塗螺鈿金銅舎利輦・東寺
「紫檀塗螺鈿金銅舎利輦
(部分)
(教王護国寺蔵)
十六羅漢図・第十四尊者図・妙心寺
「十六羅漢図・第十四尊者 (部分) 」 (妙心寺蔵)  
 牡丹蒔絵弓・平安後期・春日大社牡丹蒔絵弓・平安後期・春日大社02
「牡丹蒔絵弓」 (部分)
 (春日大社蔵)
 
また、「矢部」氏の小文を載せた『日本の意匠 3』 (京都書院、1984) は、その他にも、「薬師寺」の「板絵神像」 (堯儼/筆) や、「妙心寺」の「十六羅漢図・第十四尊者像」、「春日大社」に奉納された「牡丹蒔絵弓」なども挙げている。「板絵神」は、元々は「寛治年間」 (1087-1094) 頃に作成された原画が損傷したために、永仁三年 (1295) に南都絵所の絵師「民部法眼・堯儼」によって描き改められたものと云う (狩野、1984) 。「十六羅漢図」は、「鎌倉中期」の作品と考えられ、「牡丹蒔絵弓」は、「平安後期」の保延二年 (1136) 十一月七日に、右大将当時の「藤原頼長」が、春日詣の際に寄進したものだと云うことが『台記』に記されている。

筆者としては、ここまで自身大きく拠ってきた専門家の弁にさかしらを申し立てるつもりは毛頭ないのだが、上記五つの遺例よりも古い「牡丹」の装飾文様が、「正倉院」御物の中に含まれているのではないか、と考えている。その遺例とは、かの有名な「紫檀金鈿柄香炉」のことなのだが、この作品の装飾図案は、「牡丹」文様の例には入らないのか、確認しておきたい。
 
紫檀金鈿柄香炉02
「正倉院・紫檀金鈿柄香炉」
紫檀金鈿柄香炉04
「正倉院・紫檀金鈿柄香炉」 (部分拡大)

この「紫檀金鈿柄香炉」の炉部の金象眼の模様を見ると、瑠璃や玻璃を嵌め込み、花芯を青や赤に映えさせた花の描写の仕方は、「唐代」装飾の特徴として挙げられる非写実的な、想像上の花模様を髣髴とさせるが、一方で、茎や葉を見る限り、その描写はかなり写実的になっているとは云えないだろうか。

この写実的な葉の表現に筆者が注目するのは、その三つに分かれた鋭角的な葉先は、まさに「牡丹」の葉の特徴だからである。葉っぱが「牡丹」であるならば、その大ぶりの花も、「唐」の人々のこよなく愛した「牡丹」だと解するのが常道であろう。後世描かれる「牡丹」の多くは、八重咲きか千重咲きのもので、花芯は見えないか、あまり大きく描かれないが、一重咲きの「牡丹」なら、花芯もそれなりに見えるものである。特に、「紫檀金鈿柄香炉」の図柄のように真っ正面 (真上) から見た場合はそうである。

ただ、後々普及する、「牡丹」の伝統的な装飾模様には、日中ともに一重咲きのモチーフはほぼ消滅し、「紫檀金鈿柄香炉」の意匠が、この後、発展継承された様子はない。何しろ、先に挙げた「牡丹」装飾の中国での最古例が、西暦945年だったのだから、八世紀には存在したと考えられるこの「紫檀金鈿柄香炉」は*、中国で制作されたものであっても、日本で作られたものであっても、どちらの国でも最も古い作例と云うことになるだけに、この「牡丹」文様の位置づけは、極めて重大なものであると思われる。しかし、筆者の期待に反して、かつてあまり真剣にこの図柄に取り合った研究があった様子はない。
 
* 『續修正倉院古文書後集』卷四十一には、「光仁天皇」の亡くなった天応元年 (781) に「紫檀御香爐一具」が施入されたと云う記録があり、これが「紫檀金鈿柄香炉」に比定されている。
 
そこで、筆者は、何の確証もないまま、一つの解釈案を述べることとしよう。この「紫檀金鈿柄香炉」の「牡丹」と、これを除くと我が国で最も古い「牡丹」図様である「春日大社」の「牡丹蒔絵弓」の「牡丹」が、どちらも一重咲きのものであると云う事実は、我が国の「牡丹」受容史にあって、当初伝来した「牡丹」の種が一重咲きのものであったことを示唆しているのではないか。園芸の世界では、「牡丹」と云えば圧倒的に八重咲き・千重咲きが多いのだが、それでも日本は他国に比べると「一重咲き」の割合が高いと聞いたことがある。「牡丹」とよく似た近縁種の「芍薬」の場合は、この傾向はさらに強まり、諸外国ではほとんどが多重咲きなのに対し、日本の「芍薬」は一重のものも多いと云う。

「芍薬」と云えば、「正倉院」の「紫檀金鈿柄香炉」の図柄は、デザインだとは云え、「牡丹」にしては茎がやや立ち過ぎているきらいがあり、もしかしたら作者は「牡丹」と「芍薬」の区別がまだ完全についていなかったのかな、などとも想像させられる。既に述べたように、この柄香炉の作者は、いまだ必ずしも「牡丹」の姿を見慣れていなかった可能性があるので、このくらいの混乱は不思議ではないだろう。ただし、より写実性の高い葉は、完全に「牡丹」のものであるから、これが「牡丹」であると云う筆者の見解は変わらない。

いずれにせよ、一重咲きの「牡丹」図様は、後世、あまり見られないようになってゆき、仮にこの図様が我が国に最初に伝わった「牡丹」* の姿を伝えると云う、「日本牡丹受容史」の特異な一頁を記すものだったとしても、その伝統は「鎌倉期」以降は消滅することになったと云えそうである。
 
* 「聖武天皇」 (724-749) の時代に、僧「空海」 (有名な弘法大師とは別人) が中国から請来したと云う説があるが、典拠は未調査。「伊藤義治」氏の「牡丹の植物学」に記されているが、典拠は不明 (伊藤、1987) 。
 
おそらくは、「唐風」文化を受け容れる過程で、植物としての「牡丹」も、図様としての「牡丹」も我が国に伝わったのだが、既に見たように、「宝相華」全盛の「唐代」にあって、「牡丹」の写実的な特徴を生かした図案化は、「牡丹熱」に狂奔した「唐」の人々にあっても発達しなかったのであるから、その美術工芸分野での我が国への影響は、かなり限定的なものにならざるを得なかったのではなかろうか。

本式の柄香炉は金属で作るのが筋であるにも関わらず、外国産の「紫檀」と云う材を使っているとは云え、一応は火器である柄香炉を木で作ると云う発想も、いまだ確実には証明出来ないけれども、いかにも日本人らしい新機軸に思われる*。そこに、中国に見られなかった珍しい「牡丹」文様を描いたのも、「唐風」を真似ようとする日本人が、図らずも行なってしまった最初期の和様化の名残りなのかもしれない。「牡丹」が「唐」では装飾文様としては使われていないと云うことを知らず、「唐」の貴族たちに狂おしいまでにもてはやされていると聞いた「牡丹」と云う新奇の花を、自らの作品に取り込んで「唐風」を演出したいと願った工人がいたのかもしれない。まあ、全部、筆者の勝手な想像だけれど...。
 
*「河田貞」氏が、「紫檀金鈿柄香炉も、インドシナ半島を中心とする熱帯地方産の檀木の紫檀を主材とし、これに金貝による象嵌文や伏彩色の嵌玉 (水晶) など緻密・精妙な技法を駆使している。いずれも、唐代工芸の常套手法であり、おそらくは遣唐使による請来品と考えて不当ではないであろう」 (河田、1994; 13) と述べているのなどは、代表的な「舶来品」説である。筆者は「舶来品」説を完全に否定はしないものの、中国で紫檀材の柄香炉の出土がなく、我が国にのみ遺例があり、さらには文献上も二例見られる (i.e. 『正倉院文書務』『仁和寺御室御物実録』) と云う事実を鑑みれば、中国などで新たな考古学的発見があるまでは、「国産」説も無視出来ないと思っている。ましてや、柄香炉の花文が「牡丹」であるならば、「唐」では「牡丹」の装飾文はこの時代皆無に等しいと云うことも傍証になる。あるいは、中国に存在した奇を衒った作風の工房と日本人の間に、忘失されてしまった関係があったか...。
 
元々、「唐風」に憧れて始まった我が国の装飾美術における「牡丹」文様は、「唐」における「牡丹」装飾の欠落があった時代こそ、その間隙の中で我が国なりの工夫も生み出されたのかもしれないが、やがて「写生」に基づく新たな造形的思潮が到来すると、それは瞬く間に日本の美術工芸の世界を席巻するようになったのであろう。我が国の美術工芸の和様化が本質的に進むのは、もう少し後の時代だったと考えるべきなのだろう。

したがって、八重咲き・千重咲きの華麗な「牡丹」を描き、後世の日本の「牡丹」意匠の元となる、写実を重んじた「宋風」の図様は、「鎌倉初期」から我が国に導入され、短期間のうちに普及して、主流を形成するに至ったと云うのは、恐らく正しかろうと、筆者は考えている。
 
*
 
最後に残された問題は、「唐獅子牡丹」である。

実は、「牡丹」図様がようやく我が国に定着しつつあった同じ時期に、既に「獅子と牡丹」の組合わせも、生まれつつあったのである。そして、それらの顕著な例は、明白な「宋風」の影響の下にあった。

「平安時代」の末に起きた「源平合戦」の最中の治承四年 (1181) 十二月二十八日、「源氏」に与した「東大寺」や「興福寺」などが「平重衡」のいわゆる「南都焼打」に遭って焼亡したのは、よく知られた史実である。「東大寺」では、このとき「大仏殿」も焼け落ちたため、戦後は大々的な復興が期された。このとき、「大勧進職」に任命され、「大仏」や諸堂の再興に当たったのが、かの「俊乗坊重源」であったが、彼は単に寄進を集めるだけでなく、この地位を通じて復興の文化的な指導者としての役割をも担ったのである。「重源」は、三度の入宋経験を有し、「宋代」の文化に造詣が深く、かつ傾倒していたため、「大仏」の鋳造には「宋人・陳和卿」を招き、「宋人石工・字六郎」らに「東大寺中門」の「石造獅子」や「大仏殿脇侍」「四天王石像」などを造らせていることは、『東大寺造供養記』に記されている。
 
建久七年 中門石獅子 堂内石脇士 同四天像 宋人字六郎等四人造之 若日本   国難造遣 遣価値直於大唐所買来也 運賃雑用等凡三千余石
 
作者年代不明『東大寺造供養記』室町期か
塙保己一/編 (1960) 『群書類従・第二十四輯・釈家部』続群書類従完成会
 
この石工の一派は、また、「伊賀新大仏寺」の本尊の「石像台座」なども造っているが、これについてはまた後ほど触れる。

この大文化事業の大波の中で、「運慶・快慶」など、「慶派」と呼ばれる集団が、彫刻の世界に新風を吹き込むことになったのだが、彼らは「重源」と深い関係を持って活動した形跡があり、一般に彼らの作風は彼ら独自のものではありつつ、強い「宋風」の影響を受けていると云う指摘は古来なされている。

この「運慶・快慶」と同世代に属し、「慶派」の中でも特に異彩を放った彫刻家に「定慶」と云う謎の多い人物がいる。あまり多くが知られていない中で、この人物は「春日大社」や「興福寺」と密接な関係があったようであり、これらの寺社に多くの傑作を遺している。特に、建久七年 (1196) の「興福寺東金堂・維摩居士坐像」は古今の傑作として知られている。ただ、筆者はここで「維摩居士像」について述べようとしているのではなく、その坐像が据えられている台座に施された浮彫りに関心を寄せているのである。
 
維摩居士像05興福寺東金堂・維摩居士像02
「興福寺東金堂・維摩居士像」
 (1196年、定慶作)


維摩居士像02
興福寺東金堂・維摩居士像03
「興福寺東金堂・維摩居士像・須弥座
上) 正面・下) 側面 (部分)
 
御覧の通り、「維摩居士像」の台座には、堂々たる浮彫りが施されており、正面には「獅子」を、側面には大ぶりな「牡丹」が彫られているのである。この「牡丹」は、大型の「牡丹」の意匠としては我が国最古のものであり、「獅子」も我らに馴染みのある「唐獅子」へと既に変身を遂げているが、このデザインは「まさに宋風の意匠 (水野、1972) 」だと、多くの美術史家たちが口を揃える (以下、三例ほど...) 。
 
像内に銘記があって、建久七年(1196)、仏師定慶による造立と知られる。 (中略) 衣桁形の後屏や獅子や牡丹の浮彫(一部に後補がある)を貼付けた台座に宋風が見られ、宋画の維摩像が手本になった事も考えられる。
 
水野敬三郎 (1976) 『日本の美術 12・運慶と鎌倉彫刻』小学館

 
東金堂維摩像は、 (中略) 細部の形式や荘厳については宋代図様との関連を指摘することができる。 (中略) 台座腰部を獅子と牡丹の浮彫によって装飾するのも、宋工陳和卿による新大仏寺阿弥陀如来像台座にみられるごとく、宋代図様にならったものと考えられる。
 
藤岡穣 (2002) 「解脱房貞慶と興福寺の鎌倉復興」
京都国立博物館/編 (2002) 『学叢』第二十四号、自刊、pp、19-20

 
鎌倉時代に、定慶という仏師がいて、異色ある制作活動をしたが、じつはこの仏師は、同名異人の二人であった。
 
第一の定慶は、運慶の二男康運が改名したのだともいわれ、また、康慶の弟子とみる説もある。とにかく慶派の仏師であることに疑いはないが、その作品は、康慶・運慶などに盲従するものでなく、よく一家の風をたてるまでになっている。 (中略)
 
鎌倉彫刻における宋風の影響については、三つの場合が重要視される。第一は東大寺の再興で、重源を中心としてとりいれられた宋風、第二は京都泉涌寺の俊芿や湛海などによってもたらされた宋風、第三は鎌倉で禅宗とともに伝わってきた宋風である。定慶やのちに述べる快慶における宋風は、第一の場合とふかい関係にあったし、第三の鎌倉の場合は、伝統の少ない土地であったためか、かなり特色のある影響をうけた。
 
毛利久 (1964) 『日本の美術 11・運慶と鎌倉彫刻』平凡社、pp、85-88


「慶派」の彫刻家たちが、「宋風」の文化思潮と密接な関わりがあったことは既に述べたが、この派の一方の巨頭「快慶」は、「伊賀新大仏寺」の本尊を制作している。この寺は建長二年 (1202) に、「後鳥羽上皇」の祈願所として「重源」が「東大寺」の「伊賀別所」の地に開いたもので、ここにも「重源」と「慶派」のつながりが見える。「快慶」」の造った大仏は、現在は頭部を除いて後補のものしか残っていないが、その巨大な石造台座の周囲には、「獅子」と「牡丹」の浮彫りが施されている。「山川均」氏によれば、この石壇には銘文がないため、制作者が誰なのかを正確に同定することは出来ないが、その独自の「宋風」の作風と、石材が中国の「泉州」産の砂岩だと見られることなどから、「東大寺中門」の「石獅子」を造った「伊行末」の一派の手によるものだと考えられると云う (山川、2006; 10-11) 。


この伊行末」一派が、「慶派」の彫刻にどの程度影響を与えたかは未知数だが、「伊派」の石造物を見る限り、それが直接「慶派」の彫刻本体に影響を及ぼしたとは考えにくい。しかし、彼らがもたらした、「宋」からの新たな芸術的思潮は、何らかの示唆を我が国の職人たちに与えた可能性は高い。「定慶」にしても、「維摩居士坐像」の台座に施した「獅子」及び「牡丹」の浮彫りは、「伊派」の人々から学んだ新たな「宋風」の装飾表現に端を発するのかもしれない。

伊行末」らが、「東大寺中門」の「石獅子」を造ったことは既に述べたが、実は、当然ながら「石獅子」の本体が「獅子」であったこととは別に、この台座には「獅子」と「牡丹」の浮彫りが彫られているのである。「新大仏寺」の本尊台座にも、「玉と遊ぶ獅子」の浮彫りが遺されている。
 
東大寺・石造獅子台座01東大寺・石造獅子台座02
「東大寺・南大門 (旧中門) ・石造獅子台座」 (部分)
新大仏寺阿弥陀如来像台座01
「新大仏寺・阿弥陀如来像・台座」 (部分)
 
「興福寺東金堂」の「維摩居士坐像」台座の「獅子」と「牡丹」の彫刻は、その出来映えの見事さもさながら、それが図柄的に、後の日本で大流行する「唐獅子牡丹」を先取りしているかのように映る新奇さと完成度の高さを兼ね備えている点にも驚嘆させられる。「東大寺」の「石獅子」の台座に見られる「獅子」と「牡丹」は、特に「牡丹」がいまだ様式化された「唐代」の植物文の影響を脱し切れていないかに見えること自体、極めて興味深いが、「獅子」が「玉と戯れる獅子」の意匠になっているのも面白い。しかし、これら二つの図案は、それぞれに「獅子」と「牡丹」を含んでいるものの、「獅子と牡丹」が一つの図案として組み合わされる段階にはまだ至っておらず、「唐獅子牡丹」模様だとは言い難い。
 
建長寺・須弥壇
「建長寺・須弥壇・獅子牡丹文」 (補正済・部分)
 
この問題に対して、「鎌倉」の「建長寺」にある「須弥壇」は、「唐獅子牡丹」文様の成立過程を示唆する貴重な資料となっている。甲板と基壇の中間にひかえた腰間部に三匹の「唐獅子」と「牡丹」の文様が、一つの図案の中に共存する形で浮彫りにされており、後世の「鎌倉彫」に多く使われている「獅子牡丹文」の祖形をここに見ることが出来るのである。同様の「須弥壇」は、やはり「鎌倉」の「円覚寺」にもあると聞くが、筆者はいまだ実見の機会に恵まれていない。

話ここに至って、我々はようやく我が国において「唐獅子牡丹」文様がどのように形成されていったかの、具体的な過程の片鱗をのぞくことが出来たのである。筆者自身、まだまだ言い足りないことはあるのだが、本稿は、この辺りで筆を置くことにする。

 
 
 
6. おわりに

今回の記事も、計画倒れに終わってしまった感が強い。本当は、「唐獅子牡丹」の考察を終わらせた後、「眠り猫」の考察へとつながる「猫」の受容史についても触れ、最終的には、「法住寺の猫」の説話分析にも入ろうと欲張っていたのである。「猫」の受容史については、再度、「眠り猫」のテーマを扱うときに引き継ぐとして、「法住寺の猫」の説話分析は、「小野神社の唐猫」の記事を再開したときに、「小野神社」の説話と一緒に考察していくこととする。また、「唐獅子牡丹」の考察については、今後も引き続いて行なっていく準備は出来ている。

今回の記事は、ここで終わりとする。



参考文献など

A. 本編

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C. 英語文献
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 http://blogs.yahoo.co.jp/kamo73/43481990.html
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静岡県の猫神・大平の唐猫様

.13 2011 中部地方 comment(0) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みします。申訳ありません。
近い時期に再開いたしますので、しばしお待ち下さい!!

六所神社内
大沢神社

浜松市浜北区大平 813

唐猫様の石碑
浜松市浜北区大平・大沢地区

 
大平・唐猫様01
五月の「大沢地区」の「唐猫様」 (右)
写真提供・大平小学校

1. はじめに

「浜松市大平」には、全国でも大変 たいへん めずらしい「唐様 からねこ さま」の言い伝 つた えがあることを、わたしはつい最近 さいきん 、知りました。きっかけは、「浜松市立・大平小学校」のブログを読んだことです。三、四年生の生徒 せいと のみなさんが、地域 ちいき のことについて勉強 べんきょう するため、山に登ったり、神社でお弁当 べんとう を食べたり、地元 じもと の老人に古い話を聞いたりしている様子 ようす には、たいへん心を引かれました。その後、「大平小学校」のみなさんのおかげで、どんな大きな図書館 としょかん でも、それこそ日本で一番大きな図書館で調べてもわからない、「大平」の「唐猫様」について、いろいろとくわしいことを知ることができました。

そのため、「大平小学校」のみなさんに対 たい するお礼をかねて、今回 こんかい の記事 きじ は、小学校三、四年生くらいの子供むけに書くことにしました (本当はもっとむずかしいです...) 。特に「大平小学校」のみなさんのために書いているのですが、もちろん、全国 ぜんこく の小学生のみなさんが、この記事を読んで、「大平」の「唐猫様」や、あるいは自分の地域のちょっとした言い伝えなどに興味 きょうみ を持つようになってくれたならば、うれしいかぎりです。よかったら、大人 おとな の方も、読んでみて下さい。親子でいっしょに読んで下さったならば、書いたわたしとしては、これ以上 いじょう に喜 ろこ ばしいことはありません。

むずかしいと思われる漢字 かんじ には、横 よこ に小さい字でふりがなをふっておきます。それでも、ときどき読めない漢字が出てくるかもしれません。そんなときは、あきらめないで、そのまま何 なに か言葉 ことば をあてはめて読みすすめて下さい。もちろん、お父さんやお母さん、まわりの大人、そして学校の先生などに聞いてみたり、自分で調 しら べてみたりするのは大変よいことです。わからない言葉 ことば についても、同じようにしてみて下さい。また、この文を読んでいて「少し長いなぁ」と思ったら、一度に全部 ぜんぶ 読もうとしないで、毎日 まいにち 少しずつでよいから読みすすめていきましょう。

それでは、始 はじ めます。



2. いなくなった「唐猫」
 
源氏物語の猫
楊斎延一「女三の宮」 (部分)
大東文化大学・電子ギャラリーより
 
今回、ここで話題にするのは、「浜松市大平」をはじめ、日本じゅうの「唐猫さま」についてです。「唐猫」と書いて「からねこ」と読むのは、ここまで読んで下さったみなさんは気づいていることでしょう。でも、実 じつ は「大平」というのも特別 とくべつ な読み方をする地名なのです。私も最初 さいしょ は間違 まちが えました。「大平」と書いて「おいだいら」と読むのだそうです。

「唐猫」について、辞書 じしょ や百科事典 ひゃっかじてん などで調べてみますと、すぐに出てくるのは、千年以上むかしの日本で飼 われていた猫 ねこ たちのことです。そのころの日本には、猫はあまりいなかったので、中国から輸入 ゆにゅう された「唐猫」はたいへん貴重 きちょう なもので、天皇 てんのう や身分 みぶん の高い人だけが、特別に飼っているものでした。もともと、「唐猫」の「唐」とは、いまの中国や韓国 かんこく などの国々をさす言葉だったのですから、「唐猫」というのは、はじめは「輸入された外国の猫」という意味 いみ だったのです。みなさんが、もう少し大きくなったら学校で勉強 べんきょう することになる『源氏 げんじ 物語』や『枕草子 まくらのそうし 』あるいは『更級日記 さらしなにっき 』などの本に、このような「唐猫」は登場 とうじょう しています。それぞれの本の中では、「唐猫」がたいへん大切にされ、かわいがられている様子 ようす が描 えが かれています。みなさんは、「百人一首 ひゃくにんいっしゅ 」に描かれたお姫 ひめ さまを見たことがありますか? あのような素敵 すてき なお姫さまたちに、猫たちはだっこされて暮 らしていたそうです。

この次の時代 じだい 、いまからおよそ七百くらいむかしになると、「神奈川 かながわ 県」の「鎌倉 かまくら 」に侍 さむらい たちが「幕府 ばくふ 」という政府 せいふ をつくって、日本を治 おさ めるようになりました。この時代、日本では、中国からたくさんのお経 きょう を輸入したのですが、海をこえて運 はこ んでくる間 あいだ に、ネズミたちにかじられてダメになってしまうお経が多かったのです。そう、ネズミって、本もかじるんです。そこで、船乗 ふなの りたちは、船に猫をのせて、ネズミたちを退治 たいじ させたのです。お経を受けとった日本のお寺でも、やはりお経をネズミから守るために、猫を飼うところが増 えたといいます。この猫たちも「唐猫」と呼 ばれたのですが、特 とく に「鎌倉」の近くの「金沢」で輸入された猫たちは、「金沢猫」と呼ばれ、長く大事にされました。

しかし、おもしろいのは、この時代から後、「唐猫」という言葉は、日本から完全 かんぜん に消 えてしまうのです。日本でも猫の数が増えて、もう外国からつれて来なくてもよくなったからでしょうか、とにかく、日本から「唐猫」たちはいなくなったのでした。



3. 大平の唐猫

ところが、そんな消えてしまったはずの「唐猫」が、ほんの少しばかりではあるけれども、日本の各地 かくち に残 のこ されていることがあるのです。「浜松市浜北区大平」にもそのようなめずらしい「唐猫様」がいます。まず手始めに、「大平の唐猫」伝説 でんせつ について紹介 しょうかい しておきましょう。

「大平小学校」のみなさんによりますと、ここの「唐猫」伝説には、次のふた通 とお りのものがあるそうです。
 
伝説A
いまでは、もとの場所は分からなくなってしまったが、昔むかし、「大平」の「大沢地区」の南にある山に「唐猫様」という神様が祭られていた。それが、あるとき「大沢地区」の田んぼに転 ころ がって落 ちてきたところ、「大沢」の人びとは、「年貢米 ねんぐまい 」を納 おさ めなくてよいことになった。「年貢米」というのは、昔 むかし の「税金 ぜいきん 」のことだから、これはありがたいということで、村人はたいそう喜んで、「唐猫様」を「大沢」に迎 むか えて大いに祭った。それを知ったとなり村の人間が「唐猫様」を持ち出したところ、その人は病気になって、とうとう死んでしまった。そこで「唐猫様」を元のところにもどして祭ると、水害 すいがい などの災 わざわ いは起きなくなり、「年貢米」の取り立てもなくなったという。
 
伝説B
ある旅人が、「大沢地区」を通るとき、猫の置物 おきもの を落としていってしまった。それを拾 ひろ ったよくばりなとなり村の夫婦 ふうふ は、二人とも病気で死んでしまった。それを気の毒 どく に思った村人が、猫の置物を祭ったところ、それ以来 いらい 、村はとても幸 しあわ せになったという。
 
「浜松市立大平小学校」の皆様による聞取り (2011年・五月および九月)
 
なかなか不思議 ふしぎ な伝説ですね。
「唐猫様」とは、どんな形をした神様だったのでしょう? 石で出来ていたのでしょうか、それとも木で出来ていたのでしょうか? もしかしたら、いまの「招き猫」みたいに焼 き物 もの だったかもしれませんね。わたしも、知りたくてしょうがありません。でも、残念 ざんねん なことに、いまはもうこの「唐猫様」の本体 ほんたい は残 のこ っていないそうです。ただ、「大沢神社」そのものは、「大平」の「六所神社」に小さな祠 ほこら が移 うつ されていますし、神社が元あった場所には、いまでも「大沢神社」と「唐猫様」の石碑 せきひ が立っています。

ここからは、少しだけ、その二つの場所を訪 たず ねてみることにしましょう。



4.  六所神社を訪ねて
 
大平・六所神社06
ここの風景の美しさは、私の写真のうででは写せなかった...。
 
「唐猫様」と関係する場所 ばしょ のうち、「六所神社」の方は、「大平」の中心地にあり、小学校もすぐ近くにあります。農協 のうきょう のとなりで、県道からすぐにお参 まい りできますが、「かどや酒店」さんの横の小径 こみち を入って、緑の柿園 かきえん の中を通ってお参りすると、息をのむほど美 うつく しい風景が見られます。
 
大平・六所神社05
 
石の鳥居 とりい には、太くて立派 りっぱ な綱 つな が渡 わた され、ワラか、あるいは「木綿 ゆう 」のようなものを打って作った「四手 しで 」が下がっています。ふさふさとして、よそより大きな、たいへん素晴 すば らしい「四手」です。

柿園の足もとには、「ノビル」の可憐 かれん な花が咲 きほこっていました。このお花は、カモミールのようなよいにおいがするのですが、香りはたいへんわずかで、気がつかない人も多いようです。茎 くき や花を折 ってしまうと、ネギやニンニクのような強いにおいが出てしまうので、いよいよ香りがわからなくなってしまいます。都会ではすっかり高級 こうきゅう な食べ物になってしまいましたが、「ノビル」は、おひたしにして食べると美味 おい しいことは言うまでもありません。

「ノビル」のほかにも、「フキ」がたくさん生えていました。いまはもう季節ではありませんから、丸く広がった葉っぱだけが目立ちましたが、春先にはきっと多くの「フキノトウ」が芽吹 めぶ いていたことでしょう。こちらは、テンプラも美味しいのですが、わたしは「フキノトウ味噌 みそ 」にして、あつあつのごはんと食べるのが何よりも好きです。ちょっぴり苦いので、みなさんは苦手かなぁ...。

元の話にもどりましょう。

鳥居をくぐると、石の小橋がささやかな沢にかかっています。沢は小さいですが、その両側 りょうがわ は深く落ちくぼんだ谷になっていて、水の流れは、橋の下から西へと、滝 たき のようになって落ちていきます。九月のいまは水も少ないですが、春には、水かさも多くて、さぞ美しいことでしょう。岸の土手には、青竹や杉 すぎ の木、それに楓 かえで などの樹木 じゅもく がしげっており、残暑 ざんしょ のきびしい季節でも、すずしい空気が気持ちよくほほをなでてゆきます。
 
大平・六所神社03
 
橋を渡 わた ると、いよいよ神社の境内 けいだい です。数段の石段を登ると、正面には、瓦 かわら ぶきの立派な神社の建物 (社殿 しゃでん ) が見えます。左には、こちらを向いて「姥神 うばがみ さま」のお社 やしろ があり、それらの間には、六つの祠 ほこら を収 おさ めた建物 (覆屋 おおいや ) もあります。その正面には「注連縄 しめなわ 」がはられ、紙の「四手 しで 」も下げられています。「唐猫様」のいらした「大沢神社」は、この中の左から四つ目、見た目だと一番まん中にある祠です。
 
大平・六所神社02
 
社殿の右にも、建物はありました。こちらは大きな建物で、お祭りの道具をしまっておくためのものなのでしょうか。だとしたら、きっと、たいへん立派なお祭りが行われるのでしょうね。わたしは、一度、ここのお祭りに来てみたいものだと思いながら、大変な満足 まんぞく のうちに、この日のお参りをすませることになりました。
 
大沢神社



5. 大沢の唐猫様を訪ねて
 
大平・唐猫様04
 
わたしは、「六所神社」にお参りした後、少しばかり「大平小学校」を訪 たず ねて、素敵 すてき な教師 きょうし のみなさんと、かわいらしい三、四年生の生徒のみなさんにお会いして、その足で、近くの「大沢地区」の石碑 せきひ を見に行きました。分かりやすい場所にあるわけではないのですが、先生方のていねいな説明のおかげで、無事 ぶじ にたどりつけたときは、小おどりしたいほどうれしかったものです。

「大沢地区」に行くには、「大平」の中心から見て県道を南に走ります。ゆるやかな峠 とうげ を一つこえたあと、道が下り坂で大きく右、そして左へと曲 がってゆくあたりで、右手の土手の切れ目から、西へとむかう道が現 あらわ れますが、この道を右に曲がると「大沢地区」に出るようです。坂の下には、緑の田圃が広がり、その真ん中を「灰木川」が横切っています。そして、はるかむこうには、つくりかけの「新東名高速道路」が空高くそびえていました。

小さな川の左右に一面の稲穂 いなほ がゆれ、透 きとおった水の下には「カワニナ」や「シマドジョウ」の子供がたくさんいる、そんな美しい道端 みちばた に石碑は立っていました。わたしが子供のころから大好きな「カエル」たちも、小さいのから大きいのまで、たくさんいました。マダラ模様 もよう が目立ったので「ヌマガエル」だと思うのですが、「ツチガエル」だったかもしれません。ひっくり返しておなかが白かったら、「ヌマガエル」だとわかるので、一ぴきつかまえようとしたのですが、失敗してしまいました。
 
大沢神社・石碑
 
大きい石碑の方は、だいぶ読み取りにくくなっていましたが、聞いた通り「大沢神社」と文字が刻 きざ まれていました。しかし、「唐猫様」たど伝 つた わる小さい方の石碑はというと、風化 ふうか がはげしすぎて、石碑の文字はほとんど読むことができない様子 ようす でした。しかし、注意 ちゅうい 深く見てみると、うっすらと「馬頭□世音」と書かれているのがわかりました。これは「馬頭観世音 ばとうかんぜおん 」のことでしょう。ふだん、「馬頭観音 ばとうかんのん」と呼ばれる仏 ほとけ さまのことです。
 
大沢・唐猫様
 
でも、馬の神様とされる「馬頭観音」の石碑を、「大沢地区」の人びとが代々 だいだい 「唐猫様」と伝えてきたというのは、何だか不思議 ふしぎ な話ですね。このことについて、わたしは一つの考えがあるのですが、説明するのが大変むずかしいため、ここでは簡単 かんたん に言えることだけ書くことにします。

わたしは、「猫」や「馬」は、その昔、山と里のさかいを守る「水の神さま」として大切にされていたのだと考えているのです。「水の神様」といっても、「雨」「風」「雷 かみなり 」なども、この神様に関係 かんけい します。いまは、こんな風 ふう に考えています。だから、「大沢地区」で「馬頭観音さま」が「唐猫様」といっしょにされていたとしても、何も不思議はないのです。

ひとしきり、二つの石碑をながめたり、田んぼの魚や蛙を目で追ったりした後、ふと振り返ると、後ろにはなだらかな緑の丘が連 つら なっているのが見えました。伝説の「大沢の南の山」というのは、いったいどの山なのだろうと、額 ひたい を流れる汗 あせ をぬぐいながら、過去 かこ に想 おも いをはせて、わたしの今回の「大平」訪問 ほうもん は、名残 なごり しくも終わったのでした。



6. おわりに

今回の記事は、この辺で終わりにします。小学生のみなさんには、これでも長すぎたことでしょう。あきずに、最後 さいご まで読めましたか? もしも読んでいたら、あなたはたいへん集中力 しゅうちゅうりょく のある優秀 ゆうしゅう な小学生だと言えます (大人の話じゃないですよ) 。全国各地の「唐猫様」のお話については、ひきつづき次回 じかい の記事で紹介することとします。楽しみにしてもらえるとうれしいな。



「大平・六所神社」の地図は、こちら

「唐猫様の石碑」の地図は、こちら


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