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福島県の猫神・猫稲荷神社

.23 2010 北海道・東北地方 comment(4) trackback(2)

猫稲荷神社
伊達郡川俣町西福沢

猫稲荷・鳥居01

町道脇の斜面に立つ「猫稲荷神社」の「鳥居」


1. はじめに

「福島県」の「信達地方」は、かつて「信州」や「上州」と並ぶ、わが国の代表的な養蚕地帯であったことは、いまやあまり知られなくなっている。「猫稲荷神社」の鎮座する「川俣町」も、そんな「養蚕の里」の一つであった。国道114号沿いに建つ「道の駅・川俣」が「シルクピア」と名乗っているのも、そんな歴史的な背景があってのことなのである。しかし、役場の人の話では、現在も「養蚕」を営んでいる農家は、「川俣町」でもわずか一軒と云うことであった。

もちろん、筆者が今回「信達地方」を旅したのは、「養蚕」の背景を探るためではなく、この地方が、さながら「猫」の地名や伝説の宝庫の観を呈しているからである。ただ、残念なことに、この地域の「猫」文化―特に「猫神」信仰―は、近年を見る限り、この地方の「養蚕業」の隆盛と密接な関わりを持っていたために、「戦後」の「養蚕」の衰退の波をまともに受け、「養蚕」共々、急速に消滅しつつある。元が、国家あるいは支配者側の要求から導入された「仏教」や「神道」の寺社と異なり、「猫」に関する社のほとんどが、それぞれの地域に暮らす人々の生活に直接依拠する要求から発していた (と思われる) だけに、地域の生活様式が変化すると、それに依って立っていた民俗的事象としての「猫の社」も跡形なく消えていってしまうのである。当然、それは一つ「猫の社」に限った話ではなく、その他のすべての「猫」文化、さらにはそれを取り巻くあらゆる民俗的な事象に関しても云えることである。したがって、「養蚕」のみならず、そもそも地方の農村文化が消滅しつつある現在、この地方が「猫」文化の宝庫であると云っても、実際にはその痕跡を辿ることさえ、既に難しくなっているのである。

そんな状況の中、今回とり上げる「猫稲荷神社」のことを筆者が知り得たのは、まったくの偶然による。二年ほど前に、近所の図書館で民俗関係の新着図書をパラパラと流し読みしているときに、「今井今朝春/編」の『願い・奉納物』 (ワールドフォトプレス、2007) と云う美しい写真集に出くわしたのだが、その中に、「猫稲荷」の写真が数点載せられていたのである。これが「川俣町」の「猫稲荷神社」を知った初めである。

以来、ずっと訪問してみたいとは願っていたのだが、なかなかその機会を得られず、しかもようやく去年、「川俣」を探索した際には、時間と準備の不足が祟って発見することが出来なかったのである。今年は、去年の失敗を活かして、役場の方々によくよく相談してから探索に出掛けることにした結果、ようやく「猫稲荷神社」と巡り会えたのである。この場を借りて、複数の地図類まで用意して下さった「川俣町」の「中央公民館」の方々に、深く御礼を申上げたい。本当に、有り難うございました。



2. 「猫稲荷神社」への道程

道順は、「二本松インターチェンジ」で東北自動車道を降りたところから開始することとする。高速道路を降りた後は、取り敢えずそのまま直進して、「羽石インターチェンジ」を経由して国道四号・二本松バイパス (すぐ先からは福島南バイパスと呼ばれるらしいが...) に出ればよい。もちろん、南ではなく北に向かわねばならないが...。

しばらくはJR東北本線の東側沿いに北へと進むのだが、「川俣町」に向かうには、「駒寄川」の手前で立体交差を左へと降りて県道39号・川俣安達線に入らねばならない。しかし、この日の筆者らは、立体交差の左折直前に前を走る車が急停車したのを避けるために降車口を逃してしまったのである。そのため、もう少し進んで、「水原川」を越え、県道52号・霊山松川線経由で「川俣」に向かうことにした。

途中、「逢隈橋」で「阿武隈川」を渡ると、その先のY字路で県道307号・福島飯野線に入ることになる (実際には道なりなのだが...) 。この福島飯野線に入った辺りで、「二本松市」から旧「飯野町」 (現在は福島市) の「明治地区」に入ったことになるのだが、カーブを曲がった直後の右側の土地は「明治字猫山」と云う。それよりさらに南方、「飯野工業団地」の裏手ほどに、「明治字猫内」の地名もある。地名板でもあれば撮影したかったのだが、見逃してしまったのか、そのようなものは発見出来なかった。そもそも、地方では、電柱ごとに地名の標識板がくくりつけてあるなどと云うことは稀なのである。

その後、旧「飯野町」の中心街に差し掛かると、「後川橋」で「女神川」を渡ることになるのだが、その先の信号は、直進路がそのまま県道39号になる。元々入りたかった川俣安達線にやっと戻った形である。続いて、旧「飯野町役場」前を通過して、しばらく進むと、県道がそれまで平行して流れていた「女神川」から東へと離れていく辺りで、自治体は「川俣町」に入ることになる。

その先、道は国道114号・富岡街道 (この辺りは川俣バイパスと呼ばれる区間らしい...) にぶつかるので、これに右折して入り、一路「川俣」の中心街に向かうばかりである。「道の駅・川俣」「川俣警察」と過ぎ、前方に「川俣トンネル」が見える信号を左折して、次の信号を右に曲がると、「田代川」を渡って、すぐ先の左手に役場があり、その手前右側に、立派な「中央公民館」がある。現在は、建物の半分以上は閉鎖しているようだが、なかなか立派な建物である。ちなみに、「川俣」に慣れている人は、「道の駅」を過ぎた後のY字路の信号を右に直進せずに、左へと進むと、その道がそのまま役場の前まで続いている。

「中央公民館」では、「猫稲荷神社」の具体的な位置を住宅地図で丁寧に説明してもらい、再出発となった。まずは、さきほどの国道114号の信号まで戻りながらも、国道には入らず、直進して県道117号・二本松川俣線に入らねばならない。交差点の東南の角に「ミニストップ」があるのが目印である。この県道をしばらく辿っていくのだが、途中、体育館を左に過ぎた後に「西田橋」で「田代川」を斜めに渡り、今度は球場を再び左に通過する。そして、「宮下」のバス停付近に至ったならば、その先に現れる右への町道に入ればよい。この道は、正式には幹線農道・椿沢線と云うらしいが、そんなことが記された地図は滅多にないので参考にはならないだろう。大体この辺りが、東西の「福沢」の境である。

また、地図で見ると、旧「福沢小学校」のある角で曲がるように見えるが、この地点はかなりの上り坂になっており、小学校は樹木に覆われた先の台地状の丘の上にあるので、曲がり角からはほとんど見えないので、目印にはなりそうもない。ちなみに、この小学校も、御多分に漏れず、平成二十年 (2008) には、「川俣小学校」に統合され、その133年の歴史に幕を閉じた。跡地は、現在、「羽山の森美術館」としてもささやかに利用されている。

この道に曲がって入った土地は字「堂前」と云うのだが、これは最初の右手の角の上にある「延命地蔵堂」から来ているのだろうか、などと思っていると、今度は字「茶畑」「茶畑山」と云う土地が続く。元々、お茶の産地巡りから、各地の民俗的な調査に手を染めた筆者としては、「茶」地名は、「猫」地名と同じくらい心躍るのである。ただし、筆者の見る限り、いまは畦畔にさえ、茶樹は植えていないようではあった。

この後しばらくは、この狭い町道を伝って「西福沢地区」を走ることになる。現在、この椿沢線は、大かがりな補修・拡張工事の真っただ中のようで、方々で工事が行われていたが、そのせいか最初の数百メートル (茶畑山の交差点くらいまで) は、かなり状態のいい、中央線のある走りやすい道路であった。しかし、その先からは、すれ違いが難しいほどの狭い区間も多くなり、よくある地方の町道と云った感じになる。要所要所で、いくつか良さそうな道と交錯するが、ここは迷わず直進路のみを選択して、信じて進むだけである。

「茶畑山」の四辻を過ぎた後、字「植松」では大規模な掘鑿拡張工事が行われていた。ここは、工事のためバス停が見えなかったが、道なりに右へと大きく曲がりつつ進むのが正しいルートである。小さな峠を回り込みつつ越える要領で、字「岩垣」「白子田」と続く直線の下り坂を降りていくと、右手に消防団の建物が見える。その先、すぐが「板橋」のバス停のある広い交差点である。北東の角に清涼飲料水の自動販売機が据えられているのが目印になる。「猫稲荷」へは、ここも直進せねばならない。

この後も、小さな分岐路はない訳ではないが、とにかく道なりと直進を心がけて進むのが肝心である。「下永田」「下長田山」「桑ノ木畑」と続き、字「大木戸」に入った辺りで、道が緩やかな上りに差し掛かる。その上り坂が右へとやや曲がる鞍部の右の道端に、古タイヤなどの粗大ゴミが放置されている一角があり、その先、左から町道が突き当たってくる地点の手前、右手の道端の斜面に、真っ赤な「鳥居」が立っているのを発見することになるだろう。

通常の道路マップでは、たいてい「東福沢・合国場」と印刷された辺り、「中央公民館」で頂戴した住宅地図に従えば、字「大木戸」と「大木戸山」の境の地である。旧「飯野町」および旧「東和町」との町境に当たる「西福沢」の西の突端のような土地である。もちろん、この「鳥居」が目指す「猫稲荷神社」の参道入口である。



3. 「猫稲荷神社」探訪記

ようやく、「猫稲荷様」の門前に到着して、念願の出会いに喜びが沸き起こると共に、すぐに、ふと何かしらの違和感も筆者は感じた。それは、この鳥居が一見して、不思議な立ち方をしているからであった。

普通、「鳥居」と云うのは参道の入口などの要所にまたがるように立ちふさがっていて、その左右に種々の石造物などが立ち並び、見るものの視線を奥なる神域へと集中させるかのように誘なうのだが、この「鳥居」は道端の斜面にただ窮屈そうに立ち塞がるばかりで、これをくぐったところで、後ろの斜面にぶつかるばかりである。とにかく、灯籠も、狛犬も、標柱も、そして並木さえもなく、周囲にすら何もない、陽当たりの良い南向きの斜面に貼りつくように立ち竦んでいるのである。その、場違いで、不可思議な凡庸さは、一種の穏やかな愛嬌をさえ漂わせていた。

猫稲荷・鳥居03
「鳥居」に掲げられた「猫の像」

遠くからも見えてはいたが、いざ「鳥居」に近づくと、本来なら社号を記した額の掲げられる位置に、屋根付きの木造の「猫像」が打ちつけられているのに驚かされる。この屋根の傾斜角が左右でやや歪 いびつ なのは御愛嬌として、百聞は一見に如かず、とにかくこの「猫像」が凄い。「素朴な」などと云う平凡な言葉で表現していいはずもない、なかなかの逸物である。世の招き猫ファンや猫の造形物の好きな人々は、ここの「お猫さま」を拝してから、よろしく出直すべきである。いずれにせよ、「猫稲荷」などと云う並ではない神社であってみれば、何かしら変わったものであろうと予想はしていたものの、この木造の「猫」に迎えられて、筆者の拙い予想のなおいまだ遠く及ばざることを知った。一応、上に写真を掲げたが、この「猫像」の妙味は、やはり写真では伝わらない。

ちなみに、さきほど筆者は「参道入口」と記したが、そう云った意味では、この「鳥居」は飽くまでも象徴的な入口としか呼べ得ないものであった。何しろ、参道がどこから始まって、どこへと続くのかは、この「鳥居」はあまりヒントを提供していないからである (ただ、それでもこの「鳥居」が一番の手掛かりである...) 。

さて、「鳥居」が参道へと導いてくれない以上、ここから先は自分の足を使って探索するしかない。参道らしき狭い踏み跡は、「鳥居」の左手にあるにはあるのだが、それはすぐに後ろの樹木の茂った丘の雑草と倒木の中へと消えていくのである。これは明らかに参道ではなさそうである。あるいは、かつてはこの丘が桑山で、この小径は桑摘みのときに使う小径だったのかもしれないが、いまは樹々の間にも、桑の姿はあまり見られない。あと一月半も早ければ、桑の実が赤く、あるいは黒く実っていて、もっと発見しやすかったかもしれないが...。

この山に入って消えてしまう踏み跡より一段下がった左手には、桃の木が疎らに植えられた畑があり、その畑の傍らにわずかに延びる畦がある。もっとも、畦と云っても、草が生い茂り、所々で途切れていて、参道どころか、通路とさえ思えない雰囲気ではある。しかし、どう見渡しても、これを辿る他、奥へと進むことは出来そうにないのだから、少々の不安などものともせず、邁進するしかない。しかも、この時点では、「社殿」の影などつゆほども見当たらないのだから、何ほどの不安を抱えながらの前進であるかは分かって頂けるだろう。その上、この畦さえも、途中で何度も、草や薮に遮られるのである。結局、背の高い夏草をかき分けて、しばらく辺りを経巡った後に、ようやく、奥の高くなった台地の上に、「社殿」の屋根らしきものがのぞいているのに気づくことになったのである。

猫稲荷・社殿01
「社殿」の辺りは暗がりになっている上、頭上なので見えにくい。

次の問題は、茫々と生える草の斜面をどのように登って、上の台地に出るかである。結局、たいした策などあるはずがなく、下から見た感じで「社殿」の正面に当たる辺りから、強引に登ることにした。足に絡まる草や蔓を振り払いつつ、数歩を進むと、ふと足下に踏石大の石が多いことに気づく。この石、よくよく見ると、どうやら石段のようなのである。長い年月の風化のためにすっかり崩れ、その上、叢に完全に埋もれているために気づかなかったが、確かに参道石段をなしている。この石段を頼りに、斜面を登ると、まずは二基の石灯籠が現れる。灯籠は左右、共に年季が入っていたが、何故か形が右と左で違うのが気になった。そして、その先、ようやく土壁造りの質素な「社殿」が視界いっぱいに飛び込んでくるのである。待望の「猫稲荷神社」である。

猫稲荷・社殿03
この地方では、「土蔵造」のお社はさほど珍しくないと云う...

「土蔵造」の神社に関しては、見慣れていないと驚く訪問者が多いかもしれぬが、この地域では、実はさほど珍しいものではないらしい (川俣町役場・談) 。もちろん、そんなこと筆者も知らなかった。ただ、「土蔵造」と云っても、外壁は漆喰で塗り固められておらず、黄土色の練り土が露出しており、正確には「築地造」とでも云った方がよさそうである。しかし、近年は、この「築地」を造れる左官職も激減していると聞くから、今後はこう云う神社は姿を消していかざるを得なくなるのではないかと、ふと余計な心配が脳裏をよぎった。素朴だが、その分だけ、いい知れぬ風情が滲み出ているお社であった。

猫稲荷・社殿内02
「社殿」内の様子。左側の壁の落書きが微笑ましい。

この「社殿」の中には、「猫の鼠退治絵」が描かれた絵馬が数多く納められており、一説には五百枚はあると云う (川俣町役場・談) 。やはり、「猫の神社」は、表面的には「鼠除け」の効験を謳うものであるようだ。原初の信仰形態やその発祥について知りうることは皆無だったが、ある時期からは「信達地方」で盛んであった「養蚕」の神様として崇められていたようである。残された絵馬には、「明治・大正」の年号が多いと云う。古老たちに訪ねると、いまこそ参拝する人は、近所以外ではいなくなったが、昔は「信達」一円から、あるいはさらに遠くからも、「養蚕」の守護神として参拝に訪れる人がいたそうである。

この日の筆者は、ただ正面の格子戸から中を覗くだけだったが、絵馬はほぼすべて棚の右側に積んで置かれていた。既に紹介した「今井今朝春/編」の『願い・奉納物』 (pp. 174-175) では、お祭りに備えてなのか、取材に備えてなのかは分からないが、「社殿」の外、格子戸と壁一面に絵馬が掛けられている写真が掲載されている。集落の人も皆集まって、「社殿」の前で写真を撮っており、心に訴えられる二ページである。もちろん、このときは草も刈り込まれているようだった。

 猫稲荷・アマゾン_1
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以下は、「今井今朝春/編」の『願い・奉納物』の写真を参考に述べることとなる。ちなみに、平成二十二年 (2010) 八月十三日現在、「Amazon」のページで「なか見! 検索」すると、「猫稲荷」の写真二点は、見ることが出来るようである。御覧になりたい方は、上の写真の下のリンクから訪問出来るので、御覧になってみてはいかがだろう。

「猫稲荷神社」に納められている絵馬の図柄は、圧倒的に「斑 ぶち 猫」が多いのが目につく。これは、何か時代の流行か、あるいは地域の民俗等と関係しているのだろうけれど、これに関しては確たる推測を立てるには至っていない。ただし、赤色系・褐色系の顔料は、一般的に風化に弱く褪色しやすいこともあるので、「斑猫」に見えている絵馬も、実は元々は「三毛猫」だったなどと云うこともあるかもしれぬ。

「養蚕」の神様であるとすれば、その盛期は既に半世紀以上も前に過ぎてしまったことになるのだが、その分だけ、奉納されている絵馬も、古いものが多い。昔はこう云うものも規格化が進んでいなかったと云うことが一目で読み取れるほど、絵馬の形は、多様だ。現在、最も一般的となっている上辺が低いヤマ形になったものから、ヤマ形なのだが縦に長いもの、真四角のもの、長方形のもの、屋根廂のあるものなど様々である。全体としては、縦の幅が大きいものが多い印象を受けた。もちろん、こう云う小さな地域のお社は、統一的に絵馬を授けている社務所がある訳でもないので、いつの時代も、たいていの絵馬は手作りと云うことになるだろうし、それ故に形もまちまちになるのであろう。地域によっては、絵馬師のような手間仕事をする人がいたりしたと云うが、「川俣」地域に関しては確認出来なかった。

見る限り、絵柄も様々である。斑猫が多いと云うことは述べたが、白猫も、黒猫もおり、一匹のものが多いのは当然としても、複数匹の猫が描かれているものもあった。中でも、明治三十八年 (1905) 四月十日に納められた小さめの奉納額の猫絵は、素晴らしい出来映えであった。中には、とても猫には見えない絵柄もあったが、その謎の動物の長い鼻先に、猫髭がはっきりと描かれていることからのみ、猫かな、と推測出来るばかりである。

今回の訪問時には、閉ざされた格子戸の隙間から覗いただけなのだが、絵馬や額は、およそ五つほどしか掛けられていなかったように見えた。ただし、暗がりの中を格子を通して見ているだけなので、あるいは見落としはあるかもしれない。

猫稲荷・社殿内03
傷みはひどいが、右に「蚕棚」、中央に「蚕養」の筵、左に桑の葉の入った籠が見える。

その五つのうち、四つは何とか正体がつかめたが、一つだけどうしてもはっきりと見て取ることが出来なかった。白地に黒斑の猫の絵馬のように見えたが、確実には断定出来ない。他の四つのうち正面やや左に掛けられた一つは、かなり傷んでいるものの、和装の婦人二人が「蚕棚」の前で作業をする「養蚕図」の額絵であることは見て取れた。

猫稲荷・社殿内05
格子戸の間からの撮影のため、あまりよい写真が載せられないのが残念。

また、正面の壁の中央天井際に掲げられている絵馬は、前景に小振りの白菊 (野菊か? ) を配し、その後ろ側に、親子の猫を描いている構図のものだった。親猫は、画面の右に寄って香箱にうずくまる「三毛」あるいは「斑」の猫で、その左側に同じ柄の仔猫が、好奇心たっぷりの様子で地面に鼻を近づけている、そんな図である。

猫稲荷・白猫の絵馬
左側の絵は、かなり狐臭い...

他の二つは、左の壁に掛けられており、一つは明らかに一匹の白猫を描いた絵馬だが、もう一つは向かい合う二匹の猫を描いたものなのか、それとも白狐を描いたものなのか、撮影した写真だけからでは分からなかった。もっとも、この「猫稲荷」は名前からも分かるように、元々は「稲荷様」なのだから、眷属の白狐がいたからとて、不思議ではない。

地元の人に尋ねると、この「猫稲荷」は、かつては「養蚕」の神様だったと云うことなのだが、その創設の時期や詳しい由来などについて、知りうることはほとんどなかった。風俗としては、毎春、「養蚕」の開始と合わせて、この神社から「猫の絵馬」を借りて行き、「養蚕」の終わりと共に、新しい絵馬を添えて返したと云う。他地域に見られる「猫石」の習俗と非常によく似ていた信仰慣習である。これは完全に筆者の推測に過ぎないのだか、絵馬に複数匹の猫が描かれたものは、このお礼参りのときに、絵柄の猫まで二倍に増やして奉納したものなのかな、などと想像した。

「戦後」、我が国の基幹産業は「繊維工業」から「重化学工業」の各分野へと歴史的な転回を見せ、それに伴って各地での「養蚕」も前時代のものとして廃れていった。「福島県」の「信夫郡・伊達郡」で盛んだった「養蚕業」もその例外ではなく、「猫稲荷神社」はそのような社会の趨勢の中で衰運へと向かったのである。一時は「社殿」も「境内」も、荒廃を極めたと聞く。しかし、平成十六年度 (2004) に、地元の人々の長年の願いを実現する形で補修が行われ、今の姿に整えられたそうである。「鳥居」も、「猫」の彫像も、このときに造られたものだそうである。そう考えると、あのキッチュな「猫像」に対する感慨も、一入深いものになる。

*

しかし、である。筆者は以前から、各地の「猫」信仰は「養蚕」起源のものではないのではないかと考えてきたのだが、それは「猫稲荷」ほど、明確に「養蚕の神様」と銘打たれた、「養蚕の里」の神社にあってさえも感じたことである。もちろん、近年の「猫」信仰は、この「信達地方」や、隣接する「宮城県」の「丸森町」や「角田市」「白石市」等では、かなり自覚的に「養蚕の神様」として信仰されていたことは間違いない。しかし、「猫神」が「祟り神」として畏怖されていた形跡もまた、この地方には歴として残されており、その起源が単に「養蚕」のみに限られるとは、到底考えにくいのである。

筆者は、以前から述べているように、「猫神」の信仰は、大きくその起源を辿ると、それは「渦巻く風雨や水」に辿り着き、「山の神」や「雷神」などと起源的にはつながるものと考えてきた。しかし、「若尾五雄」のように、「猫」を「古代鉱業」と関連づけて考える論者もいて、筆者の調査も、しばしば「水」だけでなく、「鉄」や「金」などの「鉱業」を示唆する結果を伴うこともある。

このことは、ブログの前回の記事で紹介した「伊達市霊山町下小国」の「猫塚山 (八雲神社) 」の時にも、強く感じたことであったのだが、今回も「猫稲荷」を訪れて、この地域の「猫」がらみの神社にはもしかして、一定の共通点があるのではないかと感じたことがあった。

上の「親子の猫絵馬」の写真を見てほしい。筆者の腕が悪いことは置いておいて、この写真がいやに赤みかがって見えにくくなっていることに気づかれただろうか。これは、絵馬の位置が天井近くにあって、格子戸の隙間から撮影するには、カメラのレンズ先をかなり上向きに傾けないと撮影出来なかったため、フラッシュの光が格子戸の桟にこびりついた赤土を反射して映してしまった結果なのである。初めは、草が茂り過ぎていて気づかなかったが、「猫稲荷」の周囲は、明らかに濃い赤褐色を呈した土だったのである。

また、「社殿」内の写真に見える、棚の上の一見、アヒルに見えなくもないオブジェなのだが、拡大してみて見ると、どうやらアヒルの像ではなさそうなのである。見慣れた者なら、これは古代鉱業の跡地によく見られる「金滓 かなくそ 」だとすぐに思うことだろう。「猫塚山」にも、「金滓」が祀られていたことは、前回の記事で見た通りである。

猫稲荷・金滓

ちょっとアヒルっぽいが、「金滓」と思われる。

問題は、その横のオブジェである。これが判断に難しいのである。左のものが「金滓」ならば、こちらもそうでありそうなものを、にも関わらず、そうであるにはこちらの物体は、「金滓」の特徴である膨らんだ凸凹があまりに少ないのである。一見すると、後ろ向きに座った猫の彫像に見えるのだが、どちら (あるいは、どちらでもないかもしれないが...) なのだろうか。

猫稲荷・猫の土偶?
うーむ、猫にも見えるのだが...。

いずれにせよ、「猫稲荷神社」は、そのお社を奉斎する人々から「養蚕の神様」と云われているにも関わらず、「金滓」を祀り、明らかに鉄分を多く含んだ赤い土の上に鎮座していると云う点で、既に地元の人々の記憶からは消えてしまったより古い時代に、何かしら「金属」と関わりのある祭祀が行われていた可能性を留保する形で現存しているのである。



4. おわりに


最後に、個人的な後悔を書き記すこととしよう。

今年、『毎日新聞』平成二十二年 (2010) 四月十七日・福島版に、「猫は神さま:暮らしの中で/1 川俣・猫稲荷神社 ―福島 消えゆく信仰の跡 養蚕の加護、祈った社」と云う見出しの記事が掲載された。紹介文としては非常に優れた記事であったが、残念なことに、わずかでも掘り下げた内容はほとんど見られなかった。

まあ、これは記者の能力の限界とかではなく、単なる職業的な選択の問題で、そんなに民俗的な追求を深めた記事を、与えられた紙幅で書くのさえ至難の業なのに、そこまでして一般の購読者の興味関心から乖離してしまっては元も子もないからである。平たく云ってしまえば、そんな話、普通は誰も読みたがらないのだから、記者も書かない、と云うところなのだろう。

ただし、その記事中に一点だけ、強く筆者の興味を引いた箇所があった。「草に埋もれた近くの石碑には『猫』の文字......」と云う一文である。にも関わらず、筆者は今回の探訪で、ついうっかりこの「猫碑」を探索して、確認することを怠ってしまったのである。今回の訪問中、最大の失敗事である。本来だったなら、その写真を上の記事に掲載していたはずだったのに、である。

しかし、こんな失敗も、「猫稲荷様」が、お前はまた来い、と誘って下さっているものと考えると、ぐんと気が楽になる。「猫神」の探索は、一度きりのものではない。「猫稲荷神社」に対しては、帰宅したばかりの今、再訪を期する気持ちがいやましに高まるばかりである。


「猫稲荷神社」の地図は、こちら



参考文献
・大木卓 (1975) 『猫の民俗学』田畑書店
・川俣町史編纂委員会/編 (1982) 『川俣町史 1・通史編』川俣町
・今井今朝春/編 (2007) 『願い・奉納物』 ワールドフォトプレス
飯野町/編 (2007) 『飯野町史 3・各論編』自刊
・『毎日新聞』平成二十二年 (2010) 四月十七日・福島版



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