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福島県の猫神・薬師瑠璃光如来堂の猫像

.05 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
日面薬師堂
薬師瑠璃光如来堂

伊達市梁川町山舟生字鍛治屋場

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂12・本堂
「鍛冶屋場」の「薬師瑠璃光如来堂」

1. はじめに

この日の「山舟生の猫神探訪」の三番目に尋ねたのが、「鍛冶屋場の薬師瑠璃光如来堂」の「猫神」である。『梁川町史』では、「日面薬師堂」と呼んでいるのは、きっとこの「薬師堂」が、字「鍛冶屋場」と字「日面」の境に建っているからなのであろう。近くには、「日面集会所」などもあり、どうやら地区名としてはこの辺りを「日面」と総称しているらしくもあった (確証はない...) 。もしかしたら、そんな事情も働いているのかもしれない。もっとも、この感想に関しては、後にもう少し違った解釈をするようになるのだが、その件に関しては「4. おわりに」で触れることとする。

「小手内観音堂」の発見に少しばかり手間取ったこともあり、今度はずっと気を引き締めて「鍛冶屋場の薬師堂」を探す覚悟を決めていた。そもそも、こちらの「薬師堂」に関しては、役場で地図をもらい、細かい指示を受けた段階から、県道を離れて集落内の細かい道を行き来しなければ辿り着けそうにないことを承知していたので、朝から既に微塵も油断の気持ちは持っていなかったのである。

かくして、筆者は細心の注意を払って、次の目的地へと向かったのである。



2. 「薬師瑠璃光如来堂」へ

「小手内」から「鍛冶屋場の薬師瑠璃光如来堂」へと向かうには、まず宮城/福島県道101号・丸森梁川線に戻って、そのまま再び「丸森」方面へと車を走らせることなる。

例によってバスの停留所を確認しながらの探索行になるのだが、始めに「中の内」のバス停を過ぎ、途中、右に「新道ノ大橋」の辺りの左手にある「稲荷神社」の前を通過すると、次に現れる「山舟生」のバス停は、久しぶりの信号のわずか先にある。この辺りは、かつての「山舟生村」の中心街なので、集落もそれなりに発達し、目印になるものは、バス停以外にも多い。例えば、信号の左手には「山舟生小学校」があるし、同じく右手には「JA伊達みらい・山舟生支店」とそのガソリン・スタンドが立っている。そもそも、先ほど記した信号と云うのも、「小学校」の出入りのために設けたものなのである。

「山舟生」のバス停を過ぎると、集落の中心部へと斜めに入っていく道が左に現れるが、ここは直進して県道を維持する。ちなみに、ここの角には、消防団や公民館、それに資料館らしきものが見えるはずである。この分岐点は、既に「山舟生橋」の袂に当たるのだが、この橋を伝って「山舟生川」を渡り、右に「ゲートボール場」「山舟生郵便局」と過ぎると、県道はこの辺りでまた少しずつ上り坂になってゆく。左に川を渡る小さな橋の道が見え、さらに数百メートル進むと、小さな「蜂沢橋」で「蜂沢橋」を渡った直後に、「加老」のバス停のあるこれまた小さな四つ辻を過ぎることになる。左手の「加老橋」の向こう岸には「愛宕神社」の姿が見える。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂18・案内柱
「薬師瑠璃光如来」の立案内板

そのまま県道を上っていくと、やはり数百メートルほどで「日面」のバス停が現れるが、この少し先は、右手の切り立った斜面いっぱいが墓地となっているから、特にバス停を見つける必要はないだろう。この墓地のある斜面の下、県道の右脇には、「本尊 薬師瑠璃光如来」の矢印付き立案内板があるので、直ぐ後の左への進入路に入ればよい。

しかし、左へと入って川を渡ったら、悠長に構えていてはいけない。直後に現れる、最初の左への道を入らねばならないからである。一応は、四つ辻になっているが、不案内な土地でこう云う狭い道に入るのは応分の勇気がいる。とにかく最初の道を左である (川を渡ってすぐ!!) 。この辺りの道は、もうほとんどネットの地図サービスには載っていないと思うので要注意である。筆者夫婦の車は、カーナビを搭載していないので、いまどきの最新鋭のナビ・ソフトなら載っているかどうかは分からない。

ここで入った道は、すぐに右へと曲がりながらの上り坂になるが、途中、右側の路肩に少し広くなった駐車スペースのようなものがある。ここに車を駐車して、少し坂を上ると、右に進む土の道がある。ここを入るとすぐ、一本、坂向こうの字「日面」の道路が眼下に望めるのだが、右側を見ると、丘の上へと続く参道入口と石段が見える (と云うか、そこにある...) 。これが目指す「鍛冶屋場」の「薬師瑠璃光如来堂」だと思われた。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂17・石段2
こんな感じ...。



3. 「薬師瑠璃光如来堂」と「猫像」

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂16・石段
石段の彼方にお堂の屋根が...。

「薬師如来堂」への石段は、二段構えになっているが、半ばの腰部までは、円蓋状の丘は芝生かと見まがうほどに短い草が生えているだけで、視界を遮るものはない展望である。こう云ったことは、奥まった土地の祠堂などではかなり珍しい。ついでに記すなら、ここの石段は傾斜も緩く、手摺もきちんと設けられている上、全体の距離も長くはないので、登るのはさしてつらくはない。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂01・参道
石段の中腰の部分

中腰部辺りから、鎮守の杜らしく、木々が生い茂った景観に変わるが、密生していると云うほどではなく、全体として明るい雰囲気は壊されない。頂上に向けて、また植生が疎らになるから、光も風も程よく参道石段を駆け抜けるのである。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂02・記念碑
「創建参百参年」と云うから、平成八年の碑か。

左手には、「薬師堂 創建参百参年 改修記念」と大きく楷書で刻まれた記念碑が建っている。確か、このお堂の創建は「元禄六年 (1693) 」と伝えられていたと思うから、三百三年で、きっと平成八年 (1996) の建造なのだろうと思っていたら、碑面の左端には「平成七年四月七日 氏子一同 謹建之」とあったので、どうやらこう云うものは一年早めに仕上げるものらしいことなどを知った。それにしても、三百三年かあ...。「元禄」の頃、この辺りはどんな風景をしていたのだろうか、などと下らぬ感傷も湧いてこようものである。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂03・地蔵
「南無富多卦佐地蔵尊」平成九年 (1997)

記念碑より少し上に登った右手には、立派なお地蔵様が立っていた。「南無富多卦佐地蔵尊」と書かれた木札が建てられていたが、この神様の出現は筆者にとってあまりに予想外で、突然だったため、準備不足でどう云うお地蔵さんなのかは、解明出来なかった。新しいものではあったが、何となく気になるので、今後、再調査が必要となるだろう。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂10・稲荷祠
参道途中の「稲荷祠」

さらに数段登った先には、この部分だけ左右に杉の大木が数本生えている林となっているのだが、その左側の杉の奥には、稲荷祠が数個、顔を覗かせていた。石祠の一つは赤く塗られ、周囲には「お狐さま」の石像もいくつか置かれてあった。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂・鐘撞き堂
「鐘撞堂」

石段を上りきると、木々の晴れた広場に出ることになるが、一対の石灯籠の先、左手には木肌のまだ艶やかな鐘撞堂があった。このお堂の境内は、どうやら平成七年からの数年間に、多くのものを改修したようで、いまだ真新しさを失っていないものが多い。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂13・右石碑群
右・石碑群

頂上の境内地の左右には、大小の石碑が数多く並べられていた。右側の石碑群は、立派な「庚申碑」が三つに、「古峯神社」の石碑が一つ、一際大きく立っていた。左側にも、やはり立派な「庚申碑」が八つほど建てられていたが、その後ろには「蚕神」などの小さな石碑もいくつか見えたが、帳面にとったメモが
雨で滲んでしまい、他の石碑の名前は読み取れないまま失念してしまった。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂14・左石碑群
左石碑群

「幕田昌司」氏の報告「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」 (梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会、1979) に従えば、上記のものの他、小さな「庚申碑」があと五つと、「馬頭観音」「馬頭三夜神」「雷神」「湯殿山」「湯殿山大権現」「地蔵尊」「三日月」二基、 それに梵字だけの石碑が一つあったはずなのだが、何しろこの報告が書かれたのは昭和五十四年で、既に何度も言及したように、ここの境内は平成七年頃に大々的に改修しているようなので、石碑などの数や位置が、「幕田」氏の調査した時とどれほど変わらずにあるかは未知数である。ちなみに、同報告書によれば、 「薬師堂」境内の石碑のうち、最も古いものは、天明年間 (1781-1789) の「三日月」碑で、それに次ぐのが享和元年 (1801) の「湯殿山大権現」碑であり、最も新しいものは、昭和十七年 (1942) の「庚申碑」と云うことになる。

興味深かったのは、ここの境内にも、結局「庚申碑」は多くあったのだが、「舟生不動堂」や「小手内観音堂」などで多く見た一文字の「申碑」は、ちょっと見には見当たらなかったことである。比較的近い地域での、この分布の差は一体何を意味しているのか、それともただの偶然なのか、気になるところである。しかも、「申碑」だらけだった「舟生不動堂」と「申碑」が見当たらないここの「薬師如来堂」のちょうど中間点ほどの「小手内観音堂」が、半分ずつ「申碑」と 「庚申碑」に分かれていたのも、示唆的ではある。

この頂上部の平地は、よく見ると、斜面との縁の所々に、石垣の遺構のようなものが残存していた。昔は、もう少し規模の大きい建造物がこの地に建てられていたのだろうかと、ふと思わされた。


さて、石碑群を離れて、境内正面の「薬師如来堂」本体に目を移そう。このお堂は、屋根こそ新しいようであったが、さすがに外壁の木造部は年季が入っていた。ただし、堂内は、適宜改修の手を加えたようで、壁面や床に比べて、天井板の新しさは目を引いた。やはり、屋根を吹き替えたときに天井も張り替えたのだろう。

本堂内
「本堂」内

祭壇には、金地金刺繍の奥幕が掛かり、その外側からは黒地に金刺繍の上品な立幕が左右に下げられ、一番上には、紫の横幕が差し渡されていたが、これは中央で赤い紐に結ばれていた。祭壇前には、三段の棚が設けられた上に、灰色がかった薄い榛 はしばみ 色と亜麻色、それに銀鼠の混ざった錦繍が被せられ、その上に線香立てと鉦、木魚が据えられていた。

祭壇の左の壁には「薬師瑠璃光如来」と書かれた幟が下がり、祭壇の両脇、手前の天井からはやはり「薬師瑠璃光如来」と書かれた一対の奉納提灯が提げられていた。ごく普通の家庭用蛍光灯が備え付けられているのは、まあ、御愛嬌。

ここまで来れば、もはやみなさんお察しの通り、ここの「本尊」は、「薬師瑠璃光如来」様。敢えて、新情報を付け加えるならば、「如来様」の両脇侍である「日光菩薩」と「月光菩薩」も「本尊」に加えるそうである。

既に述べたことだが、このお堂の開創は元禄六年 (1693) と伝えられ、「灑水糎昌院 しゃすいりんしょういん 」と云う禅僧が、この地に建立したものだと云う。特に「耳の病」に御利益があると云われ、往時は多くの参拝者を集めたと云う。「境内も広く、袷盆踊りとして、しんがりの盆踊りで賑わった」と『梁川町史』第十巻にはあるが、筆者には何のことだか今ひとつ分からない。役場の教育委員会の人も、盆踊りで賑わったのだろう、と云う程度に認識しているようであった。



4. 「鍛治屋場・薬師瑠璃光如来堂」の猫像

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂06・猫神3
「猫像」
16×14×18 (cm)

そう、そして肝心の「猫像」である。

一番好きなものは最後に残すたちの筆者としては、この猫像に関して判明していることはほとんどないにも関わらず、最後に紹介するために、ここまで触れずに来たのである。だが、実はこの猫像、既に見た参道石段の半ばほどにあった「稲荷祠」よりも少し下の石段脇、大きな岩の上にちょこんと鎮座していたのである。この猫像は、草に埋もれることもなく、はっきりと見えるところで、静かに参拝客を迎えるように座していたのである。

だが、上の写真を御覧頂ければ分かる通り、筆者の写真の腕はすこぶる悪い、いや、そうじゃなくて、この猫像の彫りは大変浅く、造りも稚拙である。写真がピンボケしているから稚拙に見えるのではない、念のため。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂04・猫神1
別の角度から、其の一

平たく云ってしまえば、かなり下手くそな彫刻なのだが、この造りから判断すれば、およそ専業の石工が彫ったものとは思えず、おそらくは素人の手によって彫られたものと思われる。そして、変な話なのだが、そうであればこそ、この「猫像」は、この地域の他の猫像よりも、重大な意味を持ちうるものなのである。何故なら、「猫神」信仰の形態として、個々人がそれぞれみずから猫像を彫って奉納すると云うのは、かなり特異な習俗だと云えるからである。この点に関しては、もう少しだけ「4. おわりに」の項で述べることとする。

鍛冶屋場・薬師瑠璃光如来堂05・猫神2
別の角度から、其の二

上掲の「幕田昌司」氏の報告「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」の中では、「これは猫の姿をそのまま浮きぼりにしたもので裏の山林に埋まっていたものを八巻清一氏が発見して祀ったもの」と書かれている。「石黒伸一」氏の調査によれば、「安山岩質の玄武岩」に彫られているそうである (石黒、2009、p. 56) 。

内容が薄く恐縮だが、この猫像に関して筆者が分かっている具体的なことは、これだけである。取り敢えず、次回の調査時には、何としても「八巻清一」氏 (あるいは、その関係者に) と会って、「猫像」を発見した時期と、具体的な場所などを確認したいものだと、強く願っている。



4. おわりに

「鍛冶屋場」の「薬師瑠璃光如来堂」を訪ねて抱いた感想と云うのは、何よりも、よく整備されていた、清々しいお堂だと云うことだろうか。近々、お祭りがあったのか、手入れも行き届いていて、この夏場に茫々と草が生えていると云うことがなかったのは驚きである。

それに、記念碑に触れた箇所でも述べたが、平成七年前後に、大々的な改修事業を行なったせいか、境内全体がいまだ新鮮な雰囲気に包まれている。境内の丘は、どんな事情があったのか、石段半ばのわずかな杉林を除くと、古いお堂にも関わらず周囲に見るべき木が生えていないのも不思議であった。石垣のことを考えると、昔は何らかの見晴し台の役割を果たしていたのかな、などとも想像したが、「薬師瑠璃光如来」に陽の光が当たるのを朝夕、四方から拝するために、このようになっていたのかも知れないとも思った。もちろん、神社の周りの杉林などが集落の共有財産などと云うこともしばしばあるから、ある時期に伐採して売却しただけだったなどと云うこともありうる。もっとも、集落の共同財産としての杉山であったにしては、「薬師堂」の丘は規模が小さすぎる。その上、切株などの伐採跡もまったくなく、斜面は綺麗に整地されているのは、既に述べた通りである。筆者としては、どうしてもこの点が気になったため、しばし丘の上から下の景色を望みつつ、あれこれと考えてみることにした。

「山舟生」地区の鎮守様と云うのは、次回の探訪記事で紹介しようと考えている「羽山神社」なのだが、この神社を巡る信仰の特徴と云うのは、第一に、基層での「祖霊信仰」であり、第二には、それよりも後に加わったと考えられるが、祭祀面に強く現れた「農耕神」の信仰にある。基層の「祖霊信仰」と云うのは、先祖が死後「祖霊」となって、あの世とこの世の境界域をなす、里に近い小高い山の上から里に住む子孫たちが繁栄するように見守っていてくれる、と云う観念である。

「東北南部」では、このような里近い山を「ハヤマ」と称する地域が多く、その信仰は「ハヤマ信仰」と括られている。この「ハヤマ信仰」は、元々この地域に根差す原初的な「祖霊信仰」の上に、「羽黒派」の「葉山修験」が伝播・普及することによって、徐々に形成されたものと考えられている
(小野寺、pp. 231-233) 。そして、この修験道の影響が特に強かった地域では、「仏教」との習合が進み、「ハヤマの神」の「本地仏」は「薬師如来」であるとする考えも普及したと云う (上掲書、p. 227) 。実際、「ハヤマ信仰」と「薬師信仰」が習合した例は、枚挙にいとまがない。このように考えると、「鍛冶屋場」の「薬師如来堂」も、この地域の「ハヤマ信仰」を反映し、「ハヤマの神」が「垂迹」したお堂なのではないかと思えてくるのである。

ついでに云うならば、「ハヤマ信仰」と同様の考え方は、「山形・福島・宮城」だけでなく、より北の「岩手・青森 (山形北部・秋田なども) 」の諸地域にも広く見られるものである。ただ、「東北北部」では、里近い山を「モリノヤマ」あるいは「モヤヤマ」と呼びならわす地域が多いだけである。これに関しては、「北東北」の「祖霊信仰」が、「出羽」の「葉山修験」の影響下に発達しなかったと云う歴史的な要因を挙げうるのだが、それ故に、祭祀面でも「ハヤマ信仰」が「仏教・修験」色を強く残すのに対し、「モリノヤマ/モヤヤマ」信仰は、「神道」色を濃く示すのである。しかし、その基層の精神はほぼ共通していると云える。

「ハヤマ信仰」の研究に先鞭をつけた「岩崎敏夫」は、このことに関して「先祖様が山の上から里の子孫を見守ってくれるという観念は同じであり、もりの山の上の樹木は常に伐採して、何時でもご先祖様が麓を見渡せるようにしておかなければならないそうだ」と、その見聞を記している (岩崎、p. 130) 。そして、この記述を受けて云うならば、「鍛冶屋場」の「薬師堂」の立つ丘の上に木々が密生していないのも、もしかしたら、以上のような事情によると考えられないだろうか。

そして、もしもそうであるならば、「薬師堂」の丘から一望の下に見渡せる麓の地が、字「日面」の集落であると云う事実は、非常に重要な意味合いを持ってくるのである。

そもそも「日面」と云う地名は、東から指してきた太陽の光を正面から浴びて、谷全体が輝くように見えることから来たのではないかと想像されるが、その谷の家々から見たら、その暁の光に最初に照らされるのが、「薬師堂」の丘なのではあるまいか。「東方浄瑠璃世界」の教主である「薬師瑠璃光如来」であってみれば、このような配置にお堂が造られていたとしても不思議ではない。

このことに対して、「薬師堂」の立つ、字「鍛冶屋場」の地の大部分は、「薬師堂」と同程度か、それより高い地にある上、傾斜地の連なる土地柄、人々の住まいは折り重なる山の隈に見え隠れして、とても「薬師堂」から一望出来るものではなかった。したがって、現在の氏子組織がどうなっているかはさておき、かつてこの「薬師堂」は「日面」の人々によって、自分たちを見渡す「ハヤマの神」として奉祭された可能性が高くなるのである。ここに至って、筆者は、『梁川町史』が何故この「薬師堂」を「日面薬師堂」と記したのかを理解出来たような気がしたのである。

筆者の考えの当否はさておき、いずれにせよ、頂上台地の周囲には、きっと大改修のときに植樹したと思われる杉の若木が並んでいたから、数十年後にはもう少しだけ鬱蒼とした鎮守の杜、と云う空気が流れるようになるのかも知れない。そして、そうなった時も、お堂の頂からの眺望が、今と変わらず保たれているかは、筆者には分からない。保たれていれば、上記の仮説はある程度支持されることになるだろうし、そうでなければ、逆に、あまり信憑性を得ることは出来ないだろう。ただし、後者の場合にあってさえも、民俗的な記憶の衰退と忘却の波の中、かつての信仰がただ受け継がれなかっただけ、と云う可能性も残されるが...。

*

さて、今回は何かにつけて「猫」の話題は希薄になってしまった。しかし、「薬師堂」の「猫像」に関しては、やはりそれが素人の手彫りのように見えると云う点が、筆者の一番の関心事となった。

「江戸末期」、「修験者・修那羅大天武」の切り拓いた霊場である「信濃」の「修那羅峠* 」や、その弟子の「和田辰五郎」「北川原権兵衛」などが開いた「霊諍山* 」に見られる石仏の中には、信者が一つ一つ願いを込めて、みずから彫って納めたものも多いと云う。数は多くないが、「猫神」も何体かは存在する。「修那羅峠」の「安宮神社」で聞いた話では、不思議な観は否めないのだが、意外にも「東北」からの参拝客も多かったと云う。

* 修那羅峠---「信州上田」の西方、「長野県小県郡青木村」と「東筑摩郡坂井村」の境にある、標高九百四十メートルほどの峠。「幕末期」に「修那羅大天武」が開いた「安宮神社」がある。

* 霊諍山---「更埴市八幡」の「大雲寺」の裏山に当たる「修那羅信仰」の霊場。「霊諍山」とは、「修那羅大天武」の名号に基づく命名である。

残念ながら、「東北」のどこから参拝に来たのかは確認出来なかったのだが、同じ大養蚕地帯として、何か「信達地方」とつながりがあったならば、それはかなり画期的な発見である。もちろん、手彫りの「猫像」が一体見つかっただけの現在の段階では、こんなことはすべて筆者の希望的な推測 (夢想) に過ぎず、筆者とてこんな想像を真に受ける覚悟はいまだない。ただ、手彫りの石仏を納めると云う風習がこの地域にあったのかどうかと云う点については、「信濃」とのつながりなどとは関係なく、今後とも、調査してゆく価値が十分にありそうである。

* ちなみに、この稿における石碑の材質や計測値については、すべて「石黒伸一朗」氏の下記の論文に拠ったことをお断りすると共に、謝意を表したい。

「鍛冶屋場の薬師瑠璃光如来堂 (日面薬師堂) 」の地図は、この辺かな? 。



参考文献

a) 主要文献
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
    梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会

・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会
梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻・文化・旧町村沿革 各論篇、梁川町

b) 「ハヤマ信仰」関連
・小野寺正人 (1977) 「陸前の山岳信仰とはやま信仰」
 月光善弘/編 (1977) 『東北霊山と修験道』
山岳宗教史研究叢書 7、名著出版
・岩崎真幸 (1977) 「会津地方におけるハヤマ信仰」
 上掲書 (
月光、1977) 所収
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう


c) その他
・更埴市史編纂委員会/編 (1988) 『更埴市史』第二巻・近世編、更埴市
・青木村誌編纂委員会/編 (1994) 『青木村誌』民俗・文化財編、青木村誌刊行会





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