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福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.02 2010 未分類 comment(0) trackback(0)
「ハヤマ信仰」に関する一考察 5)

秋葉神社

伊達市山舟生字手水川


1. はじめに

前回の「山舟生・羽山神社」に関するシリーズ記事は、少々、調子に乗り過ぎて、冗長な長文となってしまったと反省している。したがって、今回は、その「羽山神社」に隣接する「秋葉神社」の紹介記事になるのだが、内容に関しては極力簡明に抑える努力をしたいと思っている。大体、「秋葉神社」は「羽山神社」と隣り合っていると云うこともあり、ここの神社に関することでも、「羽山神社」の記事で言い尽くしてしまった観もあり、実際に書くこととてさほどにないのもまた事実である。

ただし、今回の記事の第三節「
3. 『秋葉信仰』備考」では、本題の「山舟生・秋葉神社」とは離れて、「秋葉信仰」一般について、筆者の記憶を補うために、あれこれ考えていることをとりとめもなく書き記すことになるので、ここだけはまた長くなる。

「猫神」案内記としては、第三節抜きで完全に成立しているので、ここは必要とあらば綺麗に読み飛ばして頂いても、まったく影響はない。



2. 「秋葉神社」の「猫神」碑

「秋葉神社」への行き方は、「羽山神社」に関する第一回記事に、詳細は記してあるので、説明の必要はないだろう。場所は、「羽山神社」へと向かうさして長くない参道の途中、左手の崖の上である。下から見ると、崖面に石仏がいくつか張りついているだけに見えるが、実はその石仏たちは、小さいながらほぼ垂直な崖となっている土の壁に、わずかばかり削られた土の隘路沿いに立っているのである。柵も手摺もなく、下は剥き出しの赤土である。幅はようやく人一人が立っていられる程度で、うねりながらの最後の
急な登りは、かつてはあったかも知れぬ石の刻みも今やすっかり埋没してしまい、四つん這いになる他は、無事に辿る手立てとてなかった。

羽山の秋葉神社08・全景

左端の石碑が「猫神」碑
六つの石祠は「秋葉様」だと云う...

それにしても、「羽山神社・社務所」の裏山に「秋葉神社」が鎮座する、などと云うと何やら厳かな社を想像されるかも知れないが、それはまったくの勘違いである。木々に覆われた幽玄な雰囲気は、決して厳かでないとは云えないが、この神社にはいわゆる「木造・葺屋根」の「社殿」などは一切ないのである。しかも、狭い境内地は草蒸していて、手入れが行き届いているとは到底云えない。

羽山の秋葉神社02・社号標
崖に近い斜面に立つ「秋葉神社」の社号標。
この横を登っていくのである。

しかも、既に冒頭で述べたように、参道と呼べるような代物もまるでなく、「社務所」裏手、と云うか、「羽山神社」の参道右手の崖の側面を、露出した木の根などを頼りに、這いつくばるように辿ると、やがて草の密生した丘の上の狭い台地に出るだけだ、というのは冒頭で記した通りである。そんな苦労の末にようやく登り至るこの小さな広場が、目指す「秋葉神社」の社域なのである。鬱蒼と茂った昼なお暗き草地に、石造物が横一列に並んでいる、そんなお社である。

「幕田昌司」氏の報告「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」 (梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会、1979) では、十六個の石造物に関するデータが載せられている。それに対して、筆者が確認したのは、崖上の参道にある「庚申碑」が四基と、後は丘の頂部分に一列に並べられた九個の石造物だけである。参道の急斜面が崩れかかった辺りにもいくつか石碑があったようにも思うが、何しろ四つん這いで必死になっている最中だったもので、きちんと記録を取るのを怠ってしまった。おそらく、それらが「幕田」氏の記す「愛宕山」「地蔵尊」「金剛山」の石碑なのだろう。

丘の頂部分は平地になっており、その奧側に九つの石造物が一列に並んでいる。その内の七つは石祠なのだが、これらの正体は、丁寧に観察してもまったく分からないのだが、「この祠を部落の人々は秋葉様と呼んでいる。赤だき石で造られ、時代等は不明」 (上掲書、p. 57) と地元に住む「幕田」氏が注しているのだから、どうやらこれらの石造物こそが、この神社の御本体のようなのである。石祠群の右端には「妙見尊」があり、逆に、左側には「甲子」の石碑を挟んで、筆者の求めていた「猫神」碑がある。

それにしても、「幕田」氏の報告では、石祠は六つと云うことになっていたのだが、筆者が参拝した時は、確かに七基あったのだから、最後の一基は、どこかから移してきたのだろうか。

羽山の秋葉神社01・庚申塔
崖中の細道のような参道を下から撮影
四つの「庚申碑」が見える。

この社域の最古の石碑は、文化四年 (1807) 銘の「愛宕山」碑で、最新のものは、明治四十四年 (1911) の「猫神」碑と云うことになる。「猫神」が最も新しいと云うのも珍しくて面白いが、最新の石碑が明治四十四年のものと云うのも、ここの石造物の年代がそもそも古いと云うことの証となっている。文化四年の石碑を除くと、「安政二年」 (1855) の「庚申碑」が一基、「安政四年」 (1857) の「甲子」碑と「妙見尊」が二基ある。

羽山の秋葉神社07・猫神
見えにくいが、「猫神」と刻まれている...。
43×18×15 (cm)

「猫神」碑の材質は、筆者にもはっきりと分かる赤褐色の「凝灰岩」で、碑面は研磨加工された舟型光背の石碑であった。裏面と側面は粗く鑿で形を整えられているだけの素朴な碑である。高さは四十三センチ、幅十八センチ、厚さ十五センチ。碑面中央に「猫神」、両側面に「明治四拾四年」 (1911) 「三月八日」とある。台石は「安山岩」製のようであった。

*

「猫神」案内記としての内容は、ここで終りである。次の節は、「秋葉信仰」の基層について、予備的な議論を行うだけである。興味のない人は、「4. おわりに」まで飛ばして下さい。



3. 「秋葉信仰」備考


この節は、「秋葉信仰」に関して筆者があれこれと考えていることを忘れないための備考として記すこととになるので、内容は、ほとんど「山舟生・秋葉神社」のことではなく、数年前に筆者が「遠州 (静岡西部) 」の「秋葉山」周辺をうろついたときに見聞したことや、その他、折々に「秋葉信仰」について考えたことが中心となる。御興味のない方は、そのまま飛ばして、「4. おわりに」まで進んで下さい。

*

「山舟生・羽山神社」隣りの
「秋葉神社」に関しては、前回まで掲載した「羽山神社」のシリーズ記事の中で、「元和年間」 (1615-1624) に、「秋葉備前守」が「奧羽山」山頂に「奧の院」を建てた時に、同時に「里宮」に祭ったものではないかと云う推測を述べた。しかし、これは「遠州」出身の「秋葉」と云う有力者の名前に引かれて述べたことで、何ら根拠があるわけではない。逆に、年代こそ違うけれども、この「梁川」一帯は、一時、「上杉氏」の統治下に入れられたことがあったのだが、この「上杉氏」の故地と云うのが「秋葉信仰」の発祥地と目される地域* でもあることから、「上杉氏」つながりでこの地に「秋葉信仰」がもたらされたとも考えられなくはないのである。

* この地域は、現在の「長岡市栃尾」地域と云うことになる。「越後國古志郡楡原岩野」にあった「蔵王権現」は、「当山修験 (真言修験) 」の本源である「吉野山蔵王堂」を「越後」へ勧請したものと考えられ、「秋葉権現」と祀られる「三尺坊」がまだ「権現」と呼ばれる以前の修業時代を過ごした場所である。「三尺坊」と云う名も、この「蔵王堂」にあった十二坊のうち「三尺坊」の坊主をしていたことに由来するとされる。『栃尾市史』によれば、「昔、楡原の岩野というところに蔵王大権現がまつられていて、この地方の修験道の一大中心地であったという。この蔵王大権現は現在長岡市に移って金峰神社と称している」と云うことであるが、元の鎮座地には、現在、「蔵王堂」も、その別当寺の「安禅院」もなく、わずかに小堂を残すのみである。

代わって、この地方の「秋葉信仰」の中心を担っているのは、「上杉謙信」が創建した「常安寺」である。「謙信」は、この寺を創建するに当たって、奥の院として「秋葉神社」を建て、「秋葉三尺坊大権現」を勧請して祭祀している (
渡部正英、1998、p. 213) 。

ついでまでに付記すると、長岡市栃尾は、「猫又明神」として知られる「南部神社」などがあることで知られ、隣接地域には、「南魚沼市」の「毘沙門堂」の「猫面」と「裸押合大祭」、「八海山神社」の「猫札」、「蛇逃の滝」と「猫又明神」、「草源寺」や「安就寺」の「猫」の伝説など、「猫神」に関わる所伝の多い地域である。

ただ、逆に地元の人が何故にこれら六つあるいは七つの石祠を「秋葉様」と呼んでいるかが不明な段階では、これらの石祠が、「近世」以降、この地に土着した「秋葉」一党の祖先神として祀られたもので、必ずしも、「遠州」系の「秋葉神社」と関係があるとは云えない可能性も、わずかだが残されるのである。そもそも、「山舟生」地区は、「秋葉信仰」の強い土地柄でもないのに、ここだけ六つも七つも石祠があり、わざわざ「秋葉神社」と号していると云う事実も、上のような筆者の疑いを呼び起こす一因となっている。 今後は、この点について調査をより丁寧に進めなければならないだろう。

筆者の見て回った限り、そして「幕田」氏の報告を読む限り、「山舟生」地区には、「秋葉様」に限らず「火伏の流行神」が意外と少ない。「福島県」は、特に「会津地方」を中心に、隣接する「日光」から流入した「古峯」信仰が「火伏の神様」としては多いのだが、これもあまり見かけなかった。近年、「焼畑」との関係を強く示唆される「ハヤマ信仰」地域にあって、「火伏の神」が少ないと云うのも異なものであるから、あるいは、「ハヤマ信仰」や「葉山修験」が「火」を巡る祭儀を有するため、「火伏の神」の役割も引き受けていたのかも知れない。

「秋葉信仰」の成立に関わる歴史的な推移については、「羽山神社」のシリーズ記事の中で何箇所かに渡って記してきたのでここでは詳しく触れないが、「山舟生・羽山神社」の成立期には、「遠州地方」で「秋葉信仰」は既に成立はしていたので、この点に関しては心配はない。ただし、ここの「秋葉神社」には、隣接する「羽山神社」のような「水神」を匂わさせるような性格は見られなかった。


以上のことを承知の上で、以下、本家の「秋葉信仰」と「山舟生・秋葉神社」に何らかのつながりがないかを探るためにも、「秋葉信仰」について、簡単に見ていきたいと思っている。ただし、「秋葉山」周辺の「秋葉信仰」の「本家」としての寺社は、「江戸時代」以来の争いを「明治」に持ち越し、その後、ただでさえ「神仏分離令」によって「修験道」関係の寺社は大打撃を喰らう中で、「秋葉寺」「秋葉神社」「可睡斎」などの抗争が複雑怪奇を極めたので、筆者はこれらのことには深く立ち入らない。記すならば、この争いの歴史を書くだけで、かなり面白い読み物にはなるのだが、今回は「秋葉信仰」の「近世」的な展開よりも、それ以前の基層へと回帰することを目的としているので、敢えてこれら寺社の詳細に関するところには触れないでおくこととする。

この抗争自体に興味があると云う方は、導入としては、「学研」が出している『修験道の本』 (1993) を参照されるとよいかも知れない。より詳しくは、仏教史学会/編『仏教史学』第二編・第四号
(森江書店、1912) 所収の「明治維新神仏分離資料」のうち、「秋葉寺廃毀の顛末」と云う資料か、あるいは、『宗教研究』第八十巻・第四輯 (日本宗教学会、2007) 所収の「吉田俊英」氏による「秋葉寺の神仏分離について」が好資料になると思われる。


A. 「秋葉信仰」とは何か?  
―その基層にあるもの・尾根筋の道―

「赤石山脈」は、「日本アルプス」の南端に位置する山嶺のつらなりだが、そのさらに南端、「静岡県西部」は「周智郡春野町」と「磐田郡龍山村」の境に、標高八百六十六メートルばかりの「秋葉山」が聳えている。山頂からは「遠州」地方と遠く「遠州灘」をも一望に出来、かつては海をゆく舟人たちがその山容を遥けく望んでは潮路の頼りとしたと伝えられる、古くからの信仰の山である。

この山の中腹には、「祭神」を「火之迦具土神」とする「秋葉神社本宮」 (周智郡春野町・旧県社) があり、山頂には、以前は「秋葉大権現」と呼ばれた「奥宮 (上社) 」が鎮座する。この「奥宮」の南南東に下ること百メートル余の「杉平」の地には、「大登山秋葉寺」がある。「江戸時代」には、各地に熱狂的な信仰集団を有し、「火伏の神様」として、絶大な権威を誇っていた聖地だが、「明治」の「神仏分離」で事実上、寺と神社は解体されてしまい、近年、ようやくわずかばかりだが復興の兆しを見せている程度にとどまっている。「修験道」と関わりのあった寺社は、全国どこに行っても、概ね似たような状態にある。

ただ、「秋葉山」とその周辺は、我が国の多くの伝統的な「修験道」の土地と比べても、その「修験」に関わる歴史や伝統が過去の忘却の中へと埋没してしまった状態が深刻である気がしてならない。筆者は、「修験道」に関して知るところがほとんどないので、あまり断定的なことは本来避けねばならないのだろうけれど、控え目に云っても、上の発言は妥当なものだと考えている *。

* 「秋葉山」の「三尺坊」以前の姿に関してほとんど何も記録が残っていないのは、「戦国期」に多くの軍僧・政治僧を輩出した寺院を「幕府」が弾圧して、新しい寺院制度の確立に力を入れたこととも無関係ではないと思われる。

このことの遠因の一つとして、「秋葉山」の秘儀が、「稲作」の農耕儀礼を中心に構成される度合いが低かったのではないかと推測している。どの「修験」の一派も、「火」を扱うことは異論がないと思われるが、特に「火伏の神」とされる信仰の系統には、「秋葉信仰」に限らず、上のような伝統の喪失が見られる。「修験道」がそもそも秘儀に基礎を置く信仰形態であることを考えれば、それが記録媒体を極端に欠くために、「近代」以降、政府によってその活動が事実上禁止されるや、急速にその伝統的な知の体系を失っていったことは首肯出来る。「近畿」圏にあった「修験」の聖地は、それでも永年の王都に近かったために、いくらか記録も残し得たが、地方に散らばった「修験場」の多くは、それほど幸運ではなかったと云える。さらに云うならば、平地の水田耕作の祭儀をその体系に強く取り込むことに成功した「修験」は、「近代」以降も、と云うか「近代」以降さらに隆盛した我が国の「稲作」と深い関わりを有していたことが幸いして、「戦後」まで各地の農耕地帯の祭儀に、その信仰の残滓を残すこととなった。そのため、我が国の「民俗学」が勃興する時期にぎりぎり間に合うと云う幸運に恵まれ、結果として、二次的に多くの記録を残すこととなったのである。

このことは、しかし、派生的に二つの不幸を呼び起こすこととなった。それは、第一に、我が国の「民俗」が一義的に「水田稲作」中心のものだと云う観念を多くの人々の意識に植え付けてしまったことと、第二に、その反対事象として、「水田稲作」と関係の浅い領域の「民俗」的な「知」が永年等閑視されてしまう結果を招いたと云うことであろう。このことは、単に「民俗学」の影響に限ったことではなく、我々の日常生活のほとんどすべての分野で進められた「近代化」が影響し、その意欲のある「民俗学者」すらもとうてい近寄せないほどの忘却を加速させていったとも云えるのである。

したがって、まったくの門外漢である筆者がその系統についてあれこれ云える力量があるはずもないのだが、それでも各地を巡って、その地について見聞したり、調べたりしていると、消去法の理屈で、現在主流とされている我が国の「民俗」的な潮流からはみ出ているのではないかと思われる事象に多々出くわすことがある。筆者にとって、そのことを初めて強く体験したのは、各地の「茶」の小産地を巡る旅を繰り返す中でのことであり、近年では「猫神」の調査に関わっている過程でのことであった。

今回は、その「茶」と「猫神」と云う二つの異質の調査の過程で、不思議にも交錯した「焼畑」「山の神」「水神」「火の神」などを軸に、「秋葉信仰」が浮上してきたことに注意を傾けてみることにしたのである。

「火伏の神」とされる信仰の体系が、特に筆者の興味を引く部分は、それが概念的に、直接「水田耕作」とつながらないと云うことである。おそらく「秋葉」にしても、「愛宕」や「三峰」にしても、そのかつての祭儀の体系の中には、社会的に優勢する「水田農耕」に絡むものが多く含まれていただろうことは疑い得ない (さもなければ、農村社会で長生き出来なかったろう...) 。しかし、一方で、「火伏の神」が、圧倒的な勢いで我が国の信仰史の表舞台に駆け上がってくるのが、ほとんど「近世」以降であることも、別の意味で示唆に富んでいると云えよう。筆者はそこに「都市」の成立と云う要素を強く意識せずにはいられないのである。おそらくは、太古から存在した「火の神」が、かつてはそれと深く関わる生業の人々に奉ぜられ、その生活領域を接する地域の人々の祭儀と習合しつつ一定の信仰体系を形成していったものと考えられるが、それがその本来の守備範囲を大きく超えて信仰されるに至ったのは、「火伏」が時代的に全く新たな意味を付与されて、それまで社会的祭儀の中心的な地位にあった各地の農耕民に変わって、新たな祭儀の担い手たちに伝わったからではないかと推測しているのである。そして、その新しい担い手たちと云うのは、単純明快に云ってしまえば、「都市民」だと考えている。

「都市民」は、過密化した空間での生活を余儀なくされたことと、「農耕」と完全に切り離された生活形態を編み出したこととによって、災いと云う観念に対して、まず第一に意識するようになったのは「火事」だったのではないかと思う。全国土の七十五パーセントが十五度以上の傾斜地だと云う「日本国」にあって、主に河川の河口部に集住することを選んだ「都市民」は、当然の如く、毎年のように洪水の脅威にさらされることとなったはずである。しかし、「水」が両義的な意味を強く持っていた「農耕民」に対して、「都市民」は、生活用水さえ手に入れれば、「水」に対する関心は、いかにして水害を防ぐかと云うことに集中させればよかったのである。しかも、それは、祭祀などと云う抽象的かつ精神的な施策で対処出来るようなものではなく、具体的かつ物理的な対策を要求する事項でもあった。治水は、農耕民の持つぎりぎりの両義性を離れたとき、「都市民」にとってそれは、偶発性に任せることなく、具体的な解決法を模索する事項に転じたのである。

その甲斐あってか、「江戸期」における「江戸」の記録だけに絞って見た場合、記録された大災害は圧倒的に「火災」だったと云えるのである。この火災は、しかも偶発性にこそその特徴を有しているので、「都市民」たちにとっては、具体的に対処する術もなく、まさしく縁起かつぎ密接に関わる形で、「古代」以来存在し続けていた「火」の神格に対して、また新たな意味を創出しつつ、受容された可能性は大きい。

したがって、筆者は、「火伏」の信仰と云うのは、「近世」以降に勃興した都市生活者たちによって受容され、成長したものと考えるに至ったのである。これは「秋葉信仰」などが、「近世期」に突如、流行したことと対応する。不運だったのは、「近世」に、それまでの農耕的な伝統から急速に乖離して自らの生活様式を築き上げていった「都市民」が、「近代」以降にあっても、同様あるいはそれ以上の速さで、「近世」的な生活様式を、「欧米」に由来する「近代」的なものとすり替えていったと云うことである。このことは、「明治政府」の「神仏分離令」から始まる「修験道」弾圧の政策と相まって、農耕祭儀と深く関わらない「修験道」の系統を、事実上根絶やしにしてゆく効果があったのである。「火伏」は、その中でもかなり特徴的に「都市」偏重だったことが災いした典型例だと思われる。

筆者は、「秋葉山」周辺の信仰と云うものが、上のような諸特徴を有した典型例の一つではないかと考えている。そして、このような典型例を観察することの面白さは、一方で「近世」の都市的な影響をも受けているとは云え、それが「近世」前後の強い志向性を維持したまま忘れ去られた形で残存していることなのである。

ここで、覚えておかねばならないことは、「都市化」と云うのが、単に「都市」と云う地理的なくくりのうちに進行するものではなく、それが農村や山間地を含めた、社会全体の現象として展開されるものだと云うことである。ただ、以前から存在した社会的分業 (社会的な分断線と関わる) と、それに根差しつつ、都市の「消費文化」などが生み出した新たな社会的分業の双方の影響の下、「都市化」の受容の様態や、そもそもその質自体が、その分業の線に大まかに沿って、相対的に自律して重層的に組み合わされていくのである。

このことを理解して、「火伏」などの特殊例を見ていくことは、取りも直さず、「近世」的な農耕の圏外に位置した精神風土の発掘にも益することを意味し、かつまた地方部における「地域文化」と「都市文化」のせめぎ合いと、それ以外の、例えば「水田農耕社会の都市化」と「非水田農耕社会の都市化」の分断線上のせめぎ合いなどにも、我らの目を向ける効果があると云える。筆者の見解では、「猫神」などは、この後者の分断線上に現れる特殊な事象の一つであると云うことになるのである。すなわち、「非水田農耕/非都市」的な位置と云う、極めて周縁的かつ例外的なところに、「猫神」の中心的な観念があるのではないかと疑っているのである。

ただし、このような大それた企図を実現に向けていくには、いかんせん筆者の力量は乏しすぎる。そこで、とりあえず上のような問題意識の下で、「秋葉山」周辺の地域の信仰に関して、まずは資料を集める作業から開始することとした。とは云っても、さほど大袈裟なことではなく、旅をしながらあれこれ気づいたことを中心に、後日、調べたことなどを交えて列挙すると云う散漫な形で述べていくだけのことである。その中で、意外にも「秋葉信仰」の古層とでも云うべき諸特徴が、周辺の山々の信仰から浮かび上がってくる気がしたのは、予想しない収穫であった。「秋葉信仰」と関連する事象として浮上したものを具体的に挙げるとすると、それは「焼畑」「狩猟」を中心に、「海上航行」「塩の道」などとの関わり、と云うことになる。

以下、これらの点から、「秋葉山」周辺の信仰的な土壌について概観してみたい。


1) 尾根筋のつながりと「海」

既に記したように、「秋葉山」には、かつて「遠州灘」を航行する人々から目印として親しまれたと云う伝承があるが、確かに「遠江」の海岸線からは、「赤石山脈」の南端に位置する山々がよく見える。しかし、それは一つ「秋葉山」に限らず、むしろ「遠州」を代表する信仰の山々が、横一線に並ぶと云う壮観である。「遠江国一之宮・小国神社」の「奥宮」が建つ「本宮山 511m」を始めに、「秋葉山 866m」「竜頭山 1352m」 「井戸口山 1335m」「常光寺山 1439m」「門桁山 1375m」「麻布山 1685m」などの山並みである。ここでは便宜上、南から北へと並べたが、海から見た時は西から東へと、「秋葉–竜頭–井戸口–本宮–常光寺–門桁–麻布」の順番になるはずである。

この中の「竜頭山」は、「秋葉山」の北方わずかに十キロにある同一の尾根の上の山で、「竜」が首をもたげたような姿をしていることから、名前が付けられたと聞いたことがある。しかし、この件に関して「野本寛一」氏は、全国の「竜燈」伝承地は、遍路修行者が聖なる火を焚いて「竜神」に捧げた地だとする「五来重」の所説 (五来、1980) * を援用して、「遠州」の「竜頭山は本来、『竜燈山』であったことが明らかになる。秋葉山の火が遠州灘を航行する舟人から親しまれたという伝承も、竜燈伝承と脈絡を持つ」と述べている (野本、1998、p. 19) 。

* 「五来重」は、「柳田國男」の系譜では唯一「仏教」分野に通じた研究者として確固たる地位を築いた宗教民俗学者である。しかし、後に「梅原猛」氏が指摘しているように、「円空」研究においては、中央学界の重鎮という権威を利用して、かなり杜撰な独善的推論を盾に取って、地道な研究を重ねてきた地方の郷土史家たちの論考を頭から否定し、多大な痛みを良心的な地域研究者たちに与えた人物でもある (梅原、2006) 。したがって、筆者は「五来」の論考を参考にする時は、慎重にその調査や手法を吟味して、無理のないもののみ利用することにしている。上記の所説に関しては、「五来」が行なった「竜燈杉」に関する全国規模の調査に基づいた確たる論考と判断した。

実際、筆者は、数年前、「天竜川」に沿った茶産地の調査のために、「遠州地方」を訪問したのだが、「浜松市」から眺めて最も威容の際立つ山こそが「竜頭山」だと教えられたのを思い出す。その美しい姿に親しみを込め、「遠州富士」とも呼ばれ、かつては、「遠州灘」を航海する人々は、この山を目印にしたと云う話も実地に聞いたものである。同時に、この「竜頭山」には、かつて「秋葉三尺坊大権現」の「奥の院」があったとも云うのだから、両者の間に密接なつながりがあると見る「野本」氏の考えには、十分以上に根拠があると云えるのである。

ことのついでに付言するならば、「秋葉山」の尾根筋の山で、「舟人」たちから「山当ての山」として崇敬されたのは、「秋葉山」と「竜頭山」だけではない。
筆者の知る限り、「秋葉山」の南にある「本宮山」や (同じ尾根筋ではないが関係する山である) 「春埜山」もまた、海からの目印の山として、地元漁師たちの信仰が篤いと聞いている。

*

ここで興味深いのは、先ほど挙げた、「遠州灘」から一望出来る横に並ぶ山嶺の山々と云うのは、実はみな南北に走る同一の稜線の上に突き出した嶺だと云うことである。そのうち、南端の「本宮山」と「秋葉山」との間には、「野本」氏がまた別の箇所で指摘しているように、「『掛川志稿』には、「本宮越」として、この本宮山と秋葉山を結ぶ道が示されている」のである。

そして、これは決してこの二つの山に限られた話ではなく、同じ尾根筋にあると云う地理的な条件のため、その尾根筋のすべての山に云えることで、これらの嶺を結ぶルートは古くから山人たちや修験者たちの辿る交通路ともなっていたのである。このことは、「天竜川」東岸が深い渓谷地帯となっているため、緩やかな田切地形となっている西岸部に陸上輸送路が発達したのとは打って変わって、陸路で南北を縦断するには険しすぎたと云う事情と対応して、特殊な山の道が発達したのだと考えられ、そのことは、この地域の非常に重要な交通史上の事実として浮上してくるのである。


2) 「獣」と「塩」の道

この交通路は、後世、「修験者」たちが山上の聖地を踏破するのに往来したのは固より、さらに云うならば、「本宮山」の南麓から、「秋葉山」「竜頭山」「井戸口山」「門桁山 (山住山) 」と続く道は、「遠州」と「信州」を結ぶ「塩の道」でもあったのである。

もちろん、「信濃」方面への「塩の道」と云えば、有名なのは、概ね現在の「名古屋市」と「飯田市」を結んだ「中馬街道」や、「足助」を経由する「足助街道」である。あるいは、「富士川」方面からは「鰍沢」経由で「諏訪」へと運ぶルートもよく知られている。しかし、「近世」に入ってからは「秋葉街道」として名を上げることになる「天竜川」東岸の道筋も、「秋葉信仰」の流行の遥か前から、「塩」を運ぶ道として重視されていたと云う。

この旧「秋葉街道」に関連して、余談を許してもらうならば、筆者は以前、次のような文章を読んだことがある。もちろん、読めば分かる通り、「秋葉街道」そのものについての話ではないのだが、筆者の想像力を引きつける内容なのである。

けものはふつう周期的に同一場所を円を描いて廻っている。犬に見つけられた場所へ、野兎なら一時間でもどってくる。鹿は二日、猪はだいたい二週間だという。 (中略)

天竜川を渡河するけものはいない。東岸のけものみちと、西岸のけものみちは、天竜川が渇水して河底がみえても交わることがない。猪は秋葉あたりから、青崩峠を越え、遠山に入り、大河原を抜け、高遠より諏訪湖を眺望する位置まで、大きな円を描いて走りつづける。

武田太郎 (1978) 『谷の思想』角川書店

筆者は、これと似たような話を、たまたま滞在していた「遠山」で、地元の狩人の人に教わったこともあるから、おそらく本当のことなのだろう。そして、この話を聞いたとき連想したのが、「遠山谷」から「地蔵峠」を越え、「大河原」を過ぎたさらにその先、「鹿塩」の地に湧く「山塩」のことであった。

この「鹿塩」と云う地名に関しては、大昔、古代「諏訪族」の人々がその居住区域を広めて「諏訪湖」方面から南下して「伊那地方」にやって来た時、この地にに「塩泉」を発見したことに由来すると云う地名語源伝説がある。より具体的には、入植した人々は、「鹿」などの動物が集まる水場があり、それが「塩泉」であることを発見したことから、以来、「鹿のいる里」「塩の湧く里」として「鹿塩」の地名が誕生した、と伝えられていると云う。言い伝えの中には伝説の主人公を広く「諏訪族」としてではなく、「諏訪族」の始祖で、「天孫降臨」後の「国譲り」に反対して「諏訪地方」に追放された「建御名方命 たけみなかたのみこと 」 (諏訪大社御祭神) その人だと断定しているものさえある。

「松山義雄」は、この「建御名方命」伝説に関して、次のような話を採録している。「国譲り」に反対して「出雲」を逃れた「命」が、「下伊那郡豊丘村佐原」まで逃げてきたところで「建御雷命」に追いつかれ、屈服した。そして、「諏訪」から外には出ないと約束した「命」は、「佐原」から「諏訪」に戻る途中* の「大鹿村鹿塩芦原」(現在の梨原) の「大鹿窪」で鹿を得たが、「塩」を持っていなかったため調理に困っていると、近くに白く湧いている塩泉を見つけ、無事に「鹿」を調理することが出来た、と云う話である (松山、1961、pp. 121-122) **。

* 地元の伝承では、当時の「諏訪湖」は現在の数倍も大きく、その南端が今の「鹿塩・梨原」の辺りまで来ていたと云う。地元「大鹿村」の人々は、「建御名方命」はこの地にしばらく仮宮を置いていたのだが、「諏訪湖」の水が引けて「鹿塩」が現在のような峡谷になったため、本拠地を湖水の残った「諏訪」に移したと云うのである。これは筆者の無責任な憶測に過ぎないが、この「建御名方命」の仮宮の伝承は、かつてこの地に南朝の「宗良親王」が宮を構えた史実に影響されている可能性もあるのではないかとも考えているが、もちろん、此処での議論とは関係はない。

** 「村沢武夫」は、「鹿塩」の地名に関して、上記のものとは全く異なる、次のような由来譚を紹介している。昔、「弘法大師」が「大鹿村」の山奥までやってきたとき、村人の生活が貧しいのを憐れみ、銀杏の木の杖で岩の根元を突くと、塩水が滾々と湧き出したのだが、「鹿塩」の「入沢井」の「観音堂」近くの「銀杏」の樹は、この時の杖が根付いたものだと云う (村沢、1941) 。

筆者は前回の「羽山神社」の記事でも少しく触れたが、原初的には「ケガレ」の発生と云うのは、正しく「変成」が処理されなかったときに発生するものと考えている。調理が、古来、多くの神事に組み込まれているのは、「マツリ」と云うものが本来、神々に贄を差し上げることに由来するからと云うこともは間違いなかろう。しかし、その他にも、動物を殺して「死穢」を発生させないためには、「動物」を「食べ物」へと正しく「変成」する手続きとして、調理は考えられていたからだとも云えるのである。「建御名方命」が、「鹿」を仕留めた後に、「塩」がなくて難渋するのは、単に味付けの問題ではなく、「死」を正しく「あの世」へと送る方法としての調理に「塩」が不可欠と考えられていたからだと思われる。「塩」を浄めに使うのも、本来は神饌を差し上げるときに、ともに差し上げるところから来ているのではないかとさえ、筆者は考えている。

動物が生態的に「塩」を好むことはよく知られている。そのため、世界各地に、動物による塩泉や岩塩の発見譚が見られると云う *。「鹿塩」もそのような土地の一つだったのだろう。そして、筆者にとって「武田太郎」氏の文が長く印象に残ったのは、動物たちの定期移動が想像を絶して遠大であると云うことが第一なのだが、第二の点としては、
それが「鹿塩」の話と交錯したからであり、また、その文章の中で描かれる「猪」の移動ルートと云うのが、不思議と他の「山塩」の産地とも一致するからことだったのである。

* 「北アメリカ」の「トランス・アパラチアン道」の大部分は、「バッファロー」が塩の泉 (または岩塩が露出した場所) へ頻繁に通う間に踏みならした獣道が事実上の道路となったものだと云う (マルソーフ、1989、p. 19) 。 「アメリカ中西部」の開拓に必須の役割を演じた「カナワ川」北岸の塩沢は、「バッファロー」と「鹿」たちによって発見された (Kurlansky, 2002, p. 249) 。

もちろん、「武田太郎」氏は「猪」の話をしているのであって、「鹿塩」の伝説は「鹿」のものなのだが、それにしても動物が「塩」を舐めにくると云う連想で、両者は結びつくのである。我が国は、火山国であるから、温泉の数も多く、分母が多ければ必然的に「塩化物含有温泉 (あるいは鉱泉) 」の数も決して少なくない。しかし、高濃度の「食塩泉」が湧く土地となると必ずしも多くはなく、筆者が以前「山塩」の調査を行なった際、内陸部では、全国で五十箇所くらいしか見つけることは出来なかった。そのうち、「天竜川」近くの「中央構造線」沿いに約十箇所の「塩泉」を見つけたものである。偶然かも知れないが、旧「秋葉街道」は、獣たちの道でもあるだけでなく、実際に「塩」の運ばれた道でもあり、かつ「塩水」の湧く地点を結んだ道でもあったのである。

上にも記したが、旧「秋葉街道」に沿った「塩」の運搬路は、「塩の道」としては副次的なものであった。しかし「武田太郎」氏が動物について述べていることで、人間にも当てはまるものの一つに、昔は、「天竜川」沿岸に住む人々でさえも、川を渡ると云うことはほとんどなく暮らしていたと云うことがある。「飯田街道」「中馬街道」を経由して運ばれる「三州塩」「瀬戸内塩」は、「下伊那郡」の需要を満たすと同時に、より北の「諏訪・安曇野」地方に輸送するのを目的としていた。それらの「塩」は、現在の「伊那市」まで運ばれると、ようやく対岸の「高遠」に移され、そこから北上して「諏訪」へと向かったのである。したがって、「遠州東部」から「伊那東部」にかけての人々の「塩」の需要に応えるためには、どうしても「天竜川」東岸のルートが必要だったのである。

それにも関わらず、「諏訪盆地」へと「塩」が運ばれるルートは、「遠州」を避けるかのように東西に分立して成立したのである。「天竜川」は、「角倉了以」による川運の開拓以来、この地域の輸送の柱となったにも関わらず、それは実は、「幕府」の材木政策のための運用を主目的としたせいか、不思議なほど「塩」の運搬には使用されなかったのである。

しかも、「寛文年間」に、「河村瑞軒」が東回り・西回りの両航路を整備するに至って、我が国の「中央山岳地」への「塩」の輸送は、さらに大きくその様相を変えることとなったのである。細かく見ていくことは出来ないが、従来は、「能登塩」が、「北陸」から「飛騨」「木曾」及び「諏訪」方面にかけて移入されたのである。また、「三州塩」として知られていた「三河」沿岸部の「塩」は、元から「足助」を経由して、「天竜西岸」を北上して運ばれたのは既に見た通りである。そこへ「瀬戸内地方」の製塩規模の拡大を受けて、北からは「能登塩」だけでなく、「西回り」の「北前船」は回米の帰路に大量の「瀬戸内塩」をもたらし、「足助」経由の南ルートにも、「富士川」経由のルートにも、「瀬戸内塩」の波が押し寄せたのである。他方、「幕府」の奨励保護策が稔り、一大塩産地に成長した「行徳」の「塩」は、「利根川」を遡上して、「倉賀野」で積みなおされ、陸路「碓氷」を越えて「信州」入りするようになったのである。

だが、これらの「塩の道」の発達を見て気づくことは、「天竜東岸」のルートが未発達のままだったと云うことである。この一因となったのが、「天竜」の流れそのものであることも間違いないが、実は地元「遠州」の「塩」の存在もあった。「遠州灘」を望む「相良」とその近辺の海浜では当時、地の「塩」が焼かれていたのである。この「塩」は、隣接する「掛川」で積みなおされ、「遠信」国境の町「水窪」まで運ばれたのである。この「相良―掛川
水窪」を経由する輸送路は「信州街道」と呼ばれるようになったが、後にたまたま「秋葉山」への出発地ともなったため、一般にこの街道のうち、「秋葉山」へと続くものを特に「秋葉街道」と云うのである。


c) 「北遠地方」とお茶 
―「焼畑」との関係・1

筆者は、「猫神」を求めて各地を巡る以前は、我が国のお茶の小産地を経巡っていた (今でも続いている) 。その中で、数年前、「奥三河」から「北遠地方」にかけて、地茶を探して、「秋葉山」周辺を行脚したことがあった。

意外に思われるかも知れないが、「天竜川」の「静岡・愛知・長野」県境や「北遠地方」でつくられるお茶は、知名度こそ低いが、実力のあるお茶である。いまどきの都市部で売られている腰の弱い深蒸し茶などとは根底から違う、素朴だが深みと滋味が際立つのである。その上、この地方独特の強い火入れが、えも云われぬ香と力をお茶に加えている。この火香も、「東京」のデパートなどに店舗を入れている某有名茶舗のただ火入れが強いと云うだけのお茶とは違い、香ばしさと甘みを増すほどの強さで、元々、力強い茶葉を使っているからこそ、あのような火入れに耐えられるのだと云う、山間の地形と気候、それに人々の受け継いできた伝統と近代化のすべてが、バランスよく組み合わさったことで生み出されたお茶だと云える。

筆者が「秋葉山」の麓を行ったり来たりしたのは、「熊切」地区や「海久保」地区のお茶を探して「北遠」地域を経巡った旅のときである。「浜松」を出発するや、国道152号をひたすら北上して当時の「佐久間町」に出た。「秋葉山」から「竜頭山」への山並みを対岸遠くに望みながらの旅であった。そこからは「佐久間」駅の北側から県道290号・水窪羽ケ庄佐久間線を辿って「水窪」を目指すこととなった。「水窪」に行くだけだったならば、素直に国道152号を直進すればよかったのだが、このときは「奧佐久間」の地茶を求めて、曲がりくねる細い山道へと入ったのである。この「奧佐久間」行きでは、「佐久間民俗文化伝承館」の方々の一方ならぬ御好意により、近代製茶の手垢がほとんどついていない、荒々しくも優しい地茶を手に入れることが出来たのは、一生の想い出の一つとなっている。

皮肉と云うか、とにかく興味深いのは、製茶業の近代化以降、全国の茶産地のほとんどが、国の勧業政策と相まって、いわゆる「静岡」系のお茶をつくるようになった中で、「静岡」県内の「北遠地方」が、それとは違う昔ながらのお茶を維持していることである。これは、この地域の、平野の文化に対する相対的な独立性を物語る事象の一つなのであろう。

それにしても、「茶 *」とは不思議な作物である。お茶は、稲作を中心とした平地の主流派の農耕文化複合を構成する作物群には属さず、明らかに畑作、特に「焼畑農耕」の痕跡が顕著に残る地域に一次的に優勢する作物で、「中尾佐助 **」らが提唱して以来、一定の認知を確定した「照葉樹林文化」の主要な構成要素となる作物である。にも関わらず、お茶は我が国の表側の文化伝統にもしっかりと根を張り、現代の国民生活にも欠かすことの出来ない位置を占めているのである。「焼畑」系の作物・食品で云えば、大豆加工食品を除くと、この状況は希有のものであると云える。

* 動植物名にはカタカナ表記を使用すると云う慣例があるのは承知しているが、筆者は、一般的に知られている動植物名に関しては漢字表記を貫く。逆にあまり知られていないものについては、慣例通りカタカナで表記する。

** 中尾佐助---昭和四十一年 (1966) 刊行の『栽培植物と農耕の起源』において、「中国雲南省」を中心とする「東亜半月弧」の「照葉樹林帯」の農耕文化複合が、「長江」流域や「台湾」を経て、「日本」の南西部へと続く「照葉樹林帯」そのものの地理的延長と軸を一つにした広がりを有すると云う見解を展開し、「照葉樹林文化論」と呼ばれることになる仮説を提唱した。この仮説は、後に「佐々木高明」らによって発展的に継承され、若干の修正を加えつつ、有効な学説として定着している。

このことは、もしかしたら、我が国におけるお茶飲用、及び茶栽培の歴史に、それぞれいくつかの断層が見られることと関係しているのかも知れない。史料的には、お茶は「嵯峨朝」期に「唐」からもたらされたとされる。このときのお茶は、茶変色した「発酵茶」を搗き固めた「団茶」で、飲むときにはそれを細かく砕いて、臼で挽いたものを、鍋で煮出してから茶筅で立てたのだが、これは飲用法としては後世の「抹茶」とやや似るが、製法などはまったくの別物であった。「鎌倉期」になると、「栄西」らの禅僧が、「宋」から新しい「蒸し製」の「抹茶」を伝えたが、「中国」本土では「明」の「洪武帝」の代から、茶生産の効率化を図る国家的な政策の下で、「茶」の製法はほぼ完全に「釜炒り」系統の「葉茶」へと移行することとなり、「蒸し製」の「緑茶」は、我が国のみでその後も発達するこことなった (布目、1998) 。「煎茶」は、「室町末期」から「江戸初期」にかけて「明」から伝わったとする説が強いが* 、これは当然「釜炒り製」のお茶だったはずである。その後、「抹茶」の「蒸し製」の技術を応用して我が国独自の「蒸し製 (宇治製) 煎茶」が誕生したのは、たっぷり「江戸時代」に入ってからであり* 、全国的に普及したのは「幕末」以降であろうと推測されている*** 。

* 我が国に「煎茶」を伝えたのは、承応三年 (1654) に来朝した「隠元禅師」であると俗に云われることが多い。これは、『風俗文選』に収められた「武井汶村」の「雪華園ノ銘」と云う俳文の中で、「檗山禅師来朝して、唐茶の鍋煎を製す。世もつて隠元茶と号す。これは是出し茶也」と記したことに由来するもので、全く根拠はない。「吉村亨・若原英弌」は、「古くから釜炒り茶を主力製品として北九州方面の茶業地では、十五世紀初頭もしくは中葉に、明の人々によって教えられた製法であるとひろく伝えられている」と述べ、こちらの信憑性を評価している。二人はさらに、天正十五年 (1587) の「豊臣秀吉」による「北野の大茶会」に際して出された高札に、「茶はこがしにても不苦候」とあるのを、従来の麦茶様のものであろうと云う説を覆して、「釜炒り製」の「焙煎茶」であろうと記している (吉村・若原、1984、pp. 196-198) 。

** 「蒸し製煎茶」の製法が発明されたのは、元文三年 (1738) 、「山城国・湯谷谷村」の「永谷宗七郎 (宗円) 」によってだとされる。その年「宗円」は、「江戸日本橋」の茶商「山本嘉兵衛」に新しい宇治製煎茶を売り込み、「江戸」で瞬く間に名声を博した。寛政年間までに「山城・近江・大和・河内・摂津・丹波・伊勢」、天保年間までに「伊賀・駿河・武蔵・常陸・日向」に伝播したと「永谷家文書」の『古今嘉木暦覧』にあり、ほぼ各地の記録や伝承と一致する
。ただし、ここで区別しておかねばならないのは、「宗円」の「宇治製煎茶」とただの「蒸し製煎茶」は違うものだと云うことである。後者は、蒸した後に釜炒りするものなのに対し、前者は「焙炉」で手揉みするのである。例えば「静岡」の「川根」に「蒸し製煎茶」が伝わったのは天保六年 (1835) 、「宇治製」が伝わったのは嘉永四年 (1851) と伝わっている。

*** 平成八年 (1996) に、「シーボルト」生誕二百年を記念して開催された展覧会「シーボルト父子のみた日本」には、「シーポルト・コレクション」のうち、「シーボルト」の持ち帰った当時の「日本」のお茶が招来されたのだが、それらのお茶の包みを開封して調べたところ、すべてが「釜炒り茶」だったと云う事実が分かった。これは少なくとも、「文政期」の「日本」では、いまだ「釜炒り茶」が主流だったとの見方を確認することになったと云う見解もある。しかし、「シーボルト」の収集活動は主に「長崎」近辺の「九州」に制限されたと想像されることと、文化九年 (1826) の「江戸参府」の際の見聞をまとめた『江戸参府紀行』の中で、現在でも代表的な「釜炒り茶」産地であり続けている「嬉野茶」を絶賛していることもあって、「シーボルト」のお茶だけからは全国のお茶がどのようなものだったかは判断出来ないとも云える。一方、「江戸」へ向かう道すがら、「駿河・遠江」の茶産地も見聞しているのだから、彼の収集したお茶の中に、これらの地域の茶が含まれていなかったと考えるのは不自然だと云う考えもある。筆者は、後者の考えを支持するのだが、そもそも「シーボルト」が『
江戸参府紀行』の中で記しているのは、「嬉野」のお茶が「蒸し製」の「釜炒り茶」だと云うことなのである点は、見落としてはならない。「釜炒り」にする前にいったん「蒸す」ことで、茶葉の緑が鮮やかに残されるのであり、風味も格段良くなるのである。「嬉野」の「釜炒り茶」は、その特徴から「青柳製」とも云われ、現在でも「九州」などその他の「釜炒り茶」の産地のものとは一線を画している (ジーボルト、1826 / 熊倉、1998 など)

しかし、これは表立ったお茶の歴史であって、我が国には、上記の歴史からはこぼれ落ちてしまうお茶の伝統が、わずかながら各地に残されているのである。「碁石茶」「黒茶」「石鎚黒茶」「阿波番茶」などの「番茶」の系統がそれである (宮川、1994) 。「番茶」類は、それぞれに製法も、発酵度合いも異なり、一概に同一起源のものだとは云えないのだが、少なくとも社会文化の表側に位置する「緑茶」や「抹茶」とは明らかに違うものだとは云えるだろう。この他にも、上の注で既に述べたように、「九州」を中心に「釜炒り茶」が残存する地域もわずかだが残されており、「番茶」を合わせて、それらの産地がかつての「焼畑農耕」優勢地帯と一致することが知られている。茶栽培の起源論などは脇に置いたとしても、少なくとも、「焼畑」優勢地帯には、平野の主流文化に対する耐性が高いのか、あるいは抵抗力が強く働く文化的な伝統があったと推測するには十分な事実と云える。その上、古くからの茶栽培の伝承を持つ地域が、みな「南関東」を極限とする我が国の「照葉樹林帯」にあるにも関わらず、島嶼のように局地的な「照葉樹林」が残され、かつては「焼畑」がさかんに行われた「埼玉」の「狭山地方」に俄然古い「茶」伝承があるのも、「照葉樹林帯」と「焼畑農耕」、それに茶栽培の相関関係の深さを考えるときの好材料にはなるだろう。

筆者が云いたかったのは、「九州」を除く「日本」全国の茶産地の製茶法が、「明治」以降は、「宇治製」を改良した「静岡」方式にほぼ統一されていく中で、「静岡」にありながら、「北遠地方」だけが、独自の製茶法の名残を強く残すことになったのは、「焼畑農耕文化」の持つ、一種の文化的な抵抗力の所以ではあるまいか、と云うことである。特に、火入れの強い香ばしいお茶が身上のこの地域の製茶は、「焼畑」の管理や山仕事の合間に、かつての山人たちが山茶を枝ごと刈り取って焚き火で炙ったものを煎れた風習と食味が近似するのも傍証となるように思う。実際には、主要な茶関係の研究書では、「宮崎」の山岳地帯での「カッポ茶」意外は、上記のような飲茶法の確たる記録は見つけられないでいるが、山間のお茶の小産地を巡っていると、時折、山仕事の老人たちからそんなことを昔はしたと云う話を聞くことが出来る。ちなみに、我が国の表側の「茶」の最も正統たる「茶道」を生んだ「堺」の地も、実はその向背地では「焼畑」文化が残され、近年まで、「茶」ではないが、「ヒサカキ」の葉を同様に飲む風習があったと云う (原、1994) 。筆者もかつて、「ヒサカキ」の焼き茶を自作して飲んだことあるが、山茶で作る焼き茶とほとんど変わることのない香がしたものである (味も似ていた) 。

ちなみに、「高知」の山奥で作られる「碁石茶」は、不思議なことに地元での消費を目的とせず、「瀬戸内」の沿岸地方、主に「香川県・西讃地方」との交易用に作られていたものだと云う。文化十二年 (1815) に「武藤致和・平道」父子が編纂した『南路志』には、「中国筋其外嶋々、或九州路ニ至ル迄土佐茶を不用所なし。誠無量の名産也」と記され、「碁石茶」が「瀬戸内」はおろか、「九州」にも移出されているのが見てとれる。井戸水に「塩」が混ざる「瀬戸内」沿岸地方では、高い「緑茶」を買っても美味しく煎れることが出来ないが、「碁石茶」のような「発酵茶」は、塩味に実によく合うので、「瀬戸内」の塩味のする水と、「茶粥」を作る風習とにうまく適合したからだと云う。この起源話は、そのまま素直に受け入れるには問題が多いが (例 : どう見ても因果の順番が逆) 、取り敢えず、我が国の「番茶」と「塩」の交易との関連を見るのには適した材料である。「愛媛県・東予地方」の南山間部で作られた「石鎚黒茶」もほぼ同様の背景があった。「緑茶」が普及する以前、各地には今より多くの「番茶」が存在したことは間違いなく、そのお茶はただの飲用としてだけでなく、何故か我が国の「照葉樹林帯」に集中的に見られる「茶粥*」や「振り茶**」などの食用としての受容も無視出来ないものだったのである。その上、これらの食べるお茶の系統は、必ずと云ってよいほど「塩」を使うのである。特に「振り茶」は、「塩」を使うことで肌理の細かい泡が立つのだと云う。
また、「漆間元三」氏の『振茶の習俗 』『続・振茶の習俗 』を概観すると、この習俗が海浜か山間部 (大部分が「焼畑」地帯) にしか残存していないことも見えてくる。ここでも「塩」と「茶」は、「海」と「焼畑」と云うパラレルを伴いつつ、交錯するのである。

* 茶粥---「茶粥」は、「瀬戸内地方」から「近畿地方」にかけて、特に山間部で多く見られる。ただし、「四国」にはあまり見られず、「九州」も「北部」にわずかに残るばかりである。元は「奈良」の僧坊で食べられていたものが民衆に広がり定着したとの説があるが、「和歌山」などでは「奈良」以上に常食となっている。我が国の「照葉樹林帯」でない地域で見られる「茶粥」は、「北前船」の影響で「西日本」の食文化が移入されたと考えられる地域に見られると解釈することも出来るが、はっきりとはしない。

**
振り茶---「振り茶」とは、自家製の「番茶」を手製の茶筅で泡立てて喫する食風習のことで、「ブクブク茶 (沖縄) 」「ボテボテ茶 (島根) 」「ボテ茶 (香川) 」「バタバタ茶 (富山県朝日町) 」などが知られるが、「徳之島」の「フイ茶」や「奥三河地方」の「桶茶」なども残っている。多くは、泡を食すると云う傾向の強い風習だが、一部の地域では 食べ物を入れて食する場合もある。「塩」 をひとつまみ入れると泡立ちが良いと云う。「桶茶」に関しては、「秋葉信仰」の故郷と隣接し、同様の茶文化を維持している地域に伝わることは既に述べた。 そこに今もわずかに見られる「桶茶」の習俗だが、残念ながら筆者はまだ同じものを「北遠地方」で見たことはない。ただ、「静岡市」の山間部に当たる旧「玉 川村」では、「明治」の頃までは、嫁を迎えると「茶振りを貰ふて御芽出度」と声をかけたそうである。また文久元年 (1961) に成立した『駿河志料』には、「駿府郊外にて朝夕茶を泡立てて飲んだ、とあるから、少なくともこの時期にはまだ残存していたと云うことになる。「北遠地 方」は、 「桶茶」の伝わる「奥三河」と「 静岡市玉川地区」とに挟まれているのだが、かつては、やはり「北遠州」にも「振り茶」の習俗はあったと推測しても、あながち無謀とは云えないのである。

いずれにしても、「焼畑」と「塩の道」は、かなり密接な関係にあると思われる。「焼畑」を営むのは山国である。「岩塩」の産出しない我が国の山国では、「塩」は沿岸部の製塩地から運搬してこなければならないため、「塩の道」との縁も必然的になるだろうとも云える。しかし、そこに「茶」の文化、特に「釜炒り茶」や「焼き茶」「番茶 (=特に後発酵茶) 」の文化を重ねると、それらの諸要素の間に何らかの関連があったことがより明確に見えてくる。

「明」代に書かれた「徐光啓」の『農政全書』 (1639) のうち「備荒考」には、塩があれば、野菜や山菜など、果ては野草や木の葉まで毒に当たらずに食べられると云う記述があったと思う。また、「渋沢敬三」の『塩俗問答集』 (1939) には、「備荒考」と同様のことに続いて、山に籠る修験僧は、「塩」を竹筒に入れて持っていったと記されていた。案外、「宮崎県」の「カッポ茶」が、山仕事に持っていく竹筒を使って「焼き茶」を煎れると云うのは、こんなこととも関連するのかも知れない。「秋葉信仰」と「塩の道」は、こんなところでも、偶然とは言い難い形で習合するのである。


c) 尾根筋の「山住」信仰 ―「焼畑」との関係・2

「水窪」の茶畑を巡った後は、飯田線の「向市場」駅まで引き返し、県道389号・水窪森線に入って、「森町」を目指した。そして、左に「常光寺山」や「五丁坂頭山」「門桁山」、右に「井戸口山」を眺めつつ、途中、悪名高い「天竜スーパー林道 *」と交錯する辺りで、標高千百七メートルの「山住峠」に差しかかったである。

*
天竜スーパー林道---旧「天竜市東雲名」から旧「水窪町」の「水窪ダム」までの「南アルプス」の尾根伝いを走れる、旧・五市町村を結ぶ総延長52.9kmの林道である。大部分は、かつては「信濃諏訪ー熊伏山ー常光寺山ー竜頭山ー秋葉山」を結ぶ修験者の回峰道であり、「天竜川」沿いの渓谷を避けた「塩の道」古道の南半分の上に敷かれている。

山住神社01
「山住神社」

ここの道路を少し降りたところに、かの「山住神社」が鎮座する聖地はある。社伝によれば、和銅二年 (709) に「伊予国・越智郡」の「大山祇神」を勧請して「山住大権現」と称したと云う *。当初は、「勝坂」「門桁」あるいは「気多」の「宮川」のいずれの地にか創建された後、現在地に遷座されたと伝えられる。

*
前回の記事でも述べたことだが、各地の「山の神」信仰の中には、祭神を「大山祇神」に求めるものも多いのだが、この神は『伊予国風土記』逸文には「一名は和多志大神なり」とあり、海を航行するものの信奉する「海の神」でもあるかのように記されている。「秋葉山」周辺の信仰の山が、海人たちに航海の目印となる神聖な山と見られたことと、「秋葉山」の「奥の院」であったと思しき「山住大権現」が、「海神」としても知られる「伊予」の「大山祇神社」を勧請した神格だと云う伝承があることは、何らかの関係があるものなのか、気になるところである。

山住神社02
「山住神社」の「狛犬 (山犬) 」

山住神社・神札
「山住神社」の神札の「狼 (山犬) 」

ここの神社は、眷属が「狼 (山犬) 」とされ、
「春埜山大光寺」と共に「狼」を御神体として祀っていて、神職の「山住家」には山犬絵図が伝わっている。そして、この「山犬」の絵を刷った神札を授かると、農作物を荒らす「猪」や「鹿」の防除に役立つと考えられ、、「焼畑」の作物の守り神とされたのである。この御神徳は、やがて「邪気除け (厄除け) 」として解釈されるようになっただけでなく、「塩」の運搬者たちのための「山犬除け」としても人気を博するようになった。

「野本寛一」氏は、このような「山犬」信仰の「山住神社」は、「秋葉信仰」と密接に関わっていると考え、以下のように述べている。

山犬を神使とする三峰山・山住神社などの、山犬の絵姿神札を焼畑地や山田に立てて、害獣が秋の稔りを狙うのを防ぐという民俗が各地に見られたのであるが、こうした山の天敵関係をふまえた呪術が、やがて都市や平地農村に置ける盗難防止、悪霊除けへと増幅していったのである。

焼畑農民の切実な願いとして、火入れにおける安全確保、秋の収穫のための害獣防除があった。秋葉信仰と山住信仰はこの両者に対応するものであり、しかも本稿の冒頭でふれた通り、秋葉山と山住神社は、同じ尾根筋に存在する。参・信・遠の国境山地の焼畑農民は、広く、延焼防止に秋葉札を、害獣防除に山住神札を立て、両者をセットとして信仰してきたのである。

野本寛一 (1998) 「火と水の信仰」

田村貞雄/監 (1998) 『秋葉信仰』民衆宗教史叢書 31、雄山閣、p. 25

害獣除けの神が、悪霊除けの神として理解されるのは、決して論理の飛躍のためではなく、前回記事でも力説したように、そもそも昔の人は、みずからの生活の「日常性」を超えた「福徳」も「災厄」も、どちらも「非日常」的な霊力に満ちあふれた「異界」から来るものと考えていた傾向があったのである。したがって、「虫送り」の祭儀も、結局は「虫」たちを元来た「あの世」へと正しく送り返すための手続きだと云うことになるのである。これにしたがえば、害獣も、病気や怪我も、その他、色々の不幸をもたらす邪気も、すべて「あの世」に送り返すことが肝心だと云うことになり、そう云う意味では「害獣除け」でも「悪霊除け」でも「火防」でも、御神徳の本質には何ら変化はないと云えるのである。

山住神社
浜松市天竜区水窪町山住 230
053-987-1179

「山住峠」に隣接する「常光寺山」の山頂には、「山住神社」の「奥宮」が鎮座しており、おそらくは本社から遥拝出来るように、南側の斜面は綺麗に伐採されて、見晴らしも良い。この「奥の院」に祀られる「常光房」は、この山の主であり、「山姥」の三男だとも云われるが、その正体について、「柳田國男」は「狼」との関わりを仄めかしている。

遠州奥山郷の久良幾山には、子生嵶と名くる岩石の地が、明光寺の後の峰に在つて、天徳年間 (筆者注 : 957-961) に山姥此に住し、三児を長養したと伝説せられる。竜頭峰の山の主竜築房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、即ち共に其山姥の子であつて、今も各地の神に祀られるのみか、屢々深山の雪の上に足跡を留め、永く住民の畏敬を繋いで居た。 (中略)

山住は地形が明白に我々に語る如く、本来秋葉の奥の院であつた。然るに、何時の頃よりかニ処の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、終に広大なる奥山に及ばなかつたのである。 海道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、何と本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬を迎へて来て、魔障盗賊を退ける目的の外に出なかった。今こそ狼は山の神の使令として、神威を宣布する機関に過ぎぬだらうが、若し人類の宗教にも世に伴ふ進化がありとすれば、曾ては狼を直ちに神と信じて、畏敬祈願した時代があつて、其痕跡は数々の民間行事、乃至は覚束ない口碑の中などに、辿れば之を尋ね出すことが出来るわけである。

柳田國男『山の人生』
柳田國男 (1997) 『柳田國男全集』第三巻、筑摩書房、p. 548

ついでに記すならば、いま筆者の話している「秋葉山」を含む尾根筋とは異なるが、「秋葉山」と東に対峙する山々がある。「熊切川」の南方に広がる独立した尾根筋で、「中村川」の水源地に当たると同時に、「太田川」水系と「大井川」水系との間の分水嶺となっている一帯である。その中で、旧「春野町・花島地区」の東南の山筋に、
神仏混淆の「修験」の寺がある。養老二年 (718) 、「行基」が山上に庵を構えて開山したと伝えられる「曹洞宗」の「春埜山・大光寺」である。近年は、樹齢千三百年と云われる「春埜杉」で知られている。

ここの寺は、地元の人々からは「お犬様」と呼ばれて親しまれており、「本堂」前の狛犬は、「山犬」のものとなっているのでも分かる通り、「山住」信仰と関係が深く、「奥の院」である「山住神社」の「里宮」だったとも云われている (里宮と云うのには、少し標高が高すぎる気もするが...) 。

大光寺01
「春埜山・大光寺」の「本堂」

大光寺・狛犬01
「春埜山・大光寺」の「狼 (山犬) 」の狛犬

春埜山・御札02
「春埜山・大光寺」の「狼 (山犬) 」の御札

「春埜山」は、旧「春野町」の元となった名前で、俗に「春野山」「春之山」「春名山」とも呼んだり、表記したりしたと云う。寺の守護神に当たるのが、「太白坊大権現」と云う「春埜山」に住んで「狼 (山犬) 」に乗った天狗だとされ、本尊である「三尊天」を守護している。そして、「山犬」を眷属として派遣して、信者の祈願成就を助けるとされる。


この「太白坊」の図像は、入手出来なかったのだが、「『狼』に乗っている天狗」と云うモチーフは、「飯綱権現」や「秋葉山三尺坊権現」などが「狐」に乗っているのと同系統のものと云えそうである。このような獣に乗った天狗のイメージと云うのは、恐らくは「飯綱権現」辺りから起きたもので、その起源は「ダキニ天」だと考えられるのだから、その乗る獣も、「南方熊楠」が看破した如く、元は「ジャッカル」だったのだろう (南方、1930 etc.) 。我が国では多くこれを「狐」としているが、「山住信仰」の影響の強かった地域では「狼 (山犬) 」となったのだと思われる。

この「春埜山」も、かつては「秋葉修験」の修行の場の一
つとして栄えたらしく、もとより「秋葉山」とは密接な関係にあったことは、『遠江古蹟図絵』の記事に「行基」開創に触れた箇所で、「春ひらきし山を春野山と云ひ、秋ひらきしを秋葉山と称す」とあることからも理解されるだろう。このような双方のつながりにも関わらず、両社の「神」あるいは「神使」としての獣が、それぞれ「狼」と「狐」とで大きく変わってしまっているのは興味深い現象である。そもそも、「秋葉山」とその「奥の院」とされる「山住神社」の間にも同じような齟齬が見られるのは、この地域の山岳信仰の後世的発達を考えるときに、大きな手掛かりとなってくるのである。しかし、この件に関しては、もう少し後で触れていくこととする。

この「春埜山・大光寺」は、「遠州」だけでなく、「駿河」沿岸の地域の人々からも、厚い信仰を向けられていると聞く。伝えるところでは、「江戸末期」、恐らくは「ハリス」の駐在する「下田」港から蔓延したと考えられる「ころり (コレラのこと) 」が海岸地帯で猛威をふるったとき、それを鎮め、治癒する霊験があるとして、大きく脚光を浴びたと云う。檀家が、海辺に多いのはこのためである。実際、境内を見て回ると、「狼」の狛犬やら灯籠やらは、寛文年間 (1661-1673) に一時無人となったこともある「大光寺」であるだけに新しいものが多く、「大正期」から「昭和」の初め頃に寄進されたものがほとんどなのだが、それらの多くが「福田」や「清水」「静岡」などの港町の講中から寄せられている。こんなところにも、「秋葉信仰」とその周辺が、平地の農耕民ではなく、「焼畑」や「漁業」関係者たちに信奉されていた気配が色濃く残されているのである。

曹洞宗
春埜山・大光寺

浜松市天竜区春野町花島 22-1
053-986-0941



d) 「本宮山・小国神社」と「塩井神社」


話を、お茶探訪の小旅行に戻そう。

やがて、細かくうねりつつ南下し続ける県道は、「小石間隧道」を抜けて「杉川」を越えると、東西に走る山中の国道362号にぶつかって終了した。筆者は、この国道を東へと進んだのである。

この行路で、「春野町・杉地区」を通過したのだが、「春野北小学校」の近くにあった商店に道を尋ねに立ち寄った際、偶然、自家製のお茶を分けてもらったことがあった。そこのおばあさんに聞いたところでは、かつては「塩」は貴重品だったが、この辺りに出回るのは平野では粗悪品で通る「塩」だったらしく、買ってからしばらくは軒先に吊って、水気を抜かなければならなかったと云っていた。しかし、滴り落ちる潮の露は、きちんと集めて、豆腐を作る「にがり」としたから、良質の「塩」が出回ったところで、値段ばかりが高くて、返って困っただろうとも云っていた。

結局、この旅は、肝心の「海久保」地区の探訪は不調に終わってしまったのだが、帰りは、「川根」方面から再び「森町」に戻り、「本宮山」の東麓を南下する道を通った。

*

「本宮山」 (511m) の山頂には、「遠江国一之宮・小国神社」の奥宮であり、「境外摂社」である「奥磐戸神社」があり、ここは祭神に「大己貴命 おおなむちのみこと 」の「荒魂」を祀っている。「小国神社」の本社は、「大己貴命}を祀っているが、「小国」と云う社名は、「出雲」の「大国」に対する「遠江」側の美称であるとしているが、付会ともとれる。

社伝によれば、欽明天皇十六年 (555) 二月十八日、現在の鎮座地から六キロほど離れた「本宮山」に神霊が示現したので、勅命によって、「正一位」の神階が授けられ、そこに「社殿」が造営されたのに始まると云う。しかし、『続日本後紀』の承和七年 (840) 六月十四日条では「遠江国周智郡の無位の小国天神(中略)に従五位下を授け奉る」と記されている。「六国史」終了時の神階は従四位上であり、「延喜式神名帳」では小社に列している。

ここの神社は、「神仏習合」の影響が強く、「本宮山」山頂での祭祀も、神宮寺社僧によって執り行われていることから、元からの「神奈備」信仰ではないと云う見方もあると云う。しかし、既に見たように、「本宮山」は、海から目印の山として漁師たちからの信仰も篤く、さらには、ほぼこの「本宮山」を起点して、「秋葉山-竜頭山-井戸口山-山住山」と続く交通路が、後に「遠州」と「信州」を結ぶ「塩の道」として形成されるに及んだ事実を鑑みると、「本宮山」と他の信仰の山が、共通の信仰的な心性で結ばれていたと考える方が自然な気もする。

この日は山頂に登拝予定はなく、麓の本社に向かうばかりだった。県道58号・袋井春野線を南下しつつ、途中、西へと進路を切り替え、ゴルフ場を突き切る形で「遠江国・一之宮」を名乗る「小國神社」に立ち寄るつもりだったのだが、道を間違え、ゴルフ場の南端を迂回することになってしまった。ただし、その結果、偶然にも、「小國神社」の「境外末社」である「塩井神社」を発見するに至ったのである。

この末社は、「小國神社」の東南、約一キロの地にあり、社名の示す通り、実際に「塩井戸」がある。道から少し入って、参道を辿ると、斜面の手前に木製の鳥居が立ち、その手前右側に案内板も設置されている。鳥居をくぐると、正面に小さく、簡素ながら高床の厳かな社があり、その手前、右手に、屋根を葺かれた井戸舎がある。ここの石積みの湧水口からは、冷食塩泉が湧いているが、湧出量は極少量である。鹹味もあまり強くはなかった。祭神は、「豐玉彦命」と「豐玉姫命」とも、また「塩筒老命」とも云う。「森町」公式サイト内の『図説森町史』の頁には、ここの「塩井戸」と神社は、修験者によって開発されたものだと書かれている。ちなみに、上記の案内板には以下のように記されている。

延宝八年今より三百余年前の一宮の社記の一部に「此の塩井は一宮山の内八分目あたり常に干満あり味わい潮の如し霖雨洪水の時分塩無之時は此の塩水を汲みて用ふる也」と記されて居ります。

古来より一宮の末社として塩井神社は伏間の郷の守護神と里人より敬はれ塩水は胃腸の薬とお祓ひの魔除けになると古老より伝へられ塩井汲みの崇敬者も遠近より参詣せられております。

現地案内板

本社の「小國神社」の「舞楽」は、神事であると共に、近在に知られた伝統芸能だが、その「舞揃い日」の午前中には、境外末社の「塩井神社」への参拝が行われ、「潮汲み」の大切な神事が営まれる。このことや、「本宮山」を起点とする「塩の道」のことを考慮すると、この神事はやはり、「秋葉山」をも含む「遠州」の尾根筋の信仰の体系に対して、象徴的な意味を有しているように思えるのである。

小國神社・境外末社
塩井神社

周智郡森町一宮

遠江國一之宮
小國神社

周智郡森町一宮 3956-1
0538-89-7302

* 「塩井神社」から「小國神社」に一端出て、その南方一キロほど走ると、県道280号沿いに「久米吉」と云う「こんにゃく店」があり、ここの庭先には、塩水の湧く井戸がある。同店のホームページ記載記事によれば、海岸から三十キロ以上内陸のこの地にある「塩井戸」の水は、お清めの霊水として「小國神社」の祭事にも用いられると云うことであった。水質も上記の「塩井神社」の塩水と同質であるが、その塩分濃度は約三倍ほど濃いとのことである。ついでに、この記事には、地元の古老の話として、先ほどの「塩井神社」の塩水は、「皮膚病や内臓疾患に効用があると伝えられている」と書かれている。現地案内板と効用書きの内容が微妙に異なるのも面白い。見せてせは、庭先の井戸を「玉肌の冷泉」と呼び、ペットボトルに詰めた食塩湧水を販売している (正確には、ペットボトルさえ買えば、以降それを持参すれば何回でも汲めるそうである) 。

*

実は、この「塩井神社」は、ある興味深い事実へとわれらを誘なってくれるのである。それは、これだけ珍しい神社でありながら、同名の御社が、隣りの「掛川市八坂」の地にもあり、そこにも「塩井戸」が存在すると云う事実である。

より具体的には、国道一号線 (旧ルート) の「八坂インター」のすぐ南、「八坂橋・歩道橋」下に「塩井神社」は鎮座している。ここの神社は、かなり変わった造りをしており、鳥居をくぐると「逆川」が流れており、その対岸の石段を上った先に「社殿」と「塩井戸」はある。川の上に常設の橋はなく、板を差し渡して参拝するしかないのである。

shioi-torii.jpgshioi.jpg
「掛川市八坂」の「塩井神社」
「静岡の県社」から
http://www.k2.dion.ne.jp/~ba_cho/other/zenkoku/shizuoka/shizuoka.html

この付近は「潮井 (塩井) 河原」と呼ばれる土地で、この地名の由来となる「雄鯨山雌鯨山」の伝説が残されている。この伝説は、大正三年 (1914) に「成瀬啓太郎」によってまとめられた『日坂郷土誌稿』の中に納められた作者年代不明の「雄鯨山雌鯨山由来記写」に詳しく記されているのだが、原文はやや脈絡が通りにくい擬古文で書かれているため、以下に、筆者が現代語に意訳したものを載せる。

昔、三十七代「孝徳天皇」の御代 (c. 649) 、「日坂宿」の南、「宮村」には「嫁石権現」と云う宮があり、そこには、一人の姫宮様がいた。あるとき、「権現」は「日坂」の「八幡様 (事任八幡宮) 」を囲碁に誘ったのだが、そのとき、竜宮から雄雌二頭の大鯨が使者としてやってきて、「権現様」の姫を嫁に欲しい強硬に申し入れてきた。そこで「権現」は、姫を北方の「大沢」と云うところに隠してしまった。そのため、この辺りは七日の間、暗夜の如くになったため、「日坂」の「八幡様」が碁石で二頭の鯨を打ち殺した。今にその地を「倉見」と云う。鯨は五百間余りもあったが、一念凝りかたまりて巌石となり、連なった連理の山となった。「八幡様」が打ちつけた碁石は、この山の頂に残り、いまでも時折、見受けられると云う。

雄鯨と雌鯨を失った竜宮王は、ひどく立腹して、「八幡宮」の氏子たちが、神事のときに潮垢離にやってくると一人も帰さず呑み込んでしまうようになった。これを聞いた「八幡様」は、西へと十二、三町ほど離れた川辺に、一日に昼三度、夜三度、汐が湧き出るようにした。そこの守り神が「汐井の宮 (塩井神社) 」で、氏子たちはこの地を「汐こり」と呼んでいる。

参照・「雄鯨山雌鯨山由来記写」
所収・成瀬啓太郎 (1914) 『日坂郷土誌稿』
復刻版 (1980) 日東郷土史研究会
参照・中部地方建設局/編 (1995) 『東海道小夜の中山』建設省浜松工事事務所

これら伝説の山は、「塩井神社」から「事任八幡宮」に向かって国道1号線を東へと進んでいくと、「掛川市東山口」にある「八坂橋」の川沿いにあったのだが、「平成」に入ってからの農地整備事業で「雄鯨山」は削られてしまい、いまは農地となっている。「雌鯨山」は、その南方の方に見える高さは数十メートルほどの小高い丘である。

「江戸後期」の浮世絵師「五雲亭貞秀」が描いた『東海道五十三次勝景』のなかにも「八幡宮」「男クジラ山」「女クジラ山」などと共に「シホ井」が記入されており、世間にも広く知られた伝承であることがわかる。地元に住む「兵藤庄右エ門 (藤長庚) 」が独力で、地域の明晰を訪ねて廻り、文に自筆の絵を添えて、享和三年 (1803) に刊行した『遠江古蹟図絵』にも、この「鯨山伝説」は取材されている。

八坂・潮井河原
塩井神社

掛川市八坂 2280

しかし、ここで重要な意味合いを持つのは、先ほど、「森町一宮」の「塩井神社」が、「掛川市八坂」の「塩井神社」へとわれらを導いたように、今度はこの「塩井神社」の伝説がわれらを「遠江国・一之宮」とされる「事任 ことのまま 八幡宮」へと誘なってくれることなのである。何故、重要なのかは、以下に追々見ていきたい。

*

この「事任八幡宮」は、「成務天皇」の御代の創建とされ (『掛川誌稿』) 、大同二年 (807) 、「平城天皇」の時代に、「坂上田村麻呂」が勅命を奉じて、それまで祀られていた「本宮山* 」山頂から現在地 (里宮) に遷座させ、これを再興したと伝えられる。古記録では、『日本文徳天皇実録』巻二に、嘉祥三年 (850) 「遠江」の「任事の神」に従五位下の神階が贈られたとあり、『日本三代実録』には、貞観二年 (860) に「遠江」の「真知乃神」に正五位上の神階が贈られたとある。また、『延喜式神名帳』には、延長五年 (927) 、「遠江佐野郡四座」の一つとして「己等乃麻知神社」が挙げられている。これら三つの記録が、現在の「事任八幡宮」のこととされている。そして、伝承によれば、「八幡宮」となったのは、康平五年 (1062) 、「源頼義」が「京都」の「石清水八幡宮」をこの地に勧請したのが始まりだと云う。

* 本宮山」---この「本宮山」は、「小国神社」の「奥宮」のある「本宮山」とは別の山である。「潮井河原」の「塩井神社」から「事任八幡宮」に向かったとき、旧・東海道である県道415号・日坂八坂線を挟んで、「八幡宮」の反対側の小高い丘のことである。

祭神は、「己等乃麻知比売命 ことのまちひめのみこと 」「八幡大神」「誉田別命 ほんだわけのみこと /応神天皇」「息長帯比売命 おきながたらしひめのみこと /神功皇后」「玉依比売命 たまよりひめのみこと 」とされるが、「八幡大神」「誉田別命」「息長帯比売命」は「八幡信仰」の主祭神であるから、少なくとも康平五年以降加わった神格だと云えるだろう。

ここの社は、「平安期」には早くも都にその名が轟いていたらしく、「清少納言」の『枕草子』にも「ことのままの明神」として記載されている。「鎌倉期」の『海道記』には「事のままと申す社」、『東関紀行』には「ことのままなる神」、そして「阿仏尼」の『十六夜日記』には「ことのままとかいふ社」と記されている。

寛政九年 (1797) の「秋里籬島」によって刊行された『東海道名所図会』には、「己等乃麻知神社 日坂の少し西の方、宮村にあり。今誉田八幡と称す。延喜式内佐野郡に属す」とあることから、この時代には「八幡宮」を名乗っていたことが分かる。「明治」から「終戦」にかけては「県社・八幡神社」となり、「戦後」ようやく「事任八幡」への仮称が認められた。ただし、主祭神は「八幡大神」のままとされていたのを、平成十一年 (1999) 、ようやく「己等乃麻知比売命」を「本宮」から「里宮」に迎えることが「神社本庁」から許されたそうである。

「己等乃麻知比売命」は、「天児屋根命 あめのこやねのみこと 」の母神とされるが、「天児屋根命」とは云わずと知れた「春日大社」の祭神で、「藤原氏」の氏神であるが、その神的性格が、人と神を媒介する「祝詞」を司る「言霊」の神であることは意外と見落とされる。したがって、その神の母神であるからには、何かしら「言霊」と関わる真確だと理解され、「事任」の「事」は「言」でもあり、「ことのまま」とは、言葉の通りに願いを叶えてくれることとされるのである。「ことまち」については、明快な説明はなさそうである。一般には「言待ち」で、願い事が叶うのを待つ、の意だとか、「まち」を「真知」とし、「言の真を司る」の意味だとか解されているようである。

遠江國・一之宮
事任八幡宮

掛川市八坂 642
0537-27-1690
*

問題は、この「事任八幡宮」が、「遠江国・一之宮」とされることにある。既にお気づきの方もいらっしゃると思うが、つい先ほど、「森町一宮」の「小國神社」のことを「遠江国・一之宮」と記したばかりなのである。

「遠江国」の「一之宮」については、要するに二つの説があるのだ。「小國神社」を「一之宮」とする文献は、文暦二年 (1235) 二月十三日に、「藤原家貞・同源次郎」の両人が立てた起請文中に、「当国鎮守小国一宮」とあるのが初出とされる。大治二年 (1127) の史料に「遠江国一宮」とあるが、これは「笠原荘一宮」の「高松神社」を指すものだと云う。

逆に、十六世紀頃、「神祇管領・吉田家」の強い影響下に成立したと考えられる『大日本国一宮記』では、「事任八幡宮」を「遠江国・一之宮」と記載している。その後も、「吉田家」の系統の書物では一貫して「事任八幡宮」を「遠江国・一之宮」としており、神社側が、神道界に絶大な権威を誇っていた「吉田家」に接近して「一之宮」の認定を取り付けたのではないかと云う説もあるが、一方で、「吉田家」の側に、国単位での祭祀体制を変革しようと云う動きがあったためとも云われ、判然としない。

しかし、以上のような経緯から、本来の「一之宮」は「小國神社」であるとするのが、識者の間では有力な見方となっている。

ただ、筆者が問題としたいのは、いずれの神社が正統な「一之宮」か、などと云うことではない。当然ながら、筆者の視点は、この稿で再三述べてきた、「遠江」を縦断する尾根筋の信仰との関連で、この問題を見つめ直すことなのである。

そんな問題意識の下で、筆者が最初に重視したいのは、「小國神社」が、かつて「事任八幡宮」同様、「許当麻知 ことまち 神社」「事任 ことのまま 神社」と呼ばれていたと云う伝承である。「小國神社」の境内には、現在も「事待池」と云うに池があり、その由緒を伝えている。

筆者はこのことに関して、「事任」と云う社号を巡って、過去に二つの神社の間に争いがあったとは思っておらず、どちらかと云うし、元々「事任」と云う社が二つあったのではないかと推測している。この件に関して、既に筆者は、「小国神社」と「事任八幡宮」の構造的なパラレル関係を三つの点から、暗に指摘してきているのである。

 1. どちらも、「ことのまま」の社号を持っている。
 2. どちらも、「奥宮」が隣接する「本宮山」の頂にある。
 3. どちらも、近くに「塩井神社」があり、密接な関係にある。

この不思議なパラレル関係は、さらに別のパラレル関係と交錯するのである。蛇足の気味があるのだが、面白いので一応、記しておく。

「遠州」の西隣りの「三河国」の「一之宮」は、「砥鹿 とが 神社」である。この社は、祭神に「大己貴命」を奉ずることと、その「奥宮」が「本宮山」の上にあることなど、「小國神社」と奇妙な類似が多く見られる。また、「砥鹿神社」の奥には、「鳳凰」に乗って空を飛んだ「利修仙人」が開いた「鳳来寺」があり、「小国神社」や「事任八幡宮」同様、「信州」の奥山を背後に控え、山中で修行する修験者たちが跋扈したと云う共通点を持っている。これでこの地にも「塩井神社」があれば、もう間違いないのだが、残念ながらそのような神社は見つからなかった。ただし、「事任八幡宮」は社紋として、「小國神社」の「三つ巴」と、 「砥鹿神社」の「亀甲に卜象」の両方を使用していると云う、三者をいっぺんに結びつける要素も発見出来た。今後は、これらの点について、もう少し考察を深めていきたいと考えている。

三河国・一之宮
砥鹿神社
宝飯郡一宮町一宮西垣内 2     
0533-93-2001 (里宮)
0533-93-2057 (奥宮)



B. 「秋葉信仰」とは何か?  ―その基層にあるもの・水筋の道―

前項までに、筆者は、「近世」以降の「秋葉信仰」の突出した発達が、「秋葉山」と周囲の信仰の山々との間のつながりを希薄化してしまい、「明治」以降の壊滅的な衰退によってその傾向は一層促進されたにも関わらず、今に至るまで、「秋葉山」を取り囲む山々には、かつて互いに密接に結びついていたことを示唆するような共通項がいくつもあることを、主に同一の尾根筋の山々と云う観点から眺め、「焼畑」と「航海」そして「塩」をキーワードに据えて、見渡してみたのである。

本項では、尾根筋の信仰と云う基層と並行する別の基層として、「秋葉山」を巡る「水」の視点を模索していきたいと思っている。そして、この項に関しては
、「野本寛一」氏の「火と水の信仰」 (1998) に、ほぼ全面的に依拠していることをお断りしておきたい。


1) 水に区切られた聖域

「秋葉山」は、水に囲まれた山でもある。その西麓は、「天竜川」が南流し、東麓からは「秋葉山」の南の山麓を取り巻いて、「天竜」の支流「気田川」が流れ来たり、やがては西側に至って「天竜」本流と合するのである。したがって、「秋葉山」に登拝せんとする者は、正面「領家口」からは「気田川」を、西南の「雲名口」からは「天竜川」を越えねば、入山することすら適わぬのである。唯一残された「信濃」側の向背部から、尾根筋を伝って南進する道も、途中、「水窪川」の澄んだ奔流に遮られてしまう。言い換えれば、「秋葉山」は、天然の水垣に仕切られ、接近しようとするものは、みな川の流れをくぐって身を浄めてからでないと進めない、そんな聖地となっているのである。

我が国は、国土の大半が山がちの地形で、水も豊かなである。したがって、「山岳信仰」の聖地などは、どの任意の場所を選んでも川に囲まれているのではないか、などと云う疑問も思い浮かぶかも知れない。しかし、そのもっともな疑いも、一旦地図を開いて、何箇所かの聖地を調べてみれば、意外にも川に三方 (ほぼ四方) を囲まれている霊山と云うのは多くないことに気づかされるだろう。しかも、それが「水窪川」「天竜川」「気田川」ほどの規模の河川となると、その数はなお一層少なくなるだろう。川水に囲まれた聖地と云うのが、「秋葉山」だけだなどと主張する気は毛頭ないが、そのような立地にある霊山と云うのが、一般に考えられるよりも遥かに少ない、と云うことは述べておいても無難だろう。あまりの低山になるとこれらの規模の川に恵まれ得ず、あまりの高山になると、裾野が広すぎ、囲まれると云うよりは、無数の水流の水源となることしか出来ないだろう。しかも、水源であると意識においても、高山はその距離が遠すぎるため、意識されにくい。高山の神が、屹立した厳かな神霊として意識され、恵みをもたらす温和な神と意識されにくいのも、この辺りと関係するのであろう。

だからと云って、水垣に仕切られた聖域と云うイメージは、もちろん「秋葉山」独自のものではなく、「野本寛一」氏自身が述べているように、「熊野本宮神社」の旧社地の「大斎原」は川中島であり、「京都」の「賀茂御祖神社 (下鴨神社) 」は「高野川・雲畑川」の合流点にあることで知られている。

半ば余談だが、「下鴨神社」と水の関係で思い出すのは、その境内をなす「糺の森」にかつて流れていたと云う「御手洗川」の水源、「御手洗井」である。現在は、「本殿」の東にある「瀬織津姫」を祀った摂社「御手洗社」の床下全面に湧く湧水で、「御手洗の池」とも呼ばれ、初夏には膝が浸るほどの高さになる。かつてはこの水に浸ると風邪を引かぬなどと云われたようだが、これもただの迷信と云うよりは、「異界」との「境界」で、災いの元となる「ケガレ」を洗い落として正しく送ると云う、「禊」の習俗の名残だったのであろう。

かつて、この
「御手洗井」の湧水量はかなりのものだったようで、水が湧くときに水面が丸く盛り上がって見えたと云う。俗説だかどうだかは分からないが、その丸い盛り上がりを模して、白玉団子を作り、串に刺して食べたのが、「御手洗団子」の始まりだと、物の本にはよく書かれている。元は、神饌だったものが、いつか土産物に転じたのだろうとは思う。

この「賀茂御祖神社」の二柱の祭神のうち、「西殿」に祀られているのは、「上賀茂神社」の祭神「賀茂別雷命」の母神である「玉依媛命」である。この女神は、「秋葉山」の祭神にも名を連ねており、湧水と云い、その「白玉」の比喩と云い、周囲を水垣で囲まれていると云う共通した地形的特徴を別としても、「秋葉山」は、「水神」として祀られている「下鴨神社」との間に、その信仰のを貫く心性と云う点で、多くのパラレルを有していると云えるのである。

*

筆者は、三方あるいは四方を川に囲まれると云う地理的な立地条件から判断して、「秋葉山」は、元来「水」の神様だったのではないかと、はじめに推測した。そして、考察を重ねると



実際、現在も「秋葉山」が掲げる御神徳と云うのは、一つに「弓箭刀杖の難を免れる」と云う武神的性格であり、二つに「火災焼亡の難を免れる」と云う火防神としての性格であり、三つに「洪水沈没の難を免れる」と云う水害神としての性格なのである。「近世」以降、民間では「火伏せの神」として圧倒的な知名度を誇った「秋葉様」は、武家からは「戦勝の神」としてより長く崇敬を受け、また他方で「水神」としての顔も持っていたのである。実際、かつては「雨乞い」の祈祷なども行われていたと云うのだから、「水神」であったことは、まず間違いがないと云えるのではないだろうか。  


2) 水の湧き出づる聖域 
水源と分水嶺―

「秋葉山」は、水に囲まれた聖地であるだけでなく、「水の湧き出づる聖地」として意識されてきた事も、ほぼ確実である。「秋葉山」を水源とする川は、主なもので「西ヶ池川・栃川・畑木沢」の三つで、規模としてはさほど大きいものではないが、明確に「秋葉山」が流れ出ているのが意識されうる河川である意義は大きい (本当の大河川は水源を大まかに一つにまとめることすら出来ない) 。

しかし、河川の水源となっていると云うことは、「秋葉山」を構成する「水の信仰」の本質とは必ずしも直結しないかも知れない。より重要なのは、「秋葉山」を中心とした「赤石山脈」南端の尾根筋全体が、一つの大きな信仰の系統を形成していると云う前項で確認した視点に立って、周囲の水系を概観することだろう。

「秋葉山」から北へと遡りうる山筋は、南部では「天竜川」、やや北上すると「水窪川」を西側に有し、西側は「気田川」が流れる地形となっていることは、既に述べた。しかし、このことは「秋葉」の尾根筋が水に囲まれていると云うことを意味するだけでなく、その稜線が二つの大きな河川系の分水嶺になっていることも意味するのである。ここでは深くは触れないが、そもそも我が国には
分水点を神聖視する「みくまり (水分・水別) 」の信仰があり、山間地やその裾野一帯では、「山の神」が往々にして「水神」とほぼ一体化して受容されている事例が多いのも、この「みくまり」の信仰に辿ることが出来るのではないかと筆者は考えている。

実際、「天竜川」水系の「水窪川」や、「長野県」に入った「遠山川」などの旧「秋葉街道」沿いの谷に沿った集落では、「水神」が「山神」と並べられて祀られているのをしばしば目にすることが出来る。これは「松山義雄」によれば、「山神の夫が水神であるとされているところにもとめること」が出来ると云う (松山義雄、1961) 。しかし、この解釈は、「松山」氏自身がその直後に疑問視している、夫と一緒に祀らないと「山の神」が嫉妬すると云う説と軸を一にするものだと思われてならない。「松山」氏は、この辺りのことを以下のように述べている。

遠山谷で最も多くみられる山神碑は、〝水神・山神〟と二神の名を並べ刻んだ碑で、その由来は山神の夫が水神であるとされているところにもとめることができます。人々は、この碑をとくに〝スイジン・山の神〟と呼んで、〝山神〟とだけ刻んだ山神碑とはっきりした区別をたてています。 (中略)

このように二神が不可分の状態でまつられる根拠を、一般では妻なる山神の嫉妬に帰しています。しかし、遠山谷でこの碑の立つところはといえば、必ず山と水とが関連性をもつ地形であることに思いいたるとき、嫉妬説による解明だけでは十分とはいえない面を発見します。

松山義雄 (1961) 『山国の神と人』未来社、pp. 135-136

「松山」氏は、山間地では、豪雨の度に水が荒れ狂って災害をもたらすことを念頭に、このような「水神・山の神」の並ぶ碑は、山崩れや洪水の害を鎮めるためのものだと述べている。しかし、この件に関しても、「松山」氏は次のように、この碑の二義性を暗に認めている。
台風や集中梅雨が凄惨な破壊力をふるって荒れ狂うとき、遠山谷のような峡谷地帯にみられる特異な現象は、必ず水荒れ―洪水と、山荒れ―山抜けとが、手をたずさえて同時に襲いかかってくることで、これは平地人の経験では想像もつかないことでした。 (中略) こうした事情が、山と水とが関連する個所に、つまり山荒れ・水荒れが同時に起る場所に、〝水神・山の神〟をしずめの神としてまつる、有力な原因となったものとみられます。〝水神・山の神〟の碑が山峡の橋のたもとに、あるいは川をみおろす山裾や、川淵などみられるのはこのためですが、もう一か所、水源となる山にもみられるのは、山の神と水の神とがここで結び合って、水の供給源となることを物語るものにほかなりません。

松山義雄 (1961) 『山国の神と人』未来社、pp. 136
-137

「松山」氏の見解には、まったく賛同するところなのだが、ただ祀る人々の意識の上では、災害の恐怖が優勢し、荒ぶる神を鎮めることが強調されるかも知れないが、信仰の順序としては、やはり水の供給源となる山に対する崇敬の念が先立つと捉えるのが理に適っているようには思われる。何故なら、荒れ狂う神を鎮めることが当初の目的ならば、それは水が「普通に流れている状態」は所与のものとして前提視する考えに基づくからであり、敢えて平常の状態の水に感謝したりする必要もなく、分水点などに碑を建てる必要もないからである。それでもなお平水を祀りたいと云うのなら、橋袂や川淵などで同時に行えばよいので、実際、普段はそうしているはずなのである。まず始めに荒れ狂う神を鎮め、ついでに普段の恵みを遠く離れた分水点などに出向いて感謝しようと云うのは、やはり手順が逆である。普段、その恵みに感謝している神に対して、荒れ狂ったときに被害の出やすい地点で改めて手向けをする、と云う方が筆者としては納得がいく気がするのである。いずれにせよ、筆者が云う「みくまり」の信仰と云うのは、おおよそこのような心性のことなのである。


3) 水の湧き出づる聖域 山上の湧水―

ここまでに述べてきた、川の合する聖地、あるいは分水嶺としての聖地、と云う観点の他にも、「秋葉山」の「水神」的な性格を表わす事象がある。むしろ、「秋葉信仰」の自覚的な意識を辿るならば、この残された点こそが、伝統的には最も強調されてきた、と云うより、唯一、明確に言及されていたものだと云える。

「秋葉山」の発祥に関する伝説に、後に「機織井」と呼ばれることになる山上の井戸が深く関わっていることは、かつてはかなり知られた事実だったようである。例えば、「掛川藩」の藩撰の地誌である『掛川誌稿』には、この井戸が次のように紹介されている。これは、「正一位秋葉山大権現略縁起」を参考にしているようなので、念のためこちら該当部分も後ろに併記する。

機織井 本社の西北にあり。縁起云、秋葉寺と号する意趣は、上古此山水なかりける故住僧なけきて、観音及守護神へ祈祷しぬれば、三尺坊観世音眷属天竜鬼神感応ありて、山上震動雷電して、一夜の中に西北の隅に清水涌出たり。時人歓喜踊躍して、水中を見れば、潔くして白玉二つあり。又蝦蟇一匹背に秋葉の二字をいただき游き来る。因て寺を秋葉と号す。(中略) それのみならず、彼清水の辺に、寛永年中山婆出現して機を織る。夫より此水を機織の井と名づく。 (中略) 大旱の年には此水をかへ雨乞すれば必験ありと云。

斎田茂先・山本忠英/編 (c. 1805-1817) 『掛川誌稿』巻九、文化年間
刊本 (1928) 東海文庫本、復刻 (1972) 名著出版


秋葉寺と号する事上古此山水なかりしゆへ  (ママ) に住持観世音三十三身化現并守護神へ祈誓しぬれハ三尺坊大権現観世音眷属天龍鬼神感応有て山上俄かに雷電震動して一夜之内に西北の隅に当て清水湧き出たり時の人ゝ歓喜踊躍して水中を見れば潔き白き玉二ツあり是雲竜頤下玉然る処蝦蟇一疋カキアエル脊の上に秋葉の二字を戴きおよき来る是により寺を秋葉寺と号する也 (中略) 彼清水の辺に寛永年中山姥出現して機を織夫ゟ此清水を機織井ト号此井戸へ本堂より五丁あり蝦蟇ハ井戸の主と言伝たり。(中略) 不思議の霊水なり大旱の時此井戸を替雨乞すれハ果たして雨降る山姥権現御本社の脇にあり人に拝させす機織の井に御供水あり名水なり

「正一位秋葉山大権現略縁起」
田村貞雄/監 (1998) 『秋葉信仰』民衆宗教史叢書 31、雄山閣、pp. 274-275

上記の文から分かることは、「秋葉」と云う名称自体が、この山の山上付近に湧く湧水に由来すると云うことであり、そうである以上は、この湧水が、「秋葉山」の信仰を形成する非常に重要な基礎となったことは疑い得ない。しかも、縁起にあるように「一夜之内に西北の隅に当て清水湧き出たり」などと云うことは実際にはあり得ないのだから、「秋葉山」が聖地となったのはそも、この湧水の故であると考えた方が筋が通っている。このことについて、「野本寛一」は次のように云う。

いかに信仰の力とはいえ、ある日突然八六六メートルの山上に井戸が出現するはずはなく、右の伝承は転倒させて考えるべきであろう。すなわち、秋葉山が聖山として信仰された要因の一つに、八〇〇メートルの山上に湧出する清水がかかわっていたことはまちがいないだろう。これこそ神秘であり、水があればこそ修験者も足をとめ、三尺坊大権現・秋葉寺もこの山上に根ざすことができたのである。

野本寛一 (1998) 「火と水の信仰」
田村貞雄/監 (1998) 『秋葉信仰』民衆宗教史叢書 31、雄山閣、p. 20

上の伝承は、「秋葉山」の「水神」的な起源を我らに示唆するだけでなく、もう一つ非常に興味深い含意を含んでもいる。それは、「秋葉」と云う二文字を自らの背中に顕現させた「機織井」の主が、「蝦蟇」であるとされていることである。

「蝦蟇」あるいは「ヒキガエル」は、古来「タニグク」と呼ばれ、霊的能力を持つ生き物として認識されてきた。『古事記』に、「少名毘古那神」が登場するときも、
「多邇具久 たにぐく 」が「久延毘古 くえびこ 」がその神名を知っていると告げている。ちなみに、「久延毘古」とは、「案山子」のことと考えられている。

大国主神、出雲の御大 みほ の御前 みさき  に坐す時、浪の穂より天の羅摩 かかみ 船に乗りて、鵝の皮を内剥に剥ぎて衣服に為て、帰 り来る神有りき。爾に其の名を問はせども答へず、且 また 所従 みとも の諸神 かみたち に問はせども、皆「知らず。」と白 まを しき。爾に多邇具久白言 まを しつらく、「此は久延毘古ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、即ち久延毘古を召して問はす時に、「此は神産巣日神の御子、少名毘古那神ぞ。」と答へ白しき。

『古事記』上巻

上記の文は、「小子神」としての「少名毘古那神」を強調しようとしているくだりであるから、文中の「鵝 (=鵞) 」は、明らかに「蛾」か何か別の小さな生物だろうと推測されている。「蝦蟇」は、ここでは霊力のある存在として見られているほかに、地を這う背の低い生き物として描かれていることは間違いない。「案山子」は、それが「民俗学」的には「蛇」を表わすことはここでは取り敢えず置いて、本来、害虫・害鳥・害獣除けであるその機能を鑑みると、前回記事で見たように、太古の日本人が、そのような「日常」の生活を乱すものを「非日常」としての「異界」から来たものと見なして、祭儀やそれに由来する札などを通して、正しい手続きの下で「あの世」に送り返さねばならないと考えていたことは、前回の記事である程度丁寧にみたことである。上の『古事記』の文章でも、「少名毘古那」が「異界 (=常世) 」からやってきたことを象徴的に宣言するのが、「この世」と「あの世」を結ぶ境界に立つ「案山子」の役割なのだと考えられる。そう云った意味では、やはり「蝦蟇」も、そのような性質に近接するものとして理解されていたものと思われる。

そもそも、「蛇」にせよ、「蝦蟇」にせよ、どちらも「虫扁」で表わされるのであるから、その共通性も考慮に値するのかも知れぬ。漢字としての「虫」は、元は頭の大きい「蛇」を象った象形文字で、一般には「蝮=マムシ」の原字とされる。この文字を三つ重ねたのが「蟲」と云う会意文字で、これが我らが普段使用している意味での「虫」の正字である。意味的には、這い回る様々な「虫」様のもの、と云う程度で、やはり本国の中国でも「昆虫」などを指すことが多かったようである。ただし、「中国」では、「両生類」「爬虫類」あるいは「芋虫」「蚯蚓 みみず 」状の、地を這い回る生き物だけでなく、動物一般を「虫」と表わすこともあったようで、実際の出典は示せないが、用例としては「羽虫」「毛虫」「甲虫」などがそれぞれ「鳥類」「獣類」「亀」を意味すると云うから、我が国語とは随分違っている印象がある (日本語ではそれぞれ「はむし」「けむし」「かぶとむし」となってすべて「昆虫」の概念に含まれることになる) 。さらには「鱗虫」で「魚類」、そして「裸虫」で「人類」を指すと云うのだから傑作である。もっとも、我が国でも「江戸期」の「大井川」の渡し人足を俗に「はだかむし」と呼んだと聞いたことがあるから、こちらはこちらでなかなかなのかも知れない。国語辞典で調べると、概ね「衣服を持たない貧しい人」と云う説明があるから、おそらくこの系統の言葉だったのだろう。

問題は、「虫」類の漢字としての意味ではなく、国語としての意味である。『岩波古語辞典』によれば、「虫/むし」とは、「人・鳥獣・魚・貝類以外の動物の総称。昆虫やヘビ・トカゲ・ミミズ・ヒルなど」と云うのが、第一義となっているから、やはり「中国」的な解釈とは若干異なり、大体「毛がないもの・這い回るもの・くねくねしたもの」と云った共通項を見出せそうである。概して云えば、一般的な見解に従えば、「気持ち悪い感じのする生き物」と言い換えることも出来そうである。

ただ、悩まされるのは、この辞典の第三義にある「回虫などの寄生虫。また、それが原因となっておこると考えられていた腹痛。陣痛の意にも使う」である (特に後半部) 。第四儀「子供の体質が弱いために起る諸種の病気を広くいう語。特に疳の俗称。虫気」や第五儀「癇癪」も、基本的に同系統の語義と考えられる。

「回虫」は、体の中で増え過ぎると肛門や口腔から出てくることもあり、おそらく古代人もその存在は知っていたと思われるし、それとお腹の具合との間にある何らかの因果関係は、薄々と理解していたものと思う。ましてや、「回虫」などは、細長く、青白い、くねくねしたもので、我が国の「むし」の範疇に見事にはまるものである。そこで原因不明のお腹の痛みなどは「虫」のせいにした、と素直に考えらることも出来るのである。

しかし、問題となるのは「陣痛」である。「回虫」と「腹痛」の因果関係が分かっていた人々が、「妊娠・出産」と「陣痛」の関係を理解していなかったと考えるのには無理がある。したがって、実は「虫」には、上記の辞典に言及されていない別のイメージ性が付与されていたのではないかと、筆者は疑いたくなるのである。

そもそも、日本語には、「虫が好かない」だの、「虫酸が走る」だの、「虫の知らせ」だの、ここまでの「虫」の説明では説明しきれない慣用句が存在する。「弱虫」「泣き虫」などもその仲間だろうし、疑えば用例の数はもっと増えるだろう。筆者は、これらの用例の裏に、どうしても「気味が悪い、得体の知れないもの→普通でないもの
非日常的なもの」と云う意味の推移が隠されている気がしてならないのである。太古の人々にとっては、得体の知れないものであればあるほど、その「非日常」的な霊力は高いと考えられた節があるのだ。

そして、「陣痛」は、特に示唆的だと云える。もちろん、ただの「回虫」系の理解の比喩だ、と済ませてしまうことも可能だが、「女性のケガレ」と云う観点から見ると、あれほどまでに「お産」の扱いに神経を使った人々が、「陣痛」もまた特殊な信号として見なさなかったと考える方が不自然である。「お産」は、既に何度も述べてきた通り、「異界」から「この世」へと新たな生命を生成させる行為であり、そこには「境界侵犯」の力が大きく働くのである。このような「侵犯」行為は、正負のいずれの向きにも非常に大きな力を発揮するので、特にその扱いに気を配らねばならない、と考えるのが、我が国の「ケガレ」観の根幹にある心性ではないかと筆者は考えているのだから、「お産」に関わる「陣痛」がただの「隠語」程度に「虫」の比喩で云われたのではないと思う。古代人のイマジネーションにあっては、「虫」には、この「侵犯」行為に正しく立ち会い、正しく贈ったり迎えたりする霊力 (=供えもった性質としての能力) があると考えたのではないだろうか。したがって、「回虫」の話さえも、実は現代の医学的な理解としての腹痛との因果関係ではなく、むしろその霊性の故に「腹痛」と云う「障り」を引き起こすと考えたのではなかろうか。

このように考えると、『古事記』の「
少名毘古那神」の登場の場面での「蝦蟇」と「案山子=蛇」の役割と云うのが、一層はっきりとしてくるのである。そして、そのことは「正一位秋葉山大権現略縁起」における「蝦蟇」の役割とも明確に対応しているのである。しかも『古事記』では「
少名毘古那神」が寄り来たる場所は海辺の岬であり、「略縁起」では湧水あるいは井戸と云う、古来、「異界」との「境界」をなすと考えられて生きた場所なのである。

*

以上見てきたように、「秋葉山」の信仰には、通常思われているよりも、遥かに根源的なレベルで水の信仰が関わってきているのである。大地から水が湧くと云う現象が、「無」から「有」が生成する、あるいは大地そのものが水へと「変成」する契機として、おそらくは太古の人々を、信仰心が興るまでにその神秘で魅了し尽くしただろうことは、前回記事で丁寧に述べたところである。湧水でさえそうであったものを、「塩水」ともなれば、それはなお幾層倍神懸かりのものに見えたことだろう。

もちろん、筆者は「秋葉山」の信仰が、すべて「水神」信仰に由来すると云っているのではない。むしろ、一次的には、「焼畑」に関わる「火の神」ではないかと思っている。ただ、この「火の神」と云うのは、森林を伐採して、焼き払うときに、「火」の延焼を防ぐために祈る神であると云うよりは、森の木々を焼き払うことと、そこに住む動物たちを追い払うことに対して、「山の神」に許しを乞うためだと云う意味で、前回記事で少しばかり記した「山の神」の系統の信仰に接近するのではないかと考えている。「水神」としての信仰も、実はこの「山の神」の観念を媒介して、「火の神」に結びつけられるのだと思う。

今回は、具体的な理論化には至らなかったが、上の問題意識で、「秋葉信仰」の周辺を問い直していると、偶然にも、「焼畑」と「海」と云う対照的な観念の潜在、そして同時に「茶 (=焼畑) 」と「塩 (=海) 」と云う生活物資の民俗的な歴史と出くわすことになってしまった。


おそらく「野本寛一」氏も、似たような問題意識を持って「火と水の信仰」の小論をものしたのだと思うが、その中で、「秋葉山」の「水神」的な特質を確認した後、「この水に対する信仰こそが、あの絶大な防火神・火伏せ信仰の根源になったということである。素朴で土着的な水の信仰が、やがて修験道と結びつき、火伏せ信仰として展開されてゆくのである。」 (野本、1998、p. 21) と述べている。筆者も同感なのだが、氏も、筆者同様、この点に関しては、まだ検証、および論証が必要とされているようである。



4. おわりに

最後の節では、第三節での「秋葉信仰」を巡る考察は、まるでなかったことであるかのように無視して、「山船生・秋葉神社」での「猫神」探訪へと戻っておくこととする。

「羽山神社」と「秋葉神社」の「猫神」探訪は、かくして大変満足のいく形で終わった。一時は、崖の上の「秋葉神社」には行けないかも知れないと考えたほどだったが、これもジーンズを泥だらけにして、雨にぐずついた急斜面をほぼ四つん這いで登ると云う荒技を駆使して克服した。唯一、心残りがあるとすれば、いつものことながら、カメラの腕が悪すぎて、逆光の中、「猫神」碑の碑面をきちんと判読可能な状態で撮影出来なかったことだけである。しかし、それもこの日の悪天候を考えれば、まあ、許容範囲内である。

羽山神社・登山道入口
坂を下りきった合流点にある案内板

車で「十王堂」の前を過ぎて、参道手前の坂道に出ると、下へと向かって左折したのだが、来た時と違って、この時はこの坂を下りきることにした。案の定、来るときに「羽山神社入口」の石柱のあった角の、ほんのわずかばかり先で、元の道に合流した。ここの角には、「羽山登山道入口」と云う木製の案内板が立っていた。別に、ここを登ってきても問題なく「羽山神社」には行けた訳である。

ここからは、次の目的地となる字「大小」地区にある「日吉神社」へと向かうばかりなのだが、筆者らが「羽山神社」を後にした頃合いから、雨が再び激しくなり始めていた。「大小川」に沿って車を走らせていると、道路脇に駐車している自動車の下で、地元猫が雨宿りしているのを発見した。しばらくは雨降りだな、とまるで悟りきったような様子で横たわっているところを、筆者が写真に収めようと接近すると、一瞬だけ首をもたげた後、何だ写真か、と云わんばかりにまたぐったりと寝てしまった。

羽山神社・近くの猫
猫様、発見!!

羽山神社・近くの猫02

今日は、もう雨はやまないかにゃ~

この悠然たる猫様に別れを告げ、筆者らは「日吉神社」を探しに、雨の山道を急いだのであった。

* ちなみに、この稿における石碑の材質や計測値については、すべて「石黒伸一朗」氏の下記の論文に拠ったことをお断りすると共に、謝意を表したい。

「羽山神社」周辺の地図は、こちら。




参考文献

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・『福島の山 浪漫紀行』http://alco-inf.hp.infoseek.co.jp/
・『福島の山々』http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/index.htm
・『丸森の巨石伝説』http://zuiunzi.net/igu/index.html
・『小國神社』公式HP・http://www.okunijinja.or.jp/facilities/subordinate/
・『図説森町史』http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/sigh/choshi/choshi-50.html
・『久米吉』HP・http://www.kumekichi.co.jp/

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