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長野県の猫神・建部神社の唐猫様

.31 2011 中部地方 comment(0) trackback(0)
※本稿中の「唐猫」分布に関する表類 etc. を、新しく改訂しました (07/04/2012) 。

建部神社

東筑摩郡山形村 5094

建部神社・唐猫

「建部神社」の「唐猫様」
「古川敏夫」氏・提供

1. はじめに

「長野県」の地誌・民俗、あるいは民話・伝説などに興味のある人は、「上田市下塩尻」「坂城町鼠宿」「長野市篠ノ井」などに伝わる「唐猫伝説」のこと (以下、「塩田平の唐猫伝説」と言及する) は、先刻承知のことと思う。その知名度を考えるならば、「長野の唐猫」伝説を紹介するとき、本来なら、こちらの伝説から始めるのが妥当だと云えるかもしれない。筆者も当初は (と云っても数年前のことだが) 、そのつもりだったのである。だが、「長野県」の「唐猫」についてこの数年間調べているうちに、気が変わったのである。

しかし、そうは云っても、「篠ノ井」の伝説に馴染みのない人のために、便宜上、その伝説の骨子を、はじめに紹介しておくのも何かの役には立つだろう。ただし、細かい内容や諸伝による異同については、気にしないこととする。そして「塩田平の唐猫伝説」そのものに関しては、いずれ別個の独立した記事で詳しく紹介していきたいと思っている。

昔、今の「佐久」から「小県」にかけてが大きな湖だった頃、今の「鼠宿」に巨大な鼠が現れ、田畑を荒らして人々を苦しめた。 困った村人は、「唐」の国から大きな「唐猫」を連れてきて、鼠と対決させた。鼠は岩を登って逃げたが「唐猫」に追いつかれ、岩を噛み破って逃げようとした。すると、そこから一気に湖水が流れ出して、鼠も猫も飲み込んだ。この時、出来た流れが「千曲川」で、食いちぎられた断崖が、現在の「半過」と「塩尻」の「岩鼻」であると云う。結局、「唐猫」は「篠ノ井」の「塩崎」にたどり着いて死んたが、鼠は上がらなかった。このため、「岩鼻」の北の地を「鼠宿」と云い、「塩崎」の「唐猫」と呼ぶ地は猫が流れついた場所だと云う。人々は、この地に「唐猫神社」を造って猫を祀り、鼠は「鼠大明神」として「岩鼻」に祀った。

(文責・筆者)

今回は、この「塩田平の唐猫伝説」を足がかりに、「長野県」の「唐猫」の旅を開始したいと考えている。しかし、敢えて前置きしておくならば、この旅は始まったばかりで、およそ完結に近づいたものではない。そのため、これからの一連の「唐猫」に関する記事で、何かしら早急な結論を申し述べることもないし、仮に書いたとしても、そのほとんどが考察途中の事柄になると云うことを御断りしておきたい。

一方で、今回の記事において、「唐猫」の周辺を広く漁って、今後の議論の展開の土台にしたいとも考えているため、「建部神社の唐猫様」などと銘打っておきながら、現実は、筆者の「唐猫・総論」の「序曲編」のような体裁になっていることを御承服いただけると幸いである。したがって、「建部神社の唐猫」そのものに関しては、この記事の後半になるまで登場はしない。



2. 「唐猫」の周辺

全国の「唐猫」伝説を調べ始めた頃、「篠ノ井」の「唐猫」伝説について資料を集めている段階で、筆者はいくつか気づくことがあった。その一つは、「長野県」には、「篠ノ井」の伝説以外にも、「唐猫」の絡んだ、あるいはそれに絡むと疑われる伝説や信仰が所々に散在していると云うこと、そして、そのことが全国的に見ると、かなり珍しいことなのだ、と云うことであった。

二つ目のことは、一方で、それらバラバラに分布している「唐猫」伝承に、必ずしも強固なつながりを感じ得ないと云うことである。最もよく知られた「篠ノ井」の伝説とのつながりさえ、ほとんど見つけられないのである。これは取りも直さず、各地の伝承に共通するのは「唐猫」と云う言葉と、それが何かしらの寺社に関わっていると云う事実だけだと云うことを意味するのである。

三つ目のことは、全国的には珍しい「唐猫」の伝承が「長野県内」に多いと云うだけでなく、「長野」の南に接する「愛知県」にも若干見られる* と云うことである。「愛知県」では「唐猫」は、ほぼ明確に「狛犬」のことを指しているようなのだが、それでも遺物の残っているものに関しては、造形は「長野」の「唐猫」の遺物との類似性もないとは云えないため、何らかの関連があったとも疑えるのである。

* 「愛知県」の「唐猫」---「豊川市」の「法住寺」、「岡崎市」の「糟目犬頭神社」、「名古屋市」の「大直禰子神社」に「唐猫」の遺物、あるいは言い伝えがある。

「千曲川」の下流域に当たる「新潟」地方では、直接「唐猫」を語る伝承はいまだ発見するに至っていないが、現在の「長岡市」に含まれる地域を中心に、「猫」に関する伝説や信仰が濃厚に残る地方ではある。しかしそれらの中でも、「佐渡市・高瀬 たこせ 」の「相川・七浦海岸」に残されている「猫」譚が最も筆者の注意を引くのである。詳しくは、いずれ発表する「猫神探訪」の「新潟編」の中で別個に紹介したいと考えているので、ここではほんとにさっと紹介する。
 
七浦・猫岩02
「七浦海岸・大浦・猫岩」
佐渡島「大佐渡巡り」より
http://choichi.cocolog-nifty.com/photos/sadonoi/04_088.html

七浦海岸の猫岩


「伊弉諾尊 いざなぎのみこと 」と「伊弉冉尊 いざなみのみこと 」の夫婦は、「高天原」の神々に命ぜられた島産みに疲れ、七番目の「佐渡ヶ島」を産み終えた後、神々の目を盗んで、二人の分身を造って島産みを任せると同時に、「猫」を造って見張りに立てた。しかし、やがて「猫」の大欠伸が「高天原」に聞こえ、二人の策は露見する。怒った神々は、分身と「猫」と、そのとき二人が乗っていた舟を岩に変えたと云う。分身は「夫婦岩」、「猫」は「猫岩」、舟は「帆かけ岩」になったと伝えられる。

(文責・筆者)

上の伝説は、一見、「塩田平の唐猫伝説」と似たところはないのだが、「地形変成」神話に「猫」が関わっていると云う点で、二つの伝説は接近するのである。その上、「海」あるいは「湖」と云う本来、「猫」が活躍しそうにない「水界」との強い関連も、双方に相通ずる特徴として指摘しうると思う。そして、「地形変成」の最初の切っ掛けが「猫」にある点も同じである。また、このような共通項を持つ伝承は、「長野」にあってさえ今のところ筆者は見つけていないと云う事実が、なお一層、そのわずかながらの類似さえも際立たせているのである。そもそも、伝説などと云うものは、あまり露骨に似ているものは、近い時代に直接伝播した関係にあると疑われるものだから、筆者としては構造的な類似の方により興味を引かれると云うこともある。

面白いのは、この「佐渡の猫岩」の話と、「塩田平の唐猫伝説」以上にはっきりとした構造上の類似関係を示す伝承が「島根県・浜田市」の「唐金海岸・畳ヶ浦」にあると云うことである。しかも、この話には、「唐猫」が登場するのである。いや、正確には、「唐猫」は登場しないのだが、「唐」から渡ってきた「猫」が登場すると云う意味では、ただの「猫」よりは「唐猫」にぐんと近いと云ってもいいだろう。以下、これもさっと概観する。

猫島
左「猫島」、中央「犬島」
万葉の旅・辛の崎HPより
http://blowinthewind.net/manyo/manyo-karanosaki.htm



畳ヶ浦の猫島

「石見国分寺」の堂塔が太陽を遮り、「唐」の作柄に影響したため、「唐」から「赤猫」が嵐に乗じて一夜でやってきて、「国分寺」を焼き払おうとするのだが、「唐金沖」まで来たとき、「日本の犬」がこの「猫」を見つけて追いまわし、もろともに凍てつく海に飛び込んで死に、そのまま「猫島」 と「犬島」になったと云う話。

(文責・筆者)

上記の伝説で「猫島」「犬島」と呼んでいるのは、もちろん「佐渡」で云う「猫岩」などとまったく規模の変わらぬものである。敢えて云うならば、こちらの「猫島」は、「佐渡の猫岩」のようには、「猫」の形はしていない。

さて、「佐渡」と「石見」の伝説との間にある「地形変成」譚としての類似は、かなり明らかであろう。また、どちらも「海中の島/大岩」になると云う点でも共通している。そして「石見」の「猫島」の方が形態上「猫」に似ていないと云うことからも、二つの「地形変成」譚を、形の類似から来た偶然の一致として一笑に付すことも出来ない。

しかし、「佐渡の猫岩伝説」を挟んで、目を「長野」に戻すと、何よりもこの「石見の伝説」と「塩田平の唐猫伝説」との間の構造的な類似は、目を見張るばかりである。「猫」の善悪の立場 (語る側から見た) こそ逆転しているが、「唐 (海の向こう) から来た猫」と云う主モチーフの他に、「作物に対する害」や「二匹の敵対する動物の追いかけ合い」、それに「水死」と云う、大きなモチーフが「塩田平の唐猫伝説」と共通しているのは、俄然、注目に値する。「岩鼻」の聳え立つ岸壁を崩すと云うモチーフも、巨大な「国分寺」の堂塔を壊すと云うモチーフと、緩くだが、関連しているように思われる。

その上、上に挙げた三者に共通しているのが、それぞれの伝承に登場する「猫」の象徴的な役割である。いずれの場合でも、「地形変成」の最初の原因素として「猫」は存在しており、物語の中では「変成」を内包する兆しとしての位置に置かれている。そして、「猫」の具体的な行動の描かれ方に関しても共通した特徴がある。それは、常に中途で行動の目的遂行を遮られると云うことである。「篠ノ井の猫」も「佐渡の猫」も「石見の猫」も、みな鼠を追うなり、見張りをするなり、「国分寺」を焼くなり、それぞれの目的を持った直線的な行動を「宙吊り」にされ、首尾半ばにして、カタストロフィックな収束へと物語を導いているのである。

これらの説話で、「猫」は純粋に「変成」の発端に過ぎず、事件全体の経過の発端とはなっていないのである。にも関わらず、その「変成」を通して、最終的には事件全体の収束を呼んでいる、と云う点でも不思議な話素となっている。そう云った意味では、「猫」は、主要なキャラクターに見えつつ、実はその話における「変成」の媒介者として屹立しているばかりなのである。言い換えれば、「変成」の過程や結果などの具体的な形象を表すのではなく、「変成」と云う抽象的な概念そのものを表象しているとも云えそうなのである。それは「パンドラの箱」や「浦島太郎」の「玉手匣」のように、それ自体は空っぽの記号として存在し、それに触れた (開けた) 瞬間に、豊かな意味空間を解き放つかのようである。そして、その点でも「諸物/概念」や「時間」と云った特定の意味を指示していた前記の二つの「箱」よりも、「変成」そのものを指示する「猫」の方がさらに抽象度が高いとさえ云えることは、今後の議論の展開で自ずと見えてくる事実だと思う。「地形変成」は、飽くまでも「猫」のもたらす「変成」の極く小さな一局面に過ぎないからである *。

* 竜宮の猫---「熊本県」の「天草地方」には、「天草版・浦島太郎」とも云うべき「竜宮の猫」の話が伝わる。実際には、「浦島太郎」よりも、よほど「はなたれ小僧様」の話に似るのだが、神様に薪を差し上げると云う善行の返礼に「竜宮」に招かれ、帰りに不思議な土産をもらうと云う点で共通している。ただ、この説話では、主人公がもらうのは「金の糞をひる猫」であるのが、筆者の興味を引くのである。この猫も、結果的に貧乏人を富豪へと「変成」させる契機となると云う意味で、やはり「変成」を象徴している。原話は、濱田隆一 (1932) 「肥後天草島の民譚 (四) 」『郷土研究』六巻三号、郷土研究社に所収。同工の説話が、「長崎県・南高来郡・湯江村」 (現・島原市) でも伝えられている (山本靖民、1929) が、これは前記の説話と同じ一続きの「天草・島原地方」のことであり、隣県とは云え同一のお話だと云えるだろう。ちなみに、「沖縄」にも「黄金小猫」と云う類話が伝わる (下田、1984) 。「福岡県」にも類話が伝わる。

しかし、議論を理論的な方面に導く前に、もう少し具体的な話しを尽くしておかねばならないだろう。そこで、話題を三つの「猫」譚の類似性の話に戻すとしよう。これに関しては、もちろん、この程度の類似などさしたることはないのではないかと思われる向きもあろう。しかし、上記の類似の特異性を理解するために、全国に点在する「唐猫」の分布の貧困と、それら同士の類似の乏しさを振り返ってみれば、小さな類似でも大きな意味があることは一目瞭然となる。

そこで「唐猫」と云う言葉が、各地の伝承や遺物の名前などに登場する事例を探ってみると、筆者は一都二府十三県において、そのような事例を見つけることが出来た。具体的に挙げると、「青森県」「岩手県」「宮城県」「茨城県」「東京都 (三宅島) 」「神奈川県」「静岡県」「新潟県」「長野県」「愛知県「大阪府」「京都府」「兵庫県」「愛媛県」「熊本県」「鹿児島県」の十六の都府県である。探せば、きっともっとあろうかとは思うが、いまのところ、この数が筆者の調査能力の限界である。しかも、これらのうち「神奈川」「新潟」「大阪」「京都」のものは明白に「中古文」の文献的な意味 (『枕草子』『源氏物語』『更級日記』などの系譜) での「唐猫」を継承した語彙と見ることが出来、「長野」などに見られる、「変成」を具象化した記号としての「唐猫」とは根本的に概念が違っていると思われる。「兵庫」の例は、単に他の言葉から転訛したのではないかと疑われているため、現在のところ、評価が難しい。それでも、それらを網羅すると、以下の二つの表のようになる。

表1. 全国の「唐猫」伝承 (改訂版)
府県伝承地内容 etc.
青森津軽地方昔話の化け猫譚に「唐猫」登場。
青森津軽地方三毛猫を「カラネコ」と云う。 (『日本方言大辞典』)
青森津軽地方ねんねこ ねんねこ 寝えたこへ
  寝んねば 山がら モコぁ 来らね
  姉さま育でだ 唐猫
 (工藤・斎藤、1963)
青森〽かささき看板、唐猫コ、
姉コそだでた、ぶぢ猫。
 (北原、1949)
岩手気仙郡
三陸町
 (現・大船渡市)
「唐猫」の「猫檀家」伝承。
岩手盛岡市濃い茶トラを「カラネコ」と云う。
岩手三陸地方白黒のブチ猫を「カラネコ」と云う。
宮城南三陸町
歌津
田束山の「カラ猫」伝承。
宮城丸森町
水沢
「カラ猫」の「猫の踊り」譚
宮城〽仙台で、仙台で、大町ころの中頃で、
鼠一疋つかまえて、月代剃って髪結うて、
牡丹餅売りに出したれば、隣の唐猫ちょっと出来て、
牡丹餅がらみに占め込んだ、占め込んだ。
 (北原、1949)
秋田茶トラを「カラネコ」と云う。
茨城下妻市
高道祖
「唐猫塚」の伝承が二つ。
1) 「猫の踊り」系
2) 「椀貸し淵」系
東京三宅島泣く子に「薬師様のカラ猫だぞ」とおどかす。
神奈川称名寺
千光寺
「金沢猫」の祖としての「唐猫」伝承。
静岡御殿場市赤子に取り憑いて高熱を出させる「フーライ猫」を
退治するのに「カラネコ」と云う罠を使った。
新潟柏崎市
女谷・鵜川地区
高原田・下野
「重要無形民俗文化財」の「綾子舞」の狂言「唐猫」。
帝の大切にしている「唐猫」がいなくなり、
主人公・平六は、父親がそれを隠していることを知り、
父の命を助けるために帝に働きかけると云う筋。
新潟佐渡黒猫を「カラネコ」と云う。 (『日本方言大辞典』)
岐阜東飛騨地方鼠や小鳥を捕るための罠を「からねこ」と云う。
(『日本方言大辞典』)
長野別表参照別表参照
愛知別表参照別表参照
京都浄蓮寺
附近
浄蓮寺附近の猫塚に葬られているのが「唐猫」とも。
『雍州府志』陵墓門・愛宕郡にある「猫塚」に関して、
関靖 (1938) 『かねさは物語』は「私は是も亦唐猫を
葬つた塚ではなかつたらうかと考へる」と記している。
「金沢猫」からの「関」の個人的な術懐と思われる。
大阪四天王寺「猫の門」の「眠り猫」などと呼ばれるが、元文四年
(1739) 『四天王寺伽藍記』には「からねこ」とある。
兵庫たつの市「搦手谷」が「唐猫谷」に訛ったとも。
『西播怪談実記』巻四ノ十一に
「城の山唐猫谷にて山猫を見し事」と云う記事がある。
愛媛新居浜市地形地名。「唐猫鼻」。
熊本荒尾市地名。「熊本県荒尾市水野字唐猫」。
同市内「中一部」に「猫宮大明神」の伝承あり。
宮崎宮崎市高岡個人の祭祀する祠「カラネコ様」。木像あり。
鹿児島霧島市
国分敷根
明治四十四年 (1911) 三月二日『秋田魁新報』に、夢の
お告げで「唐猫」の木像を発見したと云う記事あり。
旧・姶良郡敷根村。
鹿児島霧島市
隼人町内
国分八幡
「本藩の俗、神前の隼人狗をから猫といふは
狛犬より訛ことゝ見えたり

白尾国柱 (1812) 『倭文麻環』巻十一より
鹿児島日置市
東市来町
大字湯田
稲荷神社境内。自然石塔婆の表面に「正徳五乙未天 (1715) 」「奉建立以庚申供養唐猫一宇也」「二月吉祥日」とある。
狛犬のこと。
鹿児島鹿児島郡
三島村
竹島
聖大明神社。社殿前に石造の「唐猫」が一対。
正徳五年 (1715)
鹿児島「唐猫」は「狛犬」の方言名。
 (小野、1973)
番外近松門左衛門 (1701) 『唐猫変成男子』元禄十四年
一溪庵市井 (1805) 『復讐奇談・七里濱』文化五年
後者には、「唐猫の香器」。挿絵では白黒のぶち猫。

表2. 長野県・愛知県の「唐猫」伝承 (改訂版)
県名伝承地内容 etc.
長野上高井郡
高山村中山
山田大杉神社。本殿の羽目板に「唐猫」の絵。
「唐獅子」と呼ぶ人もいる。
長野上高井郡
高山村高井
浄教寺。村指定文化財の「十六羅漢の欄間」に、
「唐獅子」と「唐猫」の彫刻。
長野長野市篠ノ井
塩崎字唐猫
軻良根古神社。「篠ノ井の伝説」
長野大町市社宮本仁科神明宮の「唐猫様」。
長野東筑摩郡
筑北村坂井真田
修那羅峠・安宮神社の「唐猫大神」。
長野小県郡
青木村田沢
子檀嶺神社。文明七年 (1475) 作銘の「唐猫」一対。
長野上田市
富士山
唐猫社。北二キロに猫山観音堂あり。
長野上田市保野鼠除韓猫明神。鹽野神社の境内社。
長野東筑摩郡
山形村上竹田
建部神社。木造寄木造の「唐猫様」一対。
長野東筑摩郡
山形村小坂
諏訪社。元熊野社の石造の「唐猫」一対あり。
『村誌』には諏訪社自身の瓦製の「唐猫」一対の
記述もあるが、現在は行方不明。
長野塩尻市
上西条
常光寺。
護摩堂の秘仏「唐猫」 (非公開) と、
裏山「飯綱大聖不動堂」脇の「唐猫」の石碑。
長野塩尻市
北小野
木造の「唐猫」一対。資料館に展示。
愛知豊川市
御津町
赤根百々
法住寺。伝「左甚五郎」作の「唐猫」彫刻。
愛知岡崎市
宮地町
馬場
糟目犬頭神社。石造の「唐猫」一対。
愛知名古屋市
中区大須
大直禰子神社。「おからねこ」の伝承あり。
愛知魚の「アカザ」のことを「カラネコ」と云う
 (梅村、1993)


図 2. 「カラネコ」の分布 (旧版)
「カラネコ」の分布

直接「唐猫」の語は登場しないものの、「唐」の国との関連の中で、「猫」が語られる伝説は、既に紹介した「石見の伝説」以外に、上記の表1. に付記した「熊本県・荒尾市」の「中一部」に伝わる「猫宮大明神」の縁起がある。これも、以下に簡略に紹介しよう。

猫宮大明神


「唐船」との貿易で栄えた「一部村」の「せなが長者」は、どんな犬猫にも負けぬ強い猫を飼っていた。あるとき、「唐船」の船主の飼っている無敵の犬と、長者の猫とで勝負させて、飼った方が相手の財産をもらうと云うことになった。猫と犬は凄惨な闘いの末、猫が勝ち、犬は死んでしまった。長者は「金の茶釜」を手に入れたが、自慢の猫は、闘いの怪我が元で、数日後に死んでしまった。長者はこれを悔やみ、祠を建てて猫の霊を慰め、これが「猫宮」となったと云う。*

(文責・筆者)
 
* この他にも、1) 漁師同士の争いだった、2) 漁師の家で大切にしていた三毛猫を祀った、などの異伝もあるが、筆者は、こちらの方が古い形を遺しているのではないかと考えている。これは、各地に無敵の犬と奇怪な猫との対決と云う話素を含んだ話が、猟師伝承として点在しており、民俗レベルでは猟師と漁師は、しばしばパラレルの関係にあることが知られているために、筆者が抱いている感想である。おそらく、現在の「猫宮大明神」の伝説は、原話のイメージが地元の特定の旧家と結びつけられることで、「長者伝説」と合わさる形で再形成され、伝承されたのではないかと思う。
 
これは余談なのだが、この「猫宮大明神」の伝えと、「天草地方」の「竜宮の猫」 (二つ前の注を参照) の伝えとの間には、両者が見かけ上は全く似通っていないにも関わらず、強いパラレルが存在している。
 
唐 (海の向う)外界との接触竜宮 (海の向う/底)
金の茶釜 (猫の勝利)福の授与金の糞をひる猫
猫の死福の喪失猫の死
猫を埋め、祠に祀る喪失への対処猫を埋める
火除け・鼠除け (家財の保護)後日の加護黄金がなる南天が生える

ここでも双方の説話において、「猫」は純粋な「変成」の発端として、事件全体の経過の発端とはならずに、しかもその「変成」を通して、最終的には事件全体の収束を呼んでいる、と云う意味では、既に筆者が述べたように、「猫」は、説話中の「変成」の媒介者、あるいは「変成」そのものとして、自らを表象しているのである。したがって、「竜宮の猫」の話と「浦島太郎」の昔話が類似していることと、「金の糞をひる猫」が「玉手匣」と同様の象徴性を有しているのは、偶然ではなさそうなのである。

さて、この「猫宮大明神」の伝承の面白いところは、同市内の近く* に「唐猫」と云う「字 あざ 」があることであろう。「猫宮」の縁起では犬こそ「唐」の犬だったが、「猫」に関しては特にどこの猫とは語られていない。しかし、近くに「唐猫」と云う地名が残っていると云う事実を、この伝説とは無関係だと云うことにして不問に付すわけにはいくまい。この縁起は、「変成」譚としての性格はやや薄れてしまっているが、原型は「長者 (没落) 伝説」だったのではないかと疑わせる要素もあり、その意味では「変成」譚の名残は見られる** 。あるいは、地名に「唐猫」が残るほどであるから、かつてはこの「唐猫」の地に「地形変成」譚があった可能性すらある。そして、それ以外でも、「犬と猫」の闘争と云う主モチーフなどは、「石見の伝説」とはっきり通ずるのである。以上の点から、「熊本県・荒尾市」もまた、「唐猫」伝承地の一つとして考えてもよいのではないかと、筆者は考えているのである。

* 「猫宮大明神」があるのは「荒尾市一部」の「中一部字猫宮」なのだが、この「一部」と隣りの「水野」が国道208号・三池街道で接する辺りが「水野字唐猫」の地である。二つの土地は近接し過ぎていて、無関係と判断する方が証明を要するだろう。

** 「長者 (没落) 伝説」に関しては、「鳥取」の「湖山池」に伝わる「湖山長者」と「猫薬師 (干猫薬師) 」の話があり (荻原、1951 etc.) 、構造的には上記の「猫宮大明神」の伝えと強い類似性を示している。

さて、先に掲げた二つの表を一見すれば分かる通り、「唐猫」伝承に関しては、やはり、「長野県」の圧倒的な事例の多さに目を見張らされる。表1. を見た限り、今のところ、「長野」は、「唐猫文化圏」 (仮称) の中心地であると云っても間違いはなさそうである。しかも、面白いことに県北に事例が豊かで、南に行くと、その数は小さくなっていくのが見て取れる。これは南に隣接する「愛知県」が、三つとは云え、事例の数では全国で第三位であるのを考えると、やや奇異な現象と云えるだろう。そして、この「長野」県内の南北差と、「唐猫」伝承が「長野県北」と南隣りの「愛知」に色濃く伝わっていると云う単純だが一見矛盾する事実は、この伝承が「天竜川」を伝って両県の間を伝播したのではないと云う可能性を示唆しているともとれる。だが、このことに関しては、現時点では確定的な議論はしないこととする。この議論に本格的に手を付けるのは、もう少ししつこく「伊那地方」における「唐猫」の存在の有無を調査してからのこととしたい。

*

ここで視点を変えて、全国の「唐猫」伝承の分布を観察すると、「長野」を中心とする「中部地方」を除くと、「唐猫」の伝承地は、我が国の末端部に点在している傾向が見て取れる。「柳田國男」が昭和五年 (1930) に発表した『蝸牛考』において提唱したように、言葉は文化の中心で発生して次第に周囲へと広がっていくが、中心部では言葉の変遷が早く、周縁部では遅いため、新旧の言葉の分布は、文化的中心地から同心円状に層をなして残存する傾向にあることが、しばしば観察されている。

「唐猫」の場合、「長野・愛知」圏を除けば、大まかに周圏論的な分布の傾向を残していると云える。しかも、一方の端が「津軽」や「気仙」で、他方の端が「熊本」や「鹿児島」であることを考えると、その伝播の歴史は必ずしも新しいものではない可能性すらある。もちろん、「方言周圏論」は、万能の仮説ではなく、他々例外も見られる上、様々な副次的要因が働くことによって、伝播経路が変形されることもある。「唐猫」伝承の場合も、何故、「長野」周辺のみに色濃く残存したのかを読み解いていかなければ、早急に「周圏論」的な伝播があったとは断定出来ないのである。
 
* ただし、言語や文化の伝播に関して、山岳・高地地帯が、地理的な辺境と同様に働くことは、しばしば観測されている。元々、「周圏論」は、「中央文化」の権威と優位と云う点の他に、「政治経済的な僻地=地理的な周縁」と云う前提に立脚し、周縁地の方が交通などの発達が遅れ、かつ経済活動などの活発さが中央に劣るため、文化的な交流や交換が激しくないと云う要因にも支えられているのである。このことを考えれば、山岳・高地も、地理的周縁と同様の性格を有していることは明らかなため、「長野県」に「唐猫」伝承が多く残っていたとしても、それ自体は、「唐猫」の「周圏論」的な伝播を否定することではない、とも理解できる。
 
念のために、「方言周圏論」と反対の立場に立つ、「方言孤立変遷論」についても、触れておこう。これは「金田一春彦」が主に提唱したものと記憶しているが、中央から遠く離れた地方では、中央の言葉の影響が薄くなり、伝わりにくくなると云う前提から出発して、それ故に地方ではその言葉が地方独自の変化を遂げていくと云う考え方だったと思う。この考え方の場合、「周圏論」とは逆に、同心円の外側の地方の言葉ほど新しいと云うことになる。ただし、この理論は一見正反対に見える「周圏論」と両立することも可能で、しかも「周圏論」が「語彙」の変化に強みを発揮するのに対し、「孤立変遷論」は、「音韻」や「アクセント」などの変化を見るのに有効なのが知られている。

「唐猫」伝承の場合は、明らかに「語彙」の変化に注目すべき対象なので、「周圏論」的な視座が、当てはまる限りにおいては、その有効性を疑う根拠は薄い。今後、調査が進むに従って、どのような結論が出るかは分からないが、取り敢えず、その過程において、「周圏論」の見方を念頭に入れておくのは、無駄なことではないと思われる。



3. 「唐猫」と「泉小太郎」伝説

結局、筆者が「唐猫」伝承の全国的分布と、「長野」での分布などを概観して思ったことは、「唐猫」の伝播には異なる二つの時期に、異なる二つの「唐猫」の概念が、これまた異なった経路で広まったのではないかと云うことであった。仮に、ここでは筆者が想定した「唐猫」に関する二つの伝播経路に関して、時代的により早い方を第一波、時代がより下って伝播したものを第二波と呼ぶこととして、この二つの異なる時期の伝播と云う仮説を考えるときにも、「塩田平の唐猫伝説」は極めて大きな有用性を有するのである。

具体的な「唐猫」の遺物は別として、「伝説」面から見た場合、「長野県」を代表する (と云うことは、我が国を代表する) 「唐猫」伝説は、間違いなく既に紹介した「塩田平の唐猫伝説」であろう。

ちなみに、河川の合流する出会いの地などで、湖や海を裂いて土地を開墾したと云う、規模の大きい「地形変成」伝説の典型を一般に総称して「蹴裂伝説」と云い、これは各地に伝えられているのだが、「塩田平の唐猫伝説」も明らかにこの類型に属するものである。敢えて、「塩田平の唐猫伝説」の問題点を挙げれば、病魔・害獣調伏に話の力点が置かれていて、耕地開拓の色合いが薄れてしまっており、その意味では典型的な「蹴裂伝説」とは云えないかも知れない、と云うだけのことである。しかし、興味深いことに、「塩田平の唐猫伝説」のこの欠落を補うかのように、「松本・安曇平」には、「唐猫」の伝説よりもはるかによく知られた「蹴裂伝説」がある。「泉小太郎」伝説である。

この伝説は、第四代「松本藩主・水野忠恒」の命により、家臣の「鈴木重武・三井弘篤」が享保九年 (1724) に編修した『信府統記』の「旧俗伝」の中にも記されている民譚で、かつて昔話研究家であり、児童文学者としても活躍する「松谷みよ子」氏によって「龍の子太郎」と云う名で創作民話が発表され、後にアニメ化されたり、「まんが日本昔ばなし」のタイトルのアニメに使われたりして、一躍有名になった話の原話である。以下、『信府統記』の記述に沿って紹介する。

泉小太郎伝説

昔、「安曇・筑摩」の二郡の間は広大な湖水で、そこに「犀竜」が住んでいた。その東の「高梨」には「白竜王」と名乗る者がおり、「鉢伏山」で「犀竜」と交わって子をもうけた。「日光泉小太郎」と名づけられた子は、「放光寺山」 (現・松本市城山) 辺で立派に成長した後、恋しい母を訪ねて、「熊倉下田」の奥の「尾入沢」 (現・松本市島内平瀬/田沢の境) で、巡り会った。

「諏訪大明神」の変身であることを告げた母の「犀竜」は、自分の氏子を繁栄させるために、「犀乗沢」で「小太郎」を背に乗せ、「山清路」 (現・東筑摩郡生坂村山清路) の巨岩を突き破り、さらに下流の「水内」の橋の下 (現・上水内郡信州新町久米路橋附近) の岩山をも突き崩し、湖の水を落して、「千曲川」から「越後」の海まで乗りこんでいった結果、「松本・安曇平」に、人の住める大地が生まれた。そして、「小太郎」と母「犀龍」が通った「犀乗沢」から「千曲川」と落ち合うところまでを、「犀川」と呼ぶようになった。

その後、この土地には田地が開け、「泉小太郎」は「有明の里」 (現・北安曇郡池田町十日市場) に住み、子孫は繁栄したと云う。

参照・鈴木重武・三井弘篤/編 (1724) 『信府統記』「旧俗伝」享保九年
小松芳郎/解題 (1996) 『信府統記』国書刊行会

ここら辺りで、先に断っておきたいのは、「泉小太郎」伝説と「唐猫」伝説のどちらがより古くて、どちらがより新しいかを決定することは、「唐猫」の伝播の跡を追うに当たって非常に重要な土台となる作業なのだが、その決定を下すのは必ずしも容易なことではない、と云うことである。と云うよりも、そもそもこの二つの伝説が順序に関わらない並立の関係にではなく、時代のズレに基づいてほぼ重複する関係にあると云う定かな根拠さえ見つけられるかどうかは分からないのである。

したがって、この二つの伝説の新旧を純粋に抽出するのが筆者の目的ではなく、その過程で両者がどのように関わり合って、類似するモチーフの伝説を、異なる現在の形で伝えるに至ったかの歴史的な状況を把握するのが狙いである。特に、「塩田平の唐猫伝説」の「唐猫」が、「長野」の中央部よりも北に広く見られる他の「唐猫」と果たして関係するものなのかを見るためにも、この「唐猫伝説」が他の伝説とどのように絡み合うかを見るのは極めて大切な手続きだと云える。

そして、そのような絡み合いを想定するに当たって、筆者にとって重要な指標となっているのが、「上田市国分」に伝わる「小太郎屋敷」伝承の存在である。この説話は、筆者が別途に「弥三郎婆」あるいは「鍛冶屋の婆」の系統の説話を収集しているときにたまたま知ることになったもので、内容的には典型的な「鍛冶屋の婆」話である。以下、簡略に紹介する。

小太郎屋敷


昔、ある「六部」が「根津村」の「長命寺大日堂」にお篭りしていると、子猫が沢山集まってきては、「国分寺」の「小太ばば」来なけりゃ踊りにゃならん、と云って踊り、やがて大きな怪猫が嵐と共に入ってきて子猫達と共に踊り狂った。「六部」が仕込杖で怪猫を刺すと、血を滴らせて逃げていった。

翌日、「小太ばば」が「国分寺」門前の「小太郎」の家の老婆であることを知り、訪ねてみると、老婆は昨日足を痛めて寝ていると云う。「六部」がお薬師様の御加護を祈願して「小太郎」の家に乗り込むと、老婆は怪猫の本性を現して「尾野山」に逃げ込んだ。探すと、家の縁の下から老女の白骨が出た。「小太郎」は薬師様に願をかけ、「六部」の助けで「尾野山」に飛びつけて怪猫を仕留めた。今も「国分寺」の裏に「六部」の石塔があり、「小太郎屋敷」と云う地名も残っている。

細川修・松本清人 (1987) 「第十二編・口頭伝承 第三章・世間話」
『長野県史 民俗編 東信地方 ことばと伝承』一巻三号、長野県史刊行会、pp. 532-533

この「小太郎屋敷」の伝説は、「泉小太郎」の伝説とは、ほとんど接点がないものかも知れない。ただ、そうだとしても、「泉小太郎」伝説の優勢する地域の外縁にあって、「小太郎」と云う主人公が登場しているだけでも、仮にわずかだったとしても、そこに関連がまったく存在しなかったと云うのは、やや説得力を欠くように思われる。したがって、この説話を、また一つの「鍛冶屋の婆」伝説だとして、「唐猫」と特別からめることなく等閑視することは許されないのである。

そこで、世に流布する典型的な「鍛冶屋の婆」「弥三郎の婆」の伝承と、「小太郎屋敷」の伝承を比較した時、そこには非常に重要な点で相違があることに気づかされるのである。それは主人公としての「小太郎」の存在である。あらゆる点で、「鍛冶屋の婆」「弥三郎の婆」の典型譚に相似する「小太郎屋敷」伝説ではあるが、大切な主人公の位置づけと云うか、主人公そのものの設定が異なっているのである。「鍛冶屋の婆」説話ではほとんどの場合、主人公は廻国の人物 (例 : 僧、六部、飛脚、武士 etc. ) などであり、「弥三郎の婆」では当然ながら「弥三郎の婆」本人が主人公なのだが、「小太郎屋敷」では「六部」は脇へ押しやられ、神通力を得て怪異を退治するのも「小太郎」本人の役割になっているのである。このことを根拠の一つとして、筆者は、「小太郎屋敷」の説話の基底には、退化した「泉小太郎」伝説か、あるいはその原伝説が流れていると考えるのである。

そもそも、主人公の件を除いても、この二つの「小太郎」伝説の間には、一見して分かるほどの類似点はないにも関わらず、その基底の構造にはいくつか共通のモチーフが含まれているのである。以下、そのような点を四つ程挙げてみよう。


1) 主人公と母親の話である。
2) 主人公の母親は怪異に変化する。
3) 主人公は、神仏 (諏訪明神・薬師如来・観音菩薩 etc.) の加護を得る *
4) 主人公は、話のクライマックスで、神通力を得て、空を飛ぶ。

*
「泉小太郎」伝説は、「安曇野」全域に伝わっているが、そのような代表地の一つに「大町市」にある「大町ダム」附近の地がある。この近くには、「小太郎」が、母の「犀龍」と会った「尾入沢」や、「泉小太郎」の名前の元になったと云う「大町市常盤字泉」の地などがある。「小太郎」は晩年、「大町市常盤字仏崎」の「観音堂」の裏山に姿を消したと地元では伝えられている。ここにも「仏」や「観音」とのつながりが見られる。

さらに付加えるならば、「泉小太郎」伝説は、「松本盆地」から山一つ越えて「安曇野」の北、「上田盆地」に移ると、「小泉小太郎」伝説として別の形を有していることが広く知られている。そして、上記の「小太郎屋敷」の伝説は、実は、その「上田盆地」の「東御市祢津」から「上田市生田尾野山」にかけての地域に伝わる話なのである。

「泉小太郎」伝説が「松本」と「上田」に分かれて、異なる様相を伝えていることに関しては、早くは「柳田國男」が『桃太郎の誕生』の中で言及しており、後に「松谷みよ子」らによって両者を統合する形で創作民話『龍の子太郎』が完成して世の喝采を浴びると、「小太郎」伝説は、俄然、知名度を上げることとなったことは既に述べた。

この二つの伝説について、「やまなみ芸術教育の会」の「深町修司」氏が簡潔にまとめているので、ここでは氏の文をお借りして読者の御参照に入れることとする。

 
ところで小泉小太郎の話の場合は、上田、小県地方のものと、松本、東筑摩地方のものとが、大きな特色を持って二つに大別できる。

つまり上田、小県地方のものは独鈷山の寺に夜な夜な通った、大蛇の化身である娘さんが産川上流で赤子を産み落とす。その子が流れ下ったのが産川で、下流の小泉村のお婆さんに拾い上げ育てられ、小泉小太郎と名づけられる。しかし彼は毎日大食をしてたくましい少年に成長するが、仕事らしい事は何一つしなかった。あるときお婆さんに頼まれて小泉山へ薪取りに行き、山にある限りの萩の木を取り集め束ねて持ちかえる。お婆さんが萩の束を解いたとたん萩がはぜくりかえって、家いっぱいになりお婆さんは押しつぶされて死んでしまう。

この様に小太郎の産まれ生い立ちについては伝承されているが、大人になってどんな生き方をしたのかは語り伝えられていない。

一方ここから西南の方に山をいくつも隔てた松本、東筑摩地方にある話は成長した小太郎が母である犀竜とともに岩山を切り開いて、当時湖であった松本平の水を千曲川まで流しだした。そしてこの川が犀川と呼ばれるようになったと言われ、彼は湖の水を流し出すために大活躍をした並ならぬ英雄的人物として伝えられている、しかしこちらでは彼の誕生のドラマも、少年時代の事も語り伝えられていない。

深町修司 (2001) 「民話紙芝居『小泉小太郎物語』―21世紀の子どもらへの贈り物―
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kotaro/kaisetsu.htm
 
「泉小太郎」伝説が、「小太郎」の幼少年期の伝えを欠くのに対し、「小泉小太郎」伝説が逆に、「小太郎」が長じてからの伝えを持たないのは、上に確認した通りである。しかし、「柳田國男」が「犀川盆地の泉小太郎と、元は一つであったろうことが注意せられる」と述べているように、この二つの伝説がかつては一つの「蹴裂伝説」を構成していたことは、ほぼ間違いないものと見なされている。

そして、この「小泉小太郎」伝説と、同じ「上田」地域の「小太郎屋敷」の伝承を比較すると、重大な共通点が上の四点以外にも現れるのだから面白い。それは「母殺し」のモチーフである。「小泉小太郎」の場合、正確には、育ての親の殺害と云うことになろうが、「小太郎屋敷」においても「小太郎」が殺すのは「母」に化けた「猫」である。しかも、「松本平」の「泉小太郎」伝説は、「湖」に住む「犀竜」が母なのだから、「湖」の破壊と枯渇は、「母殺し」のモチーフの変型だと見なすことさえ出来る。実際、「泉小太郎」伝説のヴァリエーションには、岩山を突き崩した「犀竜」が、その後に昇天すると云う伝えのものも存在するのだから、物語のクライマックスは、ある意味で母なる「犀竜」の死を象徴的に表わしているとも云えそうである。

ところが、両者の潜在的な関連性に対して、敢えて重大な異論を唱えるとするならば、「小太郎」伝説と「小太郎屋敷」の伝説との間で、大きな筋で共通しないのは、後者の伝説では、「化物退治」のモチーフが主題となっているのに対して、前者にはその要素が欠落していると云う点を挙げることが出来る。これはまさしく重要な相違なのだが、これも「母なる竜」が「断崖」を突き崩して湖の水を流すと云うモチーフを、河川の氾濫と奔流を表わしていると見なせば (そして、明らかにそうなのだが) 、これに乗り、御して、里に恵みをもたらすと云うモチーフは、一般的な「悪龍退治」の物語とさして大きな違いがないとも云えることになる。このことから、「小太郎」伝説もまた、「化物退治」譚の一変型だと見なすのは、意外にも容易なのである。

一方、「塩田平の唐猫伝説」に目を向ければ、「化物退治」のモチーフは歴然としており、三者を比較した場合、それらの基底には、同様のイメージが流れていると仮定することも無理ではないのである。いずれにしても、二つの「小太郎」伝説は、もう一つの「小太郎」伝説、すなわち「小太郎屋敷」の伝えと、根底の部分においてイメージの連環を保有しているだけでなく、「塩田平」の「蹴裂」伝説とも深層ではつながっている可能性が高いと云えそうなのである。

そして、この三者の時系列上の配置を考えて、それぞれを互いと比較させた時、これらの伝説の発生過程に関して、次のような仮定的な推論をすることが可能になる。


*

だが、その推論を開始する前に、三者の間で最も共通する性格に乏しい「小太郎屋敷」の伝えの扱いを決めておかなければならない。仮に、「小太郎屋敷」伝承を「泉 (小泉) 小太郎」伝説 (以下、単に「小太郎伝説」と記す) から派生したか、影響を受けたものとして捉えるならば、当然それは時系列的には「小太郎伝説」よりも後に成立したと云うことになる。一方、「小太郎伝説」と「小太郎屋敷」伝承が同一の起源から別の過程を経て形成された並立関係にあると仮定するならば、後者に「塩田平の唐猫伝説」との重大な共通項である「蹴裂伝説」の要素がまったく見られないために、「小太郎伝説」と「小太郎屋敷」伝承が分岐したのは、前者が「塩田平の唐猫伝説」と共通する要素を帯びる以前である蓋然性が極めて高いことになる。したがって、いずれの場合にあっても、三者の発生過程を見ていくには、まずは「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」を比較する作業から分析は開始するのが賢明だと云うことが明らかになる。

さて、そこでこの二者の比較をすることになるのだが、その争点となるのは、やはり両者に共通する要素と相違する要素をどのように理解していくかと云うことになる。抽象的な言い方で恐縮なのだが、二つの説話の間で共通する点も相違する点も、どちらもそれぞれの説話に本質的な部分であるため、両者が単純に類縁関係にあると考えるよりは、異なる要素を持った二つ以上の (おそらくは二つか三つの) 伝承が絡まり合ったものと考えるのが妥当かと思われる。いずれにしても、仮定出来るのは、大きく見て四つの混合・発生過程である。

1) 元々、二つの伝承は、二つの異なる伝承に発している。
2) 元々一つの伝承だったものが、二つの伝承に分かれた (=単純な類縁関係) 。
3) 元となる一つの伝承に、二つの異なる伝承が触れることで、類似した二つの伝承に変化した。
4) まったくの偶然で、互いに完全に無関係なまま、二つの伝承が発生した。

議論を始めるに当たって、4) の偶発的独立発生説は、取り敢えず除外しても問題はなかろう。隣接する地で、これだけの共通項を有する伝説同士を比較する際に、偶発的な独立発生を無根拠に唱えるのは、議論をしないのに等しいからである。今後、独立発生説を支持するのに十分な程の根拠が新たに出てこない限り、この手の議論には触れない。

1) と 3) は、かなり類似する過程だが、3) の過程では、二つの伝承の共通点は、第三の伝承から受け継いでいる形になるのに対し、純粋な 1) の過程では、二つの伝承が接触した結果、両者間の相互作用を通して互いに共通する要素を形成したと云うことになる点で異なる。しかし、互いの伝承以外の要素が影響して、1) の純粋な過程に作用した場合、そこにはその作用の起きた時点によって微妙な差異は生ずるものの、それは限りなく 3) に接近した過程と云うことになる。したがって、3) は、1) のより現実的な一変型と見なすことが出来るのである。

ここで筆者が、何故「現実的」と云う言葉を使用したのかは、二つの異なる伝承の間で、他の要素が加わることのほとんどない純粋な相互作用などが起きる可能性が如何に低いかを想像すれば分かると思うが、それ以上に、仮にそのような相互作用が起きたとして、それだけで「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の間に見られるような、深層の基幹部での類似と、表層での全般的な相違が生み出される可能性は、どう考えても高くないことを考え合わせれば理解してもらえると思う。そして、そのような特徴は、むしろ上記の 2) や 3) により発現しやすいものと云える。

さらに云えば、この 2) と 3) も、ある意味では類似した過程だと云える。何故なら、元々一つだった伝承が二つの派生譚へと分かれるには、その語り伝えられる周囲の環境に影響を受けて変化が生ずることになるため、結果として、二つの異なる環境因の作用を受けて説話内容の変化・分岐は引き起こされるからである。そして、このように記述すると、2) もまた 3) とほぼ同様の過程であるかのように映るかもしれないが、筆者は、二つの伝承の間の相違が、派生分岐と同時進行で形成されたものなのか (すなわち 2) ) 、それとも元から違ったものが、同一の環境因によって類似した影響を受ける結果となったのか (すなわち 3) ) のいずれの過程であるかによって、伝承の派生の歴史的な意味付けは大きく異なってくると考えているため、この二つの過程の区別を極めて重要視するのである。

以上のような考えから、「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の発生過程に関して考えるとき、特に注意を向けるべきは上記の 2) と 3) であると、筆者は考えている。

*

「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」を比較する時に特徴的なのは、両者の伝承圏の地理的な中間地帯に「上田 (小県) 」地域が位置しており、そこに「蹴裂伝説」を完全に欠いた「小太郎伝説」の亜型とも云える「小泉小太郎」の伝承圏や「小太郎屋敷」伝承なども存在し、「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の伝承圏がただ単に連続していると云うよりは、連続しているにも関わらず、同時に、その間には本質的な断絶もが形成されているものと考えられることである。

既に簡単に見たように、「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」は、上記に挙げた発生過程の分類の 2) か 3) に該当する可能性が高いと筆者は見なしているのだが、ここからようやく比較の作業に「小泉小太郎」や「小太郎屋敷」の伝えを参照していくことになる。

ただ、もしも一つの物語が二つに分かれ、その分かれた二つの物語に挟まれることで新たな第三の物語が派生したと仮定すると、その新物語に、前の二つどちらにも含まれない要素が入る込む可能性は一つでも極めて低くなるはずなのだが、「小太郎屋敷」の伝えは「塩田平の唐猫伝説」や「小太郎伝説」のどちらにも属さない話素を数多く有しているため、事実上、この後に行なう考察から、上記の2) の過程の可能性は排除しても大丈夫と云うことになる。

*

「小泉小太郎」の伝承を単純に、典型としての「泉小太郎」伝説と比べると、既に紹介した通り、両者の違いは、主人公の人生史のどの部分を切り取って語るかと云う点に集約される。ほぼ少年期のみを扱う前者と、それ以降のみを扱う後者とで、言い伝えの間に明確な区切りが設けられているのは誰の目にも明らかである。しかし、筆者は、この比較を行なうときに、「小太郎屋敷」伝承や、隣接する「塩田平の唐猫伝説」をも視野に入れることで、物語的な修飾を取り除くと、「泉小太郎」と「小泉小太郎」の伝承の間の最大の差異は、取り扱う主人公の人生史の時点などではなく、より明確に「蹴裂伝説」の存在の有無であると考えるのである。

地域的に連続し、共に同じ水系の「蹴裂伝説」の要素を色濃く残す (主たるモチーフとさえ云える) 「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の中間帯に、「蹴裂伝説」の要素をまったく持たない「小太郎伝説」の亜型及び類縁の説話が存在することの意義は大きい。そして、筆者が類似する二つの伝承の間の重大な断絶と云うのは、この「蹴裂伝説」の欠落のことなのである。

「蹴裂伝説」と云われても馴染みのない人でも、「ダイダラボッチ」「デーダラボッチ」などと呼ばれる巨人伝説についてなら聞き覚えのあることが多いのではなかろうか。元々、「蹴裂」のモチーフは、「ダイダラボッチ伝説」の主要な構成要素なのである。このことについて、「柳田國男」は簡潔に次のように述べている。

これは東国では利根・富士川、九州では筑後の矢部川、奥州では猿ヶ石川、その他多くの水筋において土地の神様の偉勲として伝うるところであって、実際地形を熟知する者には、信じかつ崇めざるを得ない神話の一つであった。
柳田國男 (1933/1942改訂) 『桃太郎の誕生』三省堂

そして、一般的に「ダイダラボッチ」と「蹴裂伝説」の距離が近いと云うことの他に、直接われらの「小太郎伝説」と「ダイダラボッチ伝説」の近縁性を物語るのが、両者にそれぞれ登場する「藤蔓」と「萩」の話素である。

小泉山に萩が一本もない由緒、これは関東などではもっぱら巨人説話に伴なうもので、たとえばダイダラ坊が富士を背負って立とうとして、その藤蔓の綱が切れたゆえ、相模野には藤が育たぬという類の話は、必ず大昔の山作りや蹴裂きの伝説を潤色しているのである。

柳田國男 (1933/1942改訂) 『桃太郎の誕生』三省堂

*

本稿では、「長野県」側の「蹴裂伝説」のみを細かく採り上げているが、実は「上田」から「佐久」、そして隣県の「甲府盆地」へと続く一帯、すなわち「千曲川」本流の上流地帯にも、「蹴裂伝説」は存在している。そして、本稿では詳細を見ることはしないが、こちらの伝説は、「唐猫」とは直接結びつかないものの、実は「猫」の言い伝えとの関連を指摘することが出来るのである。この辺りの事情に関しては、「猫神探訪」の「長野編」が一段落ついたら、「山梨編」に筆を進めて触れていきたいと思っている。ここでは、この地域の「蹴裂伝説」について、その概要が分かる程度にのみ、軽く触れることとする。

「上田盆地」から南東へと下ると、「佐久盆地」があり、「信州峠」を越えると、道はそのまま「甲府盆地」へと続く。そして、太古の「甲府盆地」も湖であったとする言い伝えがある。

有名なのは、「東八代郡中道町上向山」の「佐久神社」の伝説だが、『東山梨郡誌』によれば、二代「綏靖天皇」の御代に、「彦火火出見命」の末裔「向山土本毘古王 むかひやまともひこをう 」が、「長田足 おさだのたる 」などを道案内として「甲斐国」を訪れ、「西山」の「六道仙人」や「右左口 うばぐち 山」に住む「右左弁羅
うさべら 」らの協力を得て、「鰍沢」の南の山を足で蹴って切り開き、湖水を「禹の瀬」から「富士川」に落して、広大な平地を得て国造りをしたと云う。村人は「右左弁羅」を神として祭り、「右左口村」の名の起こりとなった、と云う。「佐久神社」の社伝では、後に王の葬られた地に祀られたのが「蹴裂大明神」とも云われる、今の「佐久神社」だと云う。

『北巨摩郡誌』も同じ伝説を伝えるが、「甲斐国」にやってきたのは「日向土本毘古王 ひむかともひこをう 」と云うことになっている。その後は、村人に稲作の技術を教え、初めは「右左口村」の「向山」で、続いて「北巨摩郡旭村」で米を作らせたのだが、これが「甲斐」での稲作の始まりだ、と同書は伝える。この功によって後に、王は「穂見大明神」として祀られたと云う。

この他にも、「地蔵菩薩」の発案で「蹴裂明神」らが切り開いたとも云うし、「甲府市」の「稲積神社」では、「四道将軍」の一人「武淳川別 たけぬなかはわけ 命」が切り開いたとしている。「甲府市」の「穴切大神社」では、「大己貴命」に祈願して、和銅年中に「国司」以下、多数の人々の力で土木工事をして切り開いたと云う。「韮崎市旭町」の「穂見神社」の伝説では、大洪水で「甲府盆地」が湖水と化したとき、「鳳凰山」に住む「大唐仙人」が、「蹴裂明神」と力をあはせて山を切り開いたとされ、この里の「山代王子」が新しい土地を開墾して米作りの道を教えたと云う。また、「蹴裂明神」とは「安曇氏」の祖神の「日金拆命」で、「治水の神」だとも云う。

こんな伝承の分布を受けて、民俗学の「谷川健一」は、「信州佐久地方」 (信州峠の北側) の「蹴裂伝説」の上に「甲府」の「金桜 かなさくら 神社」もあると云う。要するに、「裂く=佐久」「金桜=金裂く」に通じると云うのである。

鰍沢の蹴裂神社の祭神は、安曇氏の祖神の日金拆命を祀るか、治水の神霊と伝う、と『地名辞書』はいい、けだし延喜式内社の山梨郡の金桜神社や八代郡の佐久神社 (現在石和町) と同神であると述べている。佐久とか金桜とかに裂の意味のこめられていることがこれによっても推察できる。
 (中略)
金桜神社は現在、杣口と御岳の二ヵ所にある。杣口の金桜神社が式内社で古い。御岳の金桜神社は大和吉野の金峰山から移したものであるから新しいが、その「由来記」には、崇神帝の頃に全国に蔓延した疫病の平癒を祈願するために勅願によって建立されたとなっている。この縁起はオオタタネコの故事を思い出させる。オオタタネコはタタラを意味し、銅や鉄の精錬に密接につながりをもつ人物である。

谷川健一 (1979) 『青銅の神の足跡』集英社、pp. 255-256


開墾には鉄器が必需品だから、鉱山開発の絡んだ「蹴裂伝説」でもあると云う。「甲府」の「金峰山」周辺には金山や水晶山などあり、水晶は加工されて今日でも「甲府」の特産工芸品として名が高い。もしも「谷川」説を採るとすると、「日金拆命」と「金桜神社」のつながりは、かなり明白になる。そして、「右左口」と「金桜神社」には、「猫」の伝承も、後世、遺されている。ここに至って、「風雷神」「水神」「鉱山」「地形変成」「猫」と云った、筆者が注目する「猫神」の諸属性が、「甲府」の地にも集まりつどってきた観がある。

いずれにしても、「松本平」「塩田平」に限らず「佐久平」も含めて、「信濃川」水系の上流部には、ほぼ普遍的に「蹴裂伝説」が存在することは事実であり、それが果たして地質学上の歴史的事実を含んでいるかは別として、ある時期にこの地域全体に共通した伝説として存在したことはほぼ間違いないと云える。したがって、「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の間に断絶地帯が存在するとすれば、その断絶には偶然だけではない、何らかの歴史的事情が絡んでいるのではないかと推測されるのである。

しかも、「諏訪」から「長野」にかけての「蹴裂伝説」が、一定の地域的な広がり、と云うかまとまりを持っているのに対して、「佐久」以南の「蹴裂伝説」は細分化された印象を受ける。開拓に関わったと云われる「神」の数も多く、それぞれの神社にそれぞれの言い伝えがあるものの、地元口碑ではまた別の伝承形があったりもしている。あまり簡単に軽率な推測をするのは誉められた話ではないのだが、さっと見た感じ、これはやはりそれぞれの伝承とその中心となる神を奉ずる社会集団がいたと仮定して、その地域的な統一があまり進まなかったことの結果なのではないかと考えられる。「釜無川」に沿って「諏訪湖」に接近する「韮崎」地域では、開拓の神が「穂見大明神」系に傾くようなのだが、この祭神は、元はどうだったかは置くとしても、いまは「諏訪明神」との距離がやや近くなっているようでもある。

要するに、筆者が云いたいのは、「千曲川」の本流沿いから、やがて水系を変えて「甲府盆地」に至るまで、基本的性格を一にした「蹴裂伝説」が存在していたことと、それが後世、その地域を支配した社会集団によって、それぞれの伝承形に変形されている可能性が高いことだったのである。そして、「甲府」地域とそれ以北とを引き比べたとき、「諏訪」から「長野」にかけての地域には、かつてより同族意識の高い、より大きな社会集団が存在したことが示唆されるのである。当然、その中でも伝承に変異が見られるのは、単に地理地形的な要因だけでなく、何かしらの社会歴史的な分断線が引かれた可能性を浮上させるのである。

*

ここで、話を「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」に戻すこととしよう。これら二つの伝説が同一の説話から発しているものとして筆者は議論を進めているのだが、そもそも何故、「塩田平」までは「唐猫伝説」だったものが、山並み一つ越えて「松本平」に入ると、構造的な位相では類似点も多いとは云え、表面的には異質の説話と云える「小太郎伝説」に姿を変えてしまったのかが、不思議に思われるのである (もちろん、実際には「小太郎伝説」が「唐猫伝説」に変わったのかも知れないが...ここでは変遷はメタファーであって、そのベクトルの方向は問うていない) 。当然のこととして、「塩田平」と「松本平」の間には、地形的な山並みの存在以外に、説話の伝播に対して何らかの阻害要因として働く要素が介在したと考えざるを得ないのである。

このような分断線を引くこととなった大きな要因が、その地域を支配した領主あるいは開拓地主階層の人々が形成する同族集団の疎密や、離合集散だと筆者が考えていることは、既に述べた。そこで、ここでは「小太郎伝説」が、「小泉庄」を本貫地とする「小泉氏」の「始祖伝説」としての性格を有することに目を向けてみたい。正確に云うならば、「信濃」の「小泉氏」の出自に関しては明確に分かっていることは多くないのだが、「戦国末期」に、現在の「上田市」の周辺を本拠地として活躍した一族であることは間違いないらしい。

「泉氏」も、「小泉氏」と同じく「信濃国小県郡小泉庄 (現・上田市) 」を本貫地としたとされ、「清和源氏・源満仲」の五弟「満快」の曾孫「信濃守為公」の後裔と伝えられるが、この辺は実際にはかなり混乱しているのであまり参考にしない方が良いかも知れない。でも、一応、話しを続けると、かの「泉小次郎」の名前で知られる「泉親衡」は「満快」から数えて十代の孫に当たると云う。

「親衡」は、建暦三年 (1213) 、二代将軍「源頼家」の遺児「千寿丸」を擁立して、「執権・北条義時」打倒の反旗を翻そうとしたが露見し、派遣された追捕の兵と合戦の末、蓄電して行方をくらましたことで知られている。後世、その際の武勇が喧伝され、『泉親衡物語』などの「読本」の主人公にまで祭り上げられた。以降、荒唐無稽な伝説が次々と附与されたことで知られる。この人物を「泉小太郎」のモデルに比定する考えが根強くあるが、いずれも根拠はない。後に、現「飯山市」周辺を根城とした「泉氏」は、この末裔だと云われるが、これも確たる系譜がある訳でもない。また、この地域には「甲斐国」の「小泉氏」と云うのもいたらしく、それらの氏族が互いに同根だったのかも定かでない。

問題は、この「小泉氏」の「始祖伝説」が何故、「松本」地域にも広く伝承されているのか、と云うことになる。そして、「小泉氏」の本貫地に伝わる「小泉小太郎」伝説の方が、返って始祖伝説としての「蹴裂伝説」を脱落してしまった形になってしまっているのは何故なのかと云うことである。

第一の問いは、いずれにしても本貫地は「小県郡・小泉庄」とされる「小泉氏」あるいは「泉氏」の勢力圏の捉え方によって、解釈のかなり異なってくる問いかけではある。まず、「小泉氏」の勢力は「松本平」まで及んでいないと云う常識的な立場から見ると、「始祖伝説」としての性格は「上田」地域で後に付け足されたもので、伝説の骨子は「小泉氏」の「上田市域」での台頭とは無関係に、それ以前から存在した可能性が強く示唆される。

一方、「小泉氏」が「泉氏」と同族であると云うことを前提とした上で、「松本」周辺に多くの「泉」地名が残されていることを挙げ、かつて「小泉氏」は南の境を「諏訪湖」に接する版図を領していたか、元は「松本平」の出身か、少なくとも「松本」方面に分散して所領を持っていたかしたのではないかと推測する人もいる。この場合、この一族の「始祖伝説」に当たる説話が「塩田平」から「松本平」「安曇平」一帯に広がっていることは比較的すんなり理解できるのだが、残念なことに、このような版図の話は裏づけはほとんどなく、根拠とて「泉」地名があると云う程度ではいかんせん説得力がない (「泉」地名は、「泉氏」と必然的な関係がある訳でもなく、全国に多く存在するからである) 。また「小泉氏」や「泉氏」の系譜に関しても、既に述べた通り、詳しいことは分かっていないのが現状である。

筆者は、このような不確定な要素を仮定しつつ、過去から現在へと伝承の過程を追うよりも、むしろ、「小太郎伝説」内の「上田」と「松本」におけるそれぞれの伝承の形が異なっていることに、より意識を向け、その分断線を形成する下敷きとなった精神性を重視することから同じ問題を見ていこうと考えている。

既に指摘したように、二つの「小太郎伝説」の間では、「蹴裂伝説」の欠如が最も大きな違いとして挙げられるのだが、これと密接に関連する相違点として、「松本」の伝説には「諏訪明神」との深い結びつきが見られる点も挙げておきたい。

「泉小太郎」伝説では、「蹴裂伝説」は開拓領主としての「泉氏」の始祖を神霊視するための物語の体をとっており、それは「諏訪明神」の転生譚と云う形で権威づけされている。しかし、「小泉小太郎」伝説の方は、この「蹴裂伝説」を欠いており、当然、それに随伴する「諏訪明神」の転生譚も含んでいない。これは一体何故なのだろうか? 単に地理的な配置の問題―すなわち「塩田平」は「諏訪大社」の地からやや離れていると云うこと―だけでは、到底この事実を理解することは出来ない。何しろ、もしも「泉氏」も「小泉氏」も同族で、共に同じ氏神を奉ずる一族であったならば、「諏訪明神」の縁起譚が簡単に一方からのみ脱落すると云うことは考えにくいからである。しかもその氏神と云うのが、いまや忘れ去られた小さな一地方神と云うならまだしも、よりによって「諏訪大明神」なのである。

そもそも、「諏訪明神」の出自に関する伝え自体に目を向けても、そこには、現在、大きく見て三つの系統が知られている。一つは「建御名方神」系とする伝えであり、一つはそれに先立つ土着の神々の信仰であり、最後の一つは、恐らく「中世期」に醸成されたと思われる「甲賀三郎」系の伝えである。そして、興味深いのは、そのいずれにも、一帯の土地を開拓した「蹴裂」の神としての性質が見られないことである。これは、歴史のいずれかのときに脱落させてしまったからなのか、それとも元々なかったのか。いずれにしても、「蹴裂」部分がないと云う点では、この神が実は、意外にも新来の神なのではないか、と云う可能性を惹起することにもなるのである。

よく知られた話だが、「諏訪大社」のことが文献に見える初見は『日本書紀』においてである。「持統天皇」の五年 (691) 八月、降雨の多い災難のとき使者を遣わして、「龍田の風神」「信濃の須波・水内等の神」を祭らせたと記されている。「龍田」は「大和」の「龍田神社」であろう。「須波」は「諏訪神社」、「水内」は「善光寺」付近の「水内神社」のことだと推定される。この記事から分かることは、「須波 (諏訪) の神」は、古くは「風雨神」としても信仰されていたと云うことである。 ここにも、本質的に、「諏訪の神」を「蹴裂伝説」と結びつける接点は見られないのである。

筆者は、「蹴裂」の神と云うのが、全国的に見て、両義性の高い信仰的な性格をしているものが多いことに着目しているのだが、一方で、「小太郎伝説」にはその両義性が見られないことが気になっていた。この両義性と云うのは、その神話の中心となる神格が二人以上あったり、あるいはその神の性格が二つ以上の軸の間を揺らいだりすることを指している。

「蹴裂伝説」と云うものは「開墾」譚の一種であろう、と云う固定観念を抱くことをやめると、大規模な灌漑農耕としての「稲作」が入ってくる以前から、「地形変成」譚としての「蹴裂伝説」は十分に存在しうる、と云う単純な事実に行き当たるのである。どうして山が出来たか、どうして湖が出来たか、昔、川はどう流れていたか、などは、必ずしも灌漑農耕とセットでなければ発生しない民譚ではないはずである。

そのような物語が既に存在した地に、おそらくは鉄器などの新たな開拓道具を大量に伴って、山野を切り開く集団がやってきたとしたならば、受け入れる側の人々が、やがてその事跡を自分たちの語り継いできた土地神と習合させることも、逆に進入してきた開拓領主層の人々が、自分たちの氏神信仰と地元の諸伝説や信仰を習合させようとしたとしても、同様に驚くには当たらないはずである。

したがって、各地の「蹴裂伝説」を見ていくと、新しくやってきた神が、地元の神々と協力して大地を切り開くと云ったモチーフをしばしば見かけることになる。これは確実に云えることではないが、「犀竜」と「小太郎」の関係も、「大鼠」と「唐猫」の関係も、もしかすると、元々はこのような神々の両義的な存在性を反映していたのかもしれないのである。

例えば、「佐久」から「甲府」にかけての「蹴裂伝説」には、実際の「地形変成」を執り行った地元神と共に、「大和神話」系の外来の神を語ると云う基本性格があった。後に少し丁寧に見ることになる「秋田」の「蹴裂伝説」である「八郎太郎」の伝説でも、「南祖坊」と云う外来 (熊野から) の神格との格闘が主たるテーマの一つとなっている。「湯布院盆地」の伝説でも、「宇奈岐日女」は「蹴裂権現」とセットで語られている。「阿蘇」でも「健磐龍命」と対立する神格としての「大鯰」がある。本来の「蹴裂伝説」と云うのは、自然の山川とその霊威に対する畏怖の感覚と、それを二次的に切り開いた神格に対する敬意の念と云う、二重仕立ての精神性を表わしているように思われるのである。そして、その意味では、「蹴裂伝説」と云うのは、どの地域でも、新たにその土地に入植する開拓領主たちからすると、非常に便利な伝説の形態であったと云えるのだが、一方で、特定の氏神を強く志向する信仰とは親和性が高くなかったとも云える。

歴史的に見れば、「地形変成」譚は、別段、信仰と云うほどのものを形成することなく伝えられていた古い物語に、開拓領主たちが自らの一族の権威を仮託するようになって、はじめて信仰性を帯びていったのではないだろうか。例えば、「塩田平の唐猫伝説」は、随分と後世の変形を受けているものと筆者は解釈しているが、それにしても、何で「鼠」も「猫」も、共に神様に祀られるのだろうか、とは素直に思ったものである。だが、上記のような両義性を「蹴裂伝説」の基底に見出すと、古い土地の神を敢えて祀るのも、それが既に排除されたことの結果の行為なのだと云うことが、無理なく理解されるのである。この手の神格の両義性と云うのは、この辺りの成立事情に発しているのではないかと思われる。「塩田平」の伝説は、形の上でより率直に、その下敷きになった古い伝説の性格を伝えているからこそ、「鼠」と「猫」の対立と云う奇妙な組み合わせを以て「蹴裂伝説」を語っているのである。「小太郎伝説」は、特定の氏神信仰に力点を置き過ぎたことによって、おそらく、本来は対立項だったと思われる「小太郎/犀竜」を、親子として物語の枠組みに当てはめていってしまうことになったのであろう。

*

それでも最後まで残される疑問の一つが、「小太郎屋敷」伝承の扱いである。

「小太郎屋敷」の伝承は、そこに登場する「長命寺・大日堂」も「信濃国分寺」も、共に「小泉氏」の勢力圏に入ることから、かなりの確かさで「小泉氏」に関連する伝えと関連するものだと云える。その「小泉氏」の本拠地近くに、「始祖伝説」を含まない「小太郎伝説」のヴァリエーションが伝わると云うのは、この伝説が「小泉氏」の没落後に形成されたものなのではないかと云うことを強く疑わせる。

実際、このことは多くの含意を持ちうる事実なのである。「小泉氏」の本拠地に、「小泉大日堂」があるのは、ほんの偶然だとしても* 、「宮坂武男」氏の『図解・山城探訪』第三集によれば、「小泉氏」の館跡は、字「東寺畑」にあったものと推測され、その「小泉大日堂」のある「高仙寺」直下、「大日堂」への参道が通る台地の先端部にあると云う。背後の「城山 (朝日山) 」の頂と中腹にそれぞれ築かれた「上ノ城」「下ノ城」を後背の守りとして、館を中心とした「小泉郷」一帯を支配していたものと推定されていると云う。

* 「小太郎屋敷」の説話中の「長命寺・大日堂」と「小泉氏」の本拠地に「大日堂」が祀られているのとは直接的には偶然でも、「小泉氏」の関わる土地で、「大日信仰」が強かったと云う点においては、必ずしも偶然とは云えないかも知れない。「大日信仰」に見られるような「太陽信仰」に付随する「天神」観は、一部地域で、「猫神」とのつながりを見せることを指摘する向きもある (真喜志、1993 / 河村、2004) が、いずれも実験的な論考の域を出ていない。

「小泉氏」の本拠が分かること自体は、驚くほどのことではないのだが、現在の「上田市・小泉」に当たるこの地域を地図で概観すると、かなり控えめに表現しても「興味深い」事実に遭遇することになる。筆者にとっては、事実上、「衝撃的」な発見であった。それは、この地が、「半過」の東隣り、「鼠宿」「下塩尻」の対岸と云う、まさに「塩田平の唐猫伝説」の中心地にあると云う事実である。

この二つの系統の「蹴裂伝説」を知ったときの感想では、それぞれの守備範囲がしっかりとしたものだと勝手に想像していただけに、「小泉氏」の根拠地にその一族の始祖伝説としての「蹴裂伝説」がなく、「塩田平の唐猫伝説」の中心地とさえなっていると云うことに、新鮮に衝撃を受けたものである。何で「小泉氏」あるいは「泉氏」の始祖伝説とされるものが、その一族の本貫地において語られていないのか。

しかし、この問いは、また別の疑問を筆者の中に生み出した。それは、「松本」地域の「小太郎伝説」は、本当に「泉氏」と関係あるのか、と云うものである。「小泉氏」の場合は、自らの本貫地にさえ、「小太郎」を始祖とする伝説が残されていないのに、はたして「泉氏」が支配していない「松本平」全域にまで、どのように普及定着しえたのだろうか。

*

だが、これ以上、議論を進める前に、異説を一つ紹介しておこう。と云っても、誰かが唱えたとか云うほどのものではなく、単に筆者がふと思いついた可能性についてである。それは、実は「小太郎屋敷」の伝承と云うのが、「禰津氏」の伝承と習合しているのではないか、と云う視点である。確かに、「小太郎屋敷」の伝えに関しては、勝手に筆者が「小太郎伝説」と結びつけているだけであって、語り継いでいる人々が何も「これは泉小太郎の別伝でござい」と云っている訳ではない。

この「小太郎屋敷」伝承の発端となっている舞台は、旧「根津村・長命寺・大日堂」である。これは、現在の「東御市祢津」にある「東部湯の丸インターチェンジ」のすぐ東側の土地であるが、名前の通り、「信濃国」の名族「滋野氏」の一族「禰津氏」の根拠地である。「滋野三家」の中で嫡流とされる「海野氏」が、代々「小太郎」と名乗ったのに対し、それに準ずる立場にあった「禰津氏」の当主は代々「小次郎」を名乗ったとされる。『太平記』にも「武勇すぐれたるもの」として「禰津小次郎」の名が見える。

「小太郎屋敷」の一方の舞台である「国分寺」などが「小泉氏」の所領地帯であることは明白なのだが、かつての「禰津氏」の根拠地に「小太郎の母」を妖怪扱いする説話が残されているのには、何らかの意味があるのかも知れぬ。

ちなみに、現在、「上田市」周辺で、同地の「戦国時代」の領主の話を聞くと、ほとんどの人が「真田氏」と答える。確かに、全国的に「真田」と云うと「上田」のイメージはある。しかし、「幕藩期」を通しても、「真田氏」が「上田」を領したのは初代「信之」のわずかな期間 (六年) だけであり、その後に「仙石氏」三代、そして「松平氏」七代と入封している。町の基礎を築いたのが、「信之」の父「昌幸」であることを勘定に入れても、天正十一年 (1583) から元和八年 (1622) までの期間でしかない。

つまり、「上田」地域が「真田氏」の統治下に入ったのは、「武田信玄」の「信濃侵攻」以降の話で、それ以前の「戦国期」の大半は、初めは「海野氏」、次いで「小泉氏」が統治していた時代が圧倒的に長かったことになる。特に、「武田氏」の侵攻直前までの後半期は、「上田」周辺は基本的に「小泉氏」の統治下にあったと云っても過言ではない。

面白いのは、「真田氏」は、その本貫地が「小県郡真田郷」にあり、自らを「海野氏」流と名乗っていたことからも分かるように、「上田」地域では「真田」の統治開始は、ある意味では「小泉氏」からの支配権の奪回と云う意味もあったのかも知れないと云うことである。

しかし、この話はもう一押しすると、また一つ面白くなる。実は、「真田氏」の嫡流となった「松代藩・真田家」は、「江戸期」に自らを「清和源氏」の出としているが、これは本家の「滋野氏」「海野氏」に関しても同様のことだが、現在はあまりその信憑性を認められていない。ただ、「真田氏」が「滋野氏」の一族から派生しているのは間違いなさそうで、『滋野氏三家系図』に、「鎌倉中期」の「海野長氏」の子「幸春」を「真田七郎」 としているのが、系図類に登場する「真田」の始まりとなる。『大塔物語』に拠れば、応永七年 (1400) 守護「小笠原氏」に対する国人領主の抵抗として起こった「大塔合戦」において、「大文字一揆衆」の大将の一人「禰津遠光」の配下に「実田 さなだ 」の名が見られる。また永享十二年 (1440) の「結城合戦」に参陣した「禰津遠光」の配下として、「真田源太・源五・源六」がいたとする説もあり、「真田氏」は当初、「禰津氏」の支流だったのではないかと云う見方もある。

実際には、「真田氏」を引き合いに出さずともよかったのだが、筆者が云いたかったのは、「小太郎屋敷」の伝承地と云うのが、「小泉氏」と「海野氏」と「禰津氏」の境界地に当たるため、もしかしたらこの伝承の背景には、1.「禰津氏」の「海野氏」に対する対抗心2.「禰津氏」の「小泉氏」に対する対抗心、などがあったのかも知れないと云うことなのである。たいして大きな可能性ではなさそうなので、筆者とて拘泥する気はないが、この伝承の不自然な配置と云うのが、意外と、このような背景との混ざり合いから起きているのかも知れないと考えたのである。そして、「小泉氏」の没落以降、「小泉氏」と対抗した「海野氏」あるいは「禰津氏」系統の「真田氏」がいったん「上田」地域を統治したことで、「小県地方」における「小泉氏」の始祖伝説などの英雄譚は、意図的な忘却と変形を受けてしまったのかもしれない。

そして、筆者が興味をより強く抱いたのは、上記の仮説の発祥の方にではなく、仮定の終末部分において「小泉氏」のイメージが歴史的に矮小化される過程に対する推論の方なのである。

*

話を元に戻そう。

「小県郡」域に多大な影響力を誇った「小泉氏」の他、現在の「飯山市」で活躍した一族に、同系統の「泉氏」がいたことを鑑みると、実は「泉氏」「小泉氏」よりも大きく、両者を内包する氏族集合がかつて存在したのではないと想像したくもなる。はっきりと断っておくが、これは想像であって、筆者の側に何ら根拠はない。ただ、そのような集合を仮定すると、「小太郎伝説」の主人公が、その集合体の氏神として語られていたと仮定出来ることになり、説明上、大変便利だと云うだけである。

しかし、世の中には、別の切り口から同じような想像をたくましくする人々はいるようで、そう云う人々の間では、このような架空の氏族集合を「諏訪族」と云う仮定の氏族集団だったと見なすのが一般的なようである。これは非常に魅力的な仮説である。だが、いかに魅力的とは云え、筆者には「諏訪族」と云う集団の実体がいま一つ飲み込めていないので、このような過程には現時点では立てないでいる。敢えて上げるとするならば、「安曇氏」と云う方がまだ有力かも知れないのだが、「小太郎伝説」や「塩田平の唐猫伝説」の成立ちから推測すると、「安曇族」と云う集合は、もう少し古い時代に配置しないと、全体の整理がつきにくいのである。ただし、本稿では「長野県」における諸氏族の興亡史は扱わない。確たる資料と、それに対する十全な理解がない現時点では、筆者にいまだその準備が出来ていないからである。

ついでながら云うと、「小太郎伝説」の分布が歪なのは、この伝説はあるいは、元々、氏神としての信仰は薄く、「上田」地域において、たまたま「小泉氏」によって始祖伝説を仮託され、後に、「真田氏」支配体制、および「幕藩時代」になってから、消滅したものだからなのかも知れぬ、と云う可能性もある。ただし、伝説の実際の広い分布域を考えると、やはりこの可能性は低いだろうとは思う。

*

さて、ここで「塩田平の唐猫伝説」と「小太郎」伝説の成立の順序に関して、今度はより細かく、私見を確認していきたいと思う。

筆者は、元々、「信濃川」内陸流域に、おおまかに共通する「蹴裂伝説」があったところに、その二つがやがて「原・塩田平の唐猫伝説」と「原・小太郎伝説」へと緩やかに分立していった歴史があったのではないかと考えているのである。ただ、現在の「小太郎」伝説は、それが土地開墾伝説としての伝承形態を維持していると云う意味で、その原初的な形を遺しているのに対して、「塩田平の唐猫伝説」は「土地開墾」伝説の痕跡を遺しておらず、その意味で後世の脚色が、その物語のより基幹の部分に及んでいると考えられるため、こちらの方が時代的に新しく成立したのではないかとにらんでいる。

ただし、「塩田平の唐猫伝説」のすべてが「小太郎」伝説よりも新しいと主張するつもりはない。むしろ、筆者にとって、その最も肝心な部分である「唐猫」のイメージは、双方の伝説の原初的な核を形成していた話素に由来するとすら考えているのである。

既に「長野」県内の「唐猫」伝承の分布について述べた箇所で言及したことだが、何故か「長野県」の「唐猫」伝承は「松本平」を境に、その分布は「伊那盆地」へとは連続性を維持せずに断絶してしまうのである。しかも、「松本平」周辺にあっても、その分布は「上田」寄りの北東方向に濃密になる傾向がある。このことは、「唐猫」に限定せずに、「猫」伝説全般に調査の手を広げると、なお一層はっきりとしてくるものである。

したがって、筆者は現在、「塩田平の唐猫伝説」に代表される「唐猫」系の「蹴裂伝説」が、「松本平」の手前でその伝播を押しとどめられたのには、それに対抗する文化的な勢力が「松本」周辺に存在したからではないかと推測しており、「小太郎伝説」は、そのような文化的な勢力の掲げる伝承であった可能性が高いと思っているのである。このことに関しては、いずれ (近日中にしたいと願っている...) 「塩尻市」にある「常光寺の唐猫」や「小野神社の唐猫様」の記事を書くに当たって、もう一度触れていくことになると思う。

いずれにしても、三つの伝承を比べた時、我々はそこに「塩田平」の「唐猫」と「泉小太郎」との間に、不思議なつながりを見出せるのもまた事実である。ここまで来ると、考えねばならない問題は、何故、「唐猫」の伝説が「小太郎伝説」あるいはその元となった「蹴裂伝説」の上に被さり得たのかと云うこと、そしてその「唐猫」のモチーフはどこから来たのかと云うことになるのだが、これらの件に関しては、本稿では以下に、筆者の大まかな推論の道筋を提示するに止め、より細かい論証はまたそれぞれの項目について扱う機会に譲ることとする。



a) 「蹴裂伝説」の母体となる集団が「信濃/千曲川」に沿って遡上する形で、各地でおそらくは鉱山開発に類する生業に就く形で、「信濃国」の奥深くまで広がっていった。

これより古い時代の各地に、山川湖沼が出来た訳について説明する自然神話がなかったとは思わないが、各地に残される「ダイダラボッチ」系統の「地形変成譚」の間に、物語の本質と関わらない細かい部分で、無視出来ない類似が散見されることを考慮すると、やはり「山を突き崩す」と云うイメージを新たに現住の人々に与えた社会集団が全国に運搬したのが「原・ダイダラボッチ伝説」であろうと思わずにはいられない。

あるいは、この段階で、既に先住の鉱山技術集団との相克はあったかもしれないが、「蹴裂伝説」から遡行して類推する手法では、この点に関しては、明確なことは云えない。ただし、「日本海沿岸」に広がる「地形変成譚の猫」の存在を考えると、この「猫」伝承の根っ子は、この時代にまで遡るのではないかと推論出来ることは確かである。


b)  遅れて「長野県」の内陸部に移住し、大規模な灌漑農耕を持ち込んだ初期の開拓領主たちが、自分たちの一族に伝承された氏神説話を持ち込むことで、この地域の「蹴裂伝説」のより古い層 (開墾のモチーフのない層) から、まず「開墾」のイメージを有する「蹴裂伝説」を派生させた。

この移住のルートは、はっきりとはしないながらも、「姫川-千国街道」沿いのルートを通ったものと思われる。もちろん、現在の伝承の分布からの漠たる推測に過ぎない。もしも、「信濃/千曲川」ルートを辿ったとしたら、後世、「塩田平」と「安曇平」「松本平」、さらには「佐久平」の「蹴裂伝説」の間に、もう少しばかり表面的な類似が残されたのではないかと考えられるからである。

この第二次移動グループの主体は、「安曇野」から「松本平」に広く拡散する一方、そのうちの一派が、「犀川」を下って、「千曲川」との合流点近くで、「信濃/千曲川」沿いに遡上してきた集団と遭遇し、現住の人々と混合して定住した可能性を考えている。したがって、筆者は、a) とb) の時期は、かなり近接したものだと考えている。

筆者は、この段階で、「原・小太郎伝説」が形成されたのではないかと見ている。


c)  第三次の集団移動が起き、「松本平」を中心とした地域に定住した。

ただし、この移住のルートに関しては、筆者には定見がない。常識的に考えれば、「姫川-千国街道」ルートなのだが、南からの「天竜川」ルート、あるいは「釜無川」ルートも一応は可能性を残している。

いずれにしても、この移住は、第二次の移住までに比べると規模が小さく、おそらくは強烈な政治・軍事力を持った支配者集団が、同族出身か、あるいは極めて親和性の高い社会集団と習合する形で行なわれたのではないかと、筆者は推測している。


d)  第四次の集団的な移動は、ほぼ間違いなく「仁科氏」の「仁科」入りだと思われる。この出来事によって、「中世」までの「信濃」中央部の政治地理的な分布図は、全体的な流動期を終えたのではないかと考えている。


この一族が、「姫川-千国街道」ルートを辿って「安曇野」入りしたことは、ほぼ間違いなかろう。

「仁科氏」の出自・家系に関しては諸説あるが、「仁科氏」自身は、「平氏朝臣」を名乗っていた。しかし、近年の研究や調査によって、始祖は「大和朝廷」の命によって「越」の開拓に当たった「孝元天皇」の第一皇子「大彦命」の末裔と言われる「布施氏」「小布施氏」などと同族の「阿倍氏」であると云う説が有力視されている。

「阿倍氏」は「蝦夷」平定の兵站基地を求めて「姫川」を遡上し、「木崎湖」周辺に定着したものと思われる。「阿倍氏」が「仁科氏」に苗字を変えたのは、永承五年 (1051) 頃に「仁科御厨」が成立していることから、少なくともそれ以降のことと推測される。現在の「大町市」の「社」地域の南部が「伊勢内宮」の料地「仁科御厨」とされ、「阿倍氏」は現地の管理人「御厨司」となったのではないか推測される。そして、おそらくは居館を御厨のすぐ北方の「館の内」集落付近に築き、姓を「仁科」と改めたのだろう。「仁科御厨」の鎮護の神として、「伊勢内宮」より勧請された神社「仁科神明宮」を建立したのも、この頃と思われる。

「鎌倉時代」に入ると、武士勢力が朝廷・貴族勢力を圧倒していくことになるのだが、「仁科氏」は弱体化した朝廷・貴族政権に忠実に従ったことで知られている。「仁科盛遠」は中央での忠勤と同時に、地元に「仁科の庄」 (現・大町市) の町造りに当たった。「京都」を真似た短冊形の町割に、道の真ん中には川を流し、居館を「館の内」から町の西方、現在の「天正寺」付近に移した。「仁科氏」の祈願寺の「浄福寺」 (現・弾誓寺) も移転し、北端に「熊野神社」を勧請し、「若一王子神社」を創建した。多くの「京文化」や「禅宗文化」が「仁科氏」の努力で「安曇野」に生まれ、洗練された「安曇文化」として花開いた。

「中世」に渡って「仁科氏」は、現在の「南安曇郡・北安曇郡」の大部分を領し、一時は「糸魚川」付近までその勢力を伸ばしていた。既に見たように、「仁科氏」は「京都」と非常に関係が深いことが知られており、事実、「信州・京都」間を足繁く往復もしたようであるし、「京都」の「山科」には屋敷も持っていたと伝えられる。

*

「安曇野」を本拠地としていた「安曇氏」は、『高橋氏文』に記される「安曇氏」と「高橋氏」の「内膳司」としての神事の主導権争いに敗れ、「天皇」の調整にも反抗したことから、「人臣の礼無し」と断定され、「大不敬」「八虐」の罪に問われ、絞首刑と除名を宣告されたが、恩赦により死罪を免れ、「佐渡」に流されている。この事件で、「安曇氏」は中央における地位を大きく後退させたものと想像されるのだが、「安曇氏」がその本拠地を「安曇野」に移すきっかけになったのも、もしかしたらこのときの騒動だったかも知れないのである。

ちなみに「内膳司」と云うのは、もともとは「膳職」と呼ばれていた役職の一つで、「大宝律令」によって饗宴の準備担当を「大膳職」、「天皇」の食事の調理、配膳をの役目を「内膳司」としたところから誕生した。代々「高橋氏」と「安曇氏」が世襲し、官位は三位、後に「大納言」あるいは「中納言」が兼務したものであるから、決して軽い役目ではない。両氏の争いは、霊亀二年 (716) から開始され、「安曇氏」処罰で決着したのは延暦七年 (788) あるいは同十一年 (792) とされている。

「仁科氏」が「阿倍氏」であるなら、「安曇氏」と対立した「高橋氏」と同族と云うことになり、その存在が、それまでより大きな広がりを持っていた「中信」地域の文化的な連携を真ん中で断つ形になったことは理解に苦しくない。「塩田平」から「松本平」までの広がりを持っていた「小太郎伝説」も、この「仁科氏」の勢力拡大によって、分断されてしまったのではあるまいか。

そして、やがて文化的な優勢圏を創出した「仁科氏」の影響の下、「唐猫」と云う語彙が、この時期に二次的に広がった可能性がある。あるいは、「応仁の乱」後の、京都人たちの地方拡散に伴って広がったのかは、はっきりとは云えない。「長野」以外では、「三陸地方」や「鹿児島」などに強く「唐猫」の語彙が残されていることを考えると、この語の一次的な流行は、もう少し古い時代のことだったのかも知れない。

ただし、「長野県」及びその周辺域での「中世期」における「唐猫」の語彙の普及に関しては、「仁科神明宮」や「建部神社」、あるいは「小野神社」などの遺物からも見てとれるように、「中世」に確立した「社殿内装飾」としての木造の「獅子・狛犬」像とのセットでの伝播がほぼ確実視出来るため、地理的にも、時期的にも、「仁科氏」の文化的な繁栄と深い関係があることは、ほぼ疑い得ず、その文化的な影響を排除して考えることは出来なさそうである。したがって、
筆者はいまのところ「長野」「九州」「東北」の三つの地域の間に盛んな往来があったと仮定できる「南北朝」の時代を一つの候補と考えている。


e) 「武田氏」の「信濃侵攻」以降、「江戸幕府」成立までの間に、「中世」的な土着文化は破壊され、新来の領主や人民たちによって、「近世」的な枠組みが形成されていった。


「信濃」の北半分は、「戦国期」の終焉と共に、その「中世」的な面影を、かなり徹底的に払拭されたモデル地区のような存在となった。「武田信玄」による「信濃侵攻」で「古代」以来の名族はほぼすべて掃討され、その「武田氏」が「織田信長」によって滅ぼされるに及んで、旧勢力の失地挽回の動きは一時だけ騒がしかったが、最終的に「徳川家康」と「豊臣秀吉」の権力の線引きを巡る政治的な駆け引きの格好の舞台とされたことによって、「江戸幕府」成立までのわずか数十年の間に目紛しいほどの領主の交替を見ることとなった。「信越」国境地帯に至っては、「上杉氏」の移封の影響も甚大で、所によっては寺社村落を丸抱えで「米沢」に移った地域もあったため、旧領主系の伝承は、この時期を境に断絶したものと考えられる。

既に少し見たように、「小泉氏」の本拠地にあってさえ、「小泉氏」の始祖伝説と思しき「小太郎伝説」は払拭されているのである。そして「塩田平」以北では、その上に「唐猫伝説」が被さる形に変形していったことは現在観察される通りである。

筆者は、「諏訪地方」にのみ、「小太郎伝説」の始祖伝説としての要素が残されたことと、「小太郎伝説」が本源的に「諏訪明神」の信仰と直結して成立したと云う考えとは関連づけていない。筆者は、この伝説が「諏訪明神」と直接的な結びつきを持つようになったのは、「近世期」なのではないかと推測しているのである。何故ならば、この伝説以外の、在地領主と結びついた始祖伝説は、「安土桃山期」を境にこの地域から消滅している気配が強いにも関わらず、「泉小太郎」伝説のみが、比較的完全な縁起譚のような形で保持されているからである。

後世の人間から見れば、「諏訪大社」の影響だから残ったのだろう、と簡単に云えるものの、実際には「戦国末」から「近世初」にかけての「信濃」地域の政治的な変動は凄まじいものがあり、それは「諏訪大社」をすら例外とすることはなかったことを忘れることは出来ない。「諏訪信仰」を背景に、祭政一致の独特の統治を展開していた「諏訪氏」でさえ、現実には「武田信玄」によって事実上の分解を強制され、「信長」「家康」「秀吉」「家康」と変遷する大勢力との関係の中で、「諏訪大社」が古来の祭政一致の権威を取り戻すことは、以降、一度としてなかったのである。

「泉小太郎」伝承は、特定の地域の領主との縁故を断ち切り、既に現実の政治的勢力とは無縁になり、より大きな象徴的な信仰へと生まれ変わろうとしていた時期の「諏訪信仰」と結びつくことによって、むしろ偶然にも、その広範囲に渡る命脈を維持し得たのではないかと、筆者は推測しているのである。



ここまで議論してくると、「塩田平の唐猫伝説」のイメージ性は、「犀川」と「千曲川」の合流点前後を境として、上流へと向かうと急速にその勢いを失い、徐々に「小太郎伝説」にとって変わられていく様子を、通時的なイメージの中で把握し直すことが出来たと思う。

しかし、「唐猫」と云う語の広がりは、「仁科氏」の統治範囲から、俗に云う「仁科街道 (千国街道) 」に沿って、やや南へとまで延びることは、現在残される「唐猫」の遺物を追っていくことで明らかにされていく事実である。したがって、これらの事実を素直に受け入れたならば、「長野県」に残される「風水神としての猫」の文化的遺産は、より深い層では「日本海沿岸」に広がりを持つ「蹴裂伝説」と密接に関わり (「太平洋」側に「蹴裂伝説」がないと云っているのではない) 、その上で「仁科街道」沿いの文化圏と深い関わりを持って残存したと見なすべきなのかも知れない。前者が、筆者が当初に述べた第一次的な伝播であり、後者が第二次的な伝播だと云うことになる。

今後、筆者はこの「仁科街道」沿いの「唐猫」文化の広がりに着眼点を移して、「猫神探訪」の旅を続けることになったのだが、その間も常に頭を離れたなかったのは、「長野県」における「猫神」と「蹴裂伝説」との関係が、当初想像していたよりも、遥かに重要なもののようだ、と云うことであった。しかし、そのことをより明確にするためには、「猫」の「風水神」としての性格をはっきりとさせておく必要があるのも明らかであった。

そして、その点にこそ、本稿の表題として「建部神社の唐猫」を選んだことの意義の一半はあるのだから、ここでいったん「建部神社」の「唐猫」について概観してから、再度、「風水神としての猫」と「蹴裂伝説」の関係について、触れてゆくこととする。

キーワードは、やはり「雨乞い」。



4. 「建部神社」の「唐猫」

「建部神社」、と云っても、別段全国にその名が鳴り響く神社と云う訳ではなく、「長野県」にあってさえ、地元の人以外には知られていない御社だと云っても語弊はなかろう。しかし、「建部神社」は、地元「山形村」では村を代表する神社であり、実際、村の政治的な中心部に社域を有している。したがって、この「建部神社」への道は、「東筑摩郡・山形村」の位置さえ分かっていれば、そんなに難しい道のりではない。もっとも、筆者は、「建部神社」を目指す前に、「山形村」よりも北に位置する「松本市梓川」の「上嶋醤油」に立ち寄ったので、「関東」方面から向かう人間としては、少々、おかしなルートを辿ることとなった。

まずは、「上嶋醤油」のすぐ東の表通りを南へと向かい、「梓川倭」の信号を直進すると、道はそのまま県道48号・松本環状高家線になるので、しばらくはこれを道なりに辿る。「倭橋」で「梓川」を越え、国道158号松本電鉄と越えていく。やがて、「南和田」の信号に至るので、ここを右折して県道291号・新田松本線に入る。

この道をまっすぐ走っていると、二つ目の信号が「記念碑前」だったと思うのだが、これより手前、「竹田」のバス停の次の道を右へと曲がらねばならない。あまり分かりやすい曲がり角とも云えないが、道路の右の角に「はやし薬局」が見えたら、そこではなく、その次の角を右に入ると云うことである。自信のない人、あるいは行き過ぎてしまった人は、「記念碑前」まで行って右折した後、最初の交差点を左折すれば、同じ道に入るので安心である。

後は、「上竹田中村農業改善センター」の角で、少し左に崩れた形の交差点に出るが、これを直進方向に進めば、もう次の三叉路の正面が「建部神社」である。三叉路からは、少し左に入れば、すぐ参道入口が見えるはずである。あるいは、村の中心部から見れば、「記念碑前」の交差点を北へ進み、次の交差点を左へとゆくと、数百メートルで着くとも云える。「日本アルプス・サラダ街道」の信号を北上してもよい。村の中心部から見て云えば、「村役場」の北西、「唐沢川」の南、「三間沢川」の北と云うことになる。

*

筆者がこの神社のことを知ったのは、数年前、インターネット上で「山形村」の情報を載せた地域ニュースのページを訪れた時であった。今回、この記事を書くに当たって、そのページを探しては見たのだが、既に消去されているようで見つからなかった。いずれにしても、そのページ内で、わずか数行にも満たぬ程度の文だったが、「山形村上竹田」在住の「古川敏夫」さんが、
地区の農業と水への苦労を後世に伝えようと、一冊の地域史の本を自費出版されたと云うことを知った。本の題名は、『唐猫さまと雨乞い』であった。

この本の中で、「古川」氏は、古い時代に雨乞いの神事に使われ、「上竹田」の「建部神社」で平成十九年 (2007) 五月十二日、約七十年ぶりに発見された「唐猫様」と呼ばれる一対の「狛犬形」の木像について調べた結果を詳述している。

氏によると、「戦前」までは深刻な干害に襲われることの多かった同地では、その都度、「建部神社」の「唐猫様」や「水神様」に雨乞いの祈りを捧げる儀式を行なったと云う。それが、「戦後」、近代的な灌漑設備の整備を通して、徐々に雨乞いのお祭りは行われなくなり、いつからか住民たちの記憶からも薄れていってしまったのである。そして、
昭和五十年 (1980) の村誌編纂時には確認された「唐猫様」も、いつしか行方不明になってしまったのである。

そのような現状を憂えた「古川」氏は、最後の雨乞い祭の記憶を残す村の古老たちに話を聞いて廻って記録すると共に、「水神様」の祭りに併せて、主立った氏子たちで「唐猫様」を探すことを思い立ったのが数年前のことであった。話では、櫃の中に納められていると云うことであったが、いざ「神社」を探すと、肝心の「櫃」も「台座」もなかった。結果としては、一度、日を改めて仕切り直した後、再度執拗な探索を続けたところ、普段は決して入ることのない、「本殿外陣」の中で、バラバラに解体されて散乱している状態で「唐猫様」は見つかったと云う。「古川」氏らの、執念が実った形で、「唐猫様」は、三十年近くの時日を経て、再び陽の光を浴びることとなったのである。このときの自身の喜びと驚きを「古川」氏は、以下のように綴っている。

内陣と外陣の間は ママ 百五十センチ程の空間の下には ママ 格子の隙間から吹き込んだ木の葉や古い幣束やら何やらが埋もれているようでした。

その中からいろいろな物を外に出された ママ のですが、全くガラクタみたいなもので何なのか見当もつかないのです。一生懸命に私の頭の中にある狛犬や唐獅子に似たような物体を探すのでしたが。

ソフトボール位の大きさでずっしりと重さを感ずる木か泥で出来たような黒いかたまりを拭いていると、唐獅子の頭と同じような顔をした彫り物であった。

これだと思ったとたん、嬉しさのあまり「あったじ」
「唐猫様の頭 (カシラ) があったじ」

古川敏夫 (2008) 『唐猫さまと雨乞い』自刊、pp. 16-17

氏子一同は、この大発見を機に、古色を遺す「唐猫様」の本格的な学術調査を「長野県立歴史館」に依頼することにした。「歴史館」では、「唐猫様」の来歴を明らかにしようと、赤外線照射まで行なったが、残念なことに墨書銘など、確実な記録は見つからなかった。一方、X線調査では、「阿形」の胴体内部に内刳があることが分かり、発見された状態よりも、さらに小さな部分に分解出来る「寄木造」の彫像であることが判明した。

塗料については、その成分を判定することは出来なかった。目は金色、阿形の口の中・尾・胴体などに赤、阿吽両方の全身に濃灰色の塗料が塗られているのは、肉眼でも確認出来た。塗料の断層などからは、初めに全身赤く塗られ、その後に灰色を被せられたことが分かった。

この調査で、「唐猫様」に
新たな歴史の光が当てられることはなかったが、その来歴に関する口碑は伝えられている。

口伝によれば、大同年中 (806-809) 坂上田村麻呂東征の途路、島々谷の賊徒及び中房山八面大王退治のため、竹田山、宮沢の地に素盞鳴命の変身である牛頭天王を祀り、手づから作った唐猫様と称する駒狛 (狛犬か) 一対を神前に供えて祈誓をこめ盛大な祭りを行うと共に、この沢より上の峯の平らな所に軍旅を休め、島々谷を見おろして軍略を練ったという。

それ以来、この宮沢に祠があったのを安和二年 (969) に至り、竹田の村人たちがここを奥社とし、里宮を唐沢川が荒井を流れ三間沢川と合流するあたりに (今の殿村の東あたりか) に勧請して祠を建ててお祀りし、更に宝永元年 (1704)  (赤穂浪士大石良雄が切腹した翌年) 現在地に奉遷し今日に至っているという。

以来、唐猫様は神社の宝物として大切に保管されていて、雨乞いの際にはこの唐猫様を櫃に入ったまま桧の青葉にくるんで輿に乗せ宮沢の奥社まで担ぎ上げ、氏子一同奥社に参詣して雨乞い祈願をする風習が残っている。
山形村誌編集委員会/編 (1980) 『村誌 やまがた』山形村誌編纂会

竹田村では、一戸一人の男役で建部神社の社宝である唐猫様をかつぎ上げ、奥社に神官が祝詞を奏上し、山上において笹を刈り大火をたき黒煙をあげ、奥の院の近くにある池の水を替え干した。

若衆二人で交代しながら唐猫様を祠の前に供えて祭事をして雨乞いをしたのであります。かつてこの唐猫様を池に投げ入れて神威を冒瀆したので、神の怒りに触れ大雷雨となり氏子一同命からがら下山したことがあったと伝えられている。

山形村誌編集委員会/編 (1980) 『村誌 やまがた』山形村誌編纂会
古川敏夫 (2008) 『建部神社の唐猫様』自刊、p. 24



5. 「唐猫」と「蹴裂」伝説の間に ―「雨乞い」の伝承 ―

筆者は、「長野県の唐猫」を扱うに当たって、敢えて「建部神社」の「唐猫」を最初の表題に選んだのだが、既に何度も述べたように、単に「長野県の唐猫」と云えば、圧倒的に「塩田平の唐猫伝説」の方が有名である。

しかも、神社関係の「唐猫」に絞っても、実は「建部神社」よりもよく知られた「唐猫」がいる。「大町市」の「仁科神明宮」の「唐猫」である。神社の「社殿」自体が二棟「国宝」に指定され、「重要文化財」も二種・四十三点所蔵する古社なのだから、有名なのも当たり前。筆者が「建部神社」の「唐猫」について知る切っ掛けになったのも、「仁科神明宮」の「唐猫」について調べる過程で、近隣自治体の公報類などを漁っている、そんな一連の作業の途中でのことだったのである。

そして、この「仁科神明宮」の「唐猫」に関しては、「古川敏夫」氏も指摘されている通り、「建部神社」のものと類似する「雨乞い」の伝統があったことが知られているのである。これは日照りの時に、「神明宮」の「唐猫様」を「高瀬川」に放り込むと云うもので、「建部神社・奥社」の泉に放り込むと云う儀式とほぼ同一のものだと云えるのである。

「雨乞い」と「猫」を結びつける事象なら、「京都府京丹後市久美浜町」の「兜山」山頂に鎮座する「熊野神社」 (「猫石」の習俗があった) や「静岡県富士市柚木」の「天白神社」 (「猫の踊り」の伝えがある) などもある。これらの神社は、その地域では「雨乞い」の神様と見られていたようであるからだ。しかし、こんな間接的な例よりも、遥かに「猫」そのものの霊性を強調して、その「風水神」としての側面を直接披露しているものに、「奈良県吉野郡十津川村大字折立字大谷」の「猫又の滝」に関する伝えがある。

この滝に関しては、雨乞いや雨降りに関する言い伝えが多く残されているそうなのだが、本稿を記していてすぐに筆者の脳裡に浮かんだのは、『近畿民俗』誌の記事中に紹介されていた「室伏高信」の『随筆・山村記』の次の下りであった。

雨乞いの時は、ネコマタの滝に多人数が小便をすると滝の主が怒って雨を降らせるそうである。

参照・高谷重夫 (1973) 「雨乞の一方法 ―汚穢による雨乞― 」
『近畿民俗』通巻五十八号、近畿民俗学会、p. 13



猫又の滝
「猫又の滝」
taki3D様のサイトから
http://taki3d.la.coocan.jp/07kinki/nara/totukawa/nara_totukawa_nekomata.htm

しかし、折角、古いメモをほじくり返して見つけたところで、これだけでは「上湯川」の同名の滝と、いずれであるか区別がつかずに一頻り困った後、ようやく最初にこのメモを取ったときも同じ問題にぶつかったことを思い出し、同じ著者による同テーマの書籍からとっておいた別のメモを捜索することとなった。こんなことは若い頃には考えられなかったから、年はとりたくないものである。その後、目出たく発見されたメモの中に次の下りがあった。

奈良県吉野郡十津川村の玉置山の下に、ネコマタの滝という滝がある。雨乞には多人数で行ってここで小便をする。そうすると滝の主が怒って雨を降らすそうである。

高谷重夫 (1982) 『雨乞習俗の研究』法政大学出版、p. 440

この「猫又の滝」の「雨乞い」習俗は、ある意味では「長野」の二つの神社の「唐猫」のものよりはっきりと「猫」を「風水神」として扱っている気配があると云える。そして、「猫」を辱めて怒らせることで雨を降らせると云う基本的な思考法は、「建部神社」や「仁科神明宮」の「雨乞祭儀」とまったく変わらないことは注目に値する。

郡殿の池01
「郡殿の池」
ぽ・ぽ・ぽ・・さんぽ様のブログより
http://sanpopopo.at.webry.info/201007/article_12.html

次に挙げる事例は、「新潟県」に伝わるものである。「小千谷市大字東吉谷」にある「郡殿 こおりどん の池」は、浮遊性の植物群落と多くのトンボの貴重種の生息で
知られ、県の自然文化財にも指定されている。ここの池には、古くから多くの伝説が語り継がれてきているが、近年、地元の人々が口にするのは、主に三つの類型の物語である。そして、先に行っておくが、この三つのお話は本稿の主題とはほとんど関係がない。
 
「郡殿の池」の典型話・三つ
悪政をしく郡司「郡どん」の美しい奥方が、池の主の「龍神」に魅入られ、生け贄に捧げられることになった。「郡どん」は、以降、善政を行ない、後に「滝沢」姓を名乗って帰農した。
郡司の「郡どん」には美しい姫がいた。この姫を見初めた池の主が、毎夜、美しい若者に変身して姫の下に通った。やがて、池の主は正体を明かし、姫は池の底へと嫁入って消えた。「郡どん」は、以降、郡司を辞め、「滝沢」姓を乗って帰農した。
昔、「おいよ」と云う娘が小さかった頃、野良で蛇に小便をかけてしまい、祖父さまが「おいよが大人になったら嫁に遣るから、祟るな」と云った。美しい少女に育った「おいよ」が「光徳寺」の「多屋講」に出掛けると、焼田の淵で渡し舟が止まってしまった。誰かが池の主に魅入られている、と云うことになり、それぞれの持ち物を水に入れると、「おいよ」の手拭だけが引き込まれ、そのまま池に沈んでいった。

前の二つには、「奥方/姫」が池に輿入れに向かう途中小水をしたところが「バリ池」、化粧を直したところが「おはぐろ池」と呼ばれる話などが附属し、最後の話には細かい異同があるものの、大抵、「おいよ」が「多屋講」に出掛ける前に不思議な酒樽が現れる、と云うモチーフがある。また、「郡どん」の「姫」の婚姻が、「三輪山型」の説話になっているのは明らかだが、「おいよ」の伝説にも、子の出産に際して産屋の中を見ないでほしいと懇願したのに母親が開けてしまうと云った、「三輪山型」の婚姻譚に見られるモチーフが部分的に伝えられている地域もある。そして、どの伝説も、それ以降、「滝沢家」や村に水不足はなかったとか、雨乞いにはこの池に行けば聞き届けられるようになった、などと言い伝えられているようである。

さて、筆者が注目したのは、上のいずれの所伝でもなく、昭和三十年 (1955) に「新潟県民俗学会」が発行した民俗誌『高志路』に載せられたお話である。元々、極めて短い内容のものなので、あまり詳しいことは紹介出来ないが、ざっとまとめると次のような話である。

酒宴を開くと山伏がやってきたので、御馳走をした。翌日、山伏の姿はあったが、首がなくなっていた。百姓たちを助けるために、「郡殿の池」に「赤猫」を放り込んで大洪水を起こしたと云っていたが、それが池の主である「龍神」の怒りに触れて首を落とされたのである。

参照・渡辺善吉 (1955) 「霊池郡殿池の伝説 (二) 」
新潟県民俗学会/編 (1955) 『高志路』第三期二十号/通巻163号、自刊、p. 32

かなり率直、かつ激しい内容の説話ではあるが、雨を降らせるために「龍神」を怒らせること、そしてそのために「赤猫」を池に放り込んでいることなどが、「仁科神明宮」や「建部神社」の「唐猫」伝説と明らかに通じている。また、直接「猫」の伝承では触れられていないが、その他の「郡殿の池」伝承では、「尿」が大きな役割を果たしているが、これは「十津川」の「猫又の滝」の伝えと通ずる部分があるのは明らかである。

花渕山・雄沼・水分神社

「雄沼」の畔の「水分神社・石祠」

花渕山・雄沼
「雄沼」
画像は、二枚とも「ヤマレコ」様のサイトから
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-88776.html

そして、最後の決め手とも云えそうな習俗に、「宮城県」は「大崎市」にある「花渕山」の頂上 (九合目) 近くに鎮座する「水分神社」の「雨乞い」習俗がある。「宮城県」の公式ホームページ内にあった「みやぎの水にまつわるお話」と云うコーナー (?) には、次のような話が掲げられていた (今はもうない) 。

「花渕山」は、昔から「江合川」流域「大崎地方」の農民の雨乞いの山として信仰されてきたが、その対象はこの「雄沼」で、沼辺に「水分神社」が祀られている。水不足の年には、農民の代表者が「雄沼」に至り、素足で沼を駈け歩き、水を濁して霊神を怒らすと大雨がやってくると信じている。そして、それでも雨が降らない時は、猫を沈めると大雨を呼ぶと信ぜられ、「戦後」もそれが行われた。

参照・宮城県公式ホームページ「みやぎの水にまつわるお話」
http://www.pref.miyagi.jp/kikakusom/energy/03-00mizusigen.html (リンク切)

ここの習俗に至っては、もはや「建部神社」や「仁科神明宮」の「雨乞い」習俗と、ほぼ同一のものと云えそうである。さらには、「長野」の「唐猫」よりも、「何故、猫なのか? 」の根拠がはっきりしておらず、習俗としては唐突な観を避け得ないだけに、その分、より直接的なつながりがかつてあったのではないかと匂わせている。いやいや、それ以上に、何よりもこちらは本物の「猫」を沈めると云っていることを忘れていた。そりゃ、直接的にもなるって...。

『唐猫さまと雨乞い』を著した「古川敏夫」氏は、その本の中で「仁科神明宮」と「建部神社」が「仁科街道 (千国街道) 」と呼ばれる一本の道でつながっていることを指摘し、「長野県」にだけ、複数の「唐猫」が存在することの説明の端緒をこの事実に見つけようとしている。しかし、「新潟県」や「宮城県」にほぼ同様の習俗があるとなると、「雨乞いの猫」と云う部分は、単に「仁科地方」の一極小文化として捉えるのではなく、ややマクロな視点で、この習俗の発生や伝播を考えていかねばならなくなるだろう。

したがって、筆者は、上記の「古川」氏の見解をほぼ支持するものの、この街道沿いに広がったのは「唐猫」の信仰を形成する起源的な精神ではなく、「狛犬・唐獅子」様の図像と、「唐猫」と云う語彙だと考えている。そして、その言葉が広がったことによって、既に「風水神」としての「猫」と云う観念が薄れつつあったところに、新たに「唐猫」信仰圏とも呼べるものが中興されたのではないかと考えるのである。もっとも、「新潟県」や「宮城県」などの事例との最大の相違はその語彙としての「唐猫」にあり、また「長野県内」の最も顕著な特徴として「唐猫」の語があることを鑑みれば、むしろ当然の推論とさえ云えるのだが...。



6. ふたたび「蹴裂伝説」への回帰 
 
―いくつかの中間的なテーマの提示―

ここまでに、「東北地方」にも、「雨乞いの猫」の習俗があったことを確認出来たことは、色々な意味で収穫であった。何故なら、「長野」に限らず、我が国の他の地域でも、「猫」がはっきりと「風雨」や「水」と関連づけて語られている習俗があることを確認出来たからである。全国的に見られる「猫檀家」話では、「猫」が風雷雨をもたらすモチーフがほぼ普遍的に見られるのだが、どうしても棺桶を宙吊りにするイメージと、奇妙なお経のイメージに主役の座を奪われて、「猫」が「風水神」としての性質を顕していることには、あまり気付いてもらえないのである。実際、既に述べた「龍徳寺の猫」の話には直接「雨乞い」が関わるし、有名な「志津倉山のカシャ猫」の舞台は「雨乞い岩」と隣り合っている。

そして、実は「蹴裂伝説」との関係から見ても、「東北」には興味深い伝承が存在するのである。「秋田県」の「八郎潟」の名前の元となった「八郎太郎」の伝説である。

「八郎太郎」は、この地方の「ダイダラボッチ」に当たる巨人なのだが、異伝は多いので、その伝説を一つにまとめて紹介するのは困難である。ただ、その特徴をかいつまんで列挙すると次のようになる。

1. 「十和田湖」「田沢湖」「八郎潟」などの地形変成譚である。
2. 「南祖坊」に「十和田湖」を追われ「八郎潟」を造るに至る物語が有名。
3. 「田沢湖」の「辰子」との婚姻譚も有名。

付属的な特徴としては、次の事項が挙げられる。

・「八郎太郎」は竜の子らしい。自身、龍になってしまう伝説も多い。
・湖が凍ることと、主の婚姻を関係づける傾向がある。
・「糸巻型」「覗くなの間」などの「三輪型通婚譚」の特徴
・「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」の存在
・藤蔓で山を背負うモチーフ

本稿で特に興味を引くのは、上記の第二の伝承なのだが、「十和田湖」を追われた「八郎太郎」は、「米代川」をせき止めて、「鷹巣盆地」を湖にすると、そこに何年か住み着いたと云うのである。その地が、「七座 ななくら 神社」近くのだと伝えられる。

昔、この地に「八郎太郎」と云う巨人が川を堰き止めて住んでいたが、神々がこれを追い出そうとして白鼠を遣わし、土手に穴を掘り始めた。ところが、この鼠を襲おうと猫たちが集まってきたので、神々は猫をつないでこれを防いだ。それでここの地名は初め「猫繋 ねこつなぎ 」になったのだが、やがて転訛して「小繋」になったと云う。

「小繋」には「禁鼠大明神」の祠があり、「七座神社」で「鼠除けの札」を分けているのもここからきている。

参照・野添憲治/編 (1977) 『日本の伝説14・秋田の伝説』角川書店

この伝説は一瞥して、「ダイダラボッチ」系統のものであることが察知出来るのだが、実は本稿の冒頭の方で紹介した一群の「猫の地形変成譚」とも、偶然ならざる類似点を有していることに気づかれるだろう。

「七浦海岸の猫岩」伝説と比較した時、「地形変成」のモチーフ以外にも、「神々と対立する主人公とその分身の猫」と云う構図も共通している。「猫」が争闘の中断を呼び込んでいると云う点、前半で筆者が使った表現をそのまま使用するならば、「それぞれの目的を持った直線的な行動を『宙吊り』にされ、首尾半ばにして、カタストロフィックな収束へと物語を導いている」点でも共通しているのである。

本稿の前半部では紹介を見送ったのだが、実は「佐渡」には別の (より有名な) 「猫譚」も伝わっており、こちらの伝えは「小繋」の伝説との類似がより明白である。

昔、北から鬼が来て「佐渡」を取ると云ったら、「金北山大権現」が節分の豆から芽が出たら譲ろうと応えた。ところがある年、節分の豆から芽が出てしまったため、「金北山大権現」は「土竜」を作って「大豆」を枯らそうとした。これに対して鬼は怒って「猫」を作り、「土竜」を退治させた。だから節分の豆はよく炒らなければならないのだと云う。

参照・茅原鐵蔵 (1916) 「佐渡金沢村より」
郷土研究之会/編 (1916) 『郷土研究』第四巻一号、郷土研究社、p. 56

「山形県・新庄地方」にも類話が伝わる。以下に、筆者の要約を載せる。

昔、人をとって食う恐ろしい鬼がいた。そこで「釈迦」が、炒り豆を畑に蒔いて、この豆が生えてくるまで人を食ってはいけない、と云った。ところが、鬼が毎日毎日、水をやって、早く生えろ、早く生えろ、と願ったせいか、豆が生えてきた。鬼は喜んで「釈迦」に人間を食ってもよいとの許可をもらいにいくと、「釈迦」は、明日、自分が確認してからだと云った。そして秘かに鼠たちを呼び、豆を食べてしまうよう命じた。翌日、「釈迦」が畑を見に行くと豆は一本も生えていなかった。夜のうちに鼠が来て食ってしまったと聞いた鬼は怒って、猫を使って鼠を退治した。猫と鼠が仲が悪いのはこのためだ。

参照・「猫と鼠」『山形新聞』平成二十年 (2008) 七月十五日掲載
http://yamagata-np.jp/minwa/minwa59.html

「佐渡」の「猫と土竜」の伝えでさえ十分に「小繋」の伝説と類似するが、さすがに地理的な距離が近づく「山形県・新庄地方」の伝承となると、いよいよその類似は顕著となっているのが分かるだろう。

「小繋」の伝説は、「地形変成」のモチーフを残しつつ、大地の開拓と云う要素を含んでいないのだが、「佐渡」および「新庄」の伝えは、この「開拓」の要素を遺していることは明らかである。特に「新庄」の伝承では、鬼が豆に水をやって育てているところに、「開拓」の要素がはっきりと遺されている。

時代の流れの中で、元となった原説話は変質を遂げ、ほとんど原形を留めていないものになってしまっているのだろうけれど、「日本海」沿岸地方を縦断するかのように存在する「唐猫」の類縁譚を並べて整理すると、仮にそれらが一つの起源から発したものとするならば、その原型の主たるモチーフは次のように抽出出来そうである。

1. 「蹴裂」の要素を含む
 a) 「地形変成」を含む
 b) 「開拓・開墾」を含む
2. 「蛇神」としての土地開拓の神 (巨人) と、天の神との対立
3. 両者の争闘は、事実上、引分けに終わる

悪者扱いされている「鬼」や「八郎太郎」などを「土地開拓の神」とすることには抵抗があるかも知れないが、「小繋」では「七座神社」境内に「禁鼠大明神」の祠もあり、神々が送った「鼠」を禁ずる効験を謳っているのだから、その起源には「八郎太郎」や「猫」の側を神と見なす心性があったのだろうと思われる。我が国の「鬼」と云う概念自体が、平野民が貶めた「金工の神」の零落した姿だと云うことは、民俗学の世界からしばしば指摘されている通りである。「伊弉諾尊/伊弉冉尊」が神であることは疑いを入れない。しかも、これらにはみな「巨人」の匂いがついて廻る。

敢えて反論すれば、「塩田平の唐猫伝説」に登場する「鼠」のみが、どうにも「土地開拓の神」と云う柄ではなさそうだ、と云うことになろうか。しかし、既に触れたように、「蹴裂伝説」においては、そもそも大自然の相対立する二つの力の角逐こそが、その主たるイメージである可能性すらあるので、それがやがて二つの天敵動物の争いへと退化してしまったとしても、さほど不思議とは云えないのである。

今回重要なのは、これら一見バラバラに見えていた諸伝承が、一定の地理的な連続性を持って、緩やかではあるが、共通した象徴性の下で結びつけられたことである。「新潟県」や「長野県」を挟んで、「島根県」から「秋田県」に至る「日本海沿岸」地域に、いまや表面的にはほとんど読み取れなくなってしまった文化的な連続性を持った伝承母体の行き来があったことを示唆する今回の考察の結果は、筆者の「猫神探訪」に、わずかばかりの光明を与えてくれただけでなく、また新たな方向性を見出してくれたとさえ云える。

*

また、「長野県」の「唐猫」を巡る言い伝えの中に、「蹴裂伝説」との関わりが見えたこと、そして、その中で「唐猫」に「風水神」としての性格が、色々な角度から明確に立ち現れ始めたことが確認出来たのは、非常に重要な到達点であったと云える。そして、そのことを通して、いくつか過去にやり残してきた課題の方向性も明確になったと云える。

本稿も終りに近づきつつある現時点では、これ以上手を広げているゆとりはまったくないが、この結果を受けて、以前「栃木県の猫神」のシリーズで展開した「磐裂神社」に関する所説も、補強・修正しなければならないことは明確になった。

あの記事を書いた当時は、「日光信仰」の枠組みの中に、どのように始祖神としての「磐裂神・根裂神」を組み入れるものか、と云う点に必要以上に気をとられていたため、両神格を「明星」の象徴として理解することに説明の大半を費やしたと覚えている。そのこと自体は、いまでも間違ったとは思っていないのだが、その根源にあった「磐裂神・根裂神」の性格については、踏込んで理解しようとする努力を欠いていたと反省している。「磐裂神・根裂神」を「岩を裂く雷神」「木の根を裂く雷神」と理解する岩波の古典文学大系本の「記紀」の注釈にとどまらず、何故、他にも「雷神」がいる中で、特定の文脈では「磐裂神・根裂神」が選ばれるのか、と云う点により関心を寄せるべきだったと思っている。しかも、何故、裂くのが「岩」であり「根」であるのか、と云う点もより追求すべきであった。

結果として、「風水神として猫」と云う仮説を立てておきながら、どのような「風水神」なのかの性格付けが曖昧になり、それ故に「大黒天」の信仰とどのようにつながるのかと云う時点で大停止を喰らうこととなってしまった。図らずも、「長野県」の「猫神」の考察を行なうことで、「猫」の「風水神」としての、より具体的な性格が見え始めたと云える。

*

さらには、本稿でも少しばかり触れたが、「阿蘇山」にもよく知られた「蹴裂伝説」がある。こちらの伝承は、多くの点で「信濃」の「蹴裂伝説」とつながるのだが、実は「日本海沿岸」に広がる「唐猫伝説」との絡みで見たとき、果たしてこの地域の伝承もその一脈に通ずるものなのか、いまだ検証が必要と思えたため、敢えて大きく採り上げることはなかった。ただ、「蹴裂伝説」に見られる「鉱工業」との深いつながりを今後追究していくならば、「阿蘇」の「蹴裂伝説」もまた、重要な傍証となるだろうことは間違いない。既に、今までの稿で何度か触れているが、筆者は我が国の「猫神」信仰には、その古層で「風水神」としての特質が見え隠れすると述べてきたが、その流れの中で、それとは別系統と思える「鉱山」とのつながりも見えることを告白してきた。しかし、「蹴裂伝説」を媒介項とすると、もしかしたら今後は、この二つの「猫神」の性格が一つのものへと収斂される可能性も出てきたのである。

そこで、今後の探求の下地造りも兼ね、以下、「阿蘇」の「蹴裂伝説」に関して、障りだけでも紹介しておこう。内容は、諸書から筆者が要約したものである。

「阿蘇」の外輪山の内側は大きな湖であったのを、「神倭磐余彦尊 (神武天皇) 」の長子「神八井耳命」の子とされる「健磐龍 たけいわたつ 命」が、外輪山の西側を蹴り裂き、湖水を流して「阿蘇」を開墾し、「阿蘇神社」に祀られたと云うものである。細かい異伝は沢山あり、火口瀬の立野を蹴破って水を流したが、川上にいた「大鯰」が途中から水の流れ堰き止めてしまったため、命はこれを退治して、「阿蘇」の火口原の湖を平地にすることに成功したと云う話もある。

既に何度か登場している民俗学の「谷川健一」氏は、この伝説に関して、次のように述べ、「蹴裂伝説」が鉄器を用いての開墾や開拓を暗示していると云う。

湖を有明海に流したと伝えられるときの水路が今の菊池川なのであるが、菊池川の流域は肥後でも有名な砂鉄地帯であった。こうした蹴裂伝説が阿蘇国造の祖神であるタケイワタツ命にまつわっていることは、阿蘇君の性格、延いてはその同族である多氏の性格をつかむ手がかりとなる。

谷川健一 (1979) 『青銅の神の足跡』集英社、pp. 256-257

彼は、さらに『日本書紀』の「神功皇后摂政前期 (仲哀天皇九年四月) 」の記事を紹介して、明確にこの「蹴裂」の神が、「雷神」であることを指摘する。

福岡市中を流れる郡珂川の水を田に引こうとして、灌漑用の溝を掘ったが大岩がふさがっていて溝をとおすことができない。神功皇后は武内宿禰を呼ぴつけ、剣と鏡を神前にささげて祈らせたところ、雷がはげしく鳴り、その岩をふみ裂いて水が流れるようになった。そこで、その溝を裂田溝 たくたのうなで と称した、というものである。

ここにいう雷電とは、鍛冶神または金属神の別称でもあるから、おそらく鉄器をもって大岩をこわしたことを指すのであろう。

谷川健一 (1979) 『青銅の神の足跡』集英社、p. 257

「谷川」氏は、『古事記』によれば、全国各地に「蹴裂伝説」を残したと思しい「火君」「阿蘇君」「大分君」それに「科野君」などは、「神八井耳命」の末裔である「多氏」の同族とされるのだが、これら「多氏」は「朝鮮半島からの渡来人」であり、「金属精錬の技術をもち、それによって低湿地帯を開拓する技術にもまた長じていた」と、最終的には論じている。ただし、現在分かっていることの差異から、可能な限り理論的に再構成出来る過去に焦点を当てると云う筆者の論法で行くと、現在のところははそこまでは踏み込めないでいる。誤解のないように記すならば、筆者は「谷川氏」の資料や検証が不足していると述べているのではなく、恥ずかしながら、それを受け売り以上のレベルで筆者自身が消化し切れていないと云っているのである。

ただ、「猫神」の潜在的な性格として浮上してきた「風水神」と「鉱山神」としての性質を、別系統のものと見なすか、それとも同系統のものと見なすかは、極めて重要な理論的な分岐点を提供することになるかもしれず、その意味では「阿蘇」の「蹴裂伝説」及び全国の「多氏」の事跡の痕を、今後はより丁寧に考察していかなければならないことは、はっきりした。

*

今回は敢えて触れなかった事項で、全国の「ダイダラボッチ伝説」や「蹴裂伝説」などに関わる可能性があるものに、「蛇神」の問題もある。これは、上に掲げた「阿蘇」の「蹴裂伝説」や、「多氏」とのつながりとも深い関係にあることが知られている。

実際、「諏訪明神」や「甲賀三郎」と「蛇神」のからみもさながら、「小太郎伝説」はそのまま「龍」の伝説でもあるし、「八郎太郎」も「龍体」と考えられていた。「阿蘇君」や「大分君」の流れに当たる家系には、「蛇神」の血筋を唱える家も多い。そのような「三輪山型」の婚姻譚を持つ一族は、実は、今回触れてきた「蹴裂伝説」の地に多く見られる。『常陸国風土記』で有名な「くれふし山」伝説の地も、実は「ダイダラボッチ」伝承の地である。

「猫神」に関しては、「水神・風雨神・雷神」、そして各地の「蹴裂伝説」などに見られるように「地形変成の神」としての性格も見え始めたが、その神的性格が抽象的で、かつそれに対する筆者の理解がいまだ中途半端な段階に止まっているため、その全貌に迫るには至っていない、と云う印象は相変わらず拭えないでいる。

このように見ていくと、「唐猫」や「猫神」の伝説と、「蹴裂伝説」の地をつなぐ「蛇神」の要素をより積極的に探求しないのは、愚の骨頂なのではないかと思われるかもしれない。しかし、筆者は今回、その方向での探求を敢えて控えてきたのである。何故なら、現在でもかつての養蚕地に「猫神」の碑などが残されている場合、「蛇神」の碑などを伴う事例が極めて多く、そのために、単純に「猫神=蛇神」、あるいは「猫神」は「蛇神」の一側面を象徴しており、共に「鼠」を退治するため、農耕の守護神として祀られたのだと云う結論に急ぐ傾向の論者があまりに多いからである。

大体、昔話研究などでも、我が国では「鼠」が必ずしも「悪者」としては描かれず、福の神の使いの如く扱われると云う事実が指摘されているのに、「猫神」の話になると「民俗」関係の研究者たちがこぞって「鼠退治=養蚕」と持っていくのは不自然だと云わざるを得ない。大体、「鼠退治」ならば、何も「養蚕」に限る必要はなく、より全国的に「猫神」の信仰は波及していたとしてもおかしくないのである。

当然、筆者も「蛇神」は、「猫神」を巡る探訪をするに当たって、非常に重要な理論的構成要素になるだろうことは感じている。しかし、「蛇」に関する研究は、既に錚々たる専門家たちによって行なわれてもおり、いまさら一浅学の筆者がのこのこと足を踏み入れなくてもよい、と云う事情もある。それよりも、筆者は一見、共通する部分が多く見えながら、何故、そしてどの点において「猫神」は「蛇神」と峻別されるのか、と云う点に頭を悩ましてきた。それは、そのまま、かつては全国的に隆盛した「蛇神信仰」が衰えてしまったことと関係してか、「猫神信仰」はそれ以上にその姿を消してしまっていることとつながっている可能性すらあるから、もしもそれを掘り起こすとするならば、より慎重でかつ大胆な手法が要されることは疑い得ない。

幸いなことに、本稿での考察を通して、朧げながら、これらの問いに対する答えがようやく見え始めたのである。「建部神社の唐猫」の探求を開始した当初、自らの中で打ち立てた暫定的な目標とはだいぶ方向がズレてしまったことは認めざるを得ないが、間違いなくより大きな収穫を得ることが出来たと云える。

それは、この稿の中で何度か述べたように、「猫」が「変成」を象徴しつつも、その荒々しい「力」そのものよりは、その「契機」を表わしていることが多く、また往々にしてその「中断」をも表わしていることに注意を向けた結果、浮かび上がってきた事実ではある。ただし、今までにも「猫檀家」譚や、「唐鐘海岸」の伝説、「佐渡」の伝説等々を通して、この「中断」あるいは「宙吊り」の要素には気付いていたのだけれども、それを「蹴裂伝説」と結びつけることでようやくその象徴的な意味合いが、わずかながら浮上してきたのである。

そして、その象徴性の裏に潜むイメージと云うのは、おそらく「津波」や「洪水」なのである。今後、筆者の考察の方向は、これらの視点に重点をおいていくことになると思うのだが、その具体的な成果は、おそらく「猫神探訪」の「新潟編」に入った辺りか、あるいは早くとも「塩田平の唐猫伝説」の本編を取り扱うときになると思う。

本稿の後は、しばらくはブログが開始された当初のような、関連する「長野県」の「猫神」の簡単な紹介記事に終始することとなると思う。



7. おわりに


最後に、つけたりの観は否めないが、表題通りの話題に少しだけ触れることとしよう。

「古川敏夫」氏によると、同じ「山形村」の中にある「小坂」の「諏訪神社」にも「唐猫様」があるらしいのだが、そちらは石造りのものだと云う。石造りとなると、はたして雨乞いの儀式の時に川や池に叩き込んだかは疑わしくなるが、これだけ近接する地域の別の神社に、「唐猫様」が二組存在するのも興味深い。

いずれにせよ、「建部神社」の「唐猫様」が、図像学的には一般に「狛犬」や「唐獅子」と呼ばれる架空の動物と同じ系統のものであることは明らかである。「阿吽」で角のあるものとないものに分かれるのも、「狛犬」の古式に則った形態だと云える。

現在、「阿吽」をまとめて単に「狛犬」と呼ばれているものは、本来、「獅子・狛犬」と区別されていたもので、向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で「獅子」、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で「狛犬」だったのである。

我が国では、宮殿の守護獣として創出されたらしいのだが、ここで「狛犬」の歴史を概観するゆとりはないので、その辺の事情の説明はしない。しかし、一般に「狛犬」が現在のように寺社の門脇に、守護神のように鎮座するようになる前までは、木造の塗り物であったことが知られている。室内に祀られるもので、当然、規模も小さいものであった。それがやがて「石彫」に変化することで、屋外に据えることも可能になり、その大きさも増していくこととなったのである。

初めの「石彫」の「狛犬」たちは、そのため、現在の基準から見ると極めて小さく、台座もなかったため、銘文等は一般にその彫像の胴体部に直接に刻まれた。「本殿・外陣」から「拝殿」へ、さらには「拝殿前」そして参道入口へと、「狛犬」は移される度にその大きさもまして立派になっていったと云える。

「建部神社」のものは、「狛犬」が石造になってゆく前の時代の造形遺産だと云える。どんなに新しくとも、「室町時代後期」までのものだと考えられるのだが、確実な年代測定は現在の技術では無理だろう。

今後は、「長野県内」を中心に、他の地域に見られる「唐猫」とさらなる比較考量を重ねつつ、今回は辿り着けなかった先へと、議論を進めていけたら幸いである。

*


筆者の「唐猫」を巡る旅は、まだ始まったばかりである。

「建部神社」の地図は、こちら



参考文献

a) 主要文献
・古川敏夫 (2008) 『建部神社の唐猫様』自刊
・山形村誌編集委員会/編 (1980) 『村誌 やまがた』山形村誌編纂会

b) 各地の「唐猫」関係

「塩田平の唐猫伝説」関係
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 日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成 第二期 24』吉川弘文館
・小縣郡役所/編 (1922) 『小縣郡史』自刊
 復刻・小県郡/編 (1973) 『小県郡史』日本郡誌史料集成、明治文献
・小泉清見 (1932) 「長野縣傳說集」
 民俗學會/編 (1932) 『民俗學』四卷一號、自刊
・梶原末雄 (1932) 「信州寳ヶ池の傳說と蠶に關する俗信」
 三元社/編 (1932) 『旅と傳說』五卷・二號、自刊
・柳田國男 (1933/1942改訂) 『桃太郎の誕生』三省堂
 ちくま文庫版 (1990) 『柳田國男全集 10』
・橋詰三行/編 (1979) 「九、大鼠と唐猫」
 
坂城町誌刊行会/編 (1979) 『坂城町誌』上巻、自刊
・細川修・松本清人 (1987) 「第十二編 口頭伝承 第二章伝説 : 二、石の伝説」
 長野県/編 (1987) 『長野県史・民俗編・東信地方・ことばと伝承』一巻三号、長野県史刊行会
・矢部辰男 (1988) 『昔のねずみと今のねずみ』どうぶつ社
・谷川健一 (1989) 『青銅の神の足跡』集英社文庫
・長野地方事務所 (1993) 『長野地域民話集 昔々あるところより』長野広域行政組合
・長谷川恩 (1996) 『ネズミと日本人』三一書房
・和田登/編著 (2006) 「唐猫伝説」『信州の民話伝説集成・東信編』一草舎

「石見の伝説」
・千代延尚壽 (1934) 「犬島」
 
三元社/編 (1934) 『旅と傳說』七卷一號/通卷七十三號、自刊
・大庭良美/編 (1978) 「猫島犬島」
 
大庭良美/編 (1978) 『日本の民話 石見の民話・第二集』未来社

「荒尾市の伝説」
・広田正広/話・島本芳伸/画 (1986) 『火の国・熊本の昔ばなし』竹下隆文堂
・熊本史談会/編 (1989) 『肥後の民話と伝説』葦書房

その他
・下田博美/編 (1984) 『こちんだの民話・昔話編』東風平町教育委員会
・濱田隆一 (1932) 「肥後天草島の民譚 (四) 」
 郷土研究社 (1932) 『郷土研究』六巻三号、自刊
・荻原直正/編 (1951) 『因伯伝説集』鳥取県図書館協会

c) 「泉小太郎」関係
・鈴木重武・三井弘篤/編 (1724) 『信府統記』「舊俗傳」享保九年
 小松芳郎/解題 (1996) 『信府統記』国書刊行会
・降幡雎 (雷淵)  (1904) 『新撰仁科記』伊藤書店
・柳田國男 (1942) 『桃太郎の誕生』改訂版、三省堂 (原版 1933)
 ちくま文庫版 (1990) 『柳田國男全集 10』
・村澤武夫 (1943) 『信濃傳説集』山村書院
・松谷みよ子 (1960) 『龍の子太郎』講談社
・細川修・松本清人 (1987) 「第十二編・口頭伝承 第三章・世間話」
 長野県/編 (1987) 『長野県史』民俗編・第一巻三号、長野県史刊行会
・倉石忠彦 (1991) 「泉小太郎と小泉小太郎」
 昔話伝説研究会/編 (1991) 『昔話伝説研究』第十六号、自刊
・松谷みよ子 (2005) 『民話の世界』PHP研究所

d) 「唐猫」関係
・あづみ野児童文学会/編 (1998) 『あづみ野・大町の民話』 郷土出版社
・小野神社資料館運営委員会/編 (2005) 『小野神社誌』小野神社資料館運営委員会
・続小野神社誌編集委員会/編 (2005) 『小野神社誌・続』小野神社資料館運営委員会
・はまみつを/編著 (2006) 『信州の民話伝説集成・中信編』一草舎

e) 「千国街道」関係
・亀井千歩子 (1976) 『塩の道・千国街道物語』国書刊行会
・亀井千歩子 (1980) 『塩の道・千国街道』東京新聞出版局
・木下良/編 (1981) 『日本の街道』第三巻、児玉幸多/監、集英社
・郷津弘文 (1986) 『千国街道からみた日本の古代』栂池高原ホテル出版部
・田中欣一 (1982) 『塩の道・千国街道』銀河書房
・大日方健 (1990) 『千国街道ものがたり』郷土出版社
・大日方健 (1994) 『「塩の道(千国街道)」に歴史をひろう』ほおずき書籍
・田中欣一 (1997) 『塩の道500景・千国街道を歩く』信濃毎日新聞社
・田中元二/編 (2001) 『古道案内・塩の道千国街道』白馬小谷研究社

f) その他
・黒川道祐 (1686) 『雍州府志』貞享三年
 宗政五十緒/校 (2002) 『雍州府志』上巻、岩波文庫
・貝原益軒 (1714以前) 『朝野雜載』
 神道大系編纂会/編 (1992) 『神道大系』古典編 13、自刊
・菊岡沾涼 (1743) 『諸國里人談』寛保三年
 日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成 第二期 24』吉川弘文館
・茅原鐵蔵 (1916) 「佐渡金澤村より」
 鄕土研究之會/編 (1916) 『鄕土研究』第四卷一號、鄕土研究社
・柳田國男 (1930) 『蝸牛考』刀江書院
 柳田國男 (1980) 『蝸牛考』岩波文庫
 柳田國男 (1998) 『柳田國男全集』第五巻、筑摩書房
・濱田隆一 (1932) 「肥後天草島の民譚 (四) 」
 郷土研究社/編 (1932) 『
土研究』六卷三號、自刊
・長野
/編 (1936) 『長野縣町村誌』第二卷、長野縣町村誌刊行會
・一志茂樹 (1937) 『美術史上より見たる仁科氏文化の研究』信濃敎育會北安曇郡部會
・安筑史料叢書刊行會/編 (1941) 『安筑史料叢書』第四輯、高美書店
・室伏高信 (1943) 『隨筆・山村記』元元書房
・北原白秋/編 (1949) 『日本伝承童謡集成 2』国書刊行
・大場磐雄 (1950) 「信濃國安曇族の考古学的一考察」
 信濃郷土研究会/編 (1950) 『信濃』第一巻・第一号、自刊
・金田一春彦 (1953) 「辺境地方のことばは果たして古いか」
 古田晁/編 (1953) 『言語生活』第十七号、筑摩書房、初出
 金田一春彦 (1977) 『日本語方言の研究』東京堂出版

 金田一春彦 (2005) 『金田一春彦著作集』第八巻、玉川大学出版部
・一志茂樹 (1959) 『仁科神明宮』仁科神明宮社務所
・信濃史料刊行会/編 (1959) 『信濃史料』第十四巻、自刊
工藤健一・斉藤正/編 (1963) 『津軽のわらべ唄・第三集』津軽のわらべ唄刊行会
・金田一春彦 (1971) 「比較方言学と方言地理学」
 東京大学国語国文学会/編 (1971) 『国語と国文学』五十巻・六号、至文堂、初出
 金田一春彦 (1977) 『日本語方言の研究』東京堂出版
 金田一春彦 (2005) 『金田一春彦著作集』第八巻、玉川大学出版部
・仁科宗一郎 (1972) 『安曇の古代・仁科濫觴記考』柳沢書苑
小野重朗 (1972) 『鹿児島県の庚申塔』鹿児島県文化財調査報告書・第19集、県教委
・金田一春彦 (1977) 「アクセントの分布と変遷」
 柴田武/編 (1977) 『岩波講座・日本語 11・方言』岩波書店
・野添憲治/編 (1977) 『日本の伝説14・秋田の伝説』角川書店
・秋田県国語教育研究会/編 (1978) 『秋田の伝説』日本標準
・浜口嘉寿夫 (1984) 「第六編・第三章・第二節・伝説」
 『新潟県史・資料編 23・民俗 2』新潟県
・山本修之助 (1986) 『佐渡の伝説』佐渡郷土文化の会
・金子博昌ら/編 (1990) 『湯布院を歩く』葦書房
・小穴芳實 (1991) 『豊科町の土地に刻まれた歴史』豊科町教育委員会
・熊本県小学校教育研究会国語部会/編 (1992) 『熊本の伝説』第九版、自刊
・真喜志きさ子 (1993) 「琉球天猫考 ―主夜神と天女― 」『琉球天女考』沖縄タイムス社
・梅村錞二 (1993) 『愛知の淡水魚類』自刊
・熊本日日新聞社編集局/編 (1994) 『新・阿蘇学』第三版、熊本日々新聞社
・谷川健一 (1997) 『日本の地名』岩波新書
・上田市誌編纂委員会/編 (2002) 『上田市誌』第二十五巻・民俗篇 3、上田市
・上田市誌編纂委員会/編 (2002) 『上田市誌』第七巻・歴史編 4、上田市
・上田市誌編纂委員会/編 (2003) 『上田市誌』第八巻・歴史編 5、上田市
・篠崎健一郎/監 (2003) 『大町・安曇の今昔』保存版、郷土出版社
・篠崎健一郎 (2004) 『大町市の歴史』一草舎出版
・宮坂武男 (2004) 『図解・山城探訪』第三集、長野日報社
・河村望 (2004) 『百合若大臣と猫の王』人間の科学社
・篠崎健一郎 (2006) 「仁科氏時代の安曇とその文化」
 田中欣一/編集 (2006) 『安曇野大紀行』一草舎出版
・上代文献を読む会/編 (2006) 『高橋氏文注釈』翰林書房

参考サイト・新聞
・『読売新聞』平成十一年 (1999) 年五月二十日 (木)  全国版朝刊  18面
・『山形新聞』平成二十年 (2008) 七月十五日掲載
・『パワースポット in 佐渡』「夫婦岩の伝説」
 http://www3.ocn.ne.jp/~meoto/meotoiwa/meotoiwa.html
佐渡島「大佐渡巡り」』より
 http://choichi.cocolog-nifty.com/photos/sadonoi/04_088.html

万葉の旅・辛の崎HPより
 http://blowinthewind.net/manyo/manyo-karanosaki.htm

民話紙芝居「小泉小太郎物語」
 http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kotaro/index.htm
taki3D
 http://taki3d.la.coocan.jp/07kinki/nara/totukawa/nara_totukawa_nekomata.htm
ぽ・ぽ・ぽ・・さんぽ
 http://sanpopopo.at.webry.info/201007/article_12.html
ヤマレコ
 http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-88776.htm

『にゃん古譚』=めちゃくちゃ優良サイト!!
 http://nyankotan.bake-neko.net/index.html
日々是不思議也のコメント=めちゃくちゃ優良サイト!!
 http://blogs.yahoo.co.jp/onikirai_sat/5914256.html
・『
黒猫 : 江戸を斬る
 http://catmomoz42.blog.so-net.ne.jp/2006-05-23


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