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宮城県の猫神・水沢の「唐猫」

.22 2011 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していくシリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。


水沢のカラ猫
宮城県伊具郡丸森町水沢
 
水沢付近
「水沢」付近の「阿武隈川」
「@丸森の巨石伝説 ! 」HPより
http://zuiunzi.net/igu/bsrisuto8/38.html
 
1. はじめに

今回、紹介 しょうかい するお話は、「宮城県」の南部と「福島県」北部との境 さかい 、「阿武隈川 あぶくまがわ 」が滔々 とうとう と流れる「丸森町 まるもりまち 」の北部に伝 つた わるものです。いまでこそこの地は、緑の深い低山間地 ていさんかんち といった景色が広がりますが、かつては、古くからこの地域 ちいき の大切な交易路 こうえきろ でありつづけた「阿武隈川」に沿 って、多くの船や人、それにお米や物資 ぶっし が行き来して栄 さか えた土地でした。「水沢」は、その中でも特に栄えた港として知られているところだったのですが、いまは完全に草木におおわれた廃墟 はいきょ となっています。

ところで、この地域 ちいき では、
古くから「猫」の姿 すがた を石に彫 って、神様としてお祭りする風習 ふうしゅう がありました。いまでも、そんな「猫」を彫った石碑 せきひ が、「丸森」町内とその周辺の地域にたくさん残されています。 くなった飼 い猫を供養 くよう するためとも、よくない死に方をした猫のたたりを防 ふせ ぐためとも言われますが、はっきりしたことは分かりません。明治時代ころから昭和三十年代あたりまでは、特にネズミよけの神様として崇 あが められていたようです。このあたりは、むかし、「蚕 かいこ 」を飼って「絹 きぬ 」をつくるのがさかんだったのですが、気をつけないと、大切な「蚕」をネズミたちに食べられてしまうことも多かったからだそうです。

これらの「猫碑 ねこひ 」と、今回紹介するお話とが関係あるかどうかは分かりませんが、いずれにしても「丸森町」周辺 しゅうへん は、「猫」と縁 えん の深い土地のようです。



2. 水沢の「カラ猫」

それでは、お話に入ります。

昔、「水沢」に「御城米 ごじょうまい 問屋 どんや 」があって、船で来る書状 しょじょう「峠 とうげ 」の「御番所 ごばんしょ 」に届けなければならなかったのだが、「水沢」から「羽出庭 はでにわ 」に出て、それから「鳥木 とりき 」を通っていくので、「御番所」につくのは晩方 ばんかた になってしまった。

ところで、「水沢」の「御城米問屋」では大きな「カラ猫 ねこ 」を飼 っていたのだが、書状を持ってゆく人が、途中 とちゅう 、川べりの畑の中で、その猫が子供の「大黒頭巾 だいこくずきん 」をかぶって、「狢 むじな 」とおどっているのを見てしまった。その人は青くなってもどってきて報告 ほうこく したという。

しばらくして、「カラ猫」が家にもどってきたというので、家の人が、なんだ、主ゃ、おらいの誰 だれ それの帽子 ぼうし 持ってってかぶって、おどりおどっていたってなァ、と語ると、それきり猫の姿 すがた は見えなくなった。そして、その帽子を持ってくると、家に返して、また見えなくなったと云う。

それから、「水沢」は猫の化物 ばけもの が出たから、立たねーつーことになった。新しい時代がやってきていたというのもあったが、あそこはつぶれるだろうと云うこと。実際 じっさい 、「御城米問屋」も、汽車 きしゃ というものができて、川筋 かわすじ を歩くものはいなくなり、不要 ふよう になってしまった。



3. この話について

このお話には、説明するのが難しい言葉がいくつか出てきます。特に「御城米問屋」「御番所」の二つは、分かりにくいですね。でも、この二つの言葉は、説明するのも大変むずかしいのです。むかし、日本を「将軍 しょうぐん  (徳川 とくがわ さん) 」が支配 しはい していたころ、全国 ぜんこく のあっちこっちに「徳川幕府 ばくふ 」の領地があったのです。その土地から納 おさ められる税 ぜい としての「年貢米 ねんぐまい 」は、必ず「将軍」の住む「江戸 (東京のこと) 」に運ばなければなりませんでした。大量の米を何百キロも運ぶのですから、これは大変な仕事でした。この大変な仕事を政府 (幕府  ) や人々の代わりにやってくれたのが「御城米問屋」です。上の伝説の舞台 ぶたい である「福島県」では、「阿武隈川  」を使って船でお米を運びました。「水沢」というのは、その「阿武隈川」の最 もっと も重要な港の一つだったのです。

御番所 ごばんしょ 」というのは、昔の「役所」「警察署」のようなものです。ここのお話でいえば、政府 (幕府) に納める税としての年貢米が、正しく運ばれているかをチェックするための役所のことです。「カラ猫」は、「御城米問屋」からこの「御番所」に向かう途中の道でおどっていたようです。

「猫」がいっしょにおどっていた「狢 むじな 」というのは、大体みなさんの知っている「タヌキ」のことです。「大黒頭巾」というのは、「大黒様」がかぶっているような、あの赤くてふにゃっとした帽子 ぼうし のことです。昔は、小さな子供や、六十歳 さい を過 ぎたおじいさんがよくかぶっていたものです。

でも、みなさんは、猫が「タヌキ」といっしょに、帽子をかぶっておどりをおどっていたら、どう思いますか? かなりカワイイ場面だとわたしは思うのですが、みなさんはどうでしょう? けれども、昔の人は、真剣 しんけん に「猫」は化けるものと考えていたようで、猫がおどりをおどったりすることを、たいそう気持ち悪がり、こわがったようなのです。何だか、もったいないですね、カワイイのに...。

ちなみに、「御城米問屋」というのは、大変なお金持ちで、たいそう栄 さか えた家だったのですが、「明治時代」に「汽車 きしゃ 」や「舗装 ほそう 道路」ができ始 はじ めると、川を使う人はいなくなって、「御城米問屋」もつぶれてしまったそうです。



4. むすび

今回のお話は、いかがでしたか? 「猫」もいろんなお話に登場 とうじょう しますね。「猫」がおどりをおどったから、化け猫だと思われて追いはらわれるという内容 ないよう の話は、全国各地に見られます。猫が好きなわたしとしては、この手の話を読むといつでも心が痛 いた むのですが、今度の話には別 べつ の悲しさもありました。それは時代の移 うつ り変わりとともに、ずっとお世話になってきたものに対する感謝 かんしゃ の思いを忘 わす れて、人々がより便利 べんり なものにとびついてしまい、そのためにそれまで一生懸命 いっしょうけんめい に人々のために働 はたら いてきた人や家が、あっけなく滅 ほろ びてしまうという悲しさです。

「阿武隈川」は、川の底が岩でごつごつした、船の通りにくい川でした。それを
「御城米問屋」の一家は、先祖 せんぞ 代々、自分のお金で工事をして、船を通れるようにしてきたのです。たくさんの船を用意し、多くの船頭 せんどう  (船をこぐ人) をやとい、仕事がある時もない時も、いつでも人々のために準備 じゅんび をしていたのです。たしかに、「問屋」さんですから、お金持ちではありました。しかし、実は、上の言い伝えに登場する「問屋」さんの前の「御城米問屋」は、人々のために「阿武隈川」の船の輸送路 ゆそうろ を準備しておくのにお金がかかりすぎて、破産 はさん してしまいました。だから、お金持ちとはいっても、決して楽な仕事ではなかったのです。でも、地域のみんなの生活がかかっていたから、がんばれたのだと思います。

ところが、新しい時代がやってきて、より便利な道路や鉄道が通るようになると、人々はまるでゴミを捨 てるかのように、「川船」のことは記憶 きおく から捨て去 ってしまいました。何百年も、苦労して、人々のために川船を用意していた「御城米問屋」さんも、あっという間に滅んでしまったそうです。

人間は、どこに行ってもあまりやることは変わらないようで、このようなことは、世界中どこでも見られるようです。フランスの小説家 しょうせつか 「アルフォンス・ドーデ」の『風車小屋だより』という作品の中にも、「コルニーユ親方の秘密 ひみつ 」という、似たような悲しい話があります (猫は出てきません...) 。「ドーデ」の作品は、子供むけの本も出ていますので、機会 きかい がありましたら、ぜひ読んでみて下さい。


次回は、「茨城県」の「唐猫」を紹介します。
お楽しみに。


「水沢」の地図は、こちら 付近です。

 
 
*

5. 追補・大人の方々へ

a) 「阿武隈川舟運」について

「阿武隈川」は、それこそ「古代」から、地域の人々の輸送路として利用されていたことは間違いないのだが、本格的に「舟運」が開かれたのは、「江戸初期」、「信達地方」の多くが「上杉領」から「天領」に替わったことが、最も大きな契機となったと云われている。これ以前から既に川運の航路開拓は進められていたようなのだが、大々的な交易が可能になるのは、大体この時期からだと見ていいようである。

「信達地方」は、元来、「蒲生氏」から「米沢藩・上杉家」へと至る「会津領」の一部だったのだが、寛文四年 (1664) 、藩主「上杉綱勝」の死去に伴い、養嗣子「吉良三郎」が家督を継ぐことになり、これに際して、三十万石のうち十五万石が「天領」とされた。『信達一統志』に、「寛文年中渡部友意なる人、公朝に訴水脈を開発し信達両郡の賦税を運送せむことを願ふ」とあるように、寛文四年、「伊奈半十郎」の代官時に、「江戸」の豪商「渡辺友意」が、この「御城米 (天領米) 」の回送を請負い、巨費を投じて「猿跳 さるぱね 」などの難所の開削などを行なって、「梁川」から「丸森」までの航路を開き、翌年までに通船している。寛文十年 (1670) には、「幕府」が「河村瑞軒」に「信達地方」の「御城米」の「江戸」廻米を命じ、「瑞軒」は同十一年までに航路を開拓することに成功した。これが世に云う「東廻り航路」である *。
 
* 「河村瑞軒」は、この翌年、「最上川」の舟運をも整備して、「酒田」を起点とした「西回り航路」を完成させ、全国的な流通の画期を築いたことは周知の通りである。
 
「阿武隈川舟運」の通船以後は、古記録に、「寛文十二子年より福嶋渡辺十衛門と申すものご公儀より金五百両拝借いたし阿武隈川通し水沢沼の上より上の川滝々切り開き普請いたし小鵜飼通船いたしお請負申し上げ候」とあるように、「渡辺家」が「小鵜飼船問屋」として一手に「信達地方」の年貢米の回漕を請負うことになった。

次いで、天和二年、「福島」城下に店舗を持つ江戸商人「上総屋兵吉」と「亘理郡荒浜村」の「武者宗三 *」が、共同で「伊具郡耕野村」付近の川底の岩石を壊すなどの改修を行なっているが、この時期に、「上総屋」は「武者」と共に、「沼ノ上」以北の「ひらた船 (高瀬船も) 」請負業者として活動するに至ったものと思われる。また、「渡辺家」も、天和二年及び明和年度に、「伊達郡五十沢柴崎」と「伊具郡沼ノ上」間の改修整備を行なっている。そして、おそらく明和期以降、大まかに見て「福島-水沢・沼ノ上」間の回漕を「渡辺家」が、それより下流の「荒浜」までの回漕を「上総屋」が請負うことになったのだと思われる。ただし、この請負事業は、莫大な私財の投下を要するものであったため、明和四年 (1767) には「渡辺十郎右衛門」が借金返済不能を理由に廃業するに至り、明和五年以降、「阿武隈川舟運」の年貢米回漕の一切を「上総屋」が独占して請負うことになったのである。
 
* 恐らくは、「河村瑞軒」と行を共にした人物と思われる。
 
「福島河岸」から「水沢・沼ノ上」までは、浅瀬や急流が多く、船底の浅い「小鵜飼船」に年貢米・四十俵が積まれて運ばれ、「水沢・沼ノ上」の両河岸で百俵積みの「ひらた船 (高瀬船) 」に積み替えて「松島湾」に面する河口の「荒浜」に回漕し、ここで年貢米を「千石船」に移して、「江戸」へと運んだのである。

「阿武隈川舟運」の要所である河岸には番所が置かれていたが、現在の「羽出庭橋」付近には、特に重要だった上記の「水沢河岸」と「沼ノ上河岸」があり、さらに「水沢」には、「仙台藩」の「御石改御番所 (水沢番所) 」が置かれていたことが知られている。廻米はここで「小鵜飼船」から「ひらた船」に積み替えられて「荒浜」へと運ばれたことは、上に見た通りである。

「明治」に入ってからも、「信達地方」がわが国の主要な外貨獲得源であった「生糸」の大生産地であったため、「福島・御倉町」を起点とした「阿武隈川」の舟運は、さらに整備が進められたのだが、明治十年代からは道路の改修が進められた影響で舟運は次第に利用されなくなってゆき、明治二十年 (1887) に「東北本線」が開通すると、物資輸送の中心は鉄道へと移り、「阿武隈川舟運」の二百年に及ぶ歴史は、静かにその幕を閉じたのであった。

ところで、明和五年 (1768) 以降、「阿武隈川舟運」を一手に請負っていたのが「上総屋」であることは、上に見た通りであるが、と云うことは、今回紹介した言い伝えに登場する「
御城米問屋」と云うのも、この「上総屋」だと云うことになる。そして、この言い伝えの年代と云うのも、「幕末」から「廃藩置県」の直前までの時期に絞り込めることになる。ここまで伝説の背景や年代が明らかに出来ると云うのも、稀なことであるだけに、筆者にとってこの伝承は貴重なものとなっているのである。
 
*
 
ついでながら付記すると、「水沢」には「仙台藩」の「御石改御番所」が置かれ、ここでの船の積替えを監督していたのだが、上の言い伝えに登場する「御番所」と云うのは、別の番所のことである。この番所があった「峠」と云うのは、実は固有名詞で、現在の県道101号・丸森梁川線を「伊達市」から「丸森町」に入ってすぐの辺りの地を指しており、現在も「峠」の字が残っているだけでなく、同名のバス停留所もある。

今でこそ、「阿武隈川」北岸の国道349号線、あるいはこの辺りでは南岸を主に走る「阿武隈急行」などがこの地域の主要な幹線に思われるかも知れないが、「江戸期」には前記の県道101号線の前身をなした道の方が主たる陸路として利用されていたのである。現在の「丸森横町」から「伊具高等学校」脇を通り、「川田島」「欠入」「峠」を経て、「伊達市梁川」に通ずる道は、「藩政時代」の公用路だったのであり、「峠」集落には、人馬・物資の出入りを監視する「御境御番所」が置かれていた。「伊達政宗」が「小田原」へ参陣したのもこの道を通じてである。安永八年 (1779) の『風土記御用書出』 (『安永風土記』) にも「峠御境御番所 壹ヶ所 貞山様御代御境被相定候節より右番所被相立候由申伝候處年月相知不申候事」と記されており、正確な年月日は不詳ながら、「伊達政宗」の時代に
「御境御番所」が設置されたことが書かれている。

そもそも、「丸森町」の「峠・欠入・筆甫」の領域は、文禄三年 (1594) の「検地帳」には「伊達郡」と記載され、「会津・蒲生氏郷」の領地だったことが分かっている。現在のように「伊具郡」すなわち「伊達政宗」領になったのは、「関ヶ原」以降、混乱期に乗じて「政宗」が横取りしたのではないかと考えられており、そのため、以降も「相馬領・上杉領 (会津領) 」との間に、度々境界争いが生じているのである。「峠」の
「御境御番所」も、そのような情勢の中で、本来は「福島」側からの人馬・物資の往来を監視する目的で設けられたものと思われる。後に、「阿武隈川舟運」が整備されるに至り、年貢米だけでなく、物資の交易も盛んにおこなわれるようになると、特に荷の積み替えが行なわれる「水沢」での通過の手続きは、「仙台領」に入ってから最初の湊と云うこともあり、「峠」の「御境御番所」に報告されたのであろう。

上の伝承で、「カラ猫」が踊るのを目撃されたのは、「水沢」から「峠」へと至る川辺の畑中と云うから、「阿武隈川」の畔であれば、それでも水田が中心であったと考えられるので、「猫の踊り」の舞台は、より内陸の地であろうと推測されるのだが、これ以上のことは言い伝えだけからでは分からない。今後、もう少し絞り込めるよう、調査を続けたい。


b)
「コルニーユ親方の秘密」とその周辺

「ドーデ」の『
風車小屋だより』の第三話として書かれたこの掌編は、ある意味では『月曜物語』の中の「最後の授業」と並んで、「ドーデ」畢生の名作だと云えるかも知れない。もちろん、「ビゼー」によって組曲化された『アルルの女』を除いては...。

「コルニーユ親方の秘密」は、極めて短いコント (小話) なので、どなたでも簡単に読めるものなのだが、以下に筆者による乱暴な要約を載せることとする。ちょっとしたどんでん返しがあるので、読む前に知りたくないと云う人は、下の要約文は、まるまる飛ばして下さい。
 
製粉業で栄えた「フォンヴィエイユ」の村は、かつて丘と云う丘すべてに風車が回っていた。小麦を運ぶ驢馬、金の十字架をつけて笑う美しい粉屋の奥さん、ミュスカぶどう酒、みんなで踊るファランドール、地中海の風を受けて力強く回る風車、これが「フォンヴィエイユ」の日常の風景だった。しかし、「パリ」に蒸気の製粉工場が出来ると、人々はこの村の風車のことを見向きもしなくなり、風車は一つ、また一つと減ってゆき、もはや誰も風車で麦を挽こうとはしなくなった。ただ一人、「コルニーユ親方」を除いては...。

村の誰もが風車小屋に小麦を持っていかなくなっても、「コルニーユ親方」の風車だけは、来る日も来る日も回り続けていた。かつては教会の評議員すら務めたことのある親方は、今は穴あき帽にぼろぼろの胴着を着て、ミサに来ても教会の片隅に座るほど落剥していたのだが、人々はそれでも時折、重そうな小麦の袋を運ぶ親方を見かけることがあった。村のみんなは、それをたいそう不思議に思っていたが、親方は風車小屋の中へは誰も入れてくれなかった。

あるとき、親方の留守中に、親方の娘とその婚約者が小屋の中を覗くと、山と積まれた粉袋に入っていたのは壁土だった。親方は、風車の顔を立てるために、毎日、壁土を運んでは、粉を挽いている風に見せていたのだ。

そのとき、秘密を知られては、もう生きていけないと嘆く親方の前に、本物の小麦をいっぱいに詰めた袋を乗せた驢馬がやってきた。話を伝え聞いた村の人たちが、ふたたび親方のところへ粉を挽いてもらいに来たのだった。それからは、親方が死ぬまで風車は回り続けた。しかし、彼の死後、後継者のない風車は、今度こそ永遠に止まってしまったのであった。
 
Alphonse Daudet (1866) "Le secret de maître Cornille", dans Lettre de mon moulin
アルフォンス・ドーデ (1866) 「コルニーユ親方の秘密」
桜田佐/訳 (1958) 『風車小屋だより』岩波文庫、改訳版
 
この小話は、「近代文明」対「伝統文化」と云う社会文化的な衝突を、作家の感傷的な筆で見事に描き切っているものだと云ってしまえばそれまでなのだが、実は「ドーデ」自身は必ずしも後者の立場に立って、この小品を書いた訳ではなかった。作品の中で「ドーデ」は、自身の言葉として「
しかたがありません、この世のものには何でも終わりがあります。ローヌ河の伝馬船や最高裁判所、大きな花の着いたジャケットなどの時代が過ぎたように、風車の時代も過ぎたと思わなければなりません。 (桜田佐/訳) 」と述べている。

感動を減殺するようなことを云うな、と叱られるかも知れないが、「ドーデ」はそもそも、「パリ」の有力者や時代の先端をゆく人々の機嫌を損ねるようなことは書かない作家だったのである。「普仏戦争」に負けて、「フランス」は「ドイツ」に「アルザス・ローレーヌ地方」を奪われるのだが、「ドーデ」は、いち早くこの問題を採り上げて、「最後の授業」を書いている。進駐する「ドイツ軍」によって、地元「アルザス・ロレーヌ」の人々は、母語の「フランス語」を奪われ、学校でも「フランス語」を教えることが禁じられると云う話である。学校嫌いで、普段は授業をサボってばかりいる主人公の「フランツ」は、「フランス語」の美しさと、母語を護持することの大切さを熱く語る「アメル先生」の言葉が、初めてすんなりと耳に入ってくるのである。そして、今まで真面目に勉強してこなかった自らの愚を、「最後の授業」になって初めて自覚する、そんな筋である。

筆者も、小学校時代にこの話を教科書で読んだときは、いい知れぬ感動を覚えたものである。しかし、「ドーデ」のこの作品には、大きな嘘がある、と云うよりも、そのプロット自体が大嘘で塗り固められているのである。大人になってその事実を知ってからは、もはや少年の日と同じ感動で、この小品を読むことは出来なくなった。当然、そうなってしまっては、あの時の感動を、素直に次の世代に伝えることは出来なくなってしまう。

そもそも、「最後の授業」の最も大きな嘘は、歴史的な事実として「ドイツ」は「アルザス・ロレーヌ地方」での「フランス語」の使用を禁止などしていないと云うことであろう。ましてや、学校での授業を取りやめさせたりもしていないのである。これにはきちんとした証拠がある。それは、「アルザス・ロレーヌ」の人は、当時、「フランス語」を話さなかったと云うれっきとした事実によって支えられるのである。最初から話していないものを、どのように禁止したり、取りやめさせたりするのだろうか?

作中、「アメル先生」は、有名な名言を吐いている。曰く、「
たとえ民族が奴隷の身にされようとも、自分の国の言葉を守ってさえいれば、牢屋の鍵を握っているようなものだ」と。これは確かに名台詞なのだが、この言葉ほど「ドーデ」の不誠実を明らかにする言葉はない。何故なら、この言葉は「ドーデ」の故郷の大先輩、「プロヴァンス文学」の旗手「ミストラル」自身の言葉だからである。

「南仏プロヴァンス」は、「パリ」の標準「フランス語」とは異なる「ブロヴァンス語」を話す地域だったのだが、近代化の波の中でフランス中央政府は、統一的な国民語としての標準「フランス語」を国民に押しつけ、各地の「パトワ (方言) 」を抑圧していった。その急先鋒を担ったのが学校であったことは、日本と事情は変わらない。「ミストラル」や「ドーデ」の故郷「プロヴァンス」もまたそのような文化的抑圧に屈しつつあった地方であり、「ミストラル」はそれに対抗するために敢然と戦い続けた言葉の闘士だったのである。したがって、上の名言を「ミストラル」が述べたとき、「民族」とは「プロヴァンス人」のことであり、「自分の国の言葉」とは「プロヴァンス語」のことだったのである。「ドーデ」は、故郷の人々の心の叫びを無視して、これを「フランス」と「フランス語」に、見事にすり替えてしまったのである。

ましてや「最後の授業」の舞台「アルザス・ロレーヌ地方」では、人々が話していたのは「ドイツ語系」の「方言」だったのであり、むしろ「フランス政府」によって地元の人々は「フランス語」を強要されていた立場にあったのである。「ドーデ」は、単に「パリ」の人々に認められ、名声を得んがために、当時、主流派の「フランス人」たちの琴線に最も触れたであろう話題を選んで、事実を作為的に捻じ曲げた物語をものしたのである。

これらの点に関して、かつて「蓮見重彦」や「田中克彦」がその著作で触れて、批判を寄せていることは、よく知られているところである。「蓮見」は『反=日本語論』 (筑摩書房、1977) において、「アメル先生」を「アルザス人にとっての他人の言葉を、国語として彼らに強制する加害者にほかなら」ないと述べ、同様に「田中」は『ことばと国家』 (岩波新書、1981) の中で、「最後の授業」を「言語的支配の独善をさらけ出した、文学などとは関係のない、植民者の政治的煽情の一篇でしかない」と切り捨てている。このような事実が広く知られるようになったためか、近年、「最後の授業」は、小学校の教科書からすっかり姿を消している。
 
*
 
もちろん、このような風潮に対して異論を唱える人もいる。『月曜評論』平成十五年六月号において、「岡田俊之輔」氏は、次のように述べている。
 
成程かうした批判は論理的に筋が通つてをり、この短篇を學校教科書から葬り去るのに與つて力があつた。しかし、アルザス人は知らず、殆どの讀者は、やはり今後も「誤讀」して感銘を受けるであらう。元小學校教諭・府川源一郎 (現・横濱國大教授) の勞作『消えた「最後の授業」』 (大修館書店) によれば、「初めて讀んだ子供たちは、たいがいひどく感動する」といふ。さうした素朴な「感動」を、例へば蓮實のやうに、ドーデの詐術に誑かされた「贋物」と斬つて捨てる譯にはゆかぬ。何となれば、作者の底意が奈邊にあれ、母 (國) 語を奪はれまいと決意してその學習に情熱を燃やすといふテーマそれ自體は、依然として普遍的・心情的に訴へかける力を有するからだ。
 
岡田俊之輔 (2003) 「アルフォンス・ドーデ『最後の授業』 」
『月曜評論』平成十五年六月号、月曜評論社、pp. 46-47
 
「岡田」氏は、この後、「ところで田中にせよ蓮實にせよ、彼等の主たる關心は自國語中心主義の相對化、すなはちアルザスを日本統治下の朝鮮等に置き換へ、殖民地の言語抑壓状況に思ひを致す事にあるのだが、私にはその種の言語相對主義にかかづらふ暇は無い」と述べているので、ははーん、この人はそっち系の人なのだなと分かる訳だが、そもそも掲載雑誌も今はない超・保守系のものだから、これはもうやむを得まい* 。

* 「岡田」氏の意見はそれとして尊重するにしても、『消えた「最後の授業」』からの氏の引用の仕方は、少なからず恣意的な感を否めない。 著者「府川源一郎」の全編を通した主意は、決して子供たちの初期の感動を貫いて、国語愛を喚起せよ、と云うものでないのは、本書を一読でもすれば明白である。著者の意図と異なる形で引用するのがいけないとは思わないが、そのような場合は、そうであると断らねば、善意的に云っても不誠実だと捉えられかねないし、悪意的に云えば、他人の著作の権威だけを借用しているとの誹りを免れまい。

ただし、氏の云うように、読者が感動するものを、何も作者の詐術的な作為の故に否定するのはおかしい、と云う見解には、全面的ではないにせよ、ある程度までは頷ける。そもそも、文学に限らず、創造的な産物すべてに関して云えることなのだが、「ニュークリティシズム」以降の文芸批評の理論を援用して、ある作品とその意義をどのように受容するかは、実は読み手の側の問題だと理解さえすれば、顕在的なものであれ、潜在的なものであれ、作者の意図などをとやかく云々すること自体が、さして重要なことではないとさえ云えてしまうのである。「岡田」氏の議論も、一見「国語に対する愛」を絶対視することで、「ドーデ」の作品を擁護するように見えて、その実、読み手としての自己の価値評価を作品に潜在する主体的な意図よりも重視しているのであり、その意味では、まさに作品の意義を相対化しているのである。作者の意図すら相対化出来るならば、無数に存在し得る個々の受け手の受容など、それこそ、その数と同じほどには相対化出来るはずで、その中の一つをのみ前提的に絶対化することは出来ないはずなのだが...。

ただ難しいことは抜きにして、別の視点から見るならば、ここで問題なのは、劣悪な意図の下に書かれた作品をわざわざ擁護せずとも、別の良い作品を見つければよい、と云う方向に話が進まないのは不思議だと云うことである。既に述べたように、筆者も子供時代に「最後の授業」を読んでいたく感動した。しかし、長じて「ドーデ」の意図を知るに至って、その感動はまったく色褪せた無価値なものになってしまった。はたして、そのような失望を将来与えるかも知れぬ素材を、国民の教科書に意地でも残す必要があるのだろうか? そんなことをきっかけに、むしろ、青少年たちが国語に対する愛を失ったら返ってコトである。

民族派の人々は、「最後の授業」を「國語への愛を高らかに謳ひ上げた名作」として捉え、「母 (國) 語を奪はれまいと決意してその學習に情熱を燃やすといふテーマ」を表わす崇高なものだとするならば、同様に「ドーデ」が揉み消した「ミストラル」の「ブロヴァンス語」に対する情熱も肯定しなければならないはずである。しかし、「最後の授業」を無闇に賞揚する限り、そこで語られる「国語への愛」は、永遠に二枚舌的な詭弁を逃れることは出来ないのである。「言語相對主義」を議論もせずに否定するのは楽だが、本来、この種の相対的な思考は、筆者が上に述べたような二枚舌的な詭弁が、特定の歴史的な文脈の中で暴力化した時のための防波堤をなすために存在するのである。これを否定するようでは、自らに対する批判を、事前に検閲することに等しい、と云う点で問題があると云える。

国語をひたすら相対化してしまったら、そもそも国語教育など出来なくなる、と云う理屈は分かる。筆者もまた行き過ぎた相対化には反対である。ただし、絶対化も同様に、いやそれ以上に、危険であることを見落としてはなるまい。何故ならば、あまり現実的な話ではないながらも、仮に我が国がより大きな政治体の中に強制的に取り込まれ、その「国家」の「国語」を強要されるとしたならば、まさに言語の相対性を認めようとしない「国語絶対化」の理論こそが、我々を虐げ、抑圧し、搾取する理屈として、そのまま転用されるだろうからである。面白いことなのだが、そのような状況に陥った時、我々が自らの母語を守るための戦いの武器としうるのが、唯一、「岡田」氏の嫌悪する「国語相対主義」なのである。少なくとも、敵から見たら、それは言語の相対化なのである (大体、フランス語が世界一だ、と云っている内容に対して、民族派の人々が何ゆえにさまでに同調せねばならないのか、少し冷静になってほしいものである) 。

繰り返すが、何ごとも行き過ぎた相対化は、社会の価値観を混乱させ、社会の有機的な絆のすべてを烏有に帰させしむるが故に警戒せねばならないが、同様に、何事かを絶対視する思考は、常にその時代の強者に有利に働き、声なき人々の声を拾い上げる力を欠くが故に、合意形成への力動を決定的に欠くのであり、最終的には社会的な調整機能を発揮することが出来ずに、硬直した紛争を引き起こす原動力になるので、要注意なのである。

少なくとも、筆者はこのように考えている。
 
*
 
話を元に戻そう。

「ドーデ」は、生涯「フランス学士院」に入らなかった、と云う事実を以て、彼が権威に靡かない高潔の士であると唱える人もいるが、実際には彼は選ばれなかっただけで、心中は選ばれたくてしょうがなかったと云う見方もある。このことは、1883年に、彼のことを「アカデミー会員」になれるはずがない、と書いた文人「アルベール・デルピ」に、病いの身を押して決闘を挑んでいることから見て取れる。彼が作品『不滅』の中で、「アカデミー」に対する批判を記しているのは、単に自分を選んでくれない人々に対する腹いせだったと考えるのが妥当である。

「ドーデ」が、彼の成功にも関わらず何故「アカデミー」に選ばれなかったのかについて、筆者は知るところがほとんどない。今後、その辺りの専門的な見解を聞いてみたいものだとは思っている。ただし、「ドーデ」には、多くの個人的な問題が存在しており、それらが彼の「アカデミー」入りの障碍となった可能性は否定出来ない。例えば、彼は生前からその作風や主題が隣国の「チャールズ・ディケンズ」に酷似していると指摘されており、事実その類似は偶然以上のものであることが明白だったにも関わらず、自身は決してそのことについて影響関係を認めることがなかった。さらには、既に見たように、「ミストラル」の言葉を、「ミストラル」の真意とはおよそ正反対の意味で剽窃したりしているのも、故郷の文人たちの怒りを買ったことは当然としても、中央文壇でも顰蹙を買っただろうことは想像に難くない。確かに、彼が「ブロヴァンス」出身だったことで、中央の文人たちから有形無形の差別は受けたかも知れないし、「印象主義」とまで呼ばれた彼の新鮮な文体が、保守的な長老たちの支持を得られなかった可能性もある。だが、同等、あるいはより斬新な文体や主題を駆使した「ゾラ」や「フロベール」らが文壇の認知を得られたことを考えると、これもやはり「ドーデ」の個人的な問題に帰結することなのかも知れない。

結局、「コルニーユ親方の秘密」は、少年時代以来、常に筆者の心を捉えてきた名編だと云えるのだが、現在、その作品を丁寧に読むと、どうしても筆者の感じる感動と、「ドーデ」が潜在的に主張していることとが背反するように思えてしまうのである。彼が作中で云う「風車の時代も過ぎたと思わなければなりません」と云う言葉の裏には、時代の流れ、すなわち主流派の意向を、逆らわずに受け容れよ、と云うメッセージが隠されていることに一旦、気づいてしまうと、一個の大人としては、もはや子供のころと同じような感動をもってこの作品に接することが出来なくなる。彼が提示する感動は、飽くまでもノスタルジーの枠を出るものではなく、それは感傷的な同化を喚起するだけで、当時のフランスが抱えていた無数の社会問題のどれ一つに対しても、何ら積極的な批判を内包するものではなかったのである。

誤解のないように云うならば、それでも筆者はこの作品を名作だと思うし、やはり多くの青少年に読んでほしいとは思う。「最後の授業」も同様である。無理に教科書に載せてほしいとまでは云わないが、別段、載っていたからと云って文句はない。そして、そのような作品に感動すればこそ、いずれ、そのような作品に隠された、作品の感動を打ち消すようなものの考え方に疑問を呈したり、さらにはそれらの作品から離れて、日常の社会生活の中で、忘れ去られたものや注意さえされない弱者たちに目を向けられるようになっていってほしいものだと、切に願うばかりである。

 
*
 
最後に、「最後の授業」を巡るやや私的な話を申し述べておく。

この作品を教科書で初めて読んだ当時、筆者の一家は父の仕事の関係で外地にいたのだが、筆者兄弟は祖国の学校を知らず、まるで外国語が母語であるかのように育っていた。この傾向は特に兄に顕著で、彼はこの時期、ほぼ日本語の読み書き能力を失いかけていた。そのため、週に一回だけ通う日本人学校では劣等生の名に甘んじざるを得ず、いよいよ自らの母語に対する嫌悪感を高めていたようであった。そんな時期に、教科書で「最後の授業」をやったのである。彼はすぐに主人公を自らと重ね合わせて読んだようだったが、感動の中心である後半部にはほとんど興味を示さなかったのである。むしろ、何かしら押しつけがましいものを感じたようであった。兄にとって「フランツ」少年は、自分と同じく、学びたくない言語を学ばされている悲劇の主人公であり、「アメル先生」はその学びたくない言語を押しつけてくる「敵」であり続けたのである。その意味では、意外にも「劣等生」であった兄の解釈は、文豪「ドーデ」の名文を透かして、その裏にある醜い意図を、図らずも露呈させていたのである。そして、兄の解釈は、その意味では、「ドーデ」のねじ曲げた「ミストラル」の言葉を、その本来性により近い形で再生させていたのである。そして、もちろん、兄はこの作品を読んだことによって、国語に対する愛を喚起されることもなく、相も変わらず「劣等生」として、残りの小学校生活を送ることになったのである。彼が一念発起して、この自身の言語状況を克服するのは、より後年、中学校時代になってからであった。その切っ掛けが何であったかは、本人に聞いてもよくわからないことが多い。ただ、それに「最後の授業」が一片でも与って力があったかと云えば、それは否である。
 
*
 
今回も、結局、議論がくどくなったので、この辺で筆を置くこととする。


参考文献

・山本明/編 (1981) 『陸前伊具昔話集』全国昔話資料集成34、岩崎美術社

・庄司吉之助 (1962) 「近世阿武隈川における舟運の発達」
 福島大学経済学会/編 (1962) 『商学論集』三十一巻・三号
・小野寺淳 (1990) 「絵図にみる近世阿武隈川水路の空間認識」
 地学雑誌編集委員会/編 (1990) 『地學雜誌』九十九巻・七号、東京地学協会
・竹川重男 (2005) 『阿武隈川の舟運』歴史春秋社

・阿武隈急行沿線開発推進協議会/編 (未詳) 『あぶくまの里・ウォークガイド』阿武隈急行
・村川友彦/監 (未詳) 「阿武隈川舟運図・パンフレット」


Alphonse Daudet (1866) "Le secret de maître Cornille", dans Lettres de Mon Moulin
 アルフォンス・ドーデ (1866) 「コルニーユ親方の秘密」
 桜田佐/訳 (1958) 『風車小屋だより』岩波文庫、改訳版
Alphonse Daudet (1873) "La Dernière Classe", dans Contes du Lundi
 アルフォンス・ドーデ (1873) 「最後の授業」
 桜田佐/訳 (1959) 『月曜物語』岩波文庫、改訳版

・蓮實重彦 (1977) 『反=日本語論』筑摩書房
・田中克彦 (1981) 『ことばと国家』岩波新書
・岡田俊之輔 (2003) 「アルフォンス・ドーデ『最後の授業』 」
 
『月曜評論』平成十五年六月号、月曜評論社
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