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茨城県の猫神・高道祖の「唐猫塚」

.25 2012 関東地方 comment(0) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していくシリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。

高道祖の「唐猫塚」
下妻市高道祖字本田 4542附近
 
高道祖・唐猫塚
新しく建てられた石塔。左側のものが古い石塔類 (震災前) 。
「下妻市立高道祖小学校ホームページ」より
 
1. はじめに


今回、紹介するお話は、いまは「茨城県 いばらきけん 下妻 しもづま 市」の一部となっている「高道祖」の土地に伝わるものです。これもかなり読むのが難 むずか しい地名で、「高道祖」と書いて「たかさい」と読むというのだから、よほど学があってもなかなか歯 が立ちません。かつて「高道祖」地区の人々の生活の中心となっていたのが「高道祖神社」なのですが、この神社は元々「道祖 どうそ 神社」という「道祖神 どうそじん 」を祀る神社だったそうです。

「道祖神 どうそじん 」というのは、全国にたくさん見られ、土地によって「どうろくじん」や「さいのかみ」「さえのかみ」などとも呼ばれる神様です。元々は、村と村の境や、山と里の境、道ばた、寺や神社などに祭られた神様で、はっきりしたことは分からなくなっているのですが、どうやら「境」を守った神様らしく、悪い病気や災 わざわい が村に入ってこないように守ってくれるありがたい神様だったといわれています。いまでは、夫婦 ふうふ 和合 わごう (夫婦なかよく) ・子孫繁栄 はんえい (子供に恵 めぐ まれる) ・縁結びの神様だといわれることが多い様です (高道祖でもそうで) 。よく探 さが してみれば、みなさんの住んでいる近くにも、石づくりの「道祖神」が、道ばたに立っているかもしれませんね。

今回お話しする「高道祖」の場合は、高台の上にある「道祖神社」を中心に発達した村だったので、上に見たように、「道祖神」を「さいのかみ」ともいったことから、「たかさい」と呼ぶようになったのでしょう。なかなか興味深い地名ですね。

それでは、実際の「唐猫」の言い伝えを見てみましょう。



2. 高道祖の「唐猫」

「高道祖」の「唐猫」伝説には、大きく見て二つの系統 けいとう があるようです。一つは、地元の村長も務 つと めた「宇都野 うつの 仁助 じんすけ 」氏の冊子 (『高道祖の七不思議の伝説と付けたり』) や『下妻市史・別編・民俗』に載 る形で、もう一つは、民俗学者「石塚尊俊 いしづかたかとし 」が採集して、昭和二十四年 (1939) に『民間伝承』と云う雑誌に発表した形です。以下、これらの著作に基 もと づいて、「唐猫塚」の話を紹介しましょう。ちなみに、一般によく紹介されているのは、次の「伝説A」です。
 
伝説A
 
昔、「高道祖」の「本田」というところの畑の中に、「唐猫塚 からねこつか 」という大きな塚 つか があった。

今から四百五十年ほどむかし、「半五郎 はんごろう 則重 のりしげ 」「真壁 まかべ 道無 どうむ 」「中山石見守 いわみのかみ 」という三人の強い武士 ぶし が、「高麗 こうらい 国」にわたって「虎 とら の耳」を持ち帰り、「道祖神」の杜 もり の西にある塚へうめて供養 くよう した。それから、この塚を「唐猫塚」とよぶようになったそうである。

この唐猫の霊 れい をなぐさめるためか、この塚に毎夜のように、近くの猫たちが集まって、お皿 さら やお椀 わん をたたいて歌やおどりをしていたそうである。

霜月 しもつき (十一月) のある夜のこと、「弥兵衛 やへえ さん」のうちの「古猫 ふるねこ 」が大変おくれてきたので、他の猫たちに「今晩 こんばん はだいぶおそかったなあ。」と文句 もんく をいわれた。古猫は「飼主 かいぬし の仕事の都合 つごう で、大変夕食がおくれ、その上、大師 だいし の小豆粥 あずきがゆ をくれたので、熱 あつ くて食べるのにひまがかかり、それで来るのがおそくなった。」と言い訳 わけ をした。みんなもその話で納得 なっとく して、また、歌やおどりを続けた。

すると、突然 とつぜん 、何者 なにもの かが、その塚に土や石を投げてきた。猫たちは驚 おどろ いて、あわてて逃 げてしまった。

それからというもの、この塚での猫の歌やおどりを、一度も見たり聞いたりしなくなってしまったと云う。
 
参照・宇都野仁助 (1961) 『高道祖の七不思議の伝説と付けたり』自刊
下妻市史編纂委員会/編 (1994) 『下妻市史・別編・民俗』下妻市役所など
 
この「伝説A」に対して、地元でもいまやあまり広く知られていないようなのですが、次に紹介する「伝説B」のような言い伝えもあったようです。
 
伝説B
 
「からねこ塚」で「お椀 わん を十人前、お皿 さら を五人前貸 してください」などと頼 たの むと、次の朝にはちゃんとそろっていたという。しかし、ある人が借 りたものを返さなかったことがあって、それからは「お椀」も「お皿」も貸してくれなくなった。

「からねこ」は「桓武 かんむ 天皇」の時に、「新田 しんでん 」の「彌右衛門 やえもん 」という人が「中国」から初めて猫を持ち帰り、その猫が死んでうめた塚 つか だから「唐猫 からねこ 」だとも、姿が見えないから「空 から 猫」だともいう。

この塚は、今はもうない。
 
参照・石塚尊俊 (1939) 「七不思議」
民間傳承の會/編 (1939) 『民間傳承』四卷六號、自刊、p. 3



3. この話について

a) 言葉の説明

このお話の「伝承 でんしょう A」には、「高麗 こうらい 」の国が登場 とうじょう しますが、これは現在の「韓国 かんこく 」や「北朝鮮 きたちょうせん 」に昔 むかし あった国です。日本の歴史でいうと「鎌倉 かまくら 時代」ころあった国です。前に紹介した「金沢猫 かねさわねこ 」と同じ時代ですね。

上の伝承では、日本の侍 さむらい たちは、「高麗の国」に渡って、「虎 とら の耳」をとってきますが、昔 むかし の「韓国・朝鮮」には「虎」が住んでいたのです。正式には「アムールトラ」という種類 しゅるい で、いまは「ロシア」の「シベリア地方」にしか住んでいません。「戦国時代」の武将 ぶしょう である「加藤清正 かとうきよまさ 」という人が、「朝鮮」で「虎退治 とらたいじ 」をした話は有名ですね。

「伝説B」に出てきた「桓武 かんむ 天皇」というのは、日本の都を「京都」にうつし、「平安時代」のもとをつくった天皇です。活躍 かつやく したのは、千二百年以上前の人ですから、「伝説A」よりも、さらに六百年近く古いことになります。「桓武天皇」については、小学校六年生になれば、「歴史」の授業で学ぶかもしれませんね。


b) 伝承Aと「猫のおどり」

日本の民話の中には、「猫が集まっておどりをおどる」といった内容のものが各地に残 のこ されています。その中には、「用事で遠くに出かけた『○○さん』が、出先で「猫のおどり」を目撃 もくげき し、猫たちの話す内容から、その中の一匹が『○○さん』と呼ばれているので、自分のうちの猫だと知る」というお話のグループがあります。このグループの話は、主人公がその土地の立派 りっぱ な家の主人であることの他、主人と同じ名でよばれている猫が、熱 あつ い「おじや」や「おかゆ」を食べて遅刻 ちこく するという設定 せってい が、たいてい共通 きょうつう しているのが特徴 とくちょう です。わたしの住む「千葉県」では、「勘解由 かげゆ どんの猫」というお話が特に有名です。せっかくですから、今回は、このお話も紹介 しょうかい しましょう。各地に伝わる中から、「富津 ふっつ 市小久保」に残されたお話を紹介します。
 
勘解由どんの猫

昔のある正月のこと、「小久保 (現・富津 ふっつ 市) 」の「勘解由どん」という立派な家の旦那 だんな が、「成田まいり」に行き、帰りの宿を「八幡 やわた (現・市原市) 」でとったとき、となりの部屋では、にぎやかな酒盛 さかも りになっていた。

ところが、そのうち、笛 ふえ 吹きの勘解由どんが来ない、という声が聞こえ、間もなく、「小久保」の「勘解由どん」が来たぞ、と嬉 うれ しそうにいう声も聞こえた。そして、みんなで笛吹きをたのむと、待たしたな、晩飯 ばんめし がおそくて、その上、熱 あつ い「おじや」で舌 した をこがしたから、今日は笛は吹けない、などと言っているのが聞こえ、それからも一晩 ばん じゅう酒盛りがつづいた。

となりで聞いていた「勘解由どん」の旦那は、「小久保」の「勘解由どん」といえばおれだけなのだが......と不思議 ふしぎ に思い、翌朝 よくあさ 、急いで「小久保」に帰り、すぐに女房 にょうぼう に、だれか夕べ「八幡」に行ったものがあるのか、と聞いた。すると、女房は、誰も旅には出ていないが、白猫が早くから夕飯食べたがってからみついてきたので、出来立てのおじやをやったらふうふう食べて、それっきり姿 すがた を見せなかったけど、今朝 けさ がた、どこからとなく帰ってきた、と答えた。これを聞いて「勘解由どん」の旦那は、夕べの酒盛りはうちの白猫たちだ、それで「小久保」の「勘解由どん」とか、おじやで舌焦がしたとか言っていたんだ、とみんなに説明した。

座敷 ざしき にいた白猫は、これを聞くと、姿を消して、それきり家には帰らなかったという。
 
参照・高橋在久/編 (1985) 『新編・日本の民話 11・千葉県』未来社
 

c) 伝承Bと「椀貸 わんかし 伝説」

「椀貸伝説」というのは、日本の各地に見られる民話の種類で、だいたいは「人が多く集まるとき、塚や池沼・淵 ふち または山中の洞穴 どうけつ ・岩・地蔵などで、お椀 わん やお膳 ぜん などを必要な数をつげると、次の日にはその数だけお椀やお膳がそろって出てきたが、あるとき借りた膳椀を壊してしまったり、借りた数より少なく返した人があり、それからはどんなにたのんでも貸 してくれなくなった」という筋のお話です。ときたま、膳椀の貸し主を確かめようとして貸してもらえなくなるというパターンも見かけます。

このような伝説では、多くの場合、お椀やお膳を貸してくれるのは、「竜神 りゅうじん ・大蛇 だいじゃ ・乙姫 おとひめ ・河童 かっぱ 」だったりします。また、この種の伝説には、借りて返さなかった膳椀を代々伝えている家や寺の名前をふくむものもあり、地元の旧家 きゅうか (古くからある立派な家) に関係して伝えられていることが多いのも、「椀貸伝説」の大きな特徴の一つです。これは上に紹介した「勘解由どんの猫」などの「○○さんの猫」に代表される「猫のおどり」系統のお話にも見られる特徴ですから、もしかしたら、このようなところから、「高道祖」の「唐猫塚」と「椀貸伝説」は、結びついていくのかもしれませんね。

また、以前に紹介したことがあるのですが、「九州」の「天草地方」には「竜宮の猫」と云う話があり、「猫」と「竜宮」が結びついています。また、今では緑色をした愛らしい姿で知られる「河童」も、「江戸時代」は、「猿」や「猫」に似た生き物と考えられている地方が多かったことも分かっています。各地の昔話や伝説では、人間に悪さをする「河童」や「猫」は、しばしばその片腕 かたうで を切り落とされる結末が語られます。他にも、「河童」も「猫」も相撲 すもう が好きだと云う伝えが各地に残されており、「河童の手紙」系の説話には、「河童」がそのまま「猫」に置き換 えられているものもあります。「東北地方」に知られる「ザシキワラシ」も、その正体は「河童」だとか「猫」だとかする地域 ちいき があります* 。
 
* ザシキワラシと河童--- 「佐々木喜善」は、「岩手県・遠野地方」において、「ザシキワラシ」は「河童」とほぼ同じものであるという報告例を多数、紹介している。髪 (かみ) は赤く、頭の上に皿 (さら) をのせているという例もふくまれている (佐々木、1924) 。「折口信夫」も、「座敷小僧 (ざしきわらし) の話」という文の中で、「ザシキワラシ」は「河童」のようなものだと記している。より最近では、「国学院大学民俗学研究会」や「菊池照雄」氏が、同様の報告をしている (国学院大民俗学研、1958, p. 35 / 菊池照雄、1974, p. 19) 。
 
* ザシキワラシと猫---「青森県」の「三戸郡・南郷村・島守地区」 (現・八戸市) では、「ザシキワラシ」は「猫」が化けたものと云われている (中央大民俗研、1980) 。
 
「高道祖」の伝説とのからみでいうならば、「椀貸伝説」の変形ともいえる話が、「栃木県日光市」 (旧・那須郡藤原町) の「独鈷沢 とっこさわ 」にあります。この地には、「金花猫 きんかびょう 大明神」という「猫」を祭った石碑 せきひ があるのですが、以前はここに一文のお金を奉納 ほうのう すると、翌朝には三文になったそうです。ところが、ある欲張 よくば りなばあさんが三文全部を、ネコババした* ところ、それからはお金は増 えなくなったというお話です (中田謹介、2005, p. 21) 。こうなってくると、「猫」と「椀貸伝説」は、「河童」をはさんで近しい関係にあるのかもしれない、と思えてきませんか?
 
* ネコババする---落ちているものや他人のものをかくれて自分のものにすること。
 
この「椀貸伝説」について、「松波久子」氏は『日本昔話事典』の中で次のように述べています。
 
この伝説には膳椀を貸すというところから、膳椀を作って歩いた木地屋の伝承とも関わるものがあると考えられ、また借りた膳椀を返さずに、それを伝えている家や、あるいはたまたま水底、地底への交通を許された者が富み栄えたというのも、異郷との橋わたしをする家柄、あるいは人物の存在を示すものとも考えられる。
 
松波久子「椀貸し淵」
稲田浩二ら/編 (1977) 『日本昔話事典』弘文堂、p. 1043
 
このように、「椀貸伝説」は、「水の神」に対する信仰と、それを伝える特別な家の盛衰 せいすい (さかえたり、おとろえたりすること) にかかわる伝説なのではないかという見方は、広く支持されています。前の回で紹介した「水沢の猫」のお話では、「猫の踊り」が、ある家がおとろえてしまうことを予言するかのような形で語られていたことを考えると、「猫」と「椀貸伝説」のつながりも、またよりいっそう、興味 きょうみ 深くなりませんか? 一家が栄えたりおとろえたりする運命をにぎっている、子供の姿をした不思議な妖怪として有名な「ザシキワラシ」も、やはり「猫」や「河童」ときわめて近しい関係にあることは、すでに述べましたが、これだけの関係を見出すことができるということは、「椀貸伝説」「河童」「猫」「竜宮」「ザシキワラシ」「一家の盛衰」などの間には、ただの偶然 ぐうぜん をこえた関係がひそんでいるのではないかと、私には思えるのです。


d) 「猫」と「石投げ」

「石を投げること」または、その投げられた「石」のことを、やや古くさい日本語で「つぶて (礫) 」といいます。我が国では、昔 むかし から、何か不思議 ふしぎ なことが起きることの前触 まえぶ れの一つとして、どこからともなく石が投げられると考えられてきたようなのです。この「つぶて」を投げているのが誰 だれ なのかは不明なことも多いのですが、残 のこ された様々な記録 きろく を見る限 かぎ、「天狗 てんぐ ・鬼 おに ・キツネ・タヌキ」そして、私がもっとも関心を抱いている「猫」が犯人であることが多いようです。

「島根県」の「隠岐 おき 島」は、特に「猫」の不思議な話を多く伝える地方なのですが、ここでは「猫」は、夜になると山から石を投げてくる、と考えられていたようです。「隠岐」の旧「西郷町」には、次のような話が、「戦後」になっても語られています。
 
ある漁師が「イカ」を取って夜おそく帰った。まずは、持てるだけ持って帰り、それからまた取りに行くと船の中にはもう「イカ」はなくなっていた。「猫」が捕っていったので、山へ行くと「猫」が石を投げてきたそうである。
 
参照・野村純一 (1962) 「世間話の一側面」
山村民俗の会/編 (1962) 『あしなか』通巻八十二号、自刊、p. 4
 
「猫」が「石を投げる」という話は、こればかりではありません。「江戸時代」を代表する女性知識人 ちしきじん である「只野真葛 ただのまくず 」は、その『むかしばなし』の中で、自分の祖父が「伊達藩 だてはん 」の殿様 とのさま に仕 つか えたときの体験談 たいけんだん として、次のような話を伝えています。
 
「伊達藩」の「袖ヶ崎 そでがさき 」 (東京都品川区東五反田) にあるお屋敷 やしき では、どこからともなく石が投げ込まれたり、枕 まくら 返しをされたり、あるいは、明かりが突然 とつぜん 消えたり、蚊帳 かや が落ちたりと、怪 あや しい事件が続いたが、ある日、長屋の軒下 のきした で寝 ていた犬ほどもある大猫を鉄砲 てっぽう でうち殺 ころ したところ、それより後は、不思議 ふしぎ なことは起きなくなった。
 
参照・只野真葛 (1811) 『むかしばなし』巻一、文化八年
鈴木よね子/校訂 (1994) 『只野真葛集』叢書江戸文庫 30、国書刊行会、pp. 19-20
 
このように、むかしの人は、「猫」はどうも「石を投げるもの」と考えていたようなのです。探 さが せば、まだ色々な例が見つかると思います。

また、おもしろいことに、「高道祖」の「唐猫伝説」との関係でいうならば、同じ「茨城県」の旧「稲敷郡東村」 (現・稲敷市) には、「道祖神」が三叉路 さんさろ (道が三つに分かれた交差点) で「弁天 べんてん 様」を待ち伏せて石を投げた、という奇妙 きみょう な言い伝えがあります (高橋、1995, p. 41) 。何で同じ神様どうしで石を投げなくてはならないのかは分かりませんが、「鳥取市」の「湖山 こやま 池」に浮かぶ「弁天島」には、「猫薬師」が祭られていることからも分かるように、「弁天様」を「猫」と関連づける言い伝えは、少ないながらいくつか観察されています。また、「弁天様」は、「竜宮」の「乙姫 おとひめ さま」とも共通する性格を持っていることが知られていますから、ここでもゆるやかにではありますが、「竜宮の猫」をはさんで、「弁天様」と「猫」が結びつけられています。このようなことを考え合わせてみますと、確実に言えることではありませんが、もしかしたら、「高道祖」の「唐猫塚」に石を投げてきたのは、意外にも地元の「道祖神」様だったのかもしれない、なんて想像 そうぞう が出来るかもしれませんね。

「道祖神」というのは、その昔 むかし は、道ばたにただ「石」を積 み上げたり、「柴 しば 」 (木の枝) を重ねたりして祭ったそうですから、もともと「石」とはきわめて近しい関係にあったようです。「猫」もまた、「石」とは関係が深いようで、全国の「猫塚 ねこづか 」という名の塚や「古墳 こふん 」 (昔の偉 えら い人の墓 はか ) は、石積みの塚であることが多いようです。そもそも、数ある日本の「古墳」の中で、「積石塚 つみいしづか 」というのは、大変めずらしいものなのですから、これはたまたまのこととは思いにくいのです。

実際にどんな例があるかというと、「香川県」の「高松市・石清尾 いわせお 山」にある「猫塚古墳」などは、代表的なものでしょう。ここには、大きいのやら小さいのやら、全部合わせると二百以上の「古墳」が集まっています。しかも、「猫」の伝説も伝わっています。「長野県松本市」には、私の知っているだけで、三つの「猫塚」がありますが、そのすべてが、わが国ではめずらしい「積石塚」なのですから、これはもはや偶然 ぐうぜん とはいえないでしょう。「道祖神」と「猫」は、「石積み」を間に挟んで、何かしら「石を投げる」言い伝えと関係しているのだと思われます。もしかしたら、かつての「道祖信仰」には、ただ石を積むだけではなく、その積まれた石の塚に向かって石を投げると云う習俗があったのかも知れません。
 
*
 
いまのところは、私が考えているのは、以上のようなことです。今回、明らかになった課題 かだい の中では、今後は特に、なぜ「道祖神」が「弁天様」に石を投げるのかについて、より深く考えていきたいと思っています。「道祖神」は、夫婦で一組の男女神だといいますから、奥さんの方が、美人として知られる「弁天様」に嫉妬 しっと して石を投げたのかなぁ...などと、今はいいかげんなことを想像して楽しんでいます。



4. むすび

次回は、「
愛知県豊川市御津町」にある「法住寺」の「唐猫」を紹介 しょうかい します。

こちらは、彫刻 ちょうこく の「唐猫」が毎晩 まいばん 、夜になると抜 け出して...という伝説があります。くわしい内容は、次回の記事で。お楽しみに。


「高道祖」の「唐猫塚」の位置は、この辺り

本編、終わり
 



※ 追補・大人の方々へ
前編

1. 「高道祖」地区について

「高道祖」地区は、「筑波山」の西側の麓、「下妻市」の東端に位置している。道路に即して云うならば、「下妻市」の中心部から、国道125号線を東へと伝って、「祝橋」で「小貝川」を渡ると「高道祖」地区に入ったことになる。

ただ、この「高道祖」地区は、地理的に見ると、「下妻市」の他の市域に比べて、はっきりと異なった特徴を有している。それは、「下妻市」のほぼ全域が市の西を流れる「鬼怒川」と東の「小貝川」との間に挟まれているのに対し、「高道祖」のみは、「小貝川」の東側に位置しており、この地区だけが孤立した市域となっていることである。

そもそも、現在の「下妻市」と云うのは、「戦後」の「昭和の大合併」に際して (昭和二十九年=1954) 、「真壁郡・下妻町」が、「真壁郡三妻村」「結城郡総上村・豊加美村」「筑波郡高道祖村」を編入して、市制施行したものであるから、旧来の行政区分から見ても、「高道祖」のみ「筑波郡」だったのである。他の市域との間に見られるこの歴史地理的な断絶は、「高道祖」地区の風土的な独自性を維持するのに、幾分与ったのではないかと、筆者は思っている (飽くまでも主観的な感想に過ぎないのだが...) 。後で少しばかり触れるが、「高道祖神社」の奇祭などはその最たるものかもしれぬが、われらが「唐猫塚」の伝説も、全国的に見てなお珍しい伝承だと云えるのだから、やはりこれもその一例に入れても語弊はなかろう。

また、このような地理的条件にあったため、「戦国期」には、「下妻」一円を領した「多賀谷氏」の東方防衛の要衝ともなり、重臣の「白井氏」を始め、多くの有力家臣が配備された土地でもある。そのためか、多くの悲劇を呼んだ「多賀谷氏」の改易後は、帰農土着するものも多かったようで、そのことも、この「高道祖」の地が周辺域と比べて独自の文化風土を伝えていることと関わっているのかもしれない。少なくとも「高道祖の唐猫伝説」に濃厚に武家文化の影響が見られることと関連していることは間違いないだろう。
 


2. 「高道祖」の「唐猫伝説」について

 
筆者が「高道祖の唐猫塚」について初めて知ったのは、「猫」とは直接関係のない、「悪路王」伝説について何か記事はないものかと、『茨城の民俗』誌のバックナンバーを漁っていたとき、昭和三十八年 (1963) の創刊号に載る「黒羽善四郎」の「片葉の芦の穂の伝説」に出くわしたのが、切っ掛けであった。ここでは「片葉の葦」の伝説を主題としていたが、この伝説が含まれる「高道祖の七不思議」と云うのに、「唐猫塚」の伝説があると知ったのである (この記事では実際には誤植で「庚猫塚」になっているが...) 。もちろん、当時は、「高道祖」と書いて「たかさい」と訓むことすら分からなかった。

「黒羽」氏の参照元は、既に本編で紹介した、昭和三十五年 (1960) に書かれた「宇都野仁助」の『高道祖七不思議の伝説と付けたり』と云う冊子である。この冊子は、A5判・三十三ページの謄写版で出されたもので、著者は、かつて旧「高道祖村」の村長を務めていたこともある人物らしい。広く「高道祖」のことを知ってもらうと同時に、少しずつ失われつつあった地元の言い伝えなどを保存するために、この冊子を著したと云う。名字は「うつの」と訓むのか「うづの」と訓むのか定かではない。昭和四十七年 (1972) には、同じ『茨城の民俗』誌上 (通巻十一号) に、「木村信吉」氏が「高道祖七不思議の考察」と云う記事を寄せており、「高道祖の七不思議」の簡潔かつ丁寧な概説文となっている (茨城民俗学の会、1972, pp. 24-28) 。もちろん、「唐猫塚」についても触れられている。「宇都野」氏の冊子が、なかなか閲覧出来ない貴重資料である分だけ、その「宇都野」氏の紹介文に大きく拠りつつ、他の資料や伝承なども参照して書かれたこの小文は、「高道祖の七不思議」について知ろうと思ったとき、最も有益なものだと云える。ちなみに、「高道祖の七不思議」とは、「鏡ヶ池、逗孔塚、唐猫塚、片葉の葦、弥六ヶ清水、筑波かくし、乳草ヶ池」の七つである。

今回記事の上記本文では、やや若年層に設定した読者のために、二系統の伝説をそれぞれあまり分かりにくくならないように配慮して要約したが、実際には、あの要約では、現在に残された伝説間に存在するいくつかの大事な相違について考えることは出来ないのが残念である。

元々、「宇津野」氏が「村内所蔵者の古文献」なるものから採録した「唐猫伝説」と云うのは、概ね『下妻市史』に書かれた内容と変わらないものの、「朝鮮」に渡航した三人のうち一人の名前が、一定しないのである。要するに「市史」では「半五郎則重」としているが、「宇都野」氏が挙げる資料にはどうやら別の名前が記されていたようなのである。
 
大永元年常州下妻城主多賀谷大夫、真壁道無、中山石見守三人にて高麗国へ渡り、荒虎則虎の耳を持ち帰朝、虎の耳を道祖神社の西へ進む、唐猫塚と云う。
 
宇都野仁助 (1961) 『高道祖の七不思議の伝説と付けたり』自費出版
  
この伝説に登場する「多賀谷大夫」と云うのは、おそらく「戦国末」にこの地を領した猛将「多賀谷修理大夫重経」のことではないかと思われる* 。「重経」の嗣子「三経」も、「左近大夫」を名乗ったが、「真壁道無」との組合せや、剛勇の士と云う設定から見ても、「重経」とするのが穏当だろう。ただし、『下妻氏史』 に載る伝承形では、この人物に当たるのは「半五郎則重」となり、この人物に関して、筆者は何の手掛かりも持たない。
 
* もちろん、「多賀谷氏」には多くの一門の者もあり、同姓の家臣は多い。その中に「大夫」と呼ばれた者があった可能性は否定出来ないが、「高道祖」が「多賀谷」領内であることや、並記される「真壁道無」の格を考えると、「多賀谷大夫」が「多賀谷氏」の当主クラスを指すと考えるのが妥当ではあるまいか。
 
「真壁道無」は、「塚原卜伝」に学んだ「真壁城主・真壁久幹」のことであり、「重経」が師事したことでも知られる「霞流」の武芸者としても高名な人物で、その戦場での勇猛な戦いぶりから「鬼真壁」との異名を取ったことが知られている。「天流」の「斎藤伝鬼坊」を謀殺した一団の首魁だと云った方が分かり易いだろうか。三人目の「中山石見守」に関しては、寡聞浅学にして、知るところがない。「常州下妻城多賀谷修理大夫家中諸士」 (参・古澤、1977) に記される三百石以上の家臣には「中山」姓の者が二人見えるが、いずれも「石見守」とは記されていない。

問題は、もちろん、実在が確認できる上記の二人の生きた時代が十六世紀であり、「朝鮮半島」をその頃支配していたのは「高麗* 」でなく、「李氏朝鮮** 」だったと云うことにあるのは明白であろう。また、「宇都野」氏が述べるように大永元年 (1521) の出来事だったとしたならば、「朝鮮」が「高麗」でなかったばかりか、「真壁道無 (1522-1589) 」も「多賀谷重経 (1558-1618) 」も、共にまだ生まれていないのである。
 
* 高麗---918~1392年。
** 李氏朝鮮---1392~1910年。
 
当然、この程度の時代的な錯誤についてなら、既に「宇都野」氏自身が、その冊子で指摘しておられるので、何も今さら取り立てて論ずるほどのこともないのは承知している。ただ、筆者は、これらの誤謬が重要なものとは思っていない、と云うことを述べておきたかっただけである。何しろ、そんなことをあげつらうならば、上記の伝承に登場する「新田」と云う地名は、農村らしく普通に「しんでん」と訓むのだが、こんな明らかに「江戸期」に普及したと思われる名のついた土地に住む、これまた明白に「近世」的な「弥右衛門」と云う名の人物が、「桓武帝」の時代の人として描かれていると云うだけでも噴飯もので、この伝えが伝説のか体裁を整えつつも、明らかに史実に基づくものではないことを示していると云えるのだが、まあ、これは最初からほぼ分かっていたことなので、こんな考察にはさしたる実際上の重要性はない。

むしろ、ここの「唐猫塚」の伝説の形成過程のどこかに、どうやら「多賀谷氏」が絡んでいるらしい、と云う点にこそ、筆者は興味を引かれるのである。そこで、議論をする上での便宜を図るため、次に、「下妻・多賀谷氏」の来歴について、概観しておくこととする。いつものことながら、筆者の記憶代わりに記すので、本記事の話の流れからするとやや外れながらも、この箇所は無駄に長くなっている。
 


3. 「下妻・多賀谷氏」の興亡


a) 前編

「下妻」を領した「戦国大名・多賀谷氏」が本拠地とした「下妻城 (多賀谷城) 」は、かつての「大宝城」の跡地の上に建造されたものだった。「大宝城」と云うのは、「常陸」における「南朝」方の最後の有力者になった「小山流下妻氏」が拠った城塞である。「下妻」周辺の地は、長らくこの「下妻氏」に統治されていたのだが、興国四年 (1343) 十一月に「下妻氏」が「高師冬」軍に敗れて滅亡するや、この地域は一世紀近くの間、周辺の諸族の緩衝帯として、大きな支配勢力を生み出すことはなかった。 しかし、当時「結城領」になっていた「武蔵国埼玉郡騎西庄多賀谷郷」の地頭職であった「多賀谷氏」が、同じ「結城領」の「下妻」に移って頭角を現すに及ぶ と、地侍たちは次々とその被官となり、ここに後に「下妻衆」と呼ばれて恐れられた強固な土豪の統制体制のもとが生まれたのである。とりあえず、「下妻・多賀谷氏」の勃興に関しては、このようにまとめるのが、無難な説明であろう。少なくとも、『下妻市史』を見る限り、このような印象を受ける。

だが、実際には、「下妻・多賀谷氏」の初代と見なされる「氏家」に関しては、その来歴がはっきりしないところがある。一般的には、『多賀谷系図』に基づいて、先々代の「多賀谷政朝」が主家の「結城氏」から「光義 (満義) 」を養子に迎え、この「光義」の子が「氏家」だとされている。しかし、これとは必ずしも符合しない史料もあり、その解釈は難解である。そもそも、『多賀谷系図』は、「氏家」より以前の系図が粗雑で信用出来ぬ要素が多いのである。

大要を述べれば、「村山党」から出た「多賀谷氏」は、以前から既に「関東」の名門「結城氏」の家老格として栄えた家柄だったのだが、「政忠」でいったん家系が途切れているのである。そのため、「相州金子村」から「下妻」地域に来住したのが、五代前に支族の「金子氏」から入婿した「家政」の五世孫「家茂」および、その子「政朝」だと思われる。こちらは来歴の上からは、大まかに「多賀谷氏」同族である。『常陸國志補遺』に「村山重遠の男、金子家忠、源義朝に屬し、保元の戰に功あり、武藏國金子の地頭職たり。其の子家政、騎西郡多賀谷の地頭職となりて多賀谷氏稱す。其の五世孫家茂、その子政朝、應永中、結城に來り、結城滿廣に屬し」云々とある。ここでの記述は、「多賀谷氏」系の「金子氏」のことと考えられる。この辺りの事情は、『多賀谷系図』と一致する。

この「政朝」 に関しては、子がなく、主家から「光義」を養子に迎えたと云われることは既に述べた。『常陸國志』にも「政朝に子無し、結城滿廣の子原光義を養ひて嗣とす」とあり、これは諸系図類とも一致するため、『新編常陸國志』補遺の「滿廣の子高經を養ひて嗣とす」とあるのは誤伝かと思われる。

一般には、 いったん「多賀谷氏」に入った「光義」は、先代「政朝」の娘との間に「氏家」をなすと、「多賀谷氏」を離れたと云うことにされている。そして、この「氏家」が、「結城合戦」での活躍を通して、「戦国大名」としての「多賀谷氏」の飛躍の最初のきっかけを築いていくとされるのである。

『鎌倉大草紙』には、この「氏家」が、落城寸前の「結城城」から主君「氏朝」の末子「成朝」を抱いて脱出するや、「佐竹氏」を頼って落ちのび、後に主家「結城氏」の再興に尽したことが記されている。以下、その箇所を引くが、もちろん、ここにおける「彦次郎」とは「氏家」のことであるのは間違いない (通称は「彦四郎」) 。

結城氏朝が息男重朝は、父討死のとき三歳にて、家臣多賀谷次郎懷中にて、常陸の佐竹に落行隱れたりけるが、時をえて打ていで結城へ歸り、普代の下人を催し、近をことごとくうちしたがへ、かまくらへ參りければ、成氏大によろこび、則成朝と改名して近習に被召仕けり
 
作者未詳 (15C後) 『鎌倉大草紙』戦国初
近藤瓶城/編 (1990) 『改定・史籍集覧』第五冊、臨川書店
 
しかし、実際には、系図理解の上での最大の混乱は、この「氏家」の前後から始まる。通説に従えば、「下妻・多賀谷氏」初代と目される「氏家」とその一族は、「永享の乱 (1438-39) 」「結城合戦 (1440) 」では、「結城氏」に従って反幕府軍の一員として獅子奮迅の戦いを展開したことで知られ、『結城軍物語』にも「たかや一ぞく」の壮絶な戦死が描かれている。また、『永享後記』には、「嘉吉元年卯月十六日、結城氏朝・子息七郎・其弟朝兼・氏朝の弟原の三郎光義以下の侍、悉く討死す」とあり、「結城氏」から入った 「光義」も、ここで戦死しているのである。ただし、注意すべきは、「光義」が、「原氏」の名乗りで記されていることであろう。

『常陸國志』には、「崎西郡多賀谷に居りて氏とす。重茂、子景茂、子家經、子政忠、子家茂、其子政朝後村山黨の子を以ッて、入りて嗣ぐものあり、因りて金子氏と稱す」とあり、その直後の「政朝に子無し、結城滿廣の子原光義を養ひて嗣とす」と明らかに矛盾する記述がある。もしも、「光義」が嗣子となったのなら、「政朝後村山黨の子を以ッて、入りて嗣ぐものあり」は意味をなさない。『永享後記』の記述も参照すると、「光義」は戦死する以前の段階で既に「多賀谷氏」を離れており、別に「村山党」の人物が跡を継いでいたと解釈するのが妥当であろう。

そこで問題となって来るのが、「古河公方・成氏」と「関東管領上杉憲忠」が反目するに至った「享徳の乱 (1454) 」が勃発した頃、「多賀谷氏」の当主が誰であったのか、と云う問題なのである。「下妻・多賀谷氏」の初期の家督については、伝承される家系図によって微妙に異なる部分があることが知られるが、一般には、二代目を「氏家」弟の「高経 (朝経) 」とするか (『多賀谷家譜』) 、あるいはその「高経」の子で、「氏家」の養子になった「家植」とする (『多賀谷氏系図』) ことが多い。しかも、この時期、「氏家」はなお健在なのである。

しかし、「享徳の乱」に際して、真っ先に名が挙がるのは、通説では「高経」である。「高経」が、「上杉憲忠」の首級を挙げたことになっているのである。しかし、『鎌倉大草紙』には「憲忠の首をば結城成朝家人金子祥永・祥賀討ち取りて」云々と記されており、この「金子祥永・祥賀」のいずれかが「高経」だとしても、残る一人は誰かと云う問題が残される。同書は続けて、「憲忠」の 首実検後に、喜んだ「成氏」は、「金子」に「多賀谷」と云う名字と「多賀谷」の紋を下されたと記録しているのである。歴史的には、「多賀谷氏」は、この時の報償として、より具体的には、「下妻庄」内に三十三郷を与えられ、「結城氏」の家臣でありながら関東諸将の会合に列席する地位を得るに至っている。そして、これと連動した動きとして、翌、康正元年 (1455) には、今度は「高経」の子「家植」が「飯沼氏」の一族「堀戸氏」を破って、「関城」を居城としている。

しかし、この事件の顛末をより細かく記した『永享後記』には、次のような記述がある。
 
三年十二月二十七日、結城成朝大將にて、鎌倉西御門管領の亭へ打て入る。成朝が家人に武州牢人金子と云もの兄弟あり、大手より責入、憲忠を害し、御首取てまいりたり、成朝大によろこび、則かれらをめしつれて、御所中へ參上仕、御白洲に畏まる。彼兄弟は無位のなれ共、憲忠の御首平地に置べからずとて、 たゝミを敷、彼兩人を置き、公方兩人の名字を御尋あり、成朝かねことは不呼、結城家老の多賀谷が同名に被成、多賀谷とめす。此兩人則常陸の下妻の多賀谷の元祖永賀兄弟是也。依之多賀谷の庭たゝミと云也、此由來也。又家の紋に瓜を用し事も彼首に敷たる紙に、瓜のごとく血の付たるゆへに、此家のもんに定る也
 
『永享後記』
近藤瓶城/編 (1990) 『改定・史籍集覧』第十二冊、臨川書店
 
そもそも、「氏家・高経」兄弟に関しては、その法号を「祥永・祥賀」のいずれにするのかで、古来混乱が見える。『結城家之記』『多賀谷氏系図』は、「氏家」を「祥賀」とし、「高経」を「祥永」あるいは「祥英」としており、『鎌倉大草紙』は「氏家」を「祥永」、「高経」を「祥賀」としているからである。筆者は、取り敢えずここで『鎌倉大草紙』の記述を採用する。根拠はない、ただの便宜である。

さて、『永享後記』の記述を見ると、「永享の乱」に際して、「上杉憲忠」を討った「金子」兄弟が、「多賀谷」姓を賜ったと云うのだから、これはどうしても「氏家」「高経」の兄弟と云うことにならざるを得ない。結局、はっきりしたことは云えないが、この段階では、建前の上では兄が当主扱いだったとしても、実際には兄弟のいずれが一族の当主と云えるかは定かでないのが実情に近かったのではないかと思われる。そして、この故に「多賀谷氏」の系図類においても、初代から三代に渡っての当主権の継承順に関わる記述が乱れるのではあるまいか。いずれにしても、「高経」の扱いが、微妙な問題を孕んでいると云うことなのだろう。

そして、それがこの直後にやってくる「多賀谷氏」の初期の一時的な分裂を呼び起こすのである。



b) 後編

「享徳の乱」以降、「多賀谷氏」は「結城氏」からの自立の傾向を強めてゆく。寛正三年 (1462) には、「結城成朝」が暗殺されるのだが、後世の「結城氏」側の文書 (『結城家之記』『水谷家譜』東大史料本など) では、この下手人を「多賀谷祥英 (=高経か) 」として、「多賀谷氏」を大逆人のように扱い、「氏家」や「家植」の忠義さえ記載しないものもある。これは、後々、「多賀谷氏」が主家「結城氏」をも凌ぐ「戦国大名」へと成長してゆくことと必然的に関わることなのだが、必ずしも公平な評価とは云えないのは当然のことである。それは、「結城成朝」暗殺事件に関してさえ、云えることである。

当時、「結城氏」内部では、「氏朝」系の家臣と「山川氏」から家督した「成朝」につく家臣とで対立していたのだが、「成朝」暗殺後は、「氏朝」系の「氏広」が跡を襲っているので、「多賀谷氏」の動きも、「氏朝」系の家系を存続させようとする一連の動きの一部と見なすべきである。この顛末につき、『結城系図』には「民間説云、結城譜代諸臣謂云、山川者旧主仇讐也、然則可弑成朝歟」とあり、「成朝」が「氏朝」の弟「山河氏義」の子で、「結城合戦」に際して、「氏義」が落城前に変心して幕府方に寝返ったことをもって、「成朝」も「仇讐」の子と見なしたと云うのである。要するに、ここでの主君暗殺は、仮に事実だとしても、単純に「忠義」と「大逆」の二分法で判断出来るものではなさそうなのである。

いずれにせよ、「高経」は、その後も、文正元年 (1466) には、「古河公方・成氏」に従って「上杉房顕」討伐に向かうなど、各地に転戦し続け、「多賀谷氏」興隆の礎を築いていったのであるが、この時代は、同時に「氏家」はいまだ活動しており、「家植」は、既に活躍を開始しているため、「多賀谷氏」としてのまとまりは、必ずしも一枚岩ではなかったようである。実際に、漸次、「結城」の主君を軽んじていった「高経」に対して、「氏家」「家植」は、生涯を通じて忠勤に励んでおり、「氏家」「高経」兄弟は、交わりを断つに至ったようである* 。
 
* 『結城家之記』には「兄祥賀ハ抽忠節、雖仰成朝、弟祥永ハ惡逆而蔑幼少成朝、兄祥賀諌之、弟祥永不随、故兄弟中絶」とある。
 
「高経」の死後は、その子が出家していたため、孫の「和泉守」がかつての「高経」以上の専横を奮うようになると、やがて「氏家」の跡を襲った「家植」は、二度に渡って「和泉守」を攻め、初めは失敗するも、明応八年 (1499) 八月一日に、これを誅殺している。「家植」は、逆に、この忠義の行動を通して「結城」家臣団の中での地歩を固めると同時に、「多賀谷氏」の当主としての主導権を確立したもの思われる。そして、永正十三年 (1516) 以降、「若」「尾崎」を抜き、次々と国人層の武士を糾合して、「下妻」一帯での支配基盤を確固としたものにしていったのである。
 
*
 
「多賀谷氏」は、この後、「佐竹氏」と接近して「結城氏」からの自立の傾向を強め、初代「氏家」の「多賀谷城」、二代「家植」の時代に築いた「行田・下栗・吉沼・尾崎・若城」の諸城を礎として、「戦国大名」として自立する基盤を整えていくこととなる。そして以降、四代に渡って「多賀谷氏」は、着実にその勢力圏を拡大してゆき、六代「重経」の頃に最盛期を迎え、領地も二十五万石近くに達したとされる。これは、かつての宗家である「結城氏」の所領高を遥かに凌ぐものであった。

「小田原征伐」に際しては、この「多賀谷重経」も「関東」の他の武将ともども「豊臣秀吉」の下に参陣した。そこで、「重経」はその猛将ぶりを「秀吉」に激賞されて左文字の刀を賜りながら、一方では、旧来通り「結城氏」に属するよう命ぜられた。これは多分に、「小田原」戦役後の「徳川家康」の「関東移封」に伴う追加処置として、「家康」の次男で、「秀吉」の養子となっていた「秀康」を「関東」の名門「結城氏」の当主として養子入させたことと関係した措置だったと考えられる。

しかし、「重経」は、このことを不服とし* 、「朝鮮出兵」に際しては、病気を理由に出陣することはなかった。これに怒った「秀吉」は、「重経」のもとに叱責の使者を送ると共に、違約金千枚を納めさせている (下総文書・多賀谷破却之状、等) 。このため、文禄三年 (1594) から開始された「太閤検地」において、「重経」は「常陸国西河内郡」に六万石の領地を得るにとどまり、「家植」以来の攻略地のほぼすべてを失ったのであった。
 
* 「槙島昭武」による『関八州古戦録』 (享保十一年、1726) は、「多賀谷是ヲ不快ニ思ヒケレ共、当時殿下ノ威光、其命ヲ違背スヘキ趣ニアラサリシ故、黙シテ領掌シ」云々と記している。『関八州古戦録』は同時代資料ではないものの、比較的信用の置ける資料と考えられている。
 
ちなみに、この時期の「重経」は、いよいよ「佐竹氏」との連携を強化しつつ、「豊臣政権」の寵臣であった「石田三成」と急接近することになる。天正十八年 (1590) 、嫡男「虎千代」を「三成」の烏帽子親で、一字の偏倚をもらい「左近大夫三経」と名乗らせると共に、同年、「佐竹義重」の四男「宣家」を養嗣子に迎えていたのは、「重経」の戦略的意図を象徴している。ただし、結果としては、この二つの戦略は、当座の功を奏さなかったばかりか、後に大きく裏目に出ることになる。養嗣子の「宣家」を「多賀谷城」に入れたことで、嫡男の「三経」と父「重経」の関係は悪化し、「三経」は以後、「結城氏」に出仕して、父とは袂を分かった人生を歩むこととなり、そして、「三成」と同盟したことは、「関ヶ原の戦い」に際して、「重経」が「西軍」につき、結果的に「多賀谷氏」を滅亡へと導く由縁となってしまうからである。

文禄三年以降は、一族内の内紛 (三経との確執) も絡み、いよいよ「結城氏」と距離を置くようになった「重経」は、「関ヶ原の戦い」では、「石田三成」や「上杉景勝」らと図り、「佐竹氏」と手を携えて「西軍」につき、「下野国小山」にて「徳川家康」の軍を攻撃しようとしている。しかし、これは事前に「家康」に露見し、「重経」は後難を恐れて「下妻」を蓄電することになった。
 
重經、石田三成に黨て、謀を景勝に通じ、佐竹義宣と倶に、小山を襲んと計る。家康、使を遣して、重經を詰責す。重經、辨ずる能はず。逃れて、武藏府中に匿る。
 
木村高敦 (1740) 『武編年集成』元文五年
木村高敦 (1976) 『武徳編年集成』名著出版
 
そして、「関ヶ原」の戦役後の慶長六年 (1601) 二月十七日には、「多賀谷重経」は正式に「下妻領」六万石を没収され、追放の処分を受けたのである。そして、ここにて七代・百四十七年に渡って「下妻」の地に君臨した「下妻・多賀谷氏」は、はかなくも滅亡したのである。
 


4.「下妻」の「美女塚」について

a) 「多賀谷氏」を巡る評価

筆者がここで長々と「多賀谷氏」の歴史を語ったのは、この忘れ去られた「戦国武将」を憐れむ心情からでは勿論ない。それよりも、何かしら「多賀谷氏」と関係を有しているとおぼしき「高道祖七不思議」のうちの「唐猫塚」と「逗孔塚」の伝説の背景を理解するために、この地での「多賀谷氏」の立場を明確にする必要があると感じたからである。そして、「唐猫塚」の理解に当たって、「多賀谷氏」の来歴は直接的な意味合いを持つものではないかも知れないが、間接的には多くの示唆に富むものと考えられたからである。

「多賀谷氏」の隆盛は、上で見た通り、主家「結城氏」に対する忠誠と背信の繰り返しの上に築かれ、その滅亡は、最盛期を現出させた七代「重経」の我意を通した、あるいは時勢を見誤った、拙劣な外交戦略によって引き起こされている。これは最終的には、主家の歴史からは「多賀谷氏」の事蹟を、悪名以外はほとんど削除させしめ、また一方では本家滅亡によって一族の分裂を呼んでしまったために、「多賀谷」末裔や関係者たちによってもその事蹟が詳しくは伝えられないと云う悲劇を生んだ。そして、このことはそのまま、歴史と伝承双方の世界における「多賀谷氏」の持つイメージの二面性を生み出す切っ掛けになっているようである。

史料の極めて乏しい「下妻・多賀谷氏」の事蹟に関しては、残された文献類から判断する限り、あまり芳しい内容は伝わっていない。特に「多賀谷氏」を取り巻く諸氏の「家伝」類には、悪評が多い。「高経」は、『水谷家家譜』では、主「結城成朝」殺害の下手人と名指しされ、特に大逆者として描かれる。また、「高経」孫の「多賀谷和泉守」も、「かれか悪逆、過於
父、不主其主、偏如秦趙高欺二世太子指鹿爲馬」 (『結城家家譜』) とまで書かれており、この二人は、『結城家譜』では「結城晴朝」自らの筆で「多賀谷者代々致不忠也」と記される「多賀谷一族」を代表する存在にされている。
 
* 「かれが悪逆、祖父に過ぎたり、其の主を主とせず、偏へに秦の趙高が二世太子を欺きて、鹿を指して馬と為すが如し」と訓むか。
 
「多賀谷氏」末裔と関わる『多賀谷七代記』にも「下妻・多賀谷氏」七代目の「重経」は、佞悪の人として描かれている。
 
多賀谷修理大夫重經ハ鵜鷹遊獵ヲ好ミ、自荘園ニ出テ民屋ヲ煩ハシメ、或ハ眉目清美ナル女ノ童ヲ猥ニ奪、郭中ニカシ附、晝夜媱樂ニ溺レテ、九夏三伏ノ暑日樓舟ヲ舘沼ニウカベ、酒色ヲ友トシ、光陰ノ暮ンコトヲ惜ムトナリ、重經流石ノ勇將ト云ヘドモ、人慾ノ私ニ奪ハレ、其身奢自然ト重過シテ、政道日ヲ經テ衰ヘ、遊宴甚盛ナリ (中略) 重經ハ勇ヲ宗トシ賢ヲ嫌ヒ、佞ヲ愛シ萬端ニ附テ我意ヲ振ヒ、酒宴遊興ヲ事トシ、近隣遠境ノ民百姓、遊宴ノ爲妻子ヲ奪レ、親子兄弟恩愛ノ別ヲ愁ヒ、悲者勝テ計ニ暇ナシ、下妻ノ滅亡モ瞬目ノ間ニアリト、世人跟ヲ翻シケリ
 
多賀谷経忠/撰・小林尚房/写 (c. 1748) 『多賀谷七代記』延享年間
国書刊行会/編 (1978) 『続々群書類従 4』続群書類従完成会
 
興味深いのは、当事者である諸氏の「家伝」類には、「多賀谷氏」の悪逆や不忠ばかりが記されているにも関わらず、同時代の消息を伝える「軍記」類には、また異なった一面も記されている。それが、筆者も既に述べた「氏家」「家植」らの忠義である。『下総国旧事考』 (軍記ではないが...) には、「結城合戦」に関して、「多賀谷族等三十六人戰没」と記され、『結城戦場』も「たかや一そくをはしめとして、卅六きの人々は、敵の中にとりこめられ、しのき (鎬) をけつり (削) つは (鍔) をわり、きつさき (切先) よりもくはえん (火炎) を出し、おもてもふらすせめたゝかひ、てきあまたうちとつて一きものこらすうたれけり」と記している。そして、この際、ただ一人生き延びた「氏家 (彦次郎) 」が幼君を抱えて脱出し、後に主家を再興した事については、『結城戦場物語』は「彦次郎か忠孝、いこくの杵臼程嬰にも劣らぬほとの忠也とて、上下をおしなへて君臣の道かく社あらまほしき事成とて、感せぬ人はなかりけり」と褒め讃えている。

この「氏家」による幼君救出は、『水谷家譜』では「水谷勝氏」によるものだとされ、『結城家之記』では「乳母」と云うことにされており、「氏家」の手柄であることが否定されている。しかし、諸氏の血統の正統性を訴えるために編まれる「家伝」類よりも、『鎌倉大草紙』『結城戦場物語』『結城戦場』などと云う「軍記」類が、幼君救出を「氏家」の殊勲として最大級の賛辞を贈っているのは重視されねばならない。要するに、諸氏の「家伝」には、「多賀谷氏」の悪評だけが載せられる傾向があると云うことが理解されるのである。

そんな中でも筆者の興味を引いたのは『結城系図』である。「高橋恵美子」氏によれば、この文献には、次のような特徴がある云う。

唯一多賀谷氏を忠臣として記す『結城系図』は、他の結城氏「家伝」が記す多賀谷氏の「不忠」を一切採らず、むしろ対照的なほど多賀谷氏への配慮がうかがえる内容となっているといえる。
 
橋恵美子 (2010) 「多賀谷氏における『家伝』」
橋恵美子 (2010) 『中世結城氏の家伝と軍記』勉誠出版
 
『結城系図』には、『結城家之記』では無視されて記載すらほとんどなかった、末裔にまで悪名高い「多賀谷重経」が、「結城四天王」の筆頭に挙げられて、好意的に記されたり、また、既に述べたように、「結城成朝」暗殺と云う「高経」の起こした未曾有の弑逆事件に関しても、「結城合戦」で「結城氏朝」が切腹する直前に寝返った「山川氏義」の子が「成朝」であることに読者の注意を喚起して、「山川旧主仇讐也」と記すことで、「成朝」殺害を陰ながら弁護するような内容さえ見られる。

これらの「軍記」類や「家伝」類、相互の間に見られる「多賀谷氏」の評価に対する毀誉褒貶の落差は、それが両極端であるだけに、単なる偶然や、史料の制限による異同の範囲を遥かに超えたものだと云えるだろう。そこには、「怨嗟・侮蔑」と「同情・懐旧」と云う明白な二面性が見られるのであるが、筆者にとって興味深いのは、地元に残された伝承類に即して云うと、民衆の側の記憶では、むしろこの後者の性質、すなわち「同情・哀惜」や「懐古・懐旧」のイメージが優越するようだ、と云うことなのである。

このことは、「多賀谷氏」滅亡に際する悲劇に関しても云えることである。『多賀谷七代記』では、前記した「重経」の失政の繰り返しの末に訪れた悲劇として、城破却時の様子を次のように記している。参考までに、『大日本野史』の記述も付記する。

軍卒城ヲ燒拂ヒケレバ、烟ニムセブ老若男女喚叫其聲ハ、蒸熱地獄ノ罪人モ是ニハ如何デマサルベキ、或ハ幼子ヲ懷ニ入テ館沼ニ身ヲ投、或ハ重經ノ御内室女郎達ニ至ル迄紅顏ノ粧モ早ク白骨トナツテ朽果ルコソ哀レナリ、其外譜代相傳ノ舊臣、或ハ沼ニ飛込或ハ兵火ニ燒死、自滅スル輩三百餘人ニ及ケリ、此外主ヲ資ケ親ヲ伴ヒ、兄弟誘ヒテ近邊ノ好ヲ慕フテ逃ルモ多カリケル
 
多賀谷經忠/撰 (c. 1748) 『多賀谷七代記』延享年間
国書刊行会/編 (1978) 『続々群書類従 4』続群書類従完成会、p. 115

 
慶長六年、死罪一等を宥し、城邑を籍没せらる。家族亂離し、婦女幼孩入水沈溺し、及び燒死するもの多し。
 
飯田忠彦 (1851) 『大日本野史』嘉永四年
杉山博/監 (1971) 『戦国の群雄・東国編』新人物往来社
 
「多賀谷城」破却の悲劇を描く諸書が、上のように、概ね「重経」の無謀無能の故に、一族郎党、女房たちなどが悲惨な末路をたどったことを伝えるのだが、民間に伝わった伝承では、対照的に、「重経」の悪政をあげつらう要素は残されず、ただ悲劇のみが伝わっている。

難しいことを抜きにしても、これは極めて重要な違いである。何故なら、「重経」の失政をあげつらわずに、「多賀谷城」中の人々の最期の悲劇のみを描写すれば、それは内容の悲惨さに加え、その酷い仕打ちをそれらの人々に強いている側に、潜在的に批難が向けられるからである。「義経」を憐れむことは、そのまま「頼朝」を難ずることにつながるように、「多賀谷城」の破却の悲劇に目を覆うことは、「重経」に言及しなければ、その阿鼻叫喚の地獄絵図の責任は、どうしても攻め手に帰せられることになるのである*。
 
* この場合、史実としては、「家康」の命で、「榊原康政」「伊奈忠治」が「下妻城」を接収するために寄せてきている。
 

b) 「美女塚」と「多賀谷氏の滅亡」
 
以上のような、「下妻城」の破却と云う歴史的事実を受けて、「下妻」の地には、「多賀谷氏」滅亡に関わる悲劇が、今に伝えられている。かつての「多賀谷城 (下妻城) 」の「三の丸」があったとされる現在の「下妻市・小野子」地区に伝わる「美女塚」の伝説である。口碑だけに、その伝承の細部に関しては、諸伝によって異同はあるが、『市史』に載るのは、次のような内容である。
 
慶長六年 (1601) に下妻城主多賀谷重経は、徳川家康から関ヶ原合戦で石田三成に組したということで、城地没収、城主追放を言い渡された。重経は急遽末子のいる江州へ退転した。この知らせを聞いた城中では慌てふためき、家康の軍勢が攻めてくるものと思い、館に火を放ち、姫君や腰元たちは自害したり、堀に身を投げたりしたという。その遺体を領民が拾い集め小野子の地に葬ったと伝えられ、後の人は美女塚とよんだ。
 
下妻市/編 (1994) 『下妻市史・別編・民俗』下妻市役所、p. 399
 
歴史は常に敗者に冷たいことはよく知られることだが、一方で、民衆は時折、そのような敗者を憐れみ、一片の抒情を加えてそれを伝説化することがあるのは承知している。しかし、上記の「美女塚」の伝説に関しても、「下妻」に七代・百四十七年君臨した「多賀谷氏」が、その最盛期の猛将「重経」の代で、突然の廃絶を迎えたことに対して、人々がやはり涙を惜しまなかった、とだけ捉えていればよいのだろうか。

あるいは、伝承類においては、史実の一部のみを強調したり、逆に、一部を省略したりすることは避けられないと云う見方もある。大体、その時代の教養ある人々によって編まれる史書類に対して、口碑は元々、不特定多数の民衆によって醸成されるのだから、そこにある種の記述的な整合性を見出そうとすることは無意味だと云う見解も理解できる。したがって、伝承類に加えられる編集行為は、作為的に行なわれることもあるが、伝説と云うものが、一般的には一人の作者によって創り出されるものではないだけに、改変の大部分は無作為に行なわれるものだと云うことが出来ることも承知している。

しかし、どのような伝承もまた、その語り継がれる社会・共同体の中で果すよう期待される機能や作用があると云う仮説を受け容れるならば、どのような無作為の改変も、象徴レベルでは恣意的に行なわれたものなのだ、と云うことの重要性もまた、同様に忘れてはならない。伝説を一つの物語と見なすならば、それが語り継がれるとき、その物語を構成する各要素は一見自在に変化しうるものに見えても、実は一定の範囲内でのみその変化は認められているのである。この範囲を越えない限り、どのような改変も、その物語の持つ本質的な意味、即ちそれがその社会の中で果す役割は、基本的には変化しないが、いったんその範囲を越えてしまった改変は、そのままその物語の果す機能や作用にまで影響するのである。

例えば、ある伝説にあって、登場人物の名前が無作為に換えられたとしても、大抵、その筋に変化はないし、その果たす役割にも変わりはない。これは登場人物が何をしたか、と云う点でも、多くの場合、同様である。「太郎」と云う「武士」が「村娘を助ける」ために「大蛇」を「退治」しても、「珍念」と云う「坊主」が「村の老婆の親切に報いる」ために「湧き水」を「発見」しても、それは伝承母胎となる共同体の成員以外の人が、共同体の成員のために、その共同体に害をなすもの (eg. 大蛇・干害) を取り除く、と云う基本的な構図に変わりはないからである。ましてや、「珍念」が「妖狐」を「調伏」した、と云う筋であれば、それはもはや相違よりも類似の方が圧倒的に目立つとさえ云える。そして、この構図さえ守られていたならば、その中の各要素は、替えられたり、省略されたりしても、その物語の果す社会的な機能に変化は生じないのである (ただし、同一の共同体内での話である) 。筆者の云う「範囲」とは、概ねこの構図の象徴する意味のことである。

したがって、一見、代替が利かなさそうな固有名詞よりも、むしろ本質的な価値を巡る意味の方が、改変に際しては、重大な変化を表わしていると云える。例えば、旅の僧侶が親切な老婆のために湧き水を見つける話と、旅の僧が不親切な老婆のせいで芋を石に変えてしまう話を比較すれば、このことの意味が分かる。この二つの話例は、実はその見かけ上の相違ほどには、社会の中で果すことを期待されている役割は変わらないのだが、それが可能なのは、価値に関わる本質的な表現が、相対応して二箇所変えられているからなのである。「親切 (良いこと) →不親切 (悪いこと) 」「湧き水の発見 (良いこと) →芋の石化 (悪いこと) 」が同時に変えられてこそ、その大もとの構図のバランスは維持されうるのだが、これがどちらか一方であったならば、例えば、「親切な老婆の芋を石に変えたり」「不親切な老婆に湧き水を出してやったり」するのでは、それはもはや同一の構図を共有しているとは云えなくなってしまうのである。

史書とは云えども、それは一種の「語り (言説) 」である。したがって、そこにはその記述に独自の価値が籠められているのである。したがって、「多賀谷重経」が善悪のいずれの人格の持ち主であったかを「歴史的に」追究することは、事実上、不可能なのである。たとえ、『多賀谷七代記』がどんなに「重経」の悪事や傲慢をあげつらおうとも、そのことから分かることは、その書の作者が、現在の自分か、あるいは自分の描いている一族や共同体の現在の状況が、過去の「重経」の行ないがなかったならば、ずっと恵まれたものだったに違いないと云う正当化の理屈くらいなのである。何故ならば、「織田信長」にせよ、「豊臣秀吉」にせよ、それこそ神と崇められた「東照大権現」でさえ、多かれ少なかれ、「重経」に類する行為はしているはずなのである。まあ、「信長」の女色の話はあまり聞かないが、残虐な話なら目白押しのはずである。「秀吉」と「家康」なら、女色のことなら、それこそ語るに事欠くまい。

したがって、『多賀谷七代記』などが述べたかったのは、「事実」や「史実」としての「重経」の暴虐ではなく、「重経が子孫の命運まで貶めてしまうほどに劣悪な君主だった」と云うことに尽きるのである。その一点を除けば、「多賀谷一族」は優れた血統なのだと云う主張である。だからこそ、「重経」の一面、優れた資質も同じ書のうちに記されうるのである。
 
*
 
このような回りくどい議論を通して筆者が言いたいのは、諸氏の「家伝」類は概ね「重経」を始めとする「多賀谷一族」の悪逆を強調することで自氏の正当性/正統性を主張し、『多賀谷七代記』などは、「重経」の悪逆を一族の没落の起点として強調することで、一族の現在置かれている境遇の心情的な不当性を訴えるのであり、逆に、「軍記」類には、「多賀谷氏」や「結城氏」と密着した利害がなく、また別の価値観に基づいて記述されているために、「多賀谷氏」についてはその行跡も不行跡も、共に記すことになったのではないか、と云うことである。

「美女塚」の伝承は、それが幾分でも地元の人々の心情を反映しているとするならば、そこには「重経」に対する「怨嗟」や「批難」の気持ちは薄いと云う点で、諸氏「家伝」の編纂意図とはおよそかけ離れた意識を感じる。かと云って、地元の伝説であってみれば、他の「軍記」類のような、より大きな視点から「関東」の戦乱を俯瞰し、その中に「下妻」の争闘を位置づけると云うマクロな姿勢であるはずもない。となれば、口碑とは云え、「美女塚」の伝説のよって立つ位置と云うのは如何なるものなのか、気になるところである。

そこで、「美女塚」の伝説が過去にどのように記述されたかと云うことに目を転ずると、第一に気づくのは、近年の書籍に載るものは、多くが『下妻市史』と同一の雛形に発していると思われることである。そして、それらの記述は、「多賀谷城」破却の場面に関しては、『多賀谷七代記』などの記述と極めて似た内容となっていると云うことである。一字一句が似ていると云うのではないが、その内容の類似は古い「家伝」類や「軍記」類を参照したのではないかと疑わせるに十分である。しかし、「重経」の行く末については、驚くほど淡白であり、興味も薄いようで、彼の退転先が、「江州」となっているのも歴史的には正確ではない*。

逆に、「江州」に退去したと云う、「重経」晩年の事実も、文献を経て得るのでなければ、地元の人々が知りうる可能性は低いものである (もちろん、不可能ではない) 。したがって、この伝説の形成、あるいは最終的な脚色に寄与した人物 (群) が、落城 (城破却) の様子以外、特に「重経」の行状には、ほとんど興味がなかったのではないかと推測される。ただし、この推測は、現在の「市史」に載る伝説の形から推したもので、さらに古い文献を確認していかなければ、より確実な議論は出来ないだろう。この辺りは、今後も探っていかなければならない部分である。
 
*「重経」は、「下妻城」破却直前に一旦「武蔵国府中」に逃れて身を隠し、後に一旦「下妻」に戻るも、「榊原康政」らに気取られ、再び「下妻」を蓄電して全国を放浪したとされる。晩年、貧困と労苦に耐えかね、「秋田」に移った旧知の「佐竹氏」を頼ったりしたが、さらに最晩年は、末子が仕官していた「彦根」に身を寄せて死去したとされる。ただし、あまり正確なことは知られていない。「美女塚」の伝説は、「重経」終焉の地 (江州彦根) のみに焦点が当てられたものなのだろう。
 
話が前後してしまったが、ここではっきりとさせておかねばならぬことが一つある。それは、現在、「美女塚」について述べた文献の中で、筆者の知る最も古い記録は、明治二十七年 (1894) に「杉山三右衛門」の上梓した『杉山私記』なる書だと云うことである。前項に挙げた二例は、十八世紀半ばの『多賀谷七代記』と嘉永四年 (1851) の『大日本野史』であるが、いずれも「美女塚」伝承の元となった「多賀谷城」破却の悲劇を記したもので、その場所が「美女塚」と呼ばれる遺跡になっているとは、一言も述べていないのである。

そもそも、最も詳細に城破却の悲劇を描いている『多賀谷七代記』の文章も、よく読むと「あるいは幼子を懐に入れて館沼に身を投げ」「あるいは重経の御内室女郎達に至るまで紅顔の粧も早く白骨となって朽ち果てる」「その外、譜代相伝の旧臣、あるいは沼に飛び込み、あるいは兵火に焼け死に」「自滅する輩三百余人に及びけり」とのみ記し、城内の女性たちが堀に身を投げたとは必ずしも書いていないのである。時代の新しい『大日本野史』に至ってようやく「婦女幼孩入水沈溺し」とあるが、これもやはり「美女塚」の名は見えない。

では、さきほど筆者の挙げた『杉山私記』にはどのように記されているのだろうか。
 
慶長六丑年德川氏目代榊原式部大輔康政伊奈備前守忠次撿使として多賀谷氏追放當城破却仝年二月十七日臣下の面々入水燒死或は自害凡三百余人旣に三の丸の堀を埋め今小の子の臺になり故に此所を美女塚と号す
 
杉山三右衛門 (1894) 『杉山私記・常陸國係』下卷、須藤書店、p.10
国立国会図書館・近代デジタル・ライブラリーより
 
正直に云うならば、この記述からでは、あまり具体的な情報は引き出せない。現在の「美女塚」は、「明治期」に入ってからの道路の拡張工事に際して、堀跡から多数の人骨が見つかったことを機に、これを「法泉寺」に改葬し、供養するようになったものだと云う。そこで、まず、最初に気になるのが、この本の出版された明治二十七年と云うのが、道路拡張工事でこの「美女塚」が掘り起こされた年代より前なのか後なのかと云うことである。しかし、これについては今のところ正確な年代を筆者は把握出来ておらず、「下妻市」に調査以来を出してあるので、その回答待ちと云う状況である*。
 
* この件に関しては、下妻市役所及び市立図書館の方々は、どうしても質問の意図を理解して下さろうとはせず、ただひたすらネット上の情報や簡単なパンフレット類の「美女塚」紹介記事を送って下さるばかりである。手間を懸けて下さったことには感謝だが、明治期の道路工事について調査して下さる気配はない。したがって、上記の疑問を解いてゆく手だては他に考えて去なねばならないが、現在のところ、手詰まりである。
 
しかし、「明治期」に既にはっきりと「美女塚」の名前が出されているのは確認出来た。ただ、面白いのは、「杉山三右衛門」の筆致では、「美女塚」の由緒を記しながら、実はそこが何故「美女塚」と呼ばれるかの関連づけがまったくなされていないのである。何しろ「臣下の面々入水焼死或は自害凡三百余人」とだけ記し、「奥方」「側室」「姫君」「侍女」「腰元」などに当たる言葉が一つもないのだから、これでは本当のところ「美女塚」の説明をしたとは云えないだろう。
 
*
 
結局、これだけの材料では、「下妻」や「高道祖」の民衆が、「重経」に対していかなる感情を抱いていたかは推測すら出来ない。それでも、乱暴な憶測を述べるならば、実際には歴史の彼方へと葬り去られた「多賀谷氏」の殿様のことなど、時折一部の知識人が掘り起こさない限り、地元の人々が思い起こすことさえなかったのではないだろうか。その個別の人物像に至っては尚更である。民衆の心に残ったのは、「多賀谷城」破却の際の悲劇なのである (それさえ後付けの可能性があるが...) 。

「美女塚」に関しては、その位置が今となっては正確に分からなくなっていることを含めて考えると、今後とも考古学的な発掘が行なわれることは望めないので、その実際の年代を特定することは出来ない。したがって、「多賀谷城」破却以前からあった塚に、後世、民衆の記憶に残った破却時の悲劇の記憶を被せて伝説が生まれたのか、それとも実際に城破却の時の悲劇にまつわる塚があったのかも分からない。しかし、いずれの場合でも、そこに見られるのは、第一に民衆の側の「哀惜」の念であって、「怨嗟」などではない。

ここでは詳しいことがこれ以上分からないため、一般的な解釈を適用する他に方法とて乏しいが、「戦国期」の戦死者などの霊を供養した塚の伝説は、全国にも数多い。その意味では、「下妻」の「美女塚」も決して例外的な存在ではない。しかも、「美女塚」と云う名前すら、他所に例のない話ではない。ただし、筆者の寡聞の故に、それら「美女塚」は、その付随する伝承と云う面では、あまり共通性は高くない気はする。

だが、戦死者などを供養する塚などの遺物と、それに伴われる伝説と云うものは、表面的にはどんなに「哀惜」「憐憫」「同情」の悲話として伝えられていようと、その基底ではやはり、「祟り」を介した「御霊信仰」と関わるものだと云わざるを得ない。「御霊信仰」そのものについての議論はここではしないが、非業の死を遂げたものの「怨霊」が祟って、社会全体に災厄をもたらすと云う一般的な定義に従えば、この「美女塚」も、単に死者を可哀想に思った人々によって築かれたと云う解釈では十分たりえない。ただ、「美女塚」に限って云えば、このすぐ後に見るように、別の地名起源も考えられるため、その他の戦死者を葬ったと伝えられる塚とは同列に語れない可能性もある。

また、城砦の荒廃の攻防にあって、城主一族、兵士や女中などが一斉に身を投げたと云う伝説は、一方で、各地に残る「血染川」系の伝承などとも一脈を通ずる要素もあり、この点はまた別に考察せねばならないことだと思われる。

いずれにしても、「下妻・小野子」の「美女塚」と、「高道祖」の「唐猫塚」とが、「多賀谷氏」と云うわずかなリンクでつながっていることは確かなのである。そして、そのいずれの伝説にあっても、一般的な「多賀谷氏」の「不忠」「悪逆」のイメージは投影されていない。問題は、そうでないならば、何がそれらをつなぐのか、と云うことなのである。


c) 「下妻の美女塚」の史実性?!
 
くだん の「美女塚」は、現在も、「下妻市役所」に隣接する「法泉寺墓地」に立派な供養塔が建てられているが、実はこれが本来の「美女塚」の地と云う訳ではない。「下妻市」は、かつて「小野子」地区を中心に、約二キロ四方の規模で城下町が築かれていたのだが、既に述べた慶長六年 (1601) の「徳川方」による城の破却に際する徹底的な破壊のため (と考えられている...) 、その往年の構造などに関しては分からなくなってしまっている部分も多いと考えられている (筆者は時期については同意せず。後述) 。「美女塚」の伝説を仮に史実に根差したものだとしても、その伝説の地がどこであったのかも、現在は不明となっている。
 
美女塚
「美女塚」
 
現在の「美女塚」は、「明治期」に入ってからの道路の拡張工事に際して、堀跡から多数の人骨が見つかったことを機に、これを「法泉寺」に改葬し、供養するようになったものだと云うのは、既に見た。実際のところ、発見された人骨が、「多賀谷城」落城 (破却) の時のものなのか、「多賀谷氏」統治の時代のものなのかは、定かではない。「戦国期」には、「関東」全域に覇権を唱えた「小田原・北条氏」が、三度に渡って「下妻」を攻撃しており、堀跡で見つかった人骨が、これらの合戦の戦死者のものである可能性も依然、強いからである。

それにしても、細かい年代まで特定するのは無理だと云うのは理解出来るが、やや丁寧に調べれば、人骨の性別くらいはある程度分かりそうなものを、「明治時代」にはそのような調査は行われなかったのだろう。女性遺骨がどれだけ含まれているかだけでも分かれば、これが伝説の場所なのかどうかは判明したと思われるので、残念なことである。

もちろん、この「美女塚」の伝説に関しては、その位置だけに疑問がある訳ではない。そもそも、「下妻・多賀谷氏」滅亡の経緯に関しては、人によってその実情の把握の仕方がまちまちなようなのは、前項までにも少しく見た通りである。この事実と、全国に同類の伝説も多いことを併せて鑑みると、筆者としては、どうしても「美女塚」の伝説が、「下妻」に固有のものだとは考えられないのである。

そもそも、内容面から見て、「姫」や「侍女」らが堀や池沼に身を投げて死ぬと云うモチーフは、広く各地で見られるものである。「武州松山城」の「美女塚」に至っては、名前も内容も、その位置が実は分からないと云うことも含めて、そのすべての要素が類似しているとさえ云える (説話の筋はさほど似ていない) 。話の筋だけ似ているものを探すなら、とにかく、城が落ちる時、奥方や姫、侍女たちが身投げして死ぬのは、常套的な物語だとさえ云えるのである。

落城に際して、城内に居留していた非戦闘員の命運と云うのは、歴史的にはあまり語られないけれども、実際にはかなり悲惨なものだったのであろう。特に若い女性は、城攻めの猛者たちからすれば、金銀に値する掠奪対象であったろうから、城が落ちる際に、城内の女性たちは自らの身をどう処するかと云う大きな決断に直面したことだろう。その中には、堀に身投げするものも、逃走中に覚悟を決めて池沼に入水するものもいたかも知れない。

もちろん、「池田弥三郎」や「赤松啓介」など一部の民俗研究者が明らかにしたように、驚くほど近年まで、我が国の村落共同体では、未婚の女性と云うのは共同体内の男性たちの共有物と考えられていた節があり、婚姻前であっても複数の男性と性交渉を持つことは決して例外的な現象ではなかったと云う見解もある (池田、1974 / 赤松、1993 など) 。この事情は、既婚の女性にあってさえ、あるレベルまでは通用していたとも云う。したがって、そのような社会的な通念の成立している社会に育った女性たちが、生か死かの局面で、いかに敵方の兵に凌辱されるかも知れないと云う恐れがあったとしても、さほど多くの人たちが死を決意したとは考えられない、と云う反論も予想される。このような反論に対しては、筆者も部分的には賛同する。

少なくとも、全国に散らばる、美女が自決すると云う落城秘話の数は不自然に多いと云うことだけは間違いなく云えるだろう。実際、落城の際に自決した女性の数よりも生きながらえた数の方が多かったに違いない。その中には、無事逃げおおせた幸運なものもいただろうけれども、敵の妻や妾になったり、人買に売られたりした人も、無視出来ぬ数いたのだろう。いくら「戦国」の世だからと云っても、死ぬ方がたやすかったとは思えない。

そして、何よりも落城秘話の数を増殖させてしまったのは、お城で何不自由ない生活をしていた高貴な女性たちが、突如、その運命が暗転し、落城と云う憂き目に遭うと云うことに対する、民衆の側の哀惜と同情の念なのではないかと思う。ただ、哀惜や同情の思いだけだったなら、何も判で捺したように、美女たちは自害 (しかも水死...) しなくても良いのではないか、と云うのが筆者の抱いた最初の疑問である。後世の「柴田錬三郎」などの時代小説家が得意としたように、無事に逃げ延びて、素敵な殿方と結ばれるとか、人々のロマンティシズムを満足させるシナリオは他にもありそうなものである (まあ、これはちょっと近代的すぎるけれど...) 。

そして、筆者の抱いた第二の疑問は、美女たちの自決の方法が、入水に偏っていることである。城攻めに際して、堀に身を投げるのは、自害の手立てとしてはかなり不徹底なものである。基本的に即死は望めないし、寄せ手に救出される可能性も大きい。これは遡ってみれば、「建礼門院」らの事例が如実に示していよう。したがって、入水は緊急時の自決法としては下策であるのは明らかで、実際、多くの女性たちが選んだ自裁の方法は、城内で喉を突いて死ぬことだったと考えられる。名誉の死を選ぶ女性たちにとって、死後、自らの亡骸を人目に晒したり、最悪の場合、凌辱されたりするのは避けたいことであったろうから、喉を突くに当たっても、既に炎上している部屋を選ぶこともあったようだ。

前述の、当時の女性たちが、死を選ぶほどまでに敵兵との性交渉を忌避はしなかったのではないかと云う考え方に対しては、さきほど部分的には賛同すると云った。しかし、賛成出来ない点もある。そのうち一つだけ挙げるならば、そのような仮説が前提としている女性たちの出身階層の問題がある。これは「赤松啓介」も明確にしているように、彼のフィールドは、その伝聞内容も含めて、「明治大正」から「昭和初期」の、「東播地域」の女性たちのうち、中産階級以下の階層の人々を対象にしたものだと云うことである。民俗的調査をあげつらうのに時代の違いや実証的な文献の欠落を挙げて得意がる人々もいるが、それはそもそも民俗調査の趣旨をすら理解出来ていない愚かしい批判である。したがって、筆者も時代の違いを問題にしようとは思わない。ただ、「明治期」にあってさえ、集落の上層の人々では通用しなかった性の観念が、階級間差異のより大きかったろう「室町期」に、支配階層と非支配階層とで同質だったと仮定するのは、やはり無理があると云わざるを得ない。要するに、城内に居住するあるいは勤める女性たちのうち、城下町外から出仕した人々、特に農村出身者は、上記の仮定に該当するかもしれないが、それ以外の、奥方や姫君を初めとした上級武士階層出身の女性たちの中には、抜本的に異なる性意識を有している人々も多かったに違いない。

さらに云うならば、そもそも落城に際して、生か死かを選ぶと云う究極の選択を迫られたのも、実は上層の一部の女性たちだけだったと云うことが云える。政治的な価値から云っても、交換価値を有するのは名家出身の女性だけであるし、また後の紛争を未然に防ぐと云う予防的な見地から、何が何でも殺しておきたいのも、城主の血族あるいは姻族の女性たちである。その上、これらの女性たちのみが、基本的に逃亡が困難だったと云う事情もある。名が知れていて追われると云うことは別にしても、要するに逃亡先がないのである。特に城下町への集住が進んでから後は、やや離れた土地に実家があると云うことも減り、百姓や商人階級出身の女性だったならばあった、実家に避難すると云う選択肢が、武家階級の女性たちには必ずしもなかったのである。逆に云えば、懇意にしている百姓や商人、例えば乳母の実家や縁戚などが頼れたならば、実際に頼った例が多かったはずである。

時代は下るが、筆者の曾祖父と云うのは、「戊辰の役」の「会津戦争」の折り、まだ乳飲み子だったこともあってその一命を取り留めている。曾祖父の家は、官軍の主力が攻めてきた越後口を預かる立場にあったため、男たちは多くが戦死している。土佐兵が城下に乱入した折りには、家の女たちは、召し使う男女を実家に帰して避難させた上で、男のいない留守宅を女だけで防衛するのは無理と判断してほとんどが喉を突いて自害したと聞く。赤子だった曾祖父だけは、縁のあった「坂下」の豪農に預けられたため (その豪農自体も土佐兵に槍で突き殺されているのだが...) 生きながらえたと云う。入水者は一人もいなかった。

何で読んだかは覚えていないのだが、子供のころ、「日本の幽霊大百科」みたいな本を読んでいたら、何故幽霊は女性が多く、かつ濡れていることが多いのか、と云う話があった。その著者によれば、「近世期」の女性と云うのは、封権的な軋轢の中で不自由なことが多く、生活的な圧迫に耐えかねて自殺するものが多かったからだと云う (もちろん、もっと簡単な言葉で書いてあった) 。恨みを残したものが幽霊となるならば、自殺者などは確かに有力な候補と云えるだろう。その上、当時の女性自殺者の圧倒的多くが水死を選択したため、幽霊は濡れているのだと云っていたと思う。統計的な調査はしていないが、確かに「江戸期」の文献を読んでいると、女性自殺者は水死者が多い (首縊りも多いが...) *。したがって、「近世期」の民衆的なイマジネーションの中では、女性の自死と云うと、身投げと云うイメージが強かったのだろう。
 
* 水死者が多い印象を受けるのは、単に「江戸期」の文献の内、我々が最も頻繁に手にするのが「江戸」で書かれたものだからかもしれないことは承知している。「水都」とさえ呼べた当時の「江戸」は、その人口の過密化に伴い、水死者の数は鰻上りになったものと推測される。「海保青陵」の『経済話』に「浮死ハ江戸ニハ甚多シ。海ヘ出レバカマハズ。屋敷ノ裡ニ有レバカマハズ。川ノ中ヲ流ルヽハ構ハズ」云々と記されている通り、当時の官憲でさえも、水死者の多さには手を焼き、海や川を漂う死体及び大名屋敷内の水死者も取調べすら行なわなかったのである。この傾向は、「明治期」の新聞記事を見ても如実に見て取れる (氏家、1999) 。
 
要するに、筆者がここで云いたいのは、全国各地に見られる落城時に奥方・姫君以下の女性たちが身投げして死ぬと云う悲劇の類には、実際のところどの程度の歴史的な信憑性があるのだろうか、と云うことである。既に見たように、これらの説話をすべて史実に基づくものと見るには、全国に類似する話が多過ぎることの他にも、上に見た通り、いくつかの重大な疑問点が挙げられるのである。したがって、これらの説話が広く発生あるいは伝播するには、何かしら別の要因が働いていたものと考えざるを得ないのである。

筆者の仮定するそれら要因のうち、最も明白なものが、伝説・説話を創り伝える民衆の側の心理的な要因としての、滅びゆく人々に対する「哀惜」や「同情」である。ある勢家、あるいは成功した人物が、突然の落魄の身となることに関しては、その没落の内的原因を探る歴史心理的な傾向と、その反対にその落ちぶれた人々に惜しみない同情を寄せる傾向とがしばしば共存するのは、「木曾義仲」を見ても、「源義経」を見ても云えることである。やや趣向は異なるが、後年、「龍造寺家」の廃滅を巡って、世に名高い「鍋島の猫騒動」が喧伝されたのも、民衆に介在する同様の心理によるものだとも云えよう。

また、「江戸期」には恨みを残して死ぬものには水死を選ぶものが多かったため、当時の幽霊の多くは濡れていたのだと云う見解は、典拠が不確かながら、既に述べた。しかし、筆者は、これすら、後世の文筆家たちによる合理的な解釈だと思うのである。何故ならば、これも既に述べたことだが、「近世」の女性たちの自殺の場合、水死と並んで縊死もまた無視出来ぬほどに多かったのである。にも関わらず、幽霊譚となると、多くが水死、あるいは少なくとも死後に濡れそぼったかのような姿で登場しているのは、明らかな偏向だと云える (もちろん、殺害後に水に流される確立が極めて高かったことも起因となっているだろう) 。かつての幽霊は、ある時期から足が描かれなくなったのに*、足音は「ぴちょ、ぴちょ」と立てると云うのも、この「濡れている」要素が、単なる合理的な解釈を拒絶するほどに、当時の幽霊たちにとって本質的なものだったことを物語っている**。これは、やはり、当時の民衆的なイマジネーションにあってなお、霊界と水界が密接な関わりを持っているものと認識されていたからではないか思われる。この件については、いずれより詳細に言及することになると思うが、今回の記事では、その指摘にのみ留めることとする。
 
* 「江戸中期」の画家「円山応挙 (1733-95) 」が、幽霊画を描いているとき、うっかりお茶を絵にこぼすと足が消えてしまったのだが、これが返って雰囲気があってよいと云うことで、そのままにしたのが、以降、「丸山派」の画家に受け継がれ、他派にも伝播したと云う逸話はよく知られている。しかし、寛文十三年 (1673) 刊行の古浄瑠璃「花山院きさきあらそひ」に登場する「藤壺」の霊の挿絵には既に足が描かれていなく、「応挙」の活躍期以前には既にまま足のない幽霊は描かれていたと云う (諏訪、1988) 。
 
** 正確な年月日は失念したが、以前、『中日新聞』の記事で、怪談の中に濡れた幽霊がやたらと出て来るようになったのは昭和三十年代以降だと云う記述を見た。これは昭和三十四年の「伊勢湾台風」で多くの水死者を出したことの影響だそうで、以降、幽霊が立ち去った後に、その場所が濡れていると云う設定が増えたと書いていたと思う。これは幽霊のイコノグラフィーと社会的な流行の相関関係をを具体的な歴史的文脈の中で捉えたと云う点では、大変興味深い観点である。ただし、これは「近世期」から幽霊の多くが水辺に現れることや、以前から濡れた幽霊がいることの説明には、残念ながらなっていない。
 
落城に際する高貴な女性の入水説話が、全国的に不自然に多いと云うことに関しては、このような民衆の側の心理的な要因が、伝説の発生や伝播に大きく影響したと筆者は見るのだが、より具体的に「下妻の美女塚」に目を向けるならば、もう一つ気になる点がある。それは、「下妻城」は戦争で落城したのではなく、時の政府である幕府によって「多賀谷氏」が事実上改易されたのを受けて「破却」されたのである。これは戦闘行為ではなく、ある種の行政行為であり、そこに果して『多賀谷七代記』 (延享年間、c. 1748) や『大日本野史』 (嘉永四年、1851) が伝えるような家臣・侍女の大量死の如き悲劇があったのか、甚だ疑問なのである。そもそも、「多賀谷氏」の改易の責任は当主の「重経」にあり、その「重経」が平然と生きながらえている状況下で、城内のものだけを押込めて死に至らせしめなければならぬ理由が「榊原・伊奈」の寄せ手にあったとは到底思えない。その上、万が一、家臣団の抵抗にあって戦闘が行なわれたならば、そのような記録が幕府側に残されたはずである。

そもそも、城の「破却」と云っても、破壊の対象となるのは土塁や堀などの普請部分に限定されており、住居などの作事部分はその対象ではなかったと云う見解もある (小林、2003) 。また、『下妻市史』中巻には、「下妻城」の破却の十年後に当たる、慶長十六年 (1611) のものと推定される「下妻領内百姓、吉右衛門弾劾訴状」と云う興味深い書状が載せられている。
 
一、下妻の城ニ、多賀谷兵具・弓・鑓・てつほう・たまくす・舟板・さいもく・たしみいけ、かきりなく吉右衛門さい所え、とりはこひ申候事
一、下妻之城内多賀谷いんきよの大家共、かきりなく吉右衛門こわし取申候、城めくりさふらいともの家も、ミなミなとり申候、御たいたうの御用ニハ、相定不申候、御蔵なとも百姓の竹木にてつくらせ申候、去年まで御たいくわん衆御さ候家もこわし申御用ニて江戸ニ取申候事 (以下、略)
 
下妻市史編纂委員会/編 (1994) 『下妻市史・中・近世』下妻市役所
 
この書状における「下妻領内百姓」と云うのは、「多賀谷」旧臣を中心とする地元の名主層のことであり、このことだけからでも「多賀谷衆」が阿鼻叫喚地獄の末に殲滅させられたかのような理解が通用しないことが分かろうものである。ましてや弾劾状の内容は、「吉右衛門」が城内に残る武器や資材を自分の在所に搬出し、城内の施設や侍屋敷なども勝手に破却して物品資材を持ち出していると云うものなのである。要するに、「江戸期」の一部文献や、地元の伝説が伝えるような徹底的破壊は、「下妻城」では行なわれていなかったのである。それどころか懲罰対象の当の本人である「重経」の屋敷と思われる「いんきよの大家」も、「吉右衛門」に取り壊されるまではどうやら手つかずな状態にあったと云う。

この書状が「下妻の美女塚」伝説の歴史的な信憑性を量るときに持つ重大性は決定的である。何故ならば、この書状を見る限り、「下妻城」破却の悲劇を伝える諸書や伝説は、残念ながら、史実としては根拠薄弱、いや皆無と云わざるを得なくなるからである。筆者の辿り着いた結論も同様である。


d) 「美女」地名について

ここまで見てきて、我々はようやく「下妻の美女塚」に関する最も重大な問いを発することが出来るのである。それは、史実として、「下妻城」破却の悲劇などなかったとするならば、では「美女塚」の伝承の発生には、どのような要因が作用したと考えられるのか? と云うことである。既に、「判官贔屓」と一口に云われる、滅んでしまった人々に対する民衆の「哀惜」や「同情」の念については触れた。しかし、これだけで「美女」あるいは「美女たち」が身投げして死ぬと云う伝説になるだろうか?

しかも、ただ「下妻」に限ったことではなく、全国の方々に同様の伝説があり、それぞれの状況がまた歴史的には疑問視される部分もある (eg. 武家の女性の多くは入水ではなく短剣自殺を選んでいると云う事実) ことを考えると、このような伝説を喚起するか、あるいは容易な移植・伝播を可能ならしめる要因と云うのは、それぞれの地域に特殊のものであっては理屈が合わないことになる。単刀直入に云ってしまうと、筆者は、そのような要因を探るに当たって、大いに参照すべきは、各地に見られる「美女」地名なのではないかと考えている。

「美女」がつく地名と云うと、しばしば珍地名のように取り沙汰されるが、意外にも全国各地に数多く見られるものなのである。筆者にとって厄介なのは、そのことを知っている人が少ないと云う方の事実ではなく、現在の地名語源の研究では、一般に、地名につく「美女」は、擬態語の「ビショビショ」の「ビショ」と同じ語源を持つ語だと考えられていることを知っている人はなお一層少ないと云うことの方なのである。

地名研究の大家「鏡味完二・鏡味明克」の両氏は、その名著『地名の語源』 (角川書店、1977) にて、「ビジョ」は「泥濘」の意味だとし、「美女峠・美女浦・飛定地山・未丈ヶ岳」などを例示している。「楠原佑介・溝手理太郎」による『地名用語語源辞典』 (東京堂出版、1983) は、「ビジョ」地名を「ビショ」「ビシャ」と同じく「湿地」系の地名、または「崩壊地形・浸食地形」と推測している。より近年では、「藤井衛」らの『ザ・ソイル 2 : 住宅の基礎性能と地盤補強』 (建築技術、2002) では、前二者を併せるかのように、地名の「美女」は「山麓の窪んだ湿地」を表わすとしている。要するに、一般的な 語源解釈では、「ビジョ」は「泥濘、低湿地」を表わし、「ギ」は「キ」と等しく、「カ・ク・ケ・コ」などと同様、「場所」を表わす接尾語だと考えられており、筆者は、これらの説を支持するものである。

ただ、何しろ「美女」地名には、その字面から来るインパクトのせいで、往々にして地元ではこれに付随する「美女」伝説が形成されており、その伝説が人々の支持を受ければ受けるほど、「美女」地名が「水」に由来するものだと云う事実が、地元の人々に受け容れられなくなっていく傾向があるため、地元での聞取りによってこの手の事実を知るのは、現在、ほとんど不可能になってしまっている。そのため、いよいよ後発的な「美女」伝説が、巷間では強化されて伝承されていくことになるようである。

「下妻」以外の例を挙げるならば、代表的なものが「埼玉県戸田市」の「美女木」だろう。「戸田市」の「美女木四丁目」には、「東京外郭環状道路 (東京外環自動車道) 」と「首都高速5号・池袋線」「首都高速埼玉大宮線」の交わるジャンクションがあるせいで、「東日本」の「美女」地名の中では、この地は比較的よく知られているのではなかろうか。
 
ここの地名は、歴史的には、「鎌倉」の「鶴岡八幡宮」に残された『鶴岡事書日記』のうち、応永二年 (1395) 七月二十三日条「佐々目郷百姓等交名」に「美女木」と記載されているのが地名としての初出で (埼玉県史・資料編 8) 、時代はずっと下るが、化政年間に編まれた (1830年、完成) 『新編武蔵風土記稿』には、この地名の由来となった伝説が紹介されている。
 
古ヘ京師ヨリ故アリテ美麗ノ官女數人、當所ニ來リ居リシコトアリ、其頃近村ノモノ當村ヲサシテ美女來トノミ呼シニヨリ、イツトナク村名ノ如クナリユキテ其古名ヲハ失ヒタリト云、イトオホツカナキ說ナレト暫ク傳ヘノマヽヲ記シオケリ、來ヲ木トセシハ素ヨリ假借セシノミニテ其意ニ於テ替ラサレハ、イツシカカク書キシモノナルヘシ
  
林述齋・間宮士信/編 (1810-30) 『新編武藏風土記稿』化政年間
卷百四十一・足立郡之七・戸田領・美女木村
 
「戸田市史編纂室」編集の『美女木・下笹目の民俗』 (戸田市、1985) にも、設定が細かくなっていることを除けば、この伝説と同工異曲のものが載っている。
 
八百年ほど前、「源頼朝」は弟「源義経」を殺すために「奥州征伐」に出かけたが、その途中、「美女木八幡」に立ち寄ったのだが、そのとき「頼朝」が美しい人を連れて来たので、「美女来」と呼ぶようになった。それが後に、「来」が「木」に変わったのが今の地名である。
 
参照・戸田市史編纂室/編 (1985) 『美女木・下笹目の民俗』戸田市
 
「美女」が登場しなければ、ロマン溢れるべき「美女」地名の伝説には相応しくないので、これらのような口碑が残されていると、やはり、どこかしらほっとする。 ただし、地名伝承の根拠とするには、十九世紀の文献と云うのはあまりに新しい。しかも、その地名が既に「室町期」に存在し、伝承とは裏腹に「美女木」と表記されていたことが確認されているとなると、尚更である。と云う訳で、残念ながら、『新編武藏風土記稿』の伝えは、伝説としてのみ尊重しておくべきなのだろう。

実際には、「美女木」は、「荒川」に沿った村だけに、出水には度々悩まされたようで、寛保二年 (1742) の大洪水後の「荒川」普請に際しては、「豊後国臼杵藩」の「大名手伝普請」を受ける深刻な事態となり、近隣の村と共に多くの人足を出していると云う記録も残されているほどである。

現在の「美女木」の地は都市化が進み、かつての地形的名残りを探るのは難しくなっているものの、実際には「荒川」とその支流に挟まれた低湿地地形であることは明らかであるから、「美女木」は全体として、湿地帯と関係する名前だと考えても、何ら不思議のない地形的条件を満たしており、「美女木=湿地」説の成立を妨げる要素はまったくない。

いずれにしても、「美女木」が「湿地」に関わる地名だと云う見解は、以上見たように、単に主観的な感想などではなく、一定の言語学的な根拠のある説明だと云え、またある程度以上に客観的な観察だとも云える所説である。 筆者が直接訪ねたことのある「美女」地名の土地を考えてみるだけでも、その多くは確かに湿地や湧水などと何かしらの関わりがあったことが思い出されるからである。

ちなみに、「美女」地名ではなく、「美女木」地名だけでも、「埼玉県戸田市」のものの他に、五つ見つけることが出来た。そして、どの土地も低湿地、あるいは「水神」と関わる土地なのである。念のため、下の表にまとめてみた。
  
表 5-a) その他の「美女木」地名
都道
府県
郡市町村備考
山形県東置賜郡川西町
上小松
字美女木
JR「羽前小松」駅の東側。「最上川」支流の「犬川」の東岸と「黒川」の西岸に挟まれた低湿地帯。近年、ニュータウン開発が進んでいる。
福島県二本松市戸沢
字美女木
「安達太田川」の上流。二つの支流が合一する三角地帯。
新潟県十日町市美女木廃村。山腹にあるわずかな平地で、かつては山裾から滲み出す絞り水を利用してわずかな水田を耕作していた。
栃木県さくら市氏家
字美女木
「草川用水路」が「鬼怒川」に合流する間際の三角地帯に広がる低湿地で、かつて「勝山城」があったわずかな突端部の麓。近年、住宅開発が進んでいる。
熊本県熊本市
高江町
「美女木神社」。「戦国」の頃、「菊池氏」に敗れた「城主・河尻氏」の妻「美女木御前」の乗馬が、敗走中、突如動けなくなったため、そこで「御前」と侍女たちが自害したので、同所に墓を建て「榎」を植えて神木とした。これを「一寸榎」と云う。
祭りには神木に大綱を七巻半まきつけ、馬の飼料を供えることから、祭神は「水神・蛇神」であると考えられる。
参照・牛島盛光氏『肥後の伝説』
   
全国の「美女」地名については、それが筆者の「猫神=水神」説と密接に関わるものであるだけに、いずれ独立した記事を書こうと予定しているが、ここではこれ以上、具体的な話には深入りしないこととする。ただし、「長野県飯田市座光寺」にある「美女」地名だけは最期に触れておこう。

ここの字地名は、そのまま「美女」と表記するのだが、地元の老人の方々に尋ねると、「びじょう」と発音するのが本式らしい。道路標識のローマ字表記も確かに長音符がついていた。そして、この「美女」地名の際立った特徴は、実は「美女」伝説を伴わないと云うことなのである。この辺りで、少しでも郷土の歴史に造詣のある方は皆、この地名は「湿地帯」を意味するものだと、さらりと答えて下さるのである。実際、この地には今でも多くの溜池が点々と見られ、中小の河川や水路が縦横に走っている。取り敢えず、このことだけは、ここに附記しておく。
 
*


 
さて、この辺りでこの項の結論らしきことを述べようと思う。要するに、全国各地に見られる湿地帯に関わる「美女」地名のある土地に、たまたま「落城」の歴史が存在したりすると、「美女」地名が「水」関係の地名だと云う記憶が失われているばいるほど、人々は落城の時の女性たちの悲運に想いを馳せてしまうため、結果として「美女」地名の地が、お城の女性たちの終焉の場所だと考えて、水死伝説を育んだのだと思われる。そして、このように理解すれば、全国各地で、似たような伝説が発生していること、あるいは、歴史的事実として受け容れられつつ移植されていること、女性たちの自決方法が史実に反して水死に偏っていること、そして時には「下妻」の例のように実際には落城の悲劇がなかった場合にすらそのような伝説が発生していることなどを、すべて無理なく説明出来るのであるから、筆者もまた、この仮説はまんざら捨てたものでもないと、思っている次第である。



5. 中間結論 : 「美女塚」と「唐猫塚」の接点

「下妻の美女塚」に関しては、その伝説の形成に当たって、たぶんに地元民の旧領主たる「多賀谷氏」に対する「哀惜」あるいは少なくとも「懐旧」の念があることは、いままで再三見てきた。そして、そのことは「高道祖」の「唐猫塚」に関しても云えそうであることは前述した。しかし、このことに関しては随分と紙数を費やしてきた割りには、両者の結びつきは表層的なものだと感じている。ただ、双方の伝説の本質に迫るには本質的な要素ではないながら、しかし、さもなければまったく手掛かりがなさそうな状況の中で、このつながりが、問題の本質へのほぼ唯一の導入口を示してくれるのは間違いない。そう云った意味で、両者のつながりは極めて重要なのである。

そして、我々が忘れてはならないことは、領主たるものは、往古、単なる行政的な統治者ではなく、祭祀の管理者でもあった、と云うことである。このことは「政治」をかつては「まつりごと」と云ったことからも分かる。「折口信夫」は、このような「まつりごと」の内、最も根幹的なものが「水の祭祀」であり、そこでは「神」として迎えられる首長が、「禊」の水を注がれることで、「穢れ」を払うばかりでなく、「若返り」すなわち象徴的な「蘇生」を果すのだと提唱した (折口、1927-1928) 。この「禊」の水は、「遠い淨土から、時を限つてより來る水」であり、「常世波として岸により、川を溯り、山野の井泉の底にも通じて春の初めの若水となる」水であった。それぞれの社会的な共同体は、このような首長たちの「霊力」の更新によってのみ、その存続を可能ならしめていると考えられたのである。この「霊力」あるいはその正体としての「霊」そのものが、後世に云う「国魂」の本義であり、この「国魂」を斎き祀ることが国を司るものの重大な責務だったのである。

「折口」は、古代の「釆女」の制度も、このことと関連して理解していた。従来は、豪族たちが朝廷に服属した証として献上した人質としての婦女と云う考えが主流であった中で、「折口」はそこに朝廷の宗教統制政策を見出したのである (もちろん、折口信夫はこんな無味乾燥とした言い方はしないのだが...) 。
 
番外・コラム
「釆女」の宗教的性格についての論争?!

「釆女」の基本的性格に関しては、それが豪族の朝廷に対する服属の証として貢上された子女であると云う点では、概ね研究者間の合意は成っている。だが「釆女」に宗教的な性格を認めるか否かで、立場は大きく二分される。

そもそも、「釆女=巫女」説の最初の提唱者が「折口信夫」であったことがこの問題をややこしくしている。「倉塚曄子」氏が指摘するように「もっぱら直観に支えられながらこまかな論証は抜きの折口の論は、実証を旨とする史学者たちにはかえりみられていない」のである (倉塚、1979) 。

否定派の代表的な研究としては、史学の「門脇禎二」 (『采女』1965) や「磯貝正義」 (『郡司及び采女制度の研究』1978) などが挙げられる。

しかし、早く史学者の中からも「釆女」の宗教性を重視する見解は出され、「上田正昭」 (「日本古代国家の政治構造・第三」1959) などは、その代表格である。

また、社会民俗学の「上井久義」が史学的視点から「折口」説を継承し (「釆女の源流について」1956) 、史学の「青木和夫」 (『奈良の都』1965 /『日本の歴史5・古代豪族』1974) 、神話学の「倉塚曄子」 (「釆女論」1979) などによって、より実証的に「釆女=巫女」説は補強されている。史学の方面からも女性史研究で知られる「岡田精司」らの肯定論も出ている (「大化前代の服属儀礼と新嘗」1980) 。

このような「釆女」論の二分化については、ごく短い文章ながら、「山上伊豆母」氏が端的に概観して、かつ自説を唱えていて興味深い (『巫女の歴史』1994) 。
 
 
この「釆女」観を通して浮かび上がるのは、取りも直さず「国魂」の祭祀者としての地方領主階層であり、これは翻って見れば、領主たちにはかつてその土地の「神」に奉祭すると云う重要な務めがあったと云うことが明らかにされるのである。さらには、ちょうど「国造」クラスの子女を召すことで、全国の「国魂」を、「天皇」と云う「大国魂」の祭祀者が統べるヒエラルキーの中に巻き込んでいったように、逆に、「国造」クラス以下の方向に目を向ければ、各邑落ごとの祭祀とその祭祀者があったはずなのである。朝廷を中心としたヒエラルキーに基づいた政治的支配が確立するに従い、領主階級の司祭としての側面は次第に忘却されていったのであろうけれど、むしろ、この中央からの政治的なヒエラルキーの締め付けを強く受けない末端の祭祀においては、首長の司祭としての性格は、もう少しばかり後世に残されたのではないかと思われる。祭祀が生産共同体 (あるいは生業共同体) を基礎におくものと考えられる以上、生産の諸形態が変化するにつれ、祭祀もまた変化したのは当然である。農村に限って見れば、地域の人口構成の変化や分業の発生、家族制度の階層化などが進むに従い、地域の祭祀もまた専門化と分業化を遂げたものと思われる。一方では、行政的な階層化の浸透と共に行なわれた神祇の階層化 (これは大いに仏教勢力の触発を受けたと思われる) によって専門の神職が生まれ、他方では新たに序列化された農民階級のうち百姓身分の有力者を中心に末端の祭祀は、一族・郎党の祭祀として受け継がれたのではあるまいか。およそ旧家と呼べるほどの百姓の家であれば、つい近年まで、当然の如く家長による祭祀が極めて重要な年中行事として継承されていたのは、すっかり面変わりし果てた先の、「古代・中世」以来の祭祀の名残りだと思えるからである。そして、口承文芸に残された各地の家に関する伝承類は、わずかながらその消息を反映しているように思えるのである。

したがって、かつてある地域を領することはその土地の「祭祀権」をも同時に執行することを意味した時代があったものと仮定すれば、人間や社会の繁栄にとって最も根源的な「水の祭祀」に関わる記憶が、水辺の塚や甌穴などに残され、その記憶がさらに風化を重ねる度に、「椀貸し淵」や「椀貸し穴」などの伝承に変化していったのではないかとも考えられるのである。もちろん、これだけ話型も筋も似通った伝承が全国各地に存在することを考えると、その流布や伝播に関わった組織的な二次集団の存在も想定しなければならないだろうけれど、その起源の部分には「水の祭祀」の記憶があったと見なしてもよいのではないだろうか。各地の「機織り淵」など、より直接「水の女と祭祀」に関わる伝承であれば、なおさらそうだと云えよう。

ここで「高道祖」の「唐猫塚」に目を移すと、「椀貸」伝説や「下妻の美女塚」などの、一見無関係に見えるこれら伝承類相互に潜む関係と云うのは、それらがどれも水辺に関わる伝承であると云うことである。また、その土地の盛家の盛衰に関わる内容を伝えるものが多々見られると云う点にも、これら伝承類の基本的な性格は見え隠れしている。これはまた、「猫の踊り」伝承が、しばしば地域の名家の当主や名刹に関わるものであり、その一家や寺院の盛衰と関わる形で語られると云うこととも関連してこよう。
 
このことと関連させつつ、本稿では少しばかり「下妻」の「多賀谷」一族の来し方を概観した訳だが、「唐猫塚」伝説との関連で最も興味深いのは、「多賀谷重経」が「朝鮮出兵」に出陣していないと云うことである。「高道祖の唐猫伝説」の「伝説A」を見れば、大抵の人は、即座に「朝鮮出兵」とか、「加藤清正の虎退治」などの逸話との類似を感じ取ったのではないかと思う。にも関わらず、実際の「多賀谷氏」は、「朝鮮出兵」に参加していないとなると、この類似は極めて奇妙な特徴となってしまうのである。「多賀谷重経」の子「三経」は、病気を理由に出陣しなかった父に代わって、「名護屋」に参陣しているが、「朝鮮」本土には渡っていない。
 
* ちなみに、「多賀谷重経」と袂を分かつことになる「三経」の元服前の名前は「虎千代」である。
 
そして、むしろこの「朝鮮出兵」拒否事件こそが、「多賀谷」二十五万石の没落の最初のつまずきになったことを考え合わせると、この「唐猫塚」伝説には、何かしらこの一族の滅亡に関わる民衆の側の理解が込められている気がしてならないのである。歴史に名を残した武芸者大名「真壁道無」と、その門弟であり、武勇の名を轟かせた「多賀谷重経」とを並べて「虎退治」を演じさせることは、少なくとも、「多賀谷氏」の武名を高らしむるものであり、この伝説自体、やはり「多賀谷」の名を惜しむ心情 (あるいは、その祟りを恐れる心情) を反映している内容だと云えるだろう。これは同時に、「多賀谷氏」が「朝鮮出兵」に参陣せずに懲罰的に領土を削減されたことなどの鏡像的な投射にもなっており、そのままで、何かしらこの伝説を伝承した人々の「多賀谷氏」滅亡に対する異議申立てが含まれているようにも感じられるのである。少なくとも、異議申立ての形をとった「御霊」の鎮撫だとは云えまいか。

以上のような解釈は、「唐猫塚」伝説に含まれる「猫の踊り」および「椀貸」伝説の要素とは、実は表裏一体のもので、それら伝説を、その土地の盛家の台頭と衰退を象徴的に語るものとして筆者が把握していることとは十分な整合性を保ちうると思う。つまり、ある家筋の急な繁栄と、それに対応するかのような衰退は、何かしらこの世のものではない、超自然的な力が加わっているものに違いないと云う考えが、「椀貸」伝説や「猫の踊り」譚の成立の背景の一つなのであり、さらにその背景に、かつて栄えたがその後に衰微した古代首長と「水の祭祀」の記憶があると筆者は考えているのである*。
 
* このように一家の盛衰に関わる伝承として「椀貸」伝説や「猫の踊り」譚を、一種の長者伝説として見ること自体、いまだ、ほぼ筆者独自の見解だと云える。しかし、「多賀谷氏」を巡る文脈の中で云うならば、『多賀谷七代記』にも、驕り高ぶった「重経」が「光陰ノ暮ンコトヲ惜ムトナリ」とあり、長者伝説に典型的な「日招き」に類するイメージも含まれていることは、筆者としては心強い (そんな重要なことではないかもしれないが...) 。
 
このように考えるならば、「下妻」「高道祖」の人々が、かつてあった「水の祭祀」の遺跡に、そのわずかな記憶と重なるものとして、「多賀谷氏」の台頭とその突然の滅亡を見、そして「唐猫塚」や「美女塚」の伝説を育む契機の一つとしたのではないか、と推測することも可能になるのである。「高道祖」は「下妻領」の辺縁に位置していただけに、この推移が何やら不可思議な力による以外に考えられない、青天霹靂の事象として語られ、「下妻・小野子」は城のお膝元だけに、より歴史的な伝説として形成されたのではないかと、筆者は推測している。もちろん、元々、それぞれの塚にかなり性格の異なる伝承が形成されていただろうことも、否定出来ない。しかし、そのことに関しては「高道祖」地区の「道祖」信仰を手掛かりに考えていく他、現代の我々には手だてはあまり残されていない。
 
*
 
それにしても「唐猫塚」伝説に登場する「半五郎則重」と云う人物に関しては、ついに謎のままであるのは心残りである。名字なしで記されるからには、この地域で周知の人物なのだろうと思われたが、なかなかその正体が分からない。あるいは、「多賀谷」姓だったのかも知れない。今後も調査を続けなければならないところである。
 
前編・終


※ 追補・大人の方々へ
後編


1. 「高道祖」の「道祖信仰」


地元「高道祖」の鎮守である「高道祖神社」の主な御利益は「子孫繁栄」だと云われ、それを証するかのように、旧道に面して縦長に広がる境内には、多くの「陽物 (男性器) 」を模した石塔が置かれている。ここの「道祖神祭」は、昔から広く知られたお祭りで、祭礼に当たっては「社務所」で「陰陽物」を模した紅白の餅が授与され、それを食べると子が授かると云われていて、古くは「谷川士清」の『和訓栞』にも記録されており、今も多くの参詣者を集めている。『和訓栞』の記述は、現在の祭とはやや異なる様相を示しているが、少なくとも「男根」を飾ると云う点では、変わるところはない。
 
さいのかみ 幸ノと書けり。男女を幸婚を結ぶ也といへり。されど道祖 さへ の轉成べし。道祖を倭名抄にしか訓せり。行いのといひ幸ノと書ける是也。 (中略) ○常陸ノ國高道祖村道の祭に大きなる男根を木もて造り鳥居に掛くといふ。
 
谷川士清/編 (1777-1887) 『和訓栞』
野村秋足/増補 (1899) 『和訓栞』岐阜成美堂藏版
 
ただし、「高道祖」地区には、「子授け」や「下の病」「縁結び」などに霊験があることで知られる新旧二つの「道祖神社」がある。古い方の「道祖神社」は、旅の姫がこの地 (下妻市高道祖字神取) で亡くなったため、「男根石」を御神体に据え、「道祖神」として姫を祀ったのが始まりとされるのだが、この縁起譚もまた「高道祖の七不思議」に数えられる「片葉の葦」伝承と密接に結びついている。

この「道祖神社」は、「高道祖」と云う地名の由来ともなった古い神社であるが、明治三十五年九月二十八日の大暴風によって「拝殿」は倒壊し、大正二年 (1913) 、あるいは同五年には、村当局の指示によって「村社」である近くの「日枝神社 (山王社) 」境内に遷されて合祀され、「日枝神社」は社名を「高道祖神社」と改めたのである。しかし、その後、村では伝染病の流行など不幸なことが相次ぎ、祟りではないかとされたことから、昭和六年 (1931) 、「本田」の「神取」と「新田」の有志たちによって旧地に「道祖神社」が再建されたと云う経緯がある。そのため、現在の「高道祖」地区には、約三百メートル隔てて新旧二つの「道祖神社」が存在しているのである。

しかし、神社を「日枝神社」に遷してから、しばらくは病気や災害などが続いたため、 旧社を改めて祭ったと云う経緯から見えてくるこの神社の神威は、どうも地元民が語る「男女和合」の神様と云うイメージとは、かなり乖離していると云える。筆者は、このことについては少し拘って見てみたいのだが、詳しくは、もう少し後で触れることとする。

ちなみに、再建された「道祖神社」は旧社、「高道祖神社」に合祀されている「道祖神社」は「新社」と、地元の人々によって呼ばれているようなので、筆者も、以降、そのように呼ぶこととする。

「新社」の「道祖神社」は「日枝神社」に合祀されて「高道祖神社」となったが、現在でも「道祖神社新社」と「日枝神社」の「本殿」は別々に存在する。「高道祖神社」境内「拝殿」裏の「覆屋」には、「日枝神社・本殿」 (右側) と「道祖神社新社・本殿」 (左側) が並んで祀られている。

「道祖神社新社」の「本殿」には、かつては夥しい数の木や石の「男根」が奉納されていたそうで、祈願者は「男根」を一つ借りて持ち帰り、祈願が成就した際には借りた「男根」に新しい「男根」を一本添えて返したと云う。かつてほどではないが、現在も「道祖神社新社・本殿」には、幣束と共に、多数の木石 (あるいはセメント) の「男根」が見られ、「子授け」祈願のために参拝する人も多い。「本殿・覆屋」の前には「狛犬」のように大きな石の「男根」が二つ屹立しており、これを跨ぐと子宝に恵まれるとも云われているそうである。

「道祖神社新社」がある「高道祖神社」では、毎年旧正月十四日に「道祖神祭」が行われ、「子授け」祈禱には「茨城」県内を中心に「関東」周辺から多くの参拝者が訪れる。また、上新粉で作られた「塞 さや り棒(塞棒)」と呼ばれる「男根」と、「女陰」の形をした紅白の「陰陽餅」が縁起物として配られ、女性は男根形の餅を、男性は女陰形の餅を食べると子宝に恵まれると云われている。「塞り棒(塞棒)」とは「さやりぼう」と読んで、明確に「男根」のことを意味しており、かつては祭礼の餅も「男根」のみだったそうである。夜には「追儺」の豆まきなども行われている。そして、この「追儺」のしきたりには、病災をもたらす「悪鬼」を防ぐと云う観念が、色濃く潜在しているかに見えるのである。

「旧社」の祠にも、「新社」と同じぐ「幣束」や石の「男根」が奉納されており、小さな「社殿」の後ろにも、同様に多くの石の「男根」が立てられている。いまも「子授け」祈願のために参拝する人は稀にいると聞いたが、「新社」に比べて規模が小さいので、地元以外からの参拝はほとんどないようであった。

この「旧社」の「道祖神祭」は、毎年旧二月十四日と旧十一月十四日に行われ、「新社」の道祖神祭と同様に、上新粉で作られた「塞り棒」と呼ばれる「男根」と「女陰」の形をした紅白の「陰陽餅」が縁起物として配られ、男女とも、それぞれ異性の性器を象った餅を食べると子宝に恵まれると云われているのも同じである。



2. 「高道祖」探訪記 その一

今回の探訪は、「高道祖」地区の西のはずれから開始された。まずは、「セブンイレブン」の「高道祖西」店で、お弁当と飲み物を買い込むと、しばしの間は駐車させて頂いて、近隣の調査に出かけることとした。それに先だって、お店の方にも「逗孔塚」「唐猫塚」などについて質問してみたが、まったく分からない、と云うことだった。

下調べで、この辺りだろうと見当をつけていたのは、このコンビニの道向いの角だったので、この辺りの民家と耕地の間の細い路地をひとしきり歩き回ったが、結局、何の手掛かりも得られなかった。そこで、出だしの地点に戻り、ラーメン店の横の小さな畑地で作業をされている、六十代と思しき男性お二方にお尋ねすることにした。お二人は、「逗孔塚」については、ほとんど聞き覚えがなく、むしろ「唐猫塚」なら、子供の頃、「猫塚」って云ってね、よくあれしたよ、と話して下さった。「よくあれした」の部分は何をされたのかは不明のままだったが、きっと子供らで遊び回ったと云うことなのだろう。目の前に立つ親切な、人生の大先輩お二人が、突然、何十年も昔の少年に戻ったような感慨がふと脳裡をよぎった。お二人には、丁寧にお礼を申し述べ、近隣の探索をもう少しばかり続けた後、二百メートルほど東へと移動して、本命の「唐猫塚」を探すことにした。

ところが、この「唐猫塚」の探索も、思わしい収穫のないまま終わってしまった。文献では、「道祖神社」の西の森の中にあったと記されていたので、この辺り一帯を隈無く歩いたのだが、目指す石塔群は見つからなかった。そこでやむを得ず、「道祖神社」と「高道祖神社」だけでも見てゆくことにした。
 
道祖神社・鳥居
「道祖神社」
 
「道祖神社」は、筆者が探索していた辺りからすぐのところにあり、「江戸期」の辞書『和訓栞』にまで記載され、伝えでは嘉承三年 (850) に創設された古社であるにも関わらず、いまは石の鳥居が目に入らなければ、素通りしてしまいそうな小さな社であった。
 
道祖神社・祠
「道祖神社・祠」
 
狭い参道の両脇には、既に民家が迫り、塀などよりは生垣で仕切られていることが多い地域のせいか、他所ものの目には、どこまでが社地でどこからが私有地なのかが分かりにくい境内であった。参道正面には、小さな赤銅板葺きの祠があり、中には男根石と御幣が立てられている。その祠の後ろには、この神社のトレードマークである男根石が一列に並び立っていたが、昭和六十三年や平成十五年など、意外に新しいものが交じっていたのには驚いた。少子化の時代、子宝を願う気持ちが、ここの信仰を長らえさせているのだろうか。男根石の左右には、空を覆う大樹だったと思われる二本の大銀杏が、いまは人間の頭より少し上の辺りですっぱりと切られて佇んでいた。

ここの神社が「高道祖」の名前の由来となったのだが、大正期に現在の「高道祖神社」の地にあった「日吉神社」と合祀されてしまったことも、その後、地元の有志たちによって旧地に再建されたことも既に述べた。しかし、この再建を巡る秘話は、まだ書いていなかったと思うので、ここに記すこととする。

大正五年 (1916) 、ここの神社が「日吉神社」の地に遷座することになり、「本殿」を移動させる際、御神体の男根石が自然に転がり出したと云うのである。これを見た古老が、これは遷されたくないと云う神の意思だと思い、御神体を拾って神棚に大切に祭ったと云う。その後、既に紹介したように、昭和六年 (1931) に疫病が流行すると、これは「道祖の神」の祟りだと云うことになり、ここの神社を再建し、古老の保存していた御神体を戻したと云うのである。

かつては、境内に籠り宿があり、ここで下の病のある者は参籠し、治癒を祈願したと云うが、これについては後ほど、「片葉の葦」の項で述べることとしよう。
 
道祖神社・男根石
 
祠の左後方の藪には、「富士山講」の石碑も残されており、「筑波」を望むこの土地の氏子連が、かつて「富士山詣」も盛んにやっていたらしいことが知れて面白かった。「富士」と「筑波」が両方とも映し出されたと云う「高道祖七不思議」の一つ、「鏡が池」の伝説の成立ちと何かしら関係があるかも知れないとは思った。あるいは、この講中が築いた「富士塚」が池のほとりにあり、それが伝説化したのかも知れないとも思った。
 
*
 
さて、「道祖神社」のお参りを済ませると、今度はさらに数百メートル西へと歩き、旧村社の「高道祖神社」へ向かった。こちらの神社は、既に見たように、「日吉神社」と「道祖神社」が合祀されたもので、規模は決して大きくないが、表の通りを通っていれば、すぐにそれと分かるつくりになっている。
 
高道祖神社・鳥居
「高道祖神社・鳥居」
 
ここの御社も、「道祖神社」同様、旧道に対して垂直に、縦長の境内となっていたが、こちらは角地でもあり、石鳥居も「道祖神社」のものよりはるかに大きいので、初参詣の人にも見つけ易いのである。その石鳥居の右後ろには、欅の古木が立ち、その根本には大きな虚 うろ が出来ていた。このウロは、それだけでも神秘的な雰囲気を醸し出していたが、中を覗くとゴミが結構つまっていたのには、少し残念な思いがした。やった人たちは、「チョーうけるぅ」と思ったのかもしれないが、堅いこと抜きにしても、センスねぇなぁ...。
 
高道祖神社・社殿JPG
「高道祖神社・社殿」
 
参道正面には、一対の、小振りだが、かなり精巧な狛犬が待ち構え (どちらにも男性器がついている!! さすが!!) 、その奧に丹塗りの柱が鮮やかな社殿が立っている。この社殿の後ろに廻ると、この社殿とはつながっていない古びた覆い屋があり、その中に年代を経た木造の祠 (おそらくかつては本殿) が二基、横に並んでいた。どちらの祠にも、手で持てるほどの小型の男根石が納められていたが、左の方に集中していたので、こちらがおそらくは合祀された「道祖神社」と思われる。と云うことは、右は「日吉神社」なのかな? 前方の立派な社殿はの中を覗くと、中央に木製の大きな男根、左右に小ぶりな男根が立てられていた。

この後も、周辺の路地を縦に横に歩きながら、人を見かけては「唐猫塚」「逗孔塚」のことを尋ねてまわったが、これと云った成果は上がらなかった。まあ、二つの神社を見ることが出来ただけでもよしとしようと決め、既にもうかなり遠くなっていた「セブンイレブン」の駐車場へと戻ることにした。
 
*
 
再出発前に、飲み物を買い足しに「セブンイレブン」を再訪すると、ふと「唐猫塚」「逗孔塚」についてもう一度だけ尋ねてみようと云う気になった。それと云うのも、これまでの探索の間に、地元の人は「唐猫塚」「逗孔塚」と云うとみんな知らないと答えるが、「高道祖の七不思議」の一つなのだけど、と質問し直すと、たいてい、ああ、聞いたことはあるけどよく分からない、と回答のニュアンスが変えることに気づいたからである。そこで、「セブンイレブン」でも、もう一度「七不思議」と言葉を変えて聞いてみようと思い立ったのである。

この作戦は、直接の成果こそ生まなかったものの、やはりお店の方は、「七不思議」の言葉には反応して下さり、よく分からないけれど、「高道祖小学校」の門を入ったところに手書きの掲示板があるよ、と教えて下さった。この掲示板は、事前にネットで「高道祖七不思議」を調べたため、存在は知っていたのだが、ネットで見るその小さな写真 (内容は判読出来ない) では、明らかに手書きのものだったため、まさか数年前の調査の掲示物が残っていると思っていなかったのだが、どうやら屋外に常設しているらしいと聞いて、諦めてこの地を去る前に、一度この掲示板を見てくるのも悪くあるまいと云うことになった。

妻に車を出してもらい、「高道祖小学校」に向かうと、校門前のわずかなスペースに車を寄せてもらい、筆者は取り敢えず職員室に向かった。校門を入ってすぐ左手に、目指す掲示板は難なく見つかったのだが、やはり学校の許可を貰っておこうと思い、御挨拶に向かった次第である。何しろ、筆者はもじゃもじゃ頭に髭面と云う風体なので、職員室の先生方はさぞ驚かれたことだろうけれど、快く見学と写真撮影の許可を下さった。外で、掲示板を熱心に読んでいると、教頭先生かと思われる年配の先生が、「唐猫塚」の伝説の載った文章のコピーをわざわざ届けて下さった。
 
からねこ塚・掲示板
「高道祖七不思議」掲示板・部分
なかなか上手である。
 
それにしても、ここの学校では、会う生徒、会う生徒が、みな怪しい風体の筆者に必ず元気に挨拶をしてくれるので、何とも面映いと共に、いたく感激したものである。筆者の地元の「千葉県市川市」では、挨拶どころか、自分たちがぶつかってきても、危ないなあ、とか声を荒げる子供ばかりな上、大人も挨拶を返さない人ばかりなので、なおさら感慨が深いのである。掲示板の内容から、筆者の探索していた辺りが、見当としては間違っていなかったことを確認すると、小学校の皆さんのおかげで、現場に戻って再挑戦する決意を固めると、勇んで小学校を去ることとなった。掲示板を作成してくれた数年前の四年生の皆さん、そして先生方、有難うございました!!



3. 「逗孔塚」「鏡が池」そして「片葉の葦」について

この辺りで、いまだ紹介していないが、「唐猫塚」を巡る今回の探訪と関連する、「高道祖七不思議」のその他の伝説について触れておこう。紹介するのは、「逗孔塚」「鏡が池」「片葉の葦」の三つである。

a) 「逗孔塚」
 
村内に人寄せごとが出来たとき、前日にこの塚に行って「明日の何刻頃までにお膳何人分とお椀何人分を貸して下さい」と頼んでおくと、明日のその時刻までにはその通り膳椀がチャンと揃えてあったということである。けれども年を経るにしたがって、中に横着なものが出来て、それを返さないようになってから、誰が頼んでも貸さなくなったという。
 
木村信吉 (1972) 「高道祖七不思議の考察」
茨城民俗学の会/編 (1972) 『茨城の民俗』通巻十一号、自刊、p. 25
 
御覧の通り、この伝説は、全国にも広く見られる「椀貸」伝説の一つである。「木村」氏に先立つこと三十三年、『民間伝承』誌面において、この塚について触れた「石塚尊俊」も、同様の伝えを残している (石塚、1939, pp. 3-4) 。そう云う意味では、「逗孔塚」の伝説は、「唐猫塚」の
「椀貸」伝説と何ら変わるところがない。


b) 「鏡が池」

 
鏡が池の伝説は、たとえくもりの日の富士山の見えない日であっても、人がこの池辺に立ってみると、富士山の姿がはっきりと池に映って見えたということである。 (中略) 鏡ヶ池には筑波山の姿もよく映ったという。筑波山の姿が映るのは甚だ現実的で、高道祖が筑波山から近距離にある土地として当然であったろう。
 
木村信吉 (1972) 「高道祖七不思議の考察」
茨城民俗学の会/編 (1972) 『茨城の民俗』通巻十一号、自刊、p. 24
 
現在、ネット上で「高道祖七不思議」を紹介している二つのサイトでは、この「鏡が池」伝説に関して、「この池からは富士山も筑波山も一向に見えなかったが、晴れた日には両方が映った」と云うような記述があるのだが、これはおそらく共通の出典による誤謬だと思う。「高道祖」の地を訪れさえすれば瞭然としたことだが、「筑波」の山は、この集落をまるで見下ろすように立っていて、「鏡が池」の土地からでもはっきりとその雄姿を拝することは出来るのである (下写真、参照) 。したがって、この池から「筑波山」が見えないと云うのは、ちょっとありえないことで、高い建物や鬱蒼とした木陰にでも入らない限り、「鏡が池」の周りから「筑波」は常に見えるのである。ちなみに、筆者の訪問日は、薄曇りであったが、やはり「筑波」の山嶺は、迫り来るほどに立ちはだかっていた。写真で見るよりも、実際に当地に立ってみると、「筑波」の大きさは迫力があるのだ。

蛇足だが、快晴の日ならば、「高道祖」の地から「富士山」が見えるかは、筆者には分からないのだが、少なくとも池の水面に映るほど近くには見えないだろうことは間違いがない。筆者が育った「千葉県柏市」では、高い場所に登ると、晴れた日には「富士」と「筑波」がちょうど左右に同じくらいの高さで見えたのを覚えているが、もちろん、どちらも小さくしか見えなかった。「柏」よりも「富士」から遠い「高道祖」で、どの程度「富士」がくっきり見えるかは、疑問である。

ちなみに、「高道祖」の氏神である「道祖神社」の境内には、「富士講」の石碑が残されている。氏子の中で、「富士山信仰」が浸透していたことの証である。これと関係がある訳ではないのだが、その瞬間、筆者の頭に浮かんだのは、「筑波」を挟んで「高道祖」とは反対側になる「八郷盆地」の中心に立つ「富士山」である。

日本各地に、それぞれの御当地「富士」があることは、とみに知られたことだが、「石岡市八郷地区須釜」にあるこの「富士山」は、さしづめ「八郷富士」とでも呼べばいいのだろうか。標高こそ315.5メートルで、さして高くないのだが (と云うか、かなり低いのだが...) 、頂上には世話の行き届いた「浅間神社」が祀られており、この地域でのかつての「富士講」の強さを髣髴とさせる。たかだか315メートルほどの山が、「筑波嶺」の向こうから見えるはずもないのだが、あるいはこのような「富士信仰」の地域的な強さが、「鏡が池」の伝えの成立にも関わっていたのかもしれない*。

  
鏡が池から高道祖を望む
「鏡が池」の土地から「筑波山」を望む。
かつては、ここの池面に、筑波の雄姿が映し出されたことだろう。
 
あるいは、快晴の日なら、「筑波」の山裾に「八郷富士」の姿がわずかに望み見えはしないかと、地図などをいじくって角度をあれこれ試行錯誤してみたが、結論から云うと、よく分からなかった。こう云う計測が専門の人でないとはっきりしたことは云えないだろう。筆者としては、どうも見えなさそうだな、とは思うのだが、もしも見えたなら、「鏡が池」で見えたと云う富士は、水面に映ったものでも、「駿河の富士」でもなく、わずかに除く「八郷富士」だったのではないか、などと無責任な空想にいっとき耽ったのである。


c) 「片葉の葦」
 
片葉の葦02
確かに、片側にしか葉は生えていなかった...。
しかも「道祖神社」の方を向いている...。
 
むかし極めて気品のある美しい姫様が、ある殿方に熱い思いを寄せ身の疲れもいとわず毎日所所方々を捜し歩き、巡り巡ってこの地へ来た。姫様は長い旅の疲れを癒すため、突いてきた芦の杖を池のほとりに立ててひと休みした。ところが突然発病し、目指す殿方に会えずに哀れにも池のほとりで息を引きとってしまった。里人はこの話に深く同情し、相談の上近くに石の陽物を御神体として姫を祀り、道祖神 さやのかみ とした。

いっぽう、姫様が池のほとりに立てて置いた芦の杖は、そのまま根を張り葉が出て、この葉がみな道祖の神の方を向いていたので、誰言うことなく片葉の芦とよぶようになったという。

 
現地案内板 (2001) より
 
現在もこの「片葉の葦」は残されているが、それはほんの一握りの土地であり、かつては「千本葦」とも「万本葦」とも呼ばれ、大正末年までは現在の二十倍以上の面積を占めていたと聞く姿からは程遠い。伝説に云う「池」も見当たらない。案内板には「字・塔の下」と記されているが、何度か登場している「木村信吉」氏の文章では、「宗木」の土地となっている。

この「片葉の葦」の池と関連して、かつて「道祖神社」は、男女の下の病気に効くと云われ、神社に隣接して籠宿が設けられ、泊まり客は池に浸かって沐浴をして性病の快癒祈願をしたそうである (角川日本地名大辞典) 。また、「宇都野仁助」氏によると、明治二十九年 (1986) 頃までは、神社では、「片葉の葦」の水を汲んできて、昼夜を分かたず風呂を立てていたと云う。現代的感覚からすると、さすがにこちらの方が納得がいくのだが、本当は、どちらだったのかは見当もつかぬ。いずれにしても、かつて神社の籠宿に人の絶えたことはなく、神社前には旅館もあり、たいそう繁昌していたと伝えられている (宇都野、1931) 。

いま、籠宿も旅館も共にない。



4. 「唐猫塚」発見!! ~「高道祖」探訪記・その二~

「高道祖小学校」を後にすると、筆者夫婦は、ふたたび例の「セブンイレブン」に舞い戻り、「高道祖西」から斜めに延びる旧道に沿って北東に進み、はじめの四辻の界隈を再び探索しはじめた。「小学校」に張り出されたマップによって勇気づけられていたため、出だしは勢いよかったものの、時が経ち、方々を歩いてもやはり何の成果も得られなかったため、三十分も歩き回った頃には、もはや夫婦揃ってかなり意気消沈してしょんぼりしている体たらくであった。

もうそろそろ諦めて帰ろうかと思い始めた頃、元の四辻に帰ってきて、最後にここの角の家の人に尋ねてみようと玄関の呼び鈴を鳴らすことにした。いままでも勇気を振り絞っていろいろな方々に話を聞いてきたが、ここまでは何の成果も得られていなかったので、家の人が呼び鈴に答えて下さるまでは、何とも不安な気持ちになっていたものである。

玄関に出てきて下さったのは、年配の女性だったが、筆者は女性の年齢を当てるのがすこぶる下手なので、この方も六十代くらいに見えたのだが、話の内容からは七十歳は越えているようでもあったので、はっきりしたことは分からない。この女性、諦めかけて「唐猫塚」の所在を尋ねる筆者に対して、間髪を容れずに、あるよ、と答えて下さったものだから、こっちが却ってもごもごしてしまった。たっぷり二時間も歩き回った挙げ句に、ようやく場所を知っている人に出会えたのである。本当は跳び上がって喜ばんばかりに嬉しかったのだが、興奮のあまり質問する口調が早口になって、いたずらに吃ってしまうばかりであったのは、いかんせん情けない。

ここから近いですか、と云う筆者の問いに対して、女性は、うん、すぐそこ、隣りのうちの中ね、と明るく教えて下さった。昔は、道からも見えたんだけど、少しずつ奧に入っちゃったのよ、とおっしゃっていた。筆者らは、深々と頭を下げてお礼を申上げると、女性に促されて隣りの I 氏宅へと向かった。

我が国でも、極端な都市部を除くと、敷地の入口に呼び鈴などはなく、導入路を入って玄関に達して初めて呼び鈴がある、と云う家が多い。「高道祖」もそのような家が多かったため、首都圏のベッドタウン育ちの筆者としては、まずは玄関に至るまで、他所様の敷地にずかずか入っていくようで、気が細ってしょうがなかった。教えられた隣家と云うのもまた、玄関が敷地の奥まった位置にあったため、われらはおそるおそる前庭の通路を辿って、玄関に達してから呼び鈴を鳴らした。まもなく、その家の奥さんと思しき女性が応対に出てきて下さったので、こちらに「唐猫塚」と云う遺跡があるとお隣りから聞いて参りましたが、見学させて頂けないでしょうか、とお尋ねすると、それは二つ返事で許可して下さった。

女性は、てきぱきとわれらを敷地の西北の隅に案内して下さった。すると、植木の影に、今日われらが探し求め続けた「唐猫塚」の石塔が、端然と佇んでいたのだから......いや、もう、嬉しいのなんのッて、この時ばかりは、感動のあまり、うっかり涙を零しそうになってしまった。数年前から、いつかは訪問しようと思っていた「唐猫塚」と、こうしてようやく御対面を果すことが出来たのである。

筆者が一人感慨に耽っていると、後ろからこちらのお宅の先代の当主と思われる矍鑠たる老人が出てきて下さり、「唐猫塚」について説明をして下さった。足を悪くされているようで、杖をついてらしたが、頭脳は変わらず明晰で、両端をピンとはねた口髭からは、厳格な品位が伝わってくる、そんな御老人であった。筆者は、ここ最近、お会いしただけで身が引き締まる、このような「恰好いい」老人に久しく出会っていなかったので、思わず背筋が伸びてしまった。
 
唐猫塚
これが新しく建てられた「唐猫塚」だ!!
 
御老人は、この家の三代目だそうで、「唐猫塚」と云うのは、昔は人の背丈ほどある塚が道に面してあったのだそうなのだが、耕地整理や区画整理、それに自宅の改築などが繰り返されていくうちに、塚はすっかりならされてしまったと語って下さった。塚を崩した時には、中からは特に古墳らしい遺物は出てこなかったが、古い石塊が複数出てきたので、石屋に見てもらったところ、古い五輪塔だと云うので、粗末にも出来ず、敷地に建て直して祀ったのだそうである。一番最近の改築で、現在の敷地の西北隅に移されたが、同時に新しく立派な石塔を築いたと云うことであった。
 
唐猫塚・小学校
風化で擦れてしまった掲示板の写真
 
小学校にあった数年前の写真では、二つの石塔の後ろには畑地が広がっており、遠景に森の木陰が見えていたのだが、いまはコンクリート塀に囲まれているため、そのような背景は望めない。まあ、人様の敷地内にあり、しかも景色が変わっていたとあっては、筆者らがどんなに必死に探しても見つからなかった訳である。そして、これは帰宅してから気づいたことなのだが、上の写真で筆者が畑地と森と見たのは、どうやらただの整地された敷地内の地面と、裏の家の植木だったようなのである。写真が数年の風化で、白けてしまっていたため、細部を見誤ったのである。以前に、とっておいた『下妻市史・別編民俗』に掲載された白黒写真と照らし合わせると、筆者の勘違いが分かる。
 
唐猫塚・昔
以前の「唐猫塚」
『下妻市史・別編民俗』より
 
最初に案内して下さった女性は、塚の周りが昔は桑畑だったと話して下さった。こちらのおうちでは養蚕はしていなかったそうなのだが、他所のうちに貸していたと云うことだった。このことを聞いて、この日の探索の初めの方で話をうかがった二人の男性の話を思い出した。小高い塚があり、桑の木が生い茂っていたとあっては、少年達にとっては格好の遊び場だったろうと...。季節には、真っ黒に熟れた桑の実を、きっと口いっぱいに頬張っては、互いに黒く染まった歯などを見せ合った笑ったのだろうな、などと思わず想像してしまった。男性二人が、自分の家の横の「逗孔塚」ではなく、少し離れたこちらの「唐猫塚」をより覚えていたのは、きっとそう云う想い出と関係が深いのだろう。

ちなみに、現在、かつての五輪塔はどうなってしまっているかと云うと、新しい石塔の左側の草むらに静かに佇んでいた。佇む、と云っても、みな崩れ落ちてはいた。「高道祖小学校」のホームページには、最近の新しい塔と古い五輪塔群が、きれいに並んでいる写真が載せられているので、おそらく倒壊してしまったのは管理の不行き届きではなく、今年の大地震が原因なのではないかと思う。
 
唐猫塚・残骸
倒壊した旧「唐猫塚」の石塔類
 
別れ際になって、筆者が「逗孔塚」のこともお尋ねすると、御老人はすぐに、ああ、それはあのう、ラーメン屋のところだ、と教えて下さった。昔は、M氏と云う方の畑だったのを、塚を崩して自宅にしていたが、近年、引っ越されたそうで、その後にラーメン店になったとのことであった。いまは跡形もない、と云うのは本当のことだったのである。ちなみに、引っ越されたM氏の引越先と云うのは、御近所のようなので、いつかお話を聞く機会を見つけられたらいいな、と思っている。

逗孔塚跡
「逗孔塚」跡地

最後に、御老人は「片葉の葦」は寄ってみたか、と尋ねて下さった。筆者が、探したが見つからなかったと云うと、すぐ道一本向こうにあるから見ていきなさいと、女性共々、丁寧に行き方を教えて下さったため、筆者らはこの伝承地にも行き着けたのである。少し前に載せた写真などは、このとき撮影したものである。

かくして、筆者の一日の「高道祖」探訪は、途中までの絶望感を乗越え、最後には大満足の末に終着したのであった。

めでたし、めでたし。
 


5. 最後の考察


関連する伝説をすべて紹介し、探訪記も終了したところで、いよいよ、それぞれについて、最後の考察に入ることとしたい。「唐猫塚」と「逗孔塚」の伝説については、しかし、既に
「椀貸」伝説についてと云う形で、言いたいことは、あらかた本記事前半の本文で語ってしまったので、ここではまだ語っていないことに焦点を絞って記すこととする。


A. 「ずこう塚」の名称について

まず、「逗孔塚」の名称そのものなのだが、これがいま一つはっきりしないのである。「戦後」の文献で、「ずこう塚」を紹介した主なものは、既に紹介済みの「宇都野仁助」「黒羽善四郎」「木村信吉」の三氏の文章と、『下妻市史・別編民俗』くらいなのだが、後ろ三者は最初の「宇都野」冊子の内容や表記をほぼ全面的に踏襲しているため、「ずこう塚」の表記も「逗孔塚」で統一されている。その中でも、「木村信吉」氏は、「逗孔塚」を継承した上で、「隠れ塚、お膳塚、十二膳などとも呼ばれていた」「頭甲塚頭香塚とも書く人があった」と報告している (木村、1972, p. 24) 。

しかし、「宇都野仁助」以前から、この表記で統一されていたかと云うと、多分に疑問が残される。例えば、これまた紹介済みの「石塚尊俊」文献では、そもそも塚の名前を「ずこ塚」と紹介し、「頭庫塚」「地蔵塚」などの字を宛てることもあると云ってはいるが、「逗孔塚」の表記には触れてさえいない。これら以外の文献は知らないが、これらからだけでも、かつて「ずこう塚」を巡る漢字表記も、そもその塚の名前自体、人々の間で統一されていなかった事情が読み取れるのである。要するに、だいぶ以前から、地元の人々の間でも、「ずこう塚」「ずこ塚」の名義は定かではなくなっていたのであり、それゆえに正しい表記など確定出来ないのである*。そもそも、元から漢字表記があったかさえ疑わしい。
 
* 「地蔵塚」の表記まであったことを考えると、「ずぞ塚」のような発音をする人もいたのだろうか。
 
「逗孔塚」の漢字を誰が宛てたのかは、今となっては知りようがないが、その命名の裏で働いた想像は、おおよそ見当がつく (と云っても、これも純粋な推測に過ぎないのだが...) 。字義通りとれば、「逗」の字の代表的な訓は「とど-まる」であるから、「逗孔」は「逗まる孔」と云う意味になる。しかし、これではまるで意味をなさない。そこで筆者としては、これは元々「厨子」の「厨」を表わしていたのではないかと考えている。「お膳」や「お椀」が出て来るのが、「厨の孔」と云うのは、論理的には筋が通っていると云える。ただ、「逗」にせよ「厨」にせよ、あまり庶民が思いついた表記には思えない。いずれの時代にか、地元の知識人か、あるいは地元の人からこの伝説を聞いた逗留中の生半可な知識人かが、人々の云う「ずこづか」「ずこうづか」に雅字を宛ててやったのではないだろうか。

「頭庫」と云う言葉に至っては、そのような語が存在するのかすら、浅学の身には分かりようもないのだが、「頭香」の語の方は、一応存在する。「狂言」の『花子 はなご 』に「頭香成共 なれども 腕香成共焚せられい」 (大蔵虎寛、1792) とあるように、頭の上で香を焚く、僧侶や修験者の荒行のことである。もっとも、いずれの場合においても、「逗孔塚」との関係は、まるで見当がつかない。まあ、昔、某かの修業者が荒行を行なった土壇・石壇の跡だなんてこともないとは言い切れないが...。

これに対して、「頭甲塚」の字は、比較的すわりがいい。なぜなら、いまでこそ「頭甲」の語は馴染みのないものになってしまったが、日本人の生活が西洋化する以前は、しばしば耳にする言葉だったのであり、辞書を調べれば、「脳天・頭蓋骨」と云うのが真っ先に出てくる。これが本当なら、「ずこう塚」と云うのは、頭頂のような半球形の塚だったのかも知れない (もちろん、これとて後から宛てられた字かも知れないが...) 。しかし、「脳天・頭蓋骨」の語義は『日葡辞書』に由来する可能性が高く、問題がない訳ではない。『日葡辞書』の「ズコウ」の項目は、ローマ字の表記上の問題で、近年は「ズチョウ (頭頂) 」の誤記ではないかと云われているから、「脳天・頭蓋骨」と云うのも当てにならないかも知れないのである (参照・日本国語大辞典) 。ただし、「頭甲下し」と云う成句もあったようで、現在の「頭ごなし」に当たる意味だそうであるから、これだと「脳天・頭蓋骨」説も十分に意味をなす。威丈高に、脳天から見下すように話す様子がよく出ている言葉だとも云える。

だが、これとは別に、「笠」を被るとき、頭がおさまり易いようにつけられた内側の輪っか状のものを「頭甲」とする語釈もある。先程の「頭甲下し」の成句にしても、『岩波・古語辞典』 の挙げる用例は、『伊勢正直集』 (伊勢正直、1662) に載る「我が笠の頭甲下しや梅の雨」である。この俳句では、明らかに「笠」との関連でこの語が使われている一方で、「脳天から降り落ちる雨」と云う意味とも掛けた詞の可能性も残され、やはり語義を限定することは出来ない。

しかし、仮に「ずこう塚」が「頭甲塚」だとしたら、それにはどんな意味 (由来) があったのだろうか。少しオカルト趣味て云えば、誰かしらの頭蓋骨を埋めた塚だった、などと云うことになるのだろうけれど、そうだとしたならば、そのような塚は、「将門」の活躍した「常陸」南部にあって、恐らくはシンプルに「首塚」と呼ばれたであろうから、この説は取り敢えず措かざるを得ない。

もっとも、「小野小町」の「髑髏に薄 すすき 」の伝説の変形譚で、「髑髏」の眼窩から「葦」が生えていると云う説話などは、「高道祖」の伝説とは「片葉の葦」の伝説を挟んでゆるやかに関連するのかも知れないとも思うのだが、現時点では確証的なことは何も云えない。筆者は、全国の「小町」伝説は、「和泉式部」伝説と並んで、どれも湧水に関係すると考えているので、「美女」地名との関わりで、いずれはこの辺りの議論もきちんとしたいと願っている。本記事では、この可能性は、一応、指摘するにとどめ、参考にはしないこととする。

となると、他に思いつくことと云えば、「頭甲」が、塚の形状を表わしていた、と云う最も穏当な可能性くらいしか残らない。そして、その場合、「脳天・頭蓋骨」と理解すると、既に見たようにドーム状の塚と云うことになり、「笠の頭甲」と考えた場合は、ドーナツ状の塚、と云うことになる。輪の形をした塚と云うのもあまり聞かぬから、これだとやはり前者が有利な気がしてくる。

その他の名称で云えば、「地蔵塚」と云うのも、かなり興味深い。我が国には「道祖神」を単に「おじぞうさん」と呼ぶ地域もあり、これは「賽の河原」のイメージとそこに漂う「あの世とこの世を結ぶ」と云う境界性が、元々、石や柴を路傍に積んだとされる「塞の神」としての「道祖神」の境界性と交錯したことによって誕生した併称だと思われる。また、現在、「道祖神」の祭りが残っている地域では、それらの多くは子供の行事となっているのだが、もしもこれが古くからの祭祀を継承しているとすると、このこともまた「子供の守護仏」として崇められた「地蔵菩薩」が、別系統の子供の神でもある「道祖神」と混淆するイメージ的な源泉となったことも考えられる。ただし、「高道祖」の「逗孔塚」が「地蔵」であると決まった訳ではないので、ここではその過程の下に議論は出来ない。大体、元が「地蔵塚」だったならば、これだけありふれた名称の塚を、わざわざ変梃な意味の不明な呼名に変える必然性も見えてこない。したがって、「地蔵塚」は、やはり後から耳に馴染んだ「じぞー」の音に会わせたものだと考えるのが妥当なようである。

十二膳」の名称は、表向きは「椀貸し塚」の名前としては申し分ないのだが、なぜ十二なのかは気になる。民俗学や文化人類学などでもしばしば取り沙汰される「十三塚」とか、あるいは各地の「十二所神社」などとの関連なども疑われ、これはこれで「道祖信仰」の「積み石」の習俗などと関連して興趣は尽きない。

「高道祖」の集落の南側を走り抜ける旧道は、「高道祖東」交差点からは県道214号・沼田下妻線となって「沼田」の「参道入口」交差点まで続き、そこからはそのまま県道42号・笠間つくば線となって、「筑波山神社」へと続く道である。この県道は、そのまま「筑波」東麓を走る参道となり、「風越峠」を経て、「八郷盆地」を抜け、「府中 (石岡) 」へと至る旧「府中街道」と重なる道である。この道は、「風越峠」の東側が、九十九折りの狭隘な急坂が続く難路であるため、いまはほとんど忘れられた街道となっているが、「近世」から「昭和初期」くらいまでは、「筑波詣」の中心的な参道であったばかりか、この地域の主要な交易路としても大いに栄えた道なのである。

この「府中街道」を「八郷盆地」へと下っていく途中、現在は行政区分上「石岡市小幡」に入る土地に、「十三塚」の集落がある。かつては街道を行き交う旅人のために、半ば宿場町のような機能さえ果したこの集落も、現在は、「日本の里100選」に選ばれた「やさと」を代表する長閑な農園地帯となっている。特に傾斜地を利用した果樹栽培が盛んで、季節になると、「柿」や「蜜柑」「林檎」などを並べた観光農園の幟や幡が、道沿いに鮮やかにはためく村里である。

この「十三塚」には、この名前の由来となった「猫」伝説が存在する。詳しくは、いずれ別個の記事で紹介するが、「高道祖」とは、「筑波山」を挟んで反対側に当たるこの地域に、「十三塚」や「猫」に関わる言い伝えがあるのは、興味深い。さすがにこの両者が関連しているとは思わないが、少しばかり引っ掛かりはする。ただし、現時点では、これについて論じる材料はまったくない。

隠れ塚」の名称は、その他の名称と違って、その指し示す内容がかなり明白だと云えるのだが、いかんせん、「唐猫塚」「逗孔塚」のどちらの伝説ともあまり関係がなさそうなのが難点である。敢えて云えば、「虎の耳」を埋めたのだから、これは一種の墓だと強弁することも可能だが、説得力には欠ける。 (根拠のない推測だが) あるいは、かつて「唐猫」の屍骸を埋めたと云う伝説でもあったのだろうか。もしも、そうであるなら、「唐猫」でないまでも、「隠れ」と云うほどだから、少なくとも、身分の高い人物か、地域の人々にとって何かしら霊的な存在だったと考えるのが筋だろう。「隠れ塚」が「唐猫塚」と発音上やや似ていると云うのは、これはもはや穿ち過ぎの意見であろうか。

もちろん、筆者は「ずこ塚」「ずこう塚」と云う言葉が先にあり、数多い漢字表記は、後に意味が分からなくなってから宛てられたものだと推測しているのだが、これとて実は「頭甲塚」のような名前が塚の形状からの連想で途中でつけられた後、人々の漢語の理解が覚束なかったために、後にまた意味が分からなくなってしまった、などと云うことも考えられる。

これで、この塚が現存していれば、その形が明瞭な分だけ、いくらかこの議論にも実がつくのだが、残念ながら、この塚はとうの昔に跡形もなく消え去っている。『下妻市史・別編・民俗編』には、「逗孔塚伝説」と云うのが、「高道祖字鏡ヶ池」地内の東南端に、「明治末」頃まであったと記されている (p. 397) 。さほど明瞭な書きっぷりではないが、伝説だけならいまも残っているし、塚の痕跡なら、この後に見るように、「昭和」の中期まではギリギリ残っていたようであるから、おそらく「明治」の末頃までは塚らしい土饅頭か石積みがあったと云うことなのだろう。

「宇都野仁助」あるいは「木村信吉」によれば、昭和三十一年 (1956) 頃までは、畑地の中にかろうじて、この塚の座だけは残っていたそうで、その直径はおよそ二メートル、高さ八十センチほどだったが* 、耕作地にするため塚は再度崩され、いまはさらに宅地と化していると云う。しかし、二メートルかける〇・八メートルと云うと、小さくはないが、古代の円墳ではないかと考えるにはやや小さいか。
 
* 現在、「高道祖七不思議」をネットで紹介している「高道祖小学校」のホームページでは、直径二メートル、高さ〇・八メートルと云うのを「塚」自体の大きさのように記しているが、実地でこれを見聞して記述している「木村信吉」氏は、「塚の座」と述べている。果してこれが、本当により大きかった「塚」の「座」の部分だったのか、元から「壇」のような形をした塚だったのかはこれだけでは確定出来ないが、少なくとも、昭和三十一年頃まで残存していたのは、「座」のように見える、おそらくは壇状の遺跡だったことは「木村」氏の記述から偲ばれる。
 
それにしても、「明治末」と云えば、二十世紀初頭、いまから百年以上も前のことになるから、さすがに覚えている古老もいらっしゃらないだろう。それにしても、塚の座だけでは、元の塚の形状までは測り知れないのが惜しい。筆者としては、この塚が積み石塚のようなものだったのかどうかは、極めて気になるところなのだが、今後、この辺りの真相を知るには、より古い、信頼出来る文献記録を見つける以外に、道はなさそうである。

 
B. 「唐猫塚」と「逗孔塚」は類似するか?!
 
さて、名義にまつわる考察が一区切りついたところで、本稿の最後の議論に入ることとしよう。それは、「高道祖」の「唐猫塚」と「逗孔塚」との間に見られる強い類似性を巡る議論である。

結論から先に云うと、筆者は、この二つの「椀貸し塚」は、本来同一のものだったのではないか、と考えている。何しろこの二つの塚は、同じ池のほとりの、かなり近接する地にあり、同一集落に二つの椀貸し塚があると云うのも不自然であるため、それらが同一のものを指すのか、過去に何かしらの混同があったかの可能性が高く思われるのである。さしたる根拠とてないのだが、二、三の論拠はある。以下、それらについて少しく列挙する。

a) 二つの塚の近さについて

まず第一に、同じ「椀貸」伝説を伝えながら、それらが別個のものであるとするには、二つの伝承地が接近し過ぎている、と云うことが挙げられる。

実際に現地に足を運ぶと、かつて「小貝川」東の氾濫原を形成していたと思しき「字・鏡が池」の土地は、筆者が当初予想していたよりもはるかに広く、そのほとんどすべてが耕地か草原となっており、耕地整理によって以前の景観は完全に崩されていようとも、いまでも池のおおよその大きさや形は推測出来そうであった。この「鏡が池」の土地の南側は、現在の国道125号「高道祖西」交差点から北東へと斜めに分岐する町道に沿ってわずかに民家があるものの、この交差点から次の集落内の小さな四つ辻くらいまでが、おそらく在りし日の「鏡が池」の南岸と思われる。この四辻を南北に抜ける道より西は、東側より低く、ほとんどが耕地となっている。逆に、その東側は概ね小さな坂になっており、その上にある「道祖神社」や「高道祖神社」、それに「常願寺」を中心とした「高道祖」の集落は、低いながらも高台となっているのであった。筆者の観察したところ、「高道祖」の地は古くは、「筑波」の流麗な峰を東正面に望み、四方を低湿地や池沼に囲まれて見下ろす美しい孤島のような村だったのである。「唐猫塚」も「逗孔塚」も、この高台の麓に水を湛えた「鏡が池」の南岸に築かれた塚だったようである。

二つのうちでも、「逗孔塚」の方は、「小貝川」と「糸繰川」の合流点に架かる「祝橋」のわずか二百メートル東方の岸辺にあったとされるが、いまはもう影も形もない。池は、大正九年 (1920) の「高道祖村耕地整理」に際して埋められてしまい、その一部だけが用水路として利用するために残されたそうである (木村、1972) 。この用水路は、いまも残されているが、民家側から接近すると、背の高い草々にはばまれて、まったく見えない。「逗孔塚」の跡地は、比較的最近まで民家の庭の一部として残っていたらしいのだが、住人のM氏の転居に伴い、跡地はラーメンのチェーン店となり、いまはまったく痕跡すらない。

筆者は、この遺跡を求めて、ラーメン店の隣りの小さな耕地で働いてらした隣家の方々にお話を聞いたのだが、六十代と思しき方々でも、「逗孔塚」の存在自体を知らないようであった。興味深かったのは、「逗孔塚」跡地の真隣りに住まいながら「逗孔塚」は分からないと云うこの方々が、「猫塚」の方なら、自分たちが小さい頃、よく遊んだものだとおっしゃっていたことである。どうも、地元では「唐猫塚」の方が知名度が高かったらしい (いまはこちらもほとんど誰も知らない) 。しかし、地元の方が、「唐猫塚」を「猫塚」とも呼んだらしいことを知ったのは、ちょっとした収穫であった。


b) 「鏡が池」と「椀貸」伝説の関係についての一仮説


「鏡が池」と云う名の池は、全国各地にあり、一般には「明鏡止水」の謂の如く、鏡のように周りの風景を映すところから名付けられたと伝えられるものが多い。しかし、このような由来説明に対して、「大場磐雄」は考古学の立場から、異議を唱えている。「大場」によれば、池底から「鏡」が実際に出土する「鏡池」も多く、元は祭祀遺跡としての池沼に、奉祭品として「鏡」を鎮めたのではないか、と云うことになる。「大場」のこの主張は、実際に「羽黒山・鏡池」から多くの古鏡が出土した事例に則して主唱されたものであり、その後も、多くの事例が発見されている。「茨城県」内でも、「鹿島郡鹿嶋市」の「沼尾池跡」 (現在は水田) などから古鏡が発見されている。

また、全国の雨乞い習俗を網羅的に調査した「高谷重夫」は、各地の「雨乞い」のために利用された池には、「鏡」や「土器類」を奉祭した痕跡を伝えるものが散見されることを調査しており、それら池の中には、多くの「鏡池」も含まれている (高谷、1982) 。「島根県松江市」の「八重垣神社」内の「鏡池」からは、土馬や須恵器の壺・高杯・平瓶などが出土している。

このような「鏡池」を巡る「水霊祭祀」論は、「鏡」同様に、「馬の頭」の奉祭も一部に見られたことが知られている点で、筆者の「猫・馬・蛇」などの動物霊を水神と見なす考え方と図らずも一致する点で、極めて興味深いものである。また、「吉野裕子」氏などの研究によって、「鏡」は「蛇」の象徴だと唱えられており、同じように「蛇」の象徴と考えられる「鐘」が、各地の「鐘ヶ淵」伝説に見られるように、明らかに「水霊信仰」に関わる形で伝承されているのは、筆者の仮説を何かしら補強するものである。

また、「椀貸」伝説との関連で云うならば、池沼あるいは井戸などに奉祭されたのは「鏡」だけでなく、「皿」や「土器」の類も、水の祭祀遺跡からしばしば発見されると云う。これらの皿や土器類は、完形のものも、欠けている箇所があるものもあって、いまのところそれらが何故井戸の底に投げ込まれたのかを確実に言うことは出来ないのだが、完形のものは廃棄物とは思えないし、壺型の土器などは底部に作為的に穴が開けられているものもあると云うから、これも破損とか偶然と云うことはないだろう。いずれにしても、何らかの形で祭祀と関わる行為が行なわれていたことは間違いなかろう (鐘方、2003 / 山崎、2005 等) 。

筆者は、これら「土器類」が水の祭祀遺跡から見つかることと、「椀貸」伝説の発生とは、何らかの形で関連しているのではないかと考えている。水の祭祀には色々な形のものがあったとは思うが、以前から筆者が強調しているのは、それが「無」から「有」を生じさせる契機としての神聖さであって、そこに「泉」や「湧水」に対する尽きせぬ憧れが、現代人の我々にさえ秘められているのだと思う。実際、「湧水点」に対する祭祀の集中について肯定する研究もある (穂積、1994) 。さほど入り組んだ理屈をこねなくとも、「湧水点」と云うものは、水の祭祀にあって、「水神」の顕現する点だと云えるだろう。

太古、我らの先祖がこの「水神」を迎えるに当たって、何を以てその兆としたか。それは、湧水点に発生する「渦」ではなかったか。湧水量の多い泉では、水の湧き出る水面が丸く盛り上がって見えることがあるが、この周りには実は渦が発生しているのである。さらに云えば、水面に盛り上がりが見えない、静水のような湧き水であっても、水中に生ずる対流によって渦は発生しているのである。目には見えないが、水面に落ちた花びらや葉などが円形に静かに回るのを見て、ああ、ここで水が湧いているんだな、などと思うことがしばしばある。このように、静かな水面に浮ぶものが回転したとき、人々はそこに「神」がついたと思ったのではないだろうか。

筆者自身は、祭祀遺跡から出土した土器類に親しく触れる機会があるはずもないので、これらの遺物が水に浮くものかどうかは分からない。家にある皿などで試してみると、薄手のものは、静水であれば、大抵浮くようである。徳利なども、バランスさえよければ浮くようだ。しかし、遺跡の土器類が浮くかどうかは、こんなことでは確認出来ないのは分かっている。それでも、もしも浮くものならば、厳粛な祭祀の場にあって、特殊な「霊力」を保有しているものと見なされていた祭祀者が、静かに土器を水に浮かせると、あるときはその土器はしばらくしてから緩やかに回転し、やがて沈んだのではないだろうか。うまく行かずに回転しない時も、あるいはすぐに沈んでしまう時もあったかもしれない。だが、それはそれでよかったのだと思う。回転するかしないかとかで、神がついたかつかないかを判じたり、沈むまで掛かる時間の長短で吉凶を占ったりなど出来たはずだからである。「土器類」が打ち欠いてあったり、穿孔してあったりするのも、その回転や、何よりも浮沈の調整に使われたのかも知れない。もしもわずかな供物を載せた皿や高杯などが、水面を流れて、回転して傾くや、水中に没すれば、いかにも「神」が顕現しただけでなく、その供物を受領したかのような神秘的演出効果があったに違いない。いずれにせよ、この方法では、「水神」を迎えるに当たって、「土器類」はある種の依り代のような役割を果たしはしなかったか。

ただ、仮に上の仮説がまったくの想像の産物に過ぎなかったとしても、「水神」が「渦」と関係するのは、「土器類」がその制作の手続き上、「蛇」のような紐状に伸ばした粘土を渦巻かせるように重ねて整形することと関連して、極めて重要な性格だとは思う。例えば、明らかに「鏡」は浮きはしないだろうから、「鏡」を沈める祭儀などは、上の仮説に該当しないのは明白である。「土器類」もあるいはそうだったのかも知れない。上の仮説に寸分の真実があったとしても、それは木具にのみ当てはまるものだったかも知れない。

もっとも、「椀貸」伝説で語られるのはまずほとんどが「木具」であり、その意味では「土器類」とはやや異なる点が指摘されうる。水に浮く点だけに焦点を当てれば、「土器類」より木具の方がよほどよい。しかし、沈む、と云う性質にも採るべき点はある。例えば、上にも述べたが、最終的に沈むことで、供物や祭儀が無事「神」に受け容れられたと云うことを示唆することであろう。また、「椀貸」伝説とのつながりで云うならば、借りた器を収める、と云うニュアンスが明瞭になるし、第一、底に器類が溜まることで、水や穴の向こう側には器類が無限にあると云う想像力を見るものにかき立たせもしたのではなかろうか。

大体、この器類をどこか秘密の場所に貯め込んでいると云うイメージは、「椀貸」伝説の成立に採って極めて重要な契機にもなるのである。「折口信夫」は、「椀貸」伝説の発生を一次的に木具と密接に関わらせて考えているために、「土器類」の可能性を追求する筆者とは微妙に理屈は異なるのだが、この「貯め込んだり」、あるいはその逆に、突然、多くの器類が現れると云うイメージに関しては、まったく賛同するところである。このイメージこそが、「椀貸」伝説の底流をなす神秘だからである。ただ、「椀貸」伝説が、多くの客に振舞いをしなければならないことから直接発生していると云う考えには、魅力的だ感じつつも、賛同はしていない。
 
あるじと言ふ語は、饗應の義から出て、饗應の當事者に及んだのである。家長の資格は、客ぶるまひを催す責任の負擔から出てゐる。饗宴は、家族生活の第一義だつた。神聖な食器の保存に注意を拂ふ風は、時代が遷つても、變らなかつた。唯食器にも、推移があつた。どうしても、傳來の物の代りに、近代のを用ゐねばならぬ樣になつて行つた。其誘因としては、壞れたり、紛失したりする事と、傳統的な器具を持たぬ新しい家が、後から後から興つて來た事である。
 
客の數は、信仰の上から固定したものが多かつた。だから時代が變つても、多くは常に一定してゐた。一椀一皿が不足しても、完全な客ぶるまひは出來ない。食器の數を完備する事に苦勞した印象は、新しい器を採用する樣になつても殘つてゐた。椀貸し穴の、椀を貸さなくなつた原因を、木具の紛失で說いたのも、此印象が去り難かつた爲であらう。宴席に竝んだ膳椀の數を見ても、一目に其家の富みが思はれる。此榮えは、農村經濟の支配者なる水の神の加護によつて得たものである。木具の古びを見ても、此家の長い歷史が思はれる。何處に藏つてあるとも、家族さへ知らぬ木具類が、時あつて忽然として、とり出されて來る。さうした事實をくり返し見て居る中に、椀貸しの考へは起つて來る。水の神から与へられた家の富み、其一部としては、數多い膳椀。水の神から乞ひ受けた物と言ふ風に考へる外はない。此が、稀に出現する樣を見た迄は、事實であり、古代式の生活をくり返した農村全體の經驗の堆積であり、疑問の歷史でもあつた。
 
かういふ經驗が、記憶の底に沁み入つて、幾代かを經る。すると、さうした農村の大家の、富みの標となる財貨を、挿話にして、逆に、其家の富みの原因を物語る話に纏つてゐた。
 
折口信夫 (1929) 「河童の話」『中央公論』四十四卷・九號
折口信夫 (1995) 『折口信夫全集3』中央公論社、p.291-292
 
「唐猫塚」及び「逗孔塚」との絡みで筆者が述べたいのは、この二つの塚が「水の祭祀」に関わるものではなかったかと云うことである。そして、それらの塚が共に「椀貸」伝説を伝えていることは、それをほぼ確実にしているのである。そして、その「水の祭祀」が「湧水点」を巡る祭儀であったならば、長い間に、祭儀を行うに適した湧水箇所が池辺に沿って移動することも考えられるのである。あるいは、初めから複数箇所設定されていたのかも知れない。したがって、「唐猫塚」と「逗孔塚」が元々同一のものか、あるいは同一の祭祀に起源を持つ遺跡である可能性は否定出来ない、と筆者は現時点では考えているのである。
 
*
 
蛇足ながら付言すると、「椀貸」伝説が木具を語る伝えであるだけに、それは全国を渡り歩いた「木地師」に起源を持つ伝承なのではないか、と云う仮説が以前から提唱されている (eg. 『日本昔話事典』など) 。筆者は、実はこの仮説の支持者である。ただ、「木地師」集団は、この伝承を現在のものに近い形に整え、各地に伝播させた二次的な集団で、そのさらに起源に、より古い「水の祭祀」を巡る記憶があるのではないかと考えているのである。
 
 
 
6. おわりに

今回の記事は、思わぬことに時間が採られることが続き、結果として半年以上のお休みを頂くことになってしまった。しかも、この間、書き連ねた文章のおよそ七割くらいは、ブログ記事にする段階で割愛することになった。その割りには、無駄に長いばかりで、要点が絞られず、内容も薄いものになってしまったことを、早くも悔やんでいる。ただ、このブログ自体が、年々衰えてゆく筆者の記憶と思考力を補うための自由落書き帳みたいなものとして計画されていることを言い訳にして、この段階でアップロードすることにした。いつもながら、皆様の御寛恕のほどを乞うばかりである。参考文献表は、本文の推敲を繰り返しているうちに、何処に何を引用したかなどが煩雑になり過ぎて、筆者自身も混乱してしまったため、現在調整中である。仕上がり次第、アップロードしたいと思っている。
 
*
 
今回、大幅に省いてしまった議論は、直接は「猫神」に関わらないものの、その下敷きとなる「水神」の議論にとっては不可欠のものとなるため、いつか別稿で扱いたいと思っている。そのため、しばらくは「唐猫」シリーズの紹介編を終わらせることを重視して、再び通常ペースからそれ以上のペースでのアップロードを心がけていこうと思っている。

 
 
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現在作成中
 
 

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