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愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」前編

.11 2012 中部地方 comment(0) trackback(0)
糟目犬頭神社
岡崎市宮地町馬場 31
 
糟目犬頭神社01
HP『み熊野ねっと・全国熊野神社参詣記』
「糟目犬頭神社」より
 
1. はじめに

今回からの記事は、前回の「おからねこ」から引き継いで、「尾張・三河」地域にかつて存在したと筆者が推測する、「狛犬の頭」を巡る信仰の跡を辿るのが目的である。予定としては、前後編の二回に分けて発表するつもりであるので、今回の記事は前編と云うことになる。そのため、今回の記事も、理論的な深化はほとんど見られず、「三河」地域の「犬頭」伝承に関わる遺跡や伝えを、総括・概観するにとどまる内容となるだろう。

そして、その探索の「三河」地方での端緒となってくれるのが、今回の標題となった「岡崎市」の「糟目犬頭神社」である。

「名古屋」と「岡崎」では、旧国名で云えば、「尾張」と「三河」の国境を跨ぐ訳だが、距離にすると四十キロばかりの旅で、昔の徒歩旅行でも一日か一日半、自動車ならば一時間と少し程度の旅路である。ただ、市街地を抜けることになるので、交通事情によっては、一時間半以上かかるかもしれない。時間を惜しむならば、短い距離だが有料道路を乗り継ぐとよいのだが、「名古屋」近郊の有料道路と云うのは、結構、乗り換えが複雑なので、標識なども凄いことになっている場合が多く、慣れないドライバーには少し不安な道のりになるかもしれない。もっとも、筆者が旅をした六年前に比べれば、標識事情もよくなっているかもしれないが...。

「関東」から向かうならば、東名高速道路の「岡崎西インターチェンジ」を降りて、「矢作川」東岸の沖積低地にあるこの神社に向かえばよいのだが、神社周辺は細かい道が錯綜している辺りなので、はたしてどの道を通るのが一番よいのか、地元民ならぬ筆者には見当がつかない。したがって、以下に述べるのは、一応、一つの案に過ぎない。

インターチェンジを降りたら、国道1号線を西へ、「島町」交差点まで進む。ここで左折して県道293号・桜井岡崎線に入り、そのまま県道を維持しつつ、「東岡崎駅前」では右直角に曲がる。道は県道のままである。名鉄名古屋本線の高架をくぐりつつ、大きく左にカーブを辿って三キロほど南下する。途中、愛知環状鉄道東海道本線も過ぎ、「サークルK」のある「法性寺」交差点を左折、四つ目の四辻を左折すると百メートルほど先に、目的の「糟目犬頭神社」はある。

ただし、この「糟目犬頭神社」を巡る際には、このお社と密接に関わる神社が、「岡崎・豊田・豊川」市域にいくつか点在するので、実際には下の道を辿りながら、自分なりにそれらの神社を回れる効率的な道順を探るのがよいように思われる。具体的な神社名については、今回の記事の中で順々に出てくる事になるだろう。もちろん、中には跡地しかないものもあるが...。

いずれにせよ、今回の出だしは、シンプルにこれだけである。



2. 「糟目犬頭神社」の概要

この神社は、『日本文徳天皇実録』仁寿元年 (851) 十月十日条に「三川国糟目神社授従五位下」の記述があり、『延喜式』神名帳 (927) にも「正四位下 糟目神社 坐碧海郡」と記載された社に比定される、社格「旧郷社」の神社である。祭神は、「彦火火出見尊」を筆頭に「伊弉諾尊・伊弉册尊・素盞嗚命」、それに「犬頭霊神」を奉祭しており、この他に「豊受姫命」も合祀していると云う。現地説明板は、実に簡潔な内容で、神社そのものの縁起については、あまり詳しいことは記していない。その代わり、所蔵文化財については、簡潔かつ丁寧な説明となっている。
 
岡崎観光文化百選
犬頭神社

 
701年に、今の上和田町にあたる糟目というところに建てられたので糟目神社と呼ばれていました。しかし、たびたび洪水にあったため現在地へ移されたと伝えられます。
 
境内には、越前鯖江産の凝灰岩の狛犬、唐猫、鳥居などの石造文化財や、本多作左衛門重次の墓、新田義貞の首塚と伝えられる祠があります。また、神社にまつわる伝説もいくつか残っています。
 (後略)
 
現地説明板より
 
岡崎市指定文化財
糟目犬頭神社
建造物 犬頭神社石鳥居 一基
越前式鳥居の形式を示すものとして価値があり、慶長十年 (1605) 岡崎城主本多豊後守康令 (康重) の奉納である。原石は越前 (福井県) 産の笏谷石と呼ばれる凝灰岩である。
 
彫刻 犬頭神社石造狛犬 一対
狛犬は仏教守護の獅子として渡来し、形、名前も変わってきた。この狛犬も越前石製で、慶長十五年本多豊後守康令の寄進。
 
彫刻 犬頭神社石造唐猫 一対
小型の狛犬で、奉納者は「唐猫」としている。愛らしい猫の形で、猫には毛髪というべきものはないが、これは頭から放射状にたてがみがあり、獅子彫刻の伝統を残している。越前石製で、慶長十年市川猪兵衛正重の寄進。

昭和四十二年九月十四日指定
 
現地説明板より
 
それにしても、これだけの社頭説明では、何故、この神社が「犬頭」などと云う変わった名前を、鎮座地の名前でもないのに冠しているのかは、さっぱり分からない。そこで、他に説明板はないものかと、境内をもう少し見回すと、神社の「拝殿」に向かって右側にある蓮池の手前に朱塗りの鳥居があり、その後ろに立札が一つ見えた。鳥居をくぐったさらにその先には、曲線の美しい、やはり朱色に映える神橋が、石囲いされた、樹木の覆う島を境内と結んでいた。この島の中央に立つ小さな祠に祭られるのは「大和田島弁財天」なのだが、一説には、この島こそが「犬頭神社」の社名の元となった、本来の「犬塚」だと云うのである。説明板には、次のように書かれて いる。
 
御由緒
一、社名 大和田島弁財天
 (中略)
この島は犬塚* と称し今より六百四十年前南朝の忠臣宇都宮泰藤公が新田義貞の首を京都よりうばい埋めて、犬頭霊神を祀ったと伝えられ其の後星霜久しく荒廃していたが篤志家と氏子崇敬者の請願に依り神殿を造営神橋鳥居を建築神池を整備 昭和四十九年六月滋賀県の竹生島より祭神を勧請して奉斎する

 
現地説明板より
 
 * 墨書きの文字が風化していて、この二文字が「犬塚」なのか「大塚」なのか判然としなかったが、内容から判断して、ここでは「犬」とした。誤りであった場合、謹んでお詫び申し上げます。
 
筆者は、この説明板を読んで、思わず、うーむ、と唸ってしまったように覚えている。何しろ、これでは新たな事実をいくつか知り得るものの、「犬頭霊神」やら 「宇都宮泰藤」などの名がいきなり登場し、前より分かるようになったのか、そうじゃないのか、さっぱり分からないのである。そこで、以下に、大正五年 (1916) 刊『碧海郡誌』掲載の縁起と、「神社本庁」の調査に基づく縁起を下に掲げて、「近代」に入ってからのこの神社に伝わる縁起の全容を把握することとしよう。
 
鄕社 糟目犬頭神社 鎭座 六ッ美村大字宮地

祭神には彥火火出見尊を祀れり。社の由来を明にせず。大寳元年の遷座にして、永延元年に紀伊國熊野三神を勧請し、以て糟目神祠中に合祀せりと云ふ。また犬頭社とは大久保氏の祖左近將監宇都泰藤、延元興國年間に當り、狩獵の歸途大蛇に遇ひ、其の狗の難に殉せしに感じ、一小宇を建てゝ是れを祀り犬頭社と號せしに 初まり、後孫に及び糟目神社の屬社となすと傳ふ。慶長八年大久保景實の男大久保忠實の時、祖先の事に關し犬頭社のために家康に申請する所ありて、社領四十 三石を賜ひ改めて糟目神社犬頭大明神と號しき。後明治五年額田縣廳より敎部省へ具申する所ありて祠號を糟目犬頭神社と定めらる。
 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、pp. 649-650
 
由緒
 
大宝元年九月創立彦火火出尊を鎮祭し糟目神社と称す。永延元年六月十五日紀州熊野三所大権現を合祭す。
 
旧社は今の隣村上和田村の西糟目森崎に在り、往来矢作川洪水につき今の地に遷座、 観応元年足利尊氏熊野権現領として百貫文目を寄付し、豊太閣の世まで相続すると云う。
 
犬頭霊神の由緒は相伝う上和田城主宇都宮泰藤なるもの貞和二年壬辰五月当社に於て鷹狩す。時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹下に憩い仮寝す。樹に巨蛇あり、首を垂れ将に泰藤呑まんとす。率いる処の白犬頻に吠へ泰藤を警す。泰藤驚き覚む、然れども此事あるを知らず。亦眠り亦吠ゆ此如再三、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す。泰藤驚き且つ悔いその犬を以て犬頭霊神として当社に合祀す。
 
実に当年九月十五日なりと云う。天正十年岡崎城主田中平部少輔吉政豊大閣の命を以て大杉樹を伐り同郡大浜村に於て船に造ると云う。慶長八年八月二十八日東照公より犬頭社領四十三石の朱印を賜うてより以後徳川氏代々準之、依て社号を犬頭大神明と称す。明治四年額田県の命を以て即ち今の糟目犬頭神社と改称す。
 
明治五年九月十八日郷社に確定。明治四十年十月二十六日神饌

 
神社本庁教学研究所研究室/編 (1995) 『平成「祭」データ』神社本庁、CD-ROM
 
以上が、現在、「糟目犬頭神社」に伝わる縁起の概要である。より委しくは、以降の節で、適宜、述べていこうと思っている。



3. もう一つの「糟目神社」
「糟目春日神社」
 
糟目春日神社_1
「糟目春日神社」鳥居
HP『中部の花火情報館・愛知の祭りと神社』より

さて、前節で「糟目犬頭神社」を扱ったからには、片手落ちを免れるためにも、ここでどうしても述べておかねばならないことがある。それは、『延喜式』「神名帳」に載る「三河国碧海郡・糟目神社」には、「糟目犬頭神社」とは別の有力な候補があると云うことである。

もちろん、「岡崎市」の「糟目犬頭神社」は、式内社「糟目神社」に比定される論社であるのは間違いない。だが、論社と云うのは、飽くまでも「〜とされる社」と云う意味で、「〜である社」と云う意味ではないのである。したがって、特定の式内社に対して、論社が二つ以上存在することは、全国的にも決して珍しいことではない。「三河国式内社」の「糟目神社」の場合も、有力な論社が二つ知られている。「糟目犬頭神社」は、その一つに過ぎない。

そして、もう一方の論社と云うのは、「豊田市渡刈町北田」の地に立つ「糟目春日神社」である。「糟目犬頭神社」とは、「矢作川」を挟んで対岸だが、距離にして十三、四キロ上流の地に鎮座している。「糟目春日神社」からは、「鴛鴨町長根」で国道248号に出て、南下しつつ途中で「矢作川」を東に渡り、「六名一丁目」で県道293号・桜井岡崎線に入れば、三十分くらいで「糟目犬頭神社」に着くだろう。

実は、「糟目犬頭神社」には、
建久元年 (1190) 、洪水のために下流へと流されて、現在の社地に遷ったのだと云う伝えがあるのだが、その神社旧地と云うのは、現在の「糟目春日神社」の周辺の土地なのである。したがって、鎮座地の立地を見る限りでは、「糟目春日神社」の方が、本当の意味で「糟目」の地にある分だけ、論社争いでは断然有利である...はずなのだが、何故か、実際にはまったくその逆の感さえある。何故そうなってしまったのかについては追々見て行くとして、ここではひとまず、こちらの神社についても、簡単に紹介しておこう。

「糟目春日神社」の歴史的な来歴は、それを式内社「糟目神社」だと見なした場合、同じ史料を元にすることになるのだから、『日本文徳天皇実録』であるとか『延喜式』であるとか云う部分は、「糟目犬頭神社」の紹介で述べたこととまったく同じ内容になる。したがって、これらの内容には重ねて触れず、ここでは、初めに、それ以外の主な来歴を、境内の石碑から引くこととする。
 
祭祀殿竣工記念碑
七級社 糟目春日神社

 (中略)
由緒
一、大宝二年持統上皇三河國に行幸当地に御駐蹕の砌り鷹狩し給うよつてこの地を鳥狩鳥捕都賀利戸苅と言ひ今日渡刈と書くに至れり当時すでに糟目神社を祀れり
一、第六十代醍醐天皇の御代に延喜式に載せられ、文徳実録に正四位糟目神社とあり勝女大明神又は塩指大明神と云はれ矢作川上流西方一大原野をカスメ郷末野ヶ原と称し三河の海の満潮時には潮指し来たれりと伝う
一、明治二年神祇官より延喜式内社に確定される
一、明治五年七月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年九月郷社に確定される
 (後略)

 
現地碑文より
 
この碑文から、この神社が、古来「糟目春日神社」を名乗っていた訳ではなく、かつては「塩指 (汐差) 大明神」や「勝女明神」と称していたことが知れる。「塩指」については、碑文にも説明があるが、「勝女明神」と云うのは、「糟目」が転訛したものだろうか。上記記念碑には記されていないが、「羽田野敬雄」『三河国官社私考 (三河国官社考集説) 』上巻
(1839) には、「又云。上渡刈村潮崎社アリコレ糟目社也村人云」ともあり、『碧海郡誌』 (1916) には、「古來人呼で是れを潮進宮と云へり (碧海郡誌; 652) 」ともある。現社名に落ち着いたのは、明治五年 (1872) だと云うから、かなり新しいことである。この辺りの事情も全て、「糟目犬頭神社」と類似している。ちなみに、この記念碑自体は、昭和五十二年 (1977) に建てられたもののようである。

「糟目春日神社」の境内は、その現在地さえ「矢作川」西岸に程近い位置にあるが (現在地のほぼ真横を流れているのは明治用水) 、古くはさらに一キロほど川寄りの字「大明神」の地に鎮座していたと云うから、 「塩指」の名も頷ける。この「糟目」「塩指」などの名称、及び近年の社地の移動などについて、「
羽田野敬雄」は次のように記す。
 
○渡刈村ノ神主神谷仙太夫云オコセケラク。此社古クハ社地ヨリ廿間許東。川岸ニアリ。然ルヲ洪水ニテ社鳥居等マデ押流レタル故。天明年中今社地セリ。古城ナリ社地ニハ神池アリテ。古ハコレマデサシタルニ。俗鹽指大明神。其所東額田郡。北加茂郡。西南碧海郡ニテ。此邊凡八百間地名糟目
 (中略)
ニハカスモトモ。渡刈人家モカスモノ產土神也シヲ。人家村地ニウツシ。其處ニモ鹿島社勸請シテ。今兩產土神也。サレド社田モカスモノニアリ。又棟札先年流失後先規書記シタルニテ年號月日モナシトイヘリ
 
羽田野敬雄 (1839) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』上卷、天保十年
豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
 
神社の旧地につけられた「大明神」と云う字 (地名) は、『碧海郡誌』 (1916) によれば、どうやら「大正期」にはより具体的に「糟目大明神」と呼ばれていたらしいので (碧海郡誌; 653) 、この神社が鎮座していたと云う由来に基づく地名であることは疑いない。ただし、古い史料類を見る限りでは、ここの社が「糟目大明神」と呼ばれていたことはどうやらなさそうであるから、「糟目」がついたのは、論社認定争い激しかりし「明治五年」の社号改称と関係があるのだろう。また、上記所引の石碑には刻まれていなかったが、「大明神」の旧社地から現在の社地へは、大正三年 (1914) に遷座しているそうである。したがって、「羽田野」が「
天明年中今社地セリ」と記した「社地」と云うのは、字「大明神」の旧社地のことだと云うことになる。

要するに、大正三年以前にも、「矢作川」の洪水によって、何度か社地を替えてきた歴史が、この神社にあるのは明らかなのである。伝承に従えば、上記の「末野 (ヶ) 原」と云うのが発祥地と云うことになるのだが、今の地図で見ると「末野原」と呼ばれる辺りは「豊田市豊栄町」付近を指すようで、随分と内陸に当たる。「古代」の「末野原」は、より広い範囲を指す地名で、「矢作川」の辺りまで含んでいたのだろうか、それとも「矢作川」の流路がこの千三百年の間に抜本的に変わってしまったのだろうか (これについてはすぐ後に述べる) 。

この「大明神」の旧社地には、現在も「郷社糟目春日神社之跡地」と云う石碑が建てられている。「伊勢湾岸道・豊田東インターチェンジ」のすぐ北東、豊田市老人福祉センター「豊寿園」の東坂の下、「大明神橋」と云う小さな橋で「明治用水」を渡った「矢作川」の西岸、「渡刈町字大明神 12」の地に石碑は立っている。この石碑の脇に立つ小さな説明板には、次のようにある。
 
矢作川畔の汐差神社
 
渡刈町で祭られている汐差神社は、昔三河の海 (碧南) が満潮になると、川下から舟が上がってくる程汐が差してきたと言います。

これを「汐差」と言い、満潮・干潮の自然現象を利用して、農作物や味噌・醤油などを舟で運ぶ、物流の大動脈に利用されていました。

反面、水害にあう事もしばしばで、水難除け・商売繁盛のためこの神社が建てられたと言い伝えられています。
(渡刈町)
現地説明板
 
「糟目春日神社」のある土地は、「豊田市渡刈」の一部なのだが、この「渡刈」の地名は、石碑にあった「持統天皇御幸」伝説と深く関わるものと、地元ではされている。この「持統天皇」伝承については、前回記事でも、「おからねこ (鏡御堂) 」がその跡地なのではないかと云う『尾張名陽図会』の説を見たが、「三河」にもこの手の伝承が多い。これは「持統天皇」の「三河御幸」について、唯一の史料である『続日本紀』が、わずかに数行記す
ばかりで、具体的な記述がまるでないため、返って後世に様々な憶測を呼び、多くの伝説を生み出したのだと思われる*。
 
* 『續日本紀』卷二、大寳二年 (702) 條
九月十九日 「○癸未。遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五國。營造行宮」
十月三日  「○丁酉 (中略) 鎭祭諸神。爲將幸參河國也」
十月十日  「○甲辰。太上天皇幸參河國 (後略) 」
十一月十三日「○十一月丙子。行至尾張國 (後略) 」
十一月十七日「○庚辰。行至美濃國 (後略) 」
十一月廿五日「○戊子。車駕至自參河 (後略) 」
十二月十三日「○乙巳。太上天皇不豫 (後略) 」

 
「渡刈」の地名伝説も、この大宝二年 (702) の「持統天皇三河御幸」の折り、一行がこの地で鷹狩りをしたことから「鳥狩・鳥捕・都賀利・戸苅」と呼ばれるようになったと云うものである。この鷹狩りの故地は、現在、豊田市老人福祉センター「豊寿園」の裏手にある「鳥狩塚古墳」の辺りだとされ、それを記念する「持統天皇鳥狩記念之塚」も建てられている。ただし、「渡刈 とがり 」の地名に関して、歴史的には、「戦国期」の文明九年 (1477) 十二月二十六日『鹿島社棟札銘』に「大檀那三州國碧海庄都賀利郷」云々とあるのが初見であり (豊田市史、1978) 、「持統天皇」の時代まで遡らせるのには、やや無理があると云わざるを得ない。

この伝説に関して、大正五年刊の『碧海郡誌』 (碧海郡教育会、1916) と、そのさらに前年に建てられた、「糟目春日神社」の境内にある「末野原聖蹟」碑裏面の碑文を、以下に写すこととする。
 
末野の原
 
上鄕村大字渡刈附近一帶の原野を云ふ。傳へ云ふ嘗て鸞輿參河に行幸し、此所末野原にて鷹狩し給ひしとか。此の附近に殘存する數個の塚は其の當時狩の爲めに築き給ひしものなりと云ふ。村名登加利は鷹狩の意に出づるものなりとか。

續日本紀云、大寳二年十月甲辰太上天皇幸參河國、令諸國無出今年租云々、十一月戊子車駕至自三河、免從駕騎士調、とあり此所に云ふ太上天皇とは、當に持統天皇にして、傳へ云ふ、鸞輿行幸とは、此の時の事にして、末野の原にて鷹狩し給ひしは亦此の持統天皇にて御在すべきか。

 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、pp. 657-658
 
末野原聖蹟
 
傳云フ大寳二年持統上皇三河二行幸アラセラレ蹕ヲ此ノ地二駐メ鷹狩ノ事ヲ行ヒ給フ依テ地名ヲ鳥狩ト稱シ後世都賀利戸刈等ノ字ヲ用ヒ遂二渡狩ト記スルニ至ルノ所、梓弓末之腹野爾鷹田爲君之弓食將絕跡念甕屋ノ歌ハ此ノ地ヲ詠ジタルナル可其ノ他古詠頗ル多シ今茲ニ大典ニ當リ謹ミテ聖蹟ヲ顯揚シ碑ヲ建設シ以テ之ヲ後世二傳。
 
 梓弓末の腹野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや
 梓弓 末之腹野尓 鷹田爲 君之弓食之 將絕跡念甕屋
 
大正四年十一月建立
 
実は、先ほど「末野原」の地が随分内陸にある、と述べたが、それは「末野原中学校」や、愛知環状鉄道の 「末野原」駅などを念頭に入れての記述だった。しかし、よくよく調べてみると、前者は昭和六十年 (1980) に創立され、後者はその三年後に開業しており、極めて近年に「末野原」を名乗り出していることが判明した。いずれも『萬葉集』の歌から名前をとったに過ぎず、この地に「末野原」と云う現行地名が存在した訳ではなかったのである。近くには「寿恵野小学校」と云う学校もあるが、こちらも元々は「遍照寺」境内に創られた「尋常鴛鴨学校」 (明治六年創立) と云ったものを、昭和三十六年 (1961) に改名したものらしい。

そこであれこれ調べてみたのだが、その過程で、筆者の辿りつけた最も古い「末野原」「
寿恵野」関係の地元名は、「豊栄町」の鎮守様である「寿恵野神社」であった。流石に「鎮守様」と聞けば、大抵はその地域で最も由緒のあるお社であるから、その社号も自ずと古かろうと思われるものだが、この神社は少しばかり事情が違った。論より証拠で、この神社の境内に立つ由緒を記した石碑の碑文を見てみよう。
 
御由緒
 
紀州大納言徳川茂承公廃藩の後西三河の俗称論地山周辺を開拓するに先立ち、明治十六年一月八日現在地に神殿を造営し、天照座皇大御神 持統天皇 東照公の御 霊を奉祀し、鎮座際を行った。その後天鈿女尊、大山祇神を合祀し、当地の産土神として祭祀を怠ることなく斎行今日に至る。
 
紀州公開拓後、当地を徳川偕楽園と称し、地方史にも掲載された。
この偕楽園の中心をなすものが当寿恵野神社である。 (後略)

 
昭和五十七年十月吉日
豊栄町氏子一同
 
現地石碑より
 
要点だけ云えば、この神社は明治十六年 (1883) に新たに創設されたもので、それ以前は、この「豊栄町」一帯は「論地山」と呼ばれ、開拓すらされていなかったようなのである。新しく開拓された村だったからこそ、新しく創ったお社がそのまま鎮守様におさまったのである。いずれにせよ、筆者が簡単に調べた限りでは、「寿恵野」と云う地名も、最も早い時期でここまでしか辿れないのである。

行政地名としての「
寿恵野」はさらに新しく、明治二十二年 (1889) の町村制開始に合わせて、「渡刈・鴛鴨・隣松寺・永覚新郷」の四村が合併して成立した新たな自治体の名前に「寿恵野村」が選ばれていることに始まる。この村名は、明治三十九年 (1906) の「上郷村」との合併まで続いたが、合併後、旧村名四つは、そのまま大字として引き継がれたが、「寿恵野」の名前の方は公式な地名からは消滅している。生活に根ざさぬ新地名の宿命だったのだろう。

「尋常鴛鴨学校」で使用された「鴛鴨」の方はと云えば、いまだ「鴛鴨町」と云う地名が残っており、こちらが本来の地名のようである。この「鴛鴨」の地名の初見は「戦国期」で、天正八年 (1580) 五月二十一日の「徳川家康安堵状」に「上野隣松寺」領として「鴛鴨領之内」とあるのや、天正十九年 (1591) 『上宮寺末寺帳』 (上宮寺文書) に「おしかも 和泉」と記されているのが最古の記録だと云う (豊田市史、1978) 。また『角川日本地名大辞典』には、「鴛または鴨が多く生息するからとも、鴨氏の関連からとも、鴨部の居住からなど諸説ある」と、『岡崎市史』を引いて解説している。

ところで、上で見た「末野原聖蹟」碑に引かれた萬葉歌は、巻第十一 (2638) に収められたものなのだが、実は、この「末の原野」と云うのが一体どこの地を指すのかは、いまだ萬葉学者たちの間でも判明していないのである。それもそのはず、この「末の原野」と云う言葉が、そもそもどこで切れるのかさえ、いまだ確定されていないのだから、これは当たり前。したがって、これを現在の「豊田市」の一部に比定する根拠は、まったく存在しないのである。『上郷風土記』 (中根和光、1988) は、『碧海郡誌』の「上鄕村大字渡刈附近一帶の原野を云ふ」と云う一文を敷衍してか、さらに具体的に「現在の鴛鴨町、渡刈町、豊栄町、大林町、御幸本町を『末の原野』と称したよう」だと記しているが、そもそも『碧海郡誌』の記述さえ根拠のない希望的な推測に過ぎないのだから、これはとんだまやかしでなければ、少なくとも激しい勇み足なのである。ただ、この地域の郷土誌関係の書籍やネット上のサイトなどを参照しても、この地の「持統」命名伝説は、大抵は既出の『上郷風土記』と、その他では『上郷町誌』 (上郷町誌編纂委員会、1966) などが参照元とされているのだから厄介である。せめて『大日本地名辞書』あるいは『碧海郡誌』くらいを手にしてもらえると、この地名の起源に関して、もういくらか落ち着いた見解に辿り着くだろうに...。そう、『碧海郡誌』は上のように記してはいるが、全般的には断定口調を避けているのである。
 
 
 沙彌明空の郢曲撰要 (文保三年撰) の追加なる海道曲に「鳴海がた、干潟も遠き浦つたひ、風吹送る二村山、打過ぎぬれば是やこの、又國こゆる堺川、遠里遙に立のぼる煙の末野ひとすぢに」、按に末野を當國の名所とすること、古書に明徴なし、郢曲の詞によれば、碧郡の平郊渺々たるをさして云へることもありけるにや。

吉田東伍 (1907) 『大日本地名辭書 5』
冨山房


文保三年選、沙彌明空の郢曲撰要の追加なる海道曲に、「鴨海かた干潟も遠き浦つたひ風吹送る二村山、打過ぎぬれば是やこの、又國こゆる堺川、遠里遙に立のぼる、煙の末野ひとすちに、」とあり郢曲の詞によれば、末野の原とは必ずしも渡刈附近の原野を云へるものにあらず、碧海郡の平郊渺々たるを指して云へるものと見るべきか。
 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、p. 658
 
実際、『萬葉集』には、大宝二年の「持統天皇御幸」の際に詠われた和歌が五首か六首、残されているのであるが、そのうちの五首までもが巻第一に「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」と云う題詞の後に連なって、まとまった形で記されているのである*。しかし、「梓弓」の歌は、この中にはなく、載っているのも巻第十一であり、しかもその場所を特定出来る題詞などは一切ない。
 
* 参・日本古典文学大系『萬葉集・一』
卷第一・57-58
二年壬寅太上天皇幸二于参河國一時歌
右一首長忌寸奧麻呂
引馬野ににほふ榛原入り亂れ衣にほはせ旅のしるしに
右一首高市連黒人
いづくにか船泊てすらむ安禮の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟

卷第一・61
舎人娘子從駕作歌
大夫がさつ矢手狹み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし

卷第三・276
高市連黒人羈旅歌
妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
 一本云ふ、三河の二見の道ゆ別れなば吾が背も吾れも獨りかも行かむ
 
その上、これら『萬葉集』に載る「持統天皇」の「三河御幸」関連の歌で、「鷹狩り」など、遊猟を行なったことを詠ったものは一つもない。「舎人娘子 (61) 」の歌には「さつ矢」が現れているが、この歌は「丈夫 ますらを 」から「立ち向ひ射る」までが、「円方 まとがた 」と云う地名* を導き出すための序詞となっているから、この「さつ矢」云々は実際の狩猟を描いている訳ではなく、「円方」の「まと」を引出すイメージ遊びに過ぎない。しかも、「円方」と云うのは「伊勢」の地名であって、「三河」のものではないのである。
 
* 円方---三重県松坂市東黒部のこと (日本古典文学大系) 。
 
こうなってくると「末野原」と云う地名自体が、「
鳥狩渡刈」 と云う地名起源説から発して、その「鳥狩」と云う語から『萬葉集』の歌と結びつけることで導き出された新しいものなのではないかと疑わざるを得なくなってくる。もちろん、だからと云って、そのことが「糟目春日神社」のゆかしさを幾分でも減殺するものではない。何も、歴史上の有名人と結びつけずとも、由緒と云うものは、それだけで十分に独立した価値があるものなのである。

前回記事でも言及したことだが、我が国各地の神社は、「明治」の終わり頃に吹き荒れた「神社合祀令」の嵐の影響で、随分と強引な再編が行なわれている。その過程でなす術無く合祀されたり、単に廃止された神社も多い中で、それぞれの土地の人々は、おらが村の鎮守様を守るべく、あの手この手と、必死の保全策を講じたのである。その中の代表的な策と云うのが、神社の祭神を皇祖神か、「記紀」に登場する有名な神様に改めたり、歴史上、天皇家や有名人物との縁故があったことなどを強調することであった。

「江戸末期」から「明治」にかけて活躍した
国学者「羽田野敬雄」は、自身「羽田村八幡宮」の宮司だったのだが、「天保年間」には地元「三河」の古社を実地で巡って調査し、その結果を『参河国官社考集説』にまとめ上げている*。その中で、「羽田野」氏は、「上渡刈」に「糟目神社」の論社ががあることに丁寧に言及しながら、「持統御幸」に関しては何も触れていない。「羽田野」氏は、「明治」に入ってからも、自らの著に加筆訂正する機会はあったが、やはり「渡刈」の「持統御幸」伝説には触れることがなかった。筆者の見るところ、元々、この地には「渡刈」が「鳥狩 (鷹狩り) 」から発生した地名だと云うことが強く意識されていただけで、「持統」云々と云うのは、「糟目春日神社」が、おそらくは「明治」に入って以降、自らの生き残りを賭けて、式内社としての名乗りを死守しようとした過程で主張されはじめたのではないか、と思われるのである。
 
* この『参河国官社考集説』は、「羽田野」の約一世紀以前、享保十六年 (1729) に、やはり神主だった「彦坂常征」が、「三河」国内の神社の調査報告書としてまとめた『参河国官社考』を下敷きとして、それ以降、同じテーマでまとめられた多くの著作を参照して、「羽田野敬雄」が自説と絡めて総括したものである。上下巻と表現することが多いが、上巻を『参河国官社考集説』、下巻を『参河国神明名帳集説』と呼ぶこともあり、実際、両巻の間には重複する内容も多い。
 
明治二年 (1869) には「神祇省」によって式内社として認められつつ、三年後の明治五年には、今の「糟目犬頭神社」が自らを式内社として強くアピールしたのを受けて、結局、両社ともそれぞれに「糟目」を冠して、「糟目犬頭神社」「糟目春日神社」と名乗るとになった辺りに、その複雑な事情が見え隠れする。もっとも、この改称の時期を鑑みると、その主たる動機は「式内論社」認定争いであるのは明白であるから、その後の縁起の形成なども、「神社合祀令」の影響は少なく、この争いが原動力となっていた可能性の方が高い。
『碧海郡誌』には、以下のように記されている。
 
明治二年三年の頃渡刈村に於ては、官の調査を仰ぎ、その地の神社を式内社なりとの是認を受く、其の後明治五年に至り宮路村の犬頭社また古來糟目神社と稱し來りし故を以て官に具申する所ありて、式社たらんとの論爭ありしが、同年額田縣廳より敎部省に具申する所ありて宮路村犬頭社を糟目犬頭社と改稱し、渡刈村糟目神祠を糟目春日神社と改稱せしめられ、式社云々の件に就ては改まりての令達はあらざりき
 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、p. 644
 
ただし、「糟目神社」と云う「式内社」の論社認定争いに関して云っておかねばならないのは、「持統御幸」と云う事実の有無は、この論争の帰結に何ら影響するものではないと云うことである。「持統」伝承は、飽くまでも「糟目春日神社」の由緒正しさを強調するための小道具に過ぎず、その由緒の本質的な部分ではないからである。

しかし、この論社認定争いに関しては、「明治」以来、灰色決着のまま現在に至っている。明治五年* に、両者痛み分けのような官側の「大人の解決」によって、結局、以降、両社共に「式内社・糟目神社」は自社であると主張し続ける運命に置かれることになったのである。もっとも、明治三年頃に、「糟目春日神社」は政府から「式内社」のお墨付きをもらっており、明治五年の改称騒動以降も、「式社云々の件に就ては改まりての令達はあらざりき」と云うのが本当ならば、厳密には「糟目春日神社」のみが「式内社」認定されていることになるはずではあるのだが...。
 
* 『新編・岡崎市史 20』では、「糟目犬頭神社」の社名が確定したのは明治四年 (1871) としている。
 
その上、現に「糟目」の地にあると云うのが、「論社」比定論争にあって「糟目春日神社」にとって、大きく有利な点であることは、既に述べたように、疑い得ない。しかし、それにも関わらず、現在では式内「糟目神社」の論社と云えば、多くの文献や資料が、真っ先に「糟目犬頭神社」を挙げ、「糟目春日神社」の名は、並べてさえ挙げるものは少ない。何故このようなことになってしまうのかを十全に説明するのは難しいが、かいつまんで要点だけ云うならば、それは両社の知名度の違いに行き着くと云える。「糟目犬頭神社」は、「近世期」を通して幕府の譜代名門「大久保氏」の氏神としての地位を保持し、「家康」直々の朱印地を持ち、歴代の領主たちの尊崇を受けてきたと云う歴史がある。このことが、結局のところ、論社認定争いに際しても、「声の大きい方の意見が通る」式の現象を引き起こしたのであろう。

しかし、この点を除いても、もう一点ばかり、ことを複雑にしている事象がある。それは、
論社認定争いをしているどちらの神社も、過去に洪水のために移動を繰り返していることで、その移動の歴史の故に、現在「糟目」の地にあるから、『延喜式』に記された「糟目神社」に間違いない、と云うほど、議論は簡単には済まない、と云う事実である。現代的な観点からすれば、洪水で神社が流されたら、また元の地に再建すればいいことで、流れ着いた下流の地でそのまま祀られると云うのは、何だか奇妙な風に聞えるのだが、かつての我が国では、必ずしも例外的な出来事ではなかったのである。
 
*
 
筆者の住む「千葉県」には、その中央部に「高瀧神社」と云う、『日本三代実録』貞観十年九月十七日条にも名を残すなかなかの古社がある。神社の立つ「加茂山」の麓にある小湊鉄道と云うローカル線の駅名が「高滝駅」なのを見ても分かる通り、ここの土地の名前も「高滝」 (市原市) と云う。弘安六年 (1283) に成立した『沙石集』巻一「和光ノ方便ニ依リテ妄念ヲ止ムル事」条に、「上總國高瀧トイフ所ノ地頭熊野ヘ年詣シケリ」とあり、既に「鎌倉期」には知られていた由緒ある地名である。

ただ、不思議なことに、「高滝」の付近には、その名に相応しい滝がないのである。これは近年の「高滝ダム」建設に伴って、この辺りの地形が根本から変わってしまったからだと思って調べてみても、やはりダム建設以前から、この近くに「高滝」と呼べるほどの滝はなかったようなのである。だが、「高滝」の地から 「養老川」を二十キロほど遡ると「粟又」 (夷隅郡大多喜町) と云う渓谷の地があり、ここには大きな滝がある。現在は観光目的から「養老の滝」と呼ばれたり、その地の旧村名から「粟又の滝」などと呼ばれたりしているが、古い地誌などを繙くと、この滝の正式名称は「高滝」だと云うことが判明する*。これと云った高山のない「房総半島」にあっては、落差約三十メートルで、およそ百メートルに渡って岩の斜面を滑落するこの滑滝が、県下随一の規模を誇るのだから、この名前も納得がゆく。
 
* 滝そのものに限らず、この滝のある土地の字地名も、実は「高滝」と云う。「粟又」と云うのはこの滝を含んだより広い範囲を現わす大字 (旧村名) である。
 
そして、面白いことに下流の「高滝」の地には、この上流の「高滝」にまつわる伝承が残されているのである。曰く、かつて今の「粟又の滝 (高滝) 」の上に神様が祀られていたが、大昔の洪水の際に、「粟又の滝 (高滝) 」の上から流され、「養老川」を伝って、現在の「高滝神社」の地に流れ着いたのが同社の起源だ、と云う伝承である。しかも、その時期については、白鳳二年あるいは白雉二年の八月と、いやに詳しく伝えられている。
 
上古鎭座于夷隅郡粟又村之高瀧、後遷于本村。故稱高瀧神社云。
 
安川惟禮 (1877) 『上総國誌』明治十年
同叢書刊行会/編 (1959) 『改訂・房総叢書』第四輯、自刊
 
養老川は地内高滝で大きな滝となって流れ下る。この滝 (高滝) の岸の上に高滝加茂神社 (旧加茂大明神) が鎮座。もと滝頭にあった巨石に祀られていた神体が洪水によって市原市高滝に流され、同地の高滝神社の祭神となったという。
 
下中邦彦/編 (1996) 『日本歴史地名大系・千葉県の地名』 平凡社
 
この伝承 (特に年代) がどれほどの史実を伝えているかに関しては確かなことは何も云えないが、ここの神社が古くは「加茂大明神」と号していたことと (「高滝」の地も旧「加茂村」にある) 、「房総半島」の南北には「養老川」を介するように「カモ」地名が複数あり (eg. 鴨川市、市原市加茂、南房総市加茂、旧・加茂村など) 、かつて「鴨氏」が割拠した形跡は見られることを併せて考えると、このような伝承もまるで荒唐無稽とは言い切れなくなるのである*。しかも、幸いなことに、「高滝 (市原市) 」と「大多喜町」の「高滝 (粟又の滝) 」の間では、「高滝」の名を巡っての本家争いは起きていない。まあ、どちらも式内論社じゃないし、元宮と云うのが滝上の中之島にあるちっぽけな祠だからね...。
 
* 「高滝」の旧地とされる「粟又」は、隣りの「田代」地域とも一括りにされ、「吉田東伍」も、『大日本地名辞書』の中で、「田代、粟又七村は今夷隅郡に属し、老川村と改む (中略) 高滝郷とも呼ばれたり。山渓の形状より観察すれば、市原郡 (古代海上郡) の域内たること勿論にして、加茂の高滝神は、即此地より現境へ転ぜしめたりと云ひ、由来市原の属なるが、後世夷隅郡ヘ入りたるなり」と記している。一方、 この「田代」には「田代池の大蛇」の伝説がある。この蛇が元々「大多喜」の池に棲んでいたが、その地を「戦国」の「正木氏」の武勇に追われ、「田代池」 「平沢の撲沢池・内梨の滝」と移り渡って、最後は「関平内左衛門」に討たれる (しかも犬頭伝説!!) と云う伝えである。舞台となっているのが、「夷隅川」「養老川」の源流域が交錯する地で、なおかつその地が「市原郡」から「夷隅郡」に編入されたりした過去があること (田代は夷隅郡側の西畑村と市原郡側の田代粟又七村に分割されていた) 、「高滝神社」の奉ずる「加茂神」が「蛇婿入」型の神話で知られる「蛇神」であることなどを併せ考えると、あるいは、この「高瀧神」の遷宮伝説は、この地に於ける過去の勢力の変遷の記憶を留めるものなのかもしれない。
 
要するに、この「高瀧神社」の例からも分かるように、川の流域沿いでは、神社や神様が流されて、他所の地に鎮座するなどと云うことがしばしば見られるのである。どこそこの観音様やら地蔵様やらが流れてきたなどと云う創建伝承を持つ寺院まで入れれば、それこそ結構な数になるだろう。そして、それらの例の中には、その神様を奉祭していた集落が、神様と一緒にまるごと移住したなどと云う場合もあったようである。こんなとき、はたして元宮と新宮で、どちらが本来の神様かと問われても判断に困ってしまうだろう。
 
*
 
「糟目犬頭神社」と「糟目春日神社」の場合は、そもそも、両社がかつて同一のものだったと云う伝承もなければ、そのような認識もないのだから、上に挙げた「高滝」の例とは微妙に違うのは確かである。だが、このような事実が全国に散見され、両「糟目社」にも洪水移転の歴史があるとなると、どちらが本来の「糟目神社」かの議論が錯綜してしまうのは避けられない。何しろ、その上で、身も蓋もないことを云ってしまえば、実はどちらの神社も、自らを式内「糟目神社」だと主張する決定的な史料に欠いているのだから、尚更である。

「彦坂常征」が享保十六年
(1729) に取りまとめた『三河国官社考』に は、式内「糟目神社」に関して「或云重原荘上渡刈村塩指社也、又云青海荘宮路村、犬頭社と」と云う記述が見られ、既に「江戸中期」にはこの二社を式内「糟目神社」に比定する向きが存在したことが知られる。しかし、この所説が果してどの程度普及していたかについては、疑問がないでもない。元文五年 (1740) に成った『三河国二葉松』や、寛政二年迄 (c. 1790) に成立した『三河堤』などの地誌には、『日本文徳天皇実録』『延喜式』に載る「糟目神社」と「犬頭・春日」両神社を関係づける記載は、基本的にはない*。
 
* 『碧海郡誌』 (1916) は、『三河国二葉松』に「糟目神社、渡刈村鹿島大明神」とあると誌すが、筆者は該当箇所を見つけられなかった。あるいは、写本の内の一本にあるのかもしれない。
 
個別に見た場合、式内「糟目神社」を「犬頭霊神」と結びつける (筆者の知る限り) 最初の記述は、上に見た享保十六年 (1729) の『三河国官社考』のものなのだが、『三河国内神明名帳』には二つの別個の社として記された「糟目神社」と「犬頭霊神」を説明的に結びつけたのは、天保七年 (1836) の『参河』にある「上和田犬頭宮に併祭る」と云う一文であろう。『六ツ美村誌』 (1986) によれば、寛政五年 (1793) の「拝殿造立棟札」には、既に「式内糟目神社犬頭大明神」と記されていると云うから、十八世紀の後半辺りから、自らを「式内社」と謳う「糟目犬頭神社」の自覚的な運動が開始されたものと思う。

もっとも、『参河志』は、
「糟目犬頭神社」だけでなく、「糟目神社」と「糟目春日神社」をも、次のように結びつけて考えていた
 
或曰上渡刈村に加須茂と云處あり所の產土神鹿島大明神社領三石神主神谷氏或曰細河渡し西岸に小祠あり是糟目社と云今は汐さし明神と云上古此邊りまで潮のさし來る故に名とす
 
渡邊政香/編 (1836) 『參河志』第三卷、天保七年
愛知縣幡豆郡教育會/編 (1921) 『參河志』自刊、p. 131
 
ただし、『參河志』の編者「渡辺政香」は、「犬頭・春日」両社が、それぞれに式内「糟目神社」と自らを結びつける伝承を持っていることに触れつつも、それらの伝えに対して、明確な自己の考えを持っていたようでもある。例えば、「糟目犬頭神社」の方の伝えには、「後風土記三才図会に依れば、糟目社は延喜以前祭之、犬頭は天正の頃祭之。其首を埋みて社を建るとあれば、新に社を建しにて、古よりある糟目の神社に併祭るとは見えず (句読点、筆者) 」と論じている。より後年「羽田野敬雄」も、『参河国官社考集説』の中で、「当社を糟目神社也と云説あり。されど此帳* に糟目社と犬頭社と別に載たれば非言なるか (仮名・句読点、筆者) 」と述べ、「糟目神社=犬頭神社」説に疑いの目を向けている。

* 『三河国内神明名帳』のこと

これに対して、「糟目春日神社」の方の伝えに関して、「渡辺政香」は、上記引用文の他にも、「又云上渡刈村堤の下にある神祠是なりと云」などと記し、いくつかの異説を唱えた後に、最終的には「糟目神を祭る社数々あり何れ是なるや後世博識の考をまつ」と述べているが、異説の筆頭に「渡刈村」の「鹿島大明神」を挙げていることからも、それを最重要視していることが知れる。

「羽田野敬雄」
は、『参河国官社考集説』において以下のように記し、「糟目犬頭神社」「糟目春日神社」のいずれに対しても、かなり懐疑的だったようである。
 
○按豫天保十年八月。其社地參詣シニ。社地上渡刈村今村間。細川渡シ塲川岸ニアリテ。上渡刈ニテ。鹽指大明神。其棟札糟目神社トアリサレドトハエズ。例祭八月朔日也天明八申八月建タル石燈樓アリ。銘鹽指大明神トアリ又寳曆二年タル石鳥居モアリサレド社地四尺許小社ナリ (中略) 町村守山氏云。上今村ニアリ岸也。トアルト同所ナルベシ。尙ヨクムベシ
 
羽田野敬雄 (1839) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』上卷、天保十年
豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
 
*
 
ここまでに式内「糟目神社」の比定を巡る「糟目犬頭神社」と「糟目春日神社」の争いを概観してみたが、ここらで筆者がはっきりさせておきたいことは、どの社が「式内社」であるかどうかについては、筆者はあまり重視していないと云うことである。何故なら、筆者が興味を抱いているのは、「犬頭霊神」を祀る信仰なのであって、「糟目神社」の比定は当面の目標に含まれていないからである。

ただ、ここまで、二つの「糟目神社」の来歴を概観することを通して、筆者にとって重要な論点が二点、浮上してきたのも事実である。一つは、いったん「持統天皇御幸」伝承の影響を取り払えば、「糟目春日神社」とその地を巡る伝承類が、実際には「鳥狩」伝承に集中している、と云うことである。これは、この後に見てゆくことになる、「糟目犬頭神社」以外のいくつかの「犬頭神社」がみな、「三河の犬頭糸」伝説にあやかって、一般に「養蚕」と関わる神様であると考えられていることを考えると、「糟目春日神社」が、その縁起の基層に「狩猟」文化の名残りを見せていることは、極めて興味深い事象である。何故なら、「糟目犬頭神社」もまた、その他の「犬頭神社」と異なり、その縁起は「養蚕」 色が極めて薄く、著しく「狩猟」伝承に偏った内容となっているからである。この点については、後の節で、より詳しく見ていかねばならない事項である。


もう一つ気づいたことは、これらの神社の縁起には、「国学」の勃興した「近世」より前の時代との間に明白な断絶があると云う点である。これは何も「三河」地域の 「犬頭神社」類に限らず、「国学」の勃興が「尊王攘夷」や文芸・学術上の復古的な「古典主義」化の動きを全国規模で喚起したことは疑い得ないのだから、「糟目神社」の論社認定争いが、各地の同様の争いと時を同じくして、「江戸後期」に盛んになっているのは当然のことである。しかし、それにしても十八世紀より以前の縁起がまったく不明の中、「糟目犬頭神社」が「南北朝期」の創建伝説を語ったり、「平安末期」の『今昔物語集』の説話などと強い類似を見せたり、あるいは、「糟目春日神社」の縁起に「持統天皇」の「三河御幸」伝承が登場したりするのは、筆者としては、何かしら不自然なものを感じずにはいられないのである。

そして、この疑問は、「三河」に鎮座する、もう二つの「犬頭神社」の来歴を見ることで、さらに深まるのである。



4. もう二つの「犬頭神社」

この節の見出しに使った「もう二つの〜」と云う表現が、我が国語として規範的なものかどうかについては、まるで自信のないところだが、実際、筆者の知る限り、「三河」地方には「犬頭神社」と呼ばれる (呼ばれた) お社が、少なくとも後二つ存在するのである。以下、それぞれについて、簡単に見てゆくこととする。

1) 「豊川犬頭神社」
 
豊川犬頭神社01
「豊川犬頭神社」
NET-PLAZA
「犬頭神社犬頭神社の大クス 豊川市」より
 
ここまでは、『延喜式』神名帳に記された式内社「糟目神社」に比定される二つの神社を見てきた。そして、その過程で、図らずも「渡辺政香」がその『参河志』 の中で、「犬頭神社」が「糟目神社」と併せ祀られたと記している記事に出くわした。しかし、その際に触れなかった事実に、その同じ記事が、「糟目犬頭神社」の縁起である「飛犬頭」伝説のみならず、『今昔物語集』巻二十六に第十一語として収められた「犬頭糸」伝説にも触れていると云う事実があった。

そこで、まず、『今昔物語集』に載せられる「犬頭糸」の話を紹介しておこう。原文がやや長いのと、所々に脱字や意味不明の部分があるため、ここでは筆者の要約を載せることを許されたい。
 
参河国に犬頭糸を始むる語
 
昔、「三河国」の郡司は二人の妻に養蚕をさせていたが、どうしたことか本妻の飼っていた蚕がみな死んでしまったため、夫も愛想を尽かし、本妻の家は困窮していった。ある時、桑の葉に一匹の蚕がついているのを見つけ、飼うことにした。この家ではその頃、一匹の白犬も飼い始めたのだが、この犬が蚕を食べてしまった。蚕一匹のために犬を打ち殺すべきでないと、ただ泣き悲しんでいると、くしゃみと共に、犬の鼻の穴から二本の糸が出てきた。引いても引いても糸は出てきて、ついには四五千両ばかり巻き取ったとき、糸はようやく巻き尽くされ、犬も倒れて死んだ。これは仏の助けだったに違いないと思った妻は、桑の木の根元に犬を埋めた。たまたま夫が訪ねてくると、荒れた家に一人、妻だけが大量の糸を扱いかねて座っていた。話を聞いた夫は、仏の加護がある人を粗末にした自分を悔い、それからは新しい妻のところには通わずに、元の妻の家に留まった。犬を埋めた桑の木にはびっしりと蚕がつき、素晴らしい糸が採れた。そのことを国司に伝えると、国司はこれを朝廷に報告したので、以降、犬頭と云う糸を三河国から献納することになり、この糸で天皇の衣服が織られたと云う。
 
参照・作者未詳 (c. 12C前) 『今昔物語集』卷第二十六
「參河國始犬頭糸語」第十一

森正人/校 (1996) 『今昔物語集・五』新日本古典文学大系 37、岩波書店、pp. 51-53
 
この説話について、『碧海郡誌』は、次のように記している。
 
犬頭絲の物語
參河國は上絲國なりき。今昔物語に犬頭絲の物語載す。本郡六ツ美村に犬頭犬尾の兩神社あり。又矢作町の里間に古來此の犬頭絲の物語を傳承せり。(中略)
此の物語今昔物語に參河とあれど何れの郡なるか明ならず只だ本郡に於て此の事を傳へ又犬頭神社と稱するあるを見れば何かの因緣あるにや興更に多し。

 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、pp. 811-813
 
ただし、「三河」の「犬頭神社」として最も知られた「糟目犬頭神社」の縁起では、この由緒ある「犬頭糸」の説話にまったく触れていない。これについて、現在の郷土史関係者たちは、あまり注意も向けず、単に「違う」と云う事実を受け容れ、「糟目犬頭神社」と「犬頭糸」説話との関係を深く追及、あるいは考察する姿勢を見せていないことが多い。しかし、上記のように「渡辺政香」が、「糟目犬頭神社」の「飛犬頭」譚を紹介するのに並べて、『今昔物語集』の「犬頭糸」譚も紹介することを通して、早くも十九世紀の前半期に、
「糟目犬頭神社」の縁起譚を歴史化しようとする意欲を見せていることを考えると、現代の我々の姿勢は怠慢の誹りを受けたとしてもやむを得ない。

「渡辺政香」の考えを代弁するならば、要するに「三河」と云う極めて狭い範囲に「犬頭」と云う全国的に見ても極めて稀な社号や伝えを持つ神社があることと、『今昔物語集』に「犬頭糸」伝承と云うものが「三河国」に伝わるものとしてと記されている事実は、ただの偶然では片付けられない因果関係によって結ばれている可能性が高い、と云うことなのだろう。そして、もしもこの伝えと
糟目犬頭神社」との間に、元々は密接な関わりがあったとするならば、それが「平安末期」の物語集に採られている以上、その関係の方が、「近世」の書誌以降にしか散見出来ない、現在に伝わる「飛犬頭」譚型の縁起よりも本来的なものだと云うことになる、と云う主張なのだろう「渡辺」よりはわずか後に活動を開始した「羽田野敬雄」も、おそらくは同様の意図を以て、「糟目犬頭神社」の縁起の時代的な安定性の欠如を重視しているものと思われる。もちろん、「近世期」から「明治初期」の著述家と云うのは、筆者のような駄弁は弄さず、極めて簡潔な紋切の漢文調で筆を運ぶため、以上のことを上に挙げた二人が明確にその著作に述べている訳ではないが、敢えて筆者がここで得意の駄弁で言葉を補ったら、こんな感じではなかろうか、と云う程度の話ではある。

ところで、
「糟目犬頭神社」と「犬頭糸」伝承との関係については、以上のような傍証を通しての疑問を通じて論ずることしか出来ないが、「三河」には、この伝説と直接関係のあるとされる神社が、今も確かに存在しているのである。その社は、「豊川市千両 ちぎり 町糸宅 いとげ 」の「佐奈川」べりに鎮座しており、その社名もまた「犬頭神社」と云う。「羽田野敬雄」の『三河国官社私考 (三河国官社考集説) 』下巻に、「○宝飯ノ郡兎渡ノ庄千草郷下千両村産土神ニモ。犬頭大明神ノ社アリ」と書かれた神社である。

この「犬頭神社」への道のりは、どこから行くかによって異なるのは当たり前なのだが、とにかく「豊川市内」で、県道21号・豊川新城線に乗り、「千両町」の信号で県道334号・千万豊川線に入って北上するばかり。「豊川インターチェンジ」からならば、「本野町東浦」で県道334号に入るルートになるだろうか。後は、九百メートルほど北に進んで、左にJAや消防団の建物のある一角を左に曲がると、その先に神社の杜はある。地理的には、「佐奈川」と「水久保川」の合流する地点のわずか南に辺り、「佐奈川」対岸には「曹洞宗」の「善秀寺」があり、その裏山には「熊野神社」が鎮座している。神仏混淆時代には、これら三つの寺社は、互いに互いの別当だの鎮守などを務めていたことだろう。

それにしても、『今昔物語集』に載っているのが地元の伝えだともなれば、これが大きく取り扱われないはずはなく、「三河」の郷土誌関係の書籍を手にすると、これとほぼ同じ話が、より具体的な固有名詞などを含んで伝えられていることを知ることになる。例えば、『愛知県の歴史散歩・下』 (愛知県高等学校郷土史研究会、1992; 187) では、『今昔物語集』と基本的に同じ物語だが、匿名の郡司が「 (国司) 門野経時」になり、無名の「白犬」も「源九郎」と云う立派な名前を与えられている*。登場人物の具体名は登場しないものの、同様の説話は、他の書籍にも多く見られる (豊川市史、1973; 132- 133/ 豊川市教育委員会、1977; 72-75 /豊川の歴史散歩、1993: 130-131 / 滝川、1996 / 豊川信用金庫、1998; 24-28 etc.) 。
 
* この「門野経時」「源九郎」伝承の文献上の初見がいつになるのか、現在、調べている最中である。「愛知県立図書館」からは、これらの名前が載るのは『愛知県の歴史散歩・下』旧版 (1992) のみで、同書の新版 (2005) にも、同館所蔵の他書にも記載はないとの回答を得ている。
 
しかし、「門野経時」の名前はさて措き、「源九郎」などと云う明らかに「近世」的な名前のついた犬の存在から判断しても、流石にこれらの言い伝えの方が、「平安末」に成ったとされる『今昔物語集』よりも古いものとは思われない。したがって、どちらかと云わずとも、これら地元の伝承の方が、後々、『今昔物語』に載る話を元に、より具体性を持たせた形で再創造されたのではないかとは思う。

伝説は別として、実質的な産物としての「犬頭糸」の由来については、地元の郷土史家「
豊田珍比古」が、その著『東三河郷土雑話』 (豊橋新聞社、1961) において、「東三河は平安朝時代から屈指の蚕業地で、上質な繭糸、精巧な絹布を産することで有名であった。犬頭糸の名で朝廷の御用に備えるとともに、大嘗会の御用となり、赤引糸の名で、伊勢神宮の神衣祭の御料になった」と簡潔に述べている。『碧海郡誌』にも次のように紹介されている。
 
犬頭絲は其色雪の如く白くして美麗なりしかば、每所蔵人所に納めて天皇御召服の料に供し奉り、又赤引絲は其質善良なりしを以て伊勢の皇大神宮に献じて神服の御料に供し奉りしこと古史に明かなり。
 
愛知縣敎育會/編 (1916) 『碧海郡誌』自刊、p. 567
 

「三河国」は、『延喜式』巻二十四「主計寮上」では既に、「十二国並上糸」に入れられ、古くから優れた養蚕地として知られていたことは間違いない。『延喜式』には、さらに、「凡貢夏調絲者。 (中略) 參河二千絇。 犬頭絲。  (中略) 竝七月卅日以前納訖」と云う記述や、「參河國 (中略) 調、襷羅、藻羅各一疋、一窠綾十五疋、二窠綾五疋、犬頭白絲二千鉤」という記述が見えるが、これらが歴史上の「犬頭糸」の初見である。要するに、『延喜式』によれば、「三河」は「犬頭糸」と云われる上質の生糸の名産地で、十世紀には既にその糸を「調」として朝廷に貢納していたのである。

さらには、十二世紀に書かれた「平信範」『兵範記』仁安三年 (1168) 七月六日条には、後の「碧海郡」地域の大部分を内包する「碧海荘」は、仁安三年 (1168) 以前に「三条女御 (鳥羽天皇女房・斎宮研子母、保延四年没) 」所領として立券され、「犬頭糸」六十勾を年貢としたが、これは「三河国」からの進上分四百勾の内であったから、国司からの貢進分は三百四十勾となっている旨が記され、引き続いて七月七日条には、「犬頭糸」が天皇の衣服を織るのに用いられたことも記録されている。念のため、原文を下に記す (訓読点は筆者が私に付したものなので、あまり信頼されないように....) 。
 
六日乙未  (中略) 參河糸解文、藏人信廣申-上犬頭絲解文二通、下官取之先内覽、次持-參奏聞、次啓皇太后宮御方、件絲自參河國衙一向調進四百勾惣數二千兩、勾別五兩定、近年以後三條女御々領碧海庄立券之中被此所出、仍彼庄分進六十勾、國領分進三百四十勾、仍解文有二通也、年中御服用途大略申入宮御方
 
七日丙寅 内裏御遊具於清凉殿東庇佳例、被
於東庭、乞巧奠如例、藏人基光奉行於桂芳坊御服犬頭糸織女例、白河殿御節供、家司左衞門佐信基調-進
 (太字・筆者)
 
平信範 (1168) 『兵範記』仁安三年七月七日条
増補史料大成刊行会/編 (1975) 『増補・史料大成 20』臨川書店
 
また、元弘三年 (1333) の『内蔵寮領等目録』には、「碧海荘」の年貢として「犬頭糸」七十七両 (五両で一勾) と銭二百文を納めた、ともあるので (宮内庁書陵部所蔵文書/新編岡崎市史 20) 、少なくとも「中世期」には、「犬頭糸」と云えば、「三河」の特産品として、一定の知名度を誇っていたようなのである。

一方、「犬頭糸」伝説の方もまた、独自の普及・展開を見せていたようで、十五世紀には、この伝説が独立した絵巻物の形で流布していた形跡が残されているのである。
『看聞御記』の永享六年三月二十四日条には、以下のように、他二つの絵巻物と並んで、「犬頭糸の絵」が、門外不出の秘蔵品として挙げられている。
 
廿四日 (中略) 寳藏繪三卷 粉河觀音繪。書寫上人繪。犬頭糸繪。見參。此繪有子細軒外。雖然依召-進

私訓】宝蔵の絵は三巻 (粉河観音の絵・書写上人の絵・犬頭糸の絵) 、見参に入る。此絵は子細有りて軒外に出さず。然か依ると雖へども、之を召進す。
 
伏見宮貞成親王 (1434) 『看聞御記』永享六年三月二十四日条
塙保己一/編 (1980) 『続群書類従・補遺二下』訂正三版、続群書類従完成会、p.193
 
残念ながら、この「犬頭糸」の絵巻は、現在までに完全に散逸してしまい、その内容を知ることは不可能になっているが、筆者は、この絵巻の内容は基本的には『今昔物語集』と同工のものでありつつ、一方で、これが現在、「三河」地域の二つの「犬頭神社」に伝わる「犬頭糸」伝説と関わりがあるのではないかと、推測しているのだが、このことについては、また後ほど触れることとする。
 
*
 
ここからは完全な余談ながら、せっかく「犬頭糸」の話が出たのだから、「豊田」氏も挙げていた「三河」特産とされるもう一つの絹、「赤引糸」のことにもを少々触れておこう。

「犬頭糸」と並び称されるほどであるから、当然、「赤引糸」についても、古い来歴が知られている。実際、その史料上の初見は、「犬頭糸」よりもかなり古い。『日本書紀』
持統天皇六年 (692) 閏五月丁未 (十三日) 条に「○伊勢大神奏天皇曰、免伊勢國今年調役。然應其二神郡赤引糸三拾伍斤來年其代 *」とあるのが最古の記述であろう。ただし、ここには産地が「三河」であるとの言及がなく、文面を読む限り、むしろ「伊勢」の産である印象が強い。
 
* 「伊勢国の今年の調役免したまへり」の部分は、同三月十七日条に「神郡、及び伊賀・伊勢・志摩の国造等に冠位を賜ひ、并て今年の調役を免し」云々と見られる調役免除のことだと思われるが、それ以下は、「度会・多気」の両神郡の「赤引糸」も貢納を免除されると、四月に行なわれる神宮の「神衣祭」に必要な量も確保出来なくなるので、三十五斤は徴収するが、その代わりに来年の調庸からこれに相当する分を免除したい、と云う内容を、「伊勢大神」の神託に託して神官たちが上奏した、と云う意味だと思われる。日本古典文学大系本、参照。
 
そこで、「赤引糸」を「三河」の産物と明記した最古の史料は何かと問うと、それはおそらく
貞観十年 (868) 頃に成立した令集解』の以下のくだりだと思われる (飽くまで筆者の素人判断で...) 。

謂。伊勢神宮祭也。此神服部等。齋戒潔清。以參河赤引神調絲。織-作神衣。又麻績連等。績麻以織敷和衣。以供神明。故曰神衣。釋云。伊勢大神祭也。其國有神服部等。齋戒淨清。以三河赤引調糸。御衣織作。又麻績連等。麻績而敷和御衣織奉臨祭之日。神服部在右。麻績在左也。敷和者。宇都波多也。此常祭也。古記无別。 (太字・筆者)

惟宗直本 (c. 868) 『令集解』卷第七
「神祇令天神地祇條」孟夏・神衣、貞観十年頃


この他にも、「大林卯一良」氏は、その『三河絹の道』 (東海日日新聞社、1992) の中で、「伊勢神宮」の古文書に、「三河地方」から「赤引の糸」が奉献された記録があると記しているが、これは、十三世紀初め (鎌倉初期) に成立したと考えられる『神宮雑例集』巻二に、「任式條三河國神調赤引御絲。可神御衣由所言上也」と記され、「三河国」の「赤引糸」が「伊勢神宮」の「神御衣」を織るのに使われたことが記されていることを指しているものと思われる。

いずれにせよ、『
令集解』や『神宮雑例集』に限らず、「赤引糸」の産地を「三河国」とする信頼すべき史料は多く (eg. 『貴嶺問答』『公事根源』) 、「三河」がその主産地だったと云うことは動きそうにない。しかし、延文五年 (1360) の『神鳳鈔』には、「尾張国」で「赤曳糸」を産したとも記されており、あるいは「赤引糸」と云うのは、特定の産地に限定された蚕糸ではなかったのかもしれない。「芝山宗太郎・野村彦太郎」の『日本蚕業史』 (1893) には、その書の執筆時、「福島県下岩代国」で「赤引種」と云う蚕の品種があることも指摘して、「赤曳といへるハ地名にあらずして美麗なる染糸をいふなるべし」と述べている。両氏はさらに、「祝詞式に明妙、照妙 あかるたへ とかけるを見てもしるし又儀式帳に赤曳糸を明曳糸ともかけり年中行事に赤良曳荷前御調糸とあるをみても地名にあらざるが如し」と述べている。前記文中の「儀式帳」とは、延暦二十三年 (804) の『止由気宮儀式帳』中の「六月例」における「次大神宮司、次多気度会二箇神郡所進 明曳 調糸乎、内人等持立」とあるのを指すのであろうが、「年中行事」とあるのは『建武年中行事』のことなのかは、確認出来ていない。

ちなみ
に、「大林」氏は、上掲書にて、「赤引糸」を「青く光りある糸」と述べているが、この典拠としている『日本蚕糸史略』と云う書に就いては、確認出来なかったが、次田潤」も『祝詞新講』の中で「赤引の糸というのは、光艶がある糸の意で、絹糸のことである (次田、1927; 434) 」と述べているから、「青く」の部分は措くとして、光沢のある絹糸と云う点では当たっているのかもしれない。ただし、『日本書紀』の日本古典文学大系本は、「赤引糸」を「あからひきのいと」と訓み、その注で「アカラヒキは赤い色を帯びているの意」としている。大系本は、「赤引糸」の異称「赤良曳荷前御調糸」 (典拠、示さず) を挙げ、「あからひき」の訓みと同時に「赤い糸」の意の根拠としているが、これは既に見たように、「赤引糸」の場合、「アカ」が「赤」と云うよりは「明」を意味する用例がいくつか見つかっている以上、それを「あか」と訓もうが「あから」と訓もうが、説得力は低い。
 
*
 
さすがに余談が過ぎたので、この辺りで、「豊川犬頭神社」の話に戻ろう。


現在、この神社に関しては、『今昔物語集』に載る「犬頭糸」伝説とほぼ同じものが地元に伝えられているのは、既に見た通りである。
ただ、この伝説の来し方については、やや不確かなことがある。「糟目犬頭神社」の縁起については、まだあまり詳しく見ていないが、こちらの話も、時代設定が「南北朝期」だったり「戦国末」だったり、伝説の主人公の名前が異なったり、極めて不安定な伝えなのだが、少なくとも「忠義な犬」型の説話の原型は、「近世期」には確立されていた気配がある。それに対して、「豊川犬頭神社」の縁起として語られる『今昔物語集』以来の「犬頭糸」型の説話の原型が出来上がったのはいつの時代なのか、まったく手掛かりがないのである。「近世期」の地誌類にも、「犬頭神社」と「犬頭糸」説話を直接結びつけて触れているものを筆者は見つけられないでいる。

地元の郷土史関係の書籍を渉猟すれば、きっと「犬頭糸」伝説がいつ、「犬頭神社」の縁起譚として定着したのかを推測するに足る情報が出てくるものと思えるが、筆者が今すぐ思いつく限りで、最も古い資料は、昭和五年 (1930) での「柳田國男」の証言である。

「柳田國男」は、論考「海神少童」の中で、ここの神社の伝承について、興味深いことを述べているのだが、その過程で、論考の執筆時には、現在の「豊川市千両」の辺りには「犬頭糸」伝承があったことを確認している。しかし、それに引き続いて「柳田」は、興味深いことを書いている。
 
三州寳飯郡八幡町の千兩大明神は、又の名を犬頭宮とも稱へて、昔ある正直な女の爲に、鼻から多くの絹糸を出したといふ靈犬の故跡と認められて居たが、今から百年ほど前に或學者が其地を訪ひ、故老に就いて尋ねて見たところが、所謂犬頭糸の由來は痕形も無くて、ただ浪人が此里を開いた時に、その飼犬に金を糞するものがあつて、毎年得る所の黃金が千兩であつた。故に又千兩 ちぎり といふ村の名が出來たと語つて居たさうである (神祇全書卷四) 。 (下線・筆者)  
  
柳田國男 (1930) 「海少童」
萩原正德/編 (1930) 『旅と傳說』三元社、p. 67
柳田國男 (1998) 『柳田國男全集 6』筑摩書房、p. 304
 
ここで「柳田」が「今から百年ほど前」の「学者」と云っているは、本記事にも既に何度も御登場頂いている「羽田野敬雄」のことであり、言及されているのは『
三河国官社私考』における、以下の彼の聞き書きだと思われる。

○天保五年 (1834) 二月廿八日。豫此ノ社ニ參詣テ。其ノ村人ニ問ヘルニ古老ノ云傳ヘニ古ヘアル浪人體ノ人來テ。此ノ村ヲ開發セシトキ。其ノ人犬ヲ連レ來レリ。然シテ其ノ犬金ヲ糞ス。其ノ金每年千兩アリ。故村ノ名ヲ千兩ト號ク。其ノ犬死テ埋メタル所ニ社ヲ建テ。犬頭大明神ト號ス。
(中略)
其社地邊ノ字ヲ糸家ト云其南一丁許ニ字ハチギリト云畠アリ石アリ手ヲフルレバタヽリヲナストイヘリ。

 

羽田野敬雄 (1843) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』下卷、天保十四年
豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
 
これに対して「柳田」は、次のように述べて考察している。
 
昔話は一所不在に流傳するものであつたけれども、やはり何等かの因緣ある土地だけには、引掛つて殘る傾向を持つて居た。是が三河の犬頭の宮などに、第二の犬の傳說が入替つて居た理由であるらしい。卽ち住民は曾て靈ある犬の說話を聞知つて、それを稍忘れかけて居た所であるが爲に、比較的多くの注意を、次に來るものに拂つたとも考へられるのである。
 
柳田國男 (1930) 「海少童」
萩原正德/編 (1930) 『旅と傳說』三元社、p. 68
柳田國男 (1998) 『柳田國男全集 6』筑摩書房、p. 305

ここの部分は、短いくだりながら、実は至って難解な文章となっている。その最たる要因は、「柳田」の云う「三河の犬頭の宮」と云うのが、「糟目犬頭神社」を指しているのか、「豊川市」の「千両犬頭神社」を指しているのか、はっきりしない点にある。これがはっきりしないと、「柳田」が言及している「第二の犬の伝説」と云うのも、いわゆる「忠義な犬」型の「飛犬頭」伝説のことなのか、それとも「金の糞をひる犬」の話なのか、あるいは「犬頭糸」型の説話のことなのかさえ、まるで分からなくなってしまうのである。

もし仮に前者だとすると、「柳田」は、「糟目犬頭神社」の縁起譚は、現在の「飛犬頭」譚に落着する前は、「豊川犬頭神社」と同様に、『今昔物語集』系統の「犬頭糸」伝説を伝えていたと考え、しかる後に「第二の犬の伝説」としての「飛犬頭」説話が置き換わったものと見なしているかのように受け取れるのである。

しかし、逆に、後者だとすると、今度は、「柳田」が「豊川犬頭神社」の縁起譚のうち、いずれが先だと考えていたかがはっきりしないために、彼の考察にも二つの可能性が生まれてしまうのである。第一のものは、通念通り、「犬頭糸」型の説話が古い層だとして、その上に被さった「第二の犬の伝説」は「金の糞をひる犬」譚と云うことになる。反対に、第二の可能性は、地下 じげ で語られていた「金の糞をひる犬」譚の方が基層を成しており、「犬頭糸」型の説話が「第二の犬の伝説」として、後から混入したと云うことになる。

ただ、上記引用文の直前まで、数頁に渡って、「金の糞をひる犬」の話をしていたため、素直に考えれば、「柳田」の意図は、「豊川犬頭神社」の縁起譚を、元は『今昔物語集』に見られるのと同系統の「犬頭糸」譚だったものの、その記憶が薄れるに従って、また別の犬の霊異譚としての「
金の糞をひる犬」譚を受け容れるに至った、と見なしていると理解するのがよいようである。また、 (ここまで柳田は示唆していないのだが) このように考えた時、「糟目犬頭神社」の縁起譚に関しても、かつては「犬頭糸」型の説話が語られていたが、ある時期から「飛犬頭」譚に置き換わってしまったと、すなわち、「三河国」にはかつて「犬頭糸」を巡る信仰が一定の地理的な広がりを持って広まっていたが、後に、それぞれ固有の理由で、別々の伝承へと発達したのだと、両者の間に齟齬なしに考えることが可能になるのである。

しかし、筆者は、残念ながらこの解釈には、あまり賛同していない。さして深い根拠とてないので、極めて恐縮なのだが、筆者の考え方は、同じ「三河」と云う限定的な範囲に、「犬頭神社」と云う、全国的に見てもかなり稀な名の神社が複数存在する以上、それらの間に何かしらの関係があるものと見なすのが自然だ、と云う一点の理解に基礎を置いている*。
 
* 実際、「三河」に限らずとも、全国にどれだけ「犬頭神社」と云う名の神社があるかを調べれば、筆者の前提の正当性が理解されるだろう。「近江」地方には、「犬上氏」にまつわる「犬上神社」に絡んで、「犬頭」と表記して「いぬがみ」と訓ませる神や社をわずかだが見ることが出来るが、それ以外では、「神奈川県平塚市」の「諏訪部神社」に「犬頭霊神」が分祀されているものくらいしか筆者は知らない。だが、これとてこの地が「小田原・大久保氏」の領地であり、そのために一族の発祥の地である「碧海郡・六ツ実村」 (現・岡崎市) の「糟目犬頭神社」から分霊を請うたものなのである。そもそも、「三河」の「犬頭神社」群とは基本的に無関係だと目される「近江」の「犬上神社」群でさえ、一部に「飛犬頭」縁起と云う類似した伝承を有しているものがあるのだから、同じ地域内で「犬頭」などと云う変わった名前を冠しておきながら、互いにまったく関係がないと云うことはなかなかあり得そうにはないのである。
 
もちろん、ここまでは前々段落において述べた考え方とも基本的には通じているのだが、その後の変容の様態に対する推測が少し違うのである。要するに、ただ単に木に竹を接ぐように、新しい層の伝承が、古層の上に、覆い被さったと見なすことに少なからず疑問を抱いているのである。

そして、この疑問の核心を成すのは、ただ「変わった」と云うだけの姿勢では、その変化・変容の複雑な諸契機や諸様態について、何ら汲むところがないと云う思いなのである。筆者はむしろ、分析の第一段階としては、変容の契機と、それを可能にした諸要因を検討する中で、仮に「犬頭糸」譚からの変容があったとしても、はたしてこの「犬頭糸」譚が、複数存在する「三河」の「犬頭」譚の基層を成すものなのか、それともこれ自体にさらに復元や推測の可能な古層を探ることが出来る性質のものなのか、と云うことを追及すべきだと感じるのである。そして、もしもこの考察を通して、より古い層を探ることが可能だと云うことになれば、逆に、「犬頭糸」譚を、現在流布する「三河」の諸々の「犬頭」譚よりも本質的に古い層を成すものだと前提的に考えること自体が、分析上の手続きとして偏向してはいないか、と云う新たな疑問を提示していかねばならなくなるのである。

同じことを、別の言い方で表現しよう。単純に見れば、今のところ見てきた、「三河」に鎮座する二つの「犬頭神社」は、伝承上、互いにまったく無関係な体をなしているのであるが、この事実を筆者は、ある種の驚きを持って受け止めている。そして、その事実を通して、特に二つの点に自らの注意が強く引きつけられるのを禁じ得ないのである。一つは、その一見した相違にも関わらず、両者に共通する基層の部分は、「犬頭糸」譚以外にあるか、と云うことであり、もう一つは、逆に、何が二つの神社の縁起をまるで異なるもののように見えるまでに分離させてしまったのか、と云う点である。

もちろん、これらの疑問は、元々、二つの「犬頭神社」が同じ源から発していると見なすと云う前提の上に立っていることは忘れていない。しかし、逆説的に云えば、同源であると云う前提に立って、そこから発生する様々な疑問に真摯に立ち向かっていけば、その理論的な営為がどうにもならぬ袋小路に入り込んでしまったとき、それは筆者の立脚点としての前提が間違っていたと云うことの何かしらの証明にはなるだろう。

ここでは、以上のような問題意識を持って議論を発展させていくことになるのだが、さらに話を進める前に、筆者には、一つだけ小さな仕事が残されている。それは、最後に残された、三つ目の「犬頭神社」について概観しておくことである。

 
2) 「旧・桑子神社」—犬頭大明神
 
白鳥神社・熊野森03
「白鳥神社・熊野森」
original photo by masaki
 
『今昔物語集』に見られる「犬頭糸」伝説の 「犬の頭」を祀ったとされる神社が、実は、上に見た「豊川市千両」の「犬頭神社」の他に、もう一つ「三河」の地には存在した。その神社は、東海道本線「西岡崎」駅から北に徒歩で六、七分、「岡崎市大和町」の「妙源寺」北、字「宮地九番地」の地に鎮座していた。かつては「碧海郡桑子村」と云ったこの地の鎮守であったため、「明治期」には「村社・桑子神社」となったが、それ以前は一般に「犬頭大明神」として通っていたとされる古社である。

ただし、残念なことに、この古社に関する史料等については、「明治初期」の火災ですべてが焼亡してしまっており、さらに、昭和二十一年 (1946) 二月には、同じ町内 (字平野) の「白鳥神社」に合併されてしまったため、この神社に関する文献資料は一切残されていないと云う。当然、神社そのものも、いまはもうその旧地にはない。分かっていることは、祭神が
「木祖神 (=久久能智神) 」だと伝えられることと、上記の合併のことだけである。したがって、現在の「白鳥神社」および「岡崎市役所」は、旧「桑子神社」の由来については不詳である、と云う立場を採っている。社頭石碑にも、次のように誌されている。
 
社碑
 (中略)
由緒
大正四年四月御祭神伊弉那美命の熊野神社へ御祭神日本武尊の白鳥社が合併され白鳥神社と改称された
昭和二十一年二月御祭神木祖神配祀市杵島比賣命の桑子神社が合併になり現在の白鳥神社となる
熊野神社の由来については不詳である 白鳥社は往古日本武尊東征の折御駐軍の地で尊の三世の孫大荒田命の後裔が父祖の神霊を奉齋したと傳えられている
桑子神社の由来も不詳である
(中略)
白鳥神社社務所
 
社頭石碑より
 
地元に伝わる口碑によれば、「桑子神社 (犬頭神社) 」は、その社号からも察せられる通り、「養蚕」の神様だったとされ、この地がかつて「矢作川」の自然堤防を利用して「養蚕」を盛んに行なっていたことに関係するものと考えられている。「三河」の地は、「古代」、極めて優秀な生糸産地として知られており、この地で生産された絹は、朝廷や「伊勢神宮」に物納されたと伝えられているのは、「千両・犬頭神社」の項で見た通りである。しかし、文献上は、『碧海郡誌』の云うように「其の創始年歴を詳にせず。桑子の村名また詳ならず。或は桑蚕なりし云ひ、或は桑椹なりし云ふ (ibid.; 174) 」と云うのが実態である。

この神社は、文献記録も残らず、神社自体が近隣の神社に合併されてなくなってしまっているとは云え、その跡地は、幸運にも、比較的良好な状態で残されているのである。何故、この地ばかりが宅地化もされずに残されたのかについては詳しくは知り得ていないのだが、とにかく、その地は今も「桑子児童遊園」と云う名の公園として残り、市民の憩いの場となっている。
 
桑子児童公園
写真 1.「犬頭神社跡地」の「桑子児童遊園」

桑子神社跡地01桑子神社跡地・石碑
写真 2.
「村社 桑子神社」石柱      写真 3.「桑子神社趾地」碑

桑子神社跡地02
写真 4.「社殿基壇跡」
桑子神社跡地・犬頭石
写真 5.「犬頭石」
 
写真 1., 3.-5.
ブログ『深爪 ON THE NIGHT
「さんぽ《西岡崎編》その1」より
写真 2.
ブログ『リミッターのある生活って
「桑子神社 (跡地) 」より
 
この跡地には、上掲写真を見ても分かる通り、神社のうわものとも云える狛犬や灯籠、社殿類を除けば、逆に、ほとんどすべてのものが残っている感さえある。中でも、「桑子神社趾地」の石碑の立つ石組みの立派な基壇の後ろに、一回り小さく、わずかばかり高い石壇が残されており、その中央に据えられた一つの自然石は、大切な信仰の遺物である。この石は「犬頭石」と呼ばれ、基壇の配置から判断して、かつては拝殿後ろの本殿内陣に秘蔵されていた御本体だったのではないかと思われる。この辺りのことは、文献史料が一切ない以上、昭和二十一年以前の状態を明瞭に記憶している古老を探すしかないのだが、一介の訪問者には、そう都合よく地域の歴史伝統に詳しい老人に出会えるはずもない。

この「桑子犬頭神社」の信仰については、いまだ往時のことをよく覚えている人々が多くいたと考えられる昭和四十年代に、『名古屋タイムズ』と云う、いまはもうない (2008年休刊) 懐かしの地域夕刊紙にちょっとした記事が載せられていた。詳しくはないが、簡潔に「桑子犬頭神社」のことに触れ、肝心要の「犬頭石」についても説明を残してくれている。
 
岡崎市大和町に、桑子神社というのがある。同じ町内の白鳥神社に合祀され、碑をとどめるにすぎないが、かつては独立した社としてあり、元の名を犬頭神社と呼んだ。その桑子神社のもとあった場所——現在は遊園地になっている——には、伝説の犬が死んで石になったといわれる ”犬頭石” が残っている。この石にさわるとオコリになるといわれた。むろん、それを信じる人は、今はいない。また生糸の産地であることも、いまは昔かしの物語である。
 
黒部節子 (1972) 「東海のロマン——白糸奇譚」
『名古屋タイムズ』昭和四十七年 (1972) 三月十八日
 


実は、この記事の脱稿後に、「大正天皇」即位記念事業として計画されたまま、ついに刊行されることのなかった「幻の『矢作町誌』」に「桑子神社」に関する記事があると聞き、方々、調べてみると、この郷土誌の書は、編纂委員の「鈴木徳松」氏によってまとめ清書されていたものが、平成九年に『大正版・矢作町誌』として覆影版が刊行されていると云うことであった。この中の「桑子神社」の記事を読むことで、ここまでに筆者が述べたことの一部が妥当性を欠くことも判明した。しかし、全文を書き直す時間的ゆとりが現在筆者にないことと、訂正を要する内容と云うのが些細なことであると云う事情も合わさり、また、「桑子神社」に関する古い文献が他に残されていないと云う文献史上の重要性をも鑑みて、ここでは以下、『大正版・矢作町誌』の中の「桑子神社」の記事を転載することで、全面的な書き直しに代えさせて頂きたい。途中、『今昔物語集』の「犬頭糸」説話を引用した箇所は省いた。
 
桑子神社 桑子字宮地 境内八畝歩 民有地 境外所有地八歩
     祭神 木祖神  配祀 市杵島比賣命
     末社 稲荷社 保食神
当社ハ往古ヨリ犬頭神社ト申シ現在地ニ鎮座マシマセシガ社殿焼失ノ為メ字沓市場ヘ御遷座申シタリシガ明治八年十一月十九日村社確定ト共ニ社号ヲ桑子神社ト改称シ九年二月現境内ニ遷ス
本社傍ニ一ノ靈石アリ世ノ人犬頭石ト云フ以前ハ妙源寺地内太子堂ノ西北ノ方ニ犬石ト云ヒテ往古ヨリ地上ニ石面出テタリ人此石ニ觸ルレバ忽チ瘧病ニカヽル依テ俗ニ一名ヲ瘧リ石トモ称ス是レ全ク犬塚ノ石ナリ明治維新トナリ神佛混交ノ許可ナキニヨリ字宮地神地境内ニ移セシナリ大正三年拝殿ヲ新築ス (中略)
稲荷社ハモト北組郷中ニアリシガ明治八年当境内ニ移シ仝四十二年社殿ヲ改築シタリ
 
鈴木徳松/編 (c. 1925) 『大正版・矢作町誌』自筆本
覆影版 (1997) 岡崎地方史研究会、pp. 307-308
 


この石にさわるとオコリになる」と云う伝えは、「堀田吉雄」の『東海の伝説』にも、「おこり石」と云う見出しのもと、「今の桑子社は、もと犬頭社といわれ、犬頭石というのがあった。この石にさわるとおこりにかかるといった」とあり (堀田、1973; 85) 、かつてはよく知られた伝承だったようである。しかもこの伝え (迷信) は、実は「豊川犬頭神社」の社地辺ノ字ヲ糸家ト云。其南一丁許ニ、字ハチギリト云畠アリ*。石アリ。手ヲフルレバ、タヽリヲナストイヘリ (句読点、筆者) 」と云う「羽田野敬雄」が『三河国官社私考 (三河国官社考集説) 』下巻に注記した伝えとまったく同じであるとさえ云え、両社の信仰の間に、何かしらの行き来があったことが想像される。
 
* 字ハチギリト云畠---この部分は、どこで区切って読むかによって、その示唆する内容が大きく変わることになる。先入観を持って読めば、これは「字は、ちぎりと云う畠」と云うことになるが、一般に土地の名を云うときに、「字」の後に助詞の「は」を入れることは稀であるため、素直に読めば、この部分は「字はちぎりと云う畠」と云うことになる。字が「はちぎり」となれば、これは「鉢切り」とも解釈出来、この地にかつて「犬の頭を斬り放した」と云う内容の伝説があった可能性が示唆されるのである。しかし、もしもこの可能性を認めると、「糟目犬頭神社」の縁起である「飛犬頭」譚と、「千両・犬頭神社」の縁起である「犬頭糸」譚とは、まったく無関係なものである、と云う従来の考え方は通用しなくなる。問題は、一見して、「犬頭」以外共通点のないこの二つの説話に、過去どのような接点があり、それが、その後どのように乖離して、現在のような別々の伝承へと発達したのか、と云うことになろう。
 
ただ、「豊川市千両」の「犬頭神社」には、『今昔物語集』とほぼ同じだが、固有名詞などが確定してより具体的になった「犬頭糸」伝説が伝わっていたのを見たが、ここ「桑子」に伝わる「犬頭糸」伝説は、『今昔物語集』とも「千両」の伝説とも、微妙に異なる内容となっている。残念ながら、この地の伝えは、『
岡崎市史』など、公にされている資料には記載がなく、地元の口碑としてのみ残されているので、ここで典拠を示すことは出来ない。「岡崎市教育委員会・社会教育課」の御協力を仰いで確認した限りでは、次のような簡略な伝承が残されている*。
 
村人が飼っていた犬が、ある時、村中の蚕を食べてしまい、死して石と化すに際して、大量の絹糸を吐いたと云う。なお、この石は神社旧地に残されており、触ると「オコリ」になるという言い伝えが残されていた。
 
筆者聞取りによる
  
*
後日、「愛知県立図書館」の御協力を得て、「桑子犬頭石」の伝説について次のようなヴァリエーションがあることを知った。「矢作地区小中学校合同研究会」が出した『矢作の里』に載る「犬頭の糸」と云う章に、「桑子神社」に伝わる話として、「平田」に住む和尚が飼っていた「白い犬」の「しろ」が、村中の「蚕」を全部食べてしまい、口から白い糸を吐き出し、やがて石になってしまった、と云う古老から採取した話である (ibid., 1973; 65-67) 。『続おかざきのむかしばなし』も、犬の名前を「しろ」としている (岡崎の昔話編集委、1984; 92-95) 。
 
当然、これよりも詳しい内容が確認出来ればそれに越したことはないのだが、それでも辛うじて「犬が村中の蚕を食べてしまう」と云うモチーフが採取出来たのは幸いである。何故なら、ここに初めて我々は「三河」の「犬頭」伝承の中に、単なる報恩型ではないモチーフを見出し得たからである。「糟目犬頭神社」の「飛犬頭」譚も、「千両・犬頭神社」の「犬頭糸」譚も、いずれも犬の飼主に対する恩返しを主題とした説話となっており、そのままでは「羽田野敬雄」が「千両」の地で採取した「手を触れると祟りのある石」の伝えとは、まるで接点がなかったのであるが、「村中の蚕を食べてしまう」害なす獣としての「犬」が立ち現れたことで、その退治と後日の祟りと云う説話の展開が留保されたのである。
 
*
 
ここまで来て我々は、ようやくついうっかり見過ごしてきた事実に気づかされるのである。それは、『今昔物語集』に載る説話を典型とする「犬頭糸」型の説話では、「犬の頭」を、「犬の胴体」あるいは他の身体部位と、別々に分離して祭る必然性がないと云うことである。

「糟目犬頭神社」の縁起に見られた「飛犬頭」譚であれば、斬り放された「犬の頭」が大蛇を退治する霊威を発揮するのであり、さらには斬り放されているが故に、それを埋 うず めて祀ると云うことにも、一定の合理的な必然性が確保されるのである。しかし、一方の「犬頭糸」譚においては、犬が「絹糸を出す」と云う霊威を発揮しているときは、確かに頭の一部である鼻の穴から糸が出ているとは云え、いまだ五体満足の状態にあり、糸を出し終わって死ぬときも、やはり五体満足のままなのであって、首と胴とは別れを告げていないのである。そして、そうであるならば、何故、残された人々はことさらに「犬頭」を祭ったのか、そしてそれ以上に、何故そのために福徳をもたらした「犬」の首をわざわざ斬り落さねばならないのか、と云う疑問が生じるのは避けられないのである。

奇跡を起こしたのは、正確には「犬の鼻」なのだが、それとておおまかに云えば「犬の頭部」なのだから、その部位に対する崇敬の念から、特に頭部を強調して敬ったのだ、などと一応はそれらしい解釈を試みることも出来る、しかし、どうもこれではとってつけたような印象は免れない。この程度の理由づけでは、何故祭るのかまでは辛うじて説明出来ても、首を斬り落とすと云うグロテスクな行為の方の動機の説明にはまるでなっていないのは明らかだからである。

ましてや、「桑子」の例に限って見れば、何しろ、犬が死して化した石のことを「犬頭石」と呼んでいるのだから、これはやはり「犬の頭の霊威の象徴」などと云うよりは、より直截的に「犬の頭」を祭ったものだと考えるのが妥当だろう。石自体は、「犬」そのものなのだが、石の名前だけが「犬頭石」なのだと云う説明は、何にせよ通りが悪い。石自体が犬ならば、単純に「犬石」と呼ぶのが民衆の情と云うもので、何も的を射ていない小難し気な漢語を当てることもなかったのである。「犬の頭」にしては、石が大きすぎる、などと云うのは、
「犬」が絹糸を吐いたり、死後に石化したりなど、多くの霊異が既に語られている中では、たいした問題ではないし、反論を構成する要素にすらなるまい。

しかし、どうして「犬の頭」を祭るのか、と云うことと共に、やはり筆者は、そもそも「犬」の「頭」と「胴体」が分離した状態で埋葬され、かつ敬われるのは何故か、と云う点にも強く興味を引かれる。しかも、現在活字化されている縁起譚には登場しないモチーフだが、天保年間には、ただ単に「頭」と「胴体」を分葬するのではなく、より根本的に屍骸をバラバラにしていたかのような印象を与える伝えがあったことが知られている。これは「千両・犬頭神社」のことだが、
「羽田野敬雄」の『三河国官社私考 』下巻には、先ほど紹介した「金の糞をひる犬」の伝えを紹介した箇所に引き継いで、次のようなくだりがある。
 
...犬死テ埋メタル所ニ社ヲ建テ。犬頭大明神ト號ス。又此ノ村ノ出鄕ニ。大崎。六角ト云ル二村アリ。大崎ハ舊クハ尾崎ト書テ。其ノ犬ノ尾ヲ埋メタル地。又六角ハ彼ノ犬ノ頭ニ六角ノ角ノ如キモノアリ。ソヲ埋メシ地也。今東隣ニ足山田トイヘル村アリ。ソハ其ノ足ヲ埋メタル處也ト云傳ヘタリト物語レリ。

 
羽田野敬雄 (1843) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』下卷、天保十四年
豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
 
これを読んですぐに抱く疑問は、六角の角が生えていたら「犬」ではなかろうと云う素朴なものから始まり*、何故、上質の絹糸を出して斃れただけの「犬」の体が、頭だとか尾だとか足だとかに分解されてしまっているのか、と云う本質的なものにまで至る。
 
* ここで「角のある犬」なら「狛犬」だ!! と主張する「狛犬」通もいるかもしれないが、筆者としては、その角が六角であると云われている以上、ここではそのような考えは留保する。しかし、実際には、「六角村」の地名語源説自体、既にあった地名に対する後世の付会だろうから、この故事つけを行なった時点で、人々のイマジネーションの中には、「角のある犬」と云うイメージがあったと考えられる。このことは、「千両」の「犬頭糸」伝説の形成因の一つに、「狛犬」のイメージが含まれていた可能性を示唆しているとも云える。
 
死んだ「犬」の屍骸がバラバラに埋葬されると云うモチーフは、「糟目犬頭神社」の縁起に見られる特徴的なもののはずであるが、「犬頭糸」説話とは、まったく接点もなく、相容れないものである。仮に、相当無理な屁理屈を並べて、「絹糸」を紡ぎ出した霊威高い「犬の頭」だけを特別に個別化して祀るために、死後、その頭部を切り離したと言い張ったところで、「角」は措くとしても、何故「足」までも首を失った骸から切断せねばならなかったのかは説明出来ない。要するに、「犬頭糸」伝説だけでは、何故、「犬」の屍骸は分断されるのか、と云う問いに答えられないのである。

『日本歴史地名大系 23』 (平凡社、1981) は、『穂原村誌*』の一部を引いて、「一説ニ、犬ノ吐キタル糸ヲ本郡東上村ニテ籰ヲ繰リ、足山田村ニテ機ヲ織リ、其ノ絹ヲ天照皇大神宮ノ御簀ニ献ジケルニ、其糸千両ノ価アルヲ以テ村名千両ト号スト云ヘリ。其故ニヤ、東上氏神ヲ籰繰神社、足山田氏神ヲ服織神社ト号セリ」と誌している。そして、この口碑の内容を以て、「犬頭糸」伝説に見られる屍骸分断との関連を訴える人もあるかもしれない。確かに、「犬頭神社」を筆頭に、近隣の三つの神社が一揃いで一つの機能を果たしていると云う点においては、屍骸を分断して祀ったと云う縁起と共通しなくもないが、死体をバラバラにすると云うモチーフは三つの社の祭祀の起源を説明するのに対して、
『穂原村誌』に紹介されている伝えはその祭祀の起源にはまるで触れないと云う点で、両者は本質的にはまったく異質の伝承なのである。
 

* 「穂原村」は、明治二十二年 (1889) の町村制発足に当たって、「宝飯郡」の「千両・市田・野口」の三村が合併して誕生し、明治三十九年 (1906) に「平幡村」と合併して「八幡村」を形成するに当たって消滅した自治体名である。ちなみに、この『穂原村誌』の原書は発見出来なかったため、刊行年などは未詳。
 
また、屍骸を分断して祀る「千両・犬頭神社」の伝承は、「屍骸分断」のイメー ジを離れて、内容面から見れば、かつての郷村連合などの成立過程を語る「村系図」のような役割を果たしているものであり、飽くまでも「六角」「尾崎 (大崎) 」が「千両」本村の分村なのだと云うことを子々孫々に記憶させるための伝承である。したがって、そこに語られているのは「屍骸分断」の話ではない、と云う 人もいるだろう。だが、これに対しては、伝承の内容からは無関係であるからこそ、何故、「屍骸分断」のイメージが採用されるのか、と云うことが大きな問題 となるのである。ましてや、それが社号と関係が深い伝えであり、近接する地域の類似する神社にも、同様の傾向が見られるとなると、いよいよその水面下での 重要性は無視出来なくなるのである。

さらには、「犬頭神社」縁起に見られる「屍骸分断」の要素を説明するのに、祭神が養蚕の神とされる「保食神」であることなどから、これは「
月夜見尊」に斬られた「保食神」の身体各部位から、五穀や家畜、蚕などが発生したと云う『日本書紀』の神話との共通性を唱える人もあるかもしれぬ。しかし、「保食神」は、首を斬られていないし、体もバラバラにはされていない*。しかも、眉から蚕を発生させたのは確かだが、その他にも「牛馬・稲・麦・稗・粟・大豆・小豆」なども発生している訳で、作物・家畜類の「屍体発生」が「養蚕の神」とされる「犬頭神社」の専売特許のように語られるのは明らかにおかしかろう。
 
* 「屍骸分断」の観点から見るのであれば、「記紀」における「イザナギ」による「カグツチ」の斬殺と園屍体の分断の方がはるかに類比として適している。ただし、これとて、その他の要素にまるで共通性が見られないため、「犬頭神社」縁起との直接の関係は想定しにくい。
 
いずれにしても、我々が「三河地方」の「犬頭神社」群の縁起類を見渡すと、その表面で語られている「忠義な犬」や「福徳を持たらす犬」のイメージのさらに奥深くに、「妖獣退治」譚としての性格も潜在していることが分かり、それによって「屍骸分断」のイメージが、よりはっきりと浮上してくることを、ここでは観察した。

しかし、誤解のないように確認しておくと、筆者としては、この「屍骸分断」こそが、これら縁起・信仰の最古の基層を成す部分だと唱えている訳ではなく、現在語られている、別々の形の縁起類が成立する以前のいずれかの時期に、どうやらほとんどの「犬頭神社」で「屍骸分断」のイメージを負っていた痕跡がある、と述べているだけである。今後は、この点が、どのように社号としての「犬頭」と関わってくるのかと云うことにわり重点を置いて、考えをまとめていきたいと思っている。



5. おわりに

結局、今回の記事でも、前回から引き続き検討している「唐猫」「狛犬」「唐獅子」の頭部の霊力を巡る議論に入れなかったばかりか、その前段階としての「犬頭」伝説の吟味にも、十分に入れたとは云えない内容になってしまった。

しかし、一方で、この記事を通して、「尾張」に隣接する「三河」の広い地域に渡って、古くから「犬頭」の霊力を巡る伝承が存在すると云うこと、そして、その伝承類が必ずしも安定的に伝えられてきたものではないこと、などを確認することは出来た。中でも、今後の議論にとって特に重要な事実として、この地方の「犬頭」伝説が、必ずしも「養蚕」関係に限られる性質のものではないと云うことを確認出来たのは収穫であった。

さらには、「犬頭糸」伝説を伝える地域にあっては、その伝承が多分に『今昔物語集』のものと接近してしまっているものの、少なくともつい最近まで、それと異なる系統の伝えも残されていたらしい気配を見出したのは、重大な事実である。特に、「柳田國男」が「羽田野敬雄」の「幕末期」の調査から、「千両」の「犬頭糸」伝説が、「天保期」には「金の糞をする猫」と云ういわゆる「花咲か爺」「鼻たれ小僧」譚に通ずる「海神少童」型説話として語られていたと云う事実を指摘していることは、この地方の「犬頭糸」伝承を考えるに当たって、極めて重要な視点を我々に提供してくれる。

また、「千両」および「桑子」の両「犬頭神社」に、『今昔物語集』には見られない「犬頭石」の伝承があり、その石に触れると「オコリ」になると云う「祟り」の伝説があることも興味深かった。このような「恵みをもたらしつつ、祟りもなす」と云う二面性こそが、「千両」および「桑子」の「犬頭神社」の「犬頭糸」伝説が、『今昔物語集』の説話と大きく異なる点であり、またこれら説話が単なる福徳譚ではないことを示す、原説話の残滓と考えられるのである。

そして、このことを通して、我々は、この地の「犬頭糸」伝承が、単なる福徳の示現譚としての「海神少童」説話であることにとどまらず、ある種の「妖怪・霊獣退治」譚をその下敷きにしていたのではないかと云う、合理的な疑念を抱くに至るのである。この事実は、「犬頭糸」伝承とは別系統の「犬頭」伝説であり、「忠義な犬」型に属する「糟目犬頭神社」の縁起に見られる「飛犬頭」伝承と、そこに含まれる「犬頭・犬尾」の分祀と云う、「屍骸分断」のイメージとも連携すると云う点で、極めて重大なものだと筆者は考えている。

「桑子」に伝わる「犬頭糸」伝承は、また、「犬が村中の蚕を食べてしまう」と云うモチーフを持つことによっても、これらの説話が元「妖怪・霊獣退治」譚であったと云う考えを補強してくれ、かつ、この地の「犬頭」伝説がただの福徳譚ではなかった可能性を強く示唆するのである。

次回以降は、これらの事柄に対する考察を深化させつつ、より具体的に「犬の頭」の霊威に焦点を絞り、「尾張・三河」地域にかつて存在したと筆者が推測する、「狛犬の頭」を巡る信仰の跡を辿るってみたいと思う。その過程で、「忠義な犬」型の「飛犬頭」譚の分析に当ててゆこうと考えている。

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・下中邦彦/編 (1996) 『日本歴史地名大系・千葉県の地名』 平凡社
・藤倉郁子 (2000) 『狛犬の歴史』岩波出版サービスセンター
・山川均 (2006) 『石造物が語る中世職能集団』山川出版社
・たくきよしみつ (2006) 『狛犬かがみ』バナナブックス


参照サイトなど


・神社本庁教学研究所研究室/編 (1995) 『平成「祭」データ』神社本庁、CD-ROM
・「東三河を歩こう」NET-PLAZA
・「liondog の勉強部屋」=めちゃくちゃ秀逸なサイト
・「すずかハイキング」のうち「ヤマイヌ」「ヤマイヌ附録」=めちゃくちゃ秀逸なサイト
・「岡崎市役所教育委員会事務局社会教育課」には、大変なお世話になりました!!
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