スポンサーサイト

.-- -- スポンサー広告 comment(-) trackback(-)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」中編

.26 2012 中部地方 comment(0) trackback(0)
糟目犬頭神社
岡崎市宮地町馬場 31
 
犬頭神社・唐猫
「糟目犬頭神社」の「唐猫」
たくきよしみつ (2008) 『狛犬かがみ』バナナブックスより
撮影「liondog」氏
 
1. はじめに

「糟目犬頭神社」の「唐猫」を巡って、筆者が多くの考察をするに至ったきっかけは単純なものである。それは、このシリーズの構成を御覧頂ければ一目瞭然であるように、「糟目犬頭神社」と比較的近距離に当たる「名古屋市中区上前津 (大須) 」に、かつて「おからねこ」と呼ばれた神社が存在した、と云う一点の事実によっている。一見、何ら共通するもののないこれら二つの「唐猫」の間に、始源的には何かしらの関係があったのではないか、と云うのが筆者の疑問の始まりだったのである。何しろ、「唐猫」と云う言葉自体が、全国的に見ても極めて珍しいだけに、「尾張」と「三河」の目と鼻の先で、その珍しい語が二つも残っていること、しかも神社の信仰物の一種として残されていることを単なる偶然とは考えられなかったのである。

そもそも、現代の「狛犬」の源泉が本来は「獅子」であることは、その外観がいわゆる「唐獅子」と何ら変わらないことからも、同様の造形物が「沖縄」では「獅子さん」が転訛した「シーサー」と呼ばれていることからも、かなり明らかではある。したがって、「狛犬」が、「獅子」を介して、「ネコ科」の動物と縁が深いことは先刻承知ではあった。しかし、それは飽くまでも「獅子」を介してであり、どこまで「猫」そのものと縁があるのかは、まったくの未知数であった。敢えて云えば、「唐猫」と云う語が、具体的な造形物と共に残っていると云う意味では、我が国で最も顕著な「唐猫」文化圏を形成する「長野県」において、多くの場合、「唐猫」とは「狛犬」あるいは「唐獅子」様のものを指していると云う事実から、「唐猫」は「唐獅子」からの転用に発するのではないかと疑わせる節があると云う程度のつながりであった。

したがって、これだけの材料では、「上前津」の「おからねこ」と「糟目犬頭神社」の「唐猫」を直接結びつけるのには、やや無理があり、やはり、当初推論していたように、「長野」方面の「唐猫」文化圏が、それと接する現在の「愛知県」地方に、語彙の上で影響したと考えるのが妥当なのではないかとも思われた。しかし、「唐猫」の語彙が、「鹿児島・宮崎」を重点地域として、わずかだが「九州地方」に残存していること (しかも「狛犬」を主に指す) 、「東北」の一部でやはり「唐猫」の語彙が残っていること (「狛犬」ではなく、特定の毛並みの猫を指す) なども鑑みると、「唐猫」文化を解釈するときに、「長野」のみを中心に据えて考察することの非合理性も念頭に入れておかねばならない。何故なら、かつて、「唐猫」文化が、「東北」から「薩南諸島」北部にまで至る、より大きな広がりを持っていたことが、残存する用法・方言の分布からも明らかだからである。

こんなジレンマを抱える中、筆者は視点を変えて、マクロな視座からの考察が行き詰まったならば、より考察範囲を限定して、その中でのより具体的な事象からのつながりを模索すると云う手法に切り替えることにした。その中で浮上してきたのが、「糟目犬頭神社」の「犬頭」伝説だったのである。「上前津」の「おからねこ」に関しては、ほとんど史料が残されていない中、かつて「狛犬」の首だけが祭られていたと云う記述が古書にあることを考え合わせると、「唐猫」と云う珍しい語彙を伝える近接地域の二つの神社に、共に霊獣の頭部に対する信仰と云うやはり極めて珍しい信仰があった、と云う事実を筆者は重視したのである。

もちろん、一方は「唐猫」で、一方は「犬」ではないか、と云う反論はされうるだろう。しかし、それは伝説のみを見た場合の反論であって、そもそも議論がここに至った出発点に戻れば、「糟目犬頭神社」に「唐猫」と呼ばれる「狛犬」があるところから筆者の探究が開始されたのであり、「三河・尾張」の北側に隣接する「長野」地域で、「唐獅子・狛犬」様の造形物を「唐猫」と呼ぶのだから、このような反論がまるで無効なのは御理解頂けるだろう。

そこで筆者の考察は、次のような二つ方向に向けられた。

1. 各地の、特に「三河・尾張」地域の「犬頭」伝説を整理すること
2. 霊獣の頭部に対する信仰について整理すること

その過程で、1. に関しては、それが「唐猫」の語彙とどのような時代的接点があるのかを、ある程度明確にする必要性は感じた。そうでなければ、やはり「唐猫」と「 (狛) 犬」を無闇に混同していると云う誹りを受けやすいと云うこともあったが、より正確には、「糟目犬頭神社」の「唐猫」を、「狛犬」の歴史的な発達史の中で位置づけることで、この地方での「唐猫」の用語法の歴史的な下限が明らかにされ、「上前津」の「おからねこ」信仰の終焉時期を考察するに当たって有益だと考えたからでもある。この時代性がある程度明らかになれば、それを巡る背景もまた探りやすくなるのは言うまでもないし、何よりも、民俗学や比較民話学がしばしば批判される根拠となる、時代やその背景を無視して、文化的な断片を乱暴に比較すると云う手法に全面的に拠らないで済むと云うのは大きい。

また、1. の探究は、必然的に筆者をさらに二つの方向に導いてくれた。それは「三河」地域の「犬頭」伝説には二つの系統があると云う単純な理由による。詳しくは、前回記事に記したが、一つは「飛犬頭」伝説であり、一つは「犬頭糸」伝説である。しかも、一部の神社で、この二つの伝承は交錯することも判明した。

その上で云うならば、「糟目犬頭神社」にあって、現在は「飛犬頭」伝説が採用され、多くの書籍などでも紹介されているが、この神社の「飛犬頭」伝説は、歴史的に極めて不安定な足跡を残しており、その考察には注意が必要だとさえ云える。一方、「三河地方」に見られる「犬頭糸」伝説も、それが「平安末期」の『今昔物語集』に既に現在の形で載せられているため、歴史的に安定した伝承だと考えられがちだが、調べていくと、それにしては伝承母体となる神社が、「岡崎市大和町字宮地」と「豊川市千両」と云うやや離れた地に別々に残されていること (この距離は「上前津」の「おからねこ」から「糟目犬頭神社」までの距離と大体同じ) や、およそ百七十年前 (天保期) の地元の国学者による社伝調査の時には、「千両」の「犬頭神社」には「犬頭糸」伝説はまったくなく、別の「金の糞をひる犬」系統の由来譚が語られていたこと、他方の「桑子」の「犬頭神社」には「大正期」より遡る古い記録がまったくなく、しかも口碑で伝えられる伝説が『今昔物語集』のものとはやや異なるなど、いずれにしても不安定な歴史があることが明らかになった。

しかし、「犬頭糸」伝承を伝える二つの「犬頭神社」に関しては、共に『今昔物語集』の「犬頭糸」説話には含まれていない、「犬頭石 (瘧石) 」の伝承と云う、ほとんど同一の伝えを有していることも分かった。これは本文で見ていくように、我が国の西南地域に多く分布する「金の糞をひる犬」説話、 その中でも特に珍しい「金の糞をひる猫」の説話などとも深い縁戚関係が想定されうるものであり、「天保年間」に「千両」にて語られていた「金の糞をひる犬」の話が、はるかに古い『今昔物語集』の説話の上に、その時代に新たに付加されたものではない可能性を示唆していて、極めて興味深いのである。

「犬頭糸」の語そのものに関しては、『延喜式』にも記され、既に何度も言及しているように『今昔物語集』にその由来譚が載せられていることから、その由来が自明のものとして受け容れられる傾向が強い。しかし、『今昔物語集』の説話は、ある意味では「犬頭糸」の名前をあとづけで説明した内容になっているとも云え、必ずしもその起源を確定するほどの説得力ある内容になっている訳ではない。筆者は、この点により注意を払って、「犬頭糸」と「犬頭神社」を巡る諸伝承を比較検討して、それが「金の糞をひる犬」譚と、極めて深い層でつながっているものだと考えるに至った。

したがって、今回以降の記事の大まかな構成は、以下のようなものになる。

1. 「糟目犬頭神社」の「唐猫」を巡る時代的な位置づけ
2. 「飛犬頭」伝説を巡る諸伝説の検討
3. 「犬の頭」の霊威の古層の探究
4. 「獅子頭」そのものに対する信仰の考察

そして、記事の長さを鑑みて、今回は、上の2. までの議論を扱い、3. 以降は、次回の記事に譲ることとしたい。
 
*
 
記事の構成上、「糟目犬頭神社」の「唐猫」の時代性を確認する次節のみが、孤立した感があるのは否めない。先に記して、御寛恕を乞うておきたい。



2. 「石造狛犬」小考 —「犬頭神社」の「唐猫」を巡って—

さて、後編を始めるに当たって、本題の「唐猫」の石像について、もう一度簡単に見てみよう...などと云っても、実際にはこの遺物について確実に分かっていることは極めて少なく、書けることとてほとんどない。大体、非公開の「社殿」内に据えられているため、一般には目にすることも出来ないのだから、直接訪問したからとて、「唐猫」目当ての訪問者には、これと云った収穫もない神社なのである。

したがって、この「唐猫」像に関して筆者が知っている具体的なことは、『新編・岡崎市史 17・美術工芸』に記された解説の範囲を一切越えるものではない。要するに、この像の腹部に「奉寄進 石唐猫  慶長十乙巳六月吉日 市川猪兵衛正重」と五十九文字の銘文が刻まれていること、そのことから、その制作年が慶長十年 (1605) だと分かること、奉納者の名前、奉納者が初めから正式にこの一対の石造物を「唐猫」と呼んでいたこと、などを知っているだけである。『新編・岡崎市史 17』は、その解説で、「よく見ると滑稽といえるので、狛犬でなく唐猫を表現しているのがよく表れている」と記すが、なぜ滑稽だと「唐猫」なのかの説明がない限り、この解説は微塵ほども価値はない。同様に、狛犬研究の第一人者「上杉千郷」氏は、「糟目犬頭神社」の「唐猫」について、「この狛犬は『獅子』や『犬』というより、『猫』に近いものだったのかもしれません。これは、白山狛犬* の外見のイメージとかなり重なるのではないでしょうか」 (上杉、2008; 95) と述べているが、これもまたまるで無根拠な印象の記述に過ぎない。似ているのは大きさくらいで、おかっぱ頭のような鬣 たてがみ のある「猫」など筆者は見たことも聞いたこともない。まったく重要ならざる議論なので目くじらを立てるほどのことではないが、「市史」が郷土史研究に占める重要性や、それが有する権威、あるいは「上杉」氏のような優れた研究家の持つ影響力を考えた場合、これからの研究者や論者は、あまりに主観的で根拠のない記述と、そうでない部分を明確に書き分けてくれることを、筆者は強く願っている。
 
* 「上杉」氏は、筆者が「たくき」氏説に従って「越前禿狛犬」と呼ぶものをこのように呼ぶ。
 
この「唐猫」と呼ばれる石造文化財は、高さ二十センチほどの、現代の「石造狛犬」と比べると、かなり小さなものなのだが、「狛犬」全体の歴史を振り返るならば、これは決して例外的なものではない。「狛犬」と云うものは、元々は宮殿や社殿の屋内に奉祭されていたものであるため、古いものは、その像容も小さいと云うことが知られている。

我が国の「石造狛犬」の起源については、しばしば、建久七年 (1196) 制作の「東大寺南大門」の像が挙げられるが、こちらは「犬頭神社」のものとは打って変わって、かなり大きい。国家的な規模の大改修の目玉の一つとして制作されたモニュメントだけに、この「石像獅子」一対は、東側のもので高さは約百八十センチ、西側でも百六十センチほどある。東西とも口を開けており、我が国「狛犬」の伝統的な「阿吽」スタイルは見られない。また、石材は中国からの直輸入で、しかも制作は、宋人石工たちによると云うことが『東大寺造立供養記』によって知られている。したがって、この一対の石像は、正確に云えば「狛犬」ではなく、いまだ中国直伝の「獅子像」と呼ぶべきものである。また、この像は、よほど後世になるまで、その像容を模倣されることもほとんどなく、そう云った意味では、「中世」以降、少しずつ増えていった「石造狛犬」の形成にさほどの影響を与えたとは考えられていない。
  
しかし、「狛犬」の歴史に特別な興味を抱いていなければ、「狛犬」ではなく「獅子」だなどと云われても、どちらも同じものではないのか、と不思議に思われることだろう。確かに、現在、我が国で「狛犬」と呼ばれている造形物は、神社の参道入口などに据えられる一対の「獅子」様の動物をかたどった石像のことを指していると云っても過言ではなかろう。しかし、多くの狛犬研究家・愛好家たちが明らかにしてきているように、現在、神社で見る「石造狛犬」は、我が国の「狛犬」の歴史の中で見た場合、実は極めて新しく誕生し、かつ普及した形態・様式なのである。

独自のスタンスの「狛犬」研究で知られる「三遊亭円丈」師匠は、現在最も普及している神社参道に見られる「狛犬」のタイプを「参道狛犬」と呼ぶことを提唱し (三遊亭、1995) 、愛好家たちの間で一定の普及を見ている。筆者もまた、この呼称を採用したい。
  
白山比咩神社・木造狛犬
「白山比咩神社」ホームページより
平安末期・国重要文化財
吽像の前頂部に角を矧いだ跡がある。
 
「参道狛犬」以前となると、誰が提唱したのかは定かではないのだが、「狛犬」がより小型で、寺社のお堂や社殿内に奉祭されていたことから「神殿狛犬」と云う呼び名が定着している。このタイプの「狛犬」は、その起源を九世紀から十世紀くらいまで遡ることが出来るとされ、初めは宮中で、天皇や后妃たちを守護する珍獣として祭られていたものだとされる。
 
大宝神社・狛犬
「大宝神社・狛犬」
鎌倉時代・国重要文化財
 
しかも、古い時代には、この一対の神獣は、実は「獅子」と「狛犬」と云う、異なる霊獣の組合わせからなっていたことが知られており、実際、古くは「獅子・狛犬」と並称されることが多かったのである。角の有無や金銀 (黄白) の体色など、造形や彩色も、「獅子」と「狛犬」で古くは異なっていたのだが、両者の区別が曖昧になってゆくにしたがって、そのような区別も重視されなくなっていったのである。以前、このブログで採り上げた、「長野県東筑摩郡山形村」に鎮座する「建部神社」の「唐猫さま」は、明らかにこのタイプの「狛犬」であった。
 
建部神社・唐猫
 「建部神社・唐猫さま」
撮影者「古川敏夫」氏より提供

このように高貴な出自を持つ「神殿狛犬」は、本来は木造が基本で、専門の仏師たちによって彫刻され、漆を塗られた上に金銀の箔を張って、彩色を施した豪華なものであったとされる。しかし、後には、陶製のものや、金属製のもの、そしてやがては少数ながら石造りのものも登場してくるのである。

この石造の「神殿狛犬」が、「近世」以降、全国に広まった「参道狛犬」の祖先に当たるのは間違いない。しかし、その関係がどの程度近縁のものかは、なかなか確定しづらい。「石造狛犬」の古い作例の中には、その像容が、極めて個性的でかつ地方色に富み、神社参道に一対で置かれていなかったならば、現代人の目には「狛犬」だとすら分からないのではないかと思われるほど、稚拙な姿をしているものもある。このような初期の「参道狛犬」と、伝統的な意味で芸術性の高い姿を誇り、それ故に一定の表現的類型に収まっている「神殿狛犬」とを、単純に時系列的に結びつけるのには、筆者はどうしても躊躇いを感じずにはいられないのである。

一方、数は少ないが、「南北朝期」まで遡る「石造狛犬」も存在する。そして、それらの多くは、文化財指定などを受けている「木造狛犬」類と同系統の意匠を、より単純化したような姿をしているのである。要するに、古い「石造狛犬」に関しては、すべてのものを一つの時系列的な発展史の中に括ろうとすると、より古く「南北朝期」にまで遡るものは洗練された技巧を示すものが多く、より後代の「安土桃山」あるいは「近世初期」頃のものの方が稚拙な造りをしているものがほとんどだと云う、明らかに矛盾する現象が起きてしまうのである。

「狛犬ネット」を主宰する「たくきよしみつ (鐸木能光) 」氏は、この筆者の疑問に対して、極めて明快に、「現在の参道狛犬を生んだルーツが神殿狛犬だけかというと、そうではない。神殿狛犬とはまったく違う出発点を持つと考えられるもうひとつの系譜がある (たくき、2006; 23) 」と唱えている。氏は、このような「狛犬」は、権力者の奉納によった前代までの「神殿狛犬」と異なり、庶民の奉納に発していると見た上で、次のように非常に重要な論点を二つ提示している。
 
宮中や格式の高い神社の神殿内に上がれる貴族や武家の支配者層とは違って、庶民や地方の村石工は狛犬を実際に見たことがない。宮中には「こまいぬ」というものがあるらしいという話が伝わってきたとしても、手本にする作品を目にすることはできなかった。その結果、石工の数だけユニークな狛犬が誕生することになる。
 
また、次第に獅子・狛犬という呼び方が消えて、両方まとめて「狛犬」と呼ばれるようになっていった。そのせいだろうか、庶民が奉納した初期形の狛犬は、獅子には似ても似つかず、むしろ「犬」を模している。また、獅子はライオンで実在の動物だが、当時の日本では誰も生きているライオンを見たことはないから、狛犬同様に想像上の動物だった。いずれにせよ空想するしかなく、獅子・狛犬の区別が曖昧になっていったのは自然なことだろう。
 
たくきよしみつ (2006) 『狛犬かがみ』バナナブックス、p. 24
 
このような「神殿狛犬」とは系統を微妙に異にする初期の「参道狛犬」を、「三遊亭円丈」師匠は「江戸はじめ」と呼び、「たくき」氏はよりシンプルに「はじめ狛犬」と呼んでいる。この初期型の「参道狛犬」の分布は、地域も時代も、必ずしも「江戸」に限定されない、と云うのが主な理由である。筆者も、「たくき」氏に倣って「はじめ狛犬」と云う呼名を踏襲していきたい。

ただ、「はじめ狛犬」と云っても、その年代を特定するのは非常に難しい。まず注意したいのは、古い「石造狛犬」でも、形態上、「神殿狛犬」の系譜に属するものは「はじめ狛犬」には数えないと云うことである。このタイプの代表例としては、「鎌倉時代」の制作と伝えられ、国の重要文化財にも指定されている「京都府宮津市」に鎮座する「籠神社」の「狛犬」* や、その近隣で発見された「高森神社」や「藤社神社」のものが挙げられるだろう (共に南北朝期) 。また、人によっては「東大寺南大門」の「石造獅子」を「我が国最古の狛犬」などと謳うものもあるが、これが当たらないことは既に見た通りである。
 
* 「籠神社」の「狛犬」に関しては、以前から、一部の研究者から「鎌倉時代」制作説を疑問視する声が上がっている。古くは狛犬研究の先駆者の一人、「橋本萬平」氏によって「風雨の激しい山陰の地で、石造狛犬が六〇〇年余りの寿命を保ち得るかどうか、いささか疑問に思っている」と述べ (橋本、1985) 、「藤倉郁子」氏は、その著『狛犬』 (1995) の中で実証的な根拠を提示して、同様の見解を示しながらも、次著『狛犬の歴史』では「参道狛犬の走りになったと思われる」と述べて、説明抜きで見解を転じている。近年では、ネット上で「liondog」氏が、「雪舟」の『天橋立図』や『成相寺参詣曼荼羅』など、十五世紀から十六世紀にかけての絵画作品に描かれた「籠神社」風景の中に「狛犬」が描かれていないこと挙げて、この「狛犬」の「鎌倉時代」制作説に、説得力のある疑義を唱えている (「狛犬雑感 17」) 。一方、「ねずてつや (小寺慶昭) 」氏は、これら懐疑説に対して、真っ向から反論している (ねず、1994) 。こちらも、なかなか面白い。
 
それでは、「はじめ狛犬」とはどんなものなのか。

具体的な「はじめ狛犬」の遺物から判断する限り、このタイプの「狛犬」の出現と普及は、やはり十七世紀を中心とした時期に起きたと判断してよさそうなのだが、現在、最古の「はじめ狛犬」とされる「山梨県市川三郷町」の「熊野神社」の「狛犬」には、 腹部に応永十二年 (1405) 二月の銘が刻まれており、時代的に一つだけ突出している。この他にも、「岐阜県高山市」の「賀茂神社」の「狛犬」は、「弘仁年間 (810-824) 」に造られたものと謳われているが、これはいくら何でも設定が古すぎる。「たくき」氏は、この「狛犬」は十七世紀の作品だと推測しており、どんなに早くとも1500年代の制作だろうと述べている (たくき、2006; 27) 。

「三遊亭円丈」師匠も、このタイプの草創期は、 1600年頃からだと考えているようである。ただ、「たくき」氏は、「はじめ狛犬」類の年代について「時代的には江戸中期くらいまでが多いようですが、『江戸』や『浪花』の狛犬を知らなかった地方の石工たちは、江戸時代後期に入っても、まだこうしたはじめタイプを造ることがあった」と述べ (狛犬分類学 2) 、その制作された年代が、地域によって広く拡散していることを指摘している。

不明確で茫洋としつつも、大雑把な年代のイメージが描けたところで、ついでに「はじめ狛犬」の形態的な特徴についても確認しておこう。そして、このことに関しては、そもそも「はじめ狛犬」の名前を提唱した「たくき」氏の見解をそのまま紹介することとする。
 
顔の特徴

1) 彫りが浅い。
2) 巻き毛や牙などの「パーツ」が少ない。
3) 鼻や目が小ぶりで、あまり怖くない。

 
からだの特徴
1) 全体に小ぶり。
2) 渦巻き模様など装飾的な要素が少なく、平板。
3) 前脚の間をくり抜いていないものも多い。

4) 尾も目立たず、ほとんどないものもある。

 
『狛犬ネット』「狛犬分類学 2・はじめ」
 
筆者としては、これに敢えて付け足すならば、「はじめ狛犬」の中でも初期のものは、蹲踞した姿勢ではなく、大概は四つん這いに近い硬直したポーズをとっている、と云う特徴を挙げておこう。もちろん、造った石工自体は、蹲踞のつもりだったかは分からない。
 
*
 
さて、この辺りで、ようやく「糟目犬頭神社」の「唐猫」に話を戻すことが出来る。問題は、「糟目犬頭神社」の「唐猫」が、「狛犬」の歴史の中で、どのような位置を占めるのか、と云うことであろう。幸い、この「唐猫」一対は、慶長十年 (1605) と云う制作年代がはっきりとしている。しかし、慶長十年と云えば、「江戸時代」の最初期であるが、はたして、この時期は「石造狛犬」の造られた年代としては古いのだろうか、新しいのだろうか。
 
糟目犬頭神社・唐猫
「糟目犬頭神社」の「唐猫」
『新編岡崎市史 17・美術・工芸編』より
 
既に触れたように、「石造狛犬」と云うのは、「江戸期」に入ってから普及した「参道狛犬」の一大特徴ではある。しかし、「石造」の「狛犬」は、それ以前の「神殿狛犬」の時代から存在している。例えば、「京丹後市」の「高森神社」には、文和四年 (1355) と云う「南北朝期」の刻銘のある「石造狛犬」が収蔵されている。近くの「峰山町」の「藤社神社」にも「南北朝期」の「狛犬」がある (ねず、1994; 176) と云うが、これらはいずれも小型の「神殿狛犬」で、「高森神社」のものを見る限り、形態の上でも木造の「神殿狛犬」の系譜を引くもののようである*。この他、「和歌山県伊都郡九度山町」の「河根丹生神社」や「和歌山市津秦」の「薬徳寺」などの「狛犬」も、それぞれに応永二十六年 (1419) 、長禄三年 (1459) の銘があるが、どちらも像容は小さく、やはり屋内の「神殿狛犬」だったと推測される (金沢、1975 / 黒田、2005) 。
 
* 現在、「京丹後市」がネット公開している映像は、斜め上方からの撮影であるため、この「狛犬」の形態上の特徴が分かりにくくなっている。「藤倉郁子」氏の『狛犬の歴史』186頁の画像の方が、全体の意匠が分かり易い。 
 
したがって、これらの「狛犬」と比較した場合、「糟目犬頭神社」の「唐猫」は、極めて古いとは云えない。ただ、「糟目犬頭神社」の「唐猫」は、上記の「南北朝期」の「狛犬」たちのように、「石造参道狛犬」の発展史から先行、孤立して存在するものではなく、連続して先行すると云う点で際立っているのである。さらには、「糟目犬頭神社」の「唐猫」を、「狛犬」の発展史上、特異なものとしているのは、それが「越前青石」とも云われる、「福井」の「笏谷石」を材料とし、その形態の上からも、「たくき」氏が「越前禿狛犬」と呼ぶ、極めて特殊なグループに属する石造物だと云うことなのである。

そもそも、「笏谷石」と云うのは、「福井市足羽山」付近で採取される「火山礫凝灰岩」のことで、肌理細やかでやや灰青緑色を呈した色合いの良さに加え、軟らかく細工がしやすいことから、かつては「三国湊」を出る「北前船」に積まれて遠く「蝦夷地」まで、石材として運ばれたと云う。ついでながら記しておくと、「笏谷石」と云う名称は、石の産出地の旧地名 (現在は足羽四丁目付近) に由来すると云われている。
 
「越前禿狛犬」の作例
白山神社・禿
「白山比咩神社・越前禿狛犬」
上杉千郷 (2001) 『狛犬事典』より
弘前八幡宮・狛犬jpg
「弘前八幡宮」寛文四年 (1664)
『狛犬ネット』「狛犬分類学 4・越前禿」
「たくきよしみつ」氏のサイト!!
劔之宮王子神社・兵庫県加西市西剣坂町
「劔之宮王子神社」加西市西剣坂町
ブログ『神社のある風景』より
ここのブログは、写真が美しい!!
串茶屋資料館・狛犬
「串茶屋資料館」
ブログ『加賀日和』「おかっぱ頭の狛犬、白山狛犬」より
「串茶屋」に遊郭があった時代、遊女らが「正八幡神社」に寄進したもの
 
このタイプの「狛犬」の名前に関しては、過去に多くの呼名が提唱され、かなり混乱している。「橋本萬平」氏は、その著『狛犬をさがして』の中で、「笏谷石」製の「狛犬」は「越前」の「三国湊」から「北前船」に乗せられて運ばれたことから、「三国湊狛犬」と呼ぶことを提唱した。「関西」の狛犬研究家「小寺慶昭 (ねずてつや) 」氏は、「越前」の研究者がこのタイプの狛犬を「白山狛犬」と呼んでいたことを紹介している。これらの名前に対し、単純に「笏谷石狛犬」と呼んだり、「越前狛犬」と呼んだりする人々もいる。「たくきよしみつ」氏は、「『白山狛犬』は、白山神社とこの狛犬の結びつきが今ひとつはっきりしませんし、『三国湊狛犬』というのも、あまりにも地名が限定的」だとして、その「特徴的な頭部と生産地から、『越前禿狛犬』と名づけて」いる。これについても、筆者は「越前禿狛犬」の呼称を踏襲する*。
 
* 近年、地元「福井県」の研究家・愛好家の間から、地域興しを兼ねて、この独特の「狛犬」を「越前狛犬」と呼ぼうとする動きが高まっている。今年 (2012) の十月七日に「福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会」主催で開かれた「越前狛犬—その特徴と地方進出について—」と云う講演会などが好例である。これは、しかし、ようやく「たくき」氏の「越前禿」で落ち着きつつあった名称問題をいたずらに混乱させるだけでなく、そもそも「越前」には「禿」以外の「狛犬」の方が多いのだから、総称的に「越前狛犬」と呼ぶのは、厳密な命名法上の観点からも好ましくないと云う点で問題である。「笏谷石狛犬」と云う呼称に対しては、このタイプの「狛犬」の代表例の一つである、「白山比咩神社・宝物館」収蔵の一体は、「笏谷石」製ではなく、また、より後の時代の新しいスタイルの「狛犬」も「笏谷石」で造られた物は多く存際するため、やはり総称としては普遍性がない。

ちなみに、インターネット上で「獅子」あるいは「狛犬」などについて数々の秀逸な議論を展開している「liondog」氏は、「越前禿狛犬」を「越前古式狛犬」と呼び、その他、後世のものを「越前新式狛犬」と呼び分けている。この卓越した所説も捨て難かったのだが、これだと、近年「福井」の地元グループ「市民まちづくりゼミナール」などが「越前狛犬」と云う総称を提唱しつつ、それをさらに「禿型」「しぼり出し型」「新式」の三つのサブ形式に分類していることと対応させた場合、「古式」と「新式」の分かれ目が混沌としてしまう問題があるため、筆者としては「越前禿狛犬」と云う呼び方に賛同したのである。

この地元グループの三分類は、そのまま使えば整合性の高いものと思えなくもないのだが、上位形式名として「越前狛犬」を設定している辺りに、地域興しの狙いが、学究的な誠意に優先され、無闇に呼称上の分類を複雑にしていると云う点で共感出来ない。また、三分類における「しぼり出し型」と「新式」の形式的な区別についても、いまだ曖昧な点が目立ち、筆者の個人的見解としては、これら二つの分類はほぼ同一のものと思われる、と云うのも筆者がこの分類に賛同出来ない理由の一つである。

要するに、「たくき」氏の命名には、地域分類上の用語と視覚的な特徴を表わす用語が過不足なく簡潔に籠められており、「liondog」氏の命名法は、分類上の整合性と云う点で極めて優れているのである。にも関わらず、後者の場合は、最近の地元グループなどによる地域興し願望を優先させた、混乱した三分類と命名が部分的に被ってしまうために、その有用性を発揮出来なくなってしまっているのは、残念な限りである。
 
ところで、この「越前禿狛犬」の特異性は、その姿形だけにある訳ではない。このタイプの「狛犬」は小さいものが多く、現存する遺物の祭祀例などを鑑みると、元々は「社殿狛犬」として屋内で祭られていたものと推測されるのである。それが、「越前禿狛犬」でも、やや後世の作例になると、像容も少しずつ大型化し、次第に「参道狛犬」へと転じていった跡が、はっきりと見て取れると云う意味で、極めて重要な「狛犬」群を成しているのである。

「糟目犬頭神社」の「唐猫」は、「越前禿狛犬」のうち、制作年代の分かっているものの中では、実は最も初期のものなのである。このタイプの古い遺物としては、「京都府福知山市 (旧・大江町) 」の「豊受神社」にある「越前禿狛犬」があり、元和七年 (1621) と刻銘されている。「弘前市」には、三体の同系統の「狛犬」が残されるが、いずれも寛文四年 (1664) と刻まれている。「大阪府守口市」の「津嶋部神社」にある「越前禿」には、慶長十三年 (1608) 紀年名があると云う (奈良文化財同好会、1999) 。

「たくきよしみつ」氏は、1600年代と云うのが、「越前禿狛犬」にとって、どのくらいに古い年代なのかを次のように説明している。
 
加賀百万石で知られる米所・加賀藩は、大阪で毎年七万石以上の米を売りさばいていましたが、瀬戸内海と関門海峡を経た日本海側の航路を使って米を運ぶのに初めて成功したのは寛永十六年 (1639) とされています。後に、幕府がこれに倣って、河村瑞賢に命じて出羽国の米を大阪へ運ばせるのに成功したのが寛文十二年 (1672) 。これが有名な「北前船」の始まりです。つまり、大江町や岡崎市にある越前禿型狛犬は、公式な北前船航路開通以前に運ばれたことになるのです。これがまず驚くべきことのひとつ。
 
次に、関東地方最古の狛犬とされるのが日光東照宮奥の宮参道にいる狛犬で、寛永十三年 (1636) の建立。橋本万平さんは、これが狛犬が参道に設置されるようになった始まりで、それを知った江戸の庶民が、自分たちの町の神社、先祖ゆかりの神社に狛犬を奉納するようになったという説を唱えたことがあります。しかし、慶長年間や元和年間の禿狛犬の存在は、その橋本説に疑問を投げかけています。
 
越前禿型狛犬は、もともとは木造の神殿狛犬を石で造ったと思われます。つまり、最初は屋外ではなく、社殿内に置かれていたのかもしれません。しかし、発注しているのは地方の武士や豪族でしょうから、庶民がまったく目にすることがなかったとも考えにくく、その意味では宮中や有名神社の奥深くにあった神殿狛犬とは違うでしょう。神殿狛犬と参道狛犬を結ぶ貴重なリングの役割を果たしていると考えられま
す。
 
たくきよしみつ『狛犬ネット』
「狛犬分類学 4・越前禿」より
 
要するに、「糟目犬頭神社」の「唐猫」と、その五年後の慶長十五年 (1610) に奉納された「狛犬」は、その両者が「笏谷石製」の「越前禿」型であること、その設置場所が屋内か、覆い屋の下であること、後者が前者に比べて大型化していることなど、一つの神社の中にあって「石造狛犬」がどのように「参道狛犬」へと変化したかの過渡的な過程をそのまま内在化させて保存していると云う点で、「参道狛犬」の発展史上、刮目すべき存在なのである。

筆者は、もちろん「狛犬」の発展史そのものを論じようとしているのではなく、「糟目犬頭神社」の小型石造「狛犬」が、「唐猫」と呼ばれていると云う事実に興味を抱いているのは自明のことだが、そのような興味関心から見ても、この「唐猫」が「石造狛犬」の発展の歴史過程の中にあって、かなり特異な位置にあることは、極めて興味深い事実なのである。

要するに、「糟目犬頭神社」の「唐猫」像は、同社に奉納されたもう一対の「越前禿」方の「駒犬」と併せて考えた時、以下の事実を明らかにしてくれるのである。

1. 「唐猫」と云う言葉自体が、慶長五年時点の「岡崎」で、現に使用されていたことが分かる。
2. 「唐猫」と云う言葉が、「石造狛犬」を指すのに使われていたことが分かる。
3. 同じ場所で、同じ物を指すのに、慶長五年から同十年の間に、言葉が「唐猫」から「駒犬」に変わっていることが分かる。

特に第三点に関しては、「糟目犬頭神社」所蔵の慶長五年奉納の「唐猫」一対と、同十年に奉納された「駒犬」一対は、その石材の産地も同一で、その造形の様式にも連続した共通性が見られ、しかも時代も五年しか隔たっていないのだから、「唐猫」と云う言葉に代わって、「コマイヌ」と云う言葉が一般化していく時期を、ほぼ正確に我々に示していると云う点で極めて重要な論点だと云えるのである。

「狛犬 こまいぬ 」と云う言葉自体、「慶長期」頃にいきなり我が国語に普及したものではなく、「平安」の古きから、特定の様式を持った「獅子」様の造形物を指す語として、中央貴族らに使用されていることが知られている以上、ここでは「唐猫」の方が地域的・局地的な特殊性を有しているものと判断して間違いはなかろう。ただ、今回の一連の記事とは別に、本ブログの他の「唐猫」関係記事でも見てきた通り、現在の我が国にも、「東北地方」や「鹿児島」周辺などを中心に「からねこ」と云う方言は残されており、特に「鹿児島」周辺では、「からねこ」が「狛犬」を指す語として近年まで使われてきたと云う事実がある。そのため、「尾張・愛知」地域で、「中世末期」の頃に、「唐猫」と云う言葉が、特定の対象
特に「獅子・狛犬」系の造形物—を指す言葉として使用されていたと仮定出来たとしても、それが現代の方言地図における「からねこ」の分布にどの程度直接関わってくるかに関して、筆者は言及しようとは思っていない。

いずれにしても、「三河・尾張地方」で「唐猫」の語彙が、衰退していったのが「近世初期」の慶長年間だったとするならば、「上前津」の「おからねこ」の信仰の形成は、少なくともそれ以前だったと考えるのが妥当である。今後は、この時代的な枠組を念頭において、この地域での「狛犬の頭」、すなわち「獅子頭」に対する信仰の有無を探っていくことになる。

ただし、その前に、「糟目犬頭神社」の縁起の中心をなす「飛犬頭」伝説を巡る諸伝説を考察することを通して、我が国においてこれらの伝説が、「犬の忠義」ではなく、「犬の霊威」、特に「犬の頭部の霊威」に語りの中心があることを見ておくこととしたい。しかも、それはそのまま、「上前津」の「おからねこ」と「糟目犬頭神社」のつながりを明らかにする作業でもある。



3. 「おからねこ」とのつながり —「犬の頭」の霊威について—
 
おから猫04
『尾張名陽図会』挿絵 (拡大) の「おからねこ」
 
「名古屋市中区・上前津」の「おからねこ」は、「猫の神様」と云う伝承を持ちつつも、その由来をほぼ失ってしまっているために、現在は、神社側から、明治四十二年 (1909) に新たに創り出された「大直禰子神社」と云う社名と、「記紀」から写し取っただけの由緒を被せられ、その「おから猫」伝承に終止符を打たれようとしていることは、前々回記事で見た通りである。

そんな状況の中、「おからねこ」と「猫」との結びつきを手繰ってゆく唯一の便りは、『尾張名陽図会』にある「狛犬=唐猫」転化説だけなのである。ただ、『尾張名陽図会』は文政期 (19C初) の成立とは云え、「おからねこ」について記した最古の文献であることは軽視されるべきではなく、天保期 (19C前半) までに成立した『作物志』も、戯文ながら、「おからねこ」を「猫」扱いしていることは忘れてはならない。何故なら、この二つの事実は、十九世紀の初頭にあってなお、「上前津」の「おからねこ」は「猫」として意識されていたことを意味するからであり、またその裏には「狛犬」のイメージが介在していることも明らかにされるからである*。
 
* 『作物志』における「背に数株の草木を生」じ、神社境内に「わだかまりて寸歩も動かず、一声も吼ず、風雨も避けず、 寒暑を恐れ」ぬ「猫」の如き「異獣」と云うのが、「狛犬」の謂いであるのは明らかである。
 
以上が、『尾張名陽図会』の記す転化説の強みなのだが、その他にも、「名古屋」近郊の「岡崎市」に鎮座する「糟目犬頭神社」の「狛犬」が「唐猫」と呼ばれている事実は、この説の信憑性を高らしめている。しかも、「おからねこ」の伝えでは、「からねこ」の「頭部」が非常に重要なモチーフとなっているが、これは「岡崎・糟目犬頭神社」を始めとする「三河の犬頭神社」群の「犬頭」のイメージ性ともつながるのである。要するに、「上前津」の「おからねこ」は、一見したよりも、「糟目犬頭神社」の「唐猫」との接点が多いと云えそうなのである。


A. 「糟目犬頭神社」縁起、再訪


前回の記事で、この「糟目犬頭神社」の由緒について、既に軽く触れたが、ここからはその歴史的な成立過程を意識して、より本格的にその来し方を概観していこうと思う。まずは、「尾張藩」の「天野信景」が著した『塩尻』巻二十八に記されている縁起から見てみよう (巻五十七にも同様の記事あり) 。
 
上和田村に首犬頭神の祠あり。傳へいふ、和田某晝寢せし時、近池の大蛇これを呑んとはひよりけるを、手飼の犬彼蛇をふせぎあれわたりしに、和田氏目をさまし、己れをあやまつと思ひ犬を切ころしけり。後其事をしり悔て、犬頭を捨てし所に祠を立まつりし社といふ。
 
天野信景 (c. 1705) 『鹽尻』卷二十八、寳永年間
日本随筆大成編輯部/編 (1977) 『日本随筆大成・第三期 14』吉川弘文館、pp.86-87
 
『塩尻』以降の文献では、「糟目犬頭神社」縁起譚に登場するのは、「和田氏」ではなく、「大久保氏」の支族「宇津氏」と云うことになっている。これは縁起の変遷と云うよりは、単純に「和田城主」を「和田氏」と見なした「天野信景」の誤りと思われ、後の「大久保氏」の祖「宇都宮氏・宇都氏・宇津氏」とするのが正しいようである。あるいは「天野信景」は、この伝承を「宇津氏」より遡るものと見なして敢えて「和田氏」と記したのかは、今の時点では分からない。あるいはまた、この神社の縁起が、いまだ後世の形に落着していない過渡期に「信景」が聞取りをしたのかも知れない。仮に、ここの縁起が既に確立していたとしても、「天野信景」ほどの碩学が、地元に近い「糟目犬頭神社」の縁起を聞き間違えたと云う事実は、その縁起が「三河・尾張」地域でも、当時はあまり広く知られていなかったと云う事情を示唆していると云える。

しかし、「天野信景」の記す「犬頭」縁起譚における、最も注意すべき点は、その中に「犬の頭が飛ぶ」と云う大切なモチーフが含まれていないことである。これが「信景」の書き落としなのか、当時はいまだ縁起譚が正確に出来上がってなかったからなのか気になるところである。『塩尻』の記述からおそらく、十年と経たないうちに刊行された『和漢三才図会』では、既に領主は「大久保一族・宇津氏」になっており、「飛犬頭」のモチーフも含まれているのだから、「信景」の記述に於けるこの点の脱落は、否が応でも気になる。以下、『塩尻』の記述からおよそ四十年ほど後の『諸国里人談』と併せて記す。
 
犬頭社 在二上和田森崎一 社領四十三石
犬尾社在下和田天正年中領主宇津左門五郎忠茂一-時獵入山家有
白犬從走行到一樹下忠茂俄-爾催睡-眠犬在傍咬衣裾稍寤復寐犬頻吠于枕-頭忠茂怒熟-睡腰刀犬頸頭飛于樹梢嚙-着大蛇頸主見之驚切-裂而還家感犬忠情頭尾於兩和田村祠祭之 (中略) 宇津氏大久保一族先祖也
 
私訓】犬尾社ハ下和田ニ在リシモ、天正年中、領主・宇津左門五郎忠茂、一時、獵 カリ シテ山ニ入ル、家ニ白犬有リ、從テ走行ク、一樹ノ下ニ到ルニ、忠茂、俄-爾 ニハカ ニ睡-眠ヲ催ス、犬傍ニ在リ、衣ノ裾ヲ咬 クハヘ テ、稍ク引ク、寤 サメ テ復タ寐 ル、犬頻ニ枕頭ニ吠フ、忠茂、熟-睡ヲ妨クルヲ怒テ、腰刀ヲ拔テ、犬ノ頸ヲ切ル、頭、樹ノ梢ニ飛テ、大蛇ノ頸ニ嚙-着ク、主之ヲ見テ驚キ蛇ヲ切-裂キ、家ニ還ル、犬ノ忠情ニ感シ、頭尾ヲ兩和田村ニ埋ミ、祠ヲ立テ、之ヲ祭ル (中略) 宇津氏ハ大久保一族ノ先祖也
 
寺島良安/編 (c. 1712) 『和漢三才圖會』卷六十九「參河國」正德二年頃
九州大学デジタルアーカイブ
 
犬頭社  犬尾社は下和田にあり
 
三河國碧海郡上和田村 岡崎に近し に犬頭社といふあり。 (中略) ○天正年中領主宇津左衞門五郎忠茂、ある時獵して山に入、一樹の下にして俄に睡を催しけるに、手飼の白犬、裾を咬て行に目を寤し、又睡るに犬、頻に枕の上に吠る。睡眠の妨を怒て、腰刀を拔て犬を伐る。その頭飛て樹の上の□蛇* の頭に嚙付たり。忠茂、これを見て大きに驚き、則□蛇を殺す。彼犬の忠情を感じ、兩和田村に犬頭犬尾を埋て是を祭る。 ▲東君聞召甚感ジサセ玉フ

 
* □は「虫」扁に「白」。「蛇」と合わせて「うはばみ」と訓む
 
菊岡沾涼 (1743) 『諸國里人談』寛保三年
日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成・第二期 24』吉川弘文館、p. 429
 
『和漢三才図会』『諸国里人談』の縁起譚は、ほぼ現在伝わる形に仕上がっているが、それでも現在の由緒とは、主人公の名前や年号など、わずかだが異なっている部分も見られる。近年の由緒は、既に前回記事の「糟目犬頭神社」の紹介部分で、『平成「祭」データ』に載る縁起を記しているので、そちらを参照されたい。念のために、相違点を挙げておくと、1) 年号が貞和二年 (1346) になっていること、2) 「上和田城主」の名が「宇都宮泰藤」になっていることが挙げられる。

実は、「糟目犬頭神社」には、「新田義貞 (1331-1338) 」の首を祀った「首塚」が元となったと云う裏の縁起もあり、現在の境内では、「弁財天」を祀る浮き島となっている場所が、本来の「首塚=犬塚」だとされていることは、これまた前回記事で触れた通りである。創建時の領主を天正年間 (1573-1592) の「忠茂」から、「南北朝期」の「泰藤」に変更しているのには、おそらく年代的に「新田義貞」の時代と符合させるためだと思う (それでも正確には合っていないのだが...) 。この「泰藤」伝承がいつ頃から語られているのか、精しいことは分からないが、筆者の知る限り、慶応・明治初年頃に「豊橋市」の「羽田八幡宮」の宮司であった「羽田野敬雄」が著した『三河国事蹟考』には載せられている。「羽田野敬雄」自身、この著作の中で、「犬頭神社」縁起の考証を行なっているので、ここにその該当部を引くこととする。ただし、原書が筆者の手元にないため、ここでは「吉田東伍」の『大日本地名辞書』から孫引きすることとする。
 
犬頭神社は (中略) 文和二年*、上和田城主宇都宮泰藤、飼犬の爲めに蛇の危難を免れたるに因り、熊野社の末社に犬頭靈神を祝ふと傳ふ、三川雀、三河堤、删補松等には泰藤といはず、大久保忠俊の父の事とす (後略)
 
* 文和二年=西暦1352年
 
羽田野敬雄 (c. 1868) 『三河國事蹟考』慶応・明治初年頃
吉田東伍 (1917) 『大日本地名辭書 5』北国・東国、富山房より引用
 
ちなみに、上記文の「三川雀〜」以下が、『三河国事蹟考』の原文なのか、「吉田」博士の筆なのかは原書に当たってみないと判然としないのだが、『三河雀』は宝永四年 (1707) 、『三河删補松』は安永四年 (1775) 、『三河堤』は寛政二年 (1790) 頃の成立であるから、この時期までは、「犬頭神社」縁起譚の主人公は、「忠茂 (大久保忠俊の父) 」とされていたようである。何よりも、筆者が調べたところ、「愛知県立図書館」が「貴重本デジタルライブラリー」で公開している天保七年 (1836) 成立の『参河志』によれば、やはりこの縁起の主人公は「忠茂」と書かれているので、「泰藤」伝承の流布した時期は、「幕末」まで下ることになる。面白いのは、上の「愛知県立図書館」公開の写本に、「羽田野敬雄」の書き入れがあることで、彼は『三河國事蹟考』を記すに当たって、敢えて「忠茂」を「泰藤」と記録したことになる。この辺りの事情については、いずれはっきりとさせたいと思っている*。
 
* この縁起の推移は、「江戸後期」における「尊皇論」の勃興と深い関係があるのではないかと、現時点で筆者は考えている。すなわち、「江戸前中期」にあっては「徳川家」崇拝が圧倒的に強かったため、地元の「大久保氏」が「徳川家」とつながる契機となった「忠茂」が崇拝の対象として選ばれたのに対して、「尊皇論」によって「南朝正統」論が高まると、「南朝」と連なる「泰藤」に白羽の矢が立てられたのではなかろうか。しかも、「新田義貞」となれば、「徳川氏」自身が「新田源氏」系の「世羅田氏」を祖としていたため、天皇家及び将軍家双方に連なる伝承として好都合だったのだろう。
 

B. 我が国の「飛犬頭」伝説の発祥について

「犬頭神社」の縁起譚の内容に話を戻すと、言うまでもなく、この伝説は、各地に「猫」を主人公とした類話が存在している。「薄雲太夫の猫」の話も、「高山陣屋の猫」も、「仙台」の「若林神社」や「高畠」の「猫の宮」の縁起など、有名な話だけでも、挙げていけば楽に両手に余るだろう。内容は、「犬頭神社」のものとはわすがに異なり、主人公は女性で、厠に行くと猫が必ずついてゆくのを、猫がその女性に魅入った (恋慕して憑いた) 所為だろうと判断した夫や父親が、猫の首を斬り落すと、その首が天井裏に飛んでいって大蛇を噛み殺す、と云うパターンの話である。

「犬頭神社」の縁起譚に見られる「忠義な犬と蛇」型の説話は、古くは『今昔物語集』二十九巻「陸奥國狗山狗、咋殺大蛇語第三十二」にも、「陸奥国」の「犬山」の犬が、大蛇を食い殺した話として見られる、としばしば指摘される。原文は、引用するには長過ぎるので、下に筆者の要約を載せておこう。
 
昔、「陸奥」の賤しい男がおり、多くの犬を飼って、狩りで生計を立てていたため、しばしば二、三日、山で過ごすことがあった。その夜も、大木の洞に入って夜を過ごしたのだが、夜も更けて犬はみな臥したが、殊に勝れた犬だけは俄かに起きて、男の方を激しく吠え立てたが、何も怪しいものはなかった。犬は吠え続け、ついには男に向かって躍りかかってきたので、犬は自分を食おうとしているのだと思い、太刀を抜いて威したが、犬は吠えるのをやめなかった。
 
男は、狭い洞で噛みつかれたらまずい、と思い、洞から外に飛び出すと、犬は、躍り上がって、何かに食いついた。洞の上から犬が落ちてきたのを見ると、その口にしっかりと二丈あまりの大蛇をくわえていたので、男はこれを斬り殺して助かったと云う。

 
参照・作者未詳 (c. 12C前) 『今昔物語集』卷第二十九・第三十二
森正人/校 (1996) 『今昔物語集・五』新日本古典文学大系 37、岩波書店、pp. 368-370
 
このような説話が『今昔物語集』に載っているため、その後の我が国の「忠義な犬と蛇」説話は、すべて『今昔物語集』がその淵源だと考えられたり、「猫」伝説との関係で云えば、一般には、この系統の報恩説話は、「忠義な犬と蛇」説話が先行し、その後にそれになぞらえて「猫」伝説が創り出されたものと考えられている (関、1978 etc.) 。「平岩米吉」の『猫の歴史と奇話』 (池田書店、1980; 68) によれば、この説話の「猫」版で最も古い文献は、万治年間 (1658-1660) 『松下庵隨筆』の記事だと云うから、「犬」の伝説が先行すると考えるのは一応、もっともな説である。しかし、上に見たように、『今昔物語集』では、いまだ「犬」は頭を切り離されていない、と云う点では、必ずしも「犬頭神社」や「猫の報恩」系の諸伝説と一致する訳ではないのである。

そこで、首が切り離される内容を含むもので古い文献はないかと探してみると、「室町中期」頃に成立したとされる『三国伝記』巻二、および文亀二年 (1502) 筆写の『七宝寺縁起』に、次の二つの説話が含まれていた。
 
不知也河狩人事。犬上明神本所也*。
 
むかし、江州、いさや川のほとりに、狩人有けり。出でては、山の鹿 かせき を殺し、菩提を求むることなく、入ては、家の犬を飼ふて、煩惱を厭はす。晝は、千鳥が岡に遊んで、遲々たる春の日を暮し、夜は、鳥籠の山に臥して、耿々たる秋の夜を明かす。かの所は山深うして、うつうつたり。林茂うして、森々たり。ある時、林のなかに入て、獸を射んとするに、日すでに暮れぬ。人跡遠うして、何やらん、ものすごかりしかば、弓に雁俣取そへて、朽木のもとに立ち寄り、夜を明かさんとするところに、比良の片目檢枷といふ犬の子に、小白丸とて、祕藏の犬を引きつれたり。深更及んで、この犬、主に向かつて吠ゆることしきり也。獵師、これをしつすれども、猶とび上がりとび上がり吠えけるほどに、腹を立てて、打刀を拔き、犬の首をうちおとす。その首、朽木の上に飛あがり、大蛇の、獵師を呑まんとて、口を開き、はひさがるのどぶえにかみ付きて、やがて、咋ひ殺しけり。狩人、これを見て、驚き悲しみけれども、詮かたなし。則、そのところに社をたてて、かの犬を神と崇む。
 
今の、犬神の明神これ也。かのところを、犬神の郡と云も、この故也。

 
* 本文は、平仮名本・巻二・第十七話から採ったが、標題は片仮名本・巻二・第十八話から借りた。
 
玄棟/撰 (15C前) 『三國傳記』卷第二、應永・文安年間
名古屋三国伝記研究会/編 (1982) 『平仮名本・三国伝記』古典文庫
鈴木学術財団/編 (1972) 『大日本佛教全書 92』自刊
 
 
山於犬鳴濫觴者、彼古刹數多之送春秋、漸至天德年中、紀伊州池田庄山田某トカヤ云人、獵師ニテ一疋ノ犬ヲ具シテ、葛城ノ山中ニ入、猪鹿狩テ朝夕ノ資糧トス。或時今ノ瀧ノ邊ニ至テ、此犬主ニ向テ吠事頻ナリ。主ノ怪ニヤト驚テ刀ヲ拔、犬ノ頸ヲ打落ス。然ニ上ノ岩崛ヨリ大虵出テ、彼獵師ヲ呑トスルニ覺悟ナカリシヲ、此犬ノ頸飛上大虵ノ喉ニ噉付、兩ナガラ亡ケリ。ゲニヤ畜類ナレドモ恩ヲ報コトノ憐ヲ愁感シテ、獵師立所ニシテ發心シテ、則弓ヲ二ニ切テ率都婆ニ造リ、彼亡獸ニ手向テ其マヽ山林斗藪ノ身ト成畢。獵師知行セシ所ノ田地ヲ悉不動堂ニ寄附ス。 (中略) 山ヲ犬鳴ト稱スル事、此由來ニヨリテナリ。 (後略)
 
九條政基/写 (1502)『七寳瀧寺緣起』文龜二年
宮内庁書陵部/編 (1970) 『諸寺縁起集』明治書院
 
『三国伝記』の成立したとされる応永・文安年間と云えば、十五世紀のことであり、『七宝寺縁起』も、既に門外不出とされていた縁起を、「九条政基」が写したのが文亀二年 (1502) なのだから、縁起書自体はもう少し古くから存在したことになる。これらの年代を見る限り、やはり「飛犬頭」譚が「猫の報恩」譚に時代的に先行することは間違いないようなのだが、『今昔物語集』に比べれば、それでも随分と時代が近づくことも確かである。

いずれにせよ、この『三国伝記』『七宝寺縁起』の説話を以て、我が国に広く見られる「忠義な犬と蛇」説話の類型的要素は、すべて出揃うのである。ここまでくれば、「犬頭神社」の縁起譚も、「巌谷小波」の『こがね丸』として名高い、「千葉県流山市思井」の「犬塚」伝説* なども、みな同工異曲のものだと云える。
 
* 現在はあまり有名でなくなったが、「戦前」は「修身」の教科書に載せられていたため、全国的な知名度を誇っていた伝説である。
 
問題は、これらの「飛犬頭」譚が、世界各地に見られる「忠義な犬」型の説話の類型に、どれほど当てはまるのか、と云うことである。民話学とその周辺の学問では、これまで、「飛犬頭」譚は「忠義な犬」型の説話であると云うことをまったく前提視してきており、「飛犬頭」譚がそもそも、我が国独特の説話かも知れぬと云う事実さえ、ろくに指摘してきていない。もちろん、細かく見ていけば、勉強不足の筆者などが知らないだけで、このような指摘もなされてきたことだとは思うが、全般的な傾向としては、ほぼ等閑視されてきたと云う筆者の感想は動かないだろう*。筆者としては、以下、この点について、少しばかり見てゆきたいとおもう。
 
* 徳田和夫」氏の論考「彼我の『忠義な犬』譚と『犬神明神の縁起』」 (徳田、1990) は、数少ない例外であるが、「飛犬頭」譚の独自性については、専門家らしく、慎重で、控え目な言い回しに終始している。結構な手柄だと思うんだけどなあ...。
 
 
C. 世界の「忠義な犬」型説話について

このような「忠義な犬と蛇」説話などと、それに類する「猫の報恩」譚などを比較して、かの「南方熊楠」は、その「犬の民俗と伝説」の中で、「これらの話、種々異態あれど、もと仏説に出たのだ」と述べ、『
摩訶僧祇律』巻三の説話を紹介している (南方、1926; 499) 。ここでは、以下、原文と並記する煩雑を避け、筆者の危うい『摩訶僧祇律』の訓読のみを載せるので、予め諸姉諸兄の御寛恕を乞う。細かい誤読は措いて、大意は通じているものと思う。ちなみに、「那倶羅 (虫) 」とは、虫の一種ではなく、いまで云う「マングース」のことである。
 
過去世の時、婆羅門あり。 (中略) 婦あり、兒子を生まず。家に那倶羅蟲あり、便ち一子を生む。 (中略) 彼の那倶羅子を念じて、其の兒の如く想ふ。那倶羅子も婆羅門を亦父の如く想ふ。 (中略) 後の時、婆羅門の婦、忽便として娠あり。月滿ちて、子を生む。 (中略) 時に婆羅門、出行して乞食せんと欲す。時に便ち、婦に勅して言はく、汝若し出行せんとせば、當に兒を將て去り、愼んで後に留まること莫かるべし。婆羅門の婦 (中略) 便ち比舍に至りて碓を借り、穀を舂く。是の時、小兒酥酪の香あり。時に毒蛇あり、香に乘じて、來至る。口を張り、毒を吐きて、小兒を殺さんと欲す。那倶羅虫 (中略) 便ち毒蛇を殺す。 (中略) 時に婆羅門、始めて外より來たる。 (中略) 門に入らんと欲して、那倶羅の口中に血あるを見る。 (中略) 瞋恚して言はく、徒らに此の虫を養ひて、其の害するところと爲る。旣ち前の杖を以て、那倶羅を打ち殺す。既に門に入り、内より其の兒を見る。庭中に坐して、指をあじはひて戲る。又、毒蛇七分にして地に在るを見る。是の事を見るに、已に旣ち大いに憂悔す。時に婆羅門、深く自ら苦責す。 (中略) 旣に便ち迷悶して地を躄る。 (後略)
 
北顯ら/訳 (c. 417) 『摩訶僧祇律』卷第三
高楠順次郎/編 (1924) 『大正新脩大藏經 22』大正一切經刊行會、p. 243
国会図書館デジタル資料
 
古代インドには、『摩訶僧祇律』の他に、類話を載せる古典が幾多とあるが、かの『パンチャタントラ』にも同様の説話が採られている。『
摩訶僧祇律』も『パンチャタントラ』も、その成立年代などに関して詳しいことは知れていないが、どちらも紀元前には既にその原型を形成し終わり、『パンチャタントラ』は、紀元後三四世紀の「グプタ朝期」に現存する最古の伝本『タントラ・アーキヤーイカ』にまとまったのではないかと云われている。研究者によっては、その始源は、紀元前十世紀代にまで遡ると唱えるものもいる (Witzel, 1987 etc.) 。
 
婆羅門の妻とマングース

昔、「デーヴァシャルマン」と云う婆羅門があり、結婚して子をなした。時に、雌マングースも、子を産んで死んだ。婆羅門の妻は、仔マングースを哀んで、自ら乳を与え、我が子と同じく撫育した。
 
ある日、妻は、婆羅門に子を頼み、水汲みに発った。婆羅門は、托鉢に去って、子一人残した。時に、毒蛇が現れて子を窺ったので、マングースは、激しく戦って、これを弊した。マングースは、弟を救って喜び、家先で婆羅門とその妻の帰りを誇らし気に待った。
 
婆羅門の妻は帰ると、マングースの口が血塗みれなのを見て、子を喰らったと思い、水壺でマングースを叩き殺した。家に入ると、子は、寝台の上で遊んでおり、寝台の下には毒蛇の屍があった。妻は、事を悟って嘆き悲しみ、自らを呪ったと云う。(抄訳・筆者)

 
विष्णु शर्मा Vishnu Sharma (c. 200AD) पञ्चतन्त्र Pañcatantra
ヴィシュヌ・シャルマ『パンチャタントラ』
参照・
T. Benfey (1859) Pantschatantra, vol. 2, F. A. Brockhaus, pp. 326-327
 
これら古代インドの二つの説話は、早まってマングースを殺すのが婆羅門か、その妻か、と云う違いを除けば、ほぼ一致していると云え、そのことから、このタイプの説話が古代インドにおいては、他所の地域に比べて古いと云うだけでなく*、ある程度以上に斉一的な内容を持って、広く普及・伝播していたと考えられるのである。そのために、「AT (アールネ・トンプソン) 分類」でも、この系統の説話分類「178A」の典型話の一つとして採用されているのであろう。
 
* このすぐ後に言及する『イソップ寓話』を例外とする。
 
しかし、筆者にとっての興味関心は、飽くまでもこの話型の説話が、我が国の「飛頭」伝説と、どの程度、どのような意味で関わるか、と云う点に絞られる。ただ、単に想定しうる起源を明らかにして、世界中に類話があることに感心するのが目的ではない。そこで、普段、このブログでは、諸外国の伝説や説話、民俗などを議論に含めるのは極力避け、国内のものに集中するよう心がけているにも関わらず、ここでは、古代インドに発したと思しいこの説話型が、どのように東西に伝播していったかを、極めて大雑把に見ることで、逆に我が国の同系統の説話の諸特徴を浮き上がらせたいと思う。

まずは、成立時期が知られた中では、古代インドの説話群に次いで古い『イソップ寓話』から。ただし、筆者の探索不足で、次の例話を含む和訳本を見つけることが出来なかった。今後、見つけ次第、筆者の拙訳と差し替えたいと思う。
 
農夫とその犬
 
農夫が、柵に開いた穴を直しに野良に出てから戻ると、ただ一人の子を眠らせた揺籃は覆され、その子の服は血塗みれに引き千切られており、その近くで犬が、これまた血に塗みれて寝そべっていた。犬が子を殺したと思い、農夫は手に持った手斧で犬の脳みそをぶちまけた。揺籃を起こすと、子は傷もなく無事におり、巨大な蛇の屍がその横に横たわっていた。その蛇は、忠義な犬に殺されたのだが、主人の子を助けるために発揮した勇気と忠節に対して、主人は異なる形で犬に報いるべきであった。 (訳・筆者)

 
Αἴσωπος (c. 7CBC) Αισώπου Μύθοι
アイソポス (c. 6CBC) 『イソップ寓話』

L'Estrange & Croxall (1903) The Fables of Æsop, Thomas Y. Crowell Co., pp. 201-202
 
次いでは、「中世」の「ヨーロッパ」の例を、十三世紀から十四世紀にかけての代表的な作品から選んで、時代順に三つ挙げておこう。『七賢人物語』は、『シンディバッドの書』のヨーロッパへの伝本の一つで、多くの異本を生んだ書であり、『ゲスタ・ロマノールム』も類する説話を集めた修身書で、「ヤコブス・デ・ヴォラギネ」の『黄金伝説』と並ぶ人気を博した書籍として知られている。「聖ギヌフォール」については、「松原周一」氏の『中世の説話』 (東京書籍、1979) や「渡辺昌美」氏の『中世の奇跡と幻想』 (岩波新書、1989) などに扱われているが、特に後者が詳しい。
 
聖ギヌフォール

リヨン司教区のヴィルヌーヴと云う修道女村の近くの、ヴィラール・ザン・ドーム領に城があり、その城主には妻との間に一人の男児がいた。だが、城主と奥方と、乳母までが留守にして、赤子をひとり揺籃に残した時、非常に大きな蛇が館に這い入って、赤子の揺籃に迫った。留守番のグレイハウンドはこれを見るや、蛇を追って揺籃の下に駆け込んでそれを倒すと、その牙で蛇を襲い、蛇と犬は互いに激しく噛み合った。終には、犬は蛇を殺し、赤子の揺籃から遠いところにその屍を放ると、蛇によって満身創痍にされたままの姿で、揺籃の傍らに立ったが、揺籃も、犬の口や頭と同様に、蛇の血に塗みれていた。乳母が帰り、これを見ると、子が犬に殺され食われてしまったと思い、あらん限りの悲鳴を上げた。母親はそれを聞きつけて駆け込むと、同じ状景を見て同じく思ったので、やはり悲鳴を上げた。城主の騎士も、現場に着くと、同じように信じ、刀を抜くや、犬を殺した。その後になって初めて、みな赤子に近づき、子が無傷で、むしろすやすや眠っていることに気づいた。丁寧に観察すると、彼らは犬に嚙み裂かれて死んだ蛇を見つけた。いまや、みな、事の真実を知り、彼らにこれほどまでに役立った犬を、かほどまで不当に殺してしまったことに慙じ入り、犬の身体を城門の前の井戸に納めると、上に多くの石を積み、犬の行ないを記念するために、周りに木々を植えた。
(訳・筆者)
 
E. de Bourbon (1240) "De Adoratione Guinefortis Canis", De Supersticione
id. J.-C. Schmitt (1979) Le saint lévrier. Guinefort, guérisseur d'enfants depuis le XIIIe siècle, Flammarion
 
 
騎士とグレイハウンド

非常に立派な騎士がおり (中略) 一人の男児があったが、その子には、愛するあまり三人の乳母をつけていた。 (
中略) 騎士は、子の次に、最良のグレイハウンドと鷹とを可愛がっていた。 (中略) 騎士は馬上試合も大変好きで、ある時、自らの城下で大会を呼びかけ、多くの貴族が集まった。騎士は甲冑を着て館を発ち、妻や家僕もみな続いた。乳母たちも、赤子をひとり揺籃に置いて出かけた (中略) 。猟犬は壁際に寝そべり、鷹は止まり木に繋がれていた。以前から人知れず館の穴に棲んでいた蛇が、皆が大会見物に出かけたのを聞きとって、 (中略) 赤子を食い殺そうと揺籃に迫った。それに気づいた鷹は (中略) 翼を羽ばたかせたため、犬は目を覚まし、 (中略) 蛇に向かって突進した。二匹が (中略) 激闘している間、犬は蛇に噛みつかれて激しく出血し、揺籃の周りの床一面が、犬の流した血で覆われた。 (中略) 犬は、蛇に跳びかかって激しく争ううちに、揺籃をひっくり返した。 (中略) 終に犬は蛇を殺し (中略) 壁際に横たわって傷を舐めた。 (中略) 乳母たちが最初に帰ると、揺籃が覆り、周りの床と犬が血だらけなのを見て、犬が赤子を噛み殺したと思い、言い争った。 (中略) 私たちは御主人様に罪を問われて殺されるわ、と云って逃げる途中、奥方と鉢合わせになり、どこへ行くのか問われて、 (中略) 犬がお二人の子を噛み殺して寝そべっているのです (中略) と告げた。奥方はそれを聞くや (中略) 嘆き叫びつつ、その場にひれ伏した。馬上試合から戻った夫は、妻のあまりの悲嘆に、その訳を詳しく尋ねた。 (中略) 激怒した騎士が広間に駆け込むと、主人を見た犬は、いつものように身を起こしてすり寄ったが、騎士は剣を抜くと、その首を叩き斬った。それから駆け寄って揺籃を起こすと、赤子は無事で、傍らに蛇の屍を見つけたため、騎士は (中略) 犬が赤子を守って蛇を噛み殺したことを知った。騎士は激しく嘆き、涙を流し、髪を掻きむしって (中略) 息子の命を救い、蛇を殺した、かけがえのない犬を、妻の言葉のままに、殺してしまった (中略) と泣き叫ぶや、槍を三つに折り、裸足で聖地に旅立ち、その地で残りの生涯を過ごした。 (訳・筆者)
 
Anonymus (1342) Die Historia septem sapientum nach der Innsbrucker handschrift
作者未詳 (1342) 『七賢人物語』インスブルック写本・羅語版
Alfons Hilka (1912) Historia Septem Sapientum I, Carl Winter

 
 
フォリキュルスとグレイハウンド

狩猟と馬上試合が好きな騎士フォリキュルスには、一人きりの男児があり、乳母が三人も付けられていた。彼は、子の次には、我が鷹とグレイハウンドを愛していた。

ある日、彼は馬上試合によばれ、妻と家僕たちもみな連れて出かけ、揺籃には一人息子を、そしてその傍らにはグレイハウンドと止まり木に繋がれた鷹を置いていった。城の近くの洞に棲む蛇は、城を包む静寂に乗じて、巣穴から這い出ると、赤子を呑み込まんと、揺籃に迫った。鷹は危険を察知して、犬が目覚めるまで激しく羽ばたき、犬は瞬時に侵入者を襲うと、自らひどく傷つきつつも、激闘の末、蛇を弊した。それから、犬は、自らの負った傷を舐めるために、地に横たわった。

乳母たちが戻ると、揺籃がひっくり返り、子は投げ出され、床も犬も血に覆われているのを見て、瞬時に犬が子を殺したと思った。主人夫妻の怒りを怖れて、乳母たちは逃亡することに決めたが、その途次、奥方に遭遇したため、犬による子の殺害容疑の報告をせざるを得なくなった。

すぐ後にやってきた騎士も、悲痛な話を聞き、激しい怒りに、現場に急ぎ走った。哀れにも傷ついた忠義心あふれる犬は、いつもと変わらぬ愛情で、身を起こして主人を迎えようとしたが、怒り狂った騎士は、刀の切先でそれを迎え、犬は命を失って地に崩れ落ちた。

揺籃を見ると、子は無事に生きているのが見つかり、横には蛇の屍があった。いまや騎士は、事の次第を悟り、忠犬の死を悲痛に嘆くや、妻の言葉をあまりに性急に恃んだことで自らを責めた。そして、騎士の道を棄て、槍を三つに折り、聖地巡礼の誓いを立てるや、その地で残りの一生を平和に終えた。
(訳・筆者)
 
作者未詳 (14C初) Gesta Romanorum
C. Swan (1877) Gesta Romanorum, trans. from the Latin, George Bell and Sons, pp. xlii-xliii
 
この他に、「忠義な犬と蛇」の系統の説話で、英米で群を抜いた知名度を誇るものに、「ルーウェリンとその犬ゲラート」の物語がある。これは詩人「スペンサー W. R. Spencer 」が『ベズゲレルト、或いはグレイハウンドの墓』 ("Beth Gêlert; or, the Grave of the Greyhound", c. 1800) と云う美しい詩を謳い上げてから、急に巷間に膾炙されるようになり*、「南方熊楠」も「犬の民俗と伝説」の中で、西洋の話例として、真っ先にこの伝説に言及しているほどである。「アールネ・トンプソン」の分類型でも、この話型の典型話の一つに挙げられている。
 
* かの「ヨゼフ・ハイドン」が「スペンサー」の詩に、地元「ウェールズ」のアリア「エリーリ・ウェン」の曲を合わせて流行させた (Morgan, 1983) 。この曲自体は、「E. ジョーンズ」の『ウェールズ吟遊詩人の音楽と詩』 (1794) に初めて記録された (Edward Jones, Musical and Poetical Relicks of the Welsh Bards, 2nd ed.) 。 
 
 Gelert.jpg
『ゲラート』
Gelert by Charles Burton Barber
from Wikimedia Commons, Public Domain
 
名犬「ゲラート」は、主人の留守中に、赤子の命を狙った狼を斃して血塗みれになり、帰って来た主人に、赤子を喰らったと誤解されて殺害されるのだが、この伝説の故地「ベズゲレルト」には、この犬の墓まで建てられているため、この伝説を史実として疑わぬ人も多いと云う。

これに対しては、古くは犬研究家の「P. ガードナー」が、ある伝説が広く民間に流布しているからと云って、それが史実だとは云えないと記し (Gardner, 1931) 、「J. フィスク」は、さらに一歩踏み込んで、「ゲラート」の類話が世界各地に分布することから、これを史実と考えることも、「ウェールズ」固有の伝説と考えることも出来ないと述べ、多くの「ゲラート」伝説ファンに失望を与えた (Fiske, 1942; 7-8) 。しかし、近年は、さらに衝撃的な事実が明らかにされているのである。

犬研究家の「E. パーカー」は、1899年に発行された「D. E. ジェンキンズ」氏によるガイドブックにある現地調査の記述を元に、「ゲラート」の伝説は、「ベズゲレルト」の「ロイヤル・ゴート・ホテル」所有者の「デイヴィッド・ プリチャード」によって、観光客を引き寄せて、金儲けを図るために、1793年頃に創作された「作り話」であると指摘している (Jenkins, 1899; 56-73 / Parker, 1949) 。我が国では、今でも「ゲラート」の話を「忠義な犬」の典型話として採り上げる研究者が多いが、一方で、我が国初の犬の本格的な民俗誌の本と云える『犬のフォークロア』の中て、「大木卓」氏は、既にこの「プリチャード」による伝説の新造を採り上げている (大木、1987; 160) 。

とは云え、いまや「ウェールズ」の国民的な伝説となった説話の存在を全否定するこの議論の重大性を鑑み、典拠を明らかにすると云う意味合いから、「パーカー」が「ジェンキンズ」氏の調査結果を紹介している該当箇所の原文を載せておくこととしよう (ジェンキンズ氏の原書は、転載するには該当箇所が長過ぎるので避けた) 。

 
It is that in the year 1793, before which date no one in North Wales had heard of a dog named Gelert, a certain enterprising person of the name of David Pritchard, came north from South Wales to Bedd Gelert and took up his residence of the Royal Goat Hotel. He needed customers; how should he attract them? The name, decided Pritchard, the name of the place, the "grave of Gelert", shall bring them to my inn. Was there not a Welsh proverb, "I repent as much as the man who slew his greyhound"? Then here shall the greyhound have been slain, and his name shall be Gelert. All that was necessary was help from the parish clerk, and the placing of a gravestone on a suitable spot; so the stone was placed and the story told, among others to William Robert Spencer, who made a set of verses about it, and so came the name into the speech and hearsay of local tourists in Wales, from the nineteenth century to this day.
 
E. Parker (1949) Best of Dogs, Chapter X, Hutchinson
http://www.irishwolfhounds.org/parker.htm
 
私訳】それまで、北ウェールズの誰もゲラートと云う名の犬のことを聞いたことがなかった1793年と云う年に、デヴィッド・プリチャードと云う企業心あふれる人物が、南ウェールズから北部のベズゲレルトに移って居を構え、ロイヤル・ゴート・ホテルの営業に身を乗り出した。彼は宿泊客に切実に来てほしかったが、どうすれば人々を引き寄せられるか? そこでプリチャードは、土地の名前、「ゲラートの墓」と云う意味にもとれる土地の名前を使って、人々を自分のホテルにおびき寄せようと決めた。ウェールズには、「私は自分のグレイハウンドを殺してしまった男ほどに後悔している」と云う諺があるではないか。ならば、この土地こそが、そのグレイハウンドが殺された土地だとしよう、そしてその犬の名前はゲラートだと。必要だったのは、教区の牧師のちょっとした手助けと、相応しい場所に墓碑を据えることだけだった。かくて墓碑は据えられ、物語は語られた。ウィリアム・ロバート・スペンサーもその物語を聞き、それを詩に謳い上げた。このようにして十八世紀から今日に至るまで、ウェールズを旅する観光客の口説や伝聞に、ゲラートの名前がのぼらぬ日はなくなったのである。
 
桂冠詩人「ワーズワース」は、1791年の夏、友人「ロバート・ジョーンズ」と共に、「ベズゲレルト」に近い「スノードン山」の頂上から日の出を眺めようと、夜中、羊飼いの案内で山を登ったときの啓示に近い体験を元に、かの『プレリュード』 (1890) の一節を賦している。しかし、この詩人が後年、再び同地を訪れたとき「ほぼ三十年前、スノードン山頂に深夜登るに際し、私が軽食を取ったみすぼらしいパブは、瀟洒なホテルになっていた」と驚いていたと云う (古賀、2004; 341) 。「プリチャード」の奸計について、何ら知るところのなかった「ワーズワース」の驚きに、我々はむしろ鮮明に事の劇的な経緯を感知することが出来るのである。

いずれにせよ、以上のような理由で、筆者は欧米で名高い「ゲラート」の物語を本稿の考察には含まないことにしたのである。この件については、より近年では、「P. モーガン」が、「ウェールズ」の近代史の枠組の中で、「ウェールズ人」の近代的な国民意識の黎明を画した文化復興と故郷の再発見と云う視点から考証している (Morgan, 1983) 。この論考での問題意識は、ある意味で「近世」における「国学」の勃興と、国民意識の高揚が深い関係を持ち、かつこの時期に各地で名所旧跡を同定しようとする運動が、観光業と云う新しい産業の誕生とも連関して盛んになったと云う、我が国の事情とも相通ずる点があり、その意味では前回記事における筆者の潜在的な問題意識とも重なってくると云える。「モーガン」の論考は邦訳も出されているので、御興味のある方は、是非、御参照下さい (前川啓治/訳『創られた伝統』所収) 。ただし、かなり読みにくい邦訳になっているのが残念ではある。


D. 「忠義な犬」説話の比較

さて、ここまでに「インド」から「ヨーロッパ」にかけての「忠義な犬と蛇」説話の代表的なものを見てきたのだが、これらはどの程度に互いに異同を有し、また、我が国の類話群とも、同じく、どの程度の異同を有すると云えるのだろうか、と云うのが、筆者の目下の関心である。この比較を容易にするために、あらすじは別として、主な相違点を中心に、諸国の「忠義な犬と蛇」説話の個別の特徴を決定する要因を、以下、大きく五つの項目にまとめてみた。
 
①動物の戦いは主人公の目の前で起きるか
②仮想の被害者は誰か
③主人公以外に登場人物はいるか
④忠義の動物の首は飛ぶか
⑤主人公たちが最後にどのような言動をとるか

 
一見しただけでは分かりにくいかもしれないが、ここで、この五つの要因は、相互に関連し合うものと、他とは独立したものとの二つの種類に分けることが出来る。つまり、前の①②③は、互いに連動的に関連するもので、例えば、動物の戦いが主人公の目の前で起きないならば、仮想の被害者は主人公ではあり得ない、などと云うように、一つの要因が他の要因と密接に関わって、説話全体の運びに、ある種の規制力を発揮しているのである。つまり、これらの差異としての要因は、実際には説話の進行を巡る時空上の配列と関わるものであると考えれば、大きく一つのブロックにまとめてもよい項目群だとも云えるだろう。

とは云え、これら三つの中では、空間上の配置を決定する①が最も重要である。何故ならば、②③は、①による空間的配置の決定に付随し、それによってのみ、全体の筋としての時系列を結果的に創り出していると云えるからである。いずれにせよ、ここでは、あらすじと関係がないために、あまり表立った重要性がないかに見える空間の譬喩が、実は、説話の「意味の決定」と云う点では極めて重要な役割を果たしていると云うことを覚えておきたい。
 
逆に、互いに、筋の中での関わり合いがないのが④と⑤の特徴で、その意味で、これらは独立した項目だと云える。すなわち、これらの特徴は、説話の顕在的な内容に関わる部分では、必ずしも必要のない要素なのである。これは例えば、④などは、犬の首が飛ぼうが飛ぶまいが、要するに犬が蛇を殺し、主人公が犬を殺してさえいれば、話の筋と云う意味では、もはやあってもなくてもよい要素のはずなのである。⑤ も同様に、それが主人公の悲嘆や後悔、自責の念を表わすだけならば、本来は恩人である犬を主人公が誤解から殺してしまうと云う語りが完結していれば、そこに悔悟や自責の念が表われるのは当然の成りゆきであって、その後の主人公たちの言動は、表面的には、ただの修飾的な意味合いしか持ち得ないのである。

しかし、このようなどうしても必要な訳ではない要素が、ある系統の説話群に共通して付随していると云う事実こそ、それら要素に単なる修辞的な意味合いを超えた重要性があることを我々に示唆しているのである。それ故に、それらは返ってその説話に別の象徴的な意味を付加していることが明らかにされ、そのためにこそ、④⑤の方が、それぞれの説話とそれを語り伝えた集団の性質・特徴をより強く反映しているのだと、筆者は考えている。

いずれにせよ、以上の考察を土台として、「忠義な犬と蛇」説話の、説話としての骨格を、我が国と諸外国のものとの間で比較してみると、次のような表になった。と云うよりも、比較作業を通して分類を試みたら、必然的に日本と諸外国の対比となった、と云う方が正確であろう。念のために断っておくと、我が国の話例は、おおよそ三つ紹介したが、『今昔物語集』のものだけ、基本的構造に他と異なる部分が多かったため、ここでは『今昔物語集』は例外的なものとして扱い、他の説話を中心に比較を行なった。
 

「忠義な犬と蛇」説話の比較
日本インド〜ヨーロッパ
留守の性質留守の外出先留守中の家
動物の戦いの場主人公の目の前主人公不在
仮想の被害者主人公
主人公の子
見えぬ敵
誤解の要因主人公に激しく吠え立てる蛇を殺した血に塗みれている
誤解の結果斬られた首が飛んで蛇を殺す斬り殺される
主人公の
最終行動
犬を神に祭る倒れる、自らを呪う、
世を捨てる、etc.
蛇を殺す
タイミング
自分が殺されてから自分が殺される前
 
この表が明らかにする「忠義な犬」説話の二つの系統と云うのは、次のようなものだと云えるだろう。すなわち、第一は、我が国以外の「忠犬」伝説に見られる特徴的な筋で、それは...
 
①主人公の留守中の家で、
②主人公の子が、
③見えぬ蛇に襲われそうになったのを、犬は蛇を殺すことで未然に防ぐ、

 
...と云うものである。それに対して、第二の系統は、我が国の伝説に顕著に見られるもので...
 
①主人公の出掛け先で、
②主人公自身が、
③見えぬ蛇に襲われそうなのを、犬は
④斬られた首を飛ばして、蛇に喰らいついて殺すことで未然に防ぐ、

 
...と云うものである。これも念のために、表にまとめると、④の「余剰性 redundancy 」が、一層はっきりと見て取れるだろう。
 
「忠義な犬」説話の二系統の骨格
諸外国=第一系統つ日本=第二系統
①主人公の留守宅で、①主人公の出先で、
②主人公の子が、②主人公自身が、
③見えぬ蛇に襲われそうなのを、③見えぬ蛇に襲われそうなのを、
犬は...
蛇を嚙み殺すことで、危機を回避
犬は...斬られた首を飛ばして、
蛇を嚙み殺すことで、危機を回避
軽卒・性急を諌める教訓
 
さらに云うならば、諸外国のバージョンでは、おおよそ主人公の行動の軽卒・性急を諌めることが目的になっており、殺してしまった犬に対しては、憐れみ以外の特別な感情は、「イソップ」が不当感を訴えている他は、まるで現れていない、と云う特徴がある。したがって、主人公の最終的な行動と云うのも、自らを痛めつけて罰したり、世を捨てて隠棲したりと、主に自ら不正義をなしたことに対する悔恨と贖罪と云うことに焦点が当てられている。そして、上で「忠義な犬と蛇」説話の第一系統と名づけた説話群のみが、この特徴を有しているのである。このことを通して、我々が受ける最大の示唆は、④の「飛頭」の要素が、まるで分水石のように、これら説話の第一系統と第二系統を分離させていると云うことである。

これによって、我々は、④も⑤も、その「余剰性」において、説話の意味を象徴的に左右する力を持っていることが分かるのである。ただし、④「飛頭」は能動的に、第一系統にない新たな象徴的意味を説話に付け加えて第二系統の説話を形成する目印になるのに対して、逆に
⑤は、受動的に説話が第一系統に留まることを保障する役割を担っているようである。ただし、⑤については、ここまでに第一系統の説話を紹介するに当たって、話の筋の紹介を優先したため、諸外国の説話のほとんどに見られる末尾の教訓部分をすべて省いてきたので、これについては、後ほど、改めて教訓部分を紹介した上で、確認することとする。

さて、この辺りで、筆者の考察が一定の妥当性を有しているものなのかどうかを試す意味合いから、地域をやや変えて、もう二つばかり類話を見ておこうと思う。『ユダヤ民話集 (原題: The Folklore of the Jews) 』 (Rappoport, 1937) 」と『マレーの魔法 (原題: Malay Magic) 』 (Skeat, 1900) から採った二話である。
 
忠犬と蛇
 
離れ小島の町に子に恵まれない敬虔な男と妻がいたが、ある日、妻が妊娠し、子を生した。妻は、禊の日が来ると、浴場に出かけるにあたって夫によくよく子守を頼んでいった。しかし、王の呼び出しを受けたため、夫は戸締まりを厳重にして王宮へ出かけた。留守中に蛇が這い込み、子を嚙もうとすると、家を守っていた犬が躍り出て蛇を殺した。夫は帰ると、血に塗みれた犬が駆け寄るのを見て、子を殺したと思い、杖で犬を打ち殺した。部屋に入り、子が無事なのを見て喜んだのも束の間、横たわる蛇の屍を見て、忠実な犬を殺してしまったことを悔やんだ。(抄訳・筆者)

 
参照・A. S. Rappoport (1937) The Folklore of the Jews, The Soncino Press, pp. 173-175
 
 
熊と虎

あるマレー人が、自分の留守中に、家と、その中で寝ている娘を守るよう置いていった、馴らされた熊の物語がある。男が家に帰ると、彼は娘はおらず、家は争いがあったかのように荒らされ、熊は血に塗みれているのを発見した。熊が娘を殺して喰らってしまったと云う結論に瞬時に至り、激怒した父親は、熊を槍で屠ったが、その直後に、忠義の熊が勝利し、かつ殺した虎の屍骸を見つけた。そして、娘は逃げ込んでいたジャングルから、無傷で現れた。
(訳・筆者)
 
W. W. Skeat (1900) Malay magic, Macmillan & Co., p. 184
 
一読して分かるように、『ユダヤ民話集』における説話は、筆者が指摘してきた話の筋や、その骨格を構成する諸要素の組合わせなどにおいて、これまでの分析結果と見事な合致を見せている。それどころか、その他の点においても、「忠義な犬」説話の源流と見なされる「古代インド」の二説話とは、不妊の妻の懐妊と出産と云う要素まで共有しているのである。この類似に対しては、「ユダヤ (ヘブライ) 」民族が初期に活躍した「地中海東岸」地方が、「インド」と「ヨーロッパ」の間に位置することと関連するのか、それともこの民族が「中近東」に進出する以前は、「インド亜大陸」の西北部にいたと云う伝承があることと関係するのか、さらには、後世、より直接的に「古代インド」系の説話の受容がなされたのか、と云う三つの問いを発することが出来るかに見える。しかし、この説話が、『ヒトーパデーシャ』や『カリーラとディムナ』に見られる説話とは、「犬」が「鼬」「マングース」になっていることを除くと、細部に至るまで一致しているため、三つ目の問いのみが正解なのではないかと見なしうるのである*。以下に、上記二書の説話も載せておく。
 
* 十二世紀には、「ジョエル師 (ラビ) 」によって、『パンチャタントラ』の「ヘブライ語」訳がなされているが (Bedekar, 2008) 、これは「イブン・アル・ムカッファ」による「アラビア語」テキスト『カリーラとディムナ』に拠ったものなので、『ユダヤ民話集』の説話がこの書の説話と酷似しているのは、その直接的な影響を強く推測させる。ただし、なぜ「鼬」が「犬」になってしまったかは、検証の価値がありそうではある。単に、「パレスティナ」方面には「マングース」が棲息しないと云うだけのことなのだろうか。
 
信心家といたち
 
「ジュルジャーヌ」の国に信心家がおり、長いこと身籠らなかった妻が妊娠し、男児をもうけた。それから幾日か後、妻は禊に行く間、赤ん坊の側にいて下さいと頼んで出かけたが、勅使の迎えがあったので、男は飼い馴らした鼬だけを子の側に残して、宮廷に向かった。すると、コブラが穴から這い出てきて、子を嚙もうとした。鼬はすかさず蛇に跳びかかり、ずたずたに引き裂いた。信心家が帰ると、誇らし気に入口に飛んで主人を迎えに来た血塗みれの鼬を見て、子を殺したのだと思い、持っていた棒で鼬を打ち殺した。家に入ると、子は生きており、死んでいるのはコブラだった。男は胸を叩き、平手で顔を打ち、髭を掻きむしって悔悟の叫びを挙げた。帰った妻に男は、これは慌てて、よく確かめないで行動した罰なのだ、と云った。

 
ابنالمقفع Ibn-al-Muquaffa (c.750) كتابكليلةودمنة Kitāb Kalīlawa-Dimna, Azzam (1941) ed.
参照・菊池淑子/訳『カリーラとディムナ』東洋文庫331、平凡社、pp.212-215
 
 
婆羅門とナクラ
 
「ウッジャイニー」に「マーダヴァ」と云う婆羅門がおり、最近、妻が子を生した。妻は、子の番を夫を残して、水浴に出かけた。そこへ王から、「サルヴァ・シュラーッダ祭」の布施をすると云う招待状が来た。貧乏な婆羅門は堪らず、ナクラ (マングース) を番において出かけた。その後、ナクラは赤子に近寄った黒蛇を殺して食べた。婆羅門が帰ると、ナクラは血塗みれのまま急いで駆け寄った。その姿を見た婆羅門は、ナクラが子を食べたと思い、その場で殺した。その後、よく見ると、子は眠っており、蛇が殺されていた。 (後略)
 
人もし事実を確かめず、
怒りにその身を委ねなば、
ナクラ殺せし愚かなる
婆羅門のごと悲しまん
  
नारायण Nārāyana (12C) हितोपदेश Hitopadeśa
P. Peterson, ed. (1887) Hitopadeśa, Government Central Book Depôt.
参照・金倉圓照・北川秀則/訳 (1968) 『ヒトーパデーシャ』岩波文庫、pp. 249-251
 
一方、『マレーの魔法』に採られた説話も、筆者の云う第一系統の説話と、その基本的な性格において一致することは明らかであろう*。しかも、この説話が、「インド」から西へと伝わるルートの上ではなく、「マレー半島」と云う、「インド」と我が国の間に位置する地域から採取されたことの意義は大きい。
 
* 残念なことに、『マレーの魔法』を書いた「スキート」は、この説話を非常に手短に紹介しているだけなので、はたして、上に紹介した内容が、地元に伝わる説話の全容なのかは分からない。そして、「スキート」の紹介に従えば、この説話には直接の教訓的文言は含まれていない。
 
『パンチャタントラ』の伝播については、西への伝播ばかりが有名だが、実際には東方への流伝も見られたことなどについては、『筑摩世界文学大系 9』の解題部分に簡潔に記されている。
 
「パンチャ・タントラ」は (中略) ヨーロッパに伝訳されたのみでなく、アジアの諸民族のあいだにも流伝されて、各民族の情操生活に大きな足跡を残した。 (中略) さらに、サンスクリット語の原典からインドの諸言語にも数多く訳され、すでに早くから存在したタミル語からマライ語* など東南アジアの諸言語にも重訳されたという歴史もある。シャム、ラオスなどの文学作品の中にも「パンチャ・タントラ」の模倣作があり、またこの地方の民間説話の中にも「パンチャ・タントラ」から知られるいくつかのものが指摘されている。
 
* 「マレー語」と同じ。「Malay」から。
 
「パンチャ・タントラとヒトーパデーシャ」
辻直四郎ら/訳 (1999) 『インド/アラビア/ペルシア集』筑摩世界文学大系 9、筑摩書房、p. 186
 
現在、「東南アジア」方面への『パンチャタントラ』の伝本は、年代不詳ながら最古の系統と見なされる「南インド」系もの (Hertel, 1914; 294) 、「アラビア語」から「マレー語」に翻訳された『カリラとダミナの物語』、1835年と云う年代のはっきりした「タミル語」訳の『パンジャ・ダンダラン』など、三種類が確認されている (岩本、1963) 。したがって、「スキート」が上記の説話をどのように採取したかは不明ながら、それが「マレー語」系の伝本に由来するものであることは、およそ間違いなさそうである。

ただし、仮に、「忠義な犬」説話の原型は「古代インド」で成立して東西に伝播したと云う一般的な仮説が正しいとしても、その説話群のうち、原形を強く残す第一系統から、ある種の亜型と云える我が国に顕著な第二系統への変化が、「マレー半島・インドネシア諸島」から「日本列島」の間で起きたものなのか、「マレー語」とは別に、中国を経由して起きたものなのかは、簡単には確定出来ない。『今昔物語集』の成立は、我が国が「東南アジア」方面と盛んに交易を行なった「室町末期」に先立つため、我が国への伝播は、中国経由でなされたのではないか、と考えるのが穏当ではある。もちろん、いかなる結論を導くにしても、実際にはより多くの話例を集めて、考察を進めていかねばならないのは明らかであるが、ここでは一つの突破口として、以上のような可能性を意識することとする*。
 
* 「宮崎県」には「犬熊山」の伝承があり (『宮崎縣史蹟調査 5』1931 / 鈴木、1933 etc.) 、これは「忠義な犬」の「大蛇」を「熊」に置き換えた説話となっており、『マレーの魔法』と不思議な一致を見せている。一方、その主人公も「彦火火出見尊」となっており、「糟目犬頭神社」の祭神とも不思議な一致を見せている。また、この「彦火火出見尊」には、忠犬を過って殺してしまったことを悔やんで、今後は殺生をやめると決意し、弓を三つに折って捨てたと云う伝承があるのは、我が国の『七宝寺縁起』にも似るが、弓を二つに折るこの縁起よりも、槍を三つに折る『七賢人物語』や『ゲスタ・ロマノールム』などの結びの方が似通っているとも云える。ただし、これらの類似は、断片的なものであり、我が国の「忠義な犬」説話への伝播関係を系統的に仮定するには、その間を埋める連続的な論証に必要な資料がいまだ欠けている状態だと云えるだろう。ただし、「熊」が登場するのが、生活文化上「熊」と密接な関係を持っていて、「熊」の登場する説話も多く有している「アイヌ」と直接つながりの深い地域の説話ではなく、南洋からの文化的な伝播が想定されやすい、「太平洋岸」の「宮崎県」であると云うのも、興趣の尽きない事実ではある。
 
当然、このように考えるならば、第一系統から第二系統への変遷が起きた「東アジア」地域の中でも、「マレー半島」と我が国の間にあり、諸民族の興亡に彩られ、日本とは密接な交流の歴史のある中国と云う土地は、その変遷の起きた候補地の最有力の候補として想定することが出来る。少なくとも、その作業なしに、第二系統の説話群を、我が国独自のものであると断定するのには、躊躇を感じざるを得ない。

ただ、筆者の勉強不足が祟って、いまのところ、中国の説話の中から、「忠義な犬」説話の典型的な類話を見つけられないでいることは告白せねばならないだろう。何でもかんでも、熟読もせずに流し読みしているから、単に見落としているだけかもしれないとは思う。筆者の感覚としては、広い中国になら、必ず類話はあるものと思われるし、実際には既に我が国で紹介されているものさえあるかも知れない。しかし、いまのところ、筆者は適当な話例を見つけていないのも事実である。

その智識、峨々として聳ゆる泰斗「熊楠翁」でさえも、筆者がここで見てきた条件を満たす「忠義な犬」の類型に当てはまる説話を中国に見出していないのだから、筆者の如き鯫生が見つけられずとも驚くに足るまい。同様に、「熊楠」より後に「犬の民話・民俗」について著作をものした「平岩米吉」や「大木卓」の両氏とも、「忠義な犬」説話の典型譚を中国の古典から抽出することに成功はしていない。

今後、漢民族以外の少数民族の民話採集とその日本語への翻訳・紹介が進めば、広大な中国大陸に「忠義な犬」型説話が出現しないとも限らないが、その場合でも、少数民族の民話の年代的な古さの検証と共に、少数民族の民話が、古い時代に日本へと直接伝わりえたか、その可能性についても確認せねばならないだろう。現時点では、どれも筆者の限界を凌駕している事項であるため、慙愧に堪えぬが、ここでは中国の類話を分析の中に入れられないことに対して、諸姉諸兄のお許しを乞うしかない*。

 
* 『パンチャタントラ』の研究者たちも、中国に直接、伝本が渡ったと断言出来ずにおり、多くは「仏典」類の「ジャータカ」などを通して、その一部が伝わったと見なしているようである。そう云った意味では、早い時期に『摩訶僧祇律』の存在を指摘した「南方熊楠」の博識と慧眼には、改めて脱帽する。ただし、「マングースと蛇」の類型に当たる説話が、個別に中国に伝わっているかどうかは、今後とも検証していかねばならない。
 
さて、この辺りで、先ほどいったん棚上げにしておいた「忠義な犬」説話の骨格の主たる構成要素として挙げた⑤の問題、より厳密に云えば、特に第一系統の説話に付された教訓性について、少し見てみたい。そのためには、以下、改めて、それぞれの説話の末尾に見られた教訓部分を紹介しておく。該当するものがない場合は、短い横線で表わしている。訓読や翻訳は、すべて筆者の責任に帰すものである。
 
「忠義な犬」伝説に付された教訓性と飛頭の関係
典拠内容説話系統飛頭の
有無
『摩訶僧祇律』宜しく審諦に觀察すべし、卒 にわ かなる威怒、行なふ勿 なか れ、善友の恩愛離れ、枉害 おうがい 、良く善を傷む第1
『パンチャタントラ』婆羅門が寄進物を手に帰宅すると、妻は、あなたが私の頼んだことを全うせずに、欲を先に立たせたばかりに、いまや自らの息子 (マングース) の死と云う、自らの罪の樹の果実を味わなければならないのだ!! と嘆き叫んだ。第1
『カリーラとディムナ』帰った妻に男は、これは慌てて、よく確かめないで行動した罰なのだ、と云った。第1
『ヒトーパデーシャ』人もし事実を確かめず、
怒りにその身を委ねなば、
ナクラ殺せし愚かなる
婆羅門のごと悲しまん
第1
『イソップ寓話』主人の子を助けるために発揮した勇気と忠節に対して、主人は異なる形で犬に報いるべきであった。第1
「犬、ギヌフォール信仰について」犬を、かほどまで不当に殺してしまったことに慙じ入り、犬の身体を城門の前の井戸に納めると、上に多くの石を積み、犬の行ないを記念するために、周りに木々を植えた。 第1
『七賢人物語』槍を三つに折り、裸足で聖地に旅立ち、その地で残りの生涯を過ごしたと云う。第1
『ゲスタ・ロマノールム』 (フォリキュルスは) 事の次第を理解し、忠犬の死を嘆くや、甲冑を捨てて、槍を折り、聖地巡礼の誓いを立てて、その地で一生を平和に終えた。第1
『ユダヤ民話集』男は、もしも私がこれほど性急に判断しなかったならば、このようなことはしなかったのに、と云った。妻が帰宅すると、 (中略) これは性急に行動してはならないと云うあなたへの教訓になるでしょう、何故なら、このように行動する者は、手遅れになってからしか自らの行ないを悔い改めず、悔恨の念は永遠に心に残るからです、と賢くも云った。第1
『マレーの魔法』第1
『今昔物語集』此レヲ思フニ、実ニ狗ヲ殺タラマシカバ、狗モ死テ、主モ其ノ後蛇ニ被呑 ノマレ マシ。然レバ、然様ナラム事ヲバ、吉〻 ヨクヨク 思ヒ静テ、何 イカ ナラム事ヲモ可為 スベ キ也。第2
『三国伝記』第2
『七宝滝寺縁起』 ゲニヤ畜類ナレドモ恩ヲ報コトノ憐ヲ愁感シテ、獵師立所ニシテ發心シテ、則弓ヲ二 フタツ ニ切テ率都婆ニ造リ、彼亡獸ニ手向テ其マヽ山林斗藪ノ身ト成畢。第2
「糟目犬頭神社」縁起類第2
 
上の表を見て筆者がまず思うことの第一は、やはり第二系統の典型を形成するに当たって、「飛頭」のイメージが果す役割が極めて大きいと云うことである。第二には、先ほども少し述べたが、我が国の類話の中では、最古のものである『今昔物語集』のもののみが、典型的な第二系統の説話を構成せず、犬も死なぬし、当然、首も飛ばず、しかも最後に教訓がつくのである。犬を殺していない分だけ、その教誡のニュアンスも、諸国の第一系統のものほど深刻だとは云えないが、その基本的な訓戒の内容は共通しているのである。『七宝滝寺縁起』の終わり方は、不思議にも、西の『七賢人物語』系統の説話の終わり方に似ている。

第一の点からは、「忠義な犬と蛇」説話において、「教訓」と「飛頭」が、どうやら背反関係にあるらしいことが理解される。そして、この「教訓」と云うのは、おおよそ「性急な判断は重大な間違いを引き起こす」と云う内容に統一されているのである。『ゲスタ・ロマノールム』の「フォリキュルス」の説話のみは、主人公が激しい悔恨のあまり、世を捨て、聖地巡礼に旅立つ形で結ばれているが、これも自身の性急な判断が、自らに絶大な忠節を示して信義を貫いた愛犬を殺すと云う重大な過ちを引き起こしてしまったことに対する悔恨と自責の念を表わしているため、何ら他の教訓と変わるものではない。

問題は、
『七宝滝寺縁起』の終わり方なのだが、ここではこれが「インド〜ヨーロッパ」の説話の原型の我が国への伝播によるのか、あるいは単なる洋の東西での偶然の一致なのかについては考察しない。ただ、「フォリキュルス」が悔恨のあまり自らの心の救済を求めて、より分かりやすく云えば、自らの犯した罪の許しを乞い、自らの心の平和を求めて巡礼の旅に出るのに比べ、『七宝滝寺縁起』の猟師の発心は、明らかに獣類にも人と変わらぬ情誼のあることを知り、それを知らずに殺生を生業としていた自己に対する懺悔を契機として発露したのであり、それは『涅槃経』に見られる「一切衆生悉有仏性」の日本的な発展とされる「草木国土悉皆成仏」の思想を介して、最終的には「諸行無常」の境地へと連綿と続く心の発明であった点で、両者はその本質において異なるのである。

この他には、第一系統に属する説話の中では、唯一、『マレーの魔法』の例のみが教訓を含まないと云う問題があるが、これは何事にも例外がある、などと云って等閑視しなければならない性質のものではない。これも既に述べたように、単に教訓が省略されている場合は、その説話自体が「性急な判断を戒める」訓戒の役割を果たすのであるから、教訓の直接的な記述の欠落を以て、その説話を第一系統の例外と見なすことは出来ない。

先ほど述べた第二の点からは、「忠義な犬と蛇」説話が我が国に中国経由で伝わり、『今昔物語集』に収載されたものだと仮定した場合にあってさえも、その説話が伝わった当初は、「飛頭」のイメージを含んでいなかった可能性を読み取れる、と云う意味で重要なのである。もしも、我が国の「忠義な犬と蛇」説話が、みな何らかの形で同系統の説話の我が国最古の話例とされる『今昔物語集』の説話の影響を受けているものと仮定すると、現時点では、『今昔物語集』の成立したと考えられる十二世紀前半から、初めて「飛頭」のイメージを含む説話を載せた『三国伝記』の成立した十五世紀前半までの三世紀の間に、この説話的イメージの抜本的な増幅が行なわれた可能性が示唆される。そして、そのように考えた場合、取り敢えず現時点では、「飛頭」のイメージを内包することで第二系統を形成した説話群は、我が国に典型的なものであると云っても、さほど支障のないものとなるだろう。
 
*
 
この辺りで、「忠義な犬と蛇」説話を巡る諸外国との対比の議論を、ここまでの記述との重複を怖れずに、総括しておくこととしよう。

大まかに云うと、諸外国の説話例は、第一系統と呼べる説話群を形成し、以下の特徴を有していた。
 
1. 事件が主人公の留守宅で起きること、
2. 仮想の被害者が主人公の子であること、
3. 誤解から犬を殺した主人公の悔恨や自責の念を強調することで...
4. 性急な判断を戒める道義的な色彩が強いこと

 
これに対し、我が国に見られる説話例は、第二系統と呼べる説話群を形成し、以下の特徴を有していた。
 
1. 事件が主人公の出先で、本人の目の前で起きること、
2. 仮想の被害者が主人公自身であること、
3. 誤解から犬を殺してしまった主人公の悔恨や自責の念が無視される訳ではないが...
4. 死んだ犬を神として祭ると云う後日談に力点が置かれていること
 
結果として、諸外国のバージョンが、「寓話」とも呼ぶべき、動物に仮託した典型的な教訓譚となっており、そこで強調されているのは道義や美徳なのに対し、我が国のバージョンは、明らかに犬の扱いが第一系統の説話群とは異なり、そこで描かれているのは、単に美徳としての犬の忠義ではなく、見えぬ敵を察知する慧眼を持ち、断首の後にも敵を倒す妄念の如き霊威を持つ「犬」に対する畏怖なのである。また、だからこそ、主人公は犬を「神」として祠に祭るのである。その点、ただ犬の死を記念するモニュメントを築く、と理解しただけでは、我が国に典型的な「忠義な犬と蛇」説話の性格を完全に見誤ることになるのである。


E. 「飛犬頭」譚の特質

あまり緻密な論証とは云えないが、ここまでに筆者は、諸外国に広く見られる「忠義な犬」説話が、我が国の「飛犬頭」譚と、一見した強い類似を示しつつも、その間には単なる伝播関係では説明出来ないような、深層イメージの相違
と云うか、断絶—があるのを、大雑把に見てきた。そして、それは要約すれば、説話の強調する力点が、人としての道義や資質に向けられるか、それとも「犬」就中その頭部の霊的な能力に向けられるか、と云うものであった。もっとも、この違いは、本来が肉食の狩猟動物である「犬」が「蛇」を殺すと云うある意味、ありきたりの行為を行なっているだけの説話と、「犬の頭」が、胴体と切り離された後に、虚空を飛んで樹上の蛇を噛み殺すと云う凄まじい設定とを引き比べれば、誰でも思い至ることではある。

もちろん、実際には、「犬」が「蛇」を殺すと云うのは生態的には例外的な行為であるのは承知しているが、西洋には蛇狩り専門の犬種もあるようだし、ここでは広く「獲物を捕まえる」と云う意味に解して「ありきたり」と表現した。ただ、このことを巡っては、より複雑な意味の推移があったのではないかと推測することは可能である。

説話に登場する動物がいまだ「マングース」だった時代、「マングース」が「蛇」を捕るのはそれこそ当たり前な行為である一方、「マングース」ほどの小動物が人間の赤ちゃんを襲うことは基本的にはあり得ないと云う事実もあって、説話の語られる目的が、その当たり前の行為を疑わずに、ありえない方の行為を疑って、「マングース」を殺してしまった男の軽率な愚かさを批判することにあったと見なすことが出来る。

それが、この説話が西に伝わり、動物が「犬」と化すに従い、「犬」の殺傷力が高く、「蛇」を殺すのも当たり前でないことから、語りの運搬するイメージも、本来「忠義なるもの」である「犬」の「忠義」を疑って取り返しのつかない過ちを犯してしまった男の軽率な愚かさに向けられることになったのであろう。

一方、我が国にこの説話か伝播したとして、その伝えられた語りの「感動の中心」は、軽率さを戒める教訓的要素ではなく、「蛇」を殺す動物の霊的な能力に向けられたのであろう。「インド」にあってさえ、「蛇」を常食にし、時には「キングコブラ」でさえ退治する「マングース」と云うのは、特異な存在なのである。だからこそ、説話の中心的な動物にも選ばれたのだろう。それはちょうど「蛇」を食べる「孔雀」が、それ故に霊視され、原始密教の発生と深く関わる形で、後の「孔雀王経」を生み出してゆくイマジネーションの源泉になっていったことにも似ている。

もしも、「忠義な犬」型の説話が、大陸から我が国に伝播したものなら、それはこの説話が本来持ちつつ、その発祥地でも、西伝してゆく過程でもあまり強調されることのなかった「蛇をも殺す霊獣」のイメージと共に伝わってきたのではないかと、筆者は考えている。特に、「蛇」自体を霊的な存在として畏怖する気持ちの強かった我が国の人々には、このイメージはいよいよ強烈な衝撃を持って受け容れられたものと推測される。

---「蛇をも殺す霊獣」と云うよりは、「身を隠した蛇を察知するほどの霊獣」と見なした方が正しいかも知れない。『今昔物語集』の「狗山の犬」の説話を考えても、あるいは、我が国の「忠義な犬」譚には、犬は単に蛇を察知するだけで、蛇殺害の中心的な役割を担うのは犬の主人の方であると云う特徴も見られることを考え合わせると、こちらの方が妥当かも知れない*。
 
* 既に挙げた「犬熊山」の説話では、猟犬を連れて狩りに出た「彦火火出見尊」は、「尊 みこと 」を狙う「大熊」に向かって犬が激しく吠え立てていると知らずに犬を射殺すると、「大熊」が襲いかかってきたのでこれも射殺し、自らの過ちに気づく云々と云う話である。ここでは敵の殺害に犬は参加しておらず、その察知に長けているのみである。
 
今回は、この辺りで、一旦、議論を切ることとする。


4. おわりに

次回は、冒頭で述べた通り、
今回の議論を引き継いで、まずは、「犬の頭」の霊威を巡る民俗的なイメージの古層を探究した後、そのような信仰が顕在化した一つの様態と考えられ、わが国の「中世」から「近世」初頭にかけて各地で勃興した気配のある、「獅子頭」そのものに対する信仰の考察に至りたいと思う。そして、これらの考察を通して、最終的には、「上前津」の「おからねこ」伝承や、「糟目犬頭神社」の「唐猫」などは、このような過去の神秘思想を基盤とした民間信仰の名残りを、現代に伝える数少ない残滓なのだと云うことを追究していきたい。



※おまけ
  
白茶01b
保護後、三日の「白茶 ぱいちゃ
 
まだ、耳が横についているぜ!!

白茶02_1
保護後、三日の「白茶」その二

本当にちっちゃい仔猫って、
まだ肉球がなくて、鼠の手みたいなんです...。


白茶11:26_1
本日の「白茶」!!

だいぶ立派になりました!!
でも、まだ一キロくらいです。


薄茶01_1
保護後、三日の「薄茶」

薄茶11:26_1
本日の「薄茶」!!

こっちも立派になりました。
あたしは、ちょっとチータ顔なんだよぉ。


濃茶01a
保護後、三日の「濃茶」

忘れないよ...。




参考文献


A. 「犬頭」関係
・藤原時平・藤原忠平/撰 (927) 『延喜式』卷九・十、延長五年
 黒板勝美/編 (1965) 『新訂増補・国史大系 26』吉川弘文館
・作者未詳 (c. 12C前) 『今昔物語集』卷第二十九・第三十二
 森正人/校 (1996) 『今昔物語集・五』新日本古典文学大系 37、岩波書店
・林花翁 (1707) 『三河雀』宝永四年
 久曾神昇・近藤恒次/編 (1959) 『近世三河地方文献集』愛知県宝飯地方史編纂委員会
・彥坂常征 (1729) 『三河國官社考』享保十六年
・林自見 (1775) 『三河删補松』安永四年
 新編岡崎市史編集委員会/編 (1993) 『新編岡崎市史 20』新編岡崎市史編纂委員会
・本間長玄・本間寿格 (c. 1790) 『三河堤』寛政二年頃
 愛知県立図書館デジタルライブラリー
・渡辺正香 (1836) 『參河志』天保七年
 愛知県立図書館デジタルライブラリー
・羽田野敬雄 (1843) 『三河國官社私考 (三河國官社考集說) 』下卷、天保十四年
 豊橋市図書館デジタル版・羽田八幡宮文庫
・成島司直ら/編 (1849) 『東照宮御實紀』卷六、慶長八年八月條、嘉永二年
 黒板勝美/編 (1998) 『新訂増補・国史大系 28・徳川実紀・第一篇』吉川弘文館
・羽田野敬雄 (c. 1868) 『三河國事蹟考』慶応・明治初年頃
 吉田東伍 (1917) 『大日本地名辭書』北国・東国、富山房より引用
・下中邦彦/編 (1981) 『日本歴史地名大系 23・愛知県』平凡社
・同市史編集委員会/編 (1984) 『新編岡崎市史 17』同市史編纂委員会
・同辞典編纂委員会/編 (1989) 『角川日本地名大辞典 23』角川書店
・同市史編集委員会/編 (1993) 『新編岡崎市史 20』同市史編纂委員会

B. その他

・作者年代未詳『東大寺造立供養記』室町以降成立
 塙保己一/編 (1980) 『群書類従 24』訂正三版、続群書類従完成会
・玄棟/撰 (15C前) 『三國傳記』卷二・第十八、応永文安年間
 名古屋三国伝記研究会/編 (1982) 『平仮名本・三国伝記』古典文庫
 鈴木学術財団/編 (1972) 『大日本佛教全書 92』自刊
・九條政基/写 (1502)『七寳瀧寺緣起』文龜二年
 宮内庁書陵部/編 (1970) 『諸寺縁起集』明治書院
・天野信景 (1704-1711) 『鹽尻』卷之十九・三十、寳永年間
 日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成・第三期 13-14』吉川弘文館
・刑部善三左衛門 (1744) 『尾陽寛文記』延享元年
・松平君山ら/編 (1752) 『張州府志』寳歷二年
 名古屋史談會/編 (1974) 『張州府志』愛知郷土資料叢書・第19集、県郷土資料刊行会
・馬場文耕 (1757) 『近世江都著聞集』寳暦七年
 岩本活東子/編 (1980) 『燕石十種 5』中央公論社
・樋口好古 (1822) 『名古屋府城志』文政五年
 市教育委員会/編 (1963) 『名古屋叢書 9・地理編 4・名古屋府城志/ 尾張徇行記 1』自刊
 愛知県立図書館デジタルライブラリー
・藤澤衛彥 (1917) 『日本傳說叢書・上總の卷』日本傳說叢書刊行會
・宮崎縣内務部/編 (1931) 『宮崎縣史蹟調査』第五輯、自刊
 復刻版 (1980) 『宮崎県史蹟調査』西日本図書館コンサルタント協会
・鈴木健一郎 (1933) 『日向の傳說』文華社
 改訂再版 (1972) 『日向の伝説』文華社

・柳田國男 (1942) 『木思石語』東京三元社
 柳田國男 (1998) 『柳田國男全集 13』筑摩書房
・柳田國男 (1942) 『桃太郎の誕生』三省堂
 柳田國男 (1998) 『柳田國男全集 6』筑摩書房
・岩本裕 (1963) 『インドの説話』紀伊国屋新書
・神社本庁調査部/編 (1963) 『神社名鑑』同名鑑刊行会
・鈴木健之 (1979) 「古代における導犬の観念について」
 東京学芸大学紀要出版委員会/編 (1979) 『東京学芸大学紀要・第二部門・人文科学』第三十号
・鈴木健之 (1981) 「神話・伝説・昔話」
 
鈴木健之ら (1981) 『中国文化史』研文出版
・同辞典編纂委員会/編 (1984) 『角川日本地名大辞典 12』角川書店
・大木卓 (1987) 『犬のフォークロア』誠文堂新光社
・徳田和夫 (1990) 「彼我の『忠義な犬』譚と『犬神明神の縁起』」
 徳田和夫 (1990) 『絵語りと物語り』平凡社
・ねずてつや (1994) 『狛犬学事始』ナカニシヤ出版
・三遊亭円丈 (1995) 『THE 狛犬! コレクション』立風書房
・藤倉郁子 (1995) 『狛犬』岩波出版サービスセンター
・下中邦彦/編 (1996) 『日本歴史地名大系・千葉県の地名』 平凡社
・奈良文化財同好会狛犬の会/編 (1999) 『狛犬の研究・大阪府の狛犬』自刊
・藤倉郁子 (2000) 『狛犬の歴史』岩波出版サービスセンター
・吉賀憲夫 (2004) 『旅人のウェールズ』晃学出版
・たくきよしみつ (2006) 『狛犬かがみ』バナナブックス
・山川均 (2006) 『石造物が語る中世職能集団』山川出版社

C. 外国語文献
・Αἴσωπος (c. 7CBC) Αισώπου Μύθοι
 アイソポス (c. 6CBC) 『イソップ寓話』
 L'Estrange & Croxall (1903) The Fables of Æsop, Thomas Y. Crowell Co.
विष्णु शर्मा Vishnu Sharma (c. 200AD) पञ्चतन्त्र Pañcatantra
 T. Benfey (1859) Pantschatantra, vol. 2, F. A. Brockhaus
・北顯ら/訳 (c. 417) 『摩訶僧祇律』卷第三
 
高楠順次郎/編 (1924) 『大正新脩大藏經 22』大正一切經刊行會
 
国会図書館デジタル資料
・ابن المقفع Ibn al-Muquaffa (c. 750) كتاب كليلة ودمنة Kitāb Kalīla wa-Dimna, Azzam (1941) ed.
 菊池淑子/訳『カリーラとディムナ』東洋文庫 331、平凡社
नारायण Nārāyana (12C) हितोपदेश Hitopadeśa
 P. Peterson, ed. (1887) Hitopadeśa, Government Central Book Depôt.
 金倉圓照・北川秀則/訳 (1968) 『ヒトーパデーシャ』岩波文庫
E. de Bourbon (1240) "De Adoratione Guinefortis Canis", id. De Supersticione
 ブルボン (1240) 「犬のギヌフォール崇拝について」『迷信について』所収
 id. J.-C. Schmitt (1979) Le saint lévrier. Guinefort, guérisseur d'enfants depuis le XIIIe siècle, Flammarion
Anonymus (1342) Die Historia septem sapientum nach der Innsbrucker handschrift
 作者未詳 (1342) 『七賢人物語』インスブルック写本・羅語版
 Alfons Hilka (1912) Historia Septem Sapientum I, Carl Winter
・作者未詳 (14C初) 『Gesta Romanorum ゲスタ・ロマノールム (ローマ人の行ない) 』
 C. Swan (1877) Gesta Romanorum, trans. from the Latin, George Bell and Sons
D. E. Jenkins (1899) Bedd Gelert: Its Facts, Fairies and Folklore, trans. by H. E. Lewis
W. W. Skeat (1900) Malay magic, Macmillan & Co.
J. Hertel (1914) Das Pañcatantra, seine Geschichte und seine Verbreitung, B. G. Teubner
・Phyllis Gardner (1931) The Irish Wolfhound, The Dundalgan Pr.
A. S. Rappoport (1937) The Folklore of the Jews, The Soncino Press
John Fiske (1942) Myths and Myth-makers, Kessinger Pub.
E. Parker (1949) Best of Dogs, Chapter X, Hutchinson
Prys Morgan (1983) "From a Death to a View"
 E. Hobsbawn & T. Ranger, ed. (1983) The Invention of Tradition, Cambridge UP
 前川啓治/訳 (1992) 『創られた伝統 』紀伊国屋書店
M. E. J. Witzel (1987) "On the origin of the literary device of the 'Frame Story' in Old Indian literature"
 H. Falk, ed. (1987) Hinduismus und Buddhismus, Festschrift fuer U. Schneider


参照サイト・その他

V. Bedekar (2008) History of Migration of Panchatantra, Institute for Oriental Study, Thane
 http://www.orientalthane.com/speeches/speech2008.htm
・神社本庁教学研究所研究室/編 (1995) 『平成「祭」データ』神社本庁、CD-ROM

・「liondog の勉強部屋」=めちゃくちゃ秀逸なサイト
 
スポンサーサイト
 HOME 

プロフィール

clubey

Author:clubey
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。