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千葉県の猫神・花蔵院の猫 (2)

.01 2010 関東地方 comment(2) trackback(0)
今回の記事は、「花蔵院の猫」伝説の舞台が、「猫実」の「花蔵院」であることを検証する過程の中核をなすことになるため、かなり長い記述になることを予め断っておきたい。そして、そう断ったからには、少しばかり気を大きくして、初めに関連する余談を二つ記すことから始めることとする。まずは「浦安市」に現存する「花蔵院」の所在地「猫実」の地名に関する話から。

今回の記事の結論的な内容のみ読みたい人は、「4. むすび」をお読み下さい。


「猫実珈琲店」の「猫最中 (黒) 」



でも、その前に唐突ですが、迷い招き猫のお知らせを...。


なくなったのは、「浦安市堀江 3-8-17」の「そば処 天哲」さんの店舗前。
夜のうちに、一遍に四体とも盗られてしまったそうです。
招き猫は襟に「天哲」と入った半纏を羽織っています。
一体は、ざるそばを持っているそうです。
心当たりのある方は、お報せ下さい。


浦安フラワー通り

そば処 天哲

千葉県浦安市堀江 3-8-17
047-351-2670


ちなみに、「カレー南蛮うどん・そば」と「天婦羅」が評判の店です。
魚介料理も予約すれば造ってくれるそうです。


それでは、本編へ...




1.「猫実」の語源について

「猫実」は、明治二十二年 (1889) 年の村制施行時に「浦安村」を構成することになった三区画のうちの一村 (猫実村) の名前で、それがそのまま字名 (地区名) になったものである。一般には、「猫実」と云う名前の起源に関しては、昭和四十四年 (1969) 発行の『浦安町誌』に載せられた次の語源説が広く流布している。「町誌」の後に成立した「平凡社」の『歴史地名大系』も、「角川書店」の『日本地名大辞典』も、安易にこの由来説を踏襲したため、いまではこの説がかなり広汎に信じられるに至っているきらいがある。以下、「町誌」の記述を引くこととする。

猫実村
(前略) 鎌倉時代に永仁の大津波に遭い、部落は甚大な被害を被った。その後部落の人達は、豊受神社付近に堅固な堤防を築き、その上に松の木を植え、津波の襲来に備えた。堤防はその頃としては実に立派なもので、村の者はこの堤防の完成を喜び、今後はどんな大きな津波がきても、この松の木の根を越すようなことはないと喜んだ。この松の木の根を波越さじとの意味から「根越さね」といい、それがいつの間にか猫実と称せられるようになり、本村の村名になったという。

浦安町誌編纂委員会 (1969) 『浦安町誌』浦安町役場、p. 4

しかし、困ったことにこの語源説はあらゆる意味で信ずるに足らないのである。

先ず何よりも、いつ頃からこの説が唱えられているのか、「町誌」の刊行された昭和四十四年より古くは遡れないのである。口碑と云うものは、しっかりした文献資料がないものだ、と云ってしまえばそれまでだが、同じ『浦安町誌』は、「猫実」の隣村である「堀江」に関しても「鎌倉時代」から知られていたと無根拠な記述を繰り返しており、町誌編纂者は、「浦安」地域の歴史を「鎌倉時代」に遡らせたいのだと云う強い作為を感じざるを得ない。 (年代特定の根拠が寺社の縁起や、梵鐘等の紀年銘だけでは十分とは云えない。前者は作為が元から多く、後者のような売買の対象となりえた文化財は多重的に年代を特定する他の遺物がない限り、無条件に信じることは出来ない。)

さらに例証すれば、次の五点の反証を挙げることが出来る。

第一に、「下総訛り」に従えば、「根越さね」は転訛するなら「ねこざね」でなく「ねごさね」「ねござね」に近くなるはずである。

第二に、「猫実」地名は、「茨城県・猿島地方」の「岩井市」などにもあり、こちらではまったく違う語源説が語られていると云うのも傍証となる (こちらの語源説も、事実としては取るに足らないのだが...) 。「猿島地域」と「東葛地域」とは、「利根/江戸川」水系で結ばれ、「猫実」や「逆井」などの変わった類似地名が多いと云う近縁性を有している。そのため、それらの地名の語源を考証するならば、ある程度相互に連関させて考える必要があるのは明白なのである。

第三に、『浦安町誌』の記述にも関わらず、それに先立つこと約半世紀、大正十二年 (1923) 刊の『東葛飾郡誌』には、「根岸ざね」が転訛したものと記され、「根越さね」説にはまったく触れられていないのである。

第四に、永禄七年 (1564) 頃までに成った文献で、「猫実」のことを記した最古の文書でもある『高城古下野守胤忠知行高附帳』では、「行徳七はま之内」に「根子ざね村」が挙げられており、少なくとも表記の上では「根子ざね」が先行することになる (参照・松下邦夫『小金城主高城氏の研究』1971、自刊) 。地名などの漢字表記は、それ自体は当て字も多く、必ずしも表意文字として信ずるには足りないのだが、それは取りも直さず表音的な意味合いからは、その語の書かれた当時の分節を明らかにするとも云えるのである。「根子ざね」と書かれた以上、「室町後期」には既に、その書き手が「根/子ざね」ではなく、「根子/ざね」と云う分節を意識していたことは明らかであろう。

最後に、視覚的な傍証を一つ。
そもそも、「遠藤正道」氏がその著作『葛飾風土史 川と村と人』において強調するように、昭和五十三年 (1978) の段階で、『浦安町誌』の云う堤防に関しては、古老たちは、今の「江川橋」の付近にあり、松も何本か残っていたと語っていたと云うのだから、氏の指摘の如く、「広重」の『名所江戸百景 堀江ねこざね』安政三年 (1856) に、堅固な堤防も、その上の松の木も映っていないのはおかしいのである。確かに絵の右側には「豊受神社」の杜と思われる松の茂みが見えるが、これがもしも『浦安町誌』の云う堤防の松の木であるなら、「猫実」の集落は堤防の内側に形成されていることになってしまい、これでは堤防とは呼べないのは明白である。したがって、『浦安町誌』の云う堤防が築かれ、松の木が植えられるのは、安政四年 (1857) 以降と云うことになる。この場合、時代があまりにも近過ぎ、既に見たように十六世紀半ば頃には知られていた地名の語源を考える要因としては到底候補に入れることは出来ないのである。


歌川広重『名所江戸百景 堀江ねこざね』安政三年 (1856)

ちなみに、現在も「豊受神社」は「猫実」の鎮守らしい壮観を維持しているが、不思議と松の木は一本もなく、市指定の「大銀杏」を始め、公孫樹の木ばかりが目立っており、堤防に至っては、さらにその跡を見ない。

*

以上のことから、少なくとも「猫実」の語源が何であるかはいまだ明確ではないと云えるだろう。そして、筆者もまた、その語源が動物の「猫」に純粋に由来するとは考えていないものの、早くから不明になってしまった語源に代わって、長い年月の間に、「猫」のイメージ性が入り込んでしまった可能性を排除する理由もないものと考えている。第一、「猫」のイメージ性の中に、もしかしたら語源の「ネコ」の尾骶骨のようなものが残存しているかも知れないのである。



2.「ネコババ」から「砂かけ婆」へ

「ネコババ」の話に移ろう。
人のものをちょっくら失敬することを「ネコババ」と云うが、これがしばしば「猫婆」などと表記されるため、強欲な婆さん、あるいは悪事を働く婆さんと関連づけた語源説話などが「東日本」を中心に派生したりして、その語源を分かりにくくしている (例 : 「猫ばばあ」『新編・日本の民話 12』神奈川県、未来社、1985、pp. 43-48) 。しかし、「西日本」の多くの地域の人には、いまだに「ババ」と云うのが「糞」と云う意味の言葉として通用しているので、「猫糞」と云う表記を見かけることも、稀にはある。

筆者の通った大学の近くの交差点が「馬場下」と云う名前だったことから、その近くのバス停に「馬場下前」と云うのがあった。「大阪」出身の同級生が、このバス停で降りるときの「次はァ、馬場下前ェ、次は馬場下前」の放送を聞く度に便意を催してしまうと語っていたのを思い出す。後で聞くと、「関西」出身者の間では、ちょっとしたネタだったらしい。「馬場下前=糞したまえ」と云うこと。

しかし、「ネコババ」の元を「猫糞」と考えると、これは自分の落とした便にせっせと砂をかけて隠す猫の習性から来たものだとすんなり理解出来る。転じて、人の落とし物をそそくさと隠すこと、つまり「ネコババ」することになったのだろう。この語源説を補強するのに、意外な方面からの味方がいる。かの有名な「砂かけ婆」である。

「水木しげる」の漫画のおかげで、「砂かけ婆」と云えば、和服姿のいかつい顔の婆さんと相場が決まってしまい、近頃出される妖怪本なども安易にこれに従った図を載せているが、この妖怪は古来、絵画に描かれることはなく、その姿形は不明の妖怪だったのである。

比較的古くは、「柳田國男」がその『妖怪談義』の中で、友人の「沢田四郎作」医学博士の『大和昔譚』から「砂かけ婆」を引きつつ、「奈良県では処々でいう。お社の寂しい森の蔭などを通ると砂をぱらぱらと振り掛けて人を嚇す。姿を見た人はないという (大和昔譚) のに婆といっている (講談社学術文庫、1977、p. 201) 」と記している。「沢田博士」の原記述は「おばけのうちに、スナカケバゞといふものあり、人淋しき森のかげ、神社のかげを通れば、砂をバラバラふりかけて、おどろかすといふも、その姿を見たる人なし (澤田四郎作「大和昔譚」『奈良文化』二十一号、竹柏会大和支部、1931、p.103) 」である。

この手の現象の報告は、全国各地に見られ、その姿が見えない、すなわち正体は不明とするものを除いて、概ね「狸・狢・鼬」などを犯人として挙げている。『妖怪談義』では、先ほどの「スナカケババ」の項目に続いて、次のように「スナマキダヌキ」の項目を設けている。

スナマキダヌキ
 砂撒狸は佐渡のものが著名であるが、越後にも津軽にも又備中阿哲郡にも、砂まきという怪物がいるといい (郡誌) *、越後のは狸とも又鼬の所属ともいう (三条南郷談) *。筑後久留米の市中、又三井郡宮陣村などでは佐渡と同じに砂撒狸と呼んでいる。利根川中流のある堤防の樹でも、狸が川砂を身にまぶして登っており、人が通ると身を振って砂を落としたという話が残っている (たぬき) *。

*郡誌---阿哲郡教育会/編 (1929-30) 『阿哲郡誌』阿哲郡教育会
* 三条南郷談---外山暦郎 (1974) 「越後三條南郷談」『日本民俗誌大系』第七巻、角川書店、p. 214
* たぬき---戸川残花/編『たぬき』三進堂・清和堂

柳田国男 (1955) 『妖怪談義』講談社学術文庫 (1977) 、pp. 201-202

「狸」や「鼬」は実際、木に登るし、砂浴びもするから、木の上で身震いすれば、砂くらい落としてくるだろう。もっとも、「狸」の木登りはお世辞にも上手とは云えず、樹上で「狸」を目撃することは極めて稀である。

しかし、それにしても木登りする動物で、砂浴びするものであれば、樹上から砂をまき散らす程度のことはざらにしただろうし、昔の人々がそんなことをいたずらに恐れたとも考えにくい。狸や鼬だって、農村ではさほどまでに珍奇な生き物ではない。もちろん、ガス灯や電燈が発明される以前の世界の、夜の闇の深さを知れば、どんなことにだって恐れは感じたはずだと云う理屈は理解出来る。それにしてもである。

いったい、「砂かけ」伝承のある場所と云うのは、物淋しい木蔭で、寺院や神社の境内辺などの、日常性の境界域に属する場所であるように見受けられる。時刻は必ずしも夜ではなくともよく、この境界域であると云うことの方が重要なようである。仮に時刻を設定するとしても、そこはガス灯も電燈もなかったのだから、いくら提灯をぶら提げていたとて、そんなにも深夜に道行くものも少なかったはずで、どうしても宵の口、あるいは逢魔が刻などの昼夜の境界域をなす時間帯が有力な候補となるだろう。

「沢田四郎作」が『大和昔譚』に記した「スナカケババ」にしても、その一つの伝承地は、現在の「奈良県・磯城郡・田原本町」の「町立・北小学校」の付近なのだが、この小学校の前の道を昔は「長岡街道」と呼び、そこに昭和四十年 (1965) 頃まであった大木のことを人々は「ウコギの一本木」と呼ぶと同時に「砂かけ婆の木」と云って恐れていたとも云う。また、すぐ近くの「法貴寺 (地名) 」の「大和川」の堤にある大きな「クロガネモチ」の木も「砂かけの木」と呼ばれ、「祟りの木」とされていたそうである。「奈良県立図書館」所蔵の手稿本『磯城郡川東村川西村三宅村都村風俗志』 (c. 1915) には、「一、《黄金木》川東村鍵の東にある一本の巨樹なり」とあり、そのために「鍵のウコギ」とも云われたそうだが、古老たちの話では木自体は「榎」だったとも云う。

この木を巡る伝説を紹介した「田原本町」のホームページ「田原本町に伝わる昔話」には、この件に関して次のように書かれている。

「ウコギ」は『広辞苑』によると「夏、黄緑色の細花を簇生する」とあります。漢名では「五加 (ウコ) 」、「五加木 (ウコギ) 」と書き、その音や花の色からウコに「黄金 (オウコ) 」の文字があてられて黄金伝説が生まれたものと思われます。

ただ鍵のウコギは、お年寄りの話では「榎 (えのき) 」 だったということですが、「黄金木」のほうがふさわしいと思います。

「田原本町に伝わる昔話」第七話
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/story/legend_07.html

余説 残念ながら、上の記述は、大切な点を見落としていると思う。「ウコギ」に「黄金木」の字が当てられ、やがてその字や花の色の連想から黄金伝説が生まれたと云うのであるなら、その木が実は「榎」であってはいけないのである。どう考えても辻褄が合わないのである。逆に、黄金伝説のある地に立つ霊木だったからこそ「黄金木 ウコギ 」と呼ばれるようになったと仮定すれば、なぜ植物としての木自体は「榎」だったかがすんなりと理解出来る。

もっとも、この古老の記憶自体に問題があった可能性もある。「クロガネモチ」の木は、昔は農具の柄を造るのにさかんに使 われたため、「柄の木」からその名が起こったと云う俗説のある「榎 エノキ 」と混同された可能性もある。あるいは、「ウコギ科」の「コシアブラ」などは、「ウコギ」にも似て、しかも幹を傷つけたときに得られる樹脂からは、加工を施すと黄金色に輝く塗料を作成することが出来たため、古来「金漆 ごんぜつ 」と呼ばれ、工芸用塗料として珍重されたと云う樹木であり、もしかしたら「コシアブラ」のことを「ウコギ」と云っていた可能性もあるのである。

ついでに述べておくならば、「ウコギ」は「オウコ木」から来たのではなく、「鬱金木」から来たものと思われる。「鬱金 ウコン 」は、別名「黄染草」とも云われ、「黄金色」の染料として知られていた。大体、「オウコ木」が「ウコギ」に転訛したと考えるよりも、「ウコン木」が転訛したのだと考えた方がずっと説得力があろうと云うものである。まさか「ウコン木」から「ウンコ木」に転じて、「糞 ばば の木」になったとまでは云わないが...。

お後がよろしいようで。


筆者がここで言いたかったのは、「田原本町」の「砂かけ婆」の地に「黄金 (埋蔵金) 伝説」や「警告を発して吠える狛犬」などの伝説が並存するように、「砂かけ婆」の出ると考えられた「鍵のウコギ」が、どうやら「砂かけ」に関わりなく、霊木と見られていたと云うことなのである。しかも、その立つ地が、「鍵」と「法貴寺」の村境で、川辺の街道沿いと云うまさに境界域だったのも示唆的である。

「吠える狛犬」の伝説では、「大和川」の岸辺に鎮座する「池神社」の狛犬を盗んだ泥棒が、「鍵のウコギ」にさしかかった辺りで、狛犬が吠えたため、驚いた盗人は狛犬を放り出して遁走したと云う話である。これは、まさに「法貴寺」から「鍵」の地に入ろうとした瞬間に起きた神意と解することが出来る。狛犬自体が、神社の神域の閾を守る番人だとするならば、この伝説には二重三重に境界域の侵犯と云うことを語っていることになる。

「鍵」と云う地名も、それ自身、ある種の境界域を示すものである。「鍵」は「鉤」に通じ、西洋板の「卍」である「ハーケンクロイツ」を「鉤十字」と呼ぶことからも分かるように、曲がり角や交錯の意を含んでおり、その意味では「辻」や、この語と同根の「つむじ」などとも意味的なつながりを持っている。狛犬の「こま」も、解釈によっては、「つむじ」を意味する。

また、柳田の『妖怪談義』の「スナカケダヌキ」の項にあっても、「砂かけ」現象が報告された地の一つとして「利根川中流のある堤防の樹」が挙げられており、そして、本稿でもこの後に (第三回) に詳しく記すことになる「猫実」の「花蔵院」の「砂かけの珊瑚樹」と云うのも、既に見た「豊受神社」の堤防林に沿っていたのである。寺社の杜や垣根は、山川などの自然境界* などと並ぶ境界域であるが、堤防や防災林なども、日常の世界と異界とを区切る境目となりうるのである。

自然境界---自然の地形などで、人間の交流の阻害点となるか、あるいは重大な目印となるため、認識上の境界域となりうるもの。山川はもちろん、峠・岬・谷・岩・大木など。

「砂かけ」現象に関しては、すべての妖怪現象がそうであるように、この境界域において発生するもののようである上、さらに「隠されたもの」「落とし物」「交錯するもの」と云ったイメージ性が、潜在的につきまとっているようである。中でも、堤防の樹々や生け垣に見られるように、直接「風」と関連する特徴も顕著であり、そもそもその現象自体が、風に揺らされる木の枝々とは無関係に思えないのだから、その関連性は明らかである。「鉤」「辻」「つむじ」と云った連想も、この「風」のイメージ、しかも「つむじを巻いて吹く風」のイメージの供給源となりうるだろう。その上、「風」であれば、そもそも「姿が見えない=目に見えない」と云う「砂かけ婆」の本来のイメージ性とも合致する。



3.「オヘタ山の猫」 ~「狸」と「猫」の互換性を~

以上のように、筆者は、樹上からの「砂かけ」現象の原始的なイメージは、「逆巻くものとしての風」だと思っているのだが、そのイマジネーションの契機となっているのが「虚空から落ちてくるもの」なのだと思う。「砂かけ婆」を論ずるとき、たいていの人が忘れがちなのは「なぜ砂なのか?」と云う問いである。この問いは、「砂」でなければならぬ必然性を問うているのではなく、単に「砂」が表すものは何か、と云う性質のものである。

実際に動物によって砂が樹上から降らされたのならば、それが降ってきた時点で、たいていの人は上を見上げて、何だ猫か、とか、狸だな、などと感想を持ち、せいぜいが舌打ちしたり、木の幹に蹴りを入れたり、小石を動物目掛けて投げつけたりして終わろうものである。鳥の糞が頭に直撃したからと云って、怒る人はいても、怪異現象として畏怖するものはいない、と云うのと同じである。したがって、「砂かけ」現象を科学的に解明しようと云う言説は、すべて論理が逆転しているのである。初めに、畏怖の念があって、その後に現象が付け加えられるのである。

そして、現象が加わる時にも、似たような転倒した理屈が働くのである。「畏怖」の対象とされる境界域で、いつまでも具体的なことが起きなかったならば、その「畏怖」は平板な形で固定されてしまうか、あるいは再生産されなくなってしまうだろう。さして「畏怖」されない、「聖域」の残骸として遺された現在の神社や寺がそもそもそのよい例である。寺社が「畏怖」された時代、その寺社に関して、常に不可思議な超常現象が語られたのである。

「柳田国男」が、「妖怪」とはかつての「神」が没落していく過程の過渡的な姿だと分析したのは有名な話だが、筆者はこの言説に全面的には賛同しないものの、「妖怪」と「神」の成り立ちとの間には、人間の側に無視し得ぬ心理的な類似があるのは間違いなく、その点に関して柳田の慧眼は、何年経っても色褪せるものではない。

「砂かけ」現象の「砂」が表すのは、このような「畏怖」なのであり、逆に云えば、それを具象化した概念が「砂」なのである。そして、そのあとになって、「降ってくるはずのもないものが降ってくる」ことに対する対処的な説明としての怪異現象が語られ、結果として、宙ぶらりんの「畏怖」の中に人を置き去りにしないための綴じ目として、これらの怪異現象は心理的に働くのである。

筆者は、「井上円了」の如く、すべての怪異現象を科学的に説明しようと云う愚行* は支持しないが、一方、怪異の根幹には常に物質的な側面があるとも考えているので、抽象的な「畏怖」が、具象としての怪異現象へと転ずる時に、何か物理的な要因が働くものと推測している。この物理的要因こそが、「畏怖」の念を多様な形で表象する触媒となっているのである。

* もちろん、日本の近代化を是とするならば、その過程で「円了」の果たした積極的な役割は認めねばならないだろう。ただし、筆者は我が国の近代化は否だとか是だとかではなく、単なる必然だったと考えているので、「円了」に対する積極的な評価も低減せざるを得ない。

したがって、「砂かけ婆」と云うのは、境界域で発生する「畏怖」を解消するための心理的な合理化の過程で、古人が辿り着いた一つの説明だったと解釈出来るのである。

そこで、昔の人のイマジネーションを逆に手繰っていくことで、そのイメージ性の根幹を考察すると、結局のところ、「砂かけ」現象には、境界域であることや「畏怖」を除くと、「落とすもの/落ちるもの」「巻き上げるもの/巻き上がるもの」「姿が見えないもの/姿を見せないもの」と云ったイメージ性が浮彫りにされてくるのは、いままでに見てきた通りである。

「落とす/落ちるもの」のイメージに関しては、これを具象化しうる現象や事物は現実に無数に存在する。「砂かけ」に絞って、「木から落下する細粒状のもの」と仮定しただけでも、花粉や嵐で巻き上げられた砂そのものなど、色々な候補が考えられる。そもそも、国語的に見れば、「砂」は飽くまでも、「粉」よりも大きく、「屑」や「砂利」よりも小さい粒状のものの総体を指すのに使われる用語だと云えるのだから、ここでその実体を追求する必要はない。

「巻き上げるもの/巻き上がるもの」で云えば、「つむじ風」がらみでないものを見つけるのは難しそうである。ただ、「落とす/落ちるもの」との関連で見ると、「巻き上がった/巻き上げられたもの」は、必ずいつかは落ちてくるのだから、この二つのイメージ性は密接に結びついたものだと云えるだろう。もちろん、「風」が実質的には目に見えないものであることは云うまでもない。

ただ、既に何度か述べているように、「怪異現象」は科学的な説明を付けることに価値はなく、その逆、すなわち実際には昔の人でも科学的に説明出来たものを、なぜ「怪異現象」として合理化したのか、と云う命題の方がはるかに重要なのである。このような理解の上で筆者が議論をしていることは、覚えていて頂きたい。

さて、「目に見えない」「何かを巻き上げ」「落とす」もの、と云うところまでわれらは到達した。しかし、これに「風」や「花粉」などの説明を与えても、「畏怖」の心理的な綴じ目の役には立たない。そこで人々のイマジネーションは、自らの想像的世界と云う完結した認識の枠組の中からその候補を模索するのである。既に意識の中で「怪異」は決定済みであるのだから、その模索の目的は「そのような怪異を起こしうるもの」で「人間に姿を隠せるもの」を見つけることである。

「砂かけ」の現象は、かくして「狐狸狢猫」などの代表的な妖獣たちに候補を絞られたのである。この想像的な世界の枠内では、人々の思考は合理性を保持するのであるから、「狐」のように木の上に登れないものは即座に候補から外されたと思われる。そこで残された候補は、「狸 (狢) 」と「猫」と云うことになったのだろう。

現在、全国各地に残される「砂かけ」現象の言い伝えの中にあって、正体不明とするものの他は、ほとんどがその正体を「狸 (狢) 」としているのとは、やや整合しないかもしれないが、筆者は、より早い段階でこの現象を「猫」とするイマジネーションが優勢したのではないかと考えている。「砂かけ婆」の「ババ」が「糞」であるならば、かつて「猫糞 ねこばば 」のイメージがあったことの直接の示唆になると云えよう。そして、そのイマジネーションが薄れ、弱まり、あるいはなくなったからこそ、「砂かけ」の犯人は正体不明のものか、「狸」へと推移したのではないだろうか。

このイマジネーションの逓減には、いくつかの要素があると思われるが、「近世」の初期まで稀少な愛玩動物として一部の人々の占有に任されていた「猫」と云う生き物が、「江戸期」を通しての殖産興業の突き上げによって、養蚕などに有益な動物として、その飼育と繁殖が奨励されたことを通じて、人々の目に「猫」がより多く触れるようになったことも、その一因となっていたかもしれぬ。その日常性が増せば、リアルな「畏怖」の対象としての効力はどうしても目減りしようものである。あるいはまた、「江戸期」は、「鍋島化け猫騒動」に代表されるような「化け猫」のイメージが、演劇や語り物を通して、全国に流布した時代だったため、言い方によっては単なる「砂かけ」現象の犯人として、おどろおどろしいはずの「猫」は不適格になっていったのだとも考えられる。

いずれにせよ、「猫」と「狸」で、象徴的なレベルでよりよく「砂かけ」現象と同調するのは、やはり前者なのである。「猫糞 ねこばば 」の「砂かけ」行為は、あまりにぴったりと符合し、また木の上にいると云う点でも、「猫」の方がはるかに適格者である。しかも、木の上の「猫」は下からは見えないことも実は多いのである。我が家の猫が、我が家の裏の檜葉の中に潜んでいるのを看破する方法は、小鳥たちの様子を観察することを除いては、飼主の筆者にもない。

さらに重要なのは、「巻き上げ」のイメージである。「猫檀家」話にあるように、棺を「巻き上げ」、それから「落とす」と云うイメージ性は、「猫」独特のものである。こちらは死体を盗ると云うおどろおどろしさのために、「猫」の専売特許が生きつづけたが、「砂かけ」は、それと同じ理由で、その専売権が「狸」に譲渡されていったのではあるまいか。

*

筆者は元を糺せば「砂かけ」現象の主たる物理的モチーフは「猫」であると考えているのだが、残念ながら、傍証のようなものは豊富にあるのだが、確証に近いものはいまのところない。現在のところ、状況証拠を積み重ねて、全体を証明しようとするほかないのは、上に見た通りである。

「ネコババ」から「砂かけ婆」へとつなげる展開が、筆者の主な傍証であるのも事実である。「砂かけ婆」が「砂かけ糞」であるならば、これは「狸」と云うよりは、「猫」のことであることはかなり明白になるからである。そして、この「ネコババ」と「砂かけ婆」の国語的な相似性と、この他に、猫の実際の生態と「砂かけ」現象の絶対的な類似を挙げることで、「砂かけ婆=猫」に関する、かなり有力な仮説を構成していると考えている。さらに細かい論証に関しては、既に述べたこともあり、また簡単に要約出来ないこともあり、ここでは繰り返さない。

もしも、各地の「砂かけ現象」を巡る言い伝えの中に、「猫」をその正体として示唆する材料がもっと多ければ、筆者にとっては都合が好いのだが、なかなそうも行かないのが現状である。ただし、地域を絞って、「千葉県市川市」の「行徳地区」や、隣接する「浦安市」の地域に目を向けると、意外にも「砂かけ=狸=猫」の図式が、鮮明に浮かび上がってくることになる。そのため、筆者は今のところ「行徳・浦安」地区を、「ネコババ」=「砂かけ婆」=「狸」=「猫」の連環を読み解く、モデル地区と考えている。そして、そのような連環の結節点となるのが、次のような伝えである。

お嫁さんの手ぬぐい

明治三十八年 (1905) 生まれの「小島くめ」さんの母親が嫁に来たての頃、新しい手拭いをおろして被っても、掛竿に夜かけておくと、朝にはなくなっていると云うことが二三日続いた。

その頃、「オヘタ」の山に狸が出て、昼間地面に転がっちゃ、夜は木に登って下を通る人に砂をかけていた。「くめ」さんのうちでは、しばしば酒屋の「重四郎」へ酒を買いに行かされたのだけれど、夜になるとこの砂かけがひどくて、恐かった。十八歳でお嫁に来たお母さんは、お酒を買いにいく途中、「オヘタ」の山で、手拭いを頭に乗っけて五六匹の猫が、まるくなって、にゃご、にゃごにゃごと踊っているのを目撃したものだから、なおさら恐かった。しかも、被っているのは、お母さんの手拭いだったと云う。

それ以来、その場所は、「ゆうれい畑」と云われるようになったそうである。

初出・「お嫁さんの手ぬぐい」 (1989) 『行徳昔語り』第三十九号、pp. 5-6
参照・大窪ら/編 (2000) 『行徳昔語り』行徳昔話の会、明光企画、pp. 61-62


この言い伝えでは、説明も抜きに、「狸」と「猫」の相互置換性が保証されているが、このような説話中の動物の互換性については、古くから民俗的な探求の対象となってきている。この「狸・狢・狐」などと、「猫」との相互置換性については、既に「江戸期」に「滝沢馬琴」が、簡潔に喝破しているところでさえある。

佐渡に狐なければ狸貉 たぬきむじな の人に憑くなり。八丈島に狐狸狢なければ山猫の人に憑ことありといふ。彼を欠ばこれをもて補ふ。

滝沢馬琴『燕石雑志』
日本随筆大成編輯部/編 (1975) 『日本随筆大成 第二期・第十九巻』吉川弘文館、p. 492


また、このことは「中村禎里」氏がその多くの著作で論述している通りだが、特に「猫」と「狸」に関しては、『狸とその世界』 (朝日選書、1990) に詳しい。この著作の中で、「関敬吾」の『日本昔話集成』に依拠して、統計的な調査を行なった「中村氏」は、タヌキの説話を五つの系統に分類し、それぞれの系統においてタヌキが他のどの動物とどの程度の頻度で互換性を示しているかを表にまとめている (上掲書、pp. 8-9) 。そして、その結果、タヌキとの互換性を持つ主な動物を「ネコ、サル、キツネ」だとしている。

同時に「中村氏」は、『日本動物民俗誌』 (1987, p. 87) においては、「とくにタヌキは、木に登り、ネズミ・トリを好み、瞳孔がたてに細く収縮するなどネコに似た習性・生理を示し、また小原秀夫 (1977) *、池田啓 (1985) * によれば、ネコに似た声で鳴く」と記して、タヌキとネコの説話における互換性が、その生態などの動物学的な類似性にも基づいていることを述べている。

*小原秀夫 (1977) 無『日本の野生動物の旅』動物社
*池田啓 (1985) 「『狸』と『タヌキ』」『月刊文化財』第267号


ちなみに、「狸」の登場する昔話と云えば「かちかち山」が有名だが、かつて「柳田国男」は『昔話と文学』 (1935) 所収の「かちかち山」と云う論考の中で、この昔話が、本来異なる起源を持つ三つのモチーフの組合わさったものではないかと指摘している (定本六巻、pp. 58-128) 。これは卓見と云うしかなく、さもなければこの物語に登場する「狸」の、場面場面における相矛盾する性質を説明することも理解することも出来なくなってしまう。

「中村禎理」氏も、この「柳田説」を受けて、「かちかち山」の物語分析を行なっているのだが、その中で、狸が婆を殺して爺に食べさせる二段目は、タヌキの昔話の中でも、「ネコ系昔話」の動物に特徴的な行動であると記している。さらにその成立の過程について、次のように簡潔に述べている。

一七世紀後半の成立と思われる赤小本の『むぢなの敵討』においては、昔話「かちかち山」のC段を欠く。またA段には、タヌキ (原表記はむぢな、以下同様のばあいがある) が爺をからかうモチーフ (A1) の代わりに、タヌキが爺の弁当を食べてしまうモチーフ (A3) がおかれている。時代がくだって一八世紀にあらわれた『兎大手柄』をみると、そのA段は『むぢなの敵討』にひとしく、これにウサギの義侠、つまりC段がくわわる。B段は『むぢなの敵討』・『兎大手柄』ともに昔話の「かちかち山」に一致し、タヌキは婆を惨殺して彼女に化ける。

中村禎理 (1990) 『狸とその世界』朝日選書、pp. 29-30

「中村氏」のこの分析を通して明らかなのは、「かちかち山」の成立過程を見る限り、その根幹をなしているのは氏の云う「B段」 (筆者の云う「二段目」) のモチーフだと云うことである。

元々、婆を殺して食わす行為は、畑で爺をからかったら (あるいは、爺の弁当を食べたら) 袋だたきにされて縛り上げられ、狸汁にされそうになったことへの復讐であったはずであることを考えると、筆者は、二段目が単なる「ネコ系」の残虐譚ではなく、実は「婆を食わす」と云うモチーフを中心としたブラックユーモアに支えられていたのではないかとさえ考えている。現在でも、「糞喰らえ」と云う言葉があるが、「かちかち山」の主要モチーフが「婆を喰らわす」ことであることと、この段のみが、「ネコ系昔話」の特徴を有しているとするならば、そこに生じる意味論上の交錯から、我々は「猫糞 ねこばば 」のイメージ性を感得することが出来るのである。

「かちかち山」の三段構成の物語の中で見ていると気づきにくいことだが、「鍛冶屋の婆」や「ネコと茶釜の蓋」などの説話にも見られる猫が婆にとって代わる図式は、「かちかち山」の二段目の構造と相似をなしている。また、とって代わられた婆が、多くの場合、食われてしまうのも、共通してよく見られる傾向だと云える。

この復讐の要素と、「糞を喰らえ」のイメージ性の連環は、どうも無関係でない気がする。いずれにしても、説話的なイマジネーションの領域で「狸」と「猫」のイメージに互換性があるらしいことは、ここまでにある程度明らかに出来たと思うので、ここでのさらに細かい論証の過程は省き、「狸」と云う漢字に当初から含まれていた「猫」のイメージについて簡単に確認する基礎的作業に入ってこの項を終わりたい。

*

「狸」と「猫」の互換性については、さらに別の切り口からも、古くから論証されている。それは「中国」から輸入された漢字としての「狸」の歴史と、それがどのように我が国の文学に登場し、使用されたかを巡る考察である。この辺りの議論は、非常に面白いのだが、あまりにも繰り返し主張・記述されてきたことなので、ここでは概略のみ紹介する。

戦前、「久米邦武」や「相馬由也」あるいは「日野巌」らは、中国古典の研究を通して、「狸」は元々、日本語の「ねこ」に相当する漢字だったと断定した。後に、「今村与志雄」は、さらに緻密な研究を行い、やはり「古代中国」の「狸」は我が国の「やまねこ」「野生ねこ」に当たると結論づけている。「中村禎理」も、さらにいくつかの文献研究をこれらに付け加え、「中国の狸とは、ヤマネコを中核とするネコ的な中型哺乳類の漠然たる総称だった」と唱えている。同様に「池田啓」は「中国でいう狸はジャコウネコ類を中心にネコ的な動物の総称」と分析している。

我が国の文学に目を向けると、「猫」が初めて文献に現れるのは僧「景戒」による『日本霊異記』 (c. 820) である。ただし、『日本霊異記』の「膳広国」の父が、死後、次々と「蛇・犬・猫」になって息子の家を訪ねると云う説話の中の「猫」は、標記上は「狸」になっている。人家に入ってくる生き物として「蛇・犬」は適しているが、「タヌキ」ではあまり考えられないと云うことと、同書の写本の一つである「興福寺本」 (AD 904) に「狸」が「ネコ」と訓をつけられていることから、この動物は「猫」だとされてきたのである。その推測が、上記の段落の諸研究を補うと同時に、またそれらによって保証されるのは明らかである。

「狸」の漢字と「猫」の認識論を巡っては、詳しくは、以下の文献などを参照されたい。

久米邦武 (1918) 「狸貉同異の弁」戸川残花/編『たぬき』三進堂・清和堂
相馬由也 (1918) 「狸貉貛の名称」戸川残花/編『たぬき』三進堂・清和堂
日野巌 (1926) 『動物妖怪譚』養賢堂
池田啓 (1985) 「『狸』と『タヌキ』」『月刊文化財』第267号
今村与志雄 (1986) 『猫談義』東方書店
中村禎理 (1990) 『狸とその世界』朝日選書



4. むすび

今回の「花蔵院の猫 (2) 」の記事で、筆者が躍起に唱えてきたのは、次の三点である。
1.「猫実」の語源とは無関係に、この地域に「猫」に対するアイデンティフィケーションのような心理が働いていた可能性を排除出来ないこと、

2. 「狸」と「猫」とは、民俗的なレベルでの互換性があること、

3.「猫実」と近接する「行徳」の地に、同じ説話のうちで「狸」と「猫」の互換性を体現したものがあることを、「お嫁さんの手ぬぐい」を通して紹介すること

以上、三点につき、冗長に駄弁を弄した観は免れないが、それなりの成果を示し得たと思う。

さらにこの「お嫁さんの手ぬぐい」の話は、この地域での民俗的想像力の中での「狸」と「猫」の互換性を保証するだけでなく、「砂をかける狸」と「浮かれ歩く猫」のモチーフを接合していると云う点で、「花蔵院の猫」の寺院を「猫実」の「花蔵院」に同定するのに大きな役割を果たしているのであるが、この点に関しては、次回の記事に譲ることとしよう。

*

最後にやや蛇足ぎみながら付け加えると、「狐」が棲息せず、そのためにその言い伝えもほとんどなく、我が国最大の「狸」優勢圏となっている「四国」地域にあってさえ、「狸」と「猫」の互換性は顕著に見られるのである。一例を挙げれば、「日野巌・日野綏彦」の 『日本妖怪変化語彙集』 (有明書房、1975) に収められている「猫狸」である。「香川県・丸亀地方」で云う「化け狸」の名前で、「猫」に化けるのが巧みだと云うものである。


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庭のねこ
「砂かけババ」はお婆さんではなかったのですか。
たしかに、砂をかけてくるお婆さんなんていないものですから、変わった妖怪だと思ったこともありますが、
まさか「婆」ではなく「糞」だったとは・・・。

また、「猫」と「狸」の入れ替わりがあったことにも驚きました。
わたしは、野生のタヌキを見たことがあまりないのですが、ネコ型ロボットが狸にまちがえられることからも、両者は結構似ているのでしょうか。

それはともかく、猫実が実際に猫に関係する土地であるようだということがわかりました。
しかし、なぜ「花蔵院の猫」が「猫実」の「花蔵院」を指していると言えるのかは未だにハテナです。
2010.05.01 16:24
clubey
庭のねこさん、こんにちは。
長い記事を最後まで読んで下さったのですね。
有り難うございます。
「猫実」と「猫」の関係や、「花蔵院の猫」の舞台がなぜ「猫実」であるかの結論は、
次回 (第三回) をお楽しみに...。
2010.05.01 18:18

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