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千葉県の猫神・花蔵院の猫 (3)  ~花蔵院の狢~

.06 2010 関東地方 comment(3) trackback(0)
新義真言宗
海照山・花蔵院
浦安市猫実 3-10-3
047-351-2332

「花蔵院」の門。かつては、ここに「珊瑚樹」が冠さっていたと云う...。


前回までで、「花蔵院の猫」の舞台が「猫実」の「花蔵院」であると明らかにするために必要な検証の大部分を済ませておいたために、最終回である今回は、その検証の最終段階を書き上げればよく、さほど紙面を取らずに済みそうな見通しとなった。そこで、またもや調子に乗って、結論部に入る前に、「猫実」の地名における「猫」のイメージ性の有無について、筆者の思うところを示すこととした。そう、結局、少しは長くなるのである。

早く結論部をと云う人は、「3. 花蔵院の狢」まで飛ばして下さい。



1.「猫実」の地名と「猫」のイメージ性

「猫実」と云う地名と、「ねこ」と云う言葉/概念の間には、『浦安町誌』の云う「根越さね」説に止まらないつながりがありそうだと云うことを、前回の記事で、「根越さね」説に反駁することで筆者は示し得たと思っている。より深層の民俗的無意識の領域で、象徴的なイメージの連関が生きているのだと思う。筆者は、必ずしもそれを動物の「猫」だと云っているのではない。ただ、少なくとも、「根越さね」などと云う出来の悪い冗談のような符合で片付けられる性質のものではないと思っているだけである。

「猫実」の語源が何であったにせよ、地元の住民たちにあってさえその記憶はまったくない以上、「猫実」の意味は事実上、宙に浮いた状態で保留されたに等しい。自然地形などに依拠したものを除いて、たいてい、古い地名と云うものは、その起源も分からなくなっているものであり、ほとんどのものがこの宙吊り状態にある。しかし、多くの地名はそれ自体、直接われわれのイマジネーションに訴えかけて意味を浮上させるほどの強烈な音の組合せにはなっておらず、そのためその語源についてもやかましく詮索されないで済むのである。

一方、地名の中に無視出来ない響きが含まれると、人々はその響きに意味を付与したがるものである。そこに語源俗解などが生まれる余地があるのだが、それ以上に、その響きに基づいたイメージ性が強く意識されるようになるのは、むしろ当然のことだと思う。大切なのは、そのイメージ性が、純粋に後から付与されたものなのか、あるいは、語源が失われる以前からのイメージ性の断片を潜在的に保持しつづけているのかと云うことになる。

本稿では、「猫実」の「ねこ」の二音が、上に挙げた二つの分類の内いずれに属するかを問うところまでは進まないし、またそこまで進む資料もいまだ筆者は持ち合わせていない。ただし、その段階以前の手続きとして、「猫実」の「ねこ」の音に、「猫」のイメージ性が付与されていたと云う出発点としての事実を示すことを目的としているのである。

前回の記事の目的の一つが、1. 「根越さね」説が無効であること、2. 「浦安」と隣接する「行徳」地区に「猫」に関する怪異譚があること、の二つを通して、「浦安・行徳」地域に、本来の「猫」の生態と無関係な「猫」のイメージ性が土着の民俗の中に存在することを確認することだったのであるが、今回の記事では、「猫実」での「猫」のイメージ性の存在をより深く確認することを第一の課題としている。

抽象的な議論はここまでとして、以下、具体的な話に移ろう。

*


「真言宗・豊山派」の「医王山・東学寺・本堂 (薬師堂) 」

「境川」を挟んで「猫実」の対岸、「境橋」の橋袂すぐのところに、「東学寺」と云う寺がある。この地域の歴史に詳しい郷土史家の「遠藤正道 しょうどう 」氏の著作によると、ここの墓地にある文政十年 (1813) 銘の墓石には、側面に誇らしげに「猫源蔵」とくっきり記されているものがある、いや、あったと云う。

過去の映像から

この墓石、現在もあるのかもしれぬが、先日、筆者が「東学寺」を訪問した際には、見つけることが出来なかった。近年、大規模な区画整理が行われたらしく、墓石の大部分は真新しいものに変わり、区画も全て綺麗に整備されていた。再度、探索に出掛けようとは思うが、今度はもう少し下調べをしてからにしようと思う。

いずれにしても、この「猫源蔵」の銘、地名の「猫実」から「猫」の字をとって姓のように使ったものと一般には思われているようだが、真相は分からぬ。「遠藤氏」は、この墓石について次のような調査結果を記されている。

この墓所はもと、猫実一四〇六ノ某家のものであったが、同家の先々代の折に猫実一四四三へ分家した同姓の家へ、墓四基のうち二基を譲ったものであった。両家の話と古老の話を綜合すると、「猫」とは、本家の古くからの綽名であることがわかった。それで同家は明治になってから名字を「かねこ」とつけたのであろうか。

大体、浦安というところは綽名をつけることが上手である。 (略) 最近のものでも猫のつく綽名は、分家の先代夫人 (当主は夫妻共に六十五歳以上) が「猫ばあさん」と呼ばれて、犬や猫を大変可愛がっていたという。 (略) 普通、老婆が猫を可愛がることはいくらでもあることであるから、猫ばあさんとは、どうも本家から受けついだあだなとしか思われない。

遠藤正道 (1978) 『葛飾風土史 川と村と人』自刊、pp. 130-131

後の著作で「遠藤氏」は、この半ば埋もれていた墓の台石の正面に「猫実村源蔵」の文字が発見されたことも書いている (『郷土と庚申塔』1980、pp. 119-120) 。墓石に二つの名がある以上、おそらくは親子と云うことになろうが、二代続けて「源蔵」を名乗っていたことになる。いずれにしても、この墓碑を建てた人物は、「猫」と云う通り名に強い思い入れを持ち、それを人に知られることに対しても強い誇りを持っていたことは間違いあるまい。ただ、以上のことだけからでは、何故その特定の家系に「猫」の通称が宛てがわれたのかが分からないのは残念である。

さて、ここらで「東学寺」を去り、いよいよ「境川」を渡って対岸の「花蔵院」に向かうこととしよう。「花蔵院」に着いたら、寺門を入ったすぐ右側の塀際に、精緻な細工の施された、文政元年 (1818) 銘の立派な「庚申塔」が立っていることに気づくだろう。高さは百四十六センチ、幅四十七センチ、奥行三十四センチ、碑面には一切の刻字はないが、「青面金剛」を中央に、足下の「三猿」などが見事に彫り込まれている。

一体、文政期 (1818-1830) の石造仏と云うのは、全国的な文化の爛熟を受けてか、極めて造形的に華やかで、手の込んだものが多く、我が国の石造彫刻の一大隆盛期を築いたと筆者は勝手に考えている。だが、時代的に現代に近接し過ぎている所為か、美術史家たちからはほとんど一顧だにされていない。時代的な古さや珍しさだけが美術的な価値評価の基準になると云うのは、何だか「美術的な価値」の評価ではなく、ただの骨董趣味に過ぎない気もするのだが...。

この「庚申塔」は、かつて「猫実村」の東の入口に祀られていたものが、「花蔵院」の寺地の移動に伴って、その境内に移されることになったものだと云う。


この「庚申塔」なのだが、正面に大きく「講中」と刻まれた台石の右側面から左側面にかけて (ただし、裏側には刻字されず) 、施主の名前が連名で刻まれている。頭書には「石工金町寿平治 文政元年九月吉日」とあり、連名の初めに「谷仲 門三郎」とあり、合わせて十九人の名前が刻まれているが、最後に彫られているのは「門二郎」と云う名前である。施主の筆頭が「猫実村」と無縁の人間とは考えられないので、上記の「門三郎」は、最後にしんがりを務めた「門二郎」の弟で、「谷中」に出て成功したか、あるいは「谷中」にあった総本家筋に養子に入ったかしたのだと思われる。「江戸後期」の「猫実村」には、「江戸」の富裕な商家が多く入植・開拓を行なった歴史があるので、このようなことも十分考えられるのである。いずれにせよ、「門三郎」は「猫実村」出身者であったろうし、「門二郎」と二人で、造塔の総代のような役割を果たしていたのだろう。

見えにくいが、連署の「源蔵」名...

この連名者の十四番目、しんがりの「門二郎」を二番目と数えると、十九人中の十五番目に「源蔵」と云う名が見える。「東学寺」の墓碑と時代が近接するため、この「源蔵」が、墓の主なのか、それともその施主の息子なのかは判別出来ないが、そのいずれかであることは間違いないであろう。そして、村の東の入口を守る「庚申塔」を建てたのだから、この十九人 (乃至、十八人) が、村の有力な家であったのも疑いようがない。

西の「庚申塔」。狛犬ならぬ、烏帽子姿の猿神が珍しい。

一方、「猫実」には、より有名な「庚申様」がいる。村の西の出入り口を守護する「庚申塔」で、「花蔵院」にある東の「庚申塔」とは異なり、昔も今も多くの参拝者を集めているのだが、その歴史も古く、正徳五年 (1715) の銘がある。「花蔵院」の「庚申塔」よりも、約百年古いことになる。詳しいことは、本論の上では余談になるのだが、折角だから現地説明板の内容だけでも紹介しておこう。

猫実の庚申塔
 昭和五十七年 (1982) 市指定有形文化財

庚申塔は、正徳五年 (1715) 一月、猫実村の庚申講の信者によって建てられた。青面金剛菩薩を 刻んだ庚申塔では、市内最古のもの。塔の正面には、邪鬼 (たたりをする神) を踏みつけておさえている青面金剛菩薩、庚申の干支にちなんで「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿が刻まれている。

庚申信仰は、もともと道教 (中国の民間信仰から発達した宗教) の三尸説に始まったもの。
三尸説では、六十日に一度の庚申の夜に、人の体内にいる三尸の虫が抜け出し、天の神様にその人が犯してきた罪を告げるのだといわれている。これを聞いた天の神様は、その分だけその人の命を削りとり、早死にさせるので、この虫が抜け出ないよう、信者たちは夜通し話しや会食をして過ごした。ただし、この地域では、庚申の晩に祭礼を行ったというような記録は残っていない。

大正時代には、毎月二十五日が祭礼日とされ、現在でもこの日に病気の回復などが祈願されている。かつては、祭礼の日には、お堂の前の道に露店が立ち並び、多くの参拝者でたいへん賑わったといわれている。

今日でも、先人たちの信仰心が脈々と受け継がれ、この塔は「猫実の庚申様」として、地域の人々に大切にされている。

平成十六年一月 浦安市教育委員会
(現地説明板より)


西の塔の方が創立年代も古く、信仰の根も深いとなると、「猫実」の「庚申信仰」が、西から東へと広まっていた伝播の過程も、おのずと推測されると云うものである。実際、「猫実」の草分けの家々は、まず西の塔の周囲から開拓を開始し、徐々に東南へと鍬を入れていったのである。

ここで筆者は「猫源蔵」のことを考えてしまう。
「源蔵」が村の東の「庚申塔」の造立に関わっていると云うことは、彼が地域の有力な家の主だったことを表すと同時に、一方で、彼の家が西側の村の草分けの家々とはまた異なる、そう云う意味では新しい家だったことを意味しているのである。しかも、造塔の連署に当たって、十九人中十五番目に序列された「源蔵」が、はたして「われこそが猫実村の源蔵だ! 」と名乗りを上げたものか、その可能性はかなり薄いと断ずることが出来る。ちょうど、ベンチを温めている新人選手が、活躍する諸先輩たちを指し置いて、俺がチームの顔だ! と記者団に向かって息巻かないのと同じ理屈である。もしも、「猫実村」在住であると云う程度のことで「猫」を名乗っていたとするなら、村中、何人の人が「猫」を名乗らねばならなくなってしまったか、見当すらつかない。

*今回の「東学寺」及び「花蔵院」の石碑類に関しては、「遠藤正道」氏の著作の貴重な情報がなければ、筆者は探訪の緒にすらつけなかったであろう。ここに心からの謝意を表したい。

遠藤正道 (1978) 『葛飾風土史 川と村と人』自刊
遠藤正道 (1980) 『行徳地史 郷土と庚申塔』飯塚書房

結局、「源蔵」とその一族に関しては、「猫実」に住んでいると云うことの他に、彼らをして「猫」と深く結びつける心性が他にあった、と想像せざるを得ないのである。そうでなければ、明治に入って全国民に名字をつけることが義務づけられるに及んで、一族の名前に「ねこ」と音の重なる「金子 (かねこ) 」を選んだと云う事実も、まるで理解出来なくなってしまう。また、「猫実」にあってなお、この家だけが特に「猫」の綽名を贈られるための要素が、村人たち周知の事実として存在したことも考えられる。あるいは、原「金子」一族には、ある種の原始的なトーテミズムの如き心性が働いていたのだろうか。

筆者が、「猫源蔵」の名前の考察を通して云いたいのは、次の二つの要因がどちらも強く働いて、「源蔵」はそのような名乗りを行なっていたのではないか、と云うことである。

1. 「猫実村」への愛着とその村名からの連想
2. より限定的に「源蔵」個人あるいはその一族を「猫」と結びつける心性

普通に考えると、第一の要因ばかりが強調されやすいが、それだけでは障壁が多いのは上に見た通りである。「猫実村源蔵」が「猫源蔵」になるためには、そこに他の村民よりも傑出して「猫」と結びつく要因が介在しなければならないのである。「猫実」と云う地名と「猫」との関係の追求も、一元的にその語源を求めるばかりでなく、後発的に派生した様々なイメージ性を統合的に考察した時に初めて、残されているかもしれない起源的な残滓を掬い採れる可能性が生まれるのであり、このように考えたとき、「猫」地名の民俗的な探求は、ようやくその端緒につくことが出来るのである。



2. 「猫」地名と「猫」のイメージ性


歴史時代より前に、我が国には「猫」は存在しなかったと云うのが定説なのだから、より古い時代に成立したと考えられる地名のような語彙に「猫」が含まれるはずもなく、したがって、「ねこ」の音は別の言葉を表しているに違いない、と云うのが一般の地名研究者たちの見解なのは理解出来る。もっとも、一部の「猫」論者たちは、「縄文時代」までは本土にも山猫がいたとか、いや、歴史時代の初期に至ってもいたはずだ、などと論じているが、これはいずれ考古学的な証拠でも発見されない限り、虚論だとは云えないが、空論だとは云えよう。

だが、一方で、「ねこ」の音が表す言葉を「猫」とは無関係に見つけ、それを当てはめて地名解釈をすればそれでよい、とも筆者は考えていない。筆者は飽くまでも「猫」に拘わるのである。もちろん、そうは云っても、既に何度か述べた通り、「猫」地名が動物の「猫」に起源を有していると筆者が考えている訳ではない。ただ、永い間「猫」の字を当てられているうちに、そのことが「猫」のイメージ性をその地名や、その地の伝承類に移入する働きがなかったとは思えないし、より重要なことに、その逆、すなわち、その手の伝承類に付随する「猫」のイメージ性の中に、「猫」以前の「ねこ」のイメージ性が、忘却の中に巧妙に隠されて潜在している可能性も十分に考えられるのである。筆者は、このイメージ性の検討を抜きにして、「猫」伝承はすべて荒唐無稽のものだと決めつける姿勢は、およそ合理的でなく、ひどく権威主義的で、誠意に欠くものだと云いたいだけなのである。

確かに「猫」地名と云うものは、「ねこ」が「根子」を表し、山や丘、崖などの麓を指すとするのが、いまのところ最も有力な解釈のようである。この説には、「中世」の「山城 やまじろ 」と深く関係して、その麓に形成された集落あるいはその「山城」自身を「根古屋・根子屋」と云ったという傍証もあり、なおかつ「中世城郭」の跡地にいまなお多く「根古屋・根子屋」の「字 あざ 」が残っていることも考え合わせると、かなり説得力がある説なのは否めない。この他、「ねこ」は、低湿地を表すアイヌ語の「nay-cot」に由来すると云う説も、「猫」地名の宝庫の観がある「東北地方」にあっては、アイヌ語が残存している蓋然性も高く、また「低湿地」と関係ありそうな「猫」地名も多いことから、かなりの程度まで説得力のある所説である。

しかし、最も有力で、最も説得力のある「根古屋・根子屋」説に対して、筆者は以前から大きな不満をも抱いている。それは、もしも全国の「猫」地名が「根古屋・根子屋」などの「根子・根古」に根差すものならば、「根古屋・根子屋」地名だけは逆に、なぜ「猫屋」表記がほとんど絶無なのだろうか、と云う疑問である。他の「ねこ」地名は、多く「猫」字を採用していき、いまでは「猫」表記の方が優勢であると云えるのに、なぜ「根古屋・根子屋」地名だけは、明らかに語源的に関連があると思われる「根っ子」の含意を明示する用字を捨てずに残されたのか、この簡単な問いに対する説明が定説の側からはなされていないのである。

これは逆に「猫淵」などの地名には、「根子淵・根古淵」の表記がほとんど見当たらないことと好対照をなした現象で、誠意を持って議論するものであるならば、この二つの相容れない「猫」と「根子・根古」の非等価値性は、無視し得ない争点を提示していると思われる。しかも「猫淵」に限って云えば、「断崖の麓の淵」と考えれば意味が通りそうな場所も幾つかあるのにである (もっとも、必ずしも該当しない場合もある) 。

さらに云うと、「猫」が歴史時代以前に存在しないことを、地名の起源論から「猫」を前提的に排除する金科玉条としながら、「根古屋・根子屋」地名が、多くは「中世」まで、どんなに古くとも「荘園」の隆盛期くらいにまでしか遡れないことを等閑視しているのは、明らかな片手落ちである。今後、考古学的な調査が進み、「根古屋・根子屋」地名の地に、歴史時代以前に遡る城館跡や集落跡などが次々と発見されれば事情も変わるが、いまのところ、この一点は、「ねこ」=「根子」説の重大な欠陥となっているのは否定出来ない。

*

とにかく、筆者が民俗研究に携わる人々に強く訴えたいのは、「猫」地名や「猫」伝承の中の「猫」のイメージ性をもう一度、正面からきちんと分析し直すことなのである。

筆者にとっては、「猫」が「水」と「大気」の「渦」との関連で結びつき、「逆巻くもの」の象徴性を引き継ぐものだと云う仮説の上に「猫実」を含む多くの「猫」地名を考察しようと考えているのだが、これは後に、より多くの資料が集まり、検証が十分に行ない得た時に、細かく提示することとしたい。

しかし、いまはそのことを、ひとまず置いておくとして、いよいよここ数回の表題となっていた「花蔵院の猫」の寺を、いかにして「猫実」の「花蔵院」だと断定するに至ったかの、最終的な検証過程に入っていきたい。



3. 「花蔵院の狢」

前回の記事までに、説話的なレベルでは、「狸」や「狢」が、「猫」と互換的な役割を担っており、しばしば同じ説話に「狸」と「猫」が入れ替え可能な形で登場することを確認した。これは全国的な規模で云えることで、際立った「狸」優勢圏である「四国」にあってさえ、「狸/猫」の互換性は成立し得たのである。しかも、「千葉県」の「行徳地区」には、同じ説話内で、「砂かけ狸」と「浮かれ猫」が、まるで等しいものであるかのように登場する話も採集されていたのである。

また、前回の記事では、「狸 (タヌキ) 」と「狢/貉 (ムジナ) 」とが、動物学的には、同一の生き物を指す言葉であることを述べるのを忘れてしまった。実際には、この下りはしっかりと打ち込んだのだが、筆者がトイレに行っている隙に、我が家の猫たちによってキーボードを蹂躙された結果、見事にすべての原稿が削除され、しかもその状態で保存されてしまったのである。前回の記事は、その後、記憶を便りに再記述したもので、最初の稿の方が出来が良かっただけに、少しく惜しまれた。

我が国では古来、一つの動物に「タヌキ」と「ムジナ」の二つの呼び名があっただけでなく、この二つを別の生き物と捉える人々もおり、その認識上の混乱は全国的なものであった。酷い例では、同じ動物を見て、こちらは「タヌキ」でこちらは「ムジナ」だなどと云う人々が、猟師の中にさえいたりしたのである。

この全国的な呼称の混乱を象徴するかのような事件が「大正時代」に至っても、なお起きている。世に名高い「タヌキ・ムジナ事件」である。この事件は、大正十三年 (1924) に「栃木県」の猟師が、「タヌキ」の捕獲を禁止した狩猟法違反容疑で逮捕、起訴されたもので、下級審では有罪とされつつも、翌年六月九日に「大審院」においては、被告人に無罪判決(大正14年(れ)第306号)が下されたものである。

「大審院」判決では、「タヌキ」と「ムジナ」とは動物学的には同一のものであることは間違いないが、その事実は広く国民に行き渡った認識とは言い難く、逆に「タヌキ」と「ムジナ」を別種の生物とする認識は全国的に見られるもので、被告人や被告人の住む地域にのみ留まるものではないために「事実の錯誤」として「故意責任阻却」が妥当であるとしたのである。この事件は、我が国の「刑法・第三十八条」での「事実の錯誤」に関する判例として現在なお引用されることが多い。筆者も、大学一年のときの「法学」の講義で初めて聴き知ったものである (参照・赤坂昭二『法学の基本原理』第十二刷、成文堂、1988) 。

*

そして、いよいよ「花蔵院の猫」の話の舞台が、なぜ「猫実」の「花蔵院」だと云えるかの最終的な検証、と云うか論証の段階に入る。論証に入ってしまえば、後は呆気ないので、そのつもりで...。

ここまでのすべての検証事例の結節点となるのは、実は「浦安」に残された「花蔵院の狢」の言い伝えなのである。以下のような内容である。

花蔵院の狢


「明治」から「大正」の頃まで、「花蔵院」には「狢」が出たものだ。その頃、「本堂」の前には「珊瑚樹」の木が冠っていて、今みたいに塀なんか囲ってなく、塔婆で囲ってあった。墓に提灯がぶら下がって、風が吹くと提灯が揺れてガサガサ云って、それは気味が悪かった。

ある晩、母親が珊瑚樹の下を通ったら、上から砂をぶっかけられて、真っ青な顔をして家へ駆け込んできた。「花蔵院」の「狢」に砂をかけられたんだ。

「狢」と云うのは、狸より小さくて、尻尾がふさふさして、昼間は砂の上にゴロゴロしているが、夜になると木の上に登っては、人が通ると尻尾の砂を落として、人を脅ろかすのである。今では、夜も明かりが煌々と点いているし、通りも賑やかだから、「狢」もいなくなった。

参照・浦安市教育委員会社会教育課/編 (1984) 『浦安の昔ばなし』浦安市、p. 53


「花蔵院」の「豊受神社」側の土塀に立つ公孫樹の古木。いま「珊瑚樹」の樹はない。

いまは「花蔵院」の門をかぶく「珊瑚樹」の木もなく、築地塀に沿っては「公孫樹」の樹々が疎らに立ち並ぶばかりである。中でも、東隣りの「豊受神社」との境界に当たる地には、巨大な「公孫樹」の古木が聳えていた。

* 「豊受神社」にもまた、「大銀杏」などはあったが、その他の大きな樹木もすべて公孫樹の木で、この神社の近くにあったと『浦安町誌』の云う松の木も堤防も、跡形はなかった。

「花蔵院の狢」は、「砂かけ」現象の言い伝えなのだが、前回の記事で見たように、この範疇の伝承の中では「狸」と「猫」の互換性は、前提的に成立するのである。さらに、「お嫁さんの手拭い」の話で見たように、隣接する「行徳」地区には、そもそも「砂かけ狸」と「浮かれ踊る猫」が、同一のものとして語られるイマジネーションが定着していた気配が見て取れるのである。

さらには、傍証として、「猫実」地域の住民にあって、自分達の地名に含まれる「猫」の字と音は、何らかの形で「猫」と関連するイメージ性を有していたと云うことを、『浦安町誌』の語源説の否定と、「猫源蔵」を巡る考察で明らかにした。

そして、「下総国」に属する「花蔵院」あるいは「華蔵院」の名の寺院について、その寺院または近接する地域に、直接「猫」の怪異の伝承があるか、あるいは「砂かけ」現象の報告などがあるか探索した結果、「猫実」の「花蔵院」以外は、思わしい結果を見なかったのである。

その他、精確な数値は出していないが (いずれは細かい統計的な数値も出すつもりである) 、全国的に見て「花蔵院」「華蔵院」名の寺院が出現する確率よりも、「下総」地域に色濃く同名の寺院が存在することや、「砂かけ」現象の全国的な出現率が必ずしも高くないこと、そして「猫」の怪異譚もまた全国に隈無く存在する訳ではないこと (少なくとも狐や狸、蛇などに比べた場合) を考慮した場合、上の諸条件が偶然一致する可能性と云うのは、限りなく小さいと云えるだろう。

これらの事実を組み合わせたとき、元禄期に書かれた『礦石集』に載る「花蔵院の猫」の怪異譚の舞台は、「猫実」の「花蔵院」であると断定するのに、筆者はいささかの躊躇も抱かなくなったのである。筆者の拙い論証よりも精緻な検証をする人は今後とも現れうるだろうが、話の舞台を「猫実」としない『礦石集』の写本・稿本が新たに発見されない限り、「猫実」説は動かし難いと思う。仮に「花蔵院の猫」の舞台を正確に記した写本・稿本が今後見つかったとしても、そこには「猫実」の名前が記されているものと確信している。

*

もしも筆者の以上の考察が正しいならば、「猫実」の「花蔵院」には、「明治」以降採集された「砂かけ狸」の伝承に遥か先立って、「元禄期」に成立した『礦石集』に載る「猫」の怪異譚があったことになり、それは「砂かけ」現象の根幹にはかつて「猫」の影があったものの、「猫」のイメージ性の都市化によって、その役割を「狢 (狸) 」や「鼬」などに譲っていったのではないかと云う筆者の私説の補強にもつながるのである。

「中村禎理」氏も指摘する通り、「狸」や「猫」の言い伝えが確立され、定式化されていくのは、「近世」以降のことなのである。そして、その定式化の過程で、「猫」と「狸」は、それぞれに独立した民俗的役割を担っていくようになり、かつては混淆していた伝承群の中にあって緩やかな役割分担が開始されたのではないかと、筆者は考えている。「猫」も「狸」も、象徴的な意味での「山」と常に深い関係を持って語られてきた背景があるが、「猫」が多くの場合、「里」との強い結びつきをも持つと云う両義性の中で語られてきたのもまた事実である。

この意味で、「猫」は、「狸」より根源的に「葛藤」を象徴するものであり、いずれの動物怪異も、人界と非人界の境界域で発生しやすいものであるとしても、「猫」の怪異は往々にしてこの境界域を積極的に往来するものであると云うのも、この「葛藤」の要素を表象していると思う。

この「葛藤」の要素こそが、「猫」の、他の動物怪異に際立って持つ特徴であり、それ故に筆者が最も追究する点なのである。いずれは、この点から、「猫」のイメージ性の根底にある「猫」以前の「ねこ」の残滓を、水および大気の「渦」との関連で解き明かしていきたいと筆者は考えているのだが、本稿ではその意気込みを表明したこの時点で一応の大団円としたい。

「花蔵院の猫」のシリーズ・全三回は、これにて目出たくおしまい。



「花蔵院」の地図は、こちら
 (「花蔵院」の西南百メートルくらい、「境川」の対岸に見えるのが「東学寺」)






おまけ : 「猫実珈琲店」の「肉球最中」...




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庭のねこ
三回に渡る長編、お疲れ様でした。
にゃん達もブログを書きたいのでしょうか。
ロックまで済ませるとは、強敵ですね。

花蔵院にまつわる謎についてですが、まさかこんな所で確率という言葉を見るとは思ってもいませんでした。
結論を読むまでは、それぞれの話がバラバラに感じて、謎が深まっていたのですが、
浦安→花蔵院の狢→砂かけ→猫→花蔵院の猫 がようやく繋がりました。

ごま「肉球最中もおいしそうだにゃあ。ねずはどれが好きにゃか?」
ねず「全部好きだけど、黒い猫最中が好きにゃ。
   だって、僕に似てるにゃ!」
ごま「そ・・・そうかにゃあ(ちょっと可愛い過ぎるんにゃないかしら)」
2010.05.10 20:21
clubey
庭のねこさん、こんにちは。
今回のシリーズは、自分でもちょっと分かりにくかったかな、と反省はしています。ただ、既に定説になっているものを紹介しているのではなく、いままで誰も論じなかったことを検証しようとする試みだったので、なるべく多くの情報を提供しようと思ったのです。
全三回を読まないと、結論に辿り着けないように書いたのも、ちょっとみなさんに気を持たせ過ぎたかもしれませんね。
とにかく、最後まで読んで下さり、有り難うございます。
次回は、初の千葉県以外の「猫神」探訪を予定しています。お楽しみに...。
2010.05.11 21:53
庭のねこ
お返事ありがとうございます。
謎が深まった、と書きましたが、それぞれの話が興味深いものだったので、先を急ぎたいという気持ちは無かったですよ。
バラバラに感じたものがつながった瞬間の驚きも気持ち良いものでした。
これからも、全国各地の「猫神」探索を頑張ってください。
2010.05.13 00:21

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