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静岡県の猫神・窪山天神の猫

.12 2010 中部地方 comment(2) trackback(0)
芭蕉天神宮
窪山天神

富士宮市内房字大晦日
0544-65-2806 (芝川町農林商工課)
旧・富士郡芝川町


1. はじめに


今回の記事は、はじめての県外探訪である。しかし、そう意気込んでみたものの、実際には「猫神」探訪と云うよりは、単なる旅日記になってしまいそうな気配がある。そもそも、「千葉県」の「猫神」を調査するときは、地の利を生かして徹底的な文献研究と現地取材を繰り返せると云う強みがあるが、遠隔地の日帰り旅行となると、なかなか行き届いた調査や取材が出来ないのが難点である。特に自分自身は車を運転しない筆者としては、まさか遠くまで連れていってもらって一日中現地の図書館に籠ると云う訳には行かない。しかし、そうは云っても、今後は「静岡」や「甲府」の図書館などにも足を運ばないといけないとは感じている。

いずれにせよ、今回の記事は、「千葉県の猫神」のシリーズに比べると、いかんせん資料不足のそしりは免れない。そして、「猫」の話は、わずかに終わりの方に登場するだけである。そちらだけを読みたいと云う人は、記事の終わりに飛んで下さい。



2. 天神様への経路

「窪山天神」、より広く知られた名称で云うなら「芭蕉天神宮」は、旧「富士郡・芝川町」の「内房 うつぶさ 」地区にある。「古代」、機織を職能とする「秦」一族の「倭文部」が多く居住していたとされるこの地域は、『駿河志料』によれば、そもそも、「秦氏」の長「秦酒公」が天皇より賜った「禹豆麻佐 うづまさ 」の姓が転訛して「内房」の地名になったのだと云う。この語源説話自体は、かなり怪しい眉唾物だが、この地にかつて「秦氏」が多く住み着いたと云うのは、どうやら事実のようである。

その旧「芝川町内房」の山深いところに、「大晦日」と云う地名の集落がある。「おおみそか」ではなく「おおづもり」と訓む。地元の説明板には「おおずもり」と振ってあったが、この訓みの起源は、太陰暦の月末を指した「大月隠り」から転じた「大つごもり」であることは明白なため、ここでは「おおづもり」と表記した (その後、集落内を経巡ったら、説明板によっては「おおづもり」と表記してあった) 。

「大晦日」集落のある地に接近するには、とにかく、身延道の主要なルートの一つと重なる県道75号・清水富士宮線に入って、「内房」地区にある「廻り沢」の集落に至るのがよい。筆者は、自宅から (東から) 直接接近するときは、静岡県道・山梨県道10号・富士川身延線を経由して行き、しばしば訪問する「山梨県南巨摩郡南部町」の「万沢」地区から (西から) 行くときは、県道190号・塩出尾崎線を経由して向かうことになるが、この他にもいくつかのルートはある。以下、それらのルートを簡潔に紹介しよう。


A. 「毛通り」経由ルート

まず、「北松野字山田」の「妙松寺」付近から「廻り沢」に至る「毛通り」と呼ばれる由緒ある道もあるが、このルートは「富士川」の北側を走る県道10号・75号を経由した道程と平行して、川の南岸を行く古道である。確かに距離的には短くなるが、ほぼ全行程が山岳道みたいなものなので、地元の人でない限り、県道を使ったルートの方が明らかに便利であり、結果的に早いだろう。ただし、こちらのルートは古道だけに、道が「廻り沢」の集落に到達するあたりの道辺に「右ハ芭蕉天神由井道 左ハ松野岩淵村 巡沢望月ふく建立」と刻まれた道標などがあり、いにしえを偲ぶには良い道ではある。ただし、この道標も、いまはもう碑面は読み取れないほどに風化しているそうである。


B. 県道76号・富士富士宮由比線経由ルート

南から「天神宮」に接近する場合、ルートは基本的に県道76号線経由のものとなる。

B-1) 「由比入山」~「大晦日」

本来の古道のルートである「静岡市清水区」の「由比入山」方面から、「大晦日」に直接つながる道である。行程のほとんどが、すれ違いが難しいほどの狭い山道である。

B-2) 「北松野 (ゴルフ場) 」~「泉水」~「大晦日」

「北松野」のゴルフ場から字「泉水」を経て「大晦日」に至る道もある。途中までの道路事情は、このルートが一番良い。ゴルフ場を周回する町道・峰山泉水線を進み、「はたご池公園」を過ぎて、左へと泉水林道を辿ると、最後に「天神道」の本道と合流して山道となる。この合流が結構な角度なので注意する。ちなみに、「右ばせう天神道」と彫られた往時の道標が、東海自然歩道の「はたご池」の畔にあると云う。今はゴルフ場になっている字「送り神」と云う所から、「芭蕉天神社」へと至る道標であったと云う。

ちなみに、「はたご池」と云うのは、姑の虐待に耐えかねた嫁が、織り掛けの布を持ってこの池に身を投じた後、雨の日や夜半には、池の中から機を織る音が聞えてくるようになった、と云う伝説のある自然湧水の池だそうである。

こう云った伝説は、実際にはそう珍しいものではなく、一般に「機織淵伝説」と呼ばれて、各地に伝承されている。筆者の知る限り、「千葉・静岡・愛知・長野・福井・福岡」などの伝承は、嫁と姑の関係を軸に話が展開する点で、「内房」の「はたご池」の伝説と酷似している。「愛知県春日井市六軒町」に伝わる話は、まったく同一のもので、「はたご」を「機具」と表記している点でも興味深い。


C. 「天神道」の本ルート

筆者は以下のルートを経て「天神宮」へと向かった。要するに、「廻り沢」を経る「天神道」の本道である。

まずは、県道10号で「釜口橋」の信号に至り、左折して「釜口橋」と「内房橋」を伝って「富士川」の広い川谷を渡る。この時点で既に県道75号に入っているのだが、突き当たりの「尾崎」の信号で左折して、県道75号を維持する。やがて、右に「浅間神社八幡宮」のある丘が現れる。地元の人はここの尾根の張り出し部を「宮峠」と呼ぶ。


「尾崎・相沼」地区の鎮守であるこの神社は、元はこの「宮峠」に「富士宮浅間神社」の「別宮 (奥宮) 」として建てられたものだそうで、かつては「瀬戸島」下流の「岩山」にあったものが、後に「尾崎・寺沢山」へと遷座し、さらに「穴山信君」が嫡男「勝千代丸」の武運長久と土地の人身掌握を祈って、字「宮」へと遷したものと伝えられている。神社の「本殿」は、この両側が切り立った狭い尾根の上に鎮座している。

門前には、「内房」からの道と「橋上」や「塩出」へと続く道が通り、付近には「瀬戸島」に行く道があるのを見ても分かる通り、かつてはかなり重要な社として、地域の交通の要衝をなしていたのである。境内には、旧・芝川町指定文化財に指定されている「庚申塔」や「石灯籠」もある。「廻り沢」に向かうには、この神社の鎮座する丘の突端部を回り込みつつ、カーブの終わり際の分岐は左へと辿り、やはり県道を維持せねばならない。

浅間神社八幡宮

富士宮市内房字相沼 3388
旧・富士郡芝川町

「浅間社」を過ぎ、「長田橋」で「内房境川」を渡り、左に「内房小学校」を通過したすぐ先を左折して「稲瀬川橋」で「稲瀬川」を渡ると「廻り沢」の集落に着いたことになる。「廻り沢」は、資料によっては「巡り沢」と表記されることもあって、どちらが本来のものなのか悩まされるが、本稿では、一応は地図の表記を採用して「廻り沢」と記すこととする。


駐在所のあるこの集落を抜けつつ、「穴山梅雪」で知られる「穴山家」の菩提寺として栄えた「祥禅寺」へ向かう左への道はやり過ごさねばならない。今は「本堂」と「庫裏」が残るばかりの「祥禅寺」門前には、立派な「庚申塔」が立ち、付近の「馬頭観音」碑を十八基、一括して合祀している。

創建については何も知られていないが、「武田氏」の「駿河国」侵攻後は、「武田一族」の「穴山氏」に外護されたと云われ、「穴山信君 (梅雪) 」は、永禄年間 (1558-1570) 、大檀那として当寺を中興し、「中世」の諸文献には、「正禅庵」あるいは「祥禅庵」と見えることの多い寺の庵号を、現在の寺号へと改めたと云われる。

臨済宗・妙心寺派
内房山・祥禅寺

富士宮市内房字廻沢 4069
旧・富士郡芝川町

ちなみに、この寺へと続く道こそが、上に紹介した「毛通り」で、そのまま進めば、「北松野字山田」の「妙松寺」付近に到達することになる。われらは、これをわずかに過ぎ、「廻り沢橋」で「廻り沢」を渡った後の左への分岐に入るのである。ここの角には「芭蕉天神宮」の看板も出ており、スピードさえ出し過ぎてなければ、難なく曲がれるだろう。右側に、古き良き床屋の看板を掲げた建物があるのも目印になるか。

この先、「天神宮」に至る道を「芭蕉天神道」と呼び、現在も町道が通るものの、かなりの難路である。よく、砂をかぶった、などと表現することがあるが、この道はほぼ全行程、道の真ん中には土塊や石ころ、落ち葉が盛られた感じである。丁寧に運転すれば大丈夫だが、スピードを出してすいすいと云う道ではない。

ただし、この道の歴史は非常に古く、身延古道の中でも「興津筋」や「岩淵筋」よりも昔から存在するものとされ、天文六年 (1537) の「甲駿同盟」に際して、「今川義元」の妻となった「定恵院 (武田信虎女・信玄姉) 」が、故郷の「甲州」から「駿府」へと嫁いでくるときにも使われた道だとも云われる。「清水区由比町北田」の旧「町役場」付近から、「芝川町大晦日」の「芭蕉天神社」を経て、「廻り沢」に至る道である。

ここで筆者の頭に「敵に塩を送る」と云う故事が浮かぶ。「信玄・謙信」の美化されたライバル関係を物語る美談として有名だが、そもそもこの故事が生まれたのは、「駿河」の「今川氏真」と「相模」の「北条氏康」が、戦略上の理由から、「甲州」への塩の交易を止める経済封鎖を断行したからであった。この時代、「甲州」へ塩が送られた主要なルートの一つがこの「天神道」であったことを考えると、この山道を往来するのも感慨深いものである。

以上のような勝手な感慨に筆者が助手席で耽っている間に、妻は、ギリギリの舗装しか施されていない、道幅が狭く曲がりくねった山道を、かれこれ十五分くらい、距離にして六キロほど登り続けることになる。標高差はおよそ三百メートル、勾配は五パーミルほどであるから、険しくはあるが、だらだらくねる坂道ではある。

陸塊に遮られたロータリーの中央部に掲げられたよく読めない案内板

途中、泉水林道への左分岐や樹々の生い茂る大きな陸塊に遮られたロータリーなどもあり、とにかくこの道を登り詰めていくと、正面に石柱が二つ立っている、少し開けた場所に出る。林道にしか見えない、鬱蒼たる杉林の斜面に築かれた参道入口は、この大小二つの石柱が左右に立っていなければ決してそれとは知れない佇まいである。右の石柱の方が大きく、「芭蕉天神宮」と掘られた赤塗りの刻字が鮮やかである。


この入口の右手に、「芭蕉天神宮」の説明板と、「天神」の由来を記した横長の石碑、それに「大晦日」集落の簡略な地図を記した案内図が建てられてあった。

右がほぼ北

ここの広場を起点に、すべて「望月」姓の九軒ほどの集落を周回するように山中の町道は走り、広場から見て左へと少し登った辺りから、「由比」へと向かう古道の続きが始まるようである。

ちなみに、「大晦日」には県指定の天然記念物の「五輪の大榧・大晦日のタブの木」があるのだが、その説明板には、「この地駿河の国大晦日部落は鎌倉時代七名の侍により住居をかまへたと伝へられます」とある。おそらく、これがこの集落での「望月」姓の発祥なのだろう。

それにしても、冒頭で「大晦日」と書いて「おおづもり」と訓むのは、古語の「おおつごもり」から来ているのだろうと記したが、この山道を登ってくると、本来は山の奥の奥地の行き詰まりと云う意味で「大詰もり (積もり) 」とつけられたものに、後になって「大晦日」の優雅な字を当てたのではないかと疑いたくなるほどである。

3. 「芭蕉天神宮」案内


初めに説明板を紹介するところから始めよう。まずは、由緒である。
芭蕉天神宮 由緒

祭神 右大臣菅原道真公 (九〇三年没)
   右大臣久我長道公 (一三三四年没)

この道は由比より甲州信州に至る塩の道です
明治大正時代は参謀本部の通達道路として清水郡役所と内房役場に結ばれておりました
時は後醍醐天皇の御代建武の改革を図る記録所を設けて国の政治を行いました 其の時の三役一人が久我長道公で天皇から重要されました天皇は鎌倉幕府の横暴を許さず新田義貞に命じて討幕に成功を納めました。

後醍醐天皇は兼ねてより富士宮浅間大社を深く信仰しており戦勝報告に大納言久我長道公を勅使として派遣されました 富士宮浅間大社第二十一代宮司富士時国氏に奉幣式を取り行ない富士下島郷の水田を浅間神社神領として奉納されました 一三三四年旧九月三日と印されています

任務を終えた久我大納言は白馬に跨り帰途につくも大晦日部落に至り持病の仙痛脱傷の発作を起こしました付人里人八方に手を配り 看護のかいもなく亡くなられました 其の時久我大納言は付人里人に対し「余は菅原天神を敬う此の地に祠を建て余も共に祀ってくれ」と遺言されました。時は旧九月九日。天皇政治の大立物重臣として国中より惜しまれ 大社殿が建立され 大祭日には国鉄に祭典列車の運行も記録されて居ります

 御神徳 学問成就 身体健全 子孫誕生
 家業繁栄
平成十九年二月吉日
芭蕉天神宮 名誉総代 望月旭建立

やや補足しておくと、「芭蕉天神宮」は、知恵と学問、厄除けの神様で、かつては「馬上天神」とも呼ばれていたが、境内に「芭蕉」が生い茂っていたことから「芭蕉天神」と改められたと云う説もある。毎年二月の第一日曜日には「芭蕉天神祭」が開催され、祭の間は参道・境内に屋台が立ち並び、普段静かな神社も、大変な賑わいを見せるそうである。

我が国の「戦前期」は、大方の国民の想像に反して極めて豊かで、国民の生活水準が急激に上昇した時代だったのだが、それに比して現代のような娯楽がほとんど皆無だったため、「江戸期」以来の物見遊山の延長線上で、空前の「お参りブーム」なるものが引き起こされたのである。この時期、由緒ある「芭蕉天神宮」への御参り熱もかつて見ない規模で高まり、ここの祭りに合わせて国鉄の臨時列車が「由比」駅まで出されたと云う記録も残されていると云う。当時は、およそ十万人の参詣者で賑わったと云うが、今は幾分静かな祭りとなっている。

説明板からは分からないことだが、「奉幣使」の「久我大納言」が亡くなったのは、正確には「天神」の境内ではなく、町道と「天神社」の分岐より少し「由比」方面に道を行った先、上に見える古い「天神道」が通る場所だと云う。今もその場所には、「大納言石」と称する岩が残されているそうだが、今回は諸般の事情で、ここまで探索の手を伸ばすことが出来なかった。

なお身分の高い公家が直接当地のような奥深い山中を通過することはありえないから、実際にはこの地を訪れたのはその使者だったのだろうと云う人もいる。しかし、これには筆者は少し引っかかる。そもそも、寺社の縁起などは正確な史実を反映しているとは言い難いのだから、そう云う意味でその史実性を追求していくならまだしも、むしろその時代の史実性に依拠せずに、他の時代の常識や、自らの生きる時代の感覚を優先した、この手の感傷的な「感想」をさかしら立って述べる姿勢には、嫌悪さえ覚える。

そもそも、「南北朝」の争乱史を少しでもひもとけば、「南朝」方の拠点のほとんどは深山幽谷に構えられていることや、「後醍醐」の死後、事実上「南朝」の軍事作戦の指揮を執りつづけた「宗良親王」が、「伊那谷」の秘境を縦横に往来した事実にも行き当たりそうなものである。「宗良親王」が闊歩した「大草」や「大河原」の地に比すれば、「大晦日」はまだまだ奥深いとは云えない。

しかも、「久我大納言」が、「富士浅間大社」に使いをしたのも、ただの「奉幣使」としてではなく、軍略上の工作のためだった可能性は極めて高いのだから、ある程度に隠密の行動が必要とされたはずであると云う意味で、「身延古道」は状況に符合する。「南朝」は、武家勢力を中心とした「北朝」と異なり、広大な荘園を有する「社家」や「寺家」の諸勢力と密接に結びつきつつ、その経済的な優位を以て、「北朝」の軍事的な優位に拮抗したのである。

また、その軍事的な劣勢を相殺するために、大河川の上流域の奥地に拠点を構え、その流域に即して軍事的な展開力を形成しようとした傾向も「南朝」には見られる。「身延道」は、「富士川」流域の諸勢力の糾合と、「甲駿」地域に強い影響力を持つ「富士浅間大社」や、「身延山」を中心とした「日蓮宗」の門徒との連携を構築し、協力を仰ぐためにはどうしても抑えておかねばならない要衝の道である。「南朝」の重鎮ともあろうものが、この程度の山道を避けていては、当時の戦乱渦巻く社会をとうてい乗り切れなかったのである。ましてや、平坦な表街道などをのうのうと「南朝」の重要人物が旅していたら、いくつ命があっても足りない御時世だったのである。「久我大納言」の「富士浅間大社」行きをただのお礼参りと考えるから、安易な結論に達するのであって、当時の政治社会的な文脈の中で考えれば、大納言の山中行も、決して不自然ではないのである。

ちなみに、この「久我大納言」は、「久我侯爵家」の先祖に当たるため、かつて「芭蕉天神宮」の寄付名簿には女優で、この「久我家」出身の「久我美子」さんも名を連ねていたと聞く。ただし、「久我家」は「こが家」と訓むのに対し、「久我美子」さんの芸名の訓は「くがよしこ」だった。「久我美子」さんは、本名も同じ漢字表記だったそうで、こちらは「こがはるこ」と訓んだと云う。「華族」の体面を重視した実家が、「こが」の名前を使うことをよしとしなかったそうである。

さて、次なる説明板にいこう。

芝川町指定文化財 (建造物)

芭蕉天神宮
所有者 芭蕉天神宮氏子
本殿 総欅素木造三間社流造銅板葺
幣殿 総欅素木造両下造銅板葺

この天神宮は菅原道真と久我長通を祭神としております。
神社建築は古い形式を保ちつつも明治以降の新しい様式が各所に見られ、特にここでは麒麟で表現されていますが、竹林から虎が出るというめでたい故事を物語的に彫刻した幣殿内は非常に細美なものであります。

平成十九年六月七日町指定
芝川町教育委員会

町道の「芭蕉天神社参道」との分岐点の少し先、参道を見下ろす位置に、「弘化三丙午 卯月日 右由井 ミち 左天神 □□□」と刻まれた道標が据えられている。「信州高遠」の文字もあった気がしたが、はっきりとは判読出来なかった。これ以外にもかつて「由比町北田」の東海道からの始発点にあった道標も境内手前に安置されている。他にも「猿田彦」や「庚申塔」がある。


さて、参道に戻って、そのまま道を車で進んでいくと、山中の森が、神社の境内らしい空間へと変わっていくのが返って神秘的であった。やがて、左手下に鳥居や祠が見え始め、道が大きく左へとヘアピン状に曲がる角辺に、やや開けた空間が左右にある状態になる。おそらく、ここが駐車スペースなのだろうと、ここで降車することにした。


上の道路からすぐ下に見えたのは「白髯神社」で、最初に参道の曲がり際に社号標の石柱が見え、その先に、参道と平行に建てられた赤い鳥居と、参道の屈曲の間の斜面に、石垣を築いて建てられたささやかな御社からなっていた。御堂は、流れ造りで、中に「本殿」を蔵した覆い屋となっていた。中の「本殿」の中には「白髯神社」と黒字で刻された駒型の石碑が祀られているのが見えたが、それ以上のことは分からなかった。その小さな「社殿」の右手方向の叢に、「馬頭観音」と思われる石仏が二体、静かに佇んでいた。神社自体は、「芭蕉天神宮」の鳥居の外にあり、境内社なのか、独立した社なのか、判断出来なかった。


右の石仏「文化十二乙亥年 十一月吉日」
左の石仏「寛政十□□ □月吉日」

「白髯さん」への参拝を済ませて、「天神様」の朱塗りの鳥居に至ると、一段低くなった鉢底状の窪地に「社殿」群が建てられているのが一望出来る。「窪山 (久保山) 」の所以か。

鳥居をくぐって、下の窪地におりていくと、まず右手にトイレ舎があり、左手に長方形の池と「手水舎」が見える。池の反対側の崖面からは、湧き余った清水が滝となって、大量に吹き出していた。


この池には、山の斜面から清水が集められているため、濁りのない澄んだ水が湛えられていた。しかし、池水に浮かぶ石の島や灯籠、あるいは石造りの鴨などが、どのような象徴的な意味があるのかは、ついに分からなかった。

トイレは、水洗式である上、保温式の便座となっており、こう云う山奥では考えられないような至れり尽くせりの設備だった。男性用の便器の他に個室が二つもあり、なるほど祭礼のときはかなりの人出があるのだなと、こんなところからも推測出来て面白かった。これだけの好環境だと、個室の扉の立て付けが悪くて鍵が締まりにくいのなぞまったく気にならぬ。地域の人びとに深々と頭を下げる思いで使用したいものである。


「手水舎」と「社務所」の後ろには、背の高い「芭蕉」の木が林立している。これははっきり云って、かなり異様かつ不気味な風景である。そも窪地になった擂鉢の底のような境内は、四面を深い杉林に見下ろされているのだが、その一角に、一所だけ色鮮やかな「芭蕉」の群れが立ち並んでいるのである。大体、「芭蕉」と云う樹木が、我が国の森の景観にあまり似つかわしくないのだから、これはもはや一種、壮観と云わざるを得ない。まあ、別名「ジャパニーズ・バナナ」と云うくらいだから... (でも、原産地は「中国」と考えられている) 。ただし、境内が狭い窪地となっているため、上に対する視界も狭くなりがちで、意外とこの「芭蕉」の樹々に気づかない参拝者もいるようである。何しろ、筆者に同行した三人は、誰も気づいていなかったほどであるから。

ちなみに、この「芭蕉」の木、実は幹に見える部分は、「葉鞘」が巻き重なって出来ている「擬茎」で、植物学的には「幹」どころか「茎」でさえなく、この葉っぱだけでも二メートルある巨大な植物は、分類上は「多年草」と呼ばれる「草本」なのである。簡単に云えば、「草」と云うこと。だから、筆者が「木」とか「樹々」とか書いているのは、飽くまでも見た感じを重視した表現に過ぎないことを了承されたい。まあ、あのでかい「孟宗竹」だって「草」だと考えれば、こちらもそうだと信じやすいかもしれぬ。

いくら何でも、筆者の写真の腕が悪過ぎる....

「幣殿」の前に進むと、左右に一対の「狛犬」がいるのは、どこの神社とも変わらぬのだが、ここの「狛犬」はまた特徴的なのである。優しく微笑んでいるかに見えるここの「狛犬」は、しかも、何匹か (四匹だったと思う) 子犬を連れているのである。小犬がこれほど目立つ「狛犬」の造形も珍しい。造立の紀年銘は、明治七年 (1874) 七月だから、さほど古いものではないが、「江戸末期」の華やかな石造物の流れを十分に汲んでいた。ちなみに、後ろ髪の、巻かれつつ流れていく造作などは、なかなかセクシーな「狛犬」様であった。

*写真があまりに酷いので、「神社探訪・狛犬見聞録」さまのサイトの「芭蕉天神」のページを訪問されることをお勧めします。すべての写真が美しく掲載されています。訪問するには、こちらをクリック!!

「幣殿」掲げられた扁額には「正一位 芭蕉天神宮」と、上品な萌葱色で書かれているのも、賽銭箱の横には、漢方のお店の薬戸棚のような古式ゆかしい御神籤箱が据えられているのも嬉しかった。国賽銭箱は、昔はみんなこんなだったのだろうか、都内でも探せば今もない訳ではないが、山中のお社で見るとやはり風情があって趣き深い。





「幣殿」と「本殿」の間の縁側にも、「狛犬」がいた。こちらも石造であることに変わりはなかったが、「幣殿」前の一対の活き活きとしたおおらかさと写実的な表現技法に比べると、こちらの一対は、子供の工作の如く、硬直した姿勢をしており、造りも素朴であった。正面から見た顔はかなり個性的で、やや開いた口の部分と目の周りが赤く、不気味で怖いような、あるいは間が抜けて可愛いような感じであったが、横から見るとカリビアンなヘアスタイルがなお一層印象的であった。

「芭蕉天神宮」のある「大晦日」の地は、現在ではすっかり山の中と云った場所だが、古い時代には身延街道沿いにあって、「由比」で作る「塩」を「富士宮」へ運ぶ街道の中間にあり、「江戸時代」には交易の中継地として栄えた地であった。そして、交易の中継地として栄えたこの村のかつての殷賑繁栄ぶりを現在に伝えるものが、「芭蕉天神宮」の豪華な「本殿」であり、中でも特に「本殿」に残る「海老紅梁」である。

「海老紅梁」とは、草花などを透かし彫りにして「海老」のように曲がっている「向拝」のことなのだが、「芭蕉天神宮」のものは、これが「総透かし彫り」になっているのである。さらに、柱の面にさえも、精緻な彫刻が施されている。寺社建築で、ここまで豪華な装飾は、全国的に見てもなかなかない。さすが「正一位」と掲げるだけあって、これだけの装飾建築は、「日光東照宮」クラスの神社でも、おいそれと見られるものではない。写真もたくさん撮ったのだが、筆者の腕ではとうていこの彫刻の素晴らしさを伝え切れないので、今回は写真掲載を避けることにした。この「海老紅梁」を見るためだけでも、曲がりくねる悪路を登ってくる価値は十二分にある。


「本殿」の横には、やはり赤い銅板葺きの「社殿」があり、正面に太い注連縄が一本差し渡してあるのだが、中には白い馬の像が祀られていた。「御神馬様」である。しかもこの馬の神様、何と草蛙を履いている。この地域は、ここの「天神」に至るまでの間にも強く感じたことだが、「馬頭観音」が多く、ここでも馬が祀られており、その馬が草履を履いている以上、旅人たちの交通安全などを主たる御利益とした信仰がある (あった) のだろう。「馬頭尊」や「不動尊」は、原始的には湧き水や滝などと関係の深い「水神」として祀られていたものだと筆者は考えているのだが、どちらも「近世期」の間に独自の信仰を発達させ、特に「馬頭観音」は、交通交易の発達に伴って、直接「馬」や交通の神様へと完全に転じてしまった経緯がある。ここの「御神馬様」にも、きっと同じような信仰があるものと推測された。

しかし、それにしても「驢馬」にしか見えない「白馬」であった。彩色されているのが、返ってキッチュな雰囲気を醸し出しているが、どことなく淋し気な、伏し目がちの表情も味わい深かった。

「芭蕉天神」の東側には、「芭蕉天神音頭」の石碑の横から、下を流れる沢へと続く石段と遊歩道がある。「泉水」があると云うので、筆者は重い体に鞭打って、果敢にも長い石段を降り、その先の遊歩道も数百メートル歩いたのだが、あまり湧水池に出る気配はなかった。あるいは、別の言い方をすれば、遊歩道の斜面と云う斜面、窪みと云う窪みから水は湧いているのである。筆者は、二つの木橋を渡って、眼下に「廻り沢川」を見下ろす辺りまで来て、ふとある重大な事実に気づいたのである。「泉水」と云うのは、湧き水や池水のことではなく、「大晦日」から「北松野」へと下ってゆく途中の地名なのである。きっと、この道は「泉水」の集落から「天神様」へと至るの古い参道なのだろう。危うく、数キロメートルも山道を行き来することになりかけたところで、筆者は引き返すことに成功した。しかし、途中から引き返したとは云え、運動不足の中年男には、帰りの石段の上りはつらかった。



4. 「窪山天神」と「山猫」の伝説

この「芭蕉天神宮」には、いまでは氏子の人々までが忘れてしまっている「猫」の伝説がある。言い伝えの中で中心的な役割を果たす人間は、「本成寺」の僧なので、あるいは「尾崎」の方に強く残存した説話なのかもしれないが、その辺りのことは、残念ながらいまだ調査出来ていない。伝説自体は、次のようなものである。

窪山天神と山猫


内房巡り沢より大晦日を過ぎて行く旧道に久保山という山があって、ここに窪山天神を祭る社がある。昔この地に葬式があって、棺を開いて見ると中の死人がいない。こまった村人は本成寺のご庵主様にこのことを申し上げ良い思案はないものかと相談をもちかけた。考えていたご庵主様はこれはきっと山猫のしわざにちがいないという。和尚さんはおごそかに呪文を唱え、さらにお前を天神として祭ってやるから、今後このような悪さをするでないといいきかせる。この山猫を祭ったのが窪山天神であるという。

芝川町誌編纂委員会/編 (1974) 『芝川町誌』芝川町
加茂徳明ら編 (1982) 『日本伝説体系 第七巻 中部編』みずうみ書房、p. 201


『静岡県伝説昔話集』にも、「富士郡」の伝えとして、次のような話を紹介されている。
葬式の時、死者との別れのために棺の蓋を取ると死体が亡くなっている。「本庄寺」の和尚を呼ぶと、山猫の仕業だと云い、天神様に祭ると云って祈ると戻る。

静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版、p .336


しかし、このような伝説の存在にも関わらず、現在、境内には「猫」を表すものは何一つ残されていないのは残念である。まあ、伝説自体が忘却されているのだから、遺物などが残されているはずもないのだが。

*

ちなみに、上の伝承に登場した「本成寺」は、県道10号沿いにあり、われらのとった順路で云うならば、「尾崎」の信号を左に曲がらず右へと進み、三百メートルも行けば到着する位置にある。「日蓮宗」としては、「日蓮」存命中に、他宗より改転した最初の道場として知られている。折角だから、寺についての概略を下に記すこととする。

十三世紀来、「駿河国庵原郡内房村」にあった「胎蔵寺」と云う「真言宗」の古刹が、この寺の前身である。「日蓮」在世当時には、「東林法印 (兄) 」「仏像法印 (弟) 」が住持であったが、いずれも後の「内房尼御前」の子である。この二人のさらに兄は「内房殿」と称されたが、「岩本」の「郡代官」をしていて「実相寺」の住僧「厳誉律師」とは俗縁の故を以て往来していた。そこへ「日蓮」が閲蔵のため、偶々来寺したのだが、寺主を始め、四十九院の僧たちはこれを嫌って入蔵させようとしなかった。「内房殿」は「日蓮」に畏敬の念を抱き、供奉して邸に帰り、母子ともに信伏随従するに至った。弟の両法印は「日蓮」と法論を交したが、終に説き伏せられて改宗の余儀なきに及んだ。時に「遠藤左金吾」の一族が来寺し、一夏九旬の間、当所に留まる内に一村悉く「日蓮」に帰依したと云う。即ち「東林房」は「日報」、「仏像房」は「日浄」と名を賜り、山号を「長遠山」、寺号を「久成寺」に改称し、「日蓮」を「開基」と仰いで本化の道場となった。当寺は、「日蓮宗」としては、他宗より改転した最初の道場として知られている。寺号は、さらに後に現在の「本成寺」に再度改められた。

日蓮宗
長遠山・本成寺

富士宮市内房字尾崎 2931
旧・富士郡芝川町
0544-65-0245


*

今回、「芭蕉天神宮」の境内で見つけることの出来た「猫」と関係のある物と云えば、下のトイレ内のカレンダーくらいであった (笑) 。でも、訪問日は、五月二日だったのに、カレンダーは四月のままであった。もしも、五月にめくられていたら、犬の写真になっているところだったので、これも「山猫様」のお力添えと云うことで...。



本当に、トイレは有難かった。大切に、綺麗に、使いましょう...。



5. おわり

「芭蕉天神宮」の地図は、こちら

いつもの「マップファン」では、「芭蕉天神」までの道が表示されていなかったため、今回は、「ちず丸」にお世話になりました。
参考文献
新宮高平/編・橋本博/校 (1930) 『駿河志料』静岡郷土研究会
桑原藤泰 (1932) 『駿河記』下巻、加藤弘造
内房尋常高等小学校/編 (1913) 『内房村誌』自刊
芝川町誌編纂委員会/編 (1974) 『芝川町誌』芝川町
斉藤静夫ら/編 (1976) 『志ば川の歴史』芝川町郷土誌研究会
静岡県教育委員会 (1998) 『静岡県歴史の道 身延街道』自刊
鈴木茂伸 (2002) 『古街道を行く』静岡新聞社
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comment

庭のねこ
芭蕉天神宮の社殿は、白馬の塗装も最近塗られた風な色をしており、本殿や幣殿などよりも若いように見えます。
今でも大切に管理されてるのかもしれない(トイレもですが)と思うと、猫の社を守ってくれてありがとう。という感じがしてきました。
わがままを言うと、猫神伝説を記した案内版でも立ててくれないかしら…
2010.05.17 00:24
clubey
> わがままを言うと、猫神伝説を記した案内版でも立ててくれないかしら…

そうそう。案内板とか、石碑とか、絶対欲しいよね。でも、clubeyは、貧乏でそんな力がないのです。誰か、金持ちの猫伝説好きを紹介してくれぇ!!
2010.06.10 23:12

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