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静岡県の猫神・安養寺の猫

.19 2010 中部地方 comment(1) trackback(0)
曹洞宗
般若山・安養寺
富士宮市杉田 489
0544-26-3723


1. はじめに

俗に「狸寺」との異名をも持つ「杉田の安養寺」は、県道76号・富士宮由比線を東から「富士宮市」の中心部へと向かって走る途中にある。地図の上で見つけるだけなら、県道76号の「小泉若宮」交差点から東へ一・六キロほど入った地点とでも云おうか。

筆者が、この辺りを散策するきっかけとなったのは、そもそも「山梨県」の茶産地を巡っていたことなのである。「南部町万沢」の「まるわ茶園」に寄った帰りに、「南部町」から南へと向かい、東名高速道路に出て「千葉」に帰るのが常なのだが、ついでにその途中に散在する自園自製のお茶屋さんものぞいてみようと云うことになり、この辺りを徘徊したのである。したがって、この辺りは「富士宮市内」とは云っても、茶畑などが方々に広がる、農村の風情が色濃く残る一帯でもある。正直に云って、「まるわ茶園」ほどのお茶は結局、どこを訪ねても見つからなかったが、副産物として、猫がらみの地名や寺社・伝説などを発見・収集するのに成功した。そのような発見の一つが、「安養寺」なのである。

「関東」方面から「安養寺」に向かう場合、東名高速道路の「富士インターチェンジ」を降りて、西富士道路を使って北上すると到着が早まる。しかし、到着時間にそんなに差がある訳ではなし、途中色々と見ていくことが出来るから、実際には、「富士インター」からは下の道で行く方が好きである。その場合は、国道139号に右折して降り、七百メートルくらい先の「伝法沢」の信号を右へとハンドルを執って県道72号・富士白糸滝公園線に入るルートを選択する。ここからは、二、三キロ先の「中野」の交差点を左折して県道76号に入るのである。途中、一度越える小さな川が「伝法沢」である。いい名前である。

*

ちなみに、右折してしまった「伝法沢」の交差点を直進したやや先の方には、「保寿寺」がある。一般に、地名を頭につけて「伝法保寿寺」と呼ばれている。いまわれらが向かっている「杉田安養寺」の本寺である。

曹洞宗

保寿寺

富士市伝法上田端 1661
0545-52-2140



2. 「安養寺」探訪

県道76号を西へと一キロちょっと走っていると、「不動沢橋」で「不動沢」を越え、「富士特別支援養護学校」を右に見つつ、わずか数百メートルで「砂沢橋」を伝って「砂沢川」を渡る。橋を渡った後,右に見えるのは「新富士病院」。この先の信号を直進して百メートルかそこら、「千貫松」のバス停の先で、いよいよ市境を越えて「富士宮市」の「杉田地区」に入ったことになる。

その先、「木河橋」で「子安沢」を越えると、県道沿いに「安養寺」のバス停が現われ、橋を越えて最初の信号 (「中野」から数えると五個目) 、その名も「安養寺前」の信号に到達する。ここを右折すれば、もう「安養寺」の門前である。角には、かなり目立つ「そば処 岩平」の看板がある。

寺号標の石柱と大公孫樹

寺の入口には、「曹洞宗 安養寺」と刻まれた堂々たる石の標柱が立ち、その右下にはよくある寺の掲示板、左下には石碑があり、その裏手が駐車場となっている。石の標柱の左の進入路、と云うか参道の始まりに入って駐車場に至ればよい。石柱などと駐車場との間に、大きな観音像や石仏の類いが祭られていた。

参道入口を入らず、道をそのまま直進して、大きなタイヤ型の看板を目印に、お寺の裏へとまわる左への道を入ると、やがて第二駐車場が現われる。もっとも、何かの祭日でもない限り、第一駐車場が使えないと云うことは、まずないそうである。

参道左手の銀杏園

入口の石の標柱の真横には巨大な公孫樹の木が立っている。そしてその参道をはさんだ向かい側には、聖域を画された松の木や戦没者の慰霊碑などもあり、その裏手一面は、よく見るまでもなく、あまり見る機会のない銀杏園が広がっている。

銀杏園の先は、急に土地が落ち窪み、小さな谷地を形成しているのだが、この辺りに一むらの樹林がある。このわずか十五平方メートルほどの樹林は、しかし、「富士宮市」の保存樹林に指定されている貴重な植物層なのである。市街地の直近にも関わらず、「タブノキ」や「カゴノキ」などの貴重な樹種が生え、目通りが三メートル以上に達する巨木も三本あると云う。


両脇に杉の高木が立ち並ぶ参道を奥の方へと進むと、北の方角から、人工的に石組みされた小さな沢が流れて来る。「沢」というよりは、「禅宗」寺院に特徴的な石の「滝組」なのだろう。谷地の中に導かれる「滝組」と、参道脇に引かれる「滝組」との二つがある。


水流は、心地よい音を樹間に響かせながら、やがて参道脇の石組みの水場へと導かれ、最後の段差を下りつつ、横に延びた竹樋から石の水鉢へと清冽な水を分けてくれている。横に、黒い御影石の磨き込まれた小碑があったが、非常に個人的な母への供養碑だった。


ここでふと不思議に思ったのだが、参道に立つ杉と思しき樹々は、背こそ高いが、古刹にしばしば見られるような威圧するほどの古木ではないのである。決して若木ではないが、せいぜいが百年かそこらと云った感じである。この疑問は、後ほど「滝ノ上不動尊」を訪ねた時に解き明かされることになる。

あれこれと眺めつ考えつ、まっ直ぐ涼しい木蔭の参道をなおも進んで行くと、右手に一際立派な「狸の石像」が現れる。


台座正面には、堂々たる楷書で「安養寺 狸おしょうさん」と刻されている。土台の側面には、「狸寺のいわれ」と題された文が彫られている。さらに像の左側には、「安養寺」「富士宮市 歩く博物館 Lコース 7」と白文字で書かれた茶色い標識柱が建てられていた。

狸寺のいわれ

永正十三年 (一五一六年) 鎌倉建長寺より秀睦和尚が来住してから修行僧が多くなり境内の岩穴に住む古狸が旅僧に化身して修行したが寺で犬を飼うようになるとこの犬をひどく恐れるあまり和尚に礼状を残して旅立ったが十年ほどして犬が死ぬと再び訪れたが秀睦和尚が亡くなっていたので村人も立派になったこの僧を住職に迎えた。僧はよく人々を導いたが時々はだしで外へ出てあわてて戻ったり大いびきをかいて寝たり人前でけっして食事をしなかったりまた以前と同じく異常に犬を恐れることから怪しむ人もいたが当時法事に行く途中駕に乗った和尚を多くの犬が襲いかみつかれたことから病になり十日目に亡くなったがその亡きがらは十余年前に亡くなった秀睦和尚の姿であったといわれる。この後俗に狸寺といわれるようになった。

昭和六十三年十二月吉日 廿五世 清水俊雄

この「狸和尚」の像を過ぎると、左の土手際に多くの石仏が林立している箇所に出る。多くは「地蔵尊」とも「羅漢様」とも思われる端正な面立ちの仏様の一群である。覆い屋もなく、路傍に無造作に立ち並ぶ石地蔵の群れと云うのも近頃は珍しく、木陰のつくり出す陰影がなお一層その不思議な雰囲気を増幅させたせいか、筆者はすっかりこの仏像群に魅入ってしまった。あるいは禅寺独特の石像群なのかも知れぬ。


しかし、ふと気づくと、一群の中には、肉厚の味わい深い顔をした、なかなか個性的な仏様もいた。さらにその横には「恍惚の人」と云うか云わんか、汚れのない笑顔で座る石像があった。

ちなみに、寺の「本堂」へと続く石段が、石の仏様たちの手前から、見るものの目線を左手の壇上の「山門」へと誘っていたのだが、筆者は、石仏様たちに気を取られ過ぎていたせいか「山門」の発見が遅れてしまったのである。より正確には、勝手に「山門」は参道の正面にあるだろうと思っていたからかもしれない。そのため、始めは「安養寺」の「塔頭」の門ではないかと思ったくらいである。

*

「狸和尚」や石像群の先にには「石楠花」の木が植えられており、その木の奥手側に、「野鳥と女神」と題された不思議な像もあった。


台座の横に「贈 上杉柾四」と刻まれている他、由来書きとかは見えなかった。柵の向こうに立っていたので、もしかしたら、台座の反対側に何か由来が書いてあるのかも知れない。仏典中の逸話から引いたモチーフなのかは分からないが、古代インドのものと思われる装束を身にまとった胸も露わな少女が、左手を肩まで折り曲げ、手の甲に鳥を載せている姿である。ガンダーラ仏のような整った顔つきである。曲げた手の肘からは、地元の人の温かい心遣いだろうか、あるいはお寺の方によるものか、花を一杯に咲かせた花籠が提げられていた。

余談だが、「狸像」の足下には、「蕗」が繁茂しており、春先にはさぞ多くの「蕗の薹」が採れるだろうなどと下らぬことを思いながら、歩を進めた。

*


階段の上の「山門」の手前には、古色蒼然たる六地蔵などが立ち並び、屋根には「武田菱紋」が掲げられ、寺の来歴を無言のうちに偲ばせていた。この門をくぐると正面の石灯籠の向こうに「本堂」、そして右手前に石垣の土台の上に築かれた「鐘楼」が見えてくる。「鐘楼」の木組みは、「山門」の素朴さとは打って変わり、「禅宗様」らしい緻密な細工を施された絢爛たるものであった。


「本堂」の賽銭箱には金字で「佛前」と書かれており、左手の建物には「禅堂」と書かれた額が掲げられていた。「山門」を入ってすぐ左手には、侘び寂びた佇まいのトイレ舎があった。中も、清潔だった。

逆光で、「武田菱」が見えないのが残念...。でも、狸和尚は小さく見えている。

「山門」から振り返ると、「狸和尚」の像が、ちょうど正面になるように配置されていることに気づいた。目の前で見たときは、かなり大きく感じた銅像も、境内から見下ろすとまるで子狸が托鉢に来たのかとおもわれるほど愛らしかった。筆者の頭の中に、「新美南吉」の『手袋を買いに』がちらついた。まあ、あれは子狐だったけれど...。

*

寺伝によると、「安養寺」は「平安初期」の延歴三年 (784) に開創され、元享元年 (1321) に「臨済宗」となり、後に「今川義元」が「曹洞宗」へ改めたと云う。「武田氏」の外護を受けるようになったのは、その後と思われるので、まさに「信玄・勝頼」の時代と云うことになろうか。

「戦国期」には、「浅間神社・案主」の「富士氏」に連なる「地頭・富士図書助」によって畑・山林・屋敷が寄進され、「江戸期」は、朱印高七石となった。

「江戸期」は、寺の裏手数百メートルの位置に「塔頭・龍泉寺」があり、その足下に「杉田の大滝・不動の滝」があった。その他、末寺は七箇寺もあったが、「富士市」の「中之郷」にある「宗清寺」と同じく「久沢」にある「曽我寺」を除いて、すべて「明治初期」の「廃仏毀釈」の嵐の中で廃寺となってしまった。

「本寺」は、「伝法保寿寺」で、「開基」は「雲中慶公和尚」、「中興」は「雲峰智長和尚」とされ、「本尊」には「西方無量寿仏」と「阿弥陀如来」を祭っている。



3. 「滝ノ上不動」へ


正面の「本堂」と「禅堂」の間から、「本堂裏」へと降りてゆく道があり、ここを降りると「不動堂」の方へと続く草蒸した坂道に出る。ちなみに、これは後で知ったのだが、実際には、寺の北側に第二駐車場方面へと続く道があり、ここを辿って寺裏の道を左へと進み、突き当たりを右折すると云う進路もあるそうである。こちらだと薮道を抜ける必要もないし、急な斜面を下ることもないと気づいた。もう遅いって...。

と云う訳で、ここでは初めに言及した草道を強引に進むこととする。


草に覆われた竹林の中の急な坂道を下ると「安養寺裏」の道に出る。ところどころ、巨大な筍が竚立しているのも不思議な風情があった。この道をそのまま北へと歩き、坂の先の丁字路を左へと曲がる。右に曲がると、先程ふれた「安養寺」の「第二駐車場」に出ることになる。

ここから少し行くと、「天間沢」に沿った段丘上の細い道を進むことになる。沿った、と云ってもここはそこそこに広い川谷となっている上、暖かい季節は樹木が生い茂るため、川への距離はそれなりにあり、その姿を望むのも途切れ途切れにである。しかし、川はあまり見えない代わりに、晴れていれば、歩く先に「富士山」の美しい姿が浮かび上がるのは余得と云えよう。何しろ、「東京湾」の東から眺めるのとは違い、「富士宮市内」とは云え、「富士」の山裾の近くを歩くのである、見えるのはまさに威容である。快晴でなくともその姿を拝することが出来るのも、また嬉しい。

右へと湾曲しながら数百メートルも歩くと、道はわれらを小さな集落へと導くこととなる。道の左手の人家は一段下がった雛壇上にあり、右手の家屋は、石垣で根を固めた壇上に建てられていた。ここの集落を抜けつつ、右に二つの路地を過ぎると、今度は左側に、沢へと下ってゆく小さな道が現われる。歩いていると、実際には道が二手に分かれたように感じられる分岐である。


竹林の間を下るこの道を辿ると、「天間沢」に出ることになり、この川を渡れば、向こう岸の上に、われらの目指している「不動堂」がある。

向正面の石段が「滝ノ上不動」に続く

この沢から右を見上げると、大きな岩が重なりあった急な斜面が見えるのだが、これこそが「杉田の大滝」なのである。普段はあまり水は流れておらず、雨の翌日だけ、「大滝」を見ることは出来る。


水量の少ないこの日の「杉田大滝」。
後で、この滝の上の石段で休憩した。

この川に橋らしい橋はない。ただ、川底は浅く、水量も極めて少ない。川は随所をコンクリートで補修されており、そのコンクリートの段が事実上の土橋のような役割を果たしているため、この上を渡ることになる。川中を歩いても、水深は膝どころか、足首までもなさそうであったが...。

*

既に見たように、「天間沢」を渡って、対岸の階段を登った先にあるのが「滝ノ上不動堂」なのだが、ここでは「不動尊」の紹介に入る前に、「安養寺」から車で来た場合の経路を確認しておこう。

「不動堂」に車で直接行くには、県道76号から信号を曲がった「安養寺」入口の道を、「安養寺・駐車場」に入らず、そのまま辿っていけばよい。緩やかな左カーブを描く上り坂を道なりに進みつづけ、くねくねとした小さなS字カーブの先の「杉田不動橋」で「天間沢」を渡ったら、その少し先にある畑とハウスの間にある左への道が「不動堂」への入口である。「滝ノ上集会所」の少し手前と云えばよいだろうか。やや傾斜のある細い坂道であるが、普通乗用車ならまったく通行に問題はないだろう。筆者としては、途中、集会所の直前くらいに見えた「苺の自動販売所」が印象に残った。

坂道を下った先に、ただの「広場」と云った感じの駐車場がある。ここのトイレは、外観も瀟洒ならば、中も水洗になっており、ここの駐車場が、如何に地元の方々によって綺麗に整備・維持されているかが分かる。ただ、知らないと、駐車場だとは気づかず、整地中の工事現場だと思って、通り過ぎてしまうかもしれず、そうなると道はやがて行き止まるし、細い道を切り返すのも難儀だと云うことになってしまうのである。とにかく、畑地とハウスの間の細い道を下るのである。



4. 「滝ノ上不動」探訪

駐車場の二つの案内板には、次のように記されていた。


不動尊駐車場竣工記念

杉田区発祥の原点と云われる不動尊の歴史は古く、建久四年源頼朝が富士の巻狩りに立ち寄り、雲や霧を払うべく祈ったところ、すっかり晴れたと云われる事から「雲切り不動」と呼ばれる様に成ったと申し伝えられる。

昭和の初期に杉田区有志の浄財により、拝殿が建築された。

以来杉田区役員有志等を始めとし、区民の御協力による本殿の改修そして県・市への陳情による予算獲得等により周辺の環境整備など不動尊は立派に守られて参りました。

そして不動尊への参拝者も時代の進歩による車社会に伴い徐々に多くなって参り、参拝者の為の入口道及び駐車場の整備が必要となって参りました。区民永年の夢が、今回地主の安養寺様・稲葉芳正様の心良い御理解と有志の皆様の御協力と、浄財によって完成する事が出来ました。ここに竣工を記念し、末永く顕彰するものであります。


平成十五年三月吉日
杉田神社運営委員会



富士宮市 歩く博物館 Lコース 5
滝ノ上の不動さん


この辺りを滝ノ上といい、不動さんが岩屋の中に祀られている。昔、ここには、安養寺末寺の龍泉寺不動堂があったと言われ、釈迦如来や六観音・地蔵菩薩などの石仏と、恩智養宗和尚の顕彰碑がある。

養宗は、安養寺の住職となり、檀家の人々の天水に頼る生活を見て、用水路を開いて生活水を確保しようと考え、不動堂近くの湧水を引く計画を立てた。万延二年 (一八六一) に工事を開始したが、安養寺までの約五百メートルの隧道を掘らなければならず、掘削に大変な苦労をした。最初は寺山の木を売って人を雇い工事を進めたが、その財源もなくなると、一人で隧道を掘り進め、文九二年 (一八六二) に杉田用水の完成をみた。その後、杉田用水は百戸余りのの生活用水として、上水道が普及するまで利用されてきた。

富士宮市教育委員会




駐車場から「不動堂」へと進むと、すぐに左の壁面に「六地蔵」ならぬ、「六観音」と「釈迦牟尼如来」の七体の仏様が鎮座していた。みな丁寧に彫られた彫刻でありながら、どこか個性的な表情を湛えた魅力的な仏様たちで、いわゆる「高遠石工」の作品を彷彿とさせる、穏やかな顔立をしていた。中央の流れを汲んだ整った仏像も美しいが、この手の地方的な特徴を備えた作品からは、民間信仰の独特の篤さが伝わってくるようで、いつものことながら胸を打たれる。


左から「馬頭観世音」「准胝観世音」「十一面観世音」「釈迦牟尼如来」


左から「准胝観世音」「十一面観世音」「釈迦牟尼如来」「聖観世音菩薩」


左から「釈迦牟尼如来」「聖観世音菩薩」「如意輪観世音」「千手観世音」

これらの「観音像」の先、参道の正面奥に、質素な方形の「不動堂」があった。土壁漆喰造りの真四角なお堂の正面は、観音開きの扉となっており、賽銭箱もなく、静かに閉ざされているため、中をうかがい知ることは出来ない。施錠もされている。興味深かったのは、御堂の正面の軒の下に下げられた真一文字の太い注連縄である。神仏混淆もさながら、かつて、この地に「蛇神」の信仰があったことをうかがわせる民俗である。

御堂の右手の崖際には、由来を記した手書きの掲示物があったが、あまりの乱雑な (はっきり云うが達筆なのではない...) 書きっぷりに二三行で読むのを断念した。正直なところ、ざっと走り読みはしたが、「不動明王」の説明にばかり終始していて、由来書としてはたいした内容ではなかった。しかし、逆にその諄いまでの書きっぷりに、「おらが不動様」に対する書き手の熱い思いが横溢としていたことは間違いない。


茶系の銅板葺きの御堂の左手には、湧水池と云う立地にも関わらず、普通の蛇口と簡易設備のような水場が置かれていた。恐らく御手水を使うところなのだろう。地域の人々によって忍びやかに信仰が守られている寺社と云うものは、意外とこのようなところが多い。格好悪いと文句を云ったり、善意から勿体ながったりする人もいるのだろうけれど、筆者はこう云うのもまた好きである。水場の後ろには、素朴な彫りの地蔵様がいた。こちらは、さきほどの「六観音」などの幾層倍の「素朴」さであった。

「六観音+如来」よりも、さらに素朴...

この「不動堂」の右手には、「天間沢」へと降りていける階段があるのだが、「安養寺」から歩いて来ると出くわすコンクリートの渡場みたいな箇所につながっているのは、ここの階段なのである。われらは、本当はこの階段を上って、「不動様」にやってきたのである。したがって、駐車場からの案内は、われらが歩いた実際のルートを逆に辿って書いていたのである。

御堂の右手後方には、「不動堂」の裏へとも続く道があり、ちょっとした階段を上った後、さらに「不動明王」の岩屋へと続く道が敷かれているのだが、その石段の左には「富士山」をあしらったデザインの「保存湧水池」の標識が、そして右側には、なかなか立派な僧侶の青銅の胸像が据えられている。「湧水池」とは、先ほどの駐車場の案内板に記されていた湧き水のことである。確かに、看板の裏の草むらの中から、わずかに水が流れる音が聞こえてくる。

保存湧水池

面積      92.50m2
水量等     日量480m2 (年平均) の湧水量があり、市域の東部では
        数少ない湧水池で、古くから農業用水等に利用されている。
保存指定番号  第3号
保存指定年月日 平成4年1月20日
所在地     富士宮市 杉田768番地の1地先

                              富士宮市

石段の右に顔を向けて銅像を見ると、台座正面には、「安養寺二十二世 恩智養宗和尚顕彰記念像」と陽刻された銅板が嵌められていた。知的で温和な、如何にも「和尚」にふさわしい風貌の銅像だが、一体、どなたがモデルとなったのだろうか。


実は、ここ「滝ノ上不動尊」は、「杉田用水」の水源地で、用水と銅像の僧侶は深い関係があるのである。僧の名は、「恩知養宗」、「杉田用水」を多大な苦節の末に開いた人物であることは、駐車場の説明板で見た通りである。いま、この「杉田」の水源地は、「富士宮」の「保存湧水3号」に指定されている。


さて、銅像の先へと眼を移すと、そこには忽然と謎の洞窟が現われる。人によって感想は異なるだろうが、筆者は、初めてこの洞窟を目にしたときは、一瞬顔をしかめた後に、思わず笑ったものである。とにかく壮観と云うべきか、珍妙と云うべきか、ここを見ただけで、この日の労苦が報われたような、満足感とも脱力感ともつかぬ思いに包まれたのを覚えている。


洞窟は、石を積んで作られた人工的な柱で入口周囲を補強され、四手を垂らした注連縄の奥に小さな祠が据えられている。その中では、赤い賽銭箱を前にして、「不動明王」の石像が訪問者をねめつけて鎮座している。岩の天井からは、冷たい水の雫が滴ってくる。「不動堂」の奥の崖に穴を開け、「杉田用水」の一部が覗けるように近年作られたものだそうである。いまは、中に「不動尊」も祭られている。

この後、われら一行は、「杉田大滝」の真上の石場で休憩を取り、さきほど紹介した自動車ルートを逆に辿って「安養寺」へと戻り、この日の全日程を終えた。



5. 「安養寺の猫」を巡る小考

「安養寺」に関して、「狸和尚」の伝説は、すでに見た。それに、前回シリーズの「花蔵院の猫」で、我が国の民俗では、「狸」と「猫」に互換性があることの検証作業も行なっているため、まさか「狸和尚」の話を「猫」の代わりにするのではないかと心配されている読者がいたら、御安心を。いまでは、ほぼ忘れ去られているが、ここ「安養寺」には、古くから伝わる、次のような「猫」の伝説もあるのである。

安養寺の猫


あるとき、「安養寺」の和尚が可愛がっていた飼い猫がいなくなり、十年の後に十歳ばかりの小僧が寺にやって来て、自分はここでもと養われていた猫であり、恩返しをするために帰ってきたと云う。

聞けば、こう云うことであった。
さる西国の大名が「江戸」で死んで国元に運ばれることになるが、その途中、自分が「火車」になって死体を空高く吊り上げて、「杉田の安養寺」と呼ぶ。すると寺に迎えが来るから、お経を読んでくれれば、死体を降ろす、と云うのである。

それから三日後、その通りのことになり、和尚の名は上がり、お礼も沢山来た。

参照・静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版、p. 335
原版・静岡県女史師範学校郷土研究会 (1934) 『静岡県伝説昔話集』静岡谷島屋書店

この説話自体は、ごく普通の「猫檀家」型の伝えなのだが、その内容が微妙なところで、「世田谷」の「豪徳寺」の「猫」伝説と一脈通ずるところがあり、同時に、「神奈川」から「静岡」「南長野」などに伝承される幾つかの「猫檀家」譚に相通ずる特徴を持っているのも興味深い。

まず、「豪徳寺」伝説との明確な類似点は、それが近在の有力者ではなく、遠隔地の「大名」を相手に演ぜられる「猫檀家」話であると云う点である。当然、活躍する僧侶あるいは大名のいずれか、または両方かが旅の最中で、葬式での出来事は飽くまでも「通りがかり」の事件と云うことになる。

もちろん、これに対して、「豪徳寺」の伝えは、「猫檀家」話ではない上、雨中に難渋する「井伊直孝」を寺の猫が手招きする筋だと指摘する向きもあろうかと思う。

しかし、それでも、一番の際立った特徴である遠い土地の「大名」と云うモチーフは変わらないし、第一、「手招きする猫」と云う「豪徳寺」伝説は、寺の宣伝や一部の無責任な出版物の所為で広く普及しているだけで、「明治維新」以後、「井伊家」の保護を失った寺と檀家側が、新たな檀家や参拝客を集める手段として、「大正期」から「戦前期」にかけて創り出した創作話であることは、「長沢利明」氏の云うように、ほぼ間違いないのである (長沢利明『江戸東京の庶民信仰』三弥井書店、1996) 。それ故に、我が国で初めて本格的な「猫檀家」の伝播研究を行なった「福田晃」氏も、その論文「猫檀家の伝承・伝播」 (『昔話の伝播』弘文堂、1951) において、「豪徳寺の猫」の話として、「手招き猫」の伝承は採っていないのである。

「窪山天神の猫」の記事でも述べたが、「戦前」の我が国では、大衆娯楽としての空前の「御参りブーム」が巻き起こっていたのであり、各地の寺院は、新たなお遍路コースを創ったり、独自の縁起を宣伝するのに躍起になっていたのである。「曹洞宗」の「豪徳寺」の場合は、中々お遍路と云う訳にはいかないので (不可能ではないが...) 、このブームに乗って、新たな「手招き猫伝説」を創出することで、寺の衰運の挽回を図ったのだろう。

筆者が、「安養寺の猫」の伝えと「豪徳寺の猫」の伝えが似ていると云うとき、念頭に置いているのは、上記の創られた「手招き猫」伝説のことではなく、別系統の伝承のことなのである。ここで仮に、「豪徳寺の猫」伝説のうち、現在より広く流布している「手招き猫」の伝説を「豪徳寺の猫・B系統」とするならば、以下に紹介する別系統の伝説を「豪徳寺の猫・A系統」と呼ぶことにする。前述の「福田晃」氏が採用したのも、この「A系統」の「豪徳寺の猫」話なのである。

豪徳寺の猫・A系統の例 :


井伊直孝が没し、嗣子の直澄が父の遺骸を守って彦根に帰るときのこと、箱根の山中にさしかかると、激しい雷雨になり、火蛇が現れて直孝の遺骸を奪おうとした。すると、どこからともなく老僧があらわれて、雷雨をはらす祈祷をしよう、という。老僧が経文を誦むと、雷雨はやみ、火蛇も失せた。老僧は、世田谷の弘徳庵の住持である、と名告って消えた。

直澄はこの奇瑞におどろき、その高僧の住む寺こそ菩提寺にふさわしいと、箱根からもどって、父を弘徳庵に葬り、井伊家の菩提寺と定めた。寺号も、直孝の法号をとって、豪徳寺と改め、伽藍を営み、田地を寄進して繁栄の基をきずいた。箱根の老僧は、この弘徳庵の飼い猫が化けたもので、庵主の恩に報いたものであるという。

原話・矢野弦 (1930) 「東京郊外の伝説めぐり」
『旅と伝説』第三巻第五号、三元社

「安養寺の猫」と「豪徳寺の猫・A系統」を比較した場合、「江戸表」で亡くなり、西国の国元に帰ろうとする大名家の葬列と云う設定は、そう偶然には一致しないだろうから、互いに無視出来ない程度の類似性を呈していると云っても問題はないと思われる。しかも、「箱根」と云う具体的な地名こそないものの、「安養寺の猫」の舞台が、地理的に近接するのは明白と云える。そして、「通りかがり」と云うモチーフも、双方に生きている。ここまで分析すれば、実は、固有名詞を除けば、両者がほとんど同一の物語構成をしているのではないかとさえ思えてくる。

逆に、双方に共通しない大きな特徴は何か、と問うと、それは「激しい雷雨」と云うことになろう。しかし、この要素は、「豪徳寺の猫」のAB両系統に共通する最も重要なモチーフとなるのだから面白い。

一般的な (理想的な) 「猫檀家」の話と云うのは、「棺桶の宙吊り/死体を奪う」と云うモチーフと「激しい雷雨 (風雨・黒雲) 」と云うモチーフがセットで登場するのだが (筆者は「南無トラヤァ」の祈祷はあまり重視しない) 、これが各地の伝承によって、部分部分が退化して欠落していくこともよく見られるのである。ここでは深くこの議論に入らないが、この伝承の各モチーフの有無や濃淡の地理的な推移に関して、この分野の第一人者である「福田晃」氏は、地理別に「A・B・C」の三つの型に簡潔に分類している。

「猫檀家」譚のメッカである「東北地方」では、「A型」が圧倒的に優勢し、「棺桶の宙吊り」と「南無トラヤァ」系統の祈祷文が興味の中心となっているが、西南に向かうに従って、「棺桶の宙吊り」のモチーフが衰え、「暴風雨のために葬式が出せない」「僧が祈祷でこれをおさめる」と云ったモチーフの「B型」となり、不思議なことに地理的にはそれらの中間に位置する「東海地方」では、「猫の恩返し」のモチーフさえ退化して、「怪猫の起こした暴風雨を鎮めた名僧譚」としての「C型」になっていると云うのである (福田晃「猫檀家」稲田ら/編『日本昔話事典』1977、pp. 704-706) 。

筆者としては、「福田」氏の見解に概して賛同するのだが、どうも「東海地方」を中心とした地域の「猫檀家」譚の特徴に関してだけは、わずかだが見解の相違がある。それは、「東海地方」に見られる「C型」の特徴に関してなのだが、「福田」氏はそれを「怪猫の起こした暴風雨を鎮めた名僧譚」としているが、筆者はどちらかと云うと「暴風雨」よりは「死体を奪取される」と云うモチーフの方が優勢であると思う。以下、適当に手許にある資料からこの地の「猫檀家」譚を五つ抜き出し、その辺りのところを見てみたい。


1. 
曹洞宗 稲荷山 笠森峯 善住寺  
    浜松市天竜区水窪町地頭方 357-1

道中、峠に通りがかり、松の木の上に死体を発見。死体が盗られていることを葬家に告げ、取り戻す。

御手洗清 (1968) 『遠州伝説集』遠州タイムズ社
御手洗清 (1985) 『遠州七ふしぎの話 第二集』遠州伝説研究協会


2. 曹洞宗  久住山  洞慶院   ー   
    静岡市葵区羽鳥 7-21-9

「大川村栃沢」まで托鉢に出掛けると、雷雨の中、葬式に遭うが、死体がないとつぶやく。呪文を唱えて元通りにする。猫は登場せず。

静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』
静岡県の伝説シリーズ1・2 上下巻、羽衣出版


3. 曹洞宗  金龍山  洞善院   ー    
    島田市金谷 100

「江戸」で亡くなった西国大名の葬列が通りがかり、法要が予定されるが、一匹の大猫が遺骸を狙っていることが分かり、黒雲沸き起こる中、和尚が大猫に魔除けの数珠を投げつけるとおさまる。後に「猫塚」を建てた。

山田健治 (1979) 『かなやの史話・民話・伝説』金谷郷土史研究会、p. 46


4. 曹洞宗  太平山   ー   栄泉寺か?  
    周智郡森町三倉 707

「熊切村」の「胡桃平」で葬式に出会い、死体がないと云う。魔物にさらわれて木の上にあるのを取り戻 
す。明治初年まで「胡桃平」十二軒は檀家であった。

「茅山」で葬式に出ると、棺に死体がない。「鷹打抜」と云う深山の松の木の上にあるのを見つけ、取り戻す。「茅山」五軒は檀家に。

静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版、p. 341
加茂徳明ら編 (1982) 『日本伝説体系 第七巻 中部編』みずうみ書房、p. 203


5. 曹洞宗  梅月山  華蔵院   ー    
    小笠郡大東町神土方 (日向谷)   

「牧野ヶ原」の「高雄開山忌」に行く途中、死体がない葬列に遭い、それを取り戻す。犯人は「猫」ではなく「狒々」

静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版
加茂徳明ら編 (1982) 『日本伝説体系 第七巻 中部編』みずうみ書房、p. 203


このように見る限りでは、確かに「福田」氏の指摘される通り、「猫の恩返し」のモチーフは、かなり退化しているようで、上の五例だけで見れば、一つも「猫の恩返し」の要素は保たれていないのである。一方、「暴風雨」と「死体を奪取される」と云うモチーフの間では、「5 : 2」で後者が優勢しているのは否めない。

*

以上、見てきたように、本項では「安養寺の猫」の説話を、「東海地方」を中心とした地域の「猫檀家」譚と関連づけて比較考量することを通して、この地域の「猫檀家」譚が、全国の同様の説話の分類の中でどのような位置に立つのかをある程度明らかにすることが出来るだけでなく、その伝播の過程を考察をする一助になることをも示せたと思う。今後は、この成果をさらに精緻化した上で、他の地域の「猫檀家」譚の考察に敷衍して、分析を深めていかねばならないと考えているが、その具体的な方法に関しては、また稿を改めて示していけたら幸いである。

最後に、当ブログは、どちらかと云わずとも、あまり知られていない「猫神」「猫伝説」を発掘紹介することが目的の一つであるため、全国的に有名な「猫神」は、仮に登場するとしても、かなり優先順位は低くなる運命にある。したがって、「豪徳寺の猫」の記事も、他に書くことがなくなってから書けばいいと思っていたのだが、今回の「安養寺の猫」とのからみで登場させてしまったからには、近日中に「豪徳寺の猫」の記事も書かねばなるまい、とは思っている。ただし、既にいくつかの「猫神」の記事が順番待ちをしているので、それらが終わった後と云うことになると思う。



6. 蛇足 : 本日の猫...

「不動様」への途中、沢の近くの植込みにいた白猫。

「不動様」からの帰り道、「安養寺」の裏手の人家近くで目撃。



参考文献
・矢野弦 (1930) 「東京郊外の伝説めぐり」『旅と伝説』第三巻第五号、三元社
・御手洗清 (1968) 『遠州伝説集』遠州タイムズ社
・福田晃 (1977) 「猫檀家」稲田ら/編『日本昔話事典』弘文堂
・山田健治 (1979) 『かなやの史話・民話・伝説』金谷郷土史研究会
・加茂徳明ら編 (1982) 『日本伝説体系 第七巻 中部編』みずうみ書房
・御手洗清 (1985) 『遠州七ふしぎの話 第二集』遠州伝説研究協会
・静岡県女史師範学校郷土研究会 (1934) 『静岡県伝説昔話集』静岡谷島屋書店
    静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版
・長沢利明 (1996) 『江戸東京の庶民信仰』三弥井書店
・その他、現地説明板など


「安養寺」の地図は、こちら
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庭のねこ
小僧に化けた猫というのは、可愛らしいですね。
後に火車に化けるのは恐ろしいですが。
家猫になると化ける力も失ってしまうのでしょうか。

滝組の水の流れがこちらにも聞こえてくるようです。
2010.05.24 08:28

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