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千葉県の猫神・大桶の猫山 (1)

.22 2010 関東地方 comment(0) trackback(0)
天台宗
軍荼利山・甘露寺

市原市大桶 480

麓の台地にある「甘露寺」

奥の院
軍荼利四天王堂

市原市大桶字城跡 497

「市原市大桶」は、明治四年 (1871) 以降、目紛しい行政地区名の変遷を経てきた地域である。「市原市」になる前は「市原郡・三和町」であり、それ以前は「同郡養老村」の「大桶区」、さらにその前は独立して「大桶村」と云った地域である。現在の交通地理的な表現をするなら、小湊鉄道の「上総三又」駅の東南数キロの土地である。国道297号・大多喜街道の「磯ヶ谷入口」から東南へ数キロ、うぐいすラインと合流する辺りと云った方が分かりやすい向きもあるかもしれない。いずれにしても、全国的に名の知れたところではないので、万人に分かる説明はない。

この「大桶」の地は、低い丘陵に挟まれた「大桶川」沿いの谷津に広がるのどかな田園地帯で、都会の喧噪から忘れ去られたような別天地なのだが、この地区が毎年、「市原」の地域ニュースの話題に上る時期がある。二月のはじめ、「大桶」の「甘露寺・奥の院」で、「篝 かがり 焚き」が行われるからである。

この「篝焚き」と云うのは、一般的には「どんと焼き」などと呼ばれる仏事・神事のことで、その年の正月の〆飾りや御札などを檀家や氏子の人々が持ち寄って、大きな篝火で焚き上げ、その火で炙った餅を饗食して、その年の無病息災を願う行事である。

このような行事は、五穀豊穣も併せ願って、田畑などの農地で行われることが多いのだが、ここ「甘露寺」では裏山の頂きに立つ「奥の院」の境内で行われるのが習わしである。「篝焚き」に備えて近隣の住民は、「奥の院」境内の草刈りを行い、焚き上げのために刈った草を二メートル以上に積み上げるのである。

同時に、「奥の院」へと至る参道の整備も行うのだが、これが想像を絶する重労働なのである。男坂も、女坂もない、四十メートルの急勾配をほぼ一直線に登るここの参道は、正直、かなりきつい。この石段や上り坂を踏みしめると、地域の人びとが如何に、この寺と行事を大切にしているかが自ずと分かる。

*

「大桶」の「甘露寺」の東側の比高四十メートルほどの山は「城跡山」、その南側のやはり比高四十メートルほどの山は「城廻山」と呼ばれており、『日本城郭大系 6 千葉・神奈川編』 (新人物往来社、1980) では、その両方に城があったとしている。ただし、小高春雄/編『市原の城』 (自刊、1999) では、「城跡山」の方は城と見るには問題が多い、としている。しかし、「奥の院」があるのは、「城跡山」の方なのだが、この御堂の背後に五十メートルほど進んだ所には、深さ二メートル弱と、規模は小さいが、堀切状の部分があり、一概に「城跡」説を覆すわけにはいきそうにない。

当たり前なのだが、過去に一度も「城」が存在したことがないならば、その土地の名前が「城跡」になる可能性は限りなくゼロに近いと云わざるを得ない。「城」が他の言葉の当て字だと考えることもわずかに可能だが、他に考えられる言葉と云うのが余りない。例えば、「代」であれば地名として不自然ではないが、山上の地名としてはまったく論外である。「白」では、「跡」と意味がつながらない。古語「しろす (治・統) 」の語幹と考えると云う無理な手を使っても、これだったら「城跡」と同じ意味になってしまう。後は、正体不明の第三語を仮定して、それが転訛したものだ、と云うわずかな可能性しか残らない。

しかも、これらの反駁はすべて反証を伴ってこそ意味を持つのであって、

    1. 「城跡」らしき跡が幾つかある、
    2.  地名が「城跡」である

この二つの要件を覆すのに十分な反証でなければならない。特に、正体不明の第三語を仮定する場合は、何故その言葉の方が現に残る「城跡」と云う語よりも相応しいのかと云う点を明白にしなければならない。こう考えると、なぜ筆者がこの地に「城」があったのではないかと云うのか、分かって頂けるのではないかと思う。

話を続けよう。

「江戸時代中期」の建立と云われる「甘露寺」は、この山の西麓の台地に、公民館と隣接してあり、「本尊」に「密教五大明王」のうち南方を守る「軍荼利明王」を祭っており、「上総地区の四軍荼利」の一つと呼ばれるそうである。残りの三つがどこなのかは知らない。漠然と「神野寺」と「東浪見寺」などが思い浮かぶが、後は思いつきもしない。

「胎蔵界曼荼羅」においては「軍荼利明王」として、「金剛界曼荼羅」においては「甘露軍荼利菩薩」「金剛軍荼利菩薩」「蓮華軍荼利菩薩」として具現される神仏である。これを「三部軍荼利」と呼ぶのだが、「軍荼利明王」に該当するのは「甘露軍荼利菩薩」、サンスクリット (梵語) で云う「アムリタ・クンダリン」である。「アムリタ」とは、「甘露」すなわち「不死の霊薬」のこと、「クンダリン」は水瓶、あるいは、「蜷局 とぐろ を巻いた蛇」のことで、「軍荼利」はその漢音訳である。したがって、「甘露」の字が山号や寺号につけば、かなり高い確率で「軍荼利明王」を祭る寺院だと云えるだろう。

上田正昭ら/編『日本人名大辞典』 (講談社、2001) には、「宝生如来の化身として、悪敵をしりぞけ、甘露で生あるものをすくう。ふつう一面八臂の忿怒相で、蛇が身体にまきつく姿をとる」と書かれ、湧き水や蛇と関係の深い姿をしているのである。いまも「大桶」は、湧き水の豊かな地である。

この「軍荼利山・甘露寺」の裏山には、しかし、二月初頭の「篝焚き」の行事の他に、筆者の興味を引くものがあるのであった。

「猫山」の伝説である。

*

「甘露寺」から見る裏山の登口

大正五年 (1916) に編纂された『市原郡誌』は、「養老村」の項で、「大桶地区」にある「猫山」について記載している。

六、猫山

大桶区にあり之を古老に問ふに今より凡そ二百年の前頃、東は長南伊勢屋の猫、西は相川村新三左衛門の猫を始めとして、数百の猫集まりて盛宴を張ることあり、秋夜月清く虫喞く頃、其の歌舞の状を目撃することありしと、今は此の山周囲を青年団の為めに伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に四・五の老椎を存するに過ぎず。

千葉県市原郡教育会 (1916) 『市原郡誌』千葉県市原郡役所、p. 1057

『市原郡誌』には記されていないが、『千葉県の不思議事典』によると、「新三左衛門」は、「猫の踊り」を目撃するに当たり、我が家の猫に御馳走になった上、早く帰るよう諭されたと云うから面白い (森田保/編「猫の宴会」『千葉県の不思議事典』新人物往来社、1992、p. 197) 。

しかし、この記述だけだと、どのような意味で猫は飼主に帰るよう諭したのかが分からずじまいである。有名な「周防大島」の「猫山」の話や、多くの典型的な「猫山」「猫又屋敷」の説話のでは、主人を、その身に降り掛かろうとしている危険から逃れさせるために逃げるように告げるのだが、もしかしたら、「大桶の猫踊り」の「帰るように諭す」と云うモチーフも、このような「危険な猫山から早く逃げるよう忠告する」モチーフの残存した形なのかもしれない。

また、『市原郡誌』の記事には、この出来事を「凡そ二百年の前頃」としているが、同書の刊行された大正五年の二百年前と云えば、文化十三年 (1816) 頃と云うことになり、以前に扱った「台の山の猫踊り」の伝えられる年代とほぼ一致するのも興味深い。それに、登場猫を二匹まで、その住所まで分かるほどに列挙しているのは面白い。

*

「磯ヶ谷入口」からの道がうぐいすラインとぶつかる「大桶丁字路」付近の「高橋商店」の前のスペースに車を駐め、道を聞きがてらの見物を補充しようと思ったのだが、日曜日なのがいけなかったか、店はやっているようではあったが、いくら訪ないを乞うても人の出てくる気配はなかったため、断念。そのまま「大桶地区」の集荷所のある角まで進み、裏山へと続く路地に入った。足下には、せせらぎに近い水路が流れていた。

路地は、表の道路とほぼ平行するように敷かれ、やや進むとわずかな上りになり、一番の北外れまで来ると、右手の区画は完全な台地となって、路地からは階段を上らないといけない状態になっていた。地図で見ると、この一角に、公民館と「甘露寺」と云う寺院があるはずなのだが、下から見る限りでは普通の民家が並んでいるようにしか見えない。おそらく、右手の台地の上にあるのだろうとは思ったが、階段の麓にも寺号標のようなものはなく、階段の上の左右には民家しか見えない。ここまで来て引き返すわけにはいかないので、思い切って上ってみると、左手の建物は民家風ではあったが、どうやら公民館であることが分かり、ほっとした。そして、もう数歩先に歩くと、公民館の先に、どう見ても寺院だと分かる立派な御堂が建っていた。「甘露寺」である。

ちなみに、右手に見えた建物は本当に民家だったようで、表札も提げられていたが、それ以外は寺の立つ台地は広々とした広場になっていた。入母屋流れ造りの瓦屋根に、白塗りの壁が映える「本堂」は、古びて色の褪せた「軍荼利明王」の扁額を掲げるばかりで、山号も寺号も来ただけでは分からない。賽銭泥棒でも出たのだろうか、賽銭箱も置いておらず、その分だけでも、見慣れた寺の雰囲気とは異なっていた。寺の北側は、陽の当たる開けた空間となっていて、雑草や灌木の合間に古い石仏たちが、半ば埋もれて並んでいるか、散乱しているかしていた。見た感じ、地蔵碑と打ち捨てられた墓碑が多いようだった。

広場の石仏たちがいる当たりとは正反対の側に目を向けると、季節がら咲き誇る桜の樹の前後に、大きな新しい石碑が二基立てられ、それらの右手から後ろの山へと上ってゆく土の杣道のようなものが見える。手前の新しい石碑は、実は石碑ではなく、反対側に廻ってみると、しっかりと「天台宗 軍荼利山 甘露寺」と刻まれた寺号標であった。そう云えば、「軍荼利明王」は、南を守護する仏神なのだから、寺院全体は南面していなければおかしい。筆者が上った石段は「本堂」の西側にあったのだから、こちら側に寺の標識がないのは当たり前であった。

土の道の方は、近付いてみると、斜面を巻くように続いており、しかもきちんと段が刻まれていたため、これが裏山の「奥の院」への道なのかも知れないと考え、思い切って上ることにした。


竹薮や雑木の生い茂る斜面の細い土の道をわずかに上ると、道が大きく斜面を蛇行して、木蔭の中に完全に消えてしまう辺りの正面に、大きな石碑が立っていて、この道が「軍荼利四天王堂」 (奥の院) へと続く参道なのだとようやく確信が持てた。ただ、この石碑のある辺りで、蛇行する土の道は、左へと直角に延びる石段の一本道に変わってしまう。竹や樹々の緑を切り裂くように続く石段の風情は云うまでもなかったが、終わりさえ見えぬその急勾配をこれから上るのかと思うと、気持ちが怯むのを感じた。実際、引き返そうとさえ思った。


その後、何回休憩を取ったか、そして何分登り詰めたか、いずれもまるで覚えていない。腿はとっくに感覚を失い、石段を上る一歩一歩が、全身を縛られて丸太を引き上げるような労苦になりつつあった。その永遠に続くと思われた石段がようやく終わりに近付くのが見えたときの無上の喜びは、その先に大きな失望と云う名の山道が待っていることを予想すら出来なかったみずからの愚かしさを引き立てる役にしか立たなかった。石段の最後の一段を踏み終えても、ただ急勾配のうねる山道が、竹薮の中を縫うように続いていて、いまだ頂上などは見えないのである。

竹の間から射す木漏れ日が明るくなってくる...!!

この竹の道をしばらく踏破すると、ようやく道の左右の薮が少し薄くなり、路肩の広がりが見え始めた。先ほどのぬか喜びを繰り返すまいと、至って平静を装いつつ地面を踏み続けると、やがて峠に至るように、狭い稜線の向こうに明るい空が見え始め、その稜線の中央に、道が創り出すわずかな窪みの中から、赤い瓦屋根の尖端が浮き上がってきた。

視界の先から見え始めた「奥の院」


「篝り焚き」を行なった焚き火の後が見える。実際にはかなり大きな跡である。



頂の平地に建つ「軍荼利四天堂」
礎石の上に乗っているだけの古来の建設法。


「軍荼利四天堂」の立つ頂の平地

この日は久しぶりの陽気だったとは云え、今年の春は寒い日が続いたため、筆者は麓では長袖のシャツの上にジャンパーを羽織っていた。しかし、「奥の院」に到着した頃は、一番下のTシャツ一枚になっていた。ジャンパーはかさばるので、参道の途中に置き去りにし、シャツは風呂敷代わりに手荷物をまとめて、それを首から後ろにぶら下げて参道を伝ってきたのである。

頂上に着くと、『市原郡誌』に描かれた老椎は、数本こそ残っていたものの、手前の二本は伐採されていて、切り株だけが残っていた。筆者は、首から提げた荷物をこの切り株に置かせてもらい、山頂の平地を探索することにした。

広場の真ん中には、今年の「篝焚き」の名残であろう、焼け焦げた草木の残骸が残っており、周囲の下草の中からは「蒟蒻」の葉が、にょきにょき生えていた。おそらくは、かつて栽培していたものが逸出したのだろう。

いまだ上がったままの息を落ち着かせるため、老椎の切り株のところまで戻り、水分を補給しつつ、いっときを草の上に座り込んで、しばらくぶりの春の陽気を楽しむことにした。そこでしばしぼおっとしていると、ふとある疑問が浮かんできた。既に『市原の城』の中で著者の「小高春雄」は、「奥の院」のあるこの山 (城跡山) は、城跡とするには問題が多いと指摘していたことは述べた。筆者はこのとき、「小高」氏の見解に疑問を感じて、少し山の中を散策してみることにしたのである。そして、御堂の後ろ五十メートルほどの地に、堀切状の構造を見つけたのは、実はこの時なのである。

ただ、筆者の疑問の中心は、この堀切には関係しない。何しろ、この堀切がはたして城塞のものだったと証明するのには、ただ見つけるだけでなく、多くの予備的・補完的作業が必要なのである。もしかしたら、『市原郡誌』が云う、山頂を開拓したときの農業用水として造られたものかもしれないし、いつの時代かに造られたただの通路かも知れない。

しかし、それにしても『郡誌』の内容と「小高」氏の見解は、深いところで矛盾するのである。開拓するまで、「奥の院」のある平地に樹木が林立していたのなら、開拓以前に目撃された「猫の踊り」は、どこで行われたのだろう。いくら猫たちはわれわれ人間より小さいとは云え、立つ間もない樹林や竹薮の中では、とうてい盛大なダンスパーティなど開けなかったものと思われる。それに、こっそりと目撃した人間だって、そんな密に樹々の生えた林の中まで透視することなど出来ないはずである。しかも夜中にである。つまるところ、「猫の踊り」が行われた場所は、その当時から開けていたと考えざるを得ないのである。

ここまで考えが至ったとき、既に切り株に戻って日向ぼっこをしていた筆者は、どうやら自分が『郡誌』の記述を誤読していたことに気づいた。「今は此の山周囲を青年団の為めに伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に四・五の老椎を存するに過ぎず」と云う『郡誌』の言葉は、山の頂部を開墾したことを指していたのではなく、まさに「山周囲」を指していたのである。したがって、開墾後は、本当に山頂部に老椎が五六本残るばかりの見晴らしのよい山になったのだろう。「戦後」の農業人口の激減の中、斜面地の耕作や山林を維持する山仕事は廃れていき、返っていまのように樹々に覆われた山となってしまったのだろう。そのために、現在の姿にすっかり騙されて、開墾したのは山頂の削平地だとばかり思ってしまったのである。

しかし、ここで第二の疑問が湧いてきた。もしも、この山の頂きに城郭の一部を築いたのでないならば、なぜここの土地は平にならされていたのだろう、あるいは、なぜこの地に至る道が出来ていたのだろう、と。もちろん、これらの疑問に対する簡単な答えは、「甘露寺」の「奥の院」があったから、と云うものである。けれども、全国の「中世」城郭跡に、多く寺院が建てられている事実なども参照した場合、「甘露寺」の創建時期が、現在推定されている「江戸中期」と云う時期より、少なくとも二百年以上は古いと云う確証を得ない限り、山頂の平地は初めから「奥の院」を建てるために整備されたものだとは断定しにくいのである。そもそも、谷津をはさんで向こう側の「城廻山」にあった「大桶城」は、「戦国以前」の城館跡なのではないかと考えられていることも考え合わせると、寺はよほど古くない限り、城に先立つのは難しいことになる。

「寺」がなくなった後も、「寺」の跡地に「寺山」などの地名が残ったりすることはよくある。同じことが、「城」や「館」などにも云え、「城内」「城下」「曲輪台」「館ノ内」「根小屋」などの「字 あざ 」が各地に残されている。

いまここに「城跡」と云う字が残されているとすると、かつてここに「城」があったと仮定するのが筋の通った話である。これをまるまる否定するのは難しい。「土塁」や「切岸」などの加工のはっきりした跡が見つからないと云う程度のことで、『市原の城』の「小高」氏のように城の存在を否定するのは、やや性急だと云える。少なくとも、山頂部に削平地が続き、南北に走る堀切状の構造物の東西で高さが違っているなどの、「城」の存在を示唆する傍証の方が、一応は多いのである。そこへ「城跡山」の山名や「城跡」の字まであるとなると、やはり「城」の存在を仮定することの方が自然だと思う。

地元に、この山を城跡だとする根強い伝承がある訳でもなく、そのような昔話が伝わる訳でもない。山の名前が「城跡山」で、「奥の院」のある土地の小字が「城跡」だと知っている住民などほとんどいないほどである。かつての住民たちにも、どうやらこの地を敢えて城跡だと言い張らなければならない理由もなかったようであるのだから、最も合理的で単純な解答は、過去のある時点で、この山には城があったと考えることだろう。

それに、もし寺が先にあって、その後に城が出来て、さらにその後に城がなくなって寺だけが残ったとしても、地名は「城跡」にはならないだろう。ましてや、「小高」氏が云うように、もしも最初から城がなかったとしたなら、いよいよ以て、なぜ地名が「城跡」になったのかの説明がつかない。

*

あれこれ考えていたら、全身から吹き出していた汗もおさまり、下山する気分になってきた。荷物を再び首から背中に掛けて提げ、来た道を戻ることにした。

やはり、上りに比べると下りは数倍楽だった。確かに、既に笑いを挙げている太腿の筋肉は、ともするとみずからの責任を放棄して肉体を重力の法則に任せようとしたが、それでも重心を後ろに置いて、体を斜めにし、ゆっくりと歩を刻めば、意外と楽に帰路の行程は消費されていった。

石段を降り切って、土の道の曲がり角に至ると、眼下に「大桶」の集落が見渡せた。すぐ下には「甘露寺」の「本堂」が見えるし、建物群の向こうには青田が鮮やかに映えていた。ここからさきは、地元の人に出会うかも知れないので、首を吊ったような荷物の提げ方を正して、いったんシャツは着直してから、麓の集落へと降りていった。

車で待機していた妻が待ちくたびれていたのは、云うまでもない。


「甘露寺」の地図は、こちら


「軍荼利四天堂」は、こちら

いつも使っている「マップファン」では、「軍荼利四天堂」が表示されないため、今回は「いつもNAVI」を使用しました。



参考文献
・千葉県市原郡教育会 (1916) 『市原郡誌』千葉県市原郡役所
・市原市教育委員会/編 (1979) 『市原市史・別巻』市原市
・平井聖 (1980) 『日本城郭大系 6 千葉・神奈川編』 新人物往来社
・森田保/編 (1992) 『千葉県の不思議事典』新人物往来社
・小高春雄/編 (1999) 『市原の城』自刊
・上田正昭ら/編 (2001) 『日本人名大辞典』講談社
・『千葉日報』電子版、平成二十二年 (2010) 二月五日[県南エリア]
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