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千葉県の猫神・長南伊勢屋の猫

.26 2010 関東地方 comment(2) trackback(0)
大桶の猫山 (3)  附・芝原人形の猫

いせや

星野薬局

長生郡長南町長南 2574
0475-46-0006



1. はじめに


既に前々回、および前回の記事で、「大桶の猫山」そのものと、その伝えに登場する一方の猫、「相川の猫」について記してきた。したがって、今回は、残された登場猫「長南・伊勢屋の猫」について触れるばかりであると同時に、これで「大桶の猫山」シリーズは完結することになる。

ただし、先に断っておくが、今回の記事はいよいよ猫について書くことがない。伝説中の猫たちに関しては、前回までの記事で書き尽くしてまい、今回は「伊勢屋」の存否を辿り、その歴史を訪ねることしか出来ないからである。紙面の大部分は、むしろ、「長南伊勢屋」の誕生と関連する「松平忠充改易事件」に費やされると思う。興味のない方は、今回は、まるまる飛ばしてしまうことをお勧めする。悪しからず、御了承されたい。

あっ、追記のページに「芝原人形」の「猫」について、簡単に紹介しています。

*

かつての「長南宿」、現在の「長南町長南」に至るには、国道409号・房総横断道路の「長南」の信号を南へと曲がって県道147号・長柄大多喜線に入ればよい。「市原」方面から向かっていくと、左に廃墟と化しつつある「としまや」の閉店した店舗があり、右手には「セブンイレブン」の広い駐車場がある。ここの信号が東から来るとかなりの鋭角になるため、地元の人は手前のこの駐車場を横切っていく人が多い、と云うことは帰りになって気づいた。とにかく、県道147号に入ってしまえば、後は、道なりに進むだけである。

「千葉県」のほぼ中央に位置する「長南町」は、「三途川」と云うあまり縁起の良くなさそうな川の北岸に発達した、古い町である。「戦国時代」には、小さいながら、「長南 (庁南) 武田氏」の居城の南側に発達した城下町として栄えた歴史があり、「江戸期」を通しても、「江戸」と「大多喜・勝浦」方面を結ぶ房総中往還の宿場町「長南宿」として栄え、この地域の交通の要衝としての地位は保持しつづけた町である。「明治初期」には、この町にある「白鳥山・浄徳寺 (臨済宗妙心寺派) 」に、地方行政の中心となる「安房上総知県事役所」が置かれていたこともあって、「上総の名邑」と謳われたほどであった。いまも、古くから発達した宿場の名残を随所に見せる街並を残している。筆者が向かうのは、そんな旧「長南宿」の中心部である。

目印の黄色い「ぜんそく薬」の看板

県道の「長南小学校入口」の信号を過ぎた直後、道の左側に古風な日本建築の建物が見えてくるが、こちらがわれらの目指す「いせや星野薬局」である。黄色に赤文字で「ぜんそく薬」と抜かれた背の高い看板を目印にするとよいかもしれない。現在の「長南」の町にあっても、群を抜く歴史と荘厳さを誇る建物である。

通りに面した黒塗りの建物は、「瓦葺切妻妻入」の「土蔵造」二棟からなっており、現在も店舗・調剤室として活躍している。建物の方は、文化二年 (1805) 、荘厳な門と板塀は慶応二年 (1866) に建てられたもので、どちらも国の「登録有形文化財」指定を受けている。何はともあれ、かつての「長南宿」のほぼ中心に位置しているのは、伊達ではない。



2. 「いせや星野薬局」は、「長南伊勢屋の猫」の「伊勢屋」か?

「江戸初期」の「お江戸」には、俗に「 (江戸に多きもの) 伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と云う流行言葉があったそうで、とにかく他所から初めて「江戸」に来ると、「伊勢屋」と云う屋号の商店と、「稲荷社」、そして「犬の糞」の数の多さに驚いたものだと云う。

犬は家庭型の家畜であってみれば、当然、人口の密集する大都市の方がその数は増える。「犬の糞」が多かったのは、別に「江戸初期」に限らなかったようで、「幕末」の万延元年 (1860) に「和歌山」から「江戸」にやってきた「紀州藩士・酒井伴四郎」も、初の「江戸」見物で早速その洗礼を浴びていることを、彼の日記の「六月廿五日」の項に、「叔父様・予・為吉同道ニて、赤羽根之有馬之屋敷見物、薩摩ノ屋敷見物、其所予犬之くそふむ」と書き残している (江戸東京博物館都市歴史研究室/編 (2010) 『酒井伴四郎日記―影印と翻刻―』江戸東京博物館) 。

識者によっては、この「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と云う地口は「元禄期」に生まれたもので、「五代将軍・綱吉」の「生類憐れみの令」の影響で「江戸中」に犬が増え過ぎて、町中、足の踏み場もないほどに犬の糞だらけになったことも揶揄していると云うが、これは穿ち過ぎだろう。「生類憐れみの令」は、単に犬を殺してはならぬと定めたのではなく、最終的には、どの犬もその町内や長屋できちんと世話するよう義務づけたことが、町人たちの反感を買った最大の理由なのである。犬の糞を路傍に放置などしておいたら、それこそ罪に問われたのである。さらには、変に犬がうろついていると厄介ごとの種だから、新しく迷い込んできた犬や、新たに生まれた犬の子などは新規に登録などせず、夜、闇に紛れて始末したとさえ云われ、一時、「生類憐れみの令」が出される前より、「江戸」の犬の数は減ったとも云われるのである (もっとも、この話とてさしたる根拠はないのだが...) 。

それに、「犬の糞」と云う表現自体が、特定の歴史的背景を担ったものではなく、単に「どこにでもあり過ぎて見向きされないようなもの」の譬えだと云う見方もある。現に、いまでも「いとこ (はとこ) より遠きは犬の糞」のような言葉も地方によっては残っており (筆者は千葉県安房郡鋸南町で採取) 、いちいち気にしていられないほどに数が多い、と云うことの譬えであるのは明白である。

さて、話を元に戻そう。
ここで云いたかったのは、「伊勢屋」と云う名前の店が「江戸」では非常に多かったこと、それだけである。しかし、それが地方の小都市に移っていくと、必ずしも事情が同じだったとは云えないのは当たり前。偶然の一致と云うものは、その母数の増加に連れて出現の回数が増えていくものだから、人口が少なくなれば必然的にそのような一致の回数も減っていくものである。ただ、わが「千葉県」の小都市は、いずれも「江戸」の影響か、「伊勢商人」の移住は多かったようで、「内房地方」の各地に残る「熊野神社」の数の多さなどは、その名残だとも云う。「伊勢屋」も、そう云った意味では、他の地方よりは多かったかも知れぬ。

それにしてもである。当時の百万都市「江戸」と「長南宿」では、人口にして六百倍程度の差はあっただろうから (下の統計を見れば分かるように、実際には七百倍に近かった) 、少なくとも、「江戸」にある「伊勢屋」数百軒に対して一軒くらいの割合でしか「長南」にはなかったと考えられる。実際には「江戸」の「伊勢屋」の数など知れないのだから、こんなこと計算しても無意味なのだが、本当のところ六百軒は絶対になかったと思われる。

「元禄期」の「江戸」の町人街は七平方キロメートルくらいだったとされるのだが、このうち実際に大商店が並んでいたのはその十分の一ほどの面積であろうから、もしも「伊勢屋」が六百軒あったとしたら、商業地一平方キロメートル当たり約八百五十八軒もの「伊勢屋」があったことになる。これだと今風に云えば、ちょっとした駅前商店街には必ず「伊勢屋」が八・四軒以上あると云う計算になる。筆者が、なぜ六百軒はなかった、と云うかお分かり頂けるだろうか。

「大桶の猫山」の話には、「長南伊勢屋の猫」と云うのが登場する。文化年間と推定されるこの時代の「長南宿」に果たして何軒の「伊勢屋」が存在したかの正確な資料は手許にないが、寛政五年 (1793) の『矢貫村萬事書物控帳』 (今関勘四郎家文書) には、「長南」は「矢貫村」全体を合わせて約二百七十軒と云う。明治十八年から十九年にかけて刊行された「小沢治郎左衛門」の『上総国町村誌』には、戸数・三百四十五軒、人口・千九百一人と記されているから、この割合を単純に利用すると、「寛政期」の「長南宿」の人口は大体、千五百人程度だったと考えられる。この数だと、仮に「伊勢屋」があったとしてもせいぜい一軒程度、と云うのは決して乱暴な推測とは云えないのである。

そこで、取り敢えずこの時期に「長南宿」に「伊勢屋」が存在していたかを調べてみると、都合の良いことにすぐに一軒見つかるのである。何故なら、この店はいまも続いていて、その建物の一部は、国の文化財にも指定されているからである。その店とは「いせや星野薬局」である。

*

昭和五十四年 (1979) 発行の『市原市史・別巻』では、「大桶の猫山」伝説を紹介するに当たって、ほとんど前提として、「いせや星野薬局」を「長南伊勢屋の猫」の「伊勢屋」だとして話を進めているほどだから、実際には後発の筆者としては特に検証する必要はなかったのだが、間抜けなことにそんなことも知らなかったため、本項でひと踏ん張りしてしまった次第である。すなわち、実際には「江戸期」の「長南宿」に何軒の「伊勢屋」があろうと、「大桶の猫山の伝説」の「伊勢屋」は、既に特定されていたのである。骨折り損の草臥れ儲け、大山鳴動して鼠ゼロ匹と云った観である。



3. 「いせや星野薬局」について


この「いせや星野薬局」のホームページに掲げられた家伝によると、先祖が「房総」の地を目指したのは次のような事情によるらしい。

伊勢国長島の藩主松忠充の没落により、御典医見習であった増井道益は遠く上総国市原郡月崎村に隠遁している医道の師を訪ねるため、祖先墳墓の地長島を旅立ったのが、元禄二年三月のこと

ここで、「松忠充」とは「松平忠充」であることはただの誤植として置くとして、「松平忠充」の没落と云う表現と、元禄二年 (1689) 三月と云う時期が気になる。「松平忠充」が狂気による乱行を理由に改易に処されたのは、元禄十五年 (1702) 八月二十一日であるから、実際には「増井道益」は「伊勢長島藩」の没落を目撃している訳ではない。そして、「道益」がそもそも、藩の改易によって地位を失ったのではないならば、なぜ彼は高い地位と故郷を捨てねばならなかったのか、疑問は百出する。「道益」の一代記などが残っていれば、一級の史料であるばかりでなく、きっと興味深い読み物になったことだろうと思われる。

元々、「家康」の同母異父弟の家に当たる「伊勢長島」の「松平家 (久松松平氏) 」は、そもそも、「忠充」の祖父「忠良」が既に悪政の咎で「下総関宿」から「美濃大垣」に移され、「忠充」の父「康尚」の代に「伊勢長島」に移ってからも、善政を施いていたとは云いにくく、治水事業の軽視や時宜を得ない重課税などで人心を失って、一揆を誘発し、「幕府」の叱責を受けると共に、多くの有意の人士を領内から流出させている家柄ではあった。「松尾芭蕉」の『奥の細道』の旅に同行したことで知られる「河合曾良」が「伊勢長島藩」を致仕したのも、「忠充」の父の治世の晩年であった。

「康尚」は、貞享二年 (1685) 十月七日、病気を理由に隠居し、家督を「忠充」に譲ったが、「康尚」の存命中は、それでも「忠充」の行状はいくらか安定していたと云われる。しかし、家督後二年、貞享四年 (1687) 十月には些細なことから家臣三人を追放するなど、早くも将来を暗示するような事件も起こしている。

「いせや星野薬局」の先祖「増井道益」が「伊勢長島藩」をどのような事情で退くことになったかは、いまとなっては分からないが、その退藩は家臣追放事件の二年後でもあり、既に「忠充」の暗君ぶりは隠しようがなくなってきていた時期と思われる。「医師」や「茶坊主」などは、例外的に主君の近くに仕え、親しく触れ合う機会が多いだけに、異例の出世を遂げたり、思わぬ権勢を振るったりすることもある半面、気分の変わりやすい暗愚の主君に仕えていると、命の危機にも曝されやすい。「道益」が故郷を去った理由は、案外こんなことだったのではないだろうか。

「月崎」に向かった「道益」は、結果としては「長南宿」へ永住し、医院兼薬屋を開業することになったと云うのである。「伊勢長島藩」と末路を共にしなかっただけでも、先見の明があったと云えるのだが、以降、「長南」を代表する名家の基を築いたのだから、なおさらである。そして、「道益」が新天地に開いた店につけた屋号が、自らの出身地の名を冠した「伊勢屋」であった。以来、代々「伊勢屋伊兵衛」を名乗り、家業を継承して、現在に至るまで三百有余年、現在の当主は第十三代目に当たるそうである。

*


先日、実際に「いせや星野薬局」を訪ねる機会を得たのだが、残念ながら、「大桶の猫山」の伝説は、『市原郡誌』に書かれている以上には伝わっていないようであった。次代の若旦那は、伝説そのものが初耳だったようで、若旦那の御母堂に関しても「父にそのような話を聞いたことがある」と云う程度であった。しかも、彼女の子供の頃は、猫も飼っていたそうだが、現在は飼っていないと云うことであった。当主の名前「伊兵衛」に関しても、昔はそうだったけれど、いまは適当につけているのよ、と至ってさばさばと話して下さった洗練された気風のよい口調と雰囲気が、収穫の少なかった「長南」行きを、何だか清々しいものに感じさせてくれたから不思議である。

ちなみに、建物屋敷は、それは見事なものでした...。
それにしても、いま薬局に隣接する美容院と寿司屋も、土地は元々「伊勢屋』のものだったと云うのだから、地所だけでも広大だったのだろう。



4. 「松平忠充」改易事件

まったくの「余談」だが、「白戸三平」の劇画、『カムイ外伝』第三部「変身の色」第二話「人狩り」に、「前岩津藩主・森磐山 (忠成) 」と云う悪辣な人物が登場する。筆者の知る限り、架空の人物である。そもそも、実在の人物が、いくら御乱行とは云え、あんなに無軌道で破廉恥なことをするはずがない、と昔は素直に考えていた。しかし、そんな考えも、長じてより深く改易大名の不行跡などを調べるようになって、根本的に覆ってしまった。そして、こちらは純粋に「予断」なのだが、この「森忠成」なる人物のモデルになっているのは、実は前項に登場した「松平忠充」ではないかと、いつの頃からか秘かに思うようになったのである。

作中の「森忠成」は自身、武芸を好み、若くして「関ヶ原」「大阪の陣」で武勲を挙げた「戦国」の生き残りで、隠居後も「犬追物」などに嵩じて無聊を託つ日々を過ごしていたが、生来の傲岸不遜さから、やがてより強い刺激を求めて、士官を餌に武芸者を募ったり、単に浪人者や無宿人を拉致したりして、互いに野試合をさせたりした挙げ句、武器をとり上げ、命乞いの代償に様々な恥態を要求した後、彼らを獲物とする「人追物」と云う残虐かつ淫糜な「マン・ハント (人間狩り) 」遊戯を開始する。話中では、敵討ちの若い姉弟が本懐を遂げるのを援助してやる代わりに礼を強いて、二人を裸にひんむいて様々な恥ずかしい行為を要求した末に、弟に姉を肛門姦させたり、かなり無茶苦茶な人物として描かれている。

* ちなみに、筆者の読んだ『カムイ外伝』は、オリジナル板の「ビッグコミックス」シリーズの第八巻だったが、現在は色々な外装で繰り返し新版が出されているため、出典に関しては、変に混乱を引き起こしても困るので、詳しく書くのは控えることとする。

『カムイ外伝』を初めて読んだ頃は、これは「白戸三平」の完全な創作の結果で、連載の媒体が成年誌に移ったことで、ちょっと行き過ぎた表現に走ってしまったのかと思っていたが (筆者は当時中学生) 、後に、「松平忠充」の乱行を知るに至って、認識を改めることとなったのは、既に述べた。歴史上の人物「松平忠充」と架空の人物「森忠成」の間には、もちろんかなりの相違点もあるが、両者に共通する強烈な性欲と支配欲、そしてそこから引き起こされる殺人の欲求と肛門姦への強いこだわりなどは、偶然を越えて両者の間にモデルにしたと云う関係があるのではないかと、筆者が疑うに十分な特徴を備えているのである。

「松平忠充」の歴史的な人物像に関しては、作者未詳ながら、「元禄」頃までの大名家の名聞・評判などを書き連ねた貴重な同時代史料である『土芥寇讎記 どかいこうしゅうき 』に、断片的ではあるが、以下のように記されている。

「智に似たる愚将」
「身上恰合に過、家人の仕い様、位高過ぎて、士卒迷惑す。忠充通る時は、家士ども頭を地に付、手を突、平伏
し、主人を見ず。若し少しも頭高ければ、稠しく呵を得、或は閉門逼塞す」
「女色・美少人両様を好み愛す」
「行義強く、人使い宜しからず」
「僅一万石の身上にて、頭を地に付さする事、不相応なり」

未詳『土芥寇讎記』第三十九巻、元禄三年頃 (c. 1690)
金井圓/校 (1967) 『土芥寇讎記』江戸史料叢書、人物往来社、所収

さて、実際の「松平忠充」の乱行について、「岩波文庫」の『元禄世間咄風聞集』に基づいて、概略を次に紹介する。解釈・要約は、筆者による。

「忠充」は、日頃から女色・男色の双方にふけり、酒宴に溺れる毎日を過ごしていた。側室は四十人以上、特にお気に入りの側女だけでも八人はいた。しかし、近侍する小坊主やお気に入りの女たちが、粗相でもすると、「小石川御堀端」にあった特製の牢屋へその者たちを連れていき、監禁したり、あるいは小刀攻めなどにした。

「御留守居役」の「朱雀平助」があまりの乱行に諫言すると、「近比尤成儀 ちかごろもっともなるぎ を申上候」とその場は鷹揚に引き下がったが、その後十五日間「平助」が御目見えに現れないのを受けて、「忠充」は、「側用人」の「大岡九左衛門」を召して、「平助」は近頃主君に対して不遜であるゆえ閉門を申し付けよと命じた。呼び出された「平助」は、仰せであればやむを得ないが、御目見えに伺えなかったのは、殿から何処そこの水道普請を仰せ付けられたため、朝は未明に現場に出勤し、夜に入ってから帰ってきていたからで、ひとえに公儀大事に思えばこそであり、不遜な気持ちからではないと申し開きをした。

これを聞いた「九左衛門」が、何の無調法もないようなので御許しになられるようにと言上すると、「忠充」は、「九左衛門」にも閉門を申し付けた。その後、「忠充」は「家老」の「藤田八郎左衛門」を召して、二人に切腹を命ずるよう申し付けた。「八郎左衛門」は、再三に渡って罪もない者に切腹を命ずるのは思いとどまるように申上げたが、「忠充」が聞かななったため、罪の証明のない切腹命令の伝達は出来ないと告げるに至って、「忠充」は「八郎左衛門」にも即日切腹を申し付けた。「八郎左衛門」は切腹し、二人はそれに続いた。

ことはこれだけで済まず、「九左衛門」の六歳と四歳の子供は刺殺刑に処され、「平助」の十七歳と十四歳の子は切腹させられた。「八郎左衛門」の子は、不在であったため、討手がかけられた。

事ここに及んで、遺族の訴えを受けた一門中は、「忠充」を捕らえ、大小の刀を取りあげて座敷牢に押込め、幕府の裁可を仰いだのである。その結果、「忠充」は罪有りと断ぜられ、領地は没収、藩は改易となった。「八郎左衛門」の子にかけられた討手は呼び戻された。

参照・長谷川強/校 (1994) 『元禄世間咄風聞集』岩波文庫、pp. 245-250

ただし、四男「康顕」に五千石、五男「尚慶」に千石が下賜されて家名存続が許され、後に「尚慶」が早世した「康顕」の跡を継ぎ、子孫は六千石の旗本として存続したと云うのだから、随分な厚遇を受けた感は否めない。既に見たように、「忠充」の「久松松平氏」は、「家康」の生母とつながる名門であったため、格別の計らいを得たのである。しかし、別の見方をすれば、切腹事件が八月十五日で、幕府の採決が下ったのが八月の二十一日だったと云うのだから、相当なスピード解決だったと云える。一見、薮から棒に見えた重臣三人の切腹事件も、「忠充」の数十年に渡る不行跡は、「久松松平氏」と云う家柄を持ってしても揉み消せないほどに、世間でも評判になっていたのだろう。

しかし、罪を犯した張本人とその子孫の扱いに比べ、「忠充」の乱行につき合わされた稚小姓たちの命運は苛烈かつ悲惨だった。

佐渡守様御側に召遣はれ候ふ十二、三・十四、五才に罷り成り候ふ子共、無調法なる子共これあり候ふ節は、其の咎に鉄火箸を赤く焼き候ひて、尻に御突き込まれ候ふ事、多くこれあり候由、沙汰御座候ふ。

(読み下し文・筆者)
長谷川強/校 (1994) 『元禄世間咄風聞集』岩波文庫、p. 250

上記文の「無調法なる子共これあり候ふ節」と云うのは婉曲語法で、遠回しに男色の関係、すなわち肛門性交の関係にあったと云うことを示唆している。それにしても、藩主の趣味で男色の相手に選ばれつつ (もちろん自ら媚を売った者もいたにせよ) 、藩主その人の軽い処罰に対して、稚小姓たちの刑罰は、「目には目を」式と云えど凄まじい。徒らに権力のおこぼれに預かった者の末路とも云うべきか。それにしても...。

蛇足だが、時折、この改易事件を扱った文章に、「忠充」は、切腹・処刑した重臣らの遺族に訴えられて公儀の裁可を受けたかのように書かれたものがあるけれども、これは正確ではない。「幕府」に訴え出たのは、「松平氏」の親族・一門であり、俗に云う「親族会議」の末、これ以上放っておくと、累が自分達に及ぶ可能性があると判断したのだろう。作者未詳の『元禄宝永珍話』と云う書物の巻二に「右佐渡守儀失心して、親族共議せず、家老用人留守居役父子共、是を殺害に及び候旨、親族より訴るに依て、吟味を遂げられ候処、不届に思し召され、これにより領地これを召上げられる」と云う下りがあり、ここの「親族」と云う言葉が、直前からのつながりで、切腹・刑死したものの「親族」と受け取られ、やがて「遺族」と誤伝されたのかも知れない (森銑三/監『続日本随筆大成 別巻・風俗見聞集五』吉川弘文館、1982、pp. 203-206) 。



5. おわりに

皮肉と云うほどではないが、「忠充」が預けられ、その子孫が交代寄合格の旗本として領した土地と云うのは、「下総国飯笹」だったと云うことである。現在の行政区分で云えば、「香取郡多古町飯笹」である。「忠充」は、「久松松平氏」の嫡流 (康元系) に当たるが、傍流 (勝俊系) に「多古一万二千石」の「松平氏」がいたため、その隣接地が宛てがわれたのだろう。親族の藩に監視させると云う意味もあったと思う。

近い、と云うほどではないが、「長南」にいた「増井道益」の耳には、「飯笹」の「忠充」の噂くらいは入ってきたことだろう。あるいは、本人自身、旧主の動向を気にかけていたかも知れない。いずれにせよ、「忠充」の風聞などを耳にしたとき、「道益」は、はたして、どのような感想を抱いたものだろうか。


「いせや星野薬局」の地図は、こちら


追記には、「芝原人形の猫」の紹介を少しだけしています。よかったら、覗いてみて下さい。


参考文献

・作者未詳『元禄宝永珍話』元禄年間
    森銑三ら/監 (1982) 『続日本随筆大成 別巻五・風俗見聞集』吉川弘文館、所収
・作者未詳 (c. 1690) 『土芥寇讎記』第三十九巻、元禄三年頃
    金井圓/校 (1967) 『土芥寇讎記』江戸史料叢書、人物往来社、所収
・長谷川強/校 (1994) 『元禄世間咄風聞集』岩波文庫
・小沢治郎左衛門 (1885-1886) 『上総国町村誌』、復刻版・名著出版、1978
・県立房総のむら (1904) 『長南町長南の歴史と民俗』自刊
・江戸東京博物館都市歴史研究室/編 (2010) 『酒井伴四郎日記―影印と翻刻―』江戸東京博物館



追記 : 芝原人形の猫

せっかく「長南町」まで読者を引っ張ってきて、猫の話一つなしに、空手で返って頂くのは、いかにも恐縮かつ不調法なので、ここで「長南町」が生んだ郷土玩具「芝原人形」の「猫」の話を少しだけしておきたい。

「芝原人形」と云うのは、「長生郡」を中心とした「上総地方」では「石っころびな」と呼ばれ、かつては雛まつりには必ず飾られた郷土人形である。その他にも五月五日の「武者人形」や「招猫・福助・えびす大黒・天神」など様々な縁起物が知られていたと云う。

「江戸浅草」の「今戸人形」の流れを汲む、雅な極彩色の土人形で、土鈴ではないのだが、振ると人形の中に入れた粘土玉がカラカラと鳴り、素朴な温かみをより深くする玩具である。


茂原市立美術館・郷土資料館主催「芝原人形 開窯135周年」展
平成十九年 (2007) 時の冊子の表紙

この「土人形」は、長らく「千葉県」を代表する「民芸品」として知られてきたもので、明治五年 (1872) 頃、「長南町芝原 しばら 」の「田中錦 (金) 造」により創始されたが、当初は農閑期に制作される副業に過ぎなかったと云う。「錦造」は号を「錦山」と云い、軍学和算に長けた儒学者でもあったと云う不思議な肩書きの持主で、近郷の子弟に漢学を教授していたと云う。測量術にも優れ、「地租改正」に際して完成された「芝原」付近の測量図が残されているそうである。

「芝原人形」の誕生に関しても、元々は、「金造」が、「敬神宗祖の念から地元で取れた粘土で内裏雛をつくり、神仏とともに礼拝したのが最初」 (千葉県工業試験場生活工芸課『千葉県の伝統工芸品』自刊、1990、p. 160) と伝えられている。瓦屋から型抜き技法を学び、原型制作をするかたわら、型抜きを行なって「芝原人形」が生まれたそうである。一説では、旧「海上郡飯岡町」の「飯岡土人形 (現在は廃絶) 」の作り手から学んだとも云うが、定かではない。

その後、二代目「春吾」 (金造の長男) 、そして三代目「謙治」 (金造の次男) と、「田中家」三代に渡って引き継がれて制作された。三代目の「謙治」氏は、十歳の頃から父親を手伝い、大正五年 (1916) に分家独立し、生涯一貫して土人形作りを行なった。昭和三十年 (1955) 十二月には、「千葉県指定無形文化財」に指定されたが、後継者問題から、晩年には自分の代で「芝原人形」の廃絶を宣言していた。

この後継者問題と云うのは、どうも単に跡継ぎがいなかったと云うだけの話ではないようなのだが、筆者如きがその内幕を知る由もない。ただ、三代目の「田中謙次」と近かった民俗研究家の「石井車偶庵 (丑之助) 」は、その著に次のように記している。

田中翁の意志とは無縁の後継者問題がおこったため、いちじるしく製作意欲をそこなってしまうことになる。このことが温厚篤実な田中翁の心に、苦い思いをおしかぶせる結果となった。

そこで、田中翁は、自分の代で芝原人形の廃絶を宣言され、亡くなられるまでの五年間は製作を断ってしまった。

石井車偶庵・相場野歩 (1976) 『房総の郷土玩具』土筆社、p. 30


そして、昭和四十六年 (1971) 、その「田中謙次」氏が九十一歳で亡くなったことで、「千葉県」を代表する「土人形」であった「芝原人形」は一旦は廃絶している。その翌年の昭和四十七年 (1972) 九月には、制作用具のすべてが県の「民俗資料文化財」に指定され、すべては過去の遺産となったはずだった。

しかし、「芝原人形」の廃絶後も、郷土玩具の研究者や愛好家らの強い後押しがあり、昭和五十七年 (1983) に、前述の「石井車偶庵」 (当時、全国郷土玩具友の会・相談役) の肝煎で「田中家」の遺族 (謙次氏の娘・千恵さん) の承諾を得て、陶芸家の「千葉惣次」氏が四代目を継承し、「長生郡睦沢町佐貫」の地で「芝原人形」を復活させた。

その後、「千葉惣次」氏も工房を「長南町岩撫」の地に移し、現在に至っている。作風は従来の作品を忠実に再現すると云うもので、極薄く胡粉をかけた顔に牡丹色の丸型の隈取をして彩色し、着物模様には白い菊の花を描くなど、旧型の特徴をそのまま継承している。

「芝原人形」の特徴は、「明治」の風俗に題材を求めたものが多く、目の周りに牡丹色の隈取りがあることと云えるのだが、何故か「猫」の作品にはその薄紅色の縁取りがない。下に掲げた「川崎巨泉」の図画に見られるように、目の周りに薄紅色の隈取りは差されていないのである。


川崎巨泉 (c. 1941) 『玩具帖』四十七号二十九葉・千葉招猫、大阪府立中之島図書館蔵


「石井車偶庵・相場野歩」による『房総の郷土玩具』 (土筆社、1976) によると、「芝原人形」の「招き猫」には二種あるそうだが (同書、p. 33) 、筆者は、残念ながら横向きの招き猫しか見たことがない。ついでに云うならば、「鈴木常雄」の『郷土玩具図説 第七巻』 (村田書店、1988) や「千葉県立上総博物館」編による『日本の郷土人形』 (自刊、1991) には、「芝原人形」として、横向きの招猫と座り猫が載せられているので、筆者の見たことのない方は、この座り猫なのかもしれない。


 (左) 招猫               (右) 座り猫

ちなみに、この横向きの招猫こそが、「浅草」でかつて頒布された「今戸焼」の「丸〆猫」に直接つながる数少ない系譜の猫ではないかとされていて、その分だけ、郷土玩具愛好家・研究者たちから高い評価を与えられているのである。

芝原人形工房

長生郡長南町岩撫 40付近
0475-46-0850 (要予約)

「芝原人形工房」の地図は、この辺...

今回も、「いつもNAVI」を使いました。


参考文献
・川崎巨泉 (c. 1941) 『玩具帖』四十七号
・鈴木常雄 (1972) 「鯛車 猫」私家版
  鈴木常雄/著・桃井喜三郎/編 (1988) 『郷土玩具図説 第七巻』村田書店、所収
・石井車偶庵・相場野歩 (1976) 『房総の郷土玩具』土筆社
・千葉県工業試験場生活工芸課 (1990) 『千葉県の伝統工芸品』自刊
・千葉県立上総博物館 (1991) 『日本の郷土人形』自刊


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庭のねこ
立派な建物ですね。美しいなあ。
ここに住んでいた長南伊勢屋の猫も堂々としていたことでしょう。

それにしても、松平忠充は残酷です。
物語の中にとどまってはくれないのですね…。

2010.06.05 10:54
clubey
伊勢屋さんは、実は門の奥に、裏山を背景にして大きな邸宅も構えていました。
こっちは現代家屋だけど。うらやましいけど、旧家と云うのは、色々と維持したりするのも大変なんでしょうねぇ...。
2010.06.09 02:55

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