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千葉県の猫神・長谷寺の猫

.26 2010 関東地方 comment(2) trackback(0)
天台宗
大悲山・広徳院・長谷寺・観音堂
香取市米野井字長谷 948

杉林を通して「長谷寺・観音堂」を望む


1. はじめに

「長谷の観音堂」のある「米野井」の地に行くには、西から接近する人は是非、東総有料道路を使ってほしい。東関東自動車道の「大栄インターチェンジ」を降りて、国道51号線を「鹿島」方面へと少し進むと、東総有料道路への信号分岐が右に現れる。


しばらくは、茶の樹などの生け垣や畝を通過しつつ、無人の入口では小銭で二百円を支払って通過する。いまどきETCが使えないのも、不便だが、返って興がある。

この黄色い部分に手で小銭を入れる。

この有料道路は、この料金所と直後の「助沢インターチェンジ」以外は、すべて一般道と平面交差をするので、はっきり云って料金を払わずに利用する人が非常に多い。もちろん、払いたくても料金所がないから払いにくいと云う事情もあり、とにかく収益になっているのか心配な道路である。

「東総」地域は、かつて「利根川」の水運を中心として交易が発達した土地であるため、いまでも交通網が「利根川」に向かって南北には発達しているのだが、東西方向へと通じる道は極端に少ないのである。東総有料道路はそんな中で貴重な東西の幹線なので、利用者みんなで守っていきたいと、筆者は願っている。もう少し東へと延びてくれると使いやすい、などと云えば切りがない。利用者が少ないことをとって、その存在を疑問視する人々もいるらしいが、筆者にはまるで理解出来ない。利用者が少ないのは第一に多くのドライバーが料金所を回避しているからであり、第二に、そもそも利用者が少ないことをあげつらうなら、地方部に道路など造れない。

さて、旧「長谷寺」への道は、東総有料道路の「高萩パーキングエリア」を過ぎて一つ目の信号を左折して県道114号・八日市場山田線に入ってしまえばほぼ完了する。後は、そのままずっと道なりに進み、二つ目の信号を通過して、一・五キロほど過ぎた辺りで左側に「農協」の大きな貯蔵エレベーター施設やら、「富士デベロップメント」などが見えたら、その二百メートル先の左への路地を入ればよい。不思議なことだが、入口に「1」と描かれた木札が立てられているのが目印である。県道55号・佐原山田線で来た場合は、県道114号に入って二百メートルほどの右への同じ路地を入ると云うことになる。



2. 「長谷寺・観音堂」へ

「長谷寺・観音堂」へと向かう最後の路地まで説明したところで、云っておかねばならないことがある。それは、この路地に車で入るのは、絶対に避けよう、と云うこと。おそらくここは私道で、道幅も非常に狭く、車のすれ違いは難しい。当然、ここに乗り入れるのは地域住民の迷惑になること間違いない上、最後の坂道はかなりの傾斜のところで、半径の短いうねりがあるので、一般のセダンやバンタイプの車では通り切れるか不安があるため、かく云うのである。

出来れば、県道55号を二百メートルほど戻った「戸田神社」前のスペースに駐車することをお勧めする。ここの神社は、かなり大きな石鳥居が県道に面して建てられているので、難なく見つかるだろう。「戸田神社」への参拝を済ませ、お賽銭も納め、そのまま歩道のない県道を東へと辿る。左手は一面の農地で、右は緑の丘の麓に沿って人家が並ぶ。信号で右に曲がって、県道114号へと入る。

* 実は、この「戸田神社」の裏山の杣道の如き小径を越え行くと、100メートルほどで目指す「長谷寺」の真上の「子聖大権現」に到着するのだが、初探訪の人は、薮の中で遭難すること請け合いなので、素直に表から行きましょう。

県道114号に入って最初の右への路地を入ると、数軒の民家の間を抜けて、コンクリート敷きの坂が続いている。この集落を抜けた先で、道は右、左とうねりつつ、丘の中腹の平らな土地に出る。その先は、一段高い台地の上の疎らな杉林となっており、その左側には崩れかけた数段の石段が見える。その上には、「奉納 十一面観世音」と刻まれた石灯籠が立てられている。施主は「青木伝右衛門」、紀年銘は「文化二丑正月吉日」 (文化二年=1805) 。そこから杉木立の奥を覗くと、方々に石仏が散在し、右手奥には小さな方形の御堂があった。かつての「長谷寺」の忘れ形見の「観音堂」である。

この「長谷寺・観音堂」のある土地は、北西方向から東南へと延びる比高およそ三十メートルほどの舌状台地にあり、そのほぼ先端部の南側に位置している。先ほど登場した「戸田神社」は、この同じ台地の先端部の北側に鎮座しているのである。「中世」には、この先端部の尾根を削って、「千葉氏」系の「木内氏」の城館「八丁内城 (米野井館) 」があったと推測されている。この城館の「曲輪」部に当たるのが、台地尖端の鞍部なのである。「八丁内城」は、さらに古くは 「米野井館」と呼ばれ、「奈良時代」から「平安時代」にかけてこの地域の「国造」を世襲した「他田日奉部 おさだのひまつりべ 」の一族の館跡だとも考えられている。天平八年 (736) 創建と伝わる「戸田神社」は、この「他田日奉部」と関係する「久都伎直日奉真人 くづきのあたいひまつりのまひと 」が、「出雲国」の「杵築大社」を勧請したものと云う。したがって、主たる祭神は「大国主命」と云うことになろう。

参照・千葉県教育委員会/編 (1995) 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書 1』県教育委員会
寺本和/編 (2005) 『ふるさとのあゆみ 山田町の歴史と文化財』自刊、pp. 59-62



3. 「長谷寺・観音堂」探訪



「奈良時代」の天平九年 (737) に創建された「広徳院長谷寺跡」は、「徳星寺」の末寺で、「近世」までは残存していたが、残念ながら、現在はこの杉林の中の二間四方の「観音堂」ばかりとなってしまっている。堂内の「十一面観音菩薩像」は、「楠」の一木造りで、高さ約一・七〇メートル。伝説によれば、一本の「楠」の根元材から三体の観音像が彫られ、それぞれ三つの寺に祭られたものと云う。中央の「観音様」がここに伝わり、左右のものはそれぞれ「奈良」と「相模」に伝わったとされ、合わせて「日本三長谷」と云われたと云う。

「観音堂」の南側中段には、「西国三十三ヶ所観音霊場」の石祠がある。享保十八年 (1733) 、宝暦元年 (1751) 、明和二年 (1765) の三回にわたって寄進され、完成したようである。境内には、その他、石造りの「庚申塔」なども多く遺されている。一部、新しい地蔵像などもあったが、ほとんどが「安永、寛政、享保、元文」など、「江戸時代」中後期の石造物で、その数からも、ここの「観音様」が地元の人々にいかに大切に祭られてきたかが窺い知れた。

中でも、特に精巧な「庚申塔」は、側面には、「享保五 (1720) 庚子年 十月十七日 村中同行百八人」とあり、高さは約一・二七メートル、幅約三十九センチ、碑面上部に雲に乗った日月を配し、六臂の中で、左に宝輪と弓、右に槍と矢を持って合掌している。足下には、魁偉な「天の邪鬼」を踏み敷き、その下には「三猿」が象られている。この「庚申像」と、御堂の右裏に台座が埋もれて鎮座していた「不動明王像」などは、石造彫刻としても、白眉の出来映えであった。


(左) 「庚申塔」、 (右) 「不動明王碑」



4. 「長谷寺・観音堂」の「猫」伝説

ここの「長谷の観音堂」には、次のような猫を巡る伝説が残されている。

ののさんと猫


昔、「下総国・古愛井 こめのい 」の「長谷寺」に、踊り好きなののさん (坊さん) がおり、年の経た大猫の「たま」と住みつつ、いつも木魚を打っては踊っていた。この猫は、ののさんが寝る前に般若湯 (酒) を呑んでいると、自分もおねだりした。ののさんも喜んで般若湯をやるものだから、そのうち近所の猫たちまでが酒をねだりに、いっぱい寺に集まるようになった。

この頃、寺の近在に調子の良い馬鹿囃子 (後の佐原囃子) があったのだが、決まった踊りはまだなかった。そこへ、ある年の祭に、若衆が隣村と踊り競べをすることになり、ののさんが頼まれて、この囃子に踊りをつけることになった。ののさんは、般若湯を呑むのも忘れて、毎晩夢中で、振り付けの工夫をしたのだが、好きな踊りでも、新しい手を作るのは簡単ではなかった。村の若者たちにも急かされ、ののさんは困ってしまった。

そうとは知らぬ猫たちは、近頃さっぱり酒を振る舞われないので、寺の古猫にどうしたのか尋ねると、古猫は踊りのことを説明した。すると猫たちは、何事か相談を始め、夜になるとぞくぞくと寺に集まってきた。草臥れて寝転んでいたののさんは、猫たちの姿を見て、忘れていた般若湯を思い出し、猫たちと一緒に酔っぱらってしまった。久しぶりの酒に上機嫌の猫たちは、炉端を叩くもの、皿を叩くもの、鉄瓶まで叩くものもあり、やがてみんなで馬鹿囃子をおっぱじめた。

 ちゃんちゃか ちゃらすか
 すっちゃん ちゃん

そのうち古猫の「たま」が、ののさんの手拭をとって頬かぶりすると、ひょいと後ろ足で立って踊り出した。尻を振り振り、身をくねらせて、その恰好の可笑しいのなんの。ののさんも、つい釣りこまれて、「たま」の身振りを真似て、踊り出した。

 おやばか ちゃんりん
 すかれちゃ どんどん

そこへちょうど若衆世話人がやってきて、障子に映った猫の踊りを見るや、化け猫だと思って腰を抜かしてしまった。慌てて帰った世話人がみんなに話すと、みんなも恐いもの見たさに寺にぞろぞろやってきた。すると、障子にはやはり猫の影が、大きくなったり小さくなったり、馬鹿囃子に乗って踊っていた。しかし、始めは気味悪がっていた若衆たちの手足が、いつのまにやらむずむずと動き出し、気づくとみんな寺の中に踊り込んでしまった。

翌日、村では、猫が頬被りして、浴衣に草履はいて、ののさんに踊り教えたって評判になった。これを聞いたののさんは、踊りながら次のように唄ったと云うのが「ネコじゃ踊り」の始まり。

 ネコじゃ ネコじゃと おっしゃいますが
 ネコが じょじょはいて かっこはいで
 しぼりゆかたで くるものか
 ハァー おっちょこちょいのちょい
 もひとつおまけで ちょい

踊り競べの祭のときも、町からお師匠さんを頼んで稽古してもらった隣村の若衆の素晴らしい躍りよりも、ちっとも上手でもない「ネコじゃ踊り」に人気が集まり、勝ちをさらってしまった。やがて、「ネコじゃ踊り」は、「利根川」に運ばれて遠く「江戸」まで流行ったと云う。

「長谷寺」は後に火災で焼け、「観音様」も「楠」の木目が分からぬほどに焼けただれたが、その姿のまま、建て替えられた御堂に、今も祭られている。

参照・日本児童文学者協会 (1980) 『千葉県の民話』偕成社、pp.160-167


「猫じゃ猫じゃ」と云うのは、文政十一年 (1814) 頃から「江戸」で流行った唄で、明治初年 (1868) に替え歌が沢山出来、その後の花柳界では座敷唄として大いに唄われた。筆者自身は、子供の頃、父のレコードのコレクションの中にあった「越路吹雪」の歌うややジャズ調に編曲した「猫じゃ猫じゃ」を聞いたのが、この端唄の聞き初めだったかも知れない。確か、「コーちゃんのお座敷うた」と云うジャケット・タイトルだったと思う。これも後で調べてみたら、筆者の生まれるかなり前、昭和三十七年 (1962) にリリースされたLPだった (LPと云っても分からない世代が増えたのかなぁ) 。さらに後年、昭和四十二年 (1967) に「ビクター出版株式会社」から出された『市丸端唄名作集』に付属していたフォノ・シートで、「市丸」の歌う「猫じゃ」を聞いたのが、この端唄を邦楽調の節回しで聞いた最初だったかも知れぬ。

ちなみに、「猫じゃ」の歌詞には、たくさんのバリエーションがある中で、よく聞かれるのは下に挙げる四つくらいか。中でも、最初と最後の歌詞が有名である。「安野モヨコ」の原作漫画を映画化した『さくらん』では、永遠と一番の歌詞だけが流されていたが、あれはちょっと...。

猫じゃ猫じゃとおしゃますが
猫が、猫が下駄はいて
絞り浴衣で来るものか
オッチョコチョイノチョイ  (オッチョコチョイノチョイ)

蝶々蜻蛉や きりぎりす 
山で 山でさえずるのは
松虫 鈴虫 くつわ虫
オッチョコチョイノチョイ  (オッチョコチョイノチョイ)

竹に雀は仲良いけれど 切れりゃ 
切れりゃ仇の 切れりゃ仇の 餌差し竿
オッチョコチョイノチョイ  (オッチョコチョイノチョイ)

下戸じゃ下戸じゃとおしゃますが
下戸が、下戸が一升樽かついで
前後も知らずに酔うものか
オッチョコチョイノチョイ  (オッチョコチョイノチョイ)

最も知られた一番の歌詞でさえも、「おしゃますが」が「おっしゃいますが」になっていたり、「下駄」が「足駄」に、「絞りの浴衣で」が「杖ついて」に変わっていたりするバージョンもあったようである。「オッチョコチョイノチョイ」の前後にも、歌い手がそれぞれ独自の間の手を工夫して入れることが多かったとも云う。

その一番の歌詞の内容と云うのは、お妾さんの浮気が旦那にバレそうになっている場面を表していて、旦那が突然、妾宅にやってきたため、どたばたしながら隠した間男を、お妾さんが「猫じゃ猫じゃ」とだまそうとしている趣向だと云われる。しかし、ここの「猫」は「遊女・芸者」を表していて、別の意味があると云う異説もある。いずれにしても、お寺の「ののさん」が唄う歌詞としては、やや問題含みである。

「米野井」の「長谷寺」から「猫じゃ」が全国に広がったと考えるのは、史実としてどの程度信憑性があるものかは疑わしいが、「佐原囃子」と云う節が現在も古い形のまま残っているならば、はたしてどの程度「猫じゃ」の節回しに似ているのかくらいは、聞き比べてみたいものである。

何にせよ、「猫じゃ」の唄は、その初流行からおよそ二百五年、いまもその節に聞き覚えがある人口を涵養している、我が国で一番長く売れつづけている流行歌だと云えるのである。



5. おわりに


ついでながら、「観音堂」に隣接する神社についても、簡単に記述しておこう。「観音堂」の右手には、鳥居が立てられ、そこから辿ってゆく裏手の崖の上には、重厚な「子聖大権現」の額を掲げる社があった。絢爛かつ精細な「木鼻」彫刻の「獅子」が、かつての信仰の隆盛を無言に語っていた。現在も、その信仰は連綿と受け継がれているようで、御堂の扉には古い奉納物の上から、新しい履物が多く奉納されていた。

この「子聖大権現」の北側にある「戸田神社」は、十二年に一度の「子」の年に、「神幸祭」を執り行い、「小見川町阿玉川区」の「利根川」の岸辺まで巡幸する祭典で知られている。ここの「子聖大権現」の「社殿」は、この「神幸祭」と関わる祠だと思われる。

*

「米野井字長谷」の坂道には、いまも多くの猫たちが、それぞれの陽気を楽しんでいた。



他にも「三毛猫」と「まだら猫」を一匹ずつ見かけたが、撮影のチャンスを逃してしまった。


「長谷寺」の地図は、こちら

上の地図中、「米野井 950番地」から「JA」のある「900番地」まで道があるように表示されているのは誤り。途切れ途切れに、私有地や農地の中を、土や草の小径があるだけである。


参考文献
・夢中庵主人 (長谷川団吉) /編 (1898) 『古今端唄集』井上亀吉
武藤静史 (1950) 『のど自慢日本音曲全集 全国民謡・端唄・小唄・音曲全般』清文堂書店
・日本児童文学者協会 (1980) 『千葉県の民話』偕成社
・山田町史編纂委員会 (1986) 『山田町史』山田町
千葉県教育委員会/編 (1995) 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書 1』自刊
・寺本和/編 (2005) 『ふるさとのあゆみ 山田町の歴史と文化財』自刊

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comment

庭のねこ
幸せな話ですね!
心がぽかぽかします。
猫らしくて、良い話です。
オッチョコチョイノチョイ
2010.06.05 11:01
clubey
「猫じゃ」の節回しは、ネットで検索するとmp3が結構あるみたいだから、知らなかったら聞いてみるといいですよ。
2010.06.09 02:52

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