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千葉県の猫神・長禅寺の猫

.01 2010 関東地方 comment(6) trackback(0)
真言宗・智山派
金剛山・長禅寺
旭市野中 2042-1
0479-62-0667

この「本堂」の壮大さは、写真では分からない...


1. はじめに

意外に思われるかも知れないが、「九十九里」沿岸の地域と云うのは、「銚子」「佐原」等を経由した「利根川・江戸川」交易の主要な交易圏であったことと関係して、古くから交通の発達した地域であった。ただ永遠とだだっ広い平地が続くだけの閑地と思ったら大間違いで、山や高い建物などがほとんどないので、視野は確かに平たいが、道は結構多いのである。特に、海岸線の浸食や、土地改良などによって、しばしば交通路のつけ直しも行われてきたこともあって、海岸線と平行に走る道が多い。問題は、この「古くから発達した」と云う部分なのである。

「匝瑳市」や「旭市」などの市街地は、いまでもかつての灌漑農地と一帯となっており、古い交通網だけに、道幅も広くなく、道は入り組んでいる。欧米の道路と街との関係が、主要な道路を敷いてその周辺に街を造り、また道路を接続してそこに街を形成すると云うのが典型的な手法であるなら、我が国の道路と街の関係はほぼその真逆になる。すなわち、居住者がまず家や農地を定め、そこに道を引っ張ってくる、と云う作業の繰り返しの後に、何となく集落らしきものが出来上がっていくと云う手法である。

筆者はどちらの町づくりがよいと云っているのではなく、単にそれゆえに日本の道路事情はかなり複雑で、入り組んだ街は、容易には他所ものを受けつけないと云うことを云いたいだけである。今回、訪問する「長禅寺」のある辺りに接近するにも、地の利のない人間は、よほど慎重を期さないといけない。自動車の移動スピードは、減速していても意外と早いものであるし、入り組んだ街でよそ見運転は避けたいからである。

近頃は、どの車にもカーナビゲーション・システムが備えられているようだから、その点は安心だが、カーナビと云うのも良し悪しであるから注意したい。最短距離を知るにはよいかもしれないが、ドライバーの性格や技量と、道幅や人の飛び出しなどの、走行する道路の性質までは計算してくれる訳ではない。筆者の勝手な感想だが、なるべくカーナビには頼らず、道路が複雑な地域では、標識をしっかり見ながら、出来る限り幹線を乗り継ぐようにして目的地に接近すべきである。

さて、「長禅寺」への道なのだが、「東京」方面から行くなら、基本は東関東自動車道で「大栄インターチェンジ」まで行き、国道51号を経て東総道路を走破し、県道70号・大栄栗源干潟線から県道28号・旭小見川線に乗り継いで、後はややジグザグするが、この県道28号を維持して、国道126号での交差を直進して県道35号・旭停車場線になってからも維持し、最後に県道122号・飯岡片貝線に入って目的地に向かうと云うのが、再短時間になると思う。

下でいく場合は、とにかく国道296号のほぼ全区間を走り抜き、「国道入口」で国道126号に入って「旭」方面に向かう。「袋西」で県道28号に入ってからは、上のルートと同じである。道をよく知っている人なら、「匝瑳市役所」前を通過して「上谷中橋」の先の右斜めの分岐に入ってJR総武本線を越え、「東谷」付近の信号で県道104号・八日市場井戸野旭線に入り、「東総文化会館北」で県道35号に入る道順の方が、やや渋滞を避けられると思う。何しろ、国道126号と云うのは、この地域唯一の道幅のある直線道路みたいなところがあり、それが地域の複雑に枝分かれする道路と信号接続する上、区間のほとんどが片側一車線なものだから、混むな! と云う方が無理なのである。

いずれにせよ、県道122号を走っていて、「矢指小学校」の東南の角の信号を過ぎたら、左手の方角を見ていると、こんもりと茂った緑の森から、何かしら巨大な伝統建築の屋根が突き出て見えてくる。噂で音にも聞く、「長禅寺」の「本堂」である。その先、県道が右へと直角に近い角度で曲がるカーブ際、左に、二つの大きな石柱が立っている。これが寺号標であり、参道の入口である。駐車場は、ここを入ったすぐ右手にある。



2. 「長禅寺」探訪

「東総地方」の「新四国八十八ヶ所霊場」の「第一番札所」でもある「長禅寺」は、参道の入口から、「八十八箇所」がらみの石碑が数多く立ち並んでいる。「山門」までの参道部分の左右には水田が広がっているが (正確に云うと、寺全体が水田の中に浮く陸の島のようなのだが...) 、かつては参道両側に土塁が築かれていた形跡がある。左側 (南側) には、この土塁がかなりの程度残され、「山門」のところで南へと曲がるのだが、その外側にはしっかりとした堀切の跡が見える。いまも池のように水が残る部分と、ぬかるみに過ぎなくなっている部分が見えたが、間違いなく、水堀として切られたものだと思われた。参道の右側は、寺の墓地となっており、土塁や堀の跡は、完全に消滅しているようだった。

調べてみると、ここ「長禅寺」は、かつて「椎名内城」と呼ばれた城郭だったと目されているようなのである。「椎名内城」は、「中世」にこの地域で勢力を誇った「椎名氏」の発祥の地であると云われ、一般には、この古刹の西側が「椎名内城」の跡であると云われている。

この地域は元来、「匝瑳氏」 (二系統説が強い) の支配領域であった。しかし、文治年間 (1185-1190) に、「上総権介広常」が「源頼朝」に誅殺されたのに連座して、「上総氏」系の「匝瑳氏」に代わり、兄「千葉常胤」から、元々は「上総権介広常」の一族「匝瑳助常 (二郎) 」の所領であった「匝瑳南条庄」を賜った「椎名胤光」が、「千葉庄」内から「匝瑳南条庄」に「地頭職」として移り住んで「柴崎城」 (匝瑳郡横芝光町虫生字古城) を築いて以来、「椎名氏」は同地を中心に「匝瑳郡南部」に発展していった。

さらには、十三世紀頃になって、「北条庄」を支配していた「上総氏系・匝瑳氏」の一族が分裂し、総領体制が崩れてくると、「飯高郷」 (匝瑳市飯高) を本拠とする「匝瑳常広 (八郎) 」の三男「飯高政胤」が台頭し、「借当川」を挟んで北の「北条庄」を支配する「飯高氏」と、南の「南条庄」の「椎名氏」とが対立するようになり、この対立が、この地域に多くの城が築かれたことの原因となったと云われている。

一方、「金剛山・長禅寺」は、「室町前期」の応永八年 (1401) 九月、「長範和尚」によって創建されている。「長範」は、「山城国宇治郡」にある「醍醐山金剛王院」の「大僧正・実賢」から数えて六代の法孫である。そして、創建以来、長らくこの地で栄えた「長禅寺」だが、「椎名内城」の城主が「千葉介胤富」だったと記録されている永禄八年 (1565) 、「安房勝浦城主・正木時茂」が「里見氏」に反旗を翻して来襲し、「椎名内」近隣の「見広城・伊達城・中島城」を攻略したと考えられており、この戦乱で、「長禅寺」は「本尊」をはじめとして、その堂塔のことごとくを焼亡したとされる。このとき、近隣の村も灰燼に帰し、引き続く寒波によって米麦の収穫は皆無という飢饉が発生し、付近五ヶ村だけで、餓死者千余人も出したと云う。

永禄八年の焼失から三年、同十一年 (1568) 、村人たちの乏しい生活の中から浄財を集めて寺は再建され、さらにその翌年五月には「本尊・愛染明王像」を完成させていることが、「本尊」の胎内から発見された文書によって明らかにされている。この墨書銘文には、永禄年の戦禍についての人々の体験が、生々しく記録されている。この像は、寄木造の座像で、京仏師「小河浄慶」の作と伝えられている。

その後、「小田原北条氏」の体制下に組み入れられた当地では、天正十年 (1582) 、「椎名右京之助」が「椎名内城」に居住したと記録されたのを最後に、おそらくは天正十八年の「小田原征伐」を機に、廃城になったものと考えられている。

「江戸期」には、この地は、「網戸城」の「木曽義昌」の支配を経て、「青山」「千村」、次いで約百八十年間の「高力氏」などの「旗本」家による支配が「明治」まで続いた。

この間、天明九年/寛政元年 (1789) にも、再び火災を出している。このときは、「本尊」こそは避難させられたものの、「本堂」は焼失してしまっている。この「本堂」が再建されたのが、寛政十一年 (1799) であり、これが現在われらが目にすることの出来る豪壮な建築伽藍である。当然、「本堂」の欄干彫刻も、このとき施されたものである。

*


赤い「山門」をくぐると、正面には、既に何度か触れた、かの壮大な「本堂」が見えるのだが、これは後に回そう。まず、右手の一角には、石塔やら石仏などが数多く集められており、そこから「本堂」に向かって順に、「薬師堂」「十善遍照講社碑」「大師堂」とあり、その外側は墓地、さらにその外側は土塁となっていた。そう、この寺は、周囲のほとんどを土塁に囲まれているため、塀らしき塀は、門の左右くらいにしかないのである。「中世」の石塔の多さからも、ここが「中世」の領主館跡か、少なくとも領主家と深い関係にあった寺院であることが偲ばれる。


素朴な「薬師堂」


なかなか個性的な御顔つきの「十善遍照講碑」


「大師堂」

木造の外壁が赤く彩色された「薬師堂」の中には、金色の「薬師如来」が祭られ、外には「薬師堂 東総四十九薬師・第二十八番」と記した木札が掛かっていた。

逆に、境内の左側には、方形の台上に勇壮な「鐘楼」があり、その先に大きな慰霊碑、そして両者の後ろに木造の御堂があった。合間に「公孫樹」の巨木も立ち、左手奥は「庫裡」となっていた。「鐘楼」の「棟木」や「木組」などは、赤を中心に五色に彩色され、見事だった。


「本堂」正面に掲げられた見事な「鏝絵」は、「伊豆の長八」の作。精細な彫刻を施された欄間九面は、享和元年 (1801) 、長禅寺が再建された時、「足川村」の「網主」で地主でもあった「八代岩井市右衛門孔豊」が寄進したもので、「江戸」の彫工として高名な「島村俊正」の作品として知られている。特に、勇壮な図柄の「雲龍彫刻」、一尺の板を二尺の厚さに見せる浮き彫りの「獅子・牡丹彫刻」が圧巻である。 <== この記述内容には重大な誤りがありました。コメント欄で「江戸の彫工」樣から訂正を頂きました!! 本当は、「鈴木市右衛門鶴鳴」と云う「香取郡・嶋村系」の彫工の作品だそうです。この場で「江戸の彫工」樣に御礼と、皆様にお詫びと訂正をさせて下さい。今後は、いよいよ氣を付けてゆきたいと思います...。


「本堂」の右手裏には、「弁財天」か「厳島神社」と思われる小祠が祀られ、その後ろ全体は樹々に覆われた池となっていた。後に紹介する伝説の「血の池」であろうか。


「弁天様」か「厳島様」か...?




「血の池」か?

この池よりさらに奥、「本堂」の真裏に向かうと、ほぼ南北に走る堀によって、境内が二つに分けられている。堀は、南側ほど深く造られており、水が常に北から南へと流れるように設計されているようであった。

本によっては、この堀の西側が寺で、東側が城だったと記しているが、土塁などの構造上、いまの「本堂」のある東側が「東の曲輪」で、堀の向こうが「西の曲輪」であった可能性が高い。寺は、後にこの地に移転したか、あるいは城内に取り込まれていたとしか考えられない。


東西の二つの曲輪を分つ堀。いまも水は豊富に流れていた。

この中央に走る堀の所々には、石造りの小橋が架けられ、それらを渡ると、西側の広場へと導かれる。この寺院敷地の西側半分は、方形の館の形状をそれなりに留めているが、現在、遺構らしき遺構は全くない。敷地のほとんど全てが八十八ヶ所廻りの霊場づくりに利用され、中央に大きな池がある他は、大きな覆い屋が一つと、池の前に大きな「弘法大師」の記念碑像が設けられているばかりである。

中央の池は、「本堂」脇の池同様、深い緑に覆われ、容易に訪問者を寄せつけないのだが、何よりも、それが深掘りの池となっているために、水面までの岸は急斜面となっているのである。こちらの池は、大きさもそれなりにあるため、野生の鴨などが飛来して羽を休めている姿が見かけられた。その深い掘り跡から見て、どちらの池も、それぞれの曲輪の籠城用の大井戸として掘られたものではないかと思う。


「西の曲輪」跡地にある大きな池
おそらく、こちらが伝説の「血の池」

*

本題からは、かなり逸れるのだが、この地で行われる独特の霊場巡りについて、少しだけ見てみたい。

「長禅寺」を中心として行われる「東総」地域の「新四国八十八箇所霊場」巡礼は、通称「浜大師」と呼ばれ、毎年四月五日から十三日の九日間にわたって盛大に行われる行事である。巡拝路は、第一番札所である「長禅寺」を発して、旧「海上郡・匝瑳郡・香取郡・山武郡」の四郡に跨る。

発祥は、天明五年 (1785) 、「長禅寺」の第四十五世「融啓和尚」が、現在の「匝瑳市登戸」の「渡辺権右衛門」家の先祖と四郡を経巡ったことと伝わる。年と共に、この巡拝遍路に共鳴する人々が増え、明治九年 (1876) に「長禅寺」第五十七世「尭範和尚」が、「長禅寺」を教会所と定め、「十善遍照講社」を創設し、明治三十八年 (1905) には、真義真言宗智山派・管長より「密厳教会十善遍照講社」を正式に認可され、いよいよ巡礼が盛んになった。

「浜大師」の大きな特徴は、一般に「御箱」と呼ばれる「弘法大師像」を「登戸」の「渡辺家」から借り受け、これを背負って信者門徒が一斉に巡拝を進めていくことであろう。「弘法大師一千年御遠忌」に当たった昭和九年 (1934) 頃をピークに、次第にこの行事も衰退したとは云え、最盛期には、参加者は千名以上を越え、九日間、「御箱」の宿泊所となった「本陣」と呼ばれる宿所を中心に、三百人以上の信者が近隣の村々に分宿して、接待されたと云う。現在は、往時の賑わいは失ったものの、九日間の遍路は続けられており、篤信者の家ではいまだに巡礼者たちの歓待を続けている。

規模が縮小したと云っても、最終の九日目に行われる結願式には、多くの人々で山内は埋め尽くされ、御尊像開帳の際に鳴り響く、「南無大師金剛遍照」の大合唱の盛大さは、この地域の信仰心が、必ずしも失われていないことの証となっている。


境内に、上のような「八十八箇所」の石仏が、八十九体安置されている。

「長禅寺」には、この「新四国八十八箇所霊場」を縮小した霊場も設置され、境内いっぱいに八十八個の石仏が、「讃岐・阿波・土佐・伊予」の四国に分けられて勧請されている。


境内の西北隅の外側にある「琴平神社」



3. 長禅寺の猫

いよいよ、「長禅寺の猫」の伝説を紹介することとなる。以下の文に登場する「横根」と云うのは、「長禅寺」のある「野中」からさらに東に二、三キロ行った土地で、概ね国道126号線に沿っている。いまでも街道筋に幾つかの寺が建っており、もしかしたら、それらの寺院のどれかと「長禅寺」の間に深い縁があって、以下のような猫の貸し借りの言い伝えが発生したのかもしれない。もっとも、これは推測に過ぎない。

長禅寺の猫


「戦国時代」の末頃、「長禅寺」には大きな化け鼠が棲みつき、人に危害を加えることもあって、みな困り果てていた。

ある日、寺の飼い猫が和尚の夢枕に立ち、あの鼠は神通力があって、自分だけで歯が立たない、「横根」の里にいる自分の兄と弟と三匹で力を合わせて退治したい、と云った。和尚が「横根」 に行くと、確かに寺の猫の兄弟がいたので、二匹を借りて帰った。

それからしばらく経ったある夜、「本堂」で激しい戦いが始まった。飼い猫は大鼠の喉に噛みつき、大鼠は飼い猫の頭に噛みつき、横根の二匹の兄弟猫は大鼠の背中に噛みついた。さすがの大鼠もたまらず逃げた。二匹の兄弟猫は無事だったが、飼い猫は頭の傷が深手で、明け方に死んだ。

大鼠の行方は分からなかったが、村人たちと探したところ、奥の間の天井は節のない板のはずなのに斑点があった。そこを目がけて槍を突き上げると、大きな悲鳴と共に大鼠が落ちてきた。

大鼠にとどめをさしたこの槍を洗ったのが「長禅寺」の境内の池であったため、以後、「血の池」と呼ばれるようになった。

参照・平野馨 (1986) 『房総の伝説』第一法規出版、p. 135

「長禅寺」に出た「大鼠」に関しては、異伝も伝わっている。大抵、違いは槍を突いたのが和尚か、大工の棟梁かと云う程度のものなのだが、中にはまるで別系統の話もあった。一応、紹介しておこう。

長禅寺の大鼠


「長禅寺」の近在に年を経た大鼠が住んでおり、村の美しい娘を見染め、嫁に所望した。娘も親も絶望したが如何ともし難く、ついに祝言の日を迎えた。

この話をある浪人者が聞き込み、祝宴の席に紛れ込んで、大鼠が現れるのを待ち伏せた。夜更けて、辺りも静まり返った頃、天井から大鼠が現れるや、それまで正体もなく酔い潰れていた浪人者が、突如、槍を天井に鋭く突き上げた。無気味な悲鳴が鳴り響いた後、天井から血が滴り落ちて、床に溜まった。

娘は運良く難を避け、後に良縁を得たと云う。

参照・荒井愛子 (1975) 「大ねずみ退治武勇伝」
荒川法勝 (1975) 『房総の伝説』暁書房、pp. 120-121

こちらの伝説には、残念ながら「猫」は登場しない。そして、当然、その分だけ筆者の贔屓は得られないのである。大体、せっかく活躍した浪人者は、一体この後どうしたのだろうか? お礼も言われず、何も報われなかったのだろうか? などと柄にもなく余計な心配をしたくなってしまう話である。幼稚な筆者としては、ヒーローはヒロインと結ばれて欲しいのである。まあ、この浪人者、妻帯者だったのかもしれないけどね...。



蛇足 : 「長禅寺」で見かけた猫


「長禅寺」訪問のときに出会った、ワンポイントの猫。あまり人を恐れているようではなかったが、いざカメラを向けると、なかなか写真を撮らせてくれない曲者であった。お礼に餌をやろうとしたが、そんなものは受け取れません、と宝篋印塔の方へと消え去ってしまった。







「長禅寺」の地図は、こちら



参考文献

・荒川法勝 (1975) 『房総の伝説』暁書房
・千葉県文学教育の会/編 (1977) 『千葉の伝説』日本標準
・旭市史編纂委員会/編 (1980) 『旭市史』第一巻、旭市
・児玉幸多ら/監 (1980) 『日本城郭大系 6・千葉・神奈川』新人物往来社
・平野馨 (1986) 『房総の伝説』第一法規出版
・千葉興業銀行/編 (1992) 『千葉ふるさとむかし話』自刊
・江波戸敏倫 (1997) 「長禅寺の『血の池』由来」
 荒川法勝 (1997) 『千葉県妖怪奇異史談』暁印書館
・松井安俊 (1998)「ふるさと探訪 (旭の村々 第十五回) 」
 旭市役所秘書広報課/編 (1998) 『広報あさひ』平成十年六月一日号、旭市
・「あさひ文化財事典」ウェブ版
・長禅寺「長禅寺略縁起」現地配布



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comment

庭のねこ
そうか、死んでしまったのですか。
けれども、勇敢な戦いっぷりが現在にまで残されているから、長禅寺の猫も少しは報われたでしょうか。
血の池らしき池が現存するのは嬉しいですね。
2010.06.05 11:33
clubey
庭の猫さん、寺の猫が兄弟姉妹あるいは友達の猫と、二匹で寺に災いを成す大鼠を退治して、寺の猫が死ぬ、と云う話しは全国各地に残されているのですよ。残念なことに、二匹とも生き延びて可愛がられて長生きしたと云う結びはほとんどありませんので、そんな説話を採集するのがclubeyの夢の一つです。
2010.06.09 02:48
「江戸彫工」管理人
こんにちは、大分時間が経っていますが間違いが有るので訂正させて頂きます。

>特に、勇壮な図柄の「雲龍彫刻」、一尺の板を二尺の厚さに見せる浮き彫りの「獅子・牡丹彫刻」が圧巻である。

これは内陣境欄間のことで嶋村俊正作ではありません。
鈴木市右衛門鶴鳴という香取郡嶋村系彫工の作です。
『千葉県文化財実態調査報告書』に載っています。
俊正の作は外陣間仕切り欄間ですがこれも同資料に載っています。
2012.04.16 12:20
clubey
「江戸の彫工」樣、拙ブログを御訪問頂き、その上で記述内容の間違いまで訂正して頂きまして、まことに有り難うございます。お察しの通り、私は寺社彫刻に関してはズブの素人で、西も東も分からぬものなのですが、時折、何かの案内書などを見ては、よく分かりもしないことでブログの空いたスペースを埋めるようなことをしていたことを深く反省しております。私自身は、彫刻を見ること自体は好きなのですが、どれも「素晴らしい」意外はあまり分かることがなくて...

「江戸彫工」のHPは、以前から拝見致しております。しかし、いままではちょくちょく検索でヒットするページを拝見しているばかりでしたので、これからは一から体系立てて拝見し、勉強させて頂きたいと思います。それにしても、見れば見るほど、壮大なHPですね!! 全ページ制覇するだけでも結構かかりそうですが、ましてやきちんと整理して理解するとなると...。でも、そんな閲覧+勉強の過程で、「猫」「唐獅子」などの彫刻を見つけるのを楽しみに頑張ります!!
2012.04.20 08:15
-
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2012.05.16 22:06
clubey
こんにちは。返信が遅れてしまい申訳ありません。わが拙いブログにお越し下さり、有り難うございました。旧・川崎村のお社と云えば、銚子浪分神社のことでしょうか? いつか訪問しようと思いつつ、いまだ訪ねることが出来ていません。貴重な現況の御報告、有り難うございました。やむを得ないこととは云え、胸が痛みます。矢作の猫絵馬はいまだ健在だと、最近訪問された方から聞いております。早く現在の経済的困窮を乗越えて、北東北の猫神調査に出かけたいものです...。
2012.05.25 20:42

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