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栃木県の猫神・所野磐裂神社の猫像

.05 2010 関東地方 comment(0) trackback(0)
栃木の猫神を求めて 1)

所野

磐裂神社

日光市所野 814
日光市観光協会
0288‐54‐2496
例大祭 八月十七日 



1. はじめに

今回の記事は、完全な旅行記となってしまった。途中、あれこれと御託を書き連ねることに何の変わりもないが、とにかくこのことは御断りしておきたかったのである。一日で、「栃木県」の目ぼしい「猫神」を訪ね回ろうと云う、良く云えば野心的で、悪く云えば無謀なひと日の旅の行程を追うように、今回の記事は成り立っている。あまりにも主題からかけ離れた訪問先の話は省いたが、今回は、「猫」に絡めば、どんな些細なことも記すこととした。御高覧いただくと云うよりは、御笑読いただかねばならぬ箇所も幾多あろうことを、ここで先に御侘びし、御寛恕のほどを乞うものである。

ちなみに、今回のシリーズは、全五回になる予定である。



2. 旅の始まりと筆者の「日光」嫌い

旅路の出だしは、国道14号から首都高速を経て、東北自動車道に入るばかりである。「都賀西方PA」でいったんトイレ休憩をとった後は、「宇都宮インター」を降りて、宇都宮日光道路に乗り換え、「日光インター」まで走れば、もう「日光」のお膝元である。

初めに云っておきたいのは、本日の「栃木」行きは、「日光」地域にまず出かけるが、「日光」の有名どころに立ち寄る気はさらさらないと云うことである。何故なら、「日光」と云うのは、筆者にとって、観光地としては最悪の部類に属するからである。あまり物事を決めつけて断ずるのはよくもないし、好きでもないが、こればかりは根拠があり過ぎて、ある程度断定せざるを得ないのである。何しろ、「日光」と云うのは、まるで「地獄の沙汰も金次第」を地で行くかの如く、どこへ行っても「お金、お金」なのである。しかも、それをやっているのが商人なら当たり前だから、商品やサービスの質さえ保ってくれていれば文句はないのだが、ここでは僧侶とか神官と名乗る人々が、慇懃無礼にふんぞり返りつつ、どこのがめつい守銭奴とて真似出来ぬほどの亡者ぶりをさらして、一向恥じぬのである。生ける「我利我利亡者」を見たくば「日光」までござれ、である。

*

「日光」の有名な寺社に行くと、ふと脳裏をよぎることがある。

バブル経済華やかなりし頃、俗に「渋谷商法」だとか「六本木商法」だとか揶揄された強引な売りつけ商売があった。ツアーとかパーティとかで、参加者がみんな盛り上がっている中、コンダクターのような人が、高級ブランド品やら宝飾品を特別価格で売ってくれる会員制の店を知っているが、自分の名刺を持っていけば限定期間だけ入れてもらえるように取り計らったと、さも善意からであるかのように話しかけては、早い者勝ちで名刺を配るのである。

そして、その名刺を持って、指定された場所に行くと、たいがいは裏通りの普通のマンションとかの何階かに、看板も出さずに営業している部屋に辿り着く。注意深く見ていると、エレベーターホールなどに、それとなく関係者らしき男たちがいたりするが、これは後にならないと気づきにくい。要するに、案内などしないのだから、実際には見張り役のようなものなのである。帰る客と、新たに来た客とかが、エレベーター前で話をしないように見ているのである。

部屋に入ると、客一人につき、必ず一人の黒服まがいの販売員が張り付き、案内と称して、付きっきりで商品を薦めてくる。値段は決して安くない。本物は高いものだし、一生の買い物になるから、など陳腐な言葉を並べる。商品は、たいていガラスケースなどに鍵を閉めて厳かに展示されているのだが、必ずおもむろに鍵を開けては、客の女性に身につけさせたり、持たせたりする。遠慮したりしても、かなり強引につけられてしまう。華やいだ気持ちにさせると同時に、断りにくくするのが目的なのだろう。支払いは、分割も出来るし、ローンもすぐ組めると持ちかけてくるのである。もちろん、現金払いの割引はある。

何人で行っても、必ず一人ずつに孤立させられるのである。時折、派手な成約の拍手などが上がり、部屋の熱気を盛り上げる。もちろん、断ったからと云って恐いお兄さんが出てきたりはしない。それではただの犯罪である。ただ、調子に乗りやすい人は調子に乗せて勢いで買わせ、気の小さい人は精神的に逃げ場がないように追いつめて買わせる、と云った商法であった。その場は気持ちよく買った人達も、後になってみると、必要でもない高級品 (しかも往々にして偽物) を大枚はたいて買わされた事実に呆然とするだけである。

そんなのクーリング・オフすればいいと思っても、ここに誘い文句の「期間限定」の二重のからくりがあるのである。結局、手続をとった時には、もうとっくにどろんしているのである。何しろ、もともと実体のない店舗なのだから、素人には追跡が不可能なのである。不動産も週単位のレンタルになっていたりする上、又貸しを繰り返しているのが常である。もちろん、本当は知合いでぐるぐるまわしているだけだったりするのだが、それも法律的には「善意の第三者」になるのである。

しかし、そんなことをも物ともせず、追及し続けても、最後はダミー会社にたどりつくだけである。大抵は、町中で派手に遊んでいたどこかのぼんくら道楽息子を、「六本木やくざ」などと一時呼ばれていた若い連中がおだて上げて、起業だのなんだのって云って、そのダミー会社の代表取締役などに祭り上げて、操り人形兼捨て駒として用意しておくのである。何かあったとしても、こいつだけが目出たく逮捕、と云う仕組みになっているばかりである。

*

「日光」の寺社と云うのは、拝観料をばっちりとった上で、案内がつきまとって、何かことあるごとにお金を請求してくるのである。しかも、前もって説明した上でではなく、こちらがあることをお願いすると、その後になって当然のように請求されるのである。加えて、この地では、バスで大挙してやってくるマナーの悪い団体客ばかりが厚遇されるのである。まあ、一遍に多くの参拝料が手に入る団体客は、寺社の側からしたらまさに「カモ」なのだろう。坊主や神官たちが口々に「濡れ手に粟、濡れ手に粟」とぶつぶつ唱えているのが聞こえてきそうである。

さて、筆者が「中禅寺」で実際に目撃した出来事を紹介しよう。

「坂東三十三観音」巡りで訪れた初老の男性が、「本尊」を拝むことも出来ずに御堂の外壁から読経をさせられた挙げ句、写経した「般若心経」を納めようとすると、団体客に御機嫌を使って御守り類を売りつけることに執心していた寺僧が、面倒くさそうな事務口調と表情で、「本堂」に納経の場所があるから戻るようにと伝えていた。少し嫌な予感がした筆者は、滅多に出さない野次馬根性を出して、後ろからついていくと、納経所では、翌朝住職が祈祷をしてから納めるので、祈祷料五百円を払うように、と云っていた。もちろん、雲の上にまします日光のお住職さまが、顔の半分たりとも参拝者に見せることはない。男性は明らかに躊躇った様子を示していたが、すぐに支払いをして、まるで恥を掻かせられた少年のように、口をきっと結んだ顔をうつむけて去っていった。

お金をここで請求するのは、巡礼のルールからすると非常識なのかどうかは知らぬが、筆者の知っている限り、異例ではある。であるならば、何故「本堂に行け」と云った寺僧は、男性に五百円かかると云うことを伝えなかったのか。うっかり忘れた訳ではないのは、多くの体験者の話を聞けば分かるはずである。「日光」の坊主は、断りにくいタイミングで金の話を切り出す練習を積んでいるのではないかと、疑ってしまうほどなのだから...。

文化財の保存には、金がかかる。これは理解出来る。だから、拝観料を取ることも必ずしも反対はしない、いや、むしろ賛成である。しかし、である。仮に拝観料が五百円で、納経が五百円で、強引に売りつけられるお守りなどが千円くらいだとして、貧乏人は、いったいどれくらいの寺社を回れると云うのだろうか。しかも、たいていの寺社が、特別な庭園や御堂などに入る時には別料金を要求してくるのである。その上、大きな寺社は、案内と称して、図書館で調べれば分かるような浅薄な解説を頭の悪そうな坊主がまくしたてるのを聞きつつ、客の回転をよくするために、やたらと急がされて拝観するのである。しかも、途中でやたらと物を売りたがる。

質問をしても、難しいことは何も分からないし、それならば誰か分かる人を、と云う姿勢すらない。一度などは、他の皆さんの迷惑になるからとまで云われた。他の機会には、祈祷の後ならとも云われた。当然、その祈祷も最低二千円から受けつけているのである。質問付きだといくらになるのか、聞いてやりゃよかった。

全国各地には、自治体からの補助金ももらえず、当然、無名であるが故に拝観料などどのみち期待出来ないまま、地域の人々によって、大切に守られている文化財もある。確かに、国宝級のものはないかもしれぬが (それでも時々世紀の発見などがある) 、文化財とはガラスケースに仕舞ってお金を請求すればすなわち文化財なりと云うわけではあるまい。有名寺社は、文化財保護がただの拝金主義につながったり、「宝の持ち腐れ」にならぬよう、自戒して振る舞ってほしいものである。

ついでに付記するならば、「日光」地区にだって、このようなささやかな祭祀の場は無数にあったし、いまでも少なからぬ数が生き延びているのである。そして、そういう小さな堂社が常に下らぬ文化財しか保有していないかと云うとそうでもないのである (もっとも民俗文化財に価値的な高下があるとは筆者は思わないのだが...) 。

この記事の他の箇所でも記すが、「日光市」の「小杉放庵記念日光美術館」には、二体の非常に珍しい「円空仏」かあるのだが、これらなどはほとんど辻堂と変わらぬような「野口薬師堂」と「所野滝尾神社」で発見されたものである。しかし、「円空仏」は、いわゆる主流の仏師たちが有力者たちのためにつくった豪華絢爛あるいは写実的な仏像とは異なり、いわゆる一刀彫の素朴な民間仏であることは広く知られているところであろう。

「戦後」の「民芸」ブームに乗って、突然もてはやされた「円空仏」だが、もしも、それらの作品に本当に何らかの価値があるとするならば、それは美術史家たちの空疎な賛辞にあるのではなく、それら個々の作品の背後に染み込んでいる、大寺社の信心とは異なった、民間の素朴な信仰の伝統や歴史が沈殿し、人と時が醸成した無形の綾にあるはずである。いまとなっては盗難の恐れがあるため、小さな祠堂に納めておけないのはやむを得ないが、ガラスケースに入れさえすれば芸術品と思い、それを見るには金を払う、と云った発想は、その出発点で「円空」の理念とは大いに袂を分かっている気がしてならない。

それにしても、なぜ、より信仰心があり、より困窮している寺社を支えている人々は感謝の思いを込めて喜捨を受け取り、潤っている大寺院は偉そうに払えと云うのだろうか。がめつい商売しているのだから、せめて嬉しい顔して拝み取ってほしいものである。参拝者諸兄よ、よくよく刮目して、「泥棒に追い銭」にならぬよう、事態を判断せられよ。

筆者にとって、信仰と云うのは、宗教や教義、あるいは御利益とさえもまったく無縁なもので、単に敬虔な心のあり方を示すものである。おのれよりも大きなもの、おのれよりも長久なるものを前に怖れ畏み、その故におのれより小さいもの、長久ならざるものに対し、しみじみとした感慨と愛情を通わせること、このことに尽きる。そして、現在の我が国の大寺社には、このような精神が微塵も感じられぬのである。

筆者が、「京都」や「奈良」、そしてとりわけ「日光」において、やむを得ぬ目的がない限り、大きな寺社に行きたがらぬのは、このような理由によるのである。

*

あっ、でも、「日光」の町はいい町ですよ、念のため。
水も空気も綺麗だし、食べ物は美味しいし、人は雅びていて大らかだし、その点に関しては言うことなし。



3. 「所野・磐裂神社」の猫神

a) 「所野・磐裂神社」へ

「日光インターチェンジ」を降りて、左折して市道へ入るところから、この日の本格的な探訪は開始された。すぐに「志度淵川」と云う小さな川を渡り、左に「セブンイレブン」、右に「エネオス」を見ながら前進する。右に「ダイソー」を過ごし、「日光インターチェンジ入口西」に至ると、この信号から、道の名前は県道14号・鹿沼日光線に変わる。

道の両側には観光用の案内板が方々に掲げられ、月並みな観光施設の案内以外では、漆器店などの看板が目立っていた。三つ目の信号を右に曲がると「東武日光駅」の前に出るのだが、この信号を左折して、国道119号・日本ロマンチック街道に出なければならない。しかし、これもほんのつかの間で、直後の「松原町」で右折、今度は、県道169号・栗山日光線に入るのである。

「日光警察署」を右、「日光竹博物館」を左に通過しつつ、「霧降大橋」で「大谷川」、次いで「鳴沢」を渡る。そして、北詰の「霧降大橋」の信号で右折して、県道247号・日光今市線へと入るのである。「東武バス」の大きな営業所を左に過ぎつつ、「丸見川」を越える。すると、左手向こうに「所野第一発電所」の施設が見え始めるのだが、その発電所よりやや手前、右に「大谷川」を渡る「みどり橋」が見える、その道路を挟んだ反対側くらいに、かなり急な石段が斜面を登っていくのが目に入る。この地域の洪水除けの神様だった「竹ノ鼻地蔵尊」への参道である。

しかし、この辺りで「霧降大橋」を曲がってから最初の信号が現れるのだが、ルートとしてはここを左に入らねばならないので、実際には悠長に窓の外の石段などを眺めていると、うっかり行き過ぎてしまうかも知れない。くれぐれも注意することをお勧めしたい。

左折後、正面には分岐があり、左への道はどう見ても一方通行のような狭さなのだが、「所野小学校」はこっちへ進めと云う看板まであり、一方通行の標識もない。一瞬の躊躇いの後、思い切って、この狭い路地に進入した。ここの進入口が小さな坂になっているのだが、ここを越える時、実はわれらは発電所からの放水路を越えていることになるのである。入った道は、対向車が来たら大ピンチの狭さである。

途中、「谷田貝電気工事店」のある本当に小さな四つ辻があるが、これは通過し、その次の四つ辻を左折しなければならない。小学校の案内が出ているのでこれを目印にするとよいだろう。二百メートルも行くと、右に「所野小学校」、正面に「磐裂神社」が鎮座する台地が見えてくる。駐車スペースはないので、ガードレールの際の路側がやや広がっているのを利用して、そこに駐車。ハザードを焚いて素早く参拝へと向かった。

* 実際には、神社の正面を横切って右手を登っていく脇参道の坂があり、その上に若干の駐車スペースがある。ただ、どの道も大変狭いので、大きな車での行き来は薦められない。


b) 「磐裂神社」私考


「磐裂神社」と云うのは、全国的に見ると、かなり珍しい神社と云えるかも知れない。少なくとも「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と云うほどにはないだろう。しかし、「栃木県日光市」の南部から「鹿沼市」「下都賀郡」にかけての地方では、決して稀な社ではなく、むしろ、県下に関連する社が二百前後ある、かなり有力な神様なのである。数に関しては、三百五十社近いと云う人もいるようである。

この神社の発祥は古く、「日光」を開いた「勝道上人」の時代まで遡る。上人が、後に「日光」を開くことになる契機となったのは、七歳のとき夢の中で「仏道に励んで日光を開け」と云う「明星天子」のお告げを受けたことと伝えられているが、各地の「磐裂神社」の社伝や口碑などによれば、この際、上人が最初に祀った神社が「盤裂神社」なのだと云うことになる。

「栃木県壬生町」の「磐裂根裂神社」の社頭説明板には、この神社創始の時期と経緯が丁寧に記載されていたのでここに一部引く。別に「壬生町」の「磐裂根裂神社」であることに特別な意味はない。ただ、たまたま都合のよい社頭掲示をしており、それをたまたま筆者が知っていただけである。

(前略)
天平十三年 (741) 日光開山の勝道上人は、日光男体山山頂をきわめたのは、「ひとえに、天地 の神明をまつりたるは、磐裂神等の神勅によるものなり、汝等および我が子孫たるものは、常に磐裂、根裂神を尊崇して、必ず神恩を忘失すべからず」とさとされた当神社の神様です。
(後略)
現地説明板より

「勝道上人」が、実際に「日光」を開くのは、歴史的には天平神護二年 (766) 三月以降のこととされるが、「磐裂神社」の伝えの中には、「日光」全体の信仰圏にあって、みずからの信仰の由緒の正しさとその起源的な古さを誇示しようとする意図が汲み取れる。史実として、「日光」における寺社創設の時代的な前後関係を明らかにするのは無理かも知れぬが、『古事記』において、「伊耶那岐」の剣から「磐裂神・根裂神」が化生したと記され、その後に禊をして「天照大神」が化生したとされていることからも、これらの神が我が国の皇祖神へともつながる、非常に古い神格であることが理解される。

また、後に「徳川家」によって「日光」が「家康」の祖廟として再興・整備された時にも、「磐裂神」は、「東照宮」の工事に携わった職人達から土地神として強い崇拝を受けていた形跡が色濃く残されている。これら職人達の子孫が後に住み着いたことから町名のついた「大工町」と「板挽町」は、昭和四十四年 (1969) に合併して「匠町」となったが、ここでは、氏神として、「磐裂神社」が長く崇敬され、現在も手厚く祀られているのである。「神道」の儀式一般が、簡略化され、かつ忘却されつつある現代にあっても、「地鎮祭」など、土木建設関係のお祭りは根強く残されているのを見ても、「東照宮」建設に当たった職人達が、土地神としての「磐裂神」をいかに恐れ畏んでいたかと云うことが見て取れる。そして、その信仰が維持されたことからも、その神の土地神としての性格と、その信仰の強さや古さが物語られてはいないだろうか。そして、これらの事実を考え合わせると、「磐裂神社」が自らの創設伝説にあって「日光開山」に先立つ時期を伝えていることを、一概に無視する訳にも行かない気がするのである。

いずれにせよ、無視出来ぬ古い時代に興ったと思われる「磐裂・根裂」の信仰は、おそらくは「栃木県」の旧「日光市」に始まり、旧「今市」へとその信仰圏を広げ、やがて「行川」や「思川」の流域に沿って「鹿沼市」そして「下都賀郡」の諸地域 (壬生町、藤岡町、都賀町) にまで及ぶこととなったと考えられるのである。

*

「磐裂神社」が、土地の古い土着神らしいと云うことを整理したところで、ではこの神社が祀る神とは一体いかなる神格なのか、と云う問いが浮上する。

『日本神名辞典』 (神社新報社、1994) では、「磐裂神社」の祭神は、「石拆神 いわさくのかみ」「根拆神 ねさくのかみ 」と記されている。より一般的には、「磐裂神」「根裂神」とも表記される二柱の (夫婦? ) 神のことである。この表記の違いは、主に『記紀』の記述の違いによるものと思われる。『古事記』では「石析神・根析神」、『日本書紀』では「磐裂神・根裂神」と記されるからである。以下に、その両書の該当部分を掲げることとする。

是に伊邪那岐命、御佩 はか せる十拳剣 とつかのつるぎ を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまひき。爾に其の御刀 みはかし の前に著ける血、湯津石村に走 たばし り就きて、成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。 三神 次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。 布都の二字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。 亦の名は豊布都神。 三神 次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏 き出でて、成れる神の名は、 漏を訓みて久伎と云ふ。 闇淤加美神淤より以下の三字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。 次に闇御津羽神
上の件の石拆神以下、闇御津羽神以前、并せて八神は、御刀に因りて生れる神なり。
(太字筆者)
倉野憲司・武田祐吉/校注 (1958) 「上巻」『古事記・祝詞』
日本古典文学体系 1、岩波書店、pp. 61-63

一書に曰はく、伊弉諾尊、剣を抜きて軻遇突智を斬りて、三段 みきだ に為す。其の一段 ひときだ は是雷神と為る。一段は是大山祇神と為る。一段は高龗 たかおかみ と為る。又曰はく、軻遇突智を斬る時に、其の血激越 そそ きて、天八十河中に所在 る五百箇磐石 いほついはむら を染む。因りて化成 る神を、号 なづ けて磐裂神と曰
す。次に根裂神、児磐筒男神。次に磐筒女神、経津主神。倉稲魂、此をば宇介能美拕磨と云ふ。 (太字筆者)

坂本・家永ら/校注 (1967) 「神代上」第五段一書・第七『日本書紀』
日本古典文学体系 67、岩波書店、p. 96

「磐裂・根裂」の神名について、古典文学体系本『古事記』の注では、「石拆神」を「岩石を裂くほどの威力のある神 (雷神) 」、「根拆神」を「木の根を裂くほどの威力のある神 (雷神) 」 (『記』p. 62) とし、同じく古典文学体系本『日本書紀』の注では、「磐裂神」を「雷神が岩を裂くによる命名」とし、「根裂神」を「雷が木の根を裂くによる命名」としており (『紀』p. 92) 、これらの神の基本的な神格を「雷神」と見なしていることは共通している。

しかし、それでは何故、「勝道上人」にお告げを与えたのは「明星天子」だったのに、上人は「磐裂神」を祀ったのか。「明星天子」と云うのは「雷神」なのか、と云う疑問が湧いてくる。

ここで興味深いのは、「磐裂神社」の祭神に関して、地元では一般に「雷神」としてよりは、「星を司る神」として受け入れられていると云う事実がある。そして、「星の神」と考えれば、「明星天子」との神格が重なるのは、難なく理解されるのである。この辺りの消息を「田代善吉」はその『栃木県史』の中の「磐裂神社」の記事において、わずか数行だが端的に描いている。

上都賀郡日光町大字日光字星宮に鎮座せり、祭神は磐裂神である。本社は勝道上人が、日光開山の時に、上人が自ら一刀三禮を以て彫刻した星宮の尊像を鎮祭したものである。

田代善吉 (1934) 「磐裂神社」
『栃木県史 第三巻 神社編』下野史談会、p. 334

また、『いまいち市史』の中にも、次のような記述がある。

磐裂神社は磐裂神・根裂神を祭神とし、本地仏を虚空蔵菩薩としている。勝道上人の日光登山の成功は、盤裂神の助けによるものといわれ、この神社圏は日光に始まり、今市の行川流域を通って鹿沼に及んでいる。

今市市史編纂委員会/編 (1982) 「磐裂神社・星宮神社」
『いまいち市史 通史編?』今市市、p. 480

「仏教」の俗説においては、天空の「日月星」は、それぞれ「観音菩薩」「勢至菩薩」「虚空蔵菩薩」に対応するものと考えられ、特に「明星」を以て「虚空蔵菩薩」の化身とする伝統がある。このような考えは、若き日の「空海」 (宗門では推定十九歳) が、「室戸岬」近くの洞窟 (御厨人窟 みくろど ) にて「虚空蔵求聞持法」を修していた際、明け方に明星が自身に向かって飛来して、胎内に入ると云う神秘体験を通して、悟りへと至ったと云う逸話にも強く反映されている。

ここ に一の沙門あり。余に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、若し人、法によってこの真言一百万遍を誦すれば、即ち一切の教法の文義暗記することを得。焉に、大聖の誠言を信じて、飛燄を鑽燧に望む。阿国大滝嶽に躋 のぼ り攀 ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷、響を惜しまず、明星来影す。 (書き下し、筆者)

渡邊照宏・宮坂宥勝/校注、 岩波書店 (1971)『三教指帰・性霊集』
日本古典文学体系 71、岩波書店、p. 85

「磐裂神社」も、過去には同じ「北極星」信仰を背景とする「妙見菩薩」や「虚空蔵菩薩」の信仰などと習合した歴史を持っている。事実、かつては「明星天子」の「本地仏」を「虚空蔵菩薩」とし、「星宮」「星の宮」などと総合的に呼ばれていたり、「北辰」の神仏である「妙見菩薩」に因んで「妙見社」「妙見宮」などと名乗っていた社も少なくないのである。これが、「明治」の神仏分離などの神社整理の波の中で、祭神を明確にすることが要求され、「磐裂神・根裂神」を中心に据える現在の形に統一されたのである。この点から見ても、「磐裂・根裂」の神が、「雷神」であると同時に「星の神」であることは明白なのである。

*

実は、この「星の神」としての「磐裂・根裂」の神の性格は、この二柱の神を「雷神」として描いた『記紀』にも明らかなのである。「伊邪那岐」が「迦具土神」を斬った時に、その剣と血から「磐裂・根裂」の神が生まれたのは、既に見た通りである。このとき、この二柱の神以外にどのような神々が化生したかを見ると、おおよそこれらの神々の性格が理解できるのである。

まずは「磐裂・根裂」の神に最も近しい神として描かれている「石筒之男神 いわつつのおのかみ 」を見てみたい。日本古典文学体系本『古事記』の本文注では、「石筒之男神」の神名については「名義未詳」としているが (『記』p. 62) 、同体系本『日本書紀』の本文注には、「磐裂・根裂」の両神の子として登場する「磐筒男神 いわつつのおのかみ 」の神名の説明として、「ツツは粒の古語。磐が裂けて粒になって飛び散るによる命名」 (『紀』p. 92) としている。同書巻末の補注では、「ツツは星」と定義した上で、より詳しく「粒=ツツ=星」の解説を行なっている。

ツツは星。色葉字類抄に「長庚ユフツヽ、大白星 同 」とあり、日葡辞書に Yŭtçuzzu 、伊京集にユウヅツ、大白星・長庚とある。島根・壱岐・筑後久留米・大分・香川・徳島・高知で粒をツヅという。古くは空の星粒をツツまたはツヅといったのであろう (軻遇突智を斬る時に生れた 磐筒男神・磐筒女神も、岩から散る火花を名づけたものと思われる)
坂本・家永ら/校注 (1967) 「神代上」第五段一書・第七『日本書紀』
日本古典文学体系 67、岩波書店、p. 557

引き続いて他の神々も見てみよう。
「甕速日神」は「厳めしく迅速な太陽神」、「樋速日神 ひはやひのかみ 」は「燃えさかる太陽神。古代においては火の根源を天つ日とし、これを地上に運ぶものが雷であるとした」と注されている (『記』p. 62) 。「建御雷之男神」は「勇猛な雷の男神」、「闇淤加美神」は「書紀には『闇龗』とある。谿谷の水を掌る神」、「闇御津羽神」は「書紀には『闇罔象』とある。前に同じ (筆者 : 谿谷の水を掌る神) 」とある (『記』p. 63) 。

『日本書紀』の注では、「甕速日神」「熯速日神 ひはやひのかみ 」に関しては、「日」の字を当てられた「ヒ」の語の解釈が注釈者によって異なるため、神格の理解が違ってしまっているが、「闇龗」については「谷の龍神。水を司る」 (『紀』p. 92) と述べ、他の神についても、両書ともほぼ同様の解釈をしている。「闇淤加美神」のみ、『日本書紀』の第五段一書の第七には記載がなく、同段一書の第六に記された「闇龗」と対応するものとされている。第五段一書の第七には、その代わりに「高龗」の神が登場しており、この神に関しては、「オカミは水神。第六の一書の剣の頭から垂る血によって成る神のクラオカミにあたる。」と記されている (『紀』p. 97) 。

すなわち、まとめてみると、「伊邪那岐」の剣と血から生成した八柱の神と云うのは、みな「日」や「星」、そして「雷」「水・雨」「龍」「渦」などと関係がある神格なのである。「北斗七星」を指して「北辰」と云うのは、呼んで字の如く、「北斗七星」を「龍 (辰) 」に見立てたシンボリズムでもある。「渦」に関しては、かつて「東アジア」地域の人々は、「雷」「雲」を渦巻くものとして見たのであり (これは雷紋や雲紋の意匠に明らか) 、「罔象」の「罔」の字も、その解字は「網」を意味し、蜘蛛の巣のような「渦」を表すに至るのである。したがって、「罔象」とは「水中の姿の見えない魔物」と云う意味だと解説する向きが強いが、もう一歩踏み込むと、「水面に広がる円形の波紋の下に潜むもの」、すなわち、「泉の神」とでも解釈すべきなのであろう。

そして何よりも、「磐裂神・根裂神」を「甕速日神」「樋速日神」と云う太陽の神と対置させた『記紀』の手法は、古代日本人の天体宇宙観を示しているようで興味深い。何故なら、「日光」の信仰に先立つ「磐裂神社」の信仰が「太陽神」と対極的に配された「北極星」の信仰であるならば、それは、「日光東照宮」の「社殿」が真南を向いており、南中する太陽を真上に掲げるだけでなく、「北極星」が「社殿」の真後ろから出ると云う構造になっていることとも、象徴的なレベルで深く関係していると思われるからである。そもそも、我が国の各地に見られる「北極星」信仰自体が、このような形で「太陽信仰」と根深く連携していると、筆者は考えているのである。

*

結局、「勝道上人」の逸話は、後の「日光」の優勢に対して、元はこの地に「磐裂・根裂」の両神が土地神として祀られていたのだと云う、歴史的な事情を暗に示すと共に、「日光信仰」がそれをまたみずからの対極的な生成要素として取り入れていった経緯を表しているのかも知れない。「日」は必ず「夜」に吸収され、そこで英気を養い、翌朝、ふたたび輝きを発するのである。また、「星」は、元々我が国の古代の人々の想像力の中では、闇の中の道案内と云うイメージがあった。これもまた、「日光」に先立つ道先案内と云う寓意を有しているのであろう。

この永劫の循環の中で、「明星」は、やがて来る「夜明け」を予見し、先導するものと云う象徴的な意味合いを帯びているのであり、東の空から紫雲を巻き起こして太陽が昇りくることをイメージした「日光」のシンボリズムに対して、「明星」としての「磐裂神」は、それを先導する黎明として位置づけられているのではなかろうか。



c) 「所野・磐裂神社」訪問

さて、訪問記に戻ろう。

車を降りて、左右に水田を見つつ、緩やかな坂を上って、小学校の西北隣りに鎮座する神社へと向かう。道が左へと上って見えなくなる台地の麓で、神社への参道は右へと分岐している。ここの角には、立派な「庚申塔」が立てられてある。正面上を見上げると、憂いありげに半跏思惟の姿勢で肩頬を手につく「如意輪観音」様が二体と、幾多の石仏が、杉などの林立する森の縁を背にして見える。


「庚申様」に一礼して、右への参道を辿る。実際にはこの道が参道なのかは、はっきりしない。何しろ、道をまっすぐ進むと小学校の施設の前に辿り着くからである。この道の半ばくらいに、神社の境内へと上がる石段が南向きに設けられている。

丘の上に鳥居の立つ、参道正面に向かって立つと、石段上り口の右手に、いくつかの記念碑などが建てられ、その向こうには「東参道」と呼ばれているらしい脇道も見える。この「東参道」の坂道の台地側の斜面にも半跏思惟の「如意輪観音」が二体、「十九夜供養」の石仏があり、その向こう側に「馬頭観音碑」があった。

しかし、それにしても、何故こんなにも近い距離に二つの参道が必要なのだろうか。境内奥にある地区の集会所に集まる便宜上の理由なのかも知れないとも思った。あるいは、以前は別の神仏を奉祭する御堂が、境内の西寄りの広場にあったのかもしれぬ。このすぐ後に見るが、正面の石段を上った先には御堂が一つ立つくらいの空き地が不自然にあり、しかも現在の「社殿」は、その右斜め奥に鎮座するのである。鳥居から見て、斜め奥に「本殿」があると云うのは、やや異例であろう。しかし、今の段階では、これも単なる憶測に過ぎない。そして、筆者の中には別の憶測もあるのだが、それは後に譲ることとしよう。もっとも、単に石段の「男坂」に対する「女坂」だと云うだけかもしれない。


「東参道」の石仏群のさらに向こうには、「所野鎮守 磐裂神社東参道」と墨書された白木の標柱もあり、はっきりと社名が読み取れる貴重なよすがとなっていた。筆者は、右手の「東参道」には進まず、そのまま中央の石段を伝って、上の境内台地へと歩を進めた。


石段は、さほどの高さではなく、難なく登れるが、地元の人はやや補修の必要を感じているのか、仮説のような金属の手摺が右側に設けられていた。上の石鳥居は、非常に背が低く、さほど弛んでいる訳でもない細い注連縄が、顔が当たるほどであった。不思議だったのは、石の鳥居の構造である。上の写真だと分かりにくいが、そして実際に肉眼でも気づきにくいのだが、「貫」を中心とした部分に、銅か何かの金属が葺かれているのである。鳥居の左には苔蒸した水鉢があった。


鳥居の黒っぽい扁額には、草書に近い行書で「磐裂之神」と掲げられており、知らぬものにはかなり読みにくい体裁となっていた。境内の奥まった方、「社殿」の近くには、何対かの石灯籠が見えるが、境内入口付近には、石灯籠は一基だけ、そして狛犬らしきものは一つもなかったという点では、やや変わった神社と云えよう。灯籠は、文化五年 (1834) 銘の「男体山灯籠」と思われる。鳥居脇の斜面の際を左へと進むと、下から見た石仏群の前に出ることとなる。


鳥居の向こうの正面、境内の奥側は一面の杉林となっており、真右の一段下がった土地には「所野集落集会所」がある。おそらくはお祭りの時などは社務所なども兼ねるのだろう。

ここの社は、「所野地区」の古くからの鎮守様で、戦時中は、出征する兵士の祈願をここで行なって、歓呼の声で送り出したと云う。時代は変わり、社も集会所も、いまは丘の上から静かに小学校の庭を見下ろしている。


そして、斜め右方向には、「社殿」がある。地方の小さな神社にはよくあることだが、見た目は木造の倉庫のような、何の変哲もない建物である。前に注連縄やら覆い屋の部分がなければ、まず神社だとは断定出来まい。屋根は、赤い銅板仕様になっていた。


そして、驚くべきことは、この「社殿」の前の石灯籠である。さきほど、遠くから見たときは「何対かの」と記したが、実際にはこちらも奇数基しかなかったのである。合わせて三基、一対半と云った勘定である。


格子の隙間から中を覗くと、小振りながら立派な丹塗りの祠が見える。この祠が「拝殿」で、木造の建物はそれを遮蔽する「覆殿」、御神体は別の自然物として存在するのか、それとも木造の建物が「拝殿」で、丹塗りの祠が「本殿」なのか、不勉強な筆者にはちょっと判断がつかない。おそらく、前者であろうとは思う。

「日光」周辺に多い「磐裂神社」は、みな、「神橋」近くの「星の宮」を分祀したもので、「明治」の「神仏分離令」によって「磐裂神社」と改称したものがほとんどである。ここの社とて例外ではなく、かつては「星の宮」と号した歴史がある。また、祭神は当然「磐裂神」「根裂神」であり、「明けの明星」「宵の明星」と呼ばれる「金星」の二つの様態を陰陽の神に見立てて祀っていると云う。


「社殿」の向こうには、さらに上の丘へと登る石段があり、そこには小さな「三峰神社」の祠が祀られていた。あるいは、例の「東参道」は、この「三峰様」に向かったものなのか。石段の手前の欅の木のもとに、「三峰神社」の標柱が立てられていたが、その下の方に小さく「火乃神」と丁寧に解説されていたのが微笑ましかった。


しかし、この神社で圧巻なのは、上に述べた「社殿」に至る手前、鳥居をくぐって左手、ほぼ正面の広場を三方取り囲むように並ぶ石祠群である。この石祠群の中には、二体ほど一見地蔵様に見える神像が佇んでいる。そして、よく見ると石祠には、「幣束」などが納められているものも多くあり、一つには束帯姿の神像までが納められていた。「金毘羅様」かとも思ったが、あるいは「天神様」かも知れず、確証のあることは云えない。


二体の地蔵もどきの神像は、大小あり、いずれもよくよく見ると頭にぴたりとはまった頭巾を被っている。近くには「大黒天」の石碑もあり、また謎の「丸石」も台座に据えられ、祀られている。「丸石」はいくつかあったように思う。


この神社の境内には、「天照大神」「滝尾社」「稲荷社」「山神社」が祀られていると聞いたのだが、正直云って、どの小祠かどれだかは判別出来なかった。ただ、ここの「滝尾社」については、今回、その由緒を少し聞くことが出来たのだが、それについてはこの項の最後に付け足しの形で書くこととする。

そして、小さい方の神像の右脇に、ややそっぽを向くようにして坐しますのが、われらの探し求めてきた「猫神様」である。別にそう呼ばれている訳ではなく、誰もその由来は知らないようなのであるが、ぽつんとあまたの神様たちの間に座っているのである。見た目が、猫なので、「猫神」と呼ぶのである。

「猫神」と関係があるかは分からないが、ここの神社には「関白天下一青木流」と云う伝統的な「獅子舞」が、今も奉納されている。必ずしも明確な連関性が見つけられる訳ではないが、各地の「猫神」を訪ねて廻ると、しばしば古式ゆかしい「獅子舞」の伝統とぶつかることがある。ここの「獅子舞」は、昭和五十四年 (1984) に「日光市」の無形民俗文化財にもなっており、安永二年 (1773) に、「河内郡羽黒村関白 (現・宇都宮市) 」から伝承されたものと云う。あるいは、やや下って文久年間 (1861-1863) に、同じく「関白」の「青木寛十郎」が伝えたと云う説もあるそうである。

かつては、お盆や八朔 (八月一日) などにも奉納されていたが、後継者不足から昭和二十七年 (1952) に一端には断絶した歴史がある。しかし、平成八年 (1996) になって、地元の人々の努力の末に、ようやく本格的に再興されたのである。





d) 蛇足 : 「所野磐裂神社」で見かけた「猫神様」

ちなみに、この「磐裂神社」参拝中に、杉林の奥から、本物の白っぽい猫様が降臨した。「猫神様」の眷属かなどと勝手なことを云いながら、切り株の上に、よくほぐした「イナバの焼きかつお」を捧げものとして奉り、遠くから御猫様がすべて御召上げになるのを確認してから、静かに昼前のお社を後にした。

*

余談なのだが、白っぽい御猫様は、実はわれらがその存在に気づくだいぶ前から、じっとこちらの様子をうかがっていたのである。家に帰ってから写真を整理していたら、写真中に小さく御猫様が映っていたのだから、吃驚。やっぱり、神様だったのかなあ...。



上に掲載した写真に写っていた御猫様!!
どの写真だか、分かりますか?


「所野」の「磐裂神社」の地図は、こちら

今回は、「磐裂神社」の地図内表記がしっかりしていると云うことで、「ちず丸」を使用しました。


参考文献
・倉野・武田/校注 (1958) 『古事記・祝詞』日本古典文学体系 1、岩波書店
・坂本ら/校注 (1967) 『日本書紀』日本古典文学体系 67、岩波書店
・渡邊・宥勝/校注 (1971)『三教指帰・性霊集』日本古典文学体系 71、岩波書店
・田代善吉 (1934) 『栃木県史 第三巻 神社編』下野史談会
・今市市史編纂委員会/編 (1982) 『いまいち市史 通史編』今市市
・神社新報社/編 (1994) 『日本神名辞典』神社新報社
・日光ふるさとボランティア/編 (1996) 『もうひとつの日光を歩く』 随想舎



<strong><span style="font-size: large;">※附・「所野滝尾神社」と「円空仏」</span></strong>
<div style="margin-left: 40px;"><strong><u><span style="font-size: x-small;">

所野</span></u>
滝尾神社</strong>
日光市所野 968</div><div style="text-align: center;">
<img src="http://blog-imgs-43.fc2.com/n/e/k/nekonokamisama/201006050200594d6.jpg" alt="" /></div>
実は、「所野」の地には、「滝尾神社」と云うれっきとした小社が、「磐裂神社」から歩いて二百メートルほどもない位置にいまでも奉祭されている。かつては「磐裂神社」とほぼ地続きの形で、今は「所野小学校」の敷地内に当たる土地に鎮座していたと云う。それが、昭和三十九年 (1959) に、小学校の校舎拡張の工事に伴って、現在の土地に移されたのである。いまの境内は、小学校の体育館の南方、民家と杉林に挟まれた放棄地のような場所で、外来のものにはなかなか一見では見つからない奥まったところにある。地元の人に聞いても、分かる人はあまりいないようであった。

「所野小学校」の南側の路地を歩いていくと、校庭の東南の角で丁字路になる。この丁字路の右側の路傍には、四五基の石仏が草の中に据えられていた。ここを直進して歩いていくと、その先の突き当たりの右手の杉林の中に「滝尾神社」が現れる。こう云うと非常に簡単そうに聞こえるかもしれないが、実際には少しばかり探しまわってから発見したのである。

ここの神社は、神社と云っても、非常な小規模なもので、小さな祠が伸び放題に伸びた草叢の中にぽつんと立っているだけである。正確には、その斜め右後方に、庚申碑も立っているから、ぽつんと云ってもひとりぼっちと云うことではない。門扉も閉ざされ、額もないため、知らなければ何の祠であるからは分からない。ましてやこれで中々の由緒のある神社であろうとは、神ならぬ身の何とやらで、到底想像のつくものではない。

境内は、疎らな杉林の中のわずかばかり開けた場所、とでも云えばよかろうか。非常に低い土饅頭となっており、神社を移す時に神域らしく盛り土したのか、何らかの風化した塚の跡なのかは、誰に聞いても分からなかった。でも、たかだか昭和三十九年のことを老人たちが分からないと云うのだから、おそらくは前からあったのではないだろうか。

このわずかな草の生えた塚の上へと、実際には使わなくても難なく登れそうな数段ばかりの風化した石段を踏んで上がる。正面には、赤い銅板葺・流造りの小さな木造の祠が佇んでいる。祠の右後方には、駒型の立派な「庚申塔」が見える。「寛文十一辛亥天三月吉日」銘の古い石碑である。梵字の種字があり、「奉精誠庚申待供養之攸」「檀衆」「導師恵會坊」「敬白」と刻されていた。ちなみに、筆者は梵字が読めぬ。後で調べたら「カーン」と云う字らしい。ただし、自信はない。

「日光山」内の「滝尾神社」本社の分祠と思われるここの社は、「社殿」内の小さな朱塗りの「本殿」に、主祭神として「田心姫命 たごりひめのみこと 」の木造彩色座像を祀っている。掛軸には「太紀理比売尊 たぎりひめのみこと 」と書かれていることからも分かるように、ほとばしる水流を神格化した女神であり、「水神」「龍女」であると云う点において、「磐裂神社」とは信仰の類型が近接する神様である。また、「栃木県内」の「磐裂神社」群が、「行川」や「思川」に沿って広がっていった形跡があることは既に述べた通りだが、この「思川」と云うのは、「田心」と云う字を縦書きにしているうちに、一文字に集約されてしまって「思」になってしまったと云う経過があり、元は「田心川」とでも呼ぶべき川なのである。
<div style="margin-left: 40px;">
中里氏云、当郡網戸 くじと 村ニモ胸形神社アリテ思川ト云フ川傍ニ坐リ思川ハモト田心川ニテ田    心姫ノ御名ニ由リテ胸形三女神ノ御社モ此地ニ坐セル也サテ田心ノ二字ヲ一字トシテイツノ程ヨ    リカ思川ト云ヒナラヘル也此地ノ社式内ニテ寒川村ナルハ式内ナル社ニアラズトゾ</div><div style="text-align: right;">
伴信友 (1813) 『神名帳考証』文化十年
<span style="font-size: x-small;">谷川健一/編 (1983) 『日本庶民生活史料集成』第二十六巻「神社縁起」三一書房</span></div>
したがって、「磐裂」信仰と「田心姫」とは、両者が共に「逆巻く水神」と関連する神格であることや、「田心姫」のことを『記紀』ともに「天照大神」が「須佐之男命/素戔鳴尊」の「十握剣 とつかのつるぎ 」から出現させた神としている点でも、「伊邪那岐命/伊弉諾尊」の「十拳剣 とつかのつるぎ 」から「磐裂根裂」の神が化生したことアナロジーをなしており、両神の間に原初的なつながりを持っているようなのである。ただ、どのような関係があるかに関しては、「水」「龍」つながり以外では、確定的なことは何も言えない段階にしかない。今後、より一層の調査考究が筆者に要される。ただし、「田心姫」については、またいずれ、「走り大黒」に関して論じる稿で触れたいと思っている。

祠の中には、朱塗りの「本殿」が祀られ、中には祭神の「田心姫」の座像が鎮座している。かつては、その両脇に「稲荷様」の像など三体が祀られていた。姫の像と合わせて四体、すべて木像で、姫と稲荷の一つは彩色を施されている。彩色された「稲荷様」は「荼枳尼天」のようで、「白狐」の背中に立つ女神として彫像されている。もう一つの「稲荷様」は、年代を重ねて色は黒ずんでしまっていたが、白木造りの素朴な狐像であり、その隣りには白木造りの大黒様もいらした。

問題は、上に記した白木造りの「稲荷像」なのである。筆者が大学院に進んだ頃に、「日光」探索の旅をした折りには、いまだこの「稲荷大明神」の木像は祠の中にあったが、いまは「日光」の中心地にある美術館に保管されている。おそらくは、平成九年 (1997) に「日光市」が「小杉放庵記念日光美術館」を開くに当たって、警備上の理由からこちらに移管したのだと思われる。
<div style="text-align: center;">
<img src="http://blog-imgs-43.fc2.com/n/e/k/nekonokamisama/20100605020242bca.jpg" alt="" /></div>
「所野滝尾神社」は、近隣の五軒ほどの氏子が守り続けてきたささやかな神様である。その小さな御堂の中に保管された、これまた荒削りの素朴な狐の彫刻の裏には、実は次のような作者銘が墨で記されていたのである。

 日光山一百廿日山籠
 ウン (梵字) 稲荷大明神
 金峯笙窟 円空作之

いわずと知れた「円空」である。年代は記されていないが、おそらくは天和二年 (1682) の「日光参籠」のとき、「円空」五十一歳頃の作品と考えられている。「円空」は、その七年後の元禄二年 (1689) にも「日光」を訪れているので、そのときであった可能性もある。
<div style="text-align: center;">
*</div>
ちなみに、「円空」作「稲荷大明神木像」の頭部に見られる大きめの四つの穴は、何か作為による造形ではなく、ただの虫食いの穴である。他の部分に見られる、小さな穴も同様である。いずれにしても、数ある「円空」の作品の中でも、「稲荷大明神」の作品は数が少なく、貴重なものだと云える。

「日光」地域の拙い祠堂から、近年見つかったもう一体の「円空仏」に関しては、次回の「磐裂霊水」の記事で記すこととする。


「所野滝尾神社」の地図は、<a title="こちら" target="_blank" href="http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=502690.221&Y=132290.834&SCL=1060">こちら</a>。

上の地図も「ちず丸」を使用しました。



<strong>参考文献</strong>
・倉野・武田/校注 (1958) 『古事記・祝詞』日本古典文学体系 1、岩波書店
・坂本ら/校注 (1967) 『日本書紀』日本古典文学体系 67、岩波書店
・渡邊・宥勝/校注 (1971)『三教指帰・性霊集』日本古典文学体系 71、岩波書店
・田代善吉 (1934) 『栃木県史 第三巻 神社編』下野史談会
・今市市史編纂委員会/編 (1982) 『いまいち市史 通史編?』今市市
・神社新報社/編 (1994) 『日本神名辞典』神社新報社
・日光ふるさとボランティア/編 (1996)  『もうひとつの日光を歩く』 随想舎





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