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栃木県の猫神・「ひしや」の眠り猫

.05 2010 関東地方 comment(2) trackback(0)
栃木の猫神を求めて 2)




1. はじめに

真っ先にお断りせねばならぬのは、今回の記事が「栃木の猫神を求めて」の五回シリーズの中で、最も主題から逸れていると云うことである。途中、「ひしや」の猫看板を楯に取って、「猫神」取材の体を装っているが、今回はそれ以上のものは「猫」に関してはない。しかも、「ひしやの猫」を紹介するのは、これが主たる目的ではなく、飽くまでも付けたりなのである。

「猫」の民俗的なイメージ性の古層に「水神・雷神」のイメージが潜んでいることを少しずつ論じていくことを全体の目標としている筆者としては、「磐裂神社」の信仰とも関連することなので、「日光」地域にある二つの「磐裂の水」を巡ることは、必ずしも「猫神」探訪の主題から乖離している訳ではないのである。したがって、「磐裂の水」の絡みで、「日光の水」事情には、やや踏み込んで記すこととなる。これにはさして深い意味はない。

まあ、どっちかと云わずとも、今回は「日光の名水紀行」のような体裁になってしまった。



2. 「鉢石」の「磐裂神社」と「磐裂霊水」


「磐裂霊水」の水場


a) 「神橋」


「神橋」

「二荒山神社神橋」は、「日光市街」から「日光東照宮」「二荒山神社」のある丘へ向かう途中に出くわす、「大谷川 だいやがわ 」に架かる朱塗りの橋である。「岩国」の「錦帯橋」、「大月」の「猿橋」と共に、「日本三奇橋」に数えられる。大同三年 (808) に「国司・橘利遠」の命で、「山崎太夫長兵衛」が橋を架けたのが初めと云われる。

両岸の天然の岩穴に「乳の木」と呼ばれる橋桁を差し込んで造る独特の工法で、十六年に一度、架け替えが行われてきた。今あるような朱塗りの橋になったのは、寛永十三年 (1636) と云う。「江戸期」には、「将軍」及び「例幣使」そして「峰修行者」以外は通行を禁じられていた。

この橋には、また「山菅の蛇橋」と云う、ややおどろおどろしい別名もある。天平神護二年 (766) 、「日光開山」の「勝道上人」が「男体山」の登頂を目指す途中、「大谷川」まで来て立往生していると、「深沙大王」が現れ、赤と青の蛇二匹を投げて橋となし、その背に山菅が生えて人も渡れるようになったと云う伝説による。「江戸期」の橋は、明治三十五年 (1902) の洪水で流失してしまったため、現在ある橋は、明治三十七年に再建されたものである。現在は、国の「重要文化財」の指定も受けている。

今は渡ることは出来ないが、二百円払えば、行って帰ってくることは出来ると云うから驚く。食べ物は食べるためにあり、飲み物は飲むためにあると思っている筆者は、橋は渡るためにあると思っている。行って帰ってくるだけなら、「橋風 はしふう 展望台」とでも名前をつければよい訳で、保存のために渡らぬ橋と云うのは、何を保存しているのだろう。橋は、その物理的構造だけでなく、その機能をも含めて橋なのだから...。まあ、確かに橋桁が鳥居の形をしているだとか、構造的にも興趣の尽きない橋ではある。

もちろん、実際には橋の対岸が幅員の狭い国道となっており、交通量も多いため、不要な混乱を避けると云う意味もあるとは思う。だから、この件に関して、「坊主憎けりゃ」の伝で、ミソもクソもなく批判しようとは思わないが、やはり「橋は渡るもの」と云う考えは残る。

「神橋」の南袂には、団体客の押し合いへし合いする喧噪からは無視され、大型バスの出す煤煙にまみれつつ、ひっそりと立つ一つの句碑がある。碑面には次のように刻まれている。


二荒や紅葉が中の朱の橋   与謝蕪村


b) 「鉢石」の「磐裂神社」本社

磐裂神社

星の宮

日光市上鉢石町 1114-1
例祭 七月三日


「神橋」の南袂から高級リゾートホテルの走りと云える老舗「日光金谷ホテル」への坂道へと入り、約二十メートルほど上る坂の左カーブ右側の林の中の一段高いところに、小さな朱塗りの祠が鎮座している。旧参道入口からの小径は荒れていて、足場も悪くなっているが、反対側からの登り口は綺麗に整備されていた。おそらく、いまはこちらが参道なのだろう。

鳥居の向こうが本来の参道。したがって、こちらからだと鳥居の手前に「社殿」がある。


ここのお宮は、地元の人からは「星の宮」と呼ばれ親しまれているが、各地に鎮座する「磐裂神社」の総本社なのである。朱塗り・流造の「社殿」は小さく、迫力には欠けるが、石積みの瑞垣で左右後方を取り囲んでいる。

境内には「江戸初期」のかなり古い「庚申塔」や石仏なども見られ、この社の由緒の深さを物語っている。

星の宮 磐裂神社

                      御祭神 磐裂神
                      御例祭 七月三日
                      御神徳 諸願成就・厄除・開運・事業繁栄

当社は僧勝道が磐裂神 (明星天子) の御加護を得て日光開山を完遂し得たその神恩報謝から大同四年 (八〇九年) 創建したと伝えられ日光山最古の社である。

奈良・平安・鎌倉・室町の各時代には修験者の霊場の一つとして又御神徳宏大なことから戦国武将の篤い尊崇を集めて栄えた。その後一時衰微したが東照宮の鎮座に伴い再び徳川幕府の篤い庇護を受けて社殿改修・諸祭典・神事 (湯立) の復興等が行われると共に諸願全て成就するとの篤い信仰の基に遠近よりの参詣者で大いに賑った。

現在日光市東町 (上中下鉢石町 石屋町 松原町) の総鎮守 社殿は昭和五十五年に改築されたもの である。

現地説明版より


c) 「鉢石」の「磐裂霊水」

日光のおいしい水

磐裂霊水

日光市上鉢石町 999

「星の宮・磐裂神社」のある坂を下り切った国道119号・日光街道との交差点に「磐裂霊水」の水場は設けられている。国道に沿ったいわゆる「日光」の中心地にあるため、比較的見つけるのは簡単な名所であり、元祖「名水百選」の候補にも挙げられていた湧き水である。この日の水量は、さほどなく、立ち止まって喉を潤す人も、この日の異常な冷え込みのせいか、一人もいなかった。

ここの湧水が「磐裂霊水」と云われる由縁は、おそらく国道の向かい側の坂を上る途中に、「日光開山」の「勝道上人」が最初に開いたと云われる「磐裂神社」があるためだと思われるが、やや離れているここの湧き水にまでここの社名が何故つくのかは分からなかった。

「磐裂霊水」の脇には、次のような説明板が掲げられている。

日光のおいしい水   磐裂霊水

千二百余年前日光閉山の祖勝道上人がこの地に清水を発見し、以来修験者が神仏に巴田霊水と伝えられる。この水は男体山系の湧水で、日本でも美味しい水として定評がある。

現地説明板より

ちなみに、ここの水は本当に美味しい。でも、この「日本でも美味しい水として定評がある」と云ういかにも曖昧な表現は、書いた当人はきっと大真面目であったと思えばこそ、なお一層、可笑しくてならない。しかも、その割には知名度低いなあ、と云わずにはいられない。

しかし、この「日本でも美味しい水として定評がある」と云う表現がどうしても気になったので、後に「日光市」に問い合わせてみることにした。すると、実に丁寧な御返答を頂き、この表現が決していい加減でも曖昧でもなかったと云うことを知って驚いたのである。絵解きをすると、次のようになる。

昭和五十九年 (1984) 四月三日の新聞に、旧「厚生省」が全国の市町村から、特に水道の水源水がおいしいと推薦された五ヶ所の水を調査した結果、旧「日光市」のものをその中でも「特においしい水」と認定したと云う記事が載せられ、一時、「日光」の町では誰もが口にするほどの話題だったと云うのである。確かに「日光市」の水は、水道からして美味い。

ここの水は、国道沿いの観光地の中心地に紛れるようにあるため、寒い日でなくともあまり顧みられることは多くないのだが、こんな冷え込んだ日はなおさら人が寄り付く気配はなかった。元々は、旧「環境庁」による元祖「名水百選」の候補にも挙げられていた湧き水であるだけに、なかなか美味しい水なのである。人は、飲食物を味わうとき、どうしても周囲の雰囲気などの物理的な諸条件にその評価を左右されやすい。「磐裂霊水」の場合、水量も多くないし、街中にポツネンと湧いているだけに、何だかきれいな水と云うイメージと結びつかないのだろう。そして、ひとくち含んでも、普通にうまいくらいにしか思わないのである。これが山の中の岩場から迸る清水であったならば、きっともっと平板な味の水でも、美味しいぃ!! って、多くの人が云うに違いない。

ただし、一つだけ残された謎も紹介しよう。市役所への問合せの結果、分かったことは上記のことの他いくつかあったのだが、その中で「日光の水」の水源に関わるものがある。「日光」の各所に設けられた「日光のおいしい水」の水場は、実はどれも自然湧水ではないと云うのである。当然、「天海僧正」の横の「磐裂霊水」もそうだと云うことになる。それぞれの水場に流れているのは、「日光」の水道水と同じ水だそうで、水源地は「大谷川」の支流「荒沢」だと云う。元々が綺麗でおいしい水だけに、塩素消毒など忘る必要もないようで、水道水がそのまま水場から供出されていると云うのである。確かに、『茶経』をものした「陸羽」も、最も美味しい水は流水だと云っていた。

*

さらに後日分かったことだが、この「天海僧正銅像」と「磐裂霊水」のある整備された広場は、正式には「日光だいや川公園」と云うらしい。そう云えば、ベンチなどもあったし、公園と云えば公園だった。


d) 「天海僧正」像

ついでと云っては何だが、「磐裂霊水」の近くには、「板垣退助」や「天海僧正」の像などが立てられている。

まずは、「磐裂霊水」の先にある「天海大僧正」の銅像から紹介しよう。

「天海僧正」と云えば、「家康」に仕え、「家康」の死後、遺言通りに遺骨を「久能山」から「日光山」に移した人物である。「川越」の「喜多院」を初期の活動拠点とし、晩年に「上野・寛永寺」を創始した「天台宗」の坊主と云えば、分かるだろうか。

「天海」が「日光」の第五十三代貫主になった頃、「日光山」は、「豊臣秀吉」にすべての寺領を没収されて、荒廃の極にあった。「天海」は、一代にして、衰微した「日光」を、当時の日本最大の霊地へと変換していったのである。

「天台宗」の「本山」たる「比叡山」で培われた「天台密教」は、「三輪大神」を勘定した「日吉大社」の信仰と習合する形で、独自の神道系修験道を発達させたのだが、それを「山王一実神道」
として大成し、「日光」をその霊場として再整備するのに力を尽くした僧である。「家康」の死後、その諡号の選択を巡って、「吉田神道」の立場から「明神」号を採るべきと主張する「金地院崇伝」と争った末に、「山王一実神道」の「権現」号の採択へと漕ぎ着けたのは有名な話である。「家康」の有名な神号「東照大権現」は、かくして決定したのである。


天海大僧正 (慈眼大師) 銅像

天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。

天海は、寛永二十年 (一六四三) 一〇八歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。

現地説明板より



e) 「板垣退助」像

「天海大僧正」とは、道路を挟んで反対側に、「戊辰戦争」の戦火から「東照宮」を守ったとされる「板垣退助」の銅像もある。「会津」では、徹底した破壊者として知られる「板垣」も、ここ「日光」ではやや英雄気取りににやついて立っている。我々が一般に見慣れている白い髭を一文字に左右に伸ばした老人の姿ではなく、三十二歳の壮年期の姿を映したものと云う。

「板垣」は、「大鳥圭介」を説得して「日光退陣」を実現したとされるが、元々「大鳥」は「日光滞陣」を嫌っており、退陣がどこまで「板垣」の手柄であったかは、正直怪しい。まあ、歴史と云うものは、都合のいい時に都合のいい位置にいたものが名声を掠めとっていく傾向があるのだから、これも是とする他ないか。


壮年の板垣退助伯爵

*
しかし、やはり誤解を誤解のままにしておくのは、気持ちの座りが悪いので、ごく簡単に、「日光」が戦火を逃れた前後の事情を、当時の資料に基づいて振り返ってみたい。

まず、最初にはっきりさせねばならない誤解と云うのは、「大鳥」ら「幕府軍」が「日光」に立て籠ったと云うものである。「板垣」の銅像の下の立札にも、「日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍」と書かれているが、これは完全な誤りで、「幕府軍」が宿陣していたのは「今市宿」及び「鉢石宿」である。いまでこそどちらも「日光市」だが、「幕末」の当時にあっては明白に「日光山」とは異なる自治体 (今風に云えば...) だったのである。

「日光山」は、確かに天然の要害をなし得る地形を誇るため、「幕府軍」としてはここに籠城すると云う選択肢も十分にあり得たはずであり、実際、「官軍」の総司令官だった「板垣」もそのことを強く警戒していた形跡がある。「板垣」は、「日光山」の末寺である「飯塚」の「大林寺」の住職「厳亮」を「日光」の本山へと派遣し、「幕府軍」の受け容れを拒否させる工作をしている。ただ、「厳亮」は「日光」に入るや否や、「幕府軍」に捕えられて、山中に幽閉されてしまったため、この工作は、実質的な段階に入る以前から、まったくの徒労に終わってしまっていた。

この後、「板垣」は、「日光山」で戦火を交えることに積極的な姿勢を打ち出していく。そのことは、四月二十六日に「板垣」が「東山道総督府」に宛てて送った書簡における以下の記述に如実に現れている。

徳川社稷の儀は立ち置きなされ候との御主意の処、その宗廟を兵乱にかけ候儀恐入候へども、賊徒擁し居り候上は、用捨し難く御座候間、その御聞き取り下され度候

東大史料編纂所/編 (1975) 『復古記 第十一冊 東叡山戦記・東山道戦記・北陸戦記 1』東大出版会

実際、「大鳥」に「日光退却」を進言・説得したのは、「官軍」の「谷干城」や「松山藩主」の「板倉勝弼・勝静」親子、さらには「日光」の行政を預かる「日光奉行・新庄右近」などであった。

「谷干城」の『東征手記』には、「日光山」側から「桜本院」と「安居院」の二名が遣わされ、「土佐軍監」であった「谷」に、「御進軍御差止下されたく」と懇願してきたことが記されている。「谷」は「貴僧如何計り懇願すとも、賊を篭りたるを知りながら、私に軍を止む事は出来ず」と突っ返した上で、ただ、「大鳥」には、神廟に放火するのは忍びない故、「官軍」に当たるか軍門に下るか決めよと通達することに決め、この二僧をそのまま「大鳥」の元に派遣したようである。

「日光奉行」の「新庄」などは、大人数での駐屯は、米も塩も少ない土地では僧俗含めて共に大きな迷惑がかかると、はっきり申し立てている。

鎮台新庄右近将監、県令山源七郎ヘ糧穀ノ談ニ及フ。二官曰、先ニ彦根兵来テ金穀ヲ募ル、故ニ止ムヲ得ズ倉庫ヲ開テ尽ク興フ、故ニ今一粒ノ蓄穀無シ。唯僅カニ街吏ノ俸禄ニ給スル者有ルノミ。然レドモ、二千ノ兵ヲシテ喰フ時ハ、尚十日ニ出ヅベカラズト云。

浅田惟季『浅田惟季北戦日誌節略』四月二十四日条
東大史料編纂所/編 (1975) 『復古記 第十一冊 東叡山戦記・東山道戦記・北陸戦記 1』東大出版会

「日光」に潜居していた「板倉」親子は、「家康神廟」に血を注ぐと忠誠も却って水の泡になると説諭している。この下りは、「大鳥」自身が後年記した『南柯紀行』の記述に詳しい。

宇都宮落城以来板倉候父子寺院に潜居せられし由、使を以て予を招かれたれば直ぐに行きて逢ひしに、格別の卓見も無く唯此地にて干戈を動かしては廟前へ血を濺ぐに至り、忠誠を却つて水泡抔と旧に依て因循の輪なり、是れ尤一山の僧徒より頼み入て予に話せしことと覚えたり、愈々防戦と決心其手筈調ひし上は、仮令弾丸神廟に触るゝといへども無拠次第なり、唯防禦の策未だ相立たず苦辛せりと答へて帰れり。

大鳥圭介『南柯紀行』
大鳥圭介ら (1998版) 『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社

「たとえ、弾丸が神廟に当たるとしても、よんどころない次第だ」と一応は答えつつも、それを追っかけるように、「ただ防御の手立てがいまだに立たず苦慮している」と述べてから辞している辺りに、「大鳥」の真意が滲み出ている。『南柯紀行』には、他の箇所でも、この時、武器弾薬が極度に不足していたことを慨嘆する場面があり、そのことを「日光奉行・新庄右近」の対応から判じると、実際には「大鳥」による「日光退却」は、兵糧や銃弾の圧倒的な不足が主たる原因と推測することが出来る。物資が不足していて、籠城は出来ぬ。

実際、「大鳥」は、すぐに全軍に対して、「日光」参廟後は直ちに「今市」に下ることを通達している。

明日は早朝より序次を定め新廟に拝謁し、直ぐに今市へ下るべしと令を伝へり、本日は格別の変事もなし。二十七日早起色々事務を弁じ新廟を拝せり、新廟は兼て承はりしにも勝る美麗壮観なれども、兵隊進退のことに心を砕き且斯の如き偉大の霊地も最早今日までにて、後来如何なる形勢に遷り行くべきやと悲泣に堪へずして、そこそこにして神前を下れり、夫より、旅館に帰り兵隊を今市に出し予も午後より今市に帰れり。

大鳥圭介『南柯紀行』
大鳥圭介ら (1998版) 『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社

結局、色々な資料を当たっていて一番驚くのは、手柄を全て独り占めしている「板垣」のみが、「大鳥」を説得した形跡が皆無なのだ、と云うことである。皮肉にもほどがありはしないか。それにしても、一体誰が、昭和四年の際、「板垣退助」の像を建てようと言い出したのだろうか?

*

簡略にだが、書くだけのことは書いたので、以下は現地の説明板を紹介し、その補足事項を列挙して終わりとしよう。

板垣退助銅像

板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家。

明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐 (高知) 出身。

明治元年 (一八六六) 戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われる。

その遺徳を讃え昭和四年に建立されたが、最初の像は、第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和四十二年に再建。

彫刻家、新関国臣の作。

現地説明板より


現地説明板では、不足する点もあるので、以下、少しだけ箇条書きで補足しよう。

昭和四年 (1929) に造られ、後に軍需徴収で失われた最初の銅像なのだが、こちらを手がけた彫刻家は「本山辰吉 (白雲) 」であった。
参照・『広報にっこう』平成二年十一月一日号、p. 11

この銅像の姿は三十二歳当時の「板垣退助」が、「官軍」の服装をしたものである。
参照・日光ふるさとボランティア/編 (1996) 『もうひとつの日光を歩く』随想舎、p. 32

この時の「服装はブッザギ羽織で、刀をさし草鞋をはいている」
参照・星野理一郎 (1993) 『日光の碑標』自費出版、pp. 129-131

台座を含めて約二・五八メートル (八尺五寸) の高さである。
参照・『日光市広報』昭和四十二年五月号、p. 3



3. 「ひしや」の猫


ひしや羊羹店

日光市上鉢石町 1040
0288-54-0623
9 : 00 - 売り切れまで
不定休

そして、「ひしや」である。

明治元年 (1868) 創業の羊羹の老舗である。ここはいまどき考えられない「羊羹専門店」。しかも、扱う商品は、「日光 祢りようかん」一本千五百円のみ。一日一釜分のみの売り切れ御免の商売である。かつては一人一本限りの販売だったと聞くが、近頃は二三本売ってくれるらしい。どうしてそうなったのかは知らない。

切り分けられた「羊羹」を竹皮で包んだだけの昔ながらの「羊羹」は、側面には、包丁を当てた痕が見え、表面には竹皮の筋が何本となくついている。添加物は一切使用せず、豆は「北海道」の「十勝あずき」だけで作っている。甘みもきつくなく、口当たりもほろりとして良い。古くなってもしゃりしゃり美味い。評判に違わぬ名品であるから、有名店嫌いの人も、毛嫌いせずに試すべし。だいたい、筆者自身が極端な有名店嫌いなのだから (しかも、極端な辛党) 。

ただし、うまい「羊羹」を食べたいだけなら、何も「ひしや」でなくとも、「日光」は何でか「羊羹銀座」の観もあるほど美味しい店が目白押しにある。筆者が「ひしや」にこだわるのは、実は「猫」に絡んでのことなのである。

「ひしや」の二階は、桟格子の重厚な商家造りとなっており、いつ見ても銀鼠に鈍く光る瓦の波が美しい。その瓦に交じって、大きく屹立する瓦焼きの商標看板がある。三つの菱を組み合せた意匠の中に、牡丹の花としゃがみ込む猫が象られている、なかなか凝った図案である。


向かって左側の猫


向かって右側の猫

向かって左側の猫は、左の上には開く寸前の膨らんだ牡丹の蕾みと、その下にはより小さな蕾みが見える。右下には大輪の牡丹、そしてその上には窮屈そうに立つ三分咲きの牡丹があしらわれている。どちらの看板も、かつては彩色されていたらしく、ようく見ると葉にわずかな緑が残っていた。猫の体も所々に白い塗料の痕が見え、猫の真上の飾り部分には青い塗料がだいぶ残っているようだった。変わり菱形の看板枠の下には、空色の塗料が残った雲模様に、雀が二羽あしらわれている。まるまると太っているため、一見しただけでは雀とは分からないのだが、やはりこの鳥たちにも少し色が残存しており、その具合から見て雀と判断できるのである。雀たちの間には竹の葉も見えるが、それよりも看板下に配された四枚の葡萄の葉のような葉は、何なのだろう。

向かって右側の猫は、左とよく似た構図ながら、牡丹のあしらい方が違う。左側は、上に五分咲きくらいの葉のついた牡丹を置き、その下に蕾みを配置している。右は、大輪の座り牡丹を下に、その上に葉のついた膨らみかけた蕾みを配している。こちらの看板は、変わり菱形の下の雀たちがいるのかどうか把握できなかった。でも、何だかいるようではある。

肝心の猫はと云うと、どちらも伏せてしゃがんでいるのに変わりはないが、左のものは顔も、体と同じ正面を向いており、右のものは体の向きから見ると、顔は左を向いている。ただし、体がそもそも右斜め向きに造形されているため、結果として、見上げている人からすると、左手の猫は右を向いているように見え、右の猫は正面を見据えているように映るのである。

どうやら、「東照宮陽明門」の「眠り猫」をモチーフとしているようなのだが、「ひしや」の羊羹の外装にも、眠り猫の図案が描かれていると云う徹底ぶりなのである。要するに、筆者が「ひしや、ひしや」と云うのは、「羊羹好き」からすれば、かなりの邪道なのである。



*

しかし、それにしても、「栃木」の「猫神」を巡ると広言し、かつは「日光」にまで来ておきながら、「ひしやの猫」まで取材して、その大本である「左甚五郎」の「眠り猫」が含まれていないではないかと、思う人のために一言書き添えておこう。

「眠り猫」は十分に有名で、紹介している文など星の数ほどあろうから、何も筆者が紹介しなくてもよかろう、と云うのがここで扱わない第一の理由で、第二の理由は、あそこもやたらと追加料金とるんだよね...と云う筆者のつぶやきに集約される。金が惜しいのではなく、ああ云う遣り口が嫌いなのである。

ただし、「眠り猫」に関しては、有名なのにも関わらず、謎ばかり多い彫刻だけに、そのうち書いてみたいこともあるとだけ告白しておこう。したがって、時期が来れば、「眠り猫」に関しては独立した記事として書くことになると思う。



4. 「和泉」の「磐裂の霊水」

もう一つの「磐裂の霊水」は、「鉢石」の賑やかな観光街に引かれた「磐裂霊水」とは打って変わって、「日光市」の「和泉」地区にひっそりと湧いている。しかも、こちらはまがうことなき自然湧水である。

「日光」の中心街からこの「和泉」地区に向かうには、国道119号線を「今市」方面に戻っていき、途中、国道が緩やかに左へと曲がり出す辺り、「杉並木公園」の西端近くにある「エネオス」と「ファミリーマート」の間の道 (信号の一つ手前) を「月蔵寺」に向かって右 (南) へと曲がらねばならない。信号はないが、それなりの広さはあるので、注意していれば見逃さないで済みそうである。でも、分かりやすい曲がり角ではない。しかし、他にも行き方がある中、筆者がそれでもこの道を選択したのは、単に途中に「月蔵寺」があるからとか、野仏が多く見られるからとかではなく、やはりこの道が全体としては一番分かりやすいからである。


a) 「月蔵寺」ともう一つの「円空仏」

天台宗

泉龍山・実教院・月蔵寺

日光市和泉 239-1
0288-53-5228

右折後、小さな橋で「赤堀川」を越えると、右手に「天台宗・泉龍山・実教院・月蔵寺」の境内を過ぎることとなる。

いまとなってはあまり知名度のない寺だが、この寺は、朱塗りの回廊に囲われた、二重の唐破風造の荘厳な「本堂」を持つ、かなり風格のある寺である。泉水の庭園も美しいので、訪れた際は散策することをお薦めしたい。


草創については詳しいことは分かっていないが、寛文十一年 (1671) 、十二月十三日「輪王寺宮」から「泉龍山実教院月蔵寺」の山院寺の山号を賜り、「妙道院」末に引直すという令旨を戴いて、現在の寺名となったようである。明治四年 (1871) 五月、「妙道院」は廃寺になったが、「輪王寺」と改められて現在に至っている。

ただ、この「月蔵寺」には、不思議な伝承がある。
「砲弾打ち込み杉」で有名な「野口十文字」の近く、「瀬川集落」のはずれに、「瀬川大日堂」と云う御堂ある。周囲には幾多の石仏が散在している、ほとんど野ざらしの仏堂である。かつて、この「上瀬川」の地には、享保年間 (1716-1736) に「洲海大僧都」の中興した「浅草」の「正徳院」の末寺、「宝正山・長禅寺」があったのだが、いまは廃寺となり、石仏の他は、「大日堂」のみ残されている。この「大日堂」は、文化二年 (1805) の『日光道中分間延絵図』や『日光道中略記』にも載るほどの由緒ある御堂であったためか、寺自体はなくなって久しいが、「大日堂」は昭和三十二年 (1957) にも新築されていると云う。

この「大日堂」の地元には、旧「和泉村」にある「月蔵寺」は、古くはこの地にあったのだが、その後、烏有に帰して「和泉村」に移ったと云う口碑が残されているそうなのである。何だか、ひどく中途半端で気になる言い伝えである。

この「月蔵寺」は、「大老・井伊直弼」が「日光社参」の宿坊として三度宿泊したことでも知られており、今でも、「井伊家」ゆかりの品々が残されていると云う。

また、「月蔵寺」の管理下にあった「野口薬師堂」に安置されていた木像が、実は「円空仏」であるということが、平成十四年 (2002) に判明したと云う、話題性のある寺でもある。しかも、この新しく発見された「円空仏」は、「円空」の作品としては現在知られている唯一の「閻魔王」だと云うのである。ただ、人目の無い「薬師堂」では盗難などの心配が絶えないため、「日光」の中心地にある「小杉放菴日光美術館」に預けることにしたそうである。したがって、一度見てみたいと云う人は、お寺ではなく、美術館の方に足を運ばねばならない。

いずれにせよ、「円空」については、いつかまた記事を書くことになるだろう。




b) 「和泉」の「磐裂の霊水」

「月蔵寺」へと向かう右への路地を通過すると、まもなくJR日光線の線路を越えるが、そのまま直進を続ける。その先、右手の畑地と畑地の間に石祠を過ごしつつ、三百メートルほどで、最初の (ほぼ唯一の) 四つ辻に至るので、ここを右へと曲がる。ここで入る道は、旧「今市市」の「平ヶ崎」地区から「日光」へと抜ける裏道となっているため、そこそこ整備されている。おそらくは、国道が出来るまでは地域の中心的な街道だったのだろう。ちなみに、ここの突き当たり部分の右の角には三つ四つの「馬力神」の石碑がある。全国的にはやや珍しいが、この地方では、「馬頭神」を「馬力神」とすることはさほどまでには珍しくない。

旧街道に右折して入ってから注意すべきは、道の左側である。道の右側にはいくつかの (正確には三つ) 道が合流してくるが、これらは無視せねばならない。しばらく行くと右手に「和泉公民館」の小さな立看板がある一方、どれが公民館だかは分からずじまいだったが、これが見えたと云うことは次の曲がり角はかなり近い。しかし、そんなことよりも何よりも、とにかく、四つ辻を曲がってから、四百メートルに欠けるくらいの距離に、初めての左への道が現れるのだが、これに進入することが肝心である。

よく見ていれば、この左への分岐の角に、大きくもないが、さりとて小さくもない「磐裂の霊水」と書かれた案内板が立っているので、気づきさえすれば不安はない。道の向かい側には、この地方独特の石造り・コンクリート造りの土蔵が見え、看板の先に立つ電柱の足元には旧式の赤い消火栓も見える。看板の足元には小さな「馬頭神」の石仏が二つあり、一つは本当に小さい。大抵の人は、案内の看板には気づいても、こちらの石仏にはまるで気づかないだろうから、目印にはならない。


助手席から撮影

さて、左折して入った道はすぐに左への下り坂になり、ここから百メートルほどで、道は一旦「田川」を越えた後、その流れに沿う形になるが、この辺りの竹薮の中に「磐裂の水」はある。車だと、曲がってすぐと云った感じである。ちょうど道が川の谷へと深く落窪んだ辺りである。昼なお暗き道沿いに石碑が一基たち、その脇に鮮烈な水が丸い石鉢へとほとばしる水場がある。




来た道を戻らず、そのまま道なりに進み、最初の分岐を左、次の分岐を右にとると、すぐ目鼻先の「磐裂神社」の参道前に出るので、水を汲んだら、是非、こちらの社に立ち寄って神様に挨拶をしていきたいものである。「磐裂の霊水」は、そもそもがここの神社の宮司さんが命名し、そして整備されている貴重な湧水なのであるから。何しろ、「和泉」と云うここの地名からして、ここの霊水から付けられたと云う説が強いほどなのである。

*

ついでながら記すと、「東京方面」から直接、この霊水を訪ねるならば、日光宇都宮道の「今市インターチェンジ」で下車してすぐの「平ヶ崎」の信号を左折し、二つ目の四つ辻 (農産物直売所か何かがあった) を左折すれば、「日光方面」への裏街道に入ったことになる。後は気をつけて左側を見ていれば、一キロほどで、例の「磐裂の霊水」の案内板が見えるので、そこを左折する。後は、上記の説明と同じである。



「上鉢石」の「磐裂神社」の地図は、こちら


「上鉢石」の「磐裂霊水」の地図は、こちら


「月蔵寺」の地図は、こちら。


「磐裂の霊水」の地図は、こちら



参考文献
・大鳥圭介『南柯紀行』
     大鳥圭介ら (1998) 『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社、所収
・日光市 (1967) 『日光市広報』昭和四十二年五月号
東大史料編纂所/編 (1975) 『復古記 第十一冊 東叡山戦記・東山道戦記・北陸戦記 1』東大出版会
・日光市 (1990) 『広報にっこう』平成二年十一月一日号
・星野理一郎 (1993) 『日光の碑標』自刊
・日光ふるさとボランティア/編 (1996) 『もうひとつの日光を歩く』随想舎
・横山吉男 (2004) 『日光街道歴史ウオーク』東京新聞出版局
・冨野治彦 (2005) 『円空を旅する』産經新聞出版
・梅原猛 (2006) 『歓喜する円空』新潮社
・NHK「美の壺」制作班/編 (2007) 『円空と木喰』日本放送出版協会
・大高利一郎 (2009) 『日光街道を歩く』創英社



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うに。
「日光」の申告漏れ、ニュースになってましたね。

小さいお寺や神社を維持するのに頭を悩ませたり、通う人のいなくなった小さなほこらにふと寂しさをおぼえたり、気配はないのに欠かさず手入れをされている小さな神様に心温められたり。神様と生き物たちが紡いできたもの。大切に感じられる人間でありたいと思いました。
2010.06.09 02:59
clubey
> 「日光」の申告漏れ、ニュースになってましたね。

うに。さん、初投稿ありがとうございます!!
ほんと、申告漏れのニュース、ちょっとグッド・タイミングでしたね...。
まあ、日光の町はいいところなので、町中散歩して、湯沢屋の酒饅頭をあつあつで食べて、猫神さまを巡ることにしています。
三依地区は、全国屈指の蕎麦どころですから、そんな楽しみもあります。
サンショウウオとかいるし...。


> 小さいお寺や神社を維持するのに頭を悩ませたり、通う人のいなくなった小さなほこらにふと寂しさをおぼえたり、気配はないのに欠かさず手入れをされている小さな神様に心温められたり。神様と生き物たちが紡いできたもの。大切に感じられる人間でありたいと思いました。


野口の薬師堂や近くの大日堂の遺跡群等は、閑寂とした本来の信仰の敬虔さを彷彿とさせてくれます。和泉の磐裂霊水への道すがら、折々に見える道端の神々も、素朴な暖かさがあって、日光の旧道の素晴らしさを改めて教えてくれます!!
2010.06.09 03:10

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