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栃木県の猫神・独鈷沢の金花猫大明神

.10 2010 関東地方 comment(2) trackback(0)
栃木の猫神を求めて 3)

独鈷沢08c
碑面下部に「猫」のレリーフが...。


1. はじめに

第三回となる今回の記事では、「栃木の猫神」巡りの中でも、ただ一つ明確な伝承を辿ることが出来る「独鈷沢」の「金花猫大明神」の碑を訪ねることになる。猫碑があるのは、旧「藤原町」の「中三依」地区であるから、地域的には、「磐裂の霊水」のある「日光・今市」地域を発して、北上すればよいことになる。

ちなみに、旧「藤原町」の「藤原」は、「ふじわら」とは訓まない。「ふじはら」と、書いたままに訓むのだが、これが返って間違いの元になっていると云うのだから面白い。筆者も長く「ふじわら」と訓んでいた口なので、つい最近、この事実を知った。まあ、「茨城県」などは「いばらぎ」とキーボードに打ってもちゃんと変換されるくらいだから、世の中、探せばこれくらいのことは沢山あるのだろう。

ただ、せっかく覚えた「ふじはら」町も、「平成の大合併」で「日光市」の一部となり、いまは昔の語草となってしまった。



2. ちょっと脇道へ ―「龍神霊水」の谷―

道程としては、国道121号・会津西街道大桑バイパスに入りさえすれば、道路標記上は、後はずっと国道121号を北上するだけである。この国道121号は、基本的には東武・鬼怒川線に沿って北上していることになるが、別に並走している訳ではないので、線路はこれと云った目印にはならない。むしろ、道はこの後、いくつかの有料道路と絡まり合うように進み、古い温泉街を通るときは道順が複雑にくねることもあるので、とにかく標識をよく見て、国道121号を維持し、「南会津」方面へと進むことだけ心がけておくと良い。入り組んだ箇所では、あまり方向感覚は当てにならないから、標識は重要である。仮に旧道に入ってしまっても、このことを念頭に入れておけば、必ずルートに復帰出来る。

実は、国道121号線のこの区間は、「鬼怒川温泉」「龍王峡」「川治温泉」と大型の観光地が目白押しなのだが、どれも名高い名所なので、ここでは、通過した、と記すにとどめる。敢えて、何か書き加えるとするならば、近頃、この辺りの温泉街はあまり繁昌していないと聞いたが、さもありなんと云う風情ではあった、と云うことくらいか。あの寂れた様相で、シャッターも多く降りた中、一泊ン万円の宿が建ち並ぶと云うのだから、驚きである。確かに来たくはならないなあ...。「鬼怒川」の景観美などは流石なものがあるだけに、もったいない気もするのだが。

「川治温泉」を過ぎると、右に「五十里湖」が見え始める。「五十里」と記して「いかり」と訓むこの地名は、かつて「江戸」から数えて「五十里 (約二百キロ) 」の距離にあったことからつけられたと云われている。真偽のほどは分からない。

ここから先の旅路は、しばらくこの「五十里湖」の西岸に沿ってゆるやかなうねりと登りと、時折のトンネルが繰り返される行程となる。大きなトンネルだけ挙げると、「五十里トンネル」「湯の郷トンネル」と通過する。「五十里トンネル」を抜け、さらに一つ小さなトンネルをくぐると、右へと分岐する「海尻橋」が現れる。

実は、この右への分岐が、最近までは本来の国道だったところで、名前だけは今でも国道121号のままなのではないかと思う。この「海尻橋」から「海渡大橋」の北詰までの区間は、国道121号・五十里バイパスと云われ、平成十六年 (2004) にようやく開通した道なのである。この先に出くわす「湯の郷トンネル」も、このとき開通した真新しいトンネルなのである。それまでは、このトンネルのある丘を東に迂回するように県道249号が走っていたと聞く。確かに、地図には載っていなくとも、「湯の郷トンネル」の北出入口にある「湯西川交差点」の東側に、直進する謎の道はあった。これが旧県道なのである。

さて、ここまで来て、筆者はよからぬ腹づもりを固めつつあった。よからぬ、と云っても別に悪いことを企んでいたのではなく、単に時間が思いの外ありそうだったので、思い切って当初の予定に入れてなかった寄り道をしようと考えたのである。まずは、トイレ休憩を兼ねて「道の駅・湯西川温泉」に立ち寄り、それから「龍神霊水」の湧く谷に足を伸ばそうと云う野望である。

「湯西川交差点」の信号で左折して県道249号・黒部西川線に入ると、すぐ左手にあるのが、「道の駅・湯西川温泉」である。この日は祝日ともあって、結構な混雑ぶりだったのは、ちょっと食傷気味ではあったが、施設の前に立派な足湯の設備があり、平日の利用ならばなかなかの風情であると思われた。ただし、子供たちが嬌声をあげて走り回る阿鼻叫喚の休日は、トイレ休憩のみが原則。
 
*
 
関係ないことだが、足湯について一言。最近、足湯を設けるのは、観光地では一種の流行となっていて、結構なことである。散策や長時間のドライブで疲れた足をしばし足湯に浸けてくつろぐ時間は格別だからである。しかし、残念なことに筆者は近頃、足湯のある施設は、それだけでなるべく避けるようにしている。理由は簡単で、利用者のマナーが目に余るからである。

まず何よりも、基本マナーが出来ていない。足湯の周囲はまるでお湯をぶちまけたかのように濡れていることが多く、席の譲り合いもない。両側に席があるときは、左右から大きな声で叫びあっている利用者が多い。別に足湯に限らないが、席の譲り合いも、公共の場で自分達だけ声を張り上げないと云う常識も、いつの頃からかこの国からなくなってしまったのは、嘆かわしい事実である。誰がどう注意しても、「気づかなかった振り・上から目線でむかつく・無視・逆ギレ」の四点セットしか返ってこないのが明白なのは、なおやるせない。

また、どんな混雑時でも自分達が休憩するためなら何十分でも足湯を独占してどかない家族連れや高齢者の集団の多いことにも驚かされる。足湯の中を子供たちが走り回っているのは、もはや恒常的な風景である。周囲が水浸しになる主たる原因は、大人たちがそもそも湯を滴らせないように気遣っていないことに由来するのだろうけれど、子供が利用した後の惨状は形容し難い。子供が利用するな、と云っているのではない。観光地に子供だけで来ている集団などないのに、大人たちは何をしているのかと云うことである。軽食や飲み物を持ち込んでの利用も多く、辟易する。

提言をすれば切りがなく、あれこれ張り紙などすれば足湯や施設全体の風情を台無しにする。有料にした場合でも、安ければ、お金を払ったと云う権利意識から無駄に利用時間が長くなり、我が物顔の客が増えるばかりだろうし、二三百円もとれば、利用者が激減して、足湯の存在する意味がなくなってしまうことだろう。傍若無人な人々ほど利用しやすい施設など、ハナからつくらなければよいのだが、一度つくってしまった以上、簡単にとっぱらう訳にも行かない。結局、いやなら来なければいい、と云われるのが関の山の世の中で、「足湯あります」の標識は、「まともな人は来ないで下さい」と云う意思表示だと理解して、それを前もって報せてくれたこと自体に感謝して生きていくしかないと思う昨今である。

最近は、どこかの施設に入って「足湯あります」とあると、君子危うきに近寄らず、そそくさと用を済ませて帰ることにしている。出来ることなら、道路脇の看板などにも大きく表示してくれると最初から入らないで済むので、そんなことを今後期待しています、などと下らぬ皮肉を述べつつ、この話は終えることとしよう。

*

旅路に戻る。
「道の駅」から県道に左折復帰したら、後は「平家の落人伝説」で知られる「湯西川温泉」の方に向かって、「湯西川」の南岸を辿る道を進むばかりである。まずは、「上野トンネル」をくぐる。トンネルを出ると、旧道をまたぐ跨道橋の手前に「上野」のバス停がある。続いて道なりに、「西川入口」バス停が来て、「打越沢」を越えると、「湯西川ダムトンネル」に突入することになる。

この辺りは、いまだに「湯西川ダム」を建設中なので、しばらくは工事現場の合間を縫うように進むことになる。「オクダブリ沢」を越えると、やがて「赤下」のバス停を通過し、次の「明神ヶ岳」のバス停を通過すると同時に「サル沢」も越える。さらに「ドライブイン」のバス停、「マゴリ沢」と過ぎていくと、「栗山沢」の上に出る。隠れた名所「葉隠の滝」は、この沢にある。道端にも看板が出ているので、行きたい人は難なく見つけられるだろう。県道からは、五十メートルくらい降りた、閑寂とした沢筋のただ中に滝はある。

葉隠の滝02

「葉隠の滝」を過ぎると、「弘法伝説」の残る「一ツ石」のバス停を通過して、道が川に合わせて大きく左 (西) へと湾曲する辺りに出る。ここを曲がっているとやがて左に「龍神霊水」の看板が目に飛び込んでくる。

龍神霊水
日光市湯西川字龍ヶ窪

龍神水01b

いわゆる普通の路傍の案内看板ではなく、屋根までついた天然木の看板である。大きい方には、「龍神霊水 日光天女書」とあり、小さい方の看板には「水琴窟 水琴窟研究家 秋間邦雄」とあり、よほど不注意でなければ見逃さないだろう。この看板の反対側、道路の右側に駐車スペースがあった。五六台は楽に駐められそうであった。それにしても、いったい「日光天女」って誰なのだろう?

龍神水02

滝に向かって歩いていくと、まず始めに木製の置物台みたいなものが壊れて放置されていたが、次に目に入ってきたのは、深山幽谷というに相応しい、木々に覆われ、草と苔の蒸した岩の斜面に一筋の細流となって、清水が滑落してくる、そんなしっとりとした光景であった。麓には、小さな石 (コンクリートか? ) の反り橋が架けられ、その正面に丸木を穿った樋が二つ、継いでさし架けられてあった。樋の口からは、鮮烈な白水がほとばしり、下の「霊水」と刻まれた石鉢へと落ちてゆく。樋の上には、白木の升が置かれていた。

龍神水04_1
龍神水12b

清水の向かって右には、等身ほどの「観音様」の石像が立ち、前に置かれた石の賽銭箱は、側面に「光龍山 聖観音」と青字で陰刻され、正面には同じく青で「来陽翔龍」とあった。

龍神水07b・観音様
龍神水16_1

水場から見て左手には、青や赤の極彩色で塗られた巨岩があり、その足元の台地に丹塗りの素朴な祠がある。石段の途中に掲げられていた説明板によると、「龍神宮」とある。

龍神水10・龍神宮_1
龍神水11b・水琴窟

その祠より下、さらに左には、「水琴窟」もつくられていた。途中、「梵字」の刻された「丸石」も台座に据えられ、祀られていた。

龍神霊水の由縁


日光連山、宇宙のビュアなる大神の御霊をこの瀧の上部に祀り、下流には湯西川全域の安泰と 発展を興す龍神を安置する
地名、古代より「龍ヶ窪」と呼称さる

平家一門の歴史と此の地を往来する人々の大切な水源として遠き明神ヶ岳の嶺より伏流してこ こに奔流する霊水なり

雄龍、雌龍、幼龍三匹が隠棲せり その辺りには母が子を産む際に流出した生命の色 (真紅) が ちらばる珍らしき聖地なり

ここに書家、日光天女の天啓による創作によって神域の顕示を見たり

飲用せば心身を賦活させその神秘な力は生命を蘇らす目を洗えば刮目して前進を見通す
旅人よ霊水に親しみ龍神の強大なパワーを享受し 必ずの夢を実現せられんことを
祈念合掌

龍神宮  光龍会

*

「日光天女」と云うのは書家なんだあ、などと思い、また、説明板の不思議な日本語に魅了 (??) されつつ、参拝と水汲みを終え、車へと向かおうとする筆者に、妻が崖の上に何か赤いものが見えると指差して教えてくれた。視認すると、確かに赤い影が木の間に見える。最初は何か祠があるのかと思い、登り道などないにも関わらず、崖の中腹くらいまでよじ登ってみたのだが、そこにあってさえ赤いものの正体は分からなかった。ただ、祠などではなく、何か岩壁に描かれた壁画のようなものであるのは分かった。デジタル・カメラのズーム画面で覗いてみると、「猫」の顔のように見えなくもなかったため、さらに岩場を登って接近することにした。

龍神水17

猫? 鬼? 落書?

途中、やや困難な足場もあったが、何とか壁画の近くまで接近すると、壁画の正体はいよいよ分からなくなってしまった。ただ、いいかげんに赤いペンキを塗りたくっただけのようにも見えたし、何か形を描いているようにも見え、やはり角度によっては猫か何かの獣、あるいは鬼の顔にも見えなくはなかった。

崖を苦労して登っても、こんな曖昧な結論にしか達せられなかったのは少し残念だったが、別の発見もあった。壁画の近くには、二つの岩屋があり、そのそれぞれに祭祀の跡が見られたことである。一つの岩屋の中には、二基の小さな石塔まであった。

龍神水19

謎の石塔

複雑な思いで、崖を降りてくると、涼しい谷風に吹かれて背中がひんやり冷たかった。さほど暑い日ではなかったが、崖の上り下りの間に、背中は汗でぐっしょり濡れてしまったようである。これは季節外れの風邪など引かないように注意しようと自戒しつつ、ようやく駐車場へと向かった。





3. 「独鈷沢」の「猫神様」

さて、「龍神霊水」へと寄り道を済ませたところで、いよいよ旅路は、この日の最大の目的地である「独鈷沢」へと進むこととなった。本当のところ、どの「猫神様」に優劣などあるはずもなく、ここが「最大の目的地」と云うのは、ただの修辞かも知れぬ。ただ、他の「猫神」に関しては、その由来と結びつく物語や伝説などが伝わっていない (筆者がいまだに知らないだけかも知れぬが...) のに対して、「独鈷沢」の「猫神」にはそれなりに由来が伝えられ、しかもそれがかなり独特な物語であると云う点において、強く筆者の関心を引くのである。

*

「湯西川入口」の信号まで戻れば、国道121号に左折して復帰し、後はしばらく北上するばかりである。「赤夕大橋」で、いまやダム湖の一部と化した、「湯西川」が「男鹿川」へと注ぐ河口部を渡り、すぐに「五十里岬トンネル」に入る。橋を渡っている時に、左に目を向けると、野岩鉄道の鉄橋が並行して架けられているのが見える。そしてトンネルを抜けると、今度は「赤夕大橋」よりもさらに長い「五十里海渡大橋」を伝って対岸へと渡る。ここで、国道121号・五十里バイパスは終了し、めでたく国道の旧ルートと合するのである。

そして、ここから通過する沢と橋は、ほぼすべて名前が一致している。順番に挙げると、「片足沢橋」「唄ノ沢橋」「大塩沢橋」と云った感じである。


a) 「地蔵岩」から「アテラ沢」へ

国道をしばらく走っていると、ふと「地蔵岩」の文字が、何かの標識か看板で目に入ったのだが、このときは準備が出来ていなかったので、視認することは出来なかった。

地蔵岩05

しかし、実は後日、この地域を再訪したとき、「地蔵岩」についてもしっかり確認してきたので、以下、紹介する。

国道を走っていると、「地蔵岩」の案内標識が現れ、小さな橋で沢を上を渡った先、左側に、わずかな駐車スペースが出現する。スピードを出していると、まずやり過ごすのではないか、と云った絶妙のロケーションなので要注意。「地蔵岩」に関しては、この駐車場の正面に大きな説明板が立てられており、そこに丁寧な説明が記されている。

地蔵岩01

正面の地蔵岩上に鎮座いたします地蔵尊の云われ


1683年、M7.3の地震により男鹿川、湯西川合流点がせき止められダムができ、150日間で周 辺部落が水没しました。また、1723年8月には、連日の暴風雨により五十里湖が決壊し、鬼怒 川下流で大洪水が発生。

この為、一万人以上が死亡する大きな被害をもたらしました。度重なる災害からこの地を守ろ うと、1745年9月に村の守り神として地蔵尊が建立されました。

当初は岩の下の街道近くに設置されましたが五十里ダムの建設により水没を免れるため、当所 に移動したと地元の方々が伝えております。隣には、馬頭観音が街道交通の安全を願い村世話 人により立てられています。

碑に記された意味は「弘法大師が修行したという言い伝えのあるこの聖地に家内 (村の) 安全を 願い五十里村の人たちが延享二年 (一七四五年) 九月に立てた」

国土交通省
鬼怒川ダム統合管理事務所
五十里ダム管理支所

地蔵岩001
右手の方に見える石碑の影が、説明板に記された「馬頭尊」と思われる。

「地蔵岩」を過ぎて、大きく左、そして右とカーブして直線に入った辺りで、右手に水車とお花が目立つロッジ風の蕎麦屋があるが、ここらがちょうど「五十里」と「独鈷沢」の境界域だと思われる。この蕎麦屋を過ぎた後、一度、野岩鉄道の架線をくぐり、やがて「男鹿川」の対岸に「白倉沢」が合流するのを眺めつつ道を進むと、その先、「アテラ沢」を越える当りに、石仏が三体、ひっそりと立っている。中央は「金勢道祖神」、右の石仏には「明和三」の紀年銘があった。「道祖神」か「馬頭尊」と思われる。一番左の石仏は「地蔵尊」か何かの石の座像であったと思う。

しかし、ここの石仏様たちは、来る度にお供えの花は変えられているから、あまり人家が近くあるようには見えないこの辺りでも、まだこの石仏様たちに対する信仰は根強く残っているのだな、と安堵する気持ちが起こる。右手の山の中は、野岩鉄道の「独鈷沢トンネル」である。このトンネルを過ぎて、列車が蒼天の下にふたたび出てくる辺りから、いよいよ「独鈷沢」の集落は始まるのである。


b) 「独鈷沢わさび園」へ

「独鈷沢」へと向かう道すがら、右手斜面には、しばしば上記のような石仏が現れたため、結局、走る車からではどれがわれらの目指す「金花猫大明神」なのか、さっぱり見当がつかなかった。そのため、少し手前の国道脇にも幟が立てられているのを見た「独鈷沢わさび園」の幟と看板が見えたため、こちらでわさびを買いがてら、「猫神」の正確な位置をお尋ねしようと思い立った。看板の下の駐車スペースに車を止めると、裏の店へと向かった、と云いたいところなのだが、実は店舗がどこにあるのか分からず随分とうろうろしてしまった。結局、店舗らしき店舗は設けていないらしいと云うことで、右往左往するわれらの気配に、家の中から「お母さん」が声をかけて下さり、われらを作業場兼店舗へと導いてくれた。

まもなく、当代の御主人が現れ、筆者はうっかり「独鈷沢」や「猫神様」、それに「わさび」などについて、御主人と長談義をしてしまった。その間、妻はこの御主人の「おかあさん」とちょこちょこ話をしていたようで、五十の年から三十三年、毎年の「成田参り」は欠かしていないなどと云うお話を聞いていたそうである。それにして、図らずもお年を聞いたことになる訳だが、なかなかの達者ぶりには驚かされた。

とりあえず、買い物をする前に、数百メートルほど戻って、目的の「猫神様」を拝んでくることにして、お二人とはしばしの別れを告げた。


c) 「独鈷沢の猫神様」

国道に戻って、北方向に徒歩で戻っていくと、方々に茗荷が群生しており、地元の人も何人かが茗荷を苅っていた。挨拶をすると、みんな、当たり前のように挨拶を返して下さった。下らぬことかも知れないし、説教臭いことを述べるのが本意ではないのだが、自分から挨拶しておきながら、挨拶が普通に返ってくると云う当たり前の反応に新鮮な驚きを感じている自分が、おのれのことではないとは云え、何だか堪らず恥ずかしかった。

しばらく行くと、数百メートルほどで、道の西側に「独鈷沢わさび園」の緑色の幟が数本立てられている空き地が見え、その向かい側の杉木立の中に、知らなければ見逃してしまう程度のわずかに開かれた空間が現れる。よくよく見ると、そこの左手の杉の木数本の足元に小さな石碑が立っていることと、その横を清らかな小沢が流れていることを発見した。

高さ七十センチほどの碑の正面には、「金花猫大明神」と刻まれ、その下には、正面を向いて、丸くうずくまった、二本尾の猫の浮彫りが施されている。このレリーフに関して、「わさび園」の御主人は御存知ではなかったようで、こちらが話をすると返って驚かれていた。確かに、前もって知っていないと、確認しにくいほど、猫像は土塊だち、苔むしてはいた。

右側面には「天保六年癸 六月十一日」、左側面には「独鈷沢村 君島友吉」と彫られている。台座部の正面には、だいぶ苔の所為で読みにくくなっていたが、「万人講」の文字のように見えた。「万」の字が新字と同じ俗字体なのも、天保の頃には既に広く使用されていたんだと云う感慨があり、面白かった。

しかし、考えてみると興味深いのは、「わさび園」の御主人が一貫して猫の石碑の猫のことを「双尾の猫」と呼んでいたことである。碑面には、はっきりと「金花猫大明神」と刻まれ、しかも御主人は石碑に二本の尾を持った猫のレリーフが施されていることを知らなかったのにも関わらず、「双尾の猫」と云う呼び名は定着していたと云うことになる。なぜそんなことが興味深く、かつ不思議かと云うと、この石碑の猫のことは、地元の「独鈷沢」では長らく忘れられてきて、その由来もはっきりしなくなってしまっているようだからなのである。

近頃、少しでもこの猫の石碑が知られるようになっているとすれば、それは「中田謹介」氏が、その著作『猫めぐり日本列島』(2005) の中で、「猫の野仏は山村の救いの神」と題してこの石碑を紹介したからであろう。この記事の中で、「中田」氏は、この石碑の猫を指して、「猫の野仏」「ネコの野仏」と云う呼び名を併せて六回、「双尾のネコ」を三回、「金花猫大明神」を一回、使用している。

「中田」氏に、情報を提供した「山口孝二」氏が、インターネット上で発表しているインタヒュー記事では、氏が直接猫碑に言及した二回は、共に「金花猫大明神」と表現している。

独鈷沢08_1

独鈷沢08c
独鈷沢05
写真だと分かりにくいのが残念!!

国道121号・宇都宮米沢線は、今でも「会津西街道」と呼び慣わされているが、かつてこのルートは、「北越・出羽・会津」の諸地方と「江戸」とを結ぶ大切な往還だったのである。元々は、「江戸時代」に、三代将軍「家光」の弟で、「会津藩主」となった「保科正之」が整備した街道で、「今市」と「会津若松」の城下を結ぶものであった。旧道と今の道はかなり違っているが、ほぼ現在の国道121号線および福島県道131号・下郷会津本郷線に沿っていた道である。

ちなみに、「会津西街道」と云うのは「関東」側の呼び名に過ぎず、「会津」の親類に聞くと、自分達は「南山通り」と云うことが多かったと口を揃える。「会津」の人は、「南会津地方」のことをしばしば「南山」と呼ぶのである。「江戸期」の複雑な行政区割りから来た呼び名の名残である。別に「下野街道」と云う呼び方もあったそうである。それに、「宇都宮」の人などは、一時、国道121号線のことは、「宇都宮米沢線」とも云ったそうであるから、呼び名は様々である。

この街道が整備された主な目的は、回米であったと云うが、山がちの険路であるにも関わらず、「越後」以北の地域の人々にとって、「江戸」への最短ルートともなっていたため、様々な物資の運搬や商用などにも、頻繁に利用されていたそうである。そして、苦しい財政を抱える諸藩にとっても、旅程の短縮が出来るこの道筋は、「参勤交代」の経路としても重宝されたのである。

そう、「参勤交代」である。「独鈷沢の猫神様」の伝説は、その「参勤交代」と深い関係があるのであった。以下、その言い伝えを紹介した「山口孝二」氏の記事 (インタヴュー) を、下に部分的に要約して紹介する。

参勤交代の列が通りかかったところ、一匹の猫が駕篭の前を横切ったため、近侍するものに、一刀の下に斬り捨てられた。このとき、尾も真っ二つに裂かれていたと云う。屍骸は道端に遺棄された。猫から流れ出た血は、小沢を赤く染めたと伝えられる。それまでは街道をゆく旅人たちの喉を潤してきた小沢は、以来、その水を飲むものとていなくなったと云う。近在の集落では、最近でも「あの沢の水は猫の血が流れているから絶対飲むな」と子どもたちに教え諭していたと云う。

一方、江戸に着いた殿様は、原因不明の病で危篤に陥っていた。江戸中の医師たちがかかっても、高熱は下がらず、病状は恢復しなかった。最後に祈祷師にみてもらうと、これは猫の祟りだと云う。急遽、国元へ早馬が送られ、国家老が直々に独鈷沢村に赴き、名主の君島友吉の名前で、供養塔を建てて、懇ろに殺した猫を弔った。ただし、表沙汰に出来る性質なものではなく、ことはすべて隠密裡に進められ、正規の文書などに記録は残されていないと云う。しかし、石造りの供養塔に、さらに「大明神」の号まで贈られていることを鑑みると、石塔の建立の背後には大きな援助者がいたことは間違いない。

www.travelive.co.jp/5yomoyama/12yomoyamabanasi/soubinoneko.pdf
山口孝二氏とのインタビュー「第四話 金花猫大明神」より

そして、このことがあって以来、この「猫神様」は、天災を除き、難病も治す守護神として、集落の人々に敬われてきたと云うのである。

「山口孝二」さんは、元「中学校長」で、「藤原町三依地区公民館」の職員の方のようで、既に述べたように、「中田謹介」氏の『猫めぐり日本列島』の中でも、著者に「独鈷沢の猫」について説明と、案内をしているようである。この本で紹介されている話は、前半と結びの部分に限れば上記の紹介文とほぼ同様の内容なのだが (厳密に云えば、猫が首を斬られたことなど細かい付け足しもあるが...) 、後半の、猫の死後の祟りの扱いに関しては内容がかなり異なっている。同じ人物が語ってこれほど変わるのだから、民間伝承の採録というのは難しいのだろう。

上の引用文では、猫の血で沢の水が赤く染まり、以後、飲めなくなってしまったこと、「江戸」で殿様が重篤に陥ったことが祟りの中心となっているが、『猫めぐり日本列島』では、「独鈷沢」の地に二本の尾を持つ化け猫が出没するようになったこと、その猫が村人をおびやかし、悪病を流行らせ、旅人を化かしたことになっている。話としては、「石造りの供養塔に、さらに『大明神』の号まで贈られていることを鑑みると、石塔の建立の背後には大きな援助者がいたことは間違いない。」というオチで締めくくる上記の文の方がやや優れているか。

ただし、『猫めぐり日本列島』は、次のような異伝をも伝えていて興味深い。

こんな話もある。一文のお金を奉納すると、翌朝には三文になっていたという。ところが、ある欲張りばあさんが三文全部を、ネコババしたところ、それからはお金は増えなかったそうだ。

中田謹介 (2005) 『猫めぐり日本列島』筑波書房、p. 21

この話には明らかにおかしな点が一つある。これが元の語り手に由来することなのか、著者のうっかりした誤りなのかは、にわかには判断出来ないが、三文に増えたお金を全部持っていってはいけないらしい、という、欲張りばあさんの罪を構成する前提条件が語られていないのである。まあ、奉納したお金なのだから、増えた分ならいざ知らず、元金まで持って帰るのはまずいということなのだろうけれど、やはり舌っ足らずな感じは否めない。

しかし、それ以上に興味深いのは、このような「三文伝説」は、日本各地で類話が記録されており、その多くが「河童の恩返し」に関するものだと云うことである。「椀貸し淵」の伝説とのつながりも示唆しうるかも知れない。ただ、「若尾五雄」が「河童は渦巻きである」と提唱していることと合わせて、筆者が猫は「根源的な渦」としての雷や竜巻、積乱雲や水の渦巻きを象徴していると考えていることと符合するようでいて面白い。ただし、「三文伝説」との関わりと云う点に関しては、今少し理論的な深化をさせねば、発表するほどの理屈も整えられてはいない。

また、直接「独鈷沢」を訪ねて、気づいたことは、「山口孝二」さんの語る話と云うのは、「独鈷沢」の言い伝えではなく、やや下流の「五十里集落」のいい伝えだと云うことである。

「五十里集落」出身で、「日光ろばたづけ・鬼怒川店総務部長」の「細井平治」さんも、「子供の頃から父親の伊治さんに『あそこの水は絶対飲むな、猫の血が流れたから』と言われて育った」と云う思い出話を紹介している。

特に、「独鈷沢」の人の中には、沢が血で染まり、「あの沢の水は猫の血が流れているから絶対飲むな」と近在で云われたと云う下りに強い違和感を覚える人もいるようである。「そんな話、校長先生 (山口さん) が云うまで聞いたことなかった」と云う人もいた。筆者も、沢の水を飲んでみたが、美味しい清水であったし (ただし、成分検査などを行なった訳ではなく、筆者は飲用に関して責任は持たない) 、帰宅後も特に腹を下したと云うことはない。まあ、コップ一杯しか飲んでいないが...。

そもそも、「独鈷沢」の集落の人自体は、あまりこの「双尾の猫」の伝説には明るくないようなのは、すでに「独鈷沢わさび園」の御主人の話として紹介した通りである。限界集落としての人口地勢的な要因は、世代間での口承伝統の受け渡しに溝をつくる結果となってしまったようなのである。「わさび園」の御主人も、つい先頃、先代の園主が亡くなられ、当代の御主人が週末や休日を利用して自宅と職場のある「宇都宮」から通われていると云う話であった。先述の「山口孝二」さんもまた、「独鈷沢」の御出身ではあるが、成年後は長く、よその地で教職に就かれていたそうで、定年後、故郷に帰ってきたと聞く。もう少し、伝説の出所をはっきりさせておきたいところではある。
 
* コメント欄を見て頂ければお分かりの通り、後日、「山口孝二」氏は地元「独鈷沢」の出身ではなく、「日光東照宮」近くの御実家から入り婿された方であるとの情報を「中三依・石臼挽きそば古代村」の「塩生」様から頂きました。「塩生」様に御礼申上げますと共に、ここにて謹んで訂正させて下さい。
 
*

ちなみに、『藤原町の歴史と民話』の他のページには、「金花猫大明神」のことを「独鈷沢の化け猫地蔵」と記しているのだが、はたしてこれは誰がつけた呼称なのだろうか。正直云って、あまり響きのいい名前ではないし、実際、石碑の実態ともまるでそぐわないのだから困りものである。石碑が地蔵尊のような形をとっていないのは、実物を一回でも見たものなら分かりそうなものなのだが...。


d) 「独鈷清水」へ

「猫神様」の参拝を終え、今度は国道の反対側を「わさび園」へと向かって帰っていったのだが、途中、立派な「念仏供養塔」などがあり、また栗やら栃の実やらを拾いつつ歩を進めた。「東京」育ちの妻は、「栃の実」の実物を見たのは初めてだったようで、目を丸くして驚いていた。何しろ、果皮にくるまれた栃の実と云うのは、「サルナシ」のような、小型の「梨」のように見える表面をしており、もしも縦に三筋、割れ目が入っていなかったなら、「梨」の仲間と区別出来ないかも知れない見かけをしているのである。それだけでも、驚きなのに、果皮を向いてでてくる木の実は、どんぐりとしては大型の「クヌギ」の実よりもなお一層大きく、しかも上下ではっきりと色が塗り分けられたような体裁をしており、なかなか目に嬉しい外観をしているのである。ちょっと見、小さな「栗」のようだと云った知合いもいる。

もちろん、「千葉県西北部」のベッドタウンで育った筆者とて、そんなに偉そうにあれこれを知っているとは云えぬのだが、生来の動物・植物好きが功を奏してか、子供の頃からか、特に食用植物などに関してはあれこれと知る機会を得ていた。特に「栃の実」に関しては、子供の頃、教科書で読んでから大好きになった斎藤隆介/著、滝平次郎/画の『モチモチの木』に登場する「モチモチの木」そのものであるため、筆者は並々ならぬ関心を寄せていた。何と云っても、絵本の中で、「モチモチの木」の実から作るモチは、「ほっぺたが落ちるほど」美味しいと書かれているのである。この表現を生まれて初めて知ると同時に、以降、寝ても覚めても、いつの日か「モチモチの木」のモチを食べる日を夢見るようになったのである。そのせいもあって、比較的早い時期に、自力で栃の木を探し出し、その実の特徴なども自然に覚えたのである。

* 少年の日の筆者にそれほどの夢を見せてくれた絵本の挿絵を担当した「滝平次郎」氏も、今年の五月に、癌のため、八十八歳で永眠された。御冥福をお祈り致します。

栃の実拾いもたいがいにして、さらに国道を戻っていくと、今度は国道脇がちよっとした段差になっている辺りに出た。下は、廃屋と草蒸した曠野と云った感じである。しかし、よく見ると、国道から下へと降りていく石段があり、その先にわずかだが水の気配があった。これこそが、「独鈷沢」の地名の発祥ともなった「独鈷清水」の現在の姿なのである。

独鈷清水
日光市三依地区独鈷沢

独鈷清水

まずは、「独鈷清水」の伝説を紹介しておこう。

独鈷清水


塩谷郡三依村 (藤原町) には、会津街道に沿うて上三依、中三依、下三依という三つの宿場があった (中略)

この下三依は男鹿川に沿うた台地で、一方は断崖、一方は塩沢山を控え、その麓を会津街道が通っているのであるから、古来水に不自由せざるをえなかった山村である。 (中略) この辺りで、もし水が飲みたくなると、はるばる崖を下って、男鹿川から水を求めねばならなかった。

昔のこと弘法大師空海がこの地を通られた。
猛暑の時であったので、いたく汗にまみれながら、道端の家に立ち寄られて、その家の嫗に水を乞われた。

年老いた嫗はこの旅僧を哀れに思って、弓なりの腰をのばしながら、はるばると沢に下って水を求めてきた。上人はこの嫗の恵んだ水をありがたくのまれてから、この辺りの人々が水のために難渋していることをつまびらかに聞かれて、衆生済度のために、一つはこの情けあつい嫗に報いようとして、付近の窪地に立ち、真言秘法を唱えつつ、その独鈷 (真言宗の修法に用いられる武器にかたどった仏具) をもって地上を突かれると、たちまちにして清らかな清水が湧然としてほとばしり出た。

上人はねんごろに嫗に礼を述べて、飄然としてこの地を去られたが、一たび湧出した泉は日夜こんこんとして止む時はなかった。

下三依の地が、この奇瑞によって独鈷沢と呼ばれるようになり、後世この土地の人々は言わずもがな、多くの旅人がその恩恵を受けて今日に至っている。

小林友雄 (2000) 『下野伝説集 あの山この郷』栃の葉書房、pp. 249-250

『藤原町史』を参考にして書かれた旧「藤原町」のサイト内の『藤原町の歴史と民話』のページにも、「独鈷清水」は紹介されている。ここでは、伝説にいよいよ現実色が加味されて、具体的な年代や人名までも詳らかに語られている。重複のないよう、その部分だけ、下に引くこととしよう。

昔、天長六年 (829) の四月、「弘法大師・空海」は、現在の「塩原元湯温泉」にしばらく杖を休めていた。そして、その村の「栄助」という老人を案内役に頼んで、周辺の美しい景色を楽しんでいたとき、「下三依村」に足をのばした。

「独鈷清水」『藤原町の歴史と民話』
http://www7.plala.or.jp/haruyama/tokkosimizu.htm
参照 『藤原町史』

残念ながら、このような素晴らしい由緒のある湧き水も、現在は国道の拡幅工事でその形を変えられてしまい、集落に水道が通ってからは少しずつ顧みられなくなり、いまは清水の前に住まわれていた管理者の方が亡くなったこともあって、手入れがされず、荒れ放題の状況にある。隣家の前に流れ出ている部分は、いまだに美しい姿を維持しているのと比べると、草に深く埋もれた「独鈷清水」はいよいよ侘しく見えた。人口の減少と高齢化に悩む集落としては、このような清水の管理を続けるのはかなり負担の大きなことなのだろうから、あまり出過ぎたことは云えないのだが、地元に対する愛着や訪問者達に対する矜持の見せ所として、いずれ泉が再整備されることを願って止まない。


e) 「山椒魚」雑感

今回、「男鹿川」水域を巡ったことで、「猫神」との出逢いの他にも、新鮮な発見があった。それは、自然の中棲息する「山椒魚」に出会えたことである。

独鈷沢10・山椒魚

「栃木県北西部」から「福島県南西部」にかけては、全国的に見ても稀なほどの豊かな「サンショウウオ地帯」で、「福島県檜枝岐」では「山椒魚の黒焼き」が一種の名物郷土料理ともなっているし、「栃木県」の旧「藤原町」や「栗山村」地域でも、かつては「山椒魚」の串焼きや天婦羅などを出す蕎麦屋や茶屋などがあった。しかし、逆に云えば、この地域は「クロサンショウウオ」「トウキョウサンショウウオ」「ハコネサンショウウオ」「トウホクサンショウウオ」のすべての生息域に重なる極めて貴重な地域であるため、返って沢などで見つけたのが、正確にはどの種の「サンショウウオ」なのかを判断するのは至難の業なのである。当然、筆者如きに分かるはずもない。

とにかく「山椒魚」と云うのは、川底の色合いに完全に紛れ込むような保護色で身を包み、自身は動きが非常に少なく、しかも魚などが住む水を嫌うため、慣れていないと大抵の観察者は水の中で動くものがないため、そもそも発見すると云うか、その存在に気づくことすら少ないだろう。それに、水の中にいるのは産卵期を除くと、それでも若い個体ばかりで、立派な大人は水辺の石や枯れ葉の下、その他穴の中などに籠っていることが多い。


f) 「独鈷沢わさび園」再び

「独鈷沢」のあれこれを堪能した後、われらは無事、「わさび園」に帰着した。

独鈷沢11・わさび園

結局、ここからもまたあれこれと話し込んで、迷惑をかけてしまったことと思う。先代が最近亡くなられて、いまは息子さんが週末だけ来ていること、かつては「養蚕」をやっていたから長い廊下があること、今でも「桑畑」の跡が方々にあること、昔は鉱山も沢山あったらしいこと、等などである。

また、御主人は、「わさび園」の商品を試食させて下さりつつも、それぞれにつき色々と思うことを話して下さった。特に、熟成した酒粕にわさびや野菜などを漬け込んだ「独鈷漬け」なる商品に話が及ぶと、今度から「弘法漬け」に名前を変更するんだ、と云うことを力強く語っていた。何しろ、「独鈷漬け」では、「独鈷」の意味が分からないために、県の物産展などに出品してもなかなか買ってもらえないそうなのである。筆者としては、「弘法」なんて全国どこでもあるけれど、「独鈷沢」はかなり珍しい地名なのだから、「独鈷」の絵柄などを印刷して、むしろその珍しさを売りに出来ないものかと思い、そのように御主人にも伝えた。出来たら、「猫神様」の関連商品なども開発して、全国の猫好きに発信していっても面白いかも知れぬ。

筆者は、実は粕漬けと云うものが、一般的にあまり好きではない。しかし、ここの粕漬けはなかなか美味しかった。他の野菜とかも入っているから、と御主人は云っていたが、筆者としては熟成が進んだ粕の方に手柄があるのではないかと思った。いずれにせよ、筆者としては大変珍しく、粕漬けを一つと、本わさびを一本購入し、御主人とお母さんに厚く礼を述べ、別れを惜しみつつ、「わさび園」を去った。

*

「独鈷沢わさび園」は、「男鹿川」に注ぐ小川を利用した渓流式のわさび田で、長さ三百メートル、面積四十ヘクタールに小さな棚田が百二十段つくられている。

来年の春には、「猫神様」の向かい側の空き地を利用して、「独鈷沢わさび園」は、観光わさび農園としてさらにパワーアップして、リニューアルオープンするそうである。その頃には、わさび田に降りていけるように整備しておきたいとも云っていた。現在、加工所の建設や散策路、山小屋、丸太橋などを整備中だそうである。われらも、近いうちの再訪を約しつつ、来年の新装開店にも、雪が解けたらまっさきに駆けつけようと心に期している。

後は、せっかく目の前に由緒ある神様がいるのだから、何か「猫神様」と縁のある商品でも開発して下さったら、筆者としては申し分がない。

独鈷沢わさび園

日光市独鈷沢 271
0288-79-0651
http://www.dokkowasabi.jp



g) 「十王堂」そして「蕎麦」

十王堂

「独鈷沢わさび園」を出て、ほんの少しばかり北へと進むと、国道の西側に「十王堂」が見える。ここは、「木喰上人」の彫ったと云う「十王像」が九体と「しょうづか婆」が一体安置されている。「江戸期」に各地で盛んになった「十王信仰」の遺産であろうか。近年、「木喰仏」の美術的価値が高く評価されているため、現在は集落の責任者が鍵を預かっており、普段は公開されていないそうである。「わさび園」のお母さんは、すぐにその責任者に連絡して開けてくれると、さかんにおっしゃっていたが、われらとしては飛び入りであまり図々しく色々お願いするのも気が引けたので、さすがに遠慮した。すでに、「独鈷沢」再訪の決意は固まっていたので、いずれまた訪れた時に、今度は前もってお願いしようと考えたのである。

「しょうづかの婆」の「しょうづか」とは、「三途の川」のことだと云われる。元々「三途の川」という呼び名は、『十王経』に出てくる「葬頭河 そうずが 」の訛であるとされているのだが、「しょうづか」もそのような転訛の一例と考えられているのである。「しょうづかの婆」とはすなわち、かの有名な「奪衣婆/脱衣婆」のことであり、他に「葬頭河婆」「正塚婆」などとも表記されたのである。各地で、古来の「姥神」信仰と習合して、子供の病気、特に歯痛の神様として敬われている事例もしばしば観察され、民俗的な研究の対象としては非常に興味深い。

*

ここまであまり書いてこなかったが、実は国道121号を「独鈷沢」に向かって走っているときから、時々、手打ち蕎麦屋を見かける。この辺りは、みずから「みよりそば街道」と名乗っているほどで、国道沿いに限らず、脇道に入った先にも、優れた手打ち蕎麦屋が目白押しにある。以前、別の稿で述べたと思うが、蕎麦好きの筆者の感想としては、現在の日本で最も優れた蕎麦を産出しているのは、「茨城県」の「奥久慈地方」と「栃木県」の旧「藤原町」を中心とした地方だと思っている。よい蕎麦を生産していれば、当然、良い蕎麦も打てるはずである。ただ、今までは機会に恵まれず、「栃木」の現地で蕎麦を食べることはあまりなかった。これからは、ちょくちょく「独鈷沢」まで足を伸ばしそうなので、その都度、少しずつ美味しい蕎麦屋を発見していきたいと思っている。


「龍神霊水」の地図は、この辺

「独鈷沢の金花猫大明神」の地図は、この辺


参考文献
・阿久津満『炉ばなし』自刊
・藤原町教育研修会郷土誌作成委員会/編 (1960) 『藤原町郷土誌 2 地誌篇』藤原町教育研修会
・藤原町教育研修会郷土誌作成委員会/編 (1963) 『藤原町郷土誌 1 歴史篇』藤原町教育研修会
・藤原町文化財保護委員会/編 (1970/1992) 『藤原町の文化財』藤原町教育委員会
・藤原町の歴史と文化編集委員会/編 (1982) 『藤原町の歴史と文化』藤原町教育委員会
・藤原町広報委員会/編 (1982) 『藤原町の民話と旧跡』藤原町広報委員会
・藤原町史編纂委員会/編 (1983) 『藤原町史 通史篇』藤原町
・小林友雄 (2000) 『下野伝説集 あの山この郷』栃の葉書房
・中田謹介 (2005) 『猫めぐり日本列島』筑波書房


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初めまして
中三依 石臼挽きそば古代村 塩生☆雅典です。
私たち原住民も知らないことだらけです あまり知られていないことたくさんですね いろいろありがとうございます。
ちなみに 山口孝二さんはお婿さんで実家は東照宮の近くです。
2010.09.15 07:09
clubey
塩生さん、御訪問有り難うございます!!
今度の三依地区訪問のときは、石臼挽きそば古代村にぜひお邪魔させて下さい!!
三依地区は、日本屈指のそば処で、返ってどこに入っていいか迷っているうちに、那須塩原についてしまうなんてことがしょっちゅうです。もちろん、そんなときはUターンです!

ちなみに、塩生さんは実名になってますが、OKですか?
うっかりだったら、すぐに対処しますので、御連絡下さい!
2010.09.16 03:24

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