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福島県の猫神・龍徳寺の猫

.13 2010 北海道・東北地方 comment(1) trackback(0)
曹洞宗
瑞雲山・龍徳寺

伊達市霊山町下小国字力持 71
0245-88-1027

猫塚神社
猫塚山・八雲神社

伊達市霊山町下小国字力持/掛田字猫塚

龍徳寺03
参道から見た「龍徳寺」

1. はじめに

旧「伊達郡・霊山町」を含む現在の「伊達市」には、不思議なことに「猫」地名が多い。特に旧「霊山町」と、その隣りの旧「月舘町」には、「猫」地名が目立つ。ざっと地図を見ただけで次の地名が見つかる。もっと細かい地名も探せば、きっと更に増えることと思う。

・伊達市霊山町大字上小国字猫内
・伊達市霊山町大字上小国字猫芝
・伊達市霊山町大字掛田字猫塚
・伊達市月舘町御代田字猫上
・伊達市月舘町御代田字猫塚山

その他、「伊達市保原町」にも字「西猫川」「東猫川」の地名がある。

今回、採り上げる「龍徳寺」と云う寺は、旧「霊山町」の「下小国地区」と「掛田地区」が背中合わせになる山の南側、「下小国」の地にある。そして、この境の山を地元の人々は長らく「猫塚山」と呼んできた。上に記した「掛田字猫塚」と云うのも、この「猫塚山」の「掛田」側の地名なのである。

また、「伊達市」の南隣りの「川俣町」にはかつて「猫股明神」があり、現在も「猫稲荷神社」がある。「伊達市内」で云うなら、旧「霊山町」の中央部と北部に当たる「石田地区」「大石地区」には、「猫神」信仰の遺物が残されている。さらに、北の旧「梁川町」の「山舟生地区」は、隣接する「宮城県・伊具郡」の「丸森町」などと並ぶ、「猫」の石造遺物のメッカである。

それにしても、これだけ多くの「猫」関係の遺跡・遺物が、この地方にある中で、筆者が最初に記事にするのに「龍徳寺」を選んだのには、理由が二つある。もっとも、その内の一つは、筆者がこの地域で最初に行った場所だからと云う内容なので、これとて、何故最初にここに行ったのかと問い直せば、結局、理由は一つしかないと云うことになる。その理由とは、「龍徳寺の猫」の伝説に登場する寺や山、神社が今も実際に狭い範囲に残されていること、猫の石造物もあること、その上、雨乞い伝説と猫退治伝説の二つが併せて残されていると云う三点において、この伝説が他と比べて最も特徴が際立ち、かつ魅惑的に感じられたからである。しかも、「龍徳寺の猫」は、「東北」に多い「猫檀家」型の伝説を伝えながら、それがかなり崩れてしまって全く別の伝説のようになってしまっていると云う点でも興味深かったのである。

かくして、筆者は「福島県・信達地方」及び「宮城県・伊具郡」の「猫」文化を探っていくに当たって、まず手始めに「龍徳寺」を訪問することにしたのである。



2. 「龍徳寺」訪問記

「曹洞宗・瑞雲山・龍徳寺」に至るには、「福島市内」からなら、「福島競馬場」の西北隅に近い「岩谷下」の信号を右折して、国道115号線・中村街道を伝って東へと、一路「伊達市」の方角へと向かえばよい。

「龍徳寺」は、「伊達市下小国」の国道115号線沿いの北側の台地の上に鎮座している。正面から見るとその威容は聳えるが如くわれらを見下ろしているが、国道を走りながらだと、かなりスピードを落としていない限り、参道入口を通り過ぎずに発見するのは難しいかもしれない。

国道に面した寺の参道の左右には、「不許入葷酒山門」と刻まれた天明二年 (1782) 紀銘の石柱を筆頭に、多くの石碑が立ち並び、参道の土手下には、桃の木々が並んでいた。参道の上、寺の石段の下で道は完全なY字に分かれ、左側が作業車用の道、右が車道と書かれている標識が立っていた。その右への分岐の手前に台地状の草地があり、どうやら駐車スペースのようであった。実際には、車道と書かれていた方の道を上ると寺の右隣りの広場に通じており、普段はここが駐車場を兼ねているようであったが、下の草地は、おそらく第二駐車場のような存在なのであろう。上の広場には、トイレ舎もある。ただし、水洗ではない。

「小手三十三観世音霊場」の「第二十三番札所」であり、「本尊」は「聖観世音菩薩」である。その他、この寺院の歴史などについては、わざわざ「福島」の図書館にまで行って、他の調べ物に時間をとられて、不覚にも調べ忘れてしまった。御寛恕のほどを乞う。

龍徳寺01

寺の前の石段を上ると、正面に「瑞雲山」の山号を掲げた「本堂」が立ち、左に立派な鐘楼が見える。時折、地元の方と思しき人々が訪れては鐘を鳴らしていたのは、当番でもあるのだろうか。

龍徳寺02

「本堂」の左手には白壁の蔵造様の建物が一棟建っていたが、こちらは「庫裏」なのか、判然とはしなかった。それより左には、墓地があり、その先には民家があるばかりである。あるいは、こっちが「庫裡」なのだろうかなどと考えてみたが、現在、この寺は無住と聞くから、そもそも「庫裡」があるかどうかさえ定かでない。



3. 「龍徳寺の猫」の伝説

龍徳寺・絵
斎藤慎一郎氏によるスケッチ (「伝説・猫塚山由来記」より)

この寺には、「龍徳寺の猫」の伝説が伝わっている。概ね次のような話である。

赤岩の猫塚

昔、今から五百年ほど前、「龍徳寺」の四代目の住職に「膽應和尚」と呼ばれた老僧があり、「トラ」と云う猫を、我が子のように可愛がって飼っていた。猫を飼い始めてから、二十年以上も経ったある日、この辺り一帯は大旱魃に見舞われ、村人に雨乞いをお願いされた和尚は、斎戒沐浴して、一心に天神竜神に祈り続けた。猫も和尚から離れず、祭壇の上で声を出したりして脇につき、七日七晩祈りつづけた。すると、八日目の朝になって、ポツポツと雨が降り出し、人や馬を助けたのだったと云う。村人は大喜びで、和尚と猫に感謝した。徳にこの時の猫の振舞は評判となり、あの猫は霊猫ではないか、などと、村人たちは噂を口々にするようになった。

何日か過ぎたある葬儀の日、突然棺桶がふわりと浮くという大騒ぎが起こった。そして、次の日には、何者かが遺体を掘り起こして持ち去るという事件が起きた。和尚は騒ぐ村人を静め、犯人は必ず捕まえると約束した。

それからまた数日過ぎ、再び棺桶が舞い上がる事件があった。和尚はその夜、墓地に隠れて様子を見ていると、丑三つ刻になった頃、何やら光るものがある。化け物かと目を凝らして見ると、なんとそれは猫の目であった。しかも、それは何十年と可愛がってきた「トラ」であった。全身の毛を逆立てて「トラ」の口は耳まで裂け、目は爛々と輝き、やおら舌なめずりをすると、墓を掘り出したのである。和尚は持っていた槍で猫を一突きにした。

猫は重傷を負いながら後ろの山へと逃げていった。和尚はさらに追いかけ、山頂辺りでついに止めを刺した。そのとき飛び散った血で、周辺の岩が赤く染まったため、今でもその土地を「赤岩」と云う。

猫の祟りは恐ろしいので、和尚は村人と共に、懇ろに猫を弔い、この地に社を建てて、その魂を祀った。猫の埋められた場所は「猫塚」と云われ、今では「八雲神社」が祀られている。寺の裏山が「猫塚山」と呼ばれるのも、このためである。

その後、「八雲神社」の神霊は、猫の病気に対しては、殊の外に効験を顕すと云われ、大切な猫が病気になったとき、その平癒恢復を祈る人々が、遠くからも訪れるようになったと云うが、それもまた、今は昔の物語となってしまっている。

参照・霊山町立掛田小学校『ふるさといいつたいことづてきかせてたもれ』自刊
斎藤慎一郎 (1983) 「伝説・猫塚山由来記」『霊山史談』第二号、霊山町郷土史研究会、pp.71-72


現在は、それなりに地元でも知名度を維持している「龍徳寺の猫」の話だが、実は、今から四十年ほど前には「下小国」でも完全に忘れ去られた伝説だったと云う。「龍徳寺」は「戦後」、無住の寺となり、近くの別の寺が管理を引き継ぐこととなったため、せっかくの伝説も、それを語り継ぐ人がいなくなってしまったのである。高度経済成長期は、ただでさえ農村の若年人口が都市部へと流れ、どの地域でも伝統文化が廃れていった時代であっただけに、主たる語り手を失った「龍徳寺の猫」の伝説も、露と消える運命にあったのである。

この伝説を忘却と消滅の暗闇から救ったのは、地元の郷土史会誌『霊山史談』に「猫塚山由来記」を発表した「斎藤慎一郎」氏だと云う。氏が、偶然にも「明治期」の郷土誌の本を読んでいる時に、「猫塚山」の伝説を知ったと云うのである。その当時、この伝説を知っているものは、地元の旧家でもいなかったのではないかと云う。「斎藤慎一郎」氏は,現在 (2010) 八十歳だと聞く。筆者の祖父は、どちらも「明治」生まれであったが、筆者の母親やその兄弟姉妹からは、しばしば「明治とは遠い御代になりにけり」等と云われ、からかわれていた。確かに、この「戦後」に子育てをした世代から、各地の口承文化は途絶えてしまったのだと思う。

* 現在、筆者は「斎藤慎一郎」氏が、手にした「明治時代」の郷土史の本と云うのが何であったかを探索している最中である。そのため、その本をここで紹介出来ないことを深く悔やむものである。

その後、「斎藤」氏の努力が稔ってか、この伝説は地元で新たに息を吹き返した観がある。地元のテレビ局の番組でも採り上げられたと聞いたこともあるが (未確認) 、地元の「掛田小学校」でも、この伝説を扱った機関誌を発行したりしている。「平成の大合併」と云う世紀の愚政策の結果、「伊達市」に吸収されてしまった「霊山町」だが、願わくば、このまま「伊達市内」の一辺境と化すのではなく、地元に生活の求心力を引きつけられるような地域意識を維持、発達させていってほしい。そのためには、変わるものも変わらねばならないが、何よりも大切なのは、自らの地元に対する誇りを高く持ったアイデンティティを醸成することである。「龍徳寺の猫」の伝説は、「下小国」の人々の、そう云ったアイデンティティを計る、今後の試金石となっていく気がしてならない。

*

今、「龍徳寺」の「本堂」に向かって立つと、左手には西北の「雨乞山」 (353.3m) へと連なる丘陵が見え、右手は寺の裏山を形成する小高い丘が聳えている。「猫退治」の舞台となった山である。既に見たように墓地もすぐ横にあり、伝説の中の場所は大体、「本堂」前から一望できる。

後は、肝心の「猫退治」の現場、「猫塚山」の頂上を見るばかりである。



4. 「猫塚山・八雲神社」訪問記

しかし、猫退治の現場となった裏山には、寺から直接上ることは出来ない。登山やトレッキングの専門家、あるいは「山伏」か何かならいざ知らず、普通は無理だろう。いったん、参道を逆に伝って麓に降り、国道沿いに百メートルほど東へ進んだ (と云っても二つ隣り) 「愛華夢」と云う喫茶店・中華料理店の東側に行くと、裏山へと上る道の進入口がある。「八雲神社」への参道である。明らかに民家の前庭を通るので、通るときは住民の方に一声掛けるのが鉄則である。「愛華夢」のお店の方のお住まいなので、こちらにお声をかけてもよいかとは思う。

さて、お店の東奥からの進入路を伝うと、右手に、「太神宮」や「山神」などと刻まれた幾多の石碑が建てられた足元を、山から流れ出る雨水が清らかな水流となって落ちてくるのが見える。民家の立つ台地と同じ高さに立つと、今度は山への進入口の左手に、昭和十七年 (1942) 八月二十五日銘の大きな石碑が建てられていた。碑面正面には大きく「霊魂不滅森藤福己」と刻字されている。

猫塚山参道入口石碑10猫塚山参道入口石柱

参道はこの石碑から先、樹木の生い茂る山道となる。しばらく進むと、道は直進路と右への分岐路に分かれる。まばらに竹が生えている辺りである。直進路は近道だが、途中に急な登りがあり、右の道は遠回りの迂回路だが、急な登りはない、と云う話であった。

迂回路を辿ると、やがて道は山の斜面にぶつかって左へ逸れるのでそちらへ向かう。道の左側を中心にまばらな竹薮となっている。曲がってから十メートルくらいだろうか、ここでも道が直進路と右への分岐路に分かれている。右手向こうは、かつて桑畑だったと思しき一角で、左手には竹が立ち並ぶ。ここは、先ほどとは逆に直進しなければならない。

この後は、左へと山を回り込みながら、進路を妨害する草々をかき分けて進み、少しずつ、山の頂上を目指すばかりである。筆者が訪れたのは真夏の八月で、こちらの迂回路は途中から進むことが出来ないほどに草が生い茂っていた為、頂上の近くまで来て断念せざるを得なかった。

そこで、初めの分岐にまで戻り、探索をやり直すことにした。
まずは、直進路を進むと、すぐに道は左へと弧を描きつつ斜面を登っていくことになる。そして、その先に古い木の鳥居が見えてくる。「熊野神社」である。近づくと、かなり年代物の石灯籠が参道の両脇に佇み、かつては全体が丹塗りにされていたのかと思われるほど、褪せてはいるが、それでも石の表面に赤が濃く残っていた。ベンガラを塗られた石灯籠と云うのは、珍しいと云えるから、やはりここの神社も「赤岩」の地名譚とつながる信仰があるか、あったのだと思われる。

熊野神社04
「熊野神社・鳥居」

熊野神社03
「熊野神社」の「灯籠」と「社殿」

木造の素朴な「社殿」の正面は、両開きの滑り戸になっており、上には「四手」の提げられた「注連縄」が張られ、真ん中に銅の鈴がつけられている。正面の梁板には、全体として「渦巻紋」と「雲形紋」の装飾が施されている。この手の質素な神社は、装飾があること自体が珍しいので、これでも十分に凝った細工と云える。「社殿」の中には、祭礼の提灯やら幔幕、奉納された千羽鶴などが見え、比較的まめに参拝か手入れが行われている気配があった。

熊野神社・文様熊野神社・中

「社殿」の右手裏からは、さらに山の頂上へと盛り上がる崖面があり、その足元には四基の石仏が据えられていた。左から二つ目の碑だけが赤色の石で造られており、上半分を斜めに欠いていた。他の碑は、右から二つ目が「庚申」と刻されている他は、薄暗がりの中では判読できなかった。刻字はしっかり残っているようだったので、準備を整えて再調査すれば、読み取りも可能に思えた。

熊野神社・石碑群

実は、頂上へと向かう参道は、この石仏群のある社殿裏の崖面をよじ上るルートになっているのである。乾いているときでさえ、立って登れるか心もとないほどの斜面を、雨にぐずった状態で登るのは少々困難ではあった。つかむ立ち木も、竹などもなく、頼りになるのは強く引っ張ると切れてしまう蔓草程度である。手をついて、這う要領で登るのが正しいのではなかろうか。土は水はけがよいと見え、湿ってはいたが、意外にも泥っぽくはなかった。

最初の登りを越えると、傾斜はやや緩み (と云ってもかなりある) 、頂上まで八分通り登った辺りで、足元の土質が急に変わる。先ほどまでは、赤土とは云え、黄土色の強く混じった色をしていた地面が、一気に朱色に染まるのである。

「猫塚山」の近くには「掛田字赤岩」の地名もあり、やや離れているが、「伊達市内」には他にも「霊山町大石字赤岩」などもあり、この地域に「赤岩」の地名は少なくない。探せば、各地にここのような赤い地面が存在するのだろう。

地面の色が変わってから、やや登ると、二度目の急斜面にさしかかることになるが、こちらは最初の崖面ほど急でもなければ、長くもない。

そして、この斜面を登り切ると、ようやく目指す頂上に着くのだが、頂き自体がこんもりとした小阜を形成していて、その周囲の草々の向こうに、「社殿」の屋根らしいものがわずかに覗き見えてくると云った状態である。筆者は息も切れ切れに、顔面を汗が幾筋もの瀧のように流れ落ちるのに任せたまま、膝に手をついてこの屋根を望んだ。

参道は、最後の薮をかき分けつつ、目の前の小阜を左へと迂回するように進み、わずかに傾斜を駆け下りると、「社殿」の鎮座する山頂の平地に辿り着く。いい知れぬ満足感が心を埋め尽くす瞬間である。

面白いことに、「社殿」の前だけは、草もまばらで、真っ赤な地面が露出していた。土質の所為なのか、それとも手入れが為されているからなのだろうか、俄かには判断出来なかったが、おそらく後者なのだと思われる。「社殿」の礎石や台柱も赤く染まっていた。

八雲神社10
「八雲神社・社殿」

八雲神社11
「八雲神社・社殿」前の赤土

「社殿」をよく見ると、両脇を巨巌に固められるようにして立っており、そもそも頂の小阜も、その巌の本体のようであった。木造の「社殿」は、その巌に食い込むように直接掛けられており、この巨巌がこの山の神の磐座となっていることは間違いなさそうであった。

「社殿」内部は、かなり暗く、肉眼ではほとんど何も確認できなかった。懐中電灯を持参すると云う基本的な準備を怠った筆者は、やむなくカメラで撮影した映像を頼りにすると云う、あまり人には誇れない窮余の策でその場を凌いだ。

正面の壁面は、膝よりやや高い辺りから長方形に穿たれた祭壇となっており、そこに小祠の屋根が葺かれ、観音開きの格子戸が填められている。正面の梁には、「猫塚山 八雲神社」と墨書された白木の額が掲げられ、左右に寄進者の札などが提げられていた。左上方には、一枚だけ絵馬が掲げられており、「奉納」の文字と横座りにゴロンとする猫の絵が描かれていたが、その他の字は色褪せてしまっていて判読出来なかった。そもそも、この絵馬に気づいたのが、山を下って写真を確認している段階だったのだから、いずれにせよ写真に写っていないことは判読のしようもなかったのである。

八雲神社・絵馬八雲神社・金滓_1

祭壇の正面、格子戸の前には、青銅の瓶子と蝋燭の間に、ぐねぐねした形状の不思議なオブジェが祀られている。見慣れていないと何だか見当がつきにくい物体だが、知ってしまえば日本の各地にしばしば見かけることの出来る「金滓 かなくそ 」であることは明白である。

地元の人々や郷土史家たちは、ここの社を単純に養蚕の神様と思い込んでいるようであるが、御神体の前立てのようなものとして「金滓」を祀っている時点で、古代製鉄と関わる遺跡である可能性は、かなり高いと云わざるを得ない。少なくとも、「金滓」がこの地で採れたものであれば、ここで製鉄がかつて行われていたと云うことは、ほぼ事実と断定できるだろう。周囲の赤い土も、この土地が鉄分を多く含んでいることを示唆しているだけに、古代製鉄は十分に考慮しなければならない可能性である。もちろん、住民と製鉄が直接結びつく可能性の他に、両者の橋渡しをする媒介項として、かつてこの土地に修験道が行われていた可能性も追究せねばならないだろう。伝説に登場する加持祈祷と云い、全体的に呪術的な色彩を帯びる伝承は、和尚が神社を造ると云う神仏習合の極端な様相をも含んでいるのだから、修験の存在は十分に考えられるのである。

八雲神社・祭壇内

格子戸の中には、木製の小祠が石の壁面に填め込まれていて、その中央には以下のように記された木の神璽が掲げられていた。

 祈願円満   社掌
八雲神社大祭典神璽
 感応成就   □修
   昭和己巳年旧三月八日


神璽の前には、棒の頭に和紙を結びつけた幣束が三本建てられていた。真ん中が一番背が高く、左右は同じ高さであった。「おしらさま」の系統の呪具にも見えたが、単なる幣束かもしれず、ここでは一応、幣束としておく。ただし、現地がかつての養蚕地帯であることを考えると、「おしらさま」であったからと云って、別段不思議なことではない。「おしらさま」「おしんめいさま」などの研究は早くから発達しているので、見る人が見ればすぐに分かるのだろうから、ここでは不勉強な筆者が言及するのはやめにしておく。

しかし、ここまで探索して、肝心の「猫」に関するものが、額に記された「猫塚山」の文字以外ないのには、少々焦りを感じていた。それは、麓で「愛華夢」の御主人に確認したところでは、巌の壁面に猫の彫像があると聞いていたからである。滅多に来られない土地に来て、しかもかなり体力を要する神社参りをして、目標とした猫の彫像を見ずに引き返すのは、いかにも残念である。

そこで、丹念に点字を読むが如く、闇に近い社殿内で、岩の壁面に指を滑らせた結果、新たな収穫があった。祭壇の右手の壁面に「猫塚山」と云う文字が陰刻されていることに気づいたのである。これは写真撮影でも気づかなかったので、接触探索も舐めたものではない。しかし、これでも猫の彫像はどこにも見つからなかったのである。

結局、猫の彫像を発見するには、ある種の発想の転換が必要だったのである。壁面は正面にしかなく、その露出している表面はすべて撮影したり、触ったりして確認したのである。それでも未発見と云うことは、露出していない壁面部に隠されていると考えるしかない。分かってしまえば、コロンブスの卵なのだが、実は「奉納」と記された大きな白い幕をめくってみると、祭壇の左右にそれぞれ、かなり大きな猫の浮彫りがあったのである。いざ見つけてみると、なんでこんな大きなものが見つからなかったのだろうと不思議に思えるほどのものだった。

八雲神社05

向かって右側の猫は、体は左向きに前脚をついて座り、顔は逆に右を向いている姿に彫られていた。尻尾は長く、体の下部を左へと伸びている。目は真ん丸く、しかも大きく、鼻孔も目立った。

向かって左側の猫は、右向きに四つ足で立っている横姿に、顔のみ正面を向いている姿勢で彫られている。尻尾は長く、後方へと軽く反った形で持ち上がっている。目はやはり大きい。耳に関しては、左右の彫像とも尖っており、比率としては右の彫像の方がやや大きいかもしれなかった。彫像の彫られた岩の壁面には、ちょうど猫たちの後方に流れ落ちる血痕のように真っ赤な色ダレがあり、確かに伝説の如く、ここの岩が猫の血で染まったかのようには見えた。

八雲神社04_1 1
「八雲神社・社殿」内の「猫像」 (左)

八雲神社01
「八雲神社・社殿」内の「猫像」 (右)


筆者は、「社殿」に向かって右側から登ってきたのだが、向かって左側にも杣道らしき跡が見えた。かなり草が茂っており、先は見通せなかったが、少しく強引に進んでみると、どうやらここが登りのきつくない迂回路の到達点だと云うことが分かった。悔しいことに、先ほどは、後、百メートルほどで頂上が見える辺りまで来ていたのである。しかしである。まったくの準備不足で今回の探索に臨んだ筆者に云われたくもなかろうが、野外探査のときは、無理をしないのが鉄則である。今回は、これで良かったのである。

下りは、登りほど体力は使わないものの、急斜面はもはや初めから立って降りることを断念せざるを得なかった。こう云うときは、無理に滑らないようにしようと云うより、うまく滑り落ちようとするのがコツである。筆者が子どもの頃「かかとスキー」と命名していた方法は、意外とこんなとき役に立つ。要するに、しゃがんで自らの片足の上に座る要領で、他方の足は前に投げ出し、重心を後ろにおき、両手は補助車輪くらいのつもりで使いつつ、斜面を滑り落ちるのである。加速すると危険なので、少し滑っては止まる、を繰り返さねばならない。以外と楽に、しかも返って安全に下れるものである。

それにしても、中腹の (と云うかかなり麓に近い) 「熊野神社」に比べ、「八雲神社」の方は、あまり頻繁に訪問者がいないようなのは明らかであった。現在の地元での信仰形態は不明ながら、どちらの神社も「須佐之男命」を祭神とする系列の神であることを考え、かつどちらの社も赤色に強いこだわりがあることからも、二つの神社が実際には「里宮」と「奥宮」の役割を果たしているのではないかと、筆者は思わずにはいられなかった。この辺りのことは、次回以降の探査に残された重大な課題である。

*

少々、蛇足を。

写真のデータを整理すると、意外なことが分かって面白いこともある。例えば、今回は時間など計らずに気ままに探索を行なったのだが、写真のデータを見ると、山登りに掛かった時間が精確に分かるのである。参道入口から「熊野神社」までは五分。「熊野神社」から「八雲神社」までは十三分掛かっている。実際には、頂上に到着してから、最初の写真を撮る前にうろうろしたから、もう少し短かったかもしれぬ。

ちなみに、「猫塚」のある山の頂上部は、「下小国字力持/下小国字畑尻/下小国字赤坊/掛田字猫塚」の境界域になっている。字と云うのは、かつてはそれぞれの集落を表すこともあったから、昔は、これら複数の集落からも登攀路が踏み固められていたのだろうかと疑われる事実である。少なくとも、「下小国」と「掛田」は、異なる村であったデアロウから、二つの村落に跨がった信仰圏があったことになる。古老の話を聞けば、かつてはかなりの遠隔地からも参拝者があったとも云うから、おそらくは、現在からは想像出来ないほどに、広い信仰圏を有していたのだと思われる。



5. おわりに

今回の「猫塚山」探訪を終えて、改めて筆者が感じたことは、次の一点である。すなわち、「信達地方」と云うわが国を代表する「養蚕地帯」にあっても、「猫神」信仰は必ずしも、一般に云われているほど「鼠除け」専門の「蚕の守護神」としての性格を有してはいないと云うことである。

かつては、全国各地にあったと云われる「猫神」信仰は、現在、ほとんど絶滅したに等しい状況にある。そんな中で、それでも辛うじてその伝統や、その遺物などを伝えているのが、旧「養蚕地」であることが多いため、従来の研究では、安易に「猫神=養蚕」と決めつけてしまったきらいがある。両者に密接な関係があったことは、誰もが認めるところであろうが、はたして何もかもを「養蚕」で説明出来るのかと云うと、筆者はそう云った考え方には懐疑的である。

「龍徳寺の猫」の伝説は、「養蚕」が主たる産業であった土地で、その最盛期に採集された伝説であるにも関わらず、「蚕の守護神」あるいは「鼠除けの神様」と云った性格を一切反映させていないと云う点で、筆者の主張する「猫神=起源的・非養蚕説」に合致する多くの要素を持っているのである。それは「風雨および水の渦巻」あるいは「鉄」等の「古代鉱業」に関わる神格としての「猫神」と云う性格も併せ持っている点でも、特徴的であった。

もちろん、「猫塚山」の岩屋に「金滓」が祀られていることも、「赤岩」の土地が鉄分を多く含んだ赤土の土地であることも、果ては「雨乞い」伝説も、風雨を巻き起こす「猫檀家」型の伝説も、すべて偶然だと主張する人々もあるかもしれない。しかし、少なくとも、各地の多くの「猫」伝説や「猫」地名に付随することが確認されるこれらの諸特徴が、「養蚕」一つを指し示している訳でないことは、さらに明らかだと思われると云う点で、この事実は動かし難い重要性を発揮するのである。そして、「養蚕」以外の要素も「猫神」信仰の要素として示唆される以上、頑なにその議論を忌避する必要はなくなるはずである。そして、やはりその場合も、まずはその手掛かりを、その伝説や言い伝えに求めるのが筋と云えるだろう。

伝説は、口伝である以上、常に時代と共に変化する、と云うことは理解している。しかし、その変化とて、全くランダムなものではなく、多くの変数を媒介して、一見、千差万別に変容しているように見えながら、一定の時代的な法則、と云うか原理を示すことも同様に認めなければならない。それは、よほど人為的な作為が加わらない限り、伝説もまた過去に遡及して変化はしないと云うことである。より乱暴に云うならば、ある伝説が時代の変化を反映しない場合、それに対しては明確な作為を証明しない限り、その伝説の時代を遡った正統性を最低限認めねばならないと云うことである。ここの例で云うならば、「養蚕」地帯で、その時代、あるいはその時代の直近の時代に、「養蚕の神様」として「猫神」が崇められていても、その同時代、あるいはそれより以前の時代に「養蚕」と無関係なものとして語られていた痕跡があるならば、それらの言い伝えを等閑視して、「いいや、『猫神』は「養蚕の神様」だと言い張ったところで、まるで理屈が合わないと云うことである。この場合、時代と共に変化して加わったのは、「養蚕」の要素なのであり、その他の要素ではないのは明らかなのである。

もちろん、ここで具体的な遺物や伝承と、筆者の述べている原則的な起源論とを混同してはならない。例えば、ある「猫碑」あるいは「猫像」が、「養蚕」の繁栄の目的のために建てられたならば、それを指し手間で、「いいや、これは起源的には『養蚕』以外の要素を指し示しているのだ」などと主張しても意味はない。ただ、このような場合でも、何故その地域では「鼠除け」に「猫」が選ばれ、他地域のように「蛇」が選ばれなかったのかなど、その前提となる民俗的な心性の問題を問うことは有効であろう。そもそも、家畜の飼養を前提としない農本社会を形成したわれら「日本人」にあって、単に「鼠除け」でよいなら、「鼬」の類いの方がよほど候補としては相応しいのである。また、「鼠除け」を願う他地域の人々で、「猫神」にも「蛇神」にも縋らず、「蚕養神」や「馬鳴菩薩」などを信心した人々がいたのは何故なのか、そう云った問いも併せて考えていかねばならないだろう。

端的に云えば、「猫神」を信心した地域の人びとには、「猫」の神威を畏怖する民俗的なイマジネーションとメンタリティが、長い年月の間に培われていたのではないか、と云うのが筆者の根本的な視点である。下俗な譬えを使うなら、もしも政治家に賄賂を贈るとして、どんな政治家に送るだろうか。誠実な政治家か (そんなのがいればの話だが...) 、それとも賄賂を受け取ってくれそうな政治家か (これは逆にそうでないのはいればの話である...) 。答えは簡単である。誰だって大枚叩いて賄賂を使うなら、その賄賂に伴う要求に応える実力のある政治家を選ぶはずである。どんなに良識的で、クリーンな人でも、無能無力ではお金の無駄でしかないからである。

これを信心に当てはめれば、筆者が何を云いたかったかは手に取るように分かると思う。同じ祈るなら、その結果、効験のありそうな神様に祈りたい、と云うのが人情である。だからこそ、畏怖されるほどの神格でなければ、願を掛ける価値もないのである。したがって、ある地域で信心された神様と云うのは、その時代、その神様が最も有効で、合目的的だとその地域の人びとが判断した結果の産物なのである。だからこそ、怖れられる強い神格には、本来の御利益の他に、時代と共に、次から次と新しい効験が付け足されていくのである。

もちろん、信心する神を選ぶ心性が、伝統的な想像力に支えられるよりは、新しいものや流行に左右されることもしばしばある。いわゆる「流行神」である。しかし、このような「流行神」にあってさえ、その「流行」を支える伝統的な思考は介在するのである。大抵、「流行神」には、新しさの他に「怪異性」と云う要素も付随するのは、その現れである。そこでは、「怪異/異常=畏怖/異能」と云う民俗的な無意識のレベルでの位相変換の連想が働くのだと考えられる。

果たして、筆者が今後も扱っていく「猫神」に関しては、以上述べた要素のうち、どれだけのものが当てはまるかは、まだはっきりとはしていない。ただ、一番近い時代に、「猫神」信仰は「養蚕の神様」だったから、それでいいんだ、と云う考えでは、本来は「河童」を表す「水天狗」から発したと云う説さえある「水天宮」が、ハナから「安産」の神様だったと主張するのに等しい。

筆者は、今後、数回に渡って、短時日のうちに見聞・調査した「信達地方」の「猫神」たちの探訪記を続けることで、事実的な側面からまず、この地方に残された「猫神」信仰の民俗的な心性に目を向けていきたいと思っている。分からないことの方がいまだ多く、結論を急ぐつもりもないので、記事によっては、単に見聞したことや調査した事実などを羅列しただけの状態に等しいものも現れるかもしれないが、このブログが元々、筆者の備忘録としての昨日を前提としていることを考慮して、何とぞ御寛恕のほどをお願いしたい。

*

最後になったが、ここで改めて「愛華夢」の御主人に御礼を申上げたい。快く敷地の通過をお許し頂いただけでなく、忙しい中、懇切丁寧な御対応を頂き、感激致しました。もしも御主人の詳しい御説明と詳細な手書き地図画なかったならば、今回の「猫塚山」探訪は完全な失敗と終わっていたことであろう。本当に有り難うございました。
今度はいつか、食事をしに参ります。

「龍徳寺」の地図は、こちら


参考文献
霊山町立掛田小学校『ふるさといいつたいことづてきかせてたもれ』自刊
斎藤慎一郎 (1983) 「伝説猫塚山由来記」『霊山史談』第二号、霊山町郷土史研究会
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鬼喜来のさっと
お久しぶりです。過去記事にコメントさせていただきますが、此処是非参拝に行きたい所ですね。
八雲神社といえば、岩手県釜石市にある八雲神社は古くは大天場権現と称し、宮城県気仙沼市に伝わる大天婆猫の伝説に通じる事から、大変興味深い神社です。
赤は陰陽五行では火気であり、猫、即ち十二支の寅は三合会局の理論においては、午、戌と共に火気に属することからその関係でせうか。赤猫、赤馬、赤犬は何れも「放火」の隠語でもありますしね。
また「猫の病気には赤金(銅)を削って飲ませると良い」という俗信もあるようなので、こちらも関連性が気になります。
その一方で、猫、馬、犬は小判や黄金を生みだす霊獣として、竜宮などから授かった話がいくつか伝えられているのも気になりますね。
同様の話に東北に伝わったカマド神の由来譚があり、ひょっとこ面の由来とも語られているんですが、どうもこれは三番叟舞に用いられる黒色尉面の成り立ちに関連して猿を表すものらしく、ここからも火の神につながることから大変興味深いです。
2013.11.24 21:59

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