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福島県の猫神・玉川村の「マタエンバ」供養塔

.07 2010 北海道・東北地方 comment(4) trackback(0)
マタエンバ供養塔
石川郡玉川村

鹿島神社
石川郡玉川村大字吉字上ノ前 81

マタエンバ03・決定


1. はじめに

「福島県」の「石川・白河」地方と云うのも、「信達地方」ほどではないにせよ、「猫啼温泉」を筆頭に、「創徳寺の猫」などの説話もあり、「猫」に関する地名や伝説の多いところである。そんな中でも、筆者が最初に「マタエンバ供養塔」を紹介するのは、この伝説に深い思い入れがあるからである。

何故そうなのかと云う理由は、話の内容そのものによるだけではなく、それを知るに至った経緯によるものである。この猫を巡る話は、筆者が小学生の頃はじめてその内容に触れた後、偶然に偶然が重なり、二十年近くの歳月をかけて、ふたたび筆者の興味を呼び覚ますのであり、しかもその探訪の旅は、出会いから数えて二十七年経った今年、ようやく大団円を迎えたのである (もちろん、いまだ探求することは山積である) 。したがって、この伝説が、筆者にとって、色々な意味で、非常に感慨の深いものとなっていると云うのも、避け得ない現実なのである。

以下、少々私事も入るが、筆者が「マタエンバ供養塔」を再発見するに至った経緯に沿って、その内容を紹介してゆきたい。

*

もちろん、この伝説は、内容自体も極めて数奇で面白いと云える。伝説の舞台が広い範囲に渡るのも、その伝奇性を高めている点では、一つ「猫」伝説に限らず、伝説・民話一般の中で見ても、白眉の存在である。



2. 「マタエンバ」との出逢い

筆者が、この伝説を初めて知ったのは、小学校六年生のときだったと思う。記憶がはっきりしているのは、父が翌年から「チェコスロヴァキア* 」に単身赴任することになり、筆者が高校二年のときまで帰国しなかったため、結局この年が、お盆に「会津若松市」の父の実家に帰った最後となったからである。次に行くときは、筆者が二十歳の時に父が急逝した新盆のときだった。

* チェコスロヴァキア---「チェコスロヴァキア社会主義共和国」。当時はまだ「ソ連」支配下の社会主義体制にあり、「チェコ共和国」と「スロヴァキア共和国」には、いまだ分離独立していなかった。

父の実家に帰ると云っても、昔の大人は子供をあっちこっち連れ歩いてくれるはずもなく、ただ終日ぼうっと、古い日本家屋で過ごすだけの滞在であった。そんな日々の中でも、昔の奉公人たちが家の敷地内に作っていた畑で、朝、胡瓜や茄子をもいだり、庭の池周りで蛙を捕まえたりするのが主な楽しみだった。蝉殻を集めるのも好きだった。

九月になれば、「アケビ」の大木に鈴なりに淡紫色の果実が生るのだが、お盆ではこれもお預けであった。柿の木は、当然、早すぎる。時には、小時間ほど歩いて、「東山温泉」の「湯川」べりで水遊びをするついでに、裏山で「山芋」の「零余子 むかご 」を摘んだり、「鬼胡桃」やまだまだ小さい落ち栗を拾ったりしたが、普段は、朝のうちにひとしきり畑や庭を駆け巡ると、当時はもう使っていなかったポンプ井戸で水を意味もなく汲んだりして意味のないことに時間をつぶしたが、真昼は陽が強過ぎて、家の中で古い本を漁って過ごすことの方が多かった。

家の北側の長い廊下沿いには、一列にずらっと本棚が据えられ、既に亡かった祖父の蔵書や、父が大学時代に貯め込んだ書籍などが埃をかぶって並んでいた。屋根裏には、「江戸時代」以来の和書や巻物などがゴミのように積んであったが、いまだ古文書を読む力のなかった子供には無用の長物だった。勢い、興味は廊下の本棚に向けられた。

父の本は、さほど古いものではなく、そう云った意味ではあまり筆者の関心を引かなかったが、それでも「アヌイ」や「ジロドゥ」などの戯作に初めて出会ったのは、この場所でだった。特に『アンチゴーヌ』にはしばらく影響され、結果として「岩波文庫」の「ソポクレス」や「エウリピデス」などをさかんに読んだのを覚えている。そう云えば、「ラシーヌ」や「モリエール」もここで初めて知った。いまとなっては、学生の頃の父のこう云った一側面を知っているのは、家族でも、筆者一人になっている。

しかし、当時の筆者の興味は、もっと古い本に向けられていた。祖父の蔵書の中には、「戦前」の本なども多く、稀には「明治期」の書籍もあった。旧仮名旧漢字で書かれたそれらの本は、それだけで筆者の心をくすぐった。祖父は既に亡くなって久しかったが、代々、県内の教育関係の仕事についてきた所為か、当時でもまだ教育関係や、郷土史関係の会誌などが茶色の封書で送られてきていた。実家を預かっていた伯父も伯母も、父やその兄弟も、みな廊下の古い本にも、送られてくる会誌類などにも、微塵ほども興味はないようで、茶の封書は、たいてい封を切られることもなくどこかに積まれていた。

筆者は、この封書を開けて、中にどんな冊子が入っているのかを見るのが好きだった。たいていは、小難しいだけでたいしたことの書いていない教育誌だったのでがっかりさせられたが、時折、郷土史や民俗関係の冊子も含まれ、そう云う年の滞在は、稔りの多いものになった。もちろん、そうは云っても、古民具の特集など、思いっ切り「民俗学」的なものはすべてすっ飛ばして、伝説や民話の頁ばかりを繰っていたのだが...。

六年生の夏、筆者がたまたま手にしたのは、『福島の民俗』誌だった。表紙をめくると、扉を過ぎた最初の見開きに、何だか異様な動物の像が彫られた石碑の写真が載せられており、そのおどろおどろしさが、一気に筆者の好奇心を掻き立てたのである。題名の「マタエンバ供養塔」も、謎めいた暗号のような響きがあり、すぐに気に入った。何しろ、初めは「マタエンバ」と云う言葉に、何やらカリビアンな響きを感じ取り、ヴードゥー関係の呪術などが脳裏に浮かんだくらいである。

いま読み返すと、この小文の中に、わずかながらきちんと「マタエンバ」の説明があるのだが、子供は括弧内の但し書きなどは読まないため、筆者は長らくこの正体が分からないまま時を過ごすこととなった。この時は、単に「猫の踊り」の言い伝えに関するものであること以外は、あまり具体的なイメージが湧かなかったのもやむを得まい。そもそも「玉川村」自体があまり馴染みのない村名だった上、話に登場する「北の湯」と云うのもどこにでもありそうな、一体、固有名詞と考えていいのかすら判断しにくい名称なのである。

その後の筆者がうろ覚えに覚えていた内容と云うのは、大体、次のような感じである。

・昔、ある村の一人暮らしの老人が、後妻をもらった。
・しかし、この後妻が実は化け猫だった。
・後妻は、毎晩、猫を集めては、どこかで歌い踊った。
・ある夜、通りがかった若い僧に正体を見破られて、どこかの温泉に逃げた。

御覧の通り、「ある~」とか「どこかの~」ばかりの、実に具体性のない記憶で、そもそも「マタエンバ」と云う名前や、「玉川村」「北の湯」と云う地名すら忘れているのであるから、どうにも救い難い。このいい加減な記憶のためもあって、筆者は次第に忘れるとなく、この話のことを忘れていったのである。もちろん、忘れてしまったのは、当時はまだまるで「猫」に興味がなかった、と云うかむしろ大の「猫嫌い」だったことと関係が深い。



3. 「マタエンバ」再び...

だが、二十年以上を経て、この遠く薄れた少年の日の記憶を思い出すときが、思わぬ機会にやってきた。何年前かの旅行中に、宿のテレビでちらっとあるアニメを見たのが切っ掛けであった。そのときは、番組と番組の間に見ただけだったので、題名を流す場面は見逃してしまったのだが、内容は一種の「化猫譚」であった。「又右ェ門」と云う老爺のもとに後添えに入り込んだ老婆が実は化け猫だったと云う筋である。通りがかりの「西念」と云う坊さんがこれを看破して退治するのである。ただ、オープニングを見逃したせいか、お話の採取地は不明のままになってしまった。

このときは、「弥三郎婆さ」や「狼の七継ぎ松」系統のお話に、「猫の踊り」が混じっていることや、何よりも当の「婆さま」の正体が「後添え」と云う、この系統の話ではあまり聞かない立ち回りになっていたのに興味を引かれて、後日のためにメモを取ったりしたのである。しかし、勘の悪い筆者は、このとき『福島の民俗』の記事を思い出して関連づけることはなかったのである。もはや、記憶はそれほどまでに薄れていたのである。ついでに云うならば、この時期にはまだ、筆者の「猫好き」への大転換は起きていなかったのである。

それが、その年の冬、白い野良猫と仲良くなったのが切っ掛けで、筆者は傍目から見たら馬鹿げているほどの「猫好き」に変わってしまったのである。この白猫は、結局、筆者にとっての飼い猫第一号となり、現在は、筆者と妻 (元々の猫好き) とを従えて、我が家の「猫神」として君臨するに至っている。

この大変換が契機となり、筆者は「猫」に関する様々な調査に没頭していくこととなったのである。最近になって、何年か前に旅先の宿で見た昔話の番組のことを調べてみて、「福島」の県立図書館で『福島民話館ねえみんな...』と云う題名のシリーズを発見した。例のテレビ番組を本にまとめたものである。このとき初めてこの話が「石川郡玉川村」のものであると知った。その本の記述に沿って、内容を以下のようにまとめてみた。

元禄の初めの頃、「吉村」の「中下」に、「又右ェ門」と云う八十歳余りの爺が、婆に死別して一人で募らしていた。ある日、「又右ェ門」は道端で苦しむ老婆を介抱してやったのが縁で、婆はそのまま後妻に落ち着いた。

その後、婆は毎晩夕食後に出かけ、「鹿島神杜」の境内で猫を大勢集めては、歌いながら踊っていたため、村人たちの間に悪い噂が立った。そんな悪い噂を一笑した「又右ェ門」だったが、ある晩、婆の後をつけると、その正体は化け猫だったのである。

そこへ通りかかった「西念」と云う若い僧が、猫たちの声を聞いて様子をうかがっていると、人の匂いに気づいた猫が追いかけてきたので、「西念」は木に登って逃れた。猫も登ってきたので「西念」が懐剣で切りつけると、猫は落ちて逃げ去った。

血の跡をたどると、「中下」の爺の家に続いていたので、「西念」は婆の様子を尋ねる。「風邪をひいて寝ている」と云うので見舞おうとすると、婆は断る。「西念」は、爺に生杉の葉を持ってこさせて家の戸を閉めて燻すと、婆は猫の姿に変わって煙出しからとび出し、黒雲に乗って西の空に消えた。

猫の行先きは「那須」の「北の湯」。以降、「吉村」の者が行くと変事が起こるので、「北の湯」には行けない。

参照・竹治政枝/文 (2007) 「又右ェ門猫と西念坊 (石川郡玉川村) 」
トータルプランニングオフィス『福島民話館ねえみんな...』第十四巻、東京電力、pp. 35-50

この作業を通してはっきりしたことは、上の話が単なる昔話ではなく、時代や場所、人物が特定された伝説の形をとっていると云うことである。場所も、単に「玉川村」と云うだけでなく、旧「吉村」の「中下」とまで具体化したし、人物名も揃った。「猫の踊り」の場所も「鹿島神社」と特定された。こうなると俄然、「北の湯」なる地名も気になり出しそうものである。しかも、「那須」の「北の湯」と云われたら、これが調べずにはいられようか。



補節. 「西念法師」について

しかし、「那須の北の湯」へと稿を進める前に、少し話題が逸れるが、「西念」と云う坊主について、少しだけ候補を探ってみたい (興味のない人は、この節はまるまる飛ばしても、本文とは関係ないので大丈夫です) 。と云っても、この「西念」と云う名前は、固有名詞とは言い難いほど、古典落語や民間説話を通して、多く巷間に膾炙されている。一時、市井に住む無名の僧と云えばみんな「西念」と呼ばれていた観さえある。だから、候補を探すまでもなく、この「西念坊」は、おそらく単なる説話中の架空人物に違いない、と諸姉諸兄は思われるだろう。実は、筆者もそう思っている。

しかし、そう思っているにも関わらず、「西念坊」の候補についてあれこれと考えてみることにしたのには訳がある。それは、「北関東」から「福島」にかけて、「西念寺」と云う信仰の盛んな寺があるだけでなく、「西念」と云う名の僧が活躍する話も決して少なくない、と云うことである。さらには、落語などに見られる「西念」と云う名の坊主が比較的ろくでもない人物として、軽んぜられて描かれることが多い* のに対して、この地方の「西念坊」と云うのは、人々の崇敬を集める立派な僧として語られることがしばしばだ、と云う点においても特徴的だったからである。「マタエンバ猫」の話の中でも、旅の僧「西念」は、化け猫を退治する傑僧として描かれている。このため、もしかしたら、この地方の「西念」話と「マタエンバ猫」の中の「西念」との間に、何らかの相関性があるかもしれないと、一応は疑ってみたのである。

* 古典落語における「西念」の例---代表例が「黄金餅」の「西念」であろう。「下谷」の長屋に住む貧乏僧「西念」は、実は長年に渡る吝嗇を通じて二分金・一分銀で大金を貯め込んでいるが、死に際してもそれを人手に渡すまいと、あんころ餅に包んでお金を全て飲み込んで死ぬ。看病していた隣りの「金兵衛」は、この様子を壁の穴から覗いて見ていたため、悪戦苦闘の末、最終的に死体から大金を回収するのに成功し、「目黒」に餅店を開いて大繁盛したと云う筋。お店の名前は「黄金餅」。「小金持」と掛けたもの。その他、「藁人形」など。


a) 「西念塚」あるいは「人身供犠のメカニズム」

「マタエンバ供養塔」を探すために「玉川村」にやってくる直前まで、筆者は「伊達市内」の「猫神」の探索をしていた。そして、この「伊達市」を経巡っている過程で、市指定の文化財とまでなっている「西念塚」と云う旧跡があるのをたまたま知ることになった。

県道353号・国見福島線を北へと辿りながら、「福島市」から「摺上川」を渡って「伊達市」に入った直後、「川原町集会所」に向かって左に曲がると、前方に枝を大きく広げた「欅」の大木が聳え立つのが見えてくる。この大樹の根元に、わずかばかりの石積みと小さな石祠があり、その傍らに白く塗られた標識柱が立っている。表に「法師西念不生位」、裏に「寛文八年戊申四月八日入定」と刻まれた碑もある。「西念塚」である。

以下、この塚の由来を簡略に記す。

伊達町の指定史跡

西念塚

伊達市字川原町 106
伊達市教育委員会 024-577-3245

「川原町」の一帯は、「摺上川」の北岸の沖積地に開かれた集落であったが、現在でも「幸橋」を渡った後は下り坂となり、標高はわずかに五十七センチだと云う。近代的な治水政策に恵まれた現在ならばこそ大きな問題はないが、川沿いで、かつこれだけの低地となると、かつては水の被害が深刻だったろうことは想像に難くない。

実際、「江戸時代」の初めの頃の「摺上川」は、毎年氾濫を繰り返して周囲の田畑を侵し、そのために地域住民の困窮は極に達していたと云う。この度重なる洪水から人々を救うため、寛文八年 (1668) 四月八日、「田町」にあった「東光寺」の住職「西念法師」は、自らが堤防の人柱となって捨身入定を果たした。「西念塚」とは、その墓碑である。

この「東光寺」については、いくつかの記録にその名前が残されているだけで、実はその実態は、はっきりしていない。もちろん、だからと云ってその存在自体が怪しいとか云うのではなく、単に寺そのものがとうの昔に廃されてしまったようで、今に伝わることが少ないのである。それでも、『伊達小学校郷土誌』* は、「長倉村・田町」には、寛永* 年間 (1624-1644) に「瑠璃光山東光寺」と称する、「保原長谷寺」の末寺で、「真言宗」の祈願寺院があったと云い、また、『保原町史 第五巻』は、宝暦元年 (1751) の記録にも「長谷寺末寺・東光寺」があったと記している。

* 伊達小学校郷土誌』---筆者は原本を閲覧していない。すべて『伊達町史』第三巻の記述に拠る。

* 寛永---『伊達小学校郷土誌』には「寛政」と書かれているが、「寛政期」の記録なら豊富に残っており、その頃には「東光寺」は既に言及されていないので、「寛永」の間違いと思われる。

一方、『桑折町史』第五巻を繙くと、寛文元年 (1661) の「伊達信夫寺数之覚」と云う文書の中に、「長倉村」には「浄土宗」に属する「西念寺」と云う寺があったことが記されている、とある。

口碑では、「西念坊」は長年の諸国行脚の末、「長倉村」に至って、久しく拝することのなかった「薬師如来」に出逢い、その風雨に曝されているのを悲しんで、小さなお堂を建てて安置し、日夜勤行する身となったと伝えられている。「西念」が「長倉村」にやってきたのは、「寛文」よりは大分以前であったが、既に「東光寺」は荒れ果てた無住寺となっていたようである。そこで「西念」は托鉢して基金を募り、お堂を建てたところ、寛文元年までに、それが庵寺として認められるに至り、住職となった「西念」の名前から「西念寺」と呼ばれるようになった、と『伊達町史』第三巻の執筆者は推測している。

「西念法師」の墓の上に、供養のため村人によって植えられたと伝えられる「欅」は、いまや高さ三十二メートルの大木へと生長し、周囲を圧する壮観を呈している。この木は、その幹の太さから樹齢約三百年と推定され、言い伝えと年代も一致し、昭和五十八年 (1983) 三月には、県の「緑の文化財」に登録されている。さらに、「伊達市」は、この「西念塚」と、弟子の「浄心」が残した文書、そして「大欅」をも合わせて、市文化財として一括指定している。

「西念」は、入定するに当たって、「浄瑠璃薬師如来」のお堂を建てることを祈念していたようで、その遺言を受けた弟子「浄心」は、寄付金を募るための奉賀趣意書として「浄瑠璃薬師如来御堂修造奉加疏」を書いており、これが先程述べた市の文化財指定を受けている文書である。後の「宝暦」の頃に「東光寺」があったと記録されていることは前記の通りだが、そうであると云うことは、この趣意書の甲斐あってか、「薬師如来堂」はどうやら完成を見たようである。ただ、この堂宇は、おそらく寛政十年 (1798) の大火で焼失し、現在ある「田町」の「薬師堂」は、その後の再建によるものと考えられている。

*

それにしても、この一連の事情を俯瞰すると、一つの興味深い事実に気づかされる。「西念」は、決して無条件に「捨身入定」したのではなく、自らの死後に「薬師堂」の建設を依頼する担保として人柱となった、と解することも出来ると云う事実である。もちろん、これも仏道、ひいては衆生救済のためであってみれば、「西念」個人からすると「無私」であることに変わりはないが、救済するものとされるものとの間の関係性の中で捉えると、これは一種の契約であり、取引である。しかも、その取引は、命を投げ出すと云うより高いリスクを背負って、より高い代価を支払う「西念」の側からの、明らかな先出しジャンケンなのである。同様に、民衆の側から見れば、これは明白な後出しジャンケンを許されたようなものであり、「西念」の「捨身入定」に対する対価を支払わねばならぬ法的な義務も、そのように働く強制的な力もほとんどないと云える。そう云った意味では、「西念」は自らの生命を明白な信用取引きで交換しているのである。

当然、信仰と云う認知のパラダイムから見れば、筆者の云うが如き理屈は無意味で、そもそもそこには前提としての均衡が約束されており、その均衡が契約の履行を無条件に保障するのだ、とも云えるのは分かっている。簡単に云えば、信仰と云うのは絶対的なものであり、それを疑ったり、条件をつけたり、ましてやその宗教的な行為を「取引」などと呼ぶことは、断じて不敬である、と云う反論のことである。古典派の経済学者たちが、「神の見えざる手」が働くと考えたように、「信仰に導かれた幸せで豊かな社会」と「不信心と瀆神に満ちた災い多き社会」との間の交代は、必然的に起こる変動だと云う考えである。この図式の中では、前者は後者と反比例するものであり、社会の成員が信心さえ維持していれば、この均衡はよい方法へと向かって常に漸転するはずなのである。それ故に、無条件の信仰が、無条件の救済を保障する、と云う理屈になるのである。

しかし、ここではそう云ったマクロな視座は、取り敢えず等閑視しておきたい。むしろ、それに代わって、一連の信仰的行為に関わる成員たちの関わり合いの中から、その個々の行為や認知が、どのようにダイナミックに絡まり合って、循環的に立ち現れてくるかを見てみたいのである。言い換えるならば、「西念」の「捨身入定」が、その行なわれた状況の中で持つ象徴的な意義、と云うか「カラクリ」のようなものを少しく探求してみたいのである。

まず、出発点として、「神の力」や「仏の力」を信じ、かつ畏怖する共同体の心理的な合意の中にあって、「西念」は仏の神威を自ら具現するために人柱に立ったのである、と云う考えから始めたい。そして、そうである以上、その救済を受けた民衆は、その成否に関わらず、神仏への信仰の証としての代価を要求されるのであり、民衆もまたそれを当然のこととして受け入れるのである、と云うことをその所与の帰結として見定めたいのである。

最も表面的な位相から見ただけでも、救済を達成しうるほどの神であれば、信仰と云う約束が履行されなかったとき、どのような鉄槌を民衆に下してくるか想像するだに恐れ多く、また救済がうまく行かなかった場合でも、真に威力ある神仏が失敗するはずもないため、その原因は民衆の内の不信心に帰納される、と云うことになるのである。その場合、さらなる信心を実行しない限り、救済は完結しないばかりか、下手をすると神仏の怒りのために災厄がさらなる猛威を振るう可能性すら出てくるのである。こう云う理屈が働くからこそ、祈りや祝祭などの信仰儀式は、分かりやすいところで、その社会や集団の求心力を高める機能を果たしうるのである。

さて、人柱として入定する「西念」の姿は、このような社会的な求心力の渦の中で、さらに何重もの意味を持って立ち現れてくるのである。すなわち一方では「神仏を怖れ畏む民衆」の象徴として、他方では、大地あるいは水流に生きたまま飲み込まれると云う行為を通して「怒れる神仏の意思に従順に身を任せる民衆」の象徴として機能すると同時に、大地や水塊と云う天然自然のエレメントと自ら合一することを通して、生贄自身が自然を司る神仏と一体化するモーメントを提供するのである。そして、その強烈で、衝撃的な「生の与奪行為」と、それと交錯する「生と死の交換行為」を通じて、「怒れる神仏」の本質をも視覚や聴覚などを中心とした全感覚的な知覚を以て、民衆に徴するのである。

別の視点から見れば、自発的な人身供犠と云う行為の異常性を通して具現される、犠牲となる人の超人性は、それ自体が、この一連の供犠の儀式が成就されるだろうと云う暗黙の予祝行為ともなっているのである。「毒 (異常なる者/行為) を以て毒 (異常なる事態) を制す」と云うような理屈も働いているかもしれない。しかし、それよりも、「西念」が自ら先んじて死ぬことを通して、彼の民衆に対して行なったこの先払い的な信用取引きの構図が、今度はそのまま「神仏」と「西念」との関係に写像変換されるのであり、改めてこの供犠の儀式の成功を前提的に担保すると同時に、民衆が「西念」との契約を履行しない場合、その不履行の行為はそのまま神仏に対するものと翻訳されることの理論的な下地が準備されるのである。

したがって、「西念」がその死に当たって、「薬師堂」の建立を民衆に祈念して逝った行為は、一見、自ら人身御供に立つと云う狂おしいほどの「無私」の行為を、自らの願望で汚すようにも受け取れるが、これはむしろまったく当たらない非難なのであり、この「契約」の存在こそが、最終的に民衆の神仏による救済と云う関係を保障する綴じ目として働くのである。

*

現在、「西念塚」は、明治二十四年 (1891) 創建の「諏訪神社」の旧地内にあり、伝え聞いたところでは、平成二十一年 (2009) に、この敷地内の「西念法師霊堂」が新築されたと云うから、どうやら新生「伊達市」は、「西念塚」を新たに史跡公園として整備するつもりのようである。今後、再訪するのが楽しみである。


b) 「西念坊・逆修塔」

天台宗・中妻阿弥陀堂
無量山・来迎院・石沢寺

北茨城市華川町中妻 50
0293-43-4480

市指定文化財

石沢寺・阿弥陀堂

北茨城市華川町中妻 355
0293-43-1111 (生涯学習課)

余談ついでに、もう一つ「西念」話を上げると、「北茨城市華川町中妻」の「石沢寺・阿弥陀堂」の境内に、一つの「逆修塔」が立っている。「逆修塔」とは、生前にあらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行なって建てる墓碑の様なもののことだそうである。この「阿弥陀堂」境内の「逆修塔」の主こそが、「上野寛永寺」で得度して、やがて「権少僧都」となって東国修行の旅に出たとされる「西念坊」なのだと云う。「石沢寺」の住職「小林徳定」師によると、この「西念坊」とは、「幕末期」に義賊として一世を風靡した「木鼠の吉五郎」が、後に発心した姿なのだと云う。先代住職の調べによると、「吉五郎」こと「西念坊」は、嘉永四年 (1851) に「福島県東白川郡」で入寂していると云う。

「木鼠の吉五郎」と云えば、「享保期」に名をなした「雲霧五人男」 (雲霧仁左衛門・因果小僧六之助・素走り熊五郎・木鼠吉五郎・おさらば伝次) の一味として活動した盗賊として知られているが、歴史的な人物としての「吉五郎」は「天保期」の盗賊であるから辻褄が合わない。しかも、「雲霧仁左衛門」が初めて講談『大岡政談』に組み込まれたのが同じく「天保期」であったため、この時期には「雲霧一味」に同時代に実在した「吉五郎」の名があるはずもなく、ようやく「江戸末期」から「明治期」にかけて、歌舞伎の白浪物の中で「雲霧五人男」の一員として定着していったのである。芝居や小説などの中では、「木鼠長吉」となっていることもしばしばある。

「戦後」は、昭和三十年代の「浪曲」全盛期に、『唄入り観音経* 』の主要人物の一人として知られていたのを最後に知名度はぐんと下がり、その後は「池波正太郎」の小説『雲霧仁左衛門』や、その映像化された作品を通して、主に「池波」ファンを中心に知られていると云うのが現状であろう。

* 唄入り観音経』---「三門博」がヒットさせた浪曲。荒筋は、以下の通り。吾妻橋で白石在小菅の百姓「甚兵衛」が領主への上納金五十両を掏られて死のうとしているのを、金を与えて助けたのは義賊「木鼠吉五郎」。「甚兵衛」は恩を一生忘れぬと、「吉五郎」の身を案じて「観音経」の一節を覚えて唱える毎日。後、「吉五郎」は御用となり「大岡越前守」の裁きを受ける。金こそ盗んでいるが非道をした事は一度もない「吉五郎」に対して、「越前守」は粋な計いで、所払いの罪で済ませた。人の情けに感じた「吉五郎」は改心して、仏門に入って「西念」と改め、全国行脚の旅に出た。

問題なのは、この「雲霧五人男」が活躍したのは、既に述べたように、歴史的には「享保年間」 (1716-1736) とされているのだから、年代の上で「石沢寺阿弥陀堂」の「逆修塔」とは合わなくなることである。ただし、これに関してはどうやら「逆修塔」の方が年代は正しいようで、「吉五郎」は「天保期」に活躍した盗賊であることは、当時の「北町奉行」であった「榊原忠之」の下で働いた元与力の残した記録類にもある (佐久間長敬『拷問実記』柏書房) 。「岡本綺堂」もまた「佐久間長敬」からの聞取りを元に「拷問の話」と云う随筆を書き上げているが、それによると、「吉五郎」の吟味は天保五年 (1834) に開始されている。ただし、罪状は、こそ泥同然のものばかりで、中でも「証拠の最も歴然たるのは、日本橋人形町の小間物屋忠蔵方で鼈甲の櫛四枚をぬすみ取った」一件に過ぎない。この件に関しては、仲間四人で得たお金は合わせて四両、その全てを「酒や女につかい果してしまった」と云うことであるから、「義賊」の伝説もどうやら後世の創作のようである。

記録によれば、「吉五郎」は捕まった共犯者によって盗みの仲間だったことを認められ、盗まれた側の人々にもはっきりと顔を覚えられている上、盗品を買い取った故買商にも証言され、仲間と故買商の証言通り、四つの櫛のうちの二つは発見され、その櫛も被害者の小間物商によって確認されている。罪状は明白だったのだが、既に盗みの前科があった「吉五郎」は、今度の一件を白状すると死刑が確定するためか、頑として自白を拒絶して、「江戸時代」を通じての記録となる二十七回の拷問に耐え抜いたのである。このことで、「吉五郎」は囚人たちの英雄となり、やがてそれが誇張されて市井に喧伝されていった、と云うのが彼の「義賊」伝説の始まりなのであろう。

「江戸期」の裁判は、当人の自白を前提としていたので、しゃべらない相手に対しては、拷問が許可されている。結局、最後まで拷問に耐え抜いた「吉五郎」の一件は、自白がなくとも「老中」の胸の内一つで刑を決めることの出来る「察斗詰」の審議を通して死罪が確定した。残念ながら、実際の「吉五郎」はただのこそ泥で、一両ばっかしの盗みのために、三年余りも拷問を受けて、結局は斬首された窃盗に過ぎないのである。

『江戸の盗賊』 (青春出版社、2005) を著した「丹野顕」氏は、「吉五郎の一連の反応をみると、いつからかはわからないが、彼は拷問される苦痛のなかに快感 (エクスタシー) を見いだしていたのではないかと思う」とまで述べている (同書、p.200) 。筆者はこれに諸手を上げて賛同しないまでも、囚人仲間にチヤホヤされたことがよほど「吉五郎」の虚栄心をくすぐったのではないか、あるいはたかが四両の盗みにあってすら、頭目格にはなれなかった「吉五郎」は、虚栄ばかりではなく、囚人たちに認知されたことが心底嬉しかったのではないか、と云うくらいの予断は入れつつ、やはりいくらか痛めつけられるのを楽しんでいる風情はあったのかもしれぬと思わずにいられないのも事実である。

残念ながら、「木鼠吉五郎」が、世に云う「義賊」だった証拠は何もないようである。ただ、拷問に耐え抜き、奉行所の面子を潰したことが、結果として「不屈の抵抗者」のようなイメージを「吉五郎」に付与し、それが後の芝居などで尾鰭がついて宣伝され、いつの間にやら「義賊」の名が冠せられるようになったのであろう (皮肉なことに、現実にはこの一件の後、奉行の「榊原忠之」は「大目付」に栄転している) 。そして、「義賊」であるからには「良心」や「善根」があるはずで、それを発展させた民衆のイマジネーションが、やがて、罪を赦された後に出家する、と云う後日談を生み出したものと思われる。

ただし、この後日談を巡る説話群に関して、筆者はあまり知識も資料も持ち合わせていない。罪を赦されて自由の身になると云う設定は、「菊池寛」の小品「奉行と人相学」で読んだことがあるが、これは昭和二十三年 (1948) の作品だから、新しすぎる。さらには、晩年出家すると云う後日談に関しては、既に述べた「三門博」の『唄入り観音経』のエピソードを除いては、「菊池三渓」の『本朝虞初新誌』 (1883) に収められた「木鼠長吉伝」くらいしか知らない。この作品では、「大岡越前守」の裁きを受けて罪を赦され、「上野国」で農民となったと云う設定になっていたと思うが、これがこの手の話の初出かどうか、筆者は寡聞にして知らない。あるいは歌舞伎などの台本を探せば、もっと早い時期の記述が見つかるかもしれぬ。

ただ、つい最近、思わぬことから一つ新たな「吉五郎」後日談を目にした。「信達地方」の猫神調査と並行して、「宮城県南部」の猫神調査を計画していた段階で、「白石市」の過去の広報などに目を通していた時に、次のような記事を発見したのである。

小菅地蔵尊


大鷹沢地区の出羽津堂の佐藤重氏宅入口の小丘の上に、昭和二十七年に建てられた三門博の唄入観音経にちなむ小菅地蔵尊がある。

小菅村村役人の甚兵衛は、村の上納金を納めに江戸に上るも、五十両まるまる掏りとられ、橋から身を投げようとするところを通りがかった匿名の義賊「木鼠吉五郎」に助けられ、金子も与えられる。無事に上納金を納めて故郷に帰った甚兵衛は、助けてくれた恩人を確かに凶状持ちと判断して、もしものときに恩人を身を守りたいと願って、旦那寺の和尚に頼んで観音経の一節を教わって、日々、夫婦相和して過ごした。一方、吉五郎はついに捕縛され、死罪を待つ身となるが、奇跡的に無罪放免となる。前非を悔いた吉五郎は、名を「西念」と改めて、諸国行脚の旅に出た。たまたま小菅村を通りかかると、甚兵衛のことが思い出され、その家を訪ねると、一家一村の大歓迎、ついに余生をこの村で送ったと云う。

現在「西念和尚」の仏衣や箸・椀などが保存され、「西念」を祀ったお堂の中には、もと小菅にあった小菅地蔵尊が安置され、傍らに西念和尚が生前信仰したと云う白龍観世音も祀られている。

飯沼寅治 (1977) 「伝承・物語をたずねて (3) 小菅地蔵尊〔大鷹沢地区〕」
白石市役所総務課/編『広報しろいし』昭和五十二年六月号・214号、白石市、p. 5

上の「小菅地蔵尊」は、「木鼠吉五郎 (西念和尚) 」の供養及び村内の招福除災のために「小菅村」の名主「甚兵衛」が建立したと云われ、旧三月三日と九月九日が祭日であると云う。さらには、「大鷹沢地区」と隣接する「白石市」の「小原地区」では、「七ヶ宿町」との境界に近い「材木岩」の辺りに「吉五郎」の墓があると伝えられているそうである。面白いのは、『唄入り観音経』では単に「百姓」だった「甚兵衛」が、地元では「名主」にまでなっている。実際、領主への上納金を運ぶような大役を担うからには、やはりある程度責任ある役についている人物である方が信憑性も高い。ただ、『唄入り観音経』では文字もなく、かなり愚鈍な人物として描かれている「甚兵衛」が、実は村の「名主」だったと云うのも解せないことに変わりはない。したがって、フィクションであるにせよ、全体としては『唄入り観音経』の方が筋が通っている。

それにしても、「石沢寺・阿弥陀堂」の「逆修塔」にしても、この「小菅地蔵尊」にしても、どのようにしてこのようなフィクションが、史実であるかのように定着していったのか、非常に興味をそそられる。何しろ、本物の「吉五郎」の時代から見てさえ、たかが百七十年前後の年数しか経っておらず、昭和七年 (1932) の『唄入り観音経』の誕生から数えたら八十年も経っていないし、この「浪曲」が昭和三十年代まで大いに流行ったことを加味して考えると、それからだと半世紀も経っていないことになる。にも関わらず、この創作劇が、どのようにして「北関東」や「東北」の一部の地方の民間の歴史伝承に食い込んで、史実であるかのように語られ、体験されるようになったかは、民話や伝説の成立 (特に「近代」以降の) を考える上でも、非常に興味深い題材を提供してくれるのである。

「吉五郎」が嘉永四年、「福島県東白川郡」で死亡しているのか、それとも「宮城県白石市」の「材木岩」で亡くなっているのかは、残念ながら、問題ではない。「石沢寺・阿弥陀堂」の「逆修塔」が本物かどうかの議論も必要がない。実在の「木鼠吉五郎」は、御用になってからは、一度だけ牢破りに成功して四ヶ月ほど娑婆の空気を吸っていることを除くと、牢屋の外には全く出ていないのである。当然、「北関東」や「東北」をふらつくはずもないし、逃亡中に捕縛された時も、女の家に潜伏しているところを捕まっていて、とても改心した遍歴僧と云った風情ではなさそうである。そして、何よりも、やがてそのまま刑死することになる「吉五郎」が、「江戸」の「小伝馬町」を遠く離れた土地で死亡しているはずがないのである。

結局、史実として疑い得ない事実に、「吉五郎」の死亡の場所と年月日がある。天保七年五月二十三日、「播州無宿大阪入墨定蔵」こと「木鼠吉五郎」は、牢内の死罪場で速やかに斬首に処されている。「察斗詰」の決定が「老中」から下された後、即日の処刑であった。

*

ついでに付け加えるならば、先に挙げた「伊達市」の「西念坊」も、寛文八年 (1668) 入定と云うことなので、「元禄」の初め頃と設定された「マタエンバ」の伝説とは、これまた微妙に時代が適合しない。何しろ「元禄元年」でさえも、西暦に直すと1688年に当たり、「西念」の入定後二十年を経過した年だからである。当然、「天保期」の実在の人物である「木鼠吉五郎」が「元禄」の頃、化け猫退治をしているはずもない。

結局、「又右ェ門の猫」に登場する「西念坊」は、いまのところ、落語や講談、その他諸々に現れる、幾数多の「西念坊」と同じく、「ある一人の西念と云う坊さん」と考えるしかないのだろう。ただし、「北関東」から「福島」にかけて、「近世」のある時期に、「西念」と云う名の、漂泊する旅の名僧があった、と云う民間でのイマジネーションが働いていたらしい、と云うことは想像に難くない。「木鼠吉五郎」の伝説は、元からこの地域にあったこのような「西念」像に、泥棒上がりの旅の僧侶ならば、「願人坊主」くらいが関の山だろうと云う民衆の想像力が下敷きとなって、民間説話の「願人坊主・西念」の一般的なイメージが、いつとなく習合されていったものではないか、と思うことも可能である。

* おそらく、「近世」以降の民衆文化の中に現れる旅僧「西念」と云うのは、「中世」以来の浄土系の遊行念仏僧の記憶と深く結びついているものと筆者は考えているが、勉強不足で、それ以上のことをここで申し述べる力がない。「民衆の中の西念坊」に関する研究と云うのも、専門家の間でとうに行なわれていると思われるのだが、無学寡聞にして、具体的な論考を知らないで来てしまった。可能ならば、そのような過去の論考について、御教示を賜りたい。



4. 「北温泉」と「猫ばっぱ」の伝説

寄り道が長くなり過ぎてしまった。ここらで元の話に戻ることとしよう。

実は、最初に旅先のテレビで「又右ェ門の猫」の話を知ったときは、「北の湯」と云う言葉だけが印象に残った。そのため、この「北の湯」は、「玉川村」から見てもさほど遠くない、「郡山市内」の「北の湯」を指しているのかと考えていたのである。現在は、「ごれいびつ北の湯」と云う温泉旅館が営業している。「郡山市」の西端にあり、県道6号・郡山湖南線から分岐する道路をさらに山奥へ向かい、「御霊櫃峠」を目指していく途中にある。「御霊櫃」の名が、何となく「化け猫譚」に似合うではないかと思ったのも、筆者の誤解を手伝った。何故こんなところを思いついたかと云うと、学生時代に、一度立ち寄ったことがあるからである。加温式の鉱泉だが、いい温泉である。歴史を感じさせる重厚な木製の看板が印象深かった。

ごれいびつ北の湯

郡山市逢瀬町多田野字草倉沢 4
024-957-2487

しかし、今回の調べで、「北の湯」が「那須」にあると分かって、筆者の興味は俄然、高まった。これはもしかしたら「那須」に現存する「北温泉」ではないかと思うと、ふと恥ずかしくもなった。何故なら、ここの温泉は、筆者が大学時代に初めて自炊で温泉に長逗留するなどと洒落込んだ経験をした思い出深い場所であり、その後も筆者にとって、知り合いに対して最も推薦出来る温泉場の一つとなっていたからである。もしも、この「猫」の伝説が「北温泉」に結びつくとしたならば、筆者は長年この温泉場に関わる「猫」伝説を無視しつづけてきたことになる。

筆者が「北温泉」に逗留した当時は、まだインターネットなどと云う便利にして奇ッ怪なものが世に喧伝されていなかったが、現在は「北温泉」の公式ホームページに行くと、わりとあっさりここの温泉にまつわる様々な伝説が紹介されている。「弥三郎婆さ」の伝説と「鬼子母神」の説話は、研究者たちによっても近しい関係にあるのではないかと云われて久しいため、ここの温泉に「鬼子母神」が祀られていること自体、興味深いが、それよりも「玉川村」の「猫」伝説とずばりそのまま対応する伝説も紹介されていた。その名も「猫ばっぱ」の伝説である。以下、紹介する。

猫ばっぱの話

昔、今の「福島県」のある村のある家で、猫が飼われていた。村人からもたいそう可愛がられ、たいへんな長生きとなった。それがある日、村人がその猫の尻尾が二股に分かれているのに気づいてからは、これが噂に聞く「猫又」だとばかりに、村中みな恐れおののき、大騒ぎとなった。結局、村中で「唐辛子」を火に焼べ、猫を村からい燻し出した。その後、村は元通りの平穏が戻ったと云う。

しばらくして、そんな騒動とは無縁の「北の湯」に一人の貧しい身なりの老婆がやってきた。目も傷めているらしく、いつも目をしばたかせていた。何でもするから置いてほしいと懇願する老婆を、「北の湯」の主人は哀れに思い、湯治場で働いてもらうことにした。

老婆は、朝早くから夜遅くまで陰日向なく働いた。そして、信心深いのか「温泉神社」を敬い、毎日掃除をし、大切にしていた。「目の湯」の薬効もあって、老婆の目はみるみるよくなり、ますます元気に働くようになった。

ある日のこと、ある家族連れが「北の湯」にやってきた。一日を温泉場で楽しみ、みんな眠りに就いた。しかし、明け方になると、一家のおじいさんがいないことに気づいた。明るくなって、宿の周りを探すと、おじいさんは引き裂かれて、大木の枝に引っ掛けられていた。聞いてみると、この家族はあの「猫又」騒動の村からやってきたと云う。そして、この日以来、老婆はいなくなり、あの村の人々は、現在も「北温泉」にはやってこないそうである。

猫はその後、「裏磐梯」の「猫魔ヶ岳」に移り住んだと云われている。

「北温泉」では、このこと以来、尻尾の長い猫を飼ったことはない。

参照・北温泉公式ホームページ
http://www9.ocn.ne.jp/~kitanoyu/mokuj.htm

「北温泉」のホームページを読みながら、「猫ばっぱ」と云う方言めいた呼び名を反芻するうちに、ふと筆者の中を、遠い記憶の中から「マタエンバ」の語が茫渺として往き来した。「関東」から「東北」にかけては、「なんとか右衛門」を「えもん」ではなく「えむ」と発音する地域が多い、と云うか、それが基本形なのを思い出したのてある。筆者の住む地域には、いまや知る人も少なくなっているが、昔から「印内の重右衛門」話と云うとんち話群が伝えられているのだが、これも地元の古老たちは「じゅえむ」と発音する。初めて聞いたときは「じゅげむ」と云ったのかと思ったのを覚えている。

この転訛の法則に従えば、「マタエンバ」は、おおまかに「又右衛門婆」に還元出来るのである。すなわち、『福島の民俗』にあった記事中の「老人」とは「又右衛門」であり、「通りかかった若僧」とは「西念坊」と云うことになる。また、逆に、「北温泉」に伝わる伝説の「ある村」とは「玉川村」だと云うことになる。さらに推測すれば、何故「玉川村」の湯治客のうち、老爺だけ襲われたのかも、それが「又右衛門」だったと仮定するとすんなりと理解出来る。村の者全体に恨みを抱いていたなら、何も爺様だけ殺す必然性がないのである。

もちろん、「猫ばっぱ」の話の前半部と、「マタエンバ」の話は一緒とは云えないが、大まかに見て同じ伝説の後日談だと見ても差し支えなかろう。「生杉」と「唐辛子」の違いなどもあるが、これは「目の湯」の由来として援用変形された可能性が否定出来ない。「唐辛子」自体が、「中世」末期以降、我が国に入ってきた植物であることを考えると、元は「杉」などの針葉樹の系統であった可能性は決して低くない。

そもそも、針葉樹の葉は、いぶすと独特の香気を出す。仏壇や墓参り用の線香の原料には、杉の葉を使うことを見てもこの事実は確認される。そして、線香が仏事などで空気を浄める呪術的な意味合いで使用されるのを同じように、「マタギ」等の古来の山間民は、各地で針葉樹の葉を燻して「山の神」にお供えをすることで知られている。神前にお供えをすると云うのは、神の怒りを買わないための行為であり、翻って云えば神の怒りを鎮める行為とも解釈出来る。後に、修験者たちもさかんに香や針葉樹の葉を焚いて、魔除けなどの呪法を行なったこととも無縁ではあるまい。「西念」が杉の葉を焚いて「マタエンバ」を払う行為には、そのようなわが国に土着の呪術的な連想が働いている気がしてならない。

また、「マタエンバ」の伝説に特徴的なのは、「猫」が後添えに入っていることである。動物異類婚の話と云うのは、たいてい最後は悲劇に終わるのだが、「猫女房」の話だけはハッピーエンディングが基本なのとは対照的である。逆に、「那須地方」の伝説で云えば、有名な「玉藻の前」すなわち「九尾の狐」の伝説が知られている。実際にこの狐が暴れるのは「京都」なのだが、最後に調伏されたのが、「殺生石」のある「那須野」の地でなのある。「九尾の狐」は、「化生の前」とも呼ばれ、一説では「九尾」でなく、「二尾」だったとも云う。「猫又」伝説との接近が、ここにも見られるのである。

北温泉

『野那須郡岐多温泉記』
「北温泉」ホームページより

『野那須郡岐多温泉記』と云う「江戸期」の文書は、「北」の字を「岐多」と表記している。現在も、主要な温泉だけで五つはある湯治場だけに、「明治以前」は、源泉の岐路が多いことからこう書かれ、「きたおんせん」と呼ばれてきたと云う (「公式ホームページ」より) 。確かに、土管とかパイプとかが発達していなかった往古、湯は源泉から露天で流されたはずであるから、ここのように湯の種類も量も多い温泉ならば、このような由来の説明もつい頷けてしまう。ただ、「明治」の最初期に書かれた同温泉所蔵の温泉分析表には、「栃木県下野国那須郡湯本ノ内 喜多湯」と記されており、異字異表記が乱雑に使われた「明治以前」の風潮に因るだけなのかもしれぬ。ちなみに、「野」の「」の字は、「州」の俗字体である。

「近代」に入って、漢字が統合されていく過程で「北温泉」となっていったのには、それなりに理由があった気もするのだが、それに関しては事情が知れぬままである。今度久しぶりに「北温泉」を訪ねて、御主人にお話でも聞けたら幸いである。

ただし、語源がどこにあるかと云う問題とは別に、かつて「岐多」と書かれていたと云う事実、そしてそれがお湯の通り道が多かったことからそう呼ばれていたと考えられていたと云う事実は、「猫又」伝説を考えるとき、それなりに意義が深い。「玉藻の前」の伝説を含め、「化猫」の話などには、尻尾がいくつかに割れて怪異をなす動物のイメージがあるからだ。

また、「九尾の狐」は、「鳥羽上皇」の宮廷を逃れた後、「那須野」で婦女子をさらって喰らったともされるが、これはまた「栃木・福島」地方に広く分布する「鬼婆」伝説とも同工の類似を見せる。また、この「鬼婆」伝説は、「赤子を喰らう」と云うモチーフによって、「弥三郎婆」「妙多羅天女」の伝説と接近し、『雑宝蔵経』に載る「鬼子母神 (訶梨帝母) 」の伝承とも通ずる。また、死体を高いところに引っ掛けると云うモチーフも、「鬼婆」伝説と繋がるのみならず、「猫魔ヶ岳の猫」の伝説と一致する。「猫ばっぱ」の話では、最後に猫は「猫魔ヶ岳」に逃れている訳だから、両者の間には顕在的にも連環があることは明らかである。また、直接的ではないが、「夫婦」のイメージがつきまとうのも、「猫魔ヶ岳」の伝説と関係あるのだろうか。全体としては、「群馬県利根郡」の「宝川の猫」や、「福島県大沼郡昭和村」の「猫沢の猫」とのつながりも感じられる。

「マタエンバ」と「猫ばっぱ」の伝説は、こう云った意味では、この地方に残される多くの怪異譚、特に「猫」の関わるものと、相互に深い関係にあって形成された伝説である可能性が濃厚だと思われる。

北温泉

那須郡那須町湯本 151
 (那須郡那須町湯本高原開拓)
0287-76-2008
kitanoyu@kitaonsen.com

* 余談だが、公式ホームページの「猫ばっぱ」のページの最後の方に、「北温泉ではこれ以来しっぽの長い猫を飼ったことはありません」と書かれている。しかし、現在、ここの温泉で飼っている二匹の猫はどちらもしっぽが長いものである。結局、可愛さには勝てず、例外を作ってしまったようである。「ミミー」と「ティティ」と云うそうな。



5. 「マタエンバ供養塔」発見への道程


筆者の「マタエンバ」探訪の航路は、この辺りでまた小休止となってしまった。一つには、ここまで明らかにすれば、もう十分だろうと云う、弛緩した気持ちになっていたことが影響したのだと思う。それに加え、実際に、探求は手詰まりにもなっていたのである。

こうなると、後は現地に赴いて、あれこれ調査するしかない。しかし、現地調査は、細心の準備なしに行うと大失敗に終わることがほとんどである。特に、筆者のように単身、何のコネも後ろ盾もない状態で現地に乗り込むと、現地の住民の皆さんが、快く受け容れてくれるとも限らないのである。大学や学会、新聞社やテレビ局の看板を提げて行くとみな喜んで協力するのだが、必ずしも個人の調査に優しいとは云えないのである。

そこで、訪問前に入念な下調査をすることがどうしても必要となる。ただ、「福島」や「栃木」の文献資料など、「千葉」にあっては滅多に手に入れる機会がないのが大きな障碍となる。少年の日、一度きり見た『福島の民俗』誌も、いまはどこにあるか分からない。図書館の検索を駆使して調べると、どうやら探している『福島の民俗』は、十周年記念・第十号だったようである。その他、「玉川村高齢者学級/編」の『玉川村の民話・伝説と民謡』(玉川村公民館、1975) も、「岩谷浩光」の「玉川村の板碑」も、閲覧したかった。

そこで、今年のお盆前に、実際に「玉川村」に出向いて探索をしてみようと思い立ち、手始めに「村役場 (教育委員会) 」に問合せの電話をしてみた。教育委員会の人は、あまり詳しいことは分からないようで、役場に「吉」地区から来ている人がいるらしく、その人に繋いでくれた。結果として、「マタエンバ」の伝説は、「吉」地区でも、お年寄りは知っているが、若い人は知らない人がほとんどだと云うことであった。また、その人は、伝説そのものは知っているが、供養塔があるとは聞いたことがないと云う。口調からは、「絶対にない」に近い雰囲気が漂っていた。

この電話には、かなり意気消沈した。地元の人が分からないと云うものを、勘だけを頼りに他所者が見つけると云うのは至難の業だからである。猫たちが踊っていたと云う「鹿島神社」の境内辺りが有力候補と思われたが、役場の人は「鹿島神社」には、そう云ったものはないとはっきりと断定していた。何となく神社に行けばあるだろう、と云う程度の安直な気持ちで立てていた探訪計画だけに、そう断言されてしまうと、急に希望も何もなくなってしまったのである。

こうなると、基本が大切である。まずは、文献資料をきちんと調べ直し、その上で、地元の人々に丁寧に聞いて廻ると云うことになる。そこで、一泊二日の旅行の最初に「玉川村」に行こうと思っていた計画を取りやめ、初日は「川俣町」と「伊達市霊山町」を巡り、翌日の「山舟生」探訪に備えて、五時前に「伊達市役所・梁川支庁」に出向いて情報を得、しかる後に「福島県立図書館」に取って返して閉館まで調べ物をしてから、「飯坂温泉」に投宿すると云う強行日程に変更した。

既に、前回の記事で報告済みのように、「川俣」の「猫稲荷神社」に関しては、前もって役場の方々に協力をお願いしてあったこともあり、無事に探訪を終えることが出来た。しかし、旧「霊山町」地域は、まず役場の協力が事実上得られなかったことと、情報と時間の不足が祟り、ほぼ空手で立ち去ることとなった。再度の探訪を強く期するところである。「舟生・山舟生」地区の探訪は、「梁川支庁」の方々のおかげをもって、概ね成功に終わった (同じ「伊達市役所」でも、こうまで違うものかと思わされるほどの違いであった...) 。やはり、出来る問合せは、遠慮せずにしておいた方がよい。ただし、前もって自分に出来る調べ物は尽くしていないと駄目だろう。

県立図書館は、さすがに文献資料は豊富にあった。ただ、わずか二時間かそこらで調べ物をするためには、どうしても興味範囲のすべてを調査していては間に合わない。そのため、準備していたウィッシュ・リストの上位二項目、すなわち「玉川村・吉地区」と旧「梁川町・山舟生地区」に関するいくつかの文献にのみ的を絞って調べ物をすることにした。

結果、二十八年ぶりに、『福島の民俗』第十号の「マタエンバ供養塔」の記事を読むことが出来た。「岩谷浩光」氏によるわずか二頁の小文ながら、筆者の覚えていたままの位置に供養塔の写真があり、感激一入であった。本文には、残念なことに、この供養塔の位置についてあまり具体的なことは書いてなかったが、これでも出発点としては何もないよりは、かなりの前進である。該当箇所には、次のように書かれている。

吉村の南部の一隅に小山を背にした丁字路があり、ここには二十三夜塔、大黒様、十九夜塔がそれぞれ一基づつ、さらに馬頭観音碑が五基あり、そのなかにこの化け猫の供養塔があり、合計九基の石仏群をなしている。しかも丁字路なので一馬頭観音碑の台石には道しるべがあり、行旅人の利便をはかっている。

岩谷浩光 (1982) 「マタエンバ供養塔 ―化け猫と北の湯―」
『福島の民俗』通巻十号、福島県民俗学会、pp. 2-3

*

さらに、この図書館には、『玉川村史』にも載っていなかった「マタエンバ」の伝説を扱った郷土誌の本もあった。「玉川村高齢者学級/編」の『玉川村の民話伝説と民謡』(玉川村公民館、1975、pp.27-28) である。この本で紹介されている「マタエンバ」伝説が最も内容的には詳しい。出版年も、「岩谷」氏の小文に先行するので、後学のため、ここでその概略を紹介することとする。

又右ェ門猫と西念坊


「元禄初期」、「吉村」の「中下」に「又右ェ門」と云う、婆さんと死に別れて一人暮らしの八十余の爺さんがいた。この爺さんが、いつの頃からか後添えの婆さんをもらい、楽しく過ごしていた。

ところが、この婆さん、毎夜、夕食後に遊びに出るようになった。爺さんは不審に思って後をつけると、婆さんは猫の正体を現して、「鹿島神社」へと入っていった。境内では、猫が何匹も集まって躍りの真っ最中だった。猫たちは、「前田川 *」の「おまん」、「横内 *」の「ごんぼねこ」、こなけりゃ何だか調子がそろわねィ―、と囃し立てて踊っていた。爺さんは家に帰って休んだが、婆さんは明け方に戻ってきた。

こんなことが続いたある夜、「鹿島神社」の下を「西念」と云う若い僧が通りかかり、猫たちの集会を物蔭から目撃した。しかし、猫たちは何だか人間の匂いがすると云って近寄ってきた。「西念」は傍らの木に登って逃げたが、一際目つきの鋭い猫が追ってきた。「西念」はそこで懐剣で切り払うと、猫は下へと落下して、他の猫たちもろとも逃げ去った。

「西念」は、血の痕を追うと、「中下」の「又右ェ門」の家に辿りついた。戸を叩いて中に入れてもらうと、「西念」は婆さんのことを尋ねた。爺さんは、風邪を引いたのか寝ていると云うので、「西念」は見舞うことにした。婆さんが断ると、「西念」は爺さんに生杉の葉を火に焼べるように云った。爺さんがその通りにすると、「西念」は、家の戸を閉め切って、その煙を煽り立てた。すると寝ていた婆さんが、急に猫の姿になると、煙出しから外に逃げ出した。行き先は、「那須」の「北の湯」だと云う。それからと云うもの、「吉村」のものが「北の湯」に行くと、必ず変事が起ると云うことで、今も「吉村」からは誰も「北の湯」には行かない。

* 横内---「玉川村大字南須釜字横内」の地。「福島空港IC」から南西に一キロほどの地。
* 前田川---「須賀川市前田川」。「玉川村」の東北端で、「須賀川市」との境界地。国道118号が「阿武隈川」を越えると、対岸はすでに「前田川」である。

 (注・筆者)

参照・玉川村高齢者学級/編 (1975) 『玉川村の民話・伝説と民謡』玉川村公民館、pp. 27-28

上記の伝説は、前に紹介したエピソードとは、ちょっとだけ異なっている。何よりも、主要なプロットの間に、無意味で、前後と繋がらないどころか、矛盾さえする小エピソードが挿入されているのが特徴的である。これだと爺さんは、婆さんが化け猫だと分かった後も、楽しく一緒に暮らし、しかも「西念」がそれを暴きにきた時には、まるでそのことを完全に亡失したかのような態度を取っていることになってしまう。これは、明らかに変である。

しかも、この小エピソード中には、「猫の踊り」の「東北型」と勝手に筆者が呼んでいるところの「○○が来なけりゃ、調子が揃わねえ」系統の囃子詞も登場する。加えて、「福島県中通り」に多く見られる「ごんぼ猫 * 」もここで登場する豪華さである。

* ごんぼ猫---「泉崎村」の「十軒坂のごんぼ猫」や旧「岩代町」(現・二本松市) の「東福寺のごんぼ虎」など、その他多くの伝説で知られている。

これらの諸要素の組合せを丁寧に分析にすれば、いずれこの伝説の伝播や成立に関する事情、あるいは成立した時期などが、幾分明らかにされる日も来るかもしれない。



6. 「鹿島神社」

鹿島神社・参道麓
 

旅行の二日目、「山舟生地区」の探索をしている最中にも、いつ台風が上陸するか心配は絶えなかった。何しろ慣れない山中の細道を走っているのだから、豪雨にでもなったら、どうなるか分かったものではない。そこで、この日の「山舟生地区」探訪は終わりにして、天気の様子を見ながら、初日に取りやめた「玉川村」探索に切り替えることにした。時間は、午後二時半ほどだから、さほどゆとりはないけれど、特に急がなくても、日があるうちに現地に到着出来そうである。台風に関しては、北へと移動しているようであったから、探訪地を南に変更するのは、あるいは有効かもしれぬとの思惑が働いての変更である。高速を走っている間にも雨脚が強くなったら、そのまま「関東」に帰るつもりであった。

狭い山中の町道を戻りつつ、県道101号・丸森梁川線に戻り、そこから国道349号を経由して、「阿武隈川」を渡って、県道320号・五十沢国見線に入った。途中、「猫檀家」伝説のある「徳本寺」にもチラッと立ち寄って、墓参りに来たファミリーに駐車場で轢き殺されそうになると云う危機を乗り越えつつ、さらに県道31号・浪江国見線を経て、無事「国見インターチェンジ」で東北自動車道に乗った。高速に乗る直前に給油に寄った「シェル」では、何故か胡瓜の漬物をお土産にくれた。帰宅後に、早速食べてみたが、これと云った特徴はない醤油漬け系の漬物ながら、不思議と御飯が進む普段着のうまさであった。今度行った時は、購入すること間違いない。

「矢吹インターチェンジ」へと向かう走行中、雨は断続的に続いたが、幸運にも強くなることはなかった。「矢吹インター」から「あぶくま高原道路」へと入り、出来たばかりの「福島空港インターチェンジ」を目指す。この道路、途中の「矢吹中央インターチェンジ」の手前までは無料区間なのだが、そこから先は普通車・全区間三百円である。別名、県道42号・矢吹小野線とも云うらしい。

途中、「阿武隈川」を越えるが、ここまでが「矢吹町」で、ここから先は「玉川村」である。すぐにJR水郡線と「玉川インターチェンジ」を過ぎるのだが、不思議なことに、県道42号はここから北へと分岐して、一般道になる。しかし、調べてみるとこの先も相変わらず県道42号のままなのだそうである。続いて、国道118号を越え、「川辺トンネル」を抜けると、もう目的地はすぐそこである。ちなみに、「あぶくま高原道路」は、「福島空港インター」で「福島空港・あぶくま南道路」と重なり、インターから先は「福島空港・あぶくま南道路」に変わるようである。道路名と云うのは、とにかく奇妙奇天烈だ *。

* 上の段落中の道路名に関しては、筆者も万全の自信はない。万が一、間違っていたら御容赦の上、御一報頂けると幸いです。

「福島空港インター」を降りると、道はただの県道62号になるが、「玉川村」の農村風景を、コンクリートの高架線が縦に貫く風景は、一種異様ではある。下から見たら、きっと新幹線の線路か何かと間違えたに違いあるまい。しかし、「鹿島神社」に行きたい人は、ここでぼやぼやしていてはいけない。料金所もないまま、高速道路が終わる訳だから、いくらインターのカーブで減速したとは云え、スピードの感覚はまだまだ一般道仕様に戻っていないものである。もしも、六十キロも出ていたら (しかも出していい道路なのだが...) 、インターを降りて最初の降車口は簡単に逃してしまうだろう。そして、「マタエンバ」と猫たちが踊った「鹿島神社」とは、その降車口の目の前に見えるお社なのである。

降車口を出て、高架を右にくぐった先すぐに「吉地区」の集会所があり、役場の人によるとここに駐車してもよいと云うことであった。ただし、高架下にも砂利敷きのスペースがあり、何台かは駐車出来るので、こちらがよかったらどうぞとも云われた。筆者らは、実質的な距離が少し縮まる高架下のスペースを選択した。

ここから「鹿島神社」までは、歩いて数十秒である。南北に走る町道の丁字路に面した小高い緑の丘の麓には、背はさほど高くないが、がっしりした石造りの「明神鳥居」が立ち、石段がその下から頂上へと向かって延びていた。見た感じでは、「岩谷浩光」氏の記した「マタエンバ供養塔」の在処と似通った雰囲気である。

鹿島神社・鳥居と石段
石の「鳥居」と参道石段

「鳥居」と「参道」の左右の斜面には、「社号標」の石柱と、「大黒像」や「恵比寿・大黒像」の他、八つの石碑が横一線に並べられていた。その他、斜面途中にもいくつか石碑はあった。

鹿島神社・右大黒

「大黒様」がいるのも条件とぴったりだが、どうも石碑の数が多い。一つ一つ見てゆくと、「二十三夜塔」や「馬頭観音」「富士浅間大社」、あるいは各種の記念碑などはあったが、肝心の「猫碑」は見つからなかった。

当然、この段階で筆者の失望と焦燥は、突然ピークに達しつつあった。「鹿島神社」も駐車スペースも簡単に見つかったことから、楽観的な気分に支配されつつあった中で、やはり「鹿島神社」には「マタエンバ供養塔」はないかもしれないと云う現実が襲いかかってきたのだから、失望するのはやむを得ない。そして、ここにないと云うことは、村内探索を徹底的にしなければならないと云うことでもあり、それにしては時間が足りないかもしれないと云う思いが焦りを生み出していたのである。

石段の先の境内に移されたのかもしれないなどと自分を誤摩化しつつ、「二の鳥居」をくぐり、パンパンに張る太腿を鼓舞して、「猫」たちの踊った台地へと登った。石段は、急と云うほどでもなく、その上、手摺が据えつけられていたので、その分だけ安心して上り下りが出来た。

鹿島神社・二の鳥居

「二の鳥居」

石段を上り切ると、左右の石灯籠と狛犬に迎えられ、正面には立派な「社殿」が光を背にして建っていた。

鹿島神社・社殿

「社殿」の右には、赤色も鮮やかな「鳥居」が立ち、その奥の瓦葺の覆い屋の下に、ささやかながら瀟洒な「稲荷社」が建っていた。横には石灯籠が二つ置いてあり、後ろには古い石碑が幾つか並べられていた。

鹿島神社・稲荷神社01

この後、「マタエンバ供養塔」を求めて、境内を隈無く探したが、結局見つからずじまいだった。ただ見落としているだけだったら、これほど後悔に価することはない。しかし、いつまでも探していて時間を浪費しているくらいならば、早く次の段階に移行せねばならぬ。結局、もう一巡だけ見て回ると、筆者は石段を下って麓に向かった。

鹿島神社・鎮座台地

「猫」たちの踊った台地

次なるステップは、取り敢えず聞き込みである。しかし、「鹿島神社」のある辺りは、「吉地区」でも人家がまばらな辺りで、聞き込みに行けそうな家は限られていた。結局、必死に聞き回った結果、多くの家が留守であり、在宅していた人々も、老若男女、「マタエンバ供養塔」の存在すら知らないようだった。答えは、役場の人と同じで、ずっとここに住んでいるけど、そんなもの聞いたことがない、と云うことであった。



7. 「マタエンバ供養塔」

聞き込みも失敗に終わりつつあり、時間を考えると、もはや筆者に残された手段はそう多くはなかった。最も単純で、かつ非能率な、直接村内の道路を走り回って石碑を探すと云う、古典的な犯罪捜査のような手段に打って出る以外には、諦めると云う選択肢しか残されていなかったのである。当然、筆者は前者を選んだ。走り回るのである。

とりあえず、ここで「岩谷浩光」氏の記述をもう一度、反芻した。石碑があるのは、「吉村の南部」である云う。地図を確認すると、「鹿島神社」は北部と中部の境くらいに位置している。「小山を背にした」と云う下りは役に立ちそうもない。「吉地区」全体に小さな里山が無数に散在しているからである。「丁字路」は、多いなりに探索のヒントにはなる。しかし、他に手掛かりになりそうなものはない。

結局、たいした上策は思い浮かばず、破れかぶれの気持ちで、取り敢えず車で村内を流すことにした。伝説では、「又右ェ門」が住んでいたのは「中下」であったが、これは県道の高架を挟んで、「鹿島神社」の反対側の坂の上である。この近くにはお堂があり、石碑群もあったが、「マタエンバ供養塔」の所在候補地としての条件は満たしていなかった。大体、ここではまったく村の南部ではないのである。実際、石碑群の中に「猫碑」はなかった。

そこで、少し考え方を変えることにした。「猫」たちは、村中から「鹿島神社」に集まったと云うのである。話そのものは荒唐無稽でも、伝説の中には、その時代、その場所で生きた人々の常識や生活の感覚がそのまま取り込まれていることも多い。なぜなら、人は自分の知らないことは想像出来ないからである。そう云った意味では、どうしても人の思考は、その物理的な環境や条件にある程度左右されるのである。今度は、この一点に賭けることにした。

もしも、自分が「吉村」の南部に住む「猫」だったら、どの道を通って「鹿島神社」にやってくるだろうか。古い集落の道と云うものは、意外と時代的な耐性が高いもので、何百年、時には千年以上も、基本的な道筋が変わっていないものもあると云うことは、「考古学」の常識の一つである。今度は、この事実にも縋ることにした。

このような考えのもとに、地図をじっと見つめつつ、車を発進してもらった。ルートは、「鹿島神社」の正面の道を南へと下ると云うものである。「中下」を経由しては、南部の「猫」たちは一度、大きな台地の坂を越えてこなければならない。川沿いの平坦な道があるのに、それは可能性が低いと思ったので、敢えて探索ルートから「中下」は外した。

選択した道を南へと進むと、最初の二つの丁字路は小山どころか斜面すら背にしておらず、しかも石碑群はなかった。「あぶくま高原道路」の高架をくぐっていくと右、左と小さな丁字路があったが、これも野辺の見晴らしのよい位置である。所々、石碑が立っている場所もあったが、九つまとめて建っているところはなかった。

次には、右への大きな道が丁字路から分岐していた。この丁字路には石碑などまったく影も形もなかったから、その場所自体は候補ではなかったのだが、よく整備された道そのものに、右折すべきかどうか迷わせられたのである。「吉村」の地理地形をまったく知らない筆者として賭け以外の何ものでもなかったが、やや勾配のあるこの道は、平坦部よりも候補としての資格に乏しいと判断して、敢えて細くなっていく元の道を進むことにした。しかも、あまりに綺麗で、広い道は、昔は存在しなかった可能性もある。

この先、道は大きく左へとカーブし、その途中、右への丁字路があったが、石碑群はなかった。続いて、道は「金波川」を越え、右へと緩やかに曲がりつつ、「金波川」東岸の緩やかな傾斜地の内側へと入ってゆくのだが、そのカーブの途中、東へと延びる丁字路の分岐があった。その後ろは「小山」と云うほどものでは断じてないが、やや盛り上がった土地となっていて、遠くからも石碑群があることは見えた。まさか、こんな地形を「小山」とは云うまいと苦笑いしつつ、ただ石碑群が魅力的であったために、いったん車を降りて確認してくることにした。

マタエンバ05・全景

「大黒様」の石像は、接近さえすればすぐにそうと見て取れ、「十九夜塔」の「如意輪観音」もすぐに確認で来た。後の石碑は、左から順に確認していくと、「馬頭観音碑」が五つ並んでいた。

マタエンバ07・大黒

古典的な「大黒様」

マタエンバ08・十九夜塔
烏帽子姿にすら見える「如意輪観音」

この辺りで筆者の胸は高鳴りを始めていた。そして、次の石碑を覆い隠す夏草を払って、碑面を見ると、「ウメノキゴケ」に一面を覆われ、土もだいぶこびりついていたが、それでもはっきりと「猫」状の浮彫りが確認出来た。図像の形状も、『福島の民俗』誌に掲載されたものと同一と思われた。筆者は、この時点でこの石碑が「岩谷」氏の記録した「マタエンバ供養塔」であることを確信した。

丁寧に周囲の草を抜き取り、「ウメノキゴケ」を剥がした。「ウメノキゴケ」はいわゆる地衣類で、根に当たるものがまったくないため、古い石や木の表面などに付着はするが、その付着力はあまり強くない。それでも、万が一もろくなった碑面を損なうことがあってはいけないので、慎重に時間を掛けて、取り除くことにした。すると、次第に「猫」の姿がはっきりしてきた。

ただ、「猫」の前肢から腹に掛けての窪みは、まるで粘土を塗り込められたようになっており、その部分の像容を完全に埋めてしまっていた。他の石碑は、そのようなことはなかった。大体、風雨によって泥が付着したような様子ではなく、かなり人為的に行なわれた形跡のあるものだった。もしも、これが何らかの補修痕の成れの果てならば、かなりお粗末であるとは云え、安易に掻き落とすのは得策ではない。しかし、こんなひどい補修と云うのも、見たことも聞いたこともない。そこで筆者は、近くに落ちていた小枝を使って、少しずつその固まった土を掻き落としていくことにした。

この作業に入って、すぐに気づいたのは、この土が見かけの粘土様に比して、かなりやわらかくふんわりとしていると云うことであった。粘土であればもっと固いはずであるし、ただの泥であれば、ここまで乾燥していれば方々にヒビが生じて剥落しているはずである。そのどちらでもないから、不思議な感覚てあった。

しばらく削っていると、ふと小枝が土の中へと吸い込まれ、やがてそこから大量の蟻たちが出てきた。どうやら、この塗り籠められた土に見えた部分は、縦に平面的に作られた蟻塚だったようなのである。蟻たちには申し訳なかったが、そうと分かれば遠慮はいらない。残りの土も掻き落とすばかりである。万一、蟻たちが石碑の隙間にまで入り込んで活動することがあれば、碑の風化をなお一層早めてしまうだろうから、こうする他に手立てはなかった。

マタエンバ03・決定

冒頭にも掲げた「マタエンバ供養塔」!!

かくして現れたのが、上の像である。冒頭に掲げたのと同じ写真である。やや耳が長く尖った「猫」が、前肢をついて腰を屈めて座った横向き姿の浮彫りである。顔の造作は、元々あったのかさえ怪しく思えてしまうほど、現在は完全に摩滅してしまい、ほとんどないに等しい。

しかし、この猫像、単に下手クソと云ってしまえばそれまでなのだが、どうしてこうまで土下座する人間のように彫られているのだろうか。首から下が、いやに人間っぽいのである。あるいは、婆さんに化けたと云う伝説の内容を反映させているのか。

碑面の上部には、かなり見えにくくなっていたが、「岩谷」氏の云うように、確かに「安政三辰」と刻されている気もするのだが、最後に「日」の字があるような気もする。もちろん、安政三年 (1856) に関して云うなら、間違いなく「丙辰」の年であるから、「干支」も一致するので、おそらく「岩谷」氏の文字の読み取りには問題はないと思う。

問題は、これ以外に、文字が一切見当たらないことである。したがって、これがどう云う「猫碑」なのかは、石碑本体からは皆目見当がつかないのである。「マタエンバ供養塔」だと云うのは、あくまで口碑に過ぎない。このことを記している「岩谷」氏も、「地元高令者にきいた話によれば」と前置きをした上で「吉村に怨恨をもつ猫を供養しようとこの塔が建立されたものだ、といい伝えられている」と記すばかりである。

ただ、このことに関しても気になる点はやはりある。「安政三年」では、「岩谷」氏の小文よりも七年先に刊行された『玉川村の民話・伝説と民謡』の伝える「又右ェ門猫と西念坊」の伝説に記された「元禄初期の頃」と、だいぶ時代に差があることだ。これなら、まだ現代との差の方が小さい。

『玉川村の民話伝説と民謡』は、昭和五十年 (1975) に、「玉川高齢者学級」の皆さんの共同作業の結果として生まれた本で、「又右ェ門猫と西念坊」の話は、「佐藤計策 (当時76) 」「森六郎 (当時57) 」のお二人の語りによる。「佐藤」さんは当時七十六歳だったので、生まれは明治三十二年 (1899) 頃と云うことになる。これは、「マタエンバ供養塔」に刻まれた「安政三辰」の年から数えてわずか四十三年後であり、「佐藤」さんが育った頃の「吉村」では、この時代のことを実体験として記憶している老人は、当人の祖父母などを含めて多数いたと思われる。にも関わらず、『玉川村の民話伝説と民謡』は、「マタエンバ供養塔」のことにはまったく触れていないのである。昭和五十七年頃に「岩谷」氏に、この供養塔のことを語った古老と云うのが、実は上に記したお二人のうちのお一人だった、などと云うことがあれば、『玉川村の民話伝説と民謡』に石碑のことが書かれていないのは、ただの偶然による欠落と云うことになるが、この辺りの事情はいまだ確認出来ないでいる。

小難しいことを抜きにすれば、この石碑を「マタエンバ供養塔」と考えることに筆者は何も問題を感じない。むしろ、そうであってほしいと強く願う者である。したがって、筆者の書くことなどにさしたる客観性があるとは云えないのだが、一応、念のために指摘されうる疑問点について整理してみただけである。

*

「マタエンバ供養塔」のある石碑群の右手には、一つだけ三方を示した石柱状の道標があった。石柱の四面には、それぞれ「北本村北須釜ヲ経本村...」「東母畑村ヲ経石川...」「南本村吉ヲ経野...」「明治四十四年須釜消防建設」と記されていた。「...」の部分は、堆積した土砂や枯れ草、枯れ葉などによって道標の根元が埋没してしまって読み取れなかった箇所である。ちなみに、明治四十四年とは、西暦1901年である。



8. おわりに

「マタエンバ供養塔」を発見したのは、時計が既に五時になんなんとする頃だった。もう少し時間があれば、国道118号を南下して、「石川・東白川」両郡域の「猫」関係の土地も見ていきたかったのだが、いくら夏とは云え、この時刻には曇り空はかなり暗くなってくる。各地を探訪する時は、計画段階も大事だが、その計画を随時変更して、天気や時間、体調などに合わせて、いつ中止したり、切り上げたりするかを判断することの方が、なお大切である。台風は既に北へと去った気配があったが、真っ暗になる前に、狭くて見も知らぬ地方の隘路網は抜けておいた方が良かろうと考えたのである。したがって、二日に及んだ今回の「福島『猫』探訪」は、ここでほぼ切り上げることにして、再度「矢吹インター」を目指すこととなった。

ただし、復路は、一気に「矢吹インター」まで行かず、途中の「矢吹中央インターチェンジ」で「あぶくま高原道路」を降りて、「猫」伝説のある「泉崎村」の字「十軒地区」と、「泉崎村・矢吹町」の境界上の「一里壇」「五本松」の地を通過して、「矢吹インターチェンジ」から東北自動車道に乗ることにした。後は、そのまま一路、家を目指すばかりである。

「泉崎村」の「猫」伝説に関しては、また稿を改めて紹介したいと思う。


「鹿島神社」は、こちら

「マタエンバ供養塔」は、この辺

「北温泉」は、こちら
こちらだけは、「ちず丸」。上二つは「マピオン」。


参考文献
・佐久間長敬 (1893) 『拷問実記』南北出版協会
原胤昭・尾佐竹猛/解題 (1982) 『江戸時代――犯罪・刑罰事例集』柏書房
・菊池三渓 (1883) 「木鼠長吉伝」『本朝虞初新誌』
池澤一郎ら/校注 (2005) 『新古典文学大系・明治編 3 漢文小説集』岩波書店
・岡本綺堂 (1924) 「拷問の話」『新小説』大正十三年・二月号
岡本綺堂 (2007) 『岡本綺堂随筆集』岩波文庫
・三田村鳶魚 (1932) 「世帯染みてくる」『中央公論』昭和七年六月増刊号
三田村鳶魚 (1977) 『三田村鳶魚全集 第十四巻』中央公論社
・玉川村高齢者学級/編 (1975) 『玉川村の民話・伝説と民謡』玉川村公民館
・吉田昇平/編 (1980) 『ときわ路』創刊号-第七号、ときわ路ふるさと文庫
・岩谷浩光 (1982) 「マタエンバ供養塔」福島県民俗学会『福島の民俗』通巻十号、自刊
・岩谷浩光 (1985) 『玉川村の板碑』自刊
・保原町史編纂委員会/編 (1985) 『保原町史』第五巻、保原町
・伊達町史編纂委員会/編 (1992) 『伊達町史』第三巻、伊達町
・丹野顕 (2005) 『江戸の盗賊』青春出版社
・伊能秀昭 (2010) 『大江戸捕物帳の世界』アスキー新書
・「北温泉ホームページ」http://www9.ocn.ne.jp/~kitanoyu/mokuj.htm
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comment

須釜
 はじめまして、須釜と申します。
マタエンバ供養塔がある地元玉川村吉出身です。
化け猫伝説は昔から聞いてましたが、私も気になってました。
 那須の北温泉には、昔から行くなと言われてました。
いまだに気になりますね。
2010.11.14 11:00
clubey
須釜様、ご訪問ありがとうございます!!
いまでも「北温泉」に行くな、という言い伝えは生きているのですね!!
それにしても、これほど具体的な内容の言い伝えが出来るなんて、「玉川村吉地区」と「北温泉」の間には、どんないきさつが過去にあったのでしょうね。
もしも、地元の猫伝説について何かお耳にすることがありましたら、是非、御教示ください。
2010.11.15 00:41
愚夫愚父
こんばんは。

木鼠吉五郎と榊原忠之を調べていて、この記事にたどり着きました。
大変参考になりました。
ありがとうございました。

http://hgufugufu01.blog114.fc2.com/blog-entry-1008.html
2012.06.09 22:20
clubey
愚夫愚父さま、こんばんは。
拙いブログへのご訪問、有り難うございます。だらだらと無駄な話ばかりで、汗顔の至りです。少しでも楽しんで頂けたなら、本望です。
2012.06.10 22:24

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