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福島の猫神・猫川観音堂と仙林寺

.04 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
猫川観音堂
伊達市保原町西猫川
旧「中猫川 15番地」

猫川観音堂02・本堂1
「猫川観音堂」全景

1. はじめに

「福島県」の「信達地方」は、古来、機織りの盛んな地域として知られてきたことは、今までの記事で、既に何度か述べてきた。「伊達市保原町」の町域もその例に漏れず、記録に現れるだけでも、「元禄期」から「養蚕」が盛んに行われてきたことが知られている。もちろん、「信達地方」全体としては、記録の上からもずっと以前から「養蚕」は行なわれており、記録以前であっても、おそらく我が国の「古代」にまで遡りうる歴史を有していると思う。しかし、今回は記事を始めるに当たって、たまたま「保原町」の「猫川」周辺、しかも記録の上に残された事情に絞ってみた、と云うだけの話である。

「保原町」の中でも、「猫川地区」にあっては、「江戸中期」には、「養蚕専業農家」が十三戸ほどあり、その他は雇用労働者が数多く働く「豪農」の集落だったとされる。「猫川観音堂」の由来は、そんな「養蚕」関係の「豪農」から始まるのである。

ただし、先に断っておかねばならないのは、この「観音堂」には、直接「猫」の伝説や言い伝えはない、と云うことである。当然、「猫」の石碑や石像もない。地名そのものが、「猫川」なだけである。もっとも、現在の正式な行政地区名としては「東猫川」と「西猫川」しか残らない
* のだが、バス停の名前は歴とした「猫川」である。バス通りの県道が、ちょうど東西の「猫川」を真ん中で分かっているから、東西どちらにもつかず、本来の総合名称が残されたのであろう。あるいは、単にこの道路の開通と共に、「猫川」地区を東西二つに分けただけかもしれない。

*
「東猫川」と「西猫川」しか残らない---この記事執筆後に、地元では「中猫川」地区と云う呼び方もあるらしいと小耳に挟んだが、詳細は不明。

現在ある「観音堂」は、去年落成したばかりの真新しいものである。かつての「猫川観音堂」は、地域の集会所としても使用されていた。ただし、「観音堂」の傷みがひどく、また、それ以上の老朽化を食い止めるためにも、集会所は別の場所に移したと聞いた。その新しい集会所は、「東猫川」の地から、「西猫川」のバス通りの道向こうを少し入った地に造られたようである。この事実を見ただけでても、いまだ東西の「猫川」の繋がりは強そうである。

「猫川」と云う地名そのものの国語的な起源は、はっきりしないものの、土地としての名前はこの地を流れる小さな川に由来すると云う。直接、「猫」と関係のある縁起はないとは云え、「猫川」と云う珍しい名前の土地が、数々の「猫」信仰の跡を見せる地域に存在していること自体が、筆者にとっては興味深い。

今回は、この「猫川観音堂」を訪ねることになる訳なのだが、記事の記述の順が、いつも以上に不思議な紆余曲折を経ることになる。それは、この「観音堂」の成り立ちにいくつか複数のお堂が関わっていることに起因する。筆者らの順路から行くと、どうしても「猫川観音堂」よりも先に、これらの所縁のお堂の方を廻らねばならないのである。もちろん、途中で筆者の脱線があるから、と云うのも曲折の原因の一つである。いつもながら、よろしくお付き合い下さい。



2. 「飯坂温泉」に想うこと

筆者らは、前日の探訪を終えた後、「福島市」の「飯坂温泉」に投宿したので、この日の出発点は、この歴史ある温泉場からになる。そこで、探訪の具体的な行程に入る前に、筆者らが宿泊した「飯坂温泉」について、あれこれ思いつくままに記してみたい。そう、いきなり脱線である。

*

ここ「飯坂温泉」は、「鳴子」「秋保」と並ぶ「奥州三名湯」にも数えられ、古くは「鯖湖の湯 (佐波子湯) 」と呼ばれたとされ、いまでも温泉街発祥の地に建てられている共同浴場は「鯖湖の湯」を謳っている。口碑では、我が国の「神話時代」、「日本武尊」がその東征の折に、この地で湯治して病を治したと伝えられている。「平安時代」には、その名は遠く「京都」にまで知られ、やがて「さはこのゆ」は、「陸奥 みちのく 」の温泉の歌枕のように使われるようにまでなったのである。「飯坂温泉」の歴史を紹介するときは、大体、以上のようなことが書かれるようである (もちろん、他にも色々あるのだが...) 。

ただし、古歌に詠まれる「さはこの湯」が、果して「飯坂温泉」を指したものなのか、と云う疑問も実はある。伝「西行」の歌に「あかずして別れし人の住む里は左波子の見ゆる山のあなたか」と云うものがあり、ここから「さはこ」の名が定着したとされているが、この歌のどこにも地理的な位置を特定出来る情報は見られないのである。古来、「飯坂」の「鯖湖の湯」の他、「いわき市・湯本」の「三函 (佐波古) の湯」や「宮城県・鳴子市」の「沢子の御湯」なども、「さはこの湯」の所在候補地に比定されてきた歴史がある。

実際、上記の古歌の他にも、「さはこの湯」に関する伝「西行」の歌があるのだが、この歌の内容がやや問題含みなのである。その歌とは、「陸奥のさはこの御湯に仮寝して明日は勿来の関を越えてん」と云うものである。御覧の通り、この歌にはかの「勿来の関」が登場しており、歌意に従えば、「西行」は「さはこの御湯」に寄ってから「勿来の関」を越えゆこうとしているのである* 。この歌の通りに解釈すれば、「さはこの御湯」は「勿来の関」より手前、すなわち都寄り (南) と云うことになる。

*
歌意---しかし、極めて穿った見方をすれば、上の歌は「さはこ (=さあ、来い) 」と「な来そ (=来るな) 」を掛けて、旅の覚悟を言葉遊びで表現した歌ともとれるのではないかと、筆者は考えている。

もちろん、「東北」行から都への帰路にあったと考えれば、「さはこの湯」は「勿来の関」の北にあるともとれるが、「勿来の関」と云うのは、文法的には強い禁止命令を意味する「な~そ」の間に、動詞の「来」を入れたもので、意味としては「来るな」となる。いにしえの京人は、はるか境外の地に対する畏怖や憧憬の念から、「陸奥」行きを何かしら特殊な禁忌と考えて、「二度と帰れぬ」と云う危険を冒すことの謂いに、「な来そ」と表現したのであり、そこにこそ歌枕として和歌に詠み込む文学的な発意もあると云えるのである。したがって、普通に考えれば、「京都」を目指す帰り道に「勿来の関」を強調することはあまり考えられないのである。しかし、もちろん、可能性としてはゼロではない。

いずれにせよ、上の歌を信ずるならば、「さはこの御湯」は「勿来の関」の近くにあると考えられるのである。そこで、「勿来の関」の所在地が重要になってくるのである。

自ら話を振っておいてこのように云うのも何なのだが、この「勿来の関」の所在地と云うのが、まるで特定されていないのである。文学作品以外の歴史資料には一切記されていないことから、一部の研究者はその存在すら怪しんでいる始末なのである。もちろん、だからと云って、場所を比定しようと云う努力が、過去になされていないと云うことではない。

「勿来の関」の所在地に関しては、しかし、古今、あまり手掛かりとてない。しかも困ったことに、「陸奥国」にあったものと一般的には考えられているにも関わらず、貴重な一次文献である『平仲物語』* 第十六段 (岩波・古典文学体系本では第十五段) には次のように記されているのである。

* 平仲物語』---『平中物語』『平中日記』『貞文日記』などとも。最終的な作者は未詳ながら、主人公「平貞文」の関与は確実視されている。天徳三年から康保二年 (959-965) 頃までの成立とされる。唯一の伝本である静嘉堂文庫本には『平仲物語 冷泉為相卿筆』とあるため、筆者はこれに倣ったが、『尊卑文脈』や『本朝書籍目録仮名部』などでは「平中」と表記されていることから、『平中物語』と記すべきとする見解が主流。

第十六段

またこの男、久しうもの言ひわたる人ありけり。「ほど経ぬるを、みづからいかむ」と言へば、返りごとに、女、

 逢ふことの遠江なる我なれば勿来の関も道の間ぞなき

男返し、

 勿来てふ関をばすへで逢ふことを近江 ちかたうみ にも君はなさなん

現代語訳 また、この男には久しく交際している恋人があった。「しばらくお訪ねしていませんでしたが、これから参ります」と言い送ったところ、女はこう返事してきた。

貴方にお逢いするのも随分間遠になってしまった身 (遠江=遠た逢ふ身) ですから、遠江にあると云う勿来 (な来そ=来るな) の関を通る道がないように、おいで下さるな、と申上げましょう

男の返歌

二人の間に勿来の関を据えて「来てはいけない」などとおっしゃらずに、近く逢う身 (近江=ちかつあふみ) にして下さい

 (訳・筆者。表記は若干変えた)

参照・目加田さくを (1958) 『平仲物語新講』武蔵野書院、pp. 61-62
遠藤嘉基・松尾聡/校 (1964) 『篁物語・平中物語・浜松中納言物語』岩波書店

おそらくは『平仲物語』のこの一節を根拠として、「能因法師」は、歌学書『能因歌枕』 (11C中) において、「勿来の関」を「遠江国 (静岡県西部) 」に比している。しかし、この説は、「陸奥」の歌枕として詠われている用例が多いと云う明白な現実にそぐわなかった所為か、あまり支持はされなかったようである。古人にとっても、結局「勿来の関」とは「陸奥の何処か」と云うことが問題だったようなのである。

後に、現在の「勿来町字九面」の海辺で、俳人「飛鳥井雅宣」が「九面や潮満ちくれば道もなしここを勿来の関といふらん」と詠んだのに始まり (古川古松軒『東遊雑記』) 、「西山宗因」が寛文三年 (1663) に、その『奥州紀行』の中で「勿来の関」を越えて「磐城平」藩領に入っていると記していることなどから、「近世」以降は、現在の「福島県いわき市」付近に比定されるようになった。

身をうき草のさそはるゝかたにもあらで、心の行所にまかせて、春過秋来り、すでに文月の廿日あまりには、陸奥のなこその関をこえて、なにがしの城下* にいたる。

此地西北にめぐりて、みな山也。山すくよかならずして、茂林青々たり。南に川有。日夜東流して蒼海にのぞめば、往来萬里の船をつなぐ。ゆをびかなる壮観也。なこその関、さはこの御湯、野田玉川、緒絶橋、小川橋、岩城山、この城外一二里のあひだ也。をのをの興ある勝地也。

* なにがしの城下---名を伏せており、その後に記された「なこその関、さはこの御湯、野田玉川、緒絶橋、小川橋、岩城山」などもみな歌枕で、それだけでは具体的な土地を指しているとは云い難いため、ここのくだりのみで土地を特定するのは難しい。しかし、このさらに後に、「相馬中村を過て、名取川、仙台河、宮城が原...」と辿っている描写があることと、東北旅行を終えて帰ってくる道順に触れて「しのぶの郡、二本松、三春などいふ城下をへて、又岩城に帰入ぬ」とあることから、当時の「磐城平」藩の城下と比定される。

 (注、筆者)

西山宗因 (1663) 『奥州紀行』寛文三年
西山宗因全集編集委員会/編 (2006) 『西山宗因全集』第四巻、八木書店、p. 26

このことを受けて、地元の「磐城平」藩も、桜の植樹を行なうなど、関跡に見立てた整備事業が盛んに行なわれ、既に「江戸時代」から観光地化され始めていたと云うから驚きである。「吉田松陰」も、この観光政策にはまんまとはまったようで (実際には「水戸」と「仙台」を結ぶ浜街道を通っただけなのだが...) 、その『東北遊日記抄』の中で「いわき市勿来町関田関山」付近を「勿来故関」と記している。

越勿来故関 々々在山上 而今道則山下海浜也 過関田荒蜂* 大島、渡鮫川、宿上田、行程四里、至平潟

* 荒蜂---関田と大島の間にある地名であるから、おそらく今の荒町と思われる。

訓読 勿来の故関を越ゆ。故関山上に在りて、今の道は山下に則して海浜なり。関田・荒蜂・大島を過ぎ、鮫川を渡り、上田に宿す。行程四里、平潟に至る。

 (注・訓読、筆者)

吉田松陰 (1852) 『東北遊日記抄』嘉永五年
福島県史料集成編纂委員会/編 (1953) 『福島県史料集成 第五輯』福島県史料集成刊行会、p, 654

ただし、これだけのことがあって、「なこそ」の地名がこの周辺に存在した証は、今も昔もないのである。今ある「いわき市勿来町」の名前は、現在のJR常磐線「勿来」駅が明治三十年 (1899) に開設されたとき、その駅名にならって大正十四年 (1925) に「関田・四沢・窪田」の三箇村が合併して誕生した町名である。それでも一時は、「勿来の関」を、その「勿来町」に所在したとされる「菊多関」の別名とする説も提唱され、支持されたのだが、最近ではこの二つは区別するのが通例となっている。他にも比定候補地はあるが、ここでは本論の主旨と合わないので、割愛する (例 : 宮城県宮城郡利府町森郷名古曽) 。

*

「勿来」の場所を比定する議論は、以上のように大変心細い状況にあるのだが、「さはこ」に関しては、もう少し色のついた話が出来そうである。「いわき市勿来」よりやや北に位置する同市の「湯本町」には、「三函 さはこ 」と云う地名が残されている。この地には、古社の「温泉神社」があり、この社は地名から「佐波古神社」とも呼ばれている。この神社の社伝に従えば、「白鳳期」から「佐波古」氏が代々ここの神主を務めてきたと云う。また、この社は「式内社・磐城郡七座」の中の「佐麻久嶺神社」に比定されることが多い。

もっとも筆者にとって、神社よりも興味深いのは、『延喜式神名帳』 (c. 925) に名を残す温泉として、「道後温泉」「有馬温泉」、そしてここ「いわき」の「湯本温泉」すなわち「三函の湯」が挙げられていることである。そして、その「三函の湯」の守り神こそが、さきほど紹介した「温泉神社」なのである。したがって「三函の湯」は、、少なくとも「西行」より以前に、「大和朝廷」に知られた温泉だった、と云うことになる。

この「三函の湯」の西方に「いわき湯本」のシンボルでもある「湯の岳」 (598m) が聳えるのだが、「温泉神社」の社家に伝わる『神幸由来記』などの古文書によると、この「湯の岳」の神が「白鳳年間」 (七世紀後半頃) に当地に降臨し、「三函」の地を「里宮」として遷座されたのが、今の「温泉神社」だと云うことになる。この神社は、口碑によると、「日本武尊」が東征のため当地に立ち寄った際、「大和国・三輪大社」 (現・奈良県桜井三輪) の主神「大物主神」を勧請し、それに「少彦名命」も合祀して創始したもので、以来この二柱の神が郷民によって篤く祀られてきたと云う。この二柱の祭神は、それぞれ地下資源の神と医薬を司る神と見ることが出来、温泉の湧く地としてはまことに相応しく、「湯本町」の鎮守様として古来、広く崇敬を集めている。

「湯の岳」と「三函」を巡る伝承は、しかし、他にもある。この言い伝えに関しては、以下、「高橋富雄」氏の『徳一と最澄 もう一つの正統仏教』 (中公新書、1990) の中からそのまま引用して紹介しよう。

湯嶽。湯岳。いわき市湯本。標高五九四メートル。いわき市を一望におさめる名峰である。中腹に所伝の観音堂跡がある。頭上に徳一が、戒定恵 (慧) 三学の箱を納めたので三箱山ともいうと『神明鏡』* にはあるのである。この山全体が徳一観音信仰の霊場だったように書かれているから、この山を磐梯山恵日寺・筑波山中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて由緒あるものということができる。

     (中略)

湯嶽 (湯岳) を三箱山 (三函山) とも称したのは、徳一が三学の箱を納入したからとされるが、これは地名伝説である。中世すでにこの山はサハコ山ないしサハク山と呼ばれており、それにちなんで山麓の温泉もまたサハコの湯あるいはサハクの湯と称されていた。しかし、その語義や由来が不明だったために、湯嶽の新しい歴史創造者の徳一にあやかってこれを説明するようになって、三箱山ないし三函山になったものである。

*
神明鏡』---十四世紀後半頃に成立したとされる「神武天皇」から「後花園天皇」までの作者未詳の年代記。時代ごとに仏教や合戦などの特色が説明文で記載されている文献である。ただし、年代記にしては整理された内容とは云えない。『続群書類従』29上・雑部や『改訂 史籍集覧』第二冊に収載。

 (注・筆者)

高橋富雄 (1990) 『徳一と最澄 もう一つの正統仏教』中公新書

麓から県道371号・湯ノ岳別所線、通称「パノラマライン」を登っていくと、坂を登り切った辺りで、右の道端に古びた木製の「鳥居」が立っている箇所がある。ここが「湯ノ岳」の登山口である。そこから、薮をかき分けて参道を四、五百メートル登ると、朽ちて傾いてしまった木で出来た門のようなものがあり、そのすぐ先で、一メートルほどの角張った石が三つ立っている場所に出る。木の門は、すっかり傾いではいるが、ちょうど「貫」のない「鳥居」のような形をしている。「三箱石」の手前には、「第七の木戸 三箱石」と書かれた白い案内柱もある。この三つの石こそ、「徳一」が三学を納めたと云う謂れのある石だと云うことになる。

ただし、この「三函」と関連して語られる由来譚は、「平安初期」に活躍した「徳一大師」に関わるものであるから、「白鳳期」から存在したはずの名前の由来としては辻褄が合わない。結局、十世紀前半に成立した『延喜式』の時代が、確実に遡れる最も古い時代のようである。それでも十分に「西行」よりは前の話である。もっとも、『延喜式』に記されているのは「佐麻久嶺神社」だから、直接「さはこ」の表記に関しては、やはり伝「西行」の歌あたりが最古なのだろうか。

しかし、「さはこの湯」の所在地論争で云えば、これだけの傍証が揃う「いわき市湯本」の「三函」の地が、もっとも有力な比定地であろうと、筆者は考えざるを得ない。近年、「飯坂温泉」が盛んに「鯖湖の湯」として宣伝しているため、こちらの方が耳にする機会が多いかもしれないが、それは温泉場の規模の違いによるものに過ぎない。

*

大切なのは、「飯坂温泉」が、『延喜式』に出てくる「さはこの湯」であるかどうかに関係なく、ここが歴史も由緒もある優れた温泉場だと云うことである。しかも「さはこの湯」のような不確かな由緒に頼らずとも、「飯坂温泉」は「松尾芭蕉」が、『おくのほそ道』の旅の途中に立ち寄った温泉と云う、確実な由緒がある。

「芭蕉」は、「しのぶもぢ摺の石」を訪れた後、「月の輪のわたし」を越えて、「瀬の上」に出、「飯塚の里」を巡って「佐藤庄司 (基治) 」の旧跡を訪ね歩いた。「源義経」と運命を共にした「佐藤継信・忠信」兄弟の父「佐藤基治」は、「信夫の里」を統治し「湯の庄司」とも呼ばれた。「基治」は、この「飯坂」の地に「大鳥城」を築いて、「源頼朝」の「奥州征伐」に逆らって戦い、敗れている。「鎌倉時代末」には、「伊達氏」の一族「伊達政信」がこの地の領主となり、「湯山城」を築いて「飯坂氏」を名乗った。この頃から、この地は湯治場の賑わいを見せるようになったと云う。

「芭蕉」と「河合曾良」は、その夜、「飯坂」に一泊している。その様子を『おくのほそ道』は、次のように記している。

其夜飯塚にとまる。温泉 いでゆ あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。灯 ともしび もなければ、ゐろりの火かげに寐所 ねどこ をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴 かみなり 雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入計になん。

松尾芭蕉 (1702) 『おくのほそ道』元禄十五年
萩原恭男/校注 (1979) 岩波文庫、p. 27

ついでに云うならば、文中に「飯塚」とあるのは「飯坂」のことで、これは「芭蕉」の誤記とかではなく、「飯坂」を「飯塚」と称する例は『伊達文書』などにも見えると云う (上掲書、p. 27) 。

しかし、それにしても「芭蕉」の「飯坂」評は、芳しくない。まあ、各地で賓客として迎えられることに慣れていた「芭蕉」からすると、「飯坂」の夜は虐待以外の何ものにも思えなかったのだろう。だが、この当時の「飯坂」は「堀田正仲」領だったとは云え、「田地を開作せず、あきなひもいたさず、むざとこれあるもの其村に置べからず、宿かすまじき事」と云う「上杉」時代の藩令が依然残っていたのである。要するに「芭蕉」とは云え、「俳諧師」などは、「宿かすまじき」人種だったのである。むしろ、土間を貸し、筵を敷いてくれたのは、当時の「飯坂」の人にとっては、法令に触れるほどの親切だった可能性が高い。

*

ちなみに、この晩、筆者らが泊まった宿は「松島屋旅館」。こちらの宿が、猫を連れての宿泊も快く引き受けて下さったおかげで、今回の探訪旅行が可能になったのである。

「飯坂温泉」には、ペット受け入れ可能な宿が何軒かあるようなので、こちら方面に猫づれで旅をしたいと云う人々には、有難い温泉場である。福島交通・飯坂線の「飯坂温泉」駅の南方には、「猫日向」「西猫」などの地名もあり、猫好きには地味に見所もある。

ちなみに、「松島屋旅館」の温泉は、かなりよかった。筆者の好む、辺境の共同温泉でもなければ、古い木造の温泉宿でもなく、清潔感溢れる、設備が整った温泉だったが、それでもなおひどく気に入った。大浴場と云うほどでもないが、決して小さくもない。「ぬる湯」と「あつ湯」の浴槽がほぼ同じ大きさで分けられているのには、様々な泊まり客への配慮が感じられて好ましかった。「あつ湯」の円形の浴槽は、腰掛用の段が内周に設けられ、そこに茣蓙が打ちつけられているのが嬉しかった。座り心地がひどくよいのである。風呂の中での座り心地など、これまで気にしたことはなかったが、考えてみれば、こちらは生尻なのである。座り心地が直接地肌に伝わるだけに、ここの茣蓙の工夫には、恐れ入った。しかし、茣蓙は傷みも早いだろうし、掃除も大変だろうから、維持管理する宿の方は、さぞ面倒だろう。こう云うちょっとした気配りのために、これだけの手間をかけている辺りが一層、清々しかった。

「俳聖・松尾芭蕉」は、「飯坂」の「筵」が気に入らなかったようであるが、筆者はむしろ大変気に入った、と下らぬオチがついたところで、話をもとの探訪記に戻すこととする。



3. 「猫川観音堂」誕生前夜

いつ頃のことかは、はっきりとはしないらしいが、大略「江戸末期」と考えていい時代、「猫川」の地に「越後」から移ってきて、「養蚕」に励んだ家があったと云う。勤勉努力の結果、その何代か後に当たる「佐藤平右衛門」 (西猫川七十三番地) は、「猫川」の「庄屋」を務めるまでになっていた。ところが、「明治」初年、上簇した「蚕」が一夜にして野鼠に食い荒らされると云う事態に接して、「平右衛門」は突如思い立って、「信達三十三観音巡礼」の旅にに出たのである。

その途次、特に「養蚕」の守護・繁昌の神様として名高い「馬頭観世音菩薩堂」に参詣祈願し、その寺院の住職と懇談したところ、深く同情され、その「観音様」の「御身印」を授けられたと云う。これを持ち帰って、自宅の家内神としたのが「猫川観音堂」の始まりだと云う。

ただ、この「馬頭観音様」と云うのは、後の調査で、実は二箇所あったことが判明している。以下、それらについて見てみることにする。


b) 「大沢寺・観音堂」

大沢寺
「大沢寺・観音堂」

一つ目は、「信達三十三観音霊場」の「第十七番札所」で、「桑折町睦合大字松原字山田」の「西成田山・大沢寺観世音」である。ここの「御本尊」は「如意輪観音」だが、境内の札所裏には「馬頭観世音」の石塔が残されている。同時に「弁天様」も祀り、往事は活況を呈したようだが、「大沢寺」は現在廃寺となり、その遺構の管理は「松原寺」に委任されている。そのため、現在の地図で調べると、大抵は「弁天神社」しか見つからないはずである。「観音堂」は、桑の大木と草の中に埋没し、参拝者もほとんどないと云う。

「大沢寺」を訪ねる時は、車は別当寺の「松原寺」に置いていき、徒歩で向かうしかない。距離は、ざっと見、一キロちょっとはある。時間で云うと、十五分から二十分はかかるが、途中から美しい沢伝いの道になるので、億劫がらずに歩くことをお勧めする。途中から道は未舗装の狭い道になるので、変なところで路上駐車するのは避けたい。

*

と云う訳で、向かうべき場所が分かった所で、出発するとしよう。

「松島屋旅館」の前を南へと行くと、目鼻先がもう、「摺上川」に架かる「十網橋」の東袂である。ここを左折して、東へと国道399号線を辿ると、「稲荷神社」や「不動寺」のある「明神町」のY字路に出るが、ここを直進して県道124号・飯坂桑折線に入る。信号もない分岐点だが、道路の上 (路面でなく頭上) にはきちんと標識板が出ているから、ちゃんと見ていれば大丈夫である。

ここからは県道を二キロ半ほど走るだけである。最後に、左側の手打ち蕎麦屋の先を左に入ればよい。ここが「松原寺」へと斜めに入っていく道である。曲がった後は、二百メートルほどで、左に参道入口が見えてくるだろう。

「松原寺」の駐車場に車を置いて、ふたたび参道入口を出たら、左へと進む。すぐに県道に出るが、そのまま、まっすぐ歩いていけばよい。やがて、東北自動車道の高架が前方に現れるので、このすぐ手前の道を左に入る。その先、閑散とした公園を過ぎたら、またもや左へと曲がって、柿の木々が路面に覆いかぶさる小径の坂を登っていく。道は、途中から沢伝いの未舗装の道になり、右手を流れる清らかな水の音以外は、静寂に包まれた世界が現出する。さらに進むと、「弁天神社」の杜に入る手前に「観音堂」は佇んでいる。「本尊」は、「如意輪観世音菩薩」である。

 御詠歌「後の世の 罪はあらじと むすぶなり 大沢寺の 水の清きを」

曹洞宗

西成田山・大沢寺

桑折町睦合大字松原字弁天沢

地図は、この辺


c) 「伏黒平寺・観音菩薩堂」


伏黒平寺
「伏黒平寺・馬頭観世音菩薩堂」

さて、「猫川」の「佐藤平右衛門」が「馬頭観音」様の御心印を頂いたと伝えられるもう一方の寺堂は、「信達三十三観音霊場」の「第二十三番札所」でもある、「伊達市伏黒字北屋敷」の「伏黒平寺・馬頭観音菩薩堂」である。この「平寺・馬頭観世音菩薩堂」の境内からは、正応二年 (1289) の板碑が数枚 (六基? ) 発見されているほどであるから、歴史は相当に古い。しかし、この「平寺」もまた、いまは廃され、納経管理はすぐ近くの「曹洞宗・光台禅寺」に、「礼堂」の管理は地域住民に委されていると云う。もっとも、正確に云うと、「今は廃され」と云う表現はやや妥当ではない。

「光台寺」の縁起によれば、永禄の頃 (1558-1569) 、当時の豪族「佐藤与惣左衛門」家の前の畑に宗旨不明の庵寺があり、「平寺」と名乗っていたと云う (『伊達小学校郷土誌』) 。したがって、「信達二十三番札所」として「伏黒平寺 ふしぐろたいらでら 」の名が伝わることと併せると、この「馬頭観音堂」に関しては、「光台寺」に先行してあったことが分かるのだが、口伝上でさえもその存在を最後に確認出来るのはこの「戦国期」であると云うから、いずれにしても、「最近」廃寺になったと云う訳ではなさそうである。

「光台寺」の方の開創については、二代目の「佐藤与惣左衛門」が「羽前国・湯殿山」参詣に出掛けた際、「石城国菊田郡上田村」にある「常春院・七世」の「永存和尚」と道連れとなったのを縁に深く信仰心をおこされ、永禄三年 (1560) に自らの敷地内に寺を建立したことに始まる、と伝えられる。「開基」は「佐藤与惣左衛門」自身、「開山」には「永存和尚」を招いたことは、断るまでもあるまい。おそらくは、衰え果てていた「平寺」に代えて修造したものと思われる。

話を「光台寺」に隣接する「馬頭観世音堂」に戻そう。

「馬頭観世音堂」自体は、「光台寺」から二百五十メートルほど東の地に建っているので、お参りする際は、お寺の方に車を停めても、直接「馬頭観音堂」まで行ってもどちらでもよいが、やはり駐車事情は寺の方がよい。

筆者らは、「大沢寺・観音堂」から向かったため、県道124号で東北自動車道をくぐり、東北新幹線と東北本線の高架の下を抜け、「産ヶ沢川」を越えて、国道4号へと出た。国道には、右折して入って南へと向かい、二つ目の信号を県道125号・保原桑折線へと進入する。再度「産ヶ沢川」を越えた直後に「大正橋」で「阿武隈川」を渡る。わずかばかり走った後、「伏黒郵便局」の手前を左へと入ってゆくと「光台寺」の門前へと導かれる。郵便局より先、「伏黒青果市場」を過ぎた角の道を左折すると、直接「馬頭観音堂」へと出る。

この「馬頭観音堂」の由来に関しては、ここまで参照してきた郷土誌類には記されていなかったにも関わらず、幸いにして地元の郷土史家「一條茂」氏の著述を通して、詳しいことが伝わっている。以下、その縁起を紹介しよう。

昔、この地に住む八城太郎兵衛なる養蚕家が、大洪水の後に荒れた畑を耕していると、四寸八分の金の仏様を掘り当て、それが馬頭観世音菩薩像であった。
それを、自家の仏壇に安置して礼拝していると、馬も健全で働くし、養蚕も大当たりが続いて話題となり、人々は太郎兵衛観音と言い、光台寺の檀徒である八城権七ら十八名が、芳志者を募り買受けて光台寺に奉納し、蚕種、生糸取引の京都の豪商を介して、有名な仏師に立派な観音堂を造らせ盛大にお祭りを執り行った結果、伏黒地区は一層養蚕が盛んになり、巡礼者は列をなして参拝しました。

一條茂 (2008) 「猫川馬頭観音の由来とその後の経過」私信

ただ、この縁起だと「観音堂」は「光台寺」に先行するものではない、と云うことになってしまう点で、「先行する」と断じている『伊達町史 第三巻』の記述と相反することになってしまう。しかし、実際には、「平寺」と云う寺院が「光台寺」にあって、現在の「馬頭観音堂」はその後に創建されたが、「観音像」が出土したのが「平寺」の跡地と推定される土地であったために、「伏黒平寺」の「馬頭観音」様だ、と云うことになったのかもしれぬ。そして、そう考えれば、「平寺」が「光台寺」に先行することと、今も「伏黒平寺」と称される「馬頭観音堂」がその後に建てられたと云うことが矛盾することなく説明出来る。しかし、「馬頭観音堂」の境内から「鎌倉期」の板碑が出土していることと合わせ考えると、この説も怪しくなる。やはり、すべてを矛盾なく説明するのは、今のところ無理なのかも知れない。

いずれにしても、ここの寺院は、「近世」にあっては、霊験あらたかな「蚕神」として地域の尊崇を受けていたのである。そして、「馬頭観音堂」には、「馬頭観音」のみならず、横に坐す白馬に乗った「馬鳴菩薩」像があるが、単に「馬乗り観音」と呼ばれることもあるらしい。「光台寺」にも、「馬鳴菩薩」の板木図像があると云う。「馬鳴菩薩」は、元から明らかな「養蚕」専門の神様である。

*

 御詠歌「名も知るる 行くは平の みちすがら 勇める駒の 足なみの音」

曹洞宗
平寺・観音菩薩堂

伊達市伏黒字観音林

地図は、こちら



3. 「仙林寺」

仙林寺01・本堂
「本堂」

「伏黒平寺・観音菩薩堂」からは、今度は、「仙林寺」へと向かった。行程としては、「猫川観音堂」への道の途中にあるので、非常に寄りやすい立地にあると云える。

まずは「光台寺」から県道125号に左折して戻り、しばらく道なりに進むと、やがて県道は国道399号へと斜めに合流することとなる。「古川」を越え、右に「弥生町グラウンド」を通過すると、「六丁目」と「七丁目」の角で、すぐに国道349号に出る。ここを左折して、しばらく北上すると、道がわずかに右へと曲がる辺りの正面に、立派な「山楼門」の寺が見える。「猫川観音堂」の別当寺、「仙林寺」である。

仙林寺22・山門2
「山楼門」。二回部分に「鐘」が見える。

「仙林寺」へは、「鐘楼」を兼ねた「山楼門」をくぐって、そのまま「本堂」前の駐車スペースに車を停めてもよいが、「山楼門」の右手に、別個に駐車場があるので、こちらに入れるのもよい。こちらの駐車場にはトイレも完備されている。

仙林寺・坐忘庵
「坐忘庵」

後で気づいたのだが、こちらの駐車場は、「坐忘庵」と云う和風建築のセミナーハウス用のものであり、トイレも、本来はこの「坐忘庵」のためのものなのだろう。しかし、この「坐忘庵」と云い、お寺で定期的に開かれている座禅会と云い、さらにはお寺の僧侶の皆さんが声をかけて下さるその精神と云い、とにかく、一般に開かれた寺を目指して、鋭意努力していることが伺える寺院であった。

仙林寺27・額  
「山楼門」に掲げられた「扁額」

「仙林寺」は、特に「猫」と関係する寺と云うことはなく、「猫川観音堂」の成立とも直接関わることはないのだが、現在、「観音堂」の別当寺として、陰となり日向となって「観音堂」を支えている。

しかし、この「仙林寺」、由緒あるお寺の割には、つい最近までいまの立派な伽藍は整っていなかったらしい。「山楼門」や「庫裡」「法雲閣」は、昭和五十六年 (1981) に建てられと云うから、これだけでも十分に新しいが、「本堂」は平成三年 (1991) 、「方丈」は平成十一年 (1999) 、「坐禅堂」は平成十三年 (2001) に完成したと云うのだから、いずれもかなり新しい建物である。道理でどの建築物も、木造部の色艶がよかった訳である。

仙林寺09・額
「本堂」に掲げられた扁額

仙林寺10・天井画1
「本堂・向拝」部分の天井画

特に「本堂」の「向拝」の天井部分の花鳥画は見事である。唯一心配なことを挙げれば、屋外にあれほど見事な花鳥画群を晒しておいてよいのだろうか、と云う程度のことで、逆に云えば、訪れたもの誰にでも見られる位置に設置されている訳で、参拝者としては嬉しいことこの上ない。秘宝類は寺の奥深くにしまって、特別な機会か特別な参拝者にしか見せないと云った寺院が増える中で、そんな風潮の正反対をゆくこんな姿勢からも、ここの寺の方針が何となく偲ばれる。

仙林寺06
「本堂」手前の「観音堂」

真新しい「本堂」の左手前には、「如意輪観音様」を祭る「観音堂」があり、筆者が訪れた午前十時前くらいの時間には、すでに何らかの修行をしている一般の人々がいた。このお堂の向かって左側の側壁沿いには、三基の立派な石碑が立ち、説明板も据えられていた。

仙林寺05・合作碑左 仙林寺04・合作碑中 仙林寺03・合作碑右
旧「保原町指定文化財・熊坂適山・蘭斎合作画碑」

「熊坂適山・蘭斎合作画碑」と云うらしい。兄弟は「江戸末期」に活躍した文人で、兄「適山」は、当時「松前領」だった「梁川」に代官として赴任してきた「松前藩家老」の「蠣崎波響」に師事して画や詩文を学び、後に「浦上春琴」や「田能村竹田」などについて「南画」を修した人物で、晩年は「松前藩」のお抱え絵師に召し抱えられている。弟「蘭斎」は、蘭方医学を修める一方、絵画もよくし、兄と共に召されて「松前藩・藩医」となっている。兄弟は、「寛政期」に「市柳村」 (現・保原町一丁目) に生まれた郷土の偉人なのである。二人は、「幕末期」から「明治初期」にかけて相次いで亡くなったが、その墓も「仙林寺」にある。兄弟の存命中に製作された合作画碑と云うのは、全国的にも、非常に珍しいと云う (参照・現地説明板) 。

仙林寺15・秋葉三尺坊大権現
「秋葉三尺坊大権現」。右手の隙間から「坐忘庵」前の駐車場に行ける。

*

「仙林寺」の開創年は、「鎌倉時代」の後半、徳治元年 (1306) とされ、文治五年 (1189) の「奥州合戦」の戦功で「伊達郡」を与えられた「伊達氏初代・朝宗 (中村常陸入道念西) 」の次男で、「保原城」を築いたと伝えられる「常陸次郎為重」の手によるとされる。当時は「真言宗」に属し、寺号を「眞林寺」と名乗ったと云う。

その後、「建武年間」になると、「南朝」の忠臣「北畠顕家」は、「義良親王」を「多賀城」から「霊山」に迎えて、「北朝勢力」と激しい攻防線を展開することになる。結果、戦いは利あらずして、「南朝」側の拠点の多くは焼亡することとなった。「霊山城」やその周辺寺院も灰燼に帰したが、当時の「保原城主」であった「中島右衛門宗常」は「北畠」方につき、「眞林寺 (仙林寺) 」もまた、「南朝」の兵舎に充てられていたため、「建武年中」 (1334-1338) に、伽藍を焼き払われている。その後、「太閤秀吉」の「奥州仕置」を経て、「江戸期」の「伊達地方」は、「白河城主・松平出雲守」の官領となる。

慶長十八年 (1613) 、その「松平出雲守」が「伊達郡飯坂村」 (現・川俣町) の「頭陀寺・七世」であった「嶽雄和尚」を請じて、かつての「眞林寺」跡地に大伽藍を建立した。宗派は、新たに「曹洞宗」に転じ、寺号も「仙林寺」と改称した。「大源派を以って宗風大いに高揚し、雲水常に三、四十人常住」と古文献に記されており、当時は七堂伽藍が揃う大山だったようである。

その後、享保六年 (1721) 、宝暦四年 (1754) 、天明三年 (1783) 、慶応二年 (1868) と四度、火災に遭い、その都度伽藍は修復されたものの、飽くまで「仮本堂」と云う形で、現住職の代に至ったと云うから、「平成」に入ってからの「本堂」の再建は、寺に取っては、寺史に残る大事業だった訳である。そう考えると、あの向拝天井画群の立派さも理解出来るようになる。

*

境内の西側一帯は、広い墓地となっており、墓参りの人々の姿が多く見られた。

曹洞宗
法雲山・仙林禅寺

伊達市保原町東台後 50
024-575-3636
http://www.senrinji.com/

地図は、こちら



4. 「猫川馬頭観世音堂」

猫川観音堂06・本堂2
「猫川馬頭観音堂」

「仙林寺」を後にすると、いよいよ一番の目的地である「猫川馬頭観世音菩薩堂」に向かうこととなった。

「仙林寺」の駐車場を出て、一瞬だけ国道349号に出るや、目前の信号を左へと曲がって県道123号・保原伊達崎桑折線に入る。「セブンイレブン」のある交差点である。右に「桃陵中学校」を過ぎて、三百五十メートルほどで、道の左側に立派なお堂が現れる。平成二十一年 (2009) の八月に落成したばかりの、真新しい「観音堂」である。

猫川観音堂01・石碑
「猫川開田碑」

参道入口の右手には、「猫川開田碑」と云う大きな記念碑がまず立ち、その横に「申」と一文字だけ刻された小さな石碑、そしてその隣りに「篠葉沢稲荷神社」の小さな祠がある。

猫川観音堂05・篠葉沢稲荷神社01
「篠葉沢稲荷神社」

この「篠葉沢稲荷神社」の総本社は、「福島市立子山」に鎮座する、安産の神様である。祭神は「倉稲魂命 うがのみたまのみこと 」で、創建時期は、『福島市史資料叢書 第四十輯 信達二郡村誌』 (福島県教育委員会、1984) に収められた『信達二郡村誌』によれば、「鎌倉時代」の正元元年 (1259) であると云うからには、元は安産の神様と云う訳でもなかったろう。県下に十二の分社を持つ、この地域では、それなりに知られたお社である。

ちなみに、このお社が「安産の神様」として知られるようになった由来のようなものが、二つ伝わっている。

其の一

昔、「立子山」の麓に住む妊婦たちが難産で苦しんでいたときに、ある妊婦が神霊の顕示を受け、風致のよい現在の社地に社を勧請したのが切っ掛けで、以来、特に安産と子授けに霊妙な御神徳を授け給う子安の神として、日々参拝者が絶えなくなったと云う。


其の二

「江戸時代末期」、「立子山」に一人の名医がいた。ある寒い冬の夜に、妊婦が産気づいたので急ぎ来診してほしい、と云う使いがあり、行ってみると金屏風を巡らした典雅な部屋で、お姫様が陣痛で苦しんでいた。やっとお産を済ませ、帰宅した医師は、翌朝、外へ出てみると狐の足跡がついていて、玄関先に塩鮭が一匹置いてあるのに気づいたと云う。部落では「篠葉沢」の狐がお礼のしるしに持参したのだろうともっぱらの噂が立ったが、以来、その医者は名医としての名をいよいよ上げ、栄えたと云う。

猫川観音堂04・篠葉沢稲荷神社02
「神璽」と「幣束」と「御神枕」

参詣した妊婦は、「御神枕」を頂いて出産の日まで使用すると安産になると云われている。そして、無事出産した暁には、枕を二つにして返すのがお礼参りになっている。「猫川観音堂」内の「篠葉沢稲荷神社」は、小祠に過ぎないが、中には紅白の小枕が沢山納められていた。

*

さて、この辺りで「猫川観音堂」の由来に戻ることとしよう。

「猫川」の「庄屋・佐藤平右衛門」は、鼠によって蚕を全滅させられた後、「信達三十三観音」の巡礼に旅立ち、特に「養蚕」の守護神として知られた二つの「馬頭観音さま」に参詣し、その「御身因」を授かったのである。その続きである。

「平右衛門」は、巡礼を終えた後、頂いた「御身印」を大切に自宅に奉斎したところ、その後、毎年の「養蚕」の成績は良好かつ安泰を極めたと云う。このことは、近隣の人々の間で瞬く間に話題となり、多くの人が自分たちにも拝ませてほしいと来訪するようになった。当初は、参拝客を一人一人接待していたが、ついには信仰者が毎日訪れ、家人は仕事にならないと云う有様にまで至ったと云う。そこで「中猫川十五番地」に所有する桑畑の中に「礼堂」を創建して、「御本尊」を安置したのが、明治二十二年 (1889) 頃で、「佐藤平右衛門」が三十歳の頃だったそうである。

その後、三十数年を経て「礼堂」の老朽化が激しくなった為、二代目の氏子総代となった「佐藤賢次郎」氏が発起人となって、大正十五年 (1926) 九月に立派な「観音堂」を完成させた。このとき、同時に「大般若厳修遷宮法要」が、「別当」である「曹洞宗・法雲山仙林寺」の住職によって盛大に行われている。

昭和五十一年 (1976) には第二回の「大般若厳修遷宮法要」が三代目氏子総代の「佐藤善次郎」氏が発起人となって行われ、創立百周年を祈念して、「礼堂」には新たに三十畳の広間や水道、洗面所も完成した。

そして、平成十七年 (2005) 四月、「礼堂」を老朽化から守る為に、「猫川連合町内会」の集会所を字「下河原」地区内に移し、「観音堂」は単独の運営にすることが、町内会の臨時総会で決議された。さらには、新たに「猫川観音堂建設委員会」を発足させ、地域を挙げての活動を通して、平成二十一年 (2009) 三月に再建工事が開始された。そして、同年の八月には目出たく再建が果たされたのが、現在見ることの出来る「観音堂」である。赤いトタン葺の切妻屋根だった旧「観音堂」とは見違えるほど立派な、この瓦葺・宝形造のお堂にて、その年の十月四日に、大々的に落慶式を行なわれたことが、翌日の『福島民報』紙上にも報ぜられた。そして、この記事を読んだことで、筆者は新しいお堂を参拝しにいこうと云う思いに駆られるようになったのである。

猫川観音堂・内部
「猫川観音堂」の内部

「猫川観音堂」の十一月十七日の秋の例祭は、創建以来、一度も欠かされたことがなく、夏の盆踊り大会なども行われてきた。いまでも、「御詠歌の会」や「観音講」など、地域の活動の中心的な場所となっている。ここでもまた、地域の方々の篤志と、「仙林寺」の地域活動への熱意が活かされているのだろう。

御詠歌

ねこがわの きよきながれを かげ とめて
 もらさぬ のりのー ひかりをぞくむー
ねこがわの ながれにうつる つきよりも
 さやけき のりのー ああながむー
南無大慈悲大悲観世音菩薩

*

最近、「観音堂」で保有していた「和太鼓」も補修して、地域の振興活動に利用するようになったと云う。「猫川」では、昔、「観音堂」で鳴らすこの太鼓で時間を知らせていたそうで、往時を知る年配の方々には、感慨一入の太鼓の音だったそうである。



5. おわりに ―「猫」と「馬」と「水」―

今回は、「猫」と直接関係しないながらも、「猫川」と云う特殊な地名を冠した「観音堂」であるだけに、特別に「猫神」様として取材することになった。このお堂は、出発点から「養蚕」の守り神として奉ぜられていると云う点で、いまなお残る「観音堂」としては、非常に特殊な存在だと云えるだろう。しかも、その特殊性は、この「観音堂」が「馬頭観世音菩薩」を祭ると云う点でも興味深い。筆者が「猫」の民俗の多くが、根源的には「水の渦」と関わるものだと考えていることと照らし合わせると、「猫川」と云う名前自体に、そもそも興味をそそられるとも云える。

「馬頭観音」に関しては、その「ヒンドゥ的/仏教的」な起源* はさておき、わが国の民間信仰では一般には「馬の守護神」と考えられることが多いようである。さらには、馬に限らず凡ての畜生類を救う「観音」とされ、「六観音」としては「畜生道」を化益する「観音」とされている。

* 「馬頭観音」の「ヒンドゥ的/仏教的」起源---他の「観音」が女性的で穏やかな表情で表わされるのに対し、「馬頭観音」のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒相で表現されるが、これはその「インド」的な起源が、むしろ風神や雷神に近いことを示唆していると云える。この忿怒相のため、「馬頭観音」は「馬頭明王」や「大力持明王」等とも呼ばれ、「八大明王」の一つとして、「菩薩部」ではなく「明王部」に分類されることすらある。「明王部」の諸天は、やはりその「忿怒」を通して風雲雷雨などを象徴するのであり、原初的には「水神」や「雷神」などと関わる神格だと筆者は考えている。

「五街道」の整備などの交通面でのインフラストラクチャーが整い始めた「近世」以降、わが国の流通は飛躍的に発達し、「馬」は、その交通流通網の中心的な役割を担うようになった。特に馬による運送が重要視された「信濃」地方の「中馬街道」などでは、行き倒れた馬を葬った路傍や馬捨場に「馬頭観音碑」を建てるなど、動物供養塔としての性格が強調されるようになっていった。

「北陸・山陰・北九州」などの諸地域では、「馬頭観音」は、「海上航行」の守護者として祭られている場合が多い。これは、商人を多く乗せた船が「羅刹国」に漂着すると、「女夜叉」が商人たちを捕まえて一呑みに喰らってしまおうとした時、「白馬」に変じた「菩薩」が空を翔けて現れ、彼らの危機を救った、と云う「インド」の説話に由来して、この「白馬」が転じて「馬頭観音」になったとされているようである。

また、「道祖神」と同じように、道端に祭られることが多いことから、いわゆる「塞の神」として捉え、その点からも行く航路/行路を守ってくれるものとして「旅人の神様」と云った連想が働いたとも考えられている。

一方、「東北」や「北関東」「信濃」などでは、蚕の誕生譚として、「馬娘婚姻譚」と呼ばれる、馬と人間の娘の異類婚を語る説話が広く流布していることと関係してか、「馬」を「蚕神」と関連させた信仰が目立つ。「馬喰菩薩」を敬うのもその一つだが、「馬頭観音」を「蚕神」として敬う風潮もある。

しかし、「猫川観音堂」の「馬頭観音」信仰は、その起源を探ると「大沢寺」の「馬頭観音」に行き着くところから見ても、必ずしも「馬=蚕」の民俗的な連想のみを下敷きにしているとは云えない可能性をも示唆している。何故なら、「大沢寺」は、既に見たように、立地的な条件から鑑みて、湧き出づる清水の神であるのは、その寺号や御詠歌のみならず、「弁天神社」と一緒に祭られていたことからも明白だからである。

筆者が以前から気にしているのは、「猫」同様、「馬」と「水」の関係である。この点に関しては、「若尾五雄」も指摘しているように、各地の「駒止」や「駒返」などの伝説や地名が、湧き水や地下水脈などと関係あるのではないかと思っているのである。そして、この二つのことを合わせ考えると、「猫神」や「馬神」が、それぞれ別途に「蚕神」として崇敬されるようになったと云う一般的な解釈の他に、元々、奥深いところで両者が関係していた可能性も出てくるのである。

正直に告白すれば、筆者はいまだにこの後者の考え方には強い確信のようなものは感じておらず、当面は「猫」と「水神」の関係に中心的な視座を据えていきたいとは思っている。二兎を追うのも、虻と蜂を逃すのも、とぢらも懸命とは思えないからなのだが、一方で片手落ちにならないかと云う不安は抱えている。元々、筆者が「水神」としての「猫」と云う考えに辿り着いたのも、「水神」としての「馬」を追求している過程においてだったのであるから、これからも、「馬神」の視点は無視し得ないものになるだろうとは思う。この点については、機会があれば、別個の論考で述べてみたいとは常々考えている。

今後は、各地の「猫神」などを巡る中で、「猫」と「水」「渦」の関係に重点を置きつつも、「猫」と「馬」などのイメージ性の絡まり合いにも注目を怠らず、みずからの考えをより深化させていけるよう邁進したいと願っている。


「猫川観音堂」の地図は、こちら


参考文献

a) 古典
・平貞文 (10C後) 『平仲物語』
     目加田さくを (1958) 『平仲物語新講』武蔵野書院
     遠藤・松尾/校 (1964) 『篁物語・平中物語・浜松中納言物語』岩波書店
・能因法師 (11C) 『能因歌枕 (広本) 』
     佐佐木信綱/編 (1983) 『日本歌学大系 第壱巻』風間書房 
・西山宗因『奥州紀行』
     西山宗因全集編集委員会/編 (2006) 『西山宗因全集 第四巻』八木書店
・松尾芭蕉 (c. 1694) 『奥の細道』元禄七年頃
     
萩原恭男/校 (1979) 『おくのほそ道 附曽良随行日記』岩波文庫
・古川古松軒『東遊雑記』天明年間
     大藤時彦/編 (1964) 『東遊雑記―奥羽・松前巡見私記』東洋文庫27、平凡社
・吉田松陰『東北遊日記抄』
     福島県史料集成編纂委員会/編 (1953) 『福島県史料集成 第五輯』福島県史料集成刊行会

b) 一般書誌
・若尾五雄 (1989) 『物質民俗学の視点 2現代創造社
・若尾五雄 (1989) 『河童の荒魂堺屋図書
・高橋富雄 (1990) 『徳一と最澄 もう一つの正統仏教』中公新書
・高橋富雄 (2005) 『高橋富雄東北学論集 第五集』歴史春秋出版

c) 地誌類
・原田豊 (1973) 「観音の御詠歌を記すに当って」
    保原町文化財保存会/編『郷土の香り』第六集、自刊
福島市史編纂委員会/編 (1984) 『福島市史資料叢書 第四十輯 信達二郡村誌』福島県教育委員会
・保原町史編纂委員会/編 (1987) 『保原町史』
第四巻・民俗、保原町
・高橋好 (1989) 『茶の間の保原史』自刊
・原義男/編 (1999) 『保原町二井田史』保原教育相談研究所
・桑折町史編纂委員会/編 (1988) 『桑折町史』
第三巻、桑折町史出版委員会
・保原町教育委員会/編 (2001) 『保原町の史跡と文化財』保原町教育委員会

d) 参考図書
角川日本地名大辞典編纂委員会/編 (1981) 『角川日本地名大辞典 7 福島県』角川書店
日本歴史地名大系編集委員会/編 (1993) 『日本歴史地名大系 7 福島県の地名』平凡社

e) その他
・一條茂 (2008) 「猫川馬頭観音の由来とその後の経過」私信
・『福島民友』平成二十一年 (2009) 十月五日版
・「篠葉沢稲荷神社」ホームページ
    http://homepage2.nifty.com/sinohazawainari/sinoba-p.htm



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