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福島県の猫神・舟生不動堂の猫神

.04 2010 北海道・東北地方 comment(1) trackback(0)
癌除け不動尊
舟生不動堂

伊達市梁川町舟生字堂前/不動入

富野不動堂01・本堂
「舟生不動堂」

1. はじめに

この日の「猫神」探訪は、日程と順路の都合上、宿をとった「飯坂温泉」を発ち、まず始めは旧「保原町」の「猫川観音堂」に関わる土地を巡り、それから旧「梁川町」の「舟生/山舟生」地区に向かうことになった。「猫川観音堂」からのルートは、おおまかに云えば、阿武隈急行の「富野」駅に向かう要領だと考えていれば間違いはない。「猫川観音堂」の探訪記は、前回記事に載せた通りである。

と云う訳で、「猫川観音堂」の前の県道123号・保原伊達崎桑折線を北へと走り、「猫川橋」を渡ってまもなく「桑折町」に入りつつ、県道31号・浪江国見線に入るところから、この日の「舟生」行きは開始されたのである。県道31号は、やがてそのまま国道349号に変わり、旧「梁川町」の市街地を北へと抜けていくことになる。

「広瀬橋」で「広瀬川」を渡り (この脇の「ヨークベニマル」には、二日に渡ってたいそうお世話になりました...) 、そのまま「塩野川」も越えて、「JA伊達みらい」と「福島交通・梁川出張所」のある丁字路の信号を右へと曲がって宮城/福島県道101号・丸森梁川線に入ることになる。ここから先は、この県道を走っていれば、目的地の近くには到着する。

富野不動堂34・堂号標
「不動堂 入口」

富野不動堂33・案内板3
「がん除け・合格祈願 不動尊」

阿武隈急行の跨線橋を越えると、いよいよ目指す「舟生・富野」地区に突入する。まずは「富野小学校」を左に過ぎて、「富野農業研修センター」の信号を通過する。すると、道の右側に「不動堂入口」と刻まれた石標と「がん除け・合格祈願 不動尊」と書かれた案内板が現れるので、ここの路地を右に入ればよい。曲がった直後の左手に、JAか何かの倉庫 (これが富野農業研修センターなのだろうか? ) の駐車スペースがあるので、短い時間の参拝であるならば、ここを使えばよいと地元に人に教わった。本当に良いのかは未知数なので、人がいれば必ず許可をもらってから駐車するよう心がけたい。

ここから目的地の「不動堂」までは、後わずかである。



2. 「舟生不動堂」へ

遅ればせながら述べておくと、筆者は、これから向かう「不動堂」の正式な名前を知らない。「伊達市観光ガイド」なるパンフレットには、「癌除け不動尊」と記されてあったし、阿武隈急行が出している「ABKYU ENSEN 駅周辺マップ」にも同様に書かれてあった。しかし、『梁川町史』第十巻には「舟生不動堂」と記されており、筆者としては混乱するばかりである。そこで、一応は『町史』の呼び名を採用し、文中では適宜、地元で一番親しまれているらしい「癌除け不動尊」も使用することとする。ただし、「舟生」とは云っても、「不動堂」があるのは、「富野地区」であり、かつては「舟生村」とは別個に、「富野村」を形成していた地域であるから、この呼び名も必ずしもしっくりとは来ない。ただ、かなり古い由緒のあるお堂を「癌除け」と冠するのにも抵抗はある。「癌」などと云う言葉が人口に膾炙されるようになったのは、ずいぶん最近のことのはずだからである。

さて、車を降りた後は、入ったきたのと同じ進行方向に向かって、柿の木などが生えた畑地を左右に見ながら少しばかり歩くのだが、ほどなくして「茗荷」が丈高く生い茂った一角が右に現れる。その茂みからは、顔料がすっかり剥げ落ちた立て札が顔をのぞかせているのだが、よく見れば「不動堂」の順路を指し示しているようである。知らなければ分からないほどの痕跡しか読み取れないが、逆に、ここまで来て「不動堂」を知らぬと云う人もなかろうから、これはこれでよいのだろう。ついでに、同じ場所に生える立ち木からは、「不動明王」と書かれた白い幟が提げられているから、なお大丈夫。ただし、この幟、筆者が通った時は風に煽られて、みずからを吊るす紐に巻き付いてしまい、これまた文字を読み取るのは難しかった。

富野不動堂29・案内板
こんな感じである...

目指す「不動堂」へは、この立て札と幟の角を右へと曲がって、しめやかな土の参道を森の中へと進むのである。道は、すぐにわずかな下り坂となり、「不動沢川」に出るとその勾配をやや増しつつ、川に沿いつつ、その流れには遡行するかのように、左へと折れて下ってゆく。

富野不動堂26・不動橋1
「不動橋」

坂下には、赤く塗られた小さな橋が架けられ、これを伝って対岸へと渡ると、鬱蒼と茂る森の中、右手は崖面となった広い川沿いの参道に出ることになる。橋は、昭和三十七年 (1962) に竣工したものらしく、その名も「不動橋」と云うらしい。さもありなん...。

参道沿いの崖は、さして高さのあるものではないが、全面が岩壁で構成されており、一面を取り巻く冷気の中、参拝客をなお圧するが如き威厳を発している。果たしてこれが自然地形によるものなのか、いつの時代かの切通しの名残なのかは、筆者には分からなかった。ただし、崖面のところどころがやや人工的に削られているように見えたから、あるいは後者かも知れない。昔は、この辺りの斜面を切り崩し、三方に石垣を積んで、蚕種の貯蔵庫を造ったと聞く。冬の終わりに、「不動沢」上流の溜池から氷を切り出してきて、冷蔵施設としたと云うのである。あるいは、そんな過去の関係する地形かとも想像したが、いかんせん確証はない。

富野不動堂20・参道
「不動堂」側から見た参道

森の中の参道は、やがて木々も晴れて光の射す広場へと連なり、その境には二対の石灯籠が控えていた。そして、この境界域に至ると、左手を流れていた「不動沢」は、ここで突如、直角に曲がって流れてきていたのだと判明する。この曲がり角は、岩の断崖となっており、沢水はその複雑な岩肌を伝った滑滝となって、下の石畳に静かに身を打ちつけていた。

富野不動堂22・不動沢と不動の滝
「不動入沢」の滑滝

石灯籠が立つ辺りから眺めると、広場は三方を土手か斜面に塞がれた函地になっており、「不動堂」はその左手奥に鎮座していた。滝側の土手の手前には、いくつかの石塔や石碑が建ち並び、お堂の向かうにも、連なる石碑群の一部が顔をのぞかせていた。



3. 霊山落城 「癌除け不動尊」前史

ここ「富野」の「癌除け不動尊」の細かい来歴については、ほとんどが未詳なのだが、「霊山」落城の歴史と深い関わりがあるものと伝えられている。

*

「霊山 りょうぜん 」とは、「福島県伊達市 (旧・霊山町) 」と「相馬市」との境に聳え、「阿武隈山系」の北部に位置する標高 823.5メートルの山で、「中通り」と「浜通り」の境に位置する分水嶺の一端を成している。「西物見岩」からは「福島市」や「伊達市」など「信達地方」一帯を見渡し、「東物見岩」からは「相馬市」や「相馬郡」を見遥かして、遠く「太平洋」まで望める天然の要害として知られた山である。

この山は、「平安初期」の貞観元年 (859) に「慈覚大師・円仁」によって「古霊山」が開山され、その後、永観二年 (984) に、「紫明峰」南の山頂付近に「霊山寺」 (現在は山麓に移転) が築かれたと云う。以降、この地は、この「霊山寺」を中心に五百年近くに渡って、「天台修験」の拠点として、西の「比叡山」と並ぶ「山岳仏教」の拠点として栄え、「霊山寺縁起」によれば、最盛期には山内に三千六百坊を数えたと云う。

しかし、その「霊山」の繁栄に終止符を打ったのが、「南北朝」の争乱であった。

延元元年/建武三年 (1336) 、「足利勢」を「鎌倉」と「京都」で粉砕し、「尊氏」を「九州」へと敗走させた翌年、「鎮守府将軍・北畠顕家」は生涯二度目の「奥州」入りを果たしている。しかし、「瓜連城」の陥落などの情勢の悪化を受けて、延元二年/建武四年 (1337) 一月八日 (現・二月九日) 「顕家」は「広橋経泰」らと図って、「陸奥太守・義良親王」 (後の後村上天皇) を「多賀城」の国府から「霊山」に奉じて、山頂付近に「国司館」を設置して国衙とし、防戦体制を固める策に出た (『元弘日記裏書』『保暦間記』) 。しかし、「後醍醐天皇」から「尊氏」に奪還された「京都」を再び奪い返すべく上洛せよとの命が届き、同年の八月十一日 (九月六日) 、「顕家」は、体勢を完全に挽回する暇もなく、「伊達行朝」「結城宗広」ら「奥羽地方」の「南朝勢力」と連携しつつ、「親王」を奉じて二度目の上洛を開始する。「北朝方」の一瞬の隙をついての行動であった。この上洛開始まで、この地は「奥州」における「南朝勢力」の総司令基地として機能したのであり、その後も重要拠点として、「北朝」との攻防に明け暮れることとなる。

北畠顕家
「北畠顕家卿肖像」霊山神社蔵

ちなみに、「霊山」地域の人々にとって、「北畠顕家」は、いまなお一つの英雄像を提供していると云える。そのため、ここでは少し寄り道をして、「霊山」を打って出た後、この若き貴公子が辿った生涯を概観しておきたい。

「北畠顕家」は、上洛開始後、数の上での圧倒的な劣勢を跳ね返しつつ、数々の奇跡的な勝利を納めて進軍を続けることになる。四ヶ月に及んだ攻防を経て、十二月下旬には「関東」を実質的に支配していた「小山朝郷」の拠点「小山城」を撃破し、その勢いを駆って「足利義詮 (後の二代将軍) 」の軍勢をも破って、「鎌倉」入りを果たしている。このとき、「奥州」以来の宿敵「斯波家長」を自害に追い込むのに成功している。

対・足利義詮
「利根川」を挟んで「足利義詮」と対戦
「巻十九 奥州国司顕家卿并新田徳寿丸上洛事」『太平記絵巻』国立歴史民俗博物館

しかし、戦況はその後も休む間を「顕家」らに与えることはなく、翌年一月には、戦備未だ整わぬまま、「顕家軍」は、遮る敵軍を打ち破りつつ、再び上洛・東征を開始して「東海道」を上る身となった。一旦は退いた「足利勢」も、体勢を整え、大挙してこれを追った。

青野原
「青野原」にて「土岐頼遠」や「桃井直常」らと激突
「巻十九 青野原軍事付曩沙背水事」『太平記絵巻』国立歴史民俗博物館

一月の終わり頃には、「顕家」らは「美濃青野原 (関ヶ原) 」にて「美濃」の猛将「土岐頼遠」の迎撃を受けるが、後ろから自らがー度は粉砕した「上杉憲顕」軍の挟撃を受けていた「顕家軍」は、火を噴く勢いで、自軍に倍する「足利勢」を撃破する。しかし、ここで「京」まで指呼の距離に迫りながら、都に残る「足利勢」はまだ多く、一方で自軍の戦力の低下が著しかった上、期待していた「北陸」の「新田義貞」軍は到着しなかったため、「顕家」は一旦、父「北畠親房」の拠点であった「伊勢」に転進することを余儀なくされた。

ちなみに、『太平記』ではこの「伊勢転進」は、「顕家」が「我大功義貞の忠に成 なら んずる事を猜 そねん で」「北陸勢」との連携を嫌った愚かな行動として難じている。これは強ち虚偽の批難ではないにせよ、当時の「顕家軍」の疲弊を考慮すれば、公平さに欠いた見方であることは間違いない。また、二年前の上洛時には、奮迅の戦いで「尊氏」を「京都」から追ったものの、功績の大部分を「義貞」に取られたと云う事実もある。しかも、その後、「顕家」が「東国・奥州」の防備を固めている間、「義貞」は「尊氏」追撃を怠ったばかりか、都を奪還されてさえいる。それこそ公平に見れば、「義貞」は戦闘を指揮する武将としてはある程度の有能さを発揮していたが、戦局を見通す大将の器では到底なかったのである。「顕家」が「義貞」を嫌ったのは「南朝方」にとっては不運だったが、当人からしてみれば、これはもうやむを得ないことだったのである。さして能力の高くない「義貞」を偏寵した「後醍醐天皇」の失策とさえ云える。

しかし、「伊勢」に転進したとは云え、「顕家」らは一ヶ月の休養も許されず、二月下旬には三たび、出陣することとなる。「伊勢」からまずは「伊賀」「奈良」に打って出、さらに北上して「京都」をうかがう作戦だったが、疲弊した「顕家」の軍勢には余力がなく、「足利勢」に「般若坂」で強襲されて敗北を喫し、「河内」へと後退せざるを得なくなった。ここでは「河内」を拠点とする「楠木一族」との連携を図ったが、準備が整わないうちに、またしても「北朝方」の急襲に遭遇して敗退した。

この時点で「顕家」の胸の内には、既にある種の覚悟が出来ていたものと推測される。ここまでは常に陣中に奉じてきた「義良親王」を「吉野」に奉還するや、三月には四たび、軍勢をまとめて「天王寺」攻めに身を投じたのである。ここでは、「顕家」らの執念の猛攻を前に、「和泉守・細川顕氏」は散々に打ち負かされることとなった。これを機に、「京都」の「北朝方」は、本格的な大軍を結集させ、「高師直」を大将に、反撃に転じてきた。

これ以後も、「顕家」らは、「奈良」などを中心に「高師直」の大軍を相手に、奇跡的にも互角に戦い続け、一進一退の攻防を繰り返すのだが、やがて来るだろう決戦を控えた五月十五日、「北畠顕家」は自らの死を予感してか、「吉野」の「後醍醐天皇」に激烈なる諫奏文を奏上している。

そして五月二十二日、運命の「摂津石津川の戦い」が勃発する。この時期、北上する「北畠顕家」の軍勢に対し、「高師直」が南下を開始したため、両軍主力が正面から衝突することとなったのである。「南朝方」は三千、「北朝方」一万八千の圧倒的な不利の中、当初は「顕家」方が優勢を維持したのだが、十ヶ月近くにも及ぶ戦闘と強行軍がもたらした疲弊には打ち勝てず、次第に戦力の差が露呈していくこととなった。

各所を突破され、「和泉国堺浦石津」に追い詰められた「顕家軍」は、予定していた味方の援軍到着の遅れのために「高師直軍」との戦いでは劣勢に回り、全軍は忽ち潰走を開始した。「顕家」は共廻り等二百騎を従えてなおも奮戦するも、展望は開けず、「吉野」を目指して「高師直」軍の中央突破を試みるがこれも果たせず、激闘の末、遂に「阿倍野」の地で力尽きた* 。「名和義高」「村上義重」らの諸将も、この戦いで壮絶な討ち死にを遂げた。「顕家」の死を知り、「奥州」から付き従った「南部師行」は、その部下百八名と共に「顕家」に殉じたと伝えられる。

*
実際の「顕家」の終焉の地に関しては、異説も多い。これに関しては、平田俊春『異説・日本史』第四巻 (山一書房、1943) 所収の「吉野時代の研究」に詳しい。筆者は、『保暦間記』に「和泉国境野ト云所ニテ合戦アリ。今日ヲ限リト命ヲ捨テ両方合戦ス。京方打負テ引ケルガ、師直思切テ戦フ程ニ、顕家卿打レケリ」とあり、『太平記』に「顕家卿立つ足もなく成りたまひて、吉野へ参らんと志し、わづかに二十騎にて、大敵の囲みを出でんと、みづから利きを破り、固きを砕きたまふといへども、その戦功いたづらにして、五月二十二日、和泉の境、阿倍野にて討死したまひければ、相従ふ兵ことごとく腹切り傷を蒙つて、一人も残らず失せにけり」とあるのを鑑みて、通説通り、「阿倍野討死説」を採った。

「顕家」が死の直前に「後醍醐天皇」に送った諫奏文の内容は、帝の失政を諌めるもので、その衷心には胸を締めつけられる。翻って云えば、かほどまでに「建武政権」の問題点を理解し、かつ自身も不満に思い、その被害に遭いながら、それでもなお、あれほどの忠勤を惜しまずにその若い命を散らした生涯とは何だったのか、筆者はいつも考えさせられる。

一般に「北畠顕家」を若き天才軍略家として褒めそやす風潮が、「南北朝」好きの歴史ファンの間に多いことは承知している。実のところ、筆者もそんな一人なのだろう。しかし、忘れてはならないのは、彼が個人の能力に置いて「軍略」に優れていただけだったなら、彼は数で圧倒する「北朝方」と数次に渡って互角に渡り合うことは出来なかっただろうとも思っている。

彼の「後醍醐天皇」への諌奏文の内容を吟味すれば分かるように、「顕家」は戦争そのものよりも、民政の安定に非常な重要性を置いていたのである。「顕家軍」が無類の強さを一時発揮し得たのは、時運はもとより、「顕家」自身のカリスマ的な将器やそれに基づく全軍の士気の高さもあったかもしれないが、やはり彼が自軍の母体となっている「奥州」の武士団を明確に掌握していたと云う事実が挙げられなければならない。「掌握する」と云うのは、ただ「カリスマ」や「人気」があったと云うことでは決してない。

彼は十代で「奥州入り」するや、「多賀城」の国府機能を旧幕府の機構に倣って整備強化して、地元での紛糾のいち早い解決に専念すると共に、「北条氏」から没収した「奥羽地方」の郡地頭職などを地元武士団に再分配すると云う改変を断行し、この地方の人々の信頼を勝ち得ていたのである。その上で、「義良親王」を直接推戴していたことは、民心の掌握には絶大な効果があった。何しろ、古来、「親王」ほどの皇族が「東北」の地に来訪すると云うことはなかったのだから。

「東国」や地方は、本来、武士の力が強い土地である。そこへ幕府崩壊によって新たな混乱期が訪れていたのであり、地方武士たちにとっては、その混乱を誰が鎮めるのか、そしてそれは自分たちをどの程度益するのか、と云うことが一番の関心事だったはずなのである。特に重要だったのが、彼らが既に得ていた権益の確保である。この状況を整理しない限り、「北朝勢」とは云えども、「南朝」勢力下にない諸地方をまとめあげるのは容易なことではなかったのである。「顕家」の当初の華々しい軍事的な成功は、彼のみがみずからの統治範囲 (奥羽地方) の権益の再分配に成功していたと云う、この一点に大きく拠っていたと筆者は思っている。

「顕家」が、その死の直前に天皇に奏上した諫奏文の第一条に、「西府 (九州) 」と「東関 (関東) 」の平定のために有用な人材を派遣し、「山陽」及び「北陸」に「藩鎮」を置くことを強く提言していることからも、このことが彼の意図的な政策として行われていたことは明白なのであり、彼の「軍略家」としての鬼才ぶりは、戦乱の世にあって、むしろこの治世面に着目したと云うことにあると云えよう。

彼は第二条に、続けてこのように諌奏する。

諸国の租税を免ぜられ、倹約を専らにすべきこと。連年の兵革、諸国の牢籠、いやしくも大聖の至仁にあらざれば、黎民の蘇息をいたしがたし。今より以後三年、ひとへに租税を免じ、民肩を憩はしめよ。宮室を卑くして以て民を阜にせよ。

「顕家諌奏文」より抜粋

「顕家」は、ここでは「仁徳天皇」の故事を引いて、天皇を諌めている。暗に、天皇の大内裏造営計画に発する増税に次ぐ増税は、民心の離反を促進していると云っているのであろう。

そして第六条でも、やはり治世面での法令の明確さの重要性を以下のように説いている。

法令を厳かにせらるべきこと。法は国をおさむるの権衡、民を馭するの鞭轡なり。近ごろ朝に令して夕に改む。民以て手足を措くところなし。令出て行はざるは法なきに如かず。画一の教を施して、流汗の反らざる如くせば、王事脆きことなく、民心おのずから服せん。

「顕家諌奏文」より抜粋

諌奏文のその他の条は、主に「後醍醐帝」の個人的な政治大権の運用と行状に関わる内容で占められている。

第三条では、爵位の授与や人材登用は慎重に行うことを唱え、「尊氏 (従二位参議) 」や「義貞 (左中将) 」など、本来は身分の低いものに高位高官を乱発したことや、逆に伝統的な「官位相当制」を無視した人事を宮廷方に蔓延らせたことを暗に批判している。しかも、対策としては、高位のものには高官を、そうでないものには土地を与えよと明確に云っているのである。これは、当時の武士たちの気持ちからしても、より望まれたことであって、武士たちの真の欲求を見事に云い得ているだけでなく、後に「徳川幕府」の基本となる「外様」政策にも通ずる考え方である点は、注目に値する。

「顕家」自身、「従二位」でありながら、「従五位上」相当の「鎮守府将軍」に任命されていることも、この乱れには含まれていたのだろう。後に、「顕家」の父「北畠親房」が、三位以上の公卿が「鎮守府将軍」の職に任官する際には「鎮守大将軍」と呼称し、「征夷大将軍」と同格とすることを奏請し、認められていることからも、この官位相当制の乱れがどれほど当時の公家方を悩ませていたかが窺える。

第四条では、恩賞は公平にすべきだと唱え、具体的には、公家・僧侶には「国衙領」「荘園」を与え、武士には「地頭職」を与えるべきだとしている。これは「官位相当制」の乱れにも共通する難点の指摘で、恩賞もまた、時宜や状況、立場などに相当して与えよと云うことである。寺院に「地頭職」をやれば、武士たちの反感を買うし、特定氏族による官職の世襲請負制を無視して、その「知行国」や「所領」を武士たちに与えれば、それら氏族からの不満が募ると云うことなのである。ここでは公家方の既得権益の保護と云う視点からの恩賞をも唱えているのである。

第五条及び七条は、語る程のことではない。前者では、「後醍醐帝」に対して、臨時の行幸や酒宴で莫大な費用を浪費するのをやめて、倹約するよう諌めているのである。後者では、政治に関係ないものは、政治から遠ざけよ、とシンプルに唱えているのみである。当時、公家、官女、僧侶などが政治に介入して、政治的な混乱を引き起こしていたことへの批判である。僧「円観・文観」や、帝の寵愛が深かった「阿野廉子」を意識した批判であるから、よほど腹を据えての奏上だったと云える。しかも、この「阿野廉子」は、「顕家」自身が長く奉じてきた「義良親王」の生母であるのだから、「顕家」の思いの複雑さは察して余りがあろう。

十六の年から戦乱に身を投じ、「奥州」から長駆、「足利尊氏」を「京都」から追って「南朝」の危機を救い、二度の「鎌倉」入りを果たし、数々の武勲を挙げながら、二十一歳で散った貴公子の、死に際しての最後の願いは、しかし、遂に聞き入れられることはなかった。

もしも歴史に必然があるならば、やがて来る「南朝」の敗北は、既にこの時点で不可避のものとなっていたと、筆者は思わずにはいられない。

*

話を「霊山に戻そう。

「北畠顕家」らの上洛後も、「霊山」の地は、「伊達氏」を中心とした「南朝方」によってよく守備されていたが、戦局は日に日に「南朝」に利あらずして、「霊山」は次第に孤立を深め、追い詰められてゆくこととなった。そして、正平二年/貞和二年  (1347) には、「北朝方」の「奥州管領・吉良貞家」によって攻略され、ついに落城するに至ったのである。その後も何度かの攻防戦が行われたものの、「霊山寺」はその堂塔を悉く焼失し、十四世紀末、「応永」の初めの頃までには最終的に廃城となった。かくして世に名高い「霊山」は、永遠に歴史の表舞台からその姿を消すこととなったのである。

現在ある「霊山寺」は、応永八年 (1401) に「伊達氏」が再興したもので、慶長七年 (1602) に火災で焼失したものを、現在地に移転・再建したものである。

「富野」にある「癌除け不動尊」は、この「霊山」落城に際して、当地 (富野) にあった「滝本寺」を頼って、「霊山」の「不動明王」を遷したのが始まりだと伝えられる、由緒あるお堂である。しかし、「滝本寺」も、「霊山寺」の末寺だったと云われる寺院ではあるが、天保十二年 (1841) に近くの「曹洞宗・昌源寺」に合併されてしまったため* 、
かつては「癌除け不動尊」の附近に存在したらしいと云うこと以外、詳しいことはあまり今に伝わらない。何故、合併に際して「不動堂」と「愛観堂」だけが残されてしまったのかは、なお一層の謎である。

* 滝本寺の合併---天保十二年に合併したと云うのは、『梁川町史』第十巻に従った記述なのだが、後日、「福島県立図書館」に収蔵された慶応元年 (1865) 付の文書に、「伊達郡舟生村昌源寺・滝本寺・明王院・五福院」から「桑折御役所」に提出された献金願書があることを知り、「町史」の云う年代よりもさらに二十四年下った時点で「滝本寺の名前が登場していることに困惑している。あるいは、合併は「町史」が云うよりも新しい時期に行われたのか。現在、調査中。

ただ、「
昌源寺」は、元々「霊山寺」や「滝本寺」同様、「天台宗」の寺院だったのだが、後に「曹洞宗」に転じている。その改宗の時期に関しては、未だ調査が出来ていないのだが、天保十二年 (1842) に「滝本寺」を合併するときには、既に「曹洞宗」に改めていたことは間違いなさそうである。そして、そうであればこそ、「天台修験」華やかなりし頃の遺産である旧「霊山」の「不動明王」を奉ずる「不動堂」と、後に述べるが、修験的な要素を色濃く残していたと思われる「愛観堂」だけは併せることが出来ず (あるいは併されることを拒まれ) 、現在のような分離した形で残されたのではないかと、現時点では推察している。



4. 「舟生不動堂」の「猫神」


a) 「不動堂」横の「猫神」碑

富野不動堂04・猫神1-1
「猫神」
40×18×14 (cm)
今回もまた写真ではほとんど読み取れず...

いよいよ、「猫神」の話に入ろう、と云っても、ここの「猫神」に関しては何も由緒が伝わっていないので、語ることとてあまりない。

「不動堂」自体は、トタン葺ながら宝形の立派な木造のお堂で、正面のみ張出し部分があった。お堂の周囲は、回廊が取り巻く構造になっていて、大きな鰐口からは紅白の綱が垂れ、堂内は扉の格子部分からしか窺えなかった。壁面には、ぐるりと幾十枚にも及ぶ紅白の幟が提げられ、「奉納 大聖不動明王」と書かれていた。

富野不動堂07・申碑全景
見えているのは、一つを除いてすべて「申碑」...。
左手に見える四角い碑のみ「猫神」碑である。

この「不動堂」の右側の斜面際に、「申」と一文字だけ彫った石碑が、草に埋もれてなお、無数に見えるほど多く立ち並んでいる。これは「庚申」信仰の一形態だと思うが、この地方一帯に「庚申碑」は少なく、「申碑」が圧倒的に多いと云うことには、何か理由があるのだろう。ここの「不動堂」境内にも、三基の「庚申碑」があり、これらは形態上も、「申碑」群の石碑より大きめであったため、やはり「申碑」には特別な意味があったのだろう。

「庚申碑」や「申碑」などと云うものは、一定の周期に納めるものだから、「申碑」はその数から判断しても、おそらくは毎年、何かしらの期日に祈願を込めて納められたものなのではないかと思われる。この地域の産業などと合わせて考えると、かつての「養蚕」の豊作祈願と関わっているのではないだろうか。この辺りのことは、きちんと調べればすぐに判明するはずなので、次の機会には調査することとしよう。

「申碑」の他にも、「心学者」で「信達地方」に強い影響を与えた「半田」の「早田伝之助」にちなむ「早田神」や、「蛇碑」「湯殿山信仰」を伝える「八日待」などの石碑も、石碑群に紛れて見える。そして、筆者の探し求める「猫碑」もここにある。

「猫神」碑は、「不動堂」右手の「申碑」群の中央よりやや奥手の、やや上がった段にあった。赤褐色の「凝灰岩」で彫られ、高さ四十センチ、幅十八センチ、厚さ十四センチある。角柱状だが、頂部は丸みを帯び、裏面を除く三面は、研磨されていたようである。正面に「猫神」、右側面に「□政十年十月吉□」とある。「政」は異体字で彫られている。『梁川町史』第十二巻 (p. 696) には、「寛政十年十月建立」の紀年名だと記されている。


b) 「不動堂」石段横の猫像 附・愛観堂


富野不動堂14・猫神1の全景
「愛観堂」へと登る石段の脇にある。

富野不動堂11・猫神2-1
「猫神」
25×12×17 (cm)

「猫神」信仰の遺物・遺構の間で、どれがよくてどれが悪いなどと云う差別はつけていないが、「猫神」探訪をする者として、同じ石造物なら、何かしら「猫」の図像を含んだものの方が、発見した時の喜びが大きい。それが「猫像」ともなれば、その感激は喩えようがない。

今回、「舟生不動堂」を参拝するに当たって、「猫神」の石碑の他に、「猫像」があることは、前もって分かっていた。そのため、ずいぶん楽しみに訪れたのだが、境内を見回しても、「猫像」きなかなか見つからなかった。石段を上って、上の台地上の「愛観堂」まで足を伸ばしたが、やはり見つからない。

「石黒伸一朗」氏の「福島県の猫神碑と猫の石像」 (『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会、2009)
と云う報告の中には、「不動堂から一段上にある愛観堂への階段のところ、三基並んでいる庚申塔の手前にある。」とまで書かれているのに、見つからないとあってはあまりに情けない。そこで、再度、石段の「庚申塔」付近を探したら、ほどなくして「猫像」発見に至った。季節柄、生い茂る下草に埋もれて、ちょっと見ただけではまったく見えなくなっていたのである。丁寧に、周りの草を抜いたり、払ったりした、丸みを帯びた、可愛らしい猫の座像が姿を現した。

正確には、「不動堂」から「愛観堂」へと登る階段の基部、左側の斜面を掘抜いた壁面の段の上にある。三基の庚申塔の前にある。赤褐色を帯びた「凝灰岩」で出来ているようだった。風化のため、全体的に細かい細工は摩耗してしまっていたが、耳は二つとも完全に欠け、顔の造作などもまるで判然としなくなっていた。

富野不動堂12・猫神2-2
富野不動堂13・猫神2-3
「猫神」様を別の角度から。

*

蛇足の嫌いがあるが、「不動堂」の上の「愛観堂」についても少しだけ記そう。

「猫像」のある階段を上がると、まず始めに、目の前に草の茫々とは生えた広場が現れ、すっかり錆びついた児童遊具などが、ぽつんぽつんと隅の方に置き去られている。かつて、この地域の子供たちに取っては大切な児童遊園として機能していたのだろうかと思うと、知らず胸が痛んだ。地方を旅していると、こう云う光景を見ることがあまりにも多い。
富野愛観堂02・本堂_1
「不動堂」の上の台地にある「愛観堂」

この草原を見ながら、左へと回り込むように進むと、右前方に、濃灰色のトタンで葺かれた宝形のお堂が見えてくる。これが地元の人の呼ぶ「愛観堂」である。なぜ「愛観堂」と呼ぶのか、あるいはその「愛」は何を指すのか、など細かいことは確認出来なかった。

石組みにコンクリート舗装を施した台の上に建てられたお堂は、周りを縁で囲まれ、閉ざされた扉の両脇から壁面にかけて、「奉納 南無観世音菩薩」と記された紅白の幟が、何枚も掲げられていた。正面の梁からは、鰐口とその綱が提げられ、堂内は扉中段に嵌め込まれた格子戸の隙間越しに覗けた。

富野愛観堂・御神像
分かりにくいが、五体の木像が...

堂内正面には紫の幕が掛けられ、棚には、五体の木像が祭られていた。全面中央にいるのは、脛を剥き出しに座る頭巾姿の僧形神で、その両脇には両腕をかいた異形の神様が控えていた。あるいは、寄木造の彫像で、本来あった腕が欠落したのかも知れないが、仮に腕をつけたとしても、異形であることに変わりはない風体である。後ろの真ん中には、鎧を着込んだ馬上神がおり、左には地蔵様のような像が置かれていた。棚の前には、燭台が置かれ、五本の蝋燭が挿されている。

面白いのは、「本尊」の「観音様」は、どこか見えないところに秘蔵されているのだろうけれど、これらの神像は、どれを見ても、とても「観音信仰」と直接関わるもののようには見えないことである。もちろん、筆者は「天台修験」の系統 (と云うか修験道全般) にはまるで疎いこともあって、そのつながりが分からないのかも知れない。しかし、それにしても何やら呪法的な香を感じ取れる前立群であった。

お堂の外、正面は、「ぼけ封じ」の石の観音像が何十体か建ち並び、境内を取り巻くように、古い石仏や石碑などが、間隔を置いて並べられていた。よくよく見て回ると、これらの石造物の中には、僧侶の墓塔も混じっており、『梁川町史』第十巻に従えば、それは「不動堂」の元となったかつての「滝本寺」の僧侶たちのものだと云う。同書は、「滝本寺」に関して、「舟生不動堂附近にあったが現在は無い」としか記していないが、その「滝本」と云う名前と、墓塔類が「愛観堂」にあることを合わせ考えると、「不動沢」の滝の真横に立つ「不動堂」も、その上の「愛観堂」も、実は「滝本寺」そのものなのではないかと、思わずにはいられなかった。「滝本寺」が「昌源寺」に合併される際に、何故、「不動堂」と「愛観堂」だけが取り残されたかに関する筆者の推察に関しては、既に述べたが、その推察に基づいてもやはり、「不動堂」の立つこの地が「滝本寺」の故地であると考えるのが妥当な気がするのである。



5. おわりに

最後に、直接「猫神」と関係あるかどうかは分からないが、一つ気になったことを述べておきたい。

富野愛観堂03・赤土
写真では分かり難いが、かなりの赤土だった。

お堂の外の地面は、草が生えず露わになった部分も多く、そう云う場所をそれとなく観察すると、地面がかなり色の濃い赤土であることが知れた。「信達地方」の「猫神」様を探し歩いていると、「養蚕」の跡の他に、実はこのような赤土の土地に遭遇することがしばしばである。関係があるかどうかは、今の段階では確定し得ないが、今後、何らかの無視出来ないような関係が見つかる可能性は十分に感じられる。

かくして、筆者らは、この日の最初の「猫神」に無事に遭遇し、意気盛んに次なる「猫神」へと、「山舟生」地区を目指して、再出発となった次第である。

* ちなみに、この稿における石碑の材質や計測値については、すべて「石黒伸一朗」氏の下記の論文に拠ったことをお断りすると共に、謝意を表したい。

「舟生不動堂」の地図は、こちら


参考文献

a) 古典
・作者未詳 (c. 14C半) 『保暦間記』
     塙保己一/編『群書類従』第二十六輯雑部、続群書類従完成会
・松翁 (1358?) 『吉野拾遺』上巻
     『校註 日本文学大系』第十八巻 (1925) 国民図書
・小島法師など (c. 1370) 『太平記』
     後藤・釜田/校 (1961) 『太平記』第二巻、古典文学大系 35、岩波書店

b) 一般書誌
・黒板勝美 (1939) 「北畠顕家の上奏文に就いて」『虚心文集』第二、吉川弘文館
・平田俊春 (1943) 『吉野時代の研究』山一書房


c) 地誌類
・福島県史編纂委員会/編 (1969) 『福島県史』第一巻、福島県
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
     梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
・梁川町史編纂委員会/編 (1984) 『梁川町史』第十二巻・民俗篇 2、梁川町
・小林清治/編 (1989) 『図説福島県の歴史』河出書房新社
梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻・文化・旧町村沿革 各論篇、梁川町
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
  
東北民俗の会/編『東北民俗』第四十三輯、自刊

d) 参考図書
・児玉幸多ら/監 (1981) 『日本城郭大系 3 山形・宮城・福島』新人物往来社
・東京大学史料編纂所/編 (1982) 『大日本史料』第六編之四、東京大学出版会
大石直正 (1993) 「霊山城」国史大辞典編集委員会/編『国史大辞典』第十四巻、吉川弘文館
遠藤巌 (1994) 「霊山城」日本史大事典編集委員会/編『日本史大事典』第六巻、平凡社
日本歴史地名大系編集委員会/編 (1993) 『日本歴史地名大系 7 福島県の地名』平凡社


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2015.03.26 00:03

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