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福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.01 2010 北海道・東北地方 comment(4) trackback(0)
「ハヤマ信仰」に関する一試論 1)

羽山神社

伊達市山舟生字手水川

羽山神社・猫神など
「羽山神社」の裏手。
左の石碑が「猫神」碑である。

1. はじめに

「鍛冶屋場」の「薬師瑠璃光如来堂」を発ってから、次の目的地となったのは、実は「羽山神社」ではなかった。順番の上で目指していたのは、字「清水 22番地」の民家隣りの山に祀られた猫像三体だったのである、と、このように書き始めたこと自体、筆者がこの目的地には無事に辿り着けなかったことを告白しているようなものである。そう、悔しいが、その通りなのである。しかし、この「清水地籍」への道は、途中まで「羽山神社」への道と重なるので、まずはその行程を示しながら、話を進めることとしよう。

「薬師瑠璃光如来堂」から、今までの稿にも度々登場している宮城・福島県道101号・丸森梁川線に戻ると、一旦は来た方向 (概ね南) に戻らねばならない。ただし、「山舟生小学校」までは帰らず、その少し手前、「山舟生郵便局」の先、川を渡る直前の丁字路を左へと曲がるのである。この道は、「山舟生川」の支流の「大小川」に沿う形で南下していくのだが、しばらくはこの道のままに走ることになる。

字「坊」の辺りで、道は二手に分かれるが、「清水」へは左の道をとる。「羽山神社」へは右に行けばよい。筆者らは、ここで左の道を辿って「清水 22番地」を目指した。この辺りは、当然ながら、電柱に番地が丁寧に書かれていると云う土地柄ではないので、特定の住所に辿り着くのにはそれなりの苦労があるのだが、筆者らも少しばかり狭い道を行ったり来たりしつつ、何とか目的の住所に着くことは出来た。

ただ、残念なことに、その家にお住まいの方に声をかけると、応対に出てきてくれたお婆さんは、筆者の云う「猫碑」のことも、その周りの石碑や石祠のことも、聞いたことがないと云うのである。これには正直困った。筆者は具体的な住所まで分かっているここの「猫神」には、家の人にお会い出来さえすれば、すんなり対面出来るだろうと、高をくくっていたところがあったから、なお衝撃は大きかったのである。

失礼にならない程度に、再三再四尋ねたのだが、答えはいつも同じだった。最後には隣りの家の人に聞いた方が分かると云うので、必ずしも近くない隣家へと、強い雨の坂道を数百メートル徒歩で上って訪問したのだが、応対してくれた男性はやはり知らないと云う。

筆者が今回とみに参照した「石黒伸一朗」氏の報告「福島県の猫神碑と猫の石像」には、以下のように書かれている。

伊達市梁川町山舟生字清水二二番地、斎藤藤一家の入口、右側の山林斜面にある。ここには、庚    申の石碑や石祠などが一〇基ほどあり、三基の猫の石像は石祠の前に並んでいる。

石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会、p. 58

この「斎藤藤一」さんの名前まで確認出来たのに、当の家人はまったく猫の石碑などには聞き覚えがないと云う。「石黒」氏の調査は、昨年のものだから、時代が経ち過ぎて分からなくなってしまった、と云うのではないことは確かである。

念のために、横の山に入ってもいいかと尋ねても、お婆さんは、何もない、と言い続けるだけだったので、ここの「猫神」との対面は、断念せざるを得なかった。何しろ、家の隣りの小高い丘は、かなり切り立った斜面に三方を守られている形なので、家の人にどこから登れるのか教えてもらえないと、どうにも探索など出来そうになかったのである。その上、昨日から断続的に降る雨で、斜面はすっかりぐずついていたものだから、何度か道路側の斜面から登攀を試みたものの、毎度危なく滑落してしまいそうになるのが関の山だった。

かくして、筆者は「清水の猫神」との対面は諦めて、「羽山神社」へと向かうことになったのである。もちろん、いつの日かの雪辱は期している。

*

今回の記事は、全五回のシリーズになる予定である。その中でも、第一回の今回のみは、概ね「山舟生・羽山神社」と、その境内にある「猫神」碑についての紹介に終始することになる。第五回も、「羽山神社」に隣接する「秋葉神社」の「猫神」碑の紹介記事になると思う。ただし、この第五回の記事は、材料が少ないため、普段よりかなり短くなる見通しである。

第二回から第四回の記事は、「羽山神社」の拠って立つ「ハヤマ信仰」と云う「南東北」に特徴的だが、我が国各地の「祖霊信仰」に通ずる要素を多く含んだ信仰について、思いつくままに拙い考えを開陳した。ここでの議論は、多くの読者にとっては煩雑なだけのものかも知れないが、筆者にとっては一つ「ハヤマ信仰」に限らず、各地の「猫」信仰の古層を読み解いてゆく上で、非常に重要な役割を果たしてゆくものなのである。

そう云った意味では、今回のシリーズ記事は、単に「ハヤマ信仰に関する一試論」であるばかりでなく、今まで断片的にしか述べてこなかった筆者の「猫神」論の序論を為す性質のものともなった。いまだ資料も考察も足りず、至らない面が目立つことと思われるが、平に諸姉諸兄の御寛恕を乞う。

とりあえず、第一回は、「山舟生・羽山神社」へと向かう旅行記の形で開始される。



2. まずは「十王堂」へ

「羽山神社」へは、まずもと来た方向に戻りつつ、「坊」の分岐路まで戻り、ここを左へと曲がって南進を開始することから始まった。もしも、県道101号から直接向かうなら、ここの分岐は右へと曲がることになるのは、既に述べた通りである。

しばらく道なりに走っていると、「日影橋」を過ぎた後、右へと川を渡る分岐が二つ続き、左手に公民館のようなものが現れる。ここらが「内越」の集落で、対岸が「日影」の集落であろうか。「羽山神社」に近い「小沢」の集落は、この隣りのはずであるから、目的地はもう近い。

羽山神社・入口角01
参道の坂、入口

羽山神社・入口角02

石柱と案内板
福島の山 浪漫紀行』「(梁川町)羽山 (1)」より借用
http://park.geocities.jp/tondemo_nine/page1/yanag_hayama1.html

またしばらく走っていると、まばらに民家が現れ、ああ、これが「小沢」集落なんだろうなぁ、などと思っていると、突然道路の左手に、背は高くないが、それなりに立派な石柱が出現し、よく見れば「羽山神社入口」と書かれているのである。横には、「うつくしま百名山 羽山登山道」と記した木製の案内板も立っていた。地図には、こんな道など載っていないものだから、妻に慌ててハンドルを切ってもらい、この坂道に入ってもらった。この時は、急のこともあり、写真を撮る時間がなかったため、上の二枚の写真は『福島の山 浪漫紀行』様のホームページから拝借致しました。ちなみに、ここのサイトは、「福島県」の山々を巡る際には、一度は参照しておきたい秀逸なサイトなので、御興味のある方は是非。

この坂道に沿っては、「小沢」集落の民家が何軒か建っており、これを抜けると、一本坂上の道路との突き当たりに出る。問題は、この突き当たりに出ても、「羽山神社」の影も姿も見えないことなのである。どこをどう見ても、右に曲がるのか左に曲がるのかの案内すら出ていないのだから閉口ものである。せっかく登った坂だから、右折してまた下るのも参道としてはおかしかろうと云う推測に基づいて、筆者は妻に左折してもらった。

羽山の十王尊・社殿

「十王堂」かな...?

左に曲がって百メートルも行かないうちに、森の中に右へと入っていく道が現れ、その道をわずかに入ったところに宝形のお堂が見えた。これはどう見ても、この地域最大のお社である「羽山神社」の「社殿」には見えなかったし、そもそも「鳥居」すら見当たらない。ただ、下調べの段階で、「羽山神社」の手前か近くに、「十王堂」があることは分かっていたから、妻を車に残して、筆者は取り敢えずこのお堂に走って向かった。「十王堂」であれば、この道の先に「羽山神社」があるはずだからである。結果としては、このお堂は本当に「十王堂」であったので、この時点で妻をこの道に呼び入れた。

十王堂
伊達市山舟生字小沢

羽山の十王尊・額

まさしく「十王堂」である。

「十王堂」の左手前には、大きな「庚申碑」があり、「向拝」正面には鰐口が吊られていた。「十王尊」と書かれた額の下の扉は閉ざされていたが、格子部分から中を覗くと、確かに「十王様」たちが行儀良く胡座をかいて二段に並んでいた。ただし、残念なことに、一番有名な「閻魔様」は、幕に遮られて顔は見えない。どの木像も、ほとんど色は剥落しているとは云え、わずかに顔料の跡は残っており、かつては美々しく彩色されていたことを偲ばせていた。

羽山の十王尊・社殿内

道服を着た「十王様」たち

その昔、夕暮れ時の薄闇の中、このお堂を覗いたものたちは、くっきりと彩られた「十王様」たちのおどろおどろしい姿に、きっと強烈な畏怖の気持ちを抱かずにはいられなかったことだろう。子供だったなら、なおそうだったのではなかろうか。

羽山の十王尊・首なし像

扉の足下の首なし仏たち

お賽銭を奉じて、ひとしきり、堂内を観察し終わると、目を扉の外、足下に移したのだが、そこには首のない仏様たちが何体か立てかけられていると云う、一種異様な光景が現出されていた。森の樹々に覆われた日影の中とは云え、まだ日も高く、一瞬の晴れ間をついて所々にわずかだが鮮烈な木漏れ陽が射し、これに照らされた目にも鮮やかな夏の盛りの緑のために、今、目の前に見る景色も不思議に牧歌的な雰囲気に包まれていたが、これが冬枯れした森の斜面に、雪の降り積もった曇りの夕刻にでも見たのであったならば、かなり陰惨な印象を受けていただろうことは、まず間違いない。

この首なしの仏様たちの陳列には、どんな意味合いがあるのか、今も分からずにいる。かつての「廃仏毀釈」の遺産だろうかとも思ったが、そうだとしても、それは仏様たちに首がないことの説明にはなっても、なぜわざわざ扉の下に立てかけられているのかの説明にはならない。何か、呪術的な側面があるものならば、今後とも、是非、詳しくその内容を調査したいものである。もっとも、ただ何となく、なんて云われたら、返ってがっかりしてしまうだろうな。

*

ついでに、「十王信仰」について、軽く触れておこう。

「十王尊」とは、要するに「十人いるあの世の裁判官」のことである。「仏教」では、死の瞬間を「死有」と云い、それから「転生」した次の誕生の瞬間を「生有」と云い、この間を「中有 (または「中陰」) 」と云う。この「中有」は四十九日間とされ、この間、死者の罪業を審査するのが、この「十王」なのである。ちなみに、生まれてから死ぬまでの一生の期間は、「本有」と云われるが、ここではあまり関係ない。

人は死ぬと七の日ごとに順次「十王様」の前に引き出され、生前に悪い事をしていないか調べられる。十人の裁判官と云うのも、より正確に記述すると、「秦公王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王 (泰山府君) ・平等王・都市王・五道転輪王」の「十王」のことである。人がその死後、極楽へ行くのか地獄へ行くのかは、この判官たちの裁判にかかっているのである。

これもより正確にに云うと、死者は、まず初七日に「秦広王」、ニ七日 (十四日目) に「初江王」、三七日 (二十一日目) に「宋帝王」、四七日 (二十八日目) に「五官王」、五七日 (三十五日目) に「閣魔王」、六七日 (四十二日目) に「変成王」と、各王独自の裁判にかけられ、四十九日目の七七日に「泰山王」によって判決が下され、ここで「六道」 (天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界) のいずれかへ行かされるのである。

もっとも、大半の審判は、「閻魔王」の段階で決するそうで、それ以後の審判は敗者復活戦のようなものだとも云う。それでも「地獄界」に落ちてしまった死者には、百箇日めに「平等王」、一周忌に「都市王」、三周忌に「五道転輪王」による再審査が受けられると云うのだから、現世の「三審制度」などを遥かに凌いで、なかなか仏様たちも慎重なのである。

世に一般に行われる法事と云うのは、本来、これらの審査に際して、少しでも死者の罪が軽減されることを願って、遺族が行う追善供養のことなのである。「仏教徒」たちが、本来の仏典類には「法事」のことなど一切記されていないにも関わらず、「三周忌」までは熱心にその法事とやらを行うのも、使者に対する記憶の新しさもさることながら、こんな事情が絡んでいるのである。

「十王信仰」とは、つまり、生前からこの「十王」を祀り、死後は遺族が故人のために、各忌日の前夜に法要を営むことで、死者、引いては自身の罪が少しでも軽くなるよう祈るもので、「鎌倉時代」頃、「中国」からわが国へと伝えられたものと考えられている。「中国」でも「十王信仰」は、台頭しつつあった「道教」勢力が、やや衰微しつつあった大陸の「仏教」勢力に食い込む形で混交され、その呪術的な部分が民衆に受け容れられて普及したと云われる。「十王」たちが、「冠」をつけ、「道服」を着た姿をしているのは、この「中国」での「道教」の影響の名残りなのである。

「鎌倉時代」以降発達した上のような「十王信仰」は、「江戸時代」になると、「本地垂迹」を経て神格を増やすことでさらに高じて、「十三仏信仰」と云う形に派生し、そのために死後の審判も三回ほど増えるのである* 。そして、熱心な仏教徒は、死後の法要を「七回忌」「十三回忌」「三十三回忌」と行なうものも出てきたのである。

* これはあるいは逆で、救済の機会としての年忌を増やすために、神格を増やした、と云うことなのかもしれないが、ここではこの手の議論には深入りしないこととする。

特に、我が国古来の「神道」では、三十三回目の「神霊祭」を以て、死者の霊がそれまでの不安定かつ両義的で、それ故に危険性を孕んだ「荒御霊」から、恩恵を与える安定した「和御霊」へと昇華され、自分たちを守護してくれる「祖霊」へと転ずるとしたため、三十三回目の法要は、「神仏習合」の影響もあって、広く民間に広まっていったと云える* 。これは逆に、一部の「在来仏教」では、三十三回目のお祭りを以て、死者の霊が「祖先神」として一体化すると云う考え方をも生み出したのである。もちろん、地方・宗派によっては、三十三回よりも多くの法事を行う場合もある。

* 以上のことは、一応は「神道」を奉ずる家に育った者としての一般的な常識と考えていたのだが、この稿を書くに当たって改めて調べてみると、三十三回の法要と云うのは、明確に「神道」起源とも云えないようで、「宮田登」など、識者によっては仏教的な死穢観を媒介して、「神道」に敷衍したものだとさえ述べるものもいる。しかし、一方で「法事」と云う概念すら本来は持ち合わさぬ「仏教」は固より、「十王信仰」の発達に多大な影響を与えた「道教」にも「三十三」と云う数字の根拠は見出せない。現段階では不明と云わざるを得ないが、『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」 (『観音経』 ) には、「観世音菩薩」は、普く衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞身」「梵王身」など、三十三の姿に変身すると説いていることに基づいた「三十三観音」信仰と何らかの関連があって形成されたかも知れないとは考えている。しかし、それとて我が国や「中国」でそれぞれ独自に発達した要素も強く、あまり解明への糸口になるかどうかは分からぬ。

したがって、この「十王信仰」と云うのは、それが一種の「祖霊信仰」であると云う点で、「東北地方」に多く見られる「ハヤマ (羽山) 信仰」と、そもそも習合しやすい性質のものだったのである。この「ハヤマ信仰」に関しては、次節以降で、少しだけ触れようと思うのだが、ここまでの理解だけでも、「羽山神社」の入口に位置する「小沢」の「十王堂」が、何故「祖霊信仰」に基づいた社である「羽山神社」の守護の任に当たったと考えられるかは、容易に理解出来るだろう。その上、この「十王堂」は、「羽山神社」の鎮座する字「手水川」の地と「小沢」の地との境に位置しているのだから、一種の「塞の神」として捉えることも可能で、その意味からも神社の守護神としての機能を担っていると考えることが出来るのである。

*

ところで、この「十王堂」は、「梁川町舟生」の「富野」地区にある「昌源寺」の境外堂宇だと云うことも述べておかねばならないだろう。境外堂宇とはあまり聞かない言葉だが、読んで字の如く、その寺院の境内から離れた地にあるお堂のことである。この「十王堂」に関しては、創立の時期など細かいことは何も分かっていないが、「昌源寺」の境外堂宇だと云うからには、本寺の創立を遡ることはないと思われる (まあ、ときにはそう云う例外もあるが...) 。

「昌源寺」は、「霊山」落城後、「北畠顕家」の三女「晶子姫」が、「舟生小館」の地に逃れて、一族を供養する草庵を営んだのが始まりだと伝えられている。その後、慶長三年 (1598) に、「遠江国」から「梁川」入りした「秋葉土佐守」が、この草庵を「小館」から現在地 (梁川町舟生字寺下) に移して、「快山貫益和尚」を迎えて「晶源寺」として「開山」したのが、寺院としての本格的な始動だったと云う。後に、寺号は「昌源寺」に改められた。

創建当時は、「天台宗」だったが、現在は「曹洞宗」となっている。改宗がいつ行われたのかについては、調べがつかなかった。「東北地方」への「曹洞宗」の普及、特に改宗を経ての普及は、「東北」に最も優勢して伝わる「猫檀家」伝説の歴史を理解する上で、避けて通ることは出来ない重要性を有している。そのため、直接関係ないとは云え、「東北地方」の、しかも「猫神」と関わる土地の寺である「昌源寺」の改宗時期に関しては、今後とも是非、調べておきたいものである。

ちなみに、現在の「山舟生」地区には、「小手内観音堂」や「鍛冶屋場の薬師瑠璃光如来堂」などのような、地元の人々によって守られているお堂はいくつかあるけれども、正式な意味での寺院はない。したがって、この地区の人々のほとんどは、上に挙げた「曹洞宗・昌源寺」の檀家だと聞く。しかし、かつての隣村で、今は同一市内だと云っても、「山舟生」から「昌源寺」までは、決して近いとは云えない。何しろ、「昌源寺」と云うのは、筆者が今朝立ち寄った「舟生不動堂」のすぐ北くらいに位置する寺なのだから、ここと行き来するとなると、昔の人は、最低でも片道六キロはある山道を歩かねばならなかったはずである。

いずれにしても、ここの「十王堂」は、「祖霊信仰」と云う点で「羽山神社」とつながることによって、「舟生」の「昌源寺」と「山舟生」の民間信仰を結びつけていると云える。そして、「昌源寺」自体が、本来は「霊山」と「南朝方」の信仰を継承していたにも関わらず、後に「曹洞宗」に転じていると云う点において、「梁川地方」での「天台修験」から「曹洞宗」への仏教勢力の歴史的な推移を体現していると云えるのだから、その寺の境外堂宇としての「十王堂」はまた、この地方における宗教的な位相の推移に潜む真相を読み解くためには、非常に重要な位置を占めているとも云えるのである。

曹洞宗
昌源寺

伊達市梁川町舟生字寺下 21
024-577-3518



3. 「羽山神社」散策

羽山神社・正面入口
「羽山神社」入口

「十王堂」から左右を鬱蒼と茂る森林に覆われた道を登っていくと、間もなく、正面に石鳥居が見えてくる。この「鳥居」が道の入り口から見えていれば、余計な気苦労も、途中で下車することもなく、道を登ってくることも出来たのだが、いまさら悔やんでも致し方はなかった。上の写真の石段の左手、道向こうに五六台分の駐車スペースがあったから、妻は、狭い草むらの空き地に駐めた車を入れ直すために、もう一度坂を降りていった。

羽山神社・鳥居上から
上から参道を見下ろす

ここの神社は、斜面に建てられているだけあって、断続的に続く緩やかな石段が続くのだが、これをしばらく上ってから、ふと後ろを振り返ると、凝縮された空間の中とは云え、みずからの踏み来し道が、いや遠に小さくなっていくのが見えて、妻を求めて後ろを向くたびに、形を変える景色には、その度に目を奪われた。

羽山神社・参道左石碑
「金華山」弘化三年 (1846) と「八幡大神」明治二十七年 (1849)
参道左の石碑

石畳のしっとりした参道を行くと、途中、左側に「金華山」や「八幡大神」の石碑を過ぎ、石灯籠二対ばかりの間を通ると、空間は突如開け、左手の整地の奧に、壁面下部に矢来模様を施した白壁の土蔵が見えてくる。近づいていき、格子戸の隙間から中を覗くと、何やら神輿のような物がしまわれているのかと思わされたが、暗いこともあってはっきりとは分からなかった。

後になって考えたら、ここの神社には、「伊達市」の「無形文化財」指定も受けている祭り囃子があり、勇壮な山車を引き回すお祭りとして知られているのだった。であってみれば、これが「神輿庫」である可能性は低く、おそらくは「山車」などの祭具をしまっているのだろうと思われた。

ここの台地には、「幕田安右ェ門」「八巻七太郎」の業績を称えた昭和三十五年 (1950) 建立の「頌徳碑」もあった。碑文は長いので割愛するが、まだ、我が国に近代的な意味での森林保護の考えがなく、妄りに乱伐採が横行していた「近代」初期に、森林を地域の貴重な公共財と考えて、人々を説得して裸山になりつつあった「羽山」周辺の山々に植林事業を興した先達を讃える内容であった。


羽山神社・神輿庫?
立派な石灯籠と、これは神輿庫か?

そして、この庫造りの建物がある台地の上がり口辺りから、右斜め前方の「拝殿」を望み見る瞬間は、また格別であった。さきほどは、後ろを振り返る話をしたが、その逆もまた比べがたいほどの景色だったのである。下から順次上っていくにつれ、段々になった社地から一つ一つの「社殿」や構造物がその都度顔をのぞかせるように現れるため、参拝していると、美しい景観が刻々と変化して、自然と息を呑む回数が多くなるのである。特に、境内の一枚一枚の台地が、きっちりと積み上げられた荘厳な石垣の上に築かれているため、下から望むと、上の社地はみな石垣の向こうに聳えるように見えるのは圧巻である。「拝殿」に関して云えば、参道右側の杉の古木群さえもが、この見上げたときの景色を演出するために配置されているのかと思われるほどであった。

羽山神社・社殿下から
下から「拝殿」を望む

逆に、こんなことを云っては行けないのだろうが、石垣下から望んだ「拝殿」の
姿があまりに美しかったばかりに、実際にその建物の前に立ったときには、その大きさにこそ感心すれ、あまり見惚れることはなかった。ただ、おそらく雪国だからなのであろうけれど、軒下が広くとられ、かなりがっしりとした造りになっているのには、知らず目を見張った。また、普通の神社の「社殿」では、お参りするために、正面が迫り出すように「向拝」はつくられるのだが、ここの「拝殿」では逆に、礼拝する部分は「コの字」型にへっこんで設計されていた。

はたして、こう云う造りがあるのか、ここ独特の物なのかは分からないが、同じ「信達地方」でも、規模の小さいお堂などでは見られない造りであった。したがって、それぞれのお堂の大きさも影響しているのかも知れなかった。確かに、屋根面積が広ければ広いほど、積雪時に掛かる耐荷重は大きくなるし、また軒端の落雪などによる被害も起りやすい上、一旦起きた場合は、深刻なことになりやすいのだろうとは想像された。この、内側に向かって凸な構造は、そんな地域の気候風土と関係しているのではないかと想像されたが、別段確認したことではない。

羽山神社・拝殿
「拝殿」

「拝殿」の右へと向かい、その裏手へと歩いていくと、その背後が切立った斜面となっており、右手から漸次、その斜面は盛り上がって凹凸のある坂を形成しつつ、背面部の草の覆う崖へと連なっていることに気づくだろう。そして、この傾斜の尾根を伝うかのように、麓から点々と石碑が据えられており、最後に崖部と合する辺りで大きな杉の古木が聳え立っていた。

この辺りの石造物群に関しては、その配置図を書き記すのを忘れてしまったために、正確な位置に関してはうろ覚えになってしまった。しかし、「猿田彦大神」「蚕碑塔」「二十三夜」のうちの一つ、それにもちろん「猫神」碑に関しては、その位置を間違いなく覚えている。

羽山神社・二十三夜塔
「二十三夜塔」

確か、「拝殿」の後ろへと回り込むと、最初に目につくのが、麓にある文化五年 (1808) 紀年銘の「山神」と「二十三夜」の碑だった気がする。

羽山神社・蚕神
「蚕碑塔」

そして、最初の杉の古木の前に、かなりの崩し字で彫られた寛政十一年 (1799) 紀年銘の「湯殿山碑」が左に傾いで立ち、そのやや右手に「蚕碑塔」 (紀年名不明) があったと思う。「湯殿山碑」の左後ろには、赤い火山岩に据えられた石祠があり、その左横に「猿田彦大神」の碑が立っている。

羽山神社・猿田彦
「猿田彦大神」
寛政十二年 (1800)


この「猿田彦大神」の碑は、この日の探訪では珍しい部類に入った。「仏教」における「庚申碑」は、しばしば「神道」における「猿田彦」と等価のものとされるが、ここの境内には、「庚申碑」も「申碑」も
見当たらなかったと思う。少なくとも、目立ってはいなかったはずである。

これは全国的に云えることなのだが、一般的には、ある
地域全体に存在する石造物の総数のうち、圧倒的な多数は「庚申塔」によって占められていることが多い。そして、これは「山舟生」地区にも当てはまることである。このことを考えると、地域一の規模を誇る旧・村社の「羽山神社」境内に、この「猿田彦」碑を除いて、一つも「庚申塔」がないと云うのは奇異な現象だと云えよう。何かしら、背景のあることと思われたが、現在のところ、それを突き止めるまでには至っていない。

羽山神社・猫神など
左手に「猫神」の石碑が...

斜面をもう少し上り、奧手の方の杉の古木まで行くと、右根元に蔦に這われた石碑 (おそらく「二十三夜」) ともう一つの石祠があった。「幕田」氏の報告では、二つの石祠はそれぞれ「若木大権現」と「金毘羅」様だと記されているが、どちらがどっちかは確認し忘れてしまった。氏によれば、「若木大権現」の石祠は、文政元年 (1818) 「金比羅」の石祠は文政四年 (1821) に、それぞれ建てられていると云う。二つの「二十三夜」も、それぞれ明治三十三年 (1900) と昭和十七年 (1942) のものだと記されている。



4. 「猫神」小考

羽山神社・猫神
「猫神」
67×27×13 (cm)

そして、ようやく本命の登場である。

神社の「拝殿・本殿」に向かって右奧の斜面の、なお一番奥手に、筆者の目指す「猫神」碑はあった。地元産の「赤滝石」と呼ばれる赤灰色の「凝灰岩」で造られ、碑面は研磨されているが、残りの面は荒削りのままである。刻字は、碑面中央に「猫神」、両側面に「文政十三年庚」「寅九月吉日」とある。「文政十三年」と云えば、西暦では 1830年である。


高さ七十センチ近いこの石碑は、各地の「猫碑」に比べてもかなり背の高い部類に入り、そのただでさえすっきりと鋭角的な
美しいフォルムに加え、「社殿」横の石碑群の中で最も高く、最も「本殿」中央に寄った位置に配されていること、それに他の石碑からやや離れて単立していることなどが重なり、一目見ただけで屹然とした印象を与えられる。かなりの急斜面に立っているため、写真を撮るために接近するのさえ容易ではない。ましてや、地面が濡れている状態では、踏ん張って長く観察するのは、早々に断念せざるを得なかった。

この「猫神」碑に関しては、
遠くからだと草に埋もれて見え難いが、近づいて丁寧に観察すると、ある一つの事実に気づかされる。それは、碑の下に礎石のような大きな角礫があると云うことである。一瞬、台石ではないかとも疑ったが、それにしては大きいし、第一、台石はその礎石状の石と石碑の間に挟まれてちゃんと存在するのである。すると、一体この石は何のための石なのだろうと云う疑問が湧いてくる。

先に述べておくなら、これに対する明確な解答を筆者は用意していない。しかし、これに関しては、敢えて考えられることとて二つくらいしかなかろうとも
思う。

一つは、一番可能性が低いものだが、元から「猫神」碑のために礎石を斜面に埋めたと云うもの。ただし、「猫神」碑のみを載せるためには、何もかほど大きな礎石を入れずとも、台石程度で十分に足りたと
思われるので、これはあまり有効な推論とは云えない。特に、設置場所が急斜面であることを考慮すると、無駄なことにそれほどまでの手間と労力を割いたとは、余計想像しにくいのである。もっとも、仮にそうだったとしても、それならそれで、「猫神」は相当に大切な神様だったと云うことになり、筆者はそれはそれで良い。まさに「猫によければ全てよし」である。

二つ目は、この礎石が元々、別の目的のために築かれたものだと云う考えである。そして、この場合は、さらに二通りの考えに分けて推論することになる。第一のものは、最初に「猫神」碑ではない、何か別の祭祀物のために礎石が置かれたのだが、その祭祀物がなくなった後、その空いた場所に「猫神」碑が建てられたと云うもの。ただ、そうであるためには礎石状の石の奥行きがいかんせん足りない気がしてならない。あれでは小さな石祠でさえ載せるのは難しいかも知れないのである。それでは、祠ではなく、石碑だったのでないか、と考える向きもあろうが、それだと第一の推論に戻って、可能性は低くなってしまうのである。

それに加えて、「猫神」碑の位置と云うのが、単に急斜面の上にあると云うだけでなく、その斜面が「本殿」のほぼ真裏に当たると云うことも考慮しておかねばならないだろう。由緒ある神社で、「本殿」の真裏に雑多な神々を祀っていると云う例を筆者は寡聞にして知らない。そう考えると、何か別の祠があったのではないかと云う推測は、やはり、あまり蓋然性は高くなさそうである。

二つ目の推論の第二の考え方は、実はこの礎石状の石は、本来的な意味では祭祀物とは無関係な、別の構造物の残滓かも知れないと云うものである。そして、筆者はどちらかと云うと、この視点こそ一考に値すると思ったのである。

この考えの最も分かりやすい例としては、
石垣などが挙げられる。「本殿」裏の土手に当たるここの斜面は、石垣が築かれていたとしてもおかしくない地形をしているのだが、普通石垣の遺構と云うものは、基部の方が多く残るものであるから、この中途半端な位置に、一つ二つ石が残されているのはいかにも不自然である。

しかし、祭祀跡でも石垣の遺構でもないならば、一体、礎石状の石の正体として、他に何が考えられるだろうか。そこで、筆者は発想を変えることにしてみた。要するに、何があったか、と云う過去の特殊な状態に直接遡ろうとする推論ではなく、何ならあってもおかしくないか、と云う一般的な仮定から出発して順次、可能性をつぶしていこうと云うことである。

既に少し述べたことだが、「本殿」の真裏、それも「本殿」の立つ土地より高い位置に設けられるものなど、それこそかなり数が限られるのである。いや、普通に考えれば、人の手で「設けられる」ものなど、原則としては一つも存在しないはずなのである。そもそも「本殿」の裏と云えば、岩や湧水、滝などの崇拝の対象となりうる自然物以外、おいそれとあるものではない* 。そして、その自然物も、通常はその神社の信仰と何かしら関係があるものである。

* 時折、神社が「古代」の古墳の上にそのまま建てられていることがあるのは周知の事実だが、古墳の一部が掘削整地されたところに社が建てられ、背面に石室の一部が露出しているなんてこともあるのだろうか。「拝殿」の後ろが直接古墳の石室につながっていて、そこが「本殿」扱いされていると云う神社の話は聞いたことがある。また、「社殿」の真下が石室になっていて、そこを見学出来る神社なら参拝したことがあるのだが...。

さて、この原則を「羽山神社・本殿」とその裏にある「猫神」碑に当てはめるとどうなるだろうか。大岩や滝などがない以上、可能性は湧水などに絞られてくるのである。そこで、「社殿」横の土手に建ち並ぶ石碑群の配置とその地形をもう一度概観すると、それが斜面の形成する小さな縁にほぼ沿って、流れるように上から下へと設置されていることが分かる。もちろん、斜面なのだから、初めからある程度はそのような構成になる必然性を孕んでいる訳なのだが、それでも、斜面の中腹などにかたまって建てられている場合の方が、経験上、多い気がするのである。

羽山神社・蚕神など
画面の左端に見えるのが「猫神」碑
下へと続く沢筋が見えるだろうか...


さらに丁寧に石碑群のある地形を観察すると、「猫神」碑から斜面の麓に向かって、草や落ち葉などに埋もれてはいるが、所々うねりながらも、左右が角度の広いV字に迫った沢筋のような痕跡が見えるのである。もしかしたら、かつてここに湧水があったか、あるいは季節的に湧水があったかしたのではないかと強く疑われる地形なのである。後になって思い出してみると、「社殿」脇にも、水を集めるための小さな溝が掘られていたような気がするのだが、これは写真にも収めていなかったので、確認するのは次回の訪問時以降と云うことになりそうである。

羽山神社・猫神下02
「猫神」碑の真下の拡大画像

ここまで来ると、諸姉諸兄は、筆者がどこに話を導きたいか、およそお見通しなのではあるまいか。そう、例の礎石状の石は、かつてそこに存在した湧水口を補強する石組みの一部とも解釈出来るのである、とまあ、こんなことを主張したかったのである。神社の立つ字「手水川」と云う地名もまた、現在は「水神」との直接的な関係を窺わせる形跡のない「羽山神社」にあって、往古は水と関係があったのではないかと疑わせる傍証程度にはなるであろう。また、これも自宅に帰ってから写真を整理していて気づいたことなのだが、「猫神」碑の下の石は、その右側で大きな矩形の穴を形づくっているようでもあった。そうであれば、いよいよ湧水口である可能性は高まるのだが、これもまた、次回訪問時に確認しなければならないことだろう。

それにしても、もし仮に「猫神」碑の下の礎石状の石が、かつて存在した湧水口の遺構だとしても、そこに何故「猫神」が祀られているのか、と云う問いの答えになったとは云えない。しかし、一方で、「本殿」の真裏と云う位置を考えると、何らかの必然性がなければ、その場所に決して祀られはしなかっただろうことも、ある程度の確かさをもって云えるだろう。

筆者が以前から (小出しに) 云っていることだが、「猫神」信仰の「猫」は、その古い層において、「渦」と関わる形で「水神」ひいては「風雷神」としての性格を持つものと思われる。この場合の「渦」とはおそらく根源的な「変成力」を表し、ある状態から別の状態への推移や変相を表象する両性的な混沌と考えられるのである。究極的には渦は、二つの世界をつなぐか、あるいは一方の世界を他方の世界へと吸引する相互力として見なされるのである。この事実と、「あの世」の象徴としての「水界」と云うイメージを組み合わせると、「水神」としての「猫」は、「あの世」と「この世」の不安定な閾に存在する一種の「綴じ目」としての役割を果たしていることになるのではないかと、筆者は強く疑った次第である。



5. 小休止

今回の記事の「猫神」碑を巡る観察に関しては、やや自説に有利に解釈した観は否めない。実際には礎石状の石は、石垣の遺構である可能性もあるだろうし、「猫神」の位置にしても、後世の人が何となくあの場所に据えただけかも知れない。また、湧水口だからこそ「猫神」がいると云う論法は、シリーズ第五回の記事で触れる「秋葉神社」の「猫神」碑が湧き水とは関係ない場所に立っていることなど、不利な材料もある。ただ、「猫神」の「水神」としての性格は、わずかな残滓として、各地に痕跡を残しているのみなので、筆者とて、現存する「猫神」がすべて直接「水」に連結するものとは唱えていない。

いずれにせよ、まだ検証の十分に足りない自説を引き合いに出して論ずるのは、我田引水の誹りを免れ得まいが、それでもなお、「本殿」の真裏に近い場所に「猫神」の石碑が祀られていることの合理的な説明としては、ある程度以上に有効な仮説を提示しうるものと考えている。さらに云えば、今回、「羽山神社」の「猫神」碑を観察するに当たって、「ハヤマ (羽山) 信仰」と「猫」との接点を新たに感じたのだが、この点に関しては、次回記事以降に記していきたいと思う。

ただし、ここから先は、かなり冗長な議論になるので、純粋に紀行として読みたいと云う方は、シリーズ第五回「『
秋葉神社』と『猫神』碑」の紹介の記事まで、しばし待たれたい。


参考文献

a) 主要文献
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
   
梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 
『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会

梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻・文化・旧町村沿革 各論篇、梁川町

b) 「十王信仰」関係
・窪徳忠 (1996) 『道教の神々』講談社学術文庫
・田中文雄 (2001) 「十王経」
 増尾伸一郎/編 (2001) 『道教の経典を読む』あじあブックス、大修館書店
・二階堂善弘 (2002) 『中国の神様―神仙人気者列伝』平凡社新書
・田中文雄 (2003) 「道教の『十王経』とその儀礼」
 
福井文雅/編 (2003) 『東方学の新視点』五曜書房
・田中文雄 (2004) 「閻魔と十王 地獄の裁判官たち」
 野口鐵郎・田中文雄/編 (2004) 『道教の神々と祭り』大修館書店
・鈴木あゆみ (2006) 「仏教と道教の十王信仰」
 
『比較思想研究』第三十三号・別冊、比較思想学会

c) 「ハヤマ信仰」関係

・宮田登 (1989) 「祖霊信仰 東アジア世界と先祖観」
 上原昭一ら (1989) 『古墳からテラへ : 仏教が来た頃』図説日本仏教の世界 1、集英社
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう



参照サイト
・『福島の山 浪漫紀行』http://alco-inf.hp.infoseek.co.jp/
『福島の山々』http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/index.htm
・『丸森の巨石伝説』http://zuiunzi.net/igu/index.html



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タッキー
私の街にも小鍛冶という地名や十王堂沢川という川があったりします
各地にある地名なんでしょうか・・・

鍛冶と名の付く場所は、地形からだとかそこに鍛冶屋があった?からなどと諸説あるようですね・・・

十王堂沢川のどこかにお堂があるのかしら・・・
猫神様って云うのは各地にあるものなんですね。
2010.11.03 12:47
clubey
タッキーさん、ご訪問ありがとうございます!!
長野編は、後少しでアップ開始します...。
思ったよりも、羽山神社の記事に手間取ってしまっています...。

「猫神」のいるところには、何故か「十王」のつく地名はや「十王堂」などがよくあります。逆もまた、真なりと云う訳ではありませんが。「猫神」には、何かあの世とのつながりがあるからではないかと思っています。

製鉄関係の地名は、全国各地に分布しているため、「猫神」と直接つながるものかは容易に判断できないのですが、福島の信達地方に限って云えば、おそらく間違いなく関わっているものと思われます。ただ、他の地域ではむしろ金山などとの関わりの方が深いような気配があって、頭を悩ましています。ただ、金属精錬も、「変成」を表す性質のものなので、その辺りで「猫神」とつながるものとは思っています。

「猫神」は、相当探さないとどこにも見つからないのですが、逆に、よく探すと意外といるものなのも事実です。ただし、間違いなく長野県と福島・宮城県境が、我が国の突出した「猫神」地帯だと云えるでしょう。東北の猫神に関しては、村田町歴史みらい館の石黒伸一郎氏が個人的な調査を進めてきていたことから、ある程度の数が知られていますが、将来、もっと長野の調査が出来れば、長野もさらに多くの「猫神」を発見できると思います。私は、関東を中心に頑張っているのですが、やはり都市化が進んだ地域ほど発見は難しいようですし、都市の「猫神」は、やはり地方の「猫神」とはやや性質が異なってくるようです。

長野編は、資料が不足気味なので、情報を呼びかける回が増えそうですが、頑張ってアップします!!
今しばらく、お待ちください!!
2010.11.03 16:17
亀子
clubey様
先日から夢中で読ませていただいている亀子です。興味深いです。
この猫神の文字ですが、手偏に見えます。猫神様だけど猫じゃないよ、という主張だと思います。神奈川県藤沢市に凱旋記念と書いた鳥居があるんですが、旋の字が手偏なんです。「凱旋」なんて言ってられるか、という、レジスタンスだと思うんです。「これは凱旋じゃあないね」と。
それから、神社の奥には小さく神様が祀られています。それが本来の神であったりします。後北条氏の時代に祀っていた神を、徳川氏の時代になって、神社の名前を変える。神様を変えてしまう。服従の印に。でも、以前の神様も、後ろにそっとお祭りしてあるんです。だから地元の人に猫神様の事を聞いても答えて下さらないと思います。
21世紀になっても。私の体験ですが、いかにも他所者という感じで駅からおりてタクシーでXX神社へ行ってください、と言った事があります。その時は、そんな神社は知らないねえ、でした。XX堂の方がいいよ。でした。でも、鳥居が見える所までは行って下さったんですよ。猫神様ではなかったんですが。地元の年配の方を、ハラハラさせないように、反省しきり、でした。
2011.04.25 02:34
clubey
亀子さま
読んで頂いて光栄です。「鎌倉、まぼろしの風景」の「善知鳥」の記事も拝読しました。特に、秋田県の善知鳥村の切支丹迫害につきましては、まったく知らなかったものですから、驚いています。実は、次回か次々回の記事で「善知鳥」「雁風呂」を扱おうと思っていましたので、大変なタイミングでもあったのです。「善知鳥」伝説に関しましては、斉藤泰輔さんの『善知鳥物語考』が最も丁寧で詳細な調査がされており、文化批評としては篠田浩一郎「中世への旅」の最終章が最も気に入りました。私は、少し異なった視点から、「善知鳥」伝承は、「坂上田村麻呂」や「日本武尊」の伝承へ、さらにはより太古の「ダイダラボッチ」伝承とも繋がるものとして現在追究しております....が、なかなか思うように資料が集まらないのと、考えがまとまらないのと両方に苦しんでいます。

2011.04.27 00:03

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