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福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.02 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
「ハヤマ信仰」に関する一試論 2)

羽山神社
伊達市山舟生字手水川


1. はじめに

今回は、「山舟生・羽山神社」を巡る第二回目の記事である。

本稿は、「羽山神社」の成立ちを概観することを通して、「ハヤマ信仰」の古層や、その信仰の底流にある「女人禁制」の観念の本質へと近づこうと云う企図の前編であり、次回記事以降の議論への準備をする目的で書かれている。

したがって、今回の記事の段階では、「猫」の話は、一切登場しない。


2. 「羽山神社」小考・前編

羽山神社・拝殿前案内図
羽山神社・拝殿前案内図
「拝殿」前に掲げられた案内図

a) 概観

この地域最大のお社である「羽山神社」は、「戦前」までは旧「山舟生村」の「村社」であっただけでなく、隣接する「白根」「沖舟生」を併せた三箇村の鎮守でもあった。旧「梁川町」最高峰の「羽山」 (458m) そのものが、御神体となるのだから、その信仰の地理的範囲が、その雄大な山容を望める限りの地に広がるのはむしろ当然だったのかも知れない。

ただし、その「羽山」も決して単一の山を指す名称ではなく、連なる山嶺に沿って、「里」に近い順に「出戸羽山」「中羽山」「奧羽山」とに分けられ、信仰されていた。

旧「村社」だったのは、筆者が今回訪問した字「手水川」の「羽山神社」なのだが、このお社は、神聖な山嶺の西麓中腹に近い位置にある「里宮」のようなものとも云える。したがって、この神社の「奥の院」は、「奧羽山」の山頂に祀られていることになる。

出戸羽山・石祠
出戸羽山・石祠
「出戸羽山」山頂の石祠


奧羽山・社殿
奧羽山・社殿
「奧羽山」山頂の「奥の院・社殿」
『福島の山々』より
http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/yanagawahayama/yanagawahayama.htm

筆者は、これら三つの「羽山」の山頂の神様を拝してみたいと願っていたのだが、この日は台風の迫る、断続的に雨の降る空模様であったため、「奥の院」までの登攀は断念せざるを得なかった。本当は、「出戸羽山」山頂の石祠と、「奧羽山」山頂の黒ずくめの「奥の院・社殿」は、みずからの眼で見、みずからのカメラに写真で収めたかったのだが、この計画は雨だけにお流れとなってしまった。したがって、ヴェブサイト『福島の山々』様から、上記二枚の貴重な画像を拝借することになった。この場を借りて、御礼申し上げます。


b) 「羽山神社」の成立ち

さて、「山舟生・羽山神社」には、二つの開創時期が伝えられている。第一は、「奧羽山 おくはやま 」山頂の「奥の院」の祭祀の始めであり、他方は「里宮」としての「羽山神社」そのものの創建である。

「舟生不動堂の猫神」を扱った記事でも、前回の記事でも、「舟生字寺下」の地にある「昌源寺」については触れたが、その寺を開いたと伝えられる「秋葉土佐守」の弟「秋葉備後守」が、「山形県・出羽三山」から祭神を勧請して、元和年間 (c. 1615) に「羽山」山頂に祀ったのが「奥の院」の始まりだと『梁川町史』は云う。しかし、これはどうやら確たる記録のあることではなさそうで、口碑として、そのように伝えられていると云うことのようである。

仮にこの伝えが正確だったとしても、それはここの祭祀が制度化された始まりと云う意味だと思う。おそらく、この地域にも、さらに古い時代からの信仰はあったと思われるのだが、「霊山」落城以降、地域の信仰自体が混沌とした状態のまま投げ出されてしまったものと推測される。筆者は、「出羽・葉山修験」の一派が、「信達地方」に普及の手を伸ばし始めたのは、「霊山落城」以降の、この地域に空いてしまった宗教的な空隙と何らかの関係があるものと考えている。しかし、その後も宗門内の争いなどで、十六世紀の半ばに「葉山修験」はいったん後退した歴史がある。そして、それ以降、地域の権力図の目紛しい再編によって民生の混乱は続いたものと思われる。この混乱がようやく治まるのは、十七世紀初頭、「関ヶ原」以降であった。その時期に、永く続いた混沌に秩序を与える形で、「近世」初期に在地の有力者となった「秋葉氏」によって、祭祀が統一されたか、再開されたのではあるまいか。ただし、この「秋葉氏」について、筆者はただいま詳しい資料を入手出来ていない。

「里宮」についても『梁川町史』は、当時、「奥の院」への道が急坂だったこともあり、参道の登攀は専ら男性によるものとされ、結果的に「女人禁制」の聖地とされていたのだが、寛文元年 (1661) に領主「上杉景勝」によって、子女も参詣可能な現「手水川」の土地が寄進され、現在地に神社が造営されたものと云う。

この「寛文元年」造営の話は、歴史的な人物名も年号も揃い、いかにも古記録に残っていそうな記述なのだが、云うまでもなく、検証を必要とする。「上杉景勝」は確かに慶長三年 (1598) に「蒲生氏」の後を受けて「梁川」地域を所領に加えているのだが、よく知られているように、「関ヶ原の戦い」後には改易されて、「米沢」に移封されているのだから、「梁川」にあったのは慶長五年までのわずかな期間と云うことになる。しかも、「景勝」は、元和九年 (1623) に六十九歳の生涯を閉じているのであるから、死後四十年近く経った寛文年間に神社の造営など出来るはずがないのである。「町史」編纂の段階で何かの間違いがあったか、話自体が不確かな口碑の類いであるかしたのだと思われる。ちなみに、寛文元年当時、「梁川」は「幕府天領」であったはずである。

この「里宮」の造営に関しては、あれこれ地元の人に聞いて廻ると、別の口碑も伝わっているようであった。それによると、歩行困難になった老人が、「出羽山」に似せて神霊を勧請したと伝えられていると云う。地域随一の神社を勧請したのが、「歩行困難になった老人」とだけ伝わるとは、これまた随分抽象性の高い話だが、逆さに振っても、これ以上の内容は伝わっていないそうである。いずれにしても、この老人と云うのが、「上杉景勝」でない限り (笑) 、この言い伝えで「羽山神社」の縁起譚は三つを数えることになる。最初の一つを「奥の院」の伝承として区別すると云うならば、「里宮」で二つめと云えばよかろうか。

現時点では、どの縁起が正確で、どれがそうでないかを確定することは出来ないので、これらの言い伝えを足がかりに、ここの神社の成立ちに関して、合理的な推定を重ねていくことしか、我々には手段は残されていない。そして、結果的にはっきりと推すことが出来るのは、次の二つのことである。

1) 「羽山」には、ある時期、「出羽三山」の信仰が伝わり、現在の「山舟生・羽山」の祭祀の雛形が形成されたらしいこと。

2) 現在の「羽山神社」の社地に関しては、何かしら足弱な参詣者たちのことを考慮して選定されたと云う事情があったらしい、と云うことである。

第一の点に関して云うならば、直接「福島・宮城」の「ハヤマ信仰」の形成に関わったのは、「出羽」の「葉山修験 (羽黒派) 」の一派であろうことは、先学の研究によって、ほぼ確定されている。この修験一派は、その起源こそ古いものの* 、「天文年間」 (1532-1555) に「慈恩寺」が別当を離れてから一時衰微したため、再び一種の教団としての形を整えたのは、「江戸時代」に「新庄藩・戸沢氏」が「葉山大円院」を藩の祈願所などに指定して保護するようになってからだと考えられている。特に「戸沢正誠」の時代に「大円院」の堂宇の大改修が藩主導で行われているが、これが「葉山修験」の隆盛期と考えられている。この時期は、「寛文」から「元禄」にかけての時期に当たり、「寛文期」に「山舟生・羽山神社」が造営されたと云う言い伝えと、時期的には一致する。

* 「葉山」は、「湯殿山」開山より前の古い時代には「出羽三山」の一つに数えられ、「羽黒派修験」の重要な一翼を担っていた。この「羽黒派」は十四世紀末には「陸前北部」にまで進出していたことが、「栗原郡鶯沢」の「白鶯山文書」に見えている (豊田、1962) 。ちなみに、「湯殿山」が三山に加わってからは、「湯殿山」を「奥山」に見立て、その手前にある「葉山」として自らを位置づけ、「葉山の神」は、「葉山薬師権現」と呼ばれた。

第二の点に関して興味深いのは、「上杉景勝」伝承の方にあるように、これが「女人禁制」の解禁と関わる縁起と理解することが出来る点である。しかも、「足弱」の衆人も参拝出来るように配慮したと云うニュアンスは、どちらの伝えにも含まれているのだから、翻って云えば、それまでの「女人禁制」は女性が「足弱」であるための措置だったと説いていることに等しくなる。本当はどうだったのかは置いて、この時期に新たに信仰を再編するに当たって、その主体となった人々によって、前代までの慣習がそのように解釈されたと云うことである。

我が国の各地に見られる「女人禁制」の仕来りは、実はどれ一つ起源や理由のはっきりしたものはないことが知られている。その中でも、一般に最もよく使われる説明と云うのが、おそらく「仏教」の戒律に基づくものと云う解釈と、「神道」の「血穢」の観念からくるものと云う解釈であろう。巷間では、山の神様が女神で、女性に嫉妬して災厄を引き起こすからなどと云うものもある。この他、山岳の登攀は女性には危険だからとか、女性の入山は山岳修行をする修行僧たちの迷いの元になるから、などと云うかなり現実的で、機能的な解釈も古くから唱えられている。「富士登山」のかつての「女人禁制」に関しては、地元の農民たちによって、「天候が荒れるから」と説明されることが多かったようだが (宮崎、2000 / 岡田、2002) 、近年は、この「女性に対する愛欲を、求道心を惑わすものとして禁欲の第一にして、山中では女性との交渉を一切断って、修行者だけの世界をつくり上げ、『女人禁制』が成立した」 (岡田、2002) と云うような解釈が、かなり明確に採り上げられているようである。さらに幾多の説明もなされているが、これだけ解釈があると云うことは、取りも直さず、誰にも明確なことは分からないし、誰も他の諸説の支持者をみな説得するほどの所説を提示し得ていないと云うことの証左であろう。

実際、「仏教」の戒律に「女人禁制」の結界を張って、特定の場所への女性の出入りを禁ずるなどと云う戒律は存在しないのである。それが何故か我が国の「仏教」では「平安期」までに各地で「女人禁制」の聖地が制定されていったと云う歴史があるのは、考えてみれば不思議なことである。「鎌倉時代」に興った新仏教は、概ね前代までの差別的な救済しか約束しない旧仏教派に対して、異議を唱える形でその宗旨を発達させたところがあった。そのため、どの宗祖も、民衆の多くに仏の恵みを与えようと訴え、その中には女性も含んでいることが多かったのである。

中でも「道元禅師」がその『正法眼蔵』の中で、我が国に多々見られる「女人禁制」の結界を指して次のように述べているのは、比較的良く知られていることだろう。

唐国にも、愚痴僧ありて、願志を立するに云く、生々世々ながく女人を見ることなからん。この願、なにの法にかよる。世法によるか、仏法によるか、外道の法によるか、天魔の法によるか。女人なにのとがゝある、男子なにの徳かある。悪人は男子も悪人なるあり、善人は女人も善人あり。聞法をねがひ出離を求むること、かならず男子女人によらず。もし未断惑のときは、男子女人おなじく未断惑なり。断惑証裡のときは、男子女人、簡別さらにあらず。又ながく女人を見じと願せば、衆生無辺誓願土のときも、女人をば捨つべきか。捨てば菩薩にあらず、仏慈悲と云はんや。たゞこれ声聞の酒に酔ふこと深きによりて、酔狂の言語なり。人天これをまことゝ信ずべからず。

 (中略)

日本国にひとつのわらひごとあり。いはゆる或は結界の地と称じ、あるいは大乗の道場と称じて、比丘尼・女人等を来入せしめず。邪風ひさしく伝はれて、人わきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士も考ふることなし。或は権者の所為と称じ、あるいは古先の遺風と号して、更に論ずることなき、笑はば人の腸 はらわた も断じぬべし。権者とはなに者ぞ、賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等覚か妙覚か。又、古きをあらためざるべくは、生死流転をば捨つべからざるか。

道元『正法眼蔵』「礼拝得髄」
寺田透・水野弥穂子/校 (1970) 『道元』上巻、日本思想体系 12、岩波書店、pp. 326-328

また、「法然」の教義の多くの部分が女人救済に当てられていたことはほとんど常識であるし、それ故にその立場から「比叡山」や「延暦寺」の「女人禁制」について批判的な言葉を多数残している。さらには「親鸞」や「日蓮」、そして「奈良仏教」側からは「叡尊」も加わって、このような「女人禁制」の観念に対して批判的であったと云われている。したがって、「女人禁制の結界」に対する「仏教戒律由来説」は、本来、さほどまでに強い根拠にはなりえないのである* 。

* ただし、上記のように記した「道元」さえも、後に「永平寺」を開くに当たって、「女人禁制」の規則を設けている。「日蓮正宗」は、後に「尼僧」制度そのものを廃するまでに女性を修行の場から排するようになったことで知られている。この思想的な転換の理由は、今のところ明らかにされていないが、やはり山岳の修行道場を開くと云うこと関係しているのではないかと、筆者は思っている。したがって、我が国の「女人禁制」の観念の本質を読み解くためには、我が国の山岳信仰の古い層に目を向けて考察を加えていかねばならないように思われる。

しかも、「女人禁制」「女人結界」の風習がかほどまでに強く残る地域と云うのは、世界中を探しても、我が国一国であると云われる。他の「仏教国」でほとんど発生していないものが、「仏教」の影響で我が国だけに勃興すると云うのには、やはり論理的な齟齬がある。筆者にはどうしても、我が国の「女人禁制」は、我が国のものの考え方に由来するものとして一次的に発生し、その後、「仏教」勢力などに影響を及ぼしていったものと思えるのである。

そこで、「ハヤマ信仰」と「女人禁制」の関わりについて見てみることとしよう。当代を代表する民俗学者であった「宮田登」は、次のように述べており、その意見は公平に云って、多くの先学にほぼ共通した見解と云えると思う。

女人禁制の観念は、中世以降の宗教社会に顕著なもので、とりわけ山岳宗教の修験道により強いものである。 (中略) 女人禁制を選択したのは修験道であり、それを各地に流布させたが、受け入れる側の地域社会の住民たちの受け止め方にそれぞれの差があったことは当然だろう。

宮田登 (1982) 「ハヤマ籠り 暮らしのなかの神々」
宮田登 (2006) 『はやり神と民衆宗教』吉川弘文館、p. 35
初出・池田弥三郎ら/監 (1982) 『みちのくの神と祈り』小学館

しかし、「山舟生・羽山神社」に限って云えば、「葉山修験」の伝播を語る伝承年代 (元和年間) から、わずか数十年後にこの「女人禁制」の解除、あるいは女性参加のための「里宮」造営が行われていると云うのは、「修験道」によって「女人禁制」の観念が持ち込まれたと云う、従来定説のように云われてきたことと明らかに矛盾するように感じられるのである。

筆者は、上記引用文の最後の「受け入れる側の地域社会の住民たちの受け止め方にそれぞれの差があったことは当然だろう」と云う部分には疑問を感じる。「豊穣性」を 祈る「農耕儀礼」は、産をなす女性によって象徴されたと云う古来の考え方を前提にすれば、そのような「儀式」から女性を締め出すと云う観念がそんなにも広く受け容れられると云うのは想像出来ない。そして、かほどに重要な問題を、単なる地域の選択性へと還元してしまうことの安易さにも違和感を感じざるを得ない。普通は拒絶されて「当然だろう」とさえ思うからである。「女人禁制」と云う、我々から見ると変梃な観念が、一部にでも受け容れられたと云うこと自体が、それ以前から「女人禁制」の考え方が各地にあったことの傍証にすらなると思っている。
そして、このことは「ハヤマ信仰」の本質に関わる深い問題を提起するものだと、筆者は考えているのである。

したがって、我々が今後しなければならないのは、この「女人禁制」の観念のより深層へと分析のメスを入れていくことである。


この点については、
次項以降、もう少し触れていきたいと思う。


c) 「ハヤマ信仰」と「女人禁制」其の一

「ハヤマ信仰」とのつながりで「女人禁制」が語られる時は、しばしば「福島市松川町金沢字宮ノ前」に鎮座する「黒沼神社」の「羽山籠り」が話題にされる。この神事は、「金沢」の男子が旧暦十一月十六日から三日間 (昔は十二日から七日間だった...) 「籠屋」で隔離生活を送るもので、その間は「イロリ」火を絶やさず、水垢離を取り、二日に渡る精進潔斎の生活が行われるのだが、その場に女性は決して立ち入れないのである。そして、十八日の早朝に「お山がけ」となって、「羽山」の山上にて「羽山の神」から翌年の「金沢」のすべて (主に作柄) について託宣を受けるのである。国指定重要無形民俗文化財にもなっているこの神事で、多くの人が最も奇異に思うことの一つに、この「籠屋」での「女人禁制」の生活の中で、男たちは「バッパァ」「オッカァ」「ヨメ」などの家庭内での女性呼称で互いを呼び合い、役割を分担していると云うことであろう (女装はしない) 。

これに対しては、再び「宮田登」の言葉を引くこととしよう。

ここには男であるけれど女の役割を演じようとする意識が潜在的にあるのだろう。一方では女人禁制をいいながら、女でなくてはつとまらない何かがそこには存在している。女性をいったん忌避した儀礼であるが、男が女性化することによって成立たせているのだといえるであろう。

上掲書、p. 36

従来、「金沢」の「羽山籠り」に関してなされてきた多くの説明もまた、この「宮田氏」の見解に同調するものが多いと云えるだろう。しかし、そうであるにも関わらず、この説明は、どう贔屓目に見ても、何かを云っているようでいて何も云っていない文章だと云わざるを得ないのである。何故「女性をいったん忌避」したのかにも触れず、自ら「女でなくてはつとまらない何か」と云ってしまい、その「何を」の部分を欠いたまま「男が女性化することによって成立たせている」と結んでいるのであるから、これではてんで分からない。もちろん、前後に明確な説明はない。敢えて云えば、一頁ほど後に、「大ヨセの儀」と云う男女の性器をかたどった馳走を食する儀礼に触れた後に、「女人禁制をある時期おしすすめて儀礼化したにしても、女性呼称を使ったり、性器崇拝を用いることによって、この祭りの主要素は依然保たれているわけである」と補ってはいるが、分かり難いことに変わりはないし、これでは祭りの本質を逆転させているように感じられてならない。

おそらく「宮田登」が「女でなくてはつとまらない何か」や「この祭りの主要素」と表現しているものは、女性の豊穣性に基づいた類感呪術としての農耕祭儀と云うことなのだろう。これは「宮田氏」が、「物」や「行い」を重視する民俗学の立場から鑑みて、「ハヤマ信仰」を第一義的に「農耕儀礼」とのみ割り切っていることから来る当然の帰結なのだと思われる。しかし、その結果、何故、「農耕儀礼」の「豊穣性」を象徴する側の性である女性が忌避されたのか、と云う問いに対する明確な説明がなされないまま議論が進められてしまうのである。だからこそ氏は、「大ヨセの儀」について述べるに当たり、「一方で精進潔斎を強調しているのだから、考えようによっては不謹慎かも知れない」と見当はずれなことを云ってしまうのだろう。そして、氏の論調からは、「性的儀礼」は「農耕儀礼」には欠かせないものだから、やむなく行われていると云う響きが感じ取れることになってしまうのである。当然、女性呼称で呼び合うのも、同様だと云うことになってしまう。

「宮田」氏は、「金沢」の「羽山籠り」の他にも、各地の男女役が一組になって行われる祭儀の民俗事例を念頭に入れて、それを次のように解釈しているが、ここでもやはり、氏の結論的な考え方は分かるのだけれど、その拠って立つ根拠と云うか、理論的な筋道のようなものが見えてこない。

各地で男女ペアの司祭者が登場する民俗事例には事欠かないのである。その場合、男が扮装して女性の役をつとめるという事例が多くみられている。これは本来女性が果たした役割については、男性神職中心の祭祀体系となった段階でも無視できなかったことの証拠となっているのである。

宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌』人文書院、pp. 104-105

しかし、筆者は、「性的儀礼」はもちろんのこと、この「男性の女性化儀礼」も、何かの象徴的な代替物としては捉えていない。むしろ、そこにこそ「ハヤマ信仰」の本質が隠されていると考えている。だからこそ、「修験道」の影響で「ハヤマ信仰」に「女人禁制」が持ち込まれたと云う定式にも、この後、敢えて挑戦してゆくことになるのである* 。

* 不思議なのは、実は「ハヤマ信仰」に「修験道」が「女人禁制」の観念を持ち込んだと云う考え方に反対する筆者の見解に対しては、筆者の知る限り最も心強い援護は、「宮田登」の述べる「東北地方」の「山伏神楽」を巡る議論から来るのであるが、この件に関しては、また後ほど触れることとする。


3. 小休止

「女人禁制」は決して後付けで発生した観念ではなく、「黒沼神社」の「羽山籠り」に見られる「女性化儀礼」も、「修験道」の影響が特に強く残った地域で付加されたのではなく、むしろ「修験道」以前の祭儀の在り方が運良く「残存」した形なのではないかと理解している。

そして、「ハヤマ信仰」の本質を追究すると云うことは、「農耕祭儀」と云う観念をいったん清算して、さらに伝統を遡って、「岩崎敏夫」が提唱したように、「ハヤマ信仰」のより基層にある「祖霊信仰」へと問題を掘り下げ、その上で両者の接合がいかに行われたのか (正確には「起きたのか」) を見ていかねばならないのである。

したがって、筆者は、ここで一度、話を「羽山神社」の祭神の来歴へと移し、「ハヤマ信仰」の原初的な精神の復元に一歩でも近づいた上で、再び、「女人禁制」と「男性の女性化儀礼」のメカニズムについて触れることにする。


参考文献

a) 主要文献
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
    梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会
梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻・文化・旧町村沿革 各論篇、梁川町

b) 「ハヤマ信仰」関係
・月光善弘 (1961) 「慈恩寺開創と葉山信仰」
 『東北文化研究室紀要』第三号、東北大学文学部東北文化研究室
・豊田武 (1962) 「東北中世の修験道とその史料」
 東北大学東北文化研究室/編 (1962) 『東北文化研究室紀要』第四集
・岩崎敏夫 (1963) 「葉山氏神の考察」
 岩崎敏夫 (1963) 『本邦小祠の研究』岩崎博士学位論文出版後援会
・小野寺正人 (1977) 「陸前の山岳信仰とはやま信仰」
 月光善弘/編 (1977) 『東北霊山と修験道』山岳宗教史研究叢書 7、名著出版
・宮田登 (1982) 「ハヤマ籠り 暮らしのなかの神々」
 初出・池田弥三郎ら/監 (1982) 『みちのくの神と祈り』探訪神々のふる里 10、小学館
 参照・宮田登 (2006) 『はやり神と民衆宗教』吉川弘文館
・宮田登 (1989) 「祖霊信仰 東アジア世界と先祖観」
 上原昭一ら (1989) 『古墳からテラへ : 仏教が来た頃』図説日本仏教の世界 1、集英社
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう

c) その他
・宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌』人文書院
・宮崎ふみ子 (2000) 「『富士の美と信仰』再考」
 
『環』第二号、藤原書店
・岡田博 (2002) 「初めて富士山に登った女性」
 
酒井直行/編 (2002) 『図説・富士山百科』別冊歴史読本、新人物往来社


参照サイト
・『福島の山 浪漫紀行』http://alco-inf.hp.infoseek.co.jp/
・『福島の山々』http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/index.htm
・『丸森の巨石伝説』http://zuiunzi.net/igu/index.html






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