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福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.02 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
「ハヤマ信仰」に関する一試論 3)

羽山神社
伊達市山舟生字手水川


1. はじめに

今回は、「山舟生・羽山神社」を巡る第三回目の記事である。

本稿は、前回記事で提起された「ハヤマ信仰」における「女人禁制」の観念の本質に迫ろう、と云う議論に至るために、筆者が必要と感じる議論を扱うことになる。その主だった内容は、「羽山神社」の祭神の構成を考察することで、現在「農耕祭儀」と考えられている「ハヤマ信仰」の、より深い基層には「山の神」「陽の神」の信仰が潜んでいることを示し、その両者の根源的な性格が、共に「山に湧く水」と関係するものだと指摘することにある。

この「 (陽に照らされて) 大地から忽然と水が湧く」と云うイメージは、そのまま、「無」から「有」が発生する契機、さらにはあるものが、反対のもの (異なるもの) へと変換されることを象徴するものとして、原初の人々の崇敬を集めたものであり、この「変成」の神秘が両義的に感知されたことから、「ハヤマ信仰」の祭儀の基礎を為す諸観念が派生したものだと理解しようとするものである。そして、最終的には、この「変成」を巡る両義的な認識が、「ハヤマ信仰」に見られる「女人禁制」の観念を生み出すものであると提唱しようと云うのが筆者の目的であるが、このことに関しては、次回記事に譲ることとする。

そして、今回も「猫」は登場しない。




2. 「羽山神社」小考・中編

a) 「羽山神社」の祭神に見る信仰の軌跡

「山舟生・羽山神社」の祭神は、「天照皇大神」「月読命」「大山祇命」の三柱とされるが、おそらくは後付けの神様であろうと筆者は思っている (特に前二者は...) 。大体、皇室の神様が、「大和」から見たらこんな辺境の地の、初めからの「山の神」だと云うこと自体が、不自然なのである。皇祖神系の二柱の神は後に勧請されたか、後付けで設定されたかしたとして、この三柱の神々の中で地主神格なのは、誰が見ても「大山祇命」であろう。この「大山祇命」さえも、後から持ってこられた神だとは思うが、おそらく最も忠実に、土着の「山の神」を表象した神格であることは間違いなかろう。大体、皇祖神の上から、 (皇祖神を含む神話大系では) より格の低い「国つ神」を勧請して被せると云う話は、寡聞にしていまだ聞かない。したがって、皇室神話的な理屈の上でも、この三柱の神々の中では、「大山祇命* 」が一番基層にあらねばならないのである。

* 大山祇命---ここを最後に、以下、「大山祇神」と記す。飽くまでも、記述する上での便宜上の都合、あるいは筆者の好みの問題である。

ここまでは、およそ誰でも見当がつくとしても、問題となるのは、このような三神の設定が、どのような観念の下でなされ、いかなる変化の大まかな流れの中で形を成していったものなのか、と云うことである。

*

仮定 1 : 「陽の神」と「山の神」の系譜

そこで初めの手がかりとして、既に何度か触れている「葉山修験 (羽黒派) 」による影響を鑑みて、「山舟生・羽山神社」の祭神の構成に、「出羽三山」の祭神の構成が影響を及ぼしているものと仮定して、その構成を見直してみることにする。

初めに確認しておくと、「出羽三山」の祭神と云うのは、以下の神々である。

出羽三山の祭神と本地仏
出羽三山祭神本地仏
羽黒権現伊氐波神 いではのかみ
すなわち
稲倉魂命
うかのみたまのみこと
正観世音菩薩
月山権現月読命阿弥陀如来
湯殿山権現大山祇神・大己貴命・少彦名命大日如来

このように概観した場合、「山舟生・羽山神社」の祭神のうち、「月読命」「大山祇命」の二柱の神々は、それぞれ「出羽三山」の「月山」「湯殿山」の祭神とすんなり対応することが見てとれるが、「天照皇大神」のみが、残された主峰である「羽黒山」と対応していないことに気づかされるのである。

もちろん、それぞれの「本地仏」まで考慮すると、「大日如来」が性格としては「天照皇大神」と重なると云えるが、他の神格がみな祭神のレベルでの一致を見せているのに、「天照皇大神」のみが「本地仏」まで引き合いに出さないと説明出来ないのは不思議である。しかも、「出羽三山」の「本地仏」の構成自体に、そもそも不自然な部分がある。「大山祇神・大己貴命・少彦名命」の三柱の神々は、一般的には「大日如来」の垂迹された神格ではないのだから、この構成はどうしても歪だと云わざるを得ない。

通例、「出羽三山」以外では、「大山祇神」の「本地仏」は「大通智勝仏」、「大己貴命」は「千手観音」「阿弥陀如来」「薬師如来」、「少彦名命」は「薬師如来」「虚空蔵菩薩」などとされることが多い。もちろん、「本地垂迹」の関係と云うのは、本来、非常に便宜的な起源に発するものである故、あまり厳密な対応関係を期待するのは無理な側面もあるが、伝統的に大まかな対応関係は設定されていったのもまた事実である。「大日如来」などは、教理上、何にでも顕現しうるのだから、事実上、どんな神にも垂迹出来る訳だが、我が国の信仰文化の中では、「不動明王」「阿弥陀如来」「薬師如来」「天照大神」などが主な垂迹の姿とされているようである。

「真言密教」では「天台密教」ほど「薬師如来」の重要性を大きく見ていない (これは後に見る) 。「出羽三山」の信仰自体は、古くは「真言天台兼学」の精神を貫いていたのだが、「江戸期」に「羽黒山」「月山」が「天台宗」に転じたのを機に、元々「真言」色の強かった「湯殿山」は、「真言宗」固持の道を選んで、他の二山とは袂を分かったのである。このような「真言反動」の中、「湯殿山」の祭神のうち二神が、上記で見たように、通例は「薬師如来」を「本地仏」として奉じているにも関わらず、「湯殿権現」自体は「本地仏」に「薬師如来」と同体と見なされる「大日如来」を選択せねばならない事情が発生したのかも知れない。

また、同時に、もしも「湯殿山権現」の三神のうち、「大山祇神」の重要性が他の二神よりも高かった場合は、それら二神に垂迹した「薬師如来」を奉ずる訳にはいかず、「薬師如来」をも包摂する神格として「大日如来」を設定せざるを得なかった、などと云う事情も考えられうる。この件に関しては、やや憶断ながら、傍証として、「山舟生・羽山神社」の三柱の祭神と、後にもう少しだけ詳しく触れることになる「薬師如来」と「日光月光菩薩」の三尊を対応させるとより明確になると云える。対応関係は、「日光菩薩=天照皇大神」「月光菩薩=月読命」となるであろうから、どうしても「薬師如来」は「大山祇神」と対応せざるを得なくなるのである。

筆者がここで云いたいのは、「薬師如来」が「大山祇神」を表すと云うことではなく、「出羽三山」や「山舟生・羽山神社」の三尊/三神の中では、「大山祇神」が屹立すると云う象徴性が、祭神同士の対応関係に隠されていると云うことなのである。やや穿った見方をすれば、「湯殿山権現」が、その祭神の構成を「大山祇神」に「大己貴命」「少彦名命」を加えた形にしているのは、「医薬神」ともされる後者の二神から、「薬師如来」の垂迹へとつながる橋渡し的な性格を得るためなのではなかったのかとさえ、疑えるのである。

さて、同じ問題の別の側面は、もし「山舟生・羽山」の祭神は、「出羽三山」に倣ったものであると見なし、上の「大日如来」を含めた祭神の一致を受け容れたとしても、それでは「湯殿山権現」からのみ二柱の神を借りたことになってしまい、主峰たる「羽黒権現」と重なる神格がなくなってしまうと云う事態に陥ることになり、そのため、やはりこのズレはおかしいと云うことになってしまうことである。

要するに、「湯殿山権現」の三祭神は、実際には「ハヤマの神」の一般的なイメージを構成する「山の神=大山祇神」と「薬師如来=大己貴命・少彦名命」を表していながら、「本地仏」には「大日如来」を引っ張ってきているのはおかしい、と云うことでもある。そして、そのようなおかしなことをするからには、その裏に、それなりの事情があったのだろうと推測せざるを得ないのである。

このように考えると、「羽山神社」の神は、現在の神名に落ち着く以前に、どこかで「陽の神」を祀る要素があったものと仮定する方が、何故、神格を重複させてまでも、無理矢理に「太陽神」としての「天照皇大神」を持ってこなければいけなかったかが、理解しやすくなる気がしないだろうか。このことは、実際には「湯殿山権現」にさえ云える気がするのであるが、ここではあまり大きな魚には食いつかないようにして、話を進めることする。

*

以上の議論に、新しい争点を付け加えるならば、ここまでは話に登場しておきながら、あまり触れられなかった、「羽黒権現」の問題もある。「出羽三山」の中心を形成する「羽黒山」の神は、一般に「羽黒権現」と呼ばれるが、元は「出羽国」の国魂である「伊氐波神 いではのかみ 」だったようである。しかし、この神は早い時期に「稲倉魂命 うかのみたまのみこと 」と同一であると見なされるようになった経緯がある。この「稲倉魂命」と云うのは、分かりやすく云えば、「農耕神」としての「稲荷神」と同一の神である。

そして、この「稲荷信仰」と云うのは、「修験道」と接近すると、概ね「飯綱信仰」や「秋葉信仰」と同一の性質を顕すことが知られている。特に「羽黒権現」の場合は、三十二代「崇峻天皇」の皇子「蜂子皇子」が、推古天皇元年 (593) に「出羽国由良」に着いたところ、三本足の大烏が飛来して、皇子を「出羽」の霊山へと導いたのが始まりとされている。「羽黒」の名前も、この烏から来ていることを考えると、この烏の導きによって顕現した「伊氐波神/稲倉魂命」が、「烏天狗」の姿で描かれる「飯綱権現」や「秋葉権現」と同体の神であることは、なお一層明白になるのである。

ここまで概観すると、気になるのが、「山舟生・羽山神社」に伝わる、「奥の院」の縁起である。何故なら、もしも、「秋葉山」のお膝元である「遠州」から「梁川」に移ってきた「秋葉土佐守・秋葉備後守」らによって、「奧羽山」山頂に宮が建てられたのであるならば、現在も「山舟生・羽山神社」に隣接して「秋葉神社」があることを併せ鑑みると、当初「秋葉備後守」が祀ったのは、「秋葉権現」だったのではないかとも想像されるからである。それが、後に「葉山修験」によって、「出羽三山」の祭祀が再度持ち込まれると、「秋葉権現」を神社隣りに遷座し、「里宮」の「ハヤマ」として鎮まってもらい、新たに三山形式の信仰を被せたのではないかと筆者は疑っている。

もちろん、これはあるいは逆で、「修験道」の影響が先に入り、その衰微後に、新たに「秋葉信仰」などが被せられ、「大日如来」の要素を反映して「天照皇大神」が祭神に選定された、と云うことも考えられる。しかし、既に見たように、「葉山修験」の盛期が「江戸前期」に来ることを考えると、それが「山舟生・羽山神社」の確立期と重なるため、この可能性はあまり高くないと思っている。その上、「秋葉信仰」が何ゆえ、「大日如来」を「天照皇大神」に置き換えなければならないのかの、必然的な説明もなしえない。

しかし、現時点での祭神や祭祀の在り方、境内社や隣接する祠堂などを見る限り、「秋葉信仰」がここの「羽山神社」の最終的な到着点でないのは明らかであり、なおその上に、少なくともあと一層は、異なる信仰が重ねられたことは疑いえない。

そこで、この辺りの重層的な構成を明確にするためにも、現時点での「山舟生・羽山神社」の祭神の来し方に関する筆者の仮説をここで略述しておくこととしよう。そして、まず始めに結論から述べておくとするならば、筆者は、「葉山修験」の影響の波は、二回に渡って、「山舟生」にやってきたのではないか、と考えているのである。

第一回の波は、「真言・天台」兼学の「瑞宝山・慈恩寺」 (現・山形県寒河江市) を中心として「葉山修験」が「陸前国」まで勢力を張った十六世紀半ばまで続き、この時期に「古ハヤマ信仰」の基層の上に、「出羽三山」の信仰を通して、「修験道 (仏教) 」の「本地仏」を据えた信仰 (薬師三尊) が成立、普及したものと思われる。これについては、また後ほど、簡単に記すこととなる。

しかし、既に触れたように、この「慈恩寺」が「天文年間」 (1532-1555) に「葉山」との関係を絶ったため、以降、「葉山修験」は衰退することとなった。この時期は、「南北朝」の戦乱と「霊山落城」以来、「信達地方」の信仰勢力図が整わないまま各派が混迷を続ける時期とも重なり、それがそのまま「戦国期」の政治的な混乱へと引き継がれることとなった。「秀吉」によって、永くこの地を領した「伊達氏」が「仙台」に移されたこともまた、この地域に与えた影響は大きかったと云える。

そして、この中間期の空隙に、「秋葉信仰」が移入されたものと思われるのである。「近世」に大きく花開いた「秋葉信仰」の成立については、それ自体が議論の多い論題なのだが、筆者はここで「遠江」からの流入を想定しているだけに、「遠州」での「秋葉信仰」の成立を、「羽山」伝来伝承の「元和年間」よりも早いものと確認することは重要である。

この件に関しては、「田村貞雄」氏が「秋葉信仰研究史素描」の中で、「坪井俊三」氏の所説を紹介する形で以下のように述べている。

遠州への秋葉信仰の伝来時期は、武田氏と断交した徳川家康が越後の上杉謙信に密使叶坊を送り、その叶坊が長岡の蔵王堂三尺坊の院主を連れ帰り、秋葉山に住まわせたとされている。坪井氏は徳川氏関係文書を精査してある年代から家康の起請文に秋葉の名が登場することを指摘されている。これは重要な指摘であって、それ以前の遠州には秋葉信仰は存在せず、秋葉信仰の発生を奈良または鎌倉とする縁起や由緒書の後年の附会を立証するものである。

田村貞雄 (1998) 「秋葉信仰研究史素描」  
田村貞雄/監 (1998) 『民衆宗教史叢書 31 秋葉信仰』雄山閣出版、pp. 3-17

上記引用文にある「家康」の「武田氏」との断交と「上杉輝虎 (謙信) 」への使者派遣とは、元亀元年 (1570) 八月に、使僧「秋葉山権現堂・叶坊光播」を遣わしたことを指しているのだが、これは「羽山」伝承の「元和年間」 (1615-1624) よりも半世紀前後は遡る時期である。したがって、「遠州」から「山舟生・羽山」に「秋葉信仰」が伝わることは、時代的には十分に可能だったと云うことになる。

この後、「江戸時代」に入ってから、「葉山修験」の影響の第二の波が押し寄せたものと思われる。時期は、これまた既に見たように、「新庄藩」の保護を得て、「大円院」を中心として「葉山修験」が再度興隆した十七世紀半ば以降と云うことになる。この時期に、「羽山神社」の「社殿」などの整備が進められたようだが、同時に「秋葉神社」が社域の外に移されたのではないだろうか。現在も、まるで地続きに隣接しているにも関わらず、「山舟生」の「秋葉神社」は、「社殿」もなく、まともな参道さえない崖の上にある。その上、鎮座地の「字」まで異なっているのは、「排除」とまではいかないにしても、明確な「種別化」の現れであることは間違いないと思う。

しかし、そうは云っても、「葉山修験」の影響は「信達地方」にあっては限定的だったと思われる。最大の理由は、当然のことながら、「梁川」の地が、「新庄藩領」でも、その隣接地でもなかったことが挙げられよう。そして、「梁川」の地が、数回に渡って、「天領」から「梁川藩」になる政治的変遷を繰り返したことも、その影響を限定する方向に働いたものと思われる。「近世期」は世俗権力が、寺社勢力を完全に統治下に収めるか、あるいは収めようとした時代であるから、「中世」におけるほどの自由が寺社勢力にはなかったのであり、統治権の範囲を越えて、一つの宗派が他の領地へと広がったりするのは、その地の集権的な統治機構に齟齬を来たすが故に、領主側から歓迎されなかったのは明白なのである。

一方で、「梁川」の場合は、統治者の度重なる変遷と長きに渡る「天領」時代もまた、地域の信仰の在り方に直に影響したはずである。地元に密着した強い統治権の不在は、統治者側からの継続的な圧迫をもたらさない代わりに、その統治権と結びついて、手厚い保護を勝ち取ると云うことも不可能にするからである。この地域の信仰が、現地の山がちな地形と云う物理的な要因も作用してか、相対的に自律した土着性をある時期から維持出来たのは、こう云った様々な要素が複合的に絡まりあった情勢によるところが大きいと云えるのではあるまいか。

*

少し、話が長くなり過ぎたかも知れぬ。

筆者は、ここで正確な祭神の推移を推定しようとするのが主目的でなく、現在の「ハヤマ信仰」が重層的に形成された歴史があることと、その基層にあるのが「山の神」及び「陽の神」の信仰であると云うことを蓋然的に示すことが主たる狙いだったのである。したがって、歴史的推移の順番に関しては、前述の通り、大体のイメージがつかめればそれで満足なのである。

ただし、その上で、「山舟生・羽山神社」に「稲倉魂命」が祀られていないことは、一方で、別の重大な事実をも示唆することは付け加えておきたい。ましてや、ここの祭神のうち「天照皇大神」が、「大日如来」を経由して顕現した性格が強いものであるならば、それは宇宙秩序の中心に座す「全知全能」の「太陽神」と云う含意が強調されたもので、「農耕神」としての性格は必ずしも前面には出されていないことになる。これは、祭神からの「稲倉魂命」の欠落とぴったり整合する。

以上のような話の流れに従うと、「天照皇大神」がいつ頃、祭神に加えられたのか、正確には不明ながら、「葉山修験」と直接関係のないところでそのような動きがあったこと自体、「ハヤマ信仰」の底流に、「陽の神」の観念があったことを匂わすものであり、そこには朝夕の最初と最後の光を浴びて輝く山容を拝むと云う「山岳信仰」の原初の姿が潜んでいる可能性を示唆するものである。そして、「大山祇神」に対する信仰もまた、その基層にあることを関連させると、「山の神」が「陽の神」と一種のパラレル関係にあったことの証をなしているのだとも、筆者は考えている。そして、このことは、「農耕祭儀」に先立つ観念が「ハヤマ信仰」にはあったと云う可能性を指し示すが故に、無視出来ぬ重要な意味を持つのである。

実際、「ハヤマ信仰」に関する先駆的な研究を残した「岩崎敏夫」も、「ハヤマ信仰」には、「農耕祭儀」よりも、古い側面があると述べている。氏は、その諸論考を通して、「ハヤマの神」は「農耕神」であるのは間違いないが、その信仰が「修験道」の影響を受ける以前は、山に集う「祖霊」を崇める信仰だったと見ていたようである。

現在のはやまの祭は作祭などとも称し中世以降の修験作法の色彩が強いが、祖霊信仰としての起原はずっと古く、恐らくは縄文時代以前から続いている祖霊信仰であり、弥生時代から稲作信仰の要素が加わったものと私は見ている。

岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう、p. 129

筆者は、上の「縄文時代以前から続いている祖霊信仰」と云う部分に関しては、それが現時点では、あまりに実証的な証拠を提示し難い主張であるが故に、留保せざるを得ないが、その「祖霊信仰」が「農耕祭儀」に先立つと云う主旨には、筆者がそもそも「ハヤマ信仰」を考え始めるに当たって大きく啓発されたところである。

ただし、「山の神」が何故「祖霊」と結びつくかと云う点に関しては、「柳田國男」が『先祖の話』の中で述べている、「祖霊」を「山の神」かつ「田の神」とするやや検証の足りない考え方を、その後も多くの民俗学の徒が継承していることに対して、
一部の論者から疑問視する声も上がっている。

簡略に約すると、『先祖の話』の中で「柳田」は、「無難に一生を經過した人々の行き處は、是よりももつと靜かで清らかな、此の世の常のざわめきから遠ざかり、かつ具體的にあのあたりと、大よそ望み見られるやうな場所でなければならぬ」と述べて、それを故郷近くの山と設定し、その上で、家の存続のためにはその生産の基盤としての田圃の家督を先祖から受け渡される必要があり、それ故に霊魂と化した先祖たちにとっても、一番の関心事は田地に関することだったと断定して、春秋に山と里を去来する「山の神=田の神」と云う説を唱えたのである。

筆者は、「柳田」の云うような形では、「祖霊」が山に登ると云う考えには賛成しないが、現在各地で見られる先祖供養の形を見ると、先祖の魂が山の中に留まる (少なくとも一定期間は) と云う考えに異論はない。ただ、そのことに関して筆者はあまり無理をした複雑な理屈は考えておらず、単に「山」の奧を「異界」に見立てたことから発した、思考上の当然の帰結であろう、と云う程度に気楽に理解している。そして、筆者の視点は常に麓からの視点を前提としているが、水田耕作を前提とはしていない。ただし、ここで筆者の云う「麓」とは、「山頂」に対するそれより下の生活の場、と云う程度の意味合いである。

筆者は、「ハヤマ信仰」は単に「祖霊」が山から「麓」を見守っていると云うだけではなく、本来は、「麓」から山を仰ぎ見る観念から発していると捉えたいのである。そこでは、曙光を浴びて黎明から浮かび上がる山の姿によって視覚的に象徴され、実質的には、生命の源たる水が、その山から発すると云う不可思議に対する畏敬の念として、「山の神」は体験されたのであろう。あるいは、「町田宗鳳」が『山の霊力』で云うように、古くは真っ赤な太陽が、山から昇って山に回帰するのを見て、人々は山を万物を生み出す「原初の生命体」と感じたのかもしれない (町田、2003) 。

「宮田登」は、「祖霊信仰」に関して論じた小文の中で、「山岳信仰」に関して、「山岳信仰の山の神は、山麓に居住する人びとからまず生じており、その神は、雨を降らせ水をもたらすという、生活上必須の存在として崇拝された」 (宮田、1989) と記しているが、これは慧眼である。もちろん、「宮田」はその観念を水田耕作社会を前提として語っているのだろうから、そう云った点で筆者とは微妙に視点が異なっている。しかし、筆者はその考え方を否定するのではなく、単にその観念が農耕定着の以前にも遡りうる心性なのだと云うことを訴えたいだけである。いや、そう考えないと、何故、「農耕神」以前段階の「山の神」が「農耕神」へとスムーズに転移出来たかと云う、視点が欠落してしまうのである。

* 「宮田登」は、この以前段階には、また別の「山の神」があったものと考えているようである。この異なる「山の神」に関しては、次回記事で触れることとする。

そもそも、人が川水と山を崇拝の対象にしたのは農耕定着以降とは限らず、敢えて云えば、生活する上で必須のものだからと云う観念さえ新しいのかも知れない。始め、人は、川の来し方を山に見、その踏み入れぬ森の中から、川が流れ出す様を不思議に思い、神秘の念を抱いたことから、「山と川」に対する崇拝が興ったとは考えられないだろうか。

おそらく、原始の人が川の始源に見たものは、まさに「無」から「有」の湧き起る「変成」の契機だったのである。人々の生きる現実では、ありとあらゆるものが、「有」から「無」へと消滅してゆくのに対し、「無」から「有」へと転ずる源としての山は、太古の人にとっては順逆が転倒する、「異境」として認識されたのだと思う。

やがて、自らが水を欲するように、水あるところに生命があることも認識され、春の雪解けと共に、草木が芽吹き、稔りをもたらすことも知ったのだろう。そのことと、冬の間は山からの湧き水の量が減ることも観察され、「陽」の運行と「水」の運行が関連づけられていったものと推測する。やはり、「陽」があるところに生命が沸き立つからであり、山の雪形に春の「陽」が当たり始めると、水が奔流となって流れ来たるからである。これらすべてが、山を起源としたのである。

そして、この神秘の起源としての「山」と云う観念が、その「異境」性ゆえに、おそらく我らの先祖の抱いた最初の「異界観」の基礎の一つとなったのであり (他方は、おそらく海) 、またそれ故に「この世/あの世」の概念が次第に醸成されていくと、真っ先に「あの世」に当てられたのがこれらの「異界」だったのだと思う。

*

結局、「山舟生・羽山神社」の祭神の構成に、「出羽三山」の神々を被せて考える仮定から出発したことで、その仮定がまるまる合っていたのか、あるいはその変遷の順を特定出来たかと云う点では、いまだ不鮮明なところを残したが、それら祭神のうち、「羽山神社」の旧来の信仰の実質的な側面を現在の祭神の中では「大山祇命」が担っているのだと云うことと、逆にその視覚的で象徴的な側面を「天照皇大神」が担っていたのではないかと云うこと、そしてそのいずれもが、原初的な「山の神=陽の神」信仰としての観念に行き着くと云うこと、などを大雑把に把握することが出来たのは、まずまずの収穫と云えるだろう。

そして、その「山の神=陽の神」の観念を理解することは、そのまま我らの先祖が抱いた最初の「異界」の感覚へとも、われらを導きうると云うこと、そしてそれ故に「山の神」の信仰には、後の世に「祖霊信仰」へと発達する萌芽が内在していたことをも確認出来たのである。


仮定 2 : 「ハヤマの神」と「薬師如来」の垂迹

しかし、上のような考え方とは別に、「山舟生・羽山神社」の三柱の神々の来歴に関しては、やや異なった仮定も立てうるのである。

前回の「鍛冶屋場の薬師如来堂」の記事においても見た通り、「神仏習合」の中で「薬師如来」は「ハヤマの神」として垂迹することが知られているが、そうなればその両脇侍は、「日光・月光菩薩」と云うことになる。この三尊の構成は、そのまま「羽山神社」の三柱の祭神に水平移行しうるものであるのは明らかである。しかし、これには少しばかり説明が必要かも知れない。

簡単に云ってしまえば、「葉山修験」によって「薬師如来」は「ハヤマの神」として垂迹すると云うことは既に見たが、さらには、「密教」では「薬師如来」を「大日如来」とも同体と見なすのである。

もちろん、「薬師如来」の教えと云うのは、『薬師瑠璃光如来本願功徳経 (薬師経) 』 (玄奘訳、AD 650) や『薬師瑠璃光七佛本願功徳経 (七仏薬師経) 』 (義浄訳、AD 707) などの「顕教」系の教典に説かれていることから、「真言宗」ではあまり重視されていない。一応、「真言密教」の『覚禅抄』にも「胎蔵大日如来」と同体と説かれてはいるが、「雑密系・曼荼羅」の「中尊」になることはあっても、「純密系・曼荼羅」ではそのようなことは決してない。

しかし、逆に皇室とのつながりが伝統的に強い「天台宗」では、「東方浄瑠璃世界」の教主である「薬師如来」は、「日出ずる国の天子」である天皇と象徴的に結びつけられため、その基本的な義軌の一つである『阿裟縛抄』において「釈迦如来」や「大日如来」と一体であるとされ、極めて重要視されたのである。

すなわち、「天台密教」において、「薬師如来」は、太陽を象徴する「大日如来」でもあり、そのために太陽神としての皇祖神「天照大神」としても垂迹するのである。このように筋道を追ってくると、「山舟生・羽山」の祭神の中心に、何故「天照皇大神」が勧請されているのかも、ほぼ障碍なく理解されるのである。

しかし、ここで筆者が「ほぼ」と云ったのには、やはり、いまだわずかだが問題が残されているからである。それは、「山舟生・羽山神社」の「社務所」裏の阜に鎮座する「秋葉神社」を巡る問題なのだが、これらの点に関しては、後ほど「秋葉神社」を紹介する記事に譲ることとする。



3. 小休止


今回の記事では、「羽山神社」の祭神の構成を概観するに当たって、二つの便宜的な仮定を設定して、それを通して「羽山神社」の信仰のより底なる層にある、「山の神」「陽の神」の存在を掘り起こすことを第一の目的としていた。

その上で、「山の神=陽の神」の信仰が、山に陽が当たり、その山から水が湧き出ると云うイメージから喚起されたものであること、
そして、それが「無」から「有」の発生する「変成」の契機として、人々の崇敬の対象となったことを見ていきたかったのである。「無」から「有」が生ずる山は、順逆が転倒する「異境」として認識され、やがては「再生」と「死」を互いに浸透させうる両義的な「境界」として、民間の祭儀の中心的な観念装置として機能するようになったのである。

ただし、現在の「羽山神社」の祭儀では、これら原初の観念は随分と薄らぎ、表面的な「農耕祭儀」の特徴ばかりが目立つようになってしまっているのも事実である。そこで、次回の記事では、今回確認した「変成」の契機としての「ハヤマの神」と云う「ハヤマ信仰」の古層が、いかに現在も掲げられている祭神の「大山祇神」の神格に内在しているかを指摘して、ここまで展開してきた議論を再度確認することとしたい。


参考文献

a) 主要文献
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
    梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会
梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻・文化・旧町村沿革 各論篇、梁川町

b) 「ハヤマ信仰」関係
・月光善弘 (1961) 「慈恩寺開創と葉山信仰」
 『東北文化研究室紀要』第三号、東北大学文学部東北文化研究室
・豊田武 (1962) 「東北中世の修験道とその史料」
 東北大学東北文化研究室/編 (1962) 『東北文化研究室紀要』第四集
・岩崎敏夫 (1963) 「葉山氏神の考察」
 岩崎敏夫 (1963) 『本邦小祠の研究』岩崎博士学位論文出版後援会
・大友義助 (1974) 「羽州葉山信仰の考察」
 『日本民俗学』第九十三号、日本民俗学会
・小野寺正人 (1977) 「陸前の山岳信仰とはやま信仰」
 月光善弘/編 (1977) 『東北霊山と修験道』山岳宗教史研究叢書 7、名著出版
・岩崎真幸 (1977) 「会津地方におけるハヤマ信仰」
 上掲書 (月光、1977) 所収
・宮田登 (1982) 「ハヤマ籠り 暮らしのなかの神々」
 初出・池田弥三郎ら/監 (1982) 『みちのくの神と祈り』探訪神々のふる里 10、小学館
 参照・宮田登 (2006) 『はやり神と民衆宗教』吉川弘文館

・宮田登 (1989) 「祖霊信仰 東アジア世界と先祖観」
 上原昭一ら (1989) 『古墳からテラへ : 仏教が来た頃』図説日本仏教の世界 1、集英社
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう

c) 古典
・秋本吉郎/校 (1977) 『風土記』古典文学大系 2、岩波書店
・倉野憲司/校 (1978) 『古事記』古典文学大系 1、岩波書店
・坂本太郎ら/校 (1978) 『日本書紀・上』古典文学大系 67、岩波書店




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