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福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.02 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)


「ハヤマ信仰」に関する一試論 4)

羽山神社
伊達市山舟生字手水川


1. はじめに

前回の記事までの議論で、「ハヤマ信仰」の基層には、「山の神」の信仰があり、 それが後に「陽の神」によって象徴的に表され、現象レベルでは、山から流れ出る川水と云う形で体感された可能性について確認してきた。そして、この原初の 「山の神」の性質を温存した後世の信仰装置が、祭神としての「大山祇神」であることも見てきた。

しかし、これまでのところ、この肝心の「大山祇神」の神的な性格を概観する作業を怠ってきてしまったのは事実である。そのため、この項では以下、簡略にその作業を行ない、これまでの仮定的な議論と、「大山祇神」 の性格が、いかに対応しうるものなのか、確認しておきたい。そして、その後に、その「山の神」としての基本的な性格が「祖霊信仰」及び「猫神」信仰の基層と重なりあうものだと云うことも、確認したいと思っている。

そして、この「変成」の「場」としての「山」を想定した場合、何故、「ハヤマ信仰」には「女人禁制」や「男性女性化儀礼」などが付随するのかを、単なる「修験道」の影響としてのみ語るのではなく、「ハヤマ信仰」のより根源的な観念との関連で説明できるのではないかと考え、試論的に筆者の考えを羅列してみることとした。

今回のシリーズ記事では、これ以上の議論に踏み込まないが、予告的に付け足すならば、今回の議論を通して、筆者の云う「水神」及び「風雷神」としての「猫神」を、新たに「変成」神としての「猫神」として再規定する道筋が見えてきたことは、大きな収穫だったと云える。このことは、「猫神」を「天神」信仰と結びつけようとする筆者の以前からの企図にとって、重要な理論的装置になることは、間違いないと思われるのである。


2. 「羽山神社」小考・後編

a) 「山の神」としての「大山祇神」

「大山祇神」と云えば、「天孫降臨」の際、「瓊々杵尊」に娘の「木花開耶姫」と「磐長姫」とを差し出した話はよく知られ、それ故に「国つ神」側の皇祖神の系統を代表する神格とされている。一般的には、日本全国の山を司る神とされるが、そのことは二人の娘のうち、「木花開耶姫」が「富士山」の神であり、「磐長姫」が「浅間山」の神であるところを見ても明らかである。

ただし、出自的には「伊弉諾神」と「伊弉冉神」の子神とされるのだから、「天つ神」とされてもおかしくないのだが、その神としての性格や、その子孫神の性格を鑑みると、やはり「国つ神」だと判断出来る。ただ、「記紀」その他にも、直接この神が活躍する場面は少なく、概ねその子神たちの活躍が描かれている。したがって、この神の基本的な性格を神話を通して理解しようと云う営為は、あまり稔りのあるものではないかも知れない。

敢えて一点だけ挙げるなら、「伊弉諾神」が「火之迦具土神 ひのかぐつちのかみ 」を斬り殺した時、その死体から「山津見八神* 」と呼ばれる八柱の神々が化生したと云う神話だけは、この神の基本的な性格の理解に対して、わずかな光を当ててくれる。以前、「栃木の猫神」の記事で述べたように、「火之迦具土神」を斬ったときに出た血から生まれたのが、「石折神 いはさくのかみ ・根折神 ねさくのかみ ・ 闇淤加美神
くらおかみのかみ ・闇御津羽神 くらみつはのかみ 」など、八柱の神々であるが、これらの神は、「栃木の猫神」とのつながりを疑われただけでなく、神話レベルで、「水」「風雨」「雷」「開拓」などと密接に関わる神格として認識されているのが分かるのである。「死体」と「血」の対置は、おそらく比喩的にその生まれ出た神々の性格をも規定しているものとも思われる。したがって、「水」「風雨」「雷」「開拓」が生ずる大もとの存在として「山津見八神」を位置づけることが出来るのである。少なくとも何かしらのパラレルはあるものと考えられる。

* 山津見八神---『古事記』に載る「正鹿山津見神 まさかやまつみのかみ ・淤縢山津見神 おどやまつみのかみ ・奥山津見神 おくやまつみのかみ ・闇山津見神 くらやまつみのかみ ・志藝山津見神 しぎやまつみのかみ ・羽山津見神 はやまつみのかみ ・原山津見神 はらやまつみのかみ ・戸山津見神 とやまつみのかみ 」のこと。『日本書紀』では「淤縢・闇・戸」の三神を除く五神となっている。

また、「大日本神祇会長野県支部下伊那部会長」で、「春日神社」の神主でもあった (当時) 「小笠原賢太郎」による『伊那の御祭神』 (山村書院、1943) には、「大山祇命は八柱の山神を統べ、又山を主宰し給ふ神で大山津見命とも記す。御名義、山津見は山津持にて山を持ち司り給ふ意* 。大は多に山の部分を知り分け持つ八柱の山神 (正鹿、淤藤、奥、闇、志芸、羽、原、戸山津見神) の上に坐してこれを統べ、又山の総てを総覧主宰し給ふを讃へたのである。而して通例、山獄の守護神として祀られてゐる」と述べ、上記の「山津見八神」をも統率するとしている。続いて、「又、大山祇神とは天孫降臨以前此の国に土着したる国津神の総称であり、後に大山祇族が山間地に移住したるにより、山地主宰の神と称されたのであるとも云う」とも記しているが、その根拠や典拠は記載されていないのが残念である。

* 山津見は山津持にて山を持ち司り給ふ意---現在は、「大山祇神」の「ツミ」は、「の」を意味する上代の格助詞「つ」と、尊称の「み (御) 」を併せたもので、神名は「大いなる山の御神」と云うほどの意味だとするのが通例となっている印象がある。

しかし、「小林」説も、説明が足りないため、まるで「ミ」を「持ち」の転訛したものだと主張しているように読み取れてしまうが、おそらくその真意は、「古代」の「国見」の行事が「統治する限りの土地を見渡す (そして、言祝ぐ) 」と云うことの比喩として行われていたように、「ミ」を「見」と解し、「大山祇神」の神名も、「山を見渡して言祝ぎ統べる大いなる神」と云う意味で「山を持ち司り給ふ」としたのではないかと思われ、かなりの説得力を有しているのである。

また、「ワタツミ」の「ツミ」は、格助詞「つ」に名詞「うみ」がついた後に約まったものだと考えることも出来る。この場合は、「ヤマツミ」も「山・つ・うみ」と品詞分解でき、言語的には「山の海」と云う意味になり、
「ワタツミ」の「海の海」と対照をなすことになる。ただし、この場合、「山の海」の語義を巡る二次的な議論が必要とされることになる。

筆者は、通例の解釈を否定しないものの、「大山祇神」の神的性格を見たとき、「ツミ」は格助詞「つ」に名詞「み (水) 」がついたもので、「山の水を司る大いなる神」と解する方が良いのではないかとも考えている。

ただし、「ツミ」の「ツ」は、万葉仮名の表記ではみな濁音であった可能性が高いと云う主張もなされており、その場合は、これらすべての所説が否定される可能性もあることは、付記しておかねばなるまい。

一方、『伊予国風土記』逸文には「坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志大神なり」と記されており、この別名の中の「和多」は、「わたつみ」「わたのはら」と云う時と同じく、「海」を表す「わた」の意だと解されている。一説では、「大山祇神」は海神「綿津見命」と同体の神だとも云われる。その上、この神の子神には、「天之狭霧神 あめのさぎりのかみ 」などの「水神」系の神もいることで知られることから、「大山祇神」自身、水源や田の稔りを支配する「水の神・田の神」として、古くから信仰されてきている。

筆者自身の知るところでは、「山舟生」からは少し西に離れるが、同じ「福島県」の「耶麻郡西会津町野沢字大久保」の地に鎮座する「大山祇神社」では、「山を守護する神」は、山の樹木が雨水を涵養するが故に「水源・水利の神」とされ、やがて、その川の流れと共に山を下る「水の神」となり、平地を潤しながら「農耕の神」となり、そのまま海へと流れ出て「海の神」「漁業の神」となるとされている (ついでに山中鉱石資源を象徴する金石の神でもある) 。

現在、最も「ハヤマ信仰」が普及している地域と云うのは、おそらく「宮城南部・福島北部」の地域と思われるが、一方でこの信仰の起源は「出羽国」の「葉山修験」だと云われ、それが少しずつ「太平洋側」へと広まっていったものと考えられていることは、これまでに少しく触れた通りである。そう云った意味では、「会津」地域の「ハヤマ信仰」や「大山祇神」に対する信仰も、根っこの部分では「信達地方」のものと共通する部分を多く有しているものと仮定出来る。そして、その共通する部分の根本的な観念と云うのは、前項で見たように、「無」と「有」の境界域を浸透しつつ往来し、順逆転倒の契機をもたらす象徴的な存在と云う点なのではないだろうか。

そして、この点にこそ、「生」と「死」の「境界」での接触/交感と云う観念に根差す「祖霊信仰」が発生し、後に「農耕祭儀」に取り込まれていくダイナミズムが隠されているのであると筆者は考えている。


b)
「山の神信仰」は「祖霊信仰か?


「ハヤマ信仰」は、「祖霊信仰」と「山の神」信仰が、時代と共に「農耕 (水田耕作) 神」と云う形で習合されてゆき、今ではほぼ同等の性格を保有するに至っている事例と云われている。その結果、その信仰の始まりに、水田耕作と切り離された「山の神」に対する畏敬があったことは見え難くなっているだけでなく、そもそも「祖霊信仰」がどこでこの「山の神」信仰に入ってくるのかがまったく見えなくなってしまっている、と云う事実もある。そして、このことが「祖霊信仰」を「山の神」信仰と結びつけることは、「柳田國男」以来の暗黙の前提視* に過ぎないのではないかと云う批判をも惹起するのである。

もちろん「柳田」も、「山の神」と「田の神」が春秋に往来する「祖霊」神であると云う考えを提唱するに当たって、その理論化を等閑視して、前提として受け容れることを読者に強要しているのではない。「柳田」は、『先祖の話』中の「田の神と山の神」と云う項において、「家の成立には、曾ては土地が唯一の基礎であつた時代がある。田地が家督であり家存續の要件であつた」こと、そしてそのため「田地を家の生存の爲に遺した人の靈は、更にその年々の效果に就て、誰よりも大きな關心をもち、大きな支援を與へようとするものと、解して居た人が多かつたのも自然の推理だつた」と述べ、「御田の、又は農とも作のとも呼ばれて居る家毎のが、或は正月の年のと共に、祭る人々の先祖の靈であつたらうかと、私が想像する理由の一つは茲に在るのである」と結論づけている。

* 「山の神」と「田の神」の春秋交替説は、「柳田國男」よりも以前から唱えられていた。早くは「早川孝太郎」が『農と祭』の中で、「この二つの神は表裏二面の性格をあわせもっていて、春季農耕の開始される季節に、里に降りて田ノ神となり、秋季稲の収穫が終って、刈上げの祭りを境に、山に遷って山ノ神となる」と述べている。「早川」は、この「山ノ神/田ノ神」を穀霊と考えたが、「柳田」は「早川」説を踏襲しつつ、それを「祖霊信仰」と関係づけていったのである。

よくも、ここまで紆余曲折のある理屈に思い至ったものだといつもながら感心する筆者だが、「福田アジオ」は『寺・墓・先祖の民俗学』 (2004) の中で、このような「柳田」の「祖霊信仰」に関する所説に対して、「論証は必ずしも十分ではなく、検討の余地の大きいこと」だと述べている。そして、従来の「ハヤマ信仰」の成果は、「岩崎敏夫」による膨大な基礎研究の上に成立したものであることはまがうことなき事実であるが、それ故に、「柳田学」の徒として、「岩崎」氏の「ハヤマ信仰」論は、「柳田」の「田の神・山の神」と「祖霊信仰」の考えを実証的に明らかにしようと云う企図に基づいていたと云う、その目論見にやや囚われることになってしまっているのは否定出来ない。

「柳田」の云う「山の神」の概念に関しては、民俗学の世界の中からも異論は出されており、「桜井徳太郎」などは、元々特定の霊山を神霊や死霊が留まる聖域であったと考え、このような考えが堅持されていた時代には山上への立ち入りは厳しい禁忌とされたが、その後、「仏教」や「修験道」が入ってくるに従い、死霊への供養のために登拝すると云う風習が生まれたものと見ている。そして、それらの霊魂は本来、極めて畏怖される存在で、定期的に里に降りてくるような性質のものではなく、麓からひたすら遥拝してその加護や鎮魂を祈るものだったと云う。「桜井」の云うこの「山の神」は「柳田」の唱える「山の神」とは、明確に峻別される神観念と云えるのだが、いずれも別の神を示していると云うよりは、同一の神に対する異なる解釈と云えるものであり、その点では「山の神」の観念の背景にある複雑かつ豊かな文脈を読み損なっており、残念である。

実際、上記の「柳田」や「桜井」の議論に対しては、「ともに平野に居住する水田稲作農耕民の立場からのみ考察を加えている (佐々木、2006、p. 24) 」と云う点で、ある種の理論的な限界があると指摘する声が、「照葉樹林文化論」や「焼畑文化論」を提唱する人々から挙げられ、その人々によって、近年、我が国の「山の神」を巡る新たな視点が次々と提示されている。「大林太良」や「エーバハルト」らは、死者の霊魂が村を見下ろす山の上に行くと云う「山上他界観」の文化系統を、「中国西南部」を中心とするいわゆる「照葉樹林帯」における「焼畑農耕」的な文化複合の特徴として捉え直す論考を発表している (大林、1965 / Eberhardt, 1942) 。

「大林」氏の見解は、「エーバハルト」の他に、少なくとももう一人、『山の神』と云う大著をものした「オーストリア」の「N. ナウマン」の影響を少なからず受けているようである。「ナウマン」は、「山の神」に関する膨大な量の文献研究を積み上げ、我が国の「山の神」の観念の裏には、複数の「神」の観念が折り重なって存在しており、それを単一の「祖霊」の観念などに集約させるのは、適当ではないと唱えている。

日本の民俗学者たちが一時期ひときわ強く持ち出してきた祖霊と山の神との以上の関係が、山の神信仰の一つの大切な成分にはちがいないが、数ある成分のうちの一つにすぎないことだ。山中の森のなかに留まっている死霊や祖霊をめぐる思考は、山の神信仰の多くの部分に影響を与えた。しかしそれだからといって、ごく一般論として祖霊=山の神の同一性を論じられるほど徹底して浸透したわけではない。山の神ではない祖霊というのもある。そして本論の詳しい分析が明白に示したように、山の神の本質を、いついかなる所でも祖霊の本質として解釈することはまったく不可能である。

N. ナウマン/著・野村・桧枝/訳 (1994) 『山の神』言叢社、p. 116
N. Nauman (1963-64) 'Yama no Kami ―die japanische Berggottheit', Teil 1-2,
Asian Folklore Studies
, XXII-XXIII


日本各地の各種各様な山の神信仰は、本来唯一の共通な根源から派生しているものではなく、この信仰のなかにはさまざまの異質な要素が包含されていて、それらが長い年月の間に多様な結合体を形成したものと考えられる。また地方によって異なる山の神信仰の現象形態のそれぞれについても、それらが単独に直線的な発展経過を辿って今日の形に到達したものとは考えられない。要するに日本全土に妥当するような統一的な〈山の神〉像は存在せず、そのような普遍的統一的概念は地方によって各種各様の表象を人工的に合成したひとつのフィクションにすぎない。

N. ナウマン (1971) 「田の神と山の神は果して交替するのか」
日本民俗学会 (1971) 『日本民俗学』第七十六号

「ナウマン」は、我が国の「山の神」には、二つの主な系統があるとしている。第一に猟師及び山稼ぎ人の祭る「山の神」と、第二に農耕民の祭る「山の神」の二系統があると指摘している。第一の系統に関しては、「桜井徳太郎」の「山の神」観に接近しつつも、「麓」から遥拝する平地から見た神と云うよりは、山中に活動する人々の臨場的な神として規定しており、第二の系統は、概ね「柳田」以来の「山の神=田の神」観と共通する見解となっている。

要するに、「山の神」は元来、「森と獣の神」であり、後に原始的な「焼畑」によって出来た山中や森の中の耕地を庇護する神格へと発展したのだと、「ナウマン」は云うのである。そして、山中に死者を埋葬する習慣、「死霊」や「祖霊」が山にいるものとする考え、また何よりも年始めや収穫後などの一定の祭日に死者が生者を訪うと云う信仰などが、「焼畑」の耕地をも守護する「山の神」の観念と「祖霊」の観念との混淆を助長し、やがては一年のうち半分は「田の神」になると云う「山の神信仰」を成立させたと云うのである。

同様の見地に立って、「佐々木高明」は、早くもその著作『稲作以前』 (1971) において、次のように述べている。

従来《山民の山ノ神》といわれるものを論ずる場合、多く引き合いに出されてきたのは、狩猟民ないしは狩猟者のまつる山ノ神であり、これと《農民のまつる山の神》を対置して、両者が別種の神であるといわれてきたわけである。正業形態がまったく異なる二つの生活類型に、それぞれ対応する二つのカミ信仰を対比すれば、その間にある種の不連続が認められることは当然であろう。しかし、いまその中間に、《焼畑農耕民の信仰する山の神》をはさんで考えれば、この二つのカミ信仰の間には、ある種の連続がみとめられ、カミ信仰の進化の連続的な過程が、みとめられはしないだろうか。

佐々木高明 (1971) 『稲作以前』日本放送出版協会、p.250

要するに、山民の奉ずる「山の神」と、農民の掲げる「山の神」との間に、「焼畑農耕民の信仰する山の神」を挿入すると、「狩猟民のまつる山の神から焼畑農耕民のまつる山の神をへて、平地農民のまつる山の神=田の神への進化の図式を描き出すことが可能になる」と提唱しているのである。

* このことの実証的な一例として、「南会津地方」の山村の調査をした「湯川洋司」は、その調査の結果を踏まえて「山ノ神はたんなる農神としてではなく、『畑ノ神』として春に下ったと結論するのが適当と思われる」と述べている (湯川洋司『変容する山村 民俗的再考』日本エティタースクール出版部、1991、p. 147) 。

以降、民俗学では長らく同一のものと考えられてきた山と平地の「山の神」は、どうやら起源において別個のものなのではないかと云う見解が少しずつ非民俗学系の研究者たちを中心に浸透していったようであるが、民俗学プロパーでは、「堀田吉雄」 (『山の神信仰の研究』) などの例外を除いて、二つの「山の神」を認めたとしても、なおも、「山民」の「山の神」は、「農耕民」の「山の神」の派生形 (退化形) であるとする見解が強く遺されることとなったように感じられる。

現在、「ナウマン」が緻密な論証を世に問うてから半世紀近くの時が経過して、「山の神」を巡る議論は、ようやく二系統の「山の神」を念頭に入れて考えるべきだと云う風潮が定着しつつあるように思われる (その中で、「ナウマン」の先駆的な業績をいまだ正しく評価しようとしない民俗学界は、相変わらず排外的な体質を曝し続けているのが気になるが...) 。しかし、それでもなお、「祖霊信仰」を巡る議論は、いまなお十分な検討がなされているようには感じられない。この問題は、「山の神=祖霊=田の神」と云う図式が、その連続性の実証が曖昧なまま半ば自明視されてきた過去と相まって、我が国の「山の神」論の将来的な課題として、いかに重要な問題であるかは、「佐々木高明」の次の言葉が端的に表現している。

だが、氏神祭に当たって山宮から里宮へ迎えおろされる神を、その氏の祖霊とみなすことはよく理解できるが、その論理をそのまま山と田との間を去来する山の神に適用し、それも祖霊だとするには、いささか論理の飛躍があるのではなかろうか。

佐々木高明 (2006) 『山の神と日本人』洋泉社、p. 17

筆者は、この壮大な民俗学的企図に身を投じる力がない。ただ、現在遺される「山の神信仰」の様態を見る限り、「祖霊」を巡る信仰がいつの頃か、確実に「山の神信仰」の一部に習合されるか、あるいは両者のつながりが曖昧なまま並行して祀られたことも、一方で明確なのではないかと思う。この事実を踏まえた上で、その理屈に関してはあまり難しく考えず、「山」を「異界」と見なす根本精神から、単純に「魂」の住処として考えられるようになったのが始まりなのではないかと筆者は考えている。すなわち、「祖霊」は確かに「山」にいるものと見なされたと考えているものの、それには以下の条件がつくのである。

1. 「山」概念の捉え方

この場合の「山」は、地理学的な「山岳」に限らず、古い時代の人々が持っていたと思われる「異界」概念として把握しているること。より細かくは、日常的な生活空間とは異なる認知的な空間を形成する領野のすべてを指す象徴後として捉えていると云うことである。したがって、「森」に限らず、海や河川、湖沼、井戸などの「水界」や、その境界としての河原や磯なども含みうる観念として理解していることになる。

2. 「祖霊」と「山 (山の神) 」の関係
「祖霊」は、「山」にいるが、「山」にいる精霊は「祖霊」ばかりではないと云うこと。「動物霊」や「植物霊」「樹木霊」、その他「岩石」などの霊も存在すると考えられること。したがって、筆者は、「山の神信仰」の一部に「祖霊信仰」が関わるとは見なすものの、「祖霊信仰=山の神信仰」とは見なさない、と云うこと。

3. 「山の神信仰」の普遍性に関して
「山の神信仰」の、我が国におけるある程度の普遍性は留保するものの、その構成の細部までが同等の普遍性を有しているとは考えていないこと。言い換えると、「山」とその象徴する世界に対する崇敬の念に発する信仰形態は、広く全国に見られるが、その一つ一つに関しては、その起源や構成要素が全国的に共有されているとは限らず、地方的な差異や変異を、起源からの派生としてではなく、より本質的なものと見なしている、と云うことになる。


c) 「山の神」と「猫」

繰り返すが、筆者は「ハヤマの神」の起源を探っているのではない。ただ、「ハヤマ信仰」における現在の「目に見える」信仰の内容から類推して、「ハヤマの神」は、決して「農耕神」や「祖霊神」と云うだけでは説明出来ない諸特徴を持っていると感じているだけである。そこには、より本源的な自然に対する崇拝としての「山の神信仰」の系譜が見られると、随分以前から思ってきた。

「山の神信仰」に関する筆者の基本的な姿勢は、既に上で述べた。その根源にある精神は、「日常」と対置される「非日常」としての「異界」の意識なのである。時に筆者が「非日常」と云う時、強く意識されているのは、「無」から「有」が生じるイメージから発した、順逆が転倒しうる「変成」の契機を内包した物理的/認知的な空間性なのである。


筆者は、ここまでに、上のような意識のもとで、「異界」としての「山」を形づくる根本的な発想に、「水」の湧出 (河川の発生) や、それに関わるものとしての「太陽」の役割に触れてきた。特に、第四回となった今回の記事の前半では、「羽山神社」の祭神の一柱である「大山祇神」を扱うことで、「山」と「水」の関係を掘り起こそうと試みたのである。

この企図の裏にあるのは、「大山祇神」と云う現在の祭神の神名にさえその痕跡が残っている以上、「水神」としての「山の神」の性格も、「羽山神社」の信仰や祭儀のどこかしらに残存していたとしてもおかしくはない、と云う筆者の考えである。そして、もし仮に「水神」としての「猫」と云う筆者の説を採用するならば、「羽山神社」自身が「水神」の性格を持っていてこそ、「本殿」の真裏の斜面と云う特異な位置に「猫神」だけが祀られていることの十分な根拠を提供し得るのだと考えるに至るのである。

もちろん、筆者の唱える「猫神」論は、その性格を一つ「水神」に限らず、より広汎に「風雷神」なども含みつつ、最終的には「生」と「死」の「境界」に渦巻く「変成力」を象徴したものだと云う点にこそ、その骨子がある。我が国の民話や伝説などの説話に登場する「化け猫」「猫檀家」「火車」などに残滓として現れている「猫」の超常的な「力」と云うのは、本来この原初的な「変成力」の衰微・変形されたものなのであり、そこでは「無」から「有」へと事物が「変成」する根源的な力動の契機として「猫」が象徴的に現れているのだと思われる。

「猫」の怪奇譚と云うのは、このような「猫」の「変成力」に対する、負の側面が偏って表出された事例なのだと筆者は考えている。人は、人間社会と自然のバランスの調整と云う図式の中で、自らの力でプラスの「変成」を引き出すことが可能になればなるほど、その同じ力の負の側面が畏怖されるよりは、忌み嫌われるようになり、それが一人歩きして数々の怪談と云う形で結実したのだと思う。

また、全国の狩猟や伐木を生業とする人々の間で、「猫」が「忌み言葉」となっている地域が多いことは、よく知られるところである。筆者は、いままでこの「禁忌としての猫」に関して書かれた諸文献に目を通しても、何故そのようなタブーが発生したのか、そのタブーの象徴的なメカニズムはどのようなものなのか、と云った根本的な疑問に答えてくれるものは見つけられなかった。筆者とて、これに明快な解答を用意出来ているわけではない。ただし、これも「山と猫」の関連を強く印象づける事例であることに相違はなく、そうであるならば、その禁忌の発生に「変成力としての猫」が関わっているものと睨んでいる。これは、今回記事で大きく扱った山での「女人禁制」の議論ともつながることなのだが、「無」と「有」、あるいは「生」と「死」すら容易に転倒させうる「変成」の契機となる「猫」は、「日常」の生活空間を離れて、「非日常」の空間で生活を立てている人々にとっては、一際畏怖される存在になり得たはずだからである。

しかし、筆者は各地の「山岳信仰」や、あるいはより限定的には「山舟生・羽山神社」の原初の信仰対象が「猫」だ、と主張しているのでもない。ただ、その両者の間に無視し得ない共通点があり、そのために「猫神」碑が、「羽山神社」の「本殿」真裏に設置される発想が整えられたのではないかと推測しているだけである。実際には、「猫碑」が建てられた時には、既に「水神としての猫」や「変成力としての猫」と云う考え方は、意識的な地平では人々の記憶から忘却されていた可能性すらある。ただ、その根本的なイメージの連続性は忘れ去られても、その形骸化した関連性だけは、いまだ伝えられていたからこそ、「山舟生・羽山神社」に限らず、各地の「猫神」遺跡や伝承に、「水神」あるいは「変成の契機」としての「猫」のイメージ的な残滓が、いまなお注意深く観察することで、読み取ることが出来るのではないだろうか。
*

今後の課題としては、筆者の「水神としての猫」論をより精緻化していくことと、その「変成力としての猫」のイメージが、何故一部の地域にのみ偏って顕現するのかと云う、おそらく複合的なものと推測される文化的な諸条件を探っていくことが、真っ先に挙げられる。特に、現象レベルでは、「養蚕」地域では多く「猫神」が生き残ったと云う事蹟が明らかにある以上、何故「蚕」が「猫神」の保存条件として働き得たのかを探ることは大切な作業となることは間違いない。そして、その上で、この「養蚕」でさえも、やはり偏ってしか「猫神」を保存し得なかったことを見ていくことは、「猫神」残存の複合的な諸条件を浮かび上がらせるに当たって、多くの重要な示唆を含んでいるものと考えられる。

とは云え、以上のことはすべて将来的な課題である。現在は、まだ乏しい「猫神」の資料を、必死に収集しては整理している段階でしかない。当然、現時点での理論化の作業は、すべて過渡的なものとならざるを得ない。今回の記事も、当然そのようなものの一つである。


b) 「ハヤマ信仰」と「女人禁制」其の二

前の項の終りを拝見して頂ければ、前項で「羽山神社」の「猫神」を巡る考察は、いったんの集結を迎えたことは理解して頂けたと思う。以下は、本記事の記述の過程で浮かび上がったサブテーマとしての「女人禁制」の話の尻拭いのような形で付加せざるを得なくなってしまった結果、記すものである。

やがて述べていくことになると思うが、平地の神 (実際には観念) が山を登っていき、「山の神」と習合する形で現在の「山の神信仰」の多くは形成されたのではないかと考えられるように、また、「山の神」は平地に下ってきて、平地の「変成」の観念と合わさって、後の「天神」信仰へとつながる系譜に連なったのではないかと、筆者は疑っている。この「天神」信仰も、後に「菅原道真」と云う歴史上の人物を中心に据える「北野天神」の祭祀が全国的に優勢することを通して、その原初的な姿を失っていったと考えられるのだが、「猫神」はまた、ここでもその姿を垣間見せることになるのである。

この原始的な「天神」信仰と「猫神」との関連を見てゆく時に、筆者の中では、潜在的にだが、「女人禁制」のメカニズムが関わってくるのである。もう少し具体的なことはすべて、今後の記事に譲らざるを得ないが、今回、蛇足気味に付け足す「女人禁制」の議論も、そこに「変成の契機」としての「女性」と云うイメージ性を見てとるからこそ、大局的には、筆者の「猫神」論の基礎的な考究に寄与するのである。

しかし、そんなこと云っても、これより先を読んだからと云って、直接、「猫」の話題につながる訳ではない。したがって、「猫」に興味を絞った場合、この先を読む必要はさらさらない、と云うことになる。


女性中心の祭祀及び「産む性」としての女性の霊性を巡る議論

筆者は、前回記事で、「『豊穣性』を 祈る『農耕儀礼』は、産をなす女性によって象徴されたと云う古来の考え方を前提にすれば、そのような『儀式』から女性を締め出すと云う観念がそんなにも広く受け容れられると云うのは想像出来ない」と書いた。しかし、これはある意味、舌足らずな書きようであったかも知れぬ。筆者がここで「古来」と云っているのは、少なくとも「女人禁制」が現在に近い形で成立したと思われる「近世」以前から、と云う意味であった。「羽山神社」の祭神の来歴を比較検討する際にも述べたが、筆者は今回のシリーズ記事の中では通時的な時間軸の設定に関しては厳密な作業を念頭に置いておらず、飽くまでも民俗的な思考の遡及的な考察を重視しているだけである。一般的な意味での歴史性は無視しないように気をつけているつもりだが、厳密な照会の作業は、自らの仮説の全体像が見え始めてから、歴史学や考古学などの成果と照らし合わせつつ、修正・補完していく手続きをとろうと思っている。

そもそも、かつては民俗学の世界を中心に、我が国の祭祀は元来女性たちによって担われていたものであったと云う観念は、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」の記述とも相まって、「柳田国男」以来、ほぼ通説として受け容れられてきたと云える。「柳田」は、その『妹の力』の中で、「宗教的行為の重要部分はかつて婦人の管轄であり、田植え行事においては近世にまで顕著に見られる。女性は生産の力あるものだから大切な生産の行為は女に依頼したのである」と述べている (全集11、p. 254) 。祭祀の基本も、豊穣を祈ることにある以上、おのずとその中心を担うのは女性であったと云うことになろう。このことはまた、古い民俗を残していると考えられる「沖縄」などの「西南諸島」において、「ノロ」などの女性司祭が中心になって祭りを取り仕切る風習が現存する事実とも対応すると考えられるのである。

しかし、かつては定説として誰疑うことがなかったこの前提に対して、近年、女性史の研究の方面から、少なからぬ疑義が挟まれることになっている。「岡田清司」は、「宮廷巫女の実態」 (1982) の中で、次のように述べている。

以前から古代日本において司祭者が〝女性から男性へ〟移行したと説く人が少なくない。その変化の時期は七世紀ごろという人もある。それらの〝常識〟的な意見の多くは、沖縄のノロをはじめ各地の民俗にみられる巫女を古代の遺制ときめこみ、さらに『魏志倭人伝』に見える卑弥呼のイメージと重ねるところから生じた大きな誤解であろう。 (中略) 古代において女性だけが司祭者であったという実証的な裏づけは見あたらない。問題点は、本来、男女の司祭者が共同で行っていた祭祀が、男性 (本土) または女性 (西南諸島) だけになってしまうところにあるといえないであろうか。

参照・岡田清司 (1982) 「宮廷巫女の実態」
女性史総合研究会/編 (1982) 『日本女性史』東京大学出版、p. 74

「岡田」氏は、その論考の中で、祭祀の中心的な役割が、女性司祭から男性へと変化したと云う通説に疑問を投げかけ、古代の神社祭祀は「神がかりの巫女とそれをきいて神意を占う男性」のペアからなっていることを指摘し、そうした「巫女」の機能が官人制度に馴染まぬものであった故に、律令官人制度の成立に伴って、「巫女」はその地位を低下させていくこととなった、と論じている (岡田、1982) *。

* ただし、「岡田」論考は、その立論の段階で『類聚三代格』巻一にある「女を以て禰宜と為す応き事」と題された貞観十年 (868) 六月二十八日付の官符を例証として挙げているが、これが女性祭祀者の優越と云う通説を否定し、男女一組の祭祀者による祭が本来の姿であると云うことを証するものだと云うのは、やや無理がある論理だと筆者は思わざるを得ない。

何故なら、この文書は素直に解すれば、政府が男女一組の祭祀を強く推奨している風潮の中で、それでも各地に男だけ、あるいは女だけの祭祀者によって祭が行われている神社が数多かったことを証しているだけだからである。それは「岡田」説のように解釈することも可能かも知れないだが、あるいはその逆に解することも可能なものなのである。

しかも「岡田」氏自身、天平宝字元年 (749) 十二月、「東大寺大仏」の完成に際して叙位を受けた「宇佐八幡宮」の神職は、女性の禰宜が従四位下、男性神職が外従五位下を授けられていることなども挙げて、「女性神職の地位は予想以上に高く、男性神職と対等もしくはの上位にあるのが一般であった (上掲書、p. 73) 」と述べているのだから、やはり氏の議論は、諸刃の剣のようである。

この「岡田」説や、「脇田晴子」編『母性を問う』 (1985) における議論をふまえて (主に脇田晴子「母性尊重思想と罪業観」・加藤美重子「『女 ムスメ 』の座から女房座へ」の二論文か) 、「美江朋子」は、その「玉依ヒメ再考―『妹の力』批判」 (1989) の中で、以下のように記している。

近年の女性史研究の成果によれば、〝産む性〟の強調は決して本来的・普遍的なものではなく、貴族社会では九世紀ごろから、在地の村落レベルでは十四世紀ごろから、社会的場からの排除に明確に対応して女性は母としてのみ尊重されるようになっていくことが、具体的に明らかにされている。

美江朋子「玉依ヒメ再考―『妹の力』批判」
大隅和雄・西口順子/編 (1989) 『巫と女神』シリーズ女性と仏教 4、平凡社、p. 83

筆者は、正直に云うと、「柳田」説であろうと、そうでなかろうと、現時点ではさほど重要視していない。いま、筆者にとって大切なのは、「山舟生・羽山神社」と関連して、「阿武隈地方」の「ハヤマ信仰」が、ほぼ現在の形になったときから見て、それ以前、男女の祭祀への参画がどのように理解されていたかを、現在から遡って類推することなのである。その際、当然のことながら、諸先学の説を参考にして考察することになるのは云うまでもないことだが、時間軸の設定に関してだけは、それが「古代」以来のものなのか、あるいは「中世」からのものなのかは、問題とはしていない。

とにかく、「山舟生・羽山神社」に関しては、「近世」初期にその祭祀が成立する段階で、「女人禁制」の前提を緩めたらしい、と云う伝承があることに注目して、周囲のその他の「ハヤマ祭祀」における「女人禁制」の要素、特に「黒沼神社」の「羽山籠り」の神事と比較しつつ、その根源的な精神を炙り出していこうとするものである。

ただ、もしも筆者の乱暴な私見を述べよ、と云うのならば、現在のところ、「女性中心」の祭祀の歴史は、通時的にも共時的にも、全国規模に不偏的であったとは思わないものの、少なくとも「中世」よりも古い段階にまで遡れるのではないかと考えている。

はっきりした根拠はないが、「女性中心祭祀」を示唆する多くの民俗的な事例や文献も存在することは、筆者には無視してよいほど些末なことには思えないのである。特に文化的な事象を、ひとつひとつバラバラに観察するのではなく、ある種の複合として見ようと云う立場に立つとき、ある地域内の文化的な営為のうち、慣例上も保守性が高く、時代的な耐性も高いと考えられる信仰・宗教的な行為は、果たしてその祭祀者と云う重要な問題に関して過去との連続性をさまでに失って受け継がれるものかどうかと云う点には疑問を感じざるを得ない。「南西諸島」の「女性中心祭祀」に関して云えば、この地域は全体として比較言語学的な観点に立って概観したときも、古い日本語の形態を残存させている地域と目されており、その地域の信仰形態が古態を残している蓋然性は低くないとも云える。

『魏志倭人伝』の記述にしても、全面的に信じることも、またその記述から我が国全土の文化風習へと単純に一般化することは出来ないにしても、一方でそこに描かれた「卑弥呼」像がまったくの創作とも考えられない以上、「妹の力」的なシャーマニズムの形態が我が国の古い文化層に存在したと云う事実は認めてしかるべきだと思う。ただし、「倭人伝」の記述は周知の如く、極めて簡略なものであるから、その記述からあまり多くの類推をするのは危険だと云うのは間違いなかろう。

また、『古事記』にせよ『日本書紀』にせよ『万葉集』 にせよ、「唐風文化」の輸入が盛んに行われた「奈良時代」に成立した記録類を最古のものとする我が国の文献研究では、公的な文書を扱えば扱うほど、どうしても「中国」の思想的な影響を脱し切ることは出来ないのではないかと云う疑いも筆者は抱いている。「江戸期」の国学者たちが思い願ったほど、「記紀」や『万葉集』は、漢文文化と隔絶はされていないのは、現在の国語学の常識とさえ云えるのではないだろうか。「大和朝廷」の政治的な行事の多くも、「隋唐」の官制の影響を受けていることは間違いなく、「岡田」「美江」両氏の議論をより確実にするには、今後、宮廷の宗教的な行事における我が国の文化的な自律の度合いを丁寧に検証する作業が必要になるであろう。

そして、この点に関して付加えるならば、「美江」氏自身、「産む性」としての女性の強調は、宮廷の公的なレベルでは九世紀頃に起きたものの、在地の村落レベルでは十四世紀頃まで待たねばならなかったことを記しているのだから、その間、約五百年のズレがあるとして、仮に祭祀者の性別に関する約束事が変位したとして、これまた中央の「神祇官」やその周辺の寺社のレベルと、地方の祭祀レベルとの間には相応の時間差があって変化が進行したと考えても、あながち短慮総計とは云えないことにならないだろうか。この点を再考して、過去から現在に向かっての中央/地方での変遷の流れを見ると同時に、逆に現在から過去に遡って検証する作業が今後、必要とされるだろう。

*

ここまでのことを簡単に要すると、「女性中心祭祀」を全面的に否定する論考の反証も、いまだかなり限定的であること、それを示すのに公的文献に頼らざるを得ないこと (したがって、国家的制度の枠内での認識が前提として存在すること) 、さらには解釈に両義的な可能性を残す文献などを根拠にしていることなどの諸点を踏まえると、筆者が「女性中心祭祀」否定論に全面的に与しないのも、おのずから理解していただけるのではなかろうか。 

むしろ、「岡田清司」「美江朋子」両氏の議論は、「柳田」以来の「女性中心祭祀」の仮説に、明白な歴史性が欠けていたことを指摘すると云う意味では非常に意義深いものではある。したがって、もしもより限定的な通時軸に沿って「女性の公的祭祀からの追放」を論ずるならば、「女性史」論におけるその議論の意義も価値も、十分に維持されるどころか、より確実性や蓋然性が増すものだと思われる。

しかし、両氏の仮説には残念ながら大きな欠陥が、少なくとも二つある。一つは、「柳田」説の系統にも同様に云えることなので、欠陥と云うよりは、単に古い民俗を調べるときの時間的な必然とも云えるのだが、 (既に述べた通り) とにかく文献的な資料が乏しいと云う欠点である。「岡田」氏も、この点に関しては、次のように述べて、史料の不足を嘆いている。

古代国家における宮廷や神社の制度的な女性司祭者の実態となると、資料が乏しいこともあって解明されておらず、これまでの見解は女性による祭祀の断片的史料と民俗事例によるところが少なくない。

参照・岡田清司 (1982) 「宮廷巫女の実態」
女性史総合研究会/編 (1982) 『日本女性史』東京大学出版、pp. 43-44

この史料の少なさと云う点に関しては、「岡田」氏は、自身宣言されているように「宮廷内祭祀」に焦点を絞って当時の記録・文献から考察を加えているし、「美江」氏も、特に記録に残された「玉依ヒメ」系統の文献に的を絞って丁寧な議論を展開しているではないか、と云われる向きもあるかも知れない。しかし、このことはそのまま、筆者のこれから云う第二の欠陥に当てはまってしまうのである。

つまり、その二つ目の欠陥と云うのは、上の史料的な不足を慨嘆しつつ、「岡田」氏が、「史料も比較的多くみられ」ると云う制度的な史料に偏って、「天皇の身近なところでくりかえされる宮廷の奧の祭の司祭者であり、国家の祭祀の中心にあった乙女たち―神祇官の巫女たち」を専ら採り上げ、その結果、現在に伝わる民俗的な事例や、断片的に残される史料から窺える「女性中心祭祀」の観念を否定し去っている姿勢に端的に表れている。今後の研究の進展によっては、それが魅力的かつ啓発的な所説であるだけに「岡田」説や「美江」説のような視点が正しいと云うことになる可能性は十分に想像しうる。筆者の云いたいのは、ただ、現時点ではまだ十分な検証がなされていないと云うことなのである。

しかし、筆者が最も重視するのは、これら二つのことではなく、「女性中心祭祀」仮説を否定したとき生まれる理論面での問題なのである。このあと、いくらか丁寧に見ることにするが、我が国古来の信仰の根本精神と「女人禁制」の観念の根幹に関わると目される「ケガレ」の変遷の問題を考えるとき、「女性中心祭祀」の立場に立たなければ、「女のケガレ」と云う複雑な問題が、結果的には、「平安期」から「中世」にかけ、多分に「中国」の儒教的な影響の下、我が国の官人制度が成立する過程において、上から下へと制度的に課された実体的な権力構造と結びついた観念として、過度に単純化されてしまうことに疑問を感じるのである。そもそも、歴史性の重視は、気をつけないとどうしても単一の通時的な時間軸を強調するあまり、文化事象の成立や変位を、直線的なものとして捉え過ぎてしまう弊害が起きることも多いのである。筆者は女性の祭祀者の問題は、常に「女のケガレ」の問題と絡み合った文脈でこそ把握しなければ、両者のダイナミックな関係を無視して、最終的にはそこに潜む後世の差別の構造的な契機さえも見落としてしまうことになると考えている。もしここで「女性中心祭祀」仮説の後ろに潜む「女性のケガレ」と云う観念の原初的な形としての「女性の霊性」と云う考え方をなくしてしまうと、その他の根本的な「ケガレ」と、それらを巡るタブーや信仰に共通する「境界性」の問題も等閑視されてしまう、と云うのが筆者の最大の心配点なのである。

以下、筆者のその不安を喚起する理論的な道筋を、「ハヤマ信仰」の「女人禁制」の習俗を参考にしつつ、明らかにしていければ幸いであると思っている。


「日常性」と「非日常性」の「境界域」を巡る議論

このシリーズの中で、筆者は、順逆が転倒しうる「無」と「有」の「境界域」を行き来するものとして「羽山神社」の祭儀の象徴性について何度か述べてきたが、これ以上話を進める前に断っておかねばならないのは、筆者がこのように「無」あるいは「有」と述べる場合、大まかにイメージしているのは、両者が相互に転倒しうるダイナミックな構図なのであって、両者はその「境界域」にあって互いに浸潤しあう関係にあり、決して双方が固定的に隔絶された図式のものではないと云うことである。そこでは当然、「無」は「有」によって支えられ、「有」もまた「無」によって支えられているのである。

このことは、「無」と「有」に、仮に「生」と「死」を当てはめて考えると、ややはっきりする。すなわち、「生」が生まれ出づる元も、「死」が訪れ、「生」が消え行く先も、共に「生」と対極をなす観念的な領域である、と云うことなのである。現代を生きる我らは、一般にこの後者にのみ「死」と云う名前を与えて、忌避しつつも、ある意味慣れ親しんでいるが、前者に関しては概ね無頓着に暮らしている。

「柳田国男」は、自らが整理提唱した「ハレ (晴) 」と「ケ (褻) 」の概念を巡って、「明治」以降の庶民生活の変化について、「褻と晴の混乱、すなわちまれに出現するところの昂奮というものの意義を、だんだんに軽く見るようになった」と、
その『明治大正史・世相篇』において述べている (1993、p. 23) 。かつての日本人が、はたして意識の上でこの「ハレ」と「ケ」の区別を深く理解していたかは疑わしいが、長い間の慣習や儀礼などを通して、少なくとも「近代」以降よりは厳格に二つの領域を分けていたと云うのは、おそらく間違いなかろう。

上に挙げた「生死」の両極での対照性について云うならば、一つ、それにまつわる「ケガレ」に関して、「前近代」の日本にあっては、「死穢」だけでなく、「産穢」もまた同様に重視されていたことを見れば、現代人の「あの世」観とは、根本的に変わっていたことが理解されるだろう。このことは、昔の人々が、筆者の云う両義的なものとして「無」と「有」の「境界域」を認識していたことの証ともになるし、またそのような両義性を前提とせずには、どのみちこのような互換的転倒を理解することは出来ないのである。

筆者は、ここまでの議論で、「山の神」としての「ハヤマ神」を語るに当たって、山から水が湧き、川となって平地の生命を潤すと云うイメージ性を説き起こしつつ、「無」から「有」の発生の象徴性の話をしてきた。しかし、ここからは、「女人禁制」の絡みから、「女のケガレ」について見ていくために、この「無」と「有」の浸潤しあう「境界域」のモチーフを、女性の「ケガレ」の大元と考えられてきた「お産」や「月経」の「ケガレ」、そしてさらにその起源たる「血穢」についての議論を、少しばかり試みてみたい。

*

今まで、「お産」及び「月経」を巡る「ケガレ」は、民俗学一般では「赤不浄」などと呼ばれ、その説明は、主に「血穢」からなされてきた。そのような説明と云うのは、神々が「血」を「ケガレ」と見なして嫌うため、お産に伴う出血や経血などを「不浄」と見なして、聖域からは忌避した、と云うのがほとんどであった。しかし、筆者はこの説明に関して、以前からどうしても気になる点がある。それはこの説明の根幹をなす「血のケガレ」に対する説明が何もなされていないことなのである。「血は、なぜ穢れているのか? 」と云う問いに対する答えがどうにも不明瞭なのである。

「血」は、「死」を連想させ、「死」には「死穢」があるから、などと云う説明は受け入れがたい。何故なら、いくら昔の人は家で死を迎え、そのため人々は死を間近に見慣れていたとは云え、はたしてどれほどの人が血に塗れて死んだと云うのだろうか? そう云った意味では、「生」すなわち「誕生」の方が、遥かに前提として血塗みれだとは云える。

それに、民俗学などに詳しいものなら誰でも知っていると思われるが、「死穢」を巡っては、喪家での「別火」の問題もあり、単純に「死」のみが他の「ケガレ」の感染源として働くわけではないことが知られている。これは、「古代」の自死や処刑が、基本的には血の出ない形に拘って行われた事実と考え合わせると、興味深い *。何しろ、その観念の裏には、「死」そのものよりも、「血」の方が遥かに「忌み」の対象として強く意識されているからなのである。そして、これは「死」を連想させるから、「血」は「ケガレ」を発生すると云う通説に対して、ある種のアンチテーゼを提示してしまうのである。少なくとも、理屈の流れは逆に見えてしまう。

* 古代における処刑法が縊死を中心としていたことはよく知られている。自殺に関しては、「池田弥三郎」が『性の民俗誌』の中で、「古代人の自殺は、決して血を出さない。だから首をくくるか、水にはいるかであって、自分にやいばをあてて、血を出して死ぬ方法は、都の文明以外のものが入りこんできてからである」と述べている (池田、2003、pp. 213-214) ことを参照した。

以上のようなことから、筆者は基本的に「血穢」が専ら「死穢」からの連想で発生したものと云う考えには賛同しないのだが、ここではしばし、「血穢」が「死穢」と結びついて発生したものと云う仮定に沿って、その起源的な発想に迫る試みを続けてみよう。

そこで、「死穢」から発した「血穢」は、老衰や普通の病死などの出血を伴わない死ではなく、事故や争いなどで人が死んだときを特に忌避したのが、元々の形だったのではないか、と云う主張も出来るだろう。この場合、「死」と「血」は不可分の関係で結ばれるからである。しかも、この場合、人の死が「正しくない死」として規定出来ることから、「祭り」を「非日常」的な存在を正しく迎え、正しく送る儀礼の体系と見なす筆者としても、一応は、納得のいく説明となっているのである。しかし、それでも、このような解釈をする限り、いつ頃から「正しい死」、すなわち「老衰」などまでが「正しくない死」として、「ケガレ」の発生源として考えられるようになったのかを説明しなくてはならなくなるのと同時に、では「正しい死」とは何かと云う問いに新たに答えなければならなくなるのである。前者は、歴史的な仮説を立てることは可能でも、後者は、すべての「死」が忌避されていた以上、答えるのが不可能な設問になってしまう。したがって、このような考え方には、今のところ賛同は出来ない。

さらにより説得力を持って云えることは、農耕に先立つ時代に、獲物を狩り、解体することを通して、人は「死」と「血」を結びつけて忌避するようになった、と云うことである。筆者もいまのところ、原始の人が抱いた「血」に対するおそれは、その人々の狩猟体験から来ているのではないかと思っている。ただし、思うことは少し違う。

獲物を仕留めたり、捌いたりするとき、流血は避けられない。この時、血が流れ出すと獲物は死に始め、やがて血が出なくなる頃には完全に事切れているのを観察した人々が、「『血』が抜けると生き物が死ぬ」と云う経過のみを見て、「血」こそ生命の本体、すなわち「魂」だと思ったとしても何ら不思議はない。「西洋科学」がこれだけ普及した現代にあっても、死後の人の体重が軽くなっていることを以て「魂」の存在を確信する人々がいることを考えあわせると、これは十分にありうる話なのである。

けれども、この場合でも、何故、獲物を狩り殺す時の流血と、お産に伴う血、あるいは経血を同等視するに至ったのかの筋道が示されないと、十分な説明とはなり得ない。

「血」の「ケガレ」と云うのは、そうすると、一体どこから生じた観念なのだろうか? 少なくとも「血」が生命の源の一つであることは、死体からは血が出ず、生きた肉体から血が滲み出していくと死に至ると云う単純な自然観察から、我らの先祖もその因果関係を理解していたと思うのは直前に見た通りである。もちろん、生命の源と云っても、人が最も一般的に「血」を体験するのは怪我などを通してだから、昔の人が現代人同様、「血」に対してあまり良いイメージを持っていなかったとしても、それ自体は不思議ではない。しかし、だからと云って、「糞尿」などと同じレベルで「血」を「不浄」と捉えたと云う考え方にはどうしても違和感を覚える。もっとも、このすぐ後に見ることだが、「糞尿」を明白に「不浄」と見なすようになったことさえ、文献研究上は、「江戸中期」以降のことらしいから、「血穢」の起こりについて考察するときに、「糞尿」を持ち出すのはどうやら論外のようではである。

しかし、上記の違和感に関しては同様のことを、「宮田登」は次のように表している。

ケガレは「不浄」或いは「賤」と認識する以前に「褻枯れ」を意味していた。そして二義的段階で「猥」「穢わら (ママ) しい」といった漢字を用いて説明した。「穢」という字を用いる以前に、民間で使われている日常用語の中に〈ケガレ〉があり、漢字の「穢」を使う。そこで「汚穢」の意味とは違ったものが別にあるのではないかということが、近年、主張されるようになった。

宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌』人文書院、pp. 25-26

また、言語学者の「楳垣実」は、我が国の「忌み言葉」の分析を通して、「忌み」の起源は「生命への怖れ」である「死」から始まったものと見なすため、「血の忌み」は「血」が怪我や死と結びつく故に忌まれると云う。したがって、「血の忌み」から派生した「産の忌み」と大元の「死の忌み」と云う、「生」と「死」に関わる二つの「不浄」観は、本来、共通の思考から生まれたものであることを論じている。

そして、氏は、「不浄」と云う観念については、現代的な意味での「汚い」と云う感覚と、本来的な意味での「ケガレ」の感覚と云う、二つの別々の要素が合わさって発生したものだと指摘している。その一例として、便所を「ご不浄」と云うのは、「江戸中期」以降の婦人語から起きた習わしだが、これは排泄物を「汚い」と思っている感覚を表すだけで、「ケガレ」と見なすものではなかったと述べている (楳垣、1973、p.53) 。「血穢」に関しては、「経血」を含めて、これが「汚れ」として認識されるようになったのは、むしろ「戦後」のことだと云う指摘が多くの研究者からなされている。

したがって、もしも本来的な意味での「ケガレ」と、後の時代に発生した「汚れ」の概念が異なるものならば、「死穢」を考える時でさえ、その「ケガレ」の感覚は、我ら現代人が死体に対して抱くグロテスクなものとして嫌がる感覚とは、本源的には無縁なもののはずなのである。ましてや「血穢」に至ってはなお一層そのように云えるだろうし、かつて存在した「火穢」などは論外とも云えるだろう。しかし、そうなると、これらのより本源的だと思われる「ケガレ」の感覚と云うのは、一体いかなるものだったのだろうか。

かつて、日本中世史家の「山本幸司」は、「貴族社会における穢と秩序」と云う論考の中で、「ケガレ」とは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる畏れや不安の感覚と結びついている、と云うような内容のことを述べた (山本、1986) 。「網野善彦」は、「山本」氏のこの説明を受けて、いくつかの事例を、次のように簡潔に説明している。

人の死は欠損で、死穢が生じますし、人の誕生は逆にまた、それまでの均衡を崩すことになり、産穢が発生する。人間にとってどうにもならない力をもった火によっておこる火事は、社会のある部分の消滅によって焼亡穢を生み出します。

網野善彦 (1991) 『日本の歴史をよみなおす』筑摩書房、p. 90

「ケガレ」は、人間と自然の間に生じた「不均衡」に由来すると云う「山本」氏の考えは、並々ならぬ達見だと思う。ただ、敢えて補足するならば、ここまで述べているなら、「欠損」によるバランスの崩れだけでなく、「過剰」による均衡の崩壊にも言及していてもよさそうには思った。つまり、「網野」氏の説明の中で云うならば、「火」は、「社会のある部分の消滅」を通して「ケガレ」を発生させるのではなく、「火」自体が、生活に不可欠なものでありながら、それの過剰方向へのバランスの崩れが、「火事」と云う形で表出された、と云うような捉え方のことを筆者は云っているのである。

しかし、「火」は自身「変成」そのもののような存在であり、それ故に、そのバランスの調整は重要な課題となるのは分かりやすいが、「女人禁制」に最も直接的に関わる「産穢」については、どうだろうか。「網野善彦」が云うように、誕生はそれまでの社会構成の均衡を崩すことになり、そう云う意味では社会的な不安の要素にもなりうるのは明白である。特に食料生産力の低い地域などではその傾向が強かろうことは、飢饉のときに限らず、一部地方でかつては慢性的に行われていた「間引き」の風習などを見ても明らかである。

一方で、我が国では伝統的に「慶事」と云えば、結婚や出産を指すことが多く、「子宝」と云う言葉にも現れているように、人口の増加は一般的に歓迎される文化風習をもっているのも事実である。「憑き物」研究では、共同体内での富や幸せの分配の均衡が崩れることによって、構成員の間での負の感情 ―主に嫉妬など― が渦巻いて、「憑き」「呪詛」「祟り」などの観念が立ち現れると云われるが、その嫉妬などの対象に最もなりやすいのが、お金や健康、子宝だったと云う。

云うまでもないことだが、今日までに民俗学に関わる先学たちが研究し尽くしてきた多岐に渡る「ケガレ」現象のそれぞれについて詳細な考察を加える力量は筆者にはまるでないのだが、それでもなお、単にある共同体内での構成を問題として、そのバランスを崩すものが「ケガレ」と認識されると云う理論では、こう云った「産穢」「血穢」「火穢」などの特異な状況を説明するのには、いまだ不十分な気がしてならないのである。

筆者とて、「均衡」は非常に重要なキーワードだとは考えているのだが、その「均衡」を崩すと云う観念の中心的な発想が、具体的な対象に絞られている間は、どうも「ケガレ」の説明の据わりが良くないように思われるのである。「産穢」も「火穢」も、お産の血や、火事そのものや焼け跡が「ケガレ」なのではなく、それらが、例えば「誕生」や「火」と云う「非日常」的な力の過剰な高まりの痕跡を残すが故に、それを正しい形で処分しないと、その場が両義的な閾として残留し、マイナス方向にも大きな「霊力」を発揮する可能性を保持し続けてしまうと考えた為に、人々はそれを不安にも思い、畏れをも感じたのではあるまいか。そして、正しい形の処分と云うのが、やがて儀礼として表象されて、「祓い」や「清め」などの手続きになったのではなかろうか。

そもそも、「平安時代」の貴族たちにとって、「ケガレ」と云うものが伝染するものだったことは、よく知られていよう。この場合、「ケガレ」は、その発生源に直接的に「触れた」ことによって姿を現し、これは「甲穢」と呼ばれた。ここからは、伝染する度に「乙穢」「丙穢」「丁穢」と段階を追って変化するのだが、危険視されていたのは「丙穢」までであって、「丁穢」からは日常生活に支障のないものと見なされていた。これは取りも直さず、「ケガレ」が薄まり、風化することを意味し、「ケガレ」が抽象的な観念であるにも関わらず、まるで物理的な存在であるかのように認識されていたことを表している。だからこそ、一般的に「ケガレ」と云うのは物理的な存在であるか、あるいはその付随物であるかのような理解がされやすいのだと思う。

しかし、丁寧にこの現象を観察すると、「ケガレ」の大元は、決して物理的な存在ではないのである。それは、根源的な「変成力」の過剰が発生した「磁場」のようなものなのである。この「非日常性」の「場」自体も、「日常」の世界に口を開いている以上、やがて「日常」側の漏洩/侵犯を受けて中和されるのだが、その中和されるまでの期間、過剰な「非日常力」を発散しつづけるのである。これは接近すると「日常」側の存在を「非日常性」で染めるのであって、当初はこれが大きいため、これを浴びると (つかれると) 我々の「日常」の活力を奪われ、様々な危険に曝されるため忌避されるのだが、それもまた刻々と中和されている為、時間の経過と共に、そして接触の度に、その「非日常力」を低減させ、最後には無害なほど小さくなるのである。ちょうど、強力な磁石に触れた鉄片が磁力を帯びるが、他の鉄片に触れたり、時が経過すると、やがて元の状態に戻るのに似ている。
当然、「ケガレ」を考える場合、この磁石は電磁石のようなもので、その両極が転換可能なものであり、しかも特定の条件を整えている間のみ、大きさの可変的な磁力を持っていることになるのである。

以上のことは、飽くまで喩えに過ぎない。しかし、そこから読み取れることは、いずれにしても強すぎる「磁場 (すなわち境界域) 」には近寄らず、ましてや接触をしないこと、「磁場」を仮に「正の磁場」とすると、それに対しては、強すぎる「負の力」は向こう側にある「異界」への強烈な吸引力を発生させるが故に避けなければならず、反対に、強すぎる「正の力」は強烈な反撥力を発生させるためにやはり避けねばならないと云うことになる。

筆者にとって「ケガレ」の本来のイメージは、この「境界域」に時宜、あるいは適宜を外して接近・接触てしまったために、その人に残存してしまう過剰な「磁力」のようなのものなのである。これは近代化学的な意味での「物」ではないが、我が国本来の意味での「もの」なのであり、形や質量は現象的にはないが、確実に「ある」もので、その意味で我々の身体に付着しうるものなのである。そうでなければ、それを水で洗い流したり (=禊/水削ぎ) 、明らかに塵払いのはたきに類似した幣束で祓ったり (=払う) は、出来ないはずなのである。ただ、この「ケガレ」を落とすための「水」も「はたき」も、その「ケガレ」を反撥させて落とさせるための「力」が備わっていなければならないのは勿論のことである。

このことに関して、一見関係ないように見える例を挙げてみよう。

世界には広く、本名を知られることを忌む風習があることは、文化人類学の諸研究・調査のおかげでとみに知られているが、我が国にも同様の風習があったことは、例えば有名な「大工と鬼六」の昔話を見ただけでも明らかである。我が国の村落共同体には (すごく歴史性を無視して放言してしまうが...) 、共同体内部とその外部に、他の共同体に対するものと「異界」に対するものなどの、複数の「境界」があったのだが、実は内部自身にも、「私的空間」と「公的空間」の「境界」が厳然としてあり、「内部/外部」の構造が入れ子状に重なっていたことが、この「本名を忌む風習」から読み取れるのである。何故ならば、「私的空間」の身体を有する個人は、「家」の敷居をまたいで外に出た瞬間、公的な場に曝されるのであり、自らの身体がそのままでは不安定な「境界」そのものと化してしまうのである。それを避けるためには、自らを「公共化」して「公的空間」に同化しなければならず、その正しい手続きが、改めて共同体の成員としての正式な名を「まとう」ことから始まるのである。

したがって、筆者からすると「本名」と云うのは「私的空間」での「正式な成員としての名前」なのであって、別に外で使う「忌み名」の方が正式でないものだとは理解していない。証拠に、現代社会ではこの「忌み名」の方が廃れてしまっているが、その逆の現象とも云える、「通り名 (=あだ名/ニックネーム) 」を巡るトラブルは、学校と云う成員間の関係が緊密にならざるを得ない場を中心にしばしば聞かれる。つまり、仲間内での名前を持つことが、すなわち仲間であることの証であり、逆に仲間内でしか分からない名をつけることが排除にもなるのである。当然、最初は数人から始まったその名前付けが、より広くクラス全体に広がった時点で、その排除の「内部」と「外部」の「境界」は「クラス」そのものと化すのである。あるいはその「名前」を受け容れることによって、「境界」を無化して、みずからを内部化することに成功することがあるのも、傍証とはなろう。筆者の中高時代、兄の同級生に仲間から「ちんげ」と嬉しそうに呼ばれている「仲間」がいたことを思い出す。大人たちや筆者のような完全に外部の人間には「いじめ」としか映らなかったが、当人を含め、「仲間」は誰もそのようには感じていないのが不思議だったのを覚えている。

元の話に戻すと、このような「内部/外部」の「境界」を巡る立ち回りは、そのまま、ある社会的共同体にとっては、「異界」との「境界域」をどのように扱うかの問題として立ち現れるのであり、それは人同士の「境界」などとは比較にならないほどの大きな力を秘めていると考えられていたために、非常に重要な共同の関心事とならざるを得なかったのである。すなわち、「恵み」を得るのも、返って「災い」を起こしてしまうのも、こちら側の人々の「境界域」に対する扱いや振る舞い次第だと云うことになるのである。しかも、その「磁場」が常に変動するものであるため、人々の振る舞いも同様に、常に変動しなければならないのは、人に対するときとまったく同じなのである。この行動則の一般的な約束事の体系が、いわゆる「マツリ」* なのである。

* 「マツリ」の語源はおそらく「待つ」と原義的には同根で、この「待つ」も、英語の「wait」の原義と同じで「控える・仕える」と云う意味であると思う。つまりは、「マツリ」とは、「神」を畏れかしこみ、贄 (捧げものとしての飲食物) を差し上げると云うことを第一義とするのである。ここでは、原義としての意味合いは含まず、単に社会慣習としての儀礼の総体を指し示している。

*

いつものことながら、話の埒があかなくなってきたので、この項の後半の内容を以下にまとめて、取り敢えずの終りとしよう。

1. 「場」と「場」が衝突する「境界域」では、「正負」いずれの方向にも力が侵犯/漏洩しうるのである。

2. ある「場」から他の「場」への事物・人などの移動は、その事物や人に備わっていた能力を無化したり、逆に増幅したりすることがあり得る。

1.の観点は、「祭祀の場」を巡る「マツリ」の理屈の下敷きをなす観念であり、2.の観点は、具体的な事物・人の「マツリ」の下敷きとなる観念である。特に、前回記事及び、今回記事の前半まで、筆者が強調してきた「変成」の象徴性をより簡潔に表しているのは、後者の観念であろう。次項では、この2. の観点から見た女性の「境界性」について、極く簡単な私論を試みてみることとする。


女性の「境界性」を巡る極く私的な考察

女性の「境界性」などと云っても、そのような観念が、我が国の精神文化の黎明期からあった、などと筆者は唱えようとしているのではない。おそらく、はっきりとした信仰概念へとまとまったのは、ずっと後世のことだろうとさえ考えている。しかも、その起源には複数の要素が含まれているとも思っている。

「神道」が宗教と云う形で集約されるまでは、我が国各地の在来の民間信仰は、それぞれに共同の文化複合の一部として、大まかに共通するかに見える点を持ちつつも、それぞれが相対的には自律して存在していたものと思われる。やや統一的な観念が、国土の全体を覆うようになったのは、やはり「仏教」が我が国の隅々までその教えの手を伸ばしたことによって、各地の民間信仰などが触発・影響され、自らの信仰の体系化を進めるようになった過程で、中央寄りの先端的な思考が、それぞれの地域に伝播し、活用されるようになってからだと思われる。もちろん、生産様式としての農耕の広がりが果たした役割も大きかったろうことは、言を待たない。その他、後世の交通の発達なども、かなり直接的に影響したことであろう。

しかし、何時からとは明確に云えないにしても、ある時期から、我が国の多くの地域で、女性を精神的に特別視する風潮が生まれたのは明らかなようである。それが単純に「産む性」として、その生産性を強調されて神聖視されたのか、それとも「古代」末期からの男性中心の政治体制の整備に伴って、女性が公的な場から徐々に排除されて、「産む性」として限定される中で、私的領域に女性を封じ込めるためにその「母性」が強調された結果なのかは、俄かには判断しにくい。既に述べたように、筆者は、後者の考えには概ね賛同するのだが、それ以前に男女が同等な位置で祭祀に参加していたと云う前提には賛成しかねる立場を取っている。

筆者は、むしろ、「女性の聖性」は、「古代末期」から「中世」にかけての時期に、「産む性」「母性」として強調されて家庭と云う私的空間に押し籠められたと云うのはその通りであるとしても、それは、それ以前に広汎に認められていた種々の「聖性」を無化して、一本化した結果だと考えている。

この項で述べようとしていることは、まだ、仮説とも呼べない、資料も何もない段階での雑な推論であるため、便宜上、先に結論から述べるとすると、筆者は「女性の聖性」の正体は、その「境界性」にあったのではないかと睨んでいるのである。

既に繰り返し述べてきたように、筆者は、後に「産穢」「血穢」と呼ばれることになる観念も、起源的には「死」と直結したものではなく (いくらか関わりはあるにせよ) 、それが「変成」の契機を象徴するがゆえに、特別視されたものだと考えている。女性には、その生理的な特徴からも、また、文化的に担うことになった社会的な役割においても、男性に比べて一定の「変成力」を表す場面が、明らかに多かったはずなのである。

そもそも、後に女性が公的空間から追われて、私的空間へと閉じ込められたと云う議論は、いくら祭祀に限った話だからと予防線を張ったところで、それ以前の段階で女性が既に家庭を中心とした社会的役割を担っていた可能性を等閑視する議論であると云う点で、やや公平を欠いた議論であると云わざるを得ない。農耕の開始は、むしろ男女の労働分化の必然性を希薄化する働きを果たしたと思うのだが、狩猟採集により重きが置かれていた時代には、男女の労働分化は必然的だったものと思われる。そして、この時代に、「女性の聖性」につながる基礎的な思考が涵養されたものと筆者は考えている。

女性は「産む性」として、その「非日常性」を強調されたのではなく、「私的空間」において諸々の「変成」を取り仕切る主宰として、そして、肉体的にも「変成」を成し遂げる身体として、「日常」と「非日常」の中間的な閾に位置していたために、精神的に特別されたのではあるまいか。怪我もせずに「血」を流し、時にはその中から「死」と正反対の「生」を出現させる神秘的な存在であると云う、その両義的なチャンネル性によって、「非日常」的なものに対する感度がより高い側の「性」として意識されたのだと思われる。後世、「産む性」として、専らその公的な役割を剥奪されて、家庭へと押し籠められることになったと云う「女性史研究」の側からの分析は、おそらく妥当なものなのだとは思うが、それ以前に男女が公的な場にあって対等だったのかと云う点や、祭祀の執行に関わる点でも、男女が同等の象徴的な意味合いを持つものとして共同参加していた、と云う考えに関しては、まだ検証が足りないと云えるだろう。

特に、性交合の象徴的な祭儀に関して、太古の人は常に男女を一組と考えて「マツリ」を取り仕切ったのだからそこに地位の違いがあるはずもない、と云う考えは、性行為を神聖視するならば、その行為が男女でなければ行えないのは自明のことである故に、原初的な祭祀は、その起源にあって、男女双方の対等な参画を前提としていたはずだ、と云う理屈に裏打ちされているのだろう。しかし、残念ながら、これはややお粗末な思考法だとは思う。行為自体は、男女で行わねばならなかったとしても、その象徴する内容が何であるかを考慮せずに、表層的な「行ない」のみに焦点を当てるのは、そもそも象徴儀礼としてのいかなる祭祀を観察するときにも、まったく片手落ちの見方にならざるを得ないだろう。

例証と云うほどてはないが、そもそも、我が国の各地で出土する「土偶」が祭祀にからむ祭具・呪具であったと云う定説を受け入れるならば、この「土偶」が、少数のわずかな例外を別にして、ほぼ百パーセント女性像であることなども、様々な示唆に富む事実ではある。男女が祭祀において、当初から同等な象徴的重要性を付与されていたならば、何故、「土偶」には同数の「男性像」が存在しないのか、理解出来なくなってしまわないだろうか。

また、「お袋」と云う言葉が、どの程度古いイマジネーションに支えられた語なのかは定かでない上、「近世」あるいは「明治」以降、「女は借り腹」のような言語道断な差別的発想と一緒くたにされて観念化されてきたものだから、一部の人々から芳しく思われていない言葉の一つなのだが、これは本来「大黒様の袋」のような、「無」を「有」へと転ずる「変成力」を象徴したイメージ性に裏打ちされていたものなのではないかと、筆者は考えてもいる。

西洋医学の世界でさえも、十七世紀後半 (1677) に「レーウェンフック」が学会誌『フィロソフィカル・トランスアクション』に精液中の精子の存在を発表するまでは、精子の存在など誰にも知られていなかったのだから、太古の日本人が知っていた可能性は少ない。ましてや、精子の発見後も、それが近代的な意味での妊娠の理屈へと開花するまでにはなおまだ時日を要したのは当然のことである。しかし、正確なメカニズムは理解できなくとも、性交を媒介とした精液の射出と妊娠の因果関係くらいは、おそらく有史前から知られていただろうこともまた間違いなかろう。

この単純な事実に接したとき、太古の人間は、何で粘度のある白濁液が女性の身体を経由すると「子供」と云う形で顕現するのか不思議に思ったとしても、それこそ不思議ではなかろう。ついでにその同じ身体部位からは、「子供」と共に大量の「血」などが出現するのであり、月々、怪我もしていないのにやはり出血するのである。「血」の流出は「魂」の漏洩であり、すなわち「死」へとつながると云う筆者の見解は無視したとしても、それでも女性の身体が媒介するのは、「生」と「それ以前=あの世」であることは、かなり明白なことではある。

したがって、女性の両義的な「境界性」と云うのは、やはりその「お産」や「月経」などに辿り着く観念なのだとは思う。 それは「あの世」と「この世」を結ぶチャンネルとして、あるいは「無」から「有」を創出する媒体として見立てられる属性であって、そこに象徴されているのは「変成」としての力だったのである。そして、時ならぬ「血」は、そのような「変成」の契機として見られたのである。

当然、太古の人は「産血」や「経血」を「ケガレ」と見なしたのではなく、「変成」の契機として、一種の厳かな気持ちを抱きつつ眺めたのではないか。しかも、かつての産褥での死亡率の高さを考えると、昔の人が、お産と云う行為を「生死」の相克するぎりぎりの場として把握したのは、むしろ当然でさえあったと云える。そう云った意味では、女性特有の「流血」は、「死産」なども含め、取り扱いの細心の注意を必要とされる象徴性を付与されていったのだと思われる。

このことと関連して云うならば、「折口信夫」が、女性の「血穢」を巡って、それが元々は「ケガレ」ではなく、女性の霊力が一定期間高まる表徴として理解していたらしいことはよく知られている。

槻の木は、月経その他の場合にこもる、つきごもり (晦日の語原) の屋の辺に立つてゐたのだ。斎槻も其だ。『長谷のゆつきの下に』つまを隠すといふのも、槻屋に籠らしたのだ。物忌みの為の、別屋である。月経を以て、神に召されるしるしと見なして、月一度、槻の斎屋に籠らしたのだ。

折口信夫「小栗判官論の計画 餓鬼阿弥蘇生譚・終篇」
折口信夫 (1995) 『折口信夫全集』第三巻「古代研究」第一部・民俗学篇第二、中央公論社、p. 438
初出・民族発行所/編 (1929) 『民族』第四巻・第三号、自刊

上記引用文に、「月経を以て、神に召されるしるし」と「折口」が記すとき、彼は同時にそれは「忌まれる」ものだとも捉えている。神の加寵が嫌われると云うのはおかしな理屈であるから、この「物忌み」には別の意味があるのだろう。

既に一度述べたように、我が国の「忌み言葉」の研究を続ける「楳垣実」は、「ケガレ」と云う言葉に「汚れ」の意味が加わり、「嫌悪」の対象と考えられるようになったのは、後世のことであるとしている。筆者も、「ケガレ」の元の姿と云うのは、ある種の「境界」的な力の高まりが、その両義性の故に、周囲の人々に畏れられた、と云うことなのだと思う。ここでも、「畏れる」と云うのは「怖がる」と云うこととは異なり、その扱いに細心の注意を要するものに対する心性を表す語だと考えて頂けると有り難い。そう云った意味では、「籠り」も、正しくは肯定的な意味での力の「封じ込め」を表していたように思えてならない。
*

女性の「境界性」を巡っては、その生理的な特徴に由来する側面の他に、二義的には、家庭内での女性たちの役割分担が大きく関わるようになったとも考えられる。何故なら、そもそも「家庭」と云うのは、内外の「境界」をみずから画する存在であり、そこでは外界と異なって、逆にすべての事物が人工的な構造物と化す場だからである。そして、そのような外界と画然とされた場に、女性はその生活の基盤を置く故に、その「境界性」を浮き立たせることになるのである。

この「家庭」と云う構造物の中で、古来、特別な精神的存在として考えられてきたのは、「囲炉裏」や「竃 かまど 」、あるいは「厠」である。これに限定的に「井戸」などを加えてもいいかもしれない。これらの「場」が、神聖視されたことと、我が国では長らく、調理や風呂などの「水」と「火」に関わる空間は、家の中でも特別な別区画として意識された歴史があるのも、それらの「場」がすべて「変成」を象徴するものとして、二つの世界の結節点として機能したことと関係するものと思う。

例えば、調理と云う行いは、現在は最も「日常」的なものの一つとして考えられているだろうけれど、かつてはその「変成力」のために、「日常」の中の「非日常」と考えられていたと筆者は理解している。これを説明するのは、かなり厄介なのだが、以下、簡略に述べてみることとする。

「日常」とか「非日常」などと云っても、その基本にある考えは「変化」なのだと思う。安定した生活を送るためには、人は極力、変化の少ない環境を望むことになるのだが、一方で、変化のない環境と云うものは自然界に存在しない。春夏秋冬の変化と、それに伴う万物の移り変わりがあって、初めて人を取り囲む環境は成立っているからである。したがって、少しややこしい表現になるが、この自然の運行としての変化の循環が、何の変哲もなく繰り返されれば、それは「変化のない安定した環境」と認知されたことであろう。後に「日常性」として把握されていく観念も、大元はこんなことだったのではないかと思われる。

問題は、人が文明の発祥以来、周囲の自然環境に対して、無数の改変を加え続けなければ、日々の生活を送ることが出来なくなったことであった。それは、常に変化し続ける自然界の中にあって、人にとって快適な一定の不変の環境を創り出すためには、日々、細かな調整を行い続けなければ、その安定した状態を維持することは出来ないからである。そう云った意味では、寒い季節に暖をとるのなども、小さな自然の改変であって、自然の秩序あるいは均衡を乱す行為なのである。

調理は、そのような改変行為の中でも、極めて高い「変成力」を内在させるが故に、その扱いは慎重に行われなければならなかったはずなのである。すなわち、自然界の「生命」を「食物」へとダイナミックに「変成」させる行為が調理なのである。調理を通して、生きていても、死んでいるだけでも、我々にとってはまったくの「無為」の存在が、「有為」のものへと転ずるのである。そして、この「変成力」のために、「調理場」や「竃」などは、強烈な磁場を有した「境界」と化すのであり、我々もまたそれ故に、そこに神を祀って、正しい送り方でその余剰の力を送り出さねばならないのである。調理は、「生命」が「死」を経由して「食物」となり、再び我々の「生命」の源として再生すると云う図式にあって、欠くことの出来ぬ媒介項をなしているのであり、それはある意味「お清め」あるいは「お祓い」の象徴的な再現だとさえ云えるものであり、そう云った意味ではまさに「マツリ」の原初の姿なのである。

しかも、この「食物」の「変成」の問題をさらに突き詰めると、そこに「厠」の象徴性が浮かび上がってくる。食べると云う行為は、必然的に「食品」を「糞尿」へと「変成」させる力を持っているのであるが、まさにこの「糞尿」を排泄すると云う行為こそが、「有為」のものを「無為」の自然へと最終的に「送り返す」行為になるのである。

「台所」や「竃」それに「厠」は、したがって、「家」と云うくくりの中に存在する「内界」と「外界」を媒介する「境界」としての役割を担っているのであり、それ故に神秘的な力を持つ「場」として祭られる伝統が生まれたのだと思う。そう云う意味では、「厠」は「川屋」などではなく、「あの世」と「この世」とが交わる結節点としての「交屋」と云うのが原義に近いのではないかと思われる。いずれ、丁寧に見ていくことになるが、この性質の故に、「厠」には「河童」や「蛇」「猫」などのイメージ性が後世、付与されていくことになるのだと筆者は考えている。

また、ここでは深入りしないが、古来、水汲みなどの労働が、多くの場合、女性の専業とされてきた事情も考慮する価値がありそうである。水は、女性の家内労働と密接に関わるものであるだけに、それを調達するのも女たちの仕事となったのだ、と云ってしまえば身も蓋もないが、後世の「忌み言葉」が家の中の水回りに関わる事物に集中している事実などを併せ考えても、単純に「水」の象徴性を、家事労働の副産物のように把握するのは危険なのではないかと思う。「厠」もまた、「水界」とのつながりを有しているのは明快であるが、家庭内で神の祭られる「場」と云うのが、みな「火」と「水」に関わると云うのも意義深い。

*

さて、ここまで述べてくれば、女性が家庭内で担う役割と云うものが、「竃」や調理場などの「火」及び「水」を使う、「境界性」を帯びた場所に関わるものだと云うことは明白になったであろう。そして、この事実は、それらの場所だけが、古来神聖な場所として神が祭られてきた伝統を持っていることによっても支持されるのである。

したがって、「家庭」と云う場にあって、女性は明らかに「異界」との接点となる「境界」を主宰する立場にあるのであり、それはおそらくは、女性の身体自体が、「異界」との交感の「場」としてのチャンネルとなっていると考えられることと密接に関わることなのだと思われる。


古代日本の死生観と「ケガレ」

ここに至って、ようやく「ハヤマ信仰」における「女人禁制」の問題に立ち戻ることが出来ることとなった。そこで、この議論の出発点となっていた二つの事項について確認して、この項を始めたいと思う。

先ず第一に、「ハヤマ信仰」にあっては、「女人禁制」の「お籠り」をその祭祀の中心に据える地域が多いのだが、それは爾来、「修験道」の影響で付与された、後発的な性質だと考えられてきた歴史がある。その中でも、「福島市松川町金沢」に鎮座する「黒沼神社」の「羽山籠り」の神事は、「女人禁制」の中、男たちが互いを女性呼称で呼び合う奇習を残すために、かつては男女で祭祀が行われていた証の一つとして取り挙げられることが多い。しかし筆者は、そのような考えを前提視することに異議を申し立てたいのである。

第二点は、「山舟生・羽山神社」の縁起にまつわって、「江戸初期」に「女人禁制」の禁忌を和らげ、男女ともにお参り出来るようにしたと云う伝承があることに注目し、この時期がちょうど「葉山修験」の最盛期に当たることから、はたして「修験道」の影響で、この地域の「女人禁制」が推進されたと云う考えは、手放しで認められうるものなのか、と云う疑問を呈することにあった。

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第一の観点の一般的な通釈は、かつて「産む側の性」である女性は、「豊穣」の象徴として、祭祀の主要な役割を担っていたが、やがて男尊女卑の考えが社会に普及すると、女性は他の社会生活同様、祭祀の中心からも追い立てられることになり、男性たちで祭祀のすべてを執り行うことになった、と云うものである。

このことと関連して云うならば、「古代末期」から「中世」にかけて、男性中心主義的な中央官制が整備されるにつれ、公的祭祀の場における女性の役割が逓減化されたと云う、「女性史研究」の側からなされている主張については、既に何度か記した。そして、筆者が基本的にこの考えに賛同していることも、これまでに述べた通りである。

この手の議論は、一般的な「産む性としての女性」と云う概念に対してアンチテーゼとなることを目的に提唱されたものであるため、「産む性」と云う考え方自体が一種の幻想で、特に「中世」以降に広がったものの考え方であることを強調する傾向があるが、実際には、それ以前の段階で女性がどのように扱われていようが、その時期以降に社会全体での女性の公的地位の低下が進んだと云う議論の大筋は、いずれの立場に立っていても、有益な歴史化であると云える。

付加えるならば、この議論は同時に、「産む性」として女性の生産性を強調しつつ、実際には「家庭」と云う私的な空間に、そのまま女性たちを押し込める役割を果たしたとも主張する。もちろん、ここまでも筆者は同調する。問題は、この主張が、この女性の「産む性」としての特質が強調されたと云う時期より前は、男女が同等に祭祀に参画していたと云うことを、無条件に前提とすることであることも述べた。この時期以降、女性が「産む性」として限定されていったことと、それ以前には「産む性」として特別視されていなかったこととは同じではない上、男女が宮廷の公的な祭祀にセットで参加していたからと云って、それが全国的に原初の形だと断ずるのも早計だと云える。また、仮に祭祀に同等の地位で男女が参加したからと云って、その担う象徴的な役割が同じだとも云えない。

特に、「産む性」としての女性と云う観念は、後の「産穢」「血穢」を中心的な概念装置に据えた「女性のケガレ」観を構成してゆく重要なものなのだから、それを巡る考察は、それなりに慎重に行わなければならない。繰り返しになるが、上記の「女性史研究」の見解に素直に従った場合、結局「女性のケガレ」観と、それと深く結びついた現象としての「女人禁制」、さらにはその背景をも提供した一般的な社会現象としての「女性差別」に関する視点が単純化され、単に男性の側からの主体的な差別へと還元してしまい、その重層的な構造を捉えることに失敗してしまうのである。

筆者は、女性の没落、少なくとも祭祀面での没落は、男女の共同参加から排除されたことに始まるのではなく、どちらかと云うと、「女性のケガレ」観が、その忌避の側面 (後に「嫌悪感」や「汚れ」観につながったような側面) だけを残して継承され始めたときだと推測している。「女性の聖性」と云うような考え方は、古くから我が国にあったと考えている。しかし、その「聖性」は、女性の「境界性」にまつわるもので、「お産」「月経」などの諸事象もその「境界性」の形成に大きく寄与するものの、それらのみでその「境界性」を構成するものではないと云うのが、筆者の考えである。

*

さて、先に挙げた第二の点に話を移すと、この点に関することで (そして、概ね第一点とも関わるのだが...) 、「湯川洋司」は、その著作『変容する山村』において、興味深い調査報告をしている (湯川、1991) 。氏は、「佐々木高明」が「焼畑農耕民」の「山ノ神」を、山と平地の「山ノ神」の間に挟むことで、「山民の山ノ神→焼畑農耕民の山ノ神→稲作農民の山ノ神」と云う歴史的な推移の図式を描き出したことを受けて、いまだはっきりとしない「焼畑農耕民」の「山の神」の性格を探求すべく研究を進めたと云う。しかし、その結果、必ずしも「佐々木」の説を追認する考えには至らず、「焼畑農耕」の段階は、「山民」の生活観念と近接し、「稲作」や「常畑作」に携わる人々との間には、明らかな断絶があるものと云う結論に達することとなった。当然、「山の神」の観念についても、「焼畑」と「平地農耕」では断絶があると云うに及んだ。そして、もしも「焼畑」の「山ノ神」と「農民」の「山ノ神」にある種の連続性が見てとれるなら、それは「稲作農耕」の論理が「焼畑農耕」の収穫儀礼等に波及した結果であろうとさえ述べている。

しかし、筆者が上で「興味深い」と云ったのは、「湯川」氏の上記の概論に対してではなく、その中の各論において、氏が「奥会津」の山村地帯を調査した際、「旧・伊南村小塩」で次のような事実を確認していることなのである。

狩猟や伐木に従う人びとの信ずる山ノ神のイメージは、彼らの伝える禁忌伝承によく表れている。その主要なものは、出産と死のケガレを忌むところにある。山に入っているときに妻の出産や身内の死の知らせが届くと、すぐに山を下りねばならなかった。 (中略)

またお産のあった家の「火を食う」ことをサンピ、死者の出た家の「火を食う」ことをシニッピといい、サンピやシニッピを食った者は絶対に山へ入ってはいけないとされている。そして注意すべきはサンピはシニッピよりも悪いとされていることであり、お産のあった家の者は出産後二十一目のオビヤアゲまで山に入れないとするものの、死者が出た場合の忌みの期間はそれよりも短くなっている。つまり出産のケガレは死のそれよりも重大と考えられたためだろう。 (中略)

山ノ神に対するこのような信仰は、山ノ神が山中での生業活動と密接に関連していることをよく示している。小塩における山中での諸活動にはカノ、伐木、狩猟、山菜採取等があるが、このうち伐木と狩猟についてだけサンピ、シニッピという禁忌伝承がともない、カノ、山菜採取については特段の伝承がないことには深いわけが潜んでいるものと思われる。

湯川洋司 (1991) 『変容する山村 民俗的再考日本エティタースクール出版部
pp. 109-110

「湯川」氏は、従来の民俗学で、「山民の山の神」と「稲作農民の山の神」と云う二つの神を認めたならば、前者は後者の派生形に過ぎないと考える主流派の在り方に異を唱えて、二つの間に「焼畑農民の山の神」を挟むことで、「山民の山の神」が「稲作農民の山の神」に先行するとした「佐々木高明」説をベースに考察を開始する。しかしながら、最終的には、「焼畑農民の山の神」は、「稲作農民」の観念に影響されて形成されたものだと云う結論に達しているのである。だが、筆者が興味を抱いたのは、その総体的な視点ではなく、むしろ次の二点である。

まずは、「山民の山の神」を巡る「禁忌/ケガレ」の問題で、「サンピ (=産穢) 」と「シニッピ (=死穢) 」が特に強く意識されたと記されているのだが、それは専ら「伐木・狩猟」に関わる人々に付随するものであって、「カノ (焼畑) ・山菜採取」に関わる人々の間にはそのような「禁忌」が伝えられていないと云うのは、非常に重要な視点を我らに提示してくれるのである。

つまり、「焼畑農民の山の神」と「稲作農民の山の神」との前後関係は、取り敢えず等閑視しても、「湯川」の報告から浮かび上がってくるのは、第一に「産穢」「死穢」が「山民の山の神」信仰にあって、純粋な山仕事に就く人々の間でこそ強く、「農耕」的側面を持った生活をする人々の間には見られないと云う事実であり、第二には、二つの「ケガレ」のうち、「産穢」の方が「死穢」よりも重く見られていると云うことである。

本来的な意味で山民的な生活を営む人々にこそ「産穢」「死穢」の伝承があると云う事実は、平地の「稲作農民」たちの間に「仏教」及び「神道」を経た「ケガレ」の概念が浸透し、やがて「修験道」などの影響を通して、山中における「女人禁制」などの観念が生まれたと見なす従来の民俗学における常識と、真っ向から対立する現象なのである。これはまた、同じ「福島県内」でも、やや地域が異なるとは云え、「山舟生・羽山神社」に伝わる、「近世初期」の「葉山修験」の影響が最も強かったはずの時代、しかも稲作農耕がより強く奨励されるようになった時代に、返って女性の登拝を解禁したかのような逸話が存在することと軸を一にする事実だと云える。

また、この
旧・伊南村小塩」に伝わる禁忌を考慮すると、やはり「産穢」「死穢」などが獲物を狩る生活のの中から生まれた、と云う一般的な解釈が成立するのではないかと云う思いに、一瞬、駆られてしまう。しかし、「湯川」氏の報告の中に「血穢」についての記述がない段階で、この判断は実は難しいものになってしまっている。何しろ、一般的な解釈は、「産穢」と「死穢」と云う二つの「ケガレ」を、「血穢」と云う共通項で引き結ぶのであるが、その「血」に関するタブーがはっきりとしたない限り、この解釈も留保せざるを得ないである。さらには、このような解釈は、そもそも「ケガレ」の概念の起源を「死」に対する怖れに集約させ、「血」はそれを媒介するものと理解し、それ故に「お産」や「月経」を巡る「ケガレ」も派生したのだと考える傾向があるのだが、「小塩」では少なくとも、「死穢」よりも「産穢」をより重大視する民俗があり、上のような解釈は成立しにくいのは明らかなのである。

ここまでに、既に何度も述べたように、「死穢」のみを「ケガレ」の中心に据えようと云うのは、明らかに無理な理屈なのである。これはむしろ、現代の研究者たちが、自らの中に潜む「死に対する恐怖」を自己の思考に暗黙裡に反映した結果なのではないかとさえ筆者には思えてくる。昔の人が「死」を怖れなかったとはとは思わないが、一方で、「お産」や「月経」が血を流すことから、すなわち「死」を連想した、と云うのも何だかお粗末な、と云うか、あり得ないような考え方である。大体、「血」が、「死」につながる故に忌避されたのであるなら、何故、外傷による流血は、「お産」や「月経」ほどうるさくタブー視されなかったのだろうか、と云う問題も残される。

筆者は、「血」の忌避は、「死」の忌避と関連しないと云っているのではない。また、この二つの「ケガレ」観を結ぶ結節点が、おそらく狩猟生活の中にあっただろうことも否定しないどころか、大いにそのように思う。ただ、「血」が「死」を連想させるからと云う抽象的でかつ曖昧な理屈を掲げないだけである。既に述べたように、「血」自体をネガティヴに考えたのではなく、「血」の喪失が「死」につながると云う臨床的な事実を観察した太古の人が、「血」を生命の本体、すなわち「魂」のようなものとして捉えたのではないか、と云うのが筆者の考えである。そして、「お産」もまた出血を伴うため、「血」には生命を生み出す「魂」があると、こちらの側からも理解されたのであろう。この場合、「産褥」に伴う「死」は、この「血」の両義性に媒介された現象として受け容れられたいったはずである。

「小塩」の事例を見る限り、「産穢」と「死穢」のみが語られていることから、「血穢」につながる観念は、後世に付加された二次的な要素なのかと考えたくもなるが、いくら都市文明から離れた山奥の村だからと云って、現在残っている習俗が、常に原始の形を残していると考えるのは、一種の偏見であろう。少なくとも、「小塩」での
「産穢」と「死穢」は、それぞれ「サンピ」と「シニッピ」、すなわち「産火」と「死に火」として語られている以上、そこには「火」に対する「ケガレ」の意識も見られるのであり、単純に「ケガレ」の観念を「産穢」と「死穢」のみに還元することは出来そうにない。

*

ただし、「火」の「ケガレ」は、「産血」の象徴だと云う考え方は、従来からあるようである。「記紀」神話における「イザナミ」の国産み・神産みのくだりで、火の神である「カグツチ」を産んだときに、「イザナミ」は全身に火傷を負って死ぬ、と云うモチーフがある。この場面での吹き出す炎が、「産褥」の流血を表しているかどうかと云う「赤」つながりの単純なシンボリズムはさておいたとしても、このとき、妻の死をもたらした「カグツチ」に怒った「イザナギ」が、「十拳剣」で「カグツチ」を斬るのだが、その「血」からは「天神・雷神・水神」などの神々が生まれ* 、その死体からは八柱の「山津見」の神々が誕生するのである。また、「イザナミ」が死の床についてから排泄した「糞尿」や「吐瀉物」から、鉱業・窯業・灌漑・食物などの神々が生まれている** 。

* この八柱の神々に関しては、「栃木県の猫神 1) 」の記事で、「磐裂神」を論ずる辺りで詳しく見ただけでなく、「猫神」との関連も探った。

** より正確には、吐瀉物から鉱山・金属の神「金山毘古神 かなやまびこのかみ」と「金山毘売神 かなやまびめのかみ 」、「屎 (糞) 」からは土器作りの神「波邇夜須毘古神 はにやすびこのかみ 」「波邇夜須毘売 はにやすびめのかみ 」、「尿」からは水神・灌漑神「弥都波能売神 みづはのめのかみ 」と食物・農産神の「和久産巣日神 わくむすびのかみ 」が生成したと『古事記』にはある。

「黄泉の国」が「あの世」を指すことは間違いないが、これが「記紀」に記されるもう一つの「異界」表現である「根の国」とを同じものなのか、と云う議論に関しては、人によって見解が異なる。一般的には、『古事記』上巻で「須佐之男命」が「僕 は妣 はは の国根の堅州国 かたすくに に罷らむと欲 おも ふ」と涕泣する場面や、同じく上巻の「大国主」神話の中で、「大穴牟遅命」が「根の国」から「生太刀・生弓矢」と「天詔琴」を持って帰還するとき、その出入口は「黄泉津平坂」であると書かれていることなどを通して、「黄泉」と「根の国」は等しいものと理解されることが多い。国文学者の「西郷信綱」は、『古代人と夢』の中で、「黄泉の国と根の国とは、地下という一つの世界の二つの側面、一つのものの二つの違ったあらわれである」と記述している (西郷、1972、p. 128) 。

しかし、このような見解に対しては、異論も根強くある。「柳田國男」は、『古事記』における「黄泉の国」は、地下にある死者の国と云うイメージが強いのに対して、『日本書紀』における「根の国」の観念は、下方、あるいは遠方にあるものとして描かれていることから、両者は違う「異界」を指すものだと考えたようである。そして、「根の国」の「ネ」は、「南西諸島」に見られる「ニライカナイ」の「ニライ (ニーラ) 」の観念と通ずると考え、それは遠い海上を表していると見なした (柳田、1925 / 松本、1956) 。「柳田」にとって、「根の国」は死者の赴く祖先の国であり、民族の故郷・源郷とも云うべき世界だったのである。そして、このような他界観は、日本民族が稲を携えて渡来してきた海の彼方の原住地への憧憬であると説いている
(柳田、1925)

「折口信夫」は、そもそも「根の国」と「黄泉の国」を「常世」との対比の中で論じている。そして「常世」の原義は「常夜」であり、「黄泉国」であり、「根堅洲国」であり、「常闇の死の国」であったとしている。これは、『古事記』に「爾に高天の原皆暗く、葦原中国悉に闇し。此れに因りて常夜往きき」と書かれていることや、
「本居宣長」が『古事記伝』巻十二で、「上代」の「常世」には、1. 「常夜」の義* 、2. 「常とは」にして不変の義、3. 遥かに隔たりて容易に交通往来しがたきところの義、の三つがある、と述べていることを受けているのかも知れない。その上で「折口」は、そのような「常世」の観念が純化・理想化されて、「常世」が「常夜」でなくなり、現世に必要な絶対的な生命力と豊穣の理想郷と観念されるようになり、やがては日本人の祖先神である「まれびと」の来る海上の島と考えられるようになったと云う。そこは、老いず死なぬ「霊の国」である反面、「死の島」でもあり、その「死」の側面は「根の国」で表わされ、海底の国と決まってしまったのだと述べている (折口、1925) 。

* 付記するならば、「本居宣長」及び「折口信夫」の云う「常世」と「常夜」の同義性は、「橋本進吉」以降、頓に知られるようになった「上代特殊仮名遣」においては、「常世」の「世」は「乙類」で、「常夜」の「夜」は「甲類」であるため、「常世=常夜」説は成立しないとの見方もある。もっとも、近年は「松本克己」「森重敏」「服部四郎」「森博達」らによって八母音を中心とする「上代特殊仮名遣」はなかったとする反論も出されており、断定は出来ない。しかし、筆者の見る限り諸反論は、いまだ「上代特殊仮名遣」説を覆すほどの説得力を有してはいないようであるが、ここでは細かく論じない。

上記の「柳田」や「折口」における「水平方向」の「他界観」のイメージを引き継ぐかのように、「次田真幸」は、『記紀』における「根の国」の観念は、元々は「水平表象」だったものから「垂直表象」に変化したものではないか、と主張している。つまり、『記紀』における天皇神話成立の過程において天皇の故郷である「高天原」を「天」と称したことから、それに対置される「根の国」が「水平方向」ではなく、「高天原ー葦原中津国ー根の国・黄泉」という垂直構造でイメージされるようになったとしている。この「次田」説は、「根の国」と「黄泉の国」を一つのものの二つの側面として把握しているのに変わりはないが、それが何故二つの認知面を有するに至ったかの位相を明確に示していると云う点で、ただの同一視説とは根本的に異なり、明快な仮説となっている。

それに対して、「三浦佑之」は、「根の国」と「黄泉の国」について、「もとは異質な両者を、記紀神話という体系神話が『
一つの世界』にくっつけてしまったと考えた方が正しいのではないかと思う」と記している。そして、「スサノオ」が「根の国」のことを「はは の国」と呼んだのを以て、そこを「イザナミ」のいる「黄泉」と考えるのは、「母の死後、父イザナキ一人の産んだ子スサノヲが妣の国へ行きたいと言って哭いたという矛盾を孕んでいることは否定できない」と述べている。そして、「妣国とは根堅州国(根国)でしかなく、そこは祖たちの魂の宿る世界と考えられていたとみるべきなのである。つまり、妣とは、亡き母も含めた祖先たちと考えてよく、そうした死者たちの魂の集まる異界が根堅州国と考えられており...」云々と記している。

一方、「三浦」氏は、「根の国」に関して「やはり死者の行く世界という認識をもつが、それは再生を伴った死である」と記している。

根堅州国は、折口信夫や柳田国男のいうごとく、沖縄のニライカナイに近い。しかも、根堅州国のネとニライのニは同源で、「根源」といった意味である。そして、こうした暗と明、死と再生とが共存する根源の世界こそ、古代人の考えた死者の行く世界であり、生命の誕生する世界である。またそこは、禍いの棲むところででもあり、幸いをもたらす神の住む世界でもあった。 (中略)

根堅州国神話のもつ再生の意識には、魂の存在が関わっている。それが古代的死生観の基本的な在り方であろ。一方、そうした魂の存在を感じさせない黄泉国神話は、新しい意識をもつと考えられるが、それよりも、肉体の腐敗に顕著にみられる<死>という現実に対する、人間の根源的な畏怖を表しているとみるべきではないかと思っている。

三浦佑之 (1976) 「黄泉国と根堅州国-死後世界の構造」
古代文学会/編 (1976) 『古代文学 』第十五号、武蔵野書院
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/yomi-to-ne.html

やや話が遠回りになってしまったが、何故、筆者が「根の国」「黄泉の国」に拘るのかと云うと、それが直接、「ハヤマ信仰」などに見られる他界観と密接に関係してくるからである。そして「
三浦佑之」氏の「水平方向の異界」を「死と再生の世界」と重ね合わせた観念は、そのまま「ハヤマ信仰」を考えるときにも有効な捉え方だと思えたのである。ただ問題は、「記紀」における「黄泉の国」の描写が明らかに垂直方向に下方、すなわち地下世界をイメージしたものだと云うことである。中でも、特に「イザナミ」を訪ねた「イザナギ」の「黄泉の国」訪問譚では、死後の「魂」の問題よりも、物理的に訪れる「死」そのものに焦点が当てられ、そこには光の射さぬ漆黒の石室の中で、腐敗して蛆のわく死体のイメージがリアルに語られていることである。その語り口には、死後の「再生」のモチーフは一切なく、「あの世」と「この世」は、画然と仕切られた別の世界なのである。「ハヤマ信仰」などに見られる「祖霊」の留まる「異界」、あるいは「再生」を約束するような生命力の余剰が横溢とする世界は、「記紀」では専ら「根の国」に委ねられているのである。

筆者は、「イザナミ」の「死」を巡る神話が、そのまま後世の我が国に複雑に展開された「触穢」の観念の根源的な部分に触れており、その重要な構成要素のほとんどすべてを含んでいることを非常に重視しているのだが、その舞台が「死」と「再生」の国としての「根の国」であると云うならば、それはまさに筆者の云う「無」と「有」、「生」と「死」が両義的に交錯する「異界」としての「あの世」と云う観念に収まることになる。
そして、この女神がその「死」に際して多くの「生」を産み出していること* などから判断して、この推測はおそらく的を外れていないのであり、そうであれば、「スサノオ」が「妣の国根の堅州国」と呼んだのは、字義通り「根の国」のことなのだと云うことになる。

*
「イザナミ」がこのとき産んだ神々については既に見たが、それは皆、生産に関わる神々であった。言い換えれば、女神自身が嘔吐あるいは排泄を通して産み出した神々は、人が自然に働きかけて、一次的な「変成」を成し遂げる生業の神格であった。そして、その死を引き起こした「カグツチ」の血肉から生まれたのは、それらの生業と密接に関わるか、関わると象徴的に考えられた自然現象などの神々であった。既出の注において、筆者が「弥都波能売神 みづはのめのかみ 」と「和久産巣日神 わくむすびのかみ 」をそれぞれ「灌漑」「農産」の神として併記したのは、その本来の姿が「水神」「食物神 (=芽吹き・誕生の神) 」


しかし、「近畿」を中心とする「古代」日本の中央における「死生観」と「触穢」の観念が、「近代」にまで及ぶ同等の観念と極めて強い類似を見せていることは、各地に展開される様々な民俗の相対的な自律性にも関わらず、『古事記』の書かれた八世紀には、既に現在の「東北日本」などと通ずる「生死」や「ケガレ」の観念があったことになって興味深い。もちろん、八世紀以降、「大和朝廷」がその勢力を全国に広めるに当たって、その有する精神文化も征服地にもたらしたと考えることは、不可能ではない。ただし、その場合でも、仮に「大和朝廷」の精神文化が「東北地方」に浸透するのに二三百年かかったとして、我らは既に千年近くの永きに渡って、上記のような観念を抱いていたことになり、それはそれで、尊いことである。

筆者にとって、この議論で最も重要なことは、「イザナミ」の坐すところと云うのが「根の国」だと云うことなのである。「死と再生の異界」である「根の国」は、山中を「異界」と見なし、「山の神」を祭った人々の山中「異界 (他界) 」の感覚と、驚くほど近接した観念として理解されるからである。そして、このことは「イザナミ」の「死」を巡る逸話と相まって、「山の神」を信奉する山民たちの「触穢」の感覚とも見事なパラレルを見せるのである。

そして、ここで話を「湯川」氏の報告に戻すと、 (「小塩」では) 純粋に山仕事で生活を立てている人々の間に強く「産穢」「死穢」が「火」を介して意識されていると云う事実は、「火の神」誕生譚と、極めて近しいシンボリズムを内包していることになる。そして、そこから発する「触穢」の発想は、「生」と「死」の両極の「境界」を強く意識するところから発しているのではないかと、筆者は強く思うのである。

このようなシンボリズムの内部にあって、「生」と「死」は、共に「変化」であると云う点で、「変化しない日常」と区別されるのであり、その「境界域」にあっては、「A/非A」の対立を、逆転あるいは同化するような、構造転換的な「変成力」が発揮されるがために、人々は崇敬の念を抱いてその「場」に集まり、臨みもするが、その一方で、その絶大な霊的発生力に対して、身を引くような危険も感じるのである。そして、崇敬も、危険視としての怖れも、どちらも無闇にその対象に近寄らないことを基本的な心性とするために、後世、この観念が「忌避」と云う形で固着化されていったのだと思われる。

「女人禁制」の起源としては、しばしば「神道」「仏教」による「触穢」観が広まった結果と云う説明が最も蓋然性の高い説明として扱われることが多いが、実際にはよく耳にする説で、一般に俗説として軽く扱われている、女性は霊力が高く、「霊」などに感応しやすいので、山中などの霊域に連れてゆくと「神」だけでなく、諸々の精霊が憑きやすく、危険だからだと云う説明は、霊力の重層的な働きにおける「境界性」や、そこに立ち現れる「変成」の契機などのダイナミックなメカニズムなどを見落としてはいるが、その基本的な着想においては、意外にも的を射ているのかも知れない。そして、筆者の「境界」での渦巻く「変成力」の衝突と云う観点を念頭に入れると、「女人禁制」の禁忌が破られると天候が荒れるなどと云った俗信が各地で見られたこととも、上の理解はすんなり合致することになるのである。

*

以上のように見ていくと、女性と云う性は、太古の人々にとって、その「身体」自身が「生成/変成」の契機としての「境界」を成していることが理解される。そして、それが故に、女性を「境界」での儀礼に駆り出すことは絶大な力を引き出す可能性を秘めつつも、「境界域」での地殻変動にすら比することの出来る巨大な力の衝突を生み出す危険性も同時に抱えることになったのである。少なくとも、祭祀を行う上からは、一つ間違えば、人々の願うものがすべて転倒して示顕する可能性すら秘めていることになったのである。

このすべての順逆を転倒させうる「場」と云うのは、「境界」そのものが持つ「変成」の力に本来的な性質で、決して女性を介さないと発生しないと云うものではない。ただ、個々に独立した「境界」を形成する女性の身体が存在することで、その過剰な発生が促進される契機となると云うことに過ぎない。それ故に、「異界」の横溢たる生命力としての霊力に触れて、自らの住む世界の活力を「再生」させようと云う「マツリ」の試みは、その「変成力」が極めて高い霊域などでは、一旦その過剰な発生が暴走を開始すると、人間の祭儀などで統御出来る限界を遥かに超えた現象に展開しかねないのである。しかも、その過剰な発生の後に、順逆の転倒の故に、女性の身体はそれだけ外的な力に対する受容体として無垢で敏感なものと化してしまう危険性も含んでしまう、と云う理屈になる。逆に云えば、その過程で、女性が「荒神」として示顕することも考えられたのである* 。

* この辺りは、まだ十分な考察をしたとは云えないが、「戸隠」の「紅葉」伝説や、各地に伝わる山中の「鬼女」や「山姥」の伝説などは、そもそも根源的な「山の神」の脅威が退化した結果生まれた伝承だとも捉えうるが、一方、似た理屈で、山中で「荒神化」した女性の姿を描いた伝承だとも捉えられなくもない。「山姥」の退化した伝承の形として、有名な「寒戸の婆」の話があるのも、そこでは女性の「変成力」の気配がほぼ跡形なく消え去ってしまっているにも関わらず、何故かやはり怖れられていると云う点でその残滓を見せており、この点では象徴的な伝説であると思われる。

また、山中などの「異界」の「境界」をなす「場」では、女性の身体が正負双方に強い発生力を秘めてしまうと云う考え方は、そのまま平地などの「境界性」の低い地ではむしろ女性の存在を抜きにしては、「異界」との交感は困難であると云う事実も示唆する。しかし、いくら交感が困難だからと云っても、「境界性」の低い (すなわち「日常性」の高い) 平地にあっては、周囲の環境自体が、一旦発生した「境界」の「変成力」の渦に対する耐性も低く、別の意味でその統制は必要不可欠の要件となるのである。平地での「マツリ」は、したがって、まずは「神的霊威」を呼び起こす行いと、その後にそれによって発生する「変成」の「場」を統御する手続きに、手間のほとんどを割くことで当初は成立していたのではないかと推測される。かつて、男女一組の祭祀者によって祭祀が取り仕切られていたと云う事実も、祭儀の何でもかんでもを性行為と結びつけないと済まない人々の解釈を取り敢えず棚上げにしておけば、実は「マツリ」の二つの基本的な行い、すなわち「神威の喚起」と「変成力の統御」と云う二つの役割の遂行を、女性と男性とでそれぞれ分担していたと見なすことも出来るのである* 。

* ここで筆者は、「神威の喚起」の最終段階を「神懸かり」のような現象として捉えているのだが、これは主に「境界性」が高いと考えられた女性の役割だったと推測している。もちろん、古い記録には男性による「神懸かり」も記録されているが、男女がほぼ同確率で分担するのが常態だったと判断する根拠は乏しい。「境界性」の高い人物と云うのは、何も女性に限られた話ではなく、「童」や「障害者」、あるいは人に優れて魁偉な肉体的特徴を有するものなども同等に考えられた歴史があるため、男性が「神懸かり」を行なったとしても、特に不思議とするには当たらないのである。問題は、それを統御する側に女性の「巫」が存在したかどうか、と云うだけである。

筆者は、ここまでに述べてきたような理屈に従って、後世成立した霊山などへの女性の登拝を禁止する「女人禁制」「女人結界」の観念は、「修験道」を媒介して、「神道」や「仏教」の「女性の穢れ」観が移入される以前に、既に地域によっては女性の山中での祭祀を避けようする風潮があったことにその深淵を有しているのではないかと考えている (後に「修験道」や「神道」の影響のあったことを否定しているのではない) 。したがって、そのような地域では、女性は元々、「里」あるいは「家庭」での祭祀を司る性格が強く、「異界」への参入は、特別なとき以外は行われない傾向があったのではないかと、現時点では考えているのである。


男性の「女性化儀礼」を巡って

ここまでは、「女性の境界性」などの観点から、「異界」と女性の持つ「変成力」の葛藤と云う視点を導入して、「女性のケガレ」にも触れつつ、霊山登拝などに関する「女人禁制」のメカニズムについて、乱暴な私論を展開してきた。以下は、今までの議論を踏まえて、「黒沼神社」の「羽山籠り」儀礼などに見られる「男性の女性化儀礼」について、やはり乱雑な私論をぶつけてみたいと思う。
*

「黒沼神社」の「羽山籠り」の際に、全員男性である祭祀者たちが、「お籠り」の最中は、一貫して互いを「バッパァ」だの「オッカァ」だの「ヨメ」だの、「家庭」内で使用される女性呼称で呼び合うと云うことは、既に何度か見てきたが、そのようなことが行われるのは何故か、と云うのがここでの最大の問題となるのである。

従来云われてきたように、女性を (公的な) 祭祀から締め出した結果、1) かつては女性が担っていた祭祀上の役目を男たちが担うようになったことと、2) 「羽山籠り」の祭儀がそもそも豊作祈願の性格が強いことから、「生産性」の象徴として「生殖」を模した儀式が行われるのだが、その際、男たちだけでは祭儀の執行が難しいため、現在のような形になったと云う二系統からの説明は、a) 何故、女性役を担うものだけが「女性化」するのではなく、参加者全員が「女性化」しなければならないのかと云う点と、b) 逆に、みんなが「女性化」してしまったら、やはり「生殖」の模擬的な祭儀は出来ないではないか、と云う少なくとも二つの点において、腑に落ちない部分を残すのである。

この疑問点は、「女性化儀礼」のメカニズムを瑕疵なく説明しようとすれば、当然通らねばならない論理的な道筋の確認における重大な発想を構成しているにも関わらず、何故、過去の研究者たちは簡単な理屈を表面的に仕立てることで済ませてしまい、この問題を追究する作業を怠ってしまったのか、不思議でならない。仮に、ある時点で女性を祭祀から追ったために、祭りの運営と実行の在り方に諸般の変更が加えられた歴史があったとしても、そこで男性たちが互いを女性呼称で呼び合わなければならない必然性は前提的には、まったく発生しないのである。

筆者は何故、女性が、山中などの「異界」との「境界域」での祭りに参加しないのかをここまで見てきた。それは、後世語られたような「不浄」や「汚れ」の故でもなければ、男性によってかつて女性が持っていた祭りへの参加権が停止されたことのみによるのでもないと、筆者が考えているのは、既に述べた通りである。それは、女性の持つ存在的な「境界性」の故に、「マツリ」と云う、「日常」の向こう側と接触しようとする微妙な儀式、すなわち一つ手続きを間違えば、「恩恵」でなく「災厄」を引き出してしまうかも知れない儀式に当たって、女性の「境界性」が、神々との「境界」での祭儀に関して、ネガティヴな形で干渉することを避けようとするのが本来の在り方だったのではないかと、考えたのである。

しかし、仮に筆者のこの考えが正しかったとしても、それだけでは女性を「お籠り」や「登拝」に参加させないことの説明にしかならないのは明白であり、その過程で祭祀に参加する男性たちが「女性化」しなければならないことの説明にはまるでならないことも同様に明らかである。「男性の女性化儀礼」を従前に説明しようとするならば、その儀礼に潜む、男性が積極的に女性に変身しなければならない何かの信仰上の論理を見つけ出さねばならないのである。

ただし、筆者は、この論理について、実はあまり複雑なことを考えているわけではない。むしろ、その単純な推論に至るための思索的な準備にこれまで紙面を割いてきたのである。しかし、その結論部としての筆者の推論は、あまりにもシンプルであっけないものと思われるかも知れない。その論理とは、以下のようなものである。

1) 「変成」の象徴としての両性具有

祭儀の中での「女性化儀礼」は、そもそも原始的な信仰に含まれる「変成」への願望を表わすものである。

2) 両義的な受容体としての両性具有

上記の象徴性の獲得と同時に、「境界域」での大きな「変成力」の発生と流動が、「あの世」と「この世」の「境界」を挟んで両義的に作用することを受けて、その力の流れを統制して必要な均衡を志向するための両義的な受容体として、祭祀者の身体を設計・  構成するためのものである。

1) に関しては、より分かりやすい例を使って記すなら、要するに「異界」から必要な生命力としての「変成」の契機を引き出すための「呼び水」みたいなものだと云うことになるが、これでは単純化が過ぎるかも知れぬ。2) に関しては、こちらこそが「男性の女性化儀礼」の論理の実質的側面を表わすのだが、この理屈は上の説明で十分に明白であろう。

この考えは、一見荒唐無稽に感じられるかも知れないが、それは祭祀そのものやその内の「生殖・性行為」を模した祭儀をすべて本質的に「農耕儀礼」として見るからであって、「生成」のみでなく、「再生」あるいは「変成」を願う儀礼として捉えると、さほど不自然なものではなくなる。そのような考えの下では、「生殖」も「変成」の一部なのであって、決して異なる地平の観念ではないのである。あるいは、別の見方をすれば、「生殖行為」は、「変成」の生ずる契機を提供するものなのかも知れないのである。これに対して、「生殖」を「変成」の契機と見なすのはおかしいと考えるならば、そのような感覚は、近代医学の生殖・再生産に関する知識に基づいたものに過ぎないことを肝に銘ずる必要があろう。太古まで遡らずとも、「明治・大正」の頃の新聞にさえ、多くの人間と動物の通婚譚が掲載されていることを見れば、このような理屈が一種の自明の論理として当時までの社会に受容されていたことは、一目瞭然なのである。

このように理解した上で、最後に残される問題は、祭祀者の男性が「女性化」するに当たって使用される女性呼称が、何故、「家庭」での階層を表わすものなのかと云うことである。前述の「美江朋子」は、「加藤美重子」の論考を参考にして、かつて女性も「宮座」に属することを通して共同体の祭祀への参加が認められておりながら、その参加も、「中世」の中頃から少しずつ後退していったと見なすのだが、女性が母性の強調によって公的な行事から少しずつ締め出されていく過渡的段階で、「宮座」への女性の参加資格が、本来は「頭家」の「女 むすめ 」であったものが、徐々に「女房」へと変化していったことの名残だと見ているようである。そして、「女房」である以上、その社会的な役割はやがて限定されて、強調された「母性」の枠内で、「家庭」の中へと押し籠められるようになった結果、遂には多くの地域で「宮座」への参加から締め出されるようになったと云うのである (美江、1989 / 加藤、1985) 。そして、「羽山籠り」に見られるような男性を女性呼称で呼ぶ慣習は、この「宮座 (女房座) 」時代の信仰の残滓であるとして、まさにかつて男女がセットで祭祀を執り行なっていたことの証だとするのである。

筆者は、「美江」氏の所説に対して云うべきことはほとんどないのだが、当然のことながら、祭祀における女性の尊重が助成の公的な地位からの締め出し以降の観念であると云う点と、男性を女性呼称呼ぶ慣習が、「宮座」時代の名残に由来すると云う考えには、いまのところ同意出来そうにない。

「黒沼神社」の「羽山籠り」の祭祀を垣間みれば、筆者の云う「神威の喚起」の段階での精進潔斎の儀礼が、主に「火」と「水」を扱ったものであることは誰でも気づくことであろう。この二つは、日々の生活にあっては、女性の司る領域であり、「竃」や「井戸」さらには「河川」や「湖沼」、それに湧水なども、みな「異界」との「境界」として意識され、「ケガレ」とも深く関係する観念領域を形成していたことは無縁ではあるまい。「羽山籠り」の神事で、「ハヤマの神」に奉る神饌を入れた俵を「おかまさま」と呼部のも、何かしらこのことと関係するものと思われる。「中世」以降頓に発達したと考えられるいわゆる「女房詞」としての「忌み言葉」の体系も、主に台所や風呂などの「火」や「水」周りの事物に対して行われていることとも、ある種の一貫性を維持しているものと思う。したがって、「羽山籠り」における女性呼称の使用に関しては、そもそも「日常」的に触れる「里」での祭祀が、女性たちによって「家内」、例えば「竃」「水場」などで行われていたことを反映しているだけなのではないかと、筆者は考えている。仮に、具体的なそれぞれの女性呼称が「中世」の「宮座 (女房座) 」に由来するものだとしても、そのこと自体の起源が、「火」と「水」の祭祀が、家庭内では台所を中心として、女性たちによって担われていたことの隠喩として成立したものなのではないかと推測されるのである。

「美江」氏らの見解では、祭祀における女性の尊重は、女性と云う性を「母性」の強調によって「家庭」のイデオロギーへと封じ込めることで、同時に女性を村落の公的な執行の場から締め出していったことの象徴的な代替事象だと云うことになる。その一方で「男性の女性化儀礼」の中でも、「黒沼神社」の「羽山籠り」に見られるような男性同士による女性呼称の使用は、女性がいまだ「宮座」に加わっていた頃、その参加資格が「女 むすめ 」中心から「女房」中心へと移った結果発生した、座内での女性の呼び方の名残だと云うことになる。しかし、この見方の問題は、「羽山籠り」の祭儀に男性呼称が残っていないのだから、「宮座」へ女性が参加していた時代には、女性のみが祭祀を執行していたかのような論理的な矛盾を抱え込んでしまう点にある。問題をシンプルに見て、何故、「羽山籠り」での女性呼称の使用が全男性に及ぶのか、と云う筆者が出発点で提示した疑問に立ち返ると、このような矛盾はどうしても看過することが出来なくなるのである。

逆に、筆者の見解は、検証が足りないと云う初歩的なことを除けば、もしも「男性の女性化儀礼」が、我が国古来の「異界」との接し方から興ったものであるならば、何故、そのような現象がより広く各地で観察されないのか、と云う点に最大の弱点を抱えている。「男性の女性化」が見られるだけでよいならば、実は各地にそのようなお祭りは存在するのだが、すべての参加者が「女性化した男性」で構成されるお祭りとなると、なかなか耳にすることはない。ましてや、その男性たちが互いを女性呼称で呼び合っているとなると、「黒沼神社」の「羽山籠り」以外、筆者は寡聞にして知らない。

この件に関しては、男性全員による女性呼称の使用は、完全な「女人禁制」の祭儀を前提としているのだから、そのような禁忌が全国的に薄れて、ほとんど残存していない以上、その実例がほぼ存在しないのはある意味やむを得ないとは云える。それと同時に、「羽山籠り」に見られるような特殊な事例は、仮にどのような解釈をしたところで、他に類例を見ないのだから、実例の少なさを以て反論の証とするのは不毛以外の何ものでもなかろう。
*

以上で、「男性の女性化儀礼」と女性呼称の使用に関する議論は終わったことになるのだが、最後に蛇足として、「イザナギ」の「黄泉の国」訪問譚に関して、前項で書き残したことを、本項の主題と絡めて、ここに書き足しておきたい。

ここまでに見てきたような「生成」「再生」「変成」と云う「境界」での力の発生は、「記紀」に見られる「イザナミ」の「火の神」誕生と女神の死を巡る伝承に、象徴的にだが、はっきりと表れているのは、既に見た通りである。そして、その後、「黄泉」から帰還した「イザナギ」が、「禊」を通して「あの世」から持ち来った過剰な「変成力」としての「ケガレ」を送り返すと、それを契機に、単身、幾柱かの神々を誕生させているのも、この説話の持つ「異界」の力に対する両義的な解釈を象徴しているとも云えるのである。ここに見られる「イザナギ」の両性具有とも云えるような生命力の横溢が、「異界」としての「黄泉 (筆者は根の国だと思っている) 」から、その力を浴びて帰還したときに発露していることは、注目に値する。

前項における「根の国」と「黄泉の国」との対比の議論では、「根の国」と「黄泉の国」を単純に同一視する従来の考え方に対して、両者の相違に着目する見解をいくつか紹介した上で、筆者自身はその異なる二つの「あの世」観にあって、「根の国」により強く表れた「異界」観念こそが、本源的な観念であると云う立場から、特に必要を要する場面でない限り、両者を基本的には同一のものとして扱うことにしたのである。しかし、その過程で、「柳田國男」や「折口信夫」らの「水平構造」の「他界」観や、それに基づいた「次田真幸」や「三浦佑之」の諸説も簡略に紹介した。

「三浦佑之」氏は、「三品彰英」の「日本建国神話の三類型」 (三品、1974) を下敷きに、以下のように記して、「根の国」と「黄泉の国」を根本的に異なる観念として扱っている。筆者は以下の見解に賛同した上で、「黄泉の国」は「根の国」とは違う観念であるが、「記紀」の執筆者たちはいまだ両者を混同して記述しており、その意味で神話の本源的な部分では「根の国」の観念が優勢すると考えているのである。

『古事記』は、黄泉国と根堅州国というまったく異質な二つの世界を、神々の系譜化と同様の意識によって一つの世界に繋ごうとしている。そしてそれは、三品彰英が言うごとく、「根ノ国の祖神であるスサノヲ」と「高天原系の祖神」アマテラスとを「同胞として血縁的に結びつけ」ようとしたためであろう。
三浦佑之 (1976) 「黄泉国と根堅州国-死後世界の構造」
古代文学会/編 (1976) 『古代文学 』第十五号、武蔵野書院
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/yomi-to-ne.html

次田真幸」氏は、「地平/水平」の彼方の「異界」と云うイメージに見られるような、「水平構造」に基づく「根の国」に対して、「垂直構造」に根差した「黄泉の国」の観念は、「記紀」における天皇神話成立の過程で天皇の故郷の「高天原」を「天」とした時点で、「水平」だった「この世/あの世」の構造が、「垂直立体構造」へと変化して、「高天原ー中津国ー根の国・黄泉」と云う構造が成立したのではないかと論じている (次田、1985) 。筆者は、この影響を北方的な葬制との関係で捉え、死者の赴く「異界」を、「桃源郷」にも比することの出来る、光と生命力の横溢とした「死と再生」の世界としての「根の国」としてではなく、「闇」に支配された「死後の世界」に特化したものとして捉える認知上の推移も、この「垂直構造」の導入によって、「あの世」が「地下」として現実化されたことによって促進されたものと考えている。両者が本来同一のものであった形跡は、「スサノオ」が、「根の国」に行くとて、「妣の国・根の堅洲国」と表現していることにも表れている。

「記紀」の「黄泉の国」訪問譚は、このような「垂直構造/死と闇の世界」への「異界」の推移が混ざり込んだ中間産物としての物語だと考えられるのため、筆者は敢えて「イザナギ」の「禊」の話も、ここの話題に含めたのである。

ちなみに、「イザナミ」の「死」を巡る生死譚は、「中国」から伝来した「五行説」の影響を強く受けていると云う指摘もなされている。筆者は、この指摘に関しても賛同する。ただ、だから「記紀」のこのくだりはすべて「中国」化の産物としての政治的なフィクションだと云う見解には同意出来ない。

確かに「イザナミ」や「カグツチ」から化生する神々は、「五行説」と対応するものが多い。敢えて云えば、「木」に当たるものが見当たらないが、これは「山津見」八神の系統につながると考えられる「山の神」信仰が、根源的には「樹木霊」に対する信仰から発している可能性を指摘する「N. ナウマン」の見解などを容れると、この点も該当することになる。

しかし、ここでいくら「五行説」に則った神格の配列が見られたからと云って、その神話のモチーフや構造自体が「中国」由来のものとは思えないと云う点や、またそこに現れる後世の「触穢」の観念へとつながる諸要素の組み合わせなどが、非常に日本的な精神性を既に反映している点なども、簡単に見過ごしてはならないだろう。ましてや、もしも「山津見」の神々が、我が国では本来「樹木」の神霊と考えられていたとするならば、その事実を知らずに、「五行説」に付託してこのくだりを書くことは出来なかったはずだ、と云う点でも、ここの記述が外国から借りたフィクションだとは到底云えないのである。

我が国の神話に対しては、「大林太良」などによって、「朝鮮半島」や「ヴェトナム」「ミャンマー」などの「東南アジア」諸国、それに「スリランカ」などと比較した結果、日本の神話が大陸の大文明 (中国) からの高い独立性を維持していることを指摘していることなども忘れてはならない。例えば「朝鮮半島」最古の歴史書である『三国史記』には、「新羅」王家の始祖は「前漢」の「孝宣帝」の五鳳元年の四月丙辰の日に即位したと記されるなどの例があるように、「朝鮮半島」や「ヴェトナム」の神話では、「中国」との関わりから、自らの歴史的な権威付けを図ろうとする意図が強く感じられるそうである。このような傾向は、大国「インド」と隣接する「ミャンマー」や「スリランカ」にも見られると云う。それに対して、日本の神話は、大陸の大文明との関わりを強調せず、独自の「高天原」と云う宇宙観の中で、自らの王権の基礎的な権威を築き上げている点が注目されると「大林」は指摘する (大林、1990) 。

もっとも、同じ論考で、「大林」は、日本の建国神話が「中国」や「東南アジア」のものとは似ず、「朝鮮半島」のそれと酷似していることも強調している。この事実は、かつて「騎馬民族説」が国中を席巻したときに、その論拠の一つとして援用されることが多かったため、意外とよく知られていることかも知れない。この類似について、「大林」は、特に政治性の強い神話については「朝鮮半島」に限らず、北方系の要素が強いことも述べている。

「大林」のこの見解が興味深いのは、実はそれが先刻来の「根の国・黄泉の国」の議論にも該当するからなのである。これは飽くまでも大雑把な一般化に過ぎないが、先ほど述べた「水平構造」の「他界」観は南方系の特色が強く、「垂直方向」のものは北方系の特色が強いと云えるのである。「大林」の見解を援用すると、皇室の先祖神とつながる「イザナミ」と「イザナギ」の決別のくだりで、大陸的な「垂直構造」の「他界」観が混入しているのは、返ってそれと対置される「水平構造」の「根の国」の観念こそが、我が国古来の「他界」観として本源的だと云うことの傍証となるとも云える。

同様に、このくだりにやや大陸的な脚色が加わっていると云うならば、本来は「根の国」だった「黄泉の国」から帰還した「イザナギ」が、「禊」をすると日本神話の主神となる三柱の神々が生まれると云うモチーフも、「死の穢れ」を払う場面と云うよりは、身についた「異界」の「生命力」を削ぎ落とすと、貴い三人の神が誕生したと理解出来るのである。そしてそのとき、男神の「イザナギ」は、一人で子を生しているのであり、その意味では「両性具有」の存在として描かれているのである。



3. シリーズ全編の要約 + 「猫神」について

今回の「山舟生・羽山神社」の紹介は、予想外に長編になってしまった。実は、今回のシリーズ記事に含めなかった原稿もだいぶ用意したのだが、ただでさえ無駄に長い文章となってしまったため、すべてを使うのは控えることとした。

以下、要点を簡潔に列挙する。

A. 民俗学における通説的前提

1. 「ハヤマ信仰」は、一般に「祖霊信仰」に基づいた「農業神 (主に稲作) 」の祭祀の体系と考えられている。

2. 「ハヤマ信仰」は、古くからあった土着の信仰に、「中世」以降、「修験道」の影響で、仏教色を強めたものとされる。

3. 「ハヤマ信仰」における「女人禁制」は、本来的なものではなく、「修験道」の影響で後世に付け足されたものである。

4. 「黒沼神社」の「羽山籠り」に見られる「男性の女性化儀礼」は、かつて女性が担っていた重要な祭祀上の役目を、「女人禁制」によって女性を追放した後にも維持するために、男性を女性化させることで象徴的に代替している。

5. 「山舟生・羽山神社」にある「猫神」碑は、「近世」以降、「信達地方」で発達した「養蚕」に関係する「蚕神」であって、「ハヤマ信仰」とは何ら関係はない。



B. 筆者の疑問と考察

1. 「ハヤマの神」とその信仰を巡って

1a-0. 「ハヤマ信仰」は、「祖霊神」や「農業神」である前に、本来は山中を「異界=あの世」と考えた人々による、「異界」との正しい接し方の認知的な体系ではなかったか。

1a-1. 「異界」は、「生」と「死」が交錯する両義的な世界で、「日常的」な「生」には「死」を、そして「日常的」な「死」には「生」をもたらす、両義的な生命力の溢れる世界である。この両義的な生命力の横溢は、多くのものの「生成」あるいは「変成」の契機となるが故に、「マツリ」としての祭儀は、この力の統御に気が配られたはずである。

1a-2. 両義的であるが故に、「異界」との接点となる「境界」は、正しい手続きで踏み入らねばならない領域となる。

1a-3. 正しいタイミングと手続きで接すれば、「異界」はその横溢たる生命力の故に「豊穣」を「この世」にもたらし、その手続きを過てば、その逆の結果として過剰な生命力の奔流を呼び寄せ、「災い」を引き込むことになってしまうのである。

1b. 「祖霊信仰」に関しては、今のところ深く考察はしておらず、最もシンプルに、山中を「異界」と見たが故に、死後の「魂」もそこに行き着くものと考えられたのではないかと思っている。そして、「異界」との正しい手続きを踏むときに、「あの世」にあってその祭儀を媒介してくれるのが「祖霊」であると漠然と考えられたのではないと考えている。したがって、筆者の認識では、「ハヤマの神」は本来は「祖霊」とイコールではないと云うことになる。

1c. 「農業神」としての側面は、元は数ある「豊穣」の一つに過ぎなかったと思われる。平地での「水田耕作」が社会全般で優勢になるに従い、「ハヤマ神」の御利益も、社会の主流派へとシフトしたものと理解している。

1d-0. 「ハヤマ神」は、元々は「山」そのものを「異界」と見立てることによる「山の神」信仰に発すると思われる。「山の神」については、「柳田國男」以来の「去来する農業神」と云う考え方の不備を克服しようと、「N. ナウマン」以来、民俗学プロパーの外側に位置する研究者を中心に諸説が唱えられているが、大雑把にまとめると次のようになる。

1d-1. 「山の神」は、狩猟や伐木などの山仕事を生業とする人々によって奉じられた「樹木霊」や「動物霊」に対する崇拝、あるいは峻厳たる「山岳」そのものに対する崇拝として開始された後、平地民の「農業神」の観念が付加された、と云う見解。

1d-2. 上の見解に対して、二つの「山の神」を媒介する観念として、「焼畑農耕民」の「山の神」観念を挟み、異質な「山民の山の神」と「平地の山の神」が習合したと云う見解。

1d-3. 筆者は、「山の神」の歴史的な理解は留保しているのだが、個人的には「ナウマン」以降の諸説には賛同するところが多い。「焼畑農耕」の媒介に関しては、明察としか云えない。しかし、「山の神」の基本神格に関しては、「水神」及び「陽の神」を中核に据えた原始的な「天神」信仰とも呼ぶべき性格のものだったのではないかと考えている。



2. 「修験道」との関係

2-1. 「修験道」が「ハヤマ信仰」に与えた影響に関しては、筆者はほぼ感知しないが、「山舟生・羽山神社」に伝わる伝承から、「修験道」が「女人禁制」観念を導入したと云う考えには賛同出来ない。



3. 「女人禁制」との関係

3-1. 「ハヤマ信仰」の「女人禁制」は、「修験道」の導入以前から形成されていたのではないかと考えている。

3a. 「ハヤマ信仰」の「女人禁制」は、本来は山中に見立てた「異界」の横溢する両義的な生命力を、通常はいかに封じ込めるかと云う課題と同時に、いかにその生命力が漏洩/侵犯して、「日常」の世界を乱さないか、と云う発生の延長線上に位置していると思われる。

3b-0. 上のことと密接に関わる「女性のケガレ」は、本来的には「汚れ」「不浄」とは、まったく関係はない。

3b-1. 「女性のケガレ」は、「産血」や「経血」が「不浄」と考えられたことに起因しない。さらには、「血穢」自体が、「死」に対する怖れに発していると云う考えは、一面的にしか当たっていないと思われる。しかも
、「血穢」から「産血」「経血」が忌避され、「女性のケガレ」へと発達したと云う見解は、むしろ逆で、「お産」での流血の両義性から、「お産」自体が「生死」の「境界」と見なされ、その扱いに対して思う。細心の手続きが編み出されていったのが、後に「忌避」と云う形でタブー視されていく土台になったのではないかと思う。

3b-2. 上の「女性のケガレ」に対する見解からも見えるように、筆者は、「ケガレ」を「忌避」 (ましてや後世の「汚れ」「不浄」) とは、元々本質的に異なった性質の観念だったと考えている。それは、「日常」としての「この世」と「異界」とが接する「境界域」において、「異界」の横溢とした生命力の故に、現世側に力の不均衡を呼び起こす可能性を秘めた閾とその属性のようなものだと理解している。本文では磁力の喩えを使ったが、ある意味では物理的な実態が感知され得ないのに、われらに付着しうるものとしては、放射線と似ているとも云える。適度な照射は無害であるだけか、時と場合によっては治療にさえ使えるものが、一定量を超えると致命的になる、と云う点でも、この比喩は生きているかも知れない。

3c. 女性は「産む性」であるが故に、「生産性」と「豊穣性」の象徴として、太古は祭祀の中心であったと云う従来の見解は、間違っていないか。 (祭祀の中心だったが、それは「お産」から連想される「生産性」や「豊穣性」の故ではない。)


3d-1. 近年、「女性史研究」の方面から提唱されている見解で、かつて、祭祀は「豊穣」を願って「生殖・性交」の象徴的な模擬として行われたが、「古代末期」以降の官制に代表される男性中心的な社会制度の普及と共に、女性は「産む性」として、その「母性」を強調されて、社会の公的な領域から追われ、専ら「家庭」の中に押し籠められたと云う見解が出されている。

3d-2. 上の主張は、おそらく後半はその通りだと思われるが、太古の祭祀は「生殖」の象徴儀礼だったのだから、男女一組の祭祀者が基本で、どちらも同等の祭儀的重要性の下で祭祀は行われていた、と云う見解には、筆者は賛同出来ない。

3e-1. 女性は、その象徴すると考えられた両義性の故に、祭祀においても、両義的な役割を担ったものと思われる。すなわち、「恩恵」の極大化も、「災厄」の極大化も、呼び寄せうる存在として特別視されたのではないかと云うことである。筆者は、これを「女性の聖性」あるいは「女性の境界性」と呼んでいる。後世、と云っても「古代末期」以前、この性質が「神の媒介者」としての女性と云う漠たるイメージを生成したものと思われる。

3e-2. 上の認識に立つと、女性自体が「生成」及び「変成」の契機としての「境界域」を形成していることになる。その女性が、「家庭」の中では、やはり「水場」や「竃」「台所」などの、「変成」に関わる領域を司っているのは偶然ではないかも知れぬ。

3e-3. 女性自体が「境界域」を成すが故に、女性を「境界」での儀礼に駆り出すことは絶大な力を引き出す可能性を秘めつつも、「境界域」での力の衝突を生み出す危険性も同時に抱えることになる。したがって、霊山への女性の登拝を禁止する「女人禁制」「女人結界」の観念は、「修験道」を媒介して、「神道」や「仏教」の「女性の穢れ」観が移入される以前に、既に地域によっては女性の山中での祭祀を危険視する風潮があったのではないかと考えている。したがって、そのような地域では、女性は元々、「里」での祭祀を司る性格が強く、「異界」へ参入は、特別なとき以外は行われない傾向があったのではないだろうか。



4. 「男性の女性化儀礼」に関して

4-1.
 「黒沼神社」の「羽山籠り」における、「女人禁制」の理屈に関しては、上の「3e-3.」で見た通りの理屈が働いて成立したものではなかろうか。

4-2. 上記の「羽山籠り」の際に、全員男性である祭祀者たちが互いに女性呼称を呼び合うのは、そもそも「日常」的に触れる「里」での祭祀が、女性たちによって「家内」、例えば「竃」「水場」などで行われていたことの残滓と捉えることは出来ないか。

4-3. 祭儀の中での「女性化儀礼」は、そもそも原始的な信仰に含まれる「変成」への願望を表わすと同時に、「境界域」での大きな「変成力」の発生と流動が、「あの世」と「この世」の「境界」を挟んで両義的に作用することを受けて、その力の流れを統制して必要な均衡を志向するための両義的な受容体として、祭祀者の身体を設計・構成するためのものである、とは考えられないだろうか。この考えは、一見荒唐無稽に感じられるかも知れないが、それは祭祀そのものやその内の生殖を模した祭儀をすべて本質的に「農耕儀礼」として見るからであって、「生成」のみでなく、「再生」あるいは「変成」を願う儀礼として捉えると、さほど不自然なものではなくなる。

4-4. 上記の「生成」「再生」「変成」と云う「境界」での力の発生は、「記紀」に見られる「イザナミ」の「火の神」誕生と女神の死を巡る伝承に象徴的にだが、はっきりと表れている。そこでは、「火」と「血」のイメージに媒介されて、人の自然への働きかけから生まれ出る「変成物」に関わる神々が誕生し、働きかけられる対象としての「カグツチ」の身体は「山の神々」に化生している。

4-5. このことは、「記紀」における「根の国」の概念と深く関わるものであることも本文では指摘し、それが後世の「触穢」の観念と連なるものであるとも述べた。また、それに続く「イザナギ」の「禊」のくだりでも、「非日常」的なまでの生命力が横溢とした「死と再生の国」としての「根の国」をくぐり抜けることで、「イザナギ」が単身で新たな誕生を生成していると云う点で、両性具有化していることについても注意を喚起している。

*

ここまでは、本文に書いてきたことである。しかし、最後に「猫神」ブログである以上、「猫神」に関してもいくらか考察を加えてから、終りとすることにしたい。文の体裁は、上記と同様、箇条書きのメモに準ずる。

5. 「猫神」との関係

5-0. 正直云って、「猫神」と「山舟生・羽山神社」の関係は、それがその境内にあると云う事実を除くと、確かなことは一つもない。「山舟生」地区には、他所に比べて多くの「猫像」「猫碑」があると云う事実は、すなわち「羽山神社」に直結するものではない。

5a. ただし、「山舟生」地区の「猫神」が位置している場所は、概ね集落から見ると「ハヤマ」に当たる地形になっている。中には、「鍛冶屋場の薬師瑠璃光如来堂」のように、かなり濃厚に「ハヤマ信仰」の形跡を残していると思われる場所もあった。

5b-0. 「羽山神社」の「猫神」碑は、「本殿」真裏の切立った斜面に鎮座しており、ただの境内祠にしては、 (言い方によっては) 随分と不遜な位置に鎮座していることになる。筆者は、これには何らかの事情があるものとして、以下のように考えた。

5b-1. 「猫神」は、単なる「養蚕神」ではなく、「羽山神社」とより本質的なつながりがあるものとして理解されていたのではないか。そもそも、「信達地方」では「蚕神」として「申」「庚申」などの石仏の他、「馬頭観音」なども信奉され、一方で素直に「蚕神」を祀ったり、あるいは地元伝承として、「養蚕」の守り神「小手姫」なども有している。にも関わらず、これだけの大養蚕地帯で、「猫神」を祀った例は (他地域寄りは多いとはいえ) あまりに少ないのも気になる。「猫神」は「養蚕の神様」だと云うのは、どちらかと云うと近年の郷土史家たちの弁によるところが多く、地元の人たちが積極的にそう意識している気配は意外にも薄かった。

5b-2. ただし、「蚕神」と云うのは、ある意味で「虫」の神とも云える。「折口信夫」が「常世」と「根の国」を同系統の観念として理解していたことは知られているが、『日本書紀』の「皇極天皇紀」登場する「常世の虫」は、「この世」に福徳をもたらす「虫」だった上、これを邪教として勅命で鎮圧したのは、当時の我が国の「養蚕」を司っていた「秦氏」の家長「秦河勝」であったのも興味深い。

5b-3. また、「かくかゝ呑みては、
気吹戸 いぶきど に坐す気吹戸主といふ神、の国・の国に気吹き放ちてむ。かく気吹き放ちては、根の国・底の国に坐す速さすらひめといふ神、持ちさすらひ失ひてむ」とある「六月晦の大祓」では、海の彼方や村はずれなどの「異界」の「境界域」へと害虫などの「虫」を送り出すことが書かれている* 。「常世の虫」は、「異界」からやってきて「福徳」をもたらし、「この世」に害をなす「虫」は、正しい手続き (お祓い) を通じて「異界」へと送り返されるのである。この事実は、「異界」と「虫」の関係を示唆するだけでなく、「異界」を巡る両義的な祭儀の基本を示してくれている。「福徳」をもたらす「虫神」の系統に、「猫」があれば、これが「蚕神」として理解されたことの根本的なイメージ性は担保される。また、「福島県」各地の「羽山神社」は、近年まで「虫除け」の札を出していたところが多い。

* もっとも「六月晦の大祓」の云う「虫」とは、「昆ふ虫の災い」とあるだけで、「武田祐吉」の注によれば、蛇や百足などの被害のこととなり、現代人が害虫と云ったときに連想するものとはなっていないが、筆者は「武田」氏の注釈は採らない。かつての日本人が、正体不明の身をくねらす生き物を中心に、四肢を以て歩かぬすべての生き物に対して「虫」の名を当て、霊力のあるものと見なしていたのは明らかだからである。

5b-4. 「虫送り」のお札に関して、筆者がすぐに思い出すのは、「磐梯神社」が、「江戸期」まで出していたと云われる「猫札」である。「平岩米吉」氏は、「文政」頃 (1818-1829) の「磐梯神社」の「猫札」を所蔵していたようで、その著作『猫の歴史と奇話』にその写真を載せている (平岩、1985、p. 82) 。「平岩」氏は、それを「虫札」だとも、何の札だとも記していないのだが、お札である以上、何らかの「災厄」を送り出す役割を担っていたことは間違いなかろう。害虫除けの「虫札」ならば、今でも旧六月十五日に、「翁島登山口」にある「磐梯明神」の「拝殿」で授与してくれるそうである。

5c-1. ちなみに、一般的には「福島県」の「ハヤマ信仰」は「阿武隈山系」に多く見られると云われるが、父の故郷の「会津地方」にも同種の信仰があったのを覚えている。ただ、「会津」の「祖霊信仰」は、通常「磐梯信仰」として知られているため、「ハヤマ信仰」と同類だと云うことがあまり意識されないだけである。ただ、地元の人は、農村地帯に行けば行くほど、「ハヤマ」と云う言葉には馴染みがあるようではあった。ただし、この地方では「麓山」と表記することが多い。

5c-2. 「会津地方」では、人の霊魂は、いったん「ハヤマ」に集まり、幾度かの年忌法要の後、「厩岳山」の馬に乗って「磐梯 いわはし」を登って、天上へと召されると信じられていた。道筋としては、「厩岳山」「猫魔ヶ岳」「磐梯山」と「霊」は昇っていったと聞く。後の「磐梯山信仰」とは、こうした原初の「ハヤマ信仰」に「仏教」や「修験道」が絡まり合って生まれた複雑な信仰体系なのではないかと、筆者は考えている。そして、当然、途中に登場する「猫魔ヶ岳」とのつながりは、大いに筆者の探究心をくすぐるのである。何しろ、この地域には複数の「猫石」があることも知られ、「猫又」伝説も有名である。さらには、かつて「明治」の「神仏分離令」までは、「磐梯神社」で、「猫」の絵を刷った「猫札」を参詣者に配っていたことは上で見た通りである。

5d.  このことと関連して、筆者は「新潟県南魚沼郡」の「八海山尊神社」の「猫札」を思い出す。「八海山」の立つ地は、「会津地方」とは「只見川」文化圏で連なっており、現在もJR只見線が、「八海山」北麓の「小出」まで運行している。「小出」のさらに南、「八海山」へと接近すると「浦佐」の土地がある。ここの「毘沙門堂」の「裸押し合い祭り」は全国的にも有名だが、これはこの地の「猫」伝説に由来している。そして、「八海山尊神社」の「猫札」は、「鼠除け」のお札だと云う (野村、2005、p. 174) 。筆者は、「蚕」のための「鼠除け」のお札は、「虫送り」と対をなす「虫迎え」のお札であると考えている。そして、「八海山」もまた、「山中他界」観に基づく霊場として知られているのである。

5e-1. 「磐梯山に登るときには鶏の卵を持って行ってはならぬ、磐梯明神のお怒りに触れてお山が荒れ、わざわいに遭う」と云う俗信があることは、以前から父に聞いていたが、改めて書物でそれを読むと、実感も新たである (橋本、1977) 。
「磐梯山」がかつて「病悩山」と呼ばれ、祟りを為す山だったことは知られているが、「鶏嶽」とも呼ばれることがあったらしく、上の禁忌伝承は、山頂の明神に捧げて埋めた鶏の霊の祟りだと云われるそうである (橋本、1977)

5e-2. 「鶏」は、「記紀」神話にも「常世の長鳴き鳥」として登場する---「悪魔跳梁の世界と光明の人間界を区切る瞬間を告げること (
日本昔話事典』弘文堂) 」から、それを霊鳥として神聖視し、福徳と結びつける風潮があった。また、全国に見られる「鶏報恩」型の説話では、「猫」と対置されることも多く、その対置が「生」と「死」を象徴するのが常態である。「磐梯山」と連なる「猫魔ヶ岳」には、「猫」伝説もあり、「異界」との「境界」に現れる「鶏」と「猫」の象徴性に関しては、今後、丁寧に追究して行かねばならないテーマである。

5e-3. 
「ハヤマ信仰」と「猫神」との関係を探っていると、いずれ「磐梯山」を巡る「猫神」の考察へと、筆者は導かれていく気配を感じている。

5f-0. 中間的な結論として云えることは、今までのところ、「猫神」に関しては、

1) 「水神 (風雷神) 」
2) 「異界 (他界) 」との「境界」にある霊威
3) 「異界
(他界) 」から怪異・霊妙を迎え、逆に元来た場所へと送る霊威

等々、と云った特徴が見えてきており、その中心となる観念は渦巻く「変成」であると、筆者は睨んでいる。


4. おわりに

今回のシリーズ記事を通して、筆者は一貫して、「東北」の「ハヤマ信仰」に見られ る「女人禁制」の観念は、「修験道」などの後世的な影響によって確立したものではなく、むしろそれ以前の祭祀の根源的なシンボリズムに根差しているのではないかと述べてきた。そして、そのように考えると、どうしても「男性の女性化儀礼」に関しても、従来のように、太古に女性が参加していた時代の名残だ、とする解釈は成立しなくなってしまうと云う見解を主張してきたのである。今回、筆者は自らの力不足を省みずに、このような解釈の逆転がどのようにして可能なのか、と云う重大な課題に、無謀にも挑戦してみた次第である。

もちろん、何度も言ってきたことだが、民俗学プロパーからの通説では、これはまるで正反対のことと把握されている。このことに関しては、「宮田登」が「修験道」の影響を前提として「女人禁制」を語っているのを、既に前の稿で確認した通りである。

しかし、ここで打ち明けると、実は筆者が上のような発想を最初に抱くに至る切っ掛けを与えてくれたのは、その「宮田登」氏自身の言葉だったのである。そこで、最後に「宮田」氏のその文章をここに引用して、今回の支離滅裂を極めたシリーズ記事の締めくくりとしたい。

神仏習合の結果成立した修験道が、山岳修行の聖地に女人禁制のタブーを課したことは日本宗教史の上で重要な事実として知られている (中略)

畿内を中心とする地域には神仏の勢力が強く働いており、そこが中心となって、女人禁制を民俗として各地に伝播させた。しかし東北地方に展開している宗教風土には、中央の諸宗教に包摂しきれない部分が見られる。その一つの事例として、山伏神楽のなかの女人の位置づけが興味深い。 (中略)

いわゆる女狂言では、登場人物の女性は気が強く、男の方は気の弱い性格を対照させる組み合わせであり、女性優位に貫かれている。それが、山伏神楽の中にモチーフとして生かされており、女人禁制を否定しているのである。

宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌』人文書院、pp. 140-142

*

それにしても、今回考察を加えた「女性化儀礼」に関しては、今後とも「猫神」を巡る思索の旅路で、何度となく遭遇することになるではないかと云う秘かな予感が、いまから筆者の脳裡を去来している。



参考文献

a) 「猫碑」関係
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
    梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会
・梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻篇、梁川町

b) 「ハヤマ信仰」「祖霊信仰」関係
・月光善弘 (1961) 「慈恩寺開創と葉山信仰」
 『東北文化研究室紀要』第三号、東北大学文学部東北文化研究室
・豊田武 (1962) 「東北中世の修験道とその史料」
 東北大学東北文化研究室/編 (1962) 『東北文化研究室紀要』第四集
・岩崎敏夫 (1963) 「葉山氏神の考察」
 岩崎敏夫 (1963) 『本邦小祠の研究』岩崎博士学位論文出版後援会
・大友義助 (1974) 「羽州葉山信仰の考察」
 『日本民俗学』第九十三号、日本民俗学会
・小野寺正人 (1977) 「陸前の山岳信仰とはやま信仰」
 月光善弘/編 (1977) 『東北霊山と修験道』山岳宗教史研究叢書 7、名著出版
・岩崎真幸 (1977) 「会津地方におけるハヤマ信仰」
 上掲書 (月光、1977) 所収
・橋本武 (1977) 「磐梯山信仰」
 
上掲書 (月光、1977) 所収
・宮田登 (1982) 「ハヤマ籠り 暮らしのなかの神々」
 初出・池田弥三郎ら/監 (1982) 『みちのくの神と祈り』探訪神々のふる里 10、小学館
 参照・宮田登 (2006) 『はやり神と民衆宗教』吉川弘文館
・宮田登 (1989) 「祖霊信仰 東アジア世界と先祖観」
 上原昭一ら (1989) 『古墳からテラへ : 仏教が来た頃』図説日本仏教の世界 1、集英社
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう
福田アジオ (2004) 『寺・墓・先祖の民俗学』大河書房

c) 女人禁制関係

・楳垣実 (1973) 『日本の忌みことば』民俗民芸双書、岩崎美術社
・脇田晴子 (1982) 「中世における性別役割分担と女性観」
 女性史総合研究会/編 (1982) 『日本女性史 2・中世』東京大学出版会
・寿岳章子 (1982) 「女性語の性格とその構造」
 上掲書 (女性史総合研究会、1982) 所収
・田端泰子 (1982) 「大名領規範と村落女房座」
 上掲書 (
女性史総合研究会、1982) 所収
・桜井徳太郎ら/編 (1984) 『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』青土社
・波平恵美子 (1985) 『ケガレ』東京堂出版
・脇田晴子 (1985) 「母性尊重思想と罪業観」
 脇田晴子/編 (1985) 『母性を問う 歴史的変遷』上巻、人文書院
・加藤美重子 (1985) 「『女 ムスメ 』の座から女房座へ」
 
上掲書 (脇田、1985) 所収
・山本幸司 (1986) 「貴族社会に於ける穢と秩序」
 日本史研究会/編 (1986) 『日本史研究』 第287号
・西口順子 (1987) 『女の力』平凡社選書10
・美江朋子 (1989) 「玉依ヒメ再考―『妹の力』批判」
 大隅・西口/編 (1989) 『巫と女神』シリーズ女性と仏教 4、平凡社
・網野善彦 (1991) 『日本の歴史をよみなおす』筑摩書房
・山本幸司 (1992) 『穢と大祓』平凡社選書
・木津譲 (1993) 『女人禁制 現代穢れ・清め考』自刊
・宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌―差別の文化的要因』人文書院
・酒井直行/編 (2002) 『図説・富士山百科』新人物往来社

・鈴木正崇 (2002) 『女人禁制』吉川弘文舘
・山本幸司 (2004) 「穢れ観と中世社会」
 歴史学研究会/編 (2004) 『日本史講座 3・中世の形成』東京大学出版会

・岩鼻通明 (2006) 「山岳信仰と女人禁制」
 安田喜憲/編著 (2006) 『山岳信仰と日本人』NTT出版

d) 「山の神」関係
・W. エバーハルト (1987) 『古代中国の地方文化 華南・華東』六興出版 (白鳥芳郎/監訳)
 W. Eberhard/A. Eberhard (trans.1968) The Local Cultures of South and East China, E.J. Brill
 W. Eberhard (1942) Lokalkulturen im alten China, 2 Bde., Peking/Leiden
・柳田國男 (1946) 『先祖の話』
 柳田国男 (1998) 『柳田國男全集 15』筑摩書房
・柳田國男 (1947) 「山宮考」
(『新国学談』第二冊)
 柳田国男 (1996) 『柳田國男全集 16』筑摩書房
・N. ナウマン (1994) 『山の神』言叢社 (
野村伸一・桧枝陽一郎/訳)
 N. Nauman (1963-64) 'Yama no Kami ―die japanische Berggottheit', Teil 1-2, Asian Folklore Studies, XXII-XXIII
・佐々木高明 (1971) 『稲作以前』日本放送出版協会
・大林太良 (1997) 『葬制の起源』中公文庫、初版 (1965)

・堀田吉雄 (1966) 『山の神信仰の研究』伊勢民俗学会
・桜井徳太郎 (1990) 「山中他界観の成立と展開 伊勢朝熊山のタケ祭り」
 
桜井徳太郎 (1990) 『桜井徳太郎著作集 4 民間信仰の研究・下』吉川弘文館
・湯川洋司 (1991) 『変容する山村 民俗再考』日本エティタースクール出版部
・赤坂憲雄 (1995) 「山の神考」
 山折哲雄/編 (1991) 『日本の神 2 神の変容』
・町田宗鳳 (2003) 『山の霊力』講談社選書メチエ
・佐々木高明 (2006) 『山の神と日本人』洋泉社

e) 古典

・秋本吉郎/校 (1977) 『風土記』古典文学大系 2、岩波書店
・倉野憲司/校 (1978) 『古事記』古典文学大系 1、岩波書店
・坂本太郎ら/校 (1978) 『日本書紀・上』古典文学大系 67、岩波書店
・本居宣長 (1797) 『古事記伝』第三帙・巻十二、寛政九年
 本居宣長 (1981) 『本居宣長全集』第十巻、筑摩書房

f) その他
・折口信夫 (1925) 『古代生活の研究』
 
『改造』第七巻・第四号、初出
 折口信夫 (1995) 『折口信夫全集』第二巻、中央公論社
柳田國男 (1925) 『海南小記』大岡書店
 柳田国男 (1997) 『柳田國男全集 3』筑摩書房
・柳田國男/編著・朝日新聞社/編 (1931)  『明治大正史 4・世相篇』朝日新聞社
 
柳田國男 (1993)  『明治大正史・世相篇』新装版、講談社学術文庫
・小笠原賢太郎 (1943) 『伊那の御祭神』山村書院
 小笠原賢太郎/著・長野県神社庁飯伊支部/編 (1991) 『改訂版 伊那の御祭神』新葉社
三品彰英 (1974) 『三品彰英論文集第一巻、平凡社
・三浦佑之 (1976) 「黄泉国と根堅州国-死後世界の構造」
 
古代文学会/編 (1976) 『古代文学 』第十五号、武蔵野書院
・橋本進吉 (1980) 『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫
 
橋本進吉 (1950) 『国語音韻の研究』橋本進吉博士著作集 4、岩波書店
・松本信広 (1956) 『日本の神話』至文堂
・大林太良 (1973) 『日本神話の起源』 角川選書
・次田真幸 (1985) 『日本神話の構成と成立』明治書院
・平岩米吉 (1985) 『猫の歴史と奇話』池田書店
・町田宗鳳 (2003) 『山の霊力』講談社選書メチエ

・毛利秀雄 (2004) 『精子の話』岩波新書
・野村純一 (2005) 『江戸東京の噂話』大修館書店

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