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福島県の猫神・徳本寺の猫涅槃図

.31 2010 北海道・東北地方 comment(3) trackback(0)
曹洞宗
光明山・徳本禅寺

伊達市梁川町東大枝字住吉 8-1
024-577-1598

徳本寺04・本堂
「徳本寺・本堂」

1. はじめに


この日の「猫神」探訪の主たる目的は、「山舟生」地区の「猫神」探索にあった。あわよくば、県境を越えて隣りの「丸森町」の猫神も少々探索してみたい、などと欲張ったことを考えていたのだが、初日に続く雨模様に、台風の接近上陸も心配されたため、「山舟生」を探しまわるのもほどほどに、帰路につくことにしたのである。もしも、台風が北へと逸れ、天気が大きく崩れなかったら、途中で「玉川村」の探索もしようとは考えていたが...。

「山舟生」地区から、東北自動車道に向かうとなると、取り敢えずは「国見インターチェンジ」を目指すことになる。これは、筆者にとっては一つのチャンスであった。薄曇りとは云え、日はまだ十分にあったから、インターまでのルートに無理なく入る「徳本寺」に立ち寄ることが出来そうだったのである。こう云う余録があると、中途で探索を引き上げたと云う沈鬱な気分は払拭され、どこか新しい目的地を目指しているだけのような、そんな明るい気持ちになれるから、人は単純である。



2. 「徳本寺」へ

と云う訳で、まずは「山舟生」の奥地から、宮城/福島県道101号・丸森梁川線に戻り、来た道 (前回記事の話です...) を逆に東へと辿ることになる。「山舟生小学校」の前を通り、「小手内観音堂」のある山を右に見上げつつ進むと、やがて「富野」地区の北東で、県道の分岐点に出るが、来たとき同様、分岐路の方は無視して、そのまま「富野」駅や「舟生不動堂」の方へと道なりに進む。

要するに、走っている県道の「福島県」側の終着点である国道349号との突き当たりまで戻れば良いのである。「福島交通・梁川出張所」のバス・ターミナルがある角である。ただ、来た時はこの国道を南から来たのだが、帰りはここを右折して北上しなければならない。

「梁川橋」で「阿武隈川」を渡ると、最初の信号で県道320号・五十沢国見線が左へと分岐するので、この道に入る。小さな川を越え、少し行くと、左に公民館の見えるY字路の信号に遭遇する。右に進むと県道321号・大枝貝田線だが、こっちに行ってはいけない。

徳本寺前
県道のY字分岐。左に「徳本寺」の寺号標。

目を左側に向けると、信号のほとんど左真横に二台分くらいの駐車スペースがあり、前方には寺の入口らしい寺号標と石柱が見えるはずである。

徳本寺01・入口から
信号の左前方の目の前に、こんな光景が...。

石柱の間から覗くと、参道の奥には、お堂らしき立派な建物も見える。ここが目指していた「徳本寺」である。



3. 「徳本寺」案内

寺への進入路を入ると、正面の「本堂」の手前左側に駐車スペースがあるが、既に述べたように、門の外にも駐車する場所はあった。筆者らは、こちらの門前のスベースに車を駐めた *。

* 実は、後で確認したらこちらの二台分の駐車場は隣りの公民館のものらしい。役場の人には、自由に使って下さいとは云われたが...。

徳本寺02・巳待塔
徳本寺02・巳待塔
「巳待供養牌」

寛保四年 (1744) の「巳待供養牌」がまず最初に訪問者を迎え入れてくれる。「巳待」とは、「近世」によく行われた庶民信仰の「月待」の一つで、「講」をつくって、「巳の日」の晩に講中で集まり、掛軸を拝んで直会をしたものである。特に養蚕関係の人々が、秋季に行なったようではある。「巳」は「蛇」を表すと同時に、その「蛇」を使わしめとする「弁財天」をも表し、「巳の日」は「弁財天」の縁日とされる。「弁財天」は「仏教」の「天部」の神で、原初は「ガンジス河」そのものを表した河川神だったが、「仏教」に取り入れられてからは音楽など諸技芸の神として崇められた。その技芸の中には、しばしば「養蚕」や「機織り」も含まれると考えられ、「蚕」を食べてしまう鼠除けの「蛇神」と云う側面も働いて、養蚕農家の守護神になることが多かった。

徳本寺03・鐘撞き堂

「鐘撞堂」

「巳待供養牌」の先、今度は左手には立派な「鐘撞堂」があり、参道の右手には新しい地蔵像などが建ち並んでいる。

徳本寺09・おもいやり小僧
徳本寺08・まもり傘地蔵
左) おもいやり小僧、右) まもり傘地蔵

正面の大きな「本堂」に接近すると、「おもいやり小僧」だの「まもり傘地蔵」だのが、「庫裏」の前に佇んでいた。まあ、洒落と云うことで...。

徳本寺05・文殊菩薩堂
小さな「文殊菩薩堂」

「本堂」の左手前には、ささやかな「文殊菩薩堂」が祭られ、その後ろは境内の南半分を占める墓地になっている。季節柄、「文殊菩薩堂」横の絵馬棚には、まだ絵馬はあまり掛けられていなかった。

筆者が、この寺に来たのは、ここの「涅槃図」に猫が描かれており、それに関する伝説が伝えられていたからなのだが、「涅槃会」からも離れたこんな季節に、「涅槃図」が掲げられているはずもなく、取り敢えず、時間が押していたこともあって、筆者の「徳本寺」探訪は、短時間で終わった。

この後は、門の外の「秋葉神社」や、境内を取り巻く水堀や土塁等、「住吉館」の遺構を見て廻るばかりである。



4. 二つの「徳本寺」?

ここの寺は「曹洞宗・興国禅寺」末の古刹で、「本尊」は「聖観世音菩薩」である。『宮城県坂元町史』* を引く『梁川町史』第十巻によれば、嘉吉元年 (1441) に、「越後国・村上耕雲寺」の六世「太庵梵守** 」を「岩代国伊達郡大枝村 (福島県梁川町) 」に「開山」として招き、「地頭・大條 おおえだ 孫三郎宗行」が「開基」したものと云う。したがって、当初は「耕雲寺」の末寺だったと云うことになる。寺の所在地も、初めは字「町裏」にあったそうなのだが、後に変遷を経て、現在地に遷ったものと云う。

* 宮城県坂元町史』---筆者はこの名の書籍を確認出来なかった。もしかしたら、猪股幸次郎/編『宮城県亘理郡坂元村誌』 (自刊、1925) ではないかと思うが、どうだろうか。
** 太庵梵守---『梁川町史』第十巻における『宮城県坂元町史』からの引用では「大庵梵守」となっているが、寺に問合せたところ、「太庵梵守」が正しいと云うことであった。

天正十九年 (1591) に「大枝宗直」は、「伊達政宗」の「岩出山城」移封に従って、「志田郡・大倉城」へと移り、八代領主「大條宗綱」は、元和二年 (1617) 、さらに「仙台領」南端の「宮城県亘理郡坂元」へ二千石で入部し、以降「大條氏」が「幕末」まで「坂元本郷」など四千石を領することとなった。これに伴い、「大條氏」の菩提寺であった「徳本寺」も、元和三年までに「山元町坂元白小路」に遷されたと云う。だが、困ったことに、ここからこの寺の変遷は、理解し難くなるのである。
『梁川町史』によれば、「東大枝」の「徳本寺」は、住職不在の時期を経て、寛文十年 (1670) 頃、「梁川町」の「興国寺」から「厳道和尚」を招聘して「中興」したと云うのである。問題は、この記述では、遷った先の「坂元」の寺との関係が突然曖昧になってしまうのである。何しろ、「坂元」には現在も「光明山・徳本寺」と云う同名の「曹洞宗」の寺院があり、寺の歴史の前半は、「東大枝」の「徳本寺」と共有しているのだから、『町史』の記述のままでは、混乱が生じてしまうのである。しかも、「町裏」の元の寺地はどうしたのか、重要な事実が記されていないのである。

『梁川町史』は、以下のように続ける。「厳道和尚」が元禄七年 (1694) に遷化した後、「東大枝」の「徳本寺」は「耕雲寺」を離れて「興国寺」の末寺となっている。この時、「興国寺」の「二世・快山貫益大和尚」を当寺開山とし、「国保厳道和尚」を当寺の二世と定めている。

元禄十三年 (1700) 、「松平氏」が「桑折藩主」となると、「忠尚・忠暁・忠恒」と三代に渡っての庇護を受け、当寺は隆盛の機運を示した。そして「五世・昌山和尚」の時代、「享保年間」 (1716- 1736) の後期に、「住吉古館」跡の現在地に移転し、七堂伽藍を整えた。これに関しては、檀徒「佐藤次郎左衛門家次」の力が大きかったと云う。

「徳本寺」は、「享保年間」、「米沢林泉寺 (厳山形県米沢市) 」の権限のうち、「伊達郡」北方の一宗諸寺院の「触頭役」を務め、十三ヶ寺を統轄して宗務行政を掌する寺格までになった。現在は、「松平氏」の「忠尚・忠暁」二代の位牌と、「大條氏」七代の宝珠が安置されていると云う。

一方、「坂元」の「徳本寺」の歴史を、同寺のホームページで概観すると、元和三年に「大條家」の移封により、「坂元白小路」に移転された後は、貞享二年 (1685) と安永五年 (1776) の二回、火災に遭って焼失したため、その後に現在地 (山元町坂元字寺前) に移り、今に至っていると云う。

現在、筆者の手元には、これ以上の資料がないため、二つの「徳本寺」がどのように分離成立するようになってしまったかの、有力な推論を立てる手だてがない。普通に考えれば、「坂元」移転後、領主と共に遷った寺は「坂元」で法灯を継ぎ、旧地はその後、しばらく無住で放置されてから、現地の「興国寺」の「厳道和尚」によって再興された、と云うのがありそうな筋書きである。ただし、現在の「坂元」の「徳本寺」も「興国寺」末となっており、それは何故なのか、いよいよ知る術がない。

今後は、この辺りの事情についてより正確に調査し、適宜、書き足していきたいとは思うが、次の「東北」行きはいつのことになるやら分からぬ。また、詳しいことをご存知の方がいらしたら、何とぞ御教示くださるようお願い致します。

曹洞宗
光明山・徳本寺

宮城県亘理郡山元町坂元字寺前 13
0223-38-0320

直接、行っていないので、こっちの寺の写真はない...。



5. 「住吉館」跡

秋葉神社
伊達市梁川町東大枝字住吉

徳本寺12・神社1

「秋葉神社」

「徳本寺」は、別段、「神仏混淆」の色合いを強く残している訳ではないが、寺門の外ながら、その真隣り、明らかにかつての境内域と思われる土地の高台に「秋葉神社」が祀られている。もちろん、祭神は「秋葉三尺坊大権現」で、「徳本寺」の守護神である。本来の姿である「防火」の神様としてだけでなく、ここでは「養蚕」の神様としても位置づけられているのが面白い。先ほど紹介した「巳待供養牌」を建てた人々と関係しているのだろうか。「昭和」の中頃までは、檀徒たちの間で「秋葉講」も組織されていたと云うから、生活の近代化だけでなく、「養蚕」の衰退と共に、講もなくなったのかもしれない。

もっとも、このお社が寺の守り神だと云っても、元々この地にあったのは「大條氏」の「住吉館」であったことを考えると、この神社が古ければ古いほど、本来は「徳本寺」と関係しないものなのかも知れないが、真実のほどは知らない。

また、この神社の麓に二台分の駐車スペースがあることは前にも述べたが、ここには「住吉館」の説明板が立っている。下の数文字分が剥落してしまい、はっきりと読み取れない部分もあったが、大体、次のような内容だった。

住吉館跡


台地上に築かれた平城で、土塁と水堀をめぐらせた本格的な館跡である。築城は室町時代の初めとされる。伊達郡内の平地館のなかで最も整った館であったといわれ、伊達氏の分家である大篠氏の根古屋 (住宅) として用いた場所と考えられている。のちに大篠氏の菩提寺であった徳本寺が町裏からここに移されたが、土塁・堀がよく残り県内でも当時の姿を伝える数少ない館跡である。

現地説明版より

「伊達氏の分家」とあるのは、「伊達氏・八代・宗遠」の三男、「孫三郎宗行」が、「大枝城」を築城して「大條氏」を立てたとされることによるようだ。「住吉館」は、周囲に土塁を築き、幅九メートル、周囲三百六十メートルの外堀を巡らせた本格的な城塞の体をなしている。築館年代は不明で、『信達二郡村誌』には「酒井大学と云ふ者住みたりし館跡」とあるが、通常は、「大枝城主」の平時の居館として応永年間 (1394-1428) に築かれたとされる。

土塁は東側と南西側に残っており、高さは郭内から二メートルほどはあるか。つまり、「秋葉神社」が鎮座している高台は、実はこの館の北東土塁の上と云うことになるのだ。また、北側を除く、ほぼ三方に幅五メートルほどの立派な水堀も残されている。

現在、館跡地 (徳本寺境内) の北側は、県道を通すために削り取られてしまっており、土塁も水堀も、ここだけは原形をとどめていない。しかし、県道320号と321号が分かれるY字路の内側の分離帯を見ると、そこだけが高く盛り上がっているのが分かるのだが、これが北側土塁の遺構であろう。実は、北側の水堀跡も、公民館の向い側に少しばかりあるらしいことは、後で妻から聞いた。妻はそれが水堀跡だと分かった訳ではないのだが、筆者が寺や館の遺構を訪ねて写真等を撮っている間、妻は地元猫を発見して交流を図る過程で、猫と一緒に道向こうも探索する結果となっていたようなのである。その妻が、途切れた変な池だか、用水路みたいなものがあったと云っていたのだが、おそらくそれが北側水堀の跡なのだろう。



6. 「徳本寺」の「猫」

今回の報告は、何だか分からないことが多くて、要領を得ないものになってしまった。滞在時間が少なかったのも関係したが、元々、探索予定のリストに入っていなかったものを、急遽訪れたのがいけなかったのだろう。そして、まとまりの悪さに加えて、ここに至るまで、未だに本題であるはずの「猫話」を紹介していないこともある。

そこで、以下、その「猫譚」を披瀝することにするが、困ったことに、これがまた実に呆気ないほど短い話なのである。悪しからず、お付き合いください。

「徳本寺」に、絵師が来て「涅槃図」を描いたとき、寺で飼われていた「猫」がその絵師の脇に座って、涙を流しているものだから、絵師が、お前も交ざりたいのか、と考えて、「涅槃図」の中に猫を描き入れたと云う。

参照・梁川町史編纂委員会/編 (1984) 『梁川町史』第十二巻・民俗篇 2、梁川町、p. 513

ほんと、これだけなのである (面目ない...) 。

シンプルな話だが、各地の「猫の涅槃図」のある寺に残る逸話と、ほぼ同じ内容であるのは興味深い。「京都・東福寺」に残る「兆殿司」作「大涅槃図」にも、似たような話が伝わっている。今後、各地の「猫涅槃図」の寺なども記事にしていきたいと考えているので、今回はその第一回となったのだが、記念すべき初回にしては、やや迫力不足の内容となってしまった。

ただ、今後とも、「猫涅槃図」の寺の取材は、あまり実りの豊かなものにならないのではないかと云う予感はする。何しろ、何故、猫が「涅槃図」に描かれないのかに関する有名な説話* を紹介した後は、「徳本寺」の伝承 (絵師と猫の話) とほぼ同一のストーリーを寺院ごとに紹介するだけになってしまうからである。ところによっては、言い伝えそのものがなく、ただ「猫涅槃図」を伝えているだけの寺もあるほどである。
,,* 「釈迦」の入滅に際して、天界の「摩耶婦人」が霊薬を詰めた薬壺を鼠に持たせて下界に遣わせたが、途中その鼠を猫が捕まえてしまったために霊薬は「釈迦」の下に届かず、結果、その死を食い止めることが出来なかった。そのため、猫は「釈迦」の「涅槃図」に描かれない、と云う起源譚。



7. 「猫供養」について

本当は、ここで今回の記事は終えるはずだったのだが、「徳本寺」に関しては、もう少しばかり、「猫」がらみの因縁があったことが新たに分かったので、話を延長することにした。そして、このことから、
この寺院に「猫涅槃図」が遺されているのは、もしかしたら元々、地元の「猫神」信仰と何らかの関わりがあったからではないかとも疑えるようになったのである。

どう云うことかと云うと、あれこれ調べているうちに、「徳本寺」には、「猫」の墓なるものがあると云うことを知ったのである。いや、現在も継続的にそう云うものが設けられているかは調べがついていないのだが、少なくともかつてはあったと云う話である。もちろん、「猫の墓」と云っても、近頃流行のペット霊園とかではない。昔から、この地方に伝統的に行われてきた畜生墓の習俗のことである。

「徳本寺」に見られる畜生墓は、「猫」専用ではなく、「犬猫」と双方のためものである。ただ、同じ習俗は「関東」から「福島/宮城」県境の各地にも見られ、一般には「犬供養」「犬卒塔婆」として知られている。特に「関東」では、「犬」専用と云うイメージがあるため、この珍しい習俗を知っている人でさえ、「猫」の供養もまた同様に行う地方が、「北関東」から「東北南部」にかけて広く存在することに驚かれる場合も多い。「徳本寺」の「犬猫」の供養は、そんな習俗の一例である。

ただし、「犬卒塔婆」「犬供養」について書き始めると、議論が極めて長大になるのは請け合いなので、ここでは、やがて「猫供養」へとつながる形で取りまとめたいと考えている筆者の「犬卒塔婆考」の導入となる程度の話題に少しずつ触れつつ、「徳本寺」の「猫供養 (犬供養) 」について考えてみたい。


a) 「犬卒塔婆」とは?

まず初めに、「犬卒塔婆」と云う言葉を初めて聞いたと云う方のために、便宜上、いくつか辞書的な定義を見ておくのも有意義かと思う。そこで、所与の目的に合うよう、ここでは、普段はあまり参照しない所謂「教養本」からも引用することとする。

犬卒塔婆は、「犬供養」とか「犬送り」などとも呼ぶように、多産な犬を供養して安産・子育て守護を願うものである。中国では、出産直前の妊婦が犬の肉を食べて安産を願うという習俗があったという。日本でも同じ目的で犬を殺して神に捧げる「供犠」が行なわれていたらしい。こうした宗教的儀式は、犬の霊力を認める考え方に基づくもので、犬はこの世とあの世の境界を行き来して、道案内を務めるという伝承も、そうした背景から生まれたものである。

犬卒塔婆は、二叉に分かれたY字形で、長さ七〇センチ前後の雑木の棒の側面を削って、そこに供養の「如是畜生発菩提」といった経文を書き、それを村境の路傍や川辺、墓場の入口などに挿し立てて祀る。一般に、これを立てるのは子安講の縁日が多い。

戸部民夫 (2006) 『「頼れる神様」大事典』PHP研究所、p. 164


千葉県や茨城県の利根川下流域をはじめ、栃木、福島、宮城の諸県にかけて行われる女の行事。この行事には、動物の死を弔うという性格と人間の安産を祈願するという性格とがある。福島、宮城では前者の、利根川下流域や栃木では後者の性格が強くみられる。利根川下流域では十九夜講やユサン講などの講員である若い嫁が、毎年二月から四月ころにかけて定期的に行うが、雌犬が死んだ際に臨時に行うこともある。犬卒塔婆とよぶY字形の塔婆に握飯を入れた藁苞 (わらづと) をつけて、村はずれの川や三差路まで鉦 (かね) ・太鼓で送っていき、そこに立ててくる。これは無事に子どもが生まれてくることを願う安産祈願の行事である。同時に、犬供養は犬卒塔婆を村境まで送っていって立てることから、虫送りなどと同じく、村の中の災厄を村外に送り出し、再び入ってこないようにする行事ともいえる。
『世界大百科事典』第二巻 (2007) 平凡社

最初の引用文の「中国」に関するくだりは、いかにも漠たる記述で、広い「中国」のどの辺りなのか、どんな人々なのか、しかも長い歴史の中のどの時代なのか、すべてが未確定の話であるから、慎重に読まねばならないのは言を待たないが、我が国の「犬の供犠」に関する記述も、典拠くらい欲しいところである。筆者の知る限り、女衆によって、「安産祈願」目的のためのみに「犬の供犠」が行なわれるのが、我が国の一般的な事象であるかのような記述は、定説としては受け容れ難いのだが、もしも筆者の考えが間違っていたなら、蒙を啓いて頂ければ幸いである。ただし、『世界大百科事典』の記事と合わせれば、大体のイメージをつかむのには役に立つであろう。もっとも、「千葉・茨城」の「利根川流域」では、ある村で産死者が出たときに、その村で行われる「流れ灌頂」とセットで、境界を接する村々で「犬供養」が相対する村境で行われ、順次、隣接する村々に送られていく、と云う事象については触れられていないので、ここで補っておく。

さらに、もう少しだけ基本的な知識を補足すると、「関東」から「南東北」にかけては、かつて「馬」などの家畜が死んだとき、それを葬るに当たって特殊な習俗があり、どこもかしこもと云う訳ではないのだろうけれど、かなり広い範囲で、家畜などの死体を辻や三叉路の俣、あるいは単に路傍や河原などに埋めたりしたようで、多くの場合、墓標として二股に分かれた生木の卒塔婆を立てたりしたと云うのである。「馬」の場合は、よく知られているように「馬頭観音」の石碑などを建てることもあったが、「犬」の場合は既に記した二股の卒塔婆を立てるのが専らだった。このような卒塔婆を、俗に「犬卒塔婆 *」と云うのは、このためであるとされる。

* 犬卒塔婆---家畜を供養するために、二股の木の枝をY字に伐ってつくる卒塔婆。「ザクマタ」「ザカマタ」「サンマタ」「チキショウトウバ」「フタマタトウバ」「マダガリトウバ」「マツタ木塔婆」など。「ザクマタ」系の名称が最も多く普及している気がするが、それは筆者が「千葉県・下総地方」に住んでいるからかも知れず、確証はない。大きさは一定しないが、四十センチから六十センチくらいのものが標準的である。

各地の二股塔婆の呼称について
名称使用地域例典拠 etc.
犬卒塔婆茨城県・東茨城郡・酒門村
(現・水戸市)
千葉県・印旛郡・印旛村吉高
 (現・印西市)
(高橋、1929/1930)

筆者聴取
犬塔婆千葉県印西市松山下
千葉県白井市木・所沢地区
筆者聴取
ザクマタ茨城県・真壁郡・明野町
(現・筑西市)

栃木県・芳賀郡・逆川村
(現・茂木町)
茨城県・稲敷郡・江戸崎町・戸張
(現・稲敷市江戸崎)
 (井之口、1985)

(高橋、1929/1930)

 (菱木敏子、1995)
ザグマタ千葉県成田市 (菊池、1980)
ザカマタ茨城県・新治郡・美並村
(現・かすみがうら市)
千葉県成田市
千葉県富里市高野
千葉県香取市与倉
 (寺神戸、1943)

(千葉県の歴史・民俗1)
 (広報とみさと、525号)
筆者聴取
ザガマタ千葉県成田市
大生・北須賀・吉倉・十余三
千葉県成田市赤荻
千葉県白井市富塚
(菊池、1980)

 (成田市史・民俗編)
筆者聴取
ザッカ千葉県成田市
千葉県成田市
東和泉・西和泉
(千葉県の歴史・民俗1)
(菊池、1980)
ザッガ千葉県成田市(菊池、1980)
ザッカキ茨城県かすみがうら市加茂筆者聴取
サンマタ東京 (小島、1991)
ザンマタ千葉県白井市神々廻
千葉県白井市木・所沢地区
千葉県八千代市真木野
筆者聴取
マダカリ福島県・田村郡・滝根村
(現・田村市)
 (蒲生、1949)
マダガリ塔婆青森県・三戸地方 (小井川、1947)
マツタ木塔婆福島県・伊達郡・保原町・柱田
(現・伊達市)
 (梁川町史11)
チキショウ塔婆福島県・田村郡・滝根村
(現・田村市)
 (蒲生、1949)
二叉塔婆記述用か?

用語として見ると、「犬卒塔婆」は、「犬」に限定した時の用法で、それ以外では「ザクマタ」系統か、あるいは「畜生塔婆」のような一般称が使われていることが多いようである。「二叉塔婆」は、地誌類や民俗書によく見かけるが、実際に使用しているのを筆者は聞いたことはないので、使用地域に関しては未確認である (ただし、筆者の見聞が広い訳ではない...) ため、表には入れなかった。「犬卒塔婆」と「ザクマタ」系の言葉を併用することは、「犬卒塔婆」を使用する土地では、しばしばあるようであるが、これは「ザクマタ」系の言葉が、まさに二叉に分れた形状をした木の棒を指すのに対して、「犬卒塔婆」「犬塔婆」は、「犬供養」に使用する塔婆と云う意味があるからであろう。要するに、前者の方が意味範囲が広いのである。したがって、「犬供養」の習俗はないものの、Y字形の棒や道具を表わすのに、「ザクマタ」系の言葉が使われる地域は数多い。また、「犬供養」を行う地域でも、「二叉塔婆」を指して単に「塔婆」とか「トバ」とだけ呼ぶところもある。

反対に、「ザクマタ」の語は、『日本国語大辞典』にも載っているが、用例が「長塚節」の『土』から出されているのを見れば分かるように、やはり「犬供養」優勢地域の語彙だと考えられるのである。「小島瓔禮」氏が記す「東京」の「サンマタ」の語は、逆に大抵の大きな国語辞典には載せられ、捕物などで登場する「刺股 さすまた 」と並んで、「江戸期」には既に文献に登場する語であるから、もしもこの語が見た目の通り「ザカマタ」や「ザクマタ」などの語と同根のものであるならば、
「ザカマタ」「ザクマタ」の語が、「逆股」に由来すると思うには、やや慎重な考察が要されることになりそうでる。

*

筆者が育ち、住む「千葉県」のかつての「東葛飾郡 *」地域は、「下総国」の西半分を構成し、「戦後」の高度経済成長期に急速なベッドタウン化を見せた地域のため、住民の多くは自らの系譜をこの地で辿ることは出来ない。筆者がまさに育った町は、昭和四十年代以降に急速に発達した町であり、現住する地域はそれよりやや速いが、やはり昭和三十年代に急発展した土地である。いまとなっては、地域の古老を見つけて過去のことを聞くと云うのも、なかなか難しくなっている。しかし、隣接する「印旛郡 *」地域は、主要な高速道路や鉄道網から外れてしまったため、都市開発の波及が遅れ、つい最近までは農村地帯の風情を色濃く残す地域であった。そのため、古くからの習俗なども、「東葛飾郡」「千葉郡 *」地域に比べると保存されているか、近年までされていたかする度合いが高い。

* 東葛飾郡---「千葉県」北西部。「平成の大合併」で、「関宿町」が「野田市」に、「沼南町」が「柏市」に合併されたことによって、行政区域としては平成十七年 (2007) に消滅した。「市川市・浦安市・船橋市・鎌ヶ谷市・松戸市・柏市・流山市・野田市・我孫子市」。「柏市」のうち「富勢」「風早」「沼南町」、「我孫子市」は全域が、旧「南相馬郡」。「船橋市」の東半分は「千葉郡」。「鎌ヶ谷市」のうち「軽井沢」地区は、「印旛郡」。

* 印旛郡---旧「佐倉藩領」を中心とした「千葉県」の中央北部。「佐倉市・四街道市・八街市・印西市・白井市・富里市・栄町・酒々井町」など。平成二十二年 (2010) までは、「印旛村」「本埜村」を抱えたが、同年三月末に「印西市」に編入。現在は、「栄町」「酒々井町」のみが郡域に当たる。

* 千葉郡---「千葉県」の「東京湾岸」の中央部。「習志野市・千葉市・八千代市」など。昭和四十二年 (1967) に、「八千代町」が市制移行したことによって、行政区としては消滅。

ここ数年で云うと、県内では、筆者は「印旛郡栄村」や「白井市」「印西市」の各地で、「犬卒塔婆」を度々、観察している。この地域はたまたま出掛ける機会が多いだけで、「成田市」近辺もやはり「千葉県」の「犬供養」のメッカとなっており、この地域でも「犬卒塔婆」を見かけたことは再三ならずある。その他、「佐倉市」「酒々井町」「八千代市」などでも見かけたことがある。

つい先日は、「千葉ニュータウン」のホームセンターに、我が家の猫たちの食料を仕入れに出掛けるついでに、かつて「犬卒塔婆」を目撃したことのある「白井市」の「神宮寺」及び「所沢薬師堂* 」の二箇所に立ち寄ってみたが、「神宮寺」には現在、「犬卒塔婆」は立てられていなかった。
ただし、「神宮寺」では、境内の枯れ葉を掃いていた上品な女性にお会いして、直接あれこれと尋ねることが出来た。その女性曰く、この地域の「二股塔婆」は「犬の供養」のためではなく、純粋に「安産祈願」のためのものだそうである。

* 所沢薬師堂---「印旛郡白井町」の「木」と云う土地にあり、別名「馬頭塚」とも云う。国道16号の「馬頭塚」交差点を東へと入ったすぐ右 (南) 、交番の隣りの集会所のような建物が「薬師堂」である。この東側の空き地の塀に沿って石仏群が並んでいる。車は、この空き地の東の外れのスペースに駐めることが可能。「神宮寺」は、地図上で簡単に発見出来るだろう。ただし、門前は目立たないため、車での探索時には通過してしまいやすいので注意。駐車スペースはない。

県外では、「茨城」方面で何回か「犬卒塔婆」群を目撃しているけれど、通過がてらであったことと、地元ほど地理感がよくないのとがあって、正確な位置は確認していない (ただし、「つくば市」の旧「大穂町」地域ににある「高エネルギー加速器研究機構」の裏手の三叉路に、二叉塔婆が立てられていたのは覚えている。) 。ただ、現在は「つくば市」になってしまった旧「真壁郡」の「真壁町」や「明野町」の地域では、いまだかなり盛んに「犬供養」が行なわれているようであるから、近くに行かれた時は、道端などに目を向けていると案外、簡単に見つかるかも知れぬ。ただし、車で行かれる場合は、くれぐれも安全運転を...。

所沢観音堂・ザンマタ01
「白井市木」の「所沢薬師堂」並びの「子安観音」と「ザンマタ」
前に見えるのは、昭和十八年 (1943) の「子安観音」

所沢観音堂・ザンマタ02
同上

所沢観音堂・ザンマタ03
同上

下総歴史民俗博物館
さがまた (犬供養) 」
下総歴史民俗博物館

ちなみに、「下総地域」は、いわゆる「犬供養」「犬卒塔婆」の風習が、比較的色濃く残った地域であり、「印旛郡」や「香取郡」ではしばしば見かけることがあるのは、すでに見た通りである。ただ、これらのものは臨時の墓標のようなもので、材質も木なものだから、それほど永続的に立てられているものではないため、ここに行けば必ず見られるよ、と云った場所は、博物館以外にはない。実際には路傍に立つ実物を見たくても、これはある程度やむを得ない。その代わり、「下総歴史民俗博物館」や「県立・房総のむら」などで展示が見られるはずである。あるいは、「房総のむら」のある「栄町・龍角寺」の付近なら、ちょっと探せば、わりと野辺や路傍でも見つけることが出来るかも知れない。

房総のむら
犬供養
「藁苞」は「ツトッコ」と云い、お供えのお握りなどを入れ、子供に振る舞う
県立・房総のむら


b) 本当に「犬」で、本当に「卒塔婆」か? 

さて、簡単な説明を済ませたところで、話を進めると、この「犬卒塔婆」と「犬供養」は、各地においてそのヴァリエーションがあり、必ずしも事典類のように簡単にひとまとめに出来る性質のものではない、と云う事実を認識しておくことから議論を開始したい。

そもそも、「犬卒塔婆」あるいは「犬塔婆」と民俗学関係者に呼ばれる「二叉」に分かれた「木の棒」自体は、「犬供養」と必ずしも関係することなく、各地に存在するのである。それらの習俗の特徴を概観すると、おおよそ、1) 畜類の死に関わるもの、2) 妊産婦及び嬰児の死に間接的に関わるもの、3) 人の弔い上げ (最終年忌) に関わるもの、そして 4) 「庚申信仰」に関わるもの、と云う四つの類型に分けることが出来るように思われる (この他の事例もさらに探せばあるかも知れぬが、現在筆者が把握しているのは、この四つですべてである) 。一方、懸案の「犬供養」との関わりの中で、まず第一に関連づけられるのは、当然ながら、畜類の死に関わる事象である。そして、今回の記事では、この「畜類の死に関わるもの」以外には、取り敢えず触れないでおくこととし、他のものについては、別の機会をうかがうこととする。

民俗学の父、「柳田國男」がその慧眼で「犬卒塔婆」の民俗的な重要性を察知したときも、この「畜類の死に関わるもの」と云う側面のみ強調している。これは、当時の民俗学者一般には、他の習俗が知られていなかったと云う事情があるのである意味当たり前なのであるが、筆者としてはやはり残念ではある。もしも「柳田」が、上記の 2) ~ 4) の習俗をすべて「犬卒塔婆」と関連づけて考えていたならば、どんな結論を導き出したものか、今となっては決して聞くことは出来ないからである。しかも、「柳田」は「畜類の死」全般ではなく、「犬の死」についてのみ情報を得ていたため、「犬供養」を狭義に捉えてしまったのは重ね重ね惜しいことであった。

「柳田」は、「犬そとばの件」の中で、「しかし不審に思はれることの一つは、家畜の中でも猫や飼鳥、又は牛馬の為には立てるといふ話をまだ聴かない。何か犬だけに限つてさうしなければならぬわけがあるのか」と記して、慎重な姿勢を維持しつつ、結果的には「動物供養」全般と云う性格を見落としてしまい、さらには疑いを抱きつつも、この地域での「犬供養」の基本性格である「安産祈願」を極めて重視して論を展開したのは、おそらく彼の調査した地と云うのが「関東」、しかも「利根川下流域」に止まったからなのではないかと思われる。何しろ、この地では「二叉塔婆」を立てる習俗は、圧倒的に「犬供養」の側面が優勢し、しかも「安産祈願」と密接に結びつけられて行なわれているので、それに目を引かれるのはやむを得ないことだったと云えるのである。

*

しかし、何と云っても、「民俗学」における「犬卒塔婆」「犬供養」の考察は、事実上、「柳田國男」の「犬そとばの件」 (1947) から開始されたと云える。確かに「柳田」に先だって、「水野葉舟」「榎戸貞治郎」「蒲生明」などが、『民間伝承』誌に「犬卒塔婆」に触れる文を寄せているが、どれも簡単な報告に止まり、その考察に筆が及んでいるとは言い難い。したがって、筆者は「柳田國男」を「犬卒塔婆」論の嚆矢とするのに何の躊躇いもない。そこで、まずは「柳田」自身の「犬卒塔婆」の把握と理解を、以下、本人の文章を抜粋して示すこととしたい。

犬そとばといふのは、さきが二叉に岐れた二尺ばかりの木の棒で、通例はその一側面を削り白めて、ソトバらしい供養の文句が書いてあり、今まで見たところでは、路の傍の土に突き挿したものが多かつた。 (中略) 斯ういふやゝ手数のかゝる工作と行事を、たゞ何と無くするといふことは有り得ない上に、木だから忘れてしまふほどは長く残らず、従つて近所の人ならば、皆理由をまだ記憶して居るだらう。今までに私がきいて居るのは、犬が死んだので憫んで供養をしてやつたのだといひ、現に木の表面の文字には、如是畜生発菩提心と書いてあるのも見た。

柳田國男 (1947) 「犬そとばの件」
柳田國男 (1998) 『柳田國男全集』第二十巻、筑摩書房、pp. 34-35

「柳田」が、「犬そとば」を立てるきっかけを単に「犬の死」としているのは、「或はどの犬でもといふわけでも無く、難産で死んだ母犬の為といふ話もあるが、是も合点の行かぬことは、犬は元来産の至つて軽いものといひ、 (中略) その犬の難産といふのは、ごく稀な筈だが、実際は、犬そとばは可なりそちこちに立つて居り、又一箇所に何十本を立てゝある例も私は知つてゐる」と述べ、「犬の産死」説は事実上、却下している。筆者も、これは当然なことと思う。

これに対して「柳田」は、「何の為に又どういふ場合に、誰が犬そとばを立てゝ行くのか」と云う問いを中心に据え、「之を立てる日は多くの者が集り、それは専ら婦人であり、しかも壮年の主婦や嫁が多く、普通は子安講といふ信仰団体に属して居る」と述べ、「犬そとば」を立てることが「子安信仰」と深く関わっていることを指摘した上で、それが故に、もしも「子安信仰」と関わらない事例を二三でも挙げられれば、「犬そとば」を巡る信仰の本質を比較検討するに当たって、非常に大きな意味を持つことになるだろうと云っている。問題は、この後も、どうやら「
子安信仰』 と関わらない事例は、「柳田」の下にあまり集まらなかったようだ、と云うことである。

最終的に、「柳田」は、「関東北部」の「子安様」が「地蔵でも観音でも無く純然たる日本の上臈姿をして、緑児を抱かれて居る」ことを受け、「中央の記録の上には、さう大きな痕を遺して居ない信仰でも、可なり遠い昔から連続して、今なほ民間に伝はるものが、有るといふこと」を明らかにしていきたいのだと、自らの企図を語っている。とくに「犬そとば」に関しては、それが一般の「卒塔婆」の原型の姿を遺しているのではないかと考え、だからこそ、その根底にある精神を追求していくことの大切さを唱えているのである。

残念でならないのは、「柳田」は「犬そとばの件」で上記のような重要な提起をしておきながら、それ以降、「犬そとば」に関して特にこれと云った論考を発表していないことである。特に、「柳田」の呼びかけに応ずる形で、「犬」以外の情報は少なかったにせよ、それなりに多くの情報が寄せられるようになった中で、何故、「柳田」自身が沈黙を守ったのかは謎である。

情報が少なかったとは云え、その後の資料の集まり具合から推して、「犬そとば」を立てると云う習俗が、専ら「犬の死」や「安産祈願」にのみ由来するものではないと云う事実も知り得たはずの「柳田」が、それを元に新たな考えを開陳しなかったことは不思議である。少し穿ったものの見方をすれば、「犬そとば」の考察が、やがて「最終年忌塔婆」へとつながり、それが「柳田」の目指す「祖霊信仰」の根幹を揺るがす可能性を秘めていることに、当人がいち早く気づいたため、極めて慎重に経緯を見守っていたのではないかとさえ思えるのだが、このことに関しては、また別の機会で述べることとしよう。

もっとも、「柳田」の議論の本筋とは違うことかもしれぬが、彼が「犬そとば」が「犬の産死」を機に行なわれることを本質視せず、また「犬ばかり特に産が軽いやうに伝へられる」ことに対しても、何かしら因縁があるのではないかと捉えたのは流石である、と筆者は思っている。今では、「千葉県」の「犬供養」は、ほとんどその「動物供養」としての性格は失い、祭祀を伝承する人々はそれを純粋に「安産祈願」のためのものだと考えているようである。しかし、これは「千葉・茨城」の「利根川流域」の人々の間で、「犬供養」が「十九夜信仰」や「子安信仰」と習合した結果と思われる。「犬卒塔婆」を立てる地域の分布と、それぞれの地域での伝承内容を鑑みると、やはり「犬」のみに限定されぬ「動物供養」の性格の方が、「安産祈願」に先行するものと考えられる。

このことに関しては、「
岩田重則」氏が、簡潔に以下のようにまとめている。

犬供養の分布には二つのパターンがある。すでに見たように、東北地方の犬塔婆は犬だけではなく他の動物も含め、その死をめぐる動物供養としての性格が強いが (茨城県・栃木県北部も同様の傾向がある) 、関東地方の場合には子安講・遊山講・念仏講などの女人講が主催し動物供養のみならず安産祈願としての性格が強い。 (中略) 仮にこれら二つのパターンを東北地方型 (動物供養型) と関東地方型 (動物供養・安産祈願型) と呼んでおくとすると、双方の犬塔婆地域に普遍的に存在しているのは動物供養であり、関東地方型の女人講の主催や安産祈願はこの地域の独自の分布であるので、動物供養のみの東北地方型の方を犬塔婆の原初的形態であると考えることができる。

岩田重則 (2003) 『墓の民俗学』吉川弘文館、p. 195


*

筆者はまた、「犬卒塔婆」「犬供養」についてあれこれ考える過程で、そこに見られる畜類の供養をする特殊な葬法と云うのが、「犬」の供養だけにとどまらないと云う事実に、
まず何よりも興味をそそられたのであった。「小島瓔禮」氏の「馬頭観音以前のこと」 (1991) によれば、「関東」から「南東北」にかけては、かつて「馬」などの家畜が死んだときにも、それを葬るに当たって特殊な習俗があったことが知られていると云う。どこもかしこもと云う訳ではないのだろうけれど、かなり広い範囲で、家畜などの死体を辻や三叉路の俣、あるいは単に路傍や河原など、「日常」の生活の境界域をなす場所に埋めたりしたようで、多くの場合、標として二叉に分かれた生木の卒塔婆を立てたと云うのである (小島、1991) 。

ただ、「東北地方」に多く見られる「馬」の供養の場合、その供養の「年忌」明けのときには「馬頭観音」の石碑や石塔などを建てることが多いことから、「二叉卒塔婆」を立てると云う、後代に残らぬ営為の方は、どうしても印象が薄くなってしまうのである。一方、「関東」に優勢する「犬」の供養の場合は、二叉の卒塔婆を立てるのが専らで、「弔い上げ」に石碑などを建てることはないので、それだけ特殊な形をした卒塔婆の印象が、見たものの記憶に残りやすいのだろう。もちろん、首都に近いと云う地理的な条件も、学会での認知の高さに貢献しただろうことは疑い得ない。

また、地方によっては、「馬」や「犬」以外の動物の場合にも、この二叉の塔婆を立てる土地がある。要するに、このような卒塔婆を、広く「犬卒塔婆 *」と云うのは、どうにも不自然なのだが、初めにこれに興味を抱いた民俗探求者たちが、たまたま「千葉・茨城」の「利根川」沿いに優勢する「犬供養」の習俗の中で考察を開始したため、いつの間にか、「犬」を冠するのが通例となってしまっただけなのである。したがって、「犬卒塔婆」の探求をしようとするとき、我々が最も気をつけなければならないことの一つが、実は、「犬」に気を取られ過ぎないと云うことなのである。

このような問題意識を持って、以下、「犬卒塔婆」の分布とその祭儀の内容に基づいて、大まかにその地域的な特性を分類すると、次のようになる。

分布型県名Y字塔婆の呼称祭祀の対象祭祀の性格
東北型福島・宮城マタガリ・畜生塔婆系馬 (牛) ・猫・犬動物供養
関東型茨城・千葉ザクマタ・ザカマタ系犬・産婦安産祈願 (動物供養)

*

さらに筆者は、この手の「Y字形の卒塔婆」が、地域によっては、人間の葬送や供養のとき――例えば、三十三年とか五十年目のお弔い上げの節目などのとき――にも立てられると云う事実から判断して、それが元は「犬」などの動物のためのものとは限らなかったのではないかと考えている。何しろ、「犬」の葬り方を、人の大切な区切りの供養のときに適用すると云うのは、いくら何でも考えにくいからである。したがって、「犬卒塔婆」の名称も、実際には別の意味があるか、あるいは別の語源があるか、どちらかなのではないかと疑っている。ましてや、人のお弔い上げだけでなく、「馬」や、この後見るように「猫」などにも使われるのだから、少なくとも「犬」と云う名を冠しているのは、何らかの後世の付会であろうと思われる。



c) 旧「犬卒都婆村」についての覚書
 ~最も「犬」らしくとも、「犬」とは限らない可能性~

白石市・犬卒塔婆
「白石市白川」の「犬卒都婆」
http://plaza.rakuten.co.jp/areasommelier06/diary/200908130000/より

「宮城県白石市」には、「犬卒都婆」と云う地名がある。民俗学者の「谷川健一」によると、「そこには高さ五尺、横三尺五寸の石があって、それを犬卒塔婆と呼んでいたのが、後に地名にもなったのだという」。それは、「岩の上」と云う場所で良犬を飼っていたが、死んだので、そこに石碑を建てて供養したことに因んだと云う『安永風土記』の説明によるらしい (谷川、1998、p. 134) 。残念ながら、筆者の力不足で、いまだ『安永風土記』の原文を見ること能わずにいるので、話にこれ以上の詳細があるのかどうかについては、調べがついていないが、他の地誌類で確認した限り、どうやらこれで全てのようではある。ちなみに、「岩の上」とは一般的な名詞ではなく、正式な地名の「字」だそうである。

面白いことに、この伝説には、別伝もある。『宮城縣史 民俗 3』 (1956、p. 236) に載る、その別伝の概略を以下に記すこととする。

「嵯峨天皇」の御代、頸に二階枝の松を生やした年を経た大猪が現れ、「京」の人々を脅かした。「小野篁」は、勅命を受けてこれを追い、「会津磐梯山」まで至って、「番二」「番三郎」と云う「マタギ」の兄弟に遭遇し、二人に加勢を命ずる。兄弟は畏まって、大きな白犬をつれて猪を追跡し、「蔵王」山麓に追い込めることに成功する。白犬が大猪と大格闘を展開する中、兄弟は一矢ずつ射込んで、ついに猪をしとめた。しかし、この闘いで白犬も重症を負って死に、その供養のために塔婆が建てられたと云う。

参照・宮城縣 (1956) 『宮城縣史 民俗 3』宮城県史刊行会、p. 236

上の二つの伝説は、比較すると色々と面白いことが見えてくる。どちらの伝説も、一般に単なる石碑を「卒塔婆」あるいは「塔婆」と称することが非常に稀であると云う点で、「犬卒塔婆」と云う地名の起源譚としては、舌足らずの観は否めない、と云うのが第一点である。さらには、双方を比べると、特に目立つのが第一の伝説からの「猪」の不在である。この二つの話が、表面的な類似は勿論のこととして、基本的に同系統のものであると云えるのは、この「猪」のモチーフの欠落がそのまま話の筋の上での違いを説明しているからである。後者の伝承には「狩猟」のイメージがあるのに対して、前者にはないと云う点を除けば、大筋に置いて両者は同一の伝説なのである。

一般的に、言い伝えなどは、妙に長い方が後世の所作であることが多い。そして、上記の例でも概ねそうだと云えそうである。ただし、一見、短い方は、長い方の退化した類型だと見られやすいのも事実である。「犬卒塔婆」の二つの伝説で云うならば、「狩猟」と「猪」のモチーフを第一モチーフ、「犬」の埋葬のモチーフを第二モチーフとしよう。その場合、第二モチーフだけでは話から明らかな筋がなくなってしまうので、第一モチーフが欠落してしまう積極的な理由がここには見当たらないのである。欠落する必然性がないのに、欠落していると云うことは、元からその部分はなかったところへ、話の筋がはっきりしないので、細部を後から付加えた可能性が高いと筆者は考えている。

ただ、第一モチーフにしても、「良犬」と云う語が引っかかる。もしも、仮にこの起源譚が古い民俗に根差しているならば、それを伝承した民衆が「良犬」と云うおよそ口語的とは云えない漢語を言い伝えの中に遺したかどうか、と云う疑問が浮かぶのである。この「良犬」と云う用語は、しかも「谷川」氏個人に由来するものではないようで、「谷川」氏の著作に先立つ他の地誌類を見ても「良犬」と記述しているものが多い。これは、いよいよ不自然である。「良犬」の音が「猟犬」に通ずるだけに、この不自然さは見逃せない。

「犬」、特に「白い犬」が、人の苦難を助けた末に死に、人々が供養のために塚を築いた、と云うプロットの「犬塚」伝承は、細部こそ違っても、全国各地に存在する。ここ、「犬卒都婆」の伝承も、そう云った物語群の一つだと理解することは出来るのだが、それにしては大切な人々の苦難のモチーフが伝承の一つから完全に欠けているのは変である。

もう一つ筆者が気になることに、第一モチーフに登場した「猪」がある。「イノ」と「イヌ」は、古来、民俗的には相通ずるものがあり、共にまた「井の」と云う意味を潜在させる事例があることも知られている。「リョウ犬」と云う語の音が、一般的に「良犬」よりも「猟犬」を喚起すると云う感想を筆者は持っているのだが、そうなると、「狩猟」と「猪」のイメージを有していた第一のモチーフも、あながち捨てられない、と云うことになる。

いずれにせよ、「犬卒都婆」と云う地名の「犬」は、単純に動物の「イヌ」のことだと決めつけてしまうには、いまだ多くの疑問が残されていると云える。しかも、「白石市」と云うのは、いわゆる「犬卒塔婆」文化圏で云えば、一番北の外縁にあり、この地域はすでに見たように「馬」の供養と云う側面が強調される地域でもある。

結局、「犬供養」の民俗の「東北型」「関東型」や、「白石市犬卒都婆」にまつわる二つの地名起源譚をひっくるめても、すべてに共通するのは「死」のイメージだけである。したがって、筆者は「犬卒都婆」の地名の起源について、未だに正確に推論するには至っていないのだが、少なくとも単純に「イヌ」と関わるものではなかろうと予感している。

*

繰り返しになるが、筆者は、この地の言い伝えが、「馬」の供養のためにY字形の木を立てる習俗のある地域の真っただ中で語られていることに対して、ことさらに興味を覚えている。しかも、「犬卒都婆」自体は石碑であり、二叉の木ではないのである。要するに「犬卒都婆」と 云う言葉も、二叉の木も、必然的には互いに結びつくものではなさそうなのである。敢えて云えば、第二の地名起源譚に、二叉の角が生えたと思しき怪異の 「猪」が登場するのが、わずかばかり「二叉」とのつながりを見せているだけである。

ただ、「白石市犬卒都婆」の地はそうでないとしても、実際に「犬卒塔婆」を立てる習俗が残っている地域の人々の多くが、死んだ犬の供養のために立てるのだ、と説明するのもまた事実である。特に、難産で死んだ「犬」を供養するためだとする地域は多い。いずれの場合でも、 「犬」はお産が軽いため、それにあやかって供養するのだと説明するのが一般的である。確かに、妊婦は「戌の日」に「岩田帯」を巻いたり、安産の神様として知られる 「水天宮」が「戌の日」にお祭りを行なったりする事実はあるが、実際には我々の身の回りの動物でお産が軽いものは、「犬」以外にもいくらでもいることを考えると、「犬」が人と近しい関係にあると云う要素を考慮しても、やはり「犬」にだけ安産の願いをかけるのは、「謎の習俗」だとさえ云える。

そこで「犬卒塔婆」そのものでなく、その立てられる場所にもう一度目を向けると、辻や三つ辻、路傍や河原などに葬られたり、供養されたりするのは、やはり家畜や犬猫だけではないことが分かってくる。かなり広い地域で、死産あるいは早死にした子供や、胞衣などが埋められる習俗があったとも聞かれる。
「二叉塔婆」や、それに類似する塔婆 (あるいは枝や棒) を立てるのもまた、「馬」や「犬猫」のためだけとは限らず、人の弔い上げの時や、「庚申塔」との絡みで立てられることもあると云う。

したがって、今後の筆者の考察の方向は、一つ「犬卒都婆」の地名に限らず、「犬供養」や「犬卒塔婆」と、それらに関わる様々な習俗とのつながりを見ていくことに力点が置かれていくと思うのだが、その出だしとしての結節点が「死」のイメージのみであることは、改めて肝に銘じておかねばなるまいと感じている。

*

ちなみに、「犬卒塔婆」と云う地名は、「谷川」氏も、『角川日本地名大辞典』も、「犬卒塔婆」と表記するが、「国土地理院」の地図では「犬卒都婆」とある。筆者としてはどちらでもよいのだが、気になる人のために念のために記した。


c) もう一つの徳本寺の犬供養

本稿を終りにする前に、表題である「徳本寺」がらみの話題を二つ、付け足しておこう。

「岩崎敏夫」の編集した『東北民俗資料集 (三) 』の中に、「阿部和郎」氏の「弔いあげの風習について」と云う章があるが、その冒頭に「亘理郡山元町坂元」の習俗を紹介している。そこでは、この地域では人の最終年忌には、「スギボトケ」と云う「二又塔婆」に類似する「梢付き塔婆」を立てることや、「牛・馬の供養の為として股木の塔婆を建てる」ことが記されている。後者は何の木でも構わないが、「坂元」では「栗」の木が多いと云う。「馬頭観音碑の前、三又路、わかれ道などに多く建てられ、地元ではマッタギといっている」とも述べている。

この「
山元町坂元」と云うのは、「曹洞宗・徳本寺」のある町であるのは、本稿の前半に記した通りである。分裂した「徳本寺」のいずれの所在地にも「二又塔婆」を立てる「動物供養」の習俗があるのは、近接する地域同士の、ただの習俗的な類似性によるものなのか、あるいは双方に、お寺を介した何らかの関係があるのか、現段階では何も分からない。

ただ、「
山元町坂元」では、「二又塔婆」は専ら「牛馬」のために立てると記述されているが、「梁川町東大枝」では、「犬猫」の供養にも立てると云う違いはある。また、「梁川町」では、「牛馬」供養の塔婆は三叉路や辻などに立てたが、決してその動物の埋葬地には立てなかったそうなのだが、「犬猫」の塔婆は、埋葬地と供養地が一致することもあり得たようである。一方、「山元町坂元」の方は、「牛馬」の埋葬場所と塔婆を建てる場所に関しては記述がないが、隣接する「山元町真庭」では埋葬地と供養地に区別をつけていない旨が書かれている。


d) 「徳本寺」および「梁川町」の「猫供養」

ちなみに、折角だから、「梁川町」各地域における「犬猫」の供養に関して、「町史」に従って、紹介しておこう。「山舟生」では、「犬猫」を旧墓地内に埋めたと云い、また、平野部では「五十沢」の「安禅寺」前や、「東大枝」の「徳本寺」墓地内に埋葬したと云う。しかし、「新田」地域では、特に「猫」をY字路に埋めると「町史」が強調して書いているのは、非常に興味深い。何故なら、「町史」は、「新田」におけるこの「猫の葬法」は、「古い葬り方が残った」ものと考えているからである。

「梁川町」や、その他「東北」の各地では、「牛馬」の供養をする地が多いのだが、伝統的な意味でいうならば、本来は「馬」の供養しかしなかった。それは、「東北地方」が元々、「西日本」の「牛」文化圏と鋭い対照を見せる「馬」文化圏であったことから、近年まで「牛」を飼養する農家などなかったからである。逆に、「明治」以降、「牛」を飼うことも増えてくると、従来の「馬」の供養に準じて「牛」の供養も行われるようになったと云う事情が知られている。

それでは、もし「梁川」地域で、「猫」をY字路に埋めて「二叉塔婆」を立てるのが古式ならば、「犬卒塔婆」と「犬供養」に対する一般的な認識としての、「犬」に対する供養の上に「猫」の供養が後に乗っかったと云う考え方とはまるで裏腹に、少なくとも「梁川」では「猫」の供養が「犬」の供養に先立つ可能性も出てくる。実際、「徳本寺」の「犬猫」の供養に関して地元の人 (たまたまお盆で展墓に来ていた人々) に質問をすると、「犬」よりは「猫」を強調する雰囲気が感じられたものである。

「茨城県」の北部 (那珂郡を中心とする) や、「栃木県」の一部で「猫供養」が優勢な地域が存在するのも、あるいは「犬供養」から派生した異態なのではなく、むしろある種の古態を遺した習俗なのかも知れないし、そうでなくとも、同様の民俗的な想像力に支えられているが、元々は互いに自律した別個の習俗だったのかも知れぬ。

いずれにせよ、「伊達市」の「梁川」地域では、取り敢えずは「犬」も「猫」も、供養の塔婆は二股の木で作ったものを使用することが知れたのは、今回の訪問の大きな収穫であった。そして、これらの塔婆を建てる際には、股木を削って寺に持参し、僧侶に経文を書いて拝んでもらうと云う。「五十沢」では、三叉路に立てられた「マッタギ」を通行人が見かけると、二つに割ったと云うが、その理由は「町史」には記されていない。「徳本寺」墓地内にも、「犬猫」供養の「マッタギ」は立てられたそうだが、筆者の聞いた限りでは、二つに割ると云う習俗は、近年はなかったようである。
これは、「利根川下流域」の「犬供養」が、実際には「産婦の死」と連動した「厄送り」として行なわれている気配が濃厚なことを考え合わせると、亡くなった「産婦」自身の供養の為に行なわれる「流れ灌頂」が、四本の竹の間に白い布を張って、通行人に柄杓で水をかけてもらうと云う習俗と通底するものが感じられる。

*

今回の「猫供養」 (実際にはほとんど「犬供養」) の項は、まとまりに欠け、支離滅裂になってしまった観がある。しかも、ここでこの項を終りにするのであるから、なおさらである。書きたいことは沢山あるのだが、そうなると各方面に手を伸ばさねばならなくなるので、ここで一旦、区切りを付けることにしたのである。

とは云え、この項を終わるに当たって、筆者は『梁川町史』の 当該解説箇所の文言を借りて、今後の議論の方向性だけは示しておくこととする。

実はこの二叉塔婆は、人間の場合にも三十三回忌や五十回忌の弔い上げの時に立てられるところがあり、犬猫の塔婆と共通するのは大変興味深い。人の場合弔い上げ後は人の霊が神になるというが、山で山の神をまつる木がまた二叉、三叉の木であるのもどこかでつながっているのであろう。そういえば犬猫の供養をするのもY字二叉になった道のところである。道の神の道祖神が、道路のそばやこうしたY字の場でまつられるのも辻、Y字のところが神や霊の止まる場と意識されて来たからであろう。

梁川町史編纂委員会/編 (1981) 『梁川町史』第十一巻・民俗篇 1、梁川町、p.708



8. おわりに

「徳本寺」訪問の後、筆者らは、天気の回復を祈りつつ、次なる探索地の「玉川村」へと向かうこととなった。この「玉川村」探索に関しては、既に順番を破ってブログに載せているので、御高覧頂けると幸いである。

また、「犬供養」「犬卒塔婆」に関しては、前回記事までにやや詳しく述べてきた「ハヤマ信仰」や「祖霊信仰」とも、非常に深い位相で批判的に関わってくるので、今後とも、機会を見つけて議論和していきたいと思う。そのことが、最終的には我が国にかすかにしか残存を許されなかった「猫神」たちの、根幹的な性格に接近するのにも大きく役立つと思われるからである。

と云う訳で、今回は、ここまで。そして、長らく続いた「福島の猫神」シリーズは、ここでいったん区切ることとします。そして、次回からは、いよいよ懸案の「長野編」に突入します!!


「徳本寺」の地図は、こちら


参考文献


A. 主要文献
・中川英右 (1900) 『信達二郡村誌』
    福島県史料集成編纂委員会/編 (1953) 『福島県史料集成』第五輯、福島県史料集成刊行会
・梁川町史編纂委員会/編 (1981) 『梁川町史』第十一巻・民俗篇 1、梁川町
・梁川町史編纂委員会/編 (1984) 『梁川町史』第十二巻・民俗篇 2、梁川町

・梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻、梁川町

B. 地誌類
・猪股幸次郎/編 (1925) 『宮城県亘理郡坂元村誌』自刊
・宮城縣 (1956) 『宮城縣史』民俗 3、宮城県史刊行会
・文京区役所/編 (1981) 『文京区史』第二版・第四巻、文京区
・成田市史編纂委員会/編 (1982) 『成田市史』民俗編、成田市
・山武町史編纂委員会/編 (1988) 『山武町史』通史編、山武町
・印旛村史編纂委員会/編 (1990) 『印旛村史』通史 2、印旛村
九十九里町誌編集委員会/編 (1992) 『九十九里町誌』各論篇・下巻、九十九里町長
・千葉県史料研究財団/編 (1999) 『千葉県の歴史』別編・民俗 1、千葉県


C. 辞典類
大塚民俗学会/編 (1972) 『日本民俗事典』弘文堂
・石上堅/編 (1983) 『日本民俗語大辞典』桜楓社
・市川彰 (1995) 「安産祈願に猫供養をするのは何故」
 
石塚真/編 (1995) 『茨城県の不思議事典』新人物往来社
・新谷尚紀・関沢まゆみ/編 (2005) 『民俗小事典 死と葬送』
・加藤周一ら/編 (2007) 『世界大百科事典』改訂新版・第二巻、平凡社

D. 広報
・富里市総務部企画課/編 (1999) 「富里の石造物」
 『広報とみさと』平成十一年 (1999) 九月号・No.525、富里市
・菱木敏子 (1995) 「戸張の犬供養
 江戸崎小学校PTA会報誌『しろやま』平成七年 (1995) 十二月号

E. その他 (「犬卒塔婆」関係)

・高橋勝利 (1929) 「覺え書」
 高橋勝利ら/編 (1929) 『芳賀郡土俗研究会報』第三號、芳賀郡土俗研究會
・高橋勝利 (1930) 「覺え書き (二) 」
 高橋勝利ら/編 (1929) 『芳賀郡土俗研究会報』第四號、芳賀郡土俗研究會
・蒲生明 (1949) 『畜生トウバの事』
 民間承の會/編 (1949) 『民間傳承』第十三卷・一號、自刊
・石原誠 (1949) 「下總成田附近の犬供養」
 民間承の會/編 (1949) 『民間承』第十三卷・一號、自刊
・三谷栄一 (1950) 『日本文学の民俗学的研究』有精堂
・井之口章次 (1954) 『仏教以前』民俗選書、古今書院

・大森義憲 (1972) 「犬卒塔婆とおほんだれ及び門入道」
 日本民俗学会/編 (1972) 『日本民俗学』第七十九号、自刊
・藤田稔/編 (1973) 『日本の民俗 8・茨城』第一法規
・大木卓 (1975) 『猫の民俗学』田畑書店

・井之口章次
(1977) 『日本の葬式』筑摩書房
菊池健策 (1977) 「卒論発表要旨・犬供養の民俗学的考察」
 
日本民俗学会/編 (1977) 『日本民俗学』第百十一号、自刊
・内野久美子 (1978) 「七里法華と子安講」
 
日本仏教研究会/編 (1978) 『日本仏教』第四十五号、自刊
・菊池健策 (1979) 「犬供養の研究 (一) 」
 大塚民俗学会/編 (1979) 『民俗学評論』第十七号、自刊
菊池健策 (1980) 「犬供養と産死供養」
 
成田市立図書館/編 (1980) 『成田市史研究』第七巻、成田市教育委員会
・永野忠一 (1982) 『猫と日本人』習俗同攻会
・井之口章次 (1985) 『筑波山麓の村』名著出版
・赤坂六郎 (1985) 「印旛沼周辺の石仏」
 日本石仏協会/編 (1985) 『日本の石仏』夏・第三十四号、自刊
・永野忠一 (1986) 『猫の民俗誌』習俗同攻会
 小島瓔禮編/編著 (1991) 『人・他界・馬』東京美術
・勝又俊実/編 (1988) 『学習院民俗』第四号、学習院大学民俗研究会
・小島瓔禮 (1991) 「馬頭観音以前のこと
 小島瓔禮編/編 (1991) 『人・他界・馬』東京美術
・大和田正広 (1997) 「那珂郡美和村民俗調査報告」
 茨城高校史学部/編 (2002) 『茨城の民俗』自刊
・谷川健一 (1998) 『続・日本の地名』岩波新書
・白井市民俗文化財調査会/編 (2003) 『白井市の民俗 1』白井市教育委員会
・岩田重則 (2003) 『墓の民俗学』吉川弘文館


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SORI
参考にさせていただきました。
ありがとうございます。
http://makkurokurosk.blog.so-net.ne.jp/2013-04-29
2013.06.02 08:36
山猫
はじめまして。

> 広い「中国」のどの辺りなのか、どんな人々なのか、しかも長い歴史の中のどの時代なのか

すでにご存じかもしれませんが、貴州省苗族(ミャオ族)の風習のようです。萩原秀三郎『目でみる民俗神シリーズ(3)境と辻の神』(東京美術)83ページに、
「中国貴州省の苗族は産をする女の人は子が生まれる前に飼っている犬を一匹殺して食べ安産を祈る」
とあります。書き方からして昔のことではなく、少なくとも近年まで行われた風習なのでしょう。また、
「犬供養は死んだ犬の冥福を祈って行われることになっているが、これは犬の”供犠”からの転化ではないか」
との記述もあります。 『「頼れる神様」大事典』の典拠は、おそらくこれでしょう。
2016.06.19 23:11
clubey
山猫さま。貴重な御教示、ありがとうございます。ここのブログは事実上、数年間放置していたので、御礼の御返信が送れましたことを深くお詫び申し上げます。貴州省の習俗については存じ上げなかったので、大変勉強になりました。本当にありがとうございました。

2016.07.17 18:04

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