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長野県の猫神・常光寺の唐猫

.26 2011 中部地方 comment(1) trackback(0)
常光寺の唐猫 ~塩尻市の猫神 1~

高野山・真言宗
飯綱山・常光密寺

塩尻市上西条 675
0263-52-2584


常光寺・唐猫01
「常光寺」の「唐猫」碑

1. はじめに

もうだいぶ前のことになってしまったが、去年の九月にとれた連休を利用して、近頃ようやく情報の集まりつつあった「長野県」の「猫神」探訪の旅に出てみようと決断したのは、実に決行日の数日前であった。行きたい、とは漫然と考えていたのだが、二つの理由から、最終的な判断が鈍っていたのである。

一つには、「福島県・信達地方」の「猫神」の再探訪も近々に実行したいと思っていたため、心の中で二兎を追っていたことが原因で、二つ目の理由は、「長野」の「猫神」のうち、訪問したい候補が、地理的に広範囲に分散し、なかなか一泊二日の日程に入れられそうになかったと云うことだったのである。その上、「長野県」に行くなら、どうしても泊まりたい宿もある、と云う下らない要素も加わっていた。

「長野県」を候補にする場合、筆者もそうなのだが、とりわけ妻が「長野」に行くなら「伊那地方」、特に一番南に位置する「遠山郷」に行きたい、と云うのである。「長野」と簡単に云うが、この県は日本でも有数の広い県で、「遠山郷」はその中でも最南端の地域にあり、現在の交通網からすらほぼ取り残されていることから、「本州最後の秘境」とまで云われる土地である。「平成の大合併」で「飯田市」の一部になったとは云え、「飯田市」の中心部から「遠山郷」までは自動車でたっぷり一時間以上はかかる上、その行路も悪路に次ぐ悪路である。路線バスはあると云っても、日に四五本であるから、高校のない「遠山」では、高校生はみな「飯田」に下宿することになると聞く。

要するに、「遠山郷」は外界と隔絶された土地であり、それがここの魅力なのだが、他の地域と併せて観光するとなると、そのために地域が非常に限定されるのである。しかして、筆者が訪問してみたい「長野」の「猫神」と云うのは、どちらかと云うと県北の地域の方に多く存在するのである。筆者の脳裏をかすめるのは、「大町市」や「青木村」、「千曲市」「坂城町」「上田市」「長野市」等々である。到底、「遠山郷」に立ち寄る地理的条件を満たしてはいない。

しかし、「遠山郷」に行きたいのは、筆者とて気持ちは同じなのだから、話は厄介なのである。それに、筆者は運転しないのだから、いつも辺鄙な山奥から海辺の突端まで、日本中の悪路をパワー不足のコンパクトカーで制覇してもらっている立場上、無下に妻の願いを聞かない訳にも行かないのである。そこで、今回の旅行は、「猫神」は抜きにして、「伊那地方」と「遠山谷」を漫然と巡る旅にでもしようかと思っていたことから、何もかも手配が遅れてしまったのである。心の迷いは、行動にも波及するから怖い。

それが、日にちが迫ってくるに従って、筆者は決然と考えを変えたのである。情報と知識の不足を理由に、「猫神」探訪をおろそかにして手をこまぬいているのは、いかにも情けない。情報や知識は、二本の足であっちからはやってこないのだから、以前調べて駄目だったからと云って諦めるのではなく、猛然と再挑戦すべきだと思い立ったのである。

それからは、残り時間のすべてを「伊那地方」の「猫神」探しに捧げることにしたのである。大体、いまのところ「福島北部・宮城南部」を除けば、我が国で有数の「猫神」の降臨地である「長野」にあって、筆者の大好きな「伊那地方」に「猫神」の気配が少ないのは、いかにも悔しいではないか。この思いから、図書館では唯一嫌いな国立国会図書館にも無理に足を運び (そして当然の如く嫌な思いをし) 、大の苦手である電話も、問合わせのためには何十本となくかけ、電子メールも無数に送る日々を続けた。もちろん、ネットを検索し続ける作業は、基本中の基本ではある。ネット上には、質の良い情報は皆無に等しいのだが、多くの人が接触するだけに、ヒントとなる事柄を知る切っ掛けにはなりやすいのである。

短兵急を要する調査の黄金律は、書籍やネットを渉猟して、どんな小さな情報も逃さずに、それを糧にして新たな情報を導き出し、関係ありそうな書籍雑誌を再び渉猟したり、ネットの多重検索を繰り返すことである。そして、地域が特定され始めたら、各自治体の教育委員会や図書館、郷土資料館などに、問合せのメールと電話の絨毯爆撃を仕掛けると云う手法に尽きる。当然、出来るだけの下調べはして、問合せ先に過重な負担をかけないようにしなければならない。大抵は、既に調べてあることしか回答されないのだが、時折、良質の情報を得ることもある。この情報を元に、また調査を繰り返す、そんな手続きである。

結局、今回の下調べでは、通える限りの近都県の図書館に足繁く通い、それぞれの館が所蔵する石造物調査に関する書籍や冊子を虱潰しに探すと云う手法が一番、実りが多かった。もちろん、木造物もチェックしなければならないが、残念なことに、木造物調査報告書と云うものは、一般的にあまり存在しない。こちらは、「都道府県史」や「市町村史」の「民俗編」などを片端から漁る他、手だてはあまりない。

そして、ある程度場所が分かっても、最終的な位置の確認は、どうしても自治体の役場や図書館の力を借りなければならないことが多い。一般の地図では、人口密集地でない地域の地図などは、縮尺の荒い、雑なものしか掲載されていないから、役所を通じて、住宅地図レベルのものの写しは最低入手しておきたいものである。この間の折衝が面倒だと思うなかれ、こう云う作業が、実際に調査旅行に出たときに、豊かな実りをもたらしてくれるのである。

かくして、純粋な怪我の功名で、筆者はいまだあまり知られていない (正確には知られていなくなってしまった) 「松本平」から「伊那谷」にかけてのいくつかの「猫神」を再発見する幸運に恵まれたのである。もちろん、地域の人たちは、そんなものの存在など、先刻承知のことと思われるが、ここでは「外部」に向けて「再発見」と表現しているばかりである。

今回の記事を手始めとして、今後は、何回かのシリーズに分けて、この度の調査旅行の成果を整理、発表していきたいと思う。ただし、今回見つけた「猫神」の多くは、その「再発見」に重点が置かれ、その由来や由緒などに関しては、いまだ何も分からずにいるものがほとんどである。この点に関しては、今後とも調査を継続していくので、分かることがあれば、その都度、加筆・増補していきたいと思っている。したがって、今回の記事は、それぞれの「猫神」の再発見に至った経緯の説明と、その位置の紹介と云う性質の記事が多くなることを了承されたい。そして、実際に辿った旅程と同じく、先鋒を務めるのは、「塩尻市上西条」にある「常光寺」なのである。

*

蛇足。

宿は、「遠山郷」でも最も南の方に属する「八重河内」地区の「島畑」にとった。筆者夫婦が、 そもそも「遠山」に行きたいと云うのは、この「島畑」に泊まりたいと云うのに等しいのである。特段、派手な施設がある訳ではないが、囲炉裏で食事を摂らせてくれる、いい宿である。ここの「鹿肉ステーキ」や「鹿肉メンチ」、それに「熊鍋」は、よそで食べるものとは次元がはるかに異なっている。敢えて挙げれば、匹敵しうるのは、同じ「遠山郷」の中心集落「和田」にある名門の獣肉屋「星野屋」くらいである。しかし、これは当たり前、こちらの御主人と「島畑」の御主人は御兄弟なのである。

とにかく、以前に獣肉を食べてあまり気に入らなかったからと云って、ここの料理を試さなかったら、それは生涯の損失である。伊達に「椋鳩十」が愛した「星野屋」ではない。

ちなみに、ここは「ヤマメ」や「アマゴ」の料理もうまい。剛直な「蕎麦」も実はハイレベルだし、「鬼胡桃」の味噌ダレを使った「二度芋」の田楽も絶品である。ほとんどの食材が隣近所で自給出来ると云うのも、ここの強みである。飲むお茶までが、裏山で作られている。そして、天婦羅の素材には、筆者は毎度、驚かされている。

いろりの宿
島畑

飯田市南信濃八重河内 580
0260-34-2286
http://irori-shimabata.com/

是非とも行かれよ。



2. 「常光寺」に着く

長野自動車道の「塩尻インターチェンジ」を「塩尻市街」へと向けて国道20号線に降りることから、今回の「猫神」探訪は、本格的に開始された。そして国道に出たら、最初の信号が、「田川橋」の手前にある「桟敷」の信号なのだが、これを左に曲がって県道63号・松本塩尻線に入ることになる。その先、「大正橋」で「田川」を斜めに渡り、そのまま道なりに進むと間もなく「日ノ出町」の信号交差点に出る。ここを左折して、国道153号線に入り、次の「下大門」でも左折方向に国道を維持すればよい。

「塩尻橋」で再び「田川」を越え、「大小屋 おおごや 」「堀之内」と二つの信号を通過して、三つ目の「塩尻町」の信号の数メートル先を右へと入る。この信号の手前、右側には大きな杉玉の提げられた「笑亀酒造」のゆかしい佇まいが見えるので、明るいうちは目印になるだろう。最近、「文化庁」によって「登録有形文化財」に指定された建物である。

この右に入った路地と云うのが、曲がった直後の道幅がかなり狭く、おまけにその先に「アルプス・ワイン」の大きな工場があるせいか、結構トラックとも行き交うので注意が必要である。その先、小さな橋で「四沢川」を越え、そのままJR中央本線の線路下をくぐって直進する。ここで三たび、今度はかなり細くなった「田川」を渡り、穏やかな水田地を抜けると、道は「権現川」の上を通って、事実上の丁字路にぶつかる。やや左前方に細い直進路が見えるが、これは「慈光院」へと続く道である。

常光寺・寺号
寺号標と石門

筆者らは、ここの丁字路を左へと曲がり、左右に穏やかな田園の住宅群を眺めつつ、やがて右に杉の丘陵を見上げて、その麓筋の坂を、右へと曲がりつつ上ることになった。杉林の切れた辺りで、右手には、しっかりと組まれた石垣が見え、その上の大きな石標に「常光寺」と刻まれているのが望まれる。その横には、石造りの門も見える。

ちなみに、筆者は寡聞にして、寺院でしばしば見かける、この「笠木」や「島木」のない鳥居のような形の石の門の正式な呼び方を知らない。諸姉諸兄の御教示を賜われたならば幸いである。

この石垣の右側 (つまり手前側) に寺への導入路があり、ここを入るとすぐ左手に数台分の駐車場がある。もっと上の方、寺の「庫裡」の真下ほどにも大きな駐車場があるが、檀家でもない筆者らは、ここらで降車して参道を上るのがよい。第一、初訪問の寺は、いつだって参道をきちんと歩いた方が風情もあれば、発見も多いものである。この小さい駐車場の東隣りには「上西条公民館」もある。

常光寺・山門

参道を歩き始めると、始めは舗装路の横に砂利敷きの細い露地があり、決して大きくはないが、繊細で立派な「山門」へとわれらを導く。ここの左手の植え込みには、二基の「庚申塔」が据えられている。一基は大きな礫碑に「庚申」の文字がくっきりと刻まれたもので、もう一基は、綺麗に加工され、精緻な浮彫り彫刻の施された重厚な板碑であった。「山門」には、「飯綱山」と額が掲げられていた。「山門」と書いたが、正式には「通用門」なのか、俄には判断できなかった。

常光寺・額
この額の縁の精緻な「龍」の彫刻が見事!!

常光寺・六地蔵
「六地蔵様」

門をくぐるとすぐ、左手に赤い頭巾と前掛けを着けた「六地蔵」様が控えている。その前を通って、坂道を登ると、右手に「狛犬」が一対構えており、そこから右上へと延びる石段が、台地の上に聳える勇壮な寺の伽藍へとわれらを導いている。この石段の参道の左右には、樹齢百年はあろうかと云う杉の古木も何本となく林立し、荘厳かつ幽玄な雰囲気を否が応でも醸成している。

筆者らの訪問は、車の給油が出来なくなってしまうほどの激しい雷雨の中になってしまったが、そんな悪条件もまた、この寺を見上げたときの厳かさに息を呑んでしまうことの妨げにはならなかった。それこそ、轟く雨音も雷鳴も、苔むす緑の境内に音無く「沁み入る」ようであった。「芭蕉」ほどの研ぎ澄まされた感覚はなくとも、ここで筆者らは静寂の生まれる瞬間を体験した。そう云う意味では、空前の雷雨も、しめやかな慈雨に等しかったのかも知れぬ。

一応、下に筆者の下手くそな写真を掲げるが、ここの景観の胸打つ美しさは、到底、写真では伝えられない。それにしても、筆者の写真の腕が、謙遜の域をはるかに凌駕して稚拙なのは、どのように詫びても許されまい、とは思っている。

常光寺・下から
この地点に立った時の荘厳な空気は、写真ではまったく伝えられない...

「狛犬」の後ろ、左手の杉の古木の根元からは、清冽な水が無造作に湧いており、それが細流となっては、小さな石橋の下を迸って山麓を駆けおりていた。普段は、より静かな沢水なのだろうけれど、この日の豪雨には、さすがに白波立てる勢いを得ていた。しかし、山裾の岩間から湧く絞り水だけに、他の川と違って、土色に濁ることはなく、飽くまで透きとおっていた。

石段の麓、左側には御手洗とお地蔵様があり、途中には「お大師様」の像が、植え込みと木立の間から姿を覗かせていた。この「お大師様」の前を左へと進むと、「庫裡」下の庭園となり、広い「蓮池」が水紋を立てていた。こちらは、さすがにわずかに濁っていたが、「泥中の蓮」と謂うくらいだから、これはやむをえない。むしろ、水面に広がる漣の縮れ模様の方に、池の風情はとられていたのは、蓮たちには口惜しいことであったろう。

石段の上、左に張り出した台地の突端からは、「鐘楼」が訪問者を見おろしており、その裏からは壮麗な仏堂群の甍が聳えつつ、覗いていた。石段を一段登りつめるごとに、諸堂の勇姿は漸次、その姿を現していく。ここの石段とその造り出す斜面と台地の景観は、壮大さと優美さを兼ね備えているのだが、それを可能にしているのは、台地が実はさほど高くもなく、つづまった距離の中に凝縮されていると云う事実なのだが、そう考えると、この地形をうまく利用した設計が、なお一層見事に感じられた。当然、石段も決して長くはなく、ゆっくり登って景色を味わっていれば、気づかぬうちに上の台地に到着する仕組みなのである。台地には居並ぶお堂の他に、瀟酒で清潔な上厠舎もあり、境内を巡るのには不都合のないように気が配られているのがよく伝わってくる。

「塩尻」の御当地カルタの一つに『塩尻・楢川かるた』と云うのがある。当寺はこれに、「若葉して 石楠花寺の 常光寺」と謳われていることからも分かる通り、地元では初夏の「石楠花」の咲き誇る寺として知られているようである。この寺の境内から裏山にかけては、二千本もの「石楠花」の株が植えられていると云うから、その季節にはさぞ匂わんばかりの薄紅の靄に全山が包まれることだろう。五月中頃が最盛期だと云う。

この全山を覆う「石楠花」は、「上条仙昌」住職が昭和四十五年 (1970) に、「高野山」参詣に行った際、購入してきたと云う五株ほどを植えたのが始まりだそうで、昭和六十二年 (1987) 頃までに、年々増やしていったものだと云う。

この規模の花々を管理維持するのは並大抵のものではなく、地元の有志の「花の会」の皆さんが季節季節に手入れをされているそうで、その管理費の捻出のためにも、「石楠花」の季節には拝観料が四百円かけられている。「石楠花」の季節は、境内の「躑躅」も美しく、夏の盛期には、三百株の「紫陽花」も花盛りになるらしい。

* ただし、同じ市内の「片丘北熊井」に、別の「常光寺」があり、こちらは「ぼたん寺」として知られているようであるから、訪問される際には間違わないように気をつけた方が良さそうである。

*

「飯綱山・常光寺」は、「塩尻市」の東部、「上西条」地区にある「真言宗」の古刹であるが、その来し方に関しては、不明なままの点も多い。『塩尻市誌』の記述によれば、応永年間 (1394-1428) に、「法印恵覚」によって「中興」されているが、後で見るように、「塩尻市史談会」の『塩尻の伝説と民話』 (1975) には、永徳二年 (1382) の中興され、応永三年 (1396) には「本堂」を再建していると記されている。前書は、この「本堂」再建を以て「中興 (再興) 」と見なしたのだろうか。『市誌』に従えば、せっかく再興された寺も、わずかに「法印祐忍」が次代を継いだのみで、文明四年 (1472) には、「祐忍」の遷化を以て一旦は法灯が中絶したと伝えられていると云う。その後、寛文九年 (1669) になって、「法印実清」が「高野山」から当地に来山して法流を継ぎ、今日に至っている。



3. 余談・「飯縄城」について

ちなみに、「常光寺」の裏山は、そのまま南へと「大芝山」 (1210m) に向かって尾根続きの山塊を形成しているのだが、この尾根沿いには、「西条山城群」として知られる三つの極めて類似した構造を持つ、相互に連携した「中世期」の城の跡地がある。これら三つの城のうち、最も規模が大きいのが「常光寺」裏山の頂にあった「飯縄城」だとされ、「常光寺」の北西側に張り出した斜面の向う麓には空堀跡も残されているが、往時、この堀は山上の堀切と連結していたものと考えられている。現在、この堀は「慈光院」の東で途切れているが、さらに東に百メートルほど行った先にほぼ南北に走る土塁と竪堀の遺構も残されており、かつては山麓に張り出す形で造られた、これら堀に囲まれた区域が、「飯縄城」の城主や家臣たちの平時の屋形や屋敷があった場所と考えられている。

「飯縄城」の名前は、実は古いものではなく、「堀内千萬蔵」が大正十四年 (1925) 発行の著書『塩尻地史』の中で、仮に命名したものである。恐らくは、主郭から東に延びる尾根上に「飯縄権現」を祀る祠があることから名づけたものとだろう。ただ、十八世紀前半に成った『信府統記』には、「上西条古城地、上西条村ヨリ巳午 南南東 ノ方二十五町」と云う記述があり、方角からして「堀内」氏の云う「飯縄城」と見て間違いなさそうである。同書には、その城主に関して、「小笠原簡斎居住アリシト云イ伝ウ」とあり、『塩尻地史』においても、宝永二年 (1705) に「豊前小倉藩」で編まれた「小笠原氏」の系譜である『笠系大成』の記載を根拠に、ここの城主を「小笠原持長流」の「小笠原宗則 - 光政 - 光保 - 貞保 - 頼貞 (簡斎) 」の五代と推定しており、築城年代は明確に宝徳元年 (1449) としている。

『塩尻市誌』の編者は、この城が、明確な「枡形虎口」を欠いていることなどを挙げ、その築城時期を十五世紀末から十六世紀初と推定する一方、「慈光院」のある山麓の郭は、構造上、十六世末に新たに構築されたものとも考えているようである。一方、「堀内」氏は、また、五代「頼貞 (簡斎) 」のときの天文十七年 (1548) に「塩尻峠の戦い」で「武田晴信」に敗れて落城したとしている。

前記『笠系大成』では、「頼貞 (簡斎) 」は天文十九年 (1550) に「旧・南安曇郡梓川村」での「野々宮の戦い」で負傷したと書かれているが、「市誌」の編者は、「二年前に塩尻峠の合戦で大敗した小笠原長時の没落期に、武田信玄支配下の塩尻に戻ったことはあり得ないと見るのが穏当である」 (「市誌」二巻、p. 352) と述べて、懐疑的な姿勢を示している。

ただ、「市誌」も、この城が「小笠原氏」の在地支配の拠点として「戦国末期」まで使用されたと云うことは否定しておらず、その構造からも十六世紀の末期まで使用されたと見ているようであるから、この城は、「小笠原氏」没落後も、「豊臣政権」の時期まで廃城にならなかったと見てよいのだろう。

しかし、この「飯縄城」の実戦で活躍した年代を見ていて思うことは、それが「常光寺」の中絶期にすっぽり収まると云うことである。寺伝によれば、中絶していたのは、文明四年 (1472) から寛文九年 (1669) と云うから、法灯が途絶えた時期と城が築城された時期とは、ほぼ一致する。現在、「飯縄城」の跡地に行こうとする場合、「慈光院」からのルートを模索するのでなければ、「常光寺」から登るのが最も簡便な方法である。既に見たように、現在「慈光院」のある土地は、かつて城の大手口を形成する根古屋だった可能性が高く、城の防備もこの正面口に集中させて形成されていたようである。「権現川」や「田川」「四沢川」などの形づくる沖積平野の水田地も見渡せる絶好の立地で、西から西南にかけては「嵐城」があり、南の向背地は「西条城」へと続く山嶺がある。

つまるところ、「飯縄城」にとって「常光寺」口のみが、防備が手薄になるのである。この緩やかな斜面を形成する「常光寺」口の谷がそのまま放置されていたとは考えにくいため、現在の「常光寺」の位置に、当時、何らかの柵なり砦なりが造られていた可能性は十分にありそうである。あるいは、万一の敵の駐屯を許さぬために、「飯綱不動堂」を除いて、伽藍は撤去されていたのかもしれぬ。「飯綱不動堂」を除いて、と云うのは、さしたる根拠あっての発言ではないのだが、「戦国武将」が戦勝の神様でもあった「飯綱権現」を排するとは思えないことと、現に「江戸期」になって法灯が復活するのだから、何かしらの信仰の母体が当地に残されていたものと推察されたからである。

いずれにしても、この時期の山城の築城と、「常光寺」の中絶には、何かしらの関係があったものと睨まれる。もちろん、現時点では、素人の勝手な想像に過ぎないのだが...。



4. 観音霊場としての「常光寺」

「常光寺」は「真言密教」の寺だけに、「本尊」は「大日如来」なのだが、別に「聖観世音菩薩」も奉じており、「松本市」周辺 (松本市、塩尻市、朝日村) に展開する「信州筑摩三十三ヶ所観音霊場」の「第十八番札所」ともなっている。この霊場巡りの歴史は定かには知られていないが、萬延元年 (1860) の記録は残されているので、「江戸末期」には、かなり盛んに行われていたのではなかろうか。

このことと関連してみておきたいのは、寺の近くにある「道祖神」である。「常光寺」前の道を東南へと二百メートルほど進むと、かつてはこの地を通る人々にとって、かなり重要な位置を占めたY字路に出ることになる。地元の人でも年配の方々は、「上手」と呼ぶ辺りで、かつては「上西条東塩尻駅交差点* 」などと呼ぶ人もいたらしい。そして、ここの辻には、いかにも「信濃」らしい微笑ましい「双体道祖神」と、それと一体化した古い道標が残されている。「ウメノキゴケ」のような白っぽい苔に覆われた碑面には、かなり小さくだが、確かに崩し字で「右やまみち」「左いせ道」と刻まれている。

* 東塩尻駅---正式名称は、「東塩尻信号場」。かつて国鉄中央本線にあった信号場。昭和十四年 (1929) に、輸送力増強のため、スィッチバック式の信号場として設置された。後に仮乗降場扱いで旅客も利用できるようになり、乗車券も販売していた。昭和五十八年 (1983) 七月五日に、「みどり湖/ (塩嶺トンネル) 経由の新ルートが開業すると、「辰野」経由の在来区間が支線化され、近くに新線の「みどり湖駅」が設けられたのを機に、同じ年の十月十二日で信号場は廃止された。

ここで云う「やまみち」とは、普通名詞としての「山道」ではなく、「常光寺」の寺山である「飯綱山」の東面の「飯綱久保」や、「城ヶ嶽」 (西条城跡地) の「北面」の「北ノ入り」、さらには「上西条村」の「入会山」であった「幸ノ田澤」などに入る、特定の山道のことである。昭和五十九年 (1984) までは、今は廃された中央本線の「東塩尻」駅 (正しくは「東塩尻信号場」) にまで続いた道でもある。

この道標の面白い点は、「道祖神」と一体となっていると云う形態上のことだけでなく、それがこの地域の住民の生活にとっては必要欠くべからざる分岐路に建てられていると云うことにある。要するに、地元の住民であったならば、誰もが知っている「やまみち」への方向を示していると云うことは、この道標が地元民のために建てられたものではない、と云う事実を明白にしているのである。

「左いせ道」と書かれていることからも推察出来るように、「江戸時代」の終わり頃に各地で流行った、寺社の回遊巡礼の旅にある人々のために建られたものと考えられるのである。これは取りも直さず、村の外からも、「常光寺」に参詣に来る人々がそれなりの数あったことを意味している。この「道祖神」には天保十二年 (1841) の紀年銘があるから、先ほどの万延元年からさらに時代を遡って、巡礼が行われていた可能性は、ほぼ確定的なのである。



5. 寺の裏山へ


しかし、今回筆者がこの「常光寺」まで来た目的は、諸堂を経巡り、近隣を闊歩して往時を偲ぶことでは毛頭ない (そう云うことは大好きではあるが...) 。何と云っても、第一の目的は、この寺にあると云う「唐猫」を見ることにあった。

と云う訳で、話を一気に「常光寺」探訪に戻そう。
寺に着くなり、筆者は「庫裡」の方に挨拶に出向いたのだが、お彼岸のさなかと云うこともあって、御住職は生憎不在であった。それでも、応対に出てきて下さった御婦人に簡単に質問などをすると、筆者の探している「唐猫」は、「護摩堂」の裏を登った広場にあると教えて下さった。

挨拶を済ませ、お礼を述べると、筆者は早速そちらに向かうことにした。だが、よく考えてみると、建ち並ぶ立派な伽藍のうち、どれが「護摩堂」か、筆者には分かりようがなかったのである。参道の正面にあるのが「本堂」だとしてぇ...などと思案しつつ、「庫裡」の横の建物から順に扁額などを確認したのだが、どれも「本堂」だとか「護摩堂」だとかと記されている訳ではないので、どれがどれだかなど分かるはずもなかった。それでも、「庫裡」に引返して再度尋ねるのも申し訳ないしなぁ...などと考えつつ、そのまま、一つ一つのお堂を覗き込む作業を続けたのである。

常光寺・本堂
「常光寺・本堂」

一方、妻はと云うと、全てのお堂や祠を巡って、お賽銭を供えてお参りをしていた。これは妻が信心深いからなのではなく、本人に云わせると具体的な感謝の気持ちから出る行ないなのだと云う。以前、筆者夫婦が交通事故に遭った時、たまたま乗り合わせていた我が家の白猫が、壊れてしまったキャリーから抜け出して、行方不明になってしまったのであるが、この時は、十日間、毎日足を棒にして探しまわったにも関わらず、猫は見つからなかったのである。絶望の中、事故現場の近くに佇む「庚申塔」などに妻は毎日、必死に手を合わせていたのだが、十一目の夜、国道を越えて数キロ、猫は我が家に自力で帰ってきたのである。以来、妻は寺社、特に路傍の石仏様には、手を合わせることを決して欠かさなくなった、と云う事と次第なのである。

常光寺・護摩堂
「護摩堂」

常光寺・薬師堂
「薬師堂」

常光寺・共栄社
「共栄社」

後になって分かったのは、参道正面のお堂は「本堂」ではなく「護摩堂」で、その左が「本堂」、右の南面しているお堂が「薬師堂」と云うことであった。したがって、筆者が左からお堂を確認している間にも、妻は右端の「薬師堂」からお参りしていたことになるのだが、その次に「薬師堂」の横の「共栄社」と云う小さな祠にお参りしていた辺りで、裏山への道があるよ、と筆者に声をかけてきたのである。そう、「護摩堂」と「薬師堂」の間のわずかな広場に立てば、山に向かって正面に、露骨に石段が見えたのである。

もちろん、山寺などの探索をするときは、下手な推測で動き回ると、一山登ってから自らの間違いに気づいて、大変な骨折り損をすることもあるのだが、筆者はどうも「下手に動き回る」性質らしく、このときも早速、裏山に登ることに決めた。

ただし、「共栄社」の小祠の左手、「護摩堂」のちょうど裏手辺りから設けられた石段は、二つあった。一つは、一般的な石段で、他方はその右手に作られたなだらかな坂状のものである。こちらは、石段とはやや形状が異なっていて、うまく表現出来ないが、瓦の背中を下にしたような、軽く凹湾した長方形のコンクリート製ブロック・タイルを敷き詰めたもので、手すりもあり、豪雨の中も、思いの外、登りやすいものであった。最初は、こちらが「女坂」なのかと思ったのだが、よく見ると「順路」と書かれた矢印付きの立て札がこの小径を指していたので、どうやら「石楠花」などを楽しもうと訪れたお参り客のための遊歩道のようだと知ったのである。

もっとも、お花の季節を大きく外れていたために、この遊歩道の脇からは、所々に秋草や灌木の枝などが延びていて、これをかき分けて登らねばならなかった。もちろん、そうは云ってもたいしたことではなく、この日が猛烈な雨だったからのみ、傘が枝につかえてしまって濡れずには通れなかっただけである。普通の天気であれば、何ほどもない障碍である。


途中、「百番供養碑」と刻まれた石碑を右に過ぎて進むと、すぐに諸堂の裏の台地に出る。ここは、整備された広場になっており、花の咲き誇る季節には、ゆっくりと花見が出来るよう、緋色の大傘を天蓋に、横に長い丸太の腰掛けも二つ据えられてあった。順路は、裏山の東の尾根伝いへと、さらに続いていたが、筆者は、ここの広場が目的地となった。迂闊にも、この尾根上に「飯綱権現」を祀る奥社の祠があると知ったのは、少し後になってからであった。

さて、ここ、「護摩堂」裏の台地は、そもそも前面の断崖部中央に、石の鳥居が立てられており、前に記した第一の石段は、直角に二度屈曲して、この鳥居の下に通じているのであるから、本来は、こちらの石段が参道だったのだと思われる。そして、鳥居がある以上、ここは古式ゆかしい「神仏混淆」の名残を強く残した寺だと云うことになる。

常光寺・鳥居
裏側から石鳥居に臨む
「護摩堂」の屋根が見える。

この鳥居を背にして立つと、正面の一段高くなった雛壇状の土地に、木組の覆屋となったお堂を望むこととなる。左右と正面の壁は、横木を一本おきに差し掛け、間に隙間を空けた吹き抜けの造りとなっているが、背は高く、なかなか立派なお堂と云える。筆者らは、さらに何段かの石段を上ってこのお堂の前へと進んだ。

覆屋の下には、まず前面中央に賽銭箱があり、その後方、左右には石のお狐様が控えていた。もちろん、覆屋の中には、「本殿」が祀られてあったが、これが小さいながらに精妙な彫刻を施された木造の祠で、かつてここの神様が篤く祀られていたことを物語っていた。



6. 「飯綱大聖不動堂」

さて、この覆屋のあるお堂なのだが、一瞥しただけでは何のお堂なのかがまるで分からないのである。建物の前面の廂下には「扁額」が掲げられていたが、永い間の風雪に耐えて、すっかり色が褪色してしまっていたため、その読み取りは事実上、不可能に思えた。そこで、堂内にお狐様がいることで、何となく「稲荷社」なのかなと思っていたところ、じっと「扁額」を見つめていた妻が、最初の文字は「飯」に見えると言い出した。なるほど、そう云われれば「飯」に見える。この時点で、寺の「山門」や仏堂の扁額のことが頭をよぎり、突如として、ああ、この神様は「飯綱 いづな 様」だと、理解したのである。

とりあえず、妻の勧めで、読み取れない扁額の写真を撮って、家に帰ってからパソコンであれこれ画像処理を施して陰影を浮かび上がらせると、当初は「不動尊」だと思っていた最後の三字は、どうやら「ふ動堂」らしいことが分かり、「木」に見えていた三文字目も、実際には「大」の字であり、その下が「聖」であることが見て取れた。かくして、扁額には、「飯綱大聖ふ動堂」と書かれていたことがほぼ判明したのである。

「大聖不動」などと云われると、一般に「不動明王」「不動尊」「お不動さん」などの名前にばかり親しんでいる耳には聞き慣れないが、「密教」ではしばしば「大日如来」の化身とされる「不動尊」を「大日大聖不動明王」と呼ぶのである。この事実を知っていれば、「飯綱大聖ふ動堂」と云う呼び名も決して不思議ではないのである。
常光寺・飯綱大聖不動堂
雛壇の上の「飯綱大聖不動堂」



7. 「飯縄信仰」について

※注!! この項は、特に筆者の記憶代わりに、「飯縄信仰」に関する筆者の覚書としてだらだらと書き記したものである。したがって、そのまま飛ばしても、記事全体としてはさして影響はないので、御興味のない方は、是非、そのようにして下さい。

「飯綱様」を巡る信仰を説明するのは、非常に難しい。元々が国家的仏教からは異端と排された非正統の「山岳信仰」に根ざした一派であり、呪法などの各種の秘法を行う性質の上からも、盛んに行われた「中世期」にあってさえ、謎多き信仰としてみずからを位置づけていたほどである。要するに、元々、外部から体系化して理解するのが困難な成り立ちだったと云えるのである。

「山岳信仰」に根差した「修験道」などの仲間は、「近世」にあっては「寺請制度」を中心に据えた「幕府」の人口統制策に馴染まないと云う理由で、常に為政者との間に軋轢があったため、さらなる地下組織化が進んだとされるくらいだから、中でも秘儀性の高い「飯縄信仰」の全貌はいよいよ見えにくいものとなったと考えられる。「修験道」はまた、各地の様々な民間信仰とも習合した来歴があり、さらには「明治維新」時の「神仏分離」および「廃仏毀釈」の流れの中で、その批判の矛先を直接に向けられて、多くの拠点を事実上、破壊・解体されてもいる。その後の我が国全体の「近代化」の波の中で、呪ないを大きな柱にする「修験」は、不合理な過去の遺物と認識されただけでなく、一般に邪法扱いされることも多かったため、信仰間の競合の中にあって必然的な劣勢に立たされ、各派の横のつながりすら失った中で、その歴史的な来歴や由緒などに関して、明確に跡を辿れる資料はほとんどなくなってしまったのである。


中でも、「飯縄信仰」は、「柳田國男」が「今日、いくらさがしても見当たられぬほどその影は薄く、たまにあったとしても、当事者自らが不思議がっている程度である」と云っているほどで、そのあとを追うことは極めて難しくなっている (柳田、1957、p.4) 。今回訪問した「常光寺」でも、「真言密」に関してはしっかりとした体系的理解がなされているようであったが、こと「飯綱権現」に関わる事象になると、「唐猫様」を含めて、不明になってしまったことばかりのようであった。

この「飯縄信仰」と云う難しい問題に近年手をつけたのは、「宮本袈裟男」や「佐藤憲昭」である。「宮本」氏の論考は、従来「飯綱使い」や「飯綱憑き」などの「憑きもの」現象に傾き過ぎていた関心を留保して、それらを含む「飯縄信仰」を全体として把握しようとする試みであった。そして、それを内容面から三分類して分析することで、「飯縄信仰」が従来考えられていたよりもはるかに作神的な性格を有していると指摘している。また、「飯縄信仰」の広がりが「戸隠修験」の講活動に負うところが大きいとしつつも、「飯縄山」の「里宮」と「戸隠山」側の間にあった本質的な断絶があったことも明らかにし、その結果、「戸隠飯縄信仰」の主導権を握った「戸隠修験」が、「明治」の「神仏分離令」によって「飯縄信仰」から手を引いたことで、「飯縄信仰」は決定的に衰退したと見ている。「荼吉尼天」との結びつきに関しては、「憑きもの」現象を中心に据えずに分析しているため、従来よりその重要性を小さく評価しているのも、「宮本」氏の功績の一つである。 (その他、多くのことを云っている) 。「佐藤」論文は、ただでさえ乏しくなった「飯縄信仰」の痕跡を、現在 (1980頃のことだが...) の、しかも都市部における「イズナ」や「イズナ使い」の事例に絞って紹介している労作である。この他に「知切光歳」氏は、その著書『天狗の研究』の中で「飯綱三郎」と「千日太夫」などの項目を設けて、概説的な説明を提供してくれている。その内容は当然「宮本」氏とは異なって、「天狗」や「飯綱の法」と云う呪法的な側面に重点を置いているが、入門編としては、分かりやすく、便利だ。

*

「飯縄信仰」は、云うまでもなく「飯縄大明神」 (或いは飯縄大権現) を祀るもので、現在は、都下の「高尾山」が特に有名になっているが、その他ではあまり聞かなくなってきている。しかし、その本源地は、「長野市」の北方に美しい裾野を広げて聳える「飯綱山」であり、この山は、近くの「戸隠山」と手を携えて、古くから「修験道」の霊山として栄え、「飯縄大明神」が祀られてきたのである。にも関わらず、今回訪問した「常光寺」でも、御住職までが「飯縄信仰」を説明される時に、「高尾山で有名な」とおっしゃっていたほどだから、「塩尻市」くらいではあまり本場「飯縄山」の権威も残っていないようであった。

いま、「飯縄山」 (1917m) の山頂には、かつての繁栄の片鱗すら感じさせない石の祠が一つ、二つある程度だが、「長野市富田字荒安」には「飯縄神社 (皇足穂命神社) 」の「里宮」があり、さすがに立派な佇まいを見せている。この「皇足穂命 すめたるほのみこと 」の神名は、「近世期」の文献『菅江真澄遊覧記』にも見られるが、あまり耳慣れた神様とは云えない。おそらくは、「神仏分離」のごたごたの時に、一種の延命策として適用された祭神なのだと思う。今でも、「里宮」の参道入口には大きく「飯縄神社里宮」と刻した堂々たる社号標が立っている。念のため、以下に、この神社境内にある案内板の内容を載せておこう。
飯縄神社は、西暦二七〇年頃第十五代応神天皇の御代飯縄山山頂に天神大戸道尊を祭り、飯縄大明神と称したのがそもそもの起こりで、本地を大日如来とし八四八年学問行者が飯縄山に入山して、この如来の尊容を拝したと言われる。

西暦一二三三年に信濃国荻野 (信州新町) の地頭伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した。忠綱の子、盛綱も父に従い入山し、荼枳尼天の法を修得、父より飯縄の法 (管狐を使う独特の法術) を受継ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日太夫」と称し、飯縄信仰を全国に広げると共に忍法の祖となった。

又、武門の尊崇を受け、特に足利三代将軍義満は、紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山本地仏として寄進し、室町時代末期には武田・上杉両家の深い尊信を受け神領を寄進され、徳川三代将軍家光も朱印地百石を寄進するなど、飯縄信仰は全国的に伝播、万余の末社を有し、全盛を誇った。この里宮は、千日太夫の冬季居所に武田信玄が創建したものといわれる。

飯縄山は山頂より食べられる砂 (飯砂) を産し、参籠の行者等は、これを採って食べたことから飯砂山、転じて飯縄山と言い、これは保食神 (皇足穂命・すめたりほのみこと) * の霊徳として、明治六年長野県庁より皇足穂命神社の称号を与えられた。
現地案内板より

* 皇足穂命---現に「長野市信州新町」には「皇足穂命神社」の本家があり、「式内社・白玉足穂命神社」の論社の一つと目されている。

ここの社家は代々「千日太夫」を称して、かつては大きな勢力を誇っていた。「江戸時代」の『飯縄山略縁起』によれば、「飯縄山」は嘉祥元年 (848) 三月、「戸隠」の「学問行者」が「飯縄山」にて「飯縄明神」の尊容を拝して後、天福元年 (1233) に「千日太夫」の開祖「水内郡荻野」の城主「伊藤豊前守忠縄」が約四百年ぶりに「飯縄明神」の姿を拝したとして、山頂に「飯綱神」を祀り、大願を発して五穀を断ち、山菜、木の実を食して千日の間、祈念を凝らし、神通自在、不老長生の通力を得て下山し、修験道場を開いて、「飯縄山」を再興したと云う。世人はこれを「千日豊前」と称え、「飯綱の大天狗」と云って怖れた。息子の「次郎太夫盛綱」もまた、千日の荒行を修したのだが、実は「千日太夫」と云う呼称は、この「盛綱」の時に生まれたようである。

ついでに記すならば、この文書に先立つ、「室町期」の『戸隠山顕光寺流記并序』にも、「飯縄明神」について「吾は是れ、日本第三の天狗なり *。願わくは此の山の傍らに侍し、権現 (筆者注・戸隠の九頭竜権現) の慈風に当たりて三熱の苦を脱するを得ん。須らく仁祠の玉台に列すべし。当山の鎮守と為らん」と書かれており、「戸隠」と「飯縄」の起源的なつながりをよく表わしている。しかし、後世「飯縄の法」として知られてゆくことになる呪法は、「千日の荒行」に基づく「千日太夫」以来のものであり、より古層の「飯綱三郎天狗」を中心に据えた「戸隠修験」の「飯縄信仰」とは発生も、内容も異なる。
* 日本第三の天狗---一般に、「飯縄明神」は「飯綱三郎」と呼称されるが、これは「愛宕山太郎坊」「比良山次郎坊」に対する呼び方である。

「戦国末期」に入ってからは、「千日太夫」は「仁科氏」が務めるようになり (いっとき、「仁科甚十郎」を名乗った) 、「飯縄神領百石」を支配したのだが、この「仁科氏」は「飯縄山頂」を巡る「戸隠神領」との境界争いを長く戦ったため、「中世」以来、とうに進んでいた「飯縄山」と「戸隠山」の分断は決定的になったと云える *。「明治」以来、「戸隠山」が「飯縄信仰」から手を引いてしまった以上、「飯縄神社」が「飯縄信仰」の中心となりそうなものを、「高尾山薬王院」が独立した高い地位を維持しているのは、「高尾山」がある意味で「千日太夫」以前の「飯縄信仰」の名残をわずかだが残しているからかもしれないとは思ってみたが、ただの思いつきである。「戸隠」と分離した「真言派」に属している以上、その可能性は小さい。「高尾」の名が高いのは、単にそれが「徳川」以来の我が国の首府の近くにあることと、本家の「飯縄山」が衰退してしまったことに由来するのかも知れない。「常光寺」の御住職が「高尾山」に親近感を持つのも、同じ理由からなのだろうか (どちらも真言宗・智山派) 。

* 「知切光歳」氏は、「戸隠修験はもともと天台、真言に岐れて宗派を問わなかった。それが両派の間に隙が生じ、文永七年 (1270) 、真言派の修験が大挙して戸隠を離れ、飯縄の一峯、霊仙人寺に移ってから、両派の修験が対立するに至った」 (知切、1975、p. 60) 、「飯縄山は以前は戸隠の前山で、飯縄修験は戸隠に属していたものであるが、文永五年、山の修験が天台、真言の両派に岐れて隙が生じ、宝光院の真言派が大挙して離山し、飯縄の一峯霊仙寺に移って両山ははっきり分離した」 (上掲書、p. 346) 、「飯縄修験が戸隠から離脱したのは、文永七年 (1270) 、戸隠宝光社の大衆が離山して、飯縄の一峯、霊仙寺に移ってからだと考えられている」 (上掲書、pp. 393-394) と述べている。氏は、その上で、実際の分離のきっかけは、その三十七年前の天福元年 (1233) に「伊藤忠縄 (千日豊前) 」が「里宮」を開いて、独自の修法を弘めたことにあると理解しているようである。

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ちなみに、「千日太夫」と云う呼称は、「伊藤豊前守忠縄」が食料を一切持たずに「飯縄山」に籠って行を行なった奇蹟に由来する。この山には、「飯縄神社」の案内板にもあった「天狗の麦飯」と呼ばれる「食べられる砂」が埋まっており、「千日太夫」は、おそらくこの「天狗の麦飯」を食べて三年間の厳しい修行に耐えたのだろうと云われている。

「天狗の麦飯 テングノムギメシ 」は、「細菌」や「黴」や「藍藻類」の群体からなる物質のような生命体で、黄褐色からより濃い色をした一、二ミリほどのゼラチン状の粒である。地表から近いところに層をなして埋まっていると云う。『菌類の世界』の著者「小林義雄」は、「桃の木から分泌される樹脂を少し堅くしたもの」を想像するとよい、と記している。筆者も直接見聞する機会に恵まれていないので、あれこれ想像を巡らすしかない。詳しくは、上記『菌類の世界』、あるいは「椿啓介」の 『カビの不思議』(筑摩書房 、1995) を見るとよい。

この「天狗の麦飯」については、『信濃奇勝録』や『善光寺道名所図会』にも記録され、かなり昔から人々に知られていたようであるが、大正十年 (1921) には、我が国の天然記念物にも指定されている。以下に、『善光寺道名所図会』の記述を掲げておこう。

さて嶺の内頂より五丁程北東へ根笹を分け行に沼田の畔の如く土和らかなり、小岩斑なる砂原の根笹なき所あり、是砂のある所なり、上面の砂をかき除き、岩の際を手にてすくひ出せば麥の如く粟の如し、採て服するに和らかにして、何の香氣もなく風味とてなし、腹に充るとて障なしとぞ。此砂みだりに取て下らん事山をしみ給ふといひ傳ふ。

豐田庸園 (1849) 『善光寺道名所圖會』卷三、嘉永二年
復刻・(1998) 『善光寺道名所図会』臨川書店

この「天狗の麦飯」は、他にも「飯粒・飯砂・餓鬼の飯・長者味噌・謙信味噌・米飯・麦飯・粟飯・味噌土」などの呼び名があるそうで、いままでに「小諸市・飯綱山・戸隠山・黒姫山・浅間山・唐沢温泉・妙高山・鹿沢温泉・斑尾山・志賀高原・嬬恋村」などから自生/棲息の情報が寄せられている。かつては、飢饉の時に人々が争って掘ったとも云われるが、いまではどの自生地でも限りなく絶滅に近い危機に瀕しているため、仮に所在地が分かったとしても、採取するのはやめましょう。

*

「知切光歳」氏は、「飯縄の法」の確立に当たっては、「京都」方面の「狐」を使う「荼吉尼天」の呪法である「愛宕の法」が強く影響していると見ている。これが「狐」を使う呪法であったため、元々「信濃国」に古くから伝わっていた「管狐」の呪法と「愛宕の法」が習合したのでないかと見ているのである (知切、1975、p. 397) 。確かに、「管狐」が「飯縄の法」と密接な関係にあることは、「オサキ狐」の優勢圏であるために「管狐」の伝承を伝えない「関東地方」にあって、「飯縄信仰」の普及した「千葉県」と「神奈川県」だけには、「管狐」の言い伝えが残されていることからも見て取れるのだが、果たしてこの「管狐」の伝承が「飯縄の法」の興された天福元年より古くから存在するものなのかは、証明できない。したがって、「知切」氏の説は、極めて魅力的なものではあるが、現時点では、「管狐」の影響で「飯縄の法」が起きたのか、或いは逆に、「飯縄の法」における妖狐の使役と云う行から、「管狐」の伝承が生まれたのかは、明確にすることは出来ない。しかし、この「管狐」のことを別にすれば、「荼吉尼天」の信仰を基盤として「飯縄信仰」が「中世」に成立したと云うのは、概ね研究者の一致した見解のようである (田村、1998) 。

その「荼吉尼天」とは、「インド神話」における「ダーキニー」のことで、「シヴァ神」の従者 (侍女) とも、妃「パールヴァティー」の化身の一つとも従者とも、あるいは又「カーリー女神」の従者だったとも云われ、「インド」では、単体の神格として扱われることもあるが、多くの場合は十五六歳の美少女の集団として現れるようである。魔術の力で、強風を起こし、虚空を飛ぶ魔女であるため、「荼吉尼」「吒枳尼」の他に、「空行母」と云う漢訳もあるらしい。

「密教」の世界では、「ダーキニー」は、太古、人の肝や肉を生きながらに喰らう「羅刹女」だったが、「大日如来」の化した「大黒天」に屍林で調伏され、以降、生者の心臓/肉を食うことを禁止され、死者の心臓/肉だけを食べるようさせられたと云う。このとき、「大黒天」は、代わりに「キリカク」の真言を授け、死者の心臓をいち早く食べられるよう、自由自在の通力と、半年前に人の死を予知する能力を与えたと云う。

我が国に入った後の「荼吉尼天」は、当初は半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿で描かれたが、やがて「白狐」にまたがった女天の形に変化した。そして、「荼吉尼天」の心臓を喰らうと云う嗜好と、自在の通力と予知能力を持つと云う性質から、「荼吉尼天」に自らの心臓/肝を捧げる契約を結ぶと、「荼吉尼天」がいかなる願いも叶えてくれると考えられるようになった。そのため、「愛宕の法」や「飯縄の法」に限らず、「密教」や「修験道」の各派では、広くこの「荼吉尼の法」を呪法として応用されたが、その呪術性の高さから一般には外法とされた。

しかし、火急の所望に利く呪法として、「中世」に大いに流行し、「愛宕の法」そして「飯縄の法」として取り入れられていくに従い、「火攻めの法」などとしても知られるようになり、敵を調伏する秘法として広く信仰されるようになったのである。

このようにして、変幻自在の天狗「飯縄大明神」は、「室町期」以降、守護神として殊に武士の信仰を集めて独自の発展を遂げ、「飯縄山」は修験者の一大霊場になった。「応仁の乱」の立役者の一人、「管領・細川政元」は、特に「飯縄の法」を熱心に修したと云われ、『足利季世記』は「四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ、魔法綱ノ法アタコノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ、或時ハ經ヲヨミ多羅尼ヲヘンシケレハ、見ル人身ノ毛モヨタチケル」とその様子を活写している。「政元」は、しかし、外法の習得の甲斐があったのかなかったのか、将軍を凌ぐ事実上の最高権力者となり、「半将軍」とまで呼ばれるようになった一方、四十二の歳の行水中、警護役のはずの家臣らに湯殿で暗殺された。『応仁記』には、これもまた「政元」が「飯綱」を信奉するあまり妻帯せず、そのために後継者を得ることが出来なかったことに起因すると書いてあると云う。実際、彼は「澄之・澄元・高国」の三人の養子を取っており、それが家内争乱の元となり、最終的には養子の一人「澄之」の指示によって暗殺されたのである。

「戦国末期」の「関白・九条植通」もまた、「飯綱の法」を修したことで知られている。一説によれば、「豊臣秀次」の死と豊臣家の没落を予言したとも云い、彼が行くところ、夜半にもなれば必ず屋根に梟が鳴き、道を行けば忽ち旋風 つむじかぜ が起ったとも伝わる。これらの逸話の典拠は何であったかうっかり失念したが、『大日本史』に類似したことが載っていたように思う。それにしても、「植通」の修行は「政元」より数段よかったのか、ついにこの貴族には非業の死は訪れなかった。「幸田露伴」の筆を借りれば、次のようになる。

關白、内大臣、藤原氏の氏の長者、從一位、かういふ人が綱の法を修したのである。太政大臣公相は外法のために生首を取られたが、この人は天文から文祿へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭はないで、無事に九十歳の長壽を得て、めでたく終つたのである。それは名高い關白兼実の後の九條植通、玖山公といはれた人である。

幸田露伴 (1928) 「魔法修行者」
幸田露伴 (1990) 『幻談・観画談 他三篇』岩波文庫

「戦国武将」では、「上杉謙信」と「武田信玄」が「飯縄」に熱心だった。「謙信」は兜の前立てに「飯縄明神像」を飾り、「信玄」は「甲州」に「飯縄大明神」を勧請して、持仏として身に付けていたとも云われる。さらには、弘治三年 (1557) に「上杉」方の「葛山城」を攻略した「信玄」は、代々の「飯縄大明神」の神官「千日太夫」に安堵状を与え、「武田家」の武運長久を祈らせている。元亀元年 (1570) には社領を寄進し、天正八年 (1580) には「武田勝頼」が朱印状をもって「里宮」の造営と遷宮を行なっている。

*

しかし、「荼吉尼天」の呪法に基づく「飯縄の法」は、常に外法として、世間からは白眼視はされたようで、「茅原虚斎」が『茅窓漫録』に「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」と書いたように、邪法として怖れられたのである。当時の人々が、どのくらい「飯縄の法」を異端視していたかは、有名な『老媼茶話』のくだりを見ればはっきりするだろう。内容の真偽は別として、周囲がどのような目で「飯縄使い」を見ていたかの漠たるイメージはつかめよう。

近世本邦に狐を仕ふ者有。呼て飯綱の法といへり。其法先 まず 精進けつさい 潔斎 にして身を清め、独り野山に遊び狐の穴居をもとめ孕狐を尋ぬ。此狐を拝して曰、「汝か今孕む所の狐、産れは我子とせん。必我に得させよ」と。それより日夜にしのんて食事をはこひて、母狐子を産に及ひ弥 いよいよ 勤て是を養ふ。子すてに長じて母狐子を携さへ術者の元に来り。子に名を付て「今日よりして如影隋身の儘にせよ」と云。術者児狐に名を付る。母狐悦ひ拝して子をつれて去る。是よりして後、術者集まれば潜然に狐の名を呼ぶに、狐形を隠し来りて人の密事を告、術者におしゆるまゝ、術者狐のおしゑのまゝに妙を断ずる間、則人、「神に通せり」と思へり。

三坂春/編 (1742) 『老媼茶話』寛保二年
高田衛ら/校 (1992) 『近世奇談集成 1』叢書江戸文庫 26、国書刊行会、p. 145

実際、「川口謙二」編著の『日本の神仏事典』は、「管狐」を使役した呪法としての「飯縄の法」に対して、「この修法があったがゆえに、世人からあまりにも怖れられて、飯綱権現の本源は滅亡したのではなかろうか」とさえ述べているのである。
*

しかし、「飯綱権現」は、単に「荼吉尼天」を投影しただけの神格ではない。「高尾山薬王院」では、「五体合相」と云い、「迦楼羅天・荼枳尼天・歓喜天・弁財天・宇賀神」を「不動明王」が統括する姿で示現したものと捉えている。既に「常光寺」の「飯縄大聖不動堂」の項で見たが、「飯縄信仰」で、「飯縄権現」を「不動明王」の示顕した姿と捉えるのは、「五体合相」の道理によってなのである。

このことを図像学的に見れば、「飯縄権現」は、「狐」に跨がった「烏天狗」なのだが、右手に「降魔の剣」、左手に「縛索」を持ち、火炎を負い、牙を咬む憤怒の相をしており、烏の頭と背中の翼を除けば、すべて「不動尊」の属性なのである。

一般に、「飯縄権現」は、「荼吉尼天」と「不動明王」が、国産の「天狗」と習合する形で産まれたのではないかと考えられている一方で、「飯縄権現」が「烏天狗」の姿をとることから、仏法の「八部衆」に属する「迦楼羅天」との習合をも唱える人々がいる。だが、これに対しては、しばしば「烏」の形態は、我が国古来の「天狗」から来るものだから、「迦楼羅天」とは直接の関係はないと云う反論がなされるようである (宮本、1989、p. 58, 61)

しかし、一方では「烏天狗」のイメージ自体が、「迦楼羅天」の影響を受けているとの見解もある。筆者の知る限り、古くは、「南方熊楠」が「天狗の情郎 かげま 」と云う随想の中で、「金翅鳥王 (迦樓羅王) が邦俗いはゆる烏天狗像の模範たるは、淺草堂後から見える襖、障子の觀音廿八部衆、それが今なくば『山靈圖彙』を見れば明らかだ」と述べている (南方、1915) 。この点について、「宮本袈裟男」は、次のように慎重な姿勢を保持している。

迦楼羅像と天狗像の共通点は、いうまでもなく喙、二翼を有した鳥頭人身ということであり、南方熊楠がいうように鳥類型天狗像 (烏天狗) の原型を迦楼羅像に求めることも可能である。しかしながら、天狗の原型を迦楼羅像に求めるには、両者の形態が類似している以外の充分なる根拠がないようである。

インド神話の鳥類の王としての金翅鳥を仏教に取り入れ、八部衆の一つ迦楼羅像として位置づけた点と、山中の主、山の神という信仰を発展させ、天空を自由自在に飛行できるという特性から、その図像を鳥類に求めた天狗とが、その発想の類似から、偶然に一致したとみることも可能であり、天狗像の原型を迦楼羅像に求めるには、いっそうの検討を必要とするように思われる。

宮本袈裟男 (1989) 「天狗の系譜と図像学」
宮本袈裟男 (1989) 『天狗と修験者』人文書院、p. 61

流石に、第一人者だけあって、良心的な慎重さを維持していると云えるが、「宮本」氏自身は、原型であるかどうかは別として、「迦楼羅天」の関与を認めてもいいのではないかと考えているようである (注・ここの部分は純粋に筆者の類推である) 。「宮本」氏は上記論文の別の箇所で、寛永二十年 (1643) に、「円融坊東海」が「日光山」に奉納した「稲綱本尊」の画像を挙げており、これが一般的な「秋葉・飯綱両権現」の「烏天狗」様式ともまったく異質な、両翼を広げた鳥類型のものであることから、「むしろ日光山の『稲綱本尊』の画像は、 (略) 天狗の原型を仏教の迦楼羅像に求める観念にもとづいて描かれたものとみることができるのではなかろうか」とも述べているのである。また別の箇所では、『山海経』巻二に載る「中国・陰山」の「天狗像」が「蛇をくわえた猫 (!!) 」であることや、「秋葉権現」の四足に「蛇」が巻き付いていることから、「龍」と「迦楼羅天」に注目して、同じく蛇を巻き付ける「迦楼羅天」と「天狗」との関係に注意を促しているのは、極めて慧眼であると思う (ibid., pp.58, 61) 。

しかし、ここでは百歩譲って、「天狗」はさておいたとしても、そもそも、「飯縄権現」は、その「五体合相」に「迦楼羅天」が含まれるほどで、しかも他の三つの神格よりも、明らかに「不動明王」と共通する紅蓮の炎を象徴することを考えても、「迦楼羅天」と「飯縄権現」の関係は、そんなにも否定しなければいけない性質のものではないように思われる。

しかも、「宮本」氏が述べるように、「龍蛇」と「迦楼羅天」との関係は、もう少し真剣に探求した方がよいように筆者にも思えるのである。何故ならば、その点にこそ、「戸隠山」と「飯縄山」の関係が象徴されているように思えるからなのである。また、筆者にとって、それは同時に、いずれは論じなければならない「猫神」と「蛇神」を巡る議論にも光を照らすものなのである。これらの点について、全容を開陳するのは別の機会にもう少し思索を深めてからにしたいと思うが、以下、その概略だけ紹介したい。

*

「迦楼羅天」は、別名「金翅鳥王」、「梵語」は「スパルナ (キンナラ) 」、「食吐悲苦鳥」と云う漢訳もある。元は「インド神話」の「ガルダ」と云う神格であった。この「ガルダ」は、「龍」を常食とすることで知られると云う (斎藤昭俊、1984、p. 94) 。

数千年に及ぶ歴史と数十にもなる民族を抱える「インド」にあっては、他のいかなる神話もそうであるように、「ガルダ」を巡る神話も、ヴァリエーションが多く複雑だ。ただ、その最も基本的な特徴のみを要約すれば、1) 炎と光に包まれる神鳥である、2) 「ヴィシュヌ神」の乗物 (ヴァーハナ) である、3) 蛇・龍 (ナーガ族) を喰らう大敵である、と云うことになろうか。そして、「ガルダ」を巡る最も有名な神話は、おそらく「ガルダ」がいかにして「蛇族」の大敵となり、不死の命を得て「ヴィシュヌ」の乗物になったかを語るものであろう。以下、やや長くなるが要約する (これでも、可能な限り短くしたのである) 。

「プラジャーパティ (造物主) 」の一人「ダクシャ」の二人の美しい娘、「ヴィナター (鳥魔・禽魅) 」と「カドゥルー」は、「ブラフマー (梵天) 」の子、「聖仙・カシュヤパ (北極星) 」の妻となった。「カドゥルー」は千疋の「蛇 (ナーガ) 」を息子とすることを夫に望み、「ヴィナター」は「カドゥルー」の子よりも優れた二人の息子を望んだ。やがて、「カドゥルー」は卵を千個、「ヴィナター」は二個産み、二人はそれを永い間温めたが、「カドゥルー」の卵は孵り、「ヴィナター」のは孵らなかった。恥じた「ヴィナター」が、卵の一つを割ると、未熟だったため上半身だけの子が産まれた。この子は「暁の神・アルナ」となったが、母を恨んで、母が競った相手の奴隷に五百年間なると云う呪いをかけた (同時に五百年後の「ガルダ」による救済も予言する) 。

その後、「カドゥルー」と「ヴィナター」は、神々が不死の聖水「アムリタ (甘露) 」を得るために「乳海撹拌」を行なったときに生まれた「天馬・ウッチャイヒシュラヴァス」の体の色について喧嘩をした。「ヴィナター」は、前身真っ白だと云い、「カドゥルー」は尻尾だけ黒いと主張し、負けた方が相手の奴隷になると云う賭けをした。「カドゥルー」は、息子の「蛇」たちに天馬の尾に取り付いて黒く見せるよう命じ、この賭けに勝ったたため、「ヴィナター」は「カドゥルー」の奴隷となってしまった。

さらに五百年が経ち、「ヴィナター」の残した卵から「ガルダ」が生まれ、空気に触れると忽ち大きく燃え上がり、炎と光で世界を焼き、神々を怖れさせたため、神々は「アグニ神」に助けを求めた後、「ガルダ」を賛美することで、炎を収めさせた。

その後、「ガルダ」は海を越えて母に会いに行くが、自身も「カドゥルー」と「蛇族」に隷属することになった。しかし、すぐに嫌になった「ガルダ」は、母が詐略によって奴隷になったことを知ると、母の解放を要求した。「蛇族」は、「インドラ」の守る、不死の聖水「アムリタ (甘露) 」を神々から略奪してくることを解放の条件として出した。

天上界に乗り込んだ「ガルダ」は、「アムリタ」の番人「ヴィシュヴァカルマン (毘首羯磨) 」を一蹴すると、「風神・ヴァーユ (風天) 」と神々の軍勢を打ち倒し、多くの神々を傷つけ、殺し、追い散らすと、「アムリタ」の壺を奪い去った。

「ガルダ」は帰路、「ヴィシュヌ」と遭遇した。「ヴィシュヌ」は、「アムリタ」を奪っても自らは飲まない「ガルダ」の無私に満足し、「ガルダ」に自分より上の地位を約束し、「アムリタ」を飲まずとも不老不死になると云う願いもを叶えてやった。それと引き換えに、「ガルダ」は「ヴィシュヌ」の乗物となることを誓った。

やがて、「戦闘雷神・インドラ (帝釈天) 」が「ヴァジュラ (金剛杵) 」を振るって攻撃してきたが、これも撃退したため、一切の生類と神々は「ガルダ」を賛嘆し、「インドラ」も「ガルダ」と永遠の友情を誓い、「蛇族」を餌とする許しを与えた。「ガルダ」は、母を解放するためには「アムリタ」を返せないことを告げ、しかし、「蛇族」が飲んでしまう前に「インドラ」が取り返せるようにすると約して飛び去った。

「蛇族」のもとに戻った「ガルダ」は、母を解放させ、「アムリタ」の壺を鋭い葉のある「クシャ草」の上に置き、沐浴をしてから飲まねばならないと告げた。すると、「蛇族」が沐浴している隙に、「インドラ」が「アムリタ」の壺を奪い返してしまった。「蛇族」は、壺のあった「クシャ草」の上を舐め回したため、舌が切れて二股になってしまった。

伝・ヴィヤーサ/著『マハーバーラタ』第一巻・十四章 - 三十章
参照・上村勝彦/訳 (2002) 『原典訳マハーバーラタ 1』ちくま学芸文庫、pp.141-178

* カドゥルー」は、自分の命令に従わなかった「タクシャカ」を中心とした子らが、「ジャナメージャナ」の手によって滅びるよう呪いをかけたため、「インドラ」の保護を得た「タクシャカ」を除いた「蛇族」の多くが滅んだと云う神話もある。

『マハーバーラタ』の他にも、「智者大師」の『観世音義疏』巻下には、「迦楼羅」が「龍蛇」を常食とするに至った由来が述べられていると云うが (宮本、1989) 、浅学のため、筆者はいまだその内容は知らぬ。『マハーバーラタ』の神話と似ているのだろうか、気になるところである。

ただ、『阿婆縛抄』にも「一の絵図あり、形迦陵頻鳥の如く、嘴あり、横に三鈷杵を含み、左右に各蛇を執り、左右足は各虵を踏む」と記されているそうであるから、「仏教」の世界でも、「蛇」の大敵として「迦楼羅」は描かれていることは確認出来る。「密教」の行法などでは、「八大龍王」を祈念した「水天供」が雨乞いの呪法として広く知られているが、「迦楼羅」を祈念する「金翅鳥法」が雨を止める呪法とされるのは、雨の神である「龍蛇」を「迦楼羅」が食して滅ぼすと考えられているからである。もちろん、「インド神話」以来、持ち続けられてきたこの「ガルダ」と「ナーガ」の対立図式は、それぞれが「火」と「水」を象徴する神格として感得されていたことから成立するのであろう。

天上の「甘露」や、「インドラの雷」に打ち勝つこと、さらには「インドラ」と表裏一体で語られる「風神・ヴァーユ」を撃退することなど、「迦楼羅天」は、今後の「猫神探訪」にとって、非常に示唆的な特徴を有しているのである。詳しくは書けないが、以前に「千葉県の猫山」として記事を載せた「大桶」の「猫」伝説は、「軍荼利明王」と密接な関係で結ばれていた。この明王は、「不動明王」とも多くの特徴を共有するだけでなく、何よりも「グンダリ」が元々「甘露」の意味であることや、その六臂に蛇を巻きつけていることなど、「迦楼羅天」や「秋葉権現」「飯縄権現」などと共通する部分を持っているのである。しかも、「千葉」の「軍荼利信仰」の一大拠点である「鹿野山神野寺」の土地神は、「仁王門」前に祀られた「九頭竜大神」だと云われ、しかもこの寺の奧院は、これまた「千葉」の「飯縄信仰」の中心地の一つとなっている「飯縄権現社」である。

「猫神」と「蛇神」が密接な関係で結ばれていることや、それと関連して、民話や伝説の中ではときに「猫」と「蛇」が相互に交換可能な記号となっていることがある、などと云ったことは、実地に「猫神」巡りをし、多く図書館に通ってさえいれば、おのずと気づかれることである。ただ、一方で、「山形」の「猫の宮」や、「仙台市」の「少林神社」などの「猫報恩型」の話では、「猫」は主人を「蛇」から守ろうとして却って首を斬られた後も、「蛇」に噛みついて殺すのであり、こう云った話が各地に分布していることからも察せられるように、「猫」は「蛇」と対立する項としても、我が国の民俗的想像力の中に登場する。「猫」と「蛇」は、そんな不思議な絡まりあいを見せてくれるのである。
今後、筆者はこの点での考察を深めてゆきたいと思っている。

また、このことを、「戸隠山」の地主神が「九頭竜」だとされることと関連づけて考えると、非常に興味深い事実に行き当たることになる。「飯縄山」が、「戸隠修験」からの自立の動きを見せ始めるのが、十三世紀のことで、その中から「千日太夫」の新たな一派が興ったことを考え合わせると、「龍蛇」を喰らう「迦楼羅天」を「飯縄山」側が、「戸隠」側の「九頭竜」に対置するものとして意識した可能性は否定出来ないように思われる。

筆者は、「迦楼羅天」が「飯縄権現」や「烏天狗」そのものの起源だと無理に主張しようとしているのではなく、十六世紀に「狩野元信」が『鞍馬大僧正坊図』において、鼻高大天狗の図像を世に問うてから、各山の「天狗」がこぞってこちらのイメージに乗り換えていった中で、何故、「飯縄修験」系統の「天狗」たちばかりが、「烏天狗」の姿を維持したのかを考えるに当たって、「戸隠」と「飯縄」の対立構図が、「九頭竜」と「迦楼羅天」の対立と云う形で潜在した可能性がある、と主張しているだけである。或いは、少なくとも「飯縄信仰」の側には、「鳥」のイメージに拘る強い動機があったと云うことは否定出来まい。このことの故に、筆者は、「飯縄信仰」には「
迦楼羅天」を重視する客観的重要性があったのではないかと推測しているのである。

このこと以外にも、すでに見た通り、「迦楼羅天」と「飯縄権現」を結びつける要素は、例えば「迦楼羅天」が「不動明王」と炎のイメージを共有すること、「飯縄権現」の「五体合相」のうちに、「迦楼羅天」が含まれていること、「宮本袈裟男」氏が指摘したように、「日光山」の『稲綱 いづな 本尊』がまったく「迦楼羅天」の姿をしていることなど、多々存在するのである。単に、「烏天狗」は日本古来のもので、「山の神」の発展系として生まれたものであり、そこから天空を自在に飛ぶ「鳥」のイメージが創出されたのだと云うだけでは、まるで攘夷論のようで、議論が寂しい気がしてならない。

*

上のことと関連して、最後の話題を一つ。

「宮本袈裟男」氏の「飯縄信仰」に関する初期の論考である「飯縄信仰試論」 (これが卒論要旨と云うのだから凄い!!) は、極めて短文ながら、「飯縄信仰」について何らかの考究をしようと云うものにとっては、どうしても目を通しておかねばならぬ必須の文献である。しかし、その中で、わずかばかり気になる点があるとしたならば、それは氏が、「飯縄の神」を「作神」と見なすときの諸前提がはっきりしないと云うことである。果たして、氏の云う「作神」と云うのが、「柳田國男」の議論の延長線上にあるのか、その批判的な継承として位置づけられるのかによって、議論がかなり変わってくるからである。特に「飯縄信仰」は、「山岳信仰」と直接に関わりを見せるだけに、「山の神」と「作神」の把握の仕方は、明確にしておかねばならないと思われるのである。

「柳田國男」は、自らの「祖霊信仰論」をベースにして、山と里を往来する神として「山の神」を描き出すことで、「山の神」を「田の神」と結びつけ、「作神」として位置づけて論じている。しかし、このような平野民から見た「山の神」観に対しては、近年、各方面から批判や修正が行なわれている。ただ、これら再考の動きが、肝心の「民俗学」プロパーの世界で最も鈍いように見えるのは残念なことである。

筆者は、「柳田國男」の遺産の偉大さが分からぬほど、間抜けでも傲慢でもないつもりである。いまでも、何かを調べようとすると、真っ先に手にするのは『柳田國男全集』である。そして、それを手にすればいつだって、限りない畏敬と憧憬を感じずにはいられないものである。したがって、「柳田批判」さえしていれば「斬新だ」と勘違いしたような、流行としての異議申し立てには違和感と嫌悪を覚えるのである。

しかし、一方で、その遺産を金科玉条として、一分たりとも修正を加えず、革新的な再検討の機運を認めようとしない継承者たちにも疑問は覚える。筆者如きに、「柳田学」の全体が見通せるはずもないのだが、そんな愚者の臆見として云わせてもらうと、「柳田民俗学」のアキレス腱になっているのは、実は「柳田」が晩年、渾身の力を込めたその「祖霊信仰」を巡る体系なのではないかと思う。もしも、「柳田國男」が後二十年も生きていれば、必ずや自ら修正を施したのではないかと思うのだが、平野民の視点からのみ考察したその「山の神」や「田の神」の観念は、現に山に生きる人々の生きた感覚や、あるいは水田農耕開始以前の人々の山に対する畏怖などを取り込むのに失敗しているようなのである。海外からは、「エバーハルト」や「ナウマン」などの「山の神」論が提出され、国内では「大林太良」が先鞭をつけ、「湯川洋司」や「佐々木高明」などの論考が、新たな「山の神」論の視点を提示している。そろそろ、我が国の民俗学会も、これらの思潮に対して、本格的な考証を開始すべきなのではないかと筆者は常々感じている。「ナウマン」がその膨大な「山の神」論を世に問うてから、半世紀近くが経とうとしているのであるから...。

このような視点に立つと、本項でも触れたような「山の神」の延長線上にのみ「天狗」を見る議論は、その「山の神」の概念をより精緻化することなく、無批判に受容されるべきものではないのは明らかである。レベルはまったく違うが、同じような意味で、「宮本」氏の「作神としての飯縄の神」と云うのも、今後、その「作神」の性格をより精緻化して議論しない限り、完全には「山岳信仰」を無視していないものの、やはり舌足らずな感を否めないことになってしまうのではないだろうか* 。

* このことに関して、最も単純な疑問だけでもここで提示するならば、「飯縄信仰」に「作神」的性格が優勢するのは、「農耕神」として祀られる (とされる) 「狐」を使うことから、後世、「稲荷信仰」の「作神信仰」と事実上習合されたことと関係するのか、それとも「稲荷」との習合などより本質的に古い、原初的な特徴なのか、と云うことであろう。

以上のような諸問題の探求は、「ハヤマ信仰」について筆者が「福島県の猫神探訪」シリーズの中で、少しく論じた以前の記事 (「ハヤマ信仰」に関する一試論) でも見たように、「祖先信仰」と「山の神」の議論を含む、膨大なエリアと関わってくるため、この議論を突き詰めていくのは、現時点では、筆者の手に余る。
もちろん、今後ともさらなる研鑽と洞察を深めていきたいとは思っている。

*

突然で恐縮だが、まとまりのない議論も、これで一通り列挙したので、この辺りで、「常光寺」の「飯縄大聖不動堂」に戻ることとする。



8. 「常光寺」の「唐猫」 : 実物

「常光寺・護摩堂」裏の棚地に戻ろう。

「飯綱大聖不動堂」に向かって右側を見ると、祭神不明の石祠が三つ、横に密着して祀られており、反対の左側には石灯籠が三基と、小さな石碑が建てられていた。地域柄、三つの石祠は「養蚕」関係の神様かとも想像したが、刻字も具体的な遺物も見当たらなかったため、何とも判断出来なかった。

しかし、お堂の左側に立てられていた灯籠群はさて置き、一基だけ佇んでいた石碑には、筆者は目を奪われた。このささやかな石碑こそが、筆者の目指す「猫碑」だったのである、などと書くと、さも冷静に聞こえるかも知れぬが、これを一目見た時の筆者の動揺にも近い興奮は、どのように記せばいいか分からない。おそらくは、喜びと驚きとで、顔は無表情になっていたのではあるまいか。

思えば、筆者が最初にこの「猫碑」の存在を知ったのは、ネット上の「塩尻の本」と云うサイトの中で、既に見た『塩尻・楢川かるた』なるものを紹介していたのを読んだ時であった。以下に、その小記事と画像をそのまま引くこととする。

常光寺・カルタ

若葉して 石楠花 しゃくなげ 寺の 常光寺

この寺で、楽しみなことは境内から裏山にかけて、石楠花がおよそ2000本もあることです。境内に古い石の唐猫があります。養蚕が盛んな頃は、鼠よけのお札をいただきに、県内はもとよ り、遠く岐阜・山梨あたりからきたそうです。

「塩尻の本」
http://greens.st.wakwak.ne.jp/home/note.cgi?id=902139&category=6&code=4&note_pw=

上の記事を読んだのを契機として、その後、「常光寺」の「石の唐猫」に関して情報を集め始めたのであったが、結果は芳しくなく、上記の情報以外は結局、何も手に入らなかったのである (その後、わずかばかりだが入手した) 。結果として、筆者は、この「石の唐猫」と云う言葉から、何やら「狛犬」のようなものを想像することになってしまったのである。

実は、順番は完全に逆になってしまったが、いずれ「南信濃・名古屋」文化圏に残存する「唐猫」信仰についても、紹介していくつもりなのだが、それら他の「唐猫」のうち、造形物が残っている限りのもの (筆者が見たことのある限りのもの) は、皆、「猫」と云うよりは「狛犬」と云った形態なのである。したがって、「常光寺」のものも、何となくそうなのだろうと思ってしまったのである。

あまりに情報が集まらなかったので、最後の手段として「常光寺」の御住職に直接、問合せの電話をさせて頂いたのだが、そのとき、筆者が「唐猫」と云うのは「狛犬」のようなものか、と尋ねると、ううん、対にはなっていなくて、単独だけどそんなものだと答えて下さったのである。いまとなってみると、あのときの御住職の「ううん」の苦慮の意味が理解出来るのだが、そのときは勝手に、やっぱり「狛犬」のような造形なんだな、と思ってしまったのである。

常光寺・唐猫01
白熱灯と青色LEDで撮影

しかし、いま目の前に実物を見て、いかに自分の先入見が過っていたかを思い知らされた。そこにあるのは、「唐獅子」のような彫像ではなく、板碑の正面に浮彫りにされた、正真正銘「猫」の像だったのである!! よその地の「唐猫様」に文句はまったくないが、やはり「猫神」を追い求めるものとして、その造形が「唐獅子」様であるものよりは、家猫の姿であるものを見つけたときの方が喜びは大きい。まあ、元が猫好きに端を発した探求なのだから、これは当たり前だろう。

それでは、やや丁寧に「常光寺」の「唐猫様」の姿を見てみよう。

まず碑面の中央には、体を (向かって) 左に向けた「猫」の浮彫り座像が刻まれている。顔は、正面を向いて、うつむき加減に、やや下の方を見据えている。耳はいかにも猫らしく大きく尖り、細くて長い尻尾は、体に巻きつけてある。碑面中央の最上部、すなわち「猫」の頭上には、「唐」と一文字陰刻され、右端には縦に紀年銘が彫られていた。

この紀年銘に関して、筆者は所々、判読が出来なかったのだが、ここでも妻の助けを借りて、おおよそ「文□十二己□□月八日」とまでは、読み取ることが出来た。六文字目は、「世」か「丑」かに見えたが自信はなかった。石碑の右側面部には、「小松曽右ヱ門」と刻字されており、おそらくは「願主」の名前なのだろう。石碑自体は、正面と側面のみを平滑加工した、荒造りの光背型・礫碑であった。

あまり楽観して物事を決めつけるのは良くないが、ここまでくれば、何月かを除いてほぼ復元出来るだろうと云う安心感があった。全国的に発見されている「猫」の石造物で、「江戸期」よりも遡るものはいまだ確認されておらず (と思う...) 、多くが「江戸中期」以降、特に「幕末」から昭和前半にかけて造られていることを考えると、「文□十二」と云う元号はほぼ特定出来る。この時代に適合して、さらには十二年以上あって、一文字目が「文」の元号などそうはない。その上、「十干」が「己」と分かっていて、「干支」と思われる部分の不明な字が「世」か「丑」に見えるのだから、なおさらである。帰宅後に調べると、時代を特定せずとも、我が国には「文」で始まって十二年以上続いた元号は、四つしかなかった。順次紹介すると以下のようになる。
文永十二年 (1275) =乙亥
文明十二年 (1480) =庚子
文化十二年 (1815) =乙亥
文政十二年 (1829) =己丑

したがって、条件に該当するのは「文政十二年 (1829) 」だけであった。これで二文字目が「政」であることと、六文字目が「丑」であることがほぼ確定したと云える。「文政十二年」が「己」の年とぴったり一致した上、「干支」も推測した通り「丑」だったのだから、これはもう間違いないと云える。

常光寺・唐猫03
青色LEDのみでの撮影

常光寺・唐猫04
上の写真のアップ



9. 「常光寺」の「唐猫」 : 伝説

以下、シンプルに「常光寺」の「唐猫」について紹介しよう。

常光寺の唐猫様

昔、「飯綱権現様」の御本体をお祭りするお社を造営するために、今の「常光寺」の伽藍の裏に、 一段高くなった棚状の台地を整地することになった。

ところが、地面を掘り進んでいくうちに、地中から、猫ほどの大きさの不思議な石の塊が出てきたのである。土を払って、綺麗にしてみると、それはまさしく猫の石像だったのである。

人々は、「飯綱権現様」の御本社を造る土地から「唐猫様」が出てきたことを畏れ多いことと思ったので、お寺の「護摩堂」に秘仏としてお祭りすることになったと云う。

そして、「飯綱権現様」の「御本社」が立派に出来上がると、そのお堂の真横に、「唐猫様」を尊んで、美しい「唐猫様」の石碑を建てたそうである。時に、文政十二年 (1829) 己丑の年、願主は「小松曽右ヱ門」であった。

「唐猫様」の御本体は、その後もずっと「護摩堂」で大切に祭られ、いまも秘仏として、お寺全体を鎮護している。現・御住職様も、過去に一度しか拝したことはないそうで、やはり等身大の猫の大きさの自然石と表現されていた。
(文責・筆者。御住職からの聞取りによる)

この「常光寺の唐猫」に関する書かれた文献としては、筆者は今のところ、次のものしか発見出来ていない。他に、何か別の資料を御存知の方がいらしたら、コメントあるいはメールフォームを通じて、ぜひとも御教示下さいませ。

常光寺の唐猫

常光寺 (真言宗) は、中央東線上りの二番目のトンネルのある、飯綱山の裾にある。創立年代は不明であるが、今から五百九十年ほど前、永徳二年* 法印恵覚上人の中興という。応永三年* 本堂建立のさい発掘された唐猫の石像がある。鼠除けを祈願すればその霊験あらたかであるというので、遠くは岐阜・山梨・本県はもちろん、護摩講という講があり、養蚕・農作物の鼠除けのお札を受けに、毎年五月、代参でにぎやかであったという。第二次大戦までは続けられていたそうであるが、養蚕の衰微と共に絶え、現在は、ときおり、山梨あたりからお札を受けに来る人がある程度だという。なお、寺には、部厚い信徒名簿が幾冊も補完されており、唐猫は寺宝として祀られている。

* 永徳二年---西暦 1382年。『塩尻市誌』では、中興を応永年間としている。
* 応永三年---西暦 1396年。

田中米吉 (1975)「常光寺の唐猫 」
塩尻市史談会 (1975) 『塩尻の伝説と民話』、自刊、pp. 58-59

ところで、文政十二年 (1829) に、「唐猫」の建碑が行なわれていると云う事実は、それに先立つ文政二年 (1819) に伽藍が焼亡して、天保年間 (1830 - ) になってようやく再建なったと云う『塩尻市誌』の記述と照らし合わせると、いささか興味深いと云える。同様に、同じく「市誌」は、「常光寺」の「飯綱大聖不動堂」が、「中興」の「恵覚」によって勧請された (『塩尻市誌』第三巻、p. 723) と記しており、これは当然「永徳」から「応永」にかけてのこととなるのだが、このことと、秘仏の「唐猫」が出土したのは、応永三年の「本堂」再建時だと云う『塩尻の伝説と民話』の記述も面白い。

何が面白いのかと云うと、これら四つの出来事と時期をすべて繋ぎ合わせてみると、元の「唐猫」像も、後の「唐猫」碑も、いずれも寺の再興の直前と云う、寺史上、極めて重大な時に発見、乃至は建てられていると云うことである。穿った見方をすれば、文政二年に焼失した諸堂を立て直したのが天保元年だとしたら、「唐猫」碑はその前年に計ったかのように建てられたことになるのである。また、諸堂の焼け落ちた跡地に、石碑だけ建てると云うのも何だか不自然であるから、もしかしたら文政二年の火災時には、台地上の「飯綱不動堂」だけは罹災しなかったのかも知れない。

仮に上記二つの推測がどちらもはずれていたとしても、「文政」の「唐猫」碑が、寺の伽藍が再建される以前に造られていたことは間違いがない。そして、これは取りも直さず、当時の「常光寺」の信仰において、いかに「唐猫」が重要な位置を占めていたかを示唆していることにもなるのである。



10. おわりに

今回、訪問した「常光寺」は、古い歴史を有する名刹ながら、その寺歴に関する史料をほぼ失ってしまったか、当初から作成していなかったのか、現在、遡って知り得ることは非常に限られている。「永徳・応永」頃の「中興」以前と、「文明」から「寛文」までの長い時期、廃寺かそれ同様の事態に陥っていたらしいことも、寺伝が詳しく伝えられていない要因なのかも知れぬ。あるいは、この寺院が「真言密教」の寺であり、本来的に呪術的な行法との縁も深いため、元々、口伝を重視していたのかもしれず、これもまた記録文献の欠如を説明する一因かも知れない。いずれにしても、外部のものがおいそれとその信仰の内容を理解できるものではなさそうである。

ただ、この寺が、ある時期この地域の「飯綱信仰」の中心的な道場であったことは、以下の諸事実からも明らかであると思う。

1. 山号が「飯綱山」であること
2. 寺院の石段がまっすぐ「飯綱堂」に続いていること
3. 現在も石段が「本堂」ではなく「護摩堂」の正面に来ること
4. 「飯綱堂」も鳥居も、諸仏堂よりも一段高い場所にあること
5. 寺山の山頂付近に、「飯綱権現」の奥社があること

問題は、寺の来歴についてすら明確なことが知れない中、「唐猫様」に関してはいよいよその正体が知れぬと云うことである。「護摩堂」に秘蔵される本体石像の方は、この寺の御住職でさえ暗い中で一度拝したきりだと云うのだから、その実態の解明が難しいのは当たり前である。

何故、仏像でさえない「猫」の石像が、寺で「秘仏」扱いされるようになったのかは、御住職にも謎と云うことであったが、「密教」とは云え、「大乗」の流れなのだから、「仏」であれば、どんな秘仏でも、何年かに一度くらいは衆生済度のために開帳しそうなものである。したがって、決して公開されることのないこの寺の「唐猫様」は、厳密には「秘仏」と云うよりは、やはりかつて存在した、何か呪法的な行と深く関わって祀られたのがもとではないかと推測される。実際、前立てと呼んでいいのかは分からないが、「護摩堂」裏に建てられた「唐猫碑」は、秘儀性の高い「飯綱堂」の傍らに据えられているのだから、このことは恐らく間違いあるまい。

御住職も、「唐猫様」については、会話の中でさらりと、お寺を鎮護する守り神である、と云うような表現をされていたが、おそらくその通りなのであろう。


*

「飯綱信仰」と離れて考えた場合にも、筆者が常日頃から、「猫神」が「風雨神」「水神」としての性格をその基底に潜ませているのではないかと主張していることを考えると、この地域一帯が、「日本海」へと流れる河川と「太平洋」へと流れる河川の「水分 みくまり 」の地となっており、湧き水も豊富であると云う事情は見逃せない。

「常光寺」北方の沖積地には三つの川が流れ、寺のすぐ南東には、民話や謡曲でも名が知れた「善知鳥峠」 (889m) がある。この峠こそ「信濃川」水系と「天竜川」水系の分水嶺となっており、「常光寺」の前を流れる「権現川」の水源ともなっている。また、この峠が、「松本平」と「伊那谷」を分ち、「筑摩地方」と「伊那地方」の境をなしていたことは広く知られるところである (今は行政区分上は境になっていない) 。

「常光寺」は、「上西条」集落の西側に位置するが、「善知鳥峠」を「権現川」に沿って、昔の「伊那街道」を下った辺りが「上西条」集落の東に辺り、この地には「上西条神社」が鎮座している。祭神には、「瓊瓊杵尊・倉稻魂命・象罔女命」ほか「水神」などが祀られているが、ここの境内には高名な「強清水」が湧いている。おそらくは、「象罔女命」を含め、原始的な「水神信仰」がこの社の原初の形態だったものと想像される。

この「強清水」は「権現清水」とも云い、地元の人が「西の沢」と呼ぶ「権現川」に豊かな水勢を足している。この「権現川」は、より上流で「東の沢」と二つに分かれ、この二つの流れで「上西条」の地を潤わせているのである。また、この集落には「清水田」と呼ばれる水田が畑の合間に分布しており、そもそも湧水に恵まれた土地であったことは間違いがない。

「常光寺」から湧く絞り水も、細流となって「権現川」に合するのである。その上、寺の裏山からも湧き水があり、その東の谷に当たる「飯綱久保」を流れくる「東の沢」と合流しているのである。

*

いつものことながら、今回もまた、歯切れの悪いところで筆を置くこととなる。「猫神」と云う、痕跡すらほとんど残さずに消えつつある神様を探求するとき、容易に結論を下せないのは、所与のことであると考えて頂けると有り難い。実際には、筆者も、あれこれ考えつつ、いまだに資料を蒐集しているに過ぎない段階にあるのである。

「長野県の猫神探訪」も、回を進める毎に、何か新しく見えてくることがあるのではないかと期待されたが、新発見は案に違わず多いものの、謎が謎を呼ぶような形で、整理出来ないことがほとんどなのを悔やむばかりである。それなのに、新たなことを考える度に、資料が決定的に不足すると云うジレンマに苦しむことになっているのだから、皮肉である。とは云え、早い時期に、現在「長野県の猫神」に関して考えていることだけでも、概要を明らかに出来ればいいな、と思っている。

と云う訳で、次回の「長野県の猫神探訪」は、この「善知鳥峠」の先、「筑摩」と「伊那」の境界地として、いまなお分断の爪跡が残ることでも知られる、「信濃国二之宮・小野神社」の「唐猫様」を訪なうことになる。

いずれにしても、「長野県の猫神探訪」は、まだまだ緒に着いたばかりである。


「常光寺」の地図は、こちら


参考文献
a) 主要文献

・田中米吉 (1975) 「常光寺の唐猫 」
 
塩尻市史談会 (1975) 『塩尻の伝説と民話』自刊
・塩尻市誌編纂委員会/編 (1992) 『塩尻市誌
第三巻、塩尻市
・塩尻市誌編纂委員会/編 (1993) 『塩尻市誌
第四巻塩尻市
・塩尻市誌編纂委員会/編 (1995) 『塩尻市誌
第二巻塩尻市

b) 「飯綱信仰」関係書
・作者年代未詳『足利季世記』巻二首「政元生害之事」
 近藤瓶城/編 (1990) 『改定史籍集覧』第十三冊、臨川書店、原版・明治三十六年
・天野信景 (1697-) 『塩尻』元禄十年以降
 日本随筆大成編輯部/編 (1995-1996) 『日本随筆大成・第三期・13-19巻』吉川弘文館
・茅原虚斎 (1819) 『茅窓漫録』文政二年
 日本随筆大成編輯部/編 (1976) 『日本随筆大成・第一期・二十二巻』吉川弘文館
・豐田庸園 (1849) 『善光寺道名所圖會』卷三、嘉永二年
 復刻・(1998) 『善光寺道名所図会』臨川書店
・朝川鼎 (1850) 『善庵随筆』嘉永三年
 日本随筆大成編輯部/編 (1975) 『日本随筆大成・第一期・第十巻』吉川弘文館
・谷川士清 (18C末-19C末) 『和訓栞』
 尾崎知光/編 (1953) 『和訓栞』成美堂
・南方熊楠 (1915) 「天狗の情郎 」『續南方隨筆』
 南方熊楠 (1971) 『南方熊楠全集』第二巻、平凡社
・幸田露伴 (1928) 「魔法修行者」
 幸田露伴 (1990) 『幻談・観画談 他三篇』岩波文庫
・柳田國男 (1957) 「序文」
 速水保孝 (1957) 『憑きもの持ち迷信』柏林書房
・阿部芳春/編 (1934) 『信濃名僧略傳集』信濃毎日新聞社
・宮本袈裟雄 (1970) 「飯縄信仰試論」
 日本民俗学会/編 (1970) 『日本民俗学』第七十一号、自刊、pp. 59-64
・知切光歳 (1975) 『天狗の研究』大陸書房
・佐藤憲昭 (1980) 「『イズナ』と『イズナ使い』」

 宗教社会学研究会/編 (1980) 『宗教の意味世界』雄山閣出版
・斎藤昭俊 (1984) 『インドの民俗宗教』吉川弘文館

・笹間良彦 (1988) 『ダキニ信仰とその俗信』第一書房
・川口謙二/編 (1993) 『日本神祇由来事典』柏書房
・中村友紀夫・武田えり子/編 (1998) 『天台密教の本』学習研究社
・田村貞雄 (1998) 「秋葉信仰研究史素描」 
 田村貞雄/監 (1998) 『民衆宗教史叢書 31・秋葉信仰』雄山閣出版
・吉田俊英 (1998) 「秋葉信仰の成立」
 上掲書、所収
・正木晃 (2003) 『魔法と猫と魔女の秘密』春秋社

c) 「天狗の麦飯」関係書

・小林義雄 (1975) 『菌類の世界』ブルーバックス、講談社
・椿啓介 (1995) 『カビの不思議』筑摩書房

d) 参照サイト
・「塩尻の本」
 http://greens.st.wakwak.ne.jp/home/note.cgi?id=902139&category=6&code=4&note_pw=



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2011.04.22 20:32

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