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長野県の猫神・小野神社の唐猫

.30 2011 中部地方 comment(2) trackback(0)
小野神社の唐猫様・前編 ~塩尻市の猫神 2~

信濃国・二之宮
小野神社

塩尻市大字北小野 175-1
0266-46-3693

小野神社・拝殿
「小野神社・拝殿」


1. はじめに

「信濃国二之宮・小野神社」にある「唐猫様」のことを筆者が初めて知ったのは、もう何年も前のことになるが、『長野県史・民俗編』で「仁科神明宮」のことを調べようとしている時だった。調べものと云うのは、何故か探し物と似ていて、探しているそのときよりも、そうでない時の方が、新しい発見などに恵まれるようである。「小野神社」の「唐猫様」との出会いも、そう云った具合の偶然によってもたらされた。

ただ、『県史』の記述は、非常に短く、せっかく写真も掲載しているのに、印刷が荒いのか、肝心の「唐猫様」の細部がまるで読み取れない。誰かの手に持たれた一体の魚雷状の「狛犬」か、後ろに長く胴体を着けた「獅子頭」のようなものが漠然と白黒の映像で見て取れるだけであった。

しかし、最も筆者を悩ませたのは、この「唐猫様」がどこに所在するものなのか、正確な記述がないことであった。上記写真下のキャプション横に、括弧に入って「塩尻市北小野宮前」とあるばかりである。始めは、個人蔵のものなので、それ以上の住所は掲載出来ないのだろうと思っていたのだが、よくよく考えてみると、不鮮明な映像にあってさえも、必ずしも精緻な彫像とは云えそうにない遺物が、苟しくも『県史』に載ろうと云うのだから、それなりにその地域の社会文化に根ざしたもののはずである。そして、そうであるなら、それが個人蔵であると云うのはやや不自然だとも思った。探せば、そう云う例がないでもないが、やはり一般的には例外的だと云えるだろう。しかも、写真に映っているものは、明らかに何か祭祀上の神具か偶像に見えるのだから、地名の「宮前」と併せて考えた時、もしかしたらこの住所の付近に神社でもあって、そこの所蔵品なのではないかと思い立ったのである。

少し調べると、当地には「小野神社」と云うかなり大きな社があることがすぐに知れ、こんなに大きな社のことで、しかも「平成」に入ってから刊行された『県史』に載っているほどの民俗的事項ならば、「塩尻市役所」の「教育委員会」に問合わせれば、何か収穫があるだろうと考えて、さっそく電話をかけてみた。しかし、回答は案に相違して、そのようなものは聞いたことがないと云う、間髪おかぬ即答であった。まあ、電話をかけたのが四時四十分過ぎだったのがいけなかったのか...。

やむを得ず、あれこれと手元の資料をにらんでいると、詳細な地図だと、「小野神社」の前に「小野神社資料館」と云うのがあった。もしも、「唐猫様」が神社の所蔵品であったなら、この資料館に保管されているか、少なくともこの資料館の人がその所在を知っていそうなものである。

旅行決行の日が明日に迫り (2010年の夏の話であるが...) 、もはや残された手段はあまり多くなく、四時五十分頃と云う、問合せをするには少し遅い時間にはなっていたにも関わらず、資料館の連絡先を何とか見つけて電話をかけることにしたのである。しかし、ついていないときは何事もうまく行かないもののようで、御不在なのか、資料館の方は電話に出ることはなかった。ここに至って、筆者の腹は、半ば焼け気味に決まったのである。そう、いきなり現地調査に突入すると云う、無謀かつおそらくは何の収穫も期待出来ない手段に打って出ることにしたのである。

かくして、筆者は、何ら具体的資料のないまま、「小野神社」のものと思われる「唐猫様」探しに出かけることとなった。



2. 「善知鳥峠」

実際に「小野神社」に向かう段になったのは、
より北の方にあるとは云え、同じ「塩尻市内」にある「常光寺」を訪問した後だったので、行路としては特に難渋することなく、すんなりと目的地に向かうことが出来た。簡単に説明すれば、「常光寺」から、このお寺に行くときに使った国道153号・三州街道に戻り、後はずっとこの道に沿って南下していけばよいのである。

この「三州街道」別名「伊那街道」と云うのは、「古代」以来の歴史を持つ道で、かつて
「科野 (信濃) 」の「国府」が、現在の「上田市」付近から「松本市」界隈に遷されたとき、「古代」の「東山道」もそこを通るように整備されたと云う。この道は、「中央」から「東国」へと抜ける場合の当時の最重要経路となり、「松本」はその枢要を占める交通の一大拠点となったのである。この「松本」と「東海地方」を結ぶ「古代」の道が、後に「三州街道 (伊那街道) 」として整備され、今の国道153号の元となったのである。

この「三州街道」を通って、「常光寺から「小野神社」に向かう道のりは、本来なら、十五分とかからない行程なのだが、ここの国道は片側一車線なので、その日の交通事情によって、多少は時間が多くかかる時もある。ただし、長野自動車道が開通するまでは、この国道が「長野」「松本」と「伊那地方」、ひいては「名古屋」とを結ぶ唯一の幹線道路だったため、かなりひどい渋滞をすることもあったと聞く。しかし、高速も開通した今、筆者が通った時の感想としては、少し速度の遅い車の後ろについてしまうと、ついてないな、と感じてしまう程度の、基本的にはのどかな道路であった。もっとも、筆者は地元民ではないので、本当の交通事情は、とんと分からぬ *。

* 後日、地元の人に尋ねたら、「塩尻側」は登坂車線があるものの、朝はいまでも渋滞が酷いらしい。冬になると、峠の南北の麓では雨でも、峠は雪などと云うこともあり、雪や凍結の関係でトラックなどの横転事故も多いそうである。そんなときは丸一日通行が止まってしまうこともあると云うことであった。

「常光寺」から「小野神社」に向かうとなると、寺の前の通りを東へと走って、まず「東の沢」を越えることから行路が始まる。その後、「上西条強清水バス停」の近くで「双体道祖神」の前を通過しつつ、「権現川」の暗渠になった箇所を過ぎ、そのまま右手の山裾に「上西条神社」 (別名「権現神社」) と
「強清水」の流れを眺めつつ進んでいく。少し先、左手には「上西条浄水場」がある。ここから先は、中央本線の線路を越えて、少しばかりの坂を上ると、すぐに国道153号に出るので、これを南 (右) へと入るばかりである。ちょうど中央本線の「塩嶺トンネル」の入口付近であるが、既に地名は「善知鳥 うとう 山」となっているから、かの「善知鳥峠」は近い。

もちろん、「
善知鳥峠」はどこか、と云うのはそんなに分かりにくい話ではない。この国道を走っていて、緩やかな坂を上り続けていたところに、急に前方の視界が開けて長い下り坂が始まる辺りが峠の鞍部である。峠の鞍部の東側には、「分水嶺公園」が設置されており、濃い茶色に白抜き文字の立派な看板が立っているから、車で走行中でもすぐに分かるだろう。ちなみに、ここの峠には、かつてドライブインなどの観光施設があったらしいのだが、高速道の開通で、それも過去の話となってしまった。ただ、「分水嶺公園」には、峠の由来を記した案内板や石碑類、それにこの地が「中央高地」の水系を南北に分つ分水嶺の地であることをあらわしたモニュメントなどもあるので、興味のある人はちょっとばかり立ち寄るのもよいかもしれない。

ちなみに、この峠を挟む南北の道は、北の「塩尻」側がやや急で、南の「辰野」側は緩く、長い。だが、昔から名にし負う難所として知られた峠にしては、馬力の足りない我家の「マーチ」でも、さほど減速せずに越えられたから、少し拍子抜けの感はあった。しかし、改めて標高を調べてみると八百八十九メートルもあり、われらが「千葉県」のどの地点よりも遥かに高いのである。地平線上に聳える白い峰々を眺めるときもそうだが、こう云うときも自分が「中央高地」に来ているんだ、と云うことを強く実感させられる。

しかし、ここの峠道は、昭和四十六年 (1971) の大規模な道路改良までは、急斜面に三十一ものカーブを有する、文字通り難所と呼ぶに相応しい悪路だったと聞く。
いまでも、よくよく観察して峠道を走っていると、かつてのカーブ部分がまるで三日月湖のように左右に残された区間があるのに気づくことだろう。しかも、「近代」以前は、基本的に旅人は皆、徒歩だったのだから、勾配もさながら、この長い距離を踏破するのは相当に苦しかったろうと思う。ましてや麓で降っていなかった雪が降ったりすれば、命にも関わる事態となったに違いない。

ところで、前回の記事でも触れたが、「善知鳥峠」は「松本平」と「伊那谷」との境をなす峠である。「常光寺」裏の「飯縄城」から尾根伝いに登っていくと、「嵐城」「西条城」と後詰めの山城があり、その尾根の到達点が「大芝山」 (1210m) であることも前回記事で記したと思うのだが、「善知鳥峠」は、その東の鞍部に位置するのである。往時、この峠がとれほどの要衝の地であったかは、この地理的な配置からだけでも推し量ることが出来る。しかも、ここの峠は、「信濃川」水系 (日本海側) と「天竜川」水系 (太平洋側) の分水嶺となっているのだから、その境界性は明らかである。古今、その名が高いのも納得出来る。

ところが、現代の地図を開いてみると、ここの峠はまるまる「塩尻市」に入っており、決して行政区分の上では境界にはなっていないのである。そこで、地図を丁寧に辿っていくと、「塩尻」と「辰野」の境は、何と、これから筆者が訪問しようとしている「小野神社」のある「小野地区」の真ん中を通っているのである。「北小野」は「塩尻市」、「 (南) 小野」は「辰野市」と云った具合である。しかし、この不思議な現象に関しては、後ほど、より丁寧に触れることとしよう。

*

ところで、この峠には、「善知鳥」を巡る古くからの地名伝説がある。まずは、地元に伝わると云うその伝説を見てみよう。

昔、ある猟師が北国の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴い、都に売りに行く。雛の親は、我が子を求めて「ウトウ、ウトウ」と鳴きつつ、猟師の後を追った。「信濃」まで来て、猟師親子は険しい峠道で激しい吹雪に見舞われた。吹雪の中、峠を越えようとする猟師に、親鳥は、なおも追い縋る。麓の里には、吹雪の中「ウトウ、ウトウ」と鳴く鳥の声が響き渡った。

やがて猟師は猛吹雪に力尽き、峠を越えることなく、その地で果てた。吹雪の後、人々が峠に上ると、我が子を庇うように死んだ猟師の懐で、泣きじゃくる息子の姿があった。その傍らには、やはり子を庇うように斃れた親鳥の袂で、雛鳥が鳴き続けていた。

人々は、その鳥の名が「善知鳥」であると知り、猟師と共に手厚く弔った後、その地を「善知鳥峠」と呼ぶようになったと云う。

参照・はまみつを/編 (2006) 『信州の民話伝説集成・中信編』一草舎

この伝説の面白いのは、「信濃」のまん真ん中で、突然、「北国の猟師」が登場することであろう。確かに、かつての狩人たちは、我々からは想像出来ぬほどの長距離を移動したことは、以前、拙稿「『
ハヤマ信仰』に関する一考察 5) 」で、「武田太郎」氏の文を引いて述べたこともあるが、それにしても「筑摩地方」と「伊那地方」の境にまで、暗に「陸奥」の出身であることが窺われる猟師がやってくるのは、いかにも不自然な気がする。

しかし、筆者がまだ大学に通っていた頃、ふとしたことから「秋田県」の「阿仁地方」を旅することがあったのだが、そのときたまたま出会った熊撃ちの老人に、かつての「マタギ」は、動物を追って「伊那谷」くらいまでは出掛けることがあったと聞いたことを思い出すと、「陸奥」から「善知鳥峠」まで来る猟師がいても、まんざらおかしくないのかもしれない。確かに、「柳田國男」も、『神を助けた話』の中で、「奥羽の山々にはマタギと謂つて、狩を主業として居る特別の村があつた。今でも冬に為ると、峰づたひに熊を逐ひながら、信州あたり迄も漂泊して来ると聞いている」と証言していた (全集 3、p. 60) ように思う。けれども、いくら何でも、幼い子連れでやってきたと云うのは、流石にあり得なかろう。

大体、特定の土地の事物とのつながりを主張することで自らを歴史化しようとする「伝説」と云う媒体は、その地理的なナラティヴをより明確にしようとすることが多い。したがって、普通の「伝説」なら、この「猟師」親子がどこから来たのかくらいの説明はあってもおかしくない。あるいは、逆に、典型的な「昔話」ならば、具体的な地名は語らない代わりに、その地理的な設定はすべて漠として、「北国の猟師」とも云わず、ただ「猟師」と語ることが多いだろう。要するに、上の話は、伝説と見ても昔話と見てもどっち付かずで、その他にも、鳥の不思議な鳴き声についての説明もなく、何だか変なのである。何と云うか、話が語られる前に、既に幾つかの前提が紹介されてしまっているかのような印象を受けてしまうのである。

だが、それもそのはず、この民話には、下敷きとなる有名な伝承、あるいは「謡曲」が存在するのである。伝承の方を巡る説明は、やや入り組んだことになるので、ここでは世に名高い「謡曲」の方を紹介しよう。内容的には、上で見た「長野」の民話の後日譚と云う形になるが、その成立の前後関係は明らかではない。筆者としては、今のところ謡曲の方が元となったのではないかと思っており、しかもこれはかなり明白なことなのだが、いざそれを証明せよと云われると、これがなかなか難しく、一言や二言で何とかなる次元の話ではない。いずれにしても、「謡曲」は、その名も「善知鳥 うとう 」。

諸国一見の旅僧が、「立山禅定」を終え、「陸奥」へ下ろうとしていると、物凄しげな老人に呼びとめられる。老人は、去年死んだ「外の浜」の猟師だと名乗り、「陸奥」へ行かれるならば、妻子を訪ね、蓑笠を手向けてほしいと、言伝てを頼み、証拠に自分の着ていた麻衣の片袖を引きちぎって渡す。老人は、僧を見送りつつ、姿を消す。

僧はやがて「外の浜」の猟師の妻子を訪ね、ありし世の蓑笠を手向けてくれと伝え、老人の麻の片袖を渡す。その袖は、猟師の形見の袖と寸分違わずに合い、妻子は涙に昏れつつ、蓑笠を手向け、僧と共に回向する。すると、猟師の霊がやつれ果てた姿で現れ、我が子に近づこうとするが、生前、親子の情の深い「善知鳥」の習性を利用しては、雛鳥を捕って親鳥と引き離した罪障の故に、近づくことが出来ない。猟師は、殺生の所業の浅ましさを語り、生前の如く鳥を捕る様を見せ、その報いに数多く殺した鳥類に責められ、「善知鳥」が「鷹」の怪鳥となり、自らは「雉子」となって追い苛まれる地獄の責め苦の様子を妻子に見せ、救いを求めつつ姿を消す。

シテ
 〽 うとうはかへつて鷹となり
    〽 我は雉とぞ成たりける、遁れ交野 かたの の狩場の吹雪に、空も恐ろし地を走る、犬鷹に責められて、あら心うとうやすかたの、安き隙なき身の苦しびを、助けて賜べや御僧、助けて賜べや御僧と、言ふかと思へば失にけり。

伝・世阿弥元清「善知鳥」
西野春雄/校 (1998) 『謡曲百番』新日本古典文学大系 57、岩波書店など

ここで、「善知鳥峠」に伝わる地元伝承と、「能」の「善知鳥」の内容を比較してみると、直接のつながりは見られないものの、それぞれの話の流れから判断すれば、伝承の方が「謡曲」の前座のような構成になっていること、しかもその成立順で云えば、伝承の方が後になるだろうと云う推測が出来ることも既に述べた。

このことにさらに付け足すならば、命名譚としての伝説とは裏腹に、実際には「善知鳥峠」は、先に「うとう峠」の名があり、そこへ後から「謡曲」などの「善知鳥伝説」が影響する形で、いまある地名伝承が形成されたものと思われる。

「松崎岩夫」氏は、『長野県の地名その由来』の中で、「長野県」の「うとう」地名について、「謡」「唄」などの当て字も多いことを挙げ、次のように記した上で、「海鳥」のいない「長野県塩尻市」の「善知鳥峠」は、「うとう峠」と云う地名があったところに「善知鳥」と云う字を当てたのだとしている。

「うとう」は県内に非常に多い地名で、どこでも見られ、これに当てる文字も実に多彩で、とても挙げ切れそうもありません。それに、この地名には物語がつきもので、たとえば、軽井沢町追分の「唄坂」 (うたいざか・うとうざか) は昔、若者等が追分宿へ遊びに行って暗い夜道を帰る時に、その日のことを、声高に話ながら、あるいは声高らかに歌って通ったので、この名が生まれたという如きもので、附会して生まれた話だということがすぐわかります。
 
松崎岩夫 (1991) 『長野県の地名その由来』信濃古代文化研究所、pp.100-101

「柳田國男」がその『遠野物語』の中でも云っていたように思うのだが、「ウト、ウトウ」には、両側の高く切立った道や谷と云う意味もある。『地名用語語源辞典』には、「ウトウはウトと同じで、ウトの語源として、一応ウツ (空、虚) の変化した語と考えてよいが、一般的には、洞穴、洞窟、波打ち際にいたる崩壊地形、浸透地形を指す用語である。両側が高くて切り込んだ道や狭い谷にも用いられる」とある (楠原・溝手、1983) 。現在の「善知鳥峠」の地形からは、崩壊地形状の切り通しなどは想像しにくいが、「近世期」までは今の「塩尻市・金井」と「北小野」の境にある侵食谷で、山の鞍部に当たる峠だったのではないかと想像される。昔の文献で、そのような記述のあるものがあったならば、是非、御教示下さい。図画や写真などがあれば、なお幸いである。

筆者も、多くの論者たちが述べているのと同様、「善知鳥峠」の表記も伝説も、いずれも後世の附会だとは思うのだが、気になるのは「長野県」には、「松崎岩夫」氏が指摘するように、多くの「うとう」地名があり、そのほとんどが「謡」「唄」などの字を当てられているのに、何故「善知鳥峠」だけが、「謡曲」の「善知鳥」を当てられたのかと云うことである。そんなの偶々だよ、と済ませてしまう人もいるだろうけれど、よく考えるまでもなく、「善知鳥」の字訓は、たまたま誰かが当てはめるにしては、あまりに一般性に欠けている。ある時代、この峠の名前にこの字を当てた人は、きっとある程度以上の教養階層に属していたと考えられるのだが、そうであればこそ、その字を当てるに際して、様々な連想や含意を持ってその行為を行なった可能性が高いと云えよう。

「外ヶ浜」の「善知鳥」伝説に関しては、いずれ詳しく記事にするつもりなので、ここではさほど触れないでおくが、「うとう」以外に、「外ヶ浜」と「善知鳥峠」周辺が共有するイメージと云うのは何か、と云うことだけは考えてみることとする。そして、そのことを考えてみると、実はそのような共通点はあまりないことに気づかされるのである。そんな中、二つの地域を想像で関連させることが出来るのは、主に知識人階層であったろうけれど、そんな人々からすれば「信濃」と「陸奥」は、「雪国」であると云う点で結びつけられている他は、特に共通する点はなかったろうと思われる。さらには、都人たちからすれば、
「信濃」と「陸奥」との間にある実際の遠近の差は考慮されず、いずれの地も流刑に使われるほどの、最果ての僻鄒であると云う程度の認識しかなかったはずである。そんな彼らにとって、そのような境外の土地を歩き回るものは、「山伏」か「猟師」が最有力の候補だったと思われる。

やや前振りを長くしてしまった感があるが、要するに、「善知鳥峠」と「謡曲」の「善知鳥」を引合わせたのは、この「猟師」の存在ではなかったか、と筆者は推測するのである。もちろん、他の要素も考えることは出来る。例えば、この他にも「謡曲・善知鳥」の主たるモチーフの一つを形成している「片袖幽霊譚」などがある。この系統の伝承が形成されるのに、「善光寺街道」を行き来する信仰者たちの活動が寄与しているのではないかと云う先学たちの研究成果があり、このことも、筆者の考えを別の方面から補強してくれはする。

かつての「東山道」は、「美濃」から「恵那・神坂」越えを果たすと、「天竜」の西岸を北上するルートを辿ったのだが、それも「国府・松本」に至ると、「錦織」駅からは、本路は東進を開始して、「碓氷峠」を越えて「上野」へと向かった。しかし、この東へと向かう本ルートとは別に、「松本」からかつての「越後国・国府」であった現在の「上越市」へと向かう支線も「東山道」にはあった。

この「北陸道」への連絡路の基本的な性格に関して、我が国の「古代交通」について断続的に論考を発表した「坂本太郎」は、初め『上代駅制の研究』 (1928) において「東山道との聯絡の爲に、越後國府より南行、信濃國府に通ずる一道を開く」(坂本、1989, p. 59) と記し、「北陸道」の支路であると位置づけている。しかし、氏は後に『古代日本の交通』 (1958) において、「信濃から北行、越後国府に達する」と書いて、この道が「東山道」の「北陸連絡路」であるとして、その見解を修正している (坂本、1989, p. 206) 。この連絡路上の駅は、「麻績・日理・多古・沼辺」の四駅なのだが、それらの駅名は『延喜式』にあって「信濃」国内には見えるのに、「越後」国内には見えない、と云う文献上の事実から、ここのルートが「東山道」に属するものだったのではないかと、近年の道路師研究の第一人者である「武部健一」氏は説得力のある見解を述べている (武部、2004, pp. 131-132) 。
そして、この連絡路が後の「善光寺街道」とほぼ合致するのである。

おそらくは、この聯絡を通じて「北陸道」に出た「信濃」の「善光寺」信仰は、「越中富山」の「立山」信仰と「浄土信仰」の「地獄観」を媒介として一種の信仰複合を形成しつつ、多くの「聖」や「巫覡」たちによって広く全国に広められたことは、比較的よく知られたことである。そして、この「東山道」の「北陸連絡路」を介して深く結びついた「善光寺」信仰と「立山」信仰の「地獄・浄土」観の拡散に伴い、「謡曲」の「善知鳥」は都人たちのイマジネーションの中で醸成されて成立したと考えられるのである。そして、やがては、その同じ経路を伝って、「信濃」の真ん中、「筑摩・伊那」の郡境の「うとう峠」にまで、「善知鳥」の名を附会するに至ったのであろう。そして、その裏で常に作用していたのが、「殺生」を巡る「罪業観」であり、それを最も喚起するイメージとしての「猟師」たちだったのである。

したがって、「善知鳥峠」の名前を通じて筆者が、「小野・矢彦神社」の信仰の古層について思うことと云うのは、両神社が、必ずや「狩猟」と関係する次元で関わっているに違いないと云うことなのだが、そのことについては、また後ほど言及することとしよう。



3. 「小野神社」に到着

「善知鳥峠」を越えて、そのまま国道を進むと、JR中央本線 (東ルート) の「善知鳥山トンネル」の出口付近を通過する辺りから、ふたたび人々の住まいの気配が点々と現れ始める。この辺りが、「古町」地区の始まりである。

右の車窓からは、「大芝山」「霧訪山」の緑の稜線が見え、そのなだらかな裾野に、「三州街道」沿いの集落は形成されている。街道を南行している場合、大概は、右に見える集落の外れの山裾に神社が祀られ、そこを過ぎると本格的に人家や町並みが見えてくる。ここでは、初めに見えてくるのは、「稲荷神社」である。

しばらく行くと、左手に「セブンイレブン」が見え、右手の緑の丘には「秋葉神社」が鎮座している辺りに出るのだが、その先を「刈谷沢川」が流れている。この川を越えると、「古町」の中心街二入ったことになり、町並みも急に賑やかになってくる。そろそろ「信濃国・二宮」と謳われた「小野神社」も近い。

そして、「刈谷沢川」から一キロ前後か、国道の下り坂が少し右へと曲がる箇所の右側に見える緑の杜が「小野神社」の境内である。この角にも小さな石鳥居が見えるはずだが、ここの路地を右折して入った先に駐車場があるので、ここの角を見逃さないよう注意したい。


a) 「小野」と「憑 たのめ の森」

ここの神社は、広大な境内の後ろ半分は豊かな植生がそのまま残された鎮守の森となっており、しかも南隣りの「矢彦神社」と一体化していると云う、奇妙なつくりとなっている。その上、地図をよく観察すると、「矢彦神社」の鎮座する土地だけが、長方形に切り取られたように、隣りの「辰野町」の飛び地となっているのである。行政区分も、「塩尻市」側は「北小野」、「辰野町」側は「小野」となっている。「矢彦神社」はどっぷり「北小野」に入っているのだが、住所表記は「小野」なのである。したがって、この少し先にある中央本線の「小野」駅は、当然、「辰野町」側にある。この分断については、また後ほど述べることとしよう。

「小野・矢彦」の両社域合わせて三万六千平方メートルの森は、「杉・檜・椹 さわら ・樅」などの針葉樹、「欅・栗・楓・水楢・辛夷 こぶし ・銀杏」などの広葉樹が密生した混合林となっており、草木あわせて百五十種が自生していると云う。いわば、この境内だけに、「古代」からの天然林が残っているのである。この「社叢」が 「長野県」の「天然記念物」に指定されている所以である。

「小野・矢彦」の両神社は、『延喜式』や『六国史』などには記載はないが、いずれも「信濃国二之宮」と号し、「上伊那五十四ヶ村」の総鎮守として君臨した由緒を持つ神社である。享保九年 (1724) 成立の『信府統記』にも「其草創何レノ代ト云フコトヲ知ラズ老樹茂林ヲ歴ルコト久シト見エタリ」と見え、より古くは、永禄十年 (1567) の「生島足島神社」奉献の「仁科盛政等親類被官起請文」に「小野南北 (之) 大明神」とあり、「諏訪上下社・飯綱・戸隠」と並ぶ「信濃国」の鎮守と記されている (『信濃史料 13』p. 270) 。また、奉仕する神職の「大祝・別当・副祝・権祝」などの職制が「諏訪大社」と同じであると云う事実も、「信濃」では、両神社が「諏訪大社」に次ぐ古い由緒を有する社であることの傍証となっている (神戸、1984) 。

地名としての「小野」の初見は、『吾妻鏡』文治二年 (1186) 三月十一日条の「関東知行国乃貢未済庄々注文」の中で、「左馬寮」の一つ、「小野牧」として登場しているのがそうである。現在の「北小野」地区には、「牧の内・駒爪・巻寄・槙寄」など、牧場に関係すると疑われる地名が多く残り、『吾妻鏡』の記述を裏付けるようである。

しかし、「小野」と云う地名の起源を探るのは存外難しい。そもそも、「柳田國男」が云うように、「小野は成程大野に対した古風なる地形の名で、たゞに京都の四周のみならず、今も遠近にさういふ村もあり部落もある」 (「稗田阿礼」全集 11、p. 443) か、あるいは「小野と云ふのは里の名で、大野の広漠たるに対して、山の陰などの静かな入を謂ふらしいから、全国に何ヶ所有つても差支無」いのである (『神を助けた話』全集 3、p. 81) 。それでもそう云う「柳田」自身が、「小野」の地名に特殊な由来があると考えているから論を起こしているように、「小野神社」の「小野」と云うのも、ただ単に「小さな野」と云う程度の意味合いでつけられているとは、筆者には到底思えない。ここでは、あまり深入りした議論はしないが、この後、見ていくように、「小野・矢彦神社」には、「畑作」や「狩猟」等と深い関わりがあったのではないかと匂わせる由緒が多く、そのために「小野」と云う名前も、「二荒山信仰」を核とした『日光山縁起』に記された「小野猿丸」伝承と、深層の部分でつながるものなのではないかと疑ってみたくもなるのである。

また、「小野神社」の社叢は、いまに「頼母 (憑) の森」と呼ばれており、字も「頼母」と云うと聞く。この「たのも」あるいは「たのめ」「たのみ」「たのむ」の地名は、『枕草子』第六十二段 (新日本古典文学大系版) にも登場する古い由緒があることで知られており、近頃では、地元の観光協会はこの名称を売り込むのに躍起になっているようである。もちろん、はたして「清少納言」の云う「たのめの里」が「小野」の地を指しているかは、明証することは出来ない。しかし、十四世紀初頭に成立した「藤原長清」撰の『夫木和歌抄』には、「信濃なる伊那の郡とおもふにはたれかたのめの里といふらん」と云う歌があり、少なくともこの時代までには、都人たちの間で、「たのも/たのめ」の語は「信濃」の歌枕として知られていたことを証している。『夫木和歌抄』には、この他にも「信濃」を詠んだものとして、「玉の緒をおもひ絶えてもあるべきにたのめの里に年をふるかな」の歌もある。

この「たのも」「たのむ」「たのみ」「たのめ」と云う地名に関して、「信濃学の創始者」とも云うべき斯界の巨人「市村咸人」は、「たのもの里という言葉は、田の面ではないかと思う。諏訪様が田圃を開かれた所だから田の面祭があった。それが頼め祭りになったのではないかと思う」と唱えている
(『塩尻市史』第二巻) 。『万葉集』の「東歌」にも「坂越えて阿倍野田の面 たのも にゐる鶴 たづ のともしき君は明日さへもがも」の歌があり、後に「たのむ」などに転じているので、用例は多く存在する。

これに対して、「国文学」の「小野巳代志」は自身の「たのめ考」の中で、「たのめ」について、「田の面ではなく、田の実である。春先から神に祈り辛苦を重ねて作り得たものであり、たのめ祭りは田の実祭りである」と主張している (『塩尻市史』第二巻) 。こちらの用法も、古い文献に見られ、『
岩波古語辞典』によれば、本来は収穫を控えて、これを予祝する行事であった「田の実の祝ひ」の略語らしい。この祭儀は元は「陰暦」の八月一日前後、後には「八朔」の日に行なわれたらしく、これは「小野神社」の例祭がかつて陰暦八月一日に行なわれ、「八朔祭」あるいは「頼母祭」と呼ばれていたことと対応するため、かなり有力な解釈と云えるだろう。いかにも、国文学者らしい古典籍に拠ったゆかしい洞察である。

一方、『塩尻市史』の編者は、慶安四年 (1651) の検地帳で、「北小野」の地が、総面積五十九町三反十九歩に対して、田地は十七町七反九畝一歩で、畑地は四十一町五反二畝であることから、「たのめ」などの言葉の語源を「水田耕作」に限定する考えを控え、これらの語は、「豊作祈願」の意味であろうと推測している (『塩尻市史』第二巻、p. 449) 。

確かに、「慶安検地帳」に残る数字を見る限り、「近世」初期にあって、「小野」地区は、「水田耕作」も盛んに行なわれていたものの、かなり明確に「畑作」優勢の地域だったようで、その土地の起源を語る語彙に「水田耕作」を前提とする言葉が含まれているのは、理に適っているとは言い難い。しかし、『塩尻市史』の記述も何だか舌足らずではある。「小野巳代志」の「水田耕作」説を否定している以上、「たのめ」「たのも」の漢字交じり表記を「田の面」とか「田の実」と考えている訳ではないだろうに、このことに関しては明確な見解が述べられていない。「田」の字を否定して、「畑作」を含めた「豊作祈願」だと解したのだから、「市史」は素直に「神頼み」の「頼む/頼め」であると把握したと云うことなのだろうか。

「諏訪大社」や
「小野・矢彦神社」の主祭神に名を連ねる「建御名方命」や三社の信仰の基層をなすと考えられる「ミシャグチ神」 (後に述べる) が「狩猟の神」の側面を持つことや、この地がかつては「馬牧」であったこと、この地域が「稲作」でなく「畑作」優位の農業構造を持っていたことなどは、民俗的な観点からは齟齬なく整合するので、「非水田耕作」の視点を取り入れたのは、『塩尻市史』の大きな手柄だと云えるのだが、それだけでは「たのむ」の説明にはならず、したがって「市村咸人」説や、「小野巳代志」説に対する有効な反論にも修正にもなっていないのが難点なのである。

筆者としても、『塩尻市史』の編者同様、「たのむ」は「田」に関わる言葉ではないと考え、「八朔祭」と整合性を持つようになったのは、飽くまでも「水田耕作」が導入され、「たのむ」の語源が失われてしまったよほど後代のことだと考えている。何しろ、『枕草子』や『夫木和歌抄』にも現れる「たのめの里」が、単に「田の面の里」、あるいは「田の実の祝ひをする里」だったらならば、そんなのは「稲作」を行なっている地域の方々で見られる地形や祭儀であったろうから、そのような語は到底、地名としての固有の指示力を持ち得なかったはずであるし、歌に詠みたくなるほどの叙情性も感じられなかったはずである。筆者にとって、「小野巳代志」説の難は、この点に集約されるのである。

この件に関して、筆者は、社名の「小野」により注目すべきなのではないかと考えている。そもそも、「小野」を単に「山裾の少しばかり開けた傾斜地」と捉えるならば、「小野神社」の社叢が原生林に近い豊かな森になっていることと矛盾はしないだろうか。確かに、「鎮守の杜」と云うくらいで、『万葉集』にも「木綿 ゆふ かけて斎 いは ふこの社 もり 越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに」 (巻第七・1378) や「山科の石田 いはた の社 もり に幣置かばけだし我妹 わぎも に直 ただ に逢はむかも」 (巻第九・1731) 」のように「社」を「もり」と訓む例さえある。したがって、神社には森があるものなのだから、地名としては野原に由来する「小野」でも、その鎮守様には森があって当然だ、と云う議論もあろう。しかし、元々、「森・杜」には「山」と云うニュアンスもあり、「ひらけた土地・傾斜地」を表わす「野」とは、さほど相性の良い言葉ではないはずである。第一、ここの「社叢」は、他所のそんじょそこらの「鎮守の杜」より、遥かに規模が大きい。

そこで、視点をまったく変えて、「小野」を「小さな野」ではなく、「隠 オン 」と考えることは出来ないかと筆者は考えるようになった。「隠の森」が、やがて「小野 (の) 森」に転じ、音だけはしばらく記憶に残り、「恩の森」と考えられるようになると、
神の恵みに「たよる」「よりかかる」と云う意味合いから、「恩」が「たのむ・たのみ・たのめ」へと意味的に推移したのではないか。実際には、「小野の森」から直接「恩の森」に展開したと見ても構わない。あるいは、「恩の森」と考えられた時代に、「稲作」とそれに伴われた「八朔」の「田の実の祝い」などが習合した結果、「たのむ」「たのめ」などに名前が転じたのかもしれない。いずれにせよ、「たのむ」の表記として後世の氏子たちが「憑」の字を選んだのは、その名前の起こりが何かしら普通の「頼む」とは違うことを暗に示唆しているようではある。

もちろん、ここで筆者が薮から棒に開陳した「小野 (=隠) =恩=たのむ」の仮説は、心の準備の出来ていない諸姉諸兄には、いいとこ不意打ちの奇説にしか聞こえないのは重々承知している。しかし、筆者はただ言葉をいじくり回しただけで、この仮説に辿り着いたのではなく、「小野・矢彦神社」の信仰の全体の軌跡を俯瞰することで (その他、「小野氏」と「狩猟」「霊界」の関係など) 、この考えに思い至ったのは紛れのないところである。この件に関しては、また別の機会に詳しく自説を展開しようと思っている。


いずれにせよ、本稿との絡みで云うならば、「小野」と云う名前を「狩猟」と関係づける筆者の企図と、「木地師・轆䡎師」の本貫地の一つとしての「近江国小野」との関係を考えれば、以上のことが有する重大性も分かって頂けるのではないかと思われる。筆者は、本稿の後半で、力及ばずながらも、この点について少しばかり (極めて表層的なものではあるが) 考察したいと思っている。



b) 「矢彦」と「洩矢神」1  附・古代以前の交通について

一方、「矢彦」の神名の初見は、おそらくは嘉禎三年 (1237) の年号を持つ「諏訪上社」の「祝詞段」だと思われる。これには「小野ワヤヒコ北方南方末若宮大明神迄ミナトマチキコエヒサシキ小野ノゴセ」とある (『信濃史料 16』p. 80, 152) ので、その名前は十三世紀前半までは遡れることが分かっているから、この点に関しては、『吾妻鏡』を初見とする「小野」の地名よりも、一応、履歴が古いのである。しかし、「矢彦」の場合、これ以外では史料に名前が見られるようになるのは「武田時代」以降のことである。

もっとも、筆者にとって「矢彦」の名前は、それ自体、非常に興味深いものである。「筑摩・伊那」境界地の「小野郷」からは、必ずしも近いとは云えないが、それでも「信濃」と隣接する「越後国」の「一之宮」である「弥彦神社」との関係は、名前を聞いただけで、誰しもが疑うところではある。この点に関して、『塩尻市史』は、間接的ながら興味深い解釈を打立てている。

延喜の東山道は、神坂峠から伊那に入り、阿知、育良、堅錐、宮田、深沢と、天竜川をさかのぼり小野地区に入り、善知鳥峠を越えて覚志駅へとつづいていた。旅人は峠越えをおそれ、無事に峠を越えられるようにと、麓でぬさを祀り神に祈ったことは神坂峠や碓氷峠 北佐久郡入山峠 で知られている。小野神社も善知鳥峠越えを前にして旅の安全を祈った所ではないだろうか。苅谷沢という地名も峠に関係した地名である。苅谷は仮宿のことで、簡単な宿泊施設が置かれていた所である。東山道が小野のどこを通って善知鳥峠を越えたかははっきりしない。しかし深沢駅から小野に入り善知鳥峠をこえて覚志駅まではかなりの道程である。したがって、苅谷沢の入り口の古町辺りに仮宿が置かれていたとも考えられる。こう考えると「たのめの里」は「たのみの里」であり、小野地区は古代から交通の要衝として重きをなしていたところとみることもできる。小野神社は諏訪神社につぐ信濃国の二の宮といわれ、また、弥彦神社は越後の一の宮ともいわれ、東山道から分かれる越後支道はこの筑摩郡と伊那郡 古くは諏訪郡 の境まで国司迎えの宮であって、古代から人びとの崇敬を集めていたが、その起源はむしろ旅人の守護神であったのではないだろうか。 (下線、筆者)

塩尻市誌編纂委員会/編 (1995) 『塩尻市誌第二巻塩尻市、p. 449

この文章では、なぜ「小野の里」を指す「たのめの里」が「たのみの里」なのかの説明が十分でないことと、また、末文の主述などの構成が乱れていて文意が取りにくいこととは、大目に見て、「東山道」とそれから分岐する「越後支道 (北陸道連絡路) 」を視野に入れることで、「矢彦神社」と「越後」の「弥彦神社」を有機的に結びつけようとする視点は、評価に値しよう。ただ、上記引用箇所の見解に関して、筆者は興味深いとは云ったが、全面的に賛同するとは云っていない。

完全に賛同出来ない理由は極めてシンプルで、「旅人の守護神」などと云うものは、「旅」と云うものがある程度以上に制度化されていなければ発生しないと筆者は考えているからである。長距離の移動は、その発生期にあっては、大きな政治体を前提としない小さな交易からも発したかも知れないが、街道が整備されて「旅」と云うに相応しい状況が生まれるためには、長い旅路の間の寝食の確保や、一定の安全保障を可能にするための関係者間の相互連絡は必須であろうし、さらには街道の整備を物理的に可能にするためにも、大きな政治勢力が前提となる。

時代背景なども全く異なるので、あまり良い例えとは云えないが、ずっと時代を下って、「本能寺の変」後、「堺」に遊んでいた「徳川家康」が、果敢な「伊賀越え」を命がけで成し遂げて「三河国・岡崎」に帰還せねばならなかったと云う故事が、逆に、無政府状態での旅の困難を象徴しているとも云える。いずれにせよ、現在でさえ、広域県道などの資金をどの自治体が持つかで揉めると聞くのに、「古代」にあって社会全体の利益と云う概念も、「全体」を標榜するほど広域に渡る政治体も存在しなかった時代に、「旅の神樣」が欲しい気持ちは分かるが、そもそもそんな時代に「旅」そのものが一般的には成立しているはずもないのである。

もちろん、「小野神社」などの草創の時期に、「旅」を前提とした長距離移動があったとは考えられないものの、大規模な長距離移動が皆無だったとは、筆者も考えていない。全国の街道の調査を行なっている「武部健一」氏は、「考古学的には、日本列島に人が住み始めて、地域間の交流が認められるのは、一〇万年前の旧石器時代以後のことである」とさえ述べているのは承知している。ただし、これは「武部」氏も認めるように、物品の移動という意味で「交流」が確認されているだけで、道の跡が見つかっているのではない。「武部」氏は、さらに「縄文期」の「三内丸山遺跡」の集落内には「土留めの杭が打たれた巾数メートルの通り」があることなどについても触れている (武部、2003) が、大集落内の道と、「旅」を可能にする「街道」とでは、同列には語れない。

上のような見解に対して、かつてはより保守的な見方が強かった。「田名網宏」氏は、「縄文時代」の交通について、「この時代は、狩猟・漁撈・採集の自給自足の自然経済の段階で、生活圏はきわめて狭く、集落の移動や近隣への往来はあっても、交通という社会現象はみられないといってよい」と述べ、「弥生期」についても「生活圏は依然として狭く、一般的な交通現象はほとんどみられない」と云っている (児玉、1992, p. 3) 。

「坂本太郎」氏は、原始時代の交通について、「黒曜石」や「硬玉 (翡翠) 」の遺物の分布を調べることで、それぞれの交易圏が、半径五、六十里ほどの大規模なものだったと推測し、「石器時代の人と云えども遠近の旅をし、物資を運んだににちがいない」 (坂本、1958, p. 235) としつつも、その三十年以前に述べた次のような見解を大幅に訂正している気配はない。

交通生活の行はれた範圍を標準とすることに依て、地方交通、國内交通、世界交通の三時代があげられる。第一の時代には、部落間の爭鬪、交易、移住の爲にする交通が行はれる。その設備や、機關はまつたく幼稚の域にあり、その範圍は、原則として、近距離に止まつたと考へられる。第二の時代の交通は、國家を領域とする。國家は、中央集權の確保の爲に、交通設備に十分の注意を払ふ。いはゆる驛逓制度は、この場合において採用される。機關の方面においては、第一時代のそれの緩除なる進歩を見るに止まつて、未だ劃期的の發達にまで至らない。 (下略)
 
坂本太郎 (1928) 『上代驛制の研究』至文堂
坂本太郎 (1989) 『坂本太郎著作集 8』吉川弘文館、p. 6

「プレ古代」の交通に対する研究者間の体温の相違は、それぞれの研究者の年齢差に由来する時代背景の相違に帰することも出来るかもしれない。「プレ古代」から「古代」を巡る考古学の研究は、一九九〇年代以降、極めて多くの新成果を生み出しているからである。「武部」氏は、そのことを暗に指摘して次のように記している。

古代の道路の遺構は、一九八〇年代から一九九〇年代にかけて、大量に全国で発掘され、それまでの古代道路のイメージを一新した。平安時代には道路幅も九メートルあるいは六メートルと狭くはなるが、直線的に山野を走ったその威容は、ローマの道にも匹敵するものであった。考古学的発掘は今も続いていて、今後さらに解明が進むであろう。
 
武部健一 (2003) 『道  I 』法政大学出版局、p. 7

しかし、筆者にとっても、我が国の交通について書かれた記録で、すぐに脳裡に浮かぶのは、通称『魏志倭人伝』において「対馬」に関して記された「土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し」の文である。さらには、「末廬国」に関しても「草木茂盛し、行くに前人を見ず」と記されている。「田名網」氏は、このような記録を元に判断して、この時代の道は、「道といっても造成された道ではなく『毛もの道』 を多く出るものではなかった」と結論づけているのであり (上掲書、p. 4) 、昔の交通は何もかもお粗末だったに違いないと云う偏見に基づいて云っていたのではないと思われる。

一方、「武部」氏は、「我が國往古の道路は、僅に人馬肩輿の往來し得るに止まり、元より車輛を通じ、大兵を動かす能わざりし事は、敢て疑を入れざる所なり。」と云う「
田辺朔郎」を編纂委員長に迎えて編まれた『明治工業史・土木編』 (昭和四年、1929. p. 3) の書出しの一文に反駁するように、「古代における道路の最大の特徴は、律令国家によって七世紀後半から八世紀にかけて建設され、一〇世紀ころまで機能した古代官道――七道駅路――の存在である。 (中略) 総延長六三〇〇キロ、両側に側溝を持ち、当初の幅員は十二メートルを基本として、路面には構造的に強化された痕跡が見られる」(武部、2003, p. 5) と書いている。その後にも、「古墳時代」 (四~五世紀) の道路遺構の発掘例として、「奈良県」の「鴨神遺跡」その他を挙げ、当時の道路が路面保持のためのさまざまな複雑な工法が採られているとし、幅員も最大のもので、二・七から三・三メートル程度であったとしている。

もちろん、『魏志倭人伝』の記述には、隣国を「倭」と云う蔑称で呼んでいた当時の「中国人」側の恣意が加わっている可能性は十分にある。何しろ、近年の考古学の成果として、同じ時代の「壱岐」に、港と集落を結ぶ幅三メートルの計画的な直線道路が見つかっているからである (武部、2003, p. 4) 。しかし、『魏志倭人伝』 には、「邪馬台国」に、後の時代の「駅制」の萌芽とも云えそうな「伝送」の制度があったことも述べており、必ずしも我が国の交通事情を不当に貶めているだけとは云えそうにないのである。

筆者としては、素直にこの問題は、どこの国のどの時代でも存在し得る「都鄙」の問題だと捉えている。「壱岐」でも、外国使節を迎える「港」と「集落」の間にはきちんとした道を造成し、「邪馬台国」でも、政治的に重要な道筋は整備されていたのかもしれない。しかし、それは逆に、その他の地域では必ずしも事情が同じでなかったことを意味してはいないだろうか。中国語史料ならずとも、『日本書紀』の中にも、当時の都「河内」にあってさえ、「路狭く嶮しく人並び行くことを得ず」と記されているのである。「仁徳紀」には「大道を作りて京中に置く」と記され、「推古紀」に「難波より京に至るまで大道を置く」ともあるくらいであるから、都にさえ「大道」を敷いたのはこの時代であったと云うことであり、この時代やそれ以前に、「都」の外側遠くに「旅」と云う概念が普遍化するほどに「道」が普及していたとは思えないのである。

変な例えだが、筆者が生まれた頃の「千葉県」は、悪名高い「悪路県」で、舗装道路率は首都圏ではダントツに低かった覚えがある。既に、電話もテレビも、冷蔵庫も洗濯機も、各家庭に入っていた時代にしてこれである。幹線道路を外れて、少し脇道に入れば、いくらでも土の道などあった。どこそこの県道が全線舗装化されたなどと大人たちが話していたのを覚えているのである* 。
 

* 今では、主要道に限っては舗装率99.9%で、「香川県」などと並んで全国の都道府県第一位を誇ると云うから、それだけでも隔世の感がある。ただし、幹線を除いた全ての道路と云う点に関しては云えば、全国ランキングはぐっと下がって二十四位と云うから、市町村道の整備は、やはり今でもだいぶ遅れていると云えそうである。「香川県」が市町村道の舗装率でも一位と僅差の第二位につけ、道路密度では全国一位なのとは同列には語れない。
 
参照・総務省統計局『社会・人口統計体系』 (2008) 
国土交通省道路局 (2006) 「道路統計年報」
 
「黒曜石」や「翡翠」などが、半径二百キロ以上の交易圏を有していたことは、いまではよく知られた考古学的な事実だが、内陸で「岩塩」が採れる国や地域と異なり、「製塩」をもっぱら海水に頼らざるを得ない我が国の場合は、「塩」も、長い距離を運搬されただろうことは想像に難くない。ただ、交易圏が広かったと云うことだけで、特定の個人や集団がその全範囲を踏破するような交易の「旅」が存在したと考えるのは、やはり早計である。順繰りに物品が交換されていくこともあったであろうし、そもそも、まとまった貿易をするには、物理的な条件があまりにも満たされていなかったのである。

大体、「貨幣経済」もない中で、我々が想像するような商用の交易など可能だったのか。この後見るような艱難辛苦を乗り越えて「旅」を敢行したとして、牛も馬も、車輪すらない時代に、いったいどれだけの「黒曜石」だの「翡翠」だのを担いで人々は移動したのだろうか。仮に、大量に担げたとして、距離が長くなればなるほど野たれ死にの確率が極大化すると云うのに、誰が遠くまで交易に出掛けたと云うのだろうか。

ずっと後世の話だが、『世宗荘憲大王実録』によれば、一四二九年に来日した「李朝」の使節「朴端生」は、「貨幣経済」の発達した日本の様子を見て、通貨と云うものが、米や布に遥かに勝ることに感嘆している。復命した彼は、旅人はお金を持っているだけで、重い食料等を持たずとも、簡便に長旅も出来て、まったく便利だ、と云う内容の報告を「世宗」に奏上している。これは逆に云えば、十五世紀の「朝鮮」とは云えども、「貨幣システム」なしには、長旅は事実上不可能だったことの傍証となる。

また、『続日本紀』の天平宝字元年 (757) 十月条にある「孝謙天皇」の詔勅によって、我々は返って、「律令制下」における税の運搬の惨状を知ることが出来る。当時の庶民は、重い庸調の物納税を背に背負い、道中の食糧までが自弁と云う状況の中で、数百キロにも及ぶ移動をしなければならなかったのである。「貨幣経済」の発達していない時代のこと、「庸調」の他に往復分の食糧も担がねばならなかった。道半ばにして倒れ、餓死する者も多かったのは、当然である。
 
天平寳字元年十月 (中略) 勅曰、如聞、諸國庸調脚夫、事畢歸、路遠糧絶、又行旅病人、無親恤養。欲免飢死、餬口假生、竝辛苦途中、遂致斃。朕念乎此、深憫矜。宜仰京國官司、量給糧食醫藥、勤加檢校、令達本。若有官人怠緩不行者。科違勅罪。

訓読
天平宝字元年十月 (中略) 勅して曰く、かく聞けり、諸国庸調の脚夫、事畢りて郷に帰るに、路遠くして粮絶え、また行旅の病人、親しく恤養するもの無く、餓死を免れんことと欲し、口を餬して生を仮る、並びに途中に辛苦して遂に横斃を致す、と。朕これを念ふや、深く憫矜をす。宜しく京国の官司を仰ぎ、量りて糧食医薬を給ひ、勤めて検校を加へ、本郷に達せしむべし。若し官人の怠緩にして行なはざる者あれば、違勅の罪に科す、と。
 
「天平宝字元年 (757) 十月条」
編者多数 (797) 『続日本紀』延暦十六年

これは筆者の臆見かもしれないが、我が国が「律令時代」に早くも「貨幣鋳造」を試みたのは単に先進国「中国」を真似たからではなく、実は、ひとえに税を運搬する脚夫たちの負担を減らし、国家の税収を高めることが狙いだったのではないかとさえ思われる。「富本銭」「和同開珎」に始まり、いわゆる「皇朝十二銭」がもし普及していたならば、上記の脚夫たちの残酷な運命はいくらか軽減されたかもしれないのである。

忘れてならないのは、税を運ぶ人々は、それでも公用であるから、政府とていくらかの対策を講じたはずだと云うことである。それでなお、上に述べたような悲惨な状況だったのであるから、この時代、私用の「旅」などが可能だったかは、おのずと理解されよう。いずれにしても、食糧を携帯しての「旅」とあらば、行動出来る範囲は極めて制限され、とうてい長旅など不可能だったと考えるべきであろう。

総じて云えることは、「小野・矢彦神社」のような古社が発生した当時、庶民に「安全」を祈ったり、「守護を頼んだり」しなければならないほどの「旅」が、「旅の守護神」などと云う信仰を育んでしまうほど一般的に存在していたとは、筆者には思えないのである。しかも、「旅の安全」を祈るのは、きっと通りがかりの他所者であろうし、逆にその地の社を祀っているのは「旅」に出ない地元周辺の住民であろうから、何だか辻褄が合わないのである。それに、百歩譲って、仮に「旅」が行なわれていたとしても、それは命を賭した過酷なものであり、もしもそのような辛苦をなめている旅人に、いま神仏に祈るとしたら何を祈るかと聞けば、おそらくは綺麗な「水」とか、それ以上に何を置いても「食糧」と答えるのではないだろうか。長い間、「旅の安全=食糧」だったのだから、これは当たり前のことではないだろうか。

*

話をより「小野神社」に近づけて「古代」の「東山道」へと移そう。「古代」の「~道」と云うのは、現在の「北海道」同様、「道路」のことではなく「行政域」のことを指すと云う議論があるが、「北海道」と違うのは、政府によって造成された街道を指すこともしばしばだったと云う点であろう。例えば、『日本書紀』景行天皇五十五年二月五日条にある「彦狭嶋王をもて、東山道の十五国の都督 かみ に拝 まう けたまふ」と云うときの「東山道」は明らかに「道」ではなく「国」である。しかし、より後世の『延喜式』の中で、里程などを記されている「東山道」は「道」以外の何ものでもあるまい。

「古代」の交通の発達を、旧来の所説よりはかなり積極的に評価しようとする「武部」氏でさえ、「東山道」については、図らずも次のように述べているのである。以下は、筆者の要約である。
 
「東山道」は『延喜式』当時で、「近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽」の八箇国に属し、本路の他に「陸奥路・出羽路・飛騨路・北陸連絡路」がある「中路」であった。その際立った特徴の一つは、他の駅路の終点がそれぞれの先端の国の国府であるのに、「東山道」の場合は、その先端が「陸奥路」では「徳丹城」、「出羽路」の場合は「秋田城」と、いずれも城柵が終端になっていたことである。途中の「陸奥国」の「国府」も元は「多賀城」である。これは「東山道」の担う主要な役割が、「東北」の「蝦夷」との戦いのための前線基地に兵を送り、連絡通信をすることであったことをよく表わしている。
 
木下良/監・武部健一/著 (2004) 『古代の道畿内―東海道・東山道・北陸道―』吉川弘文館、p. 100

『延喜式』よりも時代を遡り、「応神紀」にも
橿原市大軽町付近」に比定される「厩坂道」の敷設を巡って東蝦夷悉朝貢、即役蝦夷而作厩坂道」の記述があり、往古から都の周辺にあってさえも、「征夷」と道路敷設は関連していたようなのである。

そして、筆者はむしろ、「小野神社」の信仰を考えるとき、「東征」の語の方が「旅」よりも重大なキーワードになるのではないかと考えている。このことについては、また後ほど触れることになる。

*

「縄文時代」から「弥生時代」初期にかけての交易の痕跡などはもちろんのことだが、既に本稿でも言及した「柳田國男」や「武田太郎」の見聞談や、筆者自身の聞いた話などからも、我が国土の「狩猟」に関わる人々は、ときおり、「狩猟」に関わらない人々から見たら想像を絶するような長距離の移動を行なうことがある。「狩猟」などと密接な関係にあると考えられる「林業関係者 (木地師 etc.) 」「鉱山関係者 (鉱山師) 」などの「山人」も同様な傾向にあったものと思われ、「奈良・平安期」以降は、「修験道」などの山岳修行者たちにも同様のことが云えるかもしれない。

筆者は、このような半定住漂流民たちの移動こそが、我が国の「旅」の概念に先立つ、個人あるいは一次的集団の動機による長距離移動の母体となったと考えている。しかし、この人々の移動と、後世の「旅」は、物理的な側面での類似とはおよそかけ離れて、認識論的には決定的に異なっていたのである。これはより簡単な比較を使って云えば、実は「獣道」と「道」の違いにもおおよそ相当すると云えよう。このことを「ドイツ」の哲学者「ジンメル」は、その 『橋の扉』と云う小考において的確に言い当てている。

二つの場所のあいだに道を作った人びとは、もっとも偉大な人間的事業のひとつをなしとげたことになる。無論彼らは二つの場所の間を頻繁に往復し、そうすることによって両地点は主観的に結合していたはずである。しかしやがて彼らが地面に道のかたちをくっきりと刻みつけることによって、はじめてここに両地点は客観的に結合され、結合への意志は事物の形態をとるにいたった。 (中略) 道づくりは人間固有の作業の一つである。動物もたえず、そしてしばしば驚くべきたくみさと至難のわざとをもって、距離を克服している。しかしこの距離の始点と終点とはついに結合されることがない。動物は道の奇蹟、すなわち、運動を凝結させてその開始と終結とをふたつながらに含む固定像をかたちづくる、という奇蹟を生みださない。

 
G. ジンメルら (1976) 『橋と扉』
酒田ら/訳 (1976) 『ジンメル著作集 12』白水社、pp. 36-37
Georg Simmel (1909) Brücke und Tür, K. F. Koehler Verlag 1957

「旅」と「旅以前」とは、そこに明確な人間の目的論的な意志による客観化が介在するかしないかによって、截然と峻別されるのである。それはちょうど「資本主義」と「近代工業」が「労働」の観念を根底から転換してしまったように、「移動」の観念は、「道」の制度化によって、まるで別の「旅」へと変換されてしまったのである。いったん、制度的な「道」がつくられると、我々はもはや二度とその認識的な束縛から自由になることはなくなるのである。我々は以降、必ずどこか具体的な場所へと、目的を志向して移動しなければならなくなったのであり、どこへ行き着くか分からない移動などは、原則として存在しなくなったのである。確かに、いまでもふらりと目的のない「旅」は出来る。しかし、それは明らかに「目的のある旅」を前提視した認識上の構図の中での「目的のない旅」に過ぎない。かつて、「道」以前の移動では、「地理的目的のある移動」と「地理的目的のない移動」との間に区別はなかったことを考えると、「ふらり旅」を特別視するのは、「釈迦」の掌を飛んでいた「孫悟空」に似る。
しかも、道なき道を行く移動と、「道路」や「鉄道」などの交通網が発達している中で、移動がそれらの物理的な構造物によって潜在的にではあるが自己目的化されている状況での「目的のない旅」などと、比較のしようがないのは明らかである。

「旅の安全」と云う観念は、そもそも、「道」がこのように制度化され、その上での移動が自己目的化した後、「ジンメル」の言葉を借りて云うならば、二点間の移動が「
客観的に結合され、結合への意志は事物の形態をとるにいたった」とき、初めて具体的な形をとり得るのである。かつての「狩猟民」の長距離移動は、例えば「獲物が沢山とれること」などが優先的な目的であり、身の安全は、日常のその他の全ての安全と同様に、本能的な前提としての「生命の保持」の原則と不可分な感覚に近かったと推定出来る。「旅の安全」と云う観念は、極めて抽象的な位相で合目的的なのである *。

* 水上交通の場合は、陸上交通とはやや異なった状況の議論が必要となる。航路と云うものが、道路や鉄道などの陸上交通設備と異なり、物理的な構造を前提としえないからである。しかし、だからこそ一旦、陸上での合目的的な移動に馴染んだ人類は、水上交通もそれとの類比の中で捉えるようになり、「羅針盤」の普及まで、大きくその認識的な枠組みに、自らの物理的な移動の側面を制約されることになったと考えられる。このことは、何故、今も我が国の「旅の神様」は「海の神様」の性格を強く持つものが多いかと云う議論に繋がるのだが、この件に関しては、また別の機会に譲る。ただし、本稿の中でも、「神坂神社」が海洋神である「住吉神」を祀ることには触れる。

「小野神社」が「旅の守護神」とは考えられないと云うとき、筆者は「小野神社」の信仰が、政治的な結合体による「道」の制度化より以前に発生している考えているため、その時代に「旅」の概念がない以上、「旅の守護神」の概念もなかったと推断するのである。

結局、「旅」は第一次的には軍用目的での街道整備と、それに引き続く新たに支配下に入れた地域の人々の貢納物を運ぶ財政的な希求に裏付けられた長距離間の移動として顕現したはずで、娯楽としての「旅」など論外として、個人あるいは集団単位の商用での「旅」でさえ、その芽生えはもう少し後の時代にあったのではないかと思われる。したがって、かなり古い時代に発生したと推定される信仰を対象とする場合、それに「旅人の守護神」としての性格を付与するならば、それは大きな時代的な矛盾を抱えることになるのである。このような意味で、筆者は『塩尻市史』の仮説をやや感傷的に過ぎる所説と捉えるのである。

ただし、もしも「小野・矢彦神社」の社会的な制度化と、「大和国家」の広域化とを結びつけて考えようとするのであれば、「旅人の守護神」説は、信仰の基層においてではなく、その二次的な発現を観察するのには面白い視点だとは思う。その意味では、「神坂峠」から「善知鳥峠」に至り、やがて「碓氷峠」にも至るルートに暗に言及しているのは、この「東山道」がそのまま「日本武尊」や「坂上田村麻呂」の「東征」のルートと重なるだけに、着眼点としては興味深い。その場合、「越後」の「弥彦神社」の基礎的な性格も考慮して、再度、「小野・矢彦神社」の信仰にフィードバックして考察を積み重ねるならば、何かしら共通点は見られるのではないかと疑われる。
 
*

最後に、蛇足として述べるならば、「小野神社」の発祥の時期に、「旅の神様」と云うものが仮に存在したとして、それはどこに祀られるものか、と云うことを考えてみた。先に結論から云ってしまえば、それは「旅」する人の故郷、と云うことにならないだろうか。もしも、諸姉諸兄がこれから「旅」に出るとして、どこで安全の祈願をするかを考えれば、簡単に分かることである。出立前に安全祈願をするなら、それは何も「旅の神様」でなく、自らの住む集落の「氏神」か「鎮守様」で十分である。「旅の安全」を祈るために、その前に神社参拝のための別の「旅」に出てしまっては元も子もないからである。

「安産」にしても「難病恢復」にしても、あるいは単なる「家業繁昌」や「縁結び」にしても、近くにそれ専門の神様がいなければ、普通は遠出してまでどこかの社には出掛けず、地元の霊験新たかな神社に行くのが筋だと思われる。交通機関と手段の発達した現代でも、「縁結び」のためにわざわざ「出雲」まで出掛ける人と云うのは極小の例外である。その意味では、御利益に特化した現在の寺社参拝の風習は、極めて都市的な性格を有するもので、その本格的な発生時期は、「京都」などを除けば、「近世」以降と考えても差し支えはないと思われる。もちろん、業病を治すためならば、特定の寺社を目指して「旅」に出ることもあったかもしれないが、その場合でも、やはり目指す御利益は「旅の安全」ではなかったはずである。

逆に云えば、行旅中の安全は、特定の寺社にはあまり祈願しなかったのではないかと考えられる。もちろん、「旅」の最中に、どこかの社に参拝すれば、「旅の安全」もついでに祈ったとは思われるが、そのためにその社に来たのではないことに変わりはない。

そもそも、「道の神」に対する信仰としては、国境などの「境界」で祭祀を行なうのが基本だったと思う。一つの完結した自然の領域から他の領域に移るとき、我々の体はただ単なる空間移動を遂げるのではなく、認識的には一種の侵犯行為を働いているのである。この侵犯行為は、それ自体が土地の神様を怒らせるかは別の問題としても、移動する主体である当人からすれば、それまで身を置いており、自らもその一部だった完結した世界の秩序から、別の新しい世界に移ることは、象徴的には一種の「死」と「再生」の過程を経由するのに等しく、そこには人生過程における「産」と「死」同様の、変成による凹凸が、「ハレ」と「ケ」の均衡に侵入して、「余剰」「欠落」と云う非日常的な吸引力を内包しつつ、発生させる不安定な空間を創出するのである。我々は、このような危機的な場面を無事に過ごすために、通常、社会生活のあらゆる場面で、その不安定な場を中和するための通過儀礼を身につけ、実行しているのである。例えば、家を出るときや帰ったときなどに口にする「行ってきます」「ただいま」などの言葉も、始源的には、「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」などの言葉とセットになって、一種の鎮めの呪ないになっているのである。

山国の日本では、このような「境界」は「峠」であることも多く、本来、「峠」は「手向け/たむけ」が転訛したものだと考えられている。したがって、この「峠」などの「境界」を越す瞬間こそが、旅人たちが最も敬虔な気持ちになるときであったと筆者は考えている。もっとも、「境界」と云う意味では、古い時代の我が国の人々には「道」そのものが「境界」として認識されていたと思われるので、「道」沿いには「地蔵」「道祖神」「馬頭尊」などの石仏が多く祀られたのであるが、これ自体は「近世」に勃興した流行である* 。中でも、「曲がり角」「切り通し」「崖沿い」「四辻」「峠」「岬」などは、特に日常と非日常のバランスが崩れるところだと考えられたらしく、最も多くの信仰物が祀られている。

* それだけ、「近世」に入ってから、交通が発達し、旅人が増えたと云うことの証ともとれる現象である。

したがって、「小野神社」=「旅の守護神」説を唱えるには、随分多くの障碍がある気がしてならない。時代的な齟齬もさながら、より単純には、「峠」の手前に神を祀ると云う感覚が、しかも二、三キロも手前と云うのが、どうしても筆者には腑に落ちないのである。実際、『塩尻市史』は、「峠」信仰を例として、
「小野神社」=「旅の守護神」説をとなえるのだが、それなら何故、「善知峠」そのものに社を造らなかったのだろうか。「古代・東山道」の宿駅で考えても、「小野」の地は、「深沢」と「覚志」の間である。「善知峠」の手前としては、『塩尻市史』自身が記すように、「市史」が「苅谷 (=仮宿) 」の地に比定する現在の「古町」地区の方が麓と云うに相応しい。

このことと関連して、考古学の「小野真一」氏は、次のように述べている。
 
山嶽信仰と関連するものに峠の祭祀遺跡がある。これはけわしい山を越えていく交通路に伴うものであり、山麓の集落民が祀った山麓の祭祀遺跡とは異なった存在である。古墳時代まではいまだ麓の台地や微高地で祭祀を行ない、高い山上では行なわれなかったが、山越えをする旅人は別であった。しかし、それは峠の性格上神体山を越えるものではなく、山岳地帯の主として鞍部を越えてゆくものであるから、そこから神体山を望見し得る場合、これに手向けの祭礼を行なったことが推察される。時代が歴史時代まで下ると、東海道の足柄峠などにも、その痕跡を求め得るが、古墳時代の場合は山嶽重畳たる東山道沿線に、この峠の祭祀遺跡が多い。 (下線、筆者)
 
小野真一 (1982) 『祭祀遺跡』ニュー・サイエンス社、p. 74

確かに、「小野真一」氏は、「律令制」以前の「東山道」に「峠」信仰があったことを確信しているようだが、それは明白に「古墳時代」程度にまで時代を絞っての話のようである。その上、やはり、「峠」の信仰は「峠」周辺で行なわれるものとして規定してもいる。

しかも、その上、「小野神社」の地は、「善知鳥峠」にはそっぽを向け、この峠から望見する「大芝山」ではなく、神社背後の「霧訪山」を仰ぎ見る位置にあると云う事実も、「峠」の地から神体山を仰ぎ見ることを基本と考えている「小野」氏の見解とは異なっており、「小野神社」の「峠」信仰起源説を疑わしいものにしている。「小野神社資料館」の方が、ここの神社は、元は「
霧訪山」に対する信仰として開始されたものへ、後に「小野・矢彦」の信仰が重なったのではないかと仰っていたことも気になる。

ちなみに、
「峠」信仰の例として「市史」が挙げている「神坂峠 (信濃坂) 」の場合、「神坂神社」は確かに「峠」の麓、数キロのところに鎮座している。しかし、この神社の場合、1) 海洋神の「住吉神」が祀られている (海洋信仰は目的地や通過点に神を祀る傾向が強いと筆者は見ている) 、2) 社の背面がまっすぐ「神坂峠」「神坂山」である、3) みずからも段地に鎮座している、と云う点で、「小野神社」に比べると遥かに「峠」の神として不自然でないのである。しかし、それでも『万葉集』の歌を見る限り、かつての「神坂」信仰は、確実に「峠」で執行されていたと思われる。
 
千早ぶる神の御坂に幣まつり斎ふ命は父母がため
巻二十『万葉集』4402

そもそも、「神坂峠」の「峠」祭祀は、「岐阜県中津川市」の東方一帯から始まり、点々と「長野県下伊那郡阿智村」に至るまで続くもので、「神坂神社」一つに限定されうるものでないことも挙げられる
(小野、1982, pp.74-77) しかも、「神坂峠」には、そのまさに鞍部に祭祀跡が遺されている。そして、これら遺跡の中には、「縄文時代」の住居跡も見つかっており (日本道路公団名古屋支社、1971) 、その時代の古さは驚くばかりだが、一方でそのことは、この地の祭祀が単なる「旅人」のための「峠」信仰などではなく、自らの住まう土地に根差した、より本質的な祭祀だったことを示唆している。このことは、安定的な「定住」生活を前提として始めて「旅」と云う概念が形成され得ると云う筆者の基本的な考えを裏打ちすることでもある。

以上のことから総合して、筆者は、「小野神社」の起源を「旅の守護神」と解することには疑義を呈せざるを得ない。そして、古い時代に存在した「峠」信仰に見られる祭祀は、「境界地」を越えることに対する畏怖の念に裏付けられた地元民の信仰に基づくもので、むしろ後世の「さえの神」の信仰につながるようなものだったと考えられるのである。後に、「さえの神」系統の神仏が「旅人の守護神」と転じた事実はあったとしても、それはやはり制度的な交通が成立かつ普及した時代のことであり、到底「小野神社」のような古社の起源に関わるような議論とは縁のある話ではないと考えている。


c) 「矢彦」と「洩矢神」2  附・社宝「鐸鉾」について

「矢彦神社」の社名に関して筆者が思う第二のことは、その漢字表記に関わっている。

「矢彦神社」は、古い時代には「八彦」とも表記されたようだが、「八」と「弥」は同じ語源から発する形容辞なので、「八」に特別な意味でも発見しない限り、このことはさして問題にならない。しかし、やや幼稚だと云う誹りを受けることも省みずに云わせてもらえれば、筆者は、「矢彦神社」を考えるとき、単純に「矢」つながりで、「洩矢神」を連想せずにはいられない。

「洩矢神」とは、「建御名方神」に先行する「諏訪地方」の土着神と考えられ、別名「ミシャグチ神」とも呼ばれる。『諏訪大明神絵詞』などの伝承によれば「出雲」から「建御名方神」が「諏訪」に入ろうとした当初、「洩矢神」は「鉄輪」を武具として迎え撃ち、「建御名方神」は「藤の枝」で「鉄輪」を朽ちさせて勝利したと云う。以降、「洩矢神」は「諏訪地方」の祭神の地位を「建御名方神」に明け渡し、その補佐をして、「諏訪信仰」の一翼を担うようになったと伝えられている。一般には、「蛇神」「山神」「狩猟神」などとされている。

また、地元の伝承によると、元は幾柱かの土着神だったものが、やがて「ミシャグチ神」に習合されたもので、古くは「モレヤ神」が「木石の神」、「チカト神」が「狩猟の神」、「ソソウ神」が「蛇神」だったとも云う (古部族研究会/編、1975, 1976, etc.) 。

ただ、「ミシャグチ神」を巡っては、確実に云えることはほとんどない。当然、筆者もその正体にメスを入れていく準備はない。将来的には「チカト神」について、考察を広げていきたいとは願っているが、今少し時間が必要である。「小野・矢彦神社」の「ミシャグチ神」に関しても、「小野」と云う「狩猟」と深い関係のある名前のこともあって、「諏訪信仰」の中にあっても、この「チカト神」の性格が強いのではないかと、今は漠と考えている。

だが、「ミシャグチ神」の性格についてほとんど何も云えないと云うことと、「矢彦神社」の信仰の基本的な性格が「ミシャグチ」信仰にあるのではないかと推測することは、別のことである。「神戸千之」氏の『信濃国二之宮・小野神社の研究』 (
伊藤新販社、1984) の中には、「小野・矢彦」両神社の「分割に当たり小野神社の最古の信仰の中心であった御左口神の石棒と、霊魂崇拝の若宮及び神代鉾一本を八彦神社へ譲渡した」と云う記述があり、筆者はこれを以ても十分に「矢彦の神=御左口神 (ミシャグチ) =洩矢神」と捉えることが出来るのではないかと思う。

*

申し遅れたのだが、筆者は当日いきなり「小野神社」参拝に出掛けつつも、役所で教わった氏子の方の電話番号に何度か電話を掛けて、運良く、開館日でもないのに資料館を案内して頂けることになった。この場を御借りして、氏子代表の方に、深く御礼申上げたい。この方の御蔭で、筆者はこの神社の「唐猫様」を始め、様々な「社宝」を直に拝観することが出来たのである。

さて、「小野神社」の資料館に入館すると、「参観のしおり」と云うのがもらえるのだが、その中では主立った「社宝」の解説が行なわれている (「唐猫」の解説はない!? ) 。中でも「鐸鉾 さなぎほこ 」は、珍しい神器である。以下に、しおりの解説文を引く。

鐸鉾 (神代鉾)  塩尻市文化財 (昭和四十九年八月二十八日指定)

一本の鉾に十二の鉄鐸 (一個は舌のみ) と多数の麻幣を結びつけたものである。この麻幣は、七年ごとに行なわれる御柱際にひとかけずつ結ぶ習わしである。鉄鐸はいずれも鍛鉄の粗造鉄板を巻き、大小さまざまで、厚さ・径・舌等もみな違っている。

境内南側の藤池東の玉垣内に「御鉾様」といわれる石があり、神聖な場となっている。おそらくこの石に鉾を立て、祭儀のときに神霊を招き降した重要な磐座であり、鐸鉾はこの祭儀に神の依代として使用した神器ではないかと考えられている。製作年代は室町時代前期と推定される。
 
小野神社 (1995) 「参観のしおり」小野神社社務所

「窪田蔵郎」氏によると、かつて、「諏訪大社」にも「さなぎの鐸」と呼ばれる、六個ずつ三組の鉄鐸が伝わっていたと云う。それは、「神長官」に属し、代々「守矢」姓を名乗る同職が所管していたもので、かつては神霊の依代として御神体に準じて秘蔵されていたそうである (窪田、1991, pp. 18-19) 。現在は、「茅野市」にある「神長官守矢史料館」に展示されており (複製品だと思う) 、史料館では「御宝鈴」あるいは「佐奈伎 さなぎ 鈴」と呼んでいる。

この「諏訪大社」の「鉄鐸」は、「鉾」の先には取り付けられておらず、「藤森栄一」説では、「大御立産 ママ  おおみたてまし の神事と称し、土地や水利などの争いの調停や取り決めの場所で、神の声として振られた」と云う (上掲書、pp. 19-20) 。これに付加えるならば、その「鉄鐸」は「鉾」先に吊るされるものだと云うことは云っておきたい。「諏訪大社」の方では、この形態は退化され、「鉄鐸」は、「鉾」から外され、「御頭祭」で使用する際は、
「御頭郷」から託宣で選ばれた六人の「神使」 (「おこうさま」と呼ばれる) が
首に「佐奈伎鈴」をかけ、「御杖柱」を負って、「諏訪祭政圏内」を巡幸して回る形になっているが (宮坂、1978) 、これは恐らく、「鉄鐸」と「御杖柱」が分離したものと思われる。

鐸鈴
「鉄鐸 (鐸鈴) 」 (神長官守矢史料館蔵)
博物館-よしこのワールド・トリップ「日本編」
http://www.amateras.com/trip/jp/museo/chubu/chino.htm


そこで、我々はそもそも「鐸」の字を「さなぎ (さなき) 」と訓むことの典拠となっている「斎部広成」の『古語拾遺』に目を戻す必要が出てくる。「広成」は、この書の中で、明確に「鐸」の字を「さなき」と訓じているのである。それが登場するのは、「記紀」神話でも有名な「天の岩戸」伝説の箇所である。以下、『古語拾遺』の当該箇所を概観してみよう。

「岩屋」に籠ってしまった「天照大御神」を何とか外に誘い出そうと、閉ざされた「岩屋」の前で神々が楽しそうに宴会を開いたとき、「天鈿女命」は胸乳も女陰も露出させて舞い踊ったのだが、そのときこの女神が身につけていた装束とその様子を、『古語拾遺』は、次のよう記している。

爰、思兼神、深思遠慮、議曰、 (中略) 令天目一箇神作雑刀・斧及鉄鐸古語、佐那伎。 (中略) 令天鈿女命 古語、天乃於須女。 其神強悍猛固。故以為名。今俗、強女謂於須志、此縁。真辟葛鬘、以蘿葛爲手繦蘿葛者、比可氣。竹葉・飫憩木葉手草今、多久佐。 手持鐸之矛、 而於石窟戸前覆二誓槽古語、宇氣布禰。約誓之意。庭燎、巧作俳優、相与歌舞

爰に思兼神、深く思ひ遠く慮りて、議りて曰く、 (中略) 天目一箇神をして雑 くさぐさ の刀・斧及鉄の鐸 古語に、佐那伎といふ を作らしむ。  (中略) 天鈿女命 古語に、天乃於須女といふ。 其の神、強く悍く猛く固し。故以て名と為。今の俗に、強き女を於須志と謂ふは、此の縁なり。 をして、真辟 まさき の葛を以て鬘と為、蘿葛 ひかげ を以て手繦 たすき と為 蘿葛は、比可氣なり。 竹葉 ささば ・飫憩 おけ の木の葉を以て手草 今、多久佐といふ。 と為、手に鐸着けたる矛を持ちて、 石窟の戸の前に誓槽 古語に、宇氣布禰といふ。約誓の意なり。 せ、庭燎 にはび を擧 とも して、巧に俳優 わざをき を作 し、相与 あいとも に歌ひ舞はしむ

 
齋部廣成 (807) 『古語拾遺』大同二年
西宮一民/校 (1985) 『古語拾遺』岩波文庫、pp. 19-20

要するに、「天鈿女命」は、蔓草で髪を飾って襷を掛け、手には笹や木の葉の採物をとり、さらには「鐸」をつけた矛を持って、神を招く芸を披露したのである。この場面で、「天鈿女命」が手にしているのは、『古事記』では「天香山」の「小竹葉」となっているが、これは採物のみを記したのだろう。その証拠に、逆に『日本書紀』では、「天鈿女命」が持っているのは「茅纏 ちまき の矟 ほこ 」となっている。この「茅纏の矟」とは、「茅」の茎葉を割いて「鉾」の先に「幣」のように垂れ下げたもののことであろう。

この「茅纏の矟」と云う描写が、「小野・矢彦神社」の信仰を考えるとき、いかに重要であるかは、まずこちらの神社の「鐸鉾」を一見してみれば良い。まさに、百聞よりも明白である。

鐸鉾鐸鉾02
「小野神社」の「鐸鉾」 (「参観のしおり」より)

神の降臨を祈る儀式の中心的な呪物が、この「鐸鉾」と相似したものであったと云うのは、ここの神社の信仰を考える上で極めて重大な意味を持っている。もちろん、この「鐸鉾」は、「室町期」の制作と考えられているで、この存在が即ちここの神社の古さや起源を示唆するとまでは云えない。「室町期」までに「中央」の神話の影響を受けてしまったとも考えられるからである (総合的に考えるとあまり考えられないが...) 。しかし、この祭具が何の為に、どのように使用されたのかを考えるに当たっては、「記紀」及び『古語拾遺』の神話は、ほぼ確定的なまでの示唆を与えてくれる* 。

* 「宮坂光昭」氏は、『諏訪上社の形態と発生』 (信濃毎日新聞、1978) の中で、「御頭御占神事」に触れ、「御頭祭」に奉仕する「神使」六人が「佐奈伎鈴」を首にかけ、御杖柱を負って、「諏訪祭政圏内」を巡幸して回るのだが、各地の「湛」と云う場所で「佐奈伎鈴」を鳴らして「ミシャグチ」の神降ろしをする、と述べている。
 
さらに云えば、「天岩戸」神話の場面では、「天香山」が果たす役割が大きいのも、気になる。神々が祈るときの中心的な祭具になるのも、この山から根こそぎ掘り起こした「真賢木」である。以前に、「犬供養」のことを書いた記事のときに、古い時代には生木を根こそぎ抜くか、枝葉を残して伐るかした木には特殊な呪力があると考えられたことは紹介したように思う。そして、根こじにした木も、枝葉を残した木も、しばしば逆さにして持ったのである。ここで興味深いのは、根こじにした木を逆さに持つと、その形状は、「神長官守矢史料館」の「鉄鐸」の一部が吊るされていた「贄柱」 (あるいは鹿の角) と酷似するのである。

この他、踊り狂う「天鈿女命」の手に持つ採物や身につける装身具も、すべて「天香山」由来なのである。さらには、『古事記』のみ「天の香山の眞男鹿の肩を内拔きに拔きて、天の香山の天の波波迦を取りて、占合ひ麻迦那波しめて」云々とあるが、要するに、「天香山」の鹿の肩胛骨を「朱桜」の樹皮を焼いた火に当てて「太占 ふとまに 」を行なったのである。これなども、「鹿」の贄を重視する「諏訪信仰」とのつながりを感じさせる記述である* 。

 
* 「吉野裕子」氏は、「鐸=さなぎ」の語を「小 さ + 蛇 なぎ 」と解釈している。そして、「蛇」は怒ると尾を震動させて音を出すと云う「高田栄一」の生態観察 (北隆館、1971) に基づいて、かつての「蛇巫」はこの微かな音とその変化を聞いて神意を知ったが、鉄・青銅の鋳造の進歩に伴い、金属で「蛇の尾」を造型し、これに「舌」をつけて音を出すように工夫したのが「鐸」の起源だと提唱している (吉野、1979, pp. 266-267) 。また、同氏は、「天香山」の「カグ山」も、元は「カガ山」で、「蛇」を表わすものだと述べている (吉野、1989, pp. 44-45) 。氏は、「ハハ」も「蛇」の古語としており、「天香山」の「波波迦」の木と云うも関連を疑わせる。

*

いずれにしても、「鐸鉾」は、数多くある器物の中から「明治天皇」が特に御気に入りになられたものの一つで、珍しい宝であることに間違いはないので、二百円を節約せずに、是非、「小野神社資料館」に御出掛け下さい。ただ、ここは氏子代表の方が応対して下さるので、毎月の第二・第四日曜日の他は、五月の連休や例祭日以外は開館していないので、お出かけ前に連絡を入れることをお薦めする。連絡先に関しては、「塩尻市役所」に問い合わせて下さい。


c) 「建御名方命」の「諏訪」入り前のことについて

「小野神社」の主祭神は「建御名方命」であり、この「建御名方命」が「科野」に降臨したとき、「洩矢の神」の抵抗に遭って、すぐには「諏訪」に入れず、しばらく「小野」の地に留まってから「諏訪」に移ったと云う由緒をここの神社は伝えている。

ここでは詳しく述べないが、「
建御名方命」と云えば、「国譲り」の神話で、「天孫」に「葦原中国」を明け渡すのを嫌い、力勝負に負けて「信濃」に逃げてきた神である。この神話を巡る評価はさて置き、この話は多くの神話学者、民俗学者、歴史家たちによって、古代に実際にあった政治集団間の争いを象徴していると考えられ、「建御名方命」の「信濃」入国は、仮称「諏訪族」が「出雲」方面から「信濃・諏訪」に大移動を行なった過去の歴史に対応するのではないかと推測する人も多い。

ただ、このような大移動であるにも関わらず、そのルートに関しては意見の一致を見ていないのが現状である。最も有力視されているのが「日本海」を北上して「姫川」を上り、一旦は「安曇野」に入った後に、「松本」を通って「諏訪」に進んだと云う仮説だと思うが、これにしても異論はある。「信濃川」から上ってきたと主張する一派も根強くおり、なかなか決着がつかないのである。

『先代旧事本紀』には、「建御名方命」は、「高志国」 (越の国=現・富山、新潟) の「沼河姫」の息子であると記されているのだが、この「沼河」とは「糸魚川市」を流れる「姫川」とされるため、「出雲」を逃れた「建御名方命」が「信濃」入りするならば、まずは母神の故地である「姫川」流域を足掛かりにするだろうと考えられているのである。実際、「姫川流域」は、古くから「諏訪神社」が多いことで知られ、このことも「姫川」経由説の傍証とされる。

ただ、ここにわずかな問題があり、「諏訪神社」の数の多さで云うならば、実は「信濃川」流域の「新潟県」が日本一であり、「姫川」流域の「富山県」は第五位なのである (何と、本拠地の「長野県」は第二位!! ) 。神社の数が多ければ、そちらの方が必ず起源地であるとは限らないが、有力な傍証であることは動かない。しかも、拙稿「長野県の猫神・建部神社の唐猫様」の中で「小泉小太郎」伝説を扱った箇所でも見た通り、仮定「諏訪族」が「諏訪」入りしたルートは、「信濃」及び「甲斐」の「蹴裂伝説」などを比較考量した結果、やはり「姫川」経由説の他、「信濃川」経由説、「信濃・甲斐」国境地帯の「佐久地方」経由説とが考えられたのである。しかも、「佐久地方」経由説の場合は、「信濃川」を経由する南下ルートと、「富士川」を経由する北上ルートとが考えられたのである。つまるところ、地域の開拓伝説から見ても、「信濃川」経由説は、決して軽々しく却下し得るほど脆弱な根拠に根差している訳ではないのである。

しかし、それでもこの二つの仮説は、概ね「日本海」から南行したと云う点で、「北方ルート仮説」とまとめることが出来るが、実は、「尾張」経由で、陸路、あるいは「天竜川」を経由して、南方から移動してきたと云う人々もいるのである。さらにはその中間のような、一旦、「伊那地方」深くまで南下した後、再び北上して「諏訪」の地に入ったと云う考えもある。

このような北上説の根拠は、いくつかあるのだが、中でも最も有力な証とされるが、『萬葉集註釋』巻一に載る『伊勢国風土記』逸文の記事である。以下に、必要な部分だけ抜粋した。

天日別命 *は、倭磐餘彥の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征 ちたまひし時、天皇に隨ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。天皇 (中略) 天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平 ことむ けよ」とのりたまひて、卽ち標 しるし の劒を賜ひき。天日別命、勅を奉 うけたまは りて東に入ること數百里なりき。其の邑にあり、名を伊勢津彥と曰へり。天日別命、問ひけらく、「汝の國を天孫に獻 たてまつ らむや」といへば、答へけらく、「吾、此の國を覔 ぎて居住むこと日久し。命を聞き敢へじ」とまをしき。天日別命、兵を發して其のを戮 ころ さむとしき。時に、畏み伏して啓 まを しけらく、「吾が國は悉 ことごと に天孫に獻らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。天日別命、問ひけらく、「汝の去らむ時は、何を以ちてか驗 しるし と爲さむ」といへば、啓しけらく、「吾は今夜を以ちて、八風を起して海水を吹き、波浪に乘りて東に入らむ。此は則ち吾が却 る由なり」とまをしき。天日別命、兵を整へて窺ふに、中夜 よなか に及 いた る比 ころ 、大風四もに起りて波瀾を扇擧 うちあ げ、光耀きて日 ひる の如く、陸も海も共に朗かに、遂に波に乘りて東にゆきき。 (中略) 伊勢津彥のは、近く信濃の國に住ましむ。
 
*
天日別命---「天日鷲命」とも。「伊勢神宮」神官の「渡会氏」の祖先神。 (筆者注)
 
『伊勢國風土記』逸文
秋本吉郎/校 (1958) 『風土記』日本古典文学大系 2、岩波書店、p. 433

すなわち、「伊勢」の神だった「伊勢津彦」は、「神武天皇」の命を受けた「天日別命」によって、国を譲らされるのだが、国を出て行くとき、大風を起して、波飛沫を打ち上げ、太陽のように輝いて去ったと云うのである。そして、後補ではあるが *、このくだりの注記には、この後「伊勢津彦」は「信濃」に遷ったと記されているのである。

* この部分は、『倭姫命世記』から補ったようなのだが、「日本古典文学大系」本の注では、「風土記記事とは認め難い」とある。
 
この「伊勢津彦」に関しては、応永年間 (1394-1428) に書写された『日本書紀私見聞』に載る
『伊勢国風土記』逸文にも記載がある。
 
伊勢と云ふは、伊賀の安志 あなし の社に坐す、出雲のの子、出雲建子命、又の名を伊勢彥命、又の名は櫛玉命なり。此の、昔、石もて城を造りて此に坐しき。ここに阿倍志の、來奪ひけれど、勝たずして還り却りき。因りて名と爲す。
 
『伊勢國風土記』逸文
秋本吉郎/校 (1958) 『風土記』日本古典文学大系 2、岩波書店、p. 437
 
仮に、「伊勢津彦」が「信濃」に遷ったと云う箇所を除外したとしても、上記二つの神話が、「建御名方命」の「信濃」入りの神話と酷似することは、「古典文学大系」本の校注者も認めている *。しかも、その上、『日本書紀』の持統天皇五年 (691) には、六月以来の長雨の被害を食い止めるために、七月に「広瀬・龍田」の二神に祭りをするが効果がなく、翌八月に、「使者を遣して龍田風、信濃の須波 すは 、水内等の**を祭らしむ」と云う記述が見られる。
 
* 「秋本吉郎」氏は、「建御名方命 (大国主神の子) の追放、信濃鎮座に似た伝承があり、神名も類する」と注記している (p. 437、注16) 。

** 「水内郡」と云うのは、現在の「長野市」を中心とした「長野盆地」一帯を指した「行政区分」で、かつてはこの地域の地主神として、現在「善光寺」のある土地に「健御名方富命」を祀った社があったのだが、これが「健御名方富命彦神別神社」である。「中世期」には「神仏習合」が進んだと見られ、延文二年 (1357) の『諏訪大明神画詞』には「善光寺」境内の「諏訪社」として描かれており、おそらくは「善光寺」の「地主神 (守護神) 」となったと思しい。「明治初」までは、「善光寺」北側にあって「年神宮」と呼ばれていたが、明治十二年 (1879) には、境内東の「城山」に移され、現在に至っている。右側の脇拝殿には「地主大神」と記された扁額が掲げられている。ちなみに、この神社も、「小野神社」や「葦原神社」 (後述) のように、
建御名方」が「諏訪」入りする以前に、この地にしばらく逗留したのが起源だと云う伝承がある。
 
天武天皇四年 (675) 四月十日条には、「風を龍田の立野に祠 まつ らしむ」「大忌を廣瀬の河曲に祭らしむ」とあり、以来、朝廷は孟夏四月・孟秋七月の「広瀬大忌神」と「龍田風神」の祭を恒例としていたが、持統五年は、これらの祭神だけでは長雨の害を払えなかったので、改めて「信濃」の「諏訪大社」と「健御名方富命彦神別神社」を祭っていると云う事実からも、「諏訪の神」が古くから「風神」「水神」として理解されていたことが窺え、『伊勢国風土記』逸文における「伊勢津彦」の描写が、『日本書紀』の記述とも重なるのである。

この他、「三河・遠江」を中心に分布し、恐らくは「濃尾平野」で鋳造されたものだろうと考えられている「三遠式銅鐸」が、「塩尻市・柴宮」の「大門神社」や「松本市・宮淵」の「本村二つ塚」から出土しており、「天竜川」を北上する人の流れが古くからあったことは証明されているのである (『長野県史・考古資料編』p. 865) 。また、「伊那谷」は「長野県内」の中でも「諏訪信仰」が盛んな地域で、「天竜川」水系には多くの「諏訪神社」が鎮座しているのも、「諏訪族」北上説の傍証とはなり得るのである。

古代史家「大和岩雄」氏は、「伊勢津彦」は「建御名方命」であると云う前提に立ち、旧「伊奈部村」 (元・伊那市) は、「伊勢津彦」と関係の深い「伊勢」の「猪名部氏」 (物部庶流) が「本家・物部氏」との争いを避けて「伊那」の地に開拓した土地だと考え、この神 (「諏訪族」の祖先) が、「猪名部氏」を従えて、「伊勢」から「三河」に渡った後、「豊川」を遡って、今の「佐久間ダム」辺りから「天竜川」沿いに「諏訪」入りしたのではないかと提唱している (大和、1987, 1989) 。

このように「諏訪明神」の北上説は、定説ではないが、必ずしも荒唐無稽なものとは云えず、一考の価値はあると云える。少なくとも、「諏訪族」が「諏訪」定着以前に、「伊那地方」に存在した形跡だけは、かなり明白に遺されているのである。

実際、「下伊那郡大鹿村」には、「建御名方命」がかつて「行宮」を築いたと云う伝承があり、「鹿塩温泉」などは「建御名方命」が発見したと云う言い伝えもある。「梨原」地区の「葦原神社」は、以下に見るように、自らを「諏訪神社本宮」と名乗るほどである。
 
大鹿村鹿鹽字梨原鎭座、諏方社祭は建御名方命にして、その創建遼遠に渉り詳らかならずといへども、太古大國主命の御子に二子あり、長子事代主命は天津の勅を奉ずれども、一人建御名方命は勅を奉せずして天使の二神と大に戰ひ逃れて洲國に至り、今の下伊那郡佐原に於いて和を講じ、それより命鹿鹽に入り葦原 (今転訛して梨原といふ) に行宮を建て、暫く山野に御狩をなされ、山鹽を發見して自ら捕獲せられし鹿肉の調理に用ゆ、故に地名を鹿鹽村と號す
 
しかして今諏訪に御遷居在らせられたる靈跡にして、今本殿の下に八尺四方位の塚あり、御分靈のおさまります所なりと傳ふ、後人是を尊崇し一社を創立して勸請す、これに依つて古來諏訪大社の御柱祭には、大祝にては幕を張り鹿鹽棧敷を設け特に待遇せられしをもつて、當方にては惣代をもつて饌物を供し參拜せし例なりき、古くより社前の額書に諏方本社と畫かれたり
 
「梨原家文書」
大鹿村誌編纂委員会/編  (1984) 『大鹿村誌』大鹿村誌刊行委員会

これもまた「『ハヤマ信仰』に関する一考察 5) 」で既に紹介したことだが、「松山義雄」も自著『山国の神と人』の中で、上の伝承を紹介している (松山、1961, pp. 121-122) *。この伝承は、当時の「諏訪湖」が現在の数倍大きく、その南端が「鹿塩・梨原」の辺りまで来ていたことから、「建御名方命」はこの地に仮宮を置いたが、湖水が引けて「鹿塩」が峡谷になると、本拠地を湖水の残った「諏訪」に移したと云う言い伝えを背景にしている** 。

*その他、「岩崎清美」の『伝説の下伊那』 (文星堂書店、1923)

** この伝承自体、以前に紹介した「泉小太郎」と「蹴裂伝説」とも通底する上、「建御名方命」が水に拘っていることから、この神が水神の性格を有していることも示唆している。ただし、「諏訪神」は、「風神」として最初に記録されていることから、「龍神」につながる「風雷神」ではないかと云う推測も立つ。しかも、ここでも「建御名方命」は同時に「狩猟神」の性格を見せているのである。

この伝えを無視出来ないものにしているのは、「大鹿村」が、かつて「諏訪大社」の祭礼に関して、特別な役割を担っていたと云う「鹿塩桟敷」の具体的な伝承を伴っているからである。また、「大鹿村」に残る文久四年 (1864) 「御宮再建御普請中記録帳」には、「一、今般御宮再建に付諏方大祝へ元諏方儀に御座候間、右再建の趣相届願可申候事、当春代参之者に願可申候相談に御座候」云々と云うくだりがあり、「諏訪大社」と「葦原神社」の間には、後者が前者の「元宮」であると云う見解に関して、ある一定の共通認識があったことが読み取れる。より細かく基礎資料に当りたい方は、『南信伊那史料』及び『大鹿村誌』などを参照されるとよい。

「小野神社」にも、「大鹿村」と同様の言い伝えがあることは、したがって極めて興味深い現象なのである。同じような話が離れた二つの地にあること自体、それらが後世の創作だと云う証だと捉える向きもあろうし、逆に、「大鹿村」から「諏訪」に向かうルートの間に「小野」の地があるために、返って二つの伝承は互いの信憑性を補完し合うのではないかと考える人もいるだろう。


*

いずれにせよ、「小野神社」の社伝によれば、ここの社地は、「建御名方命」が留まった旧跡で、「崇神天皇」の年代に「建御名方命」の分霊を勧請したのが始まりだと云う。以来、ここの神社は「信濃国二之宮」として、その信仰を広めたと云うのである。

隣りの「矢彦神社」にも似たような由緒が伝わっている。主祭神は、「正殿」に「大己貴命」「事代主命」、「副殿」に「建御名方命」「八坂刀賣命」を祀り、その他にも「南殿」に「天香語山命」「熟穂屋姫命」、「北殿」に「神倭磐余彦天皇」「誉田別天皇」、「明治宮」に「明治天皇」を祀っている。「神代」に、「大己貴命 (大国主命) 」がその国造りの大事業の過程で、御子である「事代主命」と「建御名方命」を従えて、この地に立ち寄ったのが始まりと伝えられている。

興味深いのは、「南殿」の「天香語山命」である。一般には、「天香山」と表記されることが多いが、この「天香山」は、山の名前であるだけでなく、上に見たように「矢彦神社」の祭神にも連なり、「越後・一之宮」の「弥彦神社」の主祭神でもある。したがって、この神は、「鐸鉾」を媒介して、「小野神社」の「諏訪信仰」と「矢彦神社」合わせての「ミシャグチ神」が、 遠く「越後」の「弥彦神社」ともつながることの証となっている。

「天香山命」は、「神武東征」にも功績のあった神で、武人からも崇敬を受け、「弥彦神社」では、後に「越後国」平定・開拓の詔を受け、「越後・野積の浜」 (現・長岡市) に上陸し、地元民に「漁撈・製塩・稲作・養蚕」などの産業を教えたと伝えられている。「天孫」の征伐を受けて「信濃」に入った点ではやや異なるが、その他の点ではそれとなく「建御名方命」の来歴とも似ているのである。
この神は、「刀剣」と関係が深く、「越後」を平定・開拓した神として知られている。


いずれにしても、「小野・矢彦神社」の信仰に踏み込んでいくと、それが元々、一枚岩のものではなく、いくつかの歴史的な層があることが見えてくるのは確かなようである。「中央」の神話では被討伐者である「建御名方命」も、「信濃」では「征服者」であるし、「矢彦神社」も、「越後・弥彦神社」とのつながりの中で、やはり「中央」による地方の平定・鎮撫と深い関係にある神を祭神として祀っていることが理解される。おそらく、「信濃国」は、この「征服/被征服」の関係が、他所の地―例えば、「越後」など―より、複雑だった所為で、後に伝わった神話や伝承が、多層的な構造を保持したまま遺されたのだろう。


d) 「小野郷」分断小史

この両神社は、創建後、それぞれに多くの由緒を伝えつつ、共に「信濃国二之宮」として地元の崇敬を集め、栄えた歴史を有している。「木曾義仲」「武田信玄・勝頼」などの参拝を受け、「近世期」には「幕藩体制」の枠組みの中で、地域の中心的な社として保護を受けると同時に、その氏子組織などの再編成が行なわれたのは、大概共通している。

ただし、「小野神社・矢彦神社」の由緒や歴史などについての詳細は、『塩尻市史』や『辰野町史』等に詳しいので、既に述べたこと以上のことは、そちらに譲ることとする。ここでは、現在の「小野」地区の特異な分断状況の歴史的な背景を軽く概観した後に、次節に移りたいと思う。

*

「戦国中期」の文安三年 (1446) 以来、「小笠原宗家」の宗主権の弱体化に伴って、「府中 (深志・松本) ・鈴岡・松尾 (共に飯田市域) 」の「小笠原」諸勢力の間で、「小野郷」付近の領有を巡る争いは顕在化していたのだが、「府中」の「小笠原長棟・長時」親子の代に、「鈴岡小笠原氏」を滅ぼし、「伊那小笠原氏」を「信濃」から駆逐することで、いったんは三勢力の再統一に成功したものの、天文十四年以降、「武田信玄」の「信濃侵攻」に悩まされ、「小県郡」の雄「村上義清」と連合して戦った天文十七年 (1548) 六月の「塩尻峠の戦い」に敗北した後は勢力を挽回することなく、同二十年までに「長時・貞慶」親子は本拠地を失って国外に亡命し、「信濃」国内から「小笠原」勢力はいなくなった。ちなみに、当初、「小笠原」親子は「村上義清」を頼ったものの、「信玄」に敗れて、「義清」もろとも「越後」の「上杉謙信」を頼ったことが、世に名高い「川中島の戦い」を引き起こすことになったのである。

天正七年 (1579) に「長棟」から家督を譲られた「貞慶」は、以降、諸家を頼って旧領回復を図り続けた。そして、「信玄」の死後の天正十年 (1582) 、「織田信長」が「徳川家康」らを先鋒に「武田攻め」を開始すると、「貞慶」ら旧「信濃」勢力の武士の多くがこの戦いに参加し、「武田氏」滅亡後、旧地に所領を得ている。「貞慶」も「筑摩郡」に所領を得たが、旧領回復にはまだ程遠い状態ではあった。

事態は、その後も急展開を見せ、同年中に「本能寺の変」が勃発、「信濃国」は再び戦乱の世を迎えた。翌年までに、この混乱を「家康」が収拾して「信濃」の再統一をなし遂げ、「甲信駿」を統合すると、それに協力した「甲信」の旧勢力は、多く本領に復帰することを許され、「家康」に従って自力で旧領を切り取った「貞慶」も、改めて「安曇・筑摩」二郡を安堵され、「松本城」に入った。

ここに、親子二代に渡る宿願を叶えた「貞慶」は、いち早く旧領での権威回復を狙い、地元の多くの寺社に安堵状を出した。中でも、「信濃国・二之宮」と謳われた「小野神社」には、天正十年七月十九日、「深志 (松本) 城」を奪回するといち早く筑摩郡南部に侵入し、「安曇郡西牧慶徳寺山屋敷」とその寺領を、「社領」として寄進して、その信仰圏における自らの政治的な優位を確保しようとした。そして、この事実が、後の「小野郷」分断の方便を胚胎させることになってしまうのである。

不運にも、「貞慶」を巡る運命は、この後も変転とする。天正十三年には、「石川数正」の出奔に巻き込まれる形で、「秀吉」の臣下に移ったかと思えば、その二年後には「秀吉」の直命で「家康」の家臣に復帰している。天正十七年には、家督を子の「秀政」に譲り、翌十八年の「小田原征伐」では「前田利家」軍の下での手柄が認められ、新たに「讃岐」半国を与えられるが、直後に、「秀吉」の勘気に触れて追放されていた「尾藤知宣」を庇護していたことが露見し、改易となる。

この時点で「貞慶」は、先祖伝来の「安曇・筑摩郡」支配を「小笠原氏」が維持する望みを「秀政」にかけていたと思われる。しかし、「小田原征伐」後、「関東」に覇を唱えた「後北条氏」を滅ぼし、「東北」の諸侯をも鎮撫したことで、「秀吉」は、「家康」の「関東移封」を敢行する。そして、「貞慶」の願った、「小笠原氏」による旧領安堵の夢は、この時点で潰えたのである。「秀政」は、当然の如く「家康」に従い、「下総国古河」二万石に封じられた。

この大きな政治変動によって、「甲信駿」地方の政治地図は、三度目の再編成を受けることとなった。結局、「家康」の移封後、「松本」を中心とした「安曇・筑摩郡」は「石川数正」に与えられ、「飯田」を中心とした「伊那郡」は「毛利秀頼」が領することとなった。しかし、早くも翌天正十九年 (1591) には、「伊那郡」の「小野郷」の帰属を巡って両者が激しく対立する事態となった。

この時の顛末について、後の寛文七年 (1667) に「松本藩」から「小野神社」に出された問合せに対して、「小野大祝部」が言上した返答書には、次のように記されている。
 
先年伊那領者毛利河内守様御持被成候時者八十年以前毛利河内守様被仰候者小野村之儀者伊那郡之内ニ而御座候と御申被成候ニ付松本領御領主石川伯耆守様之郡論ニ而三年之出入御公事ニ罷成京都江登リ御捌之上ニ而天正十九年夘ノ霜月廿三日松本領よりハ安彦源左衛門殿伴喜三良殿伴兵左衛門どの伊那領よりハ可知六左衛門どの御立会被成産神大明神田畑屋敷山川問屋荷物等ニ至迄二ツ割被成候

寛文七未年                     松本領小野村
  二月                        小野大祝部

参照・北小野地区誌編纂会/編 (1987) 『北小野地区誌』自刊、p. 247

「石川数正」は、天正十年の時点で、「小笠原貞慶」が「安曇・筑摩郡」から「小野神社」に「社領」を割いていることを根拠に、「小野郷」が「筑摩郡」内であることをし主張したものと思われる。

この争いは、最終的には「京都」の「秀吉」によって、「小野郷」を南北に分けて、北を「石川数正」領、南を「毛利秀頼」領とするよう決裁されたのであるが、この問題が解決するには天正十八年から同二十年の春まで、足掛け三年もの月日を費やしたのである。そして、この時の分断が、今日もなお、そのままこの地域の奇妙な行政区分に尾を引いているのである。

このとき、「小野村」は「南小野村」「北小野村」の二つに分割されたのだが、それに伴って神社も「小野神社」は「北小野」、「矢彦神社」は「南小野」に属することになったのである。それは上記史料で見たように「産神大明神田畑屋敷山川問屋荷物等ニ至迄二ツ割」にしたと云うほど徹底したものだった。

鳥居の立つ国道側から境内に入ると、いきなり左右に広い広場が現れ、「社務所」だの「社殿」だの、色々な建造物が建ち並ぶため、この敷地が、真ん中でまっぷたつに区切られていると云うことにはなかなか気づかない。少なくとも、筆者はそうだった。しかし、少しばかり奧に足を踏み入れて、敷地の中程をよく観察すると、実は「堀」とも呼べないほど小さな側溝の如き溝が東西に走っているのが分かる。石積みで側面を固められたその溝の底を、わずかな水流が流れているのだが、これは正式には「いち川」と云う小川らしく、両神社の境界線をなす目印となっている。本来は、これが郡境になるべきだったのかも知れないが、実際にはより南の「唐沢川」が境界として採用されたため、「矢彦神社」の境内だけが飛び地になって残ったのであろう。

この堀は、「社殿」群の後ろへと抜け、鬱蒼たる社叢林に入ると暗渠化され、樹木の間を逍遥とする小径へと変化する。この小径を辿っていくと、最後に小さな土饅頭のような場所に出るのだが、そこには石造の「社地境界標」がある。

既に述べたように、本来の「筑摩・伊那」の郡境は、「善知鳥峠」であるべきで、「小野」の地は、完全に「伊那郡」に入る訳なのだが、この天正十九年の分断が元となって、いまでは自治体の境界までもが歪なものとされ、本来「筑摩郡」の「塩尻市」が、「小野」の地まで出張ったままなのである。そのせいで「矢彦神社」の境内だけが、「辰野町・小野」と云う飛び地で、「塩尻市」の中に残る形となっていることも述べた。だが、自治体間で飛び地があると云うだけでは、そんなにも珍しいことではないじゃないか、と云う向きもあろう。いやいや、「小野」の地の分断と飛び地は、そんなどこにでもあるような代物ではないのである。

この不思議な自治体の分断で、最も奇妙な実態と云うのは、おそらく地元の小中学校の扱いであろうと思われる。過疎、とまでは云わなくとも、未成年人口の減少と云う全国的な傾向の中で、地方都市は、特に義務教育の通学圏を巡って様々な苦慮を強いられている。特に、この「小野」地域に関しては、そもそもが自然郡境が「善知鳥峠」なのに、そこを強引により南方に境界を持ってきてしまったのだから、「塩尻市・北小野」付近の児童・生徒が、仮に「塩尻市」内の別の地域に通学するとなると、子供たちは毎日二回、この難所の峠を越えなければならないことになる。これは、どう考えても、あまり現実的だとは云えない。一方、「辰野町」側の「小野」にしたところで、隣接する「辰野町」の集落とは決して近いとも云えず、元々、社会生活上、統合的な生活圏を維持していたのは「北小野」となのであるから、これまた遠く、「辰野町」の中心部まで子らを通わせると云うことになれば、無駄な労苦ばかりがかさむことになる。

そこで苦肉の策として考えられたのが、南北の「小野」地区で、「塩尻市」及び「辰野町」双方が出資して小中学校を共同運営する組合を設けて、その「組合立」として「小中学校」を設立することだったのである。結果、「両小野小学校」が「辰野町」側に、「両小野中学校」が「塩尻市」側につくられると云う、よその地域の人々からしたら実に不可思議な構図が出来上がったのである。実際、「塩尻市」の「市内小中学校の通学区」を閲覧すると、この二つの学校は、その対象が「両小野」と記載されていると云う。



4. 小休止


先日、ゴールデン・ウィークの最中に、七年に一回の「小野神社・矢彦神社」の「御柱際」が無事終了するとのニュースを見た。五月五日だったと思う。残念ながら、現地で見学することは出来なかったのだが、「人を見たけりゃ諏訪御柱、綺羅をみたけりゃ小野御柱」と謳われるきらびやかなお祭り装束の数々は、テレビの画面を通しても、晴れ渡った五月の空に映えていた。「千葉」ではとっくに散った桜がいまだ咲き残っている姿に、遠い空から「信州」の遅い春に思いを馳せたひと時だった。

筆者は、今回の記事を、「小野神社』の「御柱」が始まるまでに書き上げようと、秘かに目論んでいたのだが、お祭りが終わって一週間が経とうとしている今も、その目的を果たさないでいる。どんなに悔やんでも、こりゃとんだ後の祭りである。

とまあ、そんなことを悔やんでいるうちに、記事が予想以上に長くなってしまったので、今回は、久しぶりに分割して発表することで誤摩化すことにした。元々、計画的な中断ではないので、切れ目もいきなりぶった切った感が否めない。諸姉諸兄の御寛恕を乞う次第である。

と云う訳で、今回はここで小休止。
悪しからず御付き合い下さい。

(公開年月日は、当初の予定通り四月末日のままにしましたが、本当は五月十三日です。)



参考文献

A. 主要文献・地誌

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・信濃史料刊行会/編 (1959) 『信濃史料』第十三巻、信濃史料刊行会
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・今井野菊 (1964) 『洩矢民族千鹿頭神』中央印刷
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 柳田國男 (1998) 『柳田國男全集 11』筑摩書房
・坂本太郎 (1928) 『上代駅制の研究』至文堂
 坂本太郎 (1989) 『坂本太郎著作集 8』吉川弘文館
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・福田晃
(1976) 「『猫檀家』の伝承・伝播」
 
福田晃 (1976) 『昔話の伝播』弘文堂
 原題「昔話『猫檀家』の伝承」
 臼田甚五郎/編 (1974) 『口承文芸の綜合研究』三弥井書店
古部族研究会/編 (1976) 『日本原初考 古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』永井出版企画
古部族研究会/編 (1978) 『日本原初考 諏訪信仰の発生と展開』永井出版企画
・宮坂光昭 (1978) 『諏訪上社の形態と発生』信濃毎日新聞
・武田太郎 (1978) 『谷の思想』角川書店
小野真一 (1982) 『祭祀遺跡』ニュー・サイエンス社
・大和岩雄 (1987) 「諏訪神と古代ヤマト政権」
 谷川健一/編 (1987) 『日本の神々 9 』白水社
大和岩雄 (1989) 『神社と古代王権祭祀』白水社
・吉野裕子 (1989) 『山の神』人文書院
 再版 (2008) 『山の神』講談社学術文庫
・窪田蔵郎 (1991) 『増補改訂・鉄の民俗史』雄山閣
・松崎岩夫 (1991) 『長野県の地名その由来』信濃古代文化研究所
・宮坂光昭 (1992) 『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社
・黒坂周平 (1992) 『東山道の実証的研究』吉川弘文館
・児玉幸多/編 (1992) 『日本交通史』吉川弘文館
・武部健一 (2003) 『道  I 』法政大学出版局
・武部健一 (2004) 『古代の道畿内―東海道・東山道・北陸道―』吉川弘文館
・鈴木景二 (2004) 「立山浄土山と信濃善光寺」
 越中史壇会/編 (2004) 『富山史壇』第145号、自刊
はまみつを/編 (2006) 『信州の民話伝説集成』中信編、一草舎出版
・鈴木景二 (2004) 「立山浄土山と信濃善光寺」
 越中史壇会/編 (2004) 『富山史壇』第145号、自刊
・小林光一郎 (2008) 「踊り歌う猫の話』に歌が組み込まれた背景
 
神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」研究推進会議/編 (2008)
 『非文字資料研究の可能性 : 若手研究者研究成果論文集』自刊

E. 翻訳文献

石原道博/編 (1985) 『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波文庫
・G. ジンメルら (1976) 『橋と扉』
 
酒田ら/訳 (1976) 『ジンメル著作集 12』白水社
 Georg Simmel (1909) Brücke und Tür, K. F. Koehler Verlag, 1957

F. 参考サイト

・博物館-よしこのワールド・トリップ「日本編」
 http://www.amateras.com/trip/jp/museo/chubu/chino.htm


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2011.05.17 10:16
clubey
こんにちは。コメント有り難うございます。
相も変わらずだらだらとした駄文を読んで頂いて恐縮です。

善知鳥峠については、小野神社の記事が終ってから、「猫神」とは独立して別記事をアップしようと思っています。今回の記事の中での話は、ほんの手慣らしです。「うとう」が十五世紀くらいから後の語彙かと云うことに関しては、鋭いご指摘だとは思います。少なくともその元の形は「うつほ」だったとを仮定すると、それが転訛して「うとう」と発音されるのにかかった年月があったと思われます。さらには、転訛しただけでなく、その語源が分からなくならなければ「鵜頭」「善知鳥」などにはならないのですから。その絶妙な転位の時代に身を置いたのが、謡曲をつくった作者たちなのだろうと考えると、中世起源説は的を射ていることになります。ちなみに、諸研究の成果として、平安後期には既に「ウツオ」と発音していたことがしられているようです。『日葡辞書』にも「ウトウ」はあるようです。

ただし、心配なのは、ことが「言葉の化石」とまで云われる地名だけに、実はもっと古くからあったのではないか、と推測する人がいてもおかしくない点です。あるいは、「ウトウ」への音韻変化が、早くから東国中心に引き起こされた可能性も否定は出来ません。

もしも「ウトウ」が「うつほ」とは同根だとしても、より古い時代に中央の方言と分離したものだとすると、「ウトウ」の発音は古代まで遡る可能性は出てきます。もっとも、「ウトウ」地名が全国に散らばっていることからその可能性は小さいのではないかとも思います。ただ、各種の地名辞典が掲載する「ウトウ」地名のサンプル数が極めて少ないために、この線での調査は、各地の郷土誌関係の書籍を渉猟しないと無理だと思われ、現在の私は手が出せないでいます。

「ザビエル以前」と云うことで云えば、きちんと整理して考えている訳ではありませんが、一向宗や各種の観音信仰の流行と云うのは、カトリシズムの「終末観」や「救済観」に似ている気がしています。明治維新でキリスト教が解放されると、西本願寺の青年僧たちがキリスト教徒たちと交流を図る中で、自らの近代化をも図った形跡があります。この流れの中で『中央公論』の前身『反省雑誌』は発刊され、その中心となった人々で「龍谷大学」がつくられたように記憶しています。したがって、仏教大学の「龍谷大学」はほぼ創立当初から「キリスト教」を研究する課目があったように覚えています。読売新聞に売られてしまった現在の「中央公論社」と引き比べると、隔世の感があります。 

住吉信仰に関しては、私もまさに星の信仰だと思います。それゆえに旅の神様になりえたのだと。砂漠や海を渡る人々だからこそ、固定された「道」に対する認識的な固着化を経ることなく、古い時代にも交通を捉えることが出来たのでしょう。「軍神住吉」に関しては、もう少し勉強しなければいけないのですが、いまのところは「神武東征」説話などに絡む背景が、海洋民にあったのではないかと見ています。しかし、いつはっきりと「軍神」と云うイメージがついたのかやその過程については見当がつかないでいます。「星--->航行--->旅 (--->軍神など) 」と云った順番なのでしょうけれど。

今後とも勉強していきたいテーマばかりです。
2011.05.17 22:16

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