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岩手県の猫神・三陸町の「唐猫」と増長寺の猫

.03 2011 北海道・東北地方 comment(5) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していく
シリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。


岩手県大船渡市三陸町

 (旧・気仙郡三陸町)


臨済宗・妙心寺派
亀嶋山・増長寺

奥州市水沢区字寺小路 26
0197-25-8815
 
増長寺
「増長寺」
「龍源山・長福寺」HPより
http://www.chofukuji.or.jp/column/jiin_h17_b.htm#0024
 
1. はじめに

今回は、二つの「猫」話を紹介 しょうかい します。どちらも「岩手県」のものですが、一つは「気仙 けせん 地方」に伝わるもので、もう一つは「奥州 おうしゅう 市・水沢区」に残 のこ されたものです。
「気仙地方」のお話の「舞台 ぶたい 」はお寺なのですが、このお寺の名前や具体的 ぐたいてき な位置 いち などは分かっていません。ただ、旧「気仙郡・三陸 さんりく 町」と知られているだけです。ただ、全国的にも珍 めずら しい「唐猫 からねこ 」が登場するので、たいへんに貴重 きちょう なお話と言えます。「奥州市水沢区」のお話には、「唐猫」は登場しませんが、話が「気仙地方」のものときわめてよく似 ているので、あわせて紹介することにしました。

それでは、どうぞ。



2. 
「気仙地方」の「唐猫」


今回のお話は、二つとも短 みじか いです。まず、初めのお話です。
 
貧乏 びんぼう 寺に、「虎猫 とらねこ 」と「唐猫 からねこ 」がそれぞれ一ぴきずついた。ある時、長者 ちょうじゃ の娘 むすめ の葬式 そうしき があり、式の途中 とちゅう で棺 ひつぎ  (かんおけ) が宙 ちゅう づりになって降 りてこなくなった。貧乏寺の和尚 おしょう がお経 きょう をとなえると棺は降りてきた。この結果、檀家 だんか が増 えて寺は栄 さか えた。

そのころ、猫二ひきは和尚を殺す相談をするが、事前 じぜん にこのことを知った和尚は、二ひきの猫を追いはらい、ことなきを得 た。
 
参照・國學院大學民俗文学研究会/編 (1968) 『伝承文芸 6・岩手県南昔話集』自刊
成田守ら/編 (1985) 『日本伝説体系』第二巻・中奥羽編、みずうみ書房
 


3. 増長寺の猫

それでは、二つ目のお話です。
 
旧「水沢町」にある「増長寺」の猫は、和尚 おしょう が寝 ると必 かなら ずわらしべをくわえてきて、和尚の身長を測るような真似 まね をしたので、和尚は不思議 ふしぎ に思っていた。ある日、立町の「オカリヤ」という「御本陣 ごほんじん 」のおじいさんが、寺に碁 を打ちにきたので、和尚は、猫の怪 あや しいふるまいを物語った。それを聞いたおじいさんが、「なァに、猫だって悪い気があってするのではなく、いたずらのつもりでするのだらう、なァ玉や」と猫に声をかけると、猫は「糞 くそ くれァ」と叫 さけ んで、飛び出して、そのままついに帰ってこなかった。後に、和尚さんが寺のまわりを探 さが してみたら、後ろの薮 やぶ の中に和尚さんの身体 からだ がかくれるほどの大きな穴が掘 ってあった。たぶん、猫は、和尚さんを殺 ころ してその穴に埋 め、自分が化けて住職 (和尚のこと) になろうとしていたのだらうという噂 うわさ であった。
 
参照・森口多里 (1939) 「陸中水沢町聞書 (第四回) 」
萩原正徳/編 (1939) 『旅と伝説』十二巻・六号/百三十八号、三元社
 
 
 
4. これらの話について

a) 言葉の説明

「檀家 だんか 」とは、そのお寺に所属して、法事や葬式などを行ってもらうだけでなく、時には土地や金品を寄付 きふ して、お寺を支える家や人々のことを指します。要 よう するに、この「檀家」が多ければ多いほど、お寺は栄えるのです。

「御本陣 ごほんじん 」あるいは「本陣」というのは、殿様 とのさま などが行列で通る街道 かいどう 沿 いにある立派な家のことで、旅の途中 とちゅう 、殿様たちはふつうの宿にはとまらず、このような「本陣」にとまったのです。「本陣」をやっているような家は、たいていその地域の長者さんでした。

「碁 」は、「囲碁 いご 」とも言い、「将棋 しょうぎ 」とならんで、昔は男の人たちの間で最も人気のある遊びでした。みなさんも、この「碁」のための「碁盤 ごばん 」と「碁石 ごいし 」を使って、「五目ならべ」なんかしたことないですか? でも、最近 さいきん は、あまり見る機会 きかい はないかもしれませんね...。


b) その他のことについて


貧乏寺の「猫」が、恩返しに寺を栄えさせると云う筋の民話を「猫檀家」説話とよぶのですが、「岩手県」は、「気仙地方」だけでなく、「猫檀家」の話が極 きわ めて多い県です。有名なところだけでも、「福蔵寺」や「龍岩寺」、それに「龍昌寺」などの伝説があります。

ただ、今回紹介した「猫檀家」話は、ちょっと変わっていましたね。ふつうは、和尚さんに恩返しをしておしまいになるのですが、このお話では、後に「虎猫」と「唐猫」が相談して、和尚さんを殺そうとしています。うーん、何だかよく分かりませんねぇ...。

ただ、この地方には「増長寺」のお話のように、単に「猫」が和尚さんの墓穴を掘ろうとして、身長を測るというお話も知られていたようなので、もしかしたら、このようなお話の影響を受けてしまったのかもしれません。もちろん、このようなお話は、あまり多くはありません。全国に百以上の「猫檀家」話がある中で、和尚の体を測るというお話は、二個か三個くらいしか思いつきません。

それに、ふつうの「猫檀家」話は、圧倒的 あっとうてき に「とら猫」が多いのです。和尚さんが上げる「ナムカラタンノートラヤァヤァ」というお経 きょう のセリフをもじっているからでしょう。だから、「唐猫」も登場するというのは、たいへん珍 めずら しいのです。

さらに云えば、二ひきの猫が登場するときは、わが国の民話の世界では、ほとんどの場合、二ひきで力を合わせて、和尚さんを殺して取ってかわろうとする「大ネズミ」を退治 たいじ するパターンのお話になるのですが、この意味でも、「気仙地方の猫檀家」のお話は変わっていましたね。まるで、悪い「大ネズミ」の役割まで、猫たちが担 にな っているようです。案外、どこかで「大ネズミ退治」の話とまざってしまったのかもしれませんね。



5. むすび

前二回の記事が長かったので、今回はこれで終りとします。
次回は、「宮城県」の「唐猫」伝承を紹介します。
お楽しみに。

 
*
 
6. 追補・大人の方々へ : 「気仙地方」の「唐猫」の成立に関する仮説、など

a) プロット及び話型の不自然さ

上で紹介した「気仙地方に伝わる虎猫と唐猫の猫檀家」譚 (以下、「唐猫の猫檀家」) は、一見して分かるように、典型的な「猫檀家」譚ではまるでない。何よりも特異なのは、それが「猫」による報恩を一方で描きつつも、その一方で、「猫」たちが和尚を殺害しようとすると云う、ほぼ真逆の事象を描いている点にある。

また、上二つの伝承は、その話型からして一風変わっていることは、本編でも述べた。すなわち、寺の猫の話に、二匹以上の猫が登場する場合、それは力を合わせて、和尚の命を狙う「化け鼠」を退治すると云う設定の中であることがほとんどなであり、「猫檀家」譚としては極めて稀だと云うことである。

同様に、寺の飼い猫が、和尚の命を狙うと云う説話で云えば、代表格は「鶏報恩」として知られる話型である。「猫」が飼主に殺意を抱いていることをその家の鶏が察知して、宵鳴きして知らせようとするが、返って川に流されてしまい、それを拾った人の夢枕に現れて、ようやく飼主の危難を救う、と云うお話である。そして、この種の話では、猫は一匹で行動するのが通例である。猫が、飼主やその客人に危害を加えようとすると云う説話では、他に「猫と南瓜」として知られる話群があり、「鶏報恩」と接近する話も多く存在するのだが、こちらも猫は単独行動であるのが基本だと云える。そう云った意味で、上記の「唐猫の猫檀家」は、やはり特異な伝承なのである。

もちろん、特異な形の説話があってはいけない訳ではないのだが、「唐猫の猫檀家」の話は「猫檀家」譚の後ろに、まったく矛盾する「和尚殺害計画」が語られたり、その殺害への準備が、和尚の背丈を測ると云う「猫の怪異譚」としてはかなり寡少のモチーフを形成していることなど、三重に特異性が重なっていることを鑑みると、いくら何でもその逸脱は不自然に過ぎると云える。そこへ持ってきて、同じ「岩手県」に、ちぐはぐにくっ付けられたかに見える「猫檀家」と「和尚殺害計画」の話の、後半部分だけを伝える独立した説話が存在するとなると、どうしても、これはある時期に「気仙」の伝承から「和尚殺害」のプロット部分が欠落して伝わったと考えるよりは、元は完結した「猫檀家」譚だった「気仙地方」のお話に、ある時期、別の「和尚殺害計画」系の話が流入し、雑然と合体したと考える方が自然に思えてくるのである。問題、どうしてそんなにも不自然な接合が引き起こされてしまったのか、と云うことになる。


b) 「化け鼠退治」譚とのつながり

筆者がこのように考えるのには、別の理由もある。寺の二匹の猫が共謀して事に当たると云うモチーフは、既に述べたように、民話研究では「鼠退治」とか「猫寺」「猫塚」などと呼ばれる「化け鼠退治」譚によく見られるものである。有名なところで云うと、「御前崎の猫塚」があるが、当ブログで云えば、「千葉県の猫神」として紹介した「長禅寺の猫」の話がこれに該当する。この「化け鼠退治」譚の中の二匹の猫と鼠の三者の役まわりを、二匹の猫の中に合わせてしまうと、「猫の報恩」と「和尚殺害」の二つのモチーフがいびつに合わさったプロットが成立するのである。このため、「唐猫の猫檀家」譚における二つの系統の説話の合体様相は、この「化け鼠退治」譚の介在によって引き起こされている気が、筆者にはするのである。

何しろ、「岩手」には「正法寺の猫塚」と云う近隣に知られた「化け鼠退治」譚があるのだから、この地域の民話の伝承者たちは少なからずこの伝説には馴染んでいたものと思う。この「正法寺」と云うのは、「奥州市水沢区黒石町」にあり、旧「三陸町」のある「大船渡市」とは、「気仙郡住田町」を挟んで近接している。「正法寺」の伝説に関しては、「増長寺の猫」の説話を採録した『旅と伝説』誌の同じ連載の中で、「森口多里」氏が紹介しており、その末尾に「この忠猫譚は正法寺の伝説としてこの地方に相当広く知られている」と注意書きを付しているほどであるから、よほど近隣に聞こえた伝説だったと考えてよさそうなのである。「東京女子大学史学科民俗調査団」の調べによれば、「宮城県」の「栗原市金成普賢堂」でも「正法寺の化け鼠退治」の話は採集されているのである (東京女子大学史学科民俗調査団 、1973) 。これは現在でこそ県境を越えていることになるが、「江戸期」には「奥州市」も、「栗原市」も、共に「仙台藩」の領域に含まれていたこと、そして両者が真っすぐ「奥州道中」によって結ばれていたことなどを考えると、距離こそやや遠いが、決して不自然と云うほどの伝播ではない。そして、これは、仮に「正法寺」の伝説が旧「三陸町」に伝わっていたと仮定した場合でも同様のことが云えるのである。「気仙地方」も、「幕藩時代」は「仙台領」だったのであり、明治九年 (1886) までは「宮城県」に属していたほどである。また、内陸の「水沢 (現・奥州市) 」とは、「盛街道」および「気仙道 (浜街道) 」と云う二つの重要な交易路によって結ばれていたのである* 。
 
* 「盛街道」と云うのは、「明治」以降の呼び名で、「近世」には区間によって「気仙街道」「江刺街道」「遠野道」などと呼ばれていた。「浜街道」と云うのも近代以降の名称である。ちなみに、「欧州道中」「盛街道」「気仙道」は、それぞれおおまかに現在の国道4号線、県道397号線、県道45号線に当たる。
 
交易における物品の移動は、人の手で行なわれるものであり、人が移動すれば、何らかの形でその精神的な活動も移動することは必然である。その精神活動の移動は、もちろん双方向的なものなのだが、いかなるコミュニケーションもそうであるように、その流れには偏向性がある。この偏向性は一律的に顕現するものではないが、それぞれのコミュニケーションの文脈に沿って、政治的、経済的、あるいは文化的に権威の高い方から低い方へとより強く流れる傾向が生まれ易い。殊に、特定の場所や出来事、人物、集団などと関わりの深い「伝説」の伝播に関しては、やはり特定の移動方向が発生しやすいと思われ、寺などを巡る話は、末寺を多く持つ大寺がその流布源として影響する可能性は低くない。

「増長寺」同様に「水沢」にある「正法寺」は *、現在でも国の重要文化財に指定されている建造物を二つ有する名刹なのだが、貞和四年 (1348) の開山からわずか二年足らずで、「曹洞宗」の第一本山「永平寺」、第二本山「総持寺」に次ぐ第三本山の寺格を得たほどの寺で、当初から「東北地方」に「曹洞宗」を広める前線基地として、特に重視された寺である。最盛期には、末寺は千二百を越えたと云うから、その勢威のほどは想像してあまりがある。「正法寺」の伝説が、「水沢」を起点に、各街道を通じて周辺地域に拡散する条件は、十分過ぎるほど整っていたのである。
 
* この二つの寺院が異なる宗派に属することは承知している。ただし、「増長寺」も「臨済宗」と云う「禅宗」の寺であったことは、「東北」全体を包み込む「猫檀家」的な世界観に取り込まれ易い土台とはなったはずである。これは、この地方では「猫檀家」譚は、「禅宗」の経文と深い関係を持って広がったと云う背景があるのだが、これについては追々述べていくことになる。
 

c) 「岩手の方言」と「カラネコ」

既に見たことだが、旧「三陸町」 (現・大船渡市) は、「近世期」には、旧「仙台領」だったのだが、この地は、同様に「仙台領」として「気仙地方」を形成していた現在の「陸前高田市」「気仙郡住田町」「釜石市唐丹町」と共に、維新後も明治九年 (1876) までは「宮城県」に入れられていたと云う歴史がある。このため、言語的には、この地方の方言は、「仙台弁」の系統に入れられる独自のものとなっている。余談だが、近年、地元出身の医師「山浦玄嗣」氏が「ケセン語」を提唱していることは、メディアにも採り上げられ、ときおり話題になっているところである。

一方、現「奥州市」に属する「水沢」地区も、「水沢伊達氏 (留守氏) 」の支配をほぼ幕藩期のすべてを通して受けたため、やはり「仙台弁」に近い方言系統に属すると云う。しかし、「気仙地方」及び「奥州市」の方言は、共に隣接する「南部弁」系の「盛岡弁」との連絡を強く持った独自の「仙台」系方言を形成しているにも関わらず、一方で、「気仙地方」の方言は、「奥州市」の方言のような内陸部の「仙台弁」系列のものとは、また異なった特徴を有していると云う。

ここで興味深い事実として浮かび上がるのは、既に本編でも述べた、「岩手県」に存在する「カラネコ」と云う方言の語彙である。「カラネコ」と云う語は、「盛岡」周辺では「濃い茶トラの猫」を指し、「気仙地方」では「白黒のブチ猫」を指すと云う事実を、「東北」の「猫檀家」譚の主役は、「虎猫」が多いと云う事実と照らし合わせることで、新たな分析が可能になるのである。

「東北地方」の「猫檀家」譚の中心的な趣向に、宙吊りになった棺を、和尚が「ナムカラタンノートラヤァヤァ」と唱えて無事に降ろす、と云うのがあるのは、既に述べた。こここでの「トラヤァ」の部分は、「虎猫」を呼ぶときの「虎や」と云う呼びかけに掛けた駄洒落まがいの妙味から発していることは明らかで、したがって、この系統の「猫檀家」譚では、主役の「猫」は、常に「虎猫」でなければならないと云うことになる。「柳田國男」は、「二戸郡御返地村」の「三蔵の猫」と云う「猫檀家」譚を紹介するに当たり、「猫の名がトラだつたのでトラヤアヤアの趣向も面白いのだが、それが三藏であつては一向に話にならず、從つて用法を呑込まなかつた者の輸入らしい」と述べているのを見ても、この辺りの消息は分かる (柳田、1937) 。

また、このこととは別に、何故、「岩手県」地方では、特定の柄の猫のことを「カラネコ」と呼んだのかも考えてみる必要がある。特に「中国」伝来の猫が隣接する地方で、「濃い茶トラ」だったり、「白黒のブチ猫」だったりと、区別して輸入されたはずはないので、この方言が「外来の猫」と云う意味で使われたものでないことは分かる。一方、全国に残存するわずかな数の「唐猫」たちの性質と云うのを比較考量すると、多くが現在「唐獅子」や「狛犬」などと呼ばれるものであるか、それと関連してか何かしら霊妙な力を発揮している猫であるかのいずれかなのである。寺社の結界を守る「狛犬・唐獅子」が、霊獣として意識されるのは当然であるから、要約すれば、「カラネコ」とは何かしらの不思議な力を持つ「霊なる猫」と云う含意を持つ言葉だったと云えそうである。そして、そのような霊妙なる力を持った猫と云うのが、「盛岡」周辺では「濃い茶トラの猫」と見なされ、「気仙地方」では「白黒のブチ猫」とされたのであろう *。
 
* これはまったくの予断なのだが、「気仙地方」では霊力のある猫を「虎猫」としていなかった時点で、もしかしたらこの地域は元々「猫檀家」伝承の普及の弱い地域だったのではないかとさえ思われる。そうであるならば、これから述べるような、他の地域の伝承と「猫檀家」譚の混同は、余計に起こりやすかったのではないかと思われる。
 
このように考えると、「盛岡」から「水沢」の辺りに掛けて広がった「猫の怪異譚」は、その多くが「カラネコ」を主人公としたものであり、その説話が肯定的な「猫檀家」系であろうと、否定的な「化け猫」系であろうと、そこに登場する猫が「カラネコ」と呼ばれた時期があったのではないかと推測することが出来るのである。「方言周圏論」を引き合いに出すまでもなく、「唐猫」伝承の残存する地域は、筆者の把握している限り、ほとんどすべてが我が国の南北の端か、「中部地方」に限られ、しかも南北の端でない場合は、得てして山岳地帯や離島などの、地勢的な辺境に伝承されているのである。これは逆に云えば、ある時期、「唐猫」の語が、我が国の比較的広い範囲に渡って使用されていた可能性を示唆するのに十分な状況証拠と云える。「東北」では、それが「狛犬・唐獅子」としてよりは、「霊妙な猫」と云う含意を持つ語として残ってしまった時期を経て、最終的には局地を除いて消滅していったのではなかろうか。

このような前提に立てば、「化け鼠退治」譚と「増長寺の猫」のような「化け猫」譚が合体しやすい状況は、両説話の主人公の「猫」が、その霊的な能力の故に、当時は双方とも「カラネコ」と呼ばれていたのではないか、と云う推測によって、後押しされるものである。しかも、「正法寺」も「増長寺」も共に「水沢」の寺であり、混同が起き易い下地は十分にあった。その上、一方の寺が他方よりも遥かに知名度が高いことも、二つの伝承が一つにされてしまう傾向を促進するものと思われる。また、仮に「正法寺」の名さえ定かでない土地の人には、どちらも「水沢の方の寺」なのである。ここまでくれば、いずれ「遠くの或る寺」と云う段階を経て、これらの伝承が匿名化する蓋然性は極めて高いと云えるだろう。そして、そのような段階に至れば、匿名化された伝承が、地元の類似する「寺と猫」の伝承などと統合されたとしても、何ら不思議はなくなるのである。

このことを頭に入れて、もう一度、「気仙地方の唐猫」の話と、「増長寺の猫」の話を比較すると、一つの仮説を組み立てることが可能になる。この仮説の骨格を、順を追って箇条書きで記すと次のようになる。
 
1.旧「三陸町」に、既に「虎猫」を主人公とする「猫檀家」譚が知られている。
2.「水沢」辺りから「濃い茶トラの猫」を「カラネコ」と呼ぶ「猫檀家」系の説話が、新たに旧「三陸町」に伝播する。
3.「気仙地方」では、「白黒のブチ猫」を「カラネコ」と云うため、この新しい話では、「虎猫」の趣向が消えてしまうので、新来の「カラネコ」も、旧来の「虎猫」も共に残して、二匹の猫が活躍する「猫檀家」譚へと変容する。
4.猫が二匹になったことにより、「正法寺」系の「化け鼠退治」譚と合わさり易くなる。
5.一方、「正法寺」系の「化け猫退治」譚は、同じく「水沢」の伝説である「増長寺」の説 話と共に、街道を通って、「気仙地方」に伝えるられるが、知名度において劣る「増長寺」の名前は、「正法寺」の陰に隠れてしまいやすい状況に置かれ、やが て両者は渾然とした状況になっていく。
6.この地域では、「霊妙なる力を持つ猫」を「カラネコ」と云っていたため、古くは「正法 寺」と「増長寺」の伝説にあっても、猫は「カラネコ」と呼ばれていたものと思われる。そして、両者の伝えが渾然とした状況下で、「カラネコ」つながりで、 既に猫が二匹に増えていた「気仙地方」の伝承に、崩れた「化け鼠退治」譚の影響もあって、「増長寺」伝説の「和尚殺害」のモチーフが加えられた。
 
この仮説の前半部 (1~4) は、伝説の主人公たる猫が、いかにして二匹に増えたかを論証するい過程なのだが、ここの論理的展開は、無理なく、完結していると思う。一方、後半の「和尚殺害」モチーフの混入に関しては、必ずしも論がすっきりしていないことは、筆者も自覚している。ただし、「カラネコ」の方言の差異によって、「岩手」内陸部から海岸部の「気仙地方」に説話が伝わるときに、話の原型を崩しかねないほどの変形が引き起こされたのではないか、と云う見解には、それなりに自信がある。後半部の論展開の完成度を高めることが、筆者に与えられた今後の課題となろう。


d) また別の解釈 : 「合理化」解釈の可能性

もちろん、「唐猫の猫檀家」における、互いに背反するモチーフに関して、上記のような解釈を採らず、より「合理化」するような解釈を行なうことは出来る。例えば、「御前崎の猫塚」に見られるような、「化け鼠」が和尚を殺して、それに取って替わろうとする設定を、そのまま「猫」に当てはめれば、「報恩」の話も、自分たちが乗っ取る寺をあらかじめ栄えさせておいたのだ、とも云える。しかも、このような解釈に有利な材料が、同じ「岩手県内」に存在するのは、既に見た。「増長寺の猫」の話である。

この、猫の相矛盾する二つの行為は、また、この説話が現在伝わるような形で成立したと思われる「近世」の人々にとっては、意外にも矛盾していなかったのかも知れない。我々がいま駆使する合目的的な思考とは別の次元で、「近世」の人々は、棺を宙吊りにして寺を栄えさせるようなペテンを働く「猫」ならば、忘恩不忠もまた敢えて避けはしないだろう、くらいに理屈づけていた可能性はある。

ただ、当然ながら、このような「合理化」解釈には、それが「近代的」なものであれ、「近世的」なものであれ、とうてい不満を禁じ得ない。理論的なことは抜きにしても、合理化するのであるならば、その自らの合理的な認識の中で、理屈が完結していないのは片手落ちと云わざるを得ないからである。「近代的」な合理性に基づいた場合、何故、可愛がられている飼い猫が和尚を殺してまで寺を乗っ取らねばならないのか、と云う付随する疑問に答えられず、あるいは「近世的」な解釈に則っても、「悪事を働くものがやることはすべて悪事」式の理解をするならば、何故その悪の具現者たる「猫」たちが、前半で「報恩」と云う善事を為しているのかの説明がつかなくなる。これらの問いに対する合理的な説明は、おそらく誰にも提示出来ないだろう。仮に、何とか無理なこじつけを考えついたとして、それは表面的には筋の通った説明になったとしても、民俗的な意味で「猫」の持つ二面性の理解へとは、少しも我々を近づけてはくれないはずである。

そもそも、猫が葬列の棺桶を宙吊りにしたり、人間の背丈を測って墓穴を掘ったり、などと云う話の内容自体が、現代の合理的精神から見れば荒唐無稽なもので、およそ説明的な合理性とは程遠いのだから、その行為の主体的な解釈のみを合理的に処理したからと云って、得るものは何もないのが当然である。我々が分析のメスを入れるとするならば、そのような猫の非合理的な性質そのものに対してであるべきなのである。言い換えれば、「猫」が、その本質において非合理であるなら、その非合理とは一体、どのような点においてそうなのか、と云うことが問題になるはずである。この問題を追究した先に、「猫」の本質的な二面性に対する理解の可能性が開けるのである。

したがって、a) ~ c) までに力説した筆者自身の「伝播変容」仮説も、この本質を見落とすならば、ただの理屈のこねくり回しに過ぎなくなってしまうのである。これは、筆者自身、強く自戒するところである。

今後は、この点について述べていく機会を見つけていこうと思っている。


参考文献

・柳田國男 (1937) 「八戸地方の昔話」
 民間傳承の會/編 (1937) 『昔話研究』第二卷・第八號
・鹿児島県立大島高等学校郷土研究部/編 (1963) 『奄美民俗』通巻四号、自刊
・國學院大學民俗文学研究会/編 (1968) 『伝承文芸 6・岩手県南昔話集』自刊
・東京女子大学史学科民俗調査団 (1976) 『普賢堂の民俗』通巻十六号、自刊
・稲田浩二ら/編 (1977) 『日本昔話事典』弘文堂
・成田守ら/編 (1985) 『日本伝説体系』第二巻・中奥羽編、みずうみ書房
・森嘉兵衛/監 (1990) 『日本歴史地名大系 3・岩手県の地名』平凡社
・竹内理三ら/編 (1991) 『角川日本地名大辞典 3・岩手県』角川書店


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このコメントは管理者の承認待ちです
2012.02.18 08:09
鬼喜来のさっと
岩手県気仙地方にのこる猫伝説を研究しているので、以前から、こちらの記事を大変興味深く拝見させてもらってます。
以前私のプログ「日々是不思議也」の、大船渡市末崎町の猫神碑に関する記事でコメントいただきましたね。お久しぶりです。
上記の「猫檀家」形式の「気仙地方の唐猫」の話は、『三陸町史/民俗一般編』に「猫檀家」というタイトルで少し長めに載っていますが、何処の寺の話なのか、解らないのが残念なところです。
気仙地方で猫檀家の話が伝わるのは、かつて陸前高田市矢作町にあったという、宮城県気仙沼市の宝鏡寺で、猫の絵馬が数多く奉納されていることで知られる矢作町梅木の猫淵神社は、伝説に出てくる「虎猫」を祀ったものとされています。
残念ながら、気仙地方における他の猫檀家の話はまだ見つけていないのですが、関連すると思われるのが三陸町越喜来に伝わった、「化け物にさらわれた仏様」という火車の話で、猫こそ出てこないものの伝説の成立に、気仙沼の宝鏡寺が深くかかわっているのではないかとにらんでます。この伝説に関しては私のプログに掲載しておりますので、参考まで。
2012.03.20 15:54
clubey
いつぞやは、大変お世話になりました。
二つの猫淵さまは、私にとっても、最も興味を抱いている「猫神」の一つ、いや最も精力を傾けている「猫神」樣でして、私の猫神探訪そのものが、猫淵様を少しでも理解がしたいがために始められたようなものなのです。それなのに、調べれば調べるほど、分からないことばかりが増え、なかなか思うようには行きません。ただ、総合的な調査を繰り返す中で、「猫神=養蚕の神様」と云う図式は決して間違ってはいないものの、それは「猫神」の最期を告げる最終流行期の様態であって、その淵源は遥かに深いものだと云うことだけは分かってきました。「猫神」は「養蚕の神様」になることで、自らの来歴中、明治から昭和前期に掛けて最も栄えることになると同時に、国家的な「養蚕ブーム」の衰退と運命を共にしてしまったと云うのが、実情のようです。

「猫檀家」譚は、「養蚕神」よりはやや古い層に属すると思うのですが、これも近世より前には辿れないようです。東北地方の仏教史は、実に闇に覆われた部分が多く、はっきりと分かることはほとんどないのですが、中世末から近世期にかけて曹洞宗が純然たる禅学から脱して祈祷的な宗門として自らを確立すると共に、東北地方に一大教線を張ったことは間違いないでしょう。「猫檀家」譚は、少なくとも東日本では、この曹洞宗の展開と深い相関関係があると云えると思います。これは、地域によっては「十王信仰」「秋葉信仰」とセットになっていたり、「十王信仰」を介してか「庚申信仰」とも結びついていたりするので厄介です。曹洞宗の拡散は、南朝勢力及び霊山の没落とは、前後をなす関係にありそうです。

問題なのは、昭和に入った「養蚕神」最盛期にあってさえも、東北では「猫神」を御霊神のような存在として語っていた古老がいたと云う事実である。西日本での唯一に近い「猫神」残存圏は、中国地方中央部から東部にかけての地域なのですが、この地域には西日本型の「猫檀家」譚の他、「御霊神」としての「猫神」が江戸期に記録され、現在も御霊神社が遺されていると云う特徴があります。中国地方での「猫神」信仰は、大きな官道に沿った東西方向ではなく、中国山地を越えた南北方向に伝播した気配が強いのも、興味深い特徴です。「猫檀家」譚に限って見ると、どうやら「島根県」がこの地方の伝播源になっていると云うことと、この流れの伝えが、瀬戸内を越えて四国地方にも散在しているようだと云うことが云えそうです。

もし、御霊神的な特徴が、「猫檀家」よりも古層の「猫神」の特徴だとすると、「御霊神」と云うのが、一般的に歴史的な敗残者に多く関連づけられることから、何故、「猫神」は政治的/地理的な辺縁部に多く遺されているのかと云うことの間接的な説明にもなります。東北地方は、かつて現在よりも遥かに色濃く「御霊」的な信仰が分布していたと思われるのですが、ラクスマン以降の欧米人の来航や、江戸期に勃興した尊王攘夷のイデオロギーと関連して、北方防備の下敷きとなるナショナリズム運動が東北諸藩で勃興したため、多くの地元の神々が、中央の神道的な祭神へと替えられ、各地の伝説も中央色の強いものへと変換された歴史を持っています。東北各地に見られる坂上田村麻呂の伝説や小野小町伝説、宮城県南部の白鳥伝説 (日本武尊や用明天皇) などの多くは、近年の研究で、みな近世の中期以降の創作であることがほぼ決定的だとされています。私自身も、いくつかの地域で実地の調査 (と云うほどのものではないですが...) を行いまして、やはり同様の結論に達しております。

要するに、東北地域で細々と生き延びていた「猫神」樣の正体に迫るための貴重な精神的な基盤文化の多くの相が、ここ二三百年の間に根本的に破壊、変革されてしまっているために、現在、これを逆に辿るのが極めて難しい状況になっており、その作業を少しでも有効に行おうとするならば、社会民俗全般に広く拡散してしまった「猫神」と関わる痕跡を、どんなに関係なさそうなものであったとしても拾い上げて、その裾野からリンクし続けようとしなければならないと云うことなのです。

話しが長くなりました。
さて、猫淵様に関することなのですが、『岩手民間信仰事典』や、森口多里『民俗の四季』などには、「横田の不動尊 (宮城県本吉郡) のお使い猫」と云う表現が見られ、おそらくこれを参照してだと思うのですが、ネットでも数ヶ所「横田不動尊のお使い猫」と云う表現が見られますが、これがどうにも確認がとれないのです。不動尊にも直接掛け合ってみたのですが、応対して下さった方は何も分からないと云うことでした。『陸前高田市史』にある猫淵様の調査をされた陸前高田市立博物館の前々館長の方も、この件に関しては分からないとのことでした。

ちょうど自分の中間的な結論としては、この「横田不動尊」と云うのは、「横山不動尊」の間違いではないか、と考えていたところ、久しぶりにネット検索をしていましたら、昨年の「不思議空間『遠野』」のブログのコメントに、「鬼喜来のさっと」樣の「恐らくかつて本吉郡に属していた、宮城県登米市津山町にある大徳寺の横山不動尊の誤伝」と云う書き込みを発見して、心強く思っていたところです。ただ、旧「横田町」地域の「瀬織津姫」を祀る神社は、大抵、その本地仏を「不動明王」としているようで、滝の信仰と云う意味では、猫淵様と共通点を多く有しているようです。

いまのところ、この件に関しては、本吉町の岩倉神社と横山不動尊とのつながりについて追跡しているのですが、如何せん地元にいない不利は覆い隠せず、なかなか調査に着手出来ないでいます。いまのところ直接、横山不動尊と猫を結びつける物証は見つからないのですが、かなり有力な手掛かりとして、陸前高田市の山中にある二基の石碑があります。一つは、猫像を線刻し、隣りの石碑は横山不動尊を祀るもなのです。別々の場所にあったものを集めて遷座したものではなさそうなので、これは二つの石碑が元から何かしらの関連を持っていたのではないかと疑っています。

実は、去年の三月、何とか旅行費用を貯めて、岩手方面に調査に行こうとしていた矢先に震災が訪れてしまい、調査もそのままになっておりました。頼りにしていた市立博物館の館長さんも津波に流されてしまい、何だか調査どころではなくなっていました。「鬼喜来のさっと」樣に教えて頂いた猫碑の安否も気になっていたのですが、何だか怖くてご連絡差上げられずにいました。ブログの方は再開されてらっしゃるのに気づきましたので、ほっとはしていたのですが...。

「猫淵神社考 1-3」は、隅から隅まで拝見し、かつ参考にさせて頂きました!! 第四回も、物凄く楽しみにしています!! 私の方のブログは、記事は沢山書き貯めてあるのですが、細かい調べ物や考察がどうしても仕上がらなくて、発表は遅れてしまっています。いま書いている記事も、膨大な文量になってしまったので、現在ほとんどすべての調べ物をカットして、筋が通るように再編集している最中です。次回からは、しばらく伝説とその故地を紹介するだけの記事にもどそうかなあ、などと思っています。

コメントでこんなに長くなってスイマセン。よろしかったら、メールアドレスを交換しませんか? 「猫の神様を求めて」ブログのメールフォームを通じて御連絡下されば、内容はブログに表示されません。
2012.03.22 19:17
鬼喜来のさっと
ありがとうございます。お返事いただき嬉しく思います。
猫を調べるにあたって一昨年ほど前から、このプログの存在を知っていましたが、コメントできずにおりました。以前、大船渡碁石海岸の猫神像の場所を聞かれた方と、同じ方と知ったのはごく最近なんですよ(苦笑)。
件の「猫の石仏」のあった古碑群の付近は海が近かったこともあり、津波の直撃を受けたらしく、海岸部の人家の大半が流失損壊と燦々たる状況で、昨年六月に近くに行く用事があったので、立ち寄った際は、固定が甘かった故か、この猫神のみが台座から離れて行方不明になっており、かなりショックを受けたのですが、今年に入って再訪した際に、泥まみれで茶トラになりながらも、再び同じ場所ですやすやと寝ている石の猫を見つけて安心してきたところです。
陸前高田の方では多くの石塔が津波で流失、或は瓦礫と一緒に処分され行方不明になっていると聞きますから、この猫神様に関してはほんとに奇跡ですね。泥まみれになったおかけで、猫の姿が遠目からも判別しやすくなったのはご愛嬌ですが(笑)
さて、矢作猫淵神社に祀られる「横田不動尊のお使い猫」に関しては
、ご指摘の通りに、陸前高田市矢作町字的場の生出川上流の山入場に祀られた、「明治三十五年三月廿八日」に「佐藤?(センか・異体字)助」という人物によって建立された、側面に「横山不動尊」と刻まれた「種字不動」の石仏が、唯一の猫淵神社を繋ぐ手がかりなのですが、そもそもこの横山不動尊を祀る登米市の大徳寺の不動堂建築も、昭和三年に気仙大工の名匠として知られる大船渡市綾里出身の花輪喜久蔵の手になるもので、気仙地方と所縁が深いところでもあるようです。
そして、大徳寺も、元々の天台宗から曹洞宗に代わってあることが、猫檀家伝説との関わりを補強すると考えていますが、仮説の域を完全に出ていないというのが正直なところです。
ですが、この謎を読み解くもう一つの糸口があるというのが、猫淵神社や東北の猫信仰を読み解いてきて達した、私なりの猫淵神社に対する結論です。
私もまだうまくまとめきれずに、更新が滞っているのですが、おそらく猫淵様の正体は鍛冶神(金屋子神)です。気仙地方や本吉地方は天平以来、奥州藤原氏や仙台伊達藩の黄金文化を支えてきた産金地帯として知られてきましたが、釜石鉱山の例にもあるように産鉄や精錬も盛んで、特に陸前高田市矢作町の生出地区は、鉱山師のほかに一関方面から算出した砂鉄を運んで製錬する、烔屋(どうや)と呼ばれる蹈鞴製鉄や鋳物師を生業をする人々が多くいた土地であったようです。
ほかにも、二か所の猫淵神社と気仙沼市の宝鏡寺、岩倉神社などを直接結び付ける、興味深い事実が色々あるのですが、長くなりますのでいづれの機会にしたいと思います。
面白い事に、この陸前高田市矢作町生出地区には、猫淵伝説とは異なる山猫の伝説が、私が知る限りでは今のところ二話、もしかしたらもう一話残されており、関連が注目されます。ちなみに大船渡市立根町と陸前高田市広田町、同小友町に一話づつ化猫譚があるので、興味ありましたらお教えしますね。
2012.03.22 23:20
clubey
重ねての御返事有り難うございます。
猫淵様が、鍛冶屋神ではないか、と云う御指摘には、私も思い当たる節が多々あります。そも各地の「猫神」を探っていくと、大抵、何かしら「鍛冶」と関係した事実にぶつかるようなのです。特に、東北地方の場合、この傾向は濃厚なようですね。曹洞宗と加持祈祷のつながりと云うのも、秋葉信仰を通じての修験道から入ったものが中心ですから、当然、そこにも製鉄の匂いは致します。

このことに関しては、以前から頭を悩ましていることがありまして、第一は、鍛冶屋伝承と御霊神との関係でして、「権五郎景政」伝説のような明らかに鍛冶屋伝承と云えそうなものが、どのようにして御霊神として機能するに至ったのかのメカニズムが解明出来ないでいるのです。第二は、「猫神」を追究していくと、鍛冶屋神だけでなく、風水神との接点にも多く出くわすと云うことです。と云うよりも、鍛冶屋神と風水神がそもそも極めて近しい民俗的距離にあったのではないかと思わされるのです。まあ、刑事裁判に例えれば、そう思う根拠と云うのは、どれも状況証拠の域を出る物ではないのですが、これだけ数が集まると、偶然だと考える方が不自然だとも云える気がしてきます。

この点に関して、特に強く私の関心を引くのは「弥三郎の婆」伝承です。これは「鍛冶屋の婆」型と云われるほど強く「鍛冶屋」との関係を持っていますが、一方で「猫」との関係が深いことも知られています。また、一方では産神としての性質も指摘されており、これは姥神信仰にも明らかにつながるものです。でも、こんなこと云っていると、何から考えたらいいのかすら分からなくなってきてしまいます。

第三の点は、第二点同様、鍛冶屋神を追いかけているとしばしば一般に「マタギ」などと総称される山間狩猟民の伝承に行き着くことがあると云うことです。要するに「山の神」の関連です。こちらなどは、また、諏訪信仰の古層ともつながりを見せており、より古くは「海士」などとも連絡していた気配が、西日本に多く感じられます。その他にも、色々とあるのですが、どの一つの分野をとっても一生分の勉強をしても足りないほどの対象ですから、困ってしまいます。

これらの要素から総合的に判断すると、また二つの大きな悩みが生じます。それは、鍛冶屋信仰を探ると、複数の関連する信仰の複合に辿り着くと云う事実は、そのまま、現在の我々が観察しうる民俗的な鍛冶屋信仰と云うものが、1. 複数の基層の流入する形で成立した文化複合である、2. より古層の信仰文化から複数に枝分かれして発達した文化複合の残存した一つである、と云う二つの考え方のいずれがより適当か、と云う問題です。もちろん、何時の時代も、色々な文化を背負った集団が相互作用を繰り返してゴチャマゼにはなっていたのでしょうけれど、その理念型とも云えるのはどちらかなのかと云うことです。現在、我々が辿り着ける鍛冶屋や製鉄と関わる民俗と云うのは、しばしば宣伝されるような「古代製鉄」ではなくて、やはり「中世製鉄」の痕跡がほとんどなのではないかと思われることから、1. の方が可能性の高いシナリオであるとは思っているのですが、自信は持てません。

話しがつい長くなってしまいました。

「ほかにも、二か所の猫淵神社と気仙沼市の宝鏡寺、岩倉神社などを直接結び付ける、興味深い事実が色々あるのですが、長くなりますのでいづれの機会にしたいと思います」とのことですが、ものすごく楽しみにしています。でも、焦らず、じっくりとお時間をとって下さいませ。私も、ブログに発表するのは、書いたものの十分の一位なものです。出し惜しみではなくて、下調べの方が遥かに多いのと、結局まとまり切らない部分が沢山あるのとでやむを得ないのです。たまに無理して、多めに発表すると、後で後悔するような拙速な記事になっていることばかりです。あっ、もちろん、書くことがほとんど見つからない回もあります。

「面白い事に、この陸前高田市矢作町生出地区には、猫淵伝説とは異なる山猫の伝説が、私が知る限りでは今のところ二話、もしかしたらもう一話残されており、関連が注目されます」とも書かれていますが、こればかりは早く記事で紹介して頂けると嬉しいです。何だか早く知りたくてうずうずしますね。

また、「ちなみに大船渡市立根町と陸前高田市広田町、同小友町に一話づつ化猫譚があるので、興味ありましたらお教えしますね。」とありましたが、めちゃくちゃ興味あります!! お言葉に甘えてよいのでしたら、是非、お耳こぼし下さい!!
2012.03.23 05:17

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