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宮城県の猫神・田束山の「カラ猫」

.05 2011 北海道・東北地方 comment(1) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していくシリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。

田束山の「カラ猫」

宮城県本吉郡南三陸町
 
計仙麻大嶋神社
「田束山」山頂の「計仙麻大嶋神社」「羽黒山・清水寺」の跡地とされる。
「陸奥総社宮」HPより
http://mutsusousya.web.fc2.com/tazukanesan/tazukanesan.html#tazukane
 
1. はじめに

このお話は、インターネット上の「伝承之蔵」というサイトを全面的に参照いたしました (お話の元の題名 だいめい は「義理猫情」でした) 。こちらのサイトは、単に民話を紹介 しょうかい するサイトとして優 すぐ れているだけでなく、その設立 せつりつ の方針 ほうしん や運営 うんえい の仕方が素晴 すば らしいサイトです。「百貨店 ひゃっかてん 」のページなど、ところどころ「おふざけ」があるのも面白 おもしろ いです。特に子供むけというわけではありませんが、機会 きかい があったら訪 たず ねて見て下さい。
 
勝手にリンク・「伝承之蔵


2. 田束山の「カラ猫」

それでは、お話に入ります。
 
昔、「歌津 うたつ 」の「 田束山 たづかねやま 」には「カラ猫」が、「貞任山 さだりやま 」には「トラ猫」が、「鳥ヶ森 ちょうがもり? 」には「三毛猫」が、それぞれ住んでいました。

ある日、猫たちは、長者の美 うつく しい一人娘 むすめ が、悪代官 あくだいかん に無理矢理 むりやり 、花嫁 はなよめ にさせられそうになっているという話を聞きました。三つの山の猫たちは怒 いか り、何とかしようと話合いを持ちました。

ところが、ちょうどその時、いちばん力のある「貞任山」の親猫が、全国の猫たちが集まる「京 きょう の都 みやこ 」での寄合 よりあい に出るため、留守にしていましたので、「カラ猫」と「三毛猫」だけの話合いでは、なかなか意見がまとまりませんでした。

困り果てた二ひきの猫は、「田束山」にある「清水寺 せいすいじ 」の「薬師如来 やくしにょらい 」に、「貞任山」の親猫をもどして下さい、とお願いしました。すると不思議なことに、たちどころに「貞任山」の親猫がもどってきました。夢に「薬師如来」が現われて、事件のことを知らせてくれたのだと、親猫は言いました。

その後、「貞任山」の親猫を中心にまとまった三びきの猫たちは、悪代官をこらしめ、長者の娘を助けました。長者は、たいへん喜 よろこ び、「いつもは、犬猫などとバカにされているが、この義理人情 ぎりにんじょう の厚 あつ さは、人間でも及 およば ばない」と言って、たいそう感謝したということです。
 


3. この話について

何だかわたしが題名 だいめい に選 えら んだ「田束山 たづかねやま のカラ猫」よりも、「貞任山 さだりやま のトラ猫」の方が主人公のような話ですが、「田束山」の「薬師様」の力にすがったのですから、そこに住む「カラ猫」も重視 じゅうし されるということでお許 ゆる し下さい。

しかし、このお話では、仏さまを敬 うやま う猫たちの信心 しんじん も立派 りっぱ なのですが、やはり、猫たちが力を合わせて、自分たちとは関係のない、むしろふだんは自分たちのことをバカにしている人間のために悪者と戦うという心意気 こころいき に胸 むね を打たれますよね。わたしたちは、いざという時、この猫たちの半分ほども勇気のある行動がとれるでしょうか? もちろん、猫たちだって、信頼 しんらい できる仲間がいたからこそ、勇気もわき起こったのでしょう。

このお話を語りついできた「歌津」の人々は、近所の猫が庭でトイレや砂浴びをしたり、あるいは単に昼寝 ひるね をしたくらいで、その猫たちを追いはらったり、殺すべきだと言ったりしている現代人のことをどのように思うでしょうか? ときおり考えてしまいます。

人間から見れば、本当は大変 たいへん に弱い立場 たちば の猫たちが、その強い人間を助けるために、さらにもっと強い人間に戦いをいどむ今回のお話には、色々 いろいろ なことを考えさせられます。人間も、自分たちとは立場がちがったり、あるいは自分よりも弱い人間や生き物に対して、「負け組」などと言って馬鹿にしたり、「関係ない」と言って目をそむけたりしないようになれば、ずいぶんと生きよい社会になるのではないかとわたしは思うのですが、みなさんはどのように考えますか?

このお話が伝わる「歌津」は、いまは「南三陸町」にふくまれるのですが、みなさんもニュースで見たり聞いたりしたように、この町は三月に起きた「東日本大震災」で壊滅的 かいめつてき な被害 ひがい を受けたところです。人間社会をおそったこの大きな危機 きき に、「 田束山 たづかねやま 」「貞任山 さだりやま 」「鳥ヶ森の猫たちは、きっとすでに立ち上がっていることでしょう。はたして、おなじ人間であるわたしたちは、仲間の人間に対して、どのような心意気を見せることができるのでしょうか?

わたしは、いま、自分が三びきの猫たちや、「田束山」の「薬師様」に、みずからの心意気を試されているような気がしてなりません。



4. むすび

今回のお話は、猫が人を助けるという明るい内容でしたが、このお話を伝える「南三陸町歌津」が、いま、大震災の被害に苦しんでいることを記したことで、少し重い記事にはなってしまいました。しかし、子供だからといって、社会の重苦しい現実からただ目をそむけて、ひたすら楽しいことばかり考えていては、健全 けんぜん な心は育ちません。

考えるべきは、もちろん、地震 じしん のことだけではありません。「弱い者」と「強い者」、「都会」と「田舎 いなか 」、「お金のある人」と「お金のない人」、「人間」と「動物」などなど、さまざまなものの関係が問題 もんだい なのです。

子供が社会に向 けて、直接 ちょくせつ できることはあまりありません。大人だって、一人一人はほとんど無力 むりょく です。そこで、みなさんは無理 むり なことを考えず、身近 みぢか で自分のできることを中心に、あれこれと考え、行動にうつしていくようにすれば、それでいいのだと思います。とりあえず、自分よりも弱い存在 そんざい 、自分ができることができない人々などに目を向けてみるのは、よい出発点 しゅっぱつてん になるかしれませんね。

子供時代にしかない、明るく前向きな気持ちで、考えてみて下さい。

次回は、同じ「宮城県」でも、ずっと南の方、「福島県」との県境の土地である「伊具郡 いぐぐん 丸森町 まるもりまち 」の「唐猫 からねこ 」を紹介します。
お楽しみに。


この伝説に登場する土地の地図に関しては、以下のページを参照して下さい。
「伝承之蔵」さんのページです。

http://legend.main.jp/50-minamisanriku-003-girineko-02-map.htm



*

5. 追補・大人の方々へ


a) 「田束山」などについて

旧「歌津町」と旧「本吉町」の境に立つ「田束山 (幌羽山) 」 (512m) は、山の形が龍の伏す姿に似ていることから名がついたとされ、「歌津村」の『安永風土記』には「龍峯山」とも記されており、「りゅうほうざん」と主に訓まれたようなのだが、「たつがみね」とも訓めることから、これが訛って「たづかね」になったと云う説もある。

「峯・峰・嶺」などと表記して「みね」と訓む語は、本来、神聖さを表わす接頭語の「み (御) 」が「山」を表わす語根の「ね」について成立したものなので、「ね」と訓むこともあるのは人名などでも明らかである。したがって、「龍峯山」と書いて「たつがね」と訓んだのではないか、と云うのが筆者の見解である。実際、『平泉雑記』 (1773) には、「辰金トモ書ス」と記されており、この辺りが往古、金の産出地であったことを併せ考えると、こちらの説も捨て難い。

ただし、いずれの場合であったとしても、この山が「龍神」信仰と関係があった可能性は高い。そもそも、『本吉郡誌』によれば、「歌津」と云う集落名の由来自体が、霊山とされた「田束山」の卯辰の方角 (東南東) にあったからだとされ、何かと「たつ」とは関係の深い土地柄なのである。ちなみに、「馬籠村」の
『安永風土記』には「田束山」とあり、『奥羽観蹟聞老志』には「田束嶺」とある。

その霊山としての「田束山」の開山は、「仁明天皇」の承和年間 (834-848) と伝えられ、当初は「天台宗」の一山だったと云われている。
「坂上田村麻呂」や「源頼義・義家」父子が、その東征のおりに、この地で祈願したとも云うが、定かではない。「高倉天皇」の安元年間 (1175-1177) に「平泉」の「藤原秀衡」が再興、「清水寺・寂光寺・金峰寺」などの七堂伽藍の寺院を築き、新たに七十余坊も設けたと伝えられる。このとき、山中には大小の寺院が四十八、坊は旧来のものも併せて百を越えたとされる。

「鎌倉初」の「平泉」の滅亡後、「田束山」は一時、荒廃したが、後に「葛西氏」が新たに四十余坊を造営して再興し、一族の「千葉刑部」に祭祀を司らせたと『奥羽観蹟聞老志』巻之九 (1719) に記されている。この「千葉氏」とは、「館崎」にある「歌津館跡」に関して、『安永風土記』に館主「千葉刑部」と記され、「古城書立之覚」に「馬籠四郎兵衛」とされていることからも、「馬籠千葉氏 (後、馬籠氏) 」のことだとされている。伝・延元元年 (1336) の「馬籠合戦」に敗れて「馬籠氏」は「歌津」に移ったのだが、「戦国期」に入って「館浜」に「臥牛ヶ館 (歌津館) 」が築かれるまでの「馬籠氏」の居住地は、はっきりしていない。「馬籠氏」の菩提寺である「津龍院」が「田束山麓」の「樋の口」から移転してきたと伝えられることから考えて、「馬籠氏」も当初は「樋の口」周辺に居住したものと思われ、おそらく移封後も変わらずに「田束山」の祭祀を担っていたと推測されている。ただし、「葛西氏」が「小田原」に参陣せず、「豊臣秀吉」の「奥州仕置」にて滅亡すると、「田束山」の「三峯職」と呼ばれ、七堂伽藍を備える由緒ある寺院として栄えた「清水寺・寂光寺・金峰寺」の三寺も衰微することとなり、「近世」初頭には荒廃を極めたと記録されている。

しかし、貞享二年 (1685) に「清水浜・肝入」であった「与右エ門」の三男「一明院長衛」と云う修験者が、「本吉郡」中の肝入連署の下に「田束山」再興を願い出ると、元禄十年 (1697) には「寂光寺」が早くも再建された。その後、「小泉村・妙心院」が「幌羽山」に「阿弥陀堂」を建立して「金峰寺」と称し、「歌津村・明学院」が「寂光寺」東側に「大黒堂」 (後に「薬師堂」) を建立して「清水寺」としたことで、かつての「三峯職」は曲がりなりに復活したのである。ただし、明和年間 (1764-1772) の記録では「三寺遺跡小堂を存す」とあり、かつてのように七堂伽藍の繁栄ではなかったことが伝わっている。また、「相原友直」による安永二年 (1773) の『平泉雑記』巻之一には、「田束権現」と記され、「今寺塔僧坊悉ク発シテ社ノミアリ」とあり、『南部叢書』脱漏には「本山流山伏妙学院司ル所」ともあるので、再興されたとは云えども、やはり神仏混淆の進んだ修験道の影響下にあり、かつての一山寺院の体はなしていなかったことが看て取れる。

「江戸期」に書かれた『安永風土記』には、「田束山寂光寺・観音堂」「羽黒山清水寺・薬師堂」「母衣羽 ほろは 山金峯寺・阿弥陀堂」の三寺院は、「歌津村」の神社の部に記載されており、神仏混淆が極めて進んだ状態にあったことを窺わせる。同書によれば、「細浦」の「法明院」、「伊里前」の「明学院」、「小泉 (本吉町) 」の「妙心院」がそれぞれが山上にある「観音堂・薬師堂・阿弥陀堂」の別当として活動していたと云うが、これはおそらく「東北」に多く見られた「里修験」だったろうと思われる。

しかし、「明治」以降、「神仏分離」が新政府によって精力的に推し進められた結果、「近世」までの「修験道」勢力は徹底的に排除されることになり、それまで「本吉郡」の「鎮守」とされていた「田束三峯職」の権威も棄却され、「本尊」はそれぞれ「細浦・伊里前・小泉」の別当宅に降ろされるることとなった。明治六年 (1873) には、新たな「国家神道」に基づく「計仙麻大嶋神社」が「郷社」に列せられ、明治十八年 (1885) には四間四方の「柾屋根葺」の「社殿」が「清水寺・寂光寺」跡に完成した。この「社殿」は明治四十三年 (1910) の山火事で焼失し、神社はしばらく石宮となっていたが、昭和三十四年に現在のコンクリート造の「社殿」が再建されている。再建当時まだ車道はなく、建築資材はすべて「樋の口・御坂」から人力で背負い上げたと云うから頭が下がる。

「計仙麻大嶋神社」は『延喜式』
の「神名帳」に見える古社で、「牡鹿郡計仙麻神社」あるいは「桃生郡計仙麻大嶋神社」の論社であるとの説があるが、特に「計仙麻大嶋神社」の論社としては「気仙沼大島」の「大島神社」が古くから擬せられてきただけに、何故、「明治期」に突然「田束山」に祀られることになったのか、その経緯はよく分かっていない。「古老の伝えによれば社格決定時の事務的行き違いによるもの」と『歌津町史』に記されているほどである。『明治神社志料』によれば、「計仙麻神社」は、「羽黒山清水寺・田束山寂光寺・幌羽山金峰寺」を合祀したものと云う。

山頂には、「平安期」のものと目される「経塚」群 (十一基) が残され、
古文書に「清水寺」は「山上」に位置すると記されていたことから、従来はこの地が「清水寺」の跡地で、現「計仙麻大島神社」境内が「寂光寺」跡だと考えられてきたのだが、旧「歌津町」による近年の発掘調査の結果などから、山頂部に寺院が立地したとは考えにくく、少なくとも「江戸後期」には、神社境内に「清水寺」はあり、「寂光寺」は「井戸の杉」から下の「平場」のどこかに立地したものと、現在は推測されている。なお、「江戸期」には両寺とも、それぞれ「薬師堂」「観音堂」として現在の「計仙麻大島神社」境内にあったようである。


b) その他のことについて
 
貞任山
「貞任山」
「南三陸町 VIRTUAL MUSEUM 」HPより
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/museum/index.php?content_id=145


一方、伝説の中では親猫のいた「貞任山」 (360.3m) と云うのは、旧「歌津町」と旧「志津川町」の境に立ち、「伊里前川」の流れる「払川」の谷を挟んで、「田束山」の西南にある高く、険しい山である。「前九年の役」で敗れた「安倍貞任」が隠れ住んだと伝えられ、「貞任の隠れ穴」や「貞任屋敷」と云う場所などもあり、南麓の「米広・大上坊」の集落では、かつて全戸が「阿部」姓を名乗っていたと云う。一応、「南三陸町」では、この山名を正式には「さだとうやま」と訓んでいるそうなのだが、麓の集落などでは「さだりやま」と呼んでおり、「田束山頂」を「龍の頭」、「尾崎」を「龍の尾」と見立てた場合、「貞任山」が左足に当たるのでこう呼ぶのだとの説もあると云う。寛保元年 (1741) に成った『封内名蹟志』には、「高遊嶺」の名の下で記され、「往昔、貞任、妓を携え来りて此の山に遊び、遠望を称せしという。後人、貞任高遊嶺と称し、左足 さたり 山長川森という。何によって名とするや詳らかならず」とある。このことから、少なくとも十八世紀半ば頃には既に「さたり」の呼び名があったことが窺い知れる。
 
貞任岩
「貞任岩」
「南三陸町 VIRTUAL MUSEUM 」HPより
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/museum/index.php?content_id=150

 
しかし、「歌津地区・払川」から「伊里前川」を下った「まあと」付近の川中には、「貞任岩」と云う大岩もあり、この地には「安倍貞任」に関わる伝説が多いことは間違いない。
「貞任岩」と云うのは、「安倍貞任の手投げ石」とも呼ばれ、「安倍貞任」が「貞任山」の頂上から投げ落としたものと伝えられている。「まあと」と云う地名も、「貞任」が「貞任山」の山頂から放った矢の的があったことからつけられたと云われている。いずれにしても、地元の人は、「安倍貞任」贔屓の人が多い。

そんな「貞任」贔屓の気質は、今回紹介した伝説にも見て取れる。既に見たように、「歌津」の人々にとって「田束山」は古来、霊山として崇められ続けてきたにも関わらず、そして、伝説の中で猫たちが願をかけた神仏が「田束山」の「薬師様」だったにも関わらず、伝説で中心的な役割を果たすのは「貞任山」の「トラ猫」であって、われらが「カラ猫」ではないのである。もっとも、これも前回稿で述べた、「気仙地方」と近接地域で、「カラネコ」が指し示す猫の種類が違うことから起きた重複的な混同と関係があるのかも知れないが、もちろん、これは今のところ証明する手立ては何もない。

この件に関して云うならば、三匹の猫たちの出が、それぞれ
「田束山・三峯職」の別当に当たる「細浦・法明院」「伊里前・明学院」「小泉・妙心院」に対応していたならば、「里修験」のことも絡んで、色々な意味で面白かったのだろうけれど、そうでない以上、「田束山のカラ猫」は伝説中の「薬師様」と対応するので措くとして、他の二匹の棲む「貞任山」「鳥ヶ森」には、何か特別な意味や伝承がその背景にあったものなのか、気になるところである。これは、何故「田束山」の「カラ猫」だけが実際の信仰的な背景を有しているのかと云う疑問や、逆に、そうであるにも関わらず何故「貞任山」の「トラ猫」が三匹の元締めのように語られているのかと云った疑問にも関わってくることである。しかし、残念ながら、このような疑問に対しても、筆者は今のところ、推測をすらまともにする準備がない。

ところで、筆者は上の伝説の中で、もう一点興味深いと思っていることがある。それは、この伝説の時代性のことである。この伝説がいつ頃から語り伝えられているのかと云うことに関しては、明確な解答はついに出せないが、しかし、いくらか見当がつけられそうな材料もある。その材料とは、「田束山」の「薬師如来」である。

「田束山」の「清水寺」の信仰の歴史に関しては、多くの盛衰が繰り返された結果、詳しいことはほとんど伝わっていない。したがって、「平安・鎌倉・室町」と通して、「薬師如来」がその本尊として奉ぜられていたかは不明なのである。「貞任山」の「トラ猫」が登場する伝説とあっては、その山名だけからでも、筆者は「平安」の香りを嗅いでしまうのだが、この伝えがさまでに古い可能性は、もちろんほとんどない。

一方、各種資料から、「江戸初」には荒廃していた「田束山」が再興されるのは、元禄十年 (1697) 以降であり、初めに再建されたのが「寂光寺・観音堂」だと知ることが出来るのは、既に見た通りである。「清水寺・薬師堂」がいつ再建されたのかは、寡聞にして知らないのだが、
享保四年 (1719) に「佐久間洞巌」の手によって成った『奥羽観蹟聞老志』 からは、当初は「太子」「大黒宇賀神」を奉祭した「大黒堂」であったことが分かり、しかも「薬師堂」には一切触れていないので、当該書の成立時点ではいまだ「薬師堂」へと信仰が推移していないことが分かるのである。だが、『安永風土記』 には、既に「伊里前の明学院」が「田束山上」の「薬師堂」の別当であると記されているので、この半世紀余の間に、「田束山」の「薬師」信仰は成立したものと思われる。したがって、その「薬師」信仰を広める効験譚ともとれる「田束山のカラ猫」伝説が成立したのも、「薬師堂」成立よりは後、すなわちどんなに遡っても、十八世紀半ば以降であることはほぼ間違いないのである。

筆者が、上記の伝説に関連して考えていることは、現時点では大体、この程度のことである。


c) 筆者のつぶやき

今回のシリーズを書いていていつも思うことなのだが、子供向けにものを書くのは極めて難しいと云うことである。普段、自分が使っている言葉が自由に使えない、などと云った用字・用語上の難易度の問題だけではなく、本来なら決して述べないような陳腐なことを、どこまで述べる必要があるか、と云う選択にしばしば迫られると云うことの方が、なお厳しいのである。

陳腐なことを述べる、と云うことには、単に幼稚で「くさい」ことを云ったしまうというだけではなく、実は、その裏で議論したい多くのややこしい理屈を省略すると云うことでもあり、しかもそのようにすると、どうしても結論だけが突出してしまい、それが善意ある内容だったりすると、余計に「くさい」内容と受け取られかねないことを云ってしまうことでもある。それだからこそ、より一層、上で述べた選択は難しく体感されるのである。

子供をやたらと子供扱いすることに対しては、日頃から反対の立場をとっているのだが、かと云って、すべての話題に大人と同じレベルで語ればよいと云うものでもないのは明らかである。簡単に出来る内容は簡単にすればよいが、世の中には簡単に出来ない複雑なことも多いのだから、簡易化と云う手段だけでは事が足りない。通常、このブログで述べているやや理論的な話は、このシリーズでは便宜上、ほぼ省略しているのだが、今回のように、東日本大震災のような、子供だからと云ってただ目を背けていればよいと云う訳ではない話題に当たって、どのように対処すればよいのかは悩むところである。また、子供が読める文の長さにもおのずと限界があろうから (平均的な意味で...) 、その点も留意しながら書かねばならない。

もちろん、初等教育の専門家に云わせれば、このシリーズとて、難しすぎるし、長過ぎる、と云うことにはなろう。しかし、これはもうやむを得ない。簡単にすればいい訳ではないことも、簡単にならないことがあることも既に述べた通りなのだから、文の長短に関しても、短ければよい訳でもあるまい (普段の筆者のブログ記事は長過ぎると反省しています...) 。要するに、筆者としては「子供向け」の文は書きたいが、「子供だまし」の文を書くことなどまっぴら御免なのである。

このようなジレンマに近い作業を行なうに当たって、結局、云いたいことをなるべくストレートに云う、と云う方針が、いま筆者の中で固まりつつある。ただ、これをやるとどうしてもあれこれと留保条件を付けたり、様々なありうべき論理的な可能性を探究したりすることは出来なくなり、悪く云ってしまえば、「くさい」「陳腐な」話になりかねないのである。

今回は、こう云った筆者の苦悩を告白すると共に、それをそのまま言い訳に使っちゃおうと云う、小ずるい算段を最後に申し述べて終りとしたい。




参考文献・サイト
 

・佐藤信要・高橋以敬/編 (1741) 『封内名蹟志』寛保元年
 鈴木省三/編 (1925) 『仙臺叢書』第八卷、仙臺叢書刊行會
・佐久間洞巌 (1719) 『奧觀蹟聞老志』卷之九、享保四年
 鈴木省三/編 (1928) 『仙台叢書』第十五巻、仙台叢書刊行会
・相原友直 (1773) 『平泉雜記』卷之一、安永二年
 南部叢書刊行会 /編 (1928) 『南部叢書』第三巻、自刊
・明治神社誌料編纂所/編 (1912) 『明治神社志料』自刊
・本吉郡町村長会/編 (1949) 『本吉郡誌』自刊
・歌津町史編纂委員会/編 (1986) 『歌津町史』歌津町

・大塚徳郎ら/編 (1990) 『日本歴史地名大系 4・宮城県の地名』平凡社
・竹内理三ら/編 (1991) 『角川日本地名大辞典 4・宮城県』角川書店
・政岡伸洋等/監 (2008) 『波伝谷の民俗』東北歴史博物館


  (『安永風土記』の内容は、諸書からの孫引きである。)

「伝承之蔵」HP
  http://legend.main.jp/50-minamisanriku-003-girineko-00-a.htm

・「陸奥総社宮」HP
  http://mutsusousya.web.fc2.com/tazukanesan/tazukanesan.html#tazukane
・「南三陸町 VIRTUAL MUSEUM」HP
  http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/museum/index.php?content_id=145
  http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/museum/index.php?content_id=150



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