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愛知県の猫神・法住寺の「唐猫」

.29 2012 中部地方 comment(0) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していくシリーズがつづきます。
このシリーズの間は、子供むけの文体・内容を保つことになります。

曹洞宗
呑海山・法住寺

愛知県豊川市御津町赤根百々 61
0533-75-3543
 
法住寺・正面
「呑海山・法住寺」
 
1. はじめに

今回紹介する「唐猫」は、「愛知県豊川市」の旧「宝飯郡 ほいぐん ・御津町 みとちょう 」の地域 ちいき にある「法住寺」というお寺の「観音堂」に納められています。この「観音堂」は、新しい建物のようでしたが、屋根の瓦 かわら が左右にぴんと張った下に、全体が真っ白に見える姿 すがた は、優雅 ゆうが であると同時に、いい知れぬ風格も漂 ただよ わせていました。

このお寺のある「御津」というのも、読むのがむずかしい地名ですが、これで「みと」とよむのだそうです。「みつ」じゃないんですねぇ...。ちなみに、「兵庫県たつの市」にも「御津町」という地名がありますが、こちらは「みつちょう」とよむのが正しいそうです。

ここのお寺は、地元の人々に愛される、たいへん美しいお寺です。表通りからは見えないため、初めて行くとなかなか見つけるのがむずかしいのですが、参道も建物も、お庭も、すべての手入れが行き届いていて、何とも気持ちのよいところです。特に、トイレが汚 きたな くないというのは、お寺としてはかなり珍 めずら しいのではないでしょうか。

ところで、ここのお寺は、わたしにとっては何と言っても「唐猫様」のお寺ということになりますが、多くの人には、国の「重要文化財 (旧・国宝) 」にも指定されている「千手観音菩薩像」が有名な寺として知られています。実際、国道23号からの道沿いに立つ案内板も、大きく「千手観音」と書かれています。この「唐猫」シリーズの記事では、「唐猫」以外の話はしないつもりだったのですが、この「千手観音様」には、不思議な物語が伝えられているので、今回は特別に紹介することとします。
 
法住寺・千手観音
「法住寺・千手観音菩薩像」
 
ここの「観音菩薩像 かんのんぼさつぞう 」は、「藤原時代末 ふじわらじだいすえ 」の作品と見られる、非常 ひじょう に貴重 きちょう な仏像 ぶつぞう なのですが、元からこの寺にあったものではないのです。「明治」の初め、「廃仏毀釈 はいぶきしゃく 」の嵐 あらし の吹きすさぶ中、「三重県・宇治山田 うじやまだ 」の「上善寺 じょうぜんじ 」にあったこの仏像は、地元の人々によって海の中へと投げ捨てられそうになったのですが、それを「御津 みつ 」の信心深い船乗 りであった「今泉 いまいずみ 唐左衛門 とうざえもん 」がゆずり受けて、「法住寺」に寄進 きしん したものだと云うことです。一説では、海に捨てられたものが、寺の近くの海に打ち上がったものだとも伝えられます。

「廃仏毀釈  」というのは、「明治時代」のはじめ、「天皇」や「神社」を大切にするあまり、各地でお寺や仏像が取り壊 こわ されてしまった動きのことを指します。「三重県」は、昔は「伊勢 いせ の国」とよばれ、「天皇」の先祖とされる「天照大神 あまてらすおおみかみ 」という女神様を祭る「伊勢神宮 いせじんぐう 」の足元ということもあって、わが国の中でも最もはげしく「廃仏毀釈」の嵐 あらし が巻き起こった地域だったのです。「御津町」の面する「三河湾 みかわわん 」は、ちょうどその「伊勢」の反対側の海岸に当たるので、「法住寺」の「観音様」の他にも、似 たような伝来 でんらい の歴史 れきし を持つ仏像が、湾岸 わんがん に多く残 のこ されているとも聞きます。

それにしても、「縁 えん 」というのは、不思議 ふしぎ なものですね。



2. 法住持の「唐猫」
 
法住寺・観音堂
「法住寺・観音堂」

今日は、「法住寺」の「唐猫」の横に立ててある札 ふだ の説明文をそのまま載 せることとします。ふりがなだけは、つけ足しておきます。むずかしい言葉に関しては、「3. この話について」で説明します。

法住寺・唐猫05
旧「山門」の「蛙股」と「唐猫」
反射 はんしゃ が強くてきれいには撮影
さつえい できなかった...。

 
法住寺の猫
 
当山 とうざん はもと神場山 かんばさん にあつたが慶長九年 (1604) 頃 ころ 今のところに移転した。当山の山門 さんもん は神場山より移 うつ されたもので山門に飾 かざ られた蛙股 かえるまた にこの猫が彫刻 ちょうこく してあった。 (後 のち 伊勢湾 いせわん 台風にて山門取りこわす)
この猫は左甚五郎 ひだりじんごろう の作である。昔 むかし 夜になると山門よりぬけだして庫裡 くり に入り食物をあさつたりしたので困 こま つて時の住職 じゅうしょく が、この猫の足を切り落としたらおとなしくなったという
 
宝飯郡御津町赤根
呑海山 法住寺蔵

現地説明札より


法住寺・唐猫02
法住寺の「唐猫」

しかし、この説話には、寺の説明札とは少しだけ内容の異 こと なる別の話も伝わっています。とても短い内容なのですが、次のようなものです。
 
「法住寺」の、「左甚五郎」の彫刻の「虎猫」が家畜や田畑を荒らしたので、足を切った。
 
参照・福田祥男 (1975) 『増補・愛知県伝説集』泰文堂、p. 256
 
ごらんの通り、こちらのお話では「唐猫」は登場せず、単に「虎猫 とらねこ 」とされています。そして、この「虎猫」のするいたずらというのも、庫裡 くり の食べ物を食い散らすのではなく、周囲の家畜 かちく や田畑を荒らすことになっています。しかし、それ以外の点では、話の筋 すじ をふくめて、お寺の説明札とほぼ同じ内容だといえるでしょう。



3. この話について

1) 言葉の説明


今回は、お寺にある説明をそのまま載せたので、少し分かりにくい言葉もあったことでしょう。以下、むずかしいと思われる言葉を説明します。
 
法住寺・山門
「法住寺」の現在の「山門」
 
a) 「山門」

「山門 さんもん 」というのは、要 よう するに「お寺の正門」のことです。お寺は元々、山の上に建てられることが多かったため、「~寺」という寺名の前に、「~山」という「山号 さんごう 」をもっているものが多いのです。だから、「山門」というと「寺の門」という意味になるのです。上の伝承 
でんしょう の説明文の中で「当山 とうざん 」といっているのも、「この寺」という意味です。
 
蛙股01
蛙股02  
色々な「蛙股」
鶉功 (1993) 『図解・社寺建築・各部構造編』理工学社より

b) 「蛙股 (蟇股) かえるまた


「蛙股」は「かえるまた」とよみ、「蟇股」とも書きますが、これはお寺や神社の「梁 はり  (柱と柱の間を結ぶ横木) 」などの上に置かれる山の形をした木材部分のことです。もとは柱を補 おぎな う役割 やくわり を果 たしていたのですが、いまは完全 かんぜん な飾 かざ りとなっています。ちなみに漢字は、「蟇股」が正しいという人もいます。

c) 「庫裡 くり

お寺用語の説明をしているついでに、「庫裡 くり 」の説明もしてしまいましょう。「庫裡」というのは、元々はお寺の建物のうち、食事をつくる建物のことでした。後には、和尚 おしょう さんやその家族が住む建物のことを指すようになりましたが、上の説明文だけではどちらだか分かりませんね。

d) 「伊勢湾 いせわん 台風」

「伊勢湾台風」というのは、昭和三十四年 (1959) 九月二十六日に、「紀伊 きい 半島」から「東海地方」を中心に、全国で死者・行方不明者5,098人を出すなど、大きな被害 ひがい をもたらした台風です。台風による被害としては、これがいまだに戦後最大のものとなっています。

e) 「左甚五郎 ひだりじんごろう

最後に、「左甚五郎」の説明です。この人物は、「江戸時代初期」に活躍 かつやく したとされる伝説的な名大工・彫刻 ちょうこく 職人 しょくにん です。本当にいたかどうかは、はっきりしないのですが、「日光東照宮 とうしょうぐう 」の「眠り猫」などを彫 った人物とされています。
 
眠り猫
「日光東照宮・蛙股」の「眠り猫」
 
「甚五郎」は、多くの伝説を残 のこ していますが、どれも大変おもしろいものばかりなので、ぜひ図書館に行って調べてみて下さい。インターネットでも、調べられることはたくさんあると思います。子供のころ、わたしは、「カツオブシ」で「ネズミ」を彫 る話が一番好きでした。大人になってからは、落語「ねずみ」の下らない「オチ」が気に入ってます。


2) 「浮かれ動物」説話について

「法住寺の唐猫」伝説は、私にとって特別に思い入れの深い説話なのですが、それはこの説話が「長野県塩尻市」の「小野神社」に伝わる「唐猫」伝説と非常によく似 ているからなのです。「唐猫」という言葉は、いまや「生きた化石」のように珍 めずら しいものになってしまい、全国の方々に見られるものの、その数はほんのわずかで、地元の人々にさえ忘 わす れ去られた存在となっているものがほとんどなのです。そんな中で、「南九州」の「熊本」から「鹿児島」にかけての地域 ちいき 、「北東北」の「宮城・岩手・青森」など、そして「佐渡島」に少しばかり伝わっている他は、「愛知・静岡・長野」地域に圧倒的 あっとうてき に多く残 のこ されているのです。

ただ、この地域に多く残されているといっても、それらの伝えのほとんどは、内容も違 ちが えば、「唐猫」が指しているものも一致 いっち しなかったりで、どうもまとまりに欠 ける感じがするのです。全体としては、神社などに見られる「狛犬 こまいぬ 」や「唐獅子 からじし 」のようなものを「唐猫」といった可能性が強いのですが、それもはっきりとはいえません。ましてや、それらの伝説や説話に登場する「唐猫」がとんな性格を持った霊獣 れいじゅう  (霊力 れいりょく のある動物) なのかということになると、それがまったく見当もつかなかったのです。「法住寺の唐猫」は、「小野神社の唐猫」の伝説とあわせたときに、少なくとも「中部圏 けん 」での「唐猫」をめぐる信仰 しんこう について考えるきっかけを与えてくれます。その意味で、とても大切な説話なのです。

実は、「小野神社」の伝説については、本編記事では紹介していないのですが、簡単に紹介すると、神社に収 おさ められた木彫 りの「唐猫」二体が、夜ごとに抜け出して鶏 にわとり を襲 おそ ったり、田畑を荒らしたりしたので動けないように釘 くぎ を打ったら、悪戯 いたずら もなくなった、というお話です (長野県、1990) 。「法住寺」の話に似ているでしょ?

実は、これに似た話は、全国の神社や寺に数多く伝わっているのです。ただ、伝説の主人公が「唐猫」ではなく、たいていは「絵馬 えま の馬」か「龍 りゅう の絵 (彫刻 ちょうこく ) 」である、というのが違 ちが う点です。これらの説話では、造られた絵や彫刻の動物が、夜に浮 かれ出てきて、周囲の川や池沼 いけぬま 、あるいは田畑家畜 かちく を荒らすという内容であるため、私は特に共通する部分をとって「浮かれ動物」説話と呼 んでいます。

「絵馬の馬」が抜け出したとか、「彫刻の龍」が暴れたとか、探せばみなさんの近くの神社やお寺にも似たようなお話が伝わっているかもしれません。私は、いままで全国で百例以上の「浮かれ動物」説話を見つけました。丁寧に調べていけば、今後この数はさらに大きくなっていくでしょう。

今後は、これにの「浮かれ動物」説話に、どうして「唐猫」という珍 めずら しい霊獣 れいじゅう が、二つまで紛 まぎ れ込んでしまったのか、という謎 なぞ を解 いていきたいと考えています。



4. むすび

次回は、「愛知県名古屋市」に伝わる「おからねこ」を紹介します。
こちらには、「江戸 えど 時代」の本にも載 せられた「猫」のお話が伝わっています。ちょびっと悲しくて切ない話ですが、各地のどの「猫」のお話とも違 ちが う、貴重なお話です。ぜひ、楽しみにしていて下さい。

「法住寺」の位置は、この辺り
本編、終わり
 
 

 
5. 追補・大人の方々へ

1) 「法住寺」への行き道

旧「宝飯郡御津町」に位置する「法住寺」への道は、季節によって潮風が漂ったり、蜜柑が薫ったりする、緑の多い道である。

ただし、既に述べたことだが、寺の姿は表通りに当たる県道372号・大塚国府線からはほとんど見えないので、東名高速道路の「豊川インターチェンジ」から向かう場合、ナビゲーションシステムなどで検索される北からの最短ルートは、お薦め出来ない。もちろん、カーナビを車に搭載している多くの皆さんは、よいのだろうけれど、ネットの検索サイトのみを利用する場合は、北からの接近ルートは絶対に避けるべきである。地図を片手にこの寺を訪ねる場合は、素直に国道23号に出て、お寺の南から接近するルートをお薦めしたい。こちらのルートだと、やや遠回りになるが、国道からは曲がり角ごとに案内板が出ているので、格段、分かり易いはずである。北からのルートだと、少し間違えると、あっと云う間に切り返しも利かぬような小路の迷路に入り込んでしまいかねないのである。


2) 「法住寺」について

この寺は「大日如来」を「本尊」とする「曹洞宗」の「小本寺」であり、「室町時代」の永正五年 (1508) に十一代将軍「足利義澄」を「開基」として、その家臣が創建したと伝えられる。しかし、創建当初は「赤根山・法住院」と号する小庵に過ぎなかったが、慶長九年 (1604) に現在地に移転し、寛永十九年 (1642) 、城主「松平長三郎忠高」によって中興され、慶安年間に (1648-1652) に現在の山号・寺号に改めた歴史を持っている。

ただ、近くの「大恩寺」のように、「徳川家」や領主「松平家」の保護を受けて隆盛した寺院と異なり、以前はそんなに大きな寺院ではなかったようで、むしろ庶民の強い信仰心に支えられて、我が国の仏教の衰退期である「明治」以降に、逆に興隆した尊い寺院と見るべきようである。この辺りの事情は、この寺の所蔵する「千手観世音菩薩像」の来歴を見ることで、おおよそ明らかにされる。

「法住寺」所蔵の「木造・千手観世音菩薩像」は、基本的には「檜」の「一木造」で、高さは百六十八センチのほぼ等身大の仏像で、かつては仕上げに「截金」を使用していたらしく、その名残がいまでも裾の辺りに残されている。詳細に云うならば、前面を一木とし、後頭部・背部・両手等を矧寄せている。頭頂仏、持物、垂下の天衣などは後補である。「宝髻」に群青、唇に朱、瞳・眉・鬚等は墨描きである。ただ、「裾衣」に「亀甲つなぎ」以下各種文様の「截金」が置かれているのが、興味深い。年代的には、「藤原時代末期」の作と考えられ、昭和六年 (1931) に旧「国宝」、現在は国の「重要文化財」に指定されている秘仏である。


3) 「法住寺の猫」についての補足事項

a) 「蒲郡市大塚町」か「豊川市御津町」か


この項では、たいしたことは云わない。ただ、筆者が参照した資料の一つに、この伝説が「蒲郡市大塚町」の伝えと書いてあったことに対して少々。この記事の冒頭に記した通り、「法住寺」があるのは、「蒲郡市」ではなく、隣りの「豊川市」である。言い伝えと云うものは、現地でなく、近接地に残されると云うこともしばしばあるので、さほど不自然なこととは思わないが、実際には、この例に限っては「法住寺」のある「豊川市御津町赤根」と云うのが、かつては「宝飯郡大塚村大字赤根」だったことに由来する誤記のような気がする。

以前「栃木県の猫神」シリーズの中で、「独鈷沢の金花猫大明神」を扱ったとき、この伝承が「独鈷沢」のある「中三依」では実は伝えられず、「鬼怒川」をやや下った山向こうの「五十里」集落で伝えられたものだったことを紹介した。しかし、
「独鈷沢の金花猫大明神」は純然たる怪異譚で、内容も猫の斬殺や疫病などと関わり、「独鈷沢」を血の流れる川と形容したりする禍々しいものである。それに対して、「法住寺の猫」は、もちろん「猫 (の彫刻) の怪異」の話ではあるが、基本的には寺に関わる霊験譚と云う性格が強い。そのため、「独鈷沢」の伝えが地元でなく山向こうの集落のものであったことは極めて納得のゆく話なのだが、「法住寺」に関しては隣りの集落にのみ伝わる性質の話ではないのである。第一、「独鈷沢」の伝承について、地元「独鈷沢」の人々は、近年、「五十里」集落と縁故のある人によって聞かされるまで知らなかったと云うのに対して、「法住寺の猫」の話は、地元で大切にされる寺院に伝わるものだけに、お寺の住職も、地元の御老人も、少なからず知っているようであった。

そもそも、「法住寺」の地元が属する自治体に関しては、勘違いが生まれやすい変遷の歴史がある。昭和三十年 (1955) を境とする「昭和の大合併」に際し、旧「蒲郡町・三谷町・塩津村」が合して「蒲郡市」が誕生したのに連動して、「大塚村」が新生「蒲郡市」への編入を検討したが、地元での調整が着かず、結局、同年の十月十日付けで、「大字大塚」「大字相楽」で構成される「大塚村」の大部分のみ編入し、残された「大字大草」「大字赤根」は、隣りの「御津町」に編入すると云う合併分合で決着したのである。このときの傷跡は意外と深く、「平成の大合併」に際しても、結局「御津町」は「蒲郡市」との合併を選ばず、新たに「豊川市」を発足させる道を選択することとなったのである。

このような事情を加味して考えると、「法住寺」の話に関する限り、単にかつては「大塚村」の伝承と書かれたものだから、昭和三十年以降、「蒲郡市大塚町」として残った地域の伝えだと勘違されやすいところに問題があるのではなかろうか。

とは云え、もしも筆者の手にした資料の執筆者が、自身、具体的に聞取り調査をした結果として、「蒲郡市大塚町」の伝えだとしたのならば、素直にお詫び申し上げますそれと同時に、その場合は、是非、執筆者あるいは編集者が、後の版に関してはその旨を明記されるよう、烏滸がましくも提案したいと思います。
 

b) 「御津町」を含む地域の「養蚕」
 
最後に、つけたりのような一言。「猫神」が最後にいくらかでも華々しく信仰されたのは、「近世後期」以降、特に「明治」から「昭和前期」にかけての、我が国の「養蚕」最盛期であったのは、その道では頓に知られるところである。そのため、多くの人々が「猫神=養蚕の神様」のように定式化して、それ以上に踏み込まない傾向があるのは、常日頃、筆者が慨嘆している通りである。筆者は、「猫神」には、かつて「水神」あるいは「風雨神」としての性格があったと提唱しているのだが、一方で、最も近年には「養蚕」の盛んな地域で、「養蚕の神様」として祀られていたと云うのも事実である。したがって、「猫神」伝承がある地域に、かつて「養蚕」が栄えたかどうかを確認することも怠っていない。

実は、「静岡県浜松市大平」の「唐猫」さまの記事を書いたときには申し遅れたのだが、「静岡県」や「愛知県」、特に「三河」や「遠州」地方は「養蚕」が盛んな地域だったのである。現在の地名で云うならば、「愛知県」では、特に「新城」辺りから「渥美」までが盛んで、隣接する「静岡県」でも、現在の「浜松」地域はこぞって養蚕を行なっていた。

ただ、我々が学校時代に歴史で学ぶように、「三河」は我が国の「綿産業」の発祥地であり、長らく綿花と綿織物の主産地として知られていたのは周知の通りである。この地域が「養蚕」への大転換を遂げたのは「明治」以降のことで、開国以降、外国から安価な綿花が大量に輸入され、「三河」とその周辺地域の「綿作り」は、壊滅的な大打撃を受けたのである。この危機を乗越えるため、県や地域の篤農家たちが結集して、当時としては大いに将来性があると考えられた「養蚕業」への切替えを、地域の人々に勧めていったのである。明治九年 (1875) には、県の「養蚕伝習所」が設立され、また「養蚕」の先進地、「群馬県富岡」の「国立製糸場」などへも多くの研修生を派遣して、地域の「養蚕業」の興隆に尽した。

「法住寺」のある旧「御津町」地域も例外ではなく、『御津町史』によれば、この地の「養蚕」のピークとなった大正八年 (1919) の繭生産額は、米生産額の約三倍を占め、「繭」は、当地の主要農産物の地位を恣にしていた。翌、大正九年 (1920) の「御津村事務報告」は、「本村ノ農業ハ、十年前ニハ米麦作ニ最モ重キヲ置キ、養蚕業ヲ副業トセシモ、今ヤ養蚕ハ主タル業トナリ、畑ハ皆桑園トナル」と記しているから、この「養蚕」への転換は、ちょうど「明治」から「大正」へと時代が変わる時期に進行したようである。

ただし、我が国の「養蚕・製糸業」は、「戦後」の重化学工業への国家的な転換によって引き起こされたと考えている人が多いのは承知しているが、実はそれ以前に、国際的な「繭・生糸」の暴落で、「戦前」には既に衰退の兆しを明らかにしていたのである。「御津」でも、大正九年の繭生産額は、前年比四割減となり、それでも数年はその規模を維持したが、「昭和期」に入ってからは漸次衰退した。したがって、「御津町」周辺の「養蚕」ブームは、決して長期に渡って続くことはなかった。実際、「明治末期」には十六を数えた当地の製糸工場も、第一次世界大戦後の不況時には、わずか四つが残るのみとなっていたと云う。

「法住寺の猫」の伝説が、「養蚕」と結びついた「猫神」系統のものであるかは、いまのところ分からない。ただ、その伝えが直接、「養蚕」の保護に触れる内容がないこと、また、この地域の「養蚕」の歴史が新しく、しかも永続しなかったことなどを考えると、この伝説が「養蚕」と関わって成立した可能性は、極めて低いと云えるだろう。そもそも、「唐猫」が近隣の農村を荒らすと云うのは、「鼠退治」を介して発達した「養蚕の神様としての猫」と云うイメージからは程遠い。

もちろん、「法住寺」周辺の人々が、お寺の「唐猫」を直接「猫神」として崇めた形跡はない。しかし、寺の装飾にある以上、それが当初から「悪霊」や「害獣」と見なされていたはずもなく、むしろある種の「霊獣」として見られたか、少なくとも信仰の寓意として掲げられたことは間違いのないところである。そうして見ると、「法住寺の唐猫」の伝説には、「正しく祀らねば祟る霊的存在」と云う寓意が、その基底をなしていると云えるだろう。

結局、「猫神」を「養蚕」と直接に結びつけ、かつて「養蚕」の盛んだった地域にありさえすれば、「鼠退治」用の「猫神」だと断定することの危うさを、「法住寺の猫」の伝えと、地元「御津町」の産業の変遷史は伝えている。


3) 「唐猫」の蛙股について


a) 「蛙股」の意匠

さて、寺社建築の「蛙股」については、それがどの部位を指すのかくらいは筆者も承知していたが、「法住寺の唐猫」に遭遇するまでは、あまり深く考えることも、注意を向けることもなかったことは告白せざるを得ない。時折、極彩色に塗られたものや、微細かつ絢爛な彫刻を施されたものを見ては、ほほう、などと一人感心するくらいが関の山であった。したがって、世の方々にはどんな蛙股が存在しているか、細かいことは何も知らない。ただ、「唐猫」の蛙股ともなれば、かなり珍しかろうことは察しがつく。何しろ、「唐猫」と云う代物自体が稀少価値が高いのだから...。

とは云え、世間の寺社一般の蛙股では、どのような意匠が最も多く採用されているのかさえ、筆者には見当がつかない。いままで見てきた寺社の記憶を掘り起こしつつ思い出してみると、何となく植物文様が多かった気がするのだが、どうなのだろう。動物で云えば、十二支や四獣、それに麒麟や鳳凰などの霊獣が多かったか。鷹や鶴・鶏・孔雀・雀・虎などもしばしば見かける気がする。そして、我らが「唐猫」との絡みで云えば、名前も意匠も似た「唐獅子」の彫刻も、探せば結構見つかるものである。


b) 「唐獅子」の「蛙股」

その気になって探して初めて知ったことだが、「唐獅子」の意匠のある「蛙股」と云うのは、当初の予想に反して、かなり多いのである。
「蛙股」に限定せずに、「向拝・扉彫刻・欄間・脇板」等々、すべての寺社彫刻の中から探すなら、「唐獅子」の意匠は、あるいは最も多いものかもしれない。「蛙股」に限ってみても、その数はかなり大きい。それこそ具体的にどこそこと寺社名を挙げたならば切りがないほどである。ここでは参考までにいくつかの例のみを紹介しよう。

まずは全国的に有名な寺社から...
 
東大寺・大仏殿・唐破風
「東大寺・大仏殿・唐破風」
 (奈良市雑司町)

北野天満宮・三光門02
「北野天満宮・三光門」
 (
京都市上京区馬喰町)
二条城・二の丸御殿・車寄
「二条城・二の丸御殿・車寄」
 (京都市中京区二条通堀川西入二条城町)
 
続いては、「法住寺」の「唐猫の蛙股」とやや構図の似たものを (左右は逆だが) ...
 
加太春日神社
加太春日神社・御社殿
 (
和歌山県和歌山市加太)
 
最後に、筆者の地元・千葉県の神社から...
 
葛飾八幡宮
「葛飾八幡宮・
隨神門
(千葉県市川市八幡)
 


4) 「唐獅子」と「牡丹」

a)  問題点の所在

さて、ここでは上の数例しか紹介しないが、実際に各地の「唐獅子」の「蛙股」を多く見聞してゆくと、その中でも「唐獅子」と「牡丹」を組み合せた意匠のものが多いことに気づかされる。まあ、この組み合せは、かつて「高倉健」の任侠映画の題名になったくらいだから、古来の定番とも云えるのだろうけれど (映画は背中の刺青のことだったが...) 、実際のところ、何故この二つを組み合わせるのかについては、諸説あって一定しないようである。

仏教関係者からよく聞くのは、「百獣の王・獅子」は恐れるものはないが、ただ一つ「獅子身中の虫」だけには敵わない、ところが「牡丹」の花から落ちる夜露はこの虫を退治してくれるので、「獅子」は「牡丹」の下に眠るのだと云う話である。

この由来譚については、「臨済禅・黄檗禅公式サイト」で説かれているためか、ネット上では多くの人が鵜呑みにしているが、どうもいま一つ釈然としない。何故なら、ネット上には、この他にも別の由来を説く僧侶の話がチラホラ見えるからである。もしも、「獅子に牡丹」が何やらの仏説に基づくものならば、少なくとも仏門の徒の間では何かしらの共通理解くらいあってもよさそうである。もしも、そのようなものがないのであるなら、それはもはや由来不明になっていると判断するのが妥当であろう。それにも関わらず、この「仏典起源」説は、根強く出回っている。しかも、一部の権威ある書籍などに、平気で確定した定説のような顔をして載っているときもあるから困りものである。

例えば、「春日大社」に伝わる「伝・源義経」奉納の「赤糸縅鎧」の胴などには、「獅子牡丹文弦走染革」が張られていることが知られる。

赤糸縅鎧・獅子牡丹文弦走染革・春日大社_1
赤糸縅鎧・獅子牡丹文弦走染革」
 (春日大社蔵)

「源義経」奉納伝承とは別に、実際にはこの鎧は「鎌倉時代」の制作とされるのだが、それでも現存する我が国の「唐獅子牡丹」文様としては、かなり初期のものである。ところで、この鎧について、『日本の意匠 3・牡丹/椿』巻末の図版解説中に「切畑健」氏は、「文様は、牡丹の間を勇躍する獅子。この組合わせは仏説によるが、いずれも動物及び花卉の王者ということで古くからとりあげられたと考えられる (強調下線、筆者) 」とあっさりと書いているが、これは何を根拠にしているか、筆者にはさっぱり分からない。同様の無反省な見解は、ネット上ではいよいよ多く見られ、「京都和装産業振興財団ホームページ」でも、「獅子は仏・菩薩の三昧耶形 (誓願を象徴するもの) で、牡丹を愛しこれを食したという伝説から由来します」と、典拠を示すことなく記している。

既に見た「臨済禅・黄檗禅公式サイト」に載る説話は、仏典などには収載されていないから論外として、「獅子」と「牡丹」の関わりを「文殊菩薩」に求める見解もしばしば耳にする。しかし、「文殊菩薩」が「獅子」に乗って、「牡丹」の園に顕現するなどと云うのは後世の創作で、このイメージ自体の起源が分からないのに、それを根拠にして「唐獅子牡丹」の起源を語っても何の役にも立たない。

そもそも、「文殊菩薩」云々と云っても、これら「大乗仏教」の概念は、既に「漢代」には中国に入っており、逆に「牡丹」の普及はどう早く見ても「南北朝期」を遡らないのだから、「文殊」を以て「獅子」と「牡丹」の組合わせの起源とするのは十分ではない。後世、そのように附会され、以降、そのイメージが普及したと云うのが妥当な理解であろう。

さらに云えば、現在の植物学では、「牡丹」の原産地は、「四川省・陜西省・甘粛省」辺りだと考えられている。寡聞にして、「牡丹」のインドへの伝来時期は知らないのだが、中国西北部の原産地から、中央中国に普及するのに「南北朝期」までかかったものを、中国への「仏教」伝来より以前にインドに伝わっていたと云うのは、控え目に云ってさえ考えにくい。

また、世に「天竺牡丹」と云う花があり、仏教絵画などに描かれる「蓮」や「牡丹」などにも姿が似ているため、あるいは「文殊菩薩」と関わる「牡丹」は本来、こちらの花だったのではないかなどと思うなかれ。「天竺牡丹」とは名ばかりで、これは洋名「ダリア」と云われるわりとありふれた園芸種で、原産地は「メキシコ」から「グアテマラ」、日本へは「幕末」の天保十二年、または十三年 (1841-42) に伝えられた。インドへの伝来時期は分からないが、「メキシコ・グアテマラ」原産の植物であってみれば、少なくとも新大陸発見後の十六世紀までは旧世界のどの地域にも広まっていないはずである。大体、この花を世界に広めたと目される西洋人の故郷「ヨーロッパ」にさえ、十八世紀までもたらされていないと云う*。
 
* 天保十二年説については、弘化三年 (1846) の松平菖翁」による『百花培養考』に「天竺牡丹 三品アリ極紅吹結ノ一品ハ天保十二丑年初テ巣鴨ノ地ニ住ム場師長太郎トナン呼モノ長崎ヨリ取入今年六トセ経タレトモ俄ニ流布セリ紫花黄花の二品ハ今年浪花ヨリ来レリ」とある。この文中の「長太郎」とは、我が国に近代的な園芸を普及させた最初期の功労者の一人「内山長太郎」のこと。天保十三年説は、いまだ典拠を明らかにし得ていないが、一部の園芸書で、ポルトガル人によって「薬玉」と称するポンポン咲きのものが初めて輸入されたとされている (cf. 松尾、1960 etc.)
 
** ヨーロッパへの「ダリア」の伝来年は、1789-90とされる。1789年に、現「メキシコシティー」の植物園々長「セルバンテス氏」が、「マドリード宮廷植物園長・カヴァニレス Cavanilles 神父」に、「ダリア」の種子を送付、翌年、「カヴァニレス神父」の手で開花。「カヴァニレス」は、この新種の花を、かの「リンネ」の直弟子で、「マドリード植物園」で学術的仕事に携わっていた「スウェーデン」の植物学者「アンドレアス・ダール Andreas Dahl」 (1789年死去) を記念して、Dahlia pinnata Cav. と命名し、1791年に『植物図説』第一巻に記載した。1798年には、「マドリード」から「イギリス」の「キュー植物園」に送られ、以降、十九世紀にはヨーロッパ各地、そして世界へとに広まった (Hanelt, 2001)
 
もう少し気の利いた見解に、曼荼羅の注釈書である『兩部曼荼羅鈔』には、「牡丹草獅子食之。故餘毒蟲等不近此牡丹 (牡丹草は、獅子、之を食す。故に、余の毒虫は此の牡丹に近づかず) 」とあるのが「獅子」と「牡丹」を組み合せる根拠となった仏説だと云うものがある。しかし、これとても
「臨済禅・黄檗禅公式サイト」の「夜露」を飲む話とは微妙に違うのだから、やはり仏教側に信憑性のある説明は用意されていないと見るべきなのであろう。もっとも、上のサイトを作成した僧侶の方々も、何らかの根拠はあって記しているのだろうから、新しい仏教書でもよいので、ピンポイントに「獅子が牡丹の夜露を飲んで体内の虫を駆除する」と云った内容の典拠を御存知の方がいらしたら、何卒、教えて下さいませ*。
 
* 普段なら直接問合せをするところなのだが、過去の経験から、仏教関係者 (僧侶) に、コネなしでこう云う質問をすると、どんなに丁寧に尋ねても激昂されると云う経験しかしたことがないので、現在は、「猫」に関わる真にその当事者にしか尋ねることの出来ない質問以外は、僧侶にはしないことにしています。上の件については、もちろん、筆者自身、鋭意調査中である。
 
しかも、『兩部曼荼羅鈔』は、我が国の「戦国期」に成立したものであるから、仏説としての起源を探るにはあまりに新しい。「臨済禅・黄檗禅公式サイト」の所説と関わりがありそうなところで、より古くは、「鳩摩羅什 (クマラジーヴァ) 」の漢訳『梵網経』 「十重四十八軽戒」第四十八軽戒に「如師子身中蟲、自食師子肉」とあるのは承知しているが、これは「獅子身中の虫」の出典に過ぎず、「獅子と牡丹」の由来説明にはまるでならない*。逆に、このお経が「獅子身中の虫」の出典元ならば、この時点で「牡丹」のことが書かれていない以上、この故事と「牡丹」を結びつける説明は、少なくとも『梵網経』以降の後説と云うことの証明にはなる。大体、「鳩摩羅什」の頃、「牡丹」はいまだ「長安」に伝わっていないかった可能性が高い。
 
* 大乗仏典『梵網経 (梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品) 』は、我が国の仏教史に大きな位置を占める経典だが、「鳩摩羅什」 (344-413) 訳と伝えられるものの、実際には五世紀後半に中国で成立した偽経だと云うことが判明している。筆者としては偽経でもまったく構わないのだが、「唐獅子牡丹」の由来を知る手助けにはならない。ついでながら、『仁王護国般若波羅蜜経 (仁王経) 』嘱第八にも同等の語句がある。
 
ここまで見てくると、「唐獅子牡丹」の起源は、どうも原仏典類にはなく、当然、「牡丹」の存在するはずのない古い時代の仏教発祥の地であるインドが起源地でもないことが悟られる。しかし、そうだとすると、「唐獅子牡丹」が元々発生した土地と云うのはどこなのだろうか。我が国には、やたらとある「唐獅子牡丹」の意匠だが、はたして他所の国ではどのくらい目にすることが出来るのだろう。完全な伝聞情報ながら、「唐獅子と牡丹」の意匠は、我が国のみならず、「中国」や「チベット」「ネパール」などにもあると、現地の人から聞いたことはあるが (ただし、確認は出来ていない) 、これは現地の人の弁で、具体例の教示はなかったので、いま一つ不確かな話である。また、仮にその意匠が見られたとして、それがどの程度に古い時代のものなのかも確認せねばならないだろう。だが、いまのところ、このことに関しては、確かな情報は得られていない。どなたか、事情に通じてらっしゃる方がいらしたら、何卒、情報をお寄せ下さいませ。

もちろん、中国では、「牡丹」は「百花の王」などと呼ばれ、富貴のシンボルとして大切にされると云う事実はある。そして、一つの図案として組み合わされているとは言い難いが、「獅子」と「牡丹」が同一の造形物の中に含まれている古い例は、中国の「金代」に見つけることが出来る (後述) 。

そうであって見れば、「獅子に牡丹」の組み合せは、元は「百獣の王」である「獅子」と、「百花の王」である「牡丹」をセットにした縁起物で、我が国の「松竹梅」と同様、そもそも何かしらの厳めしい由来があったような性質のものではなく、その起源は、多くの文物がそうであるように、中国の文物にあるのだろうか。

この素朴な問いは、一人筆者のみならず、以前から多くの人々を悩ませてきた疑問なのである。例えば、「香取忠彦」氏は云う。
 
このような牡丹と獅子の組み合せは何によるのか、その思想的背景については明らかでないが、宝相華唐草文のなかには獅子 (俊猊など) を配する図様はすでに盛唐時代にみられる。獅子と牡丹の文様は日本の創案なのであろうか、あるいは中国始源の組み合せ文様なのであろうか。
 
香取忠彦 (1987) 「洲浜牡丹蝶鳥鏡の発生」
今永清二郎ら/編 (1987) 『日本の文様9・牡丹』小学館、p.157
 
何しろ、この手の起源論は、多くの国や民族の文化的ナショナリズムを刺激するために、なかなか冷静な議論がされないところがある。国を挙げて他所の国の文化はすべて自国起源だと言い張る人々もいるし、また逆に、文化的なナショナリズムに陥るまいと自戒するあまり、自国の文化は何でもかんでも外国由来のものだと決めつけて止まない人々もいる。

大体、いかなる文化的事象と云うのも、最終的には多岐に渡る複雑多様な要素の重層的なコンテクストの中に立ち現れるもので、絶対の起源であったり、完全な借用品であったりすることは、原理的に不可能なのである。仮に伝播経路がはっきりしているもので、ある事物が一方の地から他方へと伝えられた場合であっても、その受容のあり方さえもが、伝播の両端で同じであるとは限らないのである。伝播の道筋を明らかにすることは、多くのナショナリストが信じているように、特定の国や民族間の優劣を量る役に立つものではまったくなく、飽くまで人類がどのような相互作用を繰り返してきたのかを探り、そこから現在の我々の生活へと活かせる教訓や知恵を導き出したりするためのもので、本来は追求すればするほど頑迷かつ固陋な排他思想を克服する力があるはずのものなのである。まあ、これも結局、我々がどのように知識を受容するかと云う問題に行き着くのだが...。

この件について、筆者の考えが誤解を呼ばないようにするために、「唐獅子牡丹」の成立を巡る考究に関して、まず初めにはっきりさせておかねばならないことが二点だけある。
 
①「獅子」も「牡丹」も、いずれも中国経由で我が国に伝わったものであるから、これらの組合わせに関しても、それが完全に我が国に由来すると云う結論に達すると云うことはない。

②一方で、現在遺されている文物を見る限り、「唐獅子牡丹」の図案は、圧倒的に日本に流行・普及した形跡があり、それがそのまま定着したのもまた我が国においてだけだ、と云う事実も重視されるべきである。

 
要するに、筆者の知る限り、「獅子」も「牡丹」も、日本起源のものではないが、これらの組合せは特に日本人に好まれてきたような気がするのである。「唐獅子牡丹」のイメージ性は、能「石橋」や歌舞伎の一連の「石橋物」 (特に「連獅子」が有名か...) などにも見られ、一つ寺社装飾のみならず、我が国の大衆文化に深く根差したものとなっている。

既に述べたが、「戦後」になってまでも「高倉健」主演の映画の題名に採用されるほどなのだから、その根強い定着度は以て量るべし、である。しかも、美術史家「杉原たく哉」氏によれば、刺青を通しての「唐獅子牡丹」のイメージの普及は、完全に我が国の「近世期」に起きたもので、これも起源こそ「中国四大奇書」の一つ『水滸伝』によるものだが、実際に「唐獅子牡丹」が採用されたのは、我が国における工夫なのだと云う 。

文政八年 (1825) に、「滝沢馬琴」は『傾城水滸伝』と云う翻案物の読本を発表したのだが、これが我が国に一大『水滸伝』ブームを引き起こしたのである。このブームに乗って、奇才「歌川国芳」は『通俗水滸伝豪傑百人之一個』と云う大人気シリーズを発表した。これは登場人物の百八人の英雄一人一人を、一枚絵に見立てた豪壮な図柄で描いた錦絵で、多くの豪傑たちは全身に極彩色の刺青を背負って描写されたのである。
 
国芳・浪士燕青02国芳・浪士燕青04
「浪士燕青・歌川国芳」
 
中でも、「梁山泊」随一の伊達男「浪士燕青」は、「伝・施耐庵」の原作では花の刺青を入れていることになっているが、ここでは「国芳」の独創で、「唐獅子牡丹」を背中一面に彫り込んでいるのである。

実は、この頃まで、中国でも日本でも、刺青は筋彫りと云う、輪郭線を中心に彫る単純なものだったのが、「国芳」の『水滸伝』物の大流行を受けて、町火消や鳶など気っ風を売りとする町の人や、任侠を売る博徒たちなどが、「国芳」の絵のような極彩色で、ぼかしなどを駆使した図柄を彫師たちに要求するようになり、彫師たちもそれに必死で答えて腕を競ったのが、いまや我が国のサブカルチャーを代表するほどに発達した日本の「刺青」なのだそうである (杉原、1997 ; 36) 。

このように、寺社装飾から、祭の飾り、能はもとより歌舞伎の演目まで、そして浮世絵から博徒の刺青にまで登場すると云う変な流行には、何か我が国独自の民俗的基盤が寄与したものなのかどうか、今後はそんなことも考えてはいきたい。ただ、能や歌舞伎の影響で「唐獅子牡丹」が普及したと云う見方は、民衆の知識と云う面ではある程度正しいかもしれないが、寺社彫刻にかくまでも普及した論拠としては本末が転倒していると云わざるを得まい。そして、当然、刺青の影響なども二次 (三次) 的なもので、そもそも初めに「唐獅子牡丹」の図様があって、刺青として流行ったのである。

将来は、この辺りの問題について特に考察したいと願っている。
 

b) 「唐獅子牡丹」誕生仮説の概略
 
本記事では詳しくは述べないとは云え、「唐獅子・牡丹」の組合せの誕生について、筆者の一応の考えを、極めて大雑把に述べておこう。

第一に、「獅子」は当初から「霊獣」として大陸から我が国に伝えられた、と云うのが前提である。「獅子=ライオン」が国内にも近隣地域にも棲息せず、かつ「獅子」と云う日本語自体が漢語と云う借用語である以上、この前提は動かし難い。「獅子」がどのように日本に定着していったかと云うことについて述べるのは、また別の機会に譲るとして、ここでは、我が国に導入された「獅子」が、いかにして寺社の最有力な装飾モチーフの一つとして受け容れられていったか、と云う点を重視したい。さらにその上、今回は、「牡丹」文様との関連で「獅子」を捉えていくことを主目的とするので、その他のことについては必ずしも考察を深めない。

縁起物、あるいはお守り的な意味合いで、「獅子」の意匠や文様が利用されていたと思しき「奈良・平安初期」を過ぎると、「獅子」は少しばかり「神獣」としての性格を強めていった。文献で確認出来る限りでは、「唐獅子・狛犬」一組で宮廷や寺社の境界域の守護獣をなしていたことが、最古の例なのではあるまいか。

「江戸時代」の文献だが、「源宗隆」撰の『鳳闕見聞図説』には、古くからの由緒正しい姿として、「紫宸殿・賢聖障子」の中央の門戸に左方「獅子」、右方「狛犬」が描かれている。建長六年 (1254) 頃成立したとされる『古今著聞集』には、「南殿の賢聖障子は、寛平御時始めてかかれるなり」とあり、この習俗が、古ければ「寛平年間」 (889-898) まで遡る可能性を示唆している。このことは、「平安時代」の「大治年間」 (1126-1130) 頃に成立した『類聚雑要抄』の「后宮御料用浜床時物云々」註に、「左獅子於色黄口開、右胡麻犬於色白不開口在角」とあることなどからも、補強される。また、承久四年 (1222) 、「順徳天皇」が宮中の行事・故実・慣例・事物などを記述した『禁秘抄』には、「清涼殿」の御簾や几帳の裾の左右に獅子形が鎮子として置かれたとある。


ところが、「中世」以降は、時と共に、「狛犬」のみが独立して寺社の入口の守護獣の座を確立していくことになり、「唐獅子」は門番としてはお役御免になってしまったのである*。しかし、このことで相対的な自由を得た「唐獅子」は、今度は自分もまた単独かつ独立した意匠として寺社の装飾に取り入れられていく可能性を見出したのであり、これによって第二段階の準備がなされたものと思われる。

 
* 余談だが、本来神社の本殿の外陣の中にあって、神像を守っていた「狛犬」も、「随身」が発生するに及び本殿を出て、正面階段の両側の回廊に置かれた「随身」のさらに前に追いやられ、屋外へと居場所を変えられた。おかげで一番目立つ位置に置かれることになったが、役目が余りに目立って特化してしまい、以降は、かつてのような複雑で多様な霊的意味合いを失っていったのは、逆に汎用性を高めた「唐獅子」とちょうど正反対である。
 
第二に、「唐獅子・狛犬」が分離してしまった「中世」と云う時代は、現代の日本文化につながる所謂「和風文化」の基礎が形成された時代であると同時に、「禅宗」の影響が大きな波として到来し、その余波として、中国の道教的な文化も、秘かながら大いに導入された時代である。「唐獅子牡丹」が、いまだに寺社の聖域と外界とを結ぶ門や扉の装飾に多く用いられるのは、閾の番人を務めた「唐獅子・狛犬」時代の名残りだと考えられるが、「唐獅子」と「牡丹」が結びついたのは、この「中世」における中国文化の招来期に、汎中国文化圏に見られる「百獣の王・獅子と百花の王・牡丹」の縁起物としての「獅子」と「牡丹」の意匠が、個別にだが、極めて密接な関係を維持した文脈の中で輸入されたからではないだろうか。

ちなみに、この時代、我が国に入ってきた「禅宗」が、実は「道教」的要素を多分に持っていたことは、意外と知られていない。これはちょうど「禅宗」が「隋・唐・五代」の時期に、既成の「仏教」宗派と競合し、その克服の上に自らの存在意義を見出そうとしたのと同様、「道教」も古くからの中国土着の神仙思想などを基礎としながらも、教団組織や教義の整備が遅れていたために「仏教」各派にとっていた遅れを取り戻そうと、この時代にその組織化と教義の確立を推し進めたことと密接に関わっているものと思われる。既に旧「仏教」勢力は、「密教」の導入以来、この新旧勢力のせめぎ合いに身を置いており、この争闘は、「天台・華厳・密教」と云う、「中国仏教」の中核を為す思潮の教理が完成される、思想的に稔りの多い時代を創出したが、一般レベルでは、結局は国際化華々しかった「唐代」にあって、「ネストリウス派キリスト教 (景教) 」や「ゾロアスター教
(祆教) 」「マニ教 (摩尼教) 」までをも巻き込んだ、「鎮護国家」を巡る呪力競争の感を呈していったのである。これは「安史の乱」に際して、「唐朝」が各宗教に調伏を命じ、特に新興の「密教」を率いる「不空三蔵」の修法が効験絶大だったとして、以降、朝廷の深い帰依を受けたエピソードからも見て取れる。

「隋唐」の思想的爛熟期を過ぎると、「宋代」は「仏教」の民衆浸透の時代を迎えた (鎌田、1978) 。ここで忘れてはならないのは、「仏教」はその伝来以来、民衆レベルでは常に、病気や天災などの災厄を取り除き、怨霊などを払うと云った現世利益の呪術的な機能を期待されてきていたと云うことである。「宋代」の「仏教」は、その教理の発展よりも、「道教」などの民間の神仙思想・信仰・習俗と急速に習合しつつ、この祈祷の側面を前面に出して社会に浸透していったのであり、入宋した我が国の僧侶たちが触れたのも、そのような思潮の中での「仏教=禅宗」だったのである。「仏教」各派の中では、本来最も祈祷に特化していたはずの「中国密教」が、「唐代」を最後に事実上消滅したのも、「禅宗」が呪術性を求められる背景をつくり出していたかもしれない。また、「老荘」の「無為自然」や「空」の観念に見られるように、「道家思想」と「中国禅」の間には、思想的に類似あるいは共通する部分が多かったのも影響しただろう。


日本の「禅宗」で云えば、「曹洞宗」などは、宗祖「道元禅師」が呪術的な宗教行為を排除しようとしたにも関わらず、結局は「秋葉信仰」の「可睡斎」を例に挙げるまでもなく、後には呪術的行為を教線の拡大の命脈にしたほどで、時には「密教」顔負けの祈祷を行なう要素もあるのは、単に「密教」各派や修験道と対抗しなければならなかったと云う、当時の国内の宗教事情だけでなく、本来、中国から伝わった「禅宗」が自身に内在させていた性格の一端なのである。

我が国の禅刹 (
泉涌寺系の律宗寺院も) には、寺院伽藍の守護尊である「伽藍神」を複数祀るものが多いのも、その証左である。これらの「伽藍神」を、寺院の「土地堂」に祀るようになった「宋代中国」の影響を受けて、「鎌倉時代」以降、我が国でもしばしば造立されたのであるが、これらは皆、「道教神」の姿をしていることが特徴的である。「禅宗」以外では、「泉涌寺」などの「宋代仏教」の影響の強かった寺院に見られるのも、これら「道教」的な影響が、「宋代仏教」に感化されたものであることの証である*。
 
* 「泉涌寺」の場合は、「真言律宗」を打立て、「叡尊」や「忍性」などの影響が強く、「宋代仏教」でも「禅宗」と云うよりは「念仏宗」との縁が深かった。「叡尊」「忍性」は、共に「元寇」における「元軍」の撃退の呪法を行なったことで知られる。
 
ここで「道教」の複雑な信仰体系について語る能力は、筆者にはない。ただ云えることは、あらゆる宗教や信仰がそうであるように、「道教」においても、信仰に関わるすべての像容や装飾には、その姿形から彩色に至るまで、高度に象徴的な意味が籠められていると云うことである。もしも、「獅子」と「牡丹」の装飾文様が、特に「宋代仏教」の思潮を通して我が国に伝わったならば、そこには「仏教 (禅) 」における象徴的意味が必ずや含まれていたはずであり、同時に中国の民間信仰に根差した「道教」的なイメージも内在していたと考えるのが妥当なのである。この件については、いずれ「獅子座」の考察をするときに、「聖樹と水」の思想の一環として追究したいと思っている。ここでは、「獅子」と「牡丹」が「宋風」美術の移入と云う形で我が国に紹介されたことを指摘するに留める。
 
*
 
以上のことを踏まえて、結局、本稿との関連で筆者の頭を悩ましているのは、「獅子」と「牡丹」の意匠が我が国に導入されたときに、それがどの程度まで単一の組み合せられたデザインとして意識されたものだったか、と云う点である。

しかし、云うまでもなく、「唐獅子牡丹」の図案の発生を時代的にどの程度まで遡りうるかは、判断するのが難しい問題である。本稿では深入りしないが、いわゆる「花唐草文」と「獅子」の組合せを「唐獅子牡丹」の発生と見なしうるのか、あるいは「牡丹」様の模様と「獅子」が一緒に描かれてさえいれば、他の構成要素との相対的な関係は無視して、それを「唐獅子牡丹」と見なすことは可能なのか、と云うのが、筆者が断定に困難を感じる主な点である。


c)  具体例の図示・中国編

以上、前節では、筆者の考えの概略を示したが、図を見ながらでなければ筆者が何を云っているのかは分かりにくいだろうから、次にいくつの図例を挙げつつ、論点を整理したい。まず第一に挙げるのは、「
永泰公主墓」の「石刻浮彫・牡丹獅子」である。
 
永泰公主墓石刻・牡丹獅子01
「永泰公主墓石刻・牡丹獅子」 (部分)
 
「永泰公主墓石刻・牡丹獅子」については、美術史家の「杉原たく哉」氏は、日本の「唐獅子牡丹」流行の遡源を「石橋」に見た上で、さらにその「石橋」の原型が「唐代の伎楽や舞楽の獅子舞」と「唐代に流行した『牡丹唐草と獅子』の文様だ」とし、後者の例としてこの図を挙げている (杉原、1997; 35) 。
 
*「永泰公主 (李仙蕙) 」 (685-701) ---「唐・中宗 (李顕) 」の七女で、通説によれば、「武則天 (則天武后) 」の十二年 (大足元年=701) 九月、兄の「邵王・李重潤」や夫の「武延基」と共に「武則天」の寵臣であった「張易之・張昌宗」兄弟を排除する謀議を行なったとして「武則天」により自殺を命じられたとされている。「則天武后」の退位後の神龍元年 (705) 、「永泰公主」に追封され、翌・神龍二年、「乾陵」に陪葬された。
 
ただし、この「永泰公主墓」の「獅子」図を以て「唐獅子牡丹」文様と云えるかは、残念ながらかなり疑わしい。この図の「獅子」を取り巻く「唐草文」をよく見ると、そこに描かれている花はいわゆる「宝相華」文様であって、「牡丹」ではないからである。
 
永泰公主02
「永泰公主墓」の「花唐草」 (模写)
 (林、1990) より
 
それに「唐代」に「牡丹」は華々しいまで流行したのは確かだが、文様として流行したと云う事実は残念ながらなく、ましてや「牡丹唐草と獅子」の文様が流行ったなどと云う事実はどこを探してもなさそうなのである。しかし、この件については、この後に触れるとして、まずは「宝相華」なる、やや聞き慣れぬ花について、少々。

宝相華」について手近な辞書で調べると、大体、次のような説明を得ることになる。
 
「宝相華」とは?
1)
仏教的意匠で、蓮華・パルメット・ザクロ・牡丹などを組み合わせた空想上の花文。唐代に盛行。日本では奈良時代に盛んに使用され、正倉院宝物の文様に多く残る。
三省堂『大辞林
2)
唐草文様の一種。唐草に、架空の五弁花の植物を組み合わせた空想的な花文。中国では唐代、日本では奈良・平安時代に装飾文様として盛んに用いられた。
小学館『大辞泉
3)
唐代、また奈良・平安時代に盛んに装飾として用いた唐草文様の一種。
岩波書店『広辞苑

 
いずれの辞書も、「宝相華」は「唐代」に流行ったと解説しているが、念のために記しておくならば、美術史家「林良一」氏によると、「宝相華」と云う言葉自体は、中国「宋朝」以降に初めて登場し、「唐代」までの文献には現れないそうである。特に華紋としては、「北宋」の元符三年 (1100) 「李明仲」が著した建築技術の専門書『営造方式』*に、海石榴華、牡丹華、宝相華、蓮荷華など九つが挙げられているそうである。もちろん、氏はその上で「これらの花文は、 (中略) すでに唐朝の工房で考案されていた各種の花唐草や唐花文を、唐末より五代北宋にかけて分類し、それぞれに命名された可能性が大きい」と述べ、「宝相華」の「唐代」からの存在を肯定している (まあ、現物が多く遺されているのだから、当たり前なのだが...) 。

 
* 『営造方式』の成立年に関しては、正確な年代に識者の意見は一致していないようである。ここでは「林良一」氏の論文から引いたが、「矢部良明」氏は元祐六年 (1091) としている (林、1990 / 矢部、1984) 。両氏がいかなる文献史学的な研究を参照したかは未調査。 
 
ところで、上の辞書の説明では、特に『大辞林』のものが「蓮華・パルメット・ザクロ・牡丹」を主要なモチーフとして挙げている点で、詳しく、かつ要を得ている。これに「葡萄文」を足しておけば、ほぼ万全か。
 
大智禅師碑 大智禅師碑02
「大智禅師碑」
(西安碑林蔵)
 
多くの専門家が、「唐代」に爛熟期を迎えた「花唐草文」の代表的な作例として、開元二十四年 (736) 銘の「大智禅師碑々側」を挙げている。東洋美術史家の「長廣敏雄」氏は、この碑側に見られる大ぶりの華麗な花について、それが「牡丹花」の現実的な特徴を採り入れた花形で、その背景には当時の人々の「牡丹」に対する愛賞があると、慧眼にも指摘していると云う (林、1990) 。


唐楊執一夫人獨孤氏墓志唐草獅子飾紋02
唐楊執一墓志蓋唐草獅子飾紋03
「唐・楊執一墓志蓋唐草獅子飾紋」 (部分)
 
この他にも、「永泰公主墓」に遅れること二十年に造営された「楊執一墓」の「墓志蓋」にある図案も、この時代を代表する「花唐草」と「獅子」の取合せを見せており、図案の中心を為しているのは、「長廣」氏の云う「牡丹」様の「大ぶりの花」である。しかし、「牡丹」様とは云っても、この図案も、「唐風」一流の想像的な意匠であって、写実性をまったく欠くために、厳密な意味では「牡丹」だとは言い切れず、したがって、この図も「唐獅子牡丹」図だとは云えないと筆者は考えている。
 
*楊執一」 (661-726) ---「唐」の「高祖・太宗」二代の宰相を務めた「観国交公・楊恭仁」の従孫に辺り、早く「武則天」に出仕したが、その硬骨の故に寵臣「張易之」に嫌われ左遷されるも、後に武功によって遊撃将軍・右衛郎将・右衛中郎将・ 押千騎使などを歴任した。「則天武后」退位後の神龍元年 (705) 、「張易之・張昌宗」誅殺事件に参与した功績によって「中宗」に採り上げられ、後、「凉州都督・河西節度使」などを務め、最終的には右金吾衛大将軍に至っている。『唐會要』巻七十八・節度使条の「景雲二年 (711) 四月、賀抜延嗣爲凉州都督充河西節度使、自此始有節度之號、至開元二年 (714) 四月、除楊執一、又兼赤水九姓本道支度營田等」と云う記述や、『新唐書』巻五・巻二百十五上の「 (開元三年・715) 以右羽林軍大將軍薛訥爲涼州鎭軍大總管、節度赤水、建康、河源等軍、屯涼州、以都督楊執一副之」と云う記述から、開元二、三年頃に「凉州都督・河西節度使」を務めていたことが分かり、最も早い時期の節度使としても知られる。開元十五年 (727) にその夫人と合葬されている (黃惠賢、1997; 383)
 
長廣」氏が云うように、「唐代」の花唐草文に見られる「大ぶりの華麗な花」には、明らかに「牡丹」の影響が見られるのも確かである。何しろ、「隋朝」の頃から少しずつ普及し出した「牡丹」は、「唐代」に空前の大ブームを引き起こしたのである。「白楽天」が「花開き花落つ二十日、一城の人皆狂ふが若し」と謳い*、「王叡 (あるいは王轂) 」は「牡丹妖艶人心を乱し、一国狂ふが如く金を惜しまず」と詠んでいる* ほどである。散文でも「李肇」は「京城の貴游は牡丹を尚ぶこと三十余年。春の暮れ毎に、車馬は狂ふが若し、躭玩せざるを以て恥と為す。執金吾鋪官囲外、寺観は種ゑて以て利を求め、一本直 あたい 数万なる者あり」 (『唐國史補』卷中) と述べているから、どうやらこの時代の「唐人」は、みな「牡丹」に「狂って」いたようである。この辺りの消息については、「石田幹之助」の『長安の春』に詳しいので、御興味のある方々は、是非とも御参照あれ。
 
* 「花開花落二十日、一城之人皆若狂」『白氏長慶集』卷四「牡丹芳」
** 「牡丹妖艶亂人心、一國如狂不惜金」『全唐詩』卷五百五・第十六首および卷六百九十四・第十九首「牡丹」
***
「京城貴游尚牡丹、三十餘年矣。每春暮、車馬若狂、以不躭玩爲恥、執金吾鋪官圍外、寺觀種以求利、一本有直數萬者」
 
しかし、一方で、「牡丹」は装飾文様としては、かなり後の時代になるまで隆盛しなかったのである。
  
このように貴族文化全盛の初・盛唐の時代に一躍百花の寵児となった牡丹であったが、工芸や建築などの装飾空間につかわれる文様の素材として、牡丹がこの時期に用いられることはなかったようである。 (中略) 初・盛唐時代の装飾意匠の世界にあって、いわゆる花卉の意匠の主役は何といっても宝相華であり、 (中略) この世にみることのできない理想の花々がめくるめく典麗な表情をつくって器面をかざっていた。(中略) この時期の造形世界は現実を直視し、その現実世界の美しさを造形意匠の骨格に据えようとする美意識がなかったからである。
  
矢部良明 (1984) 「牡丹と椿」
吉岡幸雄/編 (1984) 『日本の意匠 3 / 牡丹・椿』京都書院、p. 160
 
「矢部」氏は、「牡丹」が文様として「宝相華」と同等の位置を与えられるのは、実在の花卉を忠実に、あるいは抽象化しつつも描こうとする動きが胚胎した、「晩唐」から「五代」にかけての九-十世紀と推測しており、実際にも、「南唐」の保大三年 (945) に造営された「南唐・高祖李昪」とその夫人の合葬墓の壁面浮彫を例に挙げている。
 
ここまでは、中国における装飾文様としての「牡丹」の台頭の歴史を追ってきたが、問題は、ではいつ、どこで、この「牡丹」文様が、古来の「獅子」の意匠と不可分に組み合せられていくのか、と云うことである。この問題に関しては、先程来、引用している「矢部良明」氏が、筆者の抱いている問題意識を完全に先取りする形で述べているので、ここでは少し長くなるのを覚悟で、氏の見解を引用してみよう。
 
牡丹と獅子の結びつきはあたかも龍と雲、竹に雀、鳳凰に桐と同じく、ともに相性をもつ二つの図様である。それぞれに意味をもって組み合わされているこれらの図様ではあるが、そのなかにあって何故に獅子と牡丹とが共存するのか合点がいかないものを感ずる。そしてその思想上の共通点は何かと反論されると解答に困惑してしまう。はたして日本の創案か、中国起源の組み合わせ文様であろうか。宝相華唐草文のなかに獅子 (あるいは狻猊か、獬豸か) を配する図様はすでに盛唐にみるが、五代・北宋、ひいては南宋・元代の中国文物に牡丹と獅子の組み合わせはほとんどみない。
 
矢部良明 (1984) 「牡丹と椿」
吉岡幸雄/編 (1984) 『日本の意匠 3 牡丹・椿』京都書院、p. 164
  
「矢部」氏は、以上のように述べた上で、1964年に「山西省長治県李村溝」から発見された「金代」 (1115-1234) の無名氏墓には、「獅子」と「牡丹」が一図を成す浮彫りが施されていたことを報告している。氏は、「金代のこうした資料は鎌倉後期の獅子牡丹文様にとって、直接的ではないが、その造形の手本として考慮するに足るものではあるまいか」と、極めて穏当な意見を述べている。
 
山西省長治県李村溝発掘無名氏墓・獅子牡丹図02
「山西省長治県李村溝発掘無名氏墓・獅子牡丹図」
 (矢部、1984) より
 
ただし、この「金代」の「無名氏墓」の図案は、確かにその中心に「獅子らしき獣」と「牡丹」をいくつか添えているが、その背景の文様には「パルメット文」や「葡萄文」のようにも見える植物文様が散らされ、「獅子」以外の「犬のような獣」も描かれている。また、図の四隅には、「牡丹」ではない、「桜」様の四弁花、あるいは五弁花が配置されている。飽くまでも私見なのだが、この図様からは、「花鳥文」や「鳥獣文」を複雑に組合せる、「殷代」の「饕餮文」から、「唐代」の「海獣葡萄鏡・鳥獣葡萄文鏡」や、我が国の「三角縁神獣鏡」から「洲浜牡丹蝶鳥鏡」に至るまでの、中国の青銅器文化以来、継承されてきた図様の延長線上にあると云う印象しか受けない。これらのことから、筆者は「矢部」氏ほど積極的に、この無名氏墓に見られる図案が、我が国で後に大流行する「唐獅子牡丹」の組合わせ文様の先駆けになったとは信じられないのである。


d)  具体例の図示・日本編

それでは、我が国における「唐獅子牡丹」の発達史のようなものは、どの程度描けるのだろうか。例えば、「牡丹唐草と獅子」に先行する「花唐草と獅子」の図案は、我が国にも何例か見られるのだが、これを舶来品と見るか、国産品と見るかで、自ずと発達史の描き方が変わってくるが、「獅子」および「唐草」と云うそれぞれのデザインが純国産と云うことは考えられないので、むしろ我々が考慮すべきは、どのような「獅子と唐草」の文様が我が国に入ってきて、それがどのように後世の「唐獅子牡丹」文様と連結していくのか (あるいは連結しないのか) と云うことであろう。

いま筆者が思いつく、我が国に伝わる「獅子と唐草」文様の遺物と云うと、やはり「正倉院」の御物が真っ先に挙がってくる。かなり変わった姿勢の「獅子」が「花唐草」文の中をまるで踊っているかのように描かれた「紫地獅子唐草文錦」などは、すぐに脳裡に浮ぶ。その他では、復元された図様なのだが、「花唐草獅子文綾」や「彩絵獅子唐草文白布文様」などが思い出される。
 
紫地獅子唐草文錦花唐草獅子文綾・復元図・正倉院
彩絵獅子唐草文白布文様復元図02

 左上から、a) 「紫地獅子唐草文錦」 b) 「花唐草獅子文綾・復元図」
c) 「彩絵獅子唐草文白布文様・復元図」
 
「正倉院」の御物は、「奈良時代」に我が国にあったと云う事実の他では、その生産国などは分からず、多くのものが舶来品だろうと考えられているため、上に挙げた「花唐草と獅子」の意匠にしても、それが我が国由来のものであるどころか、中国から学んだ図柄を、日本人が自らの手で再現したか、あるいは独自の工夫を加えたものなのかさえ、はっきりとは云えないのである。いずれにしても、上に挙げた三つの「花唐草」図柄は、どれも「長廣」氏が云うように、実在の「牡丹」の花の影響を受けた形跡は見られるが、中でも b) の「花唐草獅子文綾」の中の一つ (上図の左上部) は「牡丹花」に極めて類似して見える。
 
正倉院・銀薫炉03正倉院・銀薫炉01
左) 「正倉院・銀薫炉」      右) 「正倉院・銀薫炉」 (拡大部分)
 
以上三例は、「正倉院裂」の遺例であったが、「正倉院」には、他に「銀薫炉」と呼ばれる「唐獅子牡丹」もどきの図柄を持つ遺品がある。この薫炉は、中央から上下方向に開くようになっており、中には後の忍者たちの使った龕灯と同様の構造のジャイロがつくり込まれ、薫炉本体をどの角度に傾けても、中で焚かれる香は動かないようになっていて、それ自身が非常に興味深い逸品である。そして、その表面は、線彫りと透し彫りの技法によって、「獅子」と「鳳凰」が「花唐草」文に取り囲まれる図案で埋め尽くされている。

ただ、これらの図案に見られる「花唐草」は、厳密な意味では「牡丹唐草」とは云えない。それは既に中国の文様を見たときに述べたとおりである。「牡丹唐草」文は、やはり、「晩唐」以降、特に「宋代」に入ってからの写生的精神に支えられて、「唐代」までに流行った想像上の理想的な植物文としての「宝相華」文様を克服する形で生まれたものであることは、前述の『営造方式』の図解を見ただけでも明らかである。
 
営造方式02
『営造方式』巻三十三「彩画作制度図様上・五彩雑花第一」
 (矢部、1984) より
 

上の図では、「海石榴華」の下には「枝條卷成」と注記が書き込まれているが、「牡丹華」の下には「寫生 (写生) 」と記されている。これは両図を比較してみれば一目で分かることだが、「枝條卷成」とは伝統的な「唐草」文様に見られる想像的な植物の繁茂を描いた様式であるのに対して、「写生」は、実在の「牡丹」を意識し、それをより写実的な描写と構成の中で図案化している。したがって、「正倉院裂」や「銀薫炉」に見た「花唐草」の図様が、一部、明らかに「牡丹」のモチーフの影響下にあったとしても、全体としては、いまだ「牡丹唐草」と呼べる段階にはなく、「北宋」の『営造方式』の分類に照らせば、明らかに「枝條卷成」と注記された「海石榴華」文の方が、「正倉院」御物に見られる文様と映像的に近い印象を受けるのである。

また、これら図案の「宝相華」が、仮に「牡丹」だったとしても、そのいずれからも、後世の「唐獅子牡丹」につながるような定式化された「獅子と牡丹」の関係は見出されないのである。それは飽くまでも、それぞれ別個の文様として「花唐草」と「獅子」があり、たまたまその工芸品・美術品をつくるときに、その作者によって図案として組み合わされたと云う以上の契機を感じさせないのである。より必然的に二つの文様が併せられて初めて、それは複合文様としての「唐獅子牡丹」と呼べるのだと、筆者は考えている。
 
*
 
ここで、少しばかり脇道に逸れるならば、上に挙げた「正倉院」御物の遺例などには、「獅子」「牡丹」などとは直接関係ないのだが、一つだけ不思議な共通点がある。それは、いずれも極めて珍しい図柄だと云うことであろう。これらの図柄に採用されている様式は、はっきりと「唐風」だと云えるものなのだが、そして多くの専門家がそれらは「唐」でつくられてから我が国に舶載された品々だと見ているにも関わらず、同様の図案が、国内にも中国にも、あまり見出せない、と云うのは、やや奇妙な事実ではある。

しかも、この奇妙な事実は、「花唐草と獅子」にのみ云えることではなく、少なくとも「獅子」文様の古例とされる遺物にも、例えば「法隆寺・四騎獅子狩文錦」や「正倉院・花樹獅子人物文白橡綾錦几褥」などにも云えることである。これら二つの錦綾の図様についても、「ササン朝ペルシア」や「唐」の影響などが盛んに論じられるが (そして筆者もその通りだと思うのだが) 、興味深いことに、これらも国内外に類例の少ない作例なのである。

今後、中国や「中央アジア」方面などで、考古学的な発掘が進むにつれて、この事情は変化していくかもしれないが、仮に一、二の例が新たに出土したところで、「珍しい」と云う状況は、一朝日によって覆るものでもないだろう。しかし、もしも偶々、日本に遺例が残り、大陸では同系統の遺物が湮滅してしまったと云う、かなり偶然性の高い (したがって可能性の低い) 事情があったのでないならば、当然、我が国に伝来した遺物に、極めて珍しい意匠のものが多いのには、それなりの事情があったと推定せざるを得ない。

これは「奈良期」の我が国の中国貿易に携わった人々が (公私いずれの側でも) ...
 
敢えて変わった意匠のものばかり、制作依頼をしていた
特定の地域や工房などと深い縁故があり、結果的に、その地域や工房に限定的に見られる特徴を有した品々ばかり請来した。
「唐風」の意匠を学びつつ、日本の工人たちが模倣してつくった品々だから、独自の特徴が出た。
 
...などと考えられる。普通に考えれば、③が最も分かり易く、あり得そうなのだが、例えば「法隆寺・四騎獅子狩文錦」などのあまりに異国的な意匠を、敢えて日本の工人たちが、独自の工夫の下で模倣したと云うには、それ相応の根拠を示さずには、この立場は成立しそうにない。もっとも、この錦は、一般には「遣隋使・小野妹子」によってもたらされたものだと考えられているようなのだが、そうならば、今度は何故、中国でも類例の少ないこのような錦が我が国に伝わったか、と云う点も考慮に入れなければならなくなるだろう。
 
法隆寺・四騎獅子狩文錦法隆寺・四騎獅子狩文錦02
「法隆寺・四騎獅子狩文錦」
 
その上、我が国でつくられた模倣品ならば、その類似品や伝統が後の時代に伝わっていてもおかしくないのだが、現在のところ、そのような気配はあまりない。また、仮に模倣した場合でも、やはりその手本となった舶来品があったことになるから、実はこの立場は、単独では成立し得ない。

①は、理論的にはあり得るが、冷静に考えると、我々の先祖はどのようにして見たこともないような意匠の工芸美術品を中国側に依頼出来たのか、と考えると、この立場も意外と根拠が薄弱になる。仮に無理してこのような注文を出したところで、結局は中国の工人たちの「おまかせ」になるだろうから、あまり独自のものは生まれなかったのではないだろうか。

したがって、実は一見すると一番あり得そうにない②の立場が、意外にも論理的には整合性が高いことが理解される。筆者は、それと③の立場が合わさって、複合的な状況がつくり出されたのではないか、と考えている。ただし、これは中国のどこかに、日本に伝来した品々の類品が埋まっていると云う前提に立つか、あるいは現在は不明の理由でそのすべてが失われてしまった、と考えなければならないと云う点で、どうしても想像や仮定に基づくため、聞こえが悪いのは否めない。しかし、後に「唐獅子牡丹」が、我が国に独自の受容状況の中で、ほぼ日本固有のものに近いほどの図案構成を創出し、かつ独特の流行を生み出していくことになる背景には、何かしらこのような伝統があったのではないか、と推測したくもなるのである。
 
*
 
元の話に戻ろう。

既に見たように、はっきり「牡丹」と分かる作品が登場するのは、中国では「晩唐」から「五代」にかけてであったが (矢部、1984) 、我が国では「鎌倉時代」初頭からだと云える。
 
十世紀といえば中国では五代、北宋時代にあたる。すでに述べたとおり、新様式確立にむかって邁進する中国では絵画を含めて造形思潮はすっかり貴族時代のそれから脱皮して、現実の自然を直視する写生の造形を重んじる新時代を築きつつあった。それゆえ、日本がこの十、十一世紀に中国の新意匠を受け入れているならば、平安時代に牡丹文様が出現する可能性があったはずではあるが、結局、その導入は次の鎌倉時代まで待たねばならなかった。
 
矢部良明 (1984) 「牡丹と椿」
吉岡幸雄/編 (1984) 『日本の意匠 3 牡丹・椿』京都書院、p. 162
 
「矢部良明」氏は、「牡丹と椿」の中で、我が国の美術工芸品の中で、最初期に「牡丹」を装飾文様に取り入れたのは、十二世紀末から十三世紀初頭につくられた「教王護国寺 (東寺) 」所蔵の「紫檀塗螺鈿金銅荘舎利輦だとしている。
 
板絵神像・堯儼・薬師寺
「板絵神像 (部分) 」堯儼・作
 (薬師寺蔵)
紫檀塗螺鈿金銅舎利輦・東寺
「紫檀塗螺鈿金銅舎利輦
(部分)
(教王護国寺蔵)
十六羅漢図・第十四尊者図・妙心寺
「十六羅漢図・第十四尊者 (部分) 」 (妙心寺蔵)  
 牡丹蒔絵弓・平安後期・春日大社牡丹蒔絵弓・平安後期・春日大社02
「牡丹蒔絵弓」 (部分)
 (春日大社蔵)
 
また、「矢部」氏の小文を載せた『日本の意匠 3』 (京都書院、1984) は、その他にも、「薬師寺」の「板絵神像」 (堯儼/筆) や、「妙心寺」の「十六羅漢図・第十四尊者像」、「春日大社」に奉納された「牡丹蒔絵弓」なども挙げている。「板絵神」は、元々は「寛治年間」 (1087-1094) 頃に作成された原画が損傷したために、永仁三年 (1295) に南都絵所の絵師「民部法眼・堯儼」によって描き改められたものと云う (狩野、1984) 。「十六羅漢図」は、「鎌倉中期」の作品と考えられ、「牡丹蒔絵弓」は、「平安後期」の保延二年 (1136) 十一月七日に、右大将当時の「藤原頼長」が、春日詣の際に寄進したものだと云うことが『台記』に記されている。

筆者としては、ここまで自身大きく拠ってきた専門家の弁にさかしらを申し立てるつもりは毛頭ないのだが、上記五つの遺例よりも古い「牡丹」の装飾文様が、「正倉院」御物の中に含まれているのではないか、と考えている。その遺例とは、かの有名な「紫檀金鈿柄香炉」のことなのだが、この作品の装飾図案は、「牡丹」文様の例には入らないのか、確認しておきたい。
 
紫檀金鈿柄香炉02
「正倉院・紫檀金鈿柄香炉」
紫檀金鈿柄香炉04
「正倉院・紫檀金鈿柄香炉」 (部分拡大)

この「紫檀金鈿柄香炉」の炉部の金象眼の模様を見ると、瑠璃や玻璃を嵌め込み、花芯を青や赤に映えさせた花の描写の仕方は、「唐代」装飾の特徴として挙げられる非写実的な、想像上の花模様を髣髴とさせるが、一方で、茎や葉を見る限り、その描写はかなり写実的になっているとは云えないだろうか。

この写実的な葉の表現に筆者が注目するのは、その三つに分かれた鋭角的な葉先は、まさに「牡丹」の葉の特徴だからである。葉っぱが「牡丹」であるならば、その大ぶりの花も、「唐」の人々のこよなく愛した「牡丹」だと解するのが常道であろう。後世描かれる「牡丹」の多くは、八重咲きか千重咲きのもので、花芯は見えないか、あまり大きく描かれないが、一重咲きの「牡丹」なら、花芯もそれなりに見えるものである。特に、「紫檀金鈿柄香炉」の図柄のように真っ正面 (真上) から見た場合はそうである。

ただ、後々普及する、「牡丹」の伝統的な装飾模様には、日中ともに一重咲きのモチーフはほぼ消滅し、「紫檀金鈿柄香炉」の意匠が、この後、発展継承された様子はない。何しろ、先に挙げた「牡丹」装飾の中国での最古例が、西暦945年だったのだから、八世紀には存在したと考えられるこの「紫檀金鈿柄香炉」は*、中国で制作されたものであっても、日本で作られたものであっても、どちらの国でも最も古い作例と云うことになるだけに、この「牡丹」文様の位置づけは、極めて重大なものであると思われる。しかし、筆者の期待に反して、かつてあまり真剣にこの図柄に取り合った研究があった様子はない。
 
* 『續修正倉院古文書後集』卷四十一には、「光仁天皇」の亡くなった天応元年 (781) に「紫檀御香爐一具」が施入されたと云う記録があり、これが「紫檀金鈿柄香炉」に比定されている。
 
そこで、筆者は、何の確証もないまま、一つの解釈案を述べることとしよう。この「紫檀金鈿柄香炉」の「牡丹」と、これを除くと我が国で最も古い「牡丹」図様である「春日大社」の「牡丹蒔絵弓」の「牡丹」が、どちらも一重咲きのものであると云う事実は、我が国の「牡丹」受容史にあって、当初伝来した「牡丹」の種が一重咲きのものであったことを示唆しているのではないか。園芸の世界では、「牡丹」と云えば圧倒的に八重咲き・千重咲きが多いのだが、それでも日本は他国に比べると「一重咲き」の割合が高いと聞いたことがある。「牡丹」とよく似た近縁種の「芍薬」の場合は、この傾向はさらに強まり、諸外国ではほとんどが多重咲きなのに対し、日本の「芍薬」は一重のものも多いと云う。

「芍薬」と云えば、「正倉院」の「紫檀金鈿柄香炉」の図柄は、デザインだとは云え、「牡丹」にしては茎がやや立ち過ぎているきらいがあり、もしかしたら作者は「牡丹」と「芍薬」の区別がまだ完全についていなかったのかな、などとも想像させられる。既に述べたように、この柄香炉の作者は、いまだ必ずしも「牡丹」の姿を見慣れていなかった可能性があるので、このくらいの混乱は不思議ではないだろう。ただし、より写実性の高い葉は、完全に「牡丹」のものであるから、これが「牡丹」であると云う筆者の見解は変わらない。

いずれにせよ、一重咲きの「牡丹」図様は、後世、あまり見られないようになってゆき、仮にこの図様が我が国に最初に伝わった「牡丹」* の姿を伝えると云う、「日本牡丹受容史」の特異な一頁を記すものだったとしても、その伝統は「鎌倉期」以降は消滅することになったと云えそうである。
 
* 「聖武天皇」 (724-749) の時代に、僧「空海」 (有名な弘法大師とは別人) が中国から請来したと云う説があるが、典拠は未調査。「伊藤義治」氏の「牡丹の植物学」に記されているが、典拠は不明 (伊藤、1987) 。
 
おそらくは、「唐風」文化を受け容れる過程で、植物としての「牡丹」も、図様としての「牡丹」も我が国に伝わったのだが、既に見たように、「宝相華」全盛の「唐代」にあって、「牡丹」の写実的な特徴を生かした図案化は、「牡丹熱」に狂奔した「唐」の人々にあっても発達しなかったのであるから、その美術工芸分野での我が国への影響は、かなり限定的なものにならざるを得なかったのではなかろうか。

本式の柄香炉は金属で作るのが筋であるにも関わらず、外国産の「紫檀」と云う材を使っているとは云え、一応は火器である柄香炉を木で作ると云う発想も、いまだ確実には証明出来ないけれども、いかにも日本人らしい新機軸に思われる*。そこに、中国に見られなかった珍しい「牡丹」文様を描いたのも、「唐風」を真似ようとする日本人が、図らずも行なってしまった最初期の和様化の名残りなのかもしれない。「牡丹」が「唐」では装飾文様としては使われていないと云うことを知らず、「唐」の貴族たちに狂おしいまでにもてはやされていると聞いた「牡丹」と云う新奇の花を、自らの作品に取り込んで「唐風」を演出したいと願った工人がいたのかもしれない。まあ、全部、筆者の勝手な想像だけれど...。
 
*「河田貞」氏が、「紫檀金鈿柄香炉も、インドシナ半島を中心とする熱帯地方産の檀木の紫檀を主材とし、これに金貝による象嵌文や伏彩色の嵌玉 (水晶) など緻密・精妙な技法を駆使している。いずれも、唐代工芸の常套手法であり、おそらくは遣唐使による請来品と考えて不当ではないであろう」 (河田、1994; 13) と述べているのなどは、代表的な「舶来品」説である。筆者は「舶来品」説を完全に否定はしないものの、中国で紫檀材の柄香炉の出土がなく、我が国にのみ遺例があり、さらには文献上も二例見られる (i.e. 『正倉院文書務』『仁和寺御室御物実録』) と云う事実を鑑みれば、中国などで新たな考古学的発見があるまでは、「国産」説も無視出来ないと思っている。ましてや、柄香炉の花文が「牡丹」であるならば、「唐」では「牡丹」の装飾文はこの時代皆無に等しいと云うことも傍証になる。あるいは、中国に存在した奇を衒った作風の工房と日本人の間に、忘失されてしまった関係があったか...。
 
元々、「唐風」に憧れて始まった我が国の装飾美術における「牡丹」文様は、「唐」における「牡丹」装飾の欠落があった時代こそ、その間隙の中で我が国なりの工夫も生み出されたのかもしれないが、やがて「写生」に基づく新たな造形的思潮が到来すると、それは瞬く間に日本の美術工芸の世界を席巻するようになったのであろう。我が国の美術工芸の和様化が本質的に進むのは、もう少し後の時代だったと考えるべきなのだろう。

したがって、八重咲き・千重咲きの華麗な「牡丹」を描き、後世の日本の「牡丹」意匠の元となる、写実を重んじた「宋風」の図様は、「鎌倉初期」から我が国に導入され、短期間のうちに普及して、主流を形成するに至ったと云うのは、恐らく正しかろうと、筆者は考えている。
 
*
 
最後に残された問題は、「唐獅子牡丹」である。

実は、「牡丹」図様がようやく我が国に定着しつつあった同じ時期に、既に「獅子と牡丹」の組合わせも、生まれつつあったのである。そして、それらの顕著な例は、明白な「宋風」の影響の下にあった。

「平安時代」の末に起きた「源平合戦」の最中の治承四年 (1181) 十二月二十八日、「源氏」に与した「東大寺」や「興福寺」などが「平重衡」のいわゆる「南都焼打」に遭って焼亡したのは、よく知られた史実である。「東大寺」では、このとき「大仏殿」も焼け落ちたため、戦後は大々的な復興が期された。このとき、「大勧進職」に任命され、「大仏」や諸堂の再興に当たったのが、かの「俊乗坊重源」であったが、彼は単に寄進を集めるだけでなく、この地位を通じて復興の文化的な指導者としての役割をも担ったのである。「重源」は、三度の入宋経験を有し、「宋代」の文化に造詣が深く、かつ傾倒していたため、「大仏」の鋳造には「宋人・陳和卿」を招き、「宋人石工・字六郎」らに「東大寺中門」の「石造獅子」や「大仏殿脇侍」「四天王石像」などを造らせていることは、『東大寺造供養記』に記されている。
 
建久七年 中門石獅子 堂内石脇士 同四天像 宋人字六郎等四人造之 若日本   国難造遣 遣価値直於大唐所買来也 運賃雑用等凡三千余石
 
作者年代不明『東大寺造供養記』室町期か
塙保己一/編 (1960) 『群書類従・第二十四輯・釈家部』続群書類従完成会
 
この石工の一派は、また、「伊賀新大仏寺」の本尊の「石像台座」なども造っているが、これについてはまた後ほど触れる。

この大文化事業の大波の中で、「運慶・快慶」など、「慶派」と呼ばれる集団が、彫刻の世界に新風を吹き込むことになったのだが、彼らは「重源」と深い関係を持って活動した形跡があり、一般に彼らの作風は彼ら独自のものではありつつ、強い「宋風」の影響を受けていると云う指摘は古来なされている。

この「運慶・快慶」と同世代に属し、「慶派」の中でも特に異彩を放った彫刻家に「定慶」と云う謎の多い人物がいる。あまり多くが知られていない中で、この人物は「春日大社」や「興福寺」と密接な関係があったようであり、これらの寺社に多くの傑作を遺している。特に、建久七年 (1196) の「興福寺東金堂・維摩居士坐像」は古今の傑作として知られている。ただ、筆者はここで「維摩居士像」について述べようとしているのではなく、その坐像が据えられている台座に施された浮彫りに関心を寄せているのである。
 
維摩居士像05興福寺東金堂・維摩居士像02
「興福寺東金堂・維摩居士像」
 (1196年、定慶作)


維摩居士像02
興福寺東金堂・維摩居士像03
「興福寺東金堂・維摩居士像・須弥座
上) 正面・下) 側面 (部分)
 
御覧の通り、「維摩居士像」の台座には、堂々たる浮彫りが施されており、正面には「獅子」を、側面には大ぶりな「牡丹」が彫られているのである。この「牡丹」は、大型の「牡丹」の意匠としては我が国最古のものであり、「獅子」も我らに馴染みのある「唐獅子」へと既に変身を遂げているが、このデザインは「まさに宋風の意匠 (水野、1972) 」だと、多くの美術史家たちが口を揃える (以下、三例ほど...) 。
 
像内に銘記があって、建久七年(1196)、仏師定慶による造立と知られる。 (中略) 衣桁形の後屏や獅子や牡丹の浮彫(一部に後補がある)を貼付けた台座に宋風が見られ、宋画の維摩像が手本になった事も考えられる。
 
水野敬三郎 (1976) 『日本の美術 12・運慶と鎌倉彫刻』小学館

 
東金堂維摩像は、 (中略) 細部の形式や荘厳については宋代図様との関連を指摘することができる。 (中略) 台座腰部を獅子と牡丹の浮彫によって装飾するのも、宋工陳和卿による新大仏寺阿弥陀如来像台座にみられるごとく、宋代図様にならったものと考えられる。
 
藤岡穣 (2002) 「解脱房貞慶と興福寺の鎌倉復興」
京都国立博物館/編 (2002) 『学叢』第二十四号、自刊、pp、19-20

 
鎌倉時代に、定慶という仏師がいて、異色ある制作活動をしたが、じつはこの仏師は、同名異人の二人であった。
 
第一の定慶は、運慶の二男康運が改名したのだともいわれ、また、康慶の弟子とみる説もある。とにかく慶派の仏師であることに疑いはないが、その作品は、康慶・運慶などに盲従するものでなく、よく一家の風をたてるまでになっている。 (中略)
 
鎌倉彫刻における宋風の影響については、三つの場合が重要視される。第一は東大寺の再興で、重源を中心としてとりいれられた宋風、第二は京都泉涌寺の俊芿や湛海などによってもたらされた宋風、第三は鎌倉で禅宗とともに伝わってきた宋風である。定慶やのちに述べる快慶における宋風は、第一の場合とふかい関係にあったし、第三の鎌倉の場合は、伝統の少ない土地であったためか、かなり特色のある影響をうけた。
 
毛利久 (1964) 『日本の美術 11・運慶と鎌倉彫刻』平凡社、pp、85-88


「慶派」の彫刻家たちが、「宋風」の文化思潮と密接な関わりがあったことは既に述べたが、この派の一方の巨頭「快慶」は、「伊賀新大仏寺」の本尊を制作している。この寺は建長二年 (1202) に、「後鳥羽上皇」の祈願所として「重源」が「東大寺」の「伊賀別所」の地に開いたもので、ここにも「重源」と「慶派」のつながりが見える。「快慶」」の造った大仏は、現在は頭部を除いて後補のものしか残っていないが、その巨大な石造台座の周囲には、「獅子」と「牡丹」の浮彫りが施されている。「山川均」氏によれば、この石壇には銘文がないため、制作者が誰なのかを正確に同定することは出来ないが、その独自の「宋風」の作風と、石材が中国の「泉州」産の砂岩だと見られることなどから、「東大寺中門」の「石獅子」を造った「伊行末」の一派の手によるものだと考えられると云う (山川、2006; 10-11) 。


この伊行末」一派が、「慶派」の彫刻にどの程度影響を与えたかは未知数だが、「伊派」の石造物を見る限り、それが直接「慶派」の彫刻本体に影響を及ぼしたとは考えにくい。しかし、彼らがもたらした、「宋」からの新たな芸術的思潮は、何らかの示唆を我が国の職人たちに与えた可能性は高い。「定慶」にしても、「維摩居士坐像」の台座に施した「獅子」及び「牡丹」の浮彫りは、「伊派」の人々から学んだ新たな「宋風」の装飾表現に端を発するのかもしれない。

伊行末」らが、「東大寺中門」の「石獅子」を造ったことは既に述べたが、実は、当然ながら「石獅子」の本体が「獅子」であったこととは別に、この台座には「獅子」と「牡丹」の浮彫りが彫られているのである。「新大仏寺」の本尊台座にも、「玉と遊ぶ獅子」の浮彫りが遺されている。
 
東大寺・石造獅子台座01東大寺・石造獅子台座02
「東大寺・南大門 (旧中門) ・石造獅子台座」 (部分)
新大仏寺阿弥陀如来像台座01
「新大仏寺・阿弥陀如来像・台座」 (部分)
 
「興福寺東金堂」の「維摩居士坐像」台座の「獅子」と「牡丹」の彫刻は、その出来映えの見事さもさながら、それが図柄的に、後の日本で大流行する「唐獅子牡丹」を先取りしているかのように映る新奇さと完成度の高さを兼ね備えている点にも驚嘆させられる。「東大寺」の「石獅子」の台座に見られる「獅子」と「牡丹」は、特に「牡丹」がいまだ様式化された「唐代」の植物文の影響を脱し切れていないかに見えること自体、極めて興味深いが、「獅子」が「玉と戯れる獅子」の意匠になっているのも面白い。しかし、これら二つの図案は、それぞれに「獅子」と「牡丹」を含んでいるものの、「獅子と牡丹」が一つの図案として組み合わされる段階にはまだ至っておらず、「唐獅子牡丹」模様だとは言い難い。
 
建長寺・須弥壇
「建長寺・須弥壇・獅子牡丹文」 (補正済・部分)
 
この問題に対して、「鎌倉」の「建長寺」にある「須弥壇」は、「唐獅子牡丹」文様の成立過程を示唆する貴重な資料となっている。甲板と基壇の中間にひかえた腰間部に三匹の「唐獅子」と「牡丹」の文様が、一つの図案の中に共存する形で浮彫りにされており、後世の「鎌倉彫」に多く使われている「獅子牡丹文」の祖形をここに見ることが出来るのである。同様の「須弥壇」は、やはり「鎌倉」の「円覚寺」にもあると聞くが、筆者はいまだ実見の機会に恵まれていない。

話ここに至って、我々はようやく我が国において「唐獅子牡丹」文様がどのように形成されていったかの、具体的な過程の片鱗をのぞくことが出来たのである。筆者自身、まだまだ言い足りないことはあるのだが、本稿は、この辺りで筆を置くことにする。

 
 
 
6. おわりに

今回の記事も、計画倒れに終わってしまった感が強い。本当は、「唐獅子牡丹」の考察を終わらせた後、「眠り猫」の考察へとつながる「猫」の受容史についても触れ、最終的には、「法住寺の猫」の説話分析にも入ろうと欲張っていたのである。「猫」の受容史については、再度、「眠り猫」のテーマを扱うときに引き継ぐとして、「法住寺の猫」の説話分析は、「小野神社の唐猫」の記事を再開したときに、「小野神社」の説話と一緒に考察していくこととする。また、「唐獅子牡丹」の考察については、今後も引き続いて行なっていく準備は出来ている。

今回の記事は、ここで終わりとする。



参考文献など

A. 本編

・現地説明札と御住職からの聞取り
・大林正巳 (1999) 『郷土の伝説・大林正巳遺稿集・御津の伝説』自刊
・御津町町史編纂委員会/編 (1990) 『御津町史・本文編』御津町
・福田祥男 (1974) 『増補・愛知県伝説集・郷土のしらべ』泰文堂
・御津町町史編纂委員会/編集 (1982) 『御津町史・史料編・下巻』御津町
・御津町史編纂委員会/編 (2000) 『みと歴史散歩』御津町
・大嶋善孝 (2001) 「絵や彫刻が悪戯をする話」
 『民具マンスリー』三十四巻六号、神奈川大学日本常民文化研究所

・鶉功 (1993) 『図解・社寺建築・各部構造編』理工学社


B. 附編

a) 漢文/中国語
・王溥/撰 (961) 『唐會要』卷七十八、北宋・建隆二年
 方詩銘ら/校 (2006) 『唐会要』上海古籍出版
・歐陽脩 (1060) 『新唐書』卷五・巻二百十五上、北宋・嘉祐六年
 古賀登 (1971) 『新唐書』明徳出版社 及び 維基文庫
・李誡 (李明仲)  (1103) 『営造方式』巻三十三、元符三年
 李誡 (2006) 『営造方式』中国書店
・西北歷史博物館/編 (1953) 『古代裝飾花紋選集』自刊
・南京博物院/編 (1957) 『南唐二陵発堀報告』文物出版社
・李桐樹 (1969) 「唐人喜愛牡丹考」
 大陸雜誌社/編 (1969) 『大陸雜誌』七月・第三十九卷・第一・二期合刊
 李桐樹 (1969) 『唐史新論』台灣中華書局
・姚遷・古兵/編 (1981) 『六朝芸術』文物出版社
・吳祚來・陳宏仁/編 (1994) 『中國旅游文化大辭典』江西美術出版社
・黃惠賢/編 (1997) 『二十五史人名大辭典』上冊、中州古籍出版社
・邢春如/編 (2007) 『織染雕刻・下冊』遼海出版社

b) 日本古典書
東大寺写経所/編 (8C) 『續修正倉院古文書後集』卷四十一
 
宮内庁正倉院事務所/編 (1996) 『正倉院古文書影印集成 10』八木書店
・菅原文時ら/編 (950) 『仁和寺御室御物實錄』天暦四年
 前田利為/編 (1902) 『仁和寺御室御物実録』自刊

・作者未詳 (c.1130) 『類聚雜要抄』平安後期
 塙保己一/編 (1980) 『群書類従・第二十六輯』続群書類従完成会
・順徳天皇 (1222) 『禁秘抄』承久三年
 故実叢書編集部/編 (1993) 『改訂増補・故実叢書 22』明治図書出版
・作者年代未詳『東大寺造立供養記』室町以降成立
 塙保己一/編 (1960) 『群書類従・第二十四輯・釈家部』続群書類従完成会
・曲亭 (瀧澤) 馬琴 (1825) 『傾城水滸傳』文化八年
 林美一/校 (1984) 『傾城水滸伝』初編、河出書房新社
・松平菖翁 (1846) 『百花培養考』弘化三丙午年
 国会図書館・近代デジタルライブラリー

c) 日本語文献
・石田幹之助 (1931) 『長安の春』創元社
 復刻 (1979) 講談社学術文庫
・小野玄妙/編 (1932) 『大正新脩大藏經・圖像』第三卷、大蔵出版
・松尾真平 (1960) 『ダリア全書』加島書店
・毛利久 (1964) 『日本の美術 11・運慶と鎌倉彫刻』平凡社
・三山進 (1967) 「伽藍神像考—鎌倉地方の作品を中心に—」
 東京国立博物館/編 (1967) 『MUSEUM』第200号、美術出版社
・井上・辻本/編 (1975) 『奈良の寺 12 興福寺東金堂の諸像』岩波書店
・水野敬三郎 (1976) 『日本の美術 12・運慶と鎌倉彫刻』小学館
・鎌田茂雄 (1978) 『中国仏教史』岩波書店
・切畑健 (1984) 「図版解説」
・狩野 (1990)
 吉岡幸雄/編 (1984) 『日本の意匠 3・牡丹/椿』京都書院
・矢部良明 (1984) 「牡丹と椿」
 
上掲書、所収
・中野徹 (1985) 『展開写真による中国の文様』平凡社
・香取忠彦 (1987) 「洲浜牡丹蝶鳥鏡の発生」
 今永清二郎ら/編 (1987) 『日本の文様9・牡丹』小学館
・伊藤義治 (1987) 「牡丹の植物学」
 上掲書、所収
・伊東史朗/編 (1989) 『日本の美術』第279号、至文堂
・鈴木英夫 (1990) 『狛犬のきた道』本阿弥書店
・林美一 (1990)
・河田卓 (1994) 「『紫檀金鈿柄香炉』をめぐって」
 日本美術工芸社/編 (1994) 『日本美術工芸』674号、自刊
・金子修一 (1996) 「市井の暮らし」
 しにか編集室/編 (1996) 『月刊しにか』七巻・九号、大修館書店
・金子修一 (1997) 「牡丹偏愛」
 しにか編集室/編 (1997) 『月刊しにか』八巻・九号、大修館書店
・杉原たく哉 (1997) 「『唐獅子牡丹』の話」
 上掲誌、所収
・藤倉郁子 (2000) 『狛犬の歴史』自刊
・大山明彦 (2001) 「正倉院の染織品の文様について」
 
奈良教育大学/編 (2001) 『奈良教育大学紀要』第五十巻・一号 (人文・社会)
・藤岡穣 (2002) 「解脱房貞慶と興福寺の鎌倉復興」
 京都国立博物館/編 (2002) 『学叢』第二十四号、自刊
・山川均 (2006) 『石造物が語る中世職能集団』山川出版社
・古代オリエント博物館/編 (2006) 『シルクロード華麗なる植物文様の世界』山川出版社
・奈良国立博物館/編 (2007) 『第五十九回・正倉院展』自刊
・奈良国立博物館/編 (2009) 『第六十一回・正倉院展』自刊
・山脇智佳 (2009) 「『東大寺造立供養記』の成立」
 日本女子大学/編 (2009) 『日本女子大学大学院文学研究科紀要』十五号
・奈良国立博物館/編 (2010) 『第六十二回・正倉院展』自刊
・北啓太/編 (2008) 『別冊太陽・正倉院の世界』平凡社
・尾形充彦 (2008) 「古代織物の織技の研究について」
 宮内庁正倉院事務所/編 (2008) 『正倉院紀要』第三十号、自刊
・栗田美由紀 (2011) 「正倉院宝物花樹獅子人物文綾の意匠について」
 佛敎藝術學會/編 (2011) 『佛敎藝術』318号、毎日新聞社
・加島勝 (2011) 「柄香炉・獅子鎮柄香炉」
 国立文化財機構/監 (2011) 『日本の美術』540号、ぎょうせい

C. 英語文献
P. Hanelt (2001) Mansfeld's Encyclopedia of Agricultural and Horticultural Crops, Springer

D. 参考サイト
・「愛知札所巡り」
 http://www.aruku88.net/tera/602toyokawa/mito/houjuzi-mito/index.html
・「ある現場にて」ブログ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kamo73/43481990.html
・「臨済禅・黄檗禅公式サイト」
 http://www.rinnou.net/cont_04/rengo/2003-10.html
・「京都和装産業振興財団ホームページ」
 http://www.wasou.or.jp/wasou/01/0112/0112_27.html
・龍澤彩 (2010) 徳川美術館・平成二十二年・企画展「王者の華・牡丹」解説
 http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/03/discription.html
・星野情子 (2008) 「土紋装飾の由来」
 「京都造形芸術大学通信教育部ホームページ」
 http://kirara.cyber.kyoto-art.ac.jp/digital_kirara/graduation_works/detail.php?act=dtl&year=2008&cid=552&ctl_id=55&cate_id=9
・尾形充彦「花唐草獅子文綾について」PDF書類
 near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/1379/1/NUE50_1_75.pdf

 

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