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愛知県の猫神・おからねこ

.31 2012 中部地方 comment(2) trackback(0)
※「小野神社の唐猫」の記事は、いったんお休みしています。
しばらくは、各地の「唐猫」を子供たちに紹介していく
シリーズがつづけていきたいと思っていたのですが、
時間的な制約から
子供むけの文体・内容と大人向けの内容の二本立ての記事を保つことが困難となり、
今回からは子供向けの記事は終わりとします。
「唐猫」シリーズは、後少しばかり続きます。御了承下さい。

大直禰子神社
おからねこ
名古屋市中区大須 4-11-20

 
おから猫01  
「大直禰子神社」
 
1. はじめに

名古屋地下鉄「上前津」駅の「12番出口」を出て、南へ徒歩数十秒、距離にしておよそ二十メートルほど行くと、地元の人々からは「おから猫」と呼ばれて親しまれて来た小さな神社が右に現れる。入口の石段の右には、「大直禰子神社」と刻まれた石の社号標が立てられ、左には、町中にしては大きな木が立っている。石段を四五段上った先に石の鳥居が構えており、その奥に「拝殿・覆屋」があって、その下に祭神を祀った「本殿祠」がある。南から訪ねていく場合は、前津通りに沿って「上前津郵便局」の北へ、二つ隣りくらいだったと思う*。
 
* 筆者の「大直禰子神社」訪問は、六年前 (2006) のことである。
 
筆者が、ここの神社を訪ねたのは、実はもう六、七年前のことで、「足助」の番茶や、「新城」「西尾」「四日市」のお茶産地を巡ると同時に、「四日市」や「桑名」、それに「常滑」の名窯を特殊な急須を求めて行脚した際、「大須観音」の骨董市に出かけたときだった。時間が早すぎて、いまだ開いている店は二三店しかなく、やむなく近くを散歩したり、喫茶店で名古屋名物のモーニングを満喫したりして時間を潰したのである。散歩は、十五分くらい真っすぐ東に歩いてから引返したのだが、その切り返し点の近くでふと目に入ったのが、ビルの谷間にちんまりと収まった、由緒ありげなお社だったのである。

このときは、この神社のことは知らなかったのだが、ちょうど社号標の右後ろに当たる、瑞垣のうちに、木製の高札が建てられ、墨書きでこの神社の由来などの説明が記されていたので、これを読んで初めてここの一風変わった縁起などを知ったのである。以下、その説明板の内容を紹介しよう。

大直禰子神社由緒

        祭神 大直禰子命
        例祭 六月十日

当社の祭神は大直禰子命にして人皇㐧八代崇神天皇の御代国内に疫病流行して天皇痛く宸襟を悩まし給ひしが一夜夢中に大物主命 (大国主命) 枕上に立ち給ひ我を大直禰子をして祭らしめよ 然らば国内の疫病直ち止まむとの神告によって河内国に住みし大直禰子命をして祭祀を掌どらしめ給ふ之に依て国内の疫病止まりしといふ (古事記) 之は即ち現今奈良県三輪町鎮座、大神神社 (元官幣大社にして大和国の一宮) 初代の神職にして大直禰子命は之大国主命の子孫なり

尚当社は古来より「おからねこ」の俗称を以て猫の守護の如く云ひ慣ひしも祭神とは何ら関係なきにして家内安全無病息災の霊験あらたかなるものなり
 
現地説明板より
 
当然、このとき初めて、筆者は、えっ、なんか猫に関わる話があるの? と思ったのである。しかし、いくら大都会の「名古屋」でも、こう云う小さな神社に人が朝から常駐しているはずもなく、近くに事情通の御老人などが歩いていないかと目で探ったが、休日の朝に人通りもさほどなく、めぼしい相手を発見することは出来なかった。この時は、しょうがなく、参拝だけして「大須観音」に帰ったのであった。

しかし、縁とは不思議なもので、骨董市も盛りを迎えた頃、筆者がさる骨董屋で急須をいくつか手にして店の主人と話しているとき、ふと、先ほどの神社の話をしてみると、色々な情報が集まってきた。もっとも、店の主人は、「おから猫」は知らない様子で、猫なら「東仁王門通り・ふれあい広場」に巨大な招き猫がいるけど、その神社のことは聞いたことがない、と云うことであった。
 
 大須・招き猫
「大須
・ふれあい広場」の「招き猫」
MAPPLE 観光ガイド提供
http://www.mapple.net/spots/G02301029301.htm
 
 
そんな話をしていると、隣りにいた五十がらみの男性が、「赤門通り」と「新天地通り」が交錯する角に「美奈須 ビーナス
と云う喫茶店があり、そこには木の「招き猫」が祀られているよ、と教えてくれた。でも、新しいものらしいよ、とも付け加えていた。公式ブログ (?) では、百年くらい前のものではないか、と書かれていたが、本当にそうであるなら、「招き猫」としてはかなり古い部類である。しかも、一般にそれほど古い招き猫は、首にひらひらした前掛けを着けていることが多く、鈴に首輪と云うのはもう少し新しいことが多いので、そのタイプとしては、かなり草創期のものと云うことになる。
 
venus.jpg
美奈須」公式ブログ? のバナー

喫茶店
美奈須 ビーナス

名古屋市中区大須 3-19-8
052-241-6686
営業時間 12 : 00 - 17 : 00
日祭は休み

結局、話はこの辺りから大きく逸れはじめ、「招き猫」ならあっちの店にあったよ、何て情報をくれる人もあり、話題は自然に「招き猫」の話に移っていってしまった。筆者は、この頃はまだ「猫神」探訪を始める準備をしている段階で、しかも「招き猫」自体を収集する意図はなかったのだが、話自体は面白かったので、色々な人の「招き猫」話を聞くことにした。そして、ひとしきり「招き猫」話に花が咲いて、一段落がついた頃、そろそろ引上げようと思った筆者が、今一度だけ「おから猫」の話を切り出してみたら、自分ちはそこの氏子だと云う老人に出会えたのである。これはもはや僥倖としか言いようがなかった。

「大直禰子神社」は、地元では単に「猫神社」で通っているそうで、説明板にあった通り、本来は疫病を治す神様だと云う。面白かったのは、この人が祭神を「少彦名神*」だと教えてくれたことである。説明板では、「大直禰子命」だったはずだから、これもまた神社側の主張と食い違うのである。昔は、近所で飼い猫が迷子になるとここの神社に「おから」をお供えして猫が無事に帰ってくるよう願かけをしたとも話してくれた。しかし、祭神が「大直禰子命」だから、「ねこ」の語呂から、「猫」の神様のように云われ始めたのならば、祭神が「少彦名神」であっては語呂が合わない。もちろん、氏子だからと云って、その人の云うことが社頭の説明板より正しいとは断言出来ないが、逆もまた然りなのである。
 
* 少彦名神」は、「大国主命」と共に、我が国の国土を開拓した神であると同時に、古くから医薬の神様として知られている。その意味では「大直禰子命と共通する性格を有している。ちなみに、筆者が話を聞いた老人は、「少名彦神」と云ったか「少名彦命」と呼んだかは定かに覚えていないのだが、ここで「記紀」にしたがって「神」にしておいた。 

話ついでに記しておくと、こう云う議論を嫌う風潮が神職や僧侶、あるいは熱心すぎる信徒や氏子の中にあったりするが、それは大きな勘違いで、むしろこう云ったことが存在するのが、その寺社が生きた信仰の歴史を保持していることの何よりの証拠なのである。あんまり整然と統一されて、齟齬のない縁起などと云うものは、大抵古くとも「明治時代」に、新しければ「戦後」になってから、出来上がったものであったりするのだから。それでも、「戦前」の縁起創成までは、往々にして「明治期」の「神仏分離令」や「神社合祀令」を生き延びるための必死の方策だったり、あるいは御維新で失った諸侯の保護に代わる収入の道を探るためのものが多く、ある種の捏造とは云え、十分に関係者たちの敬虔かつ真剣な討議の上で遂行されたのでまだまだよい。ところが、現代に近づけば近づくほど、信仰の延命と利得沙汰が混淆してくるのは、色々と難しい問題があるのは分かるが、やはり諸手を挙げては歓迎出来ない。しかも、地元の商工会と寺社が結託して人気取りの縁起をつくり出したのなどはまだよい方で、広告代理店に金を払って大衆受けしそうな縁起や伝説をオーターメイドする輩まで現れてくるとなると、尚更である。もちろん、過疎や高齢化が進んでいる地方などについては、やむを得ない場合も多い (でも、タチの悪いのは都会の寺社に多いんだよなぁ...) 。まあ、これらのことも数百年も経てば、「昭和・平成」の頃の文化的風潮として、特筆するに値する文化史的な事項になるのかもしれないが...*。
 
* 筆者は、新しい縁起の創出は絶対駄目だ、と云っているのではなく、それを通してそれ以前の縁起や由来などを抹殺迫害することを批判しているのである。縁起を変えてもいい、と主張するほどに柔軟な考えを持っているならば、次いでに複数の縁起があってもよい、と云う程度の柔軟さを兼ね備えてほしいだけである。自分の主張を通すときだけ寛容さを求め、他人に対しては非寛容と云うのでは、いずれがまともな対応か、およそ知れるものである。こう云う良識が通りにくい世の中になってはいるが...。
 
いずれにしても、色々なヴァリエーションの縁起があるのは、決して恥ずべきことではない。大体、「出雲大社」にしたって、「伊勢神宮」にしたって、その他、どんな由緒正しい寺社だって、完全に統一された縁起を持っているところなんて本当はない。仮に、いまの執行部がそう主張していたって、一部右翼がどんなに騒いだって、古い歴史と、古い記録を持っていればいるほど、こう云うズレは生じやすいのである。したがって、複数の縁起が存在することは、恥どころか、誉れだ、とさえ云えるのである。だからと云って、「
大直禰子神社」の祭神が「少彦名神」だと云うのが、筆者が偶々話を聞いた方の記憶違いじゃないとも限らないから、これを以て何かしらの立場を言い張ろうとは毛頭思っていない。ただ、色んな人の話を聞くのは、面白いと云いたいだけ。
 
そう、筆者はこのとき、また、別の老人の話を聞くことが出来たのである。その人によると、
昔は子供の麻疹や疱瘡に御利益のある神様、いわゆる「疱瘡神」の一種として信仰を集めていたようで、その点では、 祭神の「大直禰子命」の由緒と概ね合致する。当時は、親が子を連れてお参りし、無事治ったときは、神様送りに桟俵の上に「おから」を載せ、その真中に御幣を立ててお供えしたと聞く。「おから」と云うのは、おそらく「おから猫」から来た連想なのだろう。

しかし、それにしても、こんな美しい伝統があったなんて、何で隠す必要があるのだろうか。しかも、後者の風習は、神社の「本来」の由緒とも、見事に溶け合っていると云うのに...。
実は、後で分かったことなのだが、神社の頑な姿勢には、ちょっとした事情が隠されていたのである。その事情については、もう少し後で...。
 


2. 闇に葬られつつある「猫」の由来
 

それにしても、社頭の由緒書きの最後の二行は、「猫神」探訪の徒としては、やや気勢を挫かれる感は禁じ得ない。この時の筆者は偶然の巡り会わせに過ぎなかったが、もしもこれがわざわざ「千葉」くんだりから訪ねた「猫神」の社だったならば、まるで門前払いを食らうようなこの一手には、流石に気も殺がれそうなものである。もちろん、こんなことで意気消沈してしまうようでは「猫神」探訪などと云うマイナーな行脚は出来ないのである。ましてや、ここの神社が、地元では昔から「おから猫」と呼ばれて親しまれてきたと云う確かな氏子の証言を得た上での訪問なのだから、心強さも人一倍である。

神社からすれば、問題はこの「おからねこ」と云う名前にあるのだろう。「記紀」に登場する「大物主命」とか「大田田根子 (大直禰子) 」などのいわゆるビッグネームの方が、「猫」などと何処の路地にでもいる半家畜などよりは有難いと云う思いがあって、躍起に「猫」を否定するのだろうか。しかし、「おからねこ」の伝承だとて、実際には「猫」と決まっていた訳ではなかったようなのだから、そんなに目くじらを立てることもないのに、とは思う。表記上も、「おからねこ」「おから猫」を筆頭に、「御唐猫」「御空根子」などが知られ、それぞれに由緒が語られていたようなのである。「猫」話は、飽くまでも「ワン・オブ・ゼム」に過ぎないのである。

以下、そのような亜流の由緒を紹介してゆく。


A. 「お空猫/根子」系の由緒
 
まず、ここのお社に関する筆者の知る最も古い資料から紹介しよう。資料は、「江戸後期」に成った『尾張名陽図会』である。
 
おから猫01
『尾張名陽図会』巻之六より
 
おから猫

むかしよりおからねこをいひつたふ。或説には往古此地は老人の咄に幸行 ぎやうこう の御車もたちし其跡に社をたつといふ。
 
愚按ずるにむかしより左有事をしらず。しかはあれど持統天皇三河國尾張國へ御幸あり。もし是等に據 よりどころ とせば佳ならん。三州には宮路山 みやぢやま とて御行の跡定しきに、本州には其御舊跡をしらず。これも其跡ならずや。
 
鏡御堂

むかしおからねこといふ所ハ鏡の御堂の事なり。市橋如蘭翁の隨筆の中に相傳ふ鏡の御堂とて到て古く荒はてし堂あり。其中央にハ本尊も無くして小さき三方の上にこまいぬの頭一ツを乘たり。世におこまいぬをおからねこといふ異名をつけたりとぞ。其後年月を經るにしたがひて其堂も跡無。こまいぬの頭をも今はいづちへ行たらんもしらず。しかるに其傍に大なる古榎の大樹ありて枯くちはてて其根斗りのこれるをおからねとよび又はおからねことも云たり。猶此隨筆に有を聞ば尤ときこゆ。
 
高力種信 (c. 1818) 『尾張名陽圖會』卷之六、文化文政年間
国会図書館・近代デジタルライブラリー
 
要するに、このお堂には御神体がなく三宝の上に「狛犬」の頭ひとつが載せてあった。里人はこの「お狛犬」に「おからねこ」と異名をつけるようになった、と云う説である。
 
おから猫04
三宝に載った「おからねこ」
「高力種信」による想像図
 
他方の説は、やがて年月を経るにつれてお堂が跡かたもなくなり、「狛犬」の頭もどこにいったか分からなくなってしまっていた。そして、お堂のかたわらにあった大きな榎の樹も枯れ果てて、根っ子の部分だけが残っていたのを「お空根子 (からねこ) 」と呼ぶようになった、と云う説である。ちなみに、上記引用文中に登場する「市橋如蘭翁の隨筆」と云うのは、現在のところ未詳であると云う。

ここまでは、『尾張名陽図会』の記事に基づいて書いたのだが、次にあげる文章などは、さしたる根拠もなしに、前提的に「おから」と記し、それをまた脈絡なしに、「お空根子」説と折衷しているから面白い。別に非難しているのではなく、むしろ、それほどまでに、地元の人にとっては、「おから」のイメージと用法が定着していると云えそうなことを指摘したいだけである (この後、実はそれどころの話ではなかったことを知るのであるが...) 。
 
昔、鏡御堂というお堂の中に狛犬の頭が一つまつられていた。人々は狛犬を唐の猫と思い、「おから猫」と言っていた。江戸時代後期には御堂も狛犬の頭も無くなってしまったが、傍らにあった榎の大樹が朽ち果てて、根だけが残っていたのを、「おから根」とも「おから猫」とも呼ぶようになった。
 
名古屋市博物館/編 (2006) 『富士見の里・昔の前津』自刊
 
*
 
この節は、結局、『尾張名陽図会』の記事の紹介にとどまった。しかし、その中で現れた「頭だけの狛犬」と「大木の虚ろな洞」と云うイメージは、意外にも後ほど重要な要素として、再登場してくることだけは、ここであらかじめ述べておく。もっとも、その再登場は、次回の記事の中になるのだが...。


B. 「お唐猫」系の由緒

正直云って、以下に紹介する由緒は、おそらくはその著者によって新しく創作されたものである。出典元の『作物志』も、『尾張名陽図会』よりはわずかばかりだが後の成立である。

『作物志』を著した「石橋庵真酔」 (1774‐1847) は、安永三年生まれの戯作者で、「市岡猛彦」に「国学」を学んだ後、「名古屋」の貸本屋の読物作家となり、雑俳・狂俳の宗匠もつとめた文人である。弘化三年 (1847) 十一月二十七日あるいは二十八日に、七十三歳で死去したとされている。名は「時恭」で、字は「豹恵」であった。別号に「増井 (万寿井) 山人」「彙斎 いさい 」。号は「せっきょうあん」「しゃくきょうあん」「いしばしあん」などと訓む。作品には、『小説不実梅』『津島土産』などが知られている。もちろん、この辺りのことは、すべて『名古屋叢書』の解題の受け売りである。

さて、その『作物志』の中の記事なのだが、以下にそれを書き出そう。
 
異獣

城南の前津、矢場の邊に、一物の獸あり。大きさ牛馬を束ねたるが如し。背に數株の草木を生ず。嘗ていづれの時代よりか、此所に蟠 わだか まりて寸歩も動かず。一声も吼ず、風雨も避けず、寒暑を恐れず、諸願これに向て祈念するに、甚揭焉 はなはだいちじるし。然れども人、其名をしらず、形貌 かたち 自然と猫に似たる故に、俚俗都 すべて 御空猫と稱す。
 
石橋庵眞醉 (c. 1840) 『作物志』天保期までに成立
名古屋市教育委員会/編 (1950) 『名古屋叢書』
正編・第十六巻「風俗芸能編」愛知県郷土資料刊行会、p. 274
 
この「石橋庵真酔」の戯文に近い「おからねこ」紹介に関しては、「沢井鈴一」氏が、自身監修の『堀川端ふしぎばなし』 (堀川文化を考える会、2003) の中で、短編の佳品をオマージュとして載せている。なかなか品位もあって暖かく、しかして哀切で渺々とした小品である。機会があったならば、是非とも手にとってみて下さい。
 
*
 
ここから少しばかり、筆者の予断のみに頼って記述するならば、「石橋庵真酔」が上の「おからねこ」のイメージをどこから得たのかについて、個人的には臆見がある。

一つには、
高力種信」が『尾張名陽図会を書くに当たって入手出来なかった、別の地元の伝承を「石橋庵」が手に入れていた可能性である。後ほど詳しく述べることになる「東北」の信仰の一つに、「権現様」信仰と云うものがある。筆者の想像は、この民間信仰を手掛かりに広がるのである。

詳細は、「おからねこ」を巡る民間信仰の背景を理論的に考証してゆく次回の記事に譲るとして、簡単に云ってしまえば、「獅子舞」の「獅子頭」を神仏がこの世に垂迹した仮の姿として、崇め敬う信仰の形態のことである。具体的には、「獅子舞」などを通して、災厄の防除を祈願するのを主とした信仰であるが、「岩手山」などを中心として、一部、「獅子頭」そのものを神として崇める極端な形態へと深化した「権現様」信仰も見られるのである。そして、そのような地域では、野辺や山腹、山頂の祠堂に、石の「獅子頭」を祭る風習がある。

この「石造獅子頭」を祀る信仰形態が、「岩手山」周辺以外に現在も残るかは分からないのだが、筆者のわずかな知見の限りでは、あまり聞いたことはない。しかし、かつてそのような民間信仰が存在したのではないかと疑われる痕跡は、各地に散見される (後に少しばかり記す) 。このことを念頭に入れると、かつてこの系統の民間信仰が、「尾張」地方に存在した可能性も、一概には否定出来ないのである。特に、「狛犬」と「唐猫」を混同した形跡がはっきりと残る「おからねこ」の伝承や、これまた後ほど触れる「岡崎市」の「糟目犬頭神社」の「唐猫」と呼ばれる「狛犬」の存在 (そして、犬頭と云う社名そのもの) などから、この地域にはかつて「狛犬」の頭を崇める信仰が行なわれていたのではないかと疑われる傍証が意外にも豊かに存在するからである。

もしも、かつてそのような民間信仰が行なわれていたが、「東北」を除いて、その他の地域では皆その後、衰退してしまったのと同様に、「尾張」の地でも衰退してしまったと仮定するならば、何故、「江戸後期」の頃には、既に「おからねこ」の信仰の実態が不明になってしまっていたかの説明もつく。「岩手山」周辺の祠に祀られる石造の「権現様」は、古いものは風化し、苔や草に覆われて野辺にあるものも多い。「おからねこ」の御神体だった「狛犬の頭」も、あるいはその信仰が衰退した晩年には、似たような状態で野ざらしになっていたのではあるまいか。そして、その記憶がまだ完全には消え去らぬうちに、「石橋庵」が地元を取材したならば、なくなってしまう前は、朽ちた大木の根本で苔蒸して、草に覆われていたよ、などと云う古老の昔語りを聞けたかもしれないのである。あるいは、「高力種信」が御三家「尾張藩」の馬廻組三百石と云う中級武士の家に生まれ、生涯、藩の重鎮たちと交際があったお堅い教養人だったのに対し、「石橋庵」が狂俳や戯文・滑稽本の類を専らとした市井の文人だったこととも関係して、二人が自らの取材から得た情報が、それぞれに異なっていたのかもしれない。

この他にも、「石橋庵」が、『釈日本紀』巻十二に見える『摂津国風土記』逸文の「夢野の鹿」の説話に触発された可能性と云うのも、考えてみた。あまり露骨に似ている訳ではないが、基本的なイメージの借用による翻案であってみれば、換骨奪胎こそが戯文の命脈なのだから、これくらいの類似は似ているうちに入るのではないかと思われる。個人的には、『日本書紀』仁徳天皇三十八年七月条の同一説話の方が好みなのだが、「石橋庵」の「おからねこ」のモデルたりうるのは、『摂津国風土記』逸文の方なのである。
 
攝津の國の風土記に曰はく、雄伴の郡。夢野有り。 (中略) 昔者、刀我野に牡鹿ありき。其の嫡 むかひめ の牝鹿は此の野に居り、其の妾 をむなめ の牝鹿は淡路の國の野島に居りき。彼の牡鹿、 しばしば 野島に往きて、妾と相愛しみすること比ひなし。旣にして、牡鹿、嫡の所に來宿りて、明くる旦 あした 、牡鹿、其の嫡に語りしく、今の夜夢みらく、吾が背に雪零 りおけりと見き。又、すすきと曰ふ草生ひたりと見き。此の夢は何の祥 さが ぞ、といひき。其の嫡、夫の復妾の所に向 おもむ かむことを惡みて、乃ち詐り相せて日ひしく、背の上に草生ふるは、矢、背の上を射むの祥なり。又、雪零るは、白鹽 あわしほ を宍に塗る祥なり。汝、淡路の野島に渡らば、必ず船人に遇ひて、海中に射殺されなむ。謹 ゆめ 、な復往きそ、といひき。其の牡鹿、感恋 こひのおもひ に勝へずして、復野島に渡るに、海中に行船に遇逢ひて、終に射死されき。 (後略)
 
* 「嫡」は本妻、「妾」は妾 めかけ のこと
 
卜部兼方/撰  (c. 1300) 『釋日本紀』卷十二、文永・正安年間
黒板勝美/編 (1965) 『新訂増補・国史大系 8』吉川弘文館
秋本吉郎/校 (1958) 『風土記』日本古典文学大系 2、岩波書店、pp. 422-423
 
背中に雪が降り、薄が生えて、死に向かう牡鹿は、何となく「おからねこ」に似ている気がするのだが、どうだろうか。この逸話は、寛政十年 (1798) に、「秋里籬島」編纂で刊行された『摂津名所図会』巻四にも詳細に紹介されており、「石橋庵」が仮に『釈日本紀』を閲覧していなかったとしても、こちらは一読していた可能性が高い。最も、若い日に国学を修めた「石橋庵」からしてみれば、『日本書紀』にも異伝が載っているのだから、『釈日本紀』の「夢野の鹿」に馴染んでなかったと云うのは考えにくい。背中に植物の生える動物の話などさほど多くもないのだから、一見すれば印象に残っていたことだろう。

以上、何ら具体的な証拠のないままに、純粋な推測のみを頼りに、「石橋庵」の「おからねこ」の誕生過程を想像してみた。学術的な正確さや可証性はないけれど、さほど突拍子もない推論ではないつもりなのだが、いかがだろうか。



C. 「大直禰子」系の由緒

i) 「大直禰子神社」の誕生秘話

しかし、これら「江戸時代」以来の諸説に対して、「おからねこ」は「大直禰子」が訛ったものとする説が、何てことはない、「明治」の末頃に唱えられるようになった。『前津旧事誌』によると、氏子をはじめその他多くの人々が、この「大直禰子」転訛説に賛同したため、明治四十二年 (1909) 四月に、社名を正式に「大直禰子神社」に改めて、「春日神社」の末社として奉斎することとなったと云う。念のために、原文を引用しておこう。
 
明治半頃まではここは猫の神社なればとて、失踪せる猫の歸來を祈るもの等ありしが、甚しきは死猫の骸をここへ捨てゆくものもありて、近隣の迷惑一方ならざりしとぞ。然るに明治の末年頃に若原敬經、こは奈良にある大直禰子神社を春日三輪の兩社と共に遷せるものにして、おからねこは大直禰子の訛れるなりとの新說を唱へ、氏子其他これに同ずるもの多かりしかば、四十二年四月今の名に改め、春日神社の末社として奉齋することとなれり。 (太字下線、筆者)
 
山田秋衛 (1935) 『前津舊事誌』曾保津之舎
 
前津旧事誌』は、あっさりとこう書いているが、これはなかなか由々しき話である。しかし、それにしても、うーむ、思わぬところで思わぬ人が出てきたものである。「若原敬経」と云えば、明治四十一年 (1908) に『宿曜経真伝』なる奇書をものしたことで、その筋の人々には知られている、「密教占星術」の大家である。かつては幻の本として法外な値段で取引されていたが、近年、復刻されたことから少し入手しやすくなっている (それでも高いけどね) 。でも、興味のある方は、「国会図書館」の「近代デジタルライブラリー」で閲覧出来ます、念のため。

筆者も、この人物については、以前から名前を聞いていただけで、実はほとんど何も知らないのだが、「密教」と「両部神道」を接合した先に、「密教占星術」の極意を見出そうとしていたような印象を受けている。いまのところ、「若原敬経」がどのような根拠を元にして、「おからねこ」の祭神を「大直禰子」だと同定し、いかなる理由で「奈良」の「大直禰子神社」を「春日神社」「三輪神社」と一揃いで遷したものだと断言出来たのかは、皆目、分からないでいる。いまはとにかく、彼の思想大系などは措いて、この件に関する彼の考えの道筋だけでも知りたいと願っているが、これは今後の課題としておく。

ちなみに、筆者は初めて前津旧事誌』の文章を読んだとき、「奈良県桜井市」の「三輪山」西麓に共に鎮座し、一方が他方の摂社でもある「大神神社」と「大直禰子神社」がセットにされているのは理解出来たのだけれど、何で「奈良市春日野町」の「春日山」西麓に坐します「春日大社」がこの鼎立関係の中に含まれるのか、ちょっと分からなかった。

「上前津」に「春日神社」があることと附会させるために、やや強引に「奈良県」の有名な神社を組み合せたかな、などと思ったのだが、よくよく「大神神社」周辺の地図を見てみたら、「大神神社」から見て東南に七百メートルほどの距離に、「春日神社」と云う社が立っていたのである。おそらく、「若原敬経」が「これだ!!」と思ったのも、この三角形だったに違いない。最初に誤解して、御免なさい...。

要するに、下の地図にあるように、「奈良県桜井市」には「大神神社・大直禰子神社・春日神社」が、三角形に鼎立してあり、それを三社揃いで勧請したのが「名古屋」は「上前津」の地だと云う見解なのだろう。
 
大神神社周辺地図
「大神神社〜大直禰子神社 (若宮社) 〜春日神社」
mfweb_88x31.gif
 
ただ、残念なことに、この「春日神社」の由緒がほとんど分からないのである。「奈良県」の「春日神社」は、「摂関藤原氏」の氏寺としてあまりに名高い「春日大社」の存在のおかげで、すべて「藤原氏」系の神社と思われやすいが、必ずしもそうではなく、「奈良」南部の「春日社」は、実は「物部氏」所縁のものが多い。ただ、滅んでしまった「物部氏」よりも、生き残った名族「藤原氏」との縁故を語った方が有利なためか、後世、「物部」系の「春日社」も少なからず、その祭神を「藤原」系のものへと変えていると云う。したがって、「奈良」南部の中小の「春日社」の本来の性格を同定するのは、なかなか困難なことなのである。

ところで、「三輪」の土地は、「大神神社」の祭主であった「三輪氏/大三輪氏」の根拠地である。しかし、この「大神神社」及び「大三輪氏」と、「物部氏」との間には深い結びつきがあることは、その道の人々には常識でも、一般にはあまり知られていない。

「上前津」の「大直禰子神社」社頭説明板で見た通り、『日本書紀』崇神天皇七年八月条に、国中に疫病が蔓延したとき、天皇の夢の誣告で「大物主大神」の祟りと分かったので、その子孫「田根子」を探し出して「三輪山」に「大物主大神」を祀らせたところ、疫病は止んで、国は治まったと云う記事がある。このとき、「神班物者」に任じられ、「大物主大神」と「倭大国魂神」を祭った後、更に八十万の群神を祭って、差配役として疫病の終熄に大きな役割を果たしたのが、「物部氏」の祖とされる「伊香色雄命」なのである。したがって、「大神神社」「大直禰子神社」と「春日神社」が並び立つのは、それが「物部」系であることを考えると何ら不思議ではないのである。

しかし、このこととは別に、よくよく考えて見ると、上の地図の三角形では、「春日神社」だけが、いやに遠くはないだろうか。何しろ、「上前津」の三社は、最も遠い二つの間の距離が四百メートルくらいで、三つともほぼ直線で結ばれているのだから、「三輪」山麓の三角形はやや西南にいびつだと云うことになる。これくらいいいじゃないか、と云う考え方もあるが、一応、念のために、もう一度あれこれ調べて見ることにした。その結果、筆者がまたもや誤解をしていた可能性が高いことが判明してしまった。
 
大神神社・地図03_1
大直禰子神社 (若宮社) 〜大神神社〜春日神社」
mapion_1.jpg
(春日神社は、筆者書込)
 
地図にはほとんど載っていないが、「平等寺」の東方の林の中に、小さな祠堂があるのだが、これが「春日神社」なのである。「平等寺」は、かつて「大神神社」の神宮寺だったのだが、この「春日神社」は、その神宮寺の鎮守社だったようであり、「廃仏毀釈」によって「平等寺」が廃毀されるまでは、この神社付近まで伽藍が立ち並んでいたそうである。現在の「平等寺」は、その後、「河内」から遷された「翠松寺」と云う寺の後身で、本来の「平等寺」ではない。

しかし、いずれにせよ、こちらの「春日神社」の方が、三社一体の連合としては、距離的にも近く、地理的にもほぼ一直線に並んでおり、信仰の性格 (i.e. 大神神社の神宮寺の鎮守) も並べられるに相応しい。ただし、この神社の現在の祭神は「藤原」系の「春日大社」と同じになっており、これだけは過去のいずれかの時点で、「物部」系の祭祀から変えられたのではないかと推測される。そもそも、位置的に、この「三輪」山中に「藤原」系の社が、元から存在する必然性がないのである。

ii) 「若原敬経」説の検証

さて、ここからは「上前津」の「春日神社」及び「三輪神社」について、分かる範囲で、その由緒を概観し、それを通じて「若原」説の妥当性を検証してみよう。

まずは、「上前津」の「春日神社」であるが、ここの古い由来については、文献上、確かなことを知ることは出来ない。「春日神社」の社頭説明板には次のようにある。
 
由緒
  (中略)
当社は創立の起源は称徳天皇の御宇神護景雲年間奈良春日大社創祀に際し常陸国鹿島神宮の御祭神武甕槌命の御神霊を大和国春日山に御遷座の途次当尾張国山田庄 (現社地) に御假泊あらせられたるに因み天暦二年時の郡司藤原某南都春日野を模して春日四柱大神を奉祀したものである
 
その後文亀年間前津小林城主牧与三左衛門尉長清 (正室織田信長の妹) の崇敬を受け牧氏退転の後尾州藩主も亦代々崇敬の誠を捧げ殊に二代徳川光友公の母君乳の疾に惱まれし折神木椎の木を採りて祀られ平癒しその頃より婦女はこの木を崇め何時の頃よりか変じて産の守となった惜しくも戦災の為椎の木は焼失した現在当市中央の地にあり氏子数四千余戸を擁す
 
社頭説明板より
 
神護景雲二年 (768) の「奈良・春日大社」の創建時に関わる由緒と、「常陸国」の「鹿島神宮」から祭神を「大和国」の「春日山」に迎える途中、「郡司・藤原某」による天暦二年 (947) の勧請の間には、二世紀近い時が流れており、この間に何があったのか、気になるところである。寺社の縁起類を見るときに、あまり重箱の隅をつつくようなことをするのは野暮なのは百も承知だが、「上前津・春日神社」の場合は、おそらく「天暦二年縁起」が先にあり、後に「神護景雲二年縁起」が起こり、近年、その二つを上のような形で接合したのではあるまいか。だからこそ「平凡社」の『日本歴史地名大系 23・愛知県』は、「天暦二年縁起」のみを採用しているのではないだろうか。

既に筆者自身の考えは述べた通りであるから、二つの縁起があるからと云って、その神社の尊さを微塵とも揺るがせに出来るとは思わぬが、ただ、「春日大社」の創建云々の辺りは、必ずしも明確ではない、と云うことだけ認識しておけばよいのだと思う。

それにしても、「織田信長」は天文三年 (1534) から天正十年 (1582) までの生涯を過ごした訳だが、文亀年間 (1501-1504) となると、最後の年でさえ、それより三十年は遡るのである。「牧与三左衛門尉長清」の正室は、「信長」の十二番目の妹「おとく (信徳院) 」だったと云うから、いかに「長清」の生没年が未詳とは云え、これはちょっと無理がある。「長清」は天文十七年頃 (1548) に「小林城主」となり (岡田、1923; 8) 、以後、「尾張・名古屋」の留守居のような存在として活躍したとされている。仮に、文亀四年に二十歳の若者だったとしても、「信長」より五十歳年長になる。これは、「春日神社」が自らの由緒を間違えていると考え、「文亀年間」が実は「元亀年間 (1570-1573) 」だったと考えれば、穏当な年代になるのだが、どうだろうか。「牧氏」子孫の「岡田穎斎」による『牧氏始祖墳墓発見録』 (1923) には、天文十七年段階で、「長清」は二十三歳だったと記している。これから逆算すれば、「長清」の生年は大永五年 (1525) 前後と云うことになる。

実際、一方の「三輪神社」の由緒では、「牧長清」による創建を「元亀年間」としている。以下、その由緒書を見てみよう。
 
創建に関しては詳らかではありませんが元亀年間 (一五七〇〜一五七二) に奈良桜井三輪町から小林城 (現在の矢場町交差点辺り) に移った牧若狭守長清氏が深く崇敬する生れ故郷大和三輪山に鎮まります大物主神 (大国主神) を築城と共に鎮め祭ったと言われています。 (下略)
 
「三輪神社由緒書」より
 
ただし、この「元亀年間縁起」にも多少、問題は存在する。それは『尾張群書系図部集』によれば、「長清」が元亀元年 (1570) 二月二十五日には没していると云うことである。もしも「長清」が「元亀年間」に「三輪神社」を創建しているならば、それは元亀元年の一月一日から二月二十四日までの間に、よほど性急に行なわれたものでなければならない。あり得ないことではないが、極めてあり得そうな話とも云えない。これとは別に、『尾張群書系図部集』は「長清」が「清浄寺」に葬られたとも記しており、実際に現在も寺内に墓所があるにはあるのだが、この寺自体が元禄十二年 (1699) に、「海東郡津島」から旧「小林城」の跡地に遷されたものであるから、この年代考証に齟齬があると思われる人もあるかもしれない。しかし、これについては「天野信景」の『塩尻』や、前記の『牧氏始祖墳墓発見録』に詳しく経緯が記されており、どうやら「小林城」廃城後も、祟りの騒ぎなどがあって、旧城跡敷地内に墓所は残されていたようで、後に続く「土方彦左衛門」「柳生厳包」の屋敷時代にも、やや散逸しつつも現存したようなのである。詳しくは、『牧氏始祖墳墓発見録』や、その参照元となった「天野信景」の『塩尻』卷三十「金鱗九十九之塵」卷五を参照されたし (天野、c. 1711 / 岡田、1923) 。

また、「三輪神社」の縁起中の記述では、「牧長清」が「大和」の生まれである、と云うのも少々解せない。筆者は、「尾張牧氏」については、ほとんど知る所がないので、その一人一人の伝記に詳しいはずもないのだが、「長清」が「大和国・三輪山」近郊の生まれだと云う記録は、何か残されているのだろうか。「長清」の父親の「長義」は、大永・天文年間 (1521- ) に「尾張川村北城 (名古屋市守山区) 」を譲られ、そこに居住した後、天文十七年 (1548) に「前津小林城」を築城して根拠としたとされている。「牧氏」は、そもそも「尾張国守護」の「斯波氏」一族で、代々「尾張」に居したものと思っていたのだが、どうなのだろうか。『塩尻』には、「愛知郡長湫村 (長久手) の人」とある。母方の血統も「尾張」の一族であるようであり、前述の『牧氏始祖墳墓発見録』の系図考証にも、「長清」の「大和」生誕説は載っていない。

確かに、文化文政年間 (19C前) に成立した『尾張名陽図会』には「△三輪社 牧氏の建立なり此人は本國大和国の生なれば」云々とあるのだが、これに対する確証のある資料が見つからないのである。「長清」の「大和」生誕説を裏付ける資料に心当たりのある方がいらしたら、是非とも御一報下さい。いずれにせよ、どうもこの「牧長清」を巡る縁起の詳細と云うのは、「春日神社」にしても「三輪神社」にしても、現時点では、あまり確かな話ではなさそうだと捉えておくしかないようである。ただ、「長清」が「前津小林」を領するに当たって、「前津」「小林」の両地域を円滑に納めるために、「前津の春日社」「小林の三輪社」の祭祀を改めて強化したらしいことは、「天野信景」の「城南三輪社、春日社、及び村西芦御堂等をも再建重修せられしと云々」とあることからも、ある程度は信用出来そうである。

ところで、「三輪神社」の由緒書きは、「春日神社」に比べると、その穏健で謙虚な書きっぷりに思わず好感を抱いてしまうのだが、残念ながら、ここに見られる「元亀年間縁起」でさえ、同時代記録による裏づけはないのである。むしろ、寛文年間 (1661-1673) に「尾張藩」によって編纂された村勢調査書『寛文村々覚書』には、この地域の氏神としては「春日大明神、おんない明神」が記されているだけで、「三輪神社」に当たる名前は見当たらないのである。その社名は漸く、宝歴二年 (1752) の『張州府志』に「三輪社」、文政五年 (1822) の『名古屋府城志』に現れるのみであるから、『塩尻』の「三輪社」の記述は、最古の部類に入るのかもしれぬ。

地誌のような文献に載っていないから、その神社は存在しなかったと云う訳ではないのは、そもそも「おからねこ」がどの地誌にも掲載されていないが、『尾張名陽圖會』や『作物志』には、既に存在して久しい旧蹟として紹介されていることからも理解されよう。ただ、それが旧村社あるいは旧郷社クラスの神社である場合、大抵はその村落の鎮守様であったろうから、何かしらの記録に残りやすい傾向は強い。そのため、そのような神社に限っては、文献への登場時期は、その実際の創建時期と、そんなにも離れていないことが多い。「三輪社」に関しては、それが「牧若狭守」時代に、「名古屋」周辺の村落の再編が進められた時代に勧請されたと考えるのが、妥当と思われる。そして、そうであるならば、それよりはかなり古い創建年代を誇る「春日神社」とセットで「大和国」から勧請されたと云うのは、あり得ない話となってしまう。
 
*
 
それにしても「若原敬経」は、よくぞ「春日神社」「三輪神社」「おからねこ」の三社に目を付けて、一セットにしたものである。変な感心の仕方だが、彼の提唱した仮説は、表面上は、実によく出来ているのである。ただ、その仮説を本格的に支える証拠らしい証拠が何もない、と云う欠陥は覆い隠しようがない。それでも、「若原」説に対する、一番有力な援護は、「三輪神社」の社伝にある、「牧長清」が「大神神社」から「三輪神社」を勧請したと云う縁起であるが、これも既に見たように、やや怪しい節があって、真剣に採用することは躊躇される。その上、この三者が同時に「大和」から勧請されたと考えるには、「春日社」と「三輪社」の創建に関わる社伝が、余りに時代的にかけ離れていると云う問題が立ちはだかる。

ついでに云うならば、そもそも、「春日神社」の方が、かなり古くから、自らを「奈良・春日山」の「春日大社」と強く結びつけているようであるから*、少なくともここの神社自身は、「三輪山麓」の「春日神社」のいずれかと自らを関係づけるつもりは、さらさらないようなのである。また、逆に、「若原」の唱えていた元の「春日社」と云うのが「春日大社」だと云うならば、何故、「大神神社」や「大直禰子神社」とは地理的にもかなり離れ、まったく異なる氏族の氏神を祀る社を組み合せて「上前津」の地に遷したのかの説明が必要とされる。
 
* このことは「春日社」近くの池を、「春日大社」近くの有名な池にちなんで「猿沢の池」と呼んでいたことからも明らかである。参照「△春日大明神 (中略) 當社は牧氏城の近邊にまつる所にして別建立なり 又此邊に大池を堀りて猿澤の池をうつさしむ今にいたりてその地を池の内といふ (下略) 」『尾張名陽圖會』
 
敢えて傍証らしき事例を挙げるならば、伝説の「田根子」は、「須恵器」を焼く窯群のある「河内国・茅渟県・陶邑」 (大阪府堺市東南部の陶器山からその西方にかけての地域) に住していたとされていることであろうか。何故なら、「おからねこ」からも程近い、「大須」の南西に当たる「正木町遺跡」などからは、「陶邑」形式の「須恵器」が多数出土していることが報告されているからである (城ヶ谷、2007 etc.) 。もちろん、この遺跡の発掘が開始されたのは「戦後」のことで、明治四十年頃の「若原敬経」がこんな事実を知るはずもなかったのであるから、もしも彼の仮説が当たっているならば、それは物凄いことである。

この他にも、「大須・前津」の土地は、「大田田根子」の故郷である「河内国」の「陶邑」と関わりそうな、間接的事由が多くある。例えば、「前津小林村」の東隣りの村は「御器所村」と云い、『熱田御祭年中行事記』によれば、その名の由来は、「熱田社」へ土器 かわらけ を貢進していたことによると云う。文献上の初見は、『吾妻鏡』文治六年 (1190) 四月十九日条で、「尾張國松枝保御器所長包庄」と記されている。また、近くの「新栄一丁目」の土地は、かつて「瓦町」と呼ばれていたが、『名古屋府城志』によれば、この地に瓦師が居住していたことによると云う。『塩尻』卷之三十「金鱗九十九之塵」では、瓦師頭「齋賀六左衛門」などが住んだと云い、『尾陽寛文記』には瓦師「十左衛門」が住んだために「瓦町」と呼ばれたとある (大日本地名辞書) 。また、「春日神社」の北、「萬松寺」に続く森は「隠れ里」と呼ばれ、陶物師「豊八・豊助」が住んだと云う。要するに、古代以来、「大須・前津」周辺の地は、陶器造りとは一貫して縁深い土地柄であったのである。

話ついでに、もう一つだけ述べておくならば、「河内国」の「陶邑」は、その遺跡の発掘調査から、「奈良時代」以降、急激にその「須恵器」生産を減少させ、十世紀頃には土器制作は完全に途絶したと考えられている。原因はいくつか考えられているが、この地区では既に九世紀には土器制作民の間で土器焼成用の薪の伐採を巡って争論が生じており (三代実録) *、長きに渡って近在の森林を伐採し尽くしたことによる、良質の薪炭材の欠乏が一因に挙げられている。一方、「陶邑」の粘土層 (大阪層) は、「瀬戸」の「猿投窯」から広まったとされる新たな施 (灰) 釉陶器の焼成をするには耐火度が低過ぎたため、この新潮流に乗れなかったことが、薪材の不足と相まって、「陶邑」の衰退につながったとも考えられている。そして、このことは逆に推測すれば、この時期に「河内国・陶邑」から、新しい施釉陶器の生産に適した土地への制作工たちの移動があったとも考えられるのであり、そのような移動先の有力候補の一つに、「瀬戸」に近い「須恵器」産地だった「大須・前津」界隈を含むことは、決して飛躍ではないのである。また、この推定時期が、「上前津・春日神社」の「天暦二年縁起」と時期的に合致するのも興味深い。
 
* 『日本三代實錄』卷二・貞観元年四月「○廿一日丙午 (中略) 河内和泉兩國相爭燒陶伐薪之山」云々とある。
 
だが、誤解しないで頂きたいのは、筆者は、「ここで極めて穿った見方をすれば」「かなりの飛躍的な推論を重ねれば」と云う前提で、以上の議論を提示しただけだと云うことである。今後、より直接両者を結びつける資料を発掘しない限り、ただ「明治末」に新しく決定された「おから猫」の祭神「大田田根子」を以てして、「河内国・陶邑」と「大須・前津」界隈の土地を直接的に結びつけることは出来ないのは、言を待たない。
 
*
 
要するに、「若原敬経」の推論は、「上前津」の地に「三輪神社」と「春日神社」があり、その間に「おからねこ」と呼ばれている由緒が不確かな古社があると知って、各地の神社に関する自らの該博な知識を動員して、「おからねこ」の「ねこ」が、「奈良県」の「三輪」山麓にある「大直禰子神社」の「禰子」に当たれば、この地の 「大神神社」「春日神社」「大直禰子神社」との対応関係が成立すると考えたことに拠るのであろう。ただ、これは純粋に本人の主観的な直観に過ぎず、論拠として認めうる性質のものではないのは、上に見た通りである。それに、「大直禰子」が訛って「おからねこ」になったと云うのも、よくよく考えてみるとかなりのこじつけである。「お」と「ねこ」は分かるとして、一体どう訛れば「ただ」が「から」になると云うのだろうか。

結局、この一連の議論を通して、我々が明白に理解出来たことはただ二つ、現在の「上前津」の「大直禰子神社」は、①かつては「おからねこ」とのみ呼ばれており、「大直禰子神社」と呼ばれ始めたのは明治四十二年 (1909) からであると云うこと、②祭神が「大直禰子」だと云うのもこのときに決められたことだと云うこと (これは江戸期の書物に祭神名の記載がないこととも一致する) 、くらいなのである。『前津旧事誌』は、「明治半頃まではここは猫の神社」だったとまで言い切っている。

①に関しては、「江戸期」の『尾張名陽図会』に「鏡の御堂」と云う名が仮に挙げられているが、これもまた、同書執筆時点での仮説の一つとして紹介されているに過ぎない。当時、既に「おからねこ」と云う呼び名以外は、はっきりとしなくなっていたことが読んでとれる。②に関しては、現在でも、一部の氏子によって、祭神は「少名彦神」だとされていて、混乱が見られることに現れている。大直禰子」も「少名彦神」も、いずれも医薬の神と云う側面がある。

要するに、古い記録を見る限り、この社に「〜神社」のような社名は確認出来ず、単に「おからねこ」と呼び慣わされていたことだけが分かり、「おからねこ」が 「大直禰子」の愛称であるかのように主張する現在の神社側の主張は、完全な誤りであると云うよりも、まったく本末が転倒した説明であることが知れるのである。真実はその逆で、 「おからねこ」と云う呼名から、「大直禰子」が連想されたのである。「名古屋市丸田町」の交差点に遺る「江戸末期」ごろの道標にも、「おからねこ道」とあり、それが当時の人々の標準的な呼び方であったことが分かる。

それにしても、地元の人々は、意味もなく神社名を変えたり、新しい祭神を創出したりはしないだろう。そこで、明治四十二年前後に、そのような動きを生み出してしまう社会的な背景があったのか、少しく探ってみたいと思う。

しかし、
今後の検討課題として辛うじて残されたのが、「陶邑」と「大須・前津」の「須恵器」生産集団とのつながりを巡る議論なのだが、このことについては、「大阪府」の「猫神探訪」で「陶器山・猫坂の猫」を扱うときに述べてゆこうと思うので、今回は割愛する。



3. 「大須」の町と「猫」のイメージ性

a) 「精進川」と「おからねこ」

「大直禰子神社」の「おからねこ」とどの程度関係あるかは未知数なのだが、
「大須」界隈には「猫」のイメージが秘かに漂っている。既に触れたように、「東仁王門通り・ふれあい広場」には巨大「招き猫」がでんと構え、「赤門通り」と「新天地通り」が交錯する角の喫茶店「美奈須」には木の「招き猫」が祀られていると云う。しかし、これらはすべて近年のもので、「大須」の再開発や、個人の趣味が、偶然「招き猫」と云う接点を持ったものに過ぎない。

しかし、「ふれあい広場」の「招き猫」を見れば分かる通り、二頭身のフォルムに、くっきりと大きな垂れ目とくれば、これは、今ではすっかりスタンダードとなってしまった「常滑」系の猫である。ただし、このタイプの「招き猫」の流行は歴史的には新しく、せいぜいが「戦後」から流布したものに過ぎない*。それ以前の「招き猫」となると確実なことは云えないのだが、中部圏では少なくとも「瀬戸」のものが主流だったはずである**。ピエロのような多色のヒラヒラした襟のような前掛けを着け、すらっとした、より実際の猫に近いフォルムの「招き猫」だった。
 
* 現在の主流となっている「常滑」系の「招き猫」のデザインは、「常滑市」の「冨本人形園」の「冨本親男」氏が生みの親だと多くのメディアで断定調に書かれることが多いが、「親男」氏が「招き猫」の生産を手がけるようになったのは昭和二十五年頃からだと云うから、既にそれ以前から存在した二頭身かつ垂れ目で小判を持った「招き猫」を「冨本」氏が単独で創造したかのような認識は誤っていると云わざるを得ない。筆者の知る限り、二頭身の「招き猫」は、「三河土人形」系の産地で「戦前」から少しずつ現れ始め、「愛知県半田市」の「乙川土人形」では早くから垂れ目で小判を持った、現在の「常滑」系の原型と一目で分かる作品が造られている。

** 昭和六十三年に出版された「宮崎良子」氏の『招き猫の文化誌』では、氏が「常滑」の「陶美園」の「伊藤」氏に取材して、「常滑」の「招き猫」は氏が四十四、五年前に「乙川土人形」を真似て造ったのが始まりだと云う回答を得ている (宮崎、1988; 122-123) 。
ただし、同書で「宮崎」氏が「瀬戸」最大の「招き猫」業者である「丸靖製陶所 (まねきねこや) 」への取材で、「招き猫づくりを始めたのは約二十年程度前からで、常滑から伝わってきた (ibid., 127) 」と教えられたことを根拠に「瀬戸焼きの猫よりも、常滑焼の方がその歴史が古い (ibid., 122) 」と述べているのは、完全な誤り。これは「常滑」系の「招き猫」のことで、当の「丸靖製陶所」自身が、「戦前」から「瀬戸」系の「招き猫」を製造しており、現物も型も残されているのである (阿木、1996a: 60 / 1996b; 78) 。また、「立命館大学・木立雅朗」教授らは、近年「五条坂・かわさき商店」で発見された「招き猫」を含む大量の色絵磁器人形が「大正期」を中心とした「瀬戸焼」であり、 「瀬戸」の「西茨1号窯遺跡」からも類例が出土していることを確認している (木立、2011 etc.) 。やや詳しくは後述。 
 
丸靖製陶所・招き猫
「丸靖製陶所」ホームページより
「戦前」の「招き猫」の復刻版
http://www2.ocn.ne.jp/~maruyasu/index.html
 
ただ、今見ればやや奇妙な感じのする「瀬戸」系の「招き猫」が、「招き猫」界のモードの先端を走っていた頃、「名古屋」には「堀川駅」と云う名鉄瀬戸線のターミナル駅があった。元々、「瀬戸」の焼物を遠隔地に移出・輸出する場合、「瀬戸川」から「矢田川」に船を流して「庄内川」に入れ、途中、「堀川」で荷揚げして「名古屋」市中に運ぶか、そのまま「堀川」を辿って「名古屋港」に持ち込んだものだったと云う。明治四十四年 (1911) に開業した「堀川駅」は、この古来の水運と新時代の鉄道と云う陸運を合体させた、当時の貨物輸送の新機軸だったのだろう。そして、一方では、その時代まで地域を支えた川運に、最終的な引導を渡すことになった、一連の出来事の始まりの一つでもあったであろう。

「堀川」と云うのは名の示す通り、天然の河川ではなく、人力によって掘削されたいわば運河であり、「名古屋市守山区」で「庄内川」から取水する形で発祥し、市の中心部を南流して「伊勢湾」に注いでいる。「庄内川」が直接「名古屋港」に出ないのに対し、「堀川」は元々資材の積み出しのために掘削された堀だけに、「名古屋港」にそのまま接続する。そして、それ故に、かつてはこの地方の舟運の中心的な川だったのである。歴史的には、慶長十五年 (1610) 、「福島正則」が「名古屋城」築城のための資材運搬を目的とした水路を掘削したのが始めと云う。

この「堀川」は、「名古屋城」の西側を回り込みつつ、「熱田台地」の西を流れてゆくのだが、この「熱田」の地とお城の間に挟まれたのが「大須」の町で、元はお城の南を外敵から防御するために、巨大な「寺町」として計画されて造られた町であった。この「寺町」と東西の水流を利用して、城の防衛を図ったのであろう。したがって、「大須」の地は、地名が「大洲」に通ずるだけに、西をこの「堀川」、東を「精進川」に囲まれた水の豊かな土地なのである。

中でも「大須」の東側に当たる「前津」の辺りは、名前の示す通り、豊かな湧水の見られる「精進川」沿いの低湿地だったのであり、蛇行する「精進川」が溢れればすぐにも水没する土地であった。「天野信景」の『塩尻』巻三十「金鱗九十九之塵」によれば、「前津」の地名は、かつてはすぐ南の「古渡」の辺りまで「熱田」の海が湾入していた頃の船着場であったため「前の津」と呼ばれたと云う説と、海辺の「舞鶴」に由来すると云う説の、二説を紹介している。

「大直禰子神社」附近の「上前津」は、これまた名前の示す如く、本来は、低湿地の「前津」に望む高台なのである。いまは土地整理などで、大分地形が変わってしまったそうだが、かつては「上前津」から「鶴舞」方面にかけては、「幽霊坂」だの「宇津木坂」だの、幾多の坂があったと聞く。

さて、「前津」を流れた「精進川」は、かつて「今池」附近の「古井村」を源流として、「前津小林村」「御器所村」と、南に「名古屋台地」を流れ、「熱田」で「堀川」と合流していた。川の名前は、昔「熱田神宮」の社人が六月の「名越の祓」に際して「鈴の宮 (元宮) 」の傍らを流れるこの川で禊をしたことに由来すると云われ、「熱田」では別に「僧都川」とも呼んだそうである。普段は、湧水量の多い美しい川だったが、その紆余曲折する川道は頻繁に洪水を引き起こすことで知られていた。

この川の治水は為政者にとっては頭痛の種であり続けたのだが、予想される膨大な費用が枷となって、工事はなかなか実行に移されなかった。そのため、藩政時代の文政十三年 (1830) 以来の懸案だった「精進川」の水利工事は、ようやく明治四十三年 (1910) になって、現在の「新堀川」の流路に付け替えられることになったのである。そして、旧川道は、大正十五年 (1926) までに完全に埋め立てられ、今はもうない。しかし、この付け替え工事の後も、新しい川自体はしばらくの間「精進川」と呼ばれていたと聞く。その辺りの消息を知るために、ここで『前津旧事誌』を参照してみたい。
 
此工事起こるや工區を四區に別ちしため請負者を異にせる區境に於ては土工の紛爭しばしば起り、ために土運車に拔身の日本刀を突立て或は腹卷の間に短刀を包むなど、工事場の土工間に殺氣滿ち滿ちて一時は付近住民ら安き心なく、婦女子らの通行杜絶せる事ありたり。尙竣工後此川に入りて水死するもの多かりしかば、これ精進川といふ名の祟りなりとて (佛敎にては死者のあるとき又は佛の命日には精進する慣しなるより連想して) 新堀川と改められしが、かくても尙入水者絶えざりしかば前津邊にてこれ「死に堀川」なりと噂せり。
 
山田秋衛 (1935) 『前津舊事誌』曾保津之舎
 
郷土史家「沢井鈴一」氏によると、『大井学区町の沿革誌』には、さらに陰惨な話が載せられている。
 
新堀川の工事中、土工の某が瀕死の重傷を負った。なぜ、自分はこんな事故で死ななければならないのか。自分の運命と世の中を呪った土工は「自分は、あの世から、この川で千人の人を死なしてやる」と言って息を引き取った。その後、何人もの人が新堀川に魅せられるようにして生命を断った。
 
『大井学区町の沿革誌』
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行・精進川の霊—乗円寺」より引用
http://network2010.org/article/548

この記事を『前津旧事誌』の記事と照らし合わせると、この重傷を負った土工の怪我の元と云うのは、もしかしたら工事中の事故ではなく、土工同士の出入りだったのではないかと想像されてしまう。また、その方が、土工の呪詛の言葉とすんなりつながるのである。いずれにせよ、この「祟り」のせいか、あるいは単に川の底が泥土で、一度、川にはまったら二度と浮かばないと云われたためか、工事が終わってからも、川で身投げをする者は後を絶たなかった。そのため、当時の「乗円寺」住職「中井俊童」は、土工の霊を慰めるために近在の人から浄財を募り、明治四十三年 (1910) 、一体の石地蔵を建立した。「新堀川」沿いには、この他にも、「宇津木橋」の南側に水死者の霊を供養する碑が、同じく明治四十三年に建てられ、いまに残っている。川の名前が「新堀川」に変えられたのは、慰霊碑が建てられた翌年の明治四十四年だったと云うが、その証を立てるかのように、「宇津木橋」南の石碑台座には、いまだ「精進川 溺死者諸群霊」と刻まれている。
 
*
 
この辺りで、「おからねこ」に話を戻すと、この神社の社地が、現在の場所に遷されたのは、およそ四十年ほど前のことだそうで*、それ以前は元の「長松院」のすぐ脇にあったのだが、地下鉄工事で移転を余儀なくされたと云うことである。「長松院」は、現在「大須 4-14-44」にある「曹洞宗」の古刹であるが、この寺も元は「春日神社」の東隣りに立っていたらしく、「大直禰子神社」と共に現在地に移転させられたようである。要するに、「大直禰子神社」も「長松院」も、本来は「大津通」の「上前津」交差点の北側辺りにあったのだろう。今度、古い地図を探して確認してみよう、などと思っていたら、偶然「名古屋市博物館」発行の『名古屋城下図集・幕末編』と云う簡易な古地図集を手にとる機会に恵まれたのだが、やっぱり「長松院」は「春日神社」とくっついていて、いまの「上前津」交差点の北側にあった。ただし、残念ながら、「大直禰子神社」も「おからねこ」も、この地図集には記載されていなかった。もっと本格的な古地図を見ればあるのだろうか。
 
* 伝聞情報。ちゃんと市町村史で調べたり、役所に問い合わせたりしていないことをお詫び致します。そのうち、きちんとした調査をする機会を狙っています (こればっかり...) 。おそらくは、昭和四十二年 (1967) の「名城線・上前津駅」開業時のことではないかと思っている。
 
しかし、このような「おからねこ」の歴史的変遷との関連で、古地図を見ながら、上記の「新堀川」悲話に再び耳を傾けると、また別の事実が浮んでくる。それは、現在の地図からでは分かり難いことだが、「おからねこ」の「大直禰子神社」は、かつて水の豊かな「精進川」とその周辺の掘割に囲まれた高台に立つお社だったと云うことである。

氾濫を繰り返す低湿地と云うのは、近代的な水利と衛生防疫の知識がなかった時代には、しばしば疫病の大発生地になったことが知られている。あるいは、死病に罹ったものを河原に棄てると云う風習も、かつての都市部では広く行なわれたと聞く。それに、「精進川」の付け替え工事とは関係なく、実はその以前から身投げは多かったものと思われる。「熱田神宮」の精進潔斎と、低湿地での氾濫疫病、それに無数の水死者と云うイメージを重ねると、疫病除けのお社としての「
大直禰子神社」の存在が、別の意味で深みを増してくる。堂社や「おからねこ」の頭部が失われてしまったと云う現実自体が、実は、「精進川」が過去には繰り返し氾濫して猛威を奮ったことの傷跡だったのかもしれない。

既に述べたことだが、『作物志』のお話は、おそらくは「石橋庵」先生の洒脱な作り話だとは思うのだが、「
石橋庵」は次のように想像したのではなかろうか。あるときまで境内に遺されていた首だけの「唐猫」と云うのは、かつては五体満足だった彫像が、洪水に流されて、堂社や胴体とは別れ、首だけ泥砂に埋もれて発見されたのだ。見つかったときは、苔や草に覆われていたのではないか。そして、三宝に祀られた後、またしても行方不明になるのだが、その後もきっとどこかの野原で、砂礫と塵埃にまみれ、草木に覆われ、時と人と、その推移を見守っていたに違いない、と。そんな想いが、「石橋庵真酔」の寓話の裏に隠されているように思える。

しかし、筆者は、これに対して水を差さねばならない。筆者は、「おからねこ」と呼ばれた狛犬の頭部のような御神体は、元あった彫像の欠落した部分なのではなく、初めから頭部として造られた、現在の「獅子頭」のようなものではなかったかと考えている。「獅子頭」やそれを使った「獅子舞」が、本来、疫病などの災厄を払う目的を持った祭物であることはよく知られるところだが、それと「おからねこ」の「疫病払いの神」としての性格が似通うことからも、筆者の推測に一定の信憑性が得られるものと思う。このことについては、既に述べた通り、次回の記事でより詳しく触れたいと思う。
 
*
 
ここで、ちょっとおまけの話。

現在の「名古屋市千種区」には、「猫ヶ洞池」と云う大きな池がある。昔は、「上池」と「下池」の二つがあったそうなのだが、現在は「下池」だけが残されている。この池は、「江戸期」には農業用の溜池として利用され、ここから引かれた「猫ヶ洞用水」は、周囲の村々の灌漑に一役を買っていた。今は周囲に水田などあるはずもなく、この池を水源とした「山崎川」もすっかり暗渠化され、「猫ヶ洞通り (
キャットロード本山商店街) 」と名を変えてしまっているため、この通りが南方で、「末盛通り」とぶつかる「本山」交差点付近までは、流路を見ることすら出来ない。

この「猫ヶ洞用水」と云うのには、実は二つの流路があったようで、一つは現在の「徳川園」付近の「大曽根屋敷」方面の灌漑を目的とし、他方は「御器所」方面の灌漑に利用されたようである。既に、『
延享二年村絵図』 (1745) において、東部台地を南下して、「大曽根屋敷」から「井戸田」にかけての「名古屋新田」の水田化に役立つ水路と、「辰ヶ池」を通って「精進川」へと入る水路の二つが描かれている。『天保村絵図』 (c. 1840) では、「末森村」の「猫ヶ洞池」と「古井村」の「蝮ヶ池」を水源とする「新川 (長根川) 」が、「御器所村」の西で「精進川」に合している様子が見て取れると云う。

「猫ヶ洞池」の名前の由来については、一般には
、池が作られた当時のこの地の地名である「兼子山」が転じたものだとされている。より具体的には、「明治」頃まで、池の周辺は「金児硲・金子狭間 かねこはざま 」と呼ばれていたが、この「金子」が「猫」に、「はざま」は「洞」と同じく丘陵の谷間のことだから、「金子はざま」が「猫ヶ洞」に転じたのだと云う説もある (小林、1984) 。この他にも、「磯谷滄州」が中国の「猫堂」に因んで名づけたと云う説などもあり (千種区婦人郷土史研究会、1983) 、どれも尤もらしくは聞える。

「猫ヶ洞」については、いずれ丁寧に扱う機会があろうかと思うが、筆者は「兼子山」転訛説や、
「磯谷滄州」の「猫堂」説には、はっきりと懐疑的である。それは、同じ「中部地方」の「岐阜県」にも「猫ヶ洞」と云う地名が見られるからである。これは、「千葉県浦安市」の「猫実」と云う地名について述べたときにも力説したことだが、たとえ珍しい地名の由来説明が地元に残っていたとしても、近接地域に同じ地名があり、かつ別の地形、あるいは別の地名起源を有していたならば、どちらの由来も、精査なしには事実として認めることは出来ないと云う原則を筆者は採用している。特に、「兼子山」説・「猫堂」説のように、はっきりとその地元にのみ限定される起源説明は、他所の地に同一地名があった場合、その信憑性は大きく揺らぐと云わざるを得ない。

もちろん、「猫ヶ洞」に関しては、それが「猫」と直接関わる地名なのかさえ、筆者には確証がない。古い地誌類には、「猫ヶ洞」にまつわる伝説は、あまり伝えられていないようであるが、比較的新しい書籍には、「猫ヶ洞」の伝説を載せるものが、一応、二三はある。それらを総じて見ると、「猫ヶ洞」の伝説には、大きく二つの系統があるようで、一つは「猫ヶ洞の鬼婆」系 (eg. 小島勝彦、1975 / 黒柳、2001) で「猫」は登場せず、他方は、「猫ヶ洞の化け猫」系の説話である
(eg. 毎日新聞社学芸部、1975)

しかし、「猫ヶ洞池」は、「上池」が寛文四年 (1664) 、「下池 (大池) 」が寛文六年 (1666) に造成されたものであることが、歴史的に分かっているのだから、「中世・那古野荘」の時代にまで遡ってその起源を語る
「猫ヶ洞の化け猫」系の説話は、逆に、その説話が「寛文年間」以降の創作であることが証明されるのである。「猫ヶ洞の鬼婆」系のものにしても、その話型はより古いかもしれないが、こちらも「猫ヶ洞池」の起源を語っていることから、自らの新しさを露見しているのである。

ただ、このことを以て、「猫ヶ洞」と云う地名自体が新しいことの証明とすることは出来ないのは云うまでもなかろう。だが、現時点で筆者は、この地名の起源に関して、新たな自説を唱える準備もないので、ここでは「猫ヶ洞池」からの水流が、「大須」の真南に至っていた、と云う事実だけを、何かしらの符合であるかのように提示しておくことに留める。実際、筆者にとっても、このことは、それ以上でも以下でもないのである。


b) 「旭廊」と「猫飛び横丁」

さて、今度は「大須」の話をしよう。

現在の「大須」の土地がいわゆる「大須観音」を中心に発達した門前町であることは言を待たないが、この地の東には既に見たように、往時の「名古屋」物流の動脈であった「堀川」が流れている。この「観音様」から「堀川」までの間の地は、「堀川端」などとも呼ばれ、古くはここの門前町の中でも指折りの歓楽街を形成していた。

「大須」の歓楽街の原型は、「徳川宗春」の開放政策に基づき、城下にそれまで禁止されていた芝居小屋や遊廓を造ることが許可された際の享保十七年 (1732) 、「前津小林村」の南、「長栄寺」の東辺りに営まれた「富士見原遊廓」に見ることが出来る。この遊廓は、四年ほどで廃止されたが、以降も風光明媚なこの地には、料亭や茶屋などが開かれ、質素ながら遊侠の風流子などを多く集めた。藩の重臣で、文人としても高名な「横井也有」の別荘地でもあり、「北斎」の『富嶽三十六景』にも「尾州不二見原」の一枚がある。

その後、この地域の歓楽街は、「幕末」の「安政年間 (1854-1860) 」に、「玉屋町」 (現・中区錦) の宿屋「笹野屋庄兵衛」の上願により、「大須観音」の北にあたる「北野新地」
に役者芸人の宿が置かれたのを受けて、やがては遊女を置く私娼も現れ、本格的な歓楽街としての様相を帯び始めたと云われる。維新後の明治七年 (1874) 十月には、「大須」の「北野新地*」が公認の遊郭に指定されたが、翌年、より広い敷地を求めて「西大須」に移転した**。この遊郭が「旭廊」と名付けられたのも、元の「北野新地」があった「日之出町」に因んだものだと云う。
 
* 北野新地---現「北野神社」付近。「清安墓地」の南、「大光院墓地」の西の区画。
**
北野新地の南西、園町以東。「大須観音」の堂裏、「堀川」以東の五箇所。
 
この地は、大正元年 (1912) には、「萬松寺」が寺領の山林を一般の商業用地として開放したのが切っ掛けで、遊郭のみならず、劇場、演芸場、映画館などが軒を並べる「名古屋」随一の歓楽街として栄えるようになった。しかし、「名古屋市」の拡大に伴い、遊郭が市街地と接することになり、風紀の面と用地不足が問題となり、大正十二年 (1923) には、現在の「中村区大門地区 (旧・中村) 」に移転して「中村遊廓」へと発展解消された。

ところで、「明治」から「大正」にかけて隆盛したこの「旭廊」にあって、その中心街たる「花園町」から、一本北に入った路地は旧「音羽町」と云った。東西を「常盤町」と「富岡町」に挟まれた小さな町である。そして、このささやかな遊郭の一角には、かつて胸を締めつけられるような哀切な俗地名があったと云う。その名も「猫飛び横丁」...。

えっ、何で哀切かって? 籠の鳥である遊女たちが、抜け出すことの出来ぬ窓の向こうの、狭い路地の庇の間を飛び交う「猫」たちを見ていたのかと思えば、これが哀切じゃなくて何だと云うのだろう...。しかも、「猫」と云うのは、「遊女」たち自身を指す隠語としても広く普及した言葉だったことを思うと、なおさらその感が強められるのである*。いつか自分たちも本物の「猫」のように、自由にこの横丁をひとっ飛びしたい、そんな思いが隠されているように感じられるのである。
 
* 遊女や芸者を「猫」と異称するのは、少なくとも「江戸中期」から行われているが、これについて多くある文献的な例証はここでは省く。ただし、大正十年 (1921) の「樋口紅陽」による『芸者哲学』と云う書に、「其の何れのためかは判明せぬが、既に猫と言へば藝者の別名であるといふ事は、金と言へば錢の別名であるといふ如く、兒童と雖も能く之れを知るところであります」とあるのだけは、この用語法が比較的近年まではかなり行き渡っていたことの例証として挙げておく。
 
この「猫飛び横丁」について、「堀川文化を伝える会」顧問の「沢井鈴一」氏は、端的にこのことを述べておられる。
 
二階のひさしからひさしまで猫が飛び移れるほど狭い町で、猫のような自由を求めた遊女の境遇を、俗名として呼ばれた『猫飛び横町』から思い浮かべることができる。
 
沢井鈴一・講演「猫飛び横町 おから猫」
第29回堀川文化講座「大須路地裏ものがたり 猫飛び横町おから猫」 報告
http://www.city.nagoya.jp/ku/naka/machi/miryoku/horikawa/h_21/nagoya00075524.html
 
実際、明治末期に執筆された「名古屋」の遊郭案内記の一種には、次のようなくだりがある。
 
猫飛びある記
 
富岡町の各樓を素見果てし西側を 御園にぬける小路あり いと狹ければ猫飛びと 誰がつけたるか面白し 軒近ければ しかいふかわれも軒下傳ふ猫 北のかゝりを美の宇とて こゝにお職はまるぼちやの愛嬌ざかり賣れざかり それにも似たる勝山は 瓜實ならでまる切の 其片われとしられたり したゝるゑがほこがね齒の げにすてがたきけしきなり ある人が

みのうへのこともわすれてあそふかな
けに勝山のけしき みとれて
 (中略)
次を松花樓といふ いろに秋花みつる花 まぶの色花 ひとよ花 月の花山さむし花 よし花つけてあげずとも 一言こゑをかけしやんせ 客をまつ花線香花、仲居は客の花をまち 小猫も緣のはなにねて はなをならすか面白し
 
福田由道/編 (1911) 『花くらべ』梅之卷、花競會、pp. 41-42
 
明治八年に誕生した「旭廊」が、大正十二年には、旧「中村」 (現・中村区大門地区) に移転して「中村遊廓」となったことは、既に触れた。ここで変に法令史に詳しい人なら、明治八年にせよ、大正十二年にせよ、どちらの時期も既に我が国では娼妓たちの身体的な拘束を禁止する法令が出されて久しいのではないか、と疑われるかもしれない。

確かに、明治五年 (1872) 十月二日、時の政府は、我が国の「アミスタッド号事件」とも云える「マリア・ルス号事件*」を切っ掛けに、「芸娼妓解放令 (太政官達295号) 」を発し、続く十月九日に「
司法省達第二十二号**」を発令して、遊廓の女たちを縛っていた芸娼妓の前借金を無効にすることを確認している。しかし、これは国内での人身売買や奴隷労働を禁止することを通じて、西欧列強に対して、日本国が対等外交に値する近代国家であることを示したかった当時の政府の思惑を性急に反映した法令であったため、娼妓たちの解放後の生活保障などの施策がなく、結果的に新たな「貸座敷」制度***を生み出す形で、公娼制度は継続されたのである (牧、1979 / 下重、2012) 。要するに、娼妓の解放と云うのは建前ばかりで、実際にはまったく法令は遵守されることなく、ほとんどすべての遊廓では遊女たちの身分的拘束は依然として続けられたのであり、「旭廊」「中村遊廓」もその一つだったのである。「猫飛び横丁」と云うのは、そのような時代の呼び名なのだと、理解されねばなるまい。
 
* 明治五年 (1873) 「横浜」に寄港した「ペルー」船籍の「マリア・ルス号」が、大量の清人苦力を乗船させ、その身体的自由を奪い、逆らったものには拷問を行なったのは奴隷貿易に当たるとして、日本政府が、これら清人を解放した事件。これに対し「マリア・ルス号」側は、国内で「遊女」と云う奴隷契約を公認している政府が、自分たちの移民契約を奴隷契約と批難するのはおかしいと論駁したことがきっかけとなって、「芸娼妓解放令」は発令された。
** 「牛馬とりほどきの御触」とも云われた。特にその第二項の「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事」の文言で知られ、「芸娼妓の前借金の無効」を確認したものだった。
*** 娼妓たちが個人の資格において売春を営業するに当たって、妓楼の主人たちが営業の場としての「座敷」を貸すと云う契約形態に変えることで、旧態依然とした遊廓が経営されたのである。「人身売買」は禁止するが「売春は禁止しない」と云う「芸娼妓解放令」の限界であった。
 
ただし、「招き猫」と「遊廓」の関係は、娼妓たちが「猫」に擬されたことや、妓楼の主人たちが、商売繁盛を願って入口の縁起棚に置いた、と云うだけの関係ではなく、より個別的に、「籠の鳥」であった娼妓・娼婦たちと関わるものであった、と云うことを「神崎宣武」氏は、その著『聞書・遊郭成駒屋』 (講談社、1998) の末尾で明らかにしている。
 
「成駒屋」の残存民具のなかで、ひとつだけわけのわからないものがあった (中略) それは、人形・玩具の類である。娼妓の部屋には何種類かの人形や玩具が残っていた。もちろん、それらは装飾品であり遊具なのである。その景色がふつうの人形や玩具といささか異なっているのである。 (中略) 部屋に残されていたのは土器や磁器の稲荷の狐像と招き猫像であった。 (筆者・改行は無視した)
 
神崎宣武 (1989) 『聞書・遊郭成駒屋』講談社、p. 216
 
「神崎」氏は、もちろん、これらの玩具が商売繁盛、千客万来を願っての縁起物であるのは百も承知の上でこのように云っているのである。要するに、それ以上の何かを感じ取ってこそ、上のように述べているのである。そして、そのことに関しては、直後に明らかにしているのだが、その謎解きは折角だから原著に任せておくこととしよう。

ただ「神崎」氏が、これらの「稲荷さま」や「招き猫」に最初に強い興味を抱いたのは、それらが取り壊された妓楼の玄関や帳場の近く、すなわち商店の縁起棚が飾られているべき辺りからではなく、奧の女郎衆の個人部屋などから見つかったことであった。縁起棚の「招き猫」については、幾多の文献から、花柳界のお店での存在が確認出来る。しかし、そこに働く個々の女たち、すなわち「籠の鳥」と称されて、外出の自由などを奪われていた女郎衆と「招き猫」のつながりで云うと、必ずしも直接に関係づける資料はなかったのである。

有名な「吉原」の「薄雲太夫」の話だとて、どこまで真実を伝えているかははっきりとしないのだが、仮に本当だったとしても、松の位の最高の花魁ならぱ「猫」を飼うことも許されたか知らないが、一般の遊女たちがそんな自由を与えられたはずはない。しかも、「東日本」の遊郭は、一般に「廻し」と云われた接客方法を導入していたため、遊女と云うものは個室を与えられていないのが通例だった。そう云う中で、愛玩動物の飼育はおろか、私物の玩具さえもが普及していたとは、実物が明確な状況を伴って見つからない限り、なかなか信じにくい。「神崎」氏が「招き猫」を発見した「中村遊郭」などのように、「名古屋」や「関西」の遊郭には「廻し」のシステムがなかったために、廓内の女たちは狭いながらも個室を与えられていたのである。少なくとも、「貸し座敷」制度の確立以降はそのようであったと考えられる。そして、「中村遊郭」の前身、「旭廊」も同じようだったと云える*。その個室から、「招き猫」が見つかったのである。
 
* 「中村遊郭」の時代のことについては、「神崎」氏が、「成駒屋」の間取図や帳簿への記載事項の分析から証明し、かつ当事者の証言を得ている。「旭廊」時代のことに関しては、「中村」への移転直後の「関東大震災」時に既に確立されたシステムとして語られていることから、およそ推測出来る。
 
成駒屋・招き猫
「成駒屋」跡から出た「招き猫」
 (神崎宣武、1989; 217)
  
このとき「神崎」氏が発見したのは磁器製の「招き猫」であったが、昭和三十三年 (1958) 当時で、既にだいぶ使い込まれていた「招き猫」が磁器で出来ていると云うのは、「招き猫」の発展史の中で見ても貴重な情報である。上の写真を見る限り、どちらも「戦後」普及した「常滑」型の「招き猫」とは似つかず、特に右側は、地理的に近い「瀬戸」でかつて焼かれていた「招き猫」か、あるいは「三河土人形」系の「招き猫」に間違いなさそうである。左側のものは、どこかで見た覚えがあるので、もしかしたら何かしらの作家ものかもしれないが、今は思い出せない。御存知の方がいらしたら、是非、御一報を...。

いまでこそ「招き猫」と云えば、ほとんどが磁器製になっているが、これは飽くまでも「戦後」しばらくしてからの特徴で、現存する遺物を見る限り、より古くは土製や木彫りが中心で、大型のものを中心に、稀に石製のものなどが見られる程度である。

そもそも、「江戸期」から「明治期」にかけて、我が国の玩具人形の代表格だったのは、各地で生産された土人形であったが、「明治」を最後に、これら土人形は衰退の一途を辿った。従来は、西洋化や交通体系の変化によるものと説明されてきたが (木立、2008 etc.) 、近年、この衰退は、「瀬戸焼」から新たに起こった磁器人形との競合に敗れたためと理解されるようになってきている。これは、「五条坂・道仙化学製陶所窯跡」の出土品整理の過程で、「立命館大学」の「木立雅朗」教授の研究班が、平成二十三年 (2011) 二月二十二日に、「五条坂・かわさき商店」で大量の色絵磁器人形が残されていることを確認、調査の結果、これらは「大正期」を中心とした瀬戸焼であり、「瀬戸焼・西茨1号窯遺跡」から類例が出土していることが判明したことによって提唱されたのである (木立、2011 etc.) 。
 
かわさき商店・招き猫
「五条坂・かわさき商店」発見の玩具人形
『立命館大学グローバルCOE・木立研究室』2011/03/19より
 
磁器製の「招き猫」の正確な起源については、現在知りうるところはないが、「木立」教授らの調査報告を元に考えるならば、「瀬戸焼」がその起源と深く関わっている可能性は極めて高そうである。そして、既に見たように、「遊廓」で、一人一人の娼妓が個室を与えられていると云うのは、大まかには「名古屋」以西の「西日本」に限られた慣習だったのだから、遊廓で働く女たちが個人的な玩具人形などを飾れたのもこの地域に限られることであろう。「中村遊廓」の跡から、「瀬戸焼」らしき磁器製「招き猫」が出てきたと云うのも、このような地理的な条件に影響された象徴的な出来事なのかも知れない。
 
*
 
「中村遊郭」は、昭和三十三年 (1958) の「売春防止法」を控えて、その年の一月のうちにすべての業者が自主転廃業に踏み切り、その遊廓としての歴史に終止符を打った。全国の遊廓・赤線は、最終期限であった、この年の四月までに皆これに続いた。

この「中村遊廓」の自主廃業に見られた従順さには、しかし、裏があったそうである。妓楼の経営者たちでつくっていた組合「名楽園」は、「新名楽園」と名称を改め、旅館業や特殊浴場 (トルコ風呂) 、それに飲食店などに転業したが、これは遊廓建築からの改修なども最小限に済ませられ、設備をほとんど居抜きで使えるように考えた転業だったのである。多くの楼主たちは、「売春防止法」は、それまでの多くの反売春立法と同様、建前だけの一時的なもので終わり、やがてまた遊廓は復活するものとタカをくくっていたのだと云う。

結果として、この見通しの甘さが、繁華街として「中村」が生き残っていくことの命取りとなり、以降、この町は衰退の一途を辿ることになった。現在は、廃墟や空地に交じって、辛うじて人が生活しているような古びた建物がチラホラする中、かつての遊廓の中心地には駐車場も備えた大型のスーパーマーケット (ユニーだったと思う) が構える、不思議な町になっている。ただ、その中にも何軒かは、往時を偲ばせる遊廓建築の風情を漂わして佇む建物が残されている。おそらくは、「中村遊廓」盛んなりし頃でも、何本かの指には入れられた一流の妓楼だったのだろう。そのような建築物は、「売春防止法」から半世紀以上が経ち、人々の記憶から「遊廓」や「赤線」と云う言葉さえ消え失せつつある今、「大正」から「昭和初期」の貴重な文化財として、特に四軒が、市から「名古屋市都市景観重要建築物」に指定されている (うち一軒は平成十六年に取り壊された) 。

今も残るそのような遊廓建築のうち、大門通り寿町通りの交点にある「長寿庵」には、遊廓と「招き猫」の縁を今に伝える造形物が残されている。あでやかな赤壁と黒光りする桟格子を背景に吊り下げられた青銅の燈籠を見つけ、それを提げている綱に沿って目を軒下に移すと、迫り出した梁の木鼻に、まるで空を飛ぶが如き見事な「招き猫」が彫り出されているのである。場所は「旭廊」ではないが、その後身たる「中村遊廓」にも、「猫飛び」はあったのである。
 
中村遊廓・長寿庵・猫02
 「長寿庵」の「招き猫」の木鼻
 
かつて「熊谷市」の赤線跡に残った旅館風情の建物の軒下にも、「招き猫」をあしらった木彫りの額が掲げられていたのを見たことがあるが、それも四五年前には撤去されてしまったと聞く。興味のある方は、「木村聡」氏の名著『赤線跡を歩く』 (
自由国民社、1998) を参照されるとよい。旧「中村遊廓」の「長寿庵」は、現在、この地域の地主でもある病院経営者の所有だと云うから、しばらくは安泰かも知れない。しかし、近い将来には、「遊廓」の記憶と共に、ここの「招き猫」も失われてしまわないか、筆者としては不安でならない。


 
4. おわりに
 
それにしても、本来の名前 (少なくとも古い歴史のある方の名前) である「おからねこ」を頭から否定して、明治の終わり、二十世紀に入ってから創作された祭神と神社名を「正しい」ものとして押しつけようとする神社の社頭説明板には、正直、からくりを知ってしまえば興ざめする。しかも、神社が躍起になって否定する「猫」関連の由来の方が、少なくとも「江戸期」にまで遡れると分かったからには、なおさらである。

「明治末」の頃は、政府が拡大し続ける我が国の帝国主義的膨張を支える戦費を稼ぎ出すために、あらゆる方面で歳出を抑えようと躍起になっていた時代である。「神社合祀令」も、実は宗教政策と云うよりは、一種の財政的な措置として運用されたのである。「平成の大合併」が、とにかく自治体の数を減らすことで、交付金や支出金を減額して、国の歳出を抑制しようと云う目的で、強引に推し進められたのと同じように、国の「国家神道」政策に見合う規模の神社のみ残すことで、天皇と国家の威信を高めつつも、その上で財政の負担を逓減化しようと図ったのである。これは同時に、政府の進める地方自治政策とも相まって、一町村に一つの神社と云う形を創り出し、地方の自治は神社を中心に行なわれるべきだと云う、いわゆる「神社中心説」の理念の実現のためにも利用された。結果的には、住民の居住域の神様が廃されたことで、集落単位の生活暦に組み込まれた祭祀も中断させることになり、現在へとつながる、我が国の近代化の中での大きな問題である「地方の弱体化」が大きく推進されることになったのである。

しかし、この「神社合祀令」を受け入れる側に回った当時の住民たちからすると、こんな国家の意図とは無関係に、寝耳に水で、先祖伝来のお祭りを廃されるかも知れないと云うのは、驚天動地の出来事でもあった。各地で、おらが村の神様を守るために、当時の常識に則って、必死の工夫や抵抗が行なわれたのである。かつては、各地に鎮座したそれぞれの地に土着の神々も、生き残りのために、この時期に多く、「記紀」神話に登場する皇祖神系の神様、あるいは国神でも、
国造りに活躍した「出雲」系や「三輪・加茂」系などの有名どころの神様に変身を余儀なくされたのである。最後は、とにかく「記紀」や『延喜式』に載る神や神社と何かしらの縁戚関係を築くことで、「合祀=廃絶」を免れようとしたのである。

そして、われらが「おからねこ」の数奇な運命も、この時代の趨勢と無縁には済まなかったのである。神社の合祀が盛んに執行されていた頃、ちょうど「精進川」 の水利工事が始まり、「おからねこ」を巡る状況は、急激に悪化したからである。合祀推進派からすれば、「おからねこ」などと云う由緒不明な、天皇中心的な神道観からすれば「怪しい」の一言に尽きる神社など、廃絶するのにちょうど良い機会だったに違いない。大体、「ねこ」とは何だ、と云う論法である。そもそも、遊廓の近くで「ねこ」を名乗っていること自体が、この場合は、頭の固い、中央の教養人からは軽蔑に値することだったのだろう。神社や氏子たちからすれば、生き残りへのただ一つの有効な手段が、有力な「記紀」神話の神様との縁を掘り起こすことだったのであろう。

この辺りの具体的な経緯は、まったく把握していないのだが、おおよそこのような心理の下で、明治四十二年 (1909) の「大直禰子神社」への改称は断行されたのではなかろうか。逆に、そうでなければ、何も拙速に祭神を新たに決定したり、社名を変更したりする必然性がないのである。

ただ、現代と云う時代が、もはや「神社合祀令」の発せられ、「国家神道」が幅を利かせている時代でないのは、いまさら言を待たない。その状況の中で、神社側が、「大直禰子」を祭神とすると云う、「明治末」に考え出された縁起や祭祀を頑なに守ろうとするあまり、少なくとも同じほどに古く、おそらくはそれよりもずっと古いだろう「猫の神様」としての性格を揉み消そうとしているのは、甚だ残念だと云わざるを得ない。まあ、「猫の神様」なんて謳ってしまうと、捨て猫などが増えて大変だろうから、事前に危険な火は消しておこうと云うことなのかも知れない。

現在、狭い境内は、隣りの不動産屋さんの女性によって毎日、綺麗にされていると云う。又聞きに、ちょこっと耳にしただけなので、それが信仰心から来るものなのか、純粋な社会奉仕の精神から来るものなのかは分からない。ただ、この女性のことを考えると、確かに捨て猫が増えたり、あるいは「東京」は「谷中」の寺などが悩んでいるように、猫の亡骸を置いていく輩が現れたりしては困ろうものである。

けれども、節度ある範囲で、地域の猫好きの人々が、ささやかな「猫の神様」の古習を受け継いでいって下さったらいいな、とは願っている。もちろん、他所の地からお参りするものは、マナーを守るのは当然として、「猫神」さまへの感謝の気持ちを込めて、お賽銭もお忘れなきよう、お願いしたい。


今回の記事は、内容的には次回の記事に理論的な考証部分のほとんどを持ち越しつつ、この辺りで終わりにしたいと思う。
 
*
 
いまでも「丸田町」交差点の南西角近くに「東 天道 八事みち 南 さん王 すみよし あつた道 西 矢場地蔵 おからねこ道 北 法花寺町 大曽根道 」と記された道標が残り、かつての「おから猫」様の繁栄ぶりを偲ぶ縁 よすが となっている。
 
大直禰子神社」の地図は、こちら
 
  
参考文献


A. 「おからねこ」関係

・高力種信 (c. 1818) 『尾張名陽圖會』文化文政年間
 林秀夫/編 (1984) 『日本名所風俗図会 6・東海の巻』角川書店
・石橋庵眞醉 (c. 1830) 『作物志』天保期までに成立
 名古屋市教育委員会/編 (1950) 『名古屋叢書』正編・第十六巻、愛知県郷土資料刊行会
福田由道/編 (1911) 『花くらべ』梅之卷、花競會
・山田秋衛 (1935) 『前津舊事誌』曾保津之舎
・名古屋市中村区制十五周年記念協賛会/編 (1953) 『中村区史』自刊
堀川文化を伝える会/編 (2002) 『堀川端ものがたりの散歩みち』名古屋市中区役所
・堀川文化を伝える会/編 (2003) 『堀川端ふしぎばなし』自刊
・名古屋市博物館/編 (2006) 『富士見の里・昔の前津』自刊
・名古屋市博物館/編 (2010) 『名古屋城下図集・幕末編』自刊

B. その他
・藤原時平ら/撰 (901) 『日本三代實錄』卷二・貞観元年四月廿一日條、延喜元年
 黒板勝美/編 (1966) 『新訂増補・国史大系 4』吉川弘文館
・藤原時平・藤原忠平/撰 (927) 『延喜式』卷九・十、延長五年
 黒板勝美/編 (1965) 『新訂増補・国史大系 26』吉川弘文館
・尾張藩/編 (17C後) 『寛文村々覚書』寛文年間
 名古屋市教育委員会/編 (1966) 『名古屋叢書・続編 3・寛文村々覚書』自刊
・天野信景 (1704-1711) 『鹽尻』卷之三十、寳永年間
 日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成・第三期 14』吉川弘文館
・刑部善三左衛門 (1744) 『尾陽寛文記』延享元年
・平出鏗二郎 (1898) 『東京風俗史』第三稿、自筆稿本
・石田孫太郎 (1910) 『猫』求光閣書店
 
国会図書館・近代デジタルライブラリー

・高田十郎/編 (1920) 『なら』四號、自刊
・樋口紅陽 (1921) 『皮肉風刺 藝者哲學』寳學館
 国会図書館・近代デジタルライブラリー

・岡田穎斎 (1923) 『牧氏始祖墳墓發見錄』自刊
 牧昭/編 (1990) 『追補再版・牧氏始祖墳墓発見録』自刊
・松川二郎 (1929) 『全國花街めぐり』誠文堂
・牧英正 (1979) 『人身売買』岩波新書
・江間政発 (1980) 『桑名郡志・下巻』歴史図書社
・武田八洲満 (1981) 『マリア・ルス事件』有隣新書
・下中邦彦/編 (1981) 『日本歴史地名大系 23・愛知県』平凡社
・千種区婦人郷土史研究会 (1983) 『千種区の歴史』愛知県郷土資料刊行会
・小林元 (1984) 『千種村物語』自刊
・斎藤良輔 (1984) 『増補・日本の郷土玩具』未来社
・池本正明・藤澤良祐ら (1987) 「西茨第1・2号窯発掘調査報告」
 瀬戸市歴史民俗資料館/編 (1987) 『研究紀要 6』自刊
・司馬遼太郎 (1985) 『街道をゆく 26・嵯峨散歩』朝日新聞社
成城大学民俗学研究会/編 (1986) 「信仰」『成城大学民俗調査報告書』九号、自刊
・下中邦彦/編 (1986) 『日本歴史地名大系 28・大阪府』平凡社
・宮崎良子 (1988) 『招き猫の文化誌』青弓社
・神崎宣武 (1989) 『聞書遊廓成駒屋』講談社
・明田鉄男 (1990) 『日本花街史』雄山閣出版
・阿木香 (1996a) 『瀬戸やきもの風土記』陶磁郎BOOKS、双葉社
・蔵成一・阿木香 (1996b) 『日用やきもの図鑑』陶磁郎BOOKS、双葉社
・加藤國光/編 (1997) 『尾張群書系図部集・下』続群書類従完成会
・井上章一 (1998) 『人形の誘惑』第三章「招き猫のセクソロジー」三省堂
・加藤政洋 (2005) 『花街』朝日新聞社
・木立雅朗 (2008) 「考古学から見た土人形の出現と展開」
 関西近世考古学研究会/編 (2008) 『関西近世考古学研究 16』自刊
・下重清 (2012) 『〈身売り〉の日本史』吉川弘文館

C. 外国語文献
D. Keene (2005) Emperor of Japan: Meiji and his World, 1852-1912, Columbia Univ. Pr.


参照サイト

・沢井鈴一・講演「猫飛び横町 おから猫」
 第29回堀川文化講座「大須路地裏ものがたり 猫飛び横町おから猫」 報告
 http://www.city.nagoya.jp/ku/naka/machi/miryoku/horikawa/h_21/nagoya00075524.html
・沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」2-5「精進川の霊—乗円寺
 http://network2010.org/article/548
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」4-3「死に堀川」
 http://network2010.org/article/904
・ブログ『愛知限定・歴史レポ』「牧氏の歴史、No.11-12」
 http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/44801057.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/44801337.html
・『立命館大学グローバルCOE・木立研究室』2011/03/19
 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/KCSG/kidachi/2011/03/post-8.html
・「デジタル版・日本人名大辞典 +Plus」出典 : 講談社

「MAPPLE 観光ガイド」
 http://www.mapple.net/spots/G02301029301.htm
・木立雅朗ら (2011) 「京都における工芸の民俗考古学的研究」PDF公開・報告書
 
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/oldarc/houkokusho/houkokusho2011/pdf/3-1-2_houkokusho2011_kidachi.pdf


 
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この度は楽しく拝見させていただきました。
わたくし大須の生まれでございまして、これまでおから猫の社自体は通りがかったりはしていたのですが、名前や由来のことは知らず、まことに興味深く読ませていただきました。

筆者様の博識かつ情感のこもった書き口も大変面白く、わたしもこんな風に我が町を見直せたらどんなに楽しいことだろうなと思います。また折りをみて、文末の参考文献などを図書館で読んでみたいと思います。
ありがとうございました。
2016.04.21 11:17
clubey
コメントありがとうございます。実は数年間、このブログはいじっておらず、今日久しぶりに管理画面にログインしました。この数年の間に溜め込んだ猫記事がたくさんあるので時間を見つけてブログも復活させられたらなあ、と考えている今日この頃です。
2016.07.17 17:47

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