スポンサーサイト

.-- -- スポンサー広告 comment(-) trackback(-)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

千葉県の猫神・武西の猫供養塔       ~台の山の猫踊り (2) ~

.05 2010 関東地方 comment(1) trackback(0)

猫の供養塔
印西市武西字南台 154地先


県道61号・船橋印西線から右へと同じ61号の旧道が分岐する「船尾町田」の信号を左折し、次の分岐路を左に辿れば、基本的に後は道なりに進むだけで、「神崎川」北岸の台地にある目的地に着くことになる。

もう幾分か丁寧に説明すると、道は、途中からはよく整備されたものになり、「東京電機大学」へと向かう右への分岐路 (角に立派な石碑群が祀られている) を過ぎると、「印西市」の「武西 むざい 地区」に入るのだが、ここから始まる広い坂を登り切ると、右手の路傍に石碑や石仏の立ち並ぶ一角が見える。ここが目的地である。

さて、目的の石碑・石仏群に着いたなら、その立ち並ぶ一群の地蔵像の右端の方に目を移すと、右から三つ目のところに、小さな四角い供養塔が叢に埋もれるように佇んでいる。「猫の供養塔」である。


この写真では、右から二つ目の、台の蔭になった石碑が「猫供養塔」

この供養塔は、縦・四十二センチ、横・二十一センチ、奥・十二センチ程度で、さほど大きいものではない。より大きな「六地蔵」らが並ぶ石壇の右端から、さらに一段下がった場所に、基部の右側を「リュウノヒゲ」に覆われた形で、道路の北側に立っていた。形状は、「山状角柱型」、南西向きに設置されている。


碑面はと云うと、上部に左向きの猫が彫られている。全体的に体を丸めており、尻尾はほぼ体の下部に沿うように巻き付けてある。材質は軟らかい石らしく、おそらく砂岩と思われた。明治二十四年 (1891) と云う紀年銘を見る限り、新しくはないが、さまで古いものでもないのに、碑面全体は、風化が進んでいて、文字の読み取りは困難だった。側面には刻字はなく、裏面は切り出した状態のままであった。

猫のレリーフの下には、三行書きで「明治廿四年 一月十一日 岡本惣□」と刻字されている。「岡」の字は摩耗していて「日」に見えるため、始めは「日本」と記されているのかと思ったのだが、やはり施主の名前がどこにもないのは不自然なことと、三文字目が「惣」の字に見えたため、人名なのだろうと思えたこととがあって、近在の図書館で資料を探したところ、『印西町史 民俗編』と『印西町石造物第五集 船穂地区調査報告書』と云う二つの資料を得た。前者には、不鮮明な白黒写真と共に、この供養塔にまつわる伝説 (前回紹介した「台の山の猫踊り」) が記され、後者には、碑に関する細かい情報が載せられていた。この資料を通して碑面の文字が「日本」ではなく「岡本」なのだと知ったのだが、反面、この資料は三文字目と四文字目の文字がまるで存在しないかのように取り扱っていたのには驚かされた (参考・印西町教育委員会 (1987) 『印西町石造物 第五集 船穂地区調査報告書』同教委、p. 27) 。

ちなみに、「猫の供養塔」の右隣りにある角柱型のより大きな石碑は、文政三年 (1820) の八月□日に「武西村」で建てた「萬霊供養塔」で、正面には梵字の下に「無縁法界萬霊塔」と刻まれている。「萬霊供養」と云うのは、一般に諸動物の供養の為に建てられるものであるから、明治二十四年 (1891) の「猫の供養塔」がここに一緒に建てられたか、あるいは後に集められたとしても不自然なことはなかったのだろう。

実は、この供養塔、前回の記事で紹介した「台の山の猫踊り」に登場した「猫の八郎」を供養したものだそうである。ただし、「供養」とは具体的にどんなことなのかは分からない。何しろ、「猫の八郎」の後日の話がまったく知れないのだから、彼が天寿を全うしたのか、事件発覚後に蓄電したのか、何も分からない。先ほども引用した『印西町史・民俗篇』には、次のように書かれている。

こん供養塔はわしの爺さんの時に、刻んだもんで猫の話はそれより三代前のことであると言っているねえ。盆、彼岸は勿論のこと、折あるごとに線香あげて、猫の霊を慰めているよ。

印西町史編纂委員会/編 (1996) 『印西町史 民俗篇』印西町、p. 669

碑面からは、この供養塔が明治二十四年 (1891) に建てられたものだと分かるので、それよりさらに三代前だとしたら、ざっと八十年から百年ほど以前だとして、寛政年間から文化年間 (1789-1818) くらいまでの出来事と語られてきたことが分かる。歴史的な事実であるかどうかは別として、ある種の言い伝えの起源時期が特定出来るのは貴重なことである。

しかし、もしも『印西町史』の取材が正確だとすれば、なぜ町史編纂当時の祭祀者 (所有者) の祖父は、自らの曾祖父の時代の飼い猫のことを改めて供養したのか、不思議ではある。さらに云えば、「供養する」からには、何か「供養せねばならない」理由があったものとも推測される。もしも供養塔が建てられたのが、当の「八郎」が死んだ時だったなら、飼主がその死を悼んで建立したと理解することも出来ようか、実際の猫の生きた時代から百年ほど経ってからわざわざ供養するからには、やはりそれ相応の理由があったものと思われる。普通に考えれば、何やら祟りのような障りがあったのだろうと想像されるのだが、飼主の家系に障るからには、「台の山」の中で、主人に見つけられてから、猫の「八郎」の身の上に何かよからぬことが起きたのだろうか。

いずれ「宮城県の猫神」のシリーズに入った時に、丁寧に見ていくと思うが、「宮城南部」は、「猫碑」の多いことで全国でも筆頭の地域である。蚕を荒らす鼠を捕る猫は、養蚕の盛んだった地域では強く信仰されたことが知られており、多くの識者の間でも、各地の「猫碑」は、養蚕の絡みで建てられたものだと指摘されている。全国で最も「猫碑」の多い「宮城」でも同様に考えられているようである (参考・石黒伸一朗 (2008) 「宮城県の猫を彫った石碑」 中橋彰吾先生追悼論文集『蔵王東麓の郷土誌 中橋彰吾先生追悼論文集』六一書房) 。

しかし、「柳田国男」の編集による『山村生活の研究』の中で「桜田勝徳」が述べているところを引くと、「猫が死んで祟る時には猫神といふ石碑を建てる (宮城県筆甫) 」とあり、ちょうど「養蚕」がこの地域で全盛を迎えていた昭和十三年 (1938) に編まれた本であるにも関わらず、「猫碑」を「養蚕」と直接結びつけずに、「猫の祟り」と云うより心理的な契機と関連づけて述べているのは興味深い (柳田国男/編 (1938) 『山村生活の研究』国書刊行会、p. 432) 。

明治期の「下総台地」では、「茶」や「養蚕」は盛んに行われており、「武西」の地に「養蚕」に絡む石碑が残っていても不思議ではない。しかし、ここの「猫碑」もまた、直接「養蚕」と関わる伝承を持たず、「台の山の猫踊り」伝説と共に語られたのは示唆的である。

いずれにせよ、「武西の猫供養碑」と共に伝えられた「台の山の猫踊り」の伝説には、何かいまに伝わらぬ後日談があったのではないかと推測される。伝説から、碑が建てられるまでの百年の間に何があったのか、そして碑を建てた当時、何が契機となって「供養塔」を建てることになったのか、将来的には、この辺りの事情を、より明らかにしていきたいと考えている。

*

それにしても、大抵の「猫の踊り」の話では、飼主に踊るのを見られた猫は、行方をくらますか、追放されるか、殺されるかするので、筆者としては、「猫の八郎」が、長年飼われた家でその後の生涯を全う出来たのかどうかが気になるところである。


地図は、こちら



付記 :
ここの石仏群には、国道464号線から行く方が、実は行きやすい。国道を「船橋市・小室」方面から「千葉ニュータウン」方面へと進み、「神崎川橋」を過ぎて二つ目の信号、「小室駅入口」の信号から (それ自身を含めて) 数えると四つ目の信号 (左の角に「ミニストップ」) を右折すると、「武西」と「清戸」を結ぶ田園の幹線に出たことになる。後は、しばらくこの道を走り、大きな坂の下り口の左手の石碑・石仏群を見つけるばかりである。

なぜ、こちらからルート案内しなかったかと云うと、理由は三つある。

第一の理由は、反対から接近する方が、地域の風土を観察するのに面白かったからである。国道から来る人の多くは、きっと目的地に来て、そのまま国道に戻るだろうから、この地域の地理風土的な成り立ちを観察する機会を得ない可能性が高い。

二つ目の理由は、国道から来た人が国道方向に戻らなかった場合、途中まで素晴らしかった道が、「安養寺」を過ぎた辺りから一変してしまうこともあって、その先、県道等に復帰する地点が見つけにくいからである。

そして、最後の理由は、実は国道側から接近すると、目的につく前に、目的地のものよりはるかに規模が大きく、かつ目立つ石碑群に出くわすからである。「船尾」側から接近しても、「安養寺」の角に立派な石碑群があるが、こちらはその前に舗装された広場があることや、その他の地形的な特徴などから目的地と区別しやすいと思ったのである。ついでに云うなら、初めて車で訪れるなら、坂の下り口よりは、登り切った辺りの方が、目を配りやすいと云うこともあった。もちろん、この場合、石碑群が道の右側になってしまうと云うのは、ハンデになるかもしれないが、総合的に見れば、こちらの方が発見かつ停車しやすいと判断したのである。


スポンサーサイト

comment

庭のねこ
八郎の身になにか良からぬことがあったのでしょうか。
石碑に彫られた猫は、踊っているようにも見えますが、亡骸のようにも見えます。
興味が無いと見落としてしまうであろう石碑の、奥深さを感じたような気がします。
2010.04.13 21:13

post comment

  • comment
  • secret
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackback

trackbackURL:http://nekonokamisama.blog3.fc2.com/tb.php/8-08cb745a

プロフィール

clubey

Author:clubey
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。