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福島県の猫神・日吉神社の猫神

.06 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
日吉神社
伊達市山舟生字大小

日吉神社01・社殿

「大小」の「日吉神社」

1. はじめに

ここ二ヶ月続いた長大な記事の連続は、前回で終わった。今回は、普段のちょっとくどい程度の案内記に久しぶりに戻れたことを報告して、本稿を開始したいと思う。
*

「清水地籍」の「猫神」の発見に失敗し、台風の影響で天候も下り坂とあって、やや沈みがちになっていた気分も、「羽山神社」と「秋葉神社」の「猫碑」を見つけることが出来た安堵感で一気に吹き飛び、筆者と妻の乗る車中は、外の空模様とは裏腹に、久しぶりに明るさを取り戻していた。次の目的地は、距離的にはかなり近いはずの「日吉神社」であるから、何だか無根拠に気分も乗ってきていたのである。

しかし、である。せっかく明るく気分も乗ったところで残念だったのだが、この「日吉神社」の位置と云うのが正確にはまるで分からなかったのである。いや、より正直に云うならば、事実上、まるで分からなかったのである。

市役所の「梁川支庁」の方の骨を惜しまない協力によって、字「大小」の土地にあるところまでは分かったのだが、そのどこに神社があるのかは役所でもお手上げと云う状態であった。細かい住宅地図のようなものも複写してくれたのだが、いざ現地に赴くと、細かい路地が多くて、どれが地図に載る公道 (車道) で、どれが地図に載らぬ私道の類いなのかがてんで区別がつかず、とても地図を目で追うように行かないのは明白であった。大体、どこからが「大小地区」なのかさえ、皆目見当がつかないのだから、絶望的である。

「羽山神社」周りで二つの「猫神」を発見し、ついでに車の下で雨を避けている地元の「猫様」との対面を果たすと云うオマケまでつき、「舟生の不動堂」での「猫碑」発見以来の明るい気分に浸っていなかったならば、台風が迫りくる中、実際にはどんなにか暗い気持ちになっていたことかと思うと、いまでもぞっとする。しかし、良いことも悪いことも、来るときは数珠つながりに来るようで、このときは良いことが続く運命にあったようである。

ともかく、こんな状態で、筆者の「日吉神社」の「猫碑」探しは、開始されたのである。



2. 「日吉神社」発見!!

大小集会所向かいの石碑群

「大小」の石碑群

自分たちが一体どこを走っているのかさえ見失って途方に暮れかかっていたとき、左前方の崖下に十個以上の石碑が並んでいるのが見え、それに目を奪われて停車すると、その向い側 (すなわち右前方) にいかにも公民館か集会所らしき建物が現れたのである。石碑群は、結局「猫神」とは関係なかったのであるが、この集会所が「大小集会所」と云う表示を掲げていたのだから、この遭遇は、この上ない僥倖だった訳である。もしも中に人がいたなら、「日吉神社」のことを聞けるぞ、と思ったのも束の間、そこまで運は向いてはいなかった。ただし、いまいる場所がまさに字「大小」の地であると判明しただけで、かなりの光明が射してきたと云えた。

大小集会所02
しっかりと見える「大小」の文字!! 嬉しかったなあ...

希望と同時に、失いかけていた元気をも取り戻して、張り切って車を発進させると、張り切る間もなく、百メートルほどで、左手に民家が見えてきた。この先、どれだけ民家に遭遇するかも分からない現状にあって、ここは停車するしかない。車を降りて、玄関先に近づくと、表札に「斎藤」と見えた。これは、前調査で調べていた「日吉神社」横にお住まいのはずの御一家と名字が一致するため、筆者の心臓は一気に期待に高鳴った。「日吉神社」は、現在、「斎藤福幸家」の裏山に祀られていると事前に調べた資料に書かれていたのである。もっとも、地方では同姓の家が集落内に多く存在することが通例なので、あまり過剰に期待しないようにはした。

呼び鈴を鳴らしてしばらくすると、若い女性が応対に出てきてくれた。台風が来ると云う予報の中、突然訪れた髭面の余所者に対して不審げな様子を見せるのを精一杯我慢して、その女性は筆者の用向きを聞いてくれた。答えは実にあっさりとしたもので、「日吉神社」はうちの裏山にある、と云うことと、「猫碑」は二基ある、と云うことであった。女性は、しかし、筆者らが台風に巻き込まれないかの心配を優先して、お参りに行くならすぐ行った方が良いと忠告してくれた。だいぶ (時間が) 掛かりますか、と云う筆者の問いに、ううん、すぐだけど、とにかく急いで、と親切にも繰り返した。

本当は、色々と質問したいことはあったのだが、それも最小限にとどめ、お礼を述べると、忠告された通り、一目散に「日吉神社」を目指した。「一目散」と云っても、そこはオジさんの足のことだから、だいぶ割り引いて考えなければならないのだが...。

日吉神社11・入口
「日吉神社」参道入口。石垣向こうが「斎藤家」

道路に面した参道入口は、草蒸してはいたが歩くのにまるで支障はなく、かつては畑地だったと思われるわずかに高くなった台地を左に過ぎると、木々の繁る裏山へと分け入っていく土の道となる。神社への距離は、さほどのものではないが、上り坂の傾斜は結構きつい。途中、坂は右へと大きく回り込んで、裏山の中腹の台地へと着く。その僅かばかりの平地は、参道に対して縦に長く、そのため、その一番奥に鎮座するお社も、参道が直角にその社前に到着する形で、横向きに建てられていた。

日吉神社01・社殿
「日吉神社」の「社殿」

日吉神社02・社殿内
「社殿」内

「日吉神社」の祭神は、「山王様」とも呼ばれ、「大山咋命」が祀られている。以前は、近くの字「三道」の地に祀られていたらしいが、いつの頃にか現在地に遷されたものと云う。残念ながら、遷座年は詳らかではないそうである。地元では、「目の神様」として信仰が厚いと聞いた。何故、「目の神様」なのかは分からずじまいだったが、気になるところではある...。また、「鍛冶屋場」の「薬師瑠璃光如来堂」が、地元では「耳の神様」として敬われていたことと、何らかの対応をするのかも気になる。


平成二十二年四月二十四日の『毎日新聞』福島版の記事で、「日吉神社」の「猫神」のことが次のように紹介されていた。

「昔、ネズミから蚕を守るため猫が大切にされたから、死んだ後は神様として石碑に祭られたのかなと考えていた」。かつて養蚕をしていた伊達市梁川町山舟生の斎藤尚二さん (86) が振り返る。

自宅裏山には、土地の守り神として敬われる「日吉神社」の小さな社がある。そばには「庚申」などと書かれた十数基の石碑に交ざり、「猫神」と刻まれたものが二つ残されている。高さは共に約五十センチ。赤褐色の凝灰岩で、片方の側面には「文化九年」 (1812) と彫られている。
 (中略)
斎藤さんが物心ついた時には、猫を神様として拝む習慣は既になかったという。

「猫は神さま:暮らしの中で 2 伊達市梁川町・猫神の石碑群」
『毎日新聞』2010年4月24日・地方版




3. 「日吉神社」の「猫神」碑

日吉神社03・石碑群
「日吉神社」境内の石碑群

さて、「社殿」のあるこの台地に上がってから、細長い参道の左手は小高い土手となっており、その麓には多くの石仏や石碑が立ち並んでいた。数えると、全部で十六基あった (と思う...) 。

日吉神社06・猫神1-3
「猫神」
向かって右側の「猫碑A」
46×26×15 (cm)

これら石造物の中に、「猫神」の碑が二つある。向かって右側の「猫碑A」は、赤灰色の「凝灰岩」の角礫で整形加工はなかった。長年の風化のため、碑面はかなり読み取りにくくなっている。その上、台風前の曇天に、日が陰る木々の下とあっては、見えにくさは並一倍である。そして、そんな状況下で、安物のデジカメを、カメラのイロハも弁えようとしない筆者が撮影するのだから、まともな写真など期待出来るはずもなかった。案に相違せず、撮れたのは以下の二枚の悲劇的な写真である* 。とにかく、カメラに明るくない筆者に取って、晴れていない日や、夜の石碑の撮影は鬼門である。と云う訳で、写真にはまったく映っていないが、「猫碑A」の碑面中央には、「猫神」と刻まれ、両側面の紀年銘らしき刻字は、まるで読み取れなかった。

*
筆者は、ここの猫碑の写真を撮っている辺りから、今後は自らのデジタル・カメラを使いこなす腕を改善しなければなるまいと、痛切に感じるようになった。何しろ、やや暗いところではフラッシュが反射して撮影対象の陰影をすべてなくしてしまうのだから、石碑の撮影などは悲劇的なことになってしまうのである。以前、「下総橘」の「猫地蔵」碑や「印西市・武西」の猫碑を撮影する際にも同じ問題にぶつかり、わざわざ晴れた日に写真を取り直しに出掛けなければならないと云うこともあったほどであるが、これも「千葉県内」だったから出来たことで、「福島」などへはおいそれと再訪問が出来ない。

実は、「福島」旅行の少し後に決行した「長野県」での調査に際して、雨の日や夕闇の中などでは、フラッシュを焚かずに撮影した方がよい写真が撮れることを、苦労の末、発見したのだが、これを機に、少し真面目にデジカメの扱いを考えようと思い立った次第である。たまたま、その頃にネット上で、我が国の「狛犬研究」の第一人者の一人である「たくきよしみつ」氏から、自著を紹介して頂き、大変な勉強となった。筆者と同じような悩みを抱えている人には、「たくき」氏の以下の著作は、是非ともお薦めである。ちなみに、どれか一冊あれば十分であるから、最新の「講談社現代新書」の 本がよいかも知れない。

鐸木能光 (2004) 『デジカメ写真は撮ったまま使うな! 』岩波アクティブ新書118
鐸木能光 (2006) 『裏技デジカメ術』青春新書、青春出版社
たくきよしみつ (2008) 『デジカメに1000万画素はいらない』講談社現代新書



日吉神社09・猫神2-2
「猫神」
向かって左側の「猫碑B」
51×22×15 (cm)

向かって左側の「猫碑B」も、赤灰色の「凝灰岩」で出来ているが、こちらは直方体に整形された石碑となっており、裏面を除く三面が綺麗に研磨されている。正面には「猫神」、右側面には「文化九申年」と刻まれている。文化九年とは、西暦で云うと1812年であるから、これは結構古いと云える。台石も「凝灰岩」で出来ている。

「鍛冶屋場」の「薬師瑠璃光如来堂」の記事で、筆者がメモを書き付けた帳面を雨に濡らしてしまったと云うことを書いたと思うが、実はそれはここ、「日吉神社」で起きてしまったことなのであった。強まる雨脚の中、上空もかなり暗んできており、木々に半ば覆われた境内は写真を撮影するにはかなり暗くなっていた。しかし、フラッシュをたくと、反射がきつくて碑面はまったく映らないのである。そこで、片手に持っていた帳面が邪魔になったので、近くの切株の上に臨時に置いて写真を撮り続けたのだが、要するに、そのまま忘れて車に帰ってしまったのである。発車直前になってこの事実に気づき、慌てて坂道を戻ったときには、びしょ濡れとは云わないけれども、ペンのインクが滲んで読めなくなるのには十分な具合になっていた。「日吉神社」に関するメモ類は、その場で取り直したが、「薬師堂」のは無理だった訳である。記憶している限りのことをメモし直して、家に帰ってから、滲んだ文字を解読出来るか、挑戦するしかなかった。



3. おわりに

結局、二日間に及んだ (しかなかった...) 「伊達市内」の「猫神」探訪も、この「日吉神社」の「猫碑」を発見したところで最後を迎えることとなった。まだ向かいたい場所は何箇所かあったのだが、台風のこともあり、そろそろ切り上げた方が良かろうと云う判断で、予定していた後半の探訪は断腸の思いで中止することとした。こうなると、初日に発見し損ねた旧「霊山町」の「猫神」二つが、惜しまれてならなかった。またいつか、日を改めて探索するだろうことは間違いない。

今回の探訪は、天気に恵まれず、結果として時間に追われることになってしまったために、筆者はあまり地元での聞き込みが出来なかった。そのため、場所を確認すると云うことの他に、先行する報告類に付け足す情報は皆無に等しい探訪となってしまった。しかし、そんな欲張った話は別にすると、やはり「猫神様」を自分の足で訪ね、自分の目でしっかりと見る機会を得た旅行は、かけがえなしに筆者の心を揺すぶるものとなった。

ただ、少なかった聞き込みの機会の中でも、「猫神」が「養蚕の神様」だと云う認識が、地元でも極めて薄いと云うことだけは、改めて確認出来たと思う。みな「養蚕の神様だと聞いている」と云う、何やら伝聞形で語るのである。しかも、それを聞いた相手と云うのが、父母や祖父母、あるいは地域の古老であるケースはない訳ではなかったが、あまり多くもなかった。近年、地域史編纂関係者など、一部の識者たちが盛んに「養蚕の神様」説を唱えて廻った影響の方が、遥かに強いように感じられた。逆に云えば、この地域は昭和三十年頃までは、「養蚕」中心の農村地帯だったため、「猫神」に限らず、人々は大抵の神仏に「養蚕」の成功を祈願していたようでもある。

もちろん、「猫神」の神的性格に関する人々の記憶が曖昧だと云う事実は、単なる忘却から来ることなのか、それとも別の要因によるものなのかは、現時点ではまるで判然としないが、先行する諸研究・諸報告が、ほぼ無批判に「養蚕の神様」と断定していることに対する筆者自身の疑問を裏打ちする結果となったとは云える。そうでないとも明確に云えない代わりに、そうだ、と云うはっきりした聞き込みが出来ないのに、それが「養蚕の神様」だと断定するのも早計だと云える。

筆者としては、「猫神」は「養蚕の神様ではない」と云っているのではなく、「養蚕の神様でもあった」と云う立場に立って、「蚕神」になる以前の「猫」信仰の古形にいかに遡及しうるかと云うのが主たる問題意識だと云える。

「福島県・信達地方」と云う、かつての大養蚕地帯にあって、「猫神」は確かに「蚕神」として敬われていた過去があったのだとは思う。そして、この地域に限らず、全国各地の養蚕地帯で、数多くの「蚕神」が祀られてきたのも事実なのであるが、それにしても「猫神」は、その数ある「蚕神」のヴァリアントの中でも、圧倒的な少数派として、例外的に位置づけられねばならないのは、「猫碑」の数が多いことで知られる「信達地方」や、隣接する「宮城県・仙南地方」にさえ共通して云えることなのである。

したがって、筆者としては、そんな信仰の土壌の中で、いかなれば「猫神」が「蚕神」として浮上し得たのかを考え、それがそれ以前からの祭祀の残滓として発露したのではないかと強く疑うに至っているのである。それ以前の信仰の系統に、筆者が「水神」「雷神」などと関わる神格を想定していることは、既に何度か簡単には述べてきたことだが、今回もその詳細に関しては、まだ触れないでおくこととする。

実際の「猫神探訪」の旅行は、この後、「石川郡・玉川村」に向かうことになったのであり、「玉川村」の「猫神」に関しては、既に順番を無視して、「福島編」の最初に紹介している通りである。

ただし、「玉川村」に向かう途中、もう一つだけ、「伊達市内」の「猫神」を訪ねることが出来た。そのことは、次回の記事で報告することになる。そして、ここ数回に渡って紹介してきた「福島県の猫神」シリーズは、次回で一旦、終わりとなって、初の「長野編」に突入することになる。残念ながら、昨年廻った「福島市・信夫山」界隈の「猫神」に関しては、またもやお預けと云うことになりそうである。

* ちなみに、この稿における石碑の材質や計測値については、すべて「石黒伸一朗」氏の下記の論文に拠ったことをお断りすると共に、謝意を表したい。

「日吉神社」の地図は、こちら...ではないかと思うが自信はない...。


参考文献
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
    梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻、梁川町
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会
・鐸木能光 (2004) 『デジカメ写真は撮ったまま使うな! 』岩波アクティブ新書
・鐸木能光 (2006) 『裏技デジカメ術』青春新書、青春出版社
・たくきよしみつ (2008) 『デジカメに1000万画素はいらない』講談社現代新書







福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.02 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)


「ハヤマ信仰」に関する一試論 4)

羽山神社
伊達市山舟生字手水川


1. はじめに

前回の記事までの議論で、「ハヤマ信仰」の基層には、「山の神」の信仰があり、 それが後に「陽の神」によって象徴的に表され、現象レベルでは、山から流れ出る川水と云う形で体感された可能性について確認してきた。そして、この原初の 「山の神」の性質を温存した後世の信仰装置が、祭神としての「大山祇神」であることも見てきた。

しかし、これまでのところ、この肝心の「大山祇神」の神的な性格を概観する作業を怠ってきてしまったのは事実である。そのため、この項では以下、簡略にその作業を行ない、これまでの仮定的な議論と、「大山祇神」 の性格が、いかに対応しうるものなのか、確認しておきたい。そして、その後に、その「山の神」としての基本的な性格が「祖霊信仰」及び「猫神」信仰の基層と重なりあうものだと云うことも、確認したいと思っている。

そして、この「変成」の「場」としての「山」を想定した場合、何故、「ハヤマ信仰」には「女人禁制」や「男性女性化儀礼」などが付随するのかを、単なる「修験道」の影響としてのみ語るのではなく、「ハヤマ信仰」のより根源的な観念との関連で説明できるのではないかと考え、試論的に筆者の考えを羅列してみることとした。

今回のシリーズ記事では、これ以上の議論に踏み込まないが、予告的に付け足すならば、今回の議論を通して、筆者の云う「水神」及び「風雷神」としての「猫神」を、新たに「変成」神としての「猫神」として再規定する道筋が見えてきたことは、大きな収穫だったと云える。このことは、「猫神」を「天神」信仰と結びつけようとする筆者の以前からの企図にとって、重要な理論的装置になることは、間違いないと思われるのである。


2. 「羽山神社」小考・後編

a) 「山の神」としての「大山祇神」

「大山祇神」と云えば、「天孫降臨」の際、「瓊々杵尊」に娘の「木花開耶姫」と「磐長姫」とを差し出した話はよく知られ、それ故に「国つ神」側の皇祖神の系統を代表する神格とされている。一般的には、日本全国の山を司る神とされるが、そのことは二人の娘のうち、「木花開耶姫」が「富士山」の神であり、「磐長姫」が「浅間山」の神であるところを見ても明らかである。

ただし、出自的には「伊弉諾神」と「伊弉冉神」の子神とされるのだから、「天つ神」とされてもおかしくないのだが、その神としての性格や、その子孫神の性格を鑑みると、やはり「国つ神」だと判断出来る。ただ、「記紀」その他にも、直接この神が活躍する場面は少なく、概ねその子神たちの活躍が描かれている。したがって、この神の基本的な性格を神話を通して理解しようと云う営為は、あまり稔りのあるものではないかも知れない。

敢えて一点だけ挙げるなら、「伊弉諾神」が「火之迦具土神 ひのかぐつちのかみ 」を斬り殺した時、その死体から「山津見八神* 」と呼ばれる八柱の神々が化生したと云う神話だけは、この神の基本的な性格の理解に対して、わずかな光を当ててくれる。以前、「栃木の猫神」の記事で述べたように、「火之迦具土神」を斬ったときに出た血から生まれたのが、「石折神 いはさくのかみ ・根折神 ねさくのかみ ・ 闇淤加美神
くらおかみのかみ ・闇御津羽神 くらみつはのかみ 」など、八柱の神々であるが、これらの神は、「栃木の猫神」とのつながりを疑われただけでなく、神話レベルで、「水」「風雨」「雷」「開拓」などと密接に関わる神格として認識されているのが分かるのである。「死体」と「血」の対置は、おそらく比喩的にその生まれ出た神々の性格をも規定しているものとも思われる。したがって、「水」「風雨」「雷」「開拓」が生ずる大もとの存在として「山津見八神」を位置づけることが出来るのである。少なくとも何かしらのパラレルはあるものと考えられる。

* 山津見八神---『古事記』に載る「正鹿山津見神 まさかやまつみのかみ ・淤縢山津見神 おどやまつみのかみ ・奥山津見神 おくやまつみのかみ ・闇山津見神 くらやまつみのかみ ・志藝山津見神 しぎやまつみのかみ ・羽山津見神 はやまつみのかみ ・原山津見神 はらやまつみのかみ ・戸山津見神 とやまつみのかみ 」のこと。『日本書紀』では「淤縢・闇・戸」の三神を除く五神となっている。

また、「大日本神祇会長野県支部下伊那部会長」で、「春日神社」の神主でもあった (当時) 「小笠原賢太郎」による『伊那の御祭神』 (山村書院、1943) には、「大山祇命は八柱の山神を統べ、又山を主宰し給ふ神で大山津見命とも記す。御名義、山津見は山津持にて山を持ち司り給ふ意* 。大は多に山の部分を知り分け持つ八柱の山神 (正鹿、淤藤、奥、闇、志芸、羽、原、戸山津見神) の上に坐してこれを統べ、又山の総てを総覧主宰し給ふを讃へたのである。而して通例、山獄の守護神として祀られてゐる」と述べ、上記の「山津見八神」をも統率するとしている。続いて、「又、大山祇神とは天孫降臨以前此の国に土着したる国津神の総称であり、後に大山祇族が山間地に移住したるにより、山地主宰の神と称されたのであるとも云う」とも記しているが、その根拠や典拠は記載されていないのが残念である。

* 山津見は山津持にて山を持ち司り給ふ意---現在は、「大山祇神」の「ツミ」は、「の」を意味する上代の格助詞「つ」と、尊称の「み (御) 」を併せたもので、神名は「大いなる山の御神」と云うほどの意味だとするのが通例となっている印象がある。

しかし、「小林」説も、説明が足りないため、まるで「ミ」を「持ち」の転訛したものだと主張しているように読み取れてしまうが、おそらくその真意は、「古代」の「国見」の行事が「統治する限りの土地を見渡す (そして、言祝ぐ) 」と云うことの比喩として行われていたように、「ミ」を「見」と解し、「大山祇神」の神名も、「山を見渡して言祝ぎ統べる大いなる神」と云う意味で「山を持ち司り給ふ」としたのではないかと思われ、かなりの説得力を有しているのである。

また、「ワタツミ」の「ツミ」は、格助詞「つ」に名詞「うみ」がついた後に約まったものだと考えることも出来る。この場合は、「ヤマツミ」も「山・つ・うみ」と品詞分解でき、言語的には「山の海」と云う意味になり、
「ワタツミ」の「海の海」と対照をなすことになる。ただし、この場合、「山の海」の語義を巡る二次的な議論が必要とされることになる。

筆者は、通例の解釈を否定しないものの、「大山祇神」の神的性格を見たとき、「ツミ」は格助詞「つ」に名詞「み (水) 」がついたもので、「山の水を司る大いなる神」と解する方が良いのではないかとも考えている。

ただし、「ツミ」の「ツ」は、万葉仮名の表記ではみな濁音であった可能性が高いと云う主張もなされており、その場合は、これらすべての所説が否定される可能性もあることは、付記しておかねばなるまい。

一方、『伊予国風土記』逸文には「坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志大神なり」と記されており、この別名の中の「和多」は、「わたつみ」「わたのはら」と云う時と同じく、「海」を表す「わた」の意だと解されている。一説では、「大山祇神」は海神「綿津見命」と同体の神だとも云われる。その上、この神の子神には、「天之狭霧神 あめのさぎりのかみ 」などの「水神」系の神もいることで知られることから、「大山祇神」自身、水源や田の稔りを支配する「水の神・田の神」として、古くから信仰されてきている。

筆者自身の知るところでは、「山舟生」からは少し西に離れるが、同じ「福島県」の「耶麻郡西会津町野沢字大久保」の地に鎮座する「大山祇神社」では、「山を守護する神」は、山の樹木が雨水を涵養するが故に「水源・水利の神」とされ、やがて、その川の流れと共に山を下る「水の神」となり、平地を潤しながら「農耕の神」となり、そのまま海へと流れ出て「海の神」「漁業の神」となるとされている (ついでに山中鉱石資源を象徴する金石の神でもある) 。

現在、最も「ハヤマ信仰」が普及している地域と云うのは、おそらく「宮城南部・福島北部」の地域と思われるが、一方でこの信仰の起源は「出羽国」の「葉山修験」だと云われ、それが少しずつ「太平洋側」へと広まっていったものと考えられていることは、これまでに少しく触れた通りである。そう云った意味では、「会津」地域の「ハヤマ信仰」や「大山祇神」に対する信仰も、根っこの部分では「信達地方」のものと共通する部分を多く有しているものと仮定出来る。そして、その共通する部分の根本的な観念と云うのは、前項で見たように、「無」と「有」の境界域を浸透しつつ往来し、順逆転倒の契機をもたらす象徴的な存在と云う点なのではないだろうか。

そして、この点にこそ、「生」と「死」の「境界」での接触/交感と云う観念に根差す「祖霊信仰」が発生し、後に「農耕祭儀」に取り込まれていくダイナミズムが隠されているのであると筆者は考えている。


b)
「山の神信仰」は「祖霊信仰か?


「ハヤマ信仰」は、「祖霊信仰」と「山の神」信仰が、時代と共に「農耕 (水田耕作) 神」と云う形で習合されてゆき、今ではほぼ同等の性格を保有するに至っている事例と云われている。その結果、その信仰の始まりに、水田耕作と切り離された「山の神」に対する畏敬があったことは見え難くなっているだけでなく、そもそも「祖霊信仰」がどこでこの「山の神」信仰に入ってくるのかがまったく見えなくなってしまっている、と云う事実もある。そして、このことが「祖霊信仰」を「山の神」信仰と結びつけることは、「柳田國男」以来の暗黙の前提視* に過ぎないのではないかと云う批判をも惹起するのである。

もちろん「柳田」も、「山の神」と「田の神」が春秋に往来する「祖霊」神であると云う考えを提唱するに当たって、その理論化を等閑視して、前提として受け容れることを読者に強要しているのではない。「柳田」は、『先祖の話』中の「田の神と山の神」と云う項において、「家の成立には、曾ては土地が唯一の基礎であつた時代がある。田地が家督であり家存續の要件であつた」こと、そしてそのため「田地を家の生存の爲に遺した人の靈は、更にその年々の效果に就て、誰よりも大きな關心をもち、大きな支援を與へようとするものと、解して居た人が多かつたのも自然の推理だつた」と述べ、「御田の、又は農とも作のとも呼ばれて居る家毎のが、或は正月の年のと共に、祭る人々の先祖の靈であつたらうかと、私が想像する理由の一つは茲に在るのである」と結論づけている。

* 「山の神」と「田の神」の春秋交替説は、「柳田國男」よりも以前から唱えられていた。早くは「早川孝太郎」が『農と祭』の中で、「この二つの神は表裏二面の性格をあわせもっていて、春季農耕の開始される季節に、里に降りて田ノ神となり、秋季稲の収穫が終って、刈上げの祭りを境に、山に遷って山ノ神となる」と述べている。「早川」は、この「山ノ神/田ノ神」を穀霊と考えたが、「柳田」は「早川」説を踏襲しつつ、それを「祖霊信仰」と関係づけていったのである。

よくも、ここまで紆余曲折のある理屈に思い至ったものだといつもながら感心する筆者だが、「福田アジオ」は『寺・墓・先祖の民俗学』 (2004) の中で、このような「柳田」の「祖霊信仰」に関する所説に対して、「論証は必ずしも十分ではなく、検討の余地の大きいこと」だと述べている。そして、従来の「ハヤマ信仰」の成果は、「岩崎敏夫」による膨大な基礎研究の上に成立したものであることはまがうことなき事実であるが、それ故に、「柳田学」の徒として、「岩崎」氏の「ハヤマ信仰」論は、「柳田」の「田の神・山の神」と「祖霊信仰」の考えを実証的に明らかにしようと云う企図に基づいていたと云う、その目論見にやや囚われることになってしまっているのは否定出来ない。

「柳田」の云う「山の神」の概念に関しては、民俗学の世界の中からも異論は出されており、「桜井徳太郎」などは、元々特定の霊山を神霊や死霊が留まる聖域であったと考え、このような考えが堅持されていた時代には山上への立ち入りは厳しい禁忌とされたが、その後、「仏教」や「修験道」が入ってくるに従い、死霊への供養のために登拝すると云う風習が生まれたものと見ている。そして、それらの霊魂は本来、極めて畏怖される存在で、定期的に里に降りてくるような性質のものではなく、麓からひたすら遥拝してその加護や鎮魂を祈るものだったと云う。「桜井」の云うこの「山の神」は「柳田」の唱える「山の神」とは、明確に峻別される神観念と云えるのだが、いずれも別の神を示していると云うよりは、同一の神に対する異なる解釈と云えるものであり、その点では「山の神」の観念の背景にある複雑かつ豊かな文脈を読み損なっており、残念である。

実際、上記の「柳田」や「桜井」の議論に対しては、「ともに平野に居住する水田稲作農耕民の立場からのみ考察を加えている (佐々木、2006、p. 24) 」と云う点で、ある種の理論的な限界があると指摘する声が、「照葉樹林文化論」や「焼畑文化論」を提唱する人々から挙げられ、その人々によって、近年、我が国の「山の神」を巡る新たな視点が次々と提示されている。「大林太良」や「エーバハルト」らは、死者の霊魂が村を見下ろす山の上に行くと云う「山上他界観」の文化系統を、「中国西南部」を中心とするいわゆる「照葉樹林帯」における「焼畑農耕」的な文化複合の特徴として捉え直す論考を発表している (大林、1965 / Eberhardt, 1942) 。

「大林」氏の見解は、「エーバハルト」の他に、少なくとももう一人、『山の神』と云う大著をものした「オーストリア」の「N. ナウマン」の影響を少なからず受けているようである。「ナウマン」は、「山の神」に関する膨大な量の文献研究を積み上げ、我が国の「山の神」の観念の裏には、複数の「神」の観念が折り重なって存在しており、それを単一の「祖霊」の観念などに集約させるのは、適当ではないと唱えている。

日本の民俗学者たちが一時期ひときわ強く持ち出してきた祖霊と山の神との以上の関係が、山の神信仰の一つの大切な成分にはちがいないが、数ある成分のうちの一つにすぎないことだ。山中の森のなかに留まっている死霊や祖霊をめぐる思考は、山の神信仰の多くの部分に影響を与えた。しかしそれだからといって、ごく一般論として祖霊=山の神の同一性を論じられるほど徹底して浸透したわけではない。山の神ではない祖霊というのもある。そして本論の詳しい分析が明白に示したように、山の神の本質を、いついかなる所でも祖霊の本質として解釈することはまったく不可能である。

N. ナウマン/著・野村・桧枝/訳 (1994) 『山の神』言叢社、p. 116
N. Nauman (1963-64) 'Yama no Kami ―die japanische Berggottheit', Teil 1-2,
Asian Folklore Studies
, XXII-XXIII


日本各地の各種各様な山の神信仰は、本来唯一の共通な根源から派生しているものではなく、この信仰のなかにはさまざまの異質な要素が包含されていて、それらが長い年月の間に多様な結合体を形成したものと考えられる。また地方によって異なる山の神信仰の現象形態のそれぞれについても、それらが単独に直線的な発展経過を辿って今日の形に到達したものとは考えられない。要するに日本全土に妥当するような統一的な〈山の神〉像は存在せず、そのような普遍的統一的概念は地方によって各種各様の表象を人工的に合成したひとつのフィクションにすぎない。

N. ナウマン (1971) 「田の神と山の神は果して交替するのか」
日本民俗学会 (1971) 『日本民俗学』第七十六号

「ナウマン」は、我が国の「山の神」には、二つの主な系統があるとしている。第一に猟師及び山稼ぎ人の祭る「山の神」と、第二に農耕民の祭る「山の神」の二系統があると指摘している。第一の系統に関しては、「桜井徳太郎」の「山の神」観に接近しつつも、「麓」から遥拝する平地から見た神と云うよりは、山中に活動する人々の臨場的な神として規定しており、第二の系統は、概ね「柳田」以来の「山の神=田の神」観と共通する見解となっている。

要するに、「山の神」は元来、「森と獣の神」であり、後に原始的な「焼畑」によって出来た山中や森の中の耕地を庇護する神格へと発展したのだと、「ナウマン」は云うのである。そして、山中に死者を埋葬する習慣、「死霊」や「祖霊」が山にいるものとする考え、また何よりも年始めや収穫後などの一定の祭日に死者が生者を訪うと云う信仰などが、「焼畑」の耕地をも守護する「山の神」の観念と「祖霊」の観念との混淆を助長し、やがては一年のうち半分は「田の神」になると云う「山の神信仰」を成立させたと云うのである。

同様の見地に立って、「佐々木高明」は、早くもその著作『稲作以前』 (1971) において、次のように述べている。

従来《山民の山ノ神》といわれるものを論ずる場合、多く引き合いに出されてきたのは、狩猟民ないしは狩猟者のまつる山ノ神であり、これと《農民のまつる山の神》を対置して、両者が別種の神であるといわれてきたわけである。正業形態がまったく異なる二つの生活類型に、それぞれ対応する二つのカミ信仰を対比すれば、その間にある種の不連続が認められることは当然であろう。しかし、いまその中間に、《焼畑農耕民の信仰する山の神》をはさんで考えれば、この二つのカミ信仰の間には、ある種の連続がみとめられ、カミ信仰の進化の連続的な過程が、みとめられはしないだろうか。

佐々木高明 (1971) 『稲作以前』日本放送出版協会、p.250

要するに、山民の奉ずる「山の神」と、農民の掲げる「山の神」との間に、「焼畑農耕民の信仰する山の神」を挿入すると、「狩猟民のまつる山の神から焼畑農耕民のまつる山の神をへて、平地農民のまつる山の神=田の神への進化の図式を描き出すことが可能になる」と提唱しているのである。

* このことの実証的な一例として、「南会津地方」の山村の調査をした「湯川洋司」は、その調査の結果を踏まえて「山ノ神はたんなる農神としてではなく、『畑ノ神』として春に下ったと結論するのが適当と思われる」と述べている (湯川洋司『変容する山村 民俗的再考』日本エティタースクール出版部、1991、p. 147) 。

以降、民俗学では長らく同一のものと考えられてきた山と平地の「山の神」は、どうやら起源において別個のものなのではないかと云う見解が少しずつ非民俗学系の研究者たちを中心に浸透していったようであるが、民俗学プロパーでは、「堀田吉雄」 (『山の神信仰の研究』) などの例外を除いて、二つの「山の神」を認めたとしても、なおも、「山民」の「山の神」は、「農耕民」の「山の神」の派生形 (退化形) であるとする見解が強く遺されることとなったように感じられる。

現在、「ナウマン」が緻密な論証を世に問うてから半世紀近くの時が経過して、「山の神」を巡る議論は、ようやく二系統の「山の神」を念頭に入れて考えるべきだと云う風潮が定着しつつあるように思われる (その中で、「ナウマン」の先駆的な業績をいまだ正しく評価しようとしない民俗学界は、相変わらず排外的な体質を曝し続けているのが気になるが...) 。しかし、それでもなお、「祖霊信仰」を巡る議論は、いまなお十分な検討がなされているようには感じられない。この問題は、「山の神=祖霊=田の神」と云う図式が、その連続性の実証が曖昧なまま半ば自明視されてきた過去と相まって、我が国の「山の神」論の将来的な課題として、いかに重要な問題であるかは、「佐々木高明」の次の言葉が端的に表現している。

だが、氏神祭に当たって山宮から里宮へ迎えおろされる神を、その氏の祖霊とみなすことはよく理解できるが、その論理をそのまま山と田との間を去来する山の神に適用し、それも祖霊だとするには、いささか論理の飛躍があるのではなかろうか。

佐々木高明 (2006) 『山の神と日本人』洋泉社、p. 17

筆者は、この壮大な民俗学的企図に身を投じる力がない。ただ、現在遺される「山の神信仰」の様態を見る限り、「祖霊」を巡る信仰がいつの頃か、確実に「山の神信仰」の一部に習合されるか、あるいは両者のつながりが曖昧なまま並行して祀られたことも、一方で明確なのではないかと思う。この事実を踏まえた上で、その理屈に関してはあまり難しく考えず、「山」を「異界」と見なす根本精神から、単純に「魂」の住処として考えられるようになったのが始まりなのではないかと筆者は考えている。すなわち、「祖霊」は確かに「山」にいるものと見なされたと考えているものの、それには以下の条件がつくのである。

1. 「山」概念の捉え方

この場合の「山」は、地理学的な「山岳」に限らず、古い時代の人々が持っていたと思われる「異界」概念として把握しているること。より細かくは、日常的な生活空間とは異なる認知的な空間を形成する領野のすべてを指す象徴後として捉えていると云うことである。したがって、「森」に限らず、海や河川、湖沼、井戸などの「水界」や、その境界としての河原や磯なども含みうる観念として理解していることになる。

2. 「祖霊」と「山 (山の神) 」の関係
「祖霊」は、「山」にいるが、「山」にいる精霊は「祖霊」ばかりではないと云うこと。「動物霊」や「植物霊」「樹木霊」、その他「岩石」などの霊も存在すると考えられること。したがって、筆者は、「山の神信仰」の一部に「祖霊信仰」が関わるとは見なすものの、「祖霊信仰=山の神信仰」とは見なさない、と云うこと。

3. 「山の神信仰」の普遍性に関して
「山の神信仰」の、我が国におけるある程度の普遍性は留保するものの、その構成の細部までが同等の普遍性を有しているとは考えていないこと。言い換えると、「山」とその象徴する世界に対する崇敬の念に発する信仰形態は、広く全国に見られるが、その一つ一つに関しては、その起源や構成要素が全国的に共有されているとは限らず、地方的な差異や変異を、起源からの派生としてではなく、より本質的なものと見なしている、と云うことになる。


c) 「山の神」と「猫」

繰り返すが、筆者は「ハヤマの神」の起源を探っているのではない。ただ、「ハヤマ信仰」における現在の「目に見える」信仰の内容から類推して、「ハヤマの神」は、決して「農耕神」や「祖霊神」と云うだけでは説明出来ない諸特徴を持っていると感じているだけである。そこには、より本源的な自然に対する崇拝としての「山の神信仰」の系譜が見られると、随分以前から思ってきた。

「山の神信仰」に関する筆者の基本的な姿勢は、既に上で述べた。その根源にある精神は、「日常」と対置される「非日常」としての「異界」の意識なのである。時に筆者が「非日常」と云う時、強く意識されているのは、「無」から「有」が生じるイメージから発した、順逆が転倒しうる「変成」の契機を内包した物理的/認知的な空間性なのである。


筆者は、ここまでに、上のような意識のもとで、「異界」としての「山」を形づくる根本的な発想に、「水」の湧出 (河川の発生) や、それに関わるものとしての「太陽」の役割に触れてきた。特に、第四回となった今回の記事の前半では、「羽山神社」の祭神の一柱である「大山祇神」を扱うことで、「山」と「水」の関係を掘り起こそうと試みたのである。

この企図の裏にあるのは、「大山祇神」と云う現在の祭神の神名にさえその痕跡が残っている以上、「水神」としての「山の神」の性格も、「羽山神社」の信仰や祭儀のどこかしらに残存していたとしてもおかしくはない、と云う筆者の考えである。そして、もし仮に「水神」としての「猫」と云う筆者の説を採用するならば、「羽山神社」自身が「水神」の性格を持っていてこそ、「本殿」の真裏の斜面と云う特異な位置に「猫神」だけが祀られていることの十分な根拠を提供し得るのだと考えるに至るのである。

もちろん、筆者の唱える「猫神」論は、その性格を一つ「水神」に限らず、より広汎に「風雷神」なども含みつつ、最終的には「生」と「死」の「境界」に渦巻く「変成力」を象徴したものだと云う点にこそ、その骨子がある。我が国の民話や伝説などの説話に登場する「化け猫」「猫檀家」「火車」などに残滓として現れている「猫」の超常的な「力」と云うのは、本来この原初的な「変成力」の衰微・変形されたものなのであり、そこでは「無」から「有」へと事物が「変成」する根源的な力動の契機として「猫」が象徴的に現れているのだと思われる。

「猫」の怪奇譚と云うのは、このような「猫」の「変成力」に対する、負の側面が偏って表出された事例なのだと筆者は考えている。人は、人間社会と自然のバランスの調整と云う図式の中で、自らの力でプラスの「変成」を引き出すことが可能になればなるほど、その同じ力の負の側面が畏怖されるよりは、忌み嫌われるようになり、それが一人歩きして数々の怪談と云う形で結実したのだと思う。

また、全国の狩猟や伐木を生業とする人々の間で、「猫」が「忌み言葉」となっている地域が多いことは、よく知られるところである。筆者は、いままでこの「禁忌としての猫」に関して書かれた諸文献に目を通しても、何故そのようなタブーが発生したのか、そのタブーの象徴的なメカニズムはどのようなものなのか、と云った根本的な疑問に答えてくれるものは見つけられなかった。筆者とて、これに明快な解答を用意出来ているわけではない。ただし、これも「山と猫」の関連を強く印象づける事例であることに相違はなく、そうであるならば、その禁忌の発生に「変成力としての猫」が関わっているものと睨んでいる。これは、今回記事で大きく扱った山での「女人禁制」の議論ともつながることなのだが、「無」と「有」、あるいは「生」と「死」すら容易に転倒させうる「変成」の契機となる「猫」は、「日常」の生活空間を離れて、「非日常」の空間で生活を立てている人々にとっては、一際畏怖される存在になり得たはずだからである。

しかし、筆者は各地の「山岳信仰」や、あるいはより限定的には「山舟生・羽山神社」の原初の信仰対象が「猫」だ、と主張しているのでもない。ただ、その両者の間に無視し得ない共通点があり、そのために「猫神」碑が、「羽山神社」の「本殿」真裏に設置される発想が整えられたのではないかと推測しているだけである。実際には、「猫碑」が建てられた時には、既に「水神としての猫」や「変成力としての猫」と云う考え方は、意識的な地平では人々の記憶から忘却されていた可能性すらある。ただ、その根本的なイメージの連続性は忘れ去られても、その形骸化した関連性だけは、いまだ伝えられていたからこそ、「山舟生・羽山神社」に限らず、各地の「猫神」遺跡や伝承に、「水神」あるいは「変成の契機」としての「猫」のイメージ的な残滓が、いまなお注意深く観察することで、読み取ることが出来るのではないだろうか。
*

今後の課題としては、筆者の「水神としての猫」論をより精緻化していくことと、その「変成力としての猫」のイメージが、何故一部の地域にのみ偏って顕現するのかと云う、おそらく複合的なものと推測される文化的な諸条件を探っていくことが、真っ先に挙げられる。特に、現象レベルでは、「養蚕」地域では多く「猫神」が生き残ったと云う事蹟が明らかにある以上、何故「蚕」が「猫神」の保存条件として働き得たのかを探ることは大切な作業となることは間違いない。そして、その上で、この「養蚕」でさえも、やはり偏ってしか「猫神」を保存し得なかったことを見ていくことは、「猫神」残存の複合的な諸条件を浮かび上がらせるに当たって、多くの重要な示唆を含んでいるものと考えられる。

とは云え、以上のことはすべて将来的な課題である。現在は、まだ乏しい「猫神」の資料を、必死に収集しては整理している段階でしかない。当然、現時点での理論化の作業は、すべて過渡的なものとならざるを得ない。今回の記事も、当然そのようなものの一つである。


b) 「ハヤマ信仰」と「女人禁制」其の二

前の項の終りを拝見して頂ければ、前項で「羽山神社」の「猫神」を巡る考察は、いったんの集結を迎えたことは理解して頂けたと思う。以下は、本記事の記述の過程で浮かび上がったサブテーマとしての「女人禁制」の話の尻拭いのような形で付加せざるを得なくなってしまった結果、記すものである。

やがて述べていくことになると思うが、平地の神 (実際には観念) が山を登っていき、「山の神」と習合する形で現在の「山の神信仰」の多くは形成されたのではないかと考えられるように、また、「山の神」は平地に下ってきて、平地の「変成」の観念と合わさって、後の「天神」信仰へとつながる系譜に連なったのではないかと、筆者は疑っている。この「天神」信仰も、後に「菅原道真」と云う歴史上の人物を中心に据える「北野天神」の祭祀が全国的に優勢することを通して、その原初的な姿を失っていったと考えられるのだが、「猫神」はまた、ここでもその姿を垣間見せることになるのである。

この原始的な「天神」信仰と「猫神」との関連を見てゆく時に、筆者の中では、潜在的にだが、「女人禁制」のメカニズムが関わってくるのである。もう少し具体的なことはすべて、今後の記事に譲らざるを得ないが、今回、蛇足気味に付け足す「女人禁制」の議論も、そこに「変成の契機」としての「女性」と云うイメージ性を見てとるからこそ、大局的には、筆者の「猫神」論の基礎的な考究に寄与するのである。

しかし、そんなこと云っても、これより先を読んだからと云って、直接、「猫」の話題につながる訳ではない。したがって、「猫」に興味を絞った場合、この先を読む必要はさらさらない、と云うことになる。


女性中心の祭祀及び「産む性」としての女性の霊性を巡る議論

筆者は、前回記事で、「『豊穣性』を 祈る『農耕儀礼』は、産をなす女性によって象徴されたと云う古来の考え方を前提にすれば、そのような『儀式』から女性を締め出すと云う観念がそんなにも広く受け容れられると云うのは想像出来ない」と書いた。しかし、これはある意味、舌足らずな書きようであったかも知れぬ。筆者がここで「古来」と云っているのは、少なくとも「女人禁制」が現在に近い形で成立したと思われる「近世」以前から、と云う意味であった。「羽山神社」の祭神の来歴を比較検討する際にも述べたが、筆者は今回のシリーズ記事の中では通時的な時間軸の設定に関しては厳密な作業を念頭に置いておらず、飽くまでも民俗的な思考の遡及的な考察を重視しているだけである。一般的な意味での歴史性は無視しないように気をつけているつもりだが、厳密な照会の作業は、自らの仮説の全体像が見え始めてから、歴史学や考古学などの成果と照らし合わせつつ、修正・補完していく手続きをとろうと思っている。

そもそも、かつては民俗学の世界を中心に、我が国の祭祀は元来女性たちによって担われていたものであったと云う観念は、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」の記述とも相まって、「柳田国男」以来、ほぼ通説として受け容れられてきたと云える。「柳田」は、その『妹の力』の中で、「宗教的行為の重要部分はかつて婦人の管轄であり、田植え行事においては近世にまで顕著に見られる。女性は生産の力あるものだから大切な生産の行為は女に依頼したのである」と述べている (全集11、p. 254) 。祭祀の基本も、豊穣を祈ることにある以上、おのずとその中心を担うのは女性であったと云うことになろう。このことはまた、古い民俗を残していると考えられる「沖縄」などの「西南諸島」において、「ノロ」などの女性司祭が中心になって祭りを取り仕切る風習が現存する事実とも対応すると考えられるのである。

しかし、かつては定説として誰疑うことがなかったこの前提に対して、近年、女性史の研究の方面から、少なからぬ疑義が挟まれることになっている。「岡田清司」は、「宮廷巫女の実態」 (1982) の中で、次のように述べている。

以前から古代日本において司祭者が〝女性から男性へ〟移行したと説く人が少なくない。その変化の時期は七世紀ごろという人もある。それらの〝常識〟的な意見の多くは、沖縄のノロをはじめ各地の民俗にみられる巫女を古代の遺制ときめこみ、さらに『魏志倭人伝』に見える卑弥呼のイメージと重ねるところから生じた大きな誤解であろう。 (中略) 古代において女性だけが司祭者であったという実証的な裏づけは見あたらない。問題点は、本来、男女の司祭者が共同で行っていた祭祀が、男性 (本土) または女性 (西南諸島) だけになってしまうところにあるといえないであろうか。

参照・岡田清司 (1982) 「宮廷巫女の実態」
女性史総合研究会/編 (1982) 『日本女性史』東京大学出版、p. 74

「岡田」氏は、その論考の中で、祭祀の中心的な役割が、女性司祭から男性へと変化したと云う通説に疑問を投げかけ、古代の神社祭祀は「神がかりの巫女とそれをきいて神意を占う男性」のペアからなっていることを指摘し、そうした「巫女」の機能が官人制度に馴染まぬものであった故に、律令官人制度の成立に伴って、「巫女」はその地位を低下させていくこととなった、と論じている (岡田、1982) *。

* ただし、「岡田」論考は、その立論の段階で『類聚三代格』巻一にある「女を以て禰宜と為す応き事」と題された貞観十年 (868) 六月二十八日付の官符を例証として挙げているが、これが女性祭祀者の優越と云う通説を否定し、男女一組の祭祀者による祭が本来の姿であると云うことを証するものだと云うのは、やや無理がある論理だと筆者は思わざるを得ない。

何故なら、この文書は素直に解すれば、政府が男女一組の祭祀を強く推奨している風潮の中で、それでも各地に男だけ、あるいは女だけの祭祀者によって祭が行われている神社が数多かったことを証しているだけだからである。それは「岡田」説のように解釈することも可能かも知れないだが、あるいはその逆に解することも可能なものなのである。

しかも「岡田」氏自身、天平宝字元年 (749) 十二月、「東大寺大仏」の完成に際して叙位を受けた「宇佐八幡宮」の神職は、女性の禰宜が従四位下、男性神職が外従五位下を授けられていることなども挙げて、「女性神職の地位は予想以上に高く、男性神職と対等もしくはの上位にあるのが一般であった (上掲書、p. 73) 」と述べているのだから、やはり氏の議論は、諸刃の剣のようである。

この「岡田」説や、「脇田晴子」編『母性を問う』 (1985) における議論をふまえて (主に脇田晴子「母性尊重思想と罪業観」・加藤美重子「『女 ムスメ 』の座から女房座へ」の二論文か) 、「美江朋子」は、その「玉依ヒメ再考―『妹の力』批判」 (1989) の中で、以下のように記している。

近年の女性史研究の成果によれば、〝産む性〟の強調は決して本来的・普遍的なものではなく、貴族社会では九世紀ごろから、在地の村落レベルでは十四世紀ごろから、社会的場からの排除に明確に対応して女性は母としてのみ尊重されるようになっていくことが、具体的に明らかにされている。

美江朋子「玉依ヒメ再考―『妹の力』批判」
大隅和雄・西口順子/編 (1989) 『巫と女神』シリーズ女性と仏教 4、平凡社、p. 83

筆者は、正直に云うと、「柳田」説であろうと、そうでなかろうと、現時点ではさほど重要視していない。いま、筆者にとって大切なのは、「山舟生・羽山神社」と関連して、「阿武隈地方」の「ハヤマ信仰」が、ほぼ現在の形になったときから見て、それ以前、男女の祭祀への参画がどのように理解されていたかを、現在から遡って類推することなのである。その際、当然のことながら、諸先学の説を参考にして考察することになるのは云うまでもないことだが、時間軸の設定に関してだけは、それが「古代」以来のものなのか、あるいは「中世」からのものなのかは、問題とはしていない。

とにかく、「山舟生・羽山神社」に関しては、「近世」初期にその祭祀が成立する段階で、「女人禁制」の前提を緩めたらしい、と云う伝承があることに注目して、周囲のその他の「ハヤマ祭祀」における「女人禁制」の要素、特に「黒沼神社」の「羽山籠り」の神事と比較しつつ、その根源的な精神を炙り出していこうとするものである。

ただ、もしも筆者の乱暴な私見を述べよ、と云うのならば、現在のところ、「女性中心」の祭祀の歴史は、通時的にも共時的にも、全国規模に不偏的であったとは思わないものの、少なくとも「中世」よりも古い段階にまで遡れるのではないかと考えている。

はっきりした根拠はないが、「女性中心祭祀」を示唆する多くの民俗的な事例や文献も存在することは、筆者には無視してよいほど些末なことには思えないのである。特に文化的な事象を、ひとつひとつバラバラに観察するのではなく、ある種の複合として見ようと云う立場に立つとき、ある地域内の文化的な営為のうち、慣例上も保守性が高く、時代的な耐性も高いと考えられる信仰・宗教的な行為は、果たしてその祭祀者と云う重要な問題に関して過去との連続性をさまでに失って受け継がれるものかどうかと云う点には疑問を感じざるを得ない。「南西諸島」の「女性中心祭祀」に関して云えば、この地域は全体として比較言語学的な観点に立って概観したときも、古い日本語の形態を残存させている地域と目されており、その地域の信仰形態が古態を残している蓋然性は低くないとも云える。

『魏志倭人伝』の記述にしても、全面的に信じることも、またその記述から我が国全土の文化風習へと単純に一般化することは出来ないにしても、一方でそこに描かれた「卑弥呼」像がまったくの創作とも考えられない以上、「妹の力」的なシャーマニズムの形態が我が国の古い文化層に存在したと云う事実は認めてしかるべきだと思う。ただし、「倭人伝」の記述は周知の如く、極めて簡略なものであるから、その記述からあまり多くの類推をするのは危険だと云うのは間違いなかろう。

また、『古事記』にせよ『日本書紀』にせよ『万葉集』 にせよ、「唐風文化」の輸入が盛んに行われた「奈良時代」に成立した記録類を最古のものとする我が国の文献研究では、公的な文書を扱えば扱うほど、どうしても「中国」の思想的な影響を脱し切ることは出来ないのではないかと云う疑いも筆者は抱いている。「江戸期」の国学者たちが思い願ったほど、「記紀」や『万葉集』は、漢文文化と隔絶はされていないのは、現在の国語学の常識とさえ云えるのではないだろうか。「大和朝廷」の政治的な行事の多くも、「隋唐」の官制の影響を受けていることは間違いなく、「岡田」「美江」両氏の議論をより確実にするには、今後、宮廷の宗教的な行事における我が国の文化的な自律の度合いを丁寧に検証する作業が必要になるであろう。

そして、この点に関して付加えるならば、「美江」氏自身、「産む性」としての女性の強調は、宮廷の公的なレベルでは九世紀頃に起きたものの、在地の村落レベルでは十四世紀頃まで待たねばならなかったことを記しているのだから、その間、約五百年のズレがあるとして、仮に祭祀者の性別に関する約束事が変位したとして、これまた中央の「神祇官」やその周辺の寺社のレベルと、地方の祭祀レベルとの間には相応の時間差があって変化が進行したと考えても、あながち短慮総計とは云えないことにならないだろうか。この点を再考して、過去から現在に向かっての中央/地方での変遷の流れを見ると同時に、逆に現在から過去に遡って検証する作業が今後、必要とされるだろう。

*

ここまでのことを簡単に要すると、「女性中心祭祀」を全面的に否定する論考の反証も、いまだかなり限定的であること、それを示すのに公的文献に頼らざるを得ないこと (したがって、国家的制度の枠内での認識が前提として存在すること) 、さらには解釈に両義的な可能性を残す文献などを根拠にしていることなどの諸点を踏まえると、筆者が「女性中心祭祀」否定論に全面的に与しないのも、おのずから理解していただけるのではなかろうか。 

むしろ、「岡田清司」「美江朋子」両氏の議論は、「柳田」以来の「女性中心祭祀」の仮説に、明白な歴史性が欠けていたことを指摘すると云う意味では非常に意義深いものではある。したがって、もしもより限定的な通時軸に沿って「女性の公的祭祀からの追放」を論ずるならば、「女性史」論におけるその議論の意義も価値も、十分に維持されるどころか、より確実性や蓋然性が増すものだと思われる。

しかし、両氏の仮説には残念ながら大きな欠陥が、少なくとも二つある。一つは、「柳田」説の系統にも同様に云えることなので、欠陥と云うよりは、単に古い民俗を調べるときの時間的な必然とも云えるのだが、 (既に述べた通り) とにかく文献的な資料が乏しいと云う欠点である。「岡田」氏も、この点に関しては、次のように述べて、史料の不足を嘆いている。

古代国家における宮廷や神社の制度的な女性司祭者の実態となると、資料が乏しいこともあって解明されておらず、これまでの見解は女性による祭祀の断片的史料と民俗事例によるところが少なくない。

参照・岡田清司 (1982) 「宮廷巫女の実態」
女性史総合研究会/編 (1982) 『日本女性史』東京大学出版、pp. 43-44

この史料の少なさと云う点に関しては、「岡田」氏は、自身宣言されているように「宮廷内祭祀」に焦点を絞って当時の記録・文献から考察を加えているし、「美江」氏も、特に記録に残された「玉依ヒメ」系統の文献に的を絞って丁寧な議論を展開しているではないか、と云われる向きもあるかも知れない。しかし、このことはそのまま、筆者のこれから云う第二の欠陥に当てはまってしまうのである。

つまり、その二つ目の欠陥と云うのは、上の史料的な不足を慨嘆しつつ、「岡田」氏が、「史料も比較的多くみられ」ると云う制度的な史料に偏って、「天皇の身近なところでくりかえされる宮廷の奧の祭の司祭者であり、国家の祭祀の中心にあった乙女たち―神祇官の巫女たち」を専ら採り上げ、その結果、現在に伝わる民俗的な事例や、断片的に残される史料から窺える「女性中心祭祀」の観念を否定し去っている姿勢に端的に表れている。今後の研究の進展によっては、それが魅力的かつ啓発的な所説であるだけに「岡田」説や「美江」説のような視点が正しいと云うことになる可能性は十分に想像しうる。筆者の云いたいのは、ただ、現時点ではまだ十分な検証がなされていないと云うことなのである。

しかし、筆者が最も重視するのは、これら二つのことではなく、「女性中心祭祀」仮説を否定したとき生まれる理論面での問題なのである。このあと、いくらか丁寧に見ることにするが、我が国古来の信仰の根本精神と「女人禁制」の観念の根幹に関わると目される「ケガレ」の変遷の問題を考えるとき、「女性中心祭祀」の立場に立たなければ、「女のケガレ」と云う複雑な問題が、結果的には、「平安期」から「中世」にかけ、多分に「中国」の儒教的な影響の下、我が国の官人制度が成立する過程において、上から下へと制度的に課された実体的な権力構造と結びついた観念として、過度に単純化されてしまうことに疑問を感じるのである。そもそも、歴史性の重視は、気をつけないとどうしても単一の通時的な時間軸を強調するあまり、文化事象の成立や変位を、直線的なものとして捉え過ぎてしまう弊害が起きることも多いのである。筆者は女性の祭祀者の問題は、常に「女のケガレ」の問題と絡み合った文脈でこそ把握しなければ、両者のダイナミックな関係を無視して、最終的にはそこに潜む後世の差別の構造的な契機さえも見落としてしまうことになると考えている。もしここで「女性中心祭祀」仮説の後ろに潜む「女性のケガレ」と云う観念の原初的な形としての「女性の霊性」と云う考え方をなくしてしまうと、その他の根本的な「ケガレ」と、それらを巡るタブーや信仰に共通する「境界性」の問題も等閑視されてしまう、と云うのが筆者の最大の心配点なのである。

以下、筆者のその不安を喚起する理論的な道筋を、「ハヤマ信仰」の「女人禁制」の習俗を参考にしつつ、明らかにしていければ幸いであると思っている。


「日常性」と「非日常性」の「境界域」を巡る議論

このシリーズの中で、筆者は、順逆が転倒しうる「無」と「有」の「境界域」を行き来するものとして「羽山神社」の祭儀の象徴性について何度か述べてきたが、これ以上話を進める前に断っておかねばならないのは、筆者がこのように「無」あるいは「有」と述べる場合、大まかにイメージしているのは、両者が相互に転倒しうるダイナミックな構図なのであって、両者はその「境界域」にあって互いに浸潤しあう関係にあり、決して双方が固定的に隔絶された図式のものではないと云うことである。そこでは当然、「無」は「有」によって支えられ、「有」もまた「無」によって支えられているのである。

このことは、「無」と「有」に、仮に「生」と「死」を当てはめて考えると、ややはっきりする。すなわち、「生」が生まれ出づる元も、「死」が訪れ、「生」が消え行く先も、共に「生」と対極をなす観念的な領域である、と云うことなのである。現代を生きる我らは、一般にこの後者にのみ「死」と云う名前を与えて、忌避しつつも、ある意味慣れ親しんでいるが、前者に関しては概ね無頓着に暮らしている。

「柳田国男」は、自らが整理提唱した「ハレ (晴) 」と「ケ (褻) 」の概念を巡って、「明治」以降の庶民生活の変化について、「褻と晴の混乱、すなわちまれに出現するところの昂奮というものの意義を、だんだんに軽く見るようになった」と、
その『明治大正史・世相篇』において述べている (1993、p. 23) 。かつての日本人が、はたして意識の上でこの「ハレ」と「ケ」の区別を深く理解していたかは疑わしいが、長い間の慣習や儀礼などを通して、少なくとも「近代」以降よりは厳格に二つの領域を分けていたと云うのは、おそらく間違いなかろう。

上に挙げた「生死」の両極での対照性について云うならば、一つ、それにまつわる「ケガレ」に関して、「前近代」の日本にあっては、「死穢」だけでなく、「産穢」もまた同様に重視されていたことを見れば、現代人の「あの世」観とは、根本的に変わっていたことが理解されるだろう。このことは、昔の人々が、筆者の云う両義的なものとして「無」と「有」の「境界域」を認識していたことの証ともになるし、またそのような両義性を前提とせずには、どのみちこのような互換的転倒を理解することは出来ないのである。

筆者は、ここまでの議論で、「山の神」としての「ハヤマ神」を語るに当たって、山から水が湧き、川となって平地の生命を潤すと云うイメージ性を説き起こしつつ、「無」から「有」の発生の象徴性の話をしてきた。しかし、ここからは、「女人禁制」の絡みから、「女のケガレ」について見ていくために、この「無」と「有」の浸潤しあう「境界域」のモチーフを、女性の「ケガレ」の大元と考えられてきた「お産」や「月経」の「ケガレ」、そしてさらにその起源たる「血穢」についての議論を、少しばかり試みてみたい。

*

今まで、「お産」及び「月経」を巡る「ケガレ」は、民俗学一般では「赤不浄」などと呼ばれ、その説明は、主に「血穢」からなされてきた。そのような説明と云うのは、神々が「血」を「ケガレ」と見なして嫌うため、お産に伴う出血や経血などを「不浄」と見なして、聖域からは忌避した、と云うのがほとんどであった。しかし、筆者はこの説明に関して、以前からどうしても気になる点がある。それはこの説明の根幹をなす「血のケガレ」に対する説明が何もなされていないことなのである。「血は、なぜ穢れているのか? 」と云う問いに対する答えがどうにも不明瞭なのである。

「血」は、「死」を連想させ、「死」には「死穢」があるから、などと云う説明は受け入れがたい。何故なら、いくら昔の人は家で死を迎え、そのため人々は死を間近に見慣れていたとは云え、はたしてどれほどの人が血に塗れて死んだと云うのだろうか? そう云った意味では、「生」すなわち「誕生」の方が、遥かに前提として血塗みれだとは云える。

それに、民俗学などに詳しいものなら誰でも知っていると思われるが、「死穢」を巡っては、喪家での「別火」の問題もあり、単純に「死」のみが他の「ケガレ」の感染源として働くわけではないことが知られている。これは、「古代」の自死や処刑が、基本的には血の出ない形に拘って行われた事実と考え合わせると、興味深い *。何しろ、その観念の裏には、「死」そのものよりも、「血」の方が遥かに「忌み」の対象として強く意識されているからなのである。そして、これは「死」を連想させるから、「血」は「ケガレ」を発生すると云う通説に対して、ある種のアンチテーゼを提示してしまうのである。少なくとも、理屈の流れは逆に見えてしまう。

* 古代における処刑法が縊死を中心としていたことはよく知られている。自殺に関しては、「池田弥三郎」が『性の民俗誌』の中で、「古代人の自殺は、決して血を出さない。だから首をくくるか、水にはいるかであって、自分にやいばをあてて、血を出して死ぬ方法は、都の文明以外のものが入りこんできてからである」と述べている (池田、2003、pp. 213-214) ことを参照した。

以上のようなことから、筆者は基本的に「血穢」が専ら「死穢」からの連想で発生したものと云う考えには賛同しないのだが、ここではしばし、「血穢」が「死穢」と結びついて発生したものと云う仮定に沿って、その起源的な発想に迫る試みを続けてみよう。

そこで、「死穢」から発した「血穢」は、老衰や普通の病死などの出血を伴わない死ではなく、事故や争いなどで人が死んだときを特に忌避したのが、元々の形だったのではないか、と云う主張も出来るだろう。この場合、「死」と「血」は不可分の関係で結ばれるからである。しかも、この場合、人の死が「正しくない死」として規定出来ることから、「祭り」を「非日常」的な存在を正しく迎え、正しく送る儀礼の体系と見なす筆者としても、一応は、納得のいく説明となっているのである。しかし、それでも、このような解釈をする限り、いつ頃から「正しい死」、すなわち「老衰」などまでが「正しくない死」として、「ケガレ」の発生源として考えられるようになったのかを説明しなくてはならなくなるのと同時に、では「正しい死」とは何かと云う問いに新たに答えなければならなくなるのである。前者は、歴史的な仮説を立てることは可能でも、後者は、すべての「死」が忌避されていた以上、答えるのが不可能な設問になってしまう。したがって、このような考え方には、今のところ賛同は出来ない。

さらにより説得力を持って云えることは、農耕に先立つ時代に、獲物を狩り、解体することを通して、人は「死」と「血」を結びつけて忌避するようになった、と云うことである。筆者もいまのところ、原始の人が抱いた「血」に対するおそれは、その人々の狩猟体験から来ているのではないかと思っている。ただし、思うことは少し違う。

獲物を仕留めたり、捌いたりするとき、流血は避けられない。この時、血が流れ出すと獲物は死に始め、やがて血が出なくなる頃には完全に事切れているのを観察した人々が、「『血』が抜けると生き物が死ぬ」と云う経過のみを見て、「血」こそ生命の本体、すなわち「魂」だと思ったとしても何ら不思議はない。「西洋科学」がこれだけ普及した現代にあっても、死後の人の体重が軽くなっていることを以て「魂」の存在を確信する人々がいることを考えあわせると、これは十分にありうる話なのである。

けれども、この場合でも、何故、獲物を狩り殺す時の流血と、お産に伴う血、あるいは経血を同等視するに至ったのかの筋道が示されないと、十分な説明とはなり得ない。

「血」の「ケガレ」と云うのは、そうすると、一体どこから生じた観念なのだろうか? 少なくとも「血」が生命の源の一つであることは、死体からは血が出ず、生きた肉体から血が滲み出していくと死に至ると云う単純な自然観察から、我らの先祖もその因果関係を理解していたと思うのは直前に見た通りである。もちろん、生命の源と云っても、人が最も一般的に「血」を体験するのは怪我などを通してだから、昔の人が現代人同様、「血」に対してあまり良いイメージを持っていなかったとしても、それ自体は不思議ではない。しかし、だからと云って、「糞尿」などと同じレベルで「血」を「不浄」と捉えたと云う考え方にはどうしても違和感を覚える。もっとも、このすぐ後に見ることだが、「糞尿」を明白に「不浄」と見なすようになったことさえ、文献研究上は、「江戸中期」以降のことらしいから、「血穢」の起こりについて考察するときに、「糞尿」を持ち出すのはどうやら論外のようではである。

しかし、上記の違和感に関しては同様のことを、「宮田登」は次のように表している。

ケガレは「不浄」或いは「賤」と認識する以前に「褻枯れ」を意味していた。そして二義的段階で「猥」「穢わら (ママ) しい」といった漢字を用いて説明した。「穢」という字を用いる以前に、民間で使われている日常用語の中に〈ケガレ〉があり、漢字の「穢」を使う。そこで「汚穢」の意味とは違ったものが別にあるのではないかということが、近年、主張されるようになった。

宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌』人文書院、pp. 25-26

また、言語学者の「楳垣実」は、我が国の「忌み言葉」の分析を通して、「忌み」の起源は「生命への怖れ」である「死」から始まったものと見なすため、「血の忌み」は「血」が怪我や死と結びつく故に忌まれると云う。したがって、「血の忌み」から派生した「産の忌み」と大元の「死の忌み」と云う、「生」と「死」に関わる二つの「不浄」観は、本来、共通の思考から生まれたものであることを論じている。

そして、氏は、「不浄」と云う観念については、現代的な意味での「汚い」と云う感覚と、本来的な意味での「ケガレ」の感覚と云う、二つの別々の要素が合わさって発生したものだと指摘している。その一例として、便所を「ご不浄」と云うのは、「江戸中期」以降の婦人語から起きた習わしだが、これは排泄物を「汚い」と思っている感覚を表すだけで、「ケガレ」と見なすものではなかったと述べている (楳垣、1973、p.53) 。「血穢」に関しては、「経血」を含めて、これが「汚れ」として認識されるようになったのは、むしろ「戦後」のことだと云う指摘が多くの研究者からなされている。

したがって、もしも本来的な意味での「ケガレ」と、後の時代に発生した「汚れ」の概念が異なるものならば、「死穢」を考える時でさえ、その「ケガレ」の感覚は、我ら現代人が死体に対して抱くグロテスクなものとして嫌がる感覚とは、本源的には無縁なもののはずなのである。ましてや「血穢」に至ってはなお一層そのように云えるだろうし、かつて存在した「火穢」などは論外とも云えるだろう。しかし、そうなると、これらのより本源的だと思われる「ケガレ」の感覚と云うのは、一体いかなるものだったのだろうか。

かつて、日本中世史家の「山本幸司」は、「貴族社会における穢と秩序」と云う論考の中で、「ケガレ」とは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる畏れや不安の感覚と結びついている、と云うような内容のことを述べた (山本、1986) 。「網野善彦」は、「山本」氏のこの説明を受けて、いくつかの事例を、次のように簡潔に説明している。

人の死は欠損で、死穢が生じますし、人の誕生は逆にまた、それまでの均衡を崩すことになり、産穢が発生する。人間にとってどうにもならない力をもった火によっておこる火事は、社会のある部分の消滅によって焼亡穢を生み出します。

網野善彦 (1991) 『日本の歴史をよみなおす』筑摩書房、p. 90

「ケガレ」は、人間と自然の間に生じた「不均衡」に由来すると云う「山本」氏の考えは、並々ならぬ達見だと思う。ただ、敢えて補足するならば、ここまで述べているなら、「欠損」によるバランスの崩れだけでなく、「過剰」による均衡の崩壊にも言及していてもよさそうには思った。つまり、「網野」氏の説明の中で云うならば、「火」は、「社会のある部分の消滅」を通して「ケガレ」を発生させるのではなく、「火」自体が、生活に不可欠なものでありながら、それの過剰方向へのバランスの崩れが、「火事」と云う形で表出された、と云うような捉え方のことを筆者は云っているのである。

しかし、「火」は自身「変成」そのもののような存在であり、それ故に、そのバランスの調整は重要な課題となるのは分かりやすいが、「女人禁制」に最も直接的に関わる「産穢」については、どうだろうか。「網野善彦」が云うように、誕生はそれまでの社会構成の均衡を崩すことになり、そう云う意味では社会的な不安の要素にもなりうるのは明白である。特に食料生産力の低い地域などではその傾向が強かろうことは、飢饉のときに限らず、一部地方でかつては慢性的に行われていた「間引き」の風習などを見ても明らかである。

一方で、我が国では伝統的に「慶事」と云えば、結婚や出産を指すことが多く、「子宝」と云う言葉にも現れているように、人口の増加は一般的に歓迎される文化風習をもっているのも事実である。「憑き物」研究では、共同体内での富や幸せの分配の均衡が崩れることによって、構成員の間での負の感情 ―主に嫉妬など― が渦巻いて、「憑き」「呪詛」「祟り」などの観念が立ち現れると云われるが、その嫉妬などの対象に最もなりやすいのが、お金や健康、子宝だったと云う。

云うまでもないことだが、今日までに民俗学に関わる先学たちが研究し尽くしてきた多岐に渡る「ケガレ」現象のそれぞれについて詳細な考察を加える力量は筆者にはまるでないのだが、それでもなお、単にある共同体内での構成を問題として、そのバランスを崩すものが「ケガレ」と認識されると云う理論では、こう云った「産穢」「血穢」「火穢」などの特異な状況を説明するのには、いまだ不十分な気がしてならないのである。

筆者とて、「均衡」は非常に重要なキーワードだとは考えているのだが、その「均衡」を崩すと云う観念の中心的な発想が、具体的な対象に絞られている間は、どうも「ケガレ」の説明の据わりが良くないように思われるのである。「産穢」も「火穢」も、お産の血や、火事そのものや焼け跡が「ケガレ」なのではなく、それらが、例えば「誕生」や「火」と云う「非日常」的な力の過剰な高まりの痕跡を残すが故に、それを正しい形で処分しないと、その場が両義的な閾として残留し、マイナス方向にも大きな「霊力」を発揮する可能性を保持し続けてしまうと考えた為に、人々はそれを不安にも思い、畏れをも感じたのではあるまいか。そして、正しい形の処分と云うのが、やがて儀礼として表象されて、「祓い」や「清め」などの手続きになったのではなかろうか。

そもそも、「平安時代」の貴族たちにとって、「ケガレ」と云うものが伝染するものだったことは、よく知られていよう。この場合、「ケガレ」は、その発生源に直接的に「触れた」ことによって姿を現し、これは「甲穢」と呼ばれた。ここからは、伝染する度に「乙穢」「丙穢」「丁穢」と段階を追って変化するのだが、危険視されていたのは「丙穢」までであって、「丁穢」からは日常生活に支障のないものと見なされていた。これは取りも直さず、「ケガレ」が薄まり、風化することを意味し、「ケガレ」が抽象的な観念であるにも関わらず、まるで物理的な存在であるかのように認識されていたことを表している。だからこそ、一般的に「ケガレ」と云うのは物理的な存在であるか、あるいはその付随物であるかのような理解がされやすいのだと思う。

しかし、丁寧にこの現象を観察すると、「ケガレ」の大元は、決して物理的な存在ではないのである。それは、根源的な「変成力」の過剰が発生した「磁場」のようなものなのである。この「非日常性」の「場」自体も、「日常」の世界に口を開いている以上、やがて「日常」側の漏洩/侵犯を受けて中和されるのだが、その中和されるまでの期間、過剰な「非日常力」を発散しつづけるのである。これは接近すると「日常」側の存在を「非日常性」で染めるのであって、当初はこれが大きいため、これを浴びると (つかれると) 我々の「日常」の活力を奪われ、様々な危険に曝されるため忌避されるのだが、それもまた刻々と中和されている為、時間の経過と共に、そして接触の度に、その「非日常力」を低減させ、最後には無害なほど小さくなるのである。ちょうど、強力な磁石に触れた鉄片が磁力を帯びるが、他の鉄片に触れたり、時が経過すると、やがて元の状態に戻るのに似ている。
当然、「ケガレ」を考える場合、この磁石は電磁石のようなもので、その両極が転換可能なものであり、しかも特定の条件を整えている間のみ、大きさの可変的な磁力を持っていることになるのである。

以上のことは、飽くまで喩えに過ぎない。しかし、そこから読み取れることは、いずれにしても強すぎる「磁場 (すなわち境界域) 」には近寄らず、ましてや接触をしないこと、「磁場」を仮に「正の磁場」とすると、それに対しては、強すぎる「負の力」は向こう側にある「異界」への強烈な吸引力を発生させるが故に避けなければならず、反対に、強すぎる「正の力」は強烈な反撥力を発生させるためにやはり避けねばならないと云うことになる。

筆者にとって「ケガレ」の本来のイメージは、この「境界域」に時宜、あるいは適宜を外して接近・接触てしまったために、その人に残存してしまう過剰な「磁力」のようなのものなのである。これは近代化学的な意味での「物」ではないが、我が国本来の意味での「もの」なのであり、形や質量は現象的にはないが、確実に「ある」もので、その意味で我々の身体に付着しうるものなのである。そうでなければ、それを水で洗い流したり (=禊/水削ぎ) 、明らかに塵払いのはたきに類似した幣束で祓ったり (=払う) は、出来ないはずなのである。ただ、この「ケガレ」を落とすための「水」も「はたき」も、その「ケガレ」を反撥させて落とさせるための「力」が備わっていなければならないのは勿論のことである。

このことに関して、一見関係ないように見える例を挙げてみよう。

世界には広く、本名を知られることを忌む風習があることは、文化人類学の諸研究・調査のおかげでとみに知られているが、我が国にも同様の風習があったことは、例えば有名な「大工と鬼六」の昔話を見ただけでも明らかである。我が国の村落共同体には (すごく歴史性を無視して放言してしまうが...) 、共同体内部とその外部に、他の共同体に対するものと「異界」に対するものなどの、複数の「境界」があったのだが、実は内部自身にも、「私的空間」と「公的空間」の「境界」が厳然としてあり、「内部/外部」の構造が入れ子状に重なっていたことが、この「本名を忌む風習」から読み取れるのである。何故ならば、「私的空間」の身体を有する個人は、「家」の敷居をまたいで外に出た瞬間、公的な場に曝されるのであり、自らの身体がそのままでは不安定な「境界」そのものと化してしまうのである。それを避けるためには、自らを「公共化」して「公的空間」に同化しなければならず、その正しい手続きが、改めて共同体の成員としての正式な名を「まとう」ことから始まるのである。

したがって、筆者からすると「本名」と云うのは「私的空間」での「正式な成員としての名前」なのであって、別に外で使う「忌み名」の方が正式でないものだとは理解していない。証拠に、現代社会ではこの「忌み名」の方が廃れてしまっているが、その逆の現象とも云える、「通り名 (=あだ名/ニックネーム) 」を巡るトラブルは、学校と云う成員間の関係が緊密にならざるを得ない場を中心にしばしば聞かれる。つまり、仲間内での名前を持つことが、すなわち仲間であることの証であり、逆に仲間内でしか分からない名をつけることが排除にもなるのである。当然、最初は数人から始まったその名前付けが、より広くクラス全体に広がった時点で、その排除の「内部」と「外部」の「境界」は「クラス」そのものと化すのである。あるいはその「名前」を受け容れることによって、「境界」を無化して、みずからを内部化することに成功することがあるのも、傍証とはなろう。筆者の中高時代、兄の同級生に仲間から「ちんげ」と嬉しそうに呼ばれている「仲間」がいたことを思い出す。大人たちや筆者のような完全に外部の人間には「いじめ」としか映らなかったが、当人を含め、「仲間」は誰もそのようには感じていないのが不思議だったのを覚えている。

元の話に戻すと、このような「内部/外部」の「境界」を巡る立ち回りは、そのまま、ある社会的共同体にとっては、「異界」との「境界域」をどのように扱うかの問題として立ち現れるのであり、それは人同士の「境界」などとは比較にならないほどの大きな力を秘めていると考えられていたために、非常に重要な共同の関心事とならざるを得なかったのである。すなわち、「恵み」を得るのも、返って「災い」を起こしてしまうのも、こちら側の人々の「境界域」に対する扱いや振る舞い次第だと云うことになるのである。しかも、その「磁場」が常に変動するものであるため、人々の振る舞いも同様に、常に変動しなければならないのは、人に対するときとまったく同じなのである。この行動則の一般的な約束事の体系が、いわゆる「マツリ」* なのである。

* 「マツリ」の語源はおそらく「待つ」と原義的には同根で、この「待つ」も、英語の「wait」の原義と同じで「控える・仕える」と云う意味であると思う。つまりは、「マツリ」とは、「神」を畏れかしこみ、贄 (捧げものとしての飲食物) を差し上げると云うことを第一義とするのである。ここでは、原義としての意味合いは含まず、単に社会慣習としての儀礼の総体を指し示している。

*

いつものことながら、話の埒があかなくなってきたので、この項の後半の内容を以下にまとめて、取り敢えずの終りとしよう。

1. 「場」と「場」が衝突する「境界域」では、「正負」いずれの方向にも力が侵犯/漏洩しうるのである。

2. ある「場」から他の「場」への事物・人などの移動は、その事物や人に備わっていた能力を無化したり、逆に増幅したりすることがあり得る。

1.の観点は、「祭祀の場」を巡る「マツリ」の理屈の下敷きをなす観念であり、2.の観点は、具体的な事物・人の「マツリ」の下敷きとなる観念である。特に、前回記事及び、今回記事の前半まで、筆者が強調してきた「変成」の象徴性をより簡潔に表しているのは、後者の観念であろう。次項では、この2. の観点から見た女性の「境界性」について、極く簡単な私論を試みてみることとする。


女性の「境界性」を巡る極く私的な考察

女性の「境界性」などと云っても、そのような観念が、我が国の精神文化の黎明期からあった、などと筆者は唱えようとしているのではない。おそらく、はっきりとした信仰概念へとまとまったのは、ずっと後世のことだろうとさえ考えている。しかも、その起源には複数の要素が含まれているとも思っている。

「神道」が宗教と云う形で集約されるまでは、我が国各地の在来の民間信仰は、それぞれに共同の文化複合の一部として、大まかに共通するかに見える点を持ちつつも、それぞれが相対的には自律して存在していたものと思われる。やや統一的な観念が、国土の全体を覆うようになったのは、やはり「仏教」が我が国の隅々までその教えの手を伸ばしたことによって、各地の民間信仰などが触発・影響され、自らの信仰の体系化を進めるようになった過程で、中央寄りの先端的な思考が、それぞれの地域に伝播し、活用されるようになってからだと思われる。もちろん、生産様式としての農耕の広がりが果たした役割も大きかったろうことは、言を待たない。その他、後世の交通の発達なども、かなり直接的に影響したことであろう。

しかし、何時からとは明確に云えないにしても、ある時期から、我が国の多くの地域で、女性を精神的に特別視する風潮が生まれたのは明らかなようである。それが単純に「産む性」として、その生産性を強調されて神聖視されたのか、それとも「古代」末期からの男性中心の政治体制の整備に伴って、女性が公的な場から徐々に排除されて、「産む性」として限定される中で、私的領域に女性を封じ込めるためにその「母性」が強調された結果なのかは、俄かには判断しにくい。既に述べたように、筆者は、後者の考えには概ね賛同するのだが、それ以前に男女が同等な位置で祭祀に参加していたと云う前提には賛成しかねる立場を取っている。

筆者は、むしろ、「女性の聖性」は、「古代末期」から「中世」にかけての時期に、「産む性」「母性」として強調されて家庭と云う私的空間に押し籠められたと云うのはその通りであるとしても、それは、それ以前に広汎に認められていた種々の「聖性」を無化して、一本化した結果だと考えている。

この項で述べようとしていることは、まだ、仮説とも呼べない、資料も何もない段階での雑な推論であるため、便宜上、先に結論から述べるとすると、筆者は「女性の聖性」の正体は、その「境界性」にあったのではないかと睨んでいるのである。

既に繰り返し述べてきたように、筆者は、後に「産穢」「血穢」と呼ばれることになる観念も、起源的には「死」と直結したものではなく (いくらか関わりはあるにせよ) 、それが「変成」の契機を象徴するがゆえに、特別視されたものだと考えている。女性には、その生理的な特徴からも、また、文化的に担うことになった社会的な役割においても、男性に比べて一定の「変成力」を表す場面が、明らかに多かったはずなのである。

そもそも、後に女性が公的空間から追われて、私的空間へと閉じ込められたと云う議論は、いくら祭祀に限った話だからと予防線を張ったところで、それ以前の段階で女性が既に家庭を中心とした社会的役割を担っていた可能性を等閑視する議論であると云う点で、やや公平を欠いた議論であると云わざるを得ない。農耕の開始は、むしろ男女の労働分化の必然性を希薄化する働きを果たしたと思うのだが、狩猟採集により重きが置かれていた時代には、男女の労働分化は必然的だったものと思われる。そして、この時代に、「女性の聖性」につながる基礎的な思考が涵養されたものと筆者は考えている。

女性は「産む性」として、その「非日常性」を強調されたのではなく、「私的空間」において諸々の「変成」を取り仕切る主宰として、そして、肉体的にも「変成」を成し遂げる身体として、「日常」と「非日常」の中間的な閾に位置していたために、精神的に特別されたのではあるまいか。怪我もせずに「血」を流し、時にはその中から「死」と正反対の「生」を出現させる神秘的な存在であると云う、その両義的なチャンネル性によって、「非日常」的なものに対する感度がより高い側の「性」として意識されたのだと思われる。後世、「産む性」として、専らその公的な役割を剥奪されて、家庭へと押し籠められることになったと云う「女性史研究」の側からの分析は、おそらく妥当なものなのだとは思うが、それ以前に男女が公的な場にあって対等だったのかと云う点や、祭祀の執行に関わる点でも、男女が同等の象徴的な意味合いを持つものとして共同参加していた、と云う考えに関しては、まだ検証が足りないと云えるだろう。

特に、性交合の象徴的な祭儀に関して、太古の人は常に男女を一組と考えて「マツリ」を取り仕切ったのだからそこに地位の違いがあるはずもない、と云う考えは、性行為を神聖視するならば、その行為が男女でなければ行えないのは自明のことである故に、原初的な祭祀は、その起源にあって、男女双方の対等な参画を前提としていたはずだ、と云う理屈に裏打ちされているのだろう。しかし、残念ながら、これはややお粗末な思考法だとは思う。行為自体は、男女で行わねばならなかったとしても、その象徴する内容が何であるかを考慮せずに、表層的な「行ない」のみに焦点を当てるのは、そもそも象徴儀礼としてのいかなる祭祀を観察するときにも、まったく片手落ちの見方にならざるを得ないだろう。

例証と云うほどてはないが、そもそも、我が国の各地で出土する「土偶」が祭祀にからむ祭具・呪具であったと云う定説を受け入れるならば、この「土偶」が、少数のわずかな例外を別にして、ほぼ百パーセント女性像であることなども、様々な示唆に富む事実ではある。男女が祭祀において、当初から同等な象徴的重要性を付与されていたならば、何故、「土偶」には同数の「男性像」が存在しないのか、理解出来なくなってしまわないだろうか。

また、「お袋」と云う言葉が、どの程度古いイマジネーションに支えられた語なのかは定かでない上、「近世」あるいは「明治」以降、「女は借り腹」のような言語道断な差別的発想と一緒くたにされて観念化されてきたものだから、一部の人々から芳しく思われていない言葉の一つなのだが、これは本来「大黒様の袋」のような、「無」を「有」へと転ずる「変成力」を象徴したイメージ性に裏打ちされていたものなのではないかと、筆者は考えてもいる。

西洋医学の世界でさえも、十七世紀後半 (1677) に「レーウェンフック」が学会誌『フィロソフィカル・トランスアクション』に精液中の精子の存在を発表するまでは、精子の存在など誰にも知られていなかったのだから、太古の日本人が知っていた可能性は少ない。ましてや、精子の発見後も、それが近代的な意味での妊娠の理屈へと開花するまでにはなおまだ時日を要したのは当然のことである。しかし、正確なメカニズムは理解できなくとも、性交を媒介とした精液の射出と妊娠の因果関係くらいは、おそらく有史前から知られていただろうこともまた間違いなかろう。

この単純な事実に接したとき、太古の人間は、何で粘度のある白濁液が女性の身体を経由すると「子供」と云う形で顕現するのか不思議に思ったとしても、それこそ不思議ではなかろう。ついでにその同じ身体部位からは、「子供」と共に大量の「血」などが出現するのであり、月々、怪我もしていないのにやはり出血するのである。「血」の流出は「魂」の漏洩であり、すなわち「死」へとつながると云う筆者の見解は無視したとしても、それでも女性の身体が媒介するのは、「生」と「それ以前=あの世」であることは、かなり明白なことではある。

したがって、女性の両義的な「境界性」と云うのは、やはりその「お産」や「月経」などに辿り着く観念なのだとは思う。 それは「あの世」と「この世」を結ぶチャンネルとして、あるいは「無」から「有」を創出する媒体として見立てられる属性であって、そこに象徴されているのは「変成」としての力だったのである。そして、時ならぬ「血」は、そのような「変成」の契機として見られたのである。

当然、太古の人は「産血」や「経血」を「ケガレ」と見なしたのではなく、「変成」の契機として、一種の厳かな気持ちを抱きつつ眺めたのではないか。しかも、かつての産褥での死亡率の高さを考えると、昔の人が、お産と云う行為を「生死」の相克するぎりぎりの場として把握したのは、むしろ当然でさえあったと云える。そう云った意味では、女性特有の「流血」は、「死産」なども含め、取り扱いの細心の注意を必要とされる象徴性を付与されていったのだと思われる。

このことと関連して云うならば、「折口信夫」が、女性の「血穢」を巡って、それが元々は「ケガレ」ではなく、女性の霊力が一定期間高まる表徴として理解していたらしいことはよく知られている。

槻の木は、月経その他の場合にこもる、つきごもり (晦日の語原) の屋の辺に立つてゐたのだ。斎槻も其だ。『長谷のゆつきの下に』つまを隠すといふのも、槻屋に籠らしたのだ。物忌みの為の、別屋である。月経を以て、神に召されるしるしと見なして、月一度、槻の斎屋に籠らしたのだ。

折口信夫「小栗判官論の計画 餓鬼阿弥蘇生譚・終篇」
折口信夫 (1995) 『折口信夫全集』第三巻「古代研究」第一部・民俗学篇第二、中央公論社、p. 438
初出・民族発行所/編 (1929) 『民族』第四巻・第三号、自刊

上記引用文に、「月経を以て、神に召されるしるし」と「折口」が記すとき、彼は同時にそれは「忌まれる」ものだとも捉えている。神の加寵が嫌われると云うのはおかしな理屈であるから、この「物忌み」には別の意味があるのだろう。

既に一度述べたように、我が国の「忌み言葉」の研究を続ける「楳垣実」は、「ケガレ」と云う言葉に「汚れ」の意味が加わり、「嫌悪」の対象と考えられるようになったのは、後世のことであるとしている。筆者も、「ケガレ」の元の姿と云うのは、ある種の「境界」的な力の高まりが、その両義性の故に、周囲の人々に畏れられた、と云うことなのだと思う。ここでも、「畏れる」と云うのは「怖がる」と云うこととは異なり、その扱いに細心の注意を要するものに対する心性を表す語だと考えて頂けると有り難い。そう云った意味では、「籠り」も、正しくは肯定的な意味での力の「封じ込め」を表していたように思えてならない。
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女性の「境界性」を巡っては、その生理的な特徴に由来する側面の他に、二義的には、家庭内での女性たちの役割分担が大きく関わるようになったとも考えられる。何故なら、そもそも「家庭」と云うのは、内外の「境界」をみずから画する存在であり、そこでは外界と異なって、逆にすべての事物が人工的な構造物と化す場だからである。そして、そのような外界と画然とされた場に、女性はその生活の基盤を置く故に、その「境界性」を浮き立たせることになるのである。

この「家庭」と云う構造物の中で、古来、特別な精神的存在として考えられてきたのは、「囲炉裏」や「竃 かまど 」、あるいは「厠」である。これに限定的に「井戸」などを加えてもいいかもしれない。これらの「場」が、神聖視されたことと、我が国では長らく、調理や風呂などの「水」と「火」に関わる空間は、家の中でも特別な別区画として意識された歴史があるのも、それらの「場」がすべて「変成」を象徴するものとして、二つの世界の結節点として機能したことと関係するものと思う。

例えば、調理と云う行いは、現在は最も「日常」的なものの一つとして考えられているだろうけれど、かつてはその「変成力」のために、「日常」の中の「非日常」と考えられていたと筆者は理解している。これを説明するのは、かなり厄介なのだが、以下、簡略に述べてみることとする。

「日常」とか「非日常」などと云っても、その基本にある考えは「変化」なのだと思う。安定した生活を送るためには、人は極力、変化の少ない環境を望むことになるのだが、一方で、変化のない環境と云うものは自然界に存在しない。春夏秋冬の変化と、それに伴う万物の移り変わりがあって、初めて人を取り囲む環境は成立っているからである。したがって、少しややこしい表現になるが、この自然の運行としての変化の循環が、何の変哲もなく繰り返されれば、それは「変化のない安定した環境」と認知されたことであろう。後に「日常性」として把握されていく観念も、大元はこんなことだったのではないかと思われる。

問題は、人が文明の発祥以来、周囲の自然環境に対して、無数の改変を加え続けなければ、日々の生活を送ることが出来なくなったことであった。それは、常に変化し続ける自然界の中にあって、人にとって快適な一定の不変の環境を創り出すためには、日々、細かな調整を行い続けなければ、その安定した状態を維持することは出来ないからである。そう云った意味では、寒い季節に暖をとるのなども、小さな自然の改変であって、自然の秩序あるいは均衡を乱す行為なのである。

調理は、そのような改変行為の中でも、極めて高い「変成力」を内在させるが故に、その扱いは慎重に行われなければならなかったはずなのである。すなわち、自然界の「生命」を「食物」へとダイナミックに「変成」させる行為が調理なのである。調理を通して、生きていても、死んでいるだけでも、我々にとってはまったくの「無為」の存在が、「有為」のものへと転ずるのである。そして、この「変成力」のために、「調理場」や「竃」などは、強烈な磁場を有した「境界」と化すのであり、我々もまたそれ故に、そこに神を祀って、正しい送り方でその余剰の力を送り出さねばならないのである。調理は、「生命」が「死」を経由して「食物」となり、再び我々の「生命」の源として再生すると云う図式にあって、欠くことの出来ぬ媒介項をなしているのであり、それはある意味「お清め」あるいは「お祓い」の象徴的な再現だとさえ云えるものであり、そう云った意味ではまさに「マツリ」の原初の姿なのである。

しかも、この「食物」の「変成」の問題をさらに突き詰めると、そこに「厠」の象徴性が浮かび上がってくる。食べると云う行為は、必然的に「食品」を「糞尿」へと「変成」させる力を持っているのであるが、まさにこの「糞尿」を排泄すると云う行為こそが、「有為」のものを「無為」の自然へと最終的に「送り返す」行為になるのである。

「台所」や「竃」それに「厠」は、したがって、「家」と云うくくりの中に存在する「内界」と「外界」を媒介する「境界」としての役割を担っているのであり、それ故に神秘的な力を持つ「場」として祭られる伝統が生まれたのだと思う。そう云う意味では、「厠」は「川屋」などではなく、「あの世」と「この世」とが交わる結節点としての「交屋」と云うのが原義に近いのではないかと思われる。いずれ、丁寧に見ていくことになるが、この性質の故に、「厠」には「河童」や「蛇」「猫」などのイメージ性が後世、付与されていくことになるのだと筆者は考えている。

また、ここでは深入りしないが、古来、水汲みなどの労働が、多くの場合、女性の専業とされてきた事情も考慮する価値がありそうである。水は、女性の家内労働と密接に関わるものであるだけに、それを調達するのも女たちの仕事となったのだ、と云ってしまえば身も蓋もないが、後世の「忌み言葉」が家の中の水回りに関わる事物に集中している事実などを併せ考えても、単純に「水」の象徴性を、家事労働の副産物のように把握するのは危険なのではないかと思う。「厠」もまた、「水界」とのつながりを有しているのは明快であるが、家庭内で神の祭られる「場」と云うのが、みな「火」と「水」に関わると云うのも意義深い。

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さて、ここまで述べてくれば、女性が家庭内で担う役割と云うものが、「竃」や調理場などの「火」及び「水」を使う、「境界性」を帯びた場所に関わるものだと云うことは明白になったであろう。そして、この事実は、それらの場所だけが、古来神聖な場所として神が祭られてきた伝統を持っていることによっても支持されるのである。

したがって、「家庭」と云う場にあって、女性は明らかに「異界」との接点となる「境界」を主宰する立場にあるのであり、それはおそらくは、女性の身体自体が、「異界」との交感の「場」としてのチャンネルとなっていると考えられることと密接に関わることなのだと思われる。


古代日本の死生観と「ケガレ」

ここに至って、ようやく「ハヤマ信仰」における「女人禁制」の問題に立ち戻ることが出来ることとなった。そこで、この議論の出発点となっていた二つの事項について確認して、この項を始めたいと思う。

先ず第一に、「ハヤマ信仰」にあっては、「女人禁制」の「お籠り」をその祭祀の中心に据える地域が多いのだが、それは爾来、「修験道」の影響で付与された、後発的な性質だと考えられてきた歴史がある。その中でも、「福島市松川町金沢」に鎮座する「黒沼神社」の「羽山籠り」の神事は、「女人禁制」の中、男たちが互いを女性呼称で呼び合う奇習を残すために、かつては男女で祭祀が行われていた証の一つとして取り挙げられることが多い。しかし筆者は、そのような考えを前提視することに異議を申し立てたいのである。

第二点は、「山舟生・羽山神社」の縁起にまつわって、「江戸初期」に「女人禁制」の禁忌を和らげ、男女ともにお参り出来るようにしたと云う伝承があることに注目し、この時期がちょうど「葉山修験」の最盛期に当たることから、はたして「修験道」の影響で、この地域の「女人禁制」が推進されたと云う考えは、手放しで認められうるものなのか、と云う疑問を呈することにあった。

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第一の観点の一般的な通釈は、かつて「産む側の性」である女性は、「豊穣」の象徴として、祭祀の主要な役割を担っていたが、やがて男尊女卑の考えが社会に普及すると、女性は他の社会生活同様、祭祀の中心からも追い立てられることになり、男性たちで祭祀のすべてを執り行うことになった、と云うものである。

このことと関連して云うならば、「古代末期」から「中世」にかけて、男性中心主義的な中央官制が整備されるにつれ、公的祭祀の場における女性の役割が逓減化されたと云う、「女性史研究」の側からなされている主張については、既に何度か記した。そして、筆者が基本的にこの考えに賛同していることも、これまでに述べた通りである。

この手の議論は、一般的な「産む性としての女性」と云う概念に対してアンチテーゼとなることを目的に提唱されたものであるため、「産む性」と云う考え方自体が一種の幻想で、特に「中世」以降に広がったものの考え方であることを強調する傾向があるが、実際には、それ以前の段階で女性がどのように扱われていようが、その時期以降に社会全体での女性の公的地位の低下が進んだと云う議論の大筋は、いずれの立場に立っていても、有益な歴史化であると云える。

付加えるならば、この議論は同時に、「産む性」として女性の生産性を強調しつつ、実際には「家庭」と云う私的な空間に、そのまま女性たちを押し込める役割を果たしたとも主張する。もちろん、ここまでも筆者は同調する。問題は、この主張が、この女性の「産む性」としての特質が強調されたと云う時期より前は、男女が同等に祭祀に参画していたと云うことを、無条件に前提とすることであることも述べた。この時期以降、女性が「産む性」として限定されていったことと、それ以前には「産む性」として特別視されていなかったこととは同じではない上、男女が宮廷の公的な祭祀にセットで参加していたからと云って、それが全国的に原初の形だと断ずるのも早計だと云える。また、仮に祭祀に同等の地位で男女が参加したからと云って、その担う象徴的な役割が同じだとも云えない。

特に、「産む性」としての女性と云う観念は、後の「産穢」「血穢」を中心的な概念装置に据えた「女性のケガレ」観を構成してゆく重要なものなのだから、それを巡る考察は、それなりに慎重に行わなければならない。繰り返しになるが、上記の「女性史研究」の見解に素直に従った場合、結局「女性のケガレ」観と、それと深く結びついた現象としての「女人禁制」、さらにはその背景をも提供した一般的な社会現象としての「女性差別」に関する視点が単純化され、単に男性の側からの主体的な差別へと還元してしまい、その重層的な構造を捉えることに失敗してしまうのである。

筆者は、女性の没落、少なくとも祭祀面での没落は、男女の共同参加から排除されたことに始まるのではなく、どちらかと云うと、「女性のケガレ」観が、その忌避の側面 (後に「嫌悪感」や「汚れ」観につながったような側面) だけを残して継承され始めたときだと推測している。「女性の聖性」と云うような考え方は、古くから我が国にあったと考えている。しかし、その「聖性」は、女性の「境界性」にまつわるもので、「お産」「月経」などの諸事象もその「境界性」の形成に大きく寄与するものの、それらのみでその「境界性」を構成するものではないと云うのが、筆者の考えである。

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さて、先に挙げた第二の点に話を移すと、この点に関することで (そして、概ね第一点とも関わるのだが...) 、「湯川洋司」は、その著作『変容する山村』において、興味深い調査報告をしている (湯川、1991) 。氏は、「佐々木高明」が「焼畑農耕民」の「山ノ神」を、山と平地の「山ノ神」の間に挟むことで、「山民の山ノ神→焼畑農耕民の山ノ神→稲作農民の山ノ神」と云う歴史的な推移の図式を描き出したことを受けて、いまだはっきりとしない「焼畑農耕民」の「山の神」の性格を探求すべく研究を進めたと云う。しかし、その結果、必ずしも「佐々木」の説を追認する考えには至らず、「焼畑農耕」の段階は、「山民」の生活観念と近接し、「稲作」や「常畑作」に携わる人々との間には、明らかな断絶があるものと云う結論に達することとなった。当然、「山の神」の観念についても、「焼畑」と「平地農耕」では断絶があると云うに及んだ。そして、もしも「焼畑」の「山ノ神」と「農民」の「山ノ神」にある種の連続性が見てとれるなら、それは「稲作農耕」の論理が「焼畑農耕」の収穫儀礼等に波及した結果であろうとさえ述べている。

しかし、筆者が上で「興味深い」と云ったのは、「湯川」氏の上記の概論に対してではなく、その中の各論において、氏が「奥会津」の山村地帯を調査した際、「旧・伊南村小塩」で次のような事実を確認していることなのである。

狩猟や伐木に従う人びとの信ずる山ノ神のイメージは、彼らの伝える禁忌伝承によく表れている。その主要なものは、出産と死のケガレを忌むところにある。山に入っているときに妻の出産や身内の死の知らせが届くと、すぐに山を下りねばならなかった。 (中略)

またお産のあった家の「火を食う」ことをサンピ、死者の出た家の「火を食う」ことをシニッピといい、サンピやシニッピを食った者は絶対に山へ入ってはいけないとされている。そして注意すべきはサンピはシニッピよりも悪いとされていることであり、お産のあった家の者は出産後二十一目のオビヤアゲまで山に入れないとするものの、死者が出た場合の忌みの期間はそれよりも短くなっている。つまり出産のケガレは死のそれよりも重大と考えられたためだろう。 (中略)

山ノ神に対するこのような信仰は、山ノ神が山中での生業活動と密接に関連していることをよく示している。小塩における山中での諸活動にはカノ、伐木、狩猟、山菜採取等があるが、このうち伐木と狩猟についてだけサンピ、シニッピという禁忌伝承がともない、カノ、山菜採取については特段の伝承がないことには深いわけが潜んでいるものと思われる。

湯川洋司 (1991) 『変容する山村 民俗的再考日本エティタースクール出版部
pp. 109-110

「湯川」氏は、従来の民俗学で、「山民の山の神」と「稲作農民の山の神」と云う二つの神を認めたならば、前者は後者の派生形に過ぎないと考える主流派の在り方に異を唱えて、二つの間に「焼畑農民の山の神」を挟むことで、「山民の山の神」が「稲作農民の山の神」に先行するとした「佐々木高明」説をベースに考察を開始する。しかしながら、最終的には、「焼畑農民の山の神」は、「稲作農民」の観念に影響されて形成されたものだと云う結論に達しているのである。だが、筆者が興味を抱いたのは、その総体的な視点ではなく、むしろ次の二点である。

まずは、「山民の山の神」を巡る「禁忌/ケガレ」の問題で、「サンピ (=産穢) 」と「シニッピ (=死穢) 」が特に強く意識されたと記されているのだが、それは専ら「伐木・狩猟」に関わる人々に付随するものであって、「カノ (焼畑) ・山菜採取」に関わる人々の間にはそのような「禁忌」が伝えられていないと云うのは、非常に重要な視点を我らに提示してくれるのである。

つまり、「焼畑農民の山の神」と「稲作農民の山の神」との前後関係は、取り敢えず等閑視しても、「湯川」の報告から浮かび上がってくるのは、第一に「産穢」「死穢」が「山民の山の神」信仰にあって、純粋な山仕事に就く人々の間でこそ強く、「農耕」的側面を持った生活をする人々の間には見られないと云う事実であり、第二には、二つの「ケガレ」のうち、「産穢」の方が「死穢」よりも重く見られていると云うことである。

本来的な意味で山民的な生活を営む人々にこそ「産穢」「死穢」の伝承があると云う事実は、平地の「稲作農民」たちの間に「仏教」及び「神道」を経た「ケガレ」の概念が浸透し、やがて「修験道」などの影響を通して、山中における「女人禁制」などの観念が生まれたと見なす従来の民俗学における常識と、真っ向から対立する現象なのである。これはまた、同じ「福島県内」でも、やや地域が異なるとは云え、「山舟生・羽山神社」に伝わる、「近世初期」の「葉山修験」の影響が最も強かったはずの時代、しかも稲作農耕がより強く奨励されるようになった時代に、返って女性の登拝を解禁したかのような逸話が存在することと軸を一にする事実だと云える。

また、この
旧・伊南村小塩」に伝わる禁忌を考慮すると、やはり「産穢」「死穢」などが獲物を狩る生活のの中から生まれた、と云う一般的な解釈が成立するのではないかと云う思いに、一瞬、駆られてしまう。しかし、「湯川」氏の報告の中に「血穢」についての記述がない段階で、この判断は実は難しいものになってしまっている。何しろ、一般的な解釈は、「産穢」と「死穢」と云う二つの「ケガレ」を、「血穢」と云う共通項で引き結ぶのであるが、その「血」に関するタブーがはっきりとしたない限り、この解釈も留保せざるを得ないである。さらには、このような解釈は、そもそも「ケガレ」の概念の起源を「死」に対する怖れに集約させ、「血」はそれを媒介するものと理解し、それ故に「お産」や「月経」を巡る「ケガレ」も派生したのだと考える傾向があるのだが、「小塩」では少なくとも、「死穢」よりも「産穢」をより重大視する民俗があり、上のような解釈は成立しにくいのは明らかなのである。

ここまでに、既に何度も述べたように、「死穢」のみを「ケガレ」の中心に据えようと云うのは、明らかに無理な理屈なのである。これはむしろ、現代の研究者たちが、自らの中に潜む「死に対する恐怖」を自己の思考に暗黙裡に反映した結果なのではないかとさえ筆者には思えてくる。昔の人が「死」を怖れなかったとはとは思わないが、一方で、「お産」や「月経」が血を流すことから、すなわち「死」を連想した、と云うのも何だかお粗末な、と云うか、あり得ないような考え方である。大体、「血」が、「死」につながる故に忌避されたのであるなら、何故、外傷による流血は、「お産」や「月経」ほどうるさくタブー視されなかったのだろうか、と云う問題も残される。

筆者は、「血」の忌避は、「死」の忌避と関連しないと云っているのではない。また、この二つの「ケガレ」観を結ぶ結節点が、おそらく狩猟生活の中にあっただろうことも否定しないどころか、大いにそのように思う。ただ、「血」が「死」を連想させるからと云う抽象的でかつ曖昧な理屈を掲げないだけである。既に述べたように、「血」自体をネガティヴに考えたのではなく、「血」の喪失が「死」につながると云う臨床的な事実を観察した太古の人が、「血」を生命の本体、すなわち「魂」のようなものとして捉えたのではないか、と云うのが筆者の考えである。そして、「お産」もまた出血を伴うため、「血」には生命を生み出す「魂」があると、こちらの側からも理解されたのであろう。この場合、「産褥」に伴う「死」は、この「血」の両義性に媒介された現象として受け容れられたいったはずである。

「小塩」の事例を見る限り、「産穢」と「死穢」のみが語られていることから、「血穢」につながる観念は、後世に付加された二次的な要素なのかと考えたくもなるが、いくら都市文明から離れた山奥の村だからと云って、現在残っている習俗が、常に原始の形を残していると考えるのは、一種の偏見であろう。少なくとも、「小塩」での
「産穢」と「死穢」は、それぞれ「サンピ」と「シニッピ」、すなわち「産火」と「死に火」として語られている以上、そこには「火」に対する「ケガレ」の意識も見られるのであり、単純に「ケガレ」の観念を「産穢」と「死穢」のみに還元することは出来そうにない。

*

ただし、「火」の「ケガレ」は、「産血」の象徴だと云う考え方は、従来からあるようである。「記紀」神話における「イザナミ」の国産み・神産みのくだりで、火の神である「カグツチ」を産んだときに、「イザナミ」は全身に火傷を負って死ぬ、と云うモチーフがある。この場面での吹き出す炎が、「産褥」の流血を表しているかどうかと云う「赤」つながりの単純なシンボリズムはさておいたとしても、このとき、妻の死をもたらした「カグツチ」に怒った「イザナギ」が、「十拳剣」で「カグツチ」を斬るのだが、その「血」からは「天神・雷神・水神」などの神々が生まれ* 、その死体からは八柱の「山津見」の神々が誕生するのである。また、「イザナミ」が死の床についてから排泄した「糞尿」や「吐瀉物」から、鉱業・窯業・灌漑・食物などの神々が生まれている** 。

* この八柱の神々に関しては、「栃木県の猫神 1) 」の記事で、「磐裂神」を論ずる辺りで詳しく見ただけでなく、「猫神」との関連も探った。

** より正確には、吐瀉物から鉱山・金属の神「金山毘古神 かなやまびこのかみ」と「金山毘売神 かなやまびめのかみ 」、「屎 (糞) 」からは土器作りの神「波邇夜須毘古神 はにやすびこのかみ 」「波邇夜須毘売 はにやすびめのかみ 」、「尿」からは水神・灌漑神「弥都波能売神 みづはのめのかみ 」と食物・農産神の「和久産巣日神 わくむすびのかみ 」が生成したと『古事記』にはある。

「黄泉の国」が「あの世」を指すことは間違いないが、これが「記紀」に記されるもう一つの「異界」表現である「根の国」とを同じものなのか、と云う議論に関しては、人によって見解が異なる。一般的には、『古事記』上巻で「須佐之男命」が「僕 は妣 はは の国根の堅州国 かたすくに に罷らむと欲 おも ふ」と涕泣する場面や、同じく上巻の「大国主」神話の中で、「大穴牟遅命」が「根の国」から「生太刀・生弓矢」と「天詔琴」を持って帰還するとき、その出入口は「黄泉津平坂」であると書かれていることなどを通して、「黄泉」と「根の国」は等しいものと理解されることが多い。国文学者の「西郷信綱」は、『古代人と夢』の中で、「黄泉の国と根の国とは、地下という一つの世界の二つの側面、一つのものの二つの違ったあらわれである」と記述している (西郷、1972、p. 128) 。

しかし、このような見解に対しては、異論も根強くある。「柳田國男」は、『古事記』における「黄泉の国」は、地下にある死者の国と云うイメージが強いのに対して、『日本書紀』における「根の国」の観念は、下方、あるいは遠方にあるものとして描かれていることから、両者は違う「異界」を指すものだと考えたようである。そして、「根の国」の「ネ」は、「南西諸島」に見られる「ニライカナイ」の「ニライ (ニーラ) 」の観念と通ずると考え、それは遠い海上を表していると見なした (柳田、1925 / 松本、1956) 。「柳田」にとって、「根の国」は死者の赴く祖先の国であり、民族の故郷・源郷とも云うべき世界だったのである。そして、このような他界観は、日本民族が稲を携えて渡来してきた海の彼方の原住地への憧憬であると説いている
(柳田、1925)

「折口信夫」は、そもそも「根の国」と「黄泉の国」を「常世」との対比の中で論じている。そして「常世」の原義は「常夜」であり、「黄泉国」であり、「根堅洲国」であり、「常闇の死の国」であったとしている。これは、『古事記』に「爾に高天の原皆暗く、葦原中国悉に闇し。此れに因りて常夜往きき」と書かれていることや、
「本居宣長」が『古事記伝』巻十二で、「上代」の「常世」には、1. 「常夜」の義* 、2. 「常とは」にして不変の義、3. 遥かに隔たりて容易に交通往来しがたきところの義、の三つがある、と述べていることを受けているのかも知れない。その上で「折口」は、そのような「常世」の観念が純化・理想化されて、「常世」が「常夜」でなくなり、現世に必要な絶対的な生命力と豊穣の理想郷と観念されるようになり、やがては日本人の祖先神である「まれびと」の来る海上の島と考えられるようになったと云う。そこは、老いず死なぬ「霊の国」である反面、「死の島」でもあり、その「死」の側面は「根の国」で表わされ、海底の国と決まってしまったのだと述べている (折口、1925) 。

* 付記するならば、「本居宣長」及び「折口信夫」の云う「常世」と「常夜」の同義性は、「橋本進吉」以降、頓に知られるようになった「上代特殊仮名遣」においては、「常世」の「世」は「乙類」で、「常夜」の「夜」は「甲類」であるため、「常世=常夜」説は成立しないとの見方もある。もっとも、近年は「松本克己」「森重敏」「服部四郎」「森博達」らによって八母音を中心とする「上代特殊仮名遣」はなかったとする反論も出されており、断定は出来ない。しかし、筆者の見る限り諸反論は、いまだ「上代特殊仮名遣」説を覆すほどの説得力を有してはいないようであるが、ここでは細かく論じない。

上記の「柳田」や「折口」における「水平方向」の「他界観」のイメージを引き継ぐかのように、「次田真幸」は、『記紀』における「根の国」の観念は、元々は「水平表象」だったものから「垂直表象」に変化したものではないか、と主張している。つまり、『記紀』における天皇神話成立の過程において天皇の故郷である「高天原」を「天」と称したことから、それに対置される「根の国」が「水平方向」ではなく、「高天原ー葦原中津国ー根の国・黄泉」という垂直構造でイメージされるようになったとしている。この「次田」説は、「根の国」と「黄泉の国」を一つのものの二つの側面として把握しているのに変わりはないが、それが何故二つの認知面を有するに至ったかの位相を明確に示していると云う点で、ただの同一視説とは根本的に異なり、明快な仮説となっている。

それに対して、「三浦佑之」は、「根の国」と「黄泉の国」について、「もとは異質な両者を、記紀神話という体系神話が『
一つの世界』にくっつけてしまったと考えた方が正しいのではないかと思う」と記している。そして、「スサノオ」が「根の国」のことを「はは の国」と呼んだのを以て、そこを「イザナミ」のいる「黄泉」と考えるのは、「母の死後、父イザナキ一人の産んだ子スサノヲが妣の国へ行きたいと言って哭いたという矛盾を孕んでいることは否定できない」と述べている。そして、「妣国とは根堅州国(根国)でしかなく、そこは祖たちの魂の宿る世界と考えられていたとみるべきなのである。つまり、妣とは、亡き母も含めた祖先たちと考えてよく、そうした死者たちの魂の集まる異界が根堅州国と考えられており...」云々と記している。

一方、「三浦」氏は、「根の国」に関して「やはり死者の行く世界という認識をもつが、それは再生を伴った死である」と記している。

根堅州国は、折口信夫や柳田国男のいうごとく、沖縄のニライカナイに近い。しかも、根堅州国のネとニライのニは同源で、「根源」といった意味である。そして、こうした暗と明、死と再生とが共存する根源の世界こそ、古代人の考えた死者の行く世界であり、生命の誕生する世界である。またそこは、禍いの棲むところででもあり、幸いをもたらす神の住む世界でもあった。 (中略)

根堅州国神話のもつ再生の意識には、魂の存在が関わっている。それが古代的死生観の基本的な在り方であろ。一方、そうした魂の存在を感じさせない黄泉国神話は、新しい意識をもつと考えられるが、それよりも、肉体の腐敗に顕著にみられる<死>という現実に対する、人間の根源的な畏怖を表しているとみるべきではないかと思っている。

三浦佑之 (1976) 「黄泉国と根堅州国-死後世界の構造」
古代文学会/編 (1976) 『古代文学 』第十五号、武蔵野書院
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/yomi-to-ne.html

やや話が遠回りになってしまったが、何故、筆者が「根の国」「黄泉の国」に拘るのかと云うと、それが直接、「ハヤマ信仰」などに見られる他界観と密接に関係してくるからである。そして「
三浦佑之」氏の「水平方向の異界」を「死と再生の世界」と重ね合わせた観念は、そのまま「ハヤマ信仰」を考えるときにも有効な捉え方だと思えたのである。ただ問題は、「記紀」における「黄泉の国」の描写が明らかに垂直方向に下方、すなわち地下世界をイメージしたものだと云うことである。中でも、特に「イザナミ」を訪ねた「イザナギ」の「黄泉の国」訪問譚では、死後の「魂」の問題よりも、物理的に訪れる「死」そのものに焦点が当てられ、そこには光の射さぬ漆黒の石室の中で、腐敗して蛆のわく死体のイメージがリアルに語られていることである。その語り口には、死後の「再生」のモチーフは一切なく、「あの世」と「この世」は、画然と仕切られた別の世界なのである。「ハヤマ信仰」などに見られる「祖霊」の留まる「異界」、あるいは「再生」を約束するような生命力の余剰が横溢とする世界は、「記紀」では専ら「根の国」に委ねられているのである。

筆者は、「イザナミ」の「死」を巡る神話が、そのまま後世の我が国に複雑に展開された「触穢」の観念の根源的な部分に触れており、その重要な構成要素のほとんどすべてを含んでいることを非常に重視しているのだが、その舞台が「死」と「再生」の国としての「根の国」であると云うならば、それはまさに筆者の云う「無」と「有」、「生」と「死」が両義的に交錯する「異界」としての「あの世」と云う観念に収まることになる。
そして、この女神がその「死」に際して多くの「生」を産み出していること* などから判断して、この推測はおそらく的を外れていないのであり、そうであれば、「スサノオ」が「妣の国根の堅州国」と呼んだのは、字義通り「根の国」のことなのだと云うことになる。

*
「イザナミ」がこのとき産んだ神々については既に見たが、それは皆、生産に関わる神々であった。言い換えれば、女神自身が嘔吐あるいは排泄を通して産み出した神々は、人が自然に働きかけて、一次的な「変成」を成し遂げる生業の神格であった。そして、その死を引き起こした「カグツチ」の血肉から生まれたのは、それらの生業と密接に関わるか、関わると象徴的に考えられた自然現象などの神々であった。既出の注において、筆者が「弥都波能売神 みづはのめのかみ 」と「和久産巣日神 わくむすびのかみ 」をそれぞれ「灌漑」「農産」の神として併記したのは、その本来の姿が「水神」「食物神 (=芽吹き・誕生の神) 」


しかし、「近畿」を中心とする「古代」日本の中央における「死生観」と「触穢」の観念が、「近代」にまで及ぶ同等の観念と極めて強い類似を見せていることは、各地に展開される様々な民俗の相対的な自律性にも関わらず、『古事記』の書かれた八世紀には、既に現在の「東北日本」などと通ずる「生死」や「ケガレ」の観念があったことになって興味深い。もちろん、八世紀以降、「大和朝廷」がその勢力を全国に広めるに当たって、その有する精神文化も征服地にもたらしたと考えることは、不可能ではない。ただし、その場合でも、仮に「大和朝廷」の精神文化が「東北地方」に浸透するのに二三百年かかったとして、我らは既に千年近くの永きに渡って、上記のような観念を抱いていたことになり、それはそれで、尊いことである。

筆者にとって、この議論で最も重要なことは、「イザナミ」の坐すところと云うのが「根の国」だと云うことなのである。「死と再生の異界」である「根の国」は、山中を「異界」と見なし、「山の神」を祭った人々の山中「異界 (他界) 」の感覚と、驚くほど近接した観念として理解されるからである。そして、このことは「イザナミ」の「死」を巡る逸話と相まって、「山の神」を信奉する山民たちの「触穢」の感覚とも見事なパラレルを見せるのである。

そして、ここで話を「湯川」氏の報告に戻すと、 (「小塩」では) 純粋に山仕事で生活を立てている人々の間に強く「産穢」「死穢」が「火」を介して意識されていると云う事実は、「火の神」誕生譚と、極めて近しいシンボリズムを内包していることになる。そして、そこから発する「触穢」の発想は、「生」と「死」の両極の「境界」を強く意識するところから発しているのではないかと、筆者は強く思うのである。

このようなシンボリズムの内部にあって、「生」と「死」は、共に「変化」であると云う点で、「変化しない日常」と区別されるのであり、その「境界域」にあっては、「A/非A」の対立を、逆転あるいは同化するような、構造転換的な「変成力」が発揮されるがために、人々は崇敬の念を抱いてその「場」に集まり、臨みもするが、その一方で、その絶大な霊的発生力に対して、身を引くような危険も感じるのである。そして、崇敬も、危険視としての怖れも、どちらも無闇にその対象に近寄らないことを基本的な心性とするために、後世、この観念が「忌避」と云う形で固着化されていったのだと思われる。

「女人禁制」の起源としては、しばしば「神道」「仏教」による「触穢」観が広まった結果と云う説明が最も蓋然性の高い説明として扱われることが多いが、実際にはよく耳にする説で、一般に俗説として軽く扱われている、女性は霊力が高く、「霊」などに感応しやすいので、山中などの霊域に連れてゆくと「神」だけでなく、諸々の精霊が憑きやすく、危険だからだと云う説明は、霊力の重層的な働きにおける「境界性」や、そこに立ち現れる「変成」の契機などのダイナミックなメカニズムなどを見落としてはいるが、その基本的な着想においては、意外にも的を射ているのかも知れない。そして、筆者の「境界」での渦巻く「変成力」の衝突と云う観点を念頭に入れると、「女人禁制」の禁忌が破られると天候が荒れるなどと云った俗信が各地で見られたこととも、上の理解はすんなり合致することになるのである。

*

以上のように見ていくと、女性と云う性は、太古の人々にとって、その「身体」自身が「生成/変成」の契機としての「境界」を成していることが理解される。そして、それが故に、女性を「境界」での儀礼に駆り出すことは絶大な力を引き出す可能性を秘めつつも、「境界域」での地殻変動にすら比することの出来る巨大な力の衝突を生み出す危険性も同時に抱えることになったのである。少なくとも、祭祀を行う上からは、一つ間違えば、人々の願うものがすべて転倒して示顕する可能性すら秘めていることになったのである。

このすべての順逆を転倒させうる「場」と云うのは、「境界」そのものが持つ「変成」の力に本来的な性質で、決して女性を介さないと発生しないと云うものではない。ただ、個々に独立した「境界」を形成する女性の身体が存在することで、その過剰な発生が促進される契機となると云うことに過ぎない。それ故に、「異界」の横溢たる生命力としての霊力に触れて、自らの住む世界の活力を「再生」させようと云う「マツリ」の試みは、その「変成力」が極めて高い霊域などでは、一旦その過剰な発生が暴走を開始すると、人間の祭儀などで統御出来る限界を遥かに超えた現象に展開しかねないのである。しかも、その過剰な発生の後に、順逆の転倒の故に、女性の身体はそれだけ外的な力に対する受容体として無垢で敏感なものと化してしまう危険性も含んでしまう、と云う理屈になる。逆に云えば、その過程で、女性が「荒神」として示顕することも考えられたのである* 。

* この辺りは、まだ十分な考察をしたとは云えないが、「戸隠」の「紅葉」伝説や、各地に伝わる山中の「鬼女」や「山姥」の伝説などは、そもそも根源的な「山の神」の脅威が退化した結果生まれた伝承だとも捉えうるが、一方、似た理屈で、山中で「荒神化」した女性の姿を描いた伝承だとも捉えられなくもない。「山姥」の退化した伝承の形として、有名な「寒戸の婆」の話があるのも、そこでは女性の「変成力」の気配がほぼ跡形なく消え去ってしまっているにも関わらず、何故かやはり怖れられていると云う点でその残滓を見せており、この点では象徴的な伝説であると思われる。

また、山中などの「異界」の「境界」をなす「場」では、女性の身体が正負双方に強い発生力を秘めてしまうと云う考え方は、そのまま平地などの「境界性」の低い地ではむしろ女性の存在を抜きにしては、「異界」との交感は困難であると云う事実も示唆する。しかし、いくら交感が困難だからと云っても、「境界性」の低い (すなわち「日常性」の高い) 平地にあっては、周囲の環境自体が、一旦発生した「境界」の「変成力」の渦に対する耐性も低く、別の意味でその統制は必要不可欠の要件となるのである。平地での「マツリ」は、したがって、まずは「神的霊威」を呼び起こす行いと、その後にそれによって発生する「変成」の「場」を統御する手続きに、手間のほとんどを割くことで当初は成立していたのではないかと推測される。かつて、男女一組の祭祀者によって祭祀が取り仕切られていたと云う事実も、祭儀の何でもかんでもを性行為と結びつけないと済まない人々の解釈を取り敢えず棚上げにしておけば、実は「マツリ」の二つの基本的な行い、すなわち「神威の喚起」と「変成力の統御」と云う二つの役割の遂行を、女性と男性とでそれぞれ分担していたと見なすことも出来るのである* 。

* ここで筆者は、「神威の喚起」の最終段階を「神懸かり」のような現象として捉えているのだが、これは主に「境界性」が高いと考えられた女性の役割だったと推測している。もちろん、古い記録には男性による「神懸かり」も記録されているが、男女がほぼ同確率で分担するのが常態だったと判断する根拠は乏しい。「境界性」の高い人物と云うのは、何も女性に限られた話ではなく、「童」や「障害者」、あるいは人に優れて魁偉な肉体的特徴を有するものなども同等に考えられた歴史があるため、男性が「神懸かり」を行なったとしても、特に不思議とするには当たらないのである。問題は、それを統御する側に女性の「巫」が存在したかどうか、と云うだけである。

筆者は、ここまでに述べてきたような理屈に従って、後世成立した霊山などへの女性の登拝を禁止する「女人禁制」「女人結界」の観念は、「修験道」を媒介して、「神道」や「仏教」の「女性の穢れ」観が移入される以前に、既に地域によっては女性の山中での祭祀を避けようする風潮があったことにその深淵を有しているのではないかと考えている (後に「修験道」や「神道」の影響のあったことを否定しているのではない) 。したがって、そのような地域では、女性は元々、「里」あるいは「家庭」での祭祀を司る性格が強く、「異界」への参入は、特別なとき以外は行われない傾向があったのではないかと、現時点では考えているのである。


男性の「女性化儀礼」を巡って

ここまでは、「女性の境界性」などの観点から、「異界」と女性の持つ「変成力」の葛藤と云う視点を導入して、「女性のケガレ」にも触れつつ、霊山登拝などに関する「女人禁制」のメカニズムについて、乱暴な私論を展開してきた。以下は、今までの議論を踏まえて、「黒沼神社」の「羽山籠り」儀礼などに見られる「男性の女性化儀礼」について、やはり乱雑な私論をぶつけてみたいと思う。
*

「黒沼神社」の「羽山籠り」の際に、全員男性である祭祀者たちが、「お籠り」の最中は、一貫して互いを「バッパァ」だの「オッカァ」だの「ヨメ」だの、「家庭」内で使用される女性呼称で呼び合うと云うことは、既に何度か見てきたが、そのようなことが行われるのは何故か、と云うのがここでの最大の問題となるのである。

従来云われてきたように、女性を (公的な) 祭祀から締め出した結果、1) かつては女性が担っていた祭祀上の役目を男たちが担うようになったことと、2) 「羽山籠り」の祭儀がそもそも豊作祈願の性格が強いことから、「生産性」の象徴として「生殖」を模した儀式が行われるのだが、その際、男たちだけでは祭儀の執行が難しいため、現在のような形になったと云う二系統からの説明は、a) 何故、女性役を担うものだけが「女性化」するのではなく、参加者全員が「女性化」しなければならないのかと云う点と、b) 逆に、みんなが「女性化」してしまったら、やはり「生殖」の模擬的な祭儀は出来ないではないか、と云う少なくとも二つの点において、腑に落ちない部分を残すのである。

この疑問点は、「女性化儀礼」のメカニズムを瑕疵なく説明しようとすれば、当然通らねばならない論理的な道筋の確認における重大な発想を構成しているにも関わらず、何故、過去の研究者たちは簡単な理屈を表面的に仕立てることで済ませてしまい、この問題を追究する作業を怠ってしまったのか、不思議でならない。仮に、ある時点で女性を祭祀から追ったために、祭りの運営と実行の在り方に諸般の変更が加えられた歴史があったとしても、そこで男性たちが互いを女性呼称で呼び合わなければならない必然性は前提的には、まったく発生しないのである。

筆者は何故、女性が、山中などの「異界」との「境界域」での祭りに参加しないのかをここまで見てきた。それは、後世語られたような「不浄」や「汚れ」の故でもなければ、男性によってかつて女性が持っていた祭りへの参加権が停止されたことのみによるのでもないと、筆者が考えているのは、既に述べた通りである。それは、女性の持つ存在的な「境界性」の故に、「マツリ」と云う、「日常」の向こう側と接触しようとする微妙な儀式、すなわち一つ手続きを間違えば、「恩恵」でなく「災厄」を引き出してしまうかも知れない儀式に当たって、女性の「境界性」が、神々との「境界」での祭儀に関して、ネガティヴな形で干渉することを避けようとするのが本来の在り方だったのではないかと、考えたのである。

しかし、仮に筆者のこの考えが正しかったとしても、それだけでは女性を「お籠り」や「登拝」に参加させないことの説明にしかならないのは明白であり、その過程で祭祀に参加する男性たちが「女性化」しなければならないことの説明にはまるでならないことも同様に明らかである。「男性の女性化儀礼」を従前に説明しようとするならば、その儀礼に潜む、男性が積極的に女性に変身しなければならない何かの信仰上の論理を見つけ出さねばならないのである。

ただし、筆者は、この論理について、実はあまり複雑なことを考えているわけではない。むしろ、その単純な推論に至るための思索的な準備にこれまで紙面を割いてきたのである。しかし、その結論部としての筆者の推論は、あまりにもシンプルであっけないものと思われるかも知れない。その論理とは、以下のようなものである。

1) 「変成」の象徴としての両性具有

祭儀の中での「女性化儀礼」は、そもそも原始的な信仰に含まれる「変成」への願望を表わすものである。

2) 両義的な受容体としての両性具有

上記の象徴性の獲得と同時に、「境界域」での大きな「変成力」の発生と流動が、「あの世」と「この世」の「境界」を挟んで両義的に作用することを受けて、その力の流れを統制して必要な均衡を志向するための両義的な受容体として、祭祀者の身体を設計・  構成するためのものである。

1) に関しては、より分かりやすい例を使って記すなら、要するに「異界」から必要な生命力としての「変成」の契機を引き出すための「呼び水」みたいなものだと云うことになるが、これでは単純化が過ぎるかも知れぬ。2) に関しては、こちらこそが「男性の女性化儀礼」の論理の実質的側面を表わすのだが、この理屈は上の説明で十分に明白であろう。

この考えは、一見荒唐無稽に感じられるかも知れないが、それは祭祀そのものやその内の「生殖・性行為」を模した祭儀をすべて本質的に「農耕儀礼」として見るからであって、「生成」のみでなく、「再生」あるいは「変成」を願う儀礼として捉えると、さほど不自然なものではなくなる。そのような考えの下では、「生殖」も「変成」の一部なのであって、決して異なる地平の観念ではないのである。あるいは、別の見方をすれば、「生殖行為」は、「変成」の生ずる契機を提供するものなのかも知れないのである。これに対して、「生殖」を「変成」の契機と見なすのはおかしいと考えるならば、そのような感覚は、近代医学の生殖・再生産に関する知識に基づいたものに過ぎないことを肝に銘ずる必要があろう。太古まで遡らずとも、「明治・大正」の頃の新聞にさえ、多くの人間と動物の通婚譚が掲載されていることを見れば、このような理屈が一種の自明の論理として当時までの社会に受容されていたことは、一目瞭然なのである。

このように理解した上で、最後に残される問題は、祭祀者の男性が「女性化」するに当たって使用される女性呼称が、何故、「家庭」での階層を表わすものなのかと云うことである。前述の「美江朋子」は、「加藤美重子」の論考を参考にして、かつて女性も「宮座」に属することを通して共同体の祭祀への参加が認められておりながら、その参加も、「中世」の中頃から少しずつ後退していったと見なすのだが、女性が母性の強調によって公的な行事から少しずつ締め出されていく過渡的段階で、「宮座」への女性の参加資格が、本来は「頭家」の「女 むすめ 」であったものが、徐々に「女房」へと変化していったことの名残だと見ているようである。そして、「女房」である以上、その社会的な役割はやがて限定されて、強調された「母性」の枠内で、「家庭」の中へと押し籠められるようになった結果、遂には多くの地域で「宮座」への参加から締め出されるようになったと云うのである (美江、1989 / 加藤、1985) 。そして、「羽山籠り」に見られるような男性を女性呼称で呼ぶ慣習は、この「宮座 (女房座) 」時代の信仰の残滓であるとして、まさにかつて男女がセットで祭祀を執り行なっていたことの証だとするのである。

筆者は、「美江」氏の所説に対して云うべきことはほとんどないのだが、当然のことながら、祭祀における女性の尊重が助成の公的な地位からの締め出し以降の観念であると云う点と、男性を女性呼称呼ぶ慣習が、「宮座」時代の名残に由来すると云う考えには、いまのところ同意出来そうにない。

「黒沼神社」の「羽山籠り」の祭祀を垣間みれば、筆者の云う「神威の喚起」の段階での精進潔斎の儀礼が、主に「火」と「水」を扱ったものであることは誰でも気づくことであろう。この二つは、日々の生活にあっては、女性の司る領域であり、「竃」や「井戸」さらには「河川」や「湖沼」、それに湧水なども、みな「異界」との「境界」として意識され、「ケガレ」とも深く関係する観念領域を形成していたことは無縁ではあるまい。「羽山籠り」の神事で、「ハヤマの神」に奉る神饌を入れた俵を「おかまさま」と呼部のも、何かしらこのことと関係するものと思われる。「中世」以降頓に発達したと考えられるいわゆる「女房詞」としての「忌み言葉」の体系も、主に台所や風呂などの「火」や「水」周りの事物に対して行われていることとも、ある種の一貫性を維持しているものと思う。したがって、「羽山籠り」における女性呼称の使用に関しては、そもそも「日常」的に触れる「里」での祭祀が、女性たちによって「家内」、例えば「竃」「水場」などで行われていたことを反映しているだけなのではないかと、筆者は考えている。仮に、具体的なそれぞれの女性呼称が「中世」の「宮座 (女房座) 」に由来するものだとしても、そのこと自体の起源が、「火」と「水」の祭祀が、家庭内では台所を中心として、女性たちによって担われていたことの隠喩として成立したものなのではないかと推測されるのである。

「美江」氏らの見解では、祭祀における女性の尊重は、女性と云う性を「母性」の強調によって「家庭」のイデオロギーへと封じ込めることで、同時に女性を村落の公的な執行の場から締め出していったことの象徴的な代替事象だと云うことになる。その一方で「男性の女性化儀礼」の中でも、「黒沼神社」の「羽山籠り」に見られるような男性同士による女性呼称の使用は、女性がいまだ「宮座」に加わっていた頃、その参加資格が「女 むすめ 」中心から「女房」中心へと移った結果発生した、座内での女性の呼び方の名残だと云うことになる。しかし、この見方の問題は、「羽山籠り」の祭儀に男性呼称が残っていないのだから、「宮座」へ女性が参加していた時代には、女性のみが祭祀を執行していたかのような論理的な矛盾を抱え込んでしまう点にある。問題をシンプルに見て、何故、「羽山籠り」での女性呼称の使用が全男性に及ぶのか、と云う筆者が出発点で提示した疑問に立ち返ると、このような矛盾はどうしても看過することが出来なくなるのである。

逆に、筆者の見解は、検証が足りないと云う初歩的なことを除けば、もしも「男性の女性化儀礼」が、我が国古来の「異界」との接し方から興ったものであるならば、何故、そのような現象がより広く各地で観察されないのか、と云う点に最大の弱点を抱えている。「男性の女性化」が見られるだけでよいならば、実は各地にそのようなお祭りは存在するのだが、すべての参加者が「女性化した男性」で構成されるお祭りとなると、なかなか耳にすることはない。ましてや、その男性たちが互いを女性呼称で呼び合っているとなると、「黒沼神社」の「羽山籠り」以外、筆者は寡聞にして知らない。

この件に関しては、男性全員による女性呼称の使用は、完全な「女人禁制」の祭儀を前提としているのだから、そのような禁忌が全国的に薄れて、ほとんど残存していない以上、その実例がほぼ存在しないのはある意味やむを得ないとは云える。それと同時に、「羽山籠り」に見られるような特殊な事例は、仮にどのような解釈をしたところで、他に類例を見ないのだから、実例の少なさを以て反論の証とするのは不毛以外の何ものでもなかろう。
*

以上で、「男性の女性化儀礼」と女性呼称の使用に関する議論は終わったことになるのだが、最後に蛇足として、「イザナギ」の「黄泉の国」訪問譚に関して、前項で書き残したことを、本項の主題と絡めて、ここに書き足しておきたい。

ここまでに見てきたような「生成」「再生」「変成」と云う「境界」での力の発生は、「記紀」に見られる「イザナミ」の「火の神」誕生と女神の死を巡る伝承に、象徴的にだが、はっきりと表れているのは、既に見た通りである。そして、その後、「黄泉」から帰還した「イザナギ」が、「禊」を通して「あの世」から持ち来った過剰な「変成力」としての「ケガレ」を送り返すと、それを契機に、単身、幾柱かの神々を誕生させているのも、この説話の持つ「異界」の力に対する両義的な解釈を象徴しているとも云えるのである。ここに見られる「イザナギ」の両性具有とも云えるような生命力の横溢が、「異界」としての「黄泉 (筆者は根の国だと思っている) 」から、その力を浴びて帰還したときに発露していることは、注目に値する。

前項における「根の国」と「黄泉の国」との対比の議論では、「根の国」と「黄泉の国」を単純に同一視する従来の考え方に対して、両者の相違に着目する見解をいくつか紹介した上で、筆者自身はその異なる二つの「あの世」観にあって、「根の国」により強く表れた「異界」観念こそが、本源的な観念であると云う立場から、特に必要を要する場面でない限り、両者を基本的には同一のものとして扱うことにしたのである。しかし、その過程で、「柳田國男」や「折口信夫」らの「水平構造」の「他界」観や、それに基づいた「次田真幸」や「三浦佑之」の諸説も簡略に紹介した。

「三浦佑之」氏は、「三品彰英」の「日本建国神話の三類型」 (三品、1974) を下敷きに、以下のように記して、「根の国」と「黄泉の国」を根本的に異なる観念として扱っている。筆者は以下の見解に賛同した上で、「黄泉の国」は「根の国」とは違う観念であるが、「記紀」の執筆者たちはいまだ両者を混同して記述しており、その意味で神話の本源的な部分では「根の国」の観念が優勢すると考えているのである。

『古事記』は、黄泉国と根堅州国というまったく異質な二つの世界を、神々の系譜化と同様の意識によって一つの世界に繋ごうとしている。そしてそれは、三品彰英が言うごとく、「根ノ国の祖神であるスサノヲ」と「高天原系の祖神」アマテラスとを「同胞として血縁的に結びつけ」ようとしたためであろう。
三浦佑之 (1976) 「黄泉国と根堅州国-死後世界の構造」
古代文学会/編 (1976) 『古代文学 』第十五号、武蔵野書院
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次田真幸」氏は、「地平/水平」の彼方の「異界」と云うイメージに見られるような、「水平構造」に基づく「根の国」に対して、「垂直構造」に根差した「黄泉の国」の観念は、「記紀」における天皇神話成立の過程で天皇の故郷の「高天原」を「天」とした時点で、「水平」だった「この世/あの世」の構造が、「垂直立体構造」へと変化して、「高天原ー中津国ー根の国・黄泉」と云う構造が成立したのではないかと論じている (次田、1985) 。筆者は、この影響を北方的な葬制との関係で捉え、死者の赴く「異界」を、「桃源郷」にも比することの出来る、光と生命力の横溢とした「死と再生」の世界としての「根の国」としてではなく、「闇」に支配された「死後の世界」に特化したものとして捉える認知上の推移も、この「垂直構造」の導入によって、「あの世」が「地下」として現実化されたことによって促進されたものと考えている。両者が本来同一のものであった形跡は、「スサノオ」が、「根の国」に行くとて、「妣の国・根の堅洲国」と表現していることにも表れている。

「記紀」の「黄泉の国」訪問譚は、このような「垂直構造/死と闇の世界」への「異界」の推移が混ざり込んだ中間産物としての物語だと考えられるのため、筆者は敢えて「イザナギ」の「禊」の話も、ここの話題に含めたのである。

ちなみに、「イザナミ」の「死」を巡る生死譚は、「中国」から伝来した「五行説」の影響を強く受けていると云う指摘もなされている。筆者は、この指摘に関しても賛同する。ただ、だから「記紀」のこのくだりはすべて「中国」化の産物としての政治的なフィクションだと云う見解には同意出来ない。

確かに「イザナミ」や「カグツチ」から化生する神々は、「五行説」と対応するものが多い。敢えて云えば、「木」に当たるものが見当たらないが、これは「山津見」八神の系統につながると考えられる「山の神」信仰が、根源的には「樹木霊」に対する信仰から発している可能性を指摘する「N. ナウマン」の見解などを容れると、この点も該当することになる。

しかし、ここでいくら「五行説」に則った神格の配列が見られたからと云って、その神話のモチーフや構造自体が「中国」由来のものとは思えないと云う点や、またそこに現れる後世の「触穢」の観念へとつながる諸要素の組み合わせなどが、非常に日本的な精神性を既に反映している点なども、簡単に見過ごしてはならないだろう。ましてや、もしも「山津見」の神々が、我が国では本来「樹木」の神霊と考えられていたとするならば、その事実を知らずに、「五行説」に付託してこのくだりを書くことは出来なかったはずだ、と云う点でも、ここの記述が外国から借りたフィクションだとは到底云えないのである。

我が国の神話に対しては、「大林太良」などによって、「朝鮮半島」や「ヴェトナム」「ミャンマー」などの「東南アジア」諸国、それに「スリランカ」などと比較した結果、日本の神話が大陸の大文明 (中国) からの高い独立性を維持していることを指摘していることなども忘れてはならない。例えば「朝鮮半島」最古の歴史書である『三国史記』には、「新羅」王家の始祖は「前漢」の「孝宣帝」の五鳳元年の四月丙辰の日に即位したと記されるなどの例があるように、「朝鮮半島」や「ヴェトナム」の神話では、「中国」との関わりから、自らの歴史的な権威付けを図ろうとする意図が強く感じられるそうである。このような傾向は、大国「インド」と隣接する「ミャンマー」や「スリランカ」にも見られると云う。それに対して、日本の神話は、大陸の大文明との関わりを強調せず、独自の「高天原」と云う宇宙観の中で、自らの王権の基礎的な権威を築き上げている点が注目されると「大林」は指摘する (大林、1990) 。

もっとも、同じ論考で、「大林」は、日本の建国神話が「中国」や「東南アジア」のものとは似ず、「朝鮮半島」のそれと酷似していることも強調している。この事実は、かつて「騎馬民族説」が国中を席巻したときに、その論拠の一つとして援用されることが多かったため、意外とよく知られていることかも知れない。この類似について、「大林」は、特に政治性の強い神話については「朝鮮半島」に限らず、北方系の要素が強いことも述べている。

「大林」のこの見解が興味深いのは、実はそれが先刻来の「根の国・黄泉の国」の議論にも該当するからなのである。これは飽くまでも大雑把な一般化に過ぎないが、先ほど述べた「水平構造」の「他界」観は南方系の特色が強く、「垂直方向」のものは北方系の特色が強いと云えるのである。「大林」の見解を援用すると、皇室の先祖神とつながる「イザナミ」と「イザナギ」の決別のくだりで、大陸的な「垂直構造」の「他界」観が混入しているのは、返ってそれと対置される「水平構造」の「根の国」の観念こそが、我が国古来の「他界」観として本源的だと云うことの傍証となるとも云える。

同様に、このくだりにやや大陸的な脚色が加わっていると云うならば、本来は「根の国」だった「黄泉の国」から帰還した「イザナギ」が、「禊」をすると日本神話の主神となる三柱の神々が生まれると云うモチーフも、「死の穢れ」を払う場面と云うよりは、身についた「異界」の「生命力」を削ぎ落とすと、貴い三人の神が誕生したと理解出来るのである。そしてそのとき、男神の「イザナギ」は、一人で子を生しているのであり、その意味では「両性具有」の存在として描かれているのである。



3. シリーズ全編の要約 + 「猫神」について

今回の「山舟生・羽山神社」の紹介は、予想外に長編になってしまった。実は、今回のシリーズ記事に含めなかった原稿もだいぶ用意したのだが、ただでさえ無駄に長い文章となってしまったため、すべてを使うのは控えることとした。

以下、要点を簡潔に列挙する。

A. 民俗学における通説的前提

1. 「ハヤマ信仰」は、一般に「祖霊信仰」に基づいた「農業神 (主に稲作) 」の祭祀の体系と考えられている。

2. 「ハヤマ信仰」は、古くからあった土着の信仰に、「中世」以降、「修験道」の影響で、仏教色を強めたものとされる。

3. 「ハヤマ信仰」における「女人禁制」は、本来的なものではなく、「修験道」の影響で後世に付け足されたものである。

4. 「黒沼神社」の「羽山籠り」に見られる「男性の女性化儀礼」は、かつて女性が担っていた重要な祭祀上の役目を、「女人禁制」によって女性を追放した後にも維持するために、男性を女性化させることで象徴的に代替している。

5. 「山舟生・羽山神社」にある「猫神」碑は、「近世」以降、「信達地方」で発達した「養蚕」に関係する「蚕神」であって、「ハヤマ信仰」とは何ら関係はない。



B. 筆者の疑問と考察

1. 「ハヤマの神」とその信仰を巡って

1a-0. 「ハヤマ信仰」は、「祖霊神」や「農業神」である前に、本来は山中を「異界=あの世」と考えた人々による、「異界」との正しい接し方の認知的な体系ではなかったか。

1a-1. 「異界」は、「生」と「死」が交錯する両義的な世界で、「日常的」な「生」には「死」を、そして「日常的」な「死」には「生」をもたらす、両義的な生命力の溢れる世界である。この両義的な生命力の横溢は、多くのものの「生成」あるいは「変成」の契機となるが故に、「マツリ」としての祭儀は、この力の統御に気が配られたはずである。

1a-2. 両義的であるが故に、「異界」との接点となる「境界」は、正しい手続きで踏み入らねばならない領域となる。

1a-3. 正しいタイミングと手続きで接すれば、「異界」はその横溢たる生命力の故に「豊穣」を「この世」にもたらし、その手続きを過てば、その逆の結果として過剰な生命力の奔流を呼び寄せ、「災い」を引き込むことになってしまうのである。

1b. 「祖霊信仰」に関しては、今のところ深く考察はしておらず、最もシンプルに、山中を「異界」と見たが故に、死後の「魂」もそこに行き着くものと考えられたのではないかと思っている。そして、「異界」との正しい手続きを踏むときに、「あの世」にあってその祭儀を媒介してくれるのが「祖霊」であると漠然と考えられたのではないと考えている。したがって、筆者の認識では、「ハヤマの神」は本来は「祖霊」とイコールではないと云うことになる。

1c. 「農業神」としての側面は、元は数ある「豊穣」の一つに過ぎなかったと思われる。平地での「水田耕作」が社会全般で優勢になるに従い、「ハヤマ神」の御利益も、社会の主流派へとシフトしたものと理解している。

1d-0. 「ハヤマ神」は、元々は「山」そのものを「異界」と見立てることによる「山の神」信仰に発すると思われる。「山の神」については、「柳田國男」以来の「去来する農業神」と云う考え方の不備を克服しようと、「N. ナウマン」以来、民俗学プロパーの外側に位置する研究者を中心に諸説が唱えられているが、大雑把にまとめると次のようになる。

1d-1. 「山の神」は、狩猟や伐木などの山仕事を生業とする人々によって奉じられた「樹木霊」や「動物霊」に対する崇拝、あるいは峻厳たる「山岳」そのものに対する崇拝として開始された後、平地民の「農業神」の観念が付加された、と云う見解。

1d-2. 上の見解に対して、二つの「山の神」を媒介する観念として、「焼畑農耕民」の「山の神」観念を挟み、異質な「山民の山の神」と「平地の山の神」が習合したと云う見解。

1d-3. 筆者は、「山の神」の歴史的な理解は留保しているのだが、個人的には「ナウマン」以降の諸説には賛同するところが多い。「焼畑農耕」の媒介に関しては、明察としか云えない。しかし、「山の神」の基本神格に関しては、「水神」及び「陽の神」を中核に据えた原始的な「天神」信仰とも呼ぶべき性格のものだったのではないかと考えている。



2. 「修験道」との関係

2-1. 「修験道」が「ハヤマ信仰」に与えた影響に関しては、筆者はほぼ感知しないが、「山舟生・羽山神社」に伝わる伝承から、「修験道」が「女人禁制」観念を導入したと云う考えには賛同出来ない。



3. 「女人禁制」との関係

3-1. 「ハヤマ信仰」の「女人禁制」は、「修験道」の導入以前から形成されていたのではないかと考えている。

3a. 「ハヤマ信仰」の「女人禁制」は、本来は山中に見立てた「異界」の横溢する両義的な生命力を、通常はいかに封じ込めるかと云う課題と同時に、いかにその生命力が漏洩/侵犯して、「日常」の世界を乱さないか、と云う発生の延長線上に位置していると思われる。

3b-0. 上のことと密接に関わる「女性のケガレ」は、本来的には「汚れ」「不浄」とは、まったく関係はない。

3b-1. 「女性のケガレ」は、「産血」や「経血」が「不浄」と考えられたことに起因しない。さらには、「血穢」自体が、「死」に対する怖れに発していると云う考えは、一面的にしか当たっていないと思われる。しかも
、「血穢」から「産血」「経血」が忌避され、「女性のケガレ」へと発達したと云う見解は、むしろ逆で、「お産」での流血の両義性から、「お産」自体が「生死」の「境界」と見なされ、その扱いに対して思う。細心の手続きが編み出されていったのが、後に「忌避」と云う形でタブー視されていく土台になったのではないかと思う。

3b-2. 上の「女性のケガレ」に対する見解からも見えるように、筆者は、「ケガレ」を「忌避」 (ましてや後世の「汚れ」「不浄」) とは、元々本質的に異なった性質の観念だったと考えている。それは、「日常」としての「この世」と「異界」とが接する「境界域」において、「異界」の横溢とした生命力の故に、現世側に力の不均衡を呼び起こす可能性を秘めた閾とその属性のようなものだと理解している。本文では磁力の喩えを使ったが、ある意味では物理的な実態が感知され得ないのに、われらに付着しうるものとしては、放射線と似ているとも云える。適度な照射は無害であるだけか、時と場合によっては治療にさえ使えるものが、一定量を超えると致命的になる、と云う点でも、この比喩は生きているかも知れない。

3c. 女性は「産む性」であるが故に、「生産性」と「豊穣性」の象徴として、太古は祭祀の中心であったと云う従来の見解は、間違っていないか。 (祭祀の中心だったが、それは「お産」から連想される「生産性」や「豊穣性」の故ではない。)


3d-1. 近年、「女性史研究」の方面から提唱されている見解で、かつて、祭祀は「豊穣」を願って「生殖・性交」の象徴的な模擬として行われたが、「古代末期」以降の官制に代表される男性中心的な社会制度の普及と共に、女性は「産む性」として、その「母性」を強調されて、社会の公的な領域から追われ、専ら「家庭」の中に押し籠められたと云う見解が出されている。

3d-2. 上の主張は、おそらく後半はその通りだと思われるが、太古の祭祀は「生殖」の象徴儀礼だったのだから、男女一組の祭祀者が基本で、どちらも同等の祭儀的重要性の下で祭祀は行われていた、と云う見解には、筆者は賛同出来ない。

3e-1. 女性は、その象徴すると考えられた両義性の故に、祭祀においても、両義的な役割を担ったものと思われる。すなわち、「恩恵」の極大化も、「災厄」の極大化も、呼び寄せうる存在として特別視されたのではないかと云うことである。筆者は、これを「女性の聖性」あるいは「女性の境界性」と呼んでいる。後世、と云っても「古代末期」以前、この性質が「神の媒介者」としての女性と云う漠たるイメージを生成したものと思われる。

3e-2. 上の認識に立つと、女性自体が「生成」及び「変成」の契機としての「境界域」を形成していることになる。その女性が、「家庭」の中では、やはり「水場」や「竃」「台所」などの、「変成」に関わる領域を司っているのは偶然ではないかも知れぬ。

3e-3. 女性自体が「境界域」を成すが故に、女性を「境界」での儀礼に駆り出すことは絶大な力を引き出す可能性を秘めつつも、「境界域」での力の衝突を生み出す危険性も同時に抱えることになる。したがって、霊山への女性の登拝を禁止する「女人禁制」「女人結界」の観念は、「修験道」を媒介して、「神道」や「仏教」の「女性の穢れ」観が移入される以前に、既に地域によっては女性の山中での祭祀を危険視する風潮があったのではないかと考えている。したがって、そのような地域では、女性は元々、「里」での祭祀を司る性格が強く、「異界」へ参入は、特別なとき以外は行われない傾向があったのではないだろうか。



4. 「男性の女性化儀礼」に関して

4-1.
 「黒沼神社」の「羽山籠り」における、「女人禁制」の理屈に関しては、上の「3e-3.」で見た通りの理屈が働いて成立したものではなかろうか。

4-2. 上記の「羽山籠り」の際に、全員男性である祭祀者たちが互いに女性呼称を呼び合うのは、そもそも「日常」的に触れる「里」での祭祀が、女性たちによって「家内」、例えば「竃」「水場」などで行われていたことの残滓と捉えることは出来ないか。

4-3. 祭儀の中での「女性化儀礼」は、そもそも原始的な信仰に含まれる「変成」への願望を表わすと同時に、「境界域」での大きな「変成力」の発生と流動が、「あの世」と「この世」の「境界」を挟んで両義的に作用することを受けて、その力の流れを統制して必要な均衡を志向するための両義的な受容体として、祭祀者の身体を設計・構成するためのものである、とは考えられないだろうか。この考えは、一見荒唐無稽に感じられるかも知れないが、それは祭祀そのものやその内の生殖を模した祭儀をすべて本質的に「農耕儀礼」として見るからであって、「生成」のみでなく、「再生」あるいは「変成」を願う儀礼として捉えると、さほど不自然なものではなくなる。

4-4. 上記の「生成」「再生」「変成」と云う「境界」での力の発生は、「記紀」に見られる「イザナミ」の「火の神」誕生と女神の死を巡る伝承に象徴的にだが、はっきりと表れている。そこでは、「火」と「血」のイメージに媒介されて、人の自然への働きかけから生まれ出る「変成物」に関わる神々が誕生し、働きかけられる対象としての「カグツチ」の身体は「山の神々」に化生している。

4-5. このことは、「記紀」における「根の国」の概念と深く関わるものであることも本文では指摘し、それが後世の「触穢」の観念と連なるものであるとも述べた。また、それに続く「イザナギ」の「禊」のくだりでも、「非日常」的なまでの生命力が横溢とした「死と再生の国」としての「根の国」をくぐり抜けることで、「イザナギ」が単身で新たな誕生を生成していると云う点で、両性具有化していることについても注意を喚起している。

*

ここまでは、本文に書いてきたことである。しかし、最後に「猫神」ブログである以上、「猫神」に関してもいくらか考察を加えてから、終りとすることにしたい。文の体裁は、上記と同様、箇条書きのメモに準ずる。

5. 「猫神」との関係

5-0. 正直云って、「猫神」と「山舟生・羽山神社」の関係は、それがその境内にあると云う事実を除くと、確かなことは一つもない。「山舟生」地区には、他所に比べて多くの「猫像」「猫碑」があると云う事実は、すなわち「羽山神社」に直結するものではない。

5a. ただし、「山舟生」地区の「猫神」が位置している場所は、概ね集落から見ると「ハヤマ」に当たる地形になっている。中には、「鍛冶屋場の薬師瑠璃光如来堂」のように、かなり濃厚に「ハヤマ信仰」の形跡を残していると思われる場所もあった。

5b-0. 「羽山神社」の「猫神」碑は、「本殿」真裏の切立った斜面に鎮座しており、ただの境内祠にしては、 (言い方によっては) 随分と不遜な位置に鎮座していることになる。筆者は、これには何らかの事情があるものとして、以下のように考えた。

5b-1. 「猫神」は、単なる「養蚕神」ではなく、「羽山神社」とより本質的なつながりがあるものとして理解されていたのではないか。そもそも、「信達地方」では「蚕神」として「申」「庚申」などの石仏の他、「馬頭観音」なども信奉され、一方で素直に「蚕神」を祀ったり、あるいは地元伝承として、「養蚕」の守り神「小手姫」なども有している。にも関わらず、これだけの大養蚕地帯で、「猫神」を祀った例は (他地域寄りは多いとはいえ) あまりに少ないのも気になる。「猫神」は「養蚕の神様」だと云うのは、どちらかと云うと近年の郷土史家たちの弁によるところが多く、地元の人たちが積極的にそう意識している気配は意外にも薄かった。

5b-2. ただし、「蚕神」と云うのは、ある意味で「虫」の神とも云える。「折口信夫」が「常世」と「根の国」を同系統の観念として理解していたことは知られているが、『日本書紀』の「皇極天皇紀」登場する「常世の虫」は、「この世」に福徳をもたらす「虫」だった上、これを邪教として勅命で鎮圧したのは、当時の我が国の「養蚕」を司っていた「秦氏」の家長「秦河勝」であったのも興味深い。

5b-3. また、「かくかゝ呑みては、
気吹戸 いぶきど に坐す気吹戸主といふ神、の国・の国に気吹き放ちてむ。かく気吹き放ちては、根の国・底の国に坐す速さすらひめといふ神、持ちさすらひ失ひてむ」とある「六月晦の大祓」では、海の彼方や村はずれなどの「異界」の「境界域」へと害虫などの「虫」を送り出すことが書かれている* 。「常世の虫」は、「異界」からやってきて「福徳」をもたらし、「この世」に害をなす「虫」は、正しい手続き (お祓い) を通じて「異界」へと送り返されるのである。この事実は、「異界」と「虫」の関係を示唆するだけでなく、「異界」を巡る両義的な祭儀の基本を示してくれている。「福徳」をもたらす「虫神」の系統に、「猫」があれば、これが「蚕神」として理解されたことの根本的なイメージ性は担保される。また、「福島県」各地の「羽山神社」は、近年まで「虫除け」の札を出していたところが多い。

* もっとも「六月晦の大祓」の云う「虫」とは、「昆ふ虫の災い」とあるだけで、「武田祐吉」の注によれば、蛇や百足などの被害のこととなり、現代人が害虫と云ったときに連想するものとはなっていないが、筆者は「武田」氏の注釈は採らない。かつての日本人が、正体不明の身をくねらす生き物を中心に、四肢を以て歩かぬすべての生き物に対して「虫」の名を当て、霊力のあるものと見なしていたのは明らかだからである。

5b-4. 「虫送り」のお札に関して、筆者がすぐに思い出すのは、「磐梯神社」が、「江戸期」まで出していたと云われる「猫札」である。「平岩米吉」氏は、「文政」頃 (1818-1829) の「磐梯神社」の「猫札」を所蔵していたようで、その著作『猫の歴史と奇話』にその写真を載せている (平岩、1985、p. 82) 。「平岩」氏は、それを「虫札」だとも、何の札だとも記していないのだが、お札である以上、何らかの「災厄」を送り出す役割を担っていたことは間違いなかろう。害虫除けの「虫札」ならば、今でも旧六月十五日に、「翁島登山口」にある「磐梯明神」の「拝殿」で授与してくれるそうである。

5c-1. ちなみに、一般的には「福島県」の「ハヤマ信仰」は「阿武隈山系」に多く見られると云われるが、父の故郷の「会津地方」にも同種の信仰があったのを覚えている。ただ、「会津」の「祖霊信仰」は、通常「磐梯信仰」として知られているため、「ハヤマ信仰」と同類だと云うことがあまり意識されないだけである。ただ、地元の人は、農村地帯に行けば行くほど、「ハヤマ」と云う言葉には馴染みがあるようではあった。ただし、この地方では「麓山」と表記することが多い。

5c-2. 「会津地方」では、人の霊魂は、いったん「ハヤマ」に集まり、幾度かの年忌法要の後、「厩岳山」の馬に乗って「磐梯 いわはし」を登って、天上へと召されると信じられていた。道筋としては、「厩岳山」「猫魔ヶ岳」「磐梯山」と「霊」は昇っていったと聞く。後の「磐梯山信仰」とは、こうした原初の「ハヤマ信仰」に「仏教」や「修験道」が絡まり合って生まれた複雑な信仰体系なのではないかと、筆者は考えている。そして、当然、途中に登場する「猫魔ヶ岳」とのつながりは、大いに筆者の探究心をくすぐるのである。何しろ、この地域には複数の「猫石」があることも知られ、「猫又」伝説も有名である。さらには、かつて「明治」の「神仏分離令」までは、「磐梯神社」で、「猫」の絵を刷った「猫札」を参詣者に配っていたことは上で見た通りである。

5d.  このことと関連して、筆者は「新潟県南魚沼郡」の「八海山尊神社」の「猫札」を思い出す。「八海山」の立つ地は、「会津地方」とは「只見川」文化圏で連なっており、現在もJR只見線が、「八海山」北麓の「小出」まで運行している。「小出」のさらに南、「八海山」へと接近すると「浦佐」の土地がある。ここの「毘沙門堂」の「裸押し合い祭り」は全国的にも有名だが、これはこの地の「猫」伝説に由来している。そして、「八海山尊神社」の「猫札」は、「鼠除け」のお札だと云う (野村、2005、p. 174) 。筆者は、「蚕」のための「鼠除け」のお札は、「虫送り」と対をなす「虫迎え」のお札であると考えている。そして、「八海山」もまた、「山中他界」観に基づく霊場として知られているのである。

5e-1. 「磐梯山に登るときには鶏の卵を持って行ってはならぬ、磐梯明神のお怒りに触れてお山が荒れ、わざわいに遭う」と云う俗信があることは、以前から父に聞いていたが、改めて書物でそれを読むと、実感も新たである (橋本、1977) 。
「磐梯山」がかつて「病悩山」と呼ばれ、祟りを為す山だったことは知られているが、「鶏嶽」とも呼ばれることがあったらしく、上の禁忌伝承は、山頂の明神に捧げて埋めた鶏の霊の祟りだと云われるそうである (橋本、1977)

5e-2. 「鶏」は、「記紀」神話にも「常世の長鳴き鳥」として登場する---「悪魔跳梁の世界と光明の人間界を区切る瞬間を告げること (
日本昔話事典』弘文堂) 」から、それを霊鳥として神聖視し、福徳と結びつける風潮があった。また、全国に見られる「鶏報恩」型の説話では、「猫」と対置されることも多く、その対置が「生」と「死」を象徴するのが常態である。「磐梯山」と連なる「猫魔ヶ岳」には、「猫」伝説もあり、「異界」との「境界」に現れる「鶏」と「猫」の象徴性に関しては、今後、丁寧に追究して行かねばならないテーマである。

5e-3. 
「ハヤマ信仰」と「猫神」との関係を探っていると、いずれ「磐梯山」を巡る「猫神」の考察へと、筆者は導かれていく気配を感じている。

5f-0. 中間的な結論として云えることは、今までのところ、「猫神」に関しては、

1) 「水神 (風雷神) 」
2) 「異界 (他界) 」との「境界」にある霊威
3) 「異界
(他界) 」から怪異・霊妙を迎え、逆に元来た場所へと送る霊威

等々、と云った特徴が見えてきており、その中心となる観念は渦巻く「変成」であると、筆者は睨んでいる。


4. おわりに

今回のシリーズ記事を通して、筆者は一貫して、「東北」の「ハヤマ信仰」に見られ る「女人禁制」の観念は、「修験道」などの後世的な影響によって確立したものではなく、むしろそれ以前の祭祀の根源的なシンボリズムに根差しているのではないかと述べてきた。そして、そのように考えると、どうしても「男性の女性化儀礼」に関しても、従来のように、太古に女性が参加していた時代の名残だ、とする解釈は成立しなくなってしまうと云う見解を主張してきたのである。今回、筆者は自らの力不足を省みずに、このような解釈の逆転がどのようにして可能なのか、と云う重大な課題に、無謀にも挑戦してみた次第である。

もちろん、何度も言ってきたことだが、民俗学プロパーからの通説では、これはまるで正反対のことと把握されている。このことに関しては、「宮田登」が「修験道」の影響を前提として「女人禁制」を語っているのを、既に前の稿で確認した通りである。

しかし、ここで打ち明けると、実は筆者が上のような発想を最初に抱くに至る切っ掛けを与えてくれたのは、その「宮田登」氏自身の言葉だったのである。そこで、最後に「宮田」氏のその文章をここに引用して、今回の支離滅裂を極めたシリーズ記事の締めくくりとしたい。

神仏習合の結果成立した修験道が、山岳修行の聖地に女人禁制のタブーを課したことは日本宗教史の上で重要な事実として知られている (中略)

畿内を中心とする地域には神仏の勢力が強く働いており、そこが中心となって、女人禁制を民俗として各地に伝播させた。しかし東北地方に展開している宗教風土には、中央の諸宗教に包摂しきれない部分が見られる。その一つの事例として、山伏神楽のなかの女人の位置づけが興味深い。 (中略)

いわゆる女狂言では、登場人物の女性は気が強く、男の方は気の弱い性格を対照させる組み合わせであり、女性優位に貫かれている。それが、山伏神楽の中にモチーフとして生かされており、女人禁制を否定しているのである。

宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌』人文書院、pp. 140-142

*

それにしても、今回考察を加えた「女性化儀礼」に関しては、今後とも「猫神」を巡る思索の旅路で、何度となく遭遇することになるではないかと云う秘かな予感が、いまから筆者の脳裡を去来している。



参考文献

a) 「猫碑」関係
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・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会
・梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻篇、梁川町

b) 「ハヤマ信仰」「祖霊信仰」関係
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・豊田武 (1962) 「東北中世の修験道とその史料」
 東北大学東北文化研究室/編 (1962) 『東北文化研究室紀要』第四集
・岩崎敏夫 (1963) 「葉山氏神の考察」
 岩崎敏夫 (1963) 『本邦小祠の研究』岩崎博士学位論文出版後援会
・大友義助 (1974) 「羽州葉山信仰の考察」
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・小野寺正人 (1977) 「陸前の山岳信仰とはやま信仰」
 月光善弘/編 (1977) 『東北霊山と修験道』山岳宗教史研究叢書 7、名著出版
・岩崎真幸 (1977) 「会津地方におけるハヤマ信仰」
 上掲書 (月光、1977) 所収
・橋本武 (1977) 「磐梯山信仰」
 
上掲書 (月光、1977) 所収
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 参照・宮田登 (2006) 『はやり神と民衆宗教』吉川弘文館
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 上原昭一ら (1989) 『古墳からテラへ : 仏教が来た頃』図説日本仏教の世界 1、集英社
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう
福田アジオ (2004) 『寺・墓・先祖の民俗学』大河書房

c) 女人禁制関係

・楳垣実 (1973) 『日本の忌みことば』民俗民芸双書、岩崎美術社
・脇田晴子 (1982) 「中世における性別役割分担と女性観」
 女性史総合研究会/編 (1982) 『日本女性史 2・中世』東京大学出版会
・寿岳章子 (1982) 「女性語の性格とその構造」
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・田端泰子 (1982) 「大名領規範と村落女房座」
 上掲書 (
女性史総合研究会、1982) 所収
・桜井徳太郎ら/編 (1984) 『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』青土社
・波平恵美子 (1985) 『ケガレ』東京堂出版
・脇田晴子 (1985) 「母性尊重思想と罪業観」
 脇田晴子/編 (1985) 『母性を問う 歴史的変遷』上巻、人文書院
・加藤美重子 (1985) 「『女 ムスメ 』の座から女房座へ」
 
上掲書 (脇田、1985) 所収
・山本幸司 (1986) 「貴族社会に於ける穢と秩序」
 日本史研究会/編 (1986) 『日本史研究』 第287号
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・美江朋子 (1989) 「玉依ヒメ再考―『妹の力』批判」
 大隅・西口/編 (1989) 『巫と女神』シリーズ女性と仏教 4、平凡社
・網野善彦 (1991) 『日本の歴史をよみなおす』筑摩書房
・山本幸司 (1992) 『穢と大祓』平凡社選書
・木津譲 (1993) 『女人禁制 現代穢れ・清め考』自刊
・宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌―差別の文化的要因』人文書院
・酒井直行/編 (2002) 『図説・富士山百科』新人物往来社

・鈴木正崇 (2002) 『女人禁制』吉川弘文舘
・山本幸司 (2004) 「穢れ観と中世社会」
 歴史学研究会/編 (2004) 『日本史講座 3・中世の形成』東京大学出版会

・岩鼻通明 (2006) 「山岳信仰と女人禁制」
 安田喜憲/編著 (2006) 『山岳信仰と日本人』NTT出版

d) 「山の神」関係
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 W. Eberhard/A. Eberhard (trans.1968) The Local Cultures of South and East China, E.J. Brill
 W. Eberhard (1942) Lokalkulturen im alten China, 2 Bde., Peking/Leiden
・柳田國男 (1946) 『先祖の話』
 柳田国男 (1998) 『柳田國男全集 15』筑摩書房
・柳田國男 (1947) 「山宮考」
(『新国学談』第二冊)
 柳田国男 (1996) 『柳田國男全集 16』筑摩書房
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『改造』第七巻・第四号、初出
 折口信夫 (1995) 『折口信夫全集』第二巻、中央公論社
柳田國男 (1925) 『海南小記』大岡書店
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柳田國男 (1993)  『明治大正史・世相篇』新装版、講談社学術文庫
・小笠原賢太郎 (1943) 『伊那の御祭神』山村書院
 小笠原賢太郎/著・長野県神社庁飯伊支部/編 (1991) 『改訂版 伊那の御祭神』新葉社
三品彰英 (1974) 『三品彰英論文集第一巻、平凡社
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古代文学会/編 (1976) 『古代文学 』第十五号、武蔵野書院
・橋本進吉 (1980) 『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫
 
橋本進吉 (1950) 『国語音韻の研究』橋本進吉博士著作集 4、岩波書店
・松本信広 (1956) 『日本の神話』至文堂
・大林太良 (1973) 『日本神話の起源』 角川選書
・次田真幸 (1985) 『日本神話の構成と成立』明治書院
・平岩米吉 (1985) 『猫の歴史と奇話』池田書店
・町田宗鳳 (2003) 『山の霊力』講談社選書メチエ

・毛利秀雄 (2004) 『精子の話』岩波新書
・野村純一 (2005) 『江戸東京の噂話』大修館書店

福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.02 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
「ハヤマ信仰」に関する一試論 3)

羽山神社
伊達市山舟生字手水川


1. はじめに

今回は、「山舟生・羽山神社」を巡る第三回目の記事である。

本稿は、前回記事で提起された「ハヤマ信仰」における「女人禁制」の観念の本質に迫ろう、と云う議論に至るために、筆者が必要と感じる議論を扱うことになる。その主だった内容は、「羽山神社」の祭神の構成を考察することで、現在「農耕祭儀」と考えられている「ハヤマ信仰」の、より深い基層には「山の神」「陽の神」の信仰が潜んでいることを示し、その両者の根源的な性格が、共に「山に湧く水」と関係するものだと指摘することにある。

この「 (陽に照らされて) 大地から忽然と水が湧く」と云うイメージは、そのまま、「無」から「有」が発生する契機、さらにはあるものが、反対のもの (異なるもの) へと変換されることを象徴するものとして、原初の人々の崇敬を集めたものであり、この「変成」の神秘が両義的に感知されたことから、「ハヤマ信仰」の祭儀の基礎を為す諸観念が派生したものだと理解しようとするものである。そして、最終的には、この「変成」を巡る両義的な認識が、「ハヤマ信仰」に見られる「女人禁制」の観念を生み出すものであると提唱しようと云うのが筆者の目的であるが、このことに関しては、次回記事に譲ることとする。

そして、今回も「猫」は登場しない。




2. 「羽山神社」小考・中編

a) 「羽山神社」の祭神に見る信仰の軌跡

「山舟生・羽山神社」の祭神は、「天照皇大神」「月読命」「大山祇命」の三柱とされるが、おそらくは後付けの神様であろうと筆者は思っている (特に前二者は...) 。大体、皇室の神様が、「大和」から見たらこんな辺境の地の、初めからの「山の神」だと云うこと自体が、不自然なのである。皇祖神系の二柱の神は後に勧請されたか、後付けで設定されたかしたとして、この三柱の神々の中で地主神格なのは、誰が見ても「大山祇命」であろう。この「大山祇命」さえも、後から持ってこられた神だとは思うが、おそらく最も忠実に、土着の「山の神」を表象した神格であることは間違いなかろう。大体、皇祖神の上から、 (皇祖神を含む神話大系では) より格の低い「国つ神」を勧請して被せると云う話は、寡聞にしていまだ聞かない。したがって、皇室神話的な理屈の上でも、この三柱の神々の中では、「大山祇命* 」が一番基層にあらねばならないのである。

* 大山祇命---ここを最後に、以下、「大山祇神」と記す。飽くまでも、記述する上での便宜上の都合、あるいは筆者の好みの問題である。

ここまでは、およそ誰でも見当がつくとしても、問題となるのは、このような三神の設定が、どのような観念の下でなされ、いかなる変化の大まかな流れの中で形を成していったものなのか、と云うことである。

*

仮定 1 : 「陽の神」と「山の神」の系譜

そこで初めの手がかりとして、既に何度か触れている「葉山修験 (羽黒派) 」による影響を鑑みて、「山舟生・羽山神社」の祭神の構成に、「出羽三山」の祭神の構成が影響を及ぼしているものと仮定して、その構成を見直してみることにする。

初めに確認しておくと、「出羽三山」の祭神と云うのは、以下の神々である。

出羽三山の祭神と本地仏
出羽三山祭神本地仏
羽黒権現伊氐波神 いではのかみ
すなわち
稲倉魂命
うかのみたまのみこと
正観世音菩薩
月山権現月読命阿弥陀如来
湯殿山権現大山祇神・大己貴命・少彦名命大日如来

このように概観した場合、「山舟生・羽山神社」の祭神のうち、「月読命」「大山祇命」の二柱の神々は、それぞれ「出羽三山」の「月山」「湯殿山」の祭神とすんなり対応することが見てとれるが、「天照皇大神」のみが、残された主峰である「羽黒山」と対応していないことに気づかされるのである。

もちろん、それぞれの「本地仏」まで考慮すると、「大日如来」が性格としては「天照皇大神」と重なると云えるが、他の神格がみな祭神のレベルでの一致を見せているのに、「天照皇大神」のみが「本地仏」まで引き合いに出さないと説明出来ないのは不思議である。しかも、「出羽三山」の「本地仏」の構成自体に、そもそも不自然な部分がある。「大山祇神・大己貴命・少彦名命」の三柱の神々は、一般的には「大日如来」の垂迹された神格ではないのだから、この構成はどうしても歪だと云わざるを得ない。

通例、「出羽三山」以外では、「大山祇神」の「本地仏」は「大通智勝仏」、「大己貴命」は「千手観音」「阿弥陀如来」「薬師如来」、「少彦名命」は「薬師如来」「虚空蔵菩薩」などとされることが多い。もちろん、「本地垂迹」の関係と云うのは、本来、非常に便宜的な起源に発するものである故、あまり厳密な対応関係を期待するのは無理な側面もあるが、伝統的に大まかな対応関係は設定されていったのもまた事実である。「大日如来」などは、教理上、何にでも顕現しうるのだから、事実上、どんな神にも垂迹出来る訳だが、我が国の信仰文化の中では、「不動明王」「阿弥陀如来」「薬師如来」「天照大神」などが主な垂迹の姿とされているようである。

「真言密教」では「天台密教」ほど「薬師如来」の重要性を大きく見ていない (これは後に見る) 。「出羽三山」の信仰自体は、古くは「真言天台兼学」の精神を貫いていたのだが、「江戸期」に「羽黒山」「月山」が「天台宗」に転じたのを機に、元々「真言」色の強かった「湯殿山」は、「真言宗」固持の道を選んで、他の二山とは袂を分かったのである。このような「真言反動」の中、「湯殿山」の祭神のうち二神が、上記で見たように、通例は「薬師如来」を「本地仏」として奉じているにも関わらず、「湯殿権現」自体は「本地仏」に「薬師如来」と同体と見なされる「大日如来」を選択せねばならない事情が発生したのかも知れない。

また、同時に、もしも「湯殿山権現」の三神のうち、「大山祇神」の重要性が他の二神よりも高かった場合は、それら二神に垂迹した「薬師如来」を奉ずる訳にはいかず、「薬師如来」をも包摂する神格として「大日如来」を設定せざるを得なかった、などと云う事情も考えられうる。この件に関しては、やや憶断ながら、傍証として、「山舟生・羽山神社」の三柱の祭神と、後にもう少しだけ詳しく触れることになる「薬師如来」と「日光月光菩薩」の三尊を対応させるとより明確になると云える。対応関係は、「日光菩薩=天照皇大神」「月光菩薩=月読命」となるであろうから、どうしても「薬師如来」は「大山祇神」と対応せざるを得なくなるのである。

筆者がここで云いたいのは、「薬師如来」が「大山祇神」を表すと云うことではなく、「出羽三山」や「山舟生・羽山神社」の三尊/三神の中では、「大山祇神」が屹立すると云う象徴性が、祭神同士の対応関係に隠されていると云うことなのである。やや穿った見方をすれば、「湯殿山権現」が、その祭神の構成を「大山祇神」に「大己貴命」「少彦名命」を加えた形にしているのは、「医薬神」ともされる後者の二神から、「薬師如来」の垂迹へとつながる橋渡し的な性格を得るためなのではなかったのかとさえ、疑えるのである。

さて、同じ問題の別の側面は、もし「山舟生・羽山」の祭神は、「出羽三山」に倣ったものであると見なし、上の「大日如来」を含めた祭神の一致を受け容れたとしても、それでは「湯殿山権現」からのみ二柱の神を借りたことになってしまい、主峰たる「羽黒権現」と重なる神格がなくなってしまうと云う事態に陥ることになり、そのため、やはりこのズレはおかしいと云うことになってしまうことである。

要するに、「湯殿山権現」の三祭神は、実際には「ハヤマの神」の一般的なイメージを構成する「山の神=大山祇神」と「薬師如来=大己貴命・少彦名命」を表していながら、「本地仏」には「大日如来」を引っ張ってきているのはおかしい、と云うことでもある。そして、そのようなおかしなことをするからには、その裏に、それなりの事情があったのだろうと推測せざるを得ないのである。

このように考えると、「羽山神社」の神は、現在の神名に落ち着く以前に、どこかで「陽の神」を祀る要素があったものと仮定する方が、何故、神格を重複させてまでも、無理矢理に「太陽神」としての「天照皇大神」を持ってこなければいけなかったかが、理解しやすくなる気がしないだろうか。このことは、実際には「湯殿山権現」にさえ云える気がするのであるが、ここではあまり大きな魚には食いつかないようにして、話を進めることする。

*

以上の議論に、新しい争点を付け加えるならば、ここまでは話に登場しておきながら、あまり触れられなかった、「羽黒権現」の問題もある。「出羽三山」の中心を形成する「羽黒山」の神は、一般に「羽黒権現」と呼ばれるが、元は「出羽国」の国魂である「伊氐波神 いではのかみ 」だったようである。しかし、この神は早い時期に「稲倉魂命 うかのみたまのみこと 」と同一であると見なされるようになった経緯がある。この「稲倉魂命」と云うのは、分かりやすく云えば、「農耕神」としての「稲荷神」と同一の神である。

そして、この「稲荷信仰」と云うのは、「修験道」と接近すると、概ね「飯綱信仰」や「秋葉信仰」と同一の性質を顕すことが知られている。特に「羽黒権現」の場合は、三十二代「崇峻天皇」の皇子「蜂子皇子」が、推古天皇元年 (593) に「出羽国由良」に着いたところ、三本足の大烏が飛来して、皇子を「出羽」の霊山へと導いたのが始まりとされている。「羽黒」の名前も、この烏から来ていることを考えると、この烏の導きによって顕現した「伊氐波神/稲倉魂命」が、「烏天狗」の姿で描かれる「飯綱権現」や「秋葉権現」と同体の神であることは、なお一層明白になるのである。

ここまで概観すると、気になるのが、「山舟生・羽山神社」に伝わる、「奥の院」の縁起である。何故なら、もしも、「秋葉山」のお膝元である「遠州」から「梁川」に移ってきた「秋葉土佐守・秋葉備後守」らによって、「奧羽山」山頂に宮が建てられたのであるならば、現在も「山舟生・羽山神社」に隣接して「秋葉神社」があることを併せ鑑みると、当初「秋葉備後守」が祀ったのは、「秋葉権現」だったのではないかとも想像されるからである。それが、後に「葉山修験」によって、「出羽三山」の祭祀が再度持ち込まれると、「秋葉権現」を神社隣りに遷座し、「里宮」の「ハヤマ」として鎮まってもらい、新たに三山形式の信仰を被せたのではないかと筆者は疑っている。

もちろん、これはあるいは逆で、「修験道」の影響が先に入り、その衰微後に、新たに「秋葉信仰」などが被せられ、「大日如来」の要素を反映して「天照皇大神」が祭神に選定された、と云うことも考えられる。しかし、既に見たように、「葉山修験」の盛期が「江戸前期」に来ることを考えると、それが「山舟生・羽山神社」の確立期と重なるため、この可能性はあまり高くないと思っている。その上、「秋葉信仰」が何ゆえ、「大日如来」を「天照皇大神」に置き換えなければならないのかの、必然的な説明もなしえない。

しかし、現時点での祭神や祭祀の在り方、境内社や隣接する祠堂などを見る限り、「秋葉信仰」がここの「羽山神社」の最終的な到着点でないのは明らかであり、なおその上に、少なくともあと一層は、異なる信仰が重ねられたことは疑いえない。

そこで、この辺りの重層的な構成を明確にするためにも、現時点での「山舟生・羽山神社」の祭神の来し方に関する筆者の仮説をここで略述しておくこととしよう。そして、まず始めに結論から述べておくとするならば、筆者は、「葉山修験」の影響の波は、二回に渡って、「山舟生」にやってきたのではないか、と考えているのである。

第一回の波は、「真言・天台」兼学の「瑞宝山・慈恩寺」 (現・山形県寒河江市) を中心として「葉山修験」が「陸前国」まで勢力を張った十六世紀半ばまで続き、この時期に「古ハヤマ信仰」の基層の上に、「出羽三山」の信仰を通して、「修験道 (仏教) 」の「本地仏」を据えた信仰 (薬師三尊) が成立、普及したものと思われる。これについては、また後ほど、簡単に記すこととなる。

しかし、既に触れたように、この「慈恩寺」が「天文年間」 (1532-1555) に「葉山」との関係を絶ったため、以降、「葉山修験」は衰退することとなった。この時期は、「南北朝」の戦乱と「霊山落城」以来、「信達地方」の信仰勢力図が整わないまま各派が混迷を続ける時期とも重なり、それがそのまま「戦国期」の政治的な混乱へと引き継がれることとなった。「秀吉」によって、永くこの地を領した「伊達氏」が「仙台」に移されたこともまた、この地域に与えた影響は大きかったと云える。

そして、この中間期の空隙に、「秋葉信仰」が移入されたものと思われるのである。「近世」に大きく花開いた「秋葉信仰」の成立については、それ自体が議論の多い論題なのだが、筆者はここで「遠江」からの流入を想定しているだけに、「遠州」での「秋葉信仰」の成立を、「羽山」伝来伝承の「元和年間」よりも早いものと確認することは重要である。

この件に関しては、「田村貞雄」氏が「秋葉信仰研究史素描」の中で、「坪井俊三」氏の所説を紹介する形で以下のように述べている。

遠州への秋葉信仰の伝来時期は、武田氏と断交した徳川家康が越後の上杉謙信に密使叶坊を送り、その叶坊が長岡の蔵王堂三尺坊の院主を連れ帰り、秋葉山に住まわせたとされている。坪井氏は徳川氏関係文書を精査してある年代から家康の起請文に秋葉の名が登場することを指摘されている。これは重要な指摘であって、それ以前の遠州には秋葉信仰は存在せず、秋葉信仰の発生を奈良または鎌倉とする縁起や由緒書の後年の附会を立証するものである。

田村貞雄 (1998) 「秋葉信仰研究史素描」  
田村貞雄/監 (1998) 『民衆宗教史叢書 31 秋葉信仰』雄山閣出版、pp. 3-17

上記引用文にある「家康」の「武田氏」との断交と「上杉輝虎 (謙信) 」への使者派遣とは、元亀元年 (1570) 八月に、使僧「秋葉山権現堂・叶坊光播」を遣わしたことを指しているのだが、これは「羽山」伝承の「元和年間」 (1615-1624) よりも半世紀前後は遡る時期である。したがって、「遠州」から「山舟生・羽山」に「秋葉信仰」が伝わることは、時代的には十分に可能だったと云うことになる。

この後、「江戸時代」に入ってから、「葉山修験」の影響の第二の波が押し寄せたものと思われる。時期は、これまた既に見たように、「新庄藩」の保護を得て、「大円院」を中心として「葉山修験」が再度興隆した十七世紀半ば以降と云うことになる。この時期に、「羽山神社」の「社殿」などの整備が進められたようだが、同時に「秋葉神社」が社域の外に移されたのではないだろうか。現在も、まるで地続きに隣接しているにも関わらず、「山舟生」の「秋葉神社」は、「社殿」もなく、まともな参道さえない崖の上にある。その上、鎮座地の「字」まで異なっているのは、「排除」とまではいかないにしても、明確な「種別化」の現れであることは間違いないと思う。

しかし、そうは云っても、「葉山修験」の影響は「信達地方」にあっては限定的だったと思われる。最大の理由は、当然のことながら、「梁川」の地が、「新庄藩領」でも、その隣接地でもなかったことが挙げられよう。そして、「梁川」の地が、数回に渡って、「天領」から「梁川藩」になる政治的変遷を繰り返したことも、その影響を限定する方向に働いたものと思われる。「近世期」は世俗権力が、寺社勢力を完全に統治下に収めるか、あるいは収めようとした時代であるから、「中世」におけるほどの自由が寺社勢力にはなかったのであり、統治権の範囲を越えて、一つの宗派が他の領地へと広がったりするのは、その地の集権的な統治機構に齟齬を来たすが故に、領主側から歓迎されなかったのは明白なのである。

一方で、「梁川」の場合は、統治者の度重なる変遷と長きに渡る「天領」時代もまた、地域の信仰の在り方に直に影響したはずである。地元に密着した強い統治権の不在は、統治者側からの継続的な圧迫をもたらさない代わりに、その統治権と結びついて、手厚い保護を勝ち取ると云うことも不可能にするからである。この地域の信仰が、現地の山がちな地形と云う物理的な要因も作用してか、相対的に自律した土着性をある時期から維持出来たのは、こう云った様々な要素が複合的に絡まりあった情勢によるところが大きいと云えるのではあるまいか。

*

少し、話が長くなり過ぎたかも知れぬ。

筆者は、ここで正確な祭神の推移を推定しようとするのが主目的でなく、現在の「ハヤマ信仰」が重層的に形成された歴史があることと、その基層にあるのが「山の神」及び「陽の神」の信仰であると云うことを蓋然的に示すことが主たる狙いだったのである。したがって、歴史的推移の順番に関しては、前述の通り、大体のイメージがつかめればそれで満足なのである。

ただし、その上で、「山舟生・羽山神社」に「稲倉魂命」が祀られていないことは、一方で、別の重大な事実をも示唆することは付け加えておきたい。ましてや、ここの祭神のうち「天照皇大神」が、「大日如来」を経由して顕現した性格が強いものであるならば、それは宇宙秩序の中心に座す「全知全能」の「太陽神」と云う含意が強調されたもので、「農耕神」としての性格は必ずしも前面には出されていないことになる。これは、祭神からの「稲倉魂命」の欠落とぴったり整合する。

以上のような話の流れに従うと、「天照皇大神」がいつ頃、祭神に加えられたのか、正確には不明ながら、「葉山修験」と直接関係のないところでそのような動きがあったこと自体、「ハヤマ信仰」の底流に、「陽の神」の観念があったことを匂わすものであり、そこには朝夕の最初と最後の光を浴びて輝く山容を拝むと云う「山岳信仰」の原初の姿が潜んでいる可能性を示唆するものである。そして、「大山祇神」に対する信仰もまた、その基層にあることを関連させると、「山の神」が「陽の神」と一種のパラレル関係にあったことの証をなしているのだとも、筆者は考えている。そして、このことは、「農耕祭儀」に先立つ観念が「ハヤマ信仰」にはあったと云う可能性を指し示すが故に、無視出来ぬ重要な意味を持つのである。

実際、「ハヤマ信仰」に関する先駆的な研究を残した「岩崎敏夫」も、「ハヤマ信仰」には、「農耕祭儀」よりも、古い側面があると述べている。氏は、その諸論考を通して、「ハヤマの神」は「農耕神」であるのは間違いないが、その信仰が「修験道」の影響を受ける以前は、山に集う「祖霊」を崇める信仰だったと見ていたようである。

現在のはやまの祭は作祭などとも称し中世以降の修験作法の色彩が強いが、祖霊信仰としての起原はずっと古く、恐らくは縄文時代以前から続いている祖霊信仰であり、弥生時代から稲作信仰の要素が加わったものと私は見ている。

岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう、p. 129

筆者は、上の「縄文時代以前から続いている祖霊信仰」と云う部分に関しては、それが現時点では、あまりに実証的な証拠を提示し難い主張であるが故に、留保せざるを得ないが、その「祖霊信仰」が「農耕祭儀」に先立つと云う主旨には、筆者がそもそも「ハヤマ信仰」を考え始めるに当たって大きく啓発されたところである。

ただし、「山の神」が何故「祖霊」と結びつくかと云う点に関しては、「柳田國男」が『先祖の話』の中で述べている、「祖霊」を「山の神」かつ「田の神」とするやや検証の足りない考え方を、その後も多くの民俗学の徒が継承していることに対して、
一部の論者から疑問視する声も上がっている。

簡略に約すると、『先祖の話』の中で「柳田」は、「無難に一生を經過した人々の行き處は、是よりももつと靜かで清らかな、此の世の常のざわめきから遠ざかり、かつ具體的にあのあたりと、大よそ望み見られるやうな場所でなければならぬ」と述べて、それを故郷近くの山と設定し、その上で、家の存続のためにはその生産の基盤としての田圃の家督を先祖から受け渡される必要があり、それ故に霊魂と化した先祖たちにとっても、一番の関心事は田地に関することだったと断定して、春秋に山と里を去来する「山の神=田の神」と云う説を唱えたのである。

筆者は、「柳田」の云うような形では、「祖霊」が山に登ると云う考えには賛成しないが、現在各地で見られる先祖供養の形を見ると、先祖の魂が山の中に留まる (少なくとも一定期間は) と云う考えに異論はない。ただ、そのことに関して筆者はあまり無理をした複雑な理屈は考えておらず、単に「山」の奧を「異界」に見立てたことから発した、思考上の当然の帰結であろう、と云う程度に気楽に理解している。そして、筆者の視点は常に麓からの視点を前提としているが、水田耕作を前提とはしていない。ただし、ここで筆者の云う「麓」とは、「山頂」に対するそれより下の生活の場、と云う程度の意味合いである。

筆者は、「ハヤマ信仰」は単に「祖霊」が山から「麓」を見守っていると云うだけではなく、本来は、「麓」から山を仰ぎ見る観念から発していると捉えたいのである。そこでは、曙光を浴びて黎明から浮かび上がる山の姿によって視覚的に象徴され、実質的には、生命の源たる水が、その山から発すると云う不可思議に対する畏敬の念として、「山の神」は体験されたのであろう。あるいは、「町田宗鳳」が『山の霊力』で云うように、古くは真っ赤な太陽が、山から昇って山に回帰するのを見て、人々は山を万物を生み出す「原初の生命体」と感じたのかもしれない (町田、2003) 。

「宮田登」は、「祖霊信仰」に関して論じた小文の中で、「山岳信仰」に関して、「山岳信仰の山の神は、山麓に居住する人びとからまず生じており、その神は、雨を降らせ水をもたらすという、生活上必須の存在として崇拝された」 (宮田、1989) と記しているが、これは慧眼である。もちろん、「宮田」はその観念を水田耕作社会を前提として語っているのだろうから、そう云った点で筆者とは微妙に視点が異なっている。しかし、筆者はその考え方を否定するのではなく、単にその観念が農耕定着の以前にも遡りうる心性なのだと云うことを訴えたいだけである。いや、そう考えないと、何故、「農耕神」以前段階の「山の神」が「農耕神」へとスムーズに転移出来たかと云う、視点が欠落してしまうのである。

* 「宮田登」は、この以前段階には、また別の「山の神」があったものと考えているようである。この異なる「山の神」に関しては、次回記事で触れることとする。

そもそも、人が川水と山を崇拝の対象にしたのは農耕定着以降とは限らず、敢えて云えば、生活する上で必須のものだからと云う観念さえ新しいのかも知れない。始め、人は、川の来し方を山に見、その踏み入れぬ森の中から、川が流れ出す様を不思議に思い、神秘の念を抱いたことから、「山と川」に対する崇拝が興ったとは考えられないだろうか。

おそらく、原始の人が川の始源に見たものは、まさに「無」から「有」の湧き起る「変成」の契機だったのである。人々の生きる現実では、ありとあらゆるものが、「有」から「無」へと消滅してゆくのに対し、「無」から「有」へと転ずる源としての山は、太古の人にとっては順逆が転倒する、「異境」として認識されたのだと思う。

やがて、自らが水を欲するように、水あるところに生命があることも認識され、春の雪解けと共に、草木が芽吹き、稔りをもたらすことも知ったのだろう。そのことと、冬の間は山からの湧き水の量が減ることも観察され、「陽」の運行と「水」の運行が関連づけられていったものと推測する。やはり、「陽」があるところに生命が沸き立つからであり、山の雪形に春の「陽」が当たり始めると、水が奔流となって流れ来たるからである。これらすべてが、山を起源としたのである。

そして、この神秘の起源としての「山」と云う観念が、その「異境」性ゆえに、おそらく我らの先祖の抱いた最初の「異界観」の基礎の一つとなったのであり (他方は、おそらく海) 、またそれ故に「この世/あの世」の概念が次第に醸成されていくと、真っ先に「あの世」に当てられたのがこれらの「異界」だったのだと思う。

*

結局、「山舟生・羽山神社」の祭神の構成に、「出羽三山」の神々を被せて考える仮定から出発したことで、その仮定がまるまる合っていたのか、あるいはその変遷の順を特定出来たかと云う点では、いまだ不鮮明なところを残したが、それら祭神のうち、「羽山神社」の旧来の信仰の実質的な側面を現在の祭神の中では「大山祇命」が担っているのだと云うことと、逆にその視覚的で象徴的な側面を「天照皇大神」が担っていたのではないかと云うこと、そしてそのいずれもが、原初的な「山の神=陽の神」信仰としての観念に行き着くと云うこと、などを大雑把に把握することが出来たのは、まずまずの収穫と云えるだろう。

そして、その「山の神=陽の神」の観念を理解することは、そのまま我らの先祖が抱いた最初の「異界」の感覚へとも、われらを導きうると云うこと、そしてそれ故に「山の神」の信仰には、後の世に「祖霊信仰」へと発達する萌芽が内在していたことをも確認出来たのである。


仮定 2 : 「ハヤマの神」と「薬師如来」の垂迹

しかし、上のような考え方とは別に、「山舟生・羽山神社」の三柱の神々の来歴に関しては、やや異なった仮定も立てうるのである。

前回の「鍛冶屋場の薬師如来堂」の記事においても見た通り、「神仏習合」の中で「薬師如来」は「ハヤマの神」として垂迹することが知られているが、そうなればその両脇侍は、「日光・月光菩薩」と云うことになる。この三尊の構成は、そのまま「羽山神社」の三柱の祭神に水平移行しうるものであるのは明らかである。しかし、これには少しばかり説明が必要かも知れない。

簡単に云ってしまえば、「葉山修験」によって「薬師如来」は「ハヤマの神」として垂迹すると云うことは既に見たが、さらには、「密教」では「薬師如来」を「大日如来」とも同体と見なすのである。

もちろん、「薬師如来」の教えと云うのは、『薬師瑠璃光如来本願功徳経 (薬師経) 』 (玄奘訳、AD 650) や『薬師瑠璃光七佛本願功徳経 (七仏薬師経) 』 (義浄訳、AD 707) などの「顕教」系の教典に説かれていることから、「真言宗」ではあまり重視されていない。一応、「真言密教」の『覚禅抄』にも「胎蔵大日如来」と同体と説かれてはいるが、「雑密系・曼荼羅」の「中尊」になることはあっても、「純密系・曼荼羅」ではそのようなことは決してない。

しかし、逆に皇室とのつながりが伝統的に強い「天台宗」では、「東方浄瑠璃世界」の教主である「薬師如来」は、「日出ずる国の天子」である天皇と象徴的に結びつけられため、その基本的な義軌の一つである『阿裟縛抄』において「釈迦如来」や「大日如来」と一体であるとされ、極めて重要視されたのである。

すなわち、「天台密教」において、「薬師如来」は、太陽を象徴する「大日如来」でもあり、そのために太陽神としての皇祖神「天照大神」としても垂迹するのである。このように筋道を追ってくると、「山舟生・羽山」の祭神の中心に、何故「天照皇大神」が勧請されているのかも、ほぼ障碍なく理解されるのである。

しかし、ここで筆者が「ほぼ」と云ったのには、やはり、いまだわずかだが問題が残されているからである。それは、「山舟生・羽山神社」の「社務所」裏の阜に鎮座する「秋葉神社」を巡る問題なのだが、これらの点に関しては、後ほど「秋葉神社」を紹介する記事に譲ることとする。



3. 小休止


今回の記事では、「羽山神社」の祭神の構成を概観するに当たって、二つの便宜的な仮定を設定して、それを通して「羽山神社」の信仰のより底なる層にある、「山の神」「陽の神」の存在を掘り起こすことを第一の目的としていた。

その上で、「山の神=陽の神」の信仰が、山に陽が当たり、その山から水が湧き出ると云うイメージから喚起されたものであること、
そして、それが「無」から「有」の発生する「変成」の契機として、人々の崇敬の対象となったことを見ていきたかったのである。「無」から「有」が生ずる山は、順逆が転倒する「異境」として認識され、やがては「再生」と「死」を互いに浸透させうる両義的な「境界」として、民間の祭儀の中心的な観念装置として機能するようになったのである。

ただし、現在の「羽山神社」の祭儀では、これら原初の観念は随分と薄らぎ、表面的な「農耕祭儀」の特徴ばかりが目立つようになってしまっているのも事実である。そこで、次回の記事では、今回確認した「変成」の契機としての「ハヤマの神」と云う「ハヤマ信仰」の古層が、いかに現在も掲げられている祭神の「大山祇神」の神格に内在しているかを指摘して、ここまで展開してきた議論を再度確認することとしたい。


参考文献

a) 主要文献
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
    梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会
梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻・文化・旧町村沿革 各論篇、梁川町

b) 「ハヤマ信仰」関係
・月光善弘 (1961) 「慈恩寺開創と葉山信仰」
 『東北文化研究室紀要』第三号、東北大学文学部東北文化研究室
・豊田武 (1962) 「東北中世の修験道とその史料」
 東北大学東北文化研究室/編 (1962) 『東北文化研究室紀要』第四集
・岩崎敏夫 (1963) 「葉山氏神の考察」
 岩崎敏夫 (1963) 『本邦小祠の研究』岩崎博士学位論文出版後援会
・大友義助 (1974) 「羽州葉山信仰の考察」
 『日本民俗学』第九十三号、日本民俗学会
・小野寺正人 (1977) 「陸前の山岳信仰とはやま信仰」
 月光善弘/編 (1977) 『東北霊山と修験道』山岳宗教史研究叢書 7、名著出版
・岩崎真幸 (1977) 「会津地方におけるハヤマ信仰」
 上掲書 (月光、1977) 所収
・宮田登 (1982) 「ハヤマ籠り 暮らしのなかの神々」
 初出・池田弥三郎ら/監 (1982) 『みちのくの神と祈り』探訪神々のふる里 10、小学館
 参照・宮田登 (2006) 『はやり神と民衆宗教』吉川弘文館

・宮田登 (1989) 「祖霊信仰 東アジア世界と先祖観」
 上原昭一ら (1989) 『古墳からテラへ : 仏教が来た頃』図説日本仏教の世界 1、集英社
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう

c) 古典
・秋本吉郎/校 (1977) 『風土記』古典文学大系 2、岩波書店
・倉野憲司/校 (1978) 『古事記』古典文学大系 1、岩波書店
・坂本太郎ら/校 (1978) 『日本書紀・上』古典文学大系 67、岩波書店



福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.02 2010 北海道・東北地方 comment(0) trackback(0)
「ハヤマ信仰」に関する一試論 2)

羽山神社
伊達市山舟生字手水川


1. はじめに

今回は、「山舟生・羽山神社」を巡る第二回目の記事である。

本稿は、「羽山神社」の成立ちを概観することを通して、「ハヤマ信仰」の古層や、その信仰の底流にある「女人禁制」の観念の本質へと近づこうと云う企図の前編であり、次回記事以降の議論への準備をする目的で書かれている。

したがって、今回の記事の段階では、「猫」の話は、一切登場しない。


2. 「羽山神社」小考・前編

羽山神社・拝殿前案内図
羽山神社・拝殿前案内図
「拝殿」前に掲げられた案内図

a) 概観

この地域最大のお社である「羽山神社」は、「戦前」までは旧「山舟生村」の「村社」であっただけでなく、隣接する「白根」「沖舟生」を併せた三箇村の鎮守でもあった。旧「梁川町」最高峰の「羽山」 (458m) そのものが、御神体となるのだから、その信仰の地理的範囲が、その雄大な山容を望める限りの地に広がるのはむしろ当然だったのかも知れない。

ただし、その「羽山」も決して単一の山を指す名称ではなく、連なる山嶺に沿って、「里」に近い順に「出戸羽山」「中羽山」「奧羽山」とに分けられ、信仰されていた。

旧「村社」だったのは、筆者が今回訪問した字「手水川」の「羽山神社」なのだが、このお社は、神聖な山嶺の西麓中腹に近い位置にある「里宮」のようなものとも云える。したがって、この神社の「奥の院」は、「奧羽山」の山頂に祀られていることになる。

出戸羽山・石祠
出戸羽山・石祠
「出戸羽山」山頂の石祠


奧羽山・社殿
奧羽山・社殿
「奧羽山」山頂の「奥の院・社殿」
『福島の山々』より
http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/yanagawahayama/yanagawahayama.htm

筆者は、これら三つの「羽山」の山頂の神様を拝してみたいと願っていたのだが、この日は台風の迫る、断続的に雨の降る空模様であったため、「奥の院」までの登攀は断念せざるを得なかった。本当は、「出戸羽山」山頂の石祠と、「奧羽山」山頂の黒ずくめの「奥の院・社殿」は、みずからの眼で見、みずからのカメラに写真で収めたかったのだが、この計画は雨だけにお流れとなってしまった。したがって、ヴェブサイト『福島の山々』様から、上記二枚の貴重な画像を拝借することになった。この場を借りて、御礼申し上げます。


b) 「羽山神社」の成立ち

さて、「山舟生・羽山神社」には、二つの開創時期が伝えられている。第一は、「奧羽山 おくはやま 」山頂の「奥の院」の祭祀の始めであり、他方は「里宮」としての「羽山神社」そのものの創建である。

「舟生不動堂の猫神」を扱った記事でも、前回の記事でも、「舟生字寺下」の地にある「昌源寺」については触れたが、その寺を開いたと伝えられる「秋葉土佐守」の弟「秋葉備後守」が、「山形県・出羽三山」から祭神を勧請して、元和年間 (c. 1615) に「羽山」山頂に祀ったのが「奥の院」の始まりだと『梁川町史』は云う。しかし、これはどうやら確たる記録のあることではなさそうで、口碑として、そのように伝えられていると云うことのようである。

仮にこの伝えが正確だったとしても、それはここの祭祀が制度化された始まりと云う意味だと思う。おそらく、この地域にも、さらに古い時代からの信仰はあったと思われるのだが、「霊山」落城以降、地域の信仰自体が混沌とした状態のまま投げ出されてしまったものと推測される。筆者は、「出羽・葉山修験」の一派が、「信達地方」に普及の手を伸ばし始めたのは、「霊山落城」以降の、この地域に空いてしまった宗教的な空隙と何らかの関係があるものと考えている。しかし、その後も宗門内の争いなどで、十六世紀の半ばに「葉山修験」はいったん後退した歴史がある。そして、それ以降、地域の権力図の目紛しい再編によって民生の混乱は続いたものと思われる。この混乱がようやく治まるのは、十七世紀初頭、「関ヶ原」以降であった。その時期に、永く続いた混沌に秩序を与える形で、「近世」初期に在地の有力者となった「秋葉氏」によって、祭祀が統一されたか、再開されたのではあるまいか。ただし、この「秋葉氏」について、筆者はただいま詳しい資料を入手出来ていない。

「里宮」についても『梁川町史』は、当時、「奥の院」への道が急坂だったこともあり、参道の登攀は専ら男性によるものとされ、結果的に「女人禁制」の聖地とされていたのだが、寛文元年 (1661) に領主「上杉景勝」によって、子女も参詣可能な現「手水川」の土地が寄進され、現在地に神社が造営されたものと云う。

この「寛文元年」造営の話は、歴史的な人物名も年号も揃い、いかにも古記録に残っていそうな記述なのだが、云うまでもなく、検証を必要とする。「上杉景勝」は確かに慶長三年 (1598) に「蒲生氏」の後を受けて「梁川」地域を所領に加えているのだが、よく知られているように、「関ヶ原の戦い」後には改易されて、「米沢」に移封されているのだから、「梁川」にあったのは慶長五年までのわずかな期間と云うことになる。しかも、「景勝」は、元和九年 (1623) に六十九歳の生涯を閉じているのであるから、死後四十年近く経った寛文年間に神社の造営など出来るはずがないのである。「町史」編纂の段階で何かの間違いがあったか、話自体が不確かな口碑の類いであるかしたのだと思われる。ちなみに、寛文元年当時、「梁川」は「幕府天領」であったはずである。

この「里宮」の造営に関しては、あれこれ地元の人に聞いて廻ると、別の口碑も伝わっているようであった。それによると、歩行困難になった老人が、「出羽山」に似せて神霊を勧請したと伝えられていると云う。地域随一の神社を勧請したのが、「歩行困難になった老人」とだけ伝わるとは、これまた随分抽象性の高い話だが、逆さに振っても、これ以上の内容は伝わっていないそうである。いずれにしても、この老人と云うのが、「上杉景勝」でない限り (笑) 、この言い伝えで「羽山神社」の縁起譚は三つを数えることになる。最初の一つを「奥の院」の伝承として区別すると云うならば、「里宮」で二つめと云えばよかろうか。

現時点では、どの縁起が正確で、どれがそうでないかを確定することは出来ないので、これらの言い伝えを足がかりに、ここの神社の成立ちに関して、合理的な推定を重ねていくことしか、我々には手段は残されていない。そして、結果的にはっきりと推すことが出来るのは、次の二つのことである。

1) 「羽山」には、ある時期、「出羽三山」の信仰が伝わり、現在の「山舟生・羽山」の祭祀の雛形が形成されたらしいこと。

2) 現在の「羽山神社」の社地に関しては、何かしら足弱な参詣者たちのことを考慮して選定されたと云う事情があったらしい、と云うことである。

第一の点に関して云うならば、直接「福島・宮城」の「ハヤマ信仰」の形成に関わったのは、「出羽」の「葉山修験 (羽黒派) 」の一派であろうことは、先学の研究によって、ほぼ確定されている。この修験一派は、その起源こそ古いものの* 、「天文年間」 (1532-1555) に「慈恩寺」が別当を離れてから一時衰微したため、再び一種の教団としての形を整えたのは、「江戸時代」に「新庄藩・戸沢氏」が「葉山大円院」を藩の祈願所などに指定して保護するようになってからだと考えられている。特に「戸沢正誠」の時代に「大円院」の堂宇の大改修が藩主導で行われているが、これが「葉山修験」の隆盛期と考えられている。この時期は、「寛文」から「元禄」にかけての時期に当たり、「寛文期」に「山舟生・羽山神社」が造営されたと云う言い伝えと、時期的には一致する。

* 「葉山」は、「湯殿山」開山より前の古い時代には「出羽三山」の一つに数えられ、「羽黒派修験」の重要な一翼を担っていた。この「羽黒派」は十四世紀末には「陸前北部」にまで進出していたことが、「栗原郡鶯沢」の「白鶯山文書」に見えている (豊田、1962) 。ちなみに、「湯殿山」が三山に加わってからは、「湯殿山」を「奥山」に見立て、その手前にある「葉山」として自らを位置づけ、「葉山の神」は、「葉山薬師権現」と呼ばれた。

第二の点に関して興味深いのは、「上杉景勝」伝承の方にあるように、これが「女人禁制」の解禁と関わる縁起と理解することが出来る点である。しかも、「足弱」の衆人も参拝出来るように配慮したと云うニュアンスは、どちらの伝えにも含まれているのだから、翻って云えば、それまでの「女人禁制」は女性が「足弱」であるための措置だったと説いていることに等しくなる。本当はどうだったのかは置いて、この時期に新たに信仰を再編するに当たって、その主体となった人々によって、前代までの慣習がそのように解釈されたと云うことである。

我が国の各地に見られる「女人禁制」の仕来りは、実はどれ一つ起源や理由のはっきりしたものはないことが知られている。その中でも、一般に最もよく使われる説明と云うのが、おそらく「仏教」の戒律に基づくものと云う解釈と、「神道」の「血穢」の観念からくるものと云う解釈であろう。巷間では、山の神様が女神で、女性に嫉妬して災厄を引き起こすからなどと云うものもある。この他、山岳の登攀は女性には危険だからとか、女性の入山は山岳修行をする修行僧たちの迷いの元になるから、などと云うかなり現実的で、機能的な解釈も古くから唱えられている。「富士登山」のかつての「女人禁制」に関しては、地元の農民たちによって、「天候が荒れるから」と説明されることが多かったようだが (宮崎、2000 / 岡田、2002) 、近年は、この「女性に対する愛欲を、求道心を惑わすものとして禁欲の第一にして、山中では女性との交渉を一切断って、修行者だけの世界をつくり上げ、『女人禁制』が成立した」 (岡田、2002) と云うような解釈が、かなり明確に採り上げられているようである。さらに幾多の説明もなされているが、これだけ解釈があると云うことは、取りも直さず、誰にも明確なことは分からないし、誰も他の諸説の支持者をみな説得するほどの所説を提示し得ていないと云うことの証左であろう。

実際、「仏教」の戒律に「女人禁制」の結界を張って、特定の場所への女性の出入りを禁ずるなどと云う戒律は存在しないのである。それが何故か我が国の「仏教」では「平安期」までに各地で「女人禁制」の聖地が制定されていったと云う歴史があるのは、考えてみれば不思議なことである。「鎌倉時代」に興った新仏教は、概ね前代までの差別的な救済しか約束しない旧仏教派に対して、異議を唱える形でその宗旨を発達させたところがあった。そのため、どの宗祖も、民衆の多くに仏の恵みを与えようと訴え、その中には女性も含んでいることが多かったのである。

中でも「道元禅師」がその『正法眼蔵』の中で、我が国に多々見られる「女人禁制」の結界を指して次のように述べているのは、比較的良く知られていることだろう。

唐国にも、愚痴僧ありて、願志を立するに云く、生々世々ながく女人を見ることなからん。この願、なにの法にかよる。世法によるか、仏法によるか、外道の法によるか、天魔の法によるか。女人なにのとがゝある、男子なにの徳かある。悪人は男子も悪人なるあり、善人は女人も善人あり。聞法をねがひ出離を求むること、かならず男子女人によらず。もし未断惑のときは、男子女人おなじく未断惑なり。断惑証裡のときは、男子女人、簡別さらにあらず。又ながく女人を見じと願せば、衆生無辺誓願土のときも、女人をば捨つべきか。捨てば菩薩にあらず、仏慈悲と云はんや。たゞこれ声聞の酒に酔ふこと深きによりて、酔狂の言語なり。人天これをまことゝ信ずべからず。

 (中略)

日本国にひとつのわらひごとあり。いはゆる或は結界の地と称じ、あるいは大乗の道場と称じて、比丘尼・女人等を来入せしめず。邪風ひさしく伝はれて、人わきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士も考ふることなし。或は権者の所為と称じ、あるいは古先の遺風と号して、更に論ずることなき、笑はば人の腸 はらわた も断じぬべし。権者とはなに者ぞ、賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等覚か妙覚か。又、古きをあらためざるべくは、生死流転をば捨つべからざるか。

道元『正法眼蔵』「礼拝得髄」
寺田透・水野弥穂子/校 (1970) 『道元』上巻、日本思想体系 12、岩波書店、pp. 326-328

また、「法然」の教義の多くの部分が女人救済に当てられていたことはほとんど常識であるし、それ故にその立場から「比叡山」や「延暦寺」の「女人禁制」について批判的な言葉を多数残している。さらには「親鸞」や「日蓮」、そして「奈良仏教」側からは「叡尊」も加わって、このような「女人禁制」の観念に対して批判的であったと云われている。したがって、「女人禁制の結界」に対する「仏教戒律由来説」は、本来、さほどまでに強い根拠にはなりえないのである* 。

* ただし、上記のように記した「道元」さえも、後に「永平寺」を開くに当たって、「女人禁制」の規則を設けている。「日蓮正宗」は、後に「尼僧」制度そのものを廃するまでに女性を修行の場から排するようになったことで知られている。この思想的な転換の理由は、今のところ明らかにされていないが、やはり山岳の修行道場を開くと云うこと関係しているのではないかと、筆者は思っている。したがって、我が国の「女人禁制」の観念の本質を読み解くためには、我が国の山岳信仰の古い層に目を向けて考察を加えていかねばならないように思われる。

しかも、「女人禁制」「女人結界」の風習がかほどまでに強く残る地域と云うのは、世界中を探しても、我が国一国であると云われる。他の「仏教国」でほとんど発生していないものが、「仏教」の影響で我が国だけに勃興すると云うのには、やはり論理的な齟齬がある。筆者にはどうしても、我が国の「女人禁制」は、我が国のものの考え方に由来するものとして一次的に発生し、その後、「仏教」勢力などに影響を及ぼしていったものと思えるのである。

そこで、「ハヤマ信仰」と「女人禁制」の関わりについて見てみることとしよう。当代を代表する民俗学者であった「宮田登」は、次のように述べており、その意見は公平に云って、多くの先学にほぼ共通した見解と云えると思う。

女人禁制の観念は、中世以降の宗教社会に顕著なもので、とりわけ山岳宗教の修験道により強いものである。 (中略) 女人禁制を選択したのは修験道であり、それを各地に流布させたが、受け入れる側の地域社会の住民たちの受け止め方にそれぞれの差があったことは当然だろう。

宮田登 (1982) 「ハヤマ籠り 暮らしのなかの神々」
宮田登 (2006) 『はやり神と民衆宗教』吉川弘文館、p. 35
初出・池田弥三郎ら/監 (1982) 『みちのくの神と祈り』小学館

しかし、「山舟生・羽山神社」に限って云えば、「葉山修験」の伝播を語る伝承年代 (元和年間) から、わずか数十年後にこの「女人禁制」の解除、あるいは女性参加のための「里宮」造営が行われていると云うのは、「修験道」によって「女人禁制」の観念が持ち込まれたと云う、従来定説のように云われてきたことと明らかに矛盾するように感じられるのである。

筆者は、上記引用文の最後の「受け入れる側の地域社会の住民たちの受け止め方にそれぞれの差があったことは当然だろう」と云う部分には疑問を感じる。「豊穣性」を 祈る「農耕儀礼」は、産をなす女性によって象徴されたと云う古来の考え方を前提にすれば、そのような「儀式」から女性を締め出すと云う観念がそんなにも広く受け容れられると云うのは想像出来ない。そして、かほどに重要な問題を、単なる地域の選択性へと還元してしまうことの安易さにも違和感を感じざるを得ない。普通は拒絶されて「当然だろう」とさえ思うからである。「女人禁制」と云う、我々から見ると変梃な観念が、一部にでも受け容れられたと云うこと自体が、それ以前から「女人禁制」の考え方が各地にあったことの傍証にすらなると思っている。
そして、このことは「ハヤマ信仰」の本質に関わる深い問題を提起するものだと、筆者は考えているのである。

したがって、我々が今後しなければならないのは、この「女人禁制」の観念のより深層へと分析のメスを入れていくことである。


この点については、
次項以降、もう少し触れていきたいと思う。


c) 「ハヤマ信仰」と「女人禁制」其の一

「ハヤマ信仰」とのつながりで「女人禁制」が語られる時は、しばしば「福島市松川町金沢字宮ノ前」に鎮座する「黒沼神社」の「羽山籠り」が話題にされる。この神事は、「金沢」の男子が旧暦十一月十六日から三日間 (昔は十二日から七日間だった...) 「籠屋」で隔離生活を送るもので、その間は「イロリ」火を絶やさず、水垢離を取り、二日に渡る精進潔斎の生活が行われるのだが、その場に女性は決して立ち入れないのである。そして、十八日の早朝に「お山がけ」となって、「羽山」の山上にて「羽山の神」から翌年の「金沢」のすべて (主に作柄) について託宣を受けるのである。国指定重要無形民俗文化財にもなっているこの神事で、多くの人が最も奇異に思うことの一つに、この「籠屋」での「女人禁制」の生活の中で、男たちは「バッパァ」「オッカァ」「ヨメ」などの家庭内での女性呼称で互いを呼び合い、役割を分担していると云うことであろう (女装はしない) 。

これに対しては、再び「宮田登」の言葉を引くこととしよう。

ここには男であるけれど女の役割を演じようとする意識が潜在的にあるのだろう。一方では女人禁制をいいながら、女でなくてはつとまらない何かがそこには存在している。女性をいったん忌避した儀礼であるが、男が女性化することによって成立たせているのだといえるであろう。

上掲書、p. 36

従来、「金沢」の「羽山籠り」に関してなされてきた多くの説明もまた、この「宮田氏」の見解に同調するものが多いと云えるだろう。しかし、そうであるにも関わらず、この説明は、どう贔屓目に見ても、何かを云っているようでいて何も云っていない文章だと云わざるを得ないのである。何故「女性をいったん忌避」したのかにも触れず、自ら「女でなくてはつとまらない何か」と云ってしまい、その「何を」の部分を欠いたまま「男が女性化することによって成立たせている」と結んでいるのであるから、これではてんで分からない。もちろん、前後に明確な説明はない。敢えて云えば、一頁ほど後に、「大ヨセの儀」と云う男女の性器をかたどった馳走を食する儀礼に触れた後に、「女人禁制をある時期おしすすめて儀礼化したにしても、女性呼称を使ったり、性器崇拝を用いることによって、この祭りの主要素は依然保たれているわけである」と補ってはいるが、分かり難いことに変わりはないし、これでは祭りの本質を逆転させているように感じられてならない。

おそらく「宮田登」が「女でなくてはつとまらない何か」や「この祭りの主要素」と表現しているものは、女性の豊穣性に基づいた類感呪術としての農耕祭儀と云うことなのだろう。これは「宮田氏」が、「物」や「行い」を重視する民俗学の立場から鑑みて、「ハヤマ信仰」を第一義的に「農耕儀礼」とのみ割り切っていることから来る当然の帰結なのだと思われる。しかし、その結果、何故、「農耕儀礼」の「豊穣性」を象徴する側の性である女性が忌避されたのか、と云う問いに対する明確な説明がなされないまま議論が進められてしまうのである。だからこそ氏は、「大ヨセの儀」について述べるに当たり、「一方で精進潔斎を強調しているのだから、考えようによっては不謹慎かも知れない」と見当はずれなことを云ってしまうのだろう。そして、氏の論調からは、「性的儀礼」は「農耕儀礼」には欠かせないものだから、やむなく行われていると云う響きが感じ取れることになってしまうのである。当然、女性呼称で呼び合うのも、同様だと云うことになってしまう。

「宮田」氏は、「金沢」の「羽山籠り」の他にも、各地の男女役が一組になって行われる祭儀の民俗事例を念頭に入れて、それを次のように解釈しているが、ここでもやはり、氏の結論的な考え方は分かるのだけれど、その拠って立つ根拠と云うか、理論的な筋道のようなものが見えてこない。

各地で男女ペアの司祭者が登場する民俗事例には事欠かないのである。その場合、男が扮装して女性の役をつとめるという事例が多くみられている。これは本来女性が果たした役割については、男性神職中心の祭祀体系となった段階でも無視できなかったことの証拠となっているのである。

宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌』人文書院、pp. 104-105

しかし、筆者は、「性的儀礼」はもちろんのこと、この「男性の女性化儀礼」も、何かの象徴的な代替物としては捉えていない。むしろ、そこにこそ「ハヤマ信仰」の本質が隠されていると考えている。だからこそ、「修験道」の影響で「ハヤマ信仰」に「女人禁制」が持ち込まれたと云う定式にも、この後、敢えて挑戦してゆくことになるのである* 。

* 不思議なのは、実は「ハヤマ信仰」に「修験道」が「女人禁制」の観念を持ち込んだと云う考え方に反対する筆者の見解に対しては、筆者の知る限り最も心強い援護は、「宮田登」の述べる「東北地方」の「山伏神楽」を巡る議論から来るのであるが、この件に関しては、また後ほど触れることとする。


3. 小休止

「女人禁制」は決して後付けで発生した観念ではなく、「黒沼神社」の「羽山籠り」に見られる「女性化儀礼」も、「修験道」の影響が特に強く残った地域で付加されたのではなく、むしろ「修験道」以前の祭儀の在り方が運良く「残存」した形なのではないかと理解している。

そして、「ハヤマ信仰」の本質を追究すると云うことは、「農耕祭儀」と云う観念をいったん清算して、さらに伝統を遡って、「岩崎敏夫」が提唱したように、「ハヤマ信仰」のより基層にある「祖霊信仰」へと問題を掘り下げ、その上で両者の接合がいかに行われたのか (正確には「起きたのか」) を見ていかねばならないのである。

したがって、筆者は、ここで一度、話を「羽山神社」の祭神の来歴へと移し、「ハヤマ信仰」の原初的な精神の復元に一歩でも近づいた上で、再び、「女人禁制」と「男性の女性化儀礼」のメカニズムについて触れることにする。


参考文献

a) 主要文献
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
    梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
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梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻・文化・旧町村沿革 各論篇、梁川町

b) 「ハヤマ信仰」関係
・月光善弘 (1961) 「慈恩寺開創と葉山信仰」
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・豊田武 (1962) 「東北中世の修験道とその史料」
 東北大学東北文化研究室/編 (1962) 『東北文化研究室紀要』第四集
・岩崎敏夫 (1963) 「葉山氏神の考察」
 岩崎敏夫 (1963) 『本邦小祠の研究』岩崎博士学位論文出版後援会
・小野寺正人 (1977) 「陸前の山岳信仰とはやま信仰」
 月光善弘/編 (1977) 『東北霊山と修験道』山岳宗教史研究叢書 7、名著出版
・宮田登 (1982) 「ハヤマ籠り 暮らしのなかの神々」
 初出・池田弥三郎ら/監 (1982) 『みちのくの神と祈り』探訪神々のふる里 10、小学館
 参照・宮田登 (2006) 『はやり神と民衆宗教』吉川弘文館
・宮田登 (1989) 「祖霊信仰 東アジア世界と先祖観」
 上原昭一ら (1989) 『古墳からテラへ : 仏教が来た頃』図説日本仏教の世界 1、集英社
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう

c) その他
・宮田登 (1996) 『ケガレの民俗誌』人文書院
・宮崎ふみ子 (2000) 「『富士の美と信仰』再考」
 
『環』第二号、藤原書店
・岡田博 (2002) 「初めて富士山に登った女性」
 
酒井直行/編 (2002) 『図説・富士山百科』別冊歴史読本、新人物往来社


参照サイト
・『福島の山 浪漫紀行』http://alco-inf.hp.infoseek.co.jp/
・『福島の山々』http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/index.htm
・『丸森の巨石伝説』http://zuiunzi.net/igu/index.html





福島県の猫神・羽山神社周りの猫神

.01 2010 北海道・東北地方 comment(4) trackback(0)
「ハヤマ信仰」に関する一試論 1)

羽山神社

伊達市山舟生字手水川

羽山神社・猫神など
「羽山神社」の裏手。
左の石碑が「猫神」碑である。

1. はじめに

「鍛冶屋場」の「薬師瑠璃光如来堂」を発ってから、次の目的地となったのは、実は「羽山神社」ではなかった。順番の上で目指していたのは、字「清水 22番地」の民家隣りの山に祀られた猫像三体だったのである、と、このように書き始めたこと自体、筆者がこの目的地には無事に辿り着けなかったことを告白しているようなものである。そう、悔しいが、その通りなのである。しかし、この「清水地籍」への道は、途中まで「羽山神社」への道と重なるので、まずはその行程を示しながら、話を進めることとしよう。

「薬師瑠璃光如来堂」から、今までの稿にも度々登場している宮城・福島県道101号・丸森梁川線に戻ると、一旦は来た方向 (概ね南) に戻らねばならない。ただし、「山舟生小学校」までは帰らず、その少し手前、「山舟生郵便局」の先、川を渡る直前の丁字路を左へと曲がるのである。この道は、「山舟生川」の支流の「大小川」に沿う形で南下していくのだが、しばらくはこの道のままに走ることになる。

字「坊」の辺りで、道は二手に分かれるが、「清水」へは左の道をとる。「羽山神社」へは右に行けばよい。筆者らは、ここで左の道を辿って「清水 22番地」を目指した。この辺りは、当然ながら、電柱に番地が丁寧に書かれていると云う土地柄ではないので、特定の住所に辿り着くのにはそれなりの苦労があるのだが、筆者らも少しばかり狭い道を行ったり来たりしつつ、何とか目的の住所に着くことは出来た。

ただ、残念なことに、その家にお住まいの方に声をかけると、応対に出てきてくれたお婆さんは、筆者の云う「猫碑」のことも、その周りの石碑や石祠のことも、聞いたことがないと云うのである。これには正直困った。筆者は具体的な住所まで分かっているここの「猫神」には、家の人にお会い出来さえすれば、すんなり対面出来るだろうと、高をくくっていたところがあったから、なお衝撃は大きかったのである。

失礼にならない程度に、再三再四尋ねたのだが、答えはいつも同じだった。最後には隣りの家の人に聞いた方が分かると云うので、必ずしも近くない隣家へと、強い雨の坂道を数百メートル徒歩で上って訪問したのだが、応対してくれた男性はやはり知らないと云う。

筆者が今回とみに参照した「石黒伸一朗」氏の報告「福島県の猫神碑と猫の石像」には、以下のように書かれている。

伊達市梁川町山舟生字清水二二番地、斎藤藤一家の入口、右側の山林斜面にある。ここには、庚    申の石碑や石祠などが一〇基ほどあり、三基の猫の石像は石祠の前に並んでいる。

石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会、p. 58

この「斎藤藤一」さんの名前まで確認出来たのに、当の家人はまったく猫の石碑などには聞き覚えがないと云う。「石黒」氏の調査は、昨年のものだから、時代が経ち過ぎて分からなくなってしまった、と云うのではないことは確かである。

念のために、横の山に入ってもいいかと尋ねても、お婆さんは、何もない、と言い続けるだけだったので、ここの「猫神」との対面は、断念せざるを得なかった。何しろ、家の隣りの小高い丘は、かなり切り立った斜面に三方を守られている形なので、家の人にどこから登れるのか教えてもらえないと、どうにも探索など出来そうになかったのである。その上、昨日から断続的に降る雨で、斜面はすっかりぐずついていたものだから、何度か道路側の斜面から登攀を試みたものの、毎度危なく滑落してしまいそうになるのが関の山だった。

かくして、筆者は「清水の猫神」との対面は諦めて、「羽山神社」へと向かうことになったのである。もちろん、いつの日かの雪辱は期している。

*

今回の記事は、全五回のシリーズになる予定である。その中でも、第一回の今回のみは、概ね「山舟生・羽山神社」と、その境内にある「猫神」碑についての紹介に終始することになる。第五回も、「羽山神社」に隣接する「秋葉神社」の「猫神」碑の紹介記事になると思う。ただし、この第五回の記事は、材料が少ないため、普段よりかなり短くなる見通しである。

第二回から第四回の記事は、「羽山神社」の拠って立つ「ハヤマ信仰」と云う「南東北」に特徴的だが、我が国各地の「祖霊信仰」に通ずる要素を多く含んだ信仰について、思いつくままに拙い考えを開陳した。ここでの議論は、多くの読者にとっては煩雑なだけのものかも知れないが、筆者にとっては一つ「ハヤマ信仰」に限らず、各地の「猫」信仰の古層を読み解いてゆく上で、非常に重要な役割を果たしてゆくものなのである。

そう云った意味では、今回のシリーズ記事は、単に「ハヤマ信仰に関する一試論」であるばかりでなく、今まで断片的にしか述べてこなかった筆者の「猫神」論の序論を為す性質のものともなった。いまだ資料も考察も足りず、至らない面が目立つことと思われるが、平に諸姉諸兄の御寛恕を乞う。

とりあえず、第一回は、「山舟生・羽山神社」へと向かう旅行記の形で開始される。



2. まずは「十王堂」へ

「羽山神社」へは、まずもと来た方向に戻りつつ、「坊」の分岐路まで戻り、ここを左へと曲がって南進を開始することから始まった。もしも、県道101号から直接向かうなら、ここの分岐は右へと曲がることになるのは、既に述べた通りである。

しばらく道なりに走っていると、「日影橋」を過ぎた後、右へと川を渡る分岐が二つ続き、左手に公民館のようなものが現れる。ここらが「内越」の集落で、対岸が「日影」の集落であろうか。「羽山神社」に近い「小沢」の集落は、この隣りのはずであるから、目的地はもう近い。

羽山神社・入口角01
参道の坂、入口

羽山神社・入口角02

石柱と案内板
福島の山 浪漫紀行』「(梁川町)羽山 (1)」より借用
http://park.geocities.jp/tondemo_nine/page1/yanag_hayama1.html

またしばらく走っていると、まばらに民家が現れ、ああ、これが「小沢」集落なんだろうなぁ、などと思っていると、突然道路の左手に、背は高くないが、それなりに立派な石柱が出現し、よく見れば「羽山神社入口」と書かれているのである。横には、「うつくしま百名山 羽山登山道」と記した木製の案内板も立っていた。地図には、こんな道など載っていないものだから、妻に慌ててハンドルを切ってもらい、この坂道に入ってもらった。この時は、急のこともあり、写真を撮る時間がなかったため、上の二枚の写真は『福島の山 浪漫紀行』様のホームページから拝借致しました。ちなみに、ここのサイトは、「福島県」の山々を巡る際には、一度は参照しておきたい秀逸なサイトなので、御興味のある方は是非。

この坂道に沿っては、「小沢」集落の民家が何軒か建っており、これを抜けると、一本坂上の道路との突き当たりに出る。問題は、この突き当たりに出ても、「羽山神社」の影も姿も見えないことなのである。どこをどう見ても、右に曲がるのか左に曲がるのかの案内すら出ていないのだから閉口ものである。せっかく登った坂だから、右折してまた下るのも参道としてはおかしかろうと云う推測に基づいて、筆者は妻に左折してもらった。

羽山の十王尊・社殿

「十王堂」かな...?

左に曲がって百メートルも行かないうちに、森の中に右へと入っていく道が現れ、その道をわずかに入ったところに宝形のお堂が見えた。これはどう見ても、この地域最大のお社である「羽山神社」の「社殿」には見えなかったし、そもそも「鳥居」すら見当たらない。ただ、下調べの段階で、「羽山神社」の手前か近くに、「十王堂」があることは分かっていたから、妻を車に残して、筆者は取り敢えずこのお堂に走って向かった。「十王堂」であれば、この道の先に「羽山神社」があるはずだからである。結果としては、このお堂は本当に「十王堂」であったので、この時点で妻をこの道に呼び入れた。

十王堂
伊達市山舟生字小沢

羽山の十王尊・額

まさしく「十王堂」である。

「十王堂」の左手前には、大きな「庚申碑」があり、「向拝」正面には鰐口が吊られていた。「十王尊」と書かれた額の下の扉は閉ざされていたが、格子部分から中を覗くと、確かに「十王様」たちが行儀良く胡座をかいて二段に並んでいた。ただし、残念なことに、一番有名な「閻魔様」は、幕に遮られて顔は見えない。どの木像も、ほとんど色は剥落しているとは云え、わずかに顔料の跡は残っており、かつては美々しく彩色されていたことを偲ばせていた。

羽山の十王尊・社殿内

道服を着た「十王様」たち

その昔、夕暮れ時の薄闇の中、このお堂を覗いたものたちは、くっきりと彩られた「十王様」たちのおどろおどろしい姿に、きっと強烈な畏怖の気持ちを抱かずにはいられなかったことだろう。子供だったなら、なおそうだったのではなかろうか。

羽山の十王尊・首なし像

扉の足下の首なし仏たち

お賽銭を奉じて、ひとしきり、堂内を観察し終わると、目を扉の外、足下に移したのだが、そこには首のない仏様たちが何体か立てかけられていると云う、一種異様な光景が現出されていた。森の樹々に覆われた日影の中とは云え、まだ日も高く、一瞬の晴れ間をついて所々にわずかだが鮮烈な木漏れ陽が射し、これに照らされた目にも鮮やかな夏の盛りの緑のために、今、目の前に見る景色も不思議に牧歌的な雰囲気に包まれていたが、これが冬枯れした森の斜面に、雪の降り積もった曇りの夕刻にでも見たのであったならば、かなり陰惨な印象を受けていただろうことは、まず間違いない。

この首なしの仏様たちの陳列には、どんな意味合いがあるのか、今も分からずにいる。かつての「廃仏毀釈」の遺産だろうかとも思ったが、そうだとしても、それは仏様たちに首がないことの説明にはなっても、なぜわざわざ扉の下に立てかけられているのかの説明にはならない。何か、呪術的な側面があるものならば、今後とも、是非、詳しくその内容を調査したいものである。もっとも、ただ何となく、なんて云われたら、返ってがっかりしてしまうだろうな。

*

ついでに、「十王信仰」について、軽く触れておこう。

「十王尊」とは、要するに「十人いるあの世の裁判官」のことである。「仏教」では、死の瞬間を「死有」と云い、それから「転生」した次の誕生の瞬間を「生有」と云い、この間を「中有 (または「中陰」) 」と云う。この「中有」は四十九日間とされ、この間、死者の罪業を審査するのが、この「十王」なのである。ちなみに、生まれてから死ぬまでの一生の期間は、「本有」と云われるが、ここではあまり関係ない。

人は死ぬと七の日ごとに順次「十王様」の前に引き出され、生前に悪い事をしていないか調べられる。十人の裁判官と云うのも、より正確に記述すると、「秦公王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王 (泰山府君) ・平等王・都市王・五道転輪王」の「十王」のことである。人がその死後、極楽へ行くのか地獄へ行くのかは、この判官たちの裁判にかかっているのである。

これもより正確にに云うと、死者は、まず初七日に「秦広王」、ニ七日 (十四日目) に「初江王」、三七日 (二十一日目) に「宋帝王」、四七日 (二十八日目) に「五官王」、五七日 (三十五日目) に「閣魔王」、六七日 (四十二日目) に「変成王」と、各王独自の裁判にかけられ、四十九日目の七七日に「泰山王」によって判決が下され、ここで「六道」 (天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界) のいずれかへ行かされるのである。

もっとも、大半の審判は、「閻魔王」の段階で決するそうで、それ以後の審判は敗者復活戦のようなものだとも云う。それでも「地獄界」に落ちてしまった死者には、百箇日めに「平等王」、一周忌に「都市王」、三周忌に「五道転輪王」による再審査が受けられると云うのだから、現世の「三審制度」などを遥かに凌いで、なかなか仏様たちも慎重なのである。

世に一般に行われる法事と云うのは、本来、これらの審査に際して、少しでも死者の罪が軽減されることを願って、遺族が行う追善供養のことなのである。「仏教徒」たちが、本来の仏典類には「法事」のことなど一切記されていないにも関わらず、「三周忌」までは熱心にその法事とやらを行うのも、使者に対する記憶の新しさもさることながら、こんな事情が絡んでいるのである。

「十王信仰」とは、つまり、生前からこの「十王」を祀り、死後は遺族が故人のために、各忌日の前夜に法要を営むことで、死者、引いては自身の罪が少しでも軽くなるよう祈るもので、「鎌倉時代」頃、「中国」からわが国へと伝えられたものと考えられている。「中国」でも「十王信仰」は、台頭しつつあった「道教」勢力が、やや衰微しつつあった大陸の「仏教」勢力に食い込む形で混交され、その呪術的な部分が民衆に受け容れられて普及したと云われる。「十王」たちが、「冠」をつけ、「道服」を着た姿をしているのは、この「中国」での「道教」の影響の名残りなのである。

「鎌倉時代」以降発達した上のような「十王信仰」は、「江戸時代」になると、「本地垂迹」を経て神格を増やすことでさらに高じて、「十三仏信仰」と云う形に派生し、そのために死後の審判も三回ほど増えるのである* 。そして、熱心な仏教徒は、死後の法要を「七回忌」「十三回忌」「三十三回忌」と行なうものも出てきたのである。

* これはあるいは逆で、救済の機会としての年忌を増やすために、神格を増やした、と云うことなのかもしれないが、ここではこの手の議論には深入りしないこととする。

特に、我が国古来の「神道」では、三十三回目の「神霊祭」を以て、死者の霊がそれまでの不安定かつ両義的で、それ故に危険性を孕んだ「荒御霊」から、恩恵を与える安定した「和御霊」へと昇華され、自分たちを守護してくれる「祖霊」へと転ずるとしたため、三十三回目の法要は、「神仏習合」の影響もあって、広く民間に広まっていったと云える* 。これは逆に、一部の「在来仏教」では、三十三回目のお祭りを以て、死者の霊が「祖先神」として一体化すると云う考え方をも生み出したのである。もちろん、地方・宗派によっては、三十三回よりも多くの法事を行う場合もある。

* 以上のことは、一応は「神道」を奉ずる家に育った者としての一般的な常識と考えていたのだが、この稿を書くに当たって改めて調べてみると、三十三回の法要と云うのは、明確に「神道」起源とも云えないようで、「宮田登」など、識者によっては仏教的な死穢観を媒介して、「神道」に敷衍したものだとさえ述べるものもいる。しかし、一方で「法事」と云う概念すら本来は持ち合わさぬ「仏教」は固より、「十王信仰」の発達に多大な影響を与えた「道教」にも「三十三」と云う数字の根拠は見出せない。現段階では不明と云わざるを得ないが、『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」 (『観音経』 ) には、「観世音菩薩」は、普く衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞身」「梵王身」など、三十三の姿に変身すると説いていることに基づいた「三十三観音」信仰と何らかの関連があって形成されたかも知れないとは考えている。しかし、それとて我が国や「中国」でそれぞれ独自に発達した要素も強く、あまり解明への糸口になるかどうかは分からぬ。

したがって、この「十王信仰」と云うのは、それが一種の「祖霊信仰」であると云う点で、「東北地方」に多く見られる「ハヤマ (羽山) 信仰」と、そもそも習合しやすい性質のものだったのである。この「ハヤマ信仰」に関しては、次節以降で、少しだけ触れようと思うのだが、ここまでの理解だけでも、「羽山神社」の入口に位置する「小沢」の「十王堂」が、何故「祖霊信仰」に基づいた社である「羽山神社」の守護の任に当たったと考えられるかは、容易に理解出来るだろう。その上、この「十王堂」は、「羽山神社」の鎮座する字「手水川」の地と「小沢」の地との境に位置しているのだから、一種の「塞の神」として捉えることも可能で、その意味からも神社の守護神としての機能を担っていると考えることが出来るのである。

*

ところで、この「十王堂」は、「梁川町舟生」の「富野」地区にある「昌源寺」の境外堂宇だと云うことも述べておかねばならないだろう。境外堂宇とはあまり聞かない言葉だが、読んで字の如く、その寺院の境内から離れた地にあるお堂のことである。この「十王堂」に関しては、創立の時期など細かいことは何も分かっていないが、「昌源寺」の境外堂宇だと云うからには、本寺の創立を遡ることはないと思われる (まあ、ときにはそう云う例外もあるが...) 。

「昌源寺」は、「霊山」落城後、「北畠顕家」の三女「晶子姫」が、「舟生小館」の地に逃れて、一族を供養する草庵を営んだのが始まりだと伝えられている。その後、慶長三年 (1598) に、「遠江国」から「梁川」入りした「秋葉土佐守」が、この草庵を「小館」から現在地 (梁川町舟生字寺下) に移して、「快山貫益和尚」を迎えて「晶源寺」として「開山」したのが、寺院としての本格的な始動だったと云う。後に、寺号は「昌源寺」に改められた。

創建当時は、「天台宗」だったが、現在は「曹洞宗」となっている。改宗がいつ行われたのかについては、調べがつかなかった。「東北地方」への「曹洞宗」の普及、特に改宗を経ての普及は、「東北」に最も優勢して伝わる「猫檀家」伝説の歴史を理解する上で、避けて通ることは出来ない重要性を有している。そのため、直接関係ないとは云え、「東北地方」の、しかも「猫神」と関わる土地の寺である「昌源寺」の改宗時期に関しては、今後とも是非、調べておきたいものである。

ちなみに、現在の「山舟生」地区には、「小手内観音堂」や「鍛冶屋場の薬師瑠璃光如来堂」などのような、地元の人々によって守られているお堂はいくつかあるけれども、正式な意味での寺院はない。したがって、この地区の人々のほとんどは、上に挙げた「曹洞宗・昌源寺」の檀家だと聞く。しかし、かつての隣村で、今は同一市内だと云っても、「山舟生」から「昌源寺」までは、決して近いとは云えない。何しろ、「昌源寺」と云うのは、筆者が今朝立ち寄った「舟生不動堂」のすぐ北くらいに位置する寺なのだから、ここと行き来するとなると、昔の人は、最低でも片道六キロはある山道を歩かねばならなかったはずである。

いずれにしても、ここの「十王堂」は、「祖霊信仰」と云う点で「羽山神社」とつながることによって、「舟生」の「昌源寺」と「山舟生」の民間信仰を結びつけていると云える。そして、「昌源寺」自体が、本来は「霊山」と「南朝方」の信仰を継承していたにも関わらず、後に「曹洞宗」に転じていると云う点において、「梁川地方」での「天台修験」から「曹洞宗」への仏教勢力の歴史的な推移を体現していると云えるのだから、その寺の境外堂宇としての「十王堂」はまた、この地方における宗教的な位相の推移に潜む真相を読み解くためには、非常に重要な位置を占めているとも云えるのである。

曹洞宗
昌源寺

伊達市梁川町舟生字寺下 21
024-577-3518



3. 「羽山神社」散策

羽山神社・正面入口
「羽山神社」入口

「十王堂」から左右を鬱蒼と茂る森林に覆われた道を登っていくと、間もなく、正面に石鳥居が見えてくる。この「鳥居」が道の入り口から見えていれば、余計な気苦労も、途中で下車することもなく、道を登ってくることも出来たのだが、いまさら悔やんでも致し方はなかった。上の写真の石段の左手、道向こうに五六台分の駐車スペースがあったから、妻は、狭い草むらの空き地に駐めた車を入れ直すために、もう一度坂を降りていった。

羽山神社・鳥居上から
上から参道を見下ろす

ここの神社は、斜面に建てられているだけあって、断続的に続く緩やかな石段が続くのだが、これをしばらく上ってから、ふと後ろを振り返ると、凝縮された空間の中とは云え、みずからの踏み来し道が、いや遠に小さくなっていくのが見えて、妻を求めて後ろを向くたびに、形を変える景色には、その度に目を奪われた。

羽山神社・参道左石碑
「金華山」弘化三年 (1846) と「八幡大神」明治二十七年 (1849)
参道左の石碑

石畳のしっとりした参道を行くと、途中、左側に「金華山」や「八幡大神」の石碑を過ぎ、石灯籠二対ばかりの間を通ると、空間は突如開け、左手の整地の奧に、壁面下部に矢来模様を施した白壁の土蔵が見えてくる。近づいていき、格子戸の隙間から中を覗くと、何やら神輿のような物がしまわれているのかと思わされたが、暗いこともあってはっきりとは分からなかった。

後になって考えたら、ここの神社には、「伊達市」の「無形文化財」指定も受けている祭り囃子があり、勇壮な山車を引き回すお祭りとして知られているのだった。であってみれば、これが「神輿庫」である可能性は低く、おそらくは「山車」などの祭具をしまっているのだろうと思われた。

ここの台地には、「幕田安右ェ門」「八巻七太郎」の業績を称えた昭和三十五年 (1950) 建立の「頌徳碑」もあった。碑文は長いので割愛するが、まだ、我が国に近代的な意味での森林保護の考えがなく、妄りに乱伐採が横行していた「近代」初期に、森林を地域の貴重な公共財と考えて、人々を説得して裸山になりつつあった「羽山」周辺の山々に植林事業を興した先達を讃える内容であった。


羽山神社・神輿庫?
立派な石灯籠と、これは神輿庫か?

そして、この庫造りの建物がある台地の上がり口辺りから、右斜め前方の「拝殿」を望み見る瞬間は、また格別であった。さきほどは、後ろを振り返る話をしたが、その逆もまた比べがたいほどの景色だったのである。下から順次上っていくにつれ、段々になった社地から一つ一つの「社殿」や構造物がその都度顔をのぞかせるように現れるため、参拝していると、美しい景観が刻々と変化して、自然と息を呑む回数が多くなるのである。特に、境内の一枚一枚の台地が、きっちりと積み上げられた荘厳な石垣の上に築かれているため、下から望むと、上の社地はみな石垣の向こうに聳えるように見えるのは圧巻である。「拝殿」に関して云えば、参道右側の杉の古木群さえもが、この見上げたときの景色を演出するために配置されているのかと思われるほどであった。

羽山神社・社殿下から
下から「拝殿」を望む

逆に、こんなことを云っては行けないのだろうが、石垣下から望んだ「拝殿」の
姿があまりに美しかったばかりに、実際にその建物の前に立ったときには、その大きさにこそ感心すれ、あまり見惚れることはなかった。ただ、おそらく雪国だからなのであろうけれど、軒下が広くとられ、かなりがっしりとした造りになっているのには、知らず目を見張った。また、普通の神社の「社殿」では、お参りするために、正面が迫り出すように「向拝」はつくられるのだが、ここの「拝殿」では逆に、礼拝する部分は「コの字」型にへっこんで設計されていた。

はたして、こう云う造りがあるのか、ここ独特の物なのかは分からないが、同じ「信達地方」でも、規模の小さいお堂などでは見られない造りであった。したがって、それぞれのお堂の大きさも影響しているのかも知れなかった。確かに、屋根面積が広ければ広いほど、積雪時に掛かる耐荷重は大きくなるし、また軒端の落雪などによる被害も起りやすい上、一旦起きた場合は、深刻なことになりやすいのだろうとは想像された。この、内側に向かって凸な構造は、そんな地域の気候風土と関係しているのではないかと想像されたが、別段確認したことではない。

羽山神社・拝殿
「拝殿」

「拝殿」の右へと向かい、その裏手へと歩いていくと、その背後が切立った斜面となっており、右手から漸次、その斜面は盛り上がって凹凸のある坂を形成しつつ、背面部の草の覆う崖へと連なっていることに気づくだろう。そして、この傾斜の尾根を伝うかのように、麓から点々と石碑が据えられており、最後に崖部と合する辺りで大きな杉の古木が聳え立っていた。

この辺りの石造物群に関しては、その配置図を書き記すのを忘れてしまったために、正確な位置に関してはうろ覚えになってしまった。しかし、「猿田彦大神」「蚕碑塔」「二十三夜」のうちの一つ、それにもちろん「猫神」碑に関しては、その位置を間違いなく覚えている。

羽山神社・二十三夜塔
「二十三夜塔」

確か、「拝殿」の後ろへと回り込むと、最初に目につくのが、麓にある文化五年 (1808) 紀年銘の「山神」と「二十三夜」の碑だった気がする。

羽山神社・蚕神
「蚕碑塔」

そして、最初の杉の古木の前に、かなりの崩し字で彫られた寛政十一年 (1799) 紀年銘の「湯殿山碑」が左に傾いで立ち、そのやや右手に「蚕碑塔」 (紀年名不明) があったと思う。「湯殿山碑」の左後ろには、赤い火山岩に据えられた石祠があり、その左横に「猿田彦大神」の碑が立っている。

羽山神社・猿田彦
「猿田彦大神」
寛政十二年 (1800)


この「猿田彦大神」の碑は、この日の探訪では珍しい部類に入った。「仏教」における「庚申碑」は、しばしば「神道」における「猿田彦」と等価のものとされるが、ここの境内には、「庚申碑」も「申碑」も
見当たらなかったと思う。少なくとも、目立ってはいなかったはずである。

これは全国的に云えることなのだが、一般的には、ある
地域全体に存在する石造物の総数のうち、圧倒的な多数は「庚申塔」によって占められていることが多い。そして、これは「山舟生」地区にも当てはまることである。このことを考えると、地域一の規模を誇る旧・村社の「羽山神社」境内に、この「猿田彦」碑を除いて、一つも「庚申塔」がないと云うのは奇異な現象だと云えよう。何かしら、背景のあることと思われたが、現在のところ、それを突き止めるまでには至っていない。

羽山神社・猫神など
左手に「猫神」の石碑が...

斜面をもう少し上り、奧手の方の杉の古木まで行くと、右根元に蔦に這われた石碑 (おそらく「二十三夜」) ともう一つの石祠があった。「幕田」氏の報告では、二つの石祠はそれぞれ「若木大権現」と「金毘羅」様だと記されているが、どちらがどっちかは確認し忘れてしまった。氏によれば、「若木大権現」の石祠は、文政元年 (1818) 「金比羅」の石祠は文政四年 (1821) に、それぞれ建てられていると云う。二つの「二十三夜」も、それぞれ明治三十三年 (1900) と昭和十七年 (1942) のものだと記されている。



4. 「猫神」小考

羽山神社・猫神
「猫神」
67×27×13 (cm)

そして、ようやく本命の登場である。

神社の「拝殿・本殿」に向かって右奧の斜面の、なお一番奥手に、筆者の目指す「猫神」碑はあった。地元産の「赤滝石」と呼ばれる赤灰色の「凝灰岩」で造られ、碑面は研磨されているが、残りの面は荒削りのままである。刻字は、碑面中央に「猫神」、両側面に「文政十三年庚」「寅九月吉日」とある。「文政十三年」と云えば、西暦では 1830年である。


高さ七十センチ近いこの石碑は、各地の「猫碑」に比べてもかなり背の高い部類に入り、そのただでさえすっきりと鋭角的な
美しいフォルムに加え、「社殿」横の石碑群の中で最も高く、最も「本殿」中央に寄った位置に配されていること、それに他の石碑からやや離れて単立していることなどが重なり、一目見ただけで屹然とした印象を与えられる。かなりの急斜面に立っているため、写真を撮るために接近するのさえ容易ではない。ましてや、地面が濡れている状態では、踏ん張って長く観察するのは、早々に断念せざるを得なかった。

この「猫神」碑に関しては、
遠くからだと草に埋もれて見え難いが、近づいて丁寧に観察すると、ある一つの事実に気づかされる。それは、碑の下に礎石のような大きな角礫があると云うことである。一瞬、台石ではないかとも疑ったが、それにしては大きいし、第一、台石はその礎石状の石と石碑の間に挟まれてちゃんと存在するのである。すると、一体この石は何のための石なのだろうと云う疑問が湧いてくる。

先に述べておくなら、これに対する明確な解答を筆者は用意していない。しかし、これに関しては、敢えて考えられることとて二つくらいしかなかろうとも
思う。

一つは、一番可能性が低いものだが、元から「猫神」碑のために礎石を斜面に埋めたと云うもの。ただし、「猫神」碑のみを載せるためには、何もかほど大きな礎石を入れずとも、台石程度で十分に足りたと
思われるので、これはあまり有効な推論とは云えない。特に、設置場所が急斜面であることを考慮すると、無駄なことにそれほどまでの手間と労力を割いたとは、余計想像しにくいのである。もっとも、仮にそうだったとしても、それならそれで、「猫神」は相当に大切な神様だったと云うことになり、筆者はそれはそれで良い。まさに「猫によければ全てよし」である。

二つ目は、この礎石が元々、別の目的のために築かれたものだと云う考えである。そして、この場合は、さらに二通りの考えに分けて推論することになる。第一のものは、最初に「猫神」碑ではない、何か別の祭祀物のために礎石が置かれたのだが、その祭祀物がなくなった後、その空いた場所に「猫神」碑が建てられたと云うもの。ただ、そうであるためには礎石状の石の奥行きがいかんせん足りない気がしてならない。あれでは小さな石祠でさえ載せるのは難しいかも知れないのである。それでは、祠ではなく、石碑だったのでないか、と考える向きもあろうが、それだと第一の推論に戻って、可能性は低くなってしまうのである。

それに加えて、「猫神」碑の位置と云うのが、単に急斜面の上にあると云うだけでなく、その斜面が「本殿」のほぼ真裏に当たると云うことも考慮しておかねばならないだろう。由緒ある神社で、「本殿」の真裏に雑多な神々を祀っていると云う例を筆者は寡聞にして知らない。そう考えると、何か別の祠があったのではないかと云う推測は、やはり、あまり蓋然性は高くなさそうである。

二つ目の推論の第二の考え方は、実はこの礎石状の石は、本来的な意味では祭祀物とは無関係な、別の構造物の残滓かも知れないと云うものである。そして、筆者はどちらかと云うと、この視点こそ一考に値すると思ったのである。

この考えの最も分かりやすい例としては、
石垣などが挙げられる。「本殿」裏の土手に当たるここの斜面は、石垣が築かれていたとしてもおかしくない地形をしているのだが、普通石垣の遺構と云うものは、基部の方が多く残るものであるから、この中途半端な位置に、一つ二つ石が残されているのはいかにも不自然である。

しかし、祭祀跡でも石垣の遺構でもないならば、一体、礎石状の石の正体として、他に何が考えられるだろうか。そこで、筆者は発想を変えることにしてみた。要するに、何があったか、と云う過去の特殊な状態に直接遡ろうとする推論ではなく、何ならあってもおかしくないか、と云う一般的な仮定から出発して順次、可能性をつぶしていこうと云うことである。

既に少し述べたことだが、「本殿」の真裏、それも「本殿」の立つ土地より高い位置に設けられるものなど、それこそかなり数が限られるのである。いや、普通に考えれば、人の手で「設けられる」ものなど、原則としては一つも存在しないはずなのである。そもそも「本殿」の裏と云えば、岩や湧水、滝などの崇拝の対象となりうる自然物以外、おいそれとあるものではない* 。そして、その自然物も、通常はその神社の信仰と何かしら関係があるものである。

* 時折、神社が「古代」の古墳の上にそのまま建てられていることがあるのは周知の事実だが、古墳の一部が掘削整地されたところに社が建てられ、背面に石室の一部が露出しているなんてこともあるのだろうか。「拝殿」の後ろが直接古墳の石室につながっていて、そこが「本殿」扱いされていると云う神社の話は聞いたことがある。また、「社殿」の真下が石室になっていて、そこを見学出来る神社なら参拝したことがあるのだが...。

さて、この原則を「羽山神社・本殿」とその裏にある「猫神」碑に当てはめるとどうなるだろうか。大岩や滝などがない以上、可能性は湧水などに絞られてくるのである。そこで、「社殿」横の土手に建ち並ぶ石碑群の配置とその地形をもう一度概観すると、それが斜面の形成する小さな縁にほぼ沿って、流れるように上から下へと設置されていることが分かる。もちろん、斜面なのだから、初めからある程度はそのような構成になる必然性を孕んでいる訳なのだが、それでも、斜面の中腹などにかたまって建てられている場合の方が、経験上、多い気がするのである。

羽山神社・蚕神など
画面の左端に見えるのが「猫神」碑
下へと続く沢筋が見えるだろうか...


さらに丁寧に石碑群のある地形を観察すると、「猫神」碑から斜面の麓に向かって、草や落ち葉などに埋もれてはいるが、所々うねりながらも、左右が角度の広いV字に迫った沢筋のような痕跡が見えるのである。もしかしたら、かつてここに湧水があったか、あるいは季節的に湧水があったかしたのではないかと強く疑われる地形なのである。後になって思い出してみると、「社殿」脇にも、水を集めるための小さな溝が掘られていたような気がするのだが、これは写真にも収めていなかったので、確認するのは次回の訪問時以降と云うことになりそうである。

羽山神社・猫神下02
「猫神」碑の真下の拡大画像

ここまで来ると、諸姉諸兄は、筆者がどこに話を導きたいか、およそお見通しなのではあるまいか。そう、例の礎石状の石は、かつてそこに存在した湧水口を補強する石組みの一部とも解釈出来るのである、とまあ、こんなことを主張したかったのである。神社の立つ字「手水川」と云う地名もまた、現在は「水神」との直接的な関係を窺わせる形跡のない「羽山神社」にあって、往古は水と関係があったのではないかと疑わせる傍証程度にはなるであろう。また、これも自宅に帰ってから写真を整理していて気づいたことなのだが、「猫神」碑の下の石は、その右側で大きな矩形の穴を形づくっているようでもあった。そうであれば、いよいよ湧水口である可能性は高まるのだが、これもまた、次回訪問時に確認しなければならないことだろう。

それにしても、もし仮に「猫神」碑の下の礎石状の石が、かつて存在した湧水口の遺構だとしても、そこに何故「猫神」が祀られているのか、と云う問いの答えになったとは云えない。しかし、一方で、「本殿」の真裏と云う位置を考えると、何らかの必然性がなければ、その場所に決して祀られはしなかっただろうことも、ある程度の確かさをもって云えるだろう。

筆者が以前から (小出しに) 云っていることだが、「猫神」信仰の「猫」は、その古い層において、「渦」と関わる形で「水神」ひいては「風雷神」としての性格を持つものと思われる。この場合の「渦」とはおそらく根源的な「変成力」を表し、ある状態から別の状態への推移や変相を表象する両性的な混沌と考えられるのである。究極的には渦は、二つの世界をつなぐか、あるいは一方の世界を他方の世界へと吸引する相互力として見なされるのである。この事実と、「あの世」の象徴としての「水界」と云うイメージを組み合わせると、「水神」としての「猫」は、「あの世」と「この世」の不安定な閾に存在する一種の「綴じ目」としての役割を果たしていることになるのではないかと、筆者は強く疑った次第である。



5. 小休止

今回の記事の「猫神」碑を巡る観察に関しては、やや自説に有利に解釈した観は否めない。実際には礎石状の石は、石垣の遺構である可能性もあるだろうし、「猫神」の位置にしても、後世の人が何となくあの場所に据えただけかも知れない。また、湧水口だからこそ「猫神」がいると云う論法は、シリーズ第五回の記事で触れる「秋葉神社」の「猫神」碑が湧き水とは関係ない場所に立っていることなど、不利な材料もある。ただ、「猫神」の「水神」としての性格は、わずかな残滓として、各地に痕跡を残しているのみなので、筆者とて、現存する「猫神」がすべて直接「水」に連結するものとは唱えていない。

いずれにせよ、まだ検証の十分に足りない自説を引き合いに出して論ずるのは、我田引水の誹りを免れ得まいが、それでもなお、「本殿」の真裏に近い場所に「猫神」の石碑が祀られていることの合理的な説明としては、ある程度以上に有効な仮説を提示しうるものと考えている。さらに云えば、今回、「羽山神社」の「猫神」碑を観察するに当たって、「ハヤマ (羽山) 信仰」と「猫」との接点を新たに感じたのだが、この点に関しては、次回記事以降に記していきたいと思う。

ただし、ここから先は、かなり冗長な議論になるので、純粋に紀行として読みたいと云う方は、シリーズ第五回「『
秋葉神社』と『猫神』碑」の紹介の記事まで、しばし待たれたい。


参考文献

a) 主要文献
・幕田昌司 (1979) 「石造物からみた山舟生村の交通路と信仰」
   
梁川町郷土史研究会/編『梁川町史資料』第九集、梁川町教育委員会
・石黒伸一朗 (2009) 「福島県の猫神碑と猫の石像」
 
『東北民俗』第四十三輯、東北民俗の会

梁川町史編纂委員会/編 (1994) 『梁川町史』第十巻・文化・旧町村沿革 各論篇、梁川町

b) 「十王信仰」関係
・窪徳忠 (1996) 『道教の神々』講談社学術文庫
・田中文雄 (2001) 「十王経」
 増尾伸一郎/編 (2001) 『道教の経典を読む』あじあブックス、大修館書店
・二階堂善弘 (2002) 『中国の神様―神仙人気者列伝』平凡社新書
・田中文雄 (2003) 「道教の『十王経』とその儀礼」
 
福井文雅/編 (2003) 『東方学の新視点』五曜書房
・田中文雄 (2004) 「閻魔と十王 地獄の裁判官たち」
 野口鐵郎・田中文雄/編 (2004) 『道教の神々と祭り』大修館書店
・鈴木あゆみ (2006) 「仏教と道教の十王信仰」
 
『比較思想研究』第三十三号・別冊、比較思想学会

c) 「ハヤマ信仰」関係

・宮田登 (1989) 「祖霊信仰 東アジア世界と先祖観」
 上原昭一ら (1989) 『古墳からテラへ : 仏教が来た頃』図説日本仏教の世界 1、集英社
・岩崎敏夫 (1996) 「はやま信仰」
 国学院大学院友学術振興会/編 (1996) 『新国学の諸相』おうふう



参照サイト
・『福島の山 浪漫紀行』http://alco-inf.hp.infoseek.co.jp/
『福島の山々』http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/index.htm
・『丸森の巨石伝説』http://zuiunzi.net/igu/index.html



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