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栃木県の猫神・所野磐裂神社の猫像

.05 2010 関東地方 comment(0) trackback(0)
栃木の猫神を求めて 1)

所野

磐裂神社

日光市所野 814
日光市観光協会
0288‐54‐2496
例大祭 八月十七日 



1. はじめに

今回の記事は、完全な旅行記となってしまった。途中、あれこれと御託を書き連ねることに何の変わりもないが、とにかくこのことは御断りしておきたかったのである。一日で、「栃木県」の目ぼしい「猫神」を訪ね回ろうと云う、良く云えば野心的で、悪く云えば無謀なひと日の旅の行程を追うように、今回の記事は成り立っている。あまりにも主題からかけ離れた訪問先の話は省いたが、今回は、「猫」に絡めば、どんな些細なことも記すこととした。御高覧いただくと云うよりは、御笑読いただかねばならぬ箇所も幾多あろうことを、ここで先に御侘びし、御寛恕のほどを乞うものである。

ちなみに、今回のシリーズは、全五回になる予定である。



2. 旅の始まりと筆者の「日光」嫌い

旅路の出だしは、国道14号から首都高速を経て、東北自動車道に入るばかりである。「都賀西方PA」でいったんトイレ休憩をとった後は、「宇都宮インター」を降りて、宇都宮日光道路に乗り換え、「日光インター」まで走れば、もう「日光」のお膝元である。

初めに云っておきたいのは、本日の「栃木」行きは、「日光」地域にまず出かけるが、「日光」の有名どころに立ち寄る気はさらさらないと云うことである。何故なら、「日光」と云うのは、筆者にとって、観光地としては最悪の部類に属するからである。あまり物事を決めつけて断ずるのはよくもないし、好きでもないが、こればかりは根拠があり過ぎて、ある程度断定せざるを得ないのである。何しろ、「日光」と云うのは、まるで「地獄の沙汰も金次第」を地で行くかの如く、どこへ行っても「お金、お金」なのである。しかも、それをやっているのが商人なら当たり前だから、商品やサービスの質さえ保ってくれていれば文句はないのだが、ここでは僧侶とか神官と名乗る人々が、慇懃無礼にふんぞり返りつつ、どこのがめつい守銭奴とて真似出来ぬほどの亡者ぶりをさらして、一向恥じぬのである。生ける「我利我利亡者」を見たくば「日光」までござれ、である。

*

「日光」の有名な寺社に行くと、ふと脳裏をよぎることがある。

バブル経済華やかなりし頃、俗に「渋谷商法」だとか「六本木商法」だとか揶揄された強引な売りつけ商売があった。ツアーとかパーティとかで、参加者がみんな盛り上がっている中、コンダクターのような人が、高級ブランド品やら宝飾品を特別価格で売ってくれる会員制の店を知っているが、自分の名刺を持っていけば限定期間だけ入れてもらえるように取り計らったと、さも善意からであるかのように話しかけては、早い者勝ちで名刺を配るのである。

そして、その名刺を持って、指定された場所に行くと、たいがいは裏通りの普通のマンションとかの何階かに、看板も出さずに営業している部屋に辿り着く。注意深く見ていると、エレベーターホールなどに、それとなく関係者らしき男たちがいたりするが、これは後にならないと気づきにくい。要するに、案内などしないのだから、実際には見張り役のようなものなのである。帰る客と、新たに来た客とかが、エレベーター前で話をしないように見ているのである。

部屋に入ると、客一人につき、必ず一人の黒服まがいの販売員が張り付き、案内と称して、付きっきりで商品を薦めてくる。値段は決して安くない。本物は高いものだし、一生の買い物になるから、など陳腐な言葉を並べる。商品は、たいていガラスケースなどに鍵を閉めて厳かに展示されているのだが、必ずおもむろに鍵を開けては、客の女性に身につけさせたり、持たせたりする。遠慮したりしても、かなり強引につけられてしまう。華やいだ気持ちにさせると同時に、断りにくくするのが目的なのだろう。支払いは、分割も出来るし、ローンもすぐ組めると持ちかけてくるのである。もちろん、現金払いの割引はある。

何人で行っても、必ず一人ずつに孤立させられるのである。時折、派手な成約の拍手などが上がり、部屋の熱気を盛り上げる。もちろん、断ったからと云って恐いお兄さんが出てきたりはしない。それではただの犯罪である。ただ、調子に乗りやすい人は調子に乗せて勢いで買わせ、気の小さい人は精神的に逃げ場がないように追いつめて買わせる、と云った商法であった。その場は気持ちよく買った人達も、後になってみると、必要でもない高級品 (しかも往々にして偽物) を大枚はたいて買わされた事実に呆然とするだけである。

そんなのクーリング・オフすればいいと思っても、ここに誘い文句の「期間限定」の二重のからくりがあるのである。結局、手続をとった時には、もうとっくにどろんしているのである。何しろ、もともと実体のない店舗なのだから、素人には追跡が不可能なのである。不動産も週単位のレンタルになっていたりする上、又貸しを繰り返しているのが常である。もちろん、本当は知合いでぐるぐるまわしているだけだったりするのだが、それも法律的には「善意の第三者」になるのである。

しかし、そんなことをも物ともせず、追及し続けても、最後はダミー会社にたどりつくだけである。大抵は、町中で派手に遊んでいたどこかのぼんくら道楽息子を、「六本木やくざ」などと一時呼ばれていた若い連中がおだて上げて、起業だのなんだのって云って、そのダミー会社の代表取締役などに祭り上げて、操り人形兼捨て駒として用意しておくのである。何かあったとしても、こいつだけが目出たく逮捕、と云う仕組みになっているばかりである。

*

「日光」の寺社と云うのは、拝観料をばっちりとった上で、案内がつきまとって、何かことあるごとにお金を請求してくるのである。しかも、前もって説明した上でではなく、こちらがあることをお願いすると、その後になって当然のように請求されるのである。加えて、この地では、バスで大挙してやってくるマナーの悪い団体客ばかりが厚遇されるのである。まあ、一遍に多くの参拝料が手に入る団体客は、寺社の側からしたらまさに「カモ」なのだろう。坊主や神官たちが口々に「濡れ手に粟、濡れ手に粟」とぶつぶつ唱えているのが聞こえてきそうである。

さて、筆者が「中禅寺」で実際に目撃した出来事を紹介しよう。

「坂東三十三観音」巡りで訪れた初老の男性が、「本尊」を拝むことも出来ずに御堂の外壁から読経をさせられた挙げ句、写経した「般若心経」を納めようとすると、団体客に御機嫌を使って御守り類を売りつけることに執心していた寺僧が、面倒くさそうな事務口調と表情で、「本堂」に納経の場所があるから戻るようにと伝えていた。少し嫌な予感がした筆者は、滅多に出さない野次馬根性を出して、後ろからついていくと、納経所では、翌朝住職が祈祷をしてから納めるので、祈祷料五百円を払うように、と云っていた。もちろん、雲の上にまします日光のお住職さまが、顔の半分たりとも参拝者に見せることはない。男性は明らかに躊躇った様子を示していたが、すぐに支払いをして、まるで恥を掻かせられた少年のように、口をきっと結んだ顔をうつむけて去っていった。

お金をここで請求するのは、巡礼のルールからすると非常識なのかどうかは知らぬが、筆者の知っている限り、異例ではある。であるならば、何故「本堂に行け」と云った寺僧は、男性に五百円かかると云うことを伝えなかったのか。うっかり忘れた訳ではないのは、多くの体験者の話を聞けば分かるはずである。「日光」の坊主は、断りにくいタイミングで金の話を切り出す練習を積んでいるのではないかと、疑ってしまうほどなのだから...。

文化財の保存には、金がかかる。これは理解出来る。だから、拝観料を取ることも必ずしも反対はしない、いや、むしろ賛成である。しかし、である。仮に拝観料が五百円で、納経が五百円で、強引に売りつけられるお守りなどが千円くらいだとして、貧乏人は、いったいどれくらいの寺社を回れると云うのだろうか。しかも、たいていの寺社が、特別な庭園や御堂などに入る時には別料金を要求してくるのである。その上、大きな寺社は、案内と称して、図書館で調べれば分かるような浅薄な解説を頭の悪そうな坊主がまくしたてるのを聞きつつ、客の回転をよくするために、やたらと急がされて拝観するのである。しかも、途中でやたらと物を売りたがる。

質問をしても、難しいことは何も分からないし、それならば誰か分かる人を、と云う姿勢すらない。一度などは、他の皆さんの迷惑になるからとまで云われた。他の機会には、祈祷の後ならとも云われた。当然、その祈祷も最低二千円から受けつけているのである。質問付きだといくらになるのか、聞いてやりゃよかった。

全国各地には、自治体からの補助金ももらえず、当然、無名であるが故に拝観料などどのみち期待出来ないまま、地域の人々によって、大切に守られている文化財もある。確かに、国宝級のものはないかもしれぬが (それでも時々世紀の発見などがある) 、文化財とはガラスケースに仕舞ってお金を請求すればすなわち文化財なりと云うわけではあるまい。有名寺社は、文化財保護がただの拝金主義につながったり、「宝の持ち腐れ」にならぬよう、自戒して振る舞ってほしいものである。

ついでに付記するならば、「日光」地区にだって、このようなささやかな祭祀の場は無数にあったし、いまでも少なからぬ数が生き延びているのである。そして、そういう小さな堂社が常に下らぬ文化財しか保有していないかと云うとそうでもないのである (もっとも民俗文化財に価値的な高下があるとは筆者は思わないのだが...) 。

この記事の他の箇所でも記すが、「日光市」の「小杉放庵記念日光美術館」には、二体の非常に珍しい「円空仏」かあるのだが、これらなどはほとんど辻堂と変わらぬような「野口薬師堂」と「所野滝尾神社」で発見されたものである。しかし、「円空仏」は、いわゆる主流の仏師たちが有力者たちのためにつくった豪華絢爛あるいは写実的な仏像とは異なり、いわゆる一刀彫の素朴な民間仏であることは広く知られているところであろう。

「戦後」の「民芸」ブームに乗って、突然もてはやされた「円空仏」だが、もしも、それらの作品に本当に何らかの価値があるとするならば、それは美術史家たちの空疎な賛辞にあるのではなく、それら個々の作品の背後に染み込んでいる、大寺社の信心とは異なった、民間の素朴な信仰の伝統や歴史が沈殿し、人と時が醸成した無形の綾にあるはずである。いまとなっては盗難の恐れがあるため、小さな祠堂に納めておけないのはやむを得ないが、ガラスケースに入れさえすれば芸術品と思い、それを見るには金を払う、と云った発想は、その出発点で「円空」の理念とは大いに袂を分かっている気がしてならない。

それにしても、なぜ、より信仰心があり、より困窮している寺社を支えている人々は感謝の思いを込めて喜捨を受け取り、潤っている大寺院は偉そうに払えと云うのだろうか。がめつい商売しているのだから、せめて嬉しい顔して拝み取ってほしいものである。参拝者諸兄よ、よくよく刮目して、「泥棒に追い銭」にならぬよう、事態を判断せられよ。

筆者にとって、信仰と云うのは、宗教や教義、あるいは御利益とさえもまったく無縁なもので、単に敬虔な心のあり方を示すものである。おのれよりも大きなもの、おのれよりも長久なるものを前に怖れ畏み、その故におのれより小さいもの、長久ならざるものに対し、しみじみとした感慨と愛情を通わせること、このことに尽きる。そして、現在の我が国の大寺社には、このような精神が微塵も感じられぬのである。

筆者が、「京都」や「奈良」、そしてとりわけ「日光」において、やむを得ぬ目的がない限り、大きな寺社に行きたがらぬのは、このような理由によるのである。

*

あっ、でも、「日光」の町はいい町ですよ、念のため。
水も空気も綺麗だし、食べ物は美味しいし、人は雅びていて大らかだし、その点に関しては言うことなし。



3. 「所野・磐裂神社」の猫神

a) 「所野・磐裂神社」へ

「日光インターチェンジ」を降りて、左折して市道へ入るところから、この日の本格的な探訪は開始された。すぐに「志度淵川」と云う小さな川を渡り、左に「セブンイレブン」、右に「エネオス」を見ながら前進する。右に「ダイソー」を過ごし、「日光インターチェンジ入口西」に至ると、この信号から、道の名前は県道14号・鹿沼日光線に変わる。

道の両側には観光用の案内板が方々に掲げられ、月並みな観光施設の案内以外では、漆器店などの看板が目立っていた。三つ目の信号を右に曲がると「東武日光駅」の前に出るのだが、この信号を左折して、国道119号・日本ロマンチック街道に出なければならない。しかし、これもほんのつかの間で、直後の「松原町」で右折、今度は、県道169号・栗山日光線に入るのである。

「日光警察署」を右、「日光竹博物館」を左に通過しつつ、「霧降大橋」で「大谷川」、次いで「鳴沢」を渡る。そして、北詰の「霧降大橋」の信号で右折して、県道247号・日光今市線へと入るのである。「東武バス」の大きな営業所を左に過ぎつつ、「丸見川」を越える。すると、左手向こうに「所野第一発電所」の施設が見え始めるのだが、その発電所よりやや手前、右に「大谷川」を渡る「みどり橋」が見える、その道路を挟んだ反対側くらいに、かなり急な石段が斜面を登っていくのが目に入る。この地域の洪水除けの神様だった「竹ノ鼻地蔵尊」への参道である。

しかし、この辺りで「霧降大橋」を曲がってから最初の信号が現れるのだが、ルートとしてはここを左に入らねばならないので、実際には悠長に窓の外の石段などを眺めていると、うっかり行き過ぎてしまうかも知れない。くれぐれも注意することをお勧めしたい。

左折後、正面には分岐があり、左への道はどう見ても一方通行のような狭さなのだが、「所野小学校」はこっちへ進めと云う看板まであり、一方通行の標識もない。一瞬の躊躇いの後、思い切って、この狭い路地に進入した。ここの進入口が小さな坂になっているのだが、ここを越える時、実はわれらは発電所からの放水路を越えていることになるのである。入った道は、対向車が来たら大ピンチの狭さである。

途中、「谷田貝電気工事店」のある本当に小さな四つ辻があるが、これは通過し、その次の四つ辻を左折しなければならない。小学校の案内が出ているのでこれを目印にするとよいだろう。二百メートルも行くと、右に「所野小学校」、正面に「磐裂神社」が鎮座する台地が見えてくる。駐車スペースはないので、ガードレールの際の路側がやや広がっているのを利用して、そこに駐車。ハザードを焚いて素早く参拝へと向かった。

* 実際には、神社の正面を横切って右手を登っていく脇参道の坂があり、その上に若干の駐車スペースがある。ただ、どの道も大変狭いので、大きな車での行き来は薦められない。


b) 「磐裂神社」私考


「磐裂神社」と云うのは、全国的に見ると、かなり珍しい神社と云えるかも知れない。少なくとも「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と云うほどにはないだろう。しかし、「栃木県日光市」の南部から「鹿沼市」「下都賀郡」にかけての地方では、決して稀な社ではなく、むしろ、県下に関連する社が二百前後ある、かなり有力な神様なのである。数に関しては、三百五十社近いと云う人もいるようである。

この神社の発祥は古く、「日光」を開いた「勝道上人」の時代まで遡る。上人が、後に「日光」を開くことになる契機となったのは、七歳のとき夢の中で「仏道に励んで日光を開け」と云う「明星天子」のお告げを受けたことと伝えられているが、各地の「磐裂神社」の社伝や口碑などによれば、この際、上人が最初に祀った神社が「盤裂神社」なのだと云うことになる。

「栃木県壬生町」の「磐裂根裂神社」の社頭説明板には、この神社創始の時期と経緯が丁寧に記載されていたのでここに一部引く。別に「壬生町」の「磐裂根裂神社」であることに特別な意味はない。ただ、たまたま都合のよい社頭掲示をしており、それをたまたま筆者が知っていただけである。

(前略)
天平十三年 (741) 日光開山の勝道上人は、日光男体山山頂をきわめたのは、「ひとえに、天地 の神明をまつりたるは、磐裂神等の神勅によるものなり、汝等および我が子孫たるものは、常に磐裂、根裂神を尊崇して、必ず神恩を忘失すべからず」とさとされた当神社の神様です。
(後略)
現地説明板より

「勝道上人」が、実際に「日光」を開くのは、歴史的には天平神護二年 (766) 三月以降のこととされるが、「磐裂神社」の伝えの中には、「日光」全体の信仰圏にあって、みずからの信仰の由緒の正しさとその起源的な古さを誇示しようとする意図が汲み取れる。史実として、「日光」における寺社創設の時代的な前後関係を明らかにするのは無理かも知れぬが、『古事記』において、「伊耶那岐」の剣から「磐裂神・根裂神」が化生したと記され、その後に禊をして「天照大神」が化生したとされていることからも、これらの神が我が国の皇祖神へともつながる、非常に古い神格であることが理解される。

また、後に「徳川家」によって「日光」が「家康」の祖廟として再興・整備された時にも、「磐裂神」は、「東照宮」の工事に携わった職人達から土地神として強い崇拝を受けていた形跡が色濃く残されている。これら職人達の子孫が後に住み着いたことから町名のついた「大工町」と「板挽町」は、昭和四十四年 (1969) に合併して「匠町」となったが、ここでは、氏神として、「磐裂神社」が長く崇敬され、現在も手厚く祀られているのである。「神道」の儀式一般が、簡略化され、かつ忘却されつつある現代にあっても、「地鎮祭」など、土木建設関係のお祭りは根強く残されているのを見ても、「東照宮」建設に当たった職人達が、土地神としての「磐裂神」をいかに恐れ畏んでいたかと云うことが見て取れる。そして、その信仰が維持されたことからも、その神の土地神としての性格と、その信仰の強さや古さが物語られてはいないだろうか。そして、これらの事実を考え合わせると、「磐裂神社」が自らの創設伝説にあって「日光開山」に先立つ時期を伝えていることを、一概に無視する訳にも行かない気がするのである。

いずれにせよ、無視出来ぬ古い時代に興ったと思われる「磐裂・根裂」の信仰は、おそらくは「栃木県」の旧「日光市」に始まり、旧「今市」へとその信仰圏を広げ、やがて「行川」や「思川」の流域に沿って「鹿沼市」そして「下都賀郡」の諸地域 (壬生町、藤岡町、都賀町) にまで及ぶこととなったと考えられるのである。

*

「磐裂神社」が、土地の古い土着神らしいと云うことを整理したところで、ではこの神社が祀る神とは一体いかなる神格なのか、と云う問いが浮上する。

『日本神名辞典』 (神社新報社、1994) では、「磐裂神社」の祭神は、「石拆神 いわさくのかみ」「根拆神 ねさくのかみ 」と記されている。より一般的には、「磐裂神」「根裂神」とも表記される二柱の (夫婦? ) 神のことである。この表記の違いは、主に『記紀』の記述の違いによるものと思われる。『古事記』では「石析神・根析神」、『日本書紀』では「磐裂神・根裂神」と記されるからである。以下に、その両書の該当部分を掲げることとする。

是に伊邪那岐命、御佩 はか せる十拳剣 とつかのつるぎ を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまひき。爾に其の御刀 みはかし の前に著ける血、湯津石村に走 たばし り就きて、成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。 三神 次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。 布都の二字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。 亦の名は豊布都神。 三神 次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏 き出でて、成れる神の名は、 漏を訓みて久伎と云ふ。 闇淤加美神淤より以下の三字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。 次に闇御津羽神
上の件の石拆神以下、闇御津羽神以前、并せて八神は、御刀に因りて生れる神なり。
(太字筆者)
倉野憲司・武田祐吉/校注 (1958) 「上巻」『古事記・祝詞』
日本古典文学体系 1、岩波書店、pp. 61-63

一書に曰はく、伊弉諾尊、剣を抜きて軻遇突智を斬りて、三段 みきだ に為す。其の一段 ひときだ は是雷神と為る。一段は是大山祇神と為る。一段は高龗 たかおかみ と為る。又曰はく、軻遇突智を斬る時に、其の血激越 そそ きて、天八十河中に所在 る五百箇磐石 いほついはむら を染む。因りて化成 る神を、号 なづ けて磐裂神と曰
す。次に根裂神、児磐筒男神。次に磐筒女神、経津主神。倉稲魂、此をば宇介能美拕磨と云ふ。 (太字筆者)

坂本・家永ら/校注 (1967) 「神代上」第五段一書・第七『日本書紀』
日本古典文学体系 67、岩波書店、p. 96

「磐裂・根裂」の神名について、古典文学体系本『古事記』の注では、「石拆神」を「岩石を裂くほどの威力のある神 (雷神) 」、「根拆神」を「木の根を裂くほどの威力のある神 (雷神) 」 (『記』p. 62) とし、同じく古典文学体系本『日本書紀』の注では、「磐裂神」を「雷神が岩を裂くによる命名」とし、「根裂神」を「雷が木の根を裂くによる命名」としており (『紀』p. 92) 、これらの神の基本的な神格を「雷神」と見なしていることは共通している。

しかし、それでは何故、「勝道上人」にお告げを与えたのは「明星天子」だったのに、上人は「磐裂神」を祀ったのか。「明星天子」と云うのは「雷神」なのか、と云う疑問が湧いてくる。

ここで興味深いのは、「磐裂神社」の祭神に関して、地元では一般に「雷神」としてよりは、「星を司る神」として受け入れられていると云う事実がある。そして、「星の神」と考えれば、「明星天子」との神格が重なるのは、難なく理解されるのである。この辺りの消息を「田代善吉」はその『栃木県史』の中の「磐裂神社」の記事において、わずか数行だが端的に描いている。

上都賀郡日光町大字日光字星宮に鎮座せり、祭神は磐裂神である。本社は勝道上人が、日光開山の時に、上人が自ら一刀三禮を以て彫刻した星宮の尊像を鎮祭したものである。

田代善吉 (1934) 「磐裂神社」
『栃木県史 第三巻 神社編』下野史談会、p. 334

また、『いまいち市史』の中にも、次のような記述がある。

磐裂神社は磐裂神・根裂神を祭神とし、本地仏を虚空蔵菩薩としている。勝道上人の日光登山の成功は、盤裂神の助けによるものといわれ、この神社圏は日光に始まり、今市の行川流域を通って鹿沼に及んでいる。

今市市史編纂委員会/編 (1982) 「磐裂神社・星宮神社」
『いまいち市史 通史編?』今市市、p. 480

「仏教」の俗説においては、天空の「日月星」は、それぞれ「観音菩薩」「勢至菩薩」「虚空蔵菩薩」に対応するものと考えられ、特に「明星」を以て「虚空蔵菩薩」の化身とする伝統がある。このような考えは、若き日の「空海」 (宗門では推定十九歳) が、「室戸岬」近くの洞窟 (御厨人窟 みくろど ) にて「虚空蔵求聞持法」を修していた際、明け方に明星が自身に向かって飛来して、胎内に入ると云う神秘体験を通して、悟りへと至ったと云う逸話にも強く反映されている。

ここ に一の沙門あり。余に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、若し人、法によってこの真言一百万遍を誦すれば、即ち一切の教法の文義暗記することを得。焉に、大聖の誠言を信じて、飛燄を鑽燧に望む。阿国大滝嶽に躋 のぼ り攀 ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷、響を惜しまず、明星来影す。 (書き下し、筆者)

渡邊照宏・宮坂宥勝/校注、 岩波書店 (1971)『三教指帰・性霊集』
日本古典文学体系 71、岩波書店、p. 85

「磐裂神社」も、過去には同じ「北極星」信仰を背景とする「妙見菩薩」や「虚空蔵菩薩」の信仰などと習合した歴史を持っている。事実、かつては「明星天子」の「本地仏」を「虚空蔵菩薩」とし、「星宮」「星の宮」などと総合的に呼ばれていたり、「北辰」の神仏である「妙見菩薩」に因んで「妙見社」「妙見宮」などと名乗っていた社も少なくないのである。これが、「明治」の神仏分離などの神社整理の波の中で、祭神を明確にすることが要求され、「磐裂神・根裂神」を中心に据える現在の形に統一されたのである。この点から見ても、「磐裂・根裂」の神が、「雷神」であると同時に「星の神」であることは明白なのである。

*

実は、この「星の神」としての「磐裂・根裂」の神の性格は、この二柱の神を「雷神」として描いた『記紀』にも明らかなのである。「伊邪那岐」が「迦具土神」を斬った時に、その剣と血から「磐裂・根裂」の神が生まれたのは、既に見た通りである。このとき、この二柱の神以外にどのような神々が化生したかを見ると、おおよそこれらの神々の性格が理解できるのである。

まずは「磐裂・根裂」の神に最も近しい神として描かれている「石筒之男神 いわつつのおのかみ 」を見てみたい。日本古典文学体系本『古事記』の本文注では、「石筒之男神」の神名については「名義未詳」としているが (『記』p. 62) 、同体系本『日本書紀』の本文注には、「磐裂・根裂」の両神の子として登場する「磐筒男神 いわつつのおのかみ 」の神名の説明として、「ツツは粒の古語。磐が裂けて粒になって飛び散るによる命名」 (『紀』p. 92) としている。同書巻末の補注では、「ツツは星」と定義した上で、より詳しく「粒=ツツ=星」の解説を行なっている。

ツツは星。色葉字類抄に「長庚ユフツヽ、大白星 同 」とあり、日葡辞書に Yŭtçuzzu 、伊京集にユウヅツ、大白星・長庚とある。島根・壱岐・筑後久留米・大分・香川・徳島・高知で粒をツヅという。古くは空の星粒をツツまたはツヅといったのであろう (軻遇突智を斬る時に生れた 磐筒男神・磐筒女神も、岩から散る火花を名づけたものと思われる)
坂本・家永ら/校注 (1967) 「神代上」第五段一書・第七『日本書紀』
日本古典文学体系 67、岩波書店、p. 557

引き続いて他の神々も見てみよう。
「甕速日神」は「厳めしく迅速な太陽神」、「樋速日神 ひはやひのかみ 」は「燃えさかる太陽神。古代においては火の根源を天つ日とし、これを地上に運ぶものが雷であるとした」と注されている (『記』p. 62) 。「建御雷之男神」は「勇猛な雷の男神」、「闇淤加美神」は「書紀には『闇龗』とある。谿谷の水を掌る神」、「闇御津羽神」は「書紀には『闇罔象』とある。前に同じ (筆者 : 谿谷の水を掌る神) 」とある (『記』p. 63) 。

『日本書紀』の注では、「甕速日神」「熯速日神 ひはやひのかみ 」に関しては、「日」の字を当てられた「ヒ」の語の解釈が注釈者によって異なるため、神格の理解が違ってしまっているが、「闇龗」については「谷の龍神。水を司る」 (『紀』p. 92) と述べ、他の神についても、両書ともほぼ同様の解釈をしている。「闇淤加美神」のみ、『日本書紀』の第五段一書の第七には記載がなく、同段一書の第六に記された「闇龗」と対応するものとされている。第五段一書の第七には、その代わりに「高龗」の神が登場しており、この神に関しては、「オカミは水神。第六の一書の剣の頭から垂る血によって成る神のクラオカミにあたる。」と記されている (『紀』p. 97) 。

すなわち、まとめてみると、「伊邪那岐」の剣と血から生成した八柱の神と云うのは、みな「日」や「星」、そして「雷」「水・雨」「龍」「渦」などと関係がある神格なのである。「北斗七星」を指して「北辰」と云うのは、呼んで字の如く、「北斗七星」を「龍 (辰) 」に見立てたシンボリズムでもある。「渦」に関しては、かつて「東アジア」地域の人々は、「雷」「雲」を渦巻くものとして見たのであり (これは雷紋や雲紋の意匠に明らか) 、「罔象」の「罔」の字も、その解字は「網」を意味し、蜘蛛の巣のような「渦」を表すに至るのである。したがって、「罔象」とは「水中の姿の見えない魔物」と云う意味だと解説する向きが強いが、もう一歩踏み込むと、「水面に広がる円形の波紋の下に潜むもの」、すなわち、「泉の神」とでも解釈すべきなのであろう。

そして何よりも、「磐裂神・根裂神」を「甕速日神」「樋速日神」と云う太陽の神と対置させた『記紀』の手法は、古代日本人の天体宇宙観を示しているようで興味深い。何故なら、「日光」の信仰に先立つ「磐裂神社」の信仰が「太陽神」と対極的に配された「北極星」の信仰であるならば、それは、「日光東照宮」の「社殿」が真南を向いており、南中する太陽を真上に掲げるだけでなく、「北極星」が「社殿」の真後ろから出ると云う構造になっていることとも、象徴的なレベルで深く関係していると思われるからである。そもそも、我が国の各地に見られる「北極星」信仰自体が、このような形で「太陽信仰」と根深く連携していると、筆者は考えているのである。

*

結局、「勝道上人」の逸話は、後の「日光」の優勢に対して、元はこの地に「磐裂・根裂」の両神が土地神として祀られていたのだと云う、歴史的な事情を暗に示すと共に、「日光信仰」がそれをまたみずからの対極的な生成要素として取り入れていった経緯を表しているのかも知れない。「日」は必ず「夜」に吸収され、そこで英気を養い、翌朝、ふたたび輝きを発するのである。また、「星」は、元々我が国の古代の人々の想像力の中では、闇の中の道案内と云うイメージがあった。これもまた、「日光」に先立つ道先案内と云う寓意を有しているのであろう。

この永劫の循環の中で、「明星」は、やがて来る「夜明け」を予見し、先導するものと云う象徴的な意味合いを帯びているのであり、東の空から紫雲を巻き起こして太陽が昇りくることをイメージした「日光」のシンボリズムに対して、「明星」としての「磐裂神」は、それを先導する黎明として位置づけられているのではなかろうか。



c) 「所野・磐裂神社」訪問

さて、訪問記に戻ろう。

車を降りて、左右に水田を見つつ、緩やかな坂を上って、小学校の西北隣りに鎮座する神社へと向かう。道が左へと上って見えなくなる台地の麓で、神社への参道は右へと分岐している。ここの角には、立派な「庚申塔」が立てられてある。正面上を見上げると、憂いありげに半跏思惟の姿勢で肩頬を手につく「如意輪観音」様が二体と、幾多の石仏が、杉などの林立する森の縁を背にして見える。


「庚申様」に一礼して、右への参道を辿る。実際にはこの道が参道なのかは、はっきりしない。何しろ、道をまっすぐ進むと小学校の施設の前に辿り着くからである。この道の半ばくらいに、神社の境内へと上がる石段が南向きに設けられている。

丘の上に鳥居の立つ、参道正面に向かって立つと、石段上り口の右手に、いくつかの記念碑などが建てられ、その向こうには「東参道」と呼ばれているらしい脇道も見える。この「東参道」の坂道の台地側の斜面にも半跏思惟の「如意輪観音」が二体、「十九夜供養」の石仏があり、その向こう側に「馬頭観音碑」があった。

しかし、それにしても、何故こんなにも近い距離に二つの参道が必要なのだろうか。境内奥にある地区の集会所に集まる便宜上の理由なのかも知れないとも思った。あるいは、以前は別の神仏を奉祭する御堂が、境内の西寄りの広場にあったのかもしれぬ。このすぐ後に見るが、正面の石段を上った先には御堂が一つ立つくらいの空き地が不自然にあり、しかも現在の「社殿」は、その右斜め奥に鎮座するのである。鳥居から見て、斜め奥に「本殿」があると云うのは、やや異例であろう。しかし、今の段階では、これも単なる憶測に過ぎない。そして、筆者の中には別の憶測もあるのだが、それは後に譲ることとしよう。もっとも、単に石段の「男坂」に対する「女坂」だと云うだけかもしれない。


「東参道」の石仏群のさらに向こうには、「所野鎮守 磐裂神社東参道」と墨書された白木の標柱もあり、はっきりと社名が読み取れる貴重なよすがとなっていた。筆者は、右手の「東参道」には進まず、そのまま中央の石段を伝って、上の境内台地へと歩を進めた。


石段は、さほどの高さではなく、難なく登れるが、地元の人はやや補修の必要を感じているのか、仮説のような金属の手摺が右側に設けられていた。上の石鳥居は、非常に背が低く、さほど弛んでいる訳でもない細い注連縄が、顔が当たるほどであった。不思議だったのは、石の鳥居の構造である。上の写真だと分かりにくいが、そして実際に肉眼でも気づきにくいのだが、「貫」を中心とした部分に、銅か何かの金属が葺かれているのである。鳥居の左には苔蒸した水鉢があった。


鳥居の黒っぽい扁額には、草書に近い行書で「磐裂之神」と掲げられており、知らぬものにはかなり読みにくい体裁となっていた。境内の奥まった方、「社殿」の近くには、何対かの石灯籠が見えるが、境内入口付近には、石灯籠は一基だけ、そして狛犬らしきものは一つもなかったという点では、やや変わった神社と云えよう。灯籠は、文化五年 (1834) 銘の「男体山灯籠」と思われる。鳥居脇の斜面の際を左へと進むと、下から見た石仏群の前に出ることとなる。


鳥居の向こうの正面、境内の奥側は一面の杉林となっており、真右の一段下がった土地には「所野集落集会所」がある。おそらくはお祭りの時などは社務所なども兼ねるのだろう。

ここの社は、「所野地区」の古くからの鎮守様で、戦時中は、出征する兵士の祈願をここで行なって、歓呼の声で送り出したと云う。時代は変わり、社も集会所も、いまは丘の上から静かに小学校の庭を見下ろしている。


そして、斜め右方向には、「社殿」がある。地方の小さな神社にはよくあることだが、見た目は木造の倉庫のような、何の変哲もない建物である。前に注連縄やら覆い屋の部分がなければ、まず神社だとは断定出来まい。屋根は、赤い銅板仕様になっていた。


そして、驚くべきことは、この「社殿」の前の石灯籠である。さきほど、遠くから見たときは「何対かの」と記したが、実際にはこちらも奇数基しかなかったのである。合わせて三基、一対半と云った勘定である。


格子の隙間から中を覗くと、小振りながら立派な丹塗りの祠が見える。この祠が「拝殿」で、木造の建物はそれを遮蔽する「覆殿」、御神体は別の自然物として存在するのか、それとも木造の建物が「拝殿」で、丹塗りの祠が「本殿」なのか、不勉強な筆者にはちょっと判断がつかない。おそらく、前者であろうとは思う。

「日光」周辺に多い「磐裂神社」は、みな、「神橋」近くの「星の宮」を分祀したもので、「明治」の「神仏分離令」によって「磐裂神社」と改称したものがほとんどである。ここの社とて例外ではなく、かつては「星の宮」と号した歴史がある。また、祭神は当然「磐裂神」「根裂神」であり、「明けの明星」「宵の明星」と呼ばれる「金星」の二つの様態を陰陽の神に見立てて祀っていると云う。


「社殿」の向こうには、さらに上の丘へと登る石段があり、そこには小さな「三峰神社」の祠が祀られていた。あるいは、例の「東参道」は、この「三峰様」に向かったものなのか。石段の手前の欅の木のもとに、「三峰神社」の標柱が立てられていたが、その下の方に小さく「火乃神」と丁寧に解説されていたのが微笑ましかった。


しかし、この神社で圧巻なのは、上に述べた「社殿」に至る手前、鳥居をくぐって左手、ほぼ正面の広場を三方取り囲むように並ぶ石祠群である。この石祠群の中には、二体ほど一見地蔵様に見える神像が佇んでいる。そして、よく見ると石祠には、「幣束」などが納められているものも多くあり、一つには束帯姿の神像までが納められていた。「金毘羅様」かとも思ったが、あるいは「天神様」かも知れず、確証のあることは云えない。


二体の地蔵もどきの神像は、大小あり、いずれもよくよく見ると頭にぴたりとはまった頭巾を被っている。近くには「大黒天」の石碑もあり、また謎の「丸石」も台座に据えられ、祀られている。「丸石」はいくつかあったように思う。


この神社の境内には、「天照大神」「滝尾社」「稲荷社」「山神社」が祀られていると聞いたのだが、正直云って、どの小祠かどれだかは判別出来なかった。ただ、ここの「滝尾社」については、今回、その由緒を少し聞くことが出来たのだが、それについてはこの項の最後に付け足しの形で書くこととする。

そして、小さい方の神像の右脇に、ややそっぽを向くようにして坐しますのが、われらの探し求めてきた「猫神様」である。別にそう呼ばれている訳ではなく、誰もその由来は知らないようなのであるが、ぽつんとあまたの神様たちの間に座っているのである。見た目が、猫なので、「猫神」と呼ぶのである。

「猫神」と関係があるかは分からないが、ここの神社には「関白天下一青木流」と云う伝統的な「獅子舞」が、今も奉納されている。必ずしも明確な連関性が見つけられる訳ではないが、各地の「猫神」を訪ねて廻ると、しばしば古式ゆかしい「獅子舞」の伝統とぶつかることがある。ここの「獅子舞」は、昭和五十四年 (1984) に「日光市」の無形民俗文化財にもなっており、安永二年 (1773) に、「河内郡羽黒村関白 (現・宇都宮市) 」から伝承されたものと云う。あるいは、やや下って文久年間 (1861-1863) に、同じく「関白」の「青木寛十郎」が伝えたと云う説もあるそうである。

かつては、お盆や八朔 (八月一日) などにも奉納されていたが、後継者不足から昭和二十七年 (1952) に一端には断絶した歴史がある。しかし、平成八年 (1996) になって、地元の人々の努力の末に、ようやく本格的に再興されたのである。





d) 蛇足 : 「所野磐裂神社」で見かけた「猫神様」

ちなみに、この「磐裂神社」参拝中に、杉林の奥から、本物の白っぽい猫様が降臨した。「猫神様」の眷属かなどと勝手なことを云いながら、切り株の上に、よくほぐした「イナバの焼きかつお」を捧げものとして奉り、遠くから御猫様がすべて御召上げになるのを確認してから、静かに昼前のお社を後にした。

*

余談なのだが、白っぽい御猫様は、実はわれらがその存在に気づくだいぶ前から、じっとこちらの様子をうかがっていたのである。家に帰ってから写真を整理していたら、写真中に小さく御猫様が映っていたのだから、吃驚。やっぱり、神様だったのかなあ...。



上に掲載した写真に写っていた御猫様!!
どの写真だか、分かりますか?


「所野」の「磐裂神社」の地図は、こちら

今回は、「磐裂神社」の地図内表記がしっかりしていると云うことで、「ちず丸」を使用しました。


参考文献
・倉野・武田/校注 (1958) 『古事記・祝詞』日本古典文学体系 1、岩波書店
・坂本ら/校注 (1967) 『日本書紀』日本古典文学体系 67、岩波書店
・渡邊・宥勝/校注 (1971)『三教指帰・性霊集』日本古典文学体系 71、岩波書店
・田代善吉 (1934) 『栃木県史 第三巻 神社編』下野史談会
・今市市史編纂委員会/編 (1982) 『いまいち市史 通史編』今市市
・神社新報社/編 (1994) 『日本神名辞典』神社新報社
・日光ふるさとボランティア/編 (1996) 『もうひとつの日光を歩く』 随想舎



千葉県の猫神・長禅寺の猫

.01 2010 関東地方 comment(6) trackback(0)
真言宗・智山派
金剛山・長禅寺
旭市野中 2042-1
0479-62-0667

この「本堂」の壮大さは、写真では分からない...


1. はじめに

意外に思われるかも知れないが、「九十九里」沿岸の地域と云うのは、「銚子」「佐原」等を経由した「利根川・江戸川」交易の主要な交易圏であったことと関係して、古くから交通の発達した地域であった。ただ永遠とだだっ広い平地が続くだけの閑地と思ったら大間違いで、山や高い建物などがほとんどないので、視野は確かに平たいが、道は結構多いのである。特に、海岸線の浸食や、土地改良などによって、しばしば交通路のつけ直しも行われてきたこともあって、海岸線と平行に走る道が多い。問題は、この「古くから発達した」と云う部分なのである。

「匝瑳市」や「旭市」などの市街地は、いまでもかつての灌漑農地と一帯となっており、古い交通網だけに、道幅も広くなく、道は入り組んでいる。欧米の道路と街との関係が、主要な道路を敷いてその周辺に街を造り、また道路を接続してそこに街を形成すると云うのが典型的な手法であるなら、我が国の道路と街の関係はほぼその真逆になる。すなわち、居住者がまず家や農地を定め、そこに道を引っ張ってくる、と云う作業の繰り返しの後に、何となく集落らしきものが出来上がっていくと云う手法である。

筆者はどちらの町づくりがよいと云っているのではなく、単にそれゆえに日本の道路事情はかなり複雑で、入り組んだ街は、容易には他所ものを受けつけないと云うことを云いたいだけである。今回、訪問する「長禅寺」のある辺りに接近するにも、地の利のない人間は、よほど慎重を期さないといけない。自動車の移動スピードは、減速していても意外と早いものであるし、入り組んだ街でよそ見運転は避けたいからである。

近頃は、どの車にもカーナビゲーション・システムが備えられているようだから、その点は安心だが、カーナビと云うのも良し悪しであるから注意したい。最短距離を知るにはよいかもしれないが、ドライバーの性格や技量と、道幅や人の飛び出しなどの、走行する道路の性質までは計算してくれる訳ではない。筆者の勝手な感想だが、なるべくカーナビには頼らず、道路が複雑な地域では、標識をしっかり見ながら、出来る限り幹線を乗り継ぐようにして目的地に接近すべきである。

さて、「長禅寺」への道なのだが、「東京」方面から行くなら、基本は東関東自動車道で「大栄インターチェンジ」まで行き、国道51号を経て東総道路を走破し、県道70号・大栄栗源干潟線から県道28号・旭小見川線に乗り継いで、後はややジグザグするが、この県道28号を維持して、国道126号での交差を直進して県道35号・旭停車場線になってからも維持し、最後に県道122号・飯岡片貝線に入って目的地に向かうと云うのが、再短時間になると思う。

下でいく場合は、とにかく国道296号のほぼ全区間を走り抜き、「国道入口」で国道126号に入って「旭」方面に向かう。「袋西」で県道28号に入ってからは、上のルートと同じである。道をよく知っている人なら、「匝瑳市役所」前を通過して「上谷中橋」の先の右斜めの分岐に入ってJR総武本線を越え、「東谷」付近の信号で県道104号・八日市場井戸野旭線に入り、「東総文化会館北」で県道35号に入る道順の方が、やや渋滞を避けられると思う。何しろ、国道126号と云うのは、この地域唯一の道幅のある直線道路みたいなところがあり、それが地域の複雑に枝分かれする道路と信号接続する上、区間のほとんどが片側一車線なものだから、混むな! と云う方が無理なのである。

いずれにせよ、県道122号を走っていて、「矢指小学校」の東南の角の信号を過ぎたら、左手の方角を見ていると、こんもりと茂った緑の森から、何かしら巨大な伝統建築の屋根が突き出て見えてくる。噂で音にも聞く、「長禅寺」の「本堂」である。その先、県道が右へと直角に近い角度で曲がるカーブ際、左に、二つの大きな石柱が立っている。これが寺号標であり、参道の入口である。駐車場は、ここを入ったすぐ右手にある。



2. 「長禅寺」探訪

「東総地方」の「新四国八十八ヶ所霊場」の「第一番札所」でもある「長禅寺」は、参道の入口から、「八十八箇所」がらみの石碑が数多く立ち並んでいる。「山門」までの参道部分の左右には水田が広がっているが (正確に云うと、寺全体が水田の中に浮く陸の島のようなのだが...) 、かつては参道両側に土塁が築かれていた形跡がある。左側 (南側) には、この土塁がかなりの程度残され、「山門」のところで南へと曲がるのだが、その外側にはしっかりとした堀切の跡が見える。いまも池のように水が残る部分と、ぬかるみに過ぎなくなっている部分が見えたが、間違いなく、水堀として切られたものだと思われた。参道の右側は、寺の墓地となっており、土塁や堀の跡は、完全に消滅しているようだった。

調べてみると、ここ「長禅寺」は、かつて「椎名内城」と呼ばれた城郭だったと目されているようなのである。「椎名内城」は、「中世」にこの地域で勢力を誇った「椎名氏」の発祥の地であると云われ、一般には、この古刹の西側が「椎名内城」の跡であると云われている。

この地域は元来、「匝瑳氏」 (二系統説が強い) の支配領域であった。しかし、文治年間 (1185-1190) に、「上総権介広常」が「源頼朝」に誅殺されたのに連座して、「上総氏」系の「匝瑳氏」に代わり、兄「千葉常胤」から、元々は「上総権介広常」の一族「匝瑳助常 (二郎) 」の所領であった「匝瑳南条庄」を賜った「椎名胤光」が、「千葉庄」内から「匝瑳南条庄」に「地頭職」として移り住んで「柴崎城」 (匝瑳郡横芝光町虫生字古城) を築いて以来、「椎名氏」は同地を中心に「匝瑳郡南部」に発展していった。

さらには、十三世紀頃になって、「北条庄」を支配していた「上総氏系・匝瑳氏」の一族が分裂し、総領体制が崩れてくると、「飯高郷」 (匝瑳市飯高) を本拠とする「匝瑳常広 (八郎) 」の三男「飯高政胤」が台頭し、「借当川」を挟んで北の「北条庄」を支配する「飯高氏」と、南の「南条庄」の「椎名氏」とが対立するようになり、この対立が、この地域に多くの城が築かれたことの原因となったと云われている。

一方、「金剛山・長禅寺」は、「室町前期」の応永八年 (1401) 九月、「長範和尚」によって創建されている。「長範」は、「山城国宇治郡」にある「醍醐山金剛王院」の「大僧正・実賢」から数えて六代の法孫である。そして、創建以来、長らくこの地で栄えた「長禅寺」だが、「椎名内城」の城主が「千葉介胤富」だったと記録されている永禄八年 (1565) 、「安房勝浦城主・正木時茂」が「里見氏」に反旗を翻して来襲し、「椎名内」近隣の「見広城・伊達城・中島城」を攻略したと考えられており、この戦乱で、「長禅寺」は「本尊」をはじめとして、その堂塔のことごとくを焼亡したとされる。このとき、近隣の村も灰燼に帰し、引き続く寒波によって米麦の収穫は皆無という飢饉が発生し、付近五ヶ村だけで、餓死者千余人も出したと云う。

永禄八年の焼失から三年、同十一年 (1568) 、村人たちの乏しい生活の中から浄財を集めて寺は再建され、さらにその翌年五月には「本尊・愛染明王像」を完成させていることが、「本尊」の胎内から発見された文書によって明らかにされている。この墨書銘文には、永禄年の戦禍についての人々の体験が、生々しく記録されている。この像は、寄木造の座像で、京仏師「小河浄慶」の作と伝えられている。

その後、「小田原北条氏」の体制下に組み入れられた当地では、天正十年 (1582) 、「椎名右京之助」が「椎名内城」に居住したと記録されたのを最後に、おそらくは天正十八年の「小田原征伐」を機に、廃城になったものと考えられている。

「江戸期」には、この地は、「網戸城」の「木曽義昌」の支配を経て、「青山」「千村」、次いで約百八十年間の「高力氏」などの「旗本」家による支配が「明治」まで続いた。

この間、天明九年/寛政元年 (1789) にも、再び火災を出している。このときは、「本尊」こそは避難させられたものの、「本堂」は焼失してしまっている。この「本堂」が再建されたのが、寛政十一年 (1799) であり、これが現在われらが目にすることの出来る豪壮な建築伽藍である。当然、「本堂」の欄干彫刻も、このとき施されたものである。

*


赤い「山門」をくぐると、正面には、既に何度か触れた、かの壮大な「本堂」が見えるのだが、これは後に回そう。まず、右手の一角には、石塔やら石仏などが数多く集められており、そこから「本堂」に向かって順に、「薬師堂」「十善遍照講社碑」「大師堂」とあり、その外側は墓地、さらにその外側は土塁となっていた。そう、この寺は、周囲のほとんどを土塁に囲まれているため、塀らしき塀は、門の左右くらいにしかないのである。「中世」の石塔の多さからも、ここが「中世」の領主館跡か、少なくとも領主家と深い関係にあった寺院であることが偲ばれる。


素朴な「薬師堂」


なかなか個性的な御顔つきの「十善遍照講碑」


「大師堂」

木造の外壁が赤く彩色された「薬師堂」の中には、金色の「薬師如来」が祭られ、外には「薬師堂 東総四十九薬師・第二十八番」と記した木札が掛かっていた。

逆に、境内の左側には、方形の台上に勇壮な「鐘楼」があり、その先に大きな慰霊碑、そして両者の後ろに木造の御堂があった。合間に「公孫樹」の巨木も立ち、左手奥は「庫裡」となっていた。「鐘楼」の「棟木」や「木組」などは、赤を中心に五色に彩色され、見事だった。


「本堂」正面に掲げられた見事な「鏝絵」は、「伊豆の長八」の作。精細な彫刻を施された欄間九面は、享和元年 (1801) 、長禅寺が再建された時、「足川村」の「網主」で地主でもあった「八代岩井市右衛門孔豊」が寄進したもので、「江戸」の彫工として高名な「島村俊正」の作品として知られている。特に、勇壮な図柄の「雲龍彫刻」、一尺の板を二尺の厚さに見せる浮き彫りの「獅子・牡丹彫刻」が圧巻である。 <== この記述内容には重大な誤りがありました。コメント欄で「江戸の彫工」樣から訂正を頂きました!! 本当は、「鈴木市右衛門鶴鳴」と云う「香取郡・嶋村系」の彫工の作品だそうです。この場で「江戸の彫工」樣に御礼と、皆様にお詫びと訂正をさせて下さい。今後は、いよいよ氣を付けてゆきたいと思います...。


「本堂」の右手裏には、「弁財天」か「厳島神社」と思われる小祠が祀られ、その後ろ全体は樹々に覆われた池となっていた。後に紹介する伝説の「血の池」であろうか。


「弁天様」か「厳島様」か...?




「血の池」か?

この池よりさらに奥、「本堂」の真裏に向かうと、ほぼ南北に走る堀によって、境内が二つに分けられている。堀は、南側ほど深く造られており、水が常に北から南へと流れるように設計されているようであった。

本によっては、この堀の西側が寺で、東側が城だったと記しているが、土塁などの構造上、いまの「本堂」のある東側が「東の曲輪」で、堀の向こうが「西の曲輪」であった可能性が高い。寺は、後にこの地に移転したか、あるいは城内に取り込まれていたとしか考えられない。


東西の二つの曲輪を分つ堀。いまも水は豊富に流れていた。

この中央に走る堀の所々には、石造りの小橋が架けられ、それらを渡ると、西側の広場へと導かれる。この寺院敷地の西側半分は、方形の館の形状をそれなりに留めているが、現在、遺構らしき遺構は全くない。敷地のほとんど全てが八十八ヶ所廻りの霊場づくりに利用され、中央に大きな池がある他は、大きな覆い屋が一つと、池の前に大きな「弘法大師」の記念碑像が設けられているばかりである。

中央の池は、「本堂」脇の池同様、深い緑に覆われ、容易に訪問者を寄せつけないのだが、何よりも、それが深掘りの池となっているために、水面までの岸は急斜面となっているのである。こちらの池は、大きさもそれなりにあるため、野生の鴨などが飛来して羽を休めている姿が見かけられた。その深い掘り跡から見て、どちらの池も、それぞれの曲輪の籠城用の大井戸として掘られたものではないかと思う。


「西の曲輪」跡地にある大きな池
おそらく、こちらが伝説の「血の池」

*

本題からは、かなり逸れるのだが、この地で行われる独特の霊場巡りについて、少しだけ見てみたい。

「長禅寺」を中心として行われる「東総」地域の「新四国八十八箇所霊場」巡礼は、通称「浜大師」と呼ばれ、毎年四月五日から十三日の九日間にわたって盛大に行われる行事である。巡拝路は、第一番札所である「長禅寺」を発して、旧「海上郡・匝瑳郡・香取郡・山武郡」の四郡に跨る。

発祥は、天明五年 (1785) 、「長禅寺」の第四十五世「融啓和尚」が、現在の「匝瑳市登戸」の「渡辺権右衛門」家の先祖と四郡を経巡ったことと伝わる。年と共に、この巡拝遍路に共鳴する人々が増え、明治九年 (1876) に「長禅寺」第五十七世「尭範和尚」が、「長禅寺」を教会所と定め、「十善遍照講社」を創設し、明治三十八年 (1905) には、真義真言宗智山派・管長より「密厳教会十善遍照講社」を正式に認可され、いよいよ巡礼が盛んになった。

「浜大師」の大きな特徴は、一般に「御箱」と呼ばれる「弘法大師像」を「登戸」の「渡辺家」から借り受け、これを背負って信者門徒が一斉に巡拝を進めていくことであろう。「弘法大師一千年御遠忌」に当たった昭和九年 (1934) 頃をピークに、次第にこの行事も衰退したとは云え、最盛期には、参加者は千名以上を越え、九日間、「御箱」の宿泊所となった「本陣」と呼ばれる宿所を中心に、三百人以上の信者が近隣の村々に分宿して、接待されたと云う。現在は、往時の賑わいは失ったものの、九日間の遍路は続けられており、篤信者の家ではいまだに巡礼者たちの歓待を続けている。

規模が縮小したと云っても、最終の九日目に行われる結願式には、多くの人々で山内は埋め尽くされ、御尊像開帳の際に鳴り響く、「南無大師金剛遍照」の大合唱の盛大さは、この地域の信仰心が、必ずしも失われていないことの証となっている。


境内に、上のような「八十八箇所」の石仏が、八十九体安置されている。

「長禅寺」には、この「新四国八十八箇所霊場」を縮小した霊場も設置され、境内いっぱいに八十八個の石仏が、「讃岐・阿波・土佐・伊予」の四国に分けられて勧請されている。


境内の西北隅の外側にある「琴平神社」



3. 長禅寺の猫

いよいよ、「長禅寺の猫」の伝説を紹介することとなる。以下の文に登場する「横根」と云うのは、「長禅寺」のある「野中」からさらに東に二、三キロ行った土地で、概ね国道126号線に沿っている。いまでも街道筋に幾つかの寺が建っており、もしかしたら、それらの寺院のどれかと「長禅寺」の間に深い縁があって、以下のような猫の貸し借りの言い伝えが発生したのかもしれない。もっとも、これは推測に過ぎない。

長禅寺の猫


「戦国時代」の末頃、「長禅寺」には大きな化け鼠が棲みつき、人に危害を加えることもあって、みな困り果てていた。

ある日、寺の飼い猫が和尚の夢枕に立ち、あの鼠は神通力があって、自分だけで歯が立たない、「横根」の里にいる自分の兄と弟と三匹で力を合わせて退治したい、と云った。和尚が「横根」 に行くと、確かに寺の猫の兄弟がいたので、二匹を借りて帰った。

それからしばらく経ったある夜、「本堂」で激しい戦いが始まった。飼い猫は大鼠の喉に噛みつき、大鼠は飼い猫の頭に噛みつき、横根の二匹の兄弟猫は大鼠の背中に噛みついた。さすがの大鼠もたまらず逃げた。二匹の兄弟猫は無事だったが、飼い猫は頭の傷が深手で、明け方に死んだ。

大鼠の行方は分からなかったが、村人たちと探したところ、奥の間の天井は節のない板のはずなのに斑点があった。そこを目がけて槍を突き上げると、大きな悲鳴と共に大鼠が落ちてきた。

大鼠にとどめをさしたこの槍を洗ったのが「長禅寺」の境内の池であったため、以後、「血の池」と呼ばれるようになった。

参照・平野馨 (1986) 『房総の伝説』第一法規出版、p. 135

「長禅寺」に出た「大鼠」に関しては、異伝も伝わっている。大抵、違いは槍を突いたのが和尚か、大工の棟梁かと云う程度のものなのだが、中にはまるで別系統の話もあった。一応、紹介しておこう。

長禅寺の大鼠


「長禅寺」の近在に年を経た大鼠が住んでおり、村の美しい娘を見染め、嫁に所望した。娘も親も絶望したが如何ともし難く、ついに祝言の日を迎えた。

この話をある浪人者が聞き込み、祝宴の席に紛れ込んで、大鼠が現れるのを待ち伏せた。夜更けて、辺りも静まり返った頃、天井から大鼠が現れるや、それまで正体もなく酔い潰れていた浪人者が、突如、槍を天井に鋭く突き上げた。無気味な悲鳴が鳴り響いた後、天井から血が滴り落ちて、床に溜まった。

娘は運良く難を避け、後に良縁を得たと云う。

参照・荒井愛子 (1975) 「大ねずみ退治武勇伝」
荒川法勝 (1975) 『房総の伝説』暁書房、pp. 120-121

こちらの伝説には、残念ながら「猫」は登場しない。そして、当然、その分だけ筆者の贔屓は得られないのである。大体、せっかく活躍した浪人者は、一体この後どうしたのだろうか? お礼も言われず、何も報われなかったのだろうか? などと柄にもなく余計な心配をしたくなってしまう話である。幼稚な筆者としては、ヒーローはヒロインと結ばれて欲しいのである。まあ、この浪人者、妻帯者だったのかもしれないけどね...。



蛇足 : 「長禅寺」で見かけた猫


「長禅寺」訪問のときに出会った、ワンポイントの猫。あまり人を恐れているようではなかったが、いざカメラを向けると、なかなか写真を撮らせてくれない曲者であった。お礼に餌をやろうとしたが、そんなものは受け取れません、と宝篋印塔の方へと消え去ってしまった。







「長禅寺」の地図は、こちら



参考文献

・荒川法勝 (1975) 『房総の伝説』暁書房
・千葉県文学教育の会/編 (1977) 『千葉の伝説』日本標準
・旭市史編纂委員会/編 (1980) 『旭市史』第一巻、旭市
・児玉幸多ら/監 (1980) 『日本城郭大系 6・千葉・神奈川』新人物往来社
・平野馨 (1986) 『房総の伝説』第一法規出版
・千葉興業銀行/編 (1992) 『千葉ふるさとむかし話』自刊
・江波戸敏倫 (1997) 「長禅寺の『血の池』由来」
 荒川法勝 (1997) 『千葉県妖怪奇異史談』暁印書館
・松井安俊 (1998)「ふるさと探訪 (旭の村々 第十五回) 」
 旭市役所秘書広報課/編 (1998) 『広報あさひ』平成十年六月一日号、旭市
・「あさひ文化財事典」ウェブ版
・長禅寺「長禅寺略縁起」現地配布



千葉県の猫神・長谷寺の猫

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天台宗
大悲山・広徳院・長谷寺・観音堂
香取市米野井字長谷 948

杉林を通して「長谷寺・観音堂」を望む


1. はじめに

「長谷の観音堂」のある「米野井」の地に行くには、西から接近する人は是非、東総有料道路を使ってほしい。東関東自動車道の「大栄インターチェンジ」を降りて、国道51号線を「鹿島」方面へと少し進むと、東総有料道路への信号分岐が右に現れる。


しばらくは、茶の樹などの生け垣や畝を通過しつつ、無人の入口では小銭で二百円を支払って通過する。いまどきETCが使えないのも、不便だが、返って興がある。

この黄色い部分に手で小銭を入れる。

この有料道路は、この料金所と直後の「助沢インターチェンジ」以外は、すべて一般道と平面交差をするので、はっきり云って料金を払わずに利用する人が非常に多い。もちろん、払いたくても料金所がないから払いにくいと云う事情もあり、とにかく収益になっているのか心配な道路である。

「東総」地域は、かつて「利根川」の水運を中心として交易が発達した土地であるため、いまでも交通網が「利根川」に向かって南北には発達しているのだが、東西方向へと通じる道は極端に少ないのである。東総有料道路はそんな中で貴重な東西の幹線なので、利用者みんなで守っていきたいと、筆者は願っている。もう少し東へと延びてくれると使いやすい、などと云えば切りがない。利用者が少ないことをとって、その存在を疑問視する人々もいるらしいが、筆者にはまるで理解出来ない。利用者が少ないのは第一に多くのドライバーが料金所を回避しているからであり、第二に、そもそも利用者が少ないことをあげつらうなら、地方部に道路など造れない。

さて、旧「長谷寺」への道は、東総有料道路の「高萩パーキングエリア」を過ぎて一つ目の信号を左折して県道114号・八日市場山田線に入ってしまえばほぼ完了する。後は、そのままずっと道なりに進み、二つ目の信号を通過して、一・五キロほど過ぎた辺りで左側に「農協」の大きな貯蔵エレベーター施設やら、「富士デベロップメント」などが見えたら、その二百メートル先の左への路地を入ればよい。不思議なことだが、入口に「1」と描かれた木札が立てられているのが目印である。県道55号・佐原山田線で来た場合は、県道114号に入って二百メートルほどの右への同じ路地を入ると云うことになる。



2. 「長谷寺・観音堂」へ

「長谷寺・観音堂」へと向かう最後の路地まで説明したところで、云っておかねばならないことがある。それは、この路地に車で入るのは、絶対に避けよう、と云うこと。おそらくここは私道で、道幅も非常に狭く、車のすれ違いは難しい。当然、ここに乗り入れるのは地域住民の迷惑になること間違いない上、最後の坂道はかなりの傾斜のところで、半径の短いうねりがあるので、一般のセダンやバンタイプの車では通り切れるか不安があるため、かく云うのである。

出来れば、県道55号を二百メートルほど戻った「戸田神社」前のスペースに駐車することをお勧めする。ここの神社は、かなり大きな石鳥居が県道に面して建てられているので、難なく見つかるだろう。「戸田神社」への参拝を済ませ、お賽銭も納め、そのまま歩道のない県道を東へと辿る。左手は一面の農地で、右は緑の丘の麓に沿って人家が並ぶ。信号で右に曲がって、県道114号へと入る。

* 実は、この「戸田神社」の裏山の杣道の如き小径を越え行くと、100メートルほどで目指す「長谷寺」の真上の「子聖大権現」に到着するのだが、初探訪の人は、薮の中で遭難すること請け合いなので、素直に表から行きましょう。

県道114号に入って最初の右への路地を入ると、数軒の民家の間を抜けて、コンクリート敷きの坂が続いている。この集落を抜けた先で、道は右、左とうねりつつ、丘の中腹の平らな土地に出る。その先は、一段高い台地の上の疎らな杉林となっており、その左側には崩れかけた数段の石段が見える。その上には、「奉納 十一面観世音」と刻まれた石灯籠が立てられている。施主は「青木伝右衛門」、紀年銘は「文化二丑正月吉日」 (文化二年=1805) 。そこから杉木立の奥を覗くと、方々に石仏が散在し、右手奥には小さな方形の御堂があった。かつての「長谷寺」の忘れ形見の「観音堂」である。

この「長谷寺・観音堂」のある土地は、北西方向から東南へと延びる比高およそ三十メートルほどの舌状台地にあり、そのほぼ先端部の南側に位置している。先ほど登場した「戸田神社」は、この同じ台地の先端部の北側に鎮座しているのである。「中世」には、この先端部の尾根を削って、「千葉氏」系の「木内氏」の城館「八丁内城 (米野井館) 」があったと推測されている。この城館の「曲輪」部に当たるのが、台地尖端の鞍部なのである。「八丁内城」は、さらに古くは 「米野井館」と呼ばれ、「奈良時代」から「平安時代」にかけてこの地域の「国造」を世襲した「他田日奉部 おさだのひまつりべ 」の一族の館跡だとも考えられている。天平八年 (736) 創建と伝わる「戸田神社」は、この「他田日奉部」と関係する「久都伎直日奉真人 くづきのあたいひまつりのまひと 」が、「出雲国」の「杵築大社」を勧請したものと云う。したがって、主たる祭神は「大国主命」と云うことになろう。

参照・千葉県教育委員会/編 (1995) 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書 1』県教育委員会
寺本和/編 (2005) 『ふるさとのあゆみ 山田町の歴史と文化財』自刊、pp. 59-62



3. 「長谷寺・観音堂」探訪



「奈良時代」の天平九年 (737) に創建された「広徳院長谷寺跡」は、「徳星寺」の末寺で、「近世」までは残存していたが、残念ながら、現在はこの杉林の中の二間四方の「観音堂」ばかりとなってしまっている。堂内の「十一面観音菩薩像」は、「楠」の一木造りで、高さ約一・七〇メートル。伝説によれば、一本の「楠」の根元材から三体の観音像が彫られ、それぞれ三つの寺に祭られたものと云う。中央の「観音様」がここに伝わり、左右のものはそれぞれ「奈良」と「相模」に伝わったとされ、合わせて「日本三長谷」と云われたと云う。

「観音堂」の南側中段には、「西国三十三ヶ所観音霊場」の石祠がある。享保十八年 (1733) 、宝暦元年 (1751) 、明和二年 (1765) の三回にわたって寄進され、完成したようである。境内には、その他、石造りの「庚申塔」なども多く遺されている。一部、新しい地蔵像などもあったが、ほとんどが「安永、寛政、享保、元文」など、「江戸時代」中後期の石造物で、その数からも、ここの「観音様」が地元の人々にいかに大切に祭られてきたかが窺い知れた。

中でも、特に精巧な「庚申塔」は、側面には、「享保五 (1720) 庚子年 十月十七日 村中同行百八人」とあり、高さは約一・二七メートル、幅約三十九センチ、碑面上部に雲に乗った日月を配し、六臂の中で、左に宝輪と弓、右に槍と矢を持って合掌している。足下には、魁偉な「天の邪鬼」を踏み敷き、その下には「三猿」が象られている。この「庚申像」と、御堂の右裏に台座が埋もれて鎮座していた「不動明王像」などは、石造彫刻としても、白眉の出来映えであった。


(左) 「庚申塔」、 (右) 「不動明王碑」



4. 「長谷寺・観音堂」の「猫」伝説

ここの「長谷の観音堂」には、次のような猫を巡る伝説が残されている。

ののさんと猫


昔、「下総国・古愛井 こめのい 」の「長谷寺」に、踊り好きなののさん (坊さん) がおり、年の経た大猫の「たま」と住みつつ、いつも木魚を打っては踊っていた。この猫は、ののさんが寝る前に般若湯 (酒) を呑んでいると、自分もおねだりした。ののさんも喜んで般若湯をやるものだから、そのうち近所の猫たちまでが酒をねだりに、いっぱい寺に集まるようになった。

この頃、寺の近在に調子の良い馬鹿囃子 (後の佐原囃子) があったのだが、決まった踊りはまだなかった。そこへ、ある年の祭に、若衆が隣村と踊り競べをすることになり、ののさんが頼まれて、この囃子に踊りをつけることになった。ののさんは、般若湯を呑むのも忘れて、毎晩夢中で、振り付けの工夫をしたのだが、好きな踊りでも、新しい手を作るのは簡単ではなかった。村の若者たちにも急かされ、ののさんは困ってしまった。

そうとは知らぬ猫たちは、近頃さっぱり酒を振る舞われないので、寺の古猫にどうしたのか尋ねると、古猫は踊りのことを説明した。すると猫たちは、何事か相談を始め、夜になるとぞくぞくと寺に集まってきた。草臥れて寝転んでいたののさんは、猫たちの姿を見て、忘れていた般若湯を思い出し、猫たちと一緒に酔っぱらってしまった。久しぶりの酒に上機嫌の猫たちは、炉端を叩くもの、皿を叩くもの、鉄瓶まで叩くものもあり、やがてみんなで馬鹿囃子をおっぱじめた。

 ちゃんちゃか ちゃらすか
 すっちゃん ちゃん

そのうち古猫の「たま」が、ののさんの手拭をとって頬かぶりすると、ひょいと後ろ足で立って踊り出した。尻を振り振り、身をくねらせて、その恰好の可笑しいのなんの。ののさんも、つい釣りこまれて、「たま」の身振りを真似て、踊り出した。

 おやばか ちゃんりん
 すかれちゃ どんどん

そこへちょうど若衆世話人がやってきて、障子に映った猫の踊りを見るや、化け猫だと思って腰を抜かしてしまった。慌てて帰った世話人がみんなに話すと、みんなも恐いもの見たさに寺にぞろぞろやってきた。すると、障子にはやはり猫の影が、大きくなったり小さくなったり、馬鹿囃子に乗って踊っていた。しかし、始めは気味悪がっていた若衆たちの手足が、いつのまにやらむずむずと動き出し、気づくとみんな寺の中に踊り込んでしまった。

翌日、村では、猫が頬被りして、浴衣に草履はいて、ののさんに踊り教えたって評判になった。これを聞いたののさんは、踊りながら次のように唄ったと云うのが「ネコじゃ踊り」の始まり。

 ネコじゃ ネコじゃと おっしゃいますが
 ネコが じょじょはいて かっこはいで
 しぼりゆかたで くるものか
 ハァー おっちょこちょいのちょい
 もひとつおまけで ちょい

踊り競べの祭のときも、町からお師匠さんを頼んで稽古してもらった隣村の若衆の素晴らしい躍りよりも、ちっとも上手でもない「ネコじゃ踊り」に人気が集まり、勝ちをさらってしまった。やがて、「ネコじゃ踊り」は、「利根川」に運ばれて遠く「江戸」まで流行ったと云う。

「長谷寺」は後に火災で焼け、「観音様」も「楠」の木目が分からぬほどに焼けただれたが、その姿のまま、建て替えられた御堂に、今も祭られている。

参照・日本児童文学者協会 (1980) 『千葉県の民話』偕成社、pp.160-167


「猫じゃ猫じゃ」と云うのは、文政十一年 (1814) 頃から「江戸」で流行った唄で、明治初年 (1868) に替え歌が沢山出来、その後の花柳界では座敷唄として大いに唄われた。筆者自身は、子供の頃、父のレコードのコレクションの中にあった「越路吹雪」の歌うややジャズ調に編曲した「猫じゃ猫じゃ」を聞いたのが、この端唄の聞き初めだったかも知れない。確か、「コーちゃんのお座敷うた」と云うジャケット・タイトルだったと思う。これも後で調べてみたら、筆者の生まれるかなり前、昭和三十七年 (1962) にリリースされたLPだった (LPと云っても分からない世代が増えたのかなぁ) 。さらに後年、昭和四十二年 (1967) に「ビクター出版株式会社」から出された『市丸端唄名作集』に付属していたフォノ・シートで、「市丸」の歌う「猫じゃ」を聞いたのが、この端唄を邦楽調の節回しで聞いた最初だったかも知れぬ。

ちなみに、「猫じゃ」の歌詞には、たくさんのバリエーションがある中で、よく聞かれるのは下に挙げる四つくらいか。中でも、最初と最後の歌詞が有名である。「安野モヨコ」の原作漫画を映画化した『さくらん』では、永遠と一番の歌詞だけが流されていたが、あれはちょっと...。

猫じゃ猫じゃとおしゃますが
猫が、猫が下駄はいて
絞り浴衣で来るものか
オッチョコチョイノチョイ  (オッチョコチョイノチョイ)

蝶々蜻蛉や きりぎりす 
山で 山でさえずるのは
松虫 鈴虫 くつわ虫
オッチョコチョイノチョイ  (オッチョコチョイノチョイ)

竹に雀は仲良いけれど 切れりゃ 
切れりゃ仇の 切れりゃ仇の 餌差し竿
オッチョコチョイノチョイ  (オッチョコチョイノチョイ)

下戸じゃ下戸じゃとおしゃますが
下戸が、下戸が一升樽かついで
前後も知らずに酔うものか
オッチョコチョイノチョイ  (オッチョコチョイノチョイ)

最も知られた一番の歌詞でさえも、「おしゃますが」が「おっしゃいますが」になっていたり、「下駄」が「足駄」に、「絞りの浴衣で」が「杖ついて」に変わっていたりするバージョンもあったようである。「オッチョコチョイノチョイ」の前後にも、歌い手がそれぞれ独自の間の手を工夫して入れることが多かったとも云う。

その一番の歌詞の内容と云うのは、お妾さんの浮気が旦那にバレそうになっている場面を表していて、旦那が突然、妾宅にやってきたため、どたばたしながら隠した間男を、お妾さんが「猫じゃ猫じゃ」とだまそうとしている趣向だと云われる。しかし、ここの「猫」は「遊女・芸者」を表していて、別の意味があると云う異説もある。いずれにしても、お寺の「ののさん」が唄う歌詞としては、やや問題含みである。

「米野井」の「長谷寺」から「猫じゃ」が全国に広がったと考えるのは、史実としてどの程度信憑性があるものかは疑わしいが、「佐原囃子」と云う節が現在も古い形のまま残っているならば、はたしてどの程度「猫じゃ」の節回しに似ているのかくらいは、聞き比べてみたいものである。

何にせよ、「猫じゃ」の唄は、その初流行からおよそ二百五年、いまもその節に聞き覚えがある人口を涵養している、我が国で一番長く売れつづけている流行歌だと云えるのである。



5. おわりに


ついでながら、「観音堂」に隣接する神社についても、簡単に記述しておこう。「観音堂」の右手には、鳥居が立てられ、そこから辿ってゆく裏手の崖の上には、重厚な「子聖大権現」の額を掲げる社があった。絢爛かつ精細な「木鼻」彫刻の「獅子」が、かつての信仰の隆盛を無言に語っていた。現在も、その信仰は連綿と受け継がれているようで、御堂の扉には古い奉納物の上から、新しい履物が多く奉納されていた。

この「子聖大権現」の北側にある「戸田神社」は、十二年に一度の「子」の年に、「神幸祭」を執り行い、「小見川町阿玉川区」の「利根川」の岸辺まで巡幸する祭典で知られている。ここの「子聖大権現」の「社殿」は、この「神幸祭」と関わる祠だと思われる。

*

「米野井字長谷」の坂道には、いまも多くの猫たちが、それぞれの陽気を楽しんでいた。



他にも「三毛猫」と「まだら猫」を一匹ずつ見かけたが、撮影のチャンスを逃してしまった。


「長谷寺」の地図は、こちら

上の地図中、「米野井 950番地」から「JA」のある「900番地」まで道があるように表示されているのは誤り。途切れ途切れに、私有地や農地の中を、土や草の小径があるだけである。


参考文献
・夢中庵主人 (長谷川団吉) /編 (1898) 『古今端唄集』井上亀吉
武藤静史 (1950) 『のど自慢日本音曲全集 全国民謡・端唄・小唄・音曲全般』清文堂書店
・日本児童文学者協会 (1980) 『千葉県の民話』偕成社
・山田町史編纂委員会 (1986) 『山田町史』山田町
千葉県教育委員会/編 (1995) 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書 1』自刊
・寺本和/編 (2005) 『ふるさとのあゆみ 山田町の歴史と文化財』自刊

千葉県の猫神・長南伊勢屋の猫

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大桶の猫山 (3)  附・芝原人形の猫

いせや

星野薬局

長生郡長南町長南 2574
0475-46-0006



1. はじめに


既に前々回、および前回の記事で、「大桶の猫山」そのものと、その伝えに登場する一方の猫、「相川の猫」について記してきた。したがって、今回は、残された登場猫「長南・伊勢屋の猫」について触れるばかりであると同時に、これで「大桶の猫山」シリーズは完結することになる。

ただし、先に断っておくが、今回の記事はいよいよ猫について書くことがない。伝説中の猫たちに関しては、前回までの記事で書き尽くしてまい、今回は「伊勢屋」の存否を辿り、その歴史を訪ねることしか出来ないからである。紙面の大部分は、むしろ、「長南伊勢屋」の誕生と関連する「松平忠充改易事件」に費やされると思う。興味のない方は、今回は、まるまる飛ばしてしまうことをお勧めする。悪しからず、御了承されたい。

あっ、追記のページに「芝原人形」の「猫」について、簡単に紹介しています。

*

かつての「長南宿」、現在の「長南町長南」に至るには、国道409号・房総横断道路の「長南」の信号を南へと曲がって県道147号・長柄大多喜線に入ればよい。「市原」方面から向かっていくと、左に廃墟と化しつつある「としまや」の閉店した店舗があり、右手には「セブンイレブン」の広い駐車場がある。ここの信号が東から来るとかなりの鋭角になるため、地元の人は手前のこの駐車場を横切っていく人が多い、と云うことは帰りになって気づいた。とにかく、県道147号に入ってしまえば、後は、道なりに進むだけである。

「千葉県」のほぼ中央に位置する「長南町」は、「三途川」と云うあまり縁起の良くなさそうな川の北岸に発達した、古い町である。「戦国時代」には、小さいながら、「長南 (庁南) 武田氏」の居城の南側に発達した城下町として栄えた歴史があり、「江戸期」を通しても、「江戸」と「大多喜・勝浦」方面を結ぶ房総中往還の宿場町「長南宿」として栄え、この地域の交通の要衝としての地位は保持しつづけた町である。「明治初期」には、この町にある「白鳥山・浄徳寺 (臨済宗妙心寺派) 」に、地方行政の中心となる「安房上総知県事役所」が置かれていたこともあって、「上総の名邑」と謳われたほどであった。いまも、古くから発達した宿場の名残を随所に見せる街並を残している。筆者が向かうのは、そんな旧「長南宿」の中心部である。

目印の黄色い「ぜんそく薬」の看板

県道の「長南小学校入口」の信号を過ぎた直後、道の左側に古風な日本建築の建物が見えてくるが、こちらがわれらの目指す「いせや星野薬局」である。黄色に赤文字で「ぜんそく薬」と抜かれた背の高い看板を目印にするとよいかもしれない。現在の「長南」の町にあっても、群を抜く歴史と荘厳さを誇る建物である。

通りに面した黒塗りの建物は、「瓦葺切妻妻入」の「土蔵造」二棟からなっており、現在も店舗・調剤室として活躍している。建物の方は、文化二年 (1805) 、荘厳な門と板塀は慶応二年 (1866) に建てられたもので、どちらも国の「登録有形文化財」指定を受けている。何はともあれ、かつての「長南宿」のほぼ中心に位置しているのは、伊達ではない。



2. 「いせや星野薬局」は、「長南伊勢屋の猫」の「伊勢屋」か?

「江戸初期」の「お江戸」には、俗に「 (江戸に多きもの) 伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と云う流行言葉があったそうで、とにかく他所から初めて「江戸」に来ると、「伊勢屋」と云う屋号の商店と、「稲荷社」、そして「犬の糞」の数の多さに驚いたものだと云う。

犬は家庭型の家畜であってみれば、当然、人口の密集する大都市の方がその数は増える。「犬の糞」が多かったのは、別に「江戸初期」に限らなかったようで、「幕末」の万延元年 (1860) に「和歌山」から「江戸」にやってきた「紀州藩士・酒井伴四郎」も、初の「江戸」見物で早速その洗礼を浴びていることを、彼の日記の「六月廿五日」の項に、「叔父様・予・為吉同道ニて、赤羽根之有馬之屋敷見物、薩摩ノ屋敷見物、其所予犬之くそふむ」と書き残している (江戸東京博物館都市歴史研究室/編 (2010) 『酒井伴四郎日記―影印と翻刻―』江戸東京博物館) 。

識者によっては、この「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と云う地口は「元禄期」に生まれたもので、「五代将軍・綱吉」の「生類憐れみの令」の影響で「江戸中」に犬が増え過ぎて、町中、足の踏み場もないほどに犬の糞だらけになったことも揶揄していると云うが、これは穿ち過ぎだろう。「生類憐れみの令」は、単に犬を殺してはならぬと定めたのではなく、最終的には、どの犬もその町内や長屋できちんと世話するよう義務づけたことが、町人たちの反感を買った最大の理由なのである。犬の糞を路傍に放置などしておいたら、それこそ罪に問われたのである。さらには、変に犬がうろついていると厄介ごとの種だから、新しく迷い込んできた犬や、新たに生まれた犬の子などは新規に登録などせず、夜、闇に紛れて始末したとさえ云われ、一時、「生類憐れみの令」が出される前より、「江戸」の犬の数は減ったとも云われるのである (もっとも、この話とてさしたる根拠はないのだが...) 。

それに、「犬の糞」と云う表現自体が、特定の歴史的背景を担ったものではなく、単に「どこにでもあり過ぎて見向きされないようなもの」の譬えだと云う見方もある。現に、いまでも「いとこ (はとこ) より遠きは犬の糞」のような言葉も地方によっては残っており (筆者は千葉県安房郡鋸南町で採取) 、いちいち気にしていられないほどに数が多い、と云うことの譬えであるのは明白である。

さて、話を元に戻そう。
ここで云いたかったのは、「伊勢屋」と云う名前の店が「江戸」では非常に多かったこと、それだけである。しかし、それが地方の小都市に移っていくと、必ずしも事情が同じだったとは云えないのは当たり前。偶然の一致と云うものは、その母数の増加に連れて出現の回数が増えていくものだから、人口が少なくなれば必然的にそのような一致の回数も減っていくものである。ただ、わが「千葉県」の小都市は、いずれも「江戸」の影響か、「伊勢商人」の移住は多かったようで、「内房地方」の各地に残る「熊野神社」の数の多さなどは、その名残だとも云う。「伊勢屋」も、そう云った意味では、他の地方よりは多かったかも知れぬ。

それにしてもである。当時の百万都市「江戸」と「長南宿」では、人口にして六百倍程度の差はあっただろうから (下の統計を見れば分かるように、実際には七百倍に近かった) 、少なくとも、「江戸」にある「伊勢屋」数百軒に対して一軒くらいの割合でしか「長南」にはなかったと考えられる。実際には「江戸」の「伊勢屋」の数など知れないのだから、こんなこと計算しても無意味なのだが、本当のところ六百軒は絶対になかったと思われる。

「元禄期」の「江戸」の町人街は七平方キロメートルくらいだったとされるのだが、このうち実際に大商店が並んでいたのはその十分の一ほどの面積であろうから、もしも「伊勢屋」が六百軒あったとしたら、商業地一平方キロメートル当たり約八百五十八軒もの「伊勢屋」があったことになる。これだと今風に云えば、ちょっとした駅前商店街には必ず「伊勢屋」が八・四軒以上あると云う計算になる。筆者が、なぜ六百軒はなかった、と云うかお分かり頂けるだろうか。

「大桶の猫山」の話には、「長南伊勢屋の猫」と云うのが登場する。文化年間と推定されるこの時代の「長南宿」に果たして何軒の「伊勢屋」が存在したかの正確な資料は手許にないが、寛政五年 (1793) の『矢貫村萬事書物控帳』 (今関勘四郎家文書) には、「長南」は「矢貫村」全体を合わせて約二百七十軒と云う。明治十八年から十九年にかけて刊行された「小沢治郎左衛門」の『上総国町村誌』には、戸数・三百四十五軒、人口・千九百一人と記されているから、この割合を単純に利用すると、「寛政期」の「長南宿」の人口は大体、千五百人程度だったと考えられる。この数だと、仮に「伊勢屋」があったとしてもせいぜい一軒程度、と云うのは決して乱暴な推測とは云えないのである。

そこで、取り敢えずこの時期に「長南宿」に「伊勢屋」が存在していたかを調べてみると、都合の良いことにすぐに一軒見つかるのである。何故なら、この店はいまも続いていて、その建物の一部は、国の文化財にも指定されているからである。その店とは「いせや星野薬局」である。

*

昭和五十四年 (1979) 発行の『市原市史・別巻』では、「大桶の猫山」伝説を紹介するに当たって、ほとんど前提として、「いせや星野薬局」を「長南伊勢屋の猫」の「伊勢屋」だとして話を進めているほどだから、実際には後発の筆者としては特に検証する必要はなかったのだが、間抜けなことにそんなことも知らなかったため、本項でひと踏ん張りしてしまった次第である。すなわち、実際には「江戸期」の「長南宿」に何軒の「伊勢屋」があろうと、「大桶の猫山の伝説」の「伊勢屋」は、既に特定されていたのである。骨折り損の草臥れ儲け、大山鳴動して鼠ゼロ匹と云った観である。



3. 「いせや星野薬局」について


この「いせや星野薬局」のホームページに掲げられた家伝によると、先祖が「房総」の地を目指したのは次のような事情によるらしい。

伊勢国長島の藩主松忠充の没落により、御典医見習であった増井道益は遠く上総国市原郡月崎村に隠遁している医道の師を訪ねるため、祖先墳墓の地長島を旅立ったのが、元禄二年三月のこと

ここで、「松忠充」とは「松平忠充」であることはただの誤植として置くとして、「松平忠充」の没落と云う表現と、元禄二年 (1689) 三月と云う時期が気になる。「松平忠充」が狂気による乱行を理由に改易に処されたのは、元禄十五年 (1702) 八月二十一日であるから、実際には「増井道益」は「伊勢長島藩」の没落を目撃している訳ではない。そして、「道益」がそもそも、藩の改易によって地位を失ったのではないならば、なぜ彼は高い地位と故郷を捨てねばならなかったのか、疑問は百出する。「道益」の一代記などが残っていれば、一級の史料であるばかりでなく、きっと興味深い読み物になったことだろうと思われる。

元々、「家康」の同母異父弟の家に当たる「伊勢長島」の「松平家 (久松松平氏) 」は、そもそも、「忠充」の祖父「忠良」が既に悪政の咎で「下総関宿」から「美濃大垣」に移され、「忠充」の父「康尚」の代に「伊勢長島」に移ってからも、善政を施いていたとは云いにくく、治水事業の軽視や時宜を得ない重課税などで人心を失って、一揆を誘発し、「幕府」の叱責を受けると共に、多くの有意の人士を領内から流出させている家柄ではあった。「松尾芭蕉」の『奥の細道』の旅に同行したことで知られる「河合曾良」が「伊勢長島藩」を致仕したのも、「忠充」の父の治世の晩年であった。

「康尚」は、貞享二年 (1685) 十月七日、病気を理由に隠居し、家督を「忠充」に譲ったが、「康尚」の存命中は、それでも「忠充」の行状はいくらか安定していたと云われる。しかし、家督後二年、貞享四年 (1687) 十月には些細なことから家臣三人を追放するなど、早くも将来を暗示するような事件も起こしている。

「いせや星野薬局」の先祖「増井道益」が「伊勢長島藩」をどのような事情で退くことになったかは、いまとなっては分からないが、その退藩は家臣追放事件の二年後でもあり、既に「忠充」の暗君ぶりは隠しようがなくなってきていた時期と思われる。「医師」や「茶坊主」などは、例外的に主君の近くに仕え、親しく触れ合う機会が多いだけに、異例の出世を遂げたり、思わぬ権勢を振るったりすることもある半面、気分の変わりやすい暗愚の主君に仕えていると、命の危機にも曝されやすい。「道益」が故郷を去った理由は、案外こんなことだったのではないだろうか。

「月崎」に向かった「道益」は、結果としては「長南宿」へ永住し、医院兼薬屋を開業することになったと云うのである。「伊勢長島藩」と末路を共にしなかっただけでも、先見の明があったと云えるのだが、以降、「長南」を代表する名家の基を築いたのだから、なおさらである。そして、「道益」が新天地に開いた店につけた屋号が、自らの出身地の名を冠した「伊勢屋」であった。以来、代々「伊勢屋伊兵衛」を名乗り、家業を継承して、現在に至るまで三百有余年、現在の当主は第十三代目に当たるそうである。

*


先日、実際に「いせや星野薬局」を訪ねる機会を得たのだが、残念ながら、「大桶の猫山」の伝説は、『市原郡誌』に書かれている以上には伝わっていないようであった。次代の若旦那は、伝説そのものが初耳だったようで、若旦那の御母堂に関しても「父にそのような話を聞いたことがある」と云う程度であった。しかも、彼女の子供の頃は、猫も飼っていたそうだが、現在は飼っていないと云うことであった。当主の名前「伊兵衛」に関しても、昔はそうだったけれど、いまは適当につけているのよ、と至ってさばさばと話して下さった洗練された気風のよい口調と雰囲気が、収穫の少なかった「長南」行きを、何だか清々しいものに感じさせてくれたから不思議である。

ちなみに、建物屋敷は、それは見事なものでした...。
それにしても、いま薬局に隣接する美容院と寿司屋も、土地は元々「伊勢屋』のものだったと云うのだから、地所だけでも広大だったのだろう。



4. 「松平忠充」改易事件

まったくの「余談」だが、「白戸三平」の劇画、『カムイ外伝』第三部「変身の色」第二話「人狩り」に、「前岩津藩主・森磐山 (忠成) 」と云う悪辣な人物が登場する。筆者の知る限り、架空の人物である。そもそも、実在の人物が、いくら御乱行とは云え、あんなに無軌道で破廉恥なことをするはずがない、と昔は素直に考えていた。しかし、そんな考えも、長じてより深く改易大名の不行跡などを調べるようになって、根本的に覆ってしまった。そして、こちらは純粋に「予断」なのだが、この「森忠成」なる人物のモデルになっているのは、実は前項に登場した「松平忠充」ではないかと、いつの頃からか秘かに思うようになったのである。

作中の「森忠成」は自身、武芸を好み、若くして「関ヶ原」「大阪の陣」で武勲を挙げた「戦国」の生き残りで、隠居後も「犬追物」などに嵩じて無聊を託つ日々を過ごしていたが、生来の傲岸不遜さから、やがてより強い刺激を求めて、士官を餌に武芸者を募ったり、単に浪人者や無宿人を拉致したりして、互いに野試合をさせたりした挙げ句、武器をとり上げ、命乞いの代償に様々な恥態を要求した後、彼らを獲物とする「人追物」と云う残虐かつ淫糜な「マン・ハント (人間狩り) 」遊戯を開始する。話中では、敵討ちの若い姉弟が本懐を遂げるのを援助してやる代わりに礼を強いて、二人を裸にひんむいて様々な恥ずかしい行為を要求した末に、弟に姉を肛門姦させたり、かなり無茶苦茶な人物として描かれている。

* ちなみに、筆者の読んだ『カムイ外伝』は、オリジナル板の「ビッグコミックス」シリーズの第八巻だったが、現在は色々な外装で繰り返し新版が出されているため、出典に関しては、変に混乱を引き起こしても困るので、詳しく書くのは控えることとする。

『カムイ外伝』を初めて読んだ頃は、これは「白戸三平」の完全な創作の結果で、連載の媒体が成年誌に移ったことで、ちょっと行き過ぎた表現に走ってしまったのかと思っていたが (筆者は当時中学生) 、後に、「松平忠充」の乱行を知るに至って、認識を改めることとなったのは、既に述べた。歴史上の人物「松平忠充」と架空の人物「森忠成」の間には、もちろんかなりの相違点もあるが、両者に共通する強烈な性欲と支配欲、そしてそこから引き起こされる殺人の欲求と肛門姦への強いこだわりなどは、偶然を越えて両者の間にモデルにしたと云う関係があるのではないかと、筆者が疑うに十分な特徴を備えているのである。

「松平忠充」の歴史的な人物像に関しては、作者未詳ながら、「元禄」頃までの大名家の名聞・評判などを書き連ねた貴重な同時代史料である『土芥寇讎記 どかいこうしゅうき 』に、断片的ではあるが、以下のように記されている。

「智に似たる愚将」
「身上恰合に過、家人の仕い様、位高過ぎて、士卒迷惑す。忠充通る時は、家士ども頭を地に付、手を突、平伏
し、主人を見ず。若し少しも頭高ければ、稠しく呵を得、或は閉門逼塞す」
「女色・美少人両様を好み愛す」
「行義強く、人使い宜しからず」
「僅一万石の身上にて、頭を地に付さする事、不相応なり」

未詳『土芥寇讎記』第三十九巻、元禄三年頃 (c. 1690)
金井圓/校 (1967) 『土芥寇讎記』江戸史料叢書、人物往来社、所収

さて、実際の「松平忠充」の乱行について、「岩波文庫」の『元禄世間咄風聞集』に基づいて、概略を次に紹介する。解釈・要約は、筆者による。

「忠充」は、日頃から女色・男色の双方にふけり、酒宴に溺れる毎日を過ごしていた。側室は四十人以上、特にお気に入りの側女だけでも八人はいた。しかし、近侍する小坊主やお気に入りの女たちが、粗相でもすると、「小石川御堀端」にあった特製の牢屋へその者たちを連れていき、監禁したり、あるいは小刀攻めなどにした。

「御留守居役」の「朱雀平助」があまりの乱行に諫言すると、「近比尤成儀 ちかごろもっともなるぎ を申上候」とその場は鷹揚に引き下がったが、その後十五日間「平助」が御目見えに現れないのを受けて、「忠充」は、「側用人」の「大岡九左衛門」を召して、「平助」は近頃主君に対して不遜であるゆえ閉門を申し付けよと命じた。呼び出された「平助」は、仰せであればやむを得ないが、御目見えに伺えなかったのは、殿から何処そこの水道普請を仰せ付けられたため、朝は未明に現場に出勤し、夜に入ってから帰ってきていたからで、ひとえに公儀大事に思えばこそであり、不遜な気持ちからではないと申し開きをした。

これを聞いた「九左衛門」が、何の無調法もないようなので御許しになられるようにと言上すると、「忠充」は、「九左衛門」にも閉門を申し付けた。その後、「忠充」は「家老」の「藤田八郎左衛門」を召して、二人に切腹を命ずるよう申し付けた。「八郎左衛門」は、再三に渡って罪もない者に切腹を命ずるのは思いとどまるように申上げたが、「忠充」が聞かななったため、罪の証明のない切腹命令の伝達は出来ないと告げるに至って、「忠充」は「八郎左衛門」にも即日切腹を申し付けた。「八郎左衛門」は切腹し、二人はそれに続いた。

ことはこれだけで済まず、「九左衛門」の六歳と四歳の子供は刺殺刑に処され、「平助」の十七歳と十四歳の子は切腹させられた。「八郎左衛門」の子は、不在であったため、討手がかけられた。

事ここに及んで、遺族の訴えを受けた一門中は、「忠充」を捕らえ、大小の刀を取りあげて座敷牢に押込め、幕府の裁可を仰いだのである。その結果、「忠充」は罪有りと断ぜられ、領地は没収、藩は改易となった。「八郎左衛門」の子にかけられた討手は呼び戻された。

参照・長谷川強/校 (1994) 『元禄世間咄風聞集』岩波文庫、pp. 245-250

ただし、四男「康顕」に五千石、五男「尚慶」に千石が下賜されて家名存続が許され、後に「尚慶」が早世した「康顕」の跡を継ぎ、子孫は六千石の旗本として存続したと云うのだから、随分な厚遇を受けた感は否めない。既に見たように、「忠充」の「久松松平氏」は、「家康」の生母とつながる名門であったため、格別の計らいを得たのである。しかし、別の見方をすれば、切腹事件が八月十五日で、幕府の採決が下ったのが八月の二十一日だったと云うのだから、相当なスピード解決だったと云える。一見、薮から棒に見えた重臣三人の切腹事件も、「忠充」の数十年に渡る不行跡は、「久松松平氏」と云う家柄を持ってしても揉み消せないほどに、世間でも評判になっていたのだろう。

しかし、罪を犯した張本人とその子孫の扱いに比べ、「忠充」の乱行につき合わされた稚小姓たちの命運は苛烈かつ悲惨だった。

佐渡守様御側に召遣はれ候ふ十二、三・十四、五才に罷り成り候ふ子共、無調法なる子共これあり候ふ節は、其の咎に鉄火箸を赤く焼き候ひて、尻に御突き込まれ候ふ事、多くこれあり候由、沙汰御座候ふ。

(読み下し文・筆者)
長谷川強/校 (1994) 『元禄世間咄風聞集』岩波文庫、p. 250

上記文の「無調法なる子共これあり候ふ節」と云うのは婉曲語法で、遠回しに男色の関係、すなわち肛門性交の関係にあったと云うことを示唆している。それにしても、藩主の趣味で男色の相手に選ばれつつ (もちろん自ら媚を売った者もいたにせよ) 、藩主その人の軽い処罰に対して、稚小姓たちの刑罰は、「目には目を」式と云えど凄まじい。徒らに権力のおこぼれに預かった者の末路とも云うべきか。それにしても...。

蛇足だが、時折、この改易事件を扱った文章に、「忠充」は、切腹・処刑した重臣らの遺族に訴えられて公儀の裁可を受けたかのように書かれたものがあるけれども、これは正確ではない。「幕府」に訴え出たのは、「松平氏」の親族・一門であり、俗に云う「親族会議」の末、これ以上放っておくと、累が自分達に及ぶ可能性があると判断したのだろう。作者未詳の『元禄宝永珍話』と云う書物の巻二に「右佐渡守儀失心して、親族共議せず、家老用人留守居役父子共、是を殺害に及び候旨、親族より訴るに依て、吟味を遂げられ候処、不届に思し召され、これにより領地これを召上げられる」と云う下りがあり、ここの「親族」と云う言葉が、直前からのつながりで、切腹・刑死したものの「親族」と受け取られ、やがて「遺族」と誤伝されたのかも知れない (森銑三/監『続日本随筆大成 別巻・風俗見聞集五』吉川弘文館、1982、pp. 203-206) 。



5. おわりに

皮肉と云うほどではないが、「忠充」が預けられ、その子孫が交代寄合格の旗本として領した土地と云うのは、「下総国飯笹」だったと云うことである。現在の行政区分で云えば、「香取郡多古町飯笹」である。「忠充」は、「久松松平氏」の嫡流 (康元系) に当たるが、傍流 (勝俊系) に「多古一万二千石」の「松平氏」がいたため、その隣接地が宛てがわれたのだろう。親族の藩に監視させると云う意味もあったと思う。

近い、と云うほどではないが、「長南」にいた「増井道益」の耳には、「飯笹」の「忠充」の噂くらいは入ってきたことだろう。あるいは、本人自身、旧主の動向を気にかけていたかも知れない。いずれにせよ、「忠充」の風聞などを耳にしたとき、「道益」は、はたして、どのような感想を抱いたものだろうか。


「いせや星野薬局」の地図は、こちら


追記には、「芝原人形の猫」の紹介を少しだけしています。よかったら、覗いてみて下さい。


参考文献

・作者未詳『元禄宝永珍話』元禄年間
    森銑三ら/監 (1982) 『続日本随筆大成 別巻五・風俗見聞集』吉川弘文館、所収
・作者未詳 (c. 1690) 『土芥寇讎記』第三十九巻、元禄三年頃
    金井圓/校 (1967) 『土芥寇讎記』江戸史料叢書、人物往来社、所収
・長谷川強/校 (1994) 『元禄世間咄風聞集』岩波文庫
・小沢治郎左衛門 (1885-1886) 『上総国町村誌』、復刻版・名著出版、1978
・県立房総のむら (1904) 『長南町長南の歴史と民俗』自刊
・江戸東京博物館都市歴史研究室/編 (2010) 『酒井伴四郎日記―影印と翻刻―』江戸東京博物館



千葉県の猫神・相川の猫

.25 2010 関東地方 comment(2) trackback(0)
大桶の猫山 (2)

真言宗・豊山派

光明山・普門院
市原市相川 93


「秋葉本家」の周囲。美しい田園地帯であった。


1. はじめに : 「大桶の猫山」の話


前回の記事で、「市原市大桶」の「城跡山」を舞台とした「猫の踊り」伝説を紹介した。このお話の興味深いところは、筆者の知っている限り、いままで著名な出版物で紹介されたことがないと云うことである。もちろん、断片的には前回の記事でも見たように『市原郡誌』や『市原市史』のようにこの伝説を採り上げている書籍も過去の地誌類にはあるが、まとまった話と云う形で収載している本はないと思う。

これは、民話学者の側の無知や怠慢から起きたことではなく、むしろその正反対で、民話などを専門に扱う人々の高い見識とプロフェッショナリズムが、断片的にしか分からない伝承を恣意的に再構成して復元することに対して自重するよう働いているのだと思う。これは、我が国の民話学の全体的な動向が非常に健全で良心的であると云うことの証左なので、大変喜ばしいことなのだが、筆者のような不躾な門外漢、と云うよりただの「猫」伝説収集家としては、まとまった形で再話されるのを見たいと云うのが本音である。

と云う訳で、以上のことを断った上で、筆者は今回の記事を書き始めるに当たって、手に入れた資料を元にして「大桶の猫山」の話を再現しようと思う。これは、ある種の趣味的な試みに過ぎず、学術的には何の価値もないことは、あらかじめ断っておきたい。

私家版

大桶の猫山

今を去ることおよそ二百年、秋夜の月清 さや けく虫の喞 すだ く頃、かつての「市原郡・大桶村」 で起きた出来事である。

*

ある日、「相川村」の「新三左衛門」が、用事があって遠くへ出掛けた帰り、「大桶村」の峠に差し掛かった辺りで、日がとっぷりと暮れてしまった。「新三左衛門」は、これは困ったことになってしもうた、と必死に歩いたが、気づくとすっかり道に迷ってしまい、いつの間にやら山なか深くに足を踏み入れていた。

たいそう心細くなった「新三左衛門」が膝を抱えて途方に暮れていると、遠くから何やら小さな音が聞こえてきた。耳を澄ますと、それはそれはかすかだが、笛や太鼓の鳴る、賑やかなお囃子の音のようだった。こんな山中でお囃子が聞こえるなんて、と不思議に思った「新三左衛門」は、音のする方へと忍び足で寄っていくと、やがてはっきりとお囃子が聞こえてきた。

 ピーヒャラドンドン、ピーヒャラドン
  ピーピーヒャラヒャラ、ピードンドン

それは楽しそうなお囃子だった。「新三左衛門」は、すっかり好奇心をくすぐられ、先ほどまでの不安を忘れてさらに近寄ってゆくと、生い茂る樹々の合間から、盛んに燃える篝火の灯りも洩れ、何やら大勢が歌い踊る影まで見えてきた。

これは助かった、と喜んだ「新三左衛門」が仲間に入れてもらおうと飛び出しかけたとき、ふと踊っている数百の影を見ると、みな「新三左衛門」よりかなり小さいことに気づいた。はて、これはどうしたことかと思って二度見直すと、「新三左衛門」は、喉まで出かかった悲鳴を危ないところで飲み込んだ。手拭をかぶって、手を振り振り、足を踏み踏み踊っていたのは、みながみな「猫」だったのである。

驚きの中、さらに目を凝らすと、猫たちは、山海の珍味を並べて、美酒を互いに差しあっては、笛太鼓の歌舞音曲に酔い痴れていた。しかも、よくよく見れば、「新三左衛門」が知っている猫も何匹がいるようだった。そう、一匹は「長南宿」の「伊勢屋」の猫で、もう一匹は何と、「新三左衛門」のうちで飼っている猫だった。

我が目を疑っていると、我が家の猫が目敏く「新三左衛門」を見つけて、酒肴を持って寄ってきた。そして、主人を御馳走でもてなした後、早くここから帰るニャと諭して、帰り道を指し示してくれた。

「新三左衛門」は、何だか化かされたみたいな夢心地の気分で、それでも教えられた通りに道を辿ると、いつの間にか「相川」の我が家の前に着いていたと云う。

「新三左衛門」と猫が、その後どうなったかは知らぬ。



2. 「相川」の地へ

今は「市原市」に属する旧「相川村」の中心部に至るには、国道297号・大多喜街道のバイパスと本道を結ぶ区間を走りながら、「浅井橋」で「養老川」を東へと渡った後、二本目の小さな路地を右へと入ればよいだけである。


入口近くには立派な石鳥居の「石神神社」があり、その先、左手の空き地に石仏群が現れるが、この辺りが蛇行する「養老川」の北岸に広がる集落の中心だと云えよう。


石仏群が立ち並ぶのは、かつての「普門院」で、現在の「相川自治会館」の裏手の竹林があった土地らしく、無数の石仏も、この竹林を伐採した時に出てきたものだと云う。この石仏群の正面には白い壁の木造建築物が建っているが、これは自治会館なのである。建物自体から見ると石仏のあるのが後ろ側で、正面に廻ると、前庭に子供用の遊具や、さらに数体の石仏などが据えられていた。建物の入口には、「普門院」の表札が今も掛かり、集落全体で管理しているとのことであった。

今は地区の自治会館となった「普門院」。正面から撮るのを忘れた...。

この「普門院」は、いまでこそ見る影もないものの、かつては「市原郡」の「四国八十八ヶ所霊場」の「第十一番札所」として栄えた寺院で、本場の霊場の「藤井寺」を模したものであったと云う。

「市原郡」の「四国八十八ヶ所」とは、天明三年 (1783) 五月に「能満」の「釈蔵院」を「第一番札所」と定めたのを皮切りに、「第八十八番札所」の「千光院」 (菊間) までに「四国の八十八ヶ所」を移築したものである。ちなみに、「普門院」は、「本尊」が「十一面観音」であったことから、この他にも「上総三十四ヶ所観音霊場」の「第三十四番札所」でもあったそうである。



3. 「相川の猫」に関する諸考察


「相川の猫」の伝説と云うのは、「大桶の猫」と同じものである。したがって、「大桶の猫」の記事の中でもまた今回の記事の冒頭でも、既にこの伝説の内容は紹介済みなのだが、便宜上、『市原郡誌』『千葉県の不思議事典』の中の記述に関しては、重複になるが、「大桶の猫」の記事の中から該当部分を下に抜き書きする。

六、猫山

大桶区にあり之を古老に問ふに今より凡そ二百年の前頃、東は長南伊勢屋の猫、西は相川村新三左衛門の猫を始めとして、数百の猫集まりて盛宴を張ることあり、秋夜月清く虫喞く頃、其の歌舞の状を目撃することありしと、今は此の山周囲を青年団の為めに伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に四・五の老椎を存するに過ぎず。

千葉県市原郡教育会 (1916) 『市原郡誌』千葉県市原郡役所、p. 1057

『市原郡誌』には記されていないが、『千葉県の不思議事典』によると、「新三左衛門」は、「猫の踊り」を目撃するに当たり、我が家の猫に御馳走になった上、早く帰るよう諭されたと云うから面白い (森田保/編「猫の宴会」『千葉県の不思議事典』新人物往来社、1992、p. 197) 。

さて、「キング・レコード」が出している『昔話ふるさとへの旅 (12) ・千葉』と云うCDに「10. 七曲の猫山」と云う話が収められており、その中に「相川の太郎兵衛の猫」と云うのが登場するのだが、再三の問合せにも関わらず「キング・レコード」が採話地を明らかにしないので、これが「市原市の相川」なのか「富津市の相川」なのか、はっきりしないのである。筆者は、「市原の相川」の「猫伝説」の影響を受けて「富津の相川」の「猫伝説」が派生したものと見ているのだが、詳しくは「七曲の猫」の記事の中で述べることとする。

「市原の相川」の話に戻ろう。
昭和五十四年 (1979) 発行の『市原市史・別巻』には、「相川の新左衛門」のことを「相川 85、秋葉良一氏」と紹介しているが、これはどうやら違うか、あるいは少なくとも断定するには早計の情報のようである。先日、同住所の「秋葉氏」を訪ねたところ、住所も名字も間違いないと云われたが、「新左衛門」も「秋葉良一」も、北隣りの「分家」のことだそうで、「相川 85」の住所は、今も昔も「本家」に当たるそうで、「猫の伝説」も「本家」に伝わるものだと思うと告げられた。「本家」の屋号は「かみ」と云うそうで、本人たちも漢字は分からないと云うことであった。逆に、「分家」の「屋号」は「しんたく (新宅か?) 」だと云うことであった。「本家」の現当主は「秋葉徹」氏で、氏の話では、おそらく「本家」の先祖の「ぜんしょう」あるいは「新三郎」と云う人の代の伝説ではないかと云うことであった。おそらくは、後者の「新三郎」だと思うとおっしゃっていた。

このことから筆者が気づいたことが一つあった。大正五年 (1916) 発行の『市原郡誌』には、「相川の新三左衛門の猫」と記され、昭和五十四年 (1979) 発行の『市原市史・別巻』には「新左衛門」と書かれているのをただの誤植くらいに考えていたのだが、どうやらこれは「新三郎」と「新左衛門」と云う二つの名前が混ざってしまった結果の誤植なのではないかと思えてきたのである。いずれにしても、この件に関しては、今後とも継続的に調査していくつもりである。

今回は、集積した情報が未だに少なく、どことなく中途半端な記事と鳴ってしまったが、今回はこれで一旦の終わりとする。

*

残念ながら、現在、「秋葉本家」では猫を飼っていないそうである。


「相川」地区の「普門院」の地図は、こちら



参考文献
・千葉県市原郡教育会 (1916) 『市原郡誌』千葉県市原郡役所
・市原市教育委員会/編 (1979) 『市原市史・別巻』市原市
・森田保/編 (1992) 「猫の宴会」『千葉県の不思議事典』新人物往来社
・キングレコード (2005) 「10. 七曲の猫山」『昔話ふるさとへの旅 (12) ・千葉』
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