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長野県の猫神・小野神社の唐猫

.30 2011 中部地方 comment(2) trackback(0)
小野神社の唐猫様・前編 ~塩尻市の猫神 2~

信濃国・二之宮
小野神社

塩尻市大字北小野 175-1
0266-46-3693

小野神社・拝殿
「小野神社・拝殿」


1. はじめに

「信濃国二之宮・小野神社」にある「唐猫様」のことを筆者が初めて知ったのは、もう何年も前のことになるが、『長野県史・民俗編』で「仁科神明宮」のことを調べようとしている時だった。調べものと云うのは、何故か探し物と似ていて、探しているそのときよりも、そうでない時の方が、新しい発見などに恵まれるようである。「小野神社」の「唐猫様」との出会いも、そう云った具合の偶然によってもたらされた。

ただ、『県史』の記述は、非常に短く、せっかく写真も掲載しているのに、印刷が荒いのか、肝心の「唐猫様」の細部がまるで読み取れない。誰かの手に持たれた一体の魚雷状の「狛犬」か、後ろに長く胴体を着けた「獅子頭」のようなものが漠然と白黒の映像で見て取れるだけであった。

しかし、最も筆者を悩ませたのは、この「唐猫様」がどこに所在するものなのか、正確な記述がないことであった。上記写真下のキャプション横に、括弧に入って「塩尻市北小野宮前」とあるばかりである。始めは、個人蔵のものなので、それ以上の住所は掲載出来ないのだろうと思っていたのだが、よくよく考えてみると、不鮮明な映像にあってさえも、必ずしも精緻な彫像とは云えそうにない遺物が、苟しくも『県史』に載ろうと云うのだから、それなりにその地域の社会文化に根ざしたもののはずである。そして、そうであるなら、それが個人蔵であると云うのはやや不自然だとも思った。探せば、そう云う例がないでもないが、やはり一般的には例外的だと云えるだろう。しかも、写真に映っているものは、明らかに何か祭祀上の神具か偶像に見えるのだから、地名の「宮前」と併せて考えた時、もしかしたらこの住所の付近に神社でもあって、そこの所蔵品なのではないかと思い立ったのである。

少し調べると、当地には「小野神社」と云うかなり大きな社があることがすぐに知れ、こんなに大きな社のことで、しかも「平成」に入ってから刊行された『県史』に載っているほどの民俗的事項ならば、「塩尻市役所」の「教育委員会」に問合わせれば、何か収穫があるだろうと考えて、さっそく電話をかけてみた。しかし、回答は案に相違して、そのようなものは聞いたことがないと云う、間髪おかぬ即答であった。まあ、電話をかけたのが四時四十分過ぎだったのがいけなかったのか...。

やむを得ず、あれこれと手元の資料をにらんでいると、詳細な地図だと、「小野神社」の前に「小野神社資料館」と云うのがあった。もしも、「唐猫様」が神社の所蔵品であったなら、この資料館に保管されているか、少なくともこの資料館の人がその所在を知っていそうなものである。

旅行決行の日が明日に迫り (2010年の夏の話であるが...) 、もはや残された手段はあまり多くなく、四時五十分頃と云う、問合せをするには少し遅い時間にはなっていたにも関わらず、資料館の連絡先を何とか見つけて電話をかけることにしたのである。しかし、ついていないときは何事もうまく行かないもののようで、御不在なのか、資料館の方は電話に出ることはなかった。ここに至って、筆者の腹は、半ば焼け気味に決まったのである。そう、いきなり現地調査に突入すると云う、無謀かつおそらくは何の収穫も期待出来ない手段に打って出ることにしたのである。

かくして、筆者は、何ら具体的資料のないまま、「小野神社」のものと思われる「唐猫様」探しに出かけることとなった。



2. 「善知鳥峠」

実際に「小野神社」に向かう段になったのは、
より北の方にあるとは云え、同じ「塩尻市内」にある「常光寺」を訪問した後だったので、行路としては特に難渋することなく、すんなりと目的地に向かうことが出来た。簡単に説明すれば、「常光寺」から、このお寺に行くときに使った国道153号・三州街道に戻り、後はずっとこの道に沿って南下していけばよいのである。

この「三州街道」別名「伊那街道」と云うのは、「古代」以来の歴史を持つ道で、かつて
「科野 (信濃) 」の「国府」が、現在の「上田市」付近から「松本市」界隈に遷されたとき、「古代」の「東山道」もそこを通るように整備されたと云う。この道は、「中央」から「東国」へと抜ける場合の当時の最重要経路となり、「松本」はその枢要を占める交通の一大拠点となったのである。この「松本」と「東海地方」を結ぶ「古代」の道が、後に「三州街道 (伊那街道) 」として整備され、今の国道153号の元となったのである。

この「三州街道」を通って、「常光寺から「小野神社」に向かう道のりは、本来なら、十五分とかからない行程なのだが、ここの国道は片側一車線なので、その日の交通事情によって、多少は時間が多くかかる時もある。ただし、長野自動車道が開通するまでは、この国道が「長野」「松本」と「伊那地方」、ひいては「名古屋」とを結ぶ唯一の幹線道路だったため、かなりひどい渋滞をすることもあったと聞く。しかし、高速も開通した今、筆者が通った時の感想としては、少し速度の遅い車の後ろについてしまうと、ついてないな、と感じてしまう程度の、基本的にはのどかな道路であった。もっとも、筆者は地元民ではないので、本当の交通事情は、とんと分からぬ *。

* 後日、地元の人に尋ねたら、「塩尻側」は登坂車線があるものの、朝はいまでも渋滞が酷いらしい。冬になると、峠の南北の麓では雨でも、峠は雪などと云うこともあり、雪や凍結の関係でトラックなどの横転事故も多いそうである。そんなときは丸一日通行が止まってしまうこともあると云うことであった。

「常光寺」から「小野神社」に向かうとなると、寺の前の通りを東へと走って、まず「東の沢」を越えることから行路が始まる。その後、「上西条強清水バス停」の近くで「双体道祖神」の前を通過しつつ、「権現川」の暗渠になった箇所を過ぎ、そのまま右手の山裾に「上西条神社」 (別名「権現神社」) と
「強清水」の流れを眺めつつ進んでいく。少し先、左手には「上西条浄水場」がある。ここから先は、中央本線の線路を越えて、少しばかりの坂を上ると、すぐに国道153号に出るので、これを南 (右) へと入るばかりである。ちょうど中央本線の「塩嶺トンネル」の入口付近であるが、既に地名は「善知鳥 うとう 山」となっているから、かの「善知鳥峠」は近い。

もちろん、「
善知鳥峠」はどこか、と云うのはそんなに分かりにくい話ではない。この国道を走っていて、緩やかな坂を上り続けていたところに、急に前方の視界が開けて長い下り坂が始まる辺りが峠の鞍部である。峠の鞍部の東側には、「分水嶺公園」が設置されており、濃い茶色に白抜き文字の立派な看板が立っているから、車で走行中でもすぐに分かるだろう。ちなみに、ここの峠には、かつてドライブインなどの観光施設があったらしいのだが、高速道の開通で、それも過去の話となってしまった。ただ、「分水嶺公園」には、峠の由来を記した案内板や石碑類、それにこの地が「中央高地」の水系を南北に分つ分水嶺の地であることをあらわしたモニュメントなどもあるので、興味のある人はちょっとばかり立ち寄るのもよいかもしれない。

ちなみに、この峠を挟む南北の道は、北の「塩尻」側がやや急で、南の「辰野」側は緩く、長い。だが、昔から名にし負う難所として知られた峠にしては、馬力の足りない我家の「マーチ」でも、さほど減速せずに越えられたから、少し拍子抜けの感はあった。しかし、改めて標高を調べてみると八百八十九メートルもあり、われらが「千葉県」のどの地点よりも遥かに高いのである。地平線上に聳える白い峰々を眺めるときもそうだが、こう云うときも自分が「中央高地」に来ているんだ、と云うことを強く実感させられる。

しかし、ここの峠道は、昭和四十六年 (1971) の大規模な道路改良までは、急斜面に三十一ものカーブを有する、文字通り難所と呼ぶに相応しい悪路だったと聞く。
いまでも、よくよく観察して峠道を走っていると、かつてのカーブ部分がまるで三日月湖のように左右に残された区間があるのに気づくことだろう。しかも、「近代」以前は、基本的に旅人は皆、徒歩だったのだから、勾配もさながら、この長い距離を踏破するのは相当に苦しかったろうと思う。ましてや麓で降っていなかった雪が降ったりすれば、命にも関わる事態となったに違いない。

ところで、前回の記事でも触れたが、「善知鳥峠」は「松本平」と「伊那谷」との境をなす峠である。「常光寺」裏の「飯縄城」から尾根伝いに登っていくと、「嵐城」「西条城」と後詰めの山城があり、その尾根の到達点が「大芝山」 (1210m) であることも前回記事で記したと思うのだが、「善知鳥峠」は、その東の鞍部に位置するのである。往時、この峠がとれほどの要衝の地であったかは、この地理的な配置からだけでも推し量ることが出来る。しかも、ここの峠は、「信濃川」水系 (日本海側) と「天竜川」水系 (太平洋側) の分水嶺となっているのだから、その境界性は明らかである。古今、その名が高いのも納得出来る。

ところが、現代の地図を開いてみると、ここの峠はまるまる「塩尻市」に入っており、決して行政区分の上では境界にはなっていないのである。そこで、地図を丁寧に辿っていくと、「塩尻」と「辰野」の境は、何と、これから筆者が訪問しようとしている「小野神社」のある「小野地区」の真ん中を通っているのである。「北小野」は「塩尻市」、「 (南) 小野」は「辰野市」と云った具合である。しかし、この不思議な現象に関しては、後ほど、より丁寧に触れることとしよう。

*

ところで、この峠には、「善知鳥」を巡る古くからの地名伝説がある。まずは、地元に伝わると云うその伝説を見てみよう。

昔、ある猟師が北国の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴い、都に売りに行く。雛の親は、我が子を求めて「ウトウ、ウトウ」と鳴きつつ、猟師の後を追った。「信濃」まで来て、猟師親子は険しい峠道で激しい吹雪に見舞われた。吹雪の中、峠を越えようとする猟師に、親鳥は、なおも追い縋る。麓の里には、吹雪の中「ウトウ、ウトウ」と鳴く鳥の声が響き渡った。

やがて猟師は猛吹雪に力尽き、峠を越えることなく、その地で果てた。吹雪の後、人々が峠に上ると、我が子を庇うように死んだ猟師の懐で、泣きじゃくる息子の姿があった。その傍らには、やはり子を庇うように斃れた親鳥の袂で、雛鳥が鳴き続けていた。

人々は、その鳥の名が「善知鳥」であると知り、猟師と共に手厚く弔った後、その地を「善知鳥峠」と呼ぶようになったと云う。

参照・はまみつを/編 (2006) 『信州の民話伝説集成・中信編』一草舎

この伝説の面白いのは、「信濃」のまん真ん中で、突然、「北国の猟師」が登場することであろう。確かに、かつての狩人たちは、我々からは想像出来ぬほどの長距離を移動したことは、以前、拙稿「『
ハヤマ信仰』に関する一考察 5) 」で、「武田太郎」氏の文を引いて述べたこともあるが、それにしても「筑摩地方」と「伊那地方」の境にまで、暗に「陸奥」の出身であることが窺われる猟師がやってくるのは、いかにも不自然な気がする。

しかし、筆者がまだ大学に通っていた頃、ふとしたことから「秋田県」の「阿仁地方」を旅することがあったのだが、そのときたまたま出会った熊撃ちの老人に、かつての「マタギ」は、動物を追って「伊那谷」くらいまでは出掛けることがあったと聞いたことを思い出すと、「陸奥」から「善知鳥峠」まで来る猟師がいても、まんざらおかしくないのかもしれない。確かに、「柳田國男」も、『神を助けた話』の中で、「奥羽の山々にはマタギと謂つて、狩を主業として居る特別の村があつた。今でも冬に為ると、峰づたひに熊を逐ひながら、信州あたり迄も漂泊して来ると聞いている」と証言していた (全集 3、p. 60) ように思う。けれども、いくら何でも、幼い子連れでやってきたと云うのは、流石にあり得なかろう。

大体、特定の土地の事物とのつながりを主張することで自らを歴史化しようとする「伝説」と云う媒体は、その地理的なナラティヴをより明確にしようとすることが多い。したがって、普通の「伝説」なら、この「猟師」親子がどこから来たのかくらいの説明はあってもおかしくない。あるいは、逆に、典型的な「昔話」ならば、具体的な地名は語らない代わりに、その地理的な設定はすべて漠として、「北国の猟師」とも云わず、ただ「猟師」と語ることが多いだろう。要するに、上の話は、伝説と見ても昔話と見てもどっち付かずで、その他にも、鳥の不思議な鳴き声についての説明もなく、何だか変なのである。何と云うか、話が語られる前に、既に幾つかの前提が紹介されてしまっているかのような印象を受けてしまうのである。

だが、それもそのはず、この民話には、下敷きとなる有名な伝承、あるいは「謡曲」が存在するのである。伝承の方を巡る説明は、やや入り組んだことになるので、ここでは世に名高い「謡曲」の方を紹介しよう。内容的には、上で見た「長野」の民話の後日譚と云う形になるが、その成立の前後関係は明らかではない。筆者としては、今のところ謡曲の方が元となったのではないかと思っており、しかもこれはかなり明白なことなのだが、いざそれを証明せよと云われると、これがなかなか難しく、一言や二言で何とかなる次元の話ではない。いずれにしても、「謡曲」は、その名も「善知鳥 うとう 」。

諸国一見の旅僧が、「立山禅定」を終え、「陸奥」へ下ろうとしていると、物凄しげな老人に呼びとめられる。老人は、去年死んだ「外の浜」の猟師だと名乗り、「陸奥」へ行かれるならば、妻子を訪ね、蓑笠を手向けてほしいと、言伝てを頼み、証拠に自分の着ていた麻衣の片袖を引きちぎって渡す。老人は、僧を見送りつつ、姿を消す。

僧はやがて「外の浜」の猟師の妻子を訪ね、ありし世の蓑笠を手向けてくれと伝え、老人の麻の片袖を渡す。その袖は、猟師の形見の袖と寸分違わずに合い、妻子は涙に昏れつつ、蓑笠を手向け、僧と共に回向する。すると、猟師の霊がやつれ果てた姿で現れ、我が子に近づこうとするが、生前、親子の情の深い「善知鳥」の習性を利用しては、雛鳥を捕って親鳥と引き離した罪障の故に、近づくことが出来ない。猟師は、殺生の所業の浅ましさを語り、生前の如く鳥を捕る様を見せ、その報いに数多く殺した鳥類に責められ、「善知鳥」が「鷹」の怪鳥となり、自らは「雉子」となって追い苛まれる地獄の責め苦の様子を妻子に見せ、救いを求めつつ姿を消す。

シテ
 〽 うとうはかへつて鷹となり
    〽 我は雉とぞ成たりける、遁れ交野 かたの の狩場の吹雪に、空も恐ろし地を走る、犬鷹に責められて、あら心うとうやすかたの、安き隙なき身の苦しびを、助けて賜べや御僧、助けて賜べや御僧と、言ふかと思へば失にけり。

伝・世阿弥元清「善知鳥」
西野春雄/校 (1998) 『謡曲百番』新日本古典文学大系 57、岩波書店など

ここで、「善知鳥峠」に伝わる地元伝承と、「能」の「善知鳥」の内容を比較してみると、直接のつながりは見られないものの、それぞれの話の流れから判断すれば、伝承の方が「謡曲」の前座のような構成になっていること、しかもその成立順で云えば、伝承の方が後になるだろうと云う推測が出来ることも既に述べた。

このことにさらに付け足すならば、命名譚としての伝説とは裏腹に、実際には「善知鳥峠」は、先に「うとう峠」の名があり、そこへ後から「謡曲」などの「善知鳥伝説」が影響する形で、いまある地名伝承が形成されたものと思われる。

「松崎岩夫」氏は、『長野県の地名その由来』の中で、「長野県」の「うとう」地名について、「謡」「唄」などの当て字も多いことを挙げ、次のように記した上で、「海鳥」のいない「長野県塩尻市」の「善知鳥峠」は、「うとう峠」と云う地名があったところに「善知鳥」と云う字を当てたのだとしている。

「うとう」は県内に非常に多い地名で、どこでも見られ、これに当てる文字も実に多彩で、とても挙げ切れそうもありません。それに、この地名には物語がつきもので、たとえば、軽井沢町追分の「唄坂」 (うたいざか・うとうざか) は昔、若者等が追分宿へ遊びに行って暗い夜道を帰る時に、その日のことを、声高に話ながら、あるいは声高らかに歌って通ったので、この名が生まれたという如きもので、附会して生まれた話だということがすぐわかります。
 
松崎岩夫 (1991) 『長野県の地名その由来』信濃古代文化研究所、pp.100-101

「柳田國男」がその『遠野物語』の中でも云っていたように思うのだが、「ウト、ウトウ」には、両側の高く切立った道や谷と云う意味もある。『地名用語語源辞典』には、「ウトウはウトと同じで、ウトの語源として、一応ウツ (空、虚) の変化した語と考えてよいが、一般的には、洞穴、洞窟、波打ち際にいたる崩壊地形、浸透地形を指す用語である。両側が高くて切り込んだ道や狭い谷にも用いられる」とある (楠原・溝手、1983) 。現在の「善知鳥峠」の地形からは、崩壊地形状の切り通しなどは想像しにくいが、「近世期」までは今の「塩尻市・金井」と「北小野」の境にある侵食谷で、山の鞍部に当たる峠だったのではないかと想像される。昔の文献で、そのような記述のあるものがあったならば、是非、御教示下さい。図画や写真などがあれば、なお幸いである。

筆者も、多くの論者たちが述べているのと同様、「善知鳥峠」の表記も伝説も、いずれも後世の附会だとは思うのだが、気になるのは「長野県」には、「松崎岩夫」氏が指摘するように、多くの「うとう」地名があり、そのほとんどが「謡」「唄」などの字を当てられているのに、何故「善知鳥峠」だけが、「謡曲」の「善知鳥」を当てられたのかと云うことである。そんなの偶々だよ、と済ませてしまう人もいるだろうけれど、よく考えるまでもなく、「善知鳥」の字訓は、たまたま誰かが当てはめるにしては、あまりに一般性に欠けている。ある時代、この峠の名前にこの字を当てた人は、きっとある程度以上の教養階層に属していたと考えられるのだが、そうであればこそ、その字を当てるに際して、様々な連想や含意を持ってその行為を行なった可能性が高いと云えよう。

「外ヶ浜」の「善知鳥」伝説に関しては、いずれ詳しく記事にするつもりなので、ここではさほど触れないでおくが、「うとう」以外に、「外ヶ浜」と「善知鳥峠」周辺が共有するイメージと云うのは何か、と云うことだけは考えてみることとする。そして、そのことを考えてみると、実はそのような共通点はあまりないことに気づかされるのである。そんな中、二つの地域を想像で関連させることが出来るのは、主に知識人階層であったろうけれど、そんな人々からすれば「信濃」と「陸奥」は、「雪国」であると云う点で結びつけられている他は、特に共通する点はなかったろうと思われる。さらには、都人たちからすれば、
「信濃」と「陸奥」との間にある実際の遠近の差は考慮されず、いずれの地も流刑に使われるほどの、最果ての僻鄒であると云う程度の認識しかなかったはずである。そんな彼らにとって、そのような境外の土地を歩き回るものは、「山伏」か「猟師」が最有力の候補だったと思われる。

やや前振りを長くしてしまった感があるが、要するに、「善知鳥峠」と「謡曲」の「善知鳥」を引合わせたのは、この「猟師」の存在ではなかったか、と筆者は推測するのである。もちろん、他の要素も考えることは出来る。例えば、この他にも「謡曲・善知鳥」の主たるモチーフの一つを形成している「片袖幽霊譚」などがある。この系統の伝承が形成されるのに、「善光寺街道」を行き来する信仰者たちの活動が寄与しているのではないかと云う先学たちの研究成果があり、このことも、筆者の考えを別の方面から補強してくれはする。

かつての「東山道」は、「美濃」から「恵那・神坂」越えを果たすと、「天竜」の西岸を北上するルートを辿ったのだが、それも「国府・松本」に至ると、「錦織」駅からは、本路は東進を開始して、「碓氷峠」を越えて「上野」へと向かった。しかし、この東へと向かう本ルートとは別に、「松本」からかつての「越後国・国府」であった現在の「上越市」へと向かう支線も「東山道」にはあった。

この「北陸道」への連絡路の基本的な性格に関して、我が国の「古代交通」について断続的に論考を発表した「坂本太郎」は、初め『上代駅制の研究』 (1928) において「東山道との聯絡の爲に、越後國府より南行、信濃國府に通ずる一道を開く」(坂本、1989, p. 59) と記し、「北陸道」の支路であると位置づけている。しかし、氏は後に『古代日本の交通』 (1958) において、「信濃から北行、越後国府に達する」と書いて、この道が「東山道」の「北陸連絡路」であるとして、その見解を修正している (坂本、1989, p. 206) 。この連絡路上の駅は、「麻績・日理・多古・沼辺」の四駅なのだが、それらの駅名は『延喜式』にあって「信濃」国内には見えるのに、「越後」国内には見えない、と云う文献上の事実から、ここのルートが「東山道」に属するものだったのではないかと、近年の道路師研究の第一人者である「武部健一」氏は説得力のある見解を述べている (武部、2004, pp. 131-132) 。
そして、この連絡路が後の「善光寺街道」とほぼ合致するのである。

おそらくは、この聯絡を通じて「北陸道」に出た「信濃」の「善光寺」信仰は、「越中富山」の「立山」信仰と「浄土信仰」の「地獄観」を媒介として一種の信仰複合を形成しつつ、多くの「聖」や「巫覡」たちによって広く全国に広められたことは、比較的よく知られたことである。そして、この「東山道」の「北陸連絡路」を介して深く結びついた「善光寺」信仰と「立山」信仰の「地獄・浄土」観の拡散に伴い、「謡曲」の「善知鳥」は都人たちのイマジネーションの中で醸成されて成立したと考えられるのである。そして、やがては、その同じ経路を伝って、「信濃」の真ん中、「筑摩・伊那」の郡境の「うとう峠」にまで、「善知鳥」の名を附会するに至ったのであろう。そして、その裏で常に作用していたのが、「殺生」を巡る「罪業観」であり、それを最も喚起するイメージとしての「猟師」たちだったのである。

したがって、「善知鳥峠」の名前を通じて筆者が、「小野・矢彦神社」の信仰の古層について思うことと云うのは、両神社が、必ずや「狩猟」と関係する次元で関わっているに違いないと云うことなのだが、そのことについては、また後ほど言及することとしよう。



3. 「小野神社」に到着

「善知鳥峠」を越えて、そのまま国道を進むと、JR中央本線 (東ルート) の「善知鳥山トンネル」の出口付近を通過する辺りから、ふたたび人々の住まいの気配が点々と現れ始める。この辺りが、「古町」地区の始まりである。

右の車窓からは、「大芝山」「霧訪山」の緑の稜線が見え、そのなだらかな裾野に、「三州街道」沿いの集落は形成されている。街道を南行している場合、大概は、右に見える集落の外れの山裾に神社が祀られ、そこを過ぎると本格的に人家や町並みが見えてくる。ここでは、初めに見えてくるのは、「稲荷神社」である。

しばらく行くと、左手に「セブンイレブン」が見え、右手の緑の丘には「秋葉神社」が鎮座している辺りに出るのだが、その先を「刈谷沢川」が流れている。この川を越えると、「古町」の中心街二入ったことになり、町並みも急に賑やかになってくる。そろそろ「信濃国・二宮」と謳われた「小野神社」も近い。

そして、「刈谷沢川」から一キロ前後か、国道の下り坂が少し右へと曲がる箇所の右側に見える緑の杜が「小野神社」の境内である。この角にも小さな石鳥居が見えるはずだが、ここの路地を右折して入った先に駐車場があるので、ここの角を見逃さないよう注意したい。


a) 「小野」と「憑 たのめ の森」

ここの神社は、広大な境内の後ろ半分は豊かな植生がそのまま残された鎮守の森となっており、しかも南隣りの「矢彦神社」と一体化していると云う、奇妙なつくりとなっている。その上、地図をよく観察すると、「矢彦神社」の鎮座する土地だけが、長方形に切り取られたように、隣りの「辰野町」の飛び地となっているのである。行政区分も、「塩尻市」側は「北小野」、「辰野町」側は「小野」となっている。「矢彦神社」はどっぷり「北小野」に入っているのだが、住所表記は「小野」なのである。したがって、この少し先にある中央本線の「小野」駅は、当然、「辰野町」側にある。この分断については、また後ほど述べることとしよう。

「小野・矢彦」の両社域合わせて三万六千平方メートルの森は、「杉・檜・椹 さわら ・樅」などの針葉樹、「欅・栗・楓・水楢・辛夷 こぶし ・銀杏」などの広葉樹が密生した混合林となっており、草木あわせて百五十種が自生していると云う。いわば、この境内だけに、「古代」からの天然林が残っているのである。この「社叢」が 「長野県」の「天然記念物」に指定されている所以である。

「小野・矢彦」の両神社は、『延喜式』や『六国史』などには記載はないが、いずれも「信濃国二之宮」と号し、「上伊那五十四ヶ村」の総鎮守として君臨した由緒を持つ神社である。享保九年 (1724) 成立の『信府統記』にも「其草創何レノ代ト云フコトヲ知ラズ老樹茂林ヲ歴ルコト久シト見エタリ」と見え、より古くは、永禄十年 (1567) の「生島足島神社」奉献の「仁科盛政等親類被官起請文」に「小野南北 (之) 大明神」とあり、「諏訪上下社・飯綱・戸隠」と並ぶ「信濃国」の鎮守と記されている (『信濃史料 13』p. 270) 。また、奉仕する神職の「大祝・別当・副祝・権祝」などの職制が「諏訪大社」と同じであると云う事実も、「信濃」では、両神社が「諏訪大社」に次ぐ古い由緒を有する社であることの傍証となっている (神戸、1984) 。

地名としての「小野」の初見は、『吾妻鏡』文治二年 (1186) 三月十一日条の「関東知行国乃貢未済庄々注文」の中で、「左馬寮」の一つ、「小野牧」として登場しているのがそうである。現在の「北小野」地区には、「牧の内・駒爪・巻寄・槙寄」など、牧場に関係すると疑われる地名が多く残り、『吾妻鏡』の記述を裏付けるようである。

しかし、「小野」と云う地名の起源を探るのは存外難しい。そもそも、「柳田國男」が云うように、「小野は成程大野に対した古風なる地形の名で、たゞに京都の四周のみならず、今も遠近にさういふ村もあり部落もある」 (「稗田阿礼」全集 11、p. 443) か、あるいは「小野と云ふのは里の名で、大野の広漠たるに対して、山の陰などの静かな入を謂ふらしいから、全国に何ヶ所有つても差支無」いのである (『神を助けた話』全集 3、p. 81) 。それでもそう云う「柳田」自身が、「小野」の地名に特殊な由来があると考えているから論を起こしているように、「小野神社」の「小野」と云うのも、ただ単に「小さな野」と云う程度の意味合いでつけられているとは、筆者には到底思えない。ここでは、あまり深入りした議論はしないが、この後、見ていくように、「小野・矢彦神社」には、「畑作」や「狩猟」等と深い関わりがあったのではないかと匂わせる由緒が多く、そのために「小野」と云う名前も、「二荒山信仰」を核とした『日光山縁起』に記された「小野猿丸」伝承と、深層の部分でつながるものなのではないかと疑ってみたくもなるのである。

また、「小野神社」の社叢は、いまに「頼母 (憑) の森」と呼ばれており、字も「頼母」と云うと聞く。この「たのも」あるいは「たのめ」「たのみ」「たのむ」の地名は、『枕草子』第六十二段 (新日本古典文学大系版) にも登場する古い由緒があることで知られており、近頃では、地元の観光協会はこの名称を売り込むのに躍起になっているようである。もちろん、はたして「清少納言」の云う「たのめの里」が「小野」の地を指しているかは、明証することは出来ない。しかし、十四世紀初頭に成立した「藤原長清」撰の『夫木和歌抄』には、「信濃なる伊那の郡とおもふにはたれかたのめの里といふらん」と云う歌があり、少なくともこの時代までには、都人たちの間で、「たのも/たのめ」の語は「信濃」の歌枕として知られていたことを証している。『夫木和歌抄』には、この他にも「信濃」を詠んだものとして、「玉の緒をおもひ絶えてもあるべきにたのめの里に年をふるかな」の歌もある。

この「たのも」「たのむ」「たのみ」「たのめ」と云う地名に関して、「信濃学の創始者」とも云うべき斯界の巨人「市村咸人」は、「たのもの里という言葉は、田の面ではないかと思う。諏訪様が田圃を開かれた所だから田の面祭があった。それが頼め祭りになったのではないかと思う」と唱えている
(『塩尻市史』第二巻) 。『万葉集』の「東歌」にも「坂越えて阿倍野田の面 たのも にゐる鶴 たづ のともしき君は明日さへもがも」の歌があり、後に「たのむ」などに転じているので、用例は多く存在する。

これに対して、「国文学」の「小野巳代志」は自身の「たのめ考」の中で、「たのめ」について、「田の面ではなく、田の実である。春先から神に祈り辛苦を重ねて作り得たものであり、たのめ祭りは田の実祭りである」と主張している (『塩尻市史』第二巻) 。こちらの用法も、古い文献に見られ、『
岩波古語辞典』によれば、本来は収穫を控えて、これを予祝する行事であった「田の実の祝ひ」の略語らしい。この祭儀は元は「陰暦」の八月一日前後、後には「八朔」の日に行なわれたらしく、これは「小野神社」の例祭がかつて陰暦八月一日に行なわれ、「八朔祭」あるいは「頼母祭」と呼ばれていたことと対応するため、かなり有力な解釈と云えるだろう。いかにも、国文学者らしい古典籍に拠ったゆかしい洞察である。

一方、『塩尻市史』の編者は、慶安四年 (1651) の検地帳で、「北小野」の地が、総面積五十九町三反十九歩に対して、田地は十七町七反九畝一歩で、畑地は四十一町五反二畝であることから、「たのめ」などの言葉の語源を「水田耕作」に限定する考えを控え、これらの語は、「豊作祈願」の意味であろうと推測している (『塩尻市史』第二巻、p. 449) 。

確かに、「慶安検地帳」に残る数字を見る限り、「近世」初期にあって、「小野」地区は、「水田耕作」も盛んに行なわれていたものの、かなり明確に「畑作」優勢の地域だったようで、その土地の起源を語る語彙に「水田耕作」を前提とする言葉が含まれているのは、理に適っているとは言い難い。しかし、『塩尻市史』の記述も何だか舌足らずではある。「小野巳代志」の「水田耕作」説を否定している以上、「たのめ」「たのも」の漢字交じり表記を「田の面」とか「田の実」と考えている訳ではないだろうに、このことに関しては明確な見解が述べられていない。「田」の字を否定して、「畑作」を含めた「豊作祈願」だと解したのだから、「市史」は素直に「神頼み」の「頼む/頼め」であると把握したと云うことなのだろうか。

「諏訪大社」や
「小野・矢彦神社」の主祭神に名を連ねる「建御名方命」や三社の信仰の基層をなすと考えられる「ミシャグチ神」 (後に述べる) が「狩猟の神」の側面を持つことや、この地がかつては「馬牧」であったこと、この地域が「稲作」でなく「畑作」優位の農業構造を持っていたことなどは、民俗的な観点からは齟齬なく整合するので、「非水田耕作」の視点を取り入れたのは、『塩尻市史』の大きな手柄だと云えるのだが、それだけでは「たのむ」の説明にはならず、したがって「市村咸人」説や、「小野巳代志」説に対する有効な反論にも修正にもなっていないのが難点なのである。

筆者としても、『塩尻市史』の編者同様、「たのむ」は「田」に関わる言葉ではないと考え、「八朔祭」と整合性を持つようになったのは、飽くまでも「水田耕作」が導入され、「たのむ」の語源が失われてしまったよほど後代のことだと考えている。何しろ、『枕草子』や『夫木和歌抄』にも現れる「たのめの里」が、単に「田の面の里」、あるいは「田の実の祝ひをする里」だったらならば、そんなのは「稲作」を行なっている地域の方々で見られる地形や祭儀であったろうから、そのような語は到底、地名としての固有の指示力を持ち得なかったはずであるし、歌に詠みたくなるほどの叙情性も感じられなかったはずである。筆者にとって、「小野巳代志」説の難は、この点に集約されるのである。

この件に関して、筆者は、社名の「小野」により注目すべきなのではないかと考えている。そもそも、「小野」を単に「山裾の少しばかり開けた傾斜地」と捉えるならば、「小野神社」の社叢が原生林に近い豊かな森になっていることと矛盾はしないだろうか。確かに、「鎮守の杜」と云うくらいで、『万葉集』にも「木綿 ゆふ かけて斎 いは ふこの社 もり 越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに」 (巻第七・1378) や「山科の石田 いはた の社 もり に幣置かばけだし我妹 わぎも に直 ただ に逢はむかも」 (巻第九・1731) 」のように「社」を「もり」と訓む例さえある。したがって、神社には森があるものなのだから、地名としては野原に由来する「小野」でも、その鎮守様には森があって当然だ、と云う議論もあろう。しかし、元々、「森・杜」には「山」と云うニュアンスもあり、「ひらけた土地・傾斜地」を表わす「野」とは、さほど相性の良い言葉ではないはずである。第一、ここの「社叢」は、他所のそんじょそこらの「鎮守の杜」より、遥かに規模が大きい。

そこで、視点をまったく変えて、「小野」を「小さな野」ではなく、「隠 オン 」と考えることは出来ないかと筆者は考えるようになった。「隠の森」が、やがて「小野 (の) 森」に転じ、音だけはしばらく記憶に残り、「恩の森」と考えられるようになると、
神の恵みに「たよる」「よりかかる」と云う意味合いから、「恩」が「たのむ・たのみ・たのめ」へと意味的に推移したのではないか。実際には、「小野の森」から直接「恩の森」に展開したと見ても構わない。あるいは、「恩の森」と考えられた時代に、「稲作」とそれに伴われた「八朔」の「田の実の祝い」などが習合した結果、「たのむ」「たのめ」などに名前が転じたのかもしれない。いずれにせよ、「たのむ」の表記として後世の氏子たちが「憑」の字を選んだのは、その名前の起こりが何かしら普通の「頼む」とは違うことを暗に示唆しているようではある。

もちろん、ここで筆者が薮から棒に開陳した「小野 (=隠) =恩=たのむ」の仮説は、心の準備の出来ていない諸姉諸兄には、いいとこ不意打ちの奇説にしか聞こえないのは重々承知している。しかし、筆者はただ言葉をいじくり回しただけで、この仮説に辿り着いたのではなく、「小野・矢彦神社」の信仰の全体の軌跡を俯瞰することで (その他、「小野氏」と「狩猟」「霊界」の関係など) 、この考えに思い至ったのは紛れのないところである。この件に関しては、また別の機会に詳しく自説を展開しようと思っている。


いずれにせよ、本稿との絡みで云うならば、「小野」と云う名前を「狩猟」と関係づける筆者の企図と、「木地師・轆䡎師」の本貫地の一つとしての「近江国小野」との関係を考えれば、以上のことが有する重大性も分かって頂けるのではないかと思われる。筆者は、本稿の後半で、力及ばずながらも、この点について少しばかり (極めて表層的なものではあるが) 考察したいと思っている。



b) 「矢彦」と「洩矢神」1  附・古代以前の交通について

一方、「矢彦」の神名の初見は、おそらくは嘉禎三年 (1237) の年号を持つ「諏訪上社」の「祝詞段」だと思われる。これには「小野ワヤヒコ北方南方末若宮大明神迄ミナトマチキコエヒサシキ小野ノゴセ」とある (『信濃史料 16』p. 80, 152) ので、その名前は十三世紀前半までは遡れることが分かっているから、この点に関しては、『吾妻鏡』を初見とする「小野」の地名よりも、一応、履歴が古いのである。しかし、「矢彦」の場合、これ以外では史料に名前が見られるようになるのは「武田時代」以降のことである。

もっとも、筆者にとって「矢彦」の名前は、それ自体、非常に興味深いものである。「筑摩・伊那」境界地の「小野郷」からは、必ずしも近いとは云えないが、それでも「信濃」と隣接する「越後国」の「一之宮」である「弥彦神社」との関係は、名前を聞いただけで、誰しもが疑うところではある。この点に関して、『塩尻市史』は、間接的ながら興味深い解釈を打立てている。

延喜の東山道は、神坂峠から伊那に入り、阿知、育良、堅錐、宮田、深沢と、天竜川をさかのぼり小野地区に入り、善知鳥峠を越えて覚志駅へとつづいていた。旅人は峠越えをおそれ、無事に峠を越えられるようにと、麓でぬさを祀り神に祈ったことは神坂峠や碓氷峠 北佐久郡入山峠 で知られている。小野神社も善知鳥峠越えを前にして旅の安全を祈った所ではないだろうか。苅谷沢という地名も峠に関係した地名である。苅谷は仮宿のことで、簡単な宿泊施設が置かれていた所である。東山道が小野のどこを通って善知鳥峠を越えたかははっきりしない。しかし深沢駅から小野に入り善知鳥峠をこえて覚志駅まではかなりの道程である。したがって、苅谷沢の入り口の古町辺りに仮宿が置かれていたとも考えられる。こう考えると「たのめの里」は「たのみの里」であり、小野地区は古代から交通の要衝として重きをなしていたところとみることもできる。小野神社は諏訪神社につぐ信濃国の二の宮といわれ、また、弥彦神社は越後の一の宮ともいわれ、東山道から分かれる越後支道はこの筑摩郡と伊那郡 古くは諏訪郡 の境まで国司迎えの宮であって、古代から人びとの崇敬を集めていたが、その起源はむしろ旅人の守護神であったのではないだろうか。 (下線、筆者)

塩尻市誌編纂委員会/編 (1995) 『塩尻市誌第二巻塩尻市、p. 449

この文章では、なぜ「小野の里」を指す「たのめの里」が「たのみの里」なのかの説明が十分でないことと、また、末文の主述などの構成が乱れていて文意が取りにくいこととは、大目に見て、「東山道」とそれから分岐する「越後支道 (北陸道連絡路) 」を視野に入れることで、「矢彦神社」と「越後」の「弥彦神社」を有機的に結びつけようとする視点は、評価に値しよう。ただ、上記引用箇所の見解に関して、筆者は興味深いとは云ったが、全面的に賛同するとは云っていない。

完全に賛同出来ない理由は極めてシンプルで、「旅人の守護神」などと云うものは、「旅」と云うものがある程度以上に制度化されていなければ発生しないと筆者は考えているからである。長距離の移動は、その発生期にあっては、大きな政治体を前提としない小さな交易からも発したかも知れないが、街道が整備されて「旅」と云うに相応しい状況が生まれるためには、長い旅路の間の寝食の確保や、一定の安全保障を可能にするための関係者間の相互連絡は必須であろうし、さらには街道の整備を物理的に可能にするためにも、大きな政治勢力が前提となる。

時代背景なども全く異なるので、あまり良い例えとは云えないが、ずっと時代を下って、「本能寺の変」後、「堺」に遊んでいた「徳川家康」が、果敢な「伊賀越え」を命がけで成し遂げて「三河国・岡崎」に帰還せねばならなかったと云う故事が、逆に、無政府状態での旅の困難を象徴しているとも云える。いずれにせよ、現在でさえ、広域県道などの資金をどの自治体が持つかで揉めると聞くのに、「古代」にあって社会全体の利益と云う概念も、「全体」を標榜するほど広域に渡る政治体も存在しなかった時代に、「旅の神樣」が欲しい気持ちは分かるが、そもそもそんな時代に「旅」そのものが一般的には成立しているはずもないのである。

もちろん、「小野神社」などの草創の時期に、「旅」を前提とした長距離移動があったとは考えられないものの、大規模な長距離移動が皆無だったとは、筆者も考えていない。全国の街道の調査を行なっている「武部健一」氏は、「考古学的には、日本列島に人が住み始めて、地域間の交流が認められるのは、一〇万年前の旧石器時代以後のことである」とさえ述べているのは承知している。ただし、これは「武部」氏も認めるように、物品の移動という意味で「交流」が確認されているだけで、道の跡が見つかっているのではない。「武部」氏は、さらに「縄文期」の「三内丸山遺跡」の集落内には「土留めの杭が打たれた巾数メートルの通り」があることなどについても触れている (武部、2003) が、大集落内の道と、「旅」を可能にする「街道」とでは、同列には語れない。

上のような見解に対して、かつてはより保守的な見方が強かった。「田名網宏」氏は、「縄文時代」の交通について、「この時代は、狩猟・漁撈・採集の自給自足の自然経済の段階で、生活圏はきわめて狭く、集落の移動や近隣への往来はあっても、交通という社会現象はみられないといってよい」と述べ、「弥生期」についても「生活圏は依然として狭く、一般的な交通現象はほとんどみられない」と云っている (児玉、1992, p. 3) 。

「坂本太郎」氏は、原始時代の交通について、「黒曜石」や「硬玉 (翡翠) 」の遺物の分布を調べることで、それぞれの交易圏が、半径五、六十里ほどの大規模なものだったと推測し、「石器時代の人と云えども遠近の旅をし、物資を運んだににちがいない」 (坂本、1958, p. 235) としつつも、その三十年以前に述べた次のような見解を大幅に訂正している気配はない。

交通生活の行はれた範圍を標準とすることに依て、地方交通、國内交通、世界交通の三時代があげられる。第一の時代には、部落間の爭鬪、交易、移住の爲にする交通が行はれる。その設備や、機關はまつたく幼稚の域にあり、その範圍は、原則として、近距離に止まつたと考へられる。第二の時代の交通は、國家を領域とする。國家は、中央集權の確保の爲に、交通設備に十分の注意を払ふ。いはゆる驛逓制度は、この場合において採用される。機關の方面においては、第一時代のそれの緩除なる進歩を見るに止まつて、未だ劃期的の發達にまで至らない。 (下略)
 
坂本太郎 (1928) 『上代驛制の研究』至文堂
坂本太郎 (1989) 『坂本太郎著作集 8』吉川弘文館、p. 6

「プレ古代」の交通に対する研究者間の体温の相違は、それぞれの研究者の年齢差に由来する時代背景の相違に帰することも出来るかもしれない。「プレ古代」から「古代」を巡る考古学の研究は、一九九〇年代以降、極めて多くの新成果を生み出しているからである。「武部」氏は、そのことを暗に指摘して次のように記している。

古代の道路の遺構は、一九八〇年代から一九九〇年代にかけて、大量に全国で発掘され、それまでの古代道路のイメージを一新した。平安時代には道路幅も九メートルあるいは六メートルと狭くはなるが、直線的に山野を走ったその威容は、ローマの道にも匹敵するものであった。考古学的発掘は今も続いていて、今後さらに解明が進むであろう。
 
武部健一 (2003) 『道  I 』法政大学出版局、p. 7

しかし、筆者にとっても、我が国の交通について書かれた記録で、すぐに脳裡に浮かぶのは、通称『魏志倭人伝』において「対馬」に関して記された「土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し」の文である。さらには、「末廬国」に関しても「草木茂盛し、行くに前人を見ず」と記されている。「田名網」氏は、このような記録を元に判断して、この時代の道は、「道といっても造成された道ではなく『毛もの道』 を多く出るものではなかった」と結論づけているのであり (上掲書、p. 4) 、昔の交通は何もかもお粗末だったに違いないと云う偏見に基づいて云っていたのではないと思われる。

一方、「武部」氏は、「我が國往古の道路は、僅に人馬肩輿の往來し得るに止まり、元より車輛を通じ、大兵を動かす能わざりし事は、敢て疑を入れざる所なり。」と云う「
田辺朔郎」を編纂委員長に迎えて編まれた『明治工業史・土木編』 (昭和四年、1929. p. 3) の書出しの一文に反駁するように、「古代における道路の最大の特徴は、律令国家によって七世紀後半から八世紀にかけて建設され、一〇世紀ころまで機能した古代官道――七道駅路――の存在である。 (中略) 総延長六三〇〇キロ、両側に側溝を持ち、当初の幅員は十二メートルを基本として、路面には構造的に強化された痕跡が見られる」(武部、2003, p. 5) と書いている。その後にも、「古墳時代」 (四~五世紀) の道路遺構の発掘例として、「奈良県」の「鴨神遺跡」その他を挙げ、当時の道路が路面保持のためのさまざまな複雑な工法が採られているとし、幅員も最大のもので、二・七から三・三メートル程度であったとしている。

もちろん、『魏志倭人伝』の記述には、隣国を「倭」と云う蔑称で呼んでいた当時の「中国人」側の恣意が加わっている可能性は十分にある。何しろ、近年の考古学の成果として、同じ時代の「壱岐」に、港と集落を結ぶ幅三メートルの計画的な直線道路が見つかっているからである (武部、2003, p. 4) 。しかし、『魏志倭人伝』 には、「邪馬台国」に、後の時代の「駅制」の萌芽とも云えそうな「伝送」の制度があったことも述べており、必ずしも我が国の交通事情を不当に貶めているだけとは云えそうにないのである。

筆者としては、素直にこの問題は、どこの国のどの時代でも存在し得る「都鄙」の問題だと捉えている。「壱岐」でも、外国使節を迎える「港」と「集落」の間にはきちんとした道を造成し、「邪馬台国」でも、政治的に重要な道筋は整備されていたのかもしれない。しかし、それは逆に、その他の地域では必ずしも事情が同じでなかったことを意味してはいないだろうか。中国語史料ならずとも、『日本書紀』の中にも、当時の都「河内」にあってさえ、「路狭く嶮しく人並び行くことを得ず」と記されているのである。「仁徳紀」には「大道を作りて京中に置く」と記され、「推古紀」に「難波より京に至るまで大道を置く」ともあるくらいであるから、都にさえ「大道」を敷いたのはこの時代であったと云うことであり、この時代やそれ以前に、「都」の外側遠くに「旅」と云う概念が普遍化するほどに「道」が普及していたとは思えないのである。

変な例えだが、筆者が生まれた頃の「千葉県」は、悪名高い「悪路県」で、舗装道路率は首都圏ではダントツに低かった覚えがある。既に、電話もテレビも、冷蔵庫も洗濯機も、各家庭に入っていた時代にしてこれである。幹線道路を外れて、少し脇道に入れば、いくらでも土の道などあった。どこそこの県道が全線舗装化されたなどと大人たちが話していたのを覚えているのである* 。
 

* 今では、主要道に限っては舗装率99.9%で、「香川県」などと並んで全国の都道府県第一位を誇ると云うから、それだけでも隔世の感がある。ただし、幹線を除いた全ての道路と云う点に関しては云えば、全国ランキングはぐっと下がって二十四位と云うから、市町村道の整備は、やはり今でもだいぶ遅れていると云えそうである。「香川県」が市町村道の舗装率でも一位と僅差の第二位につけ、道路密度では全国一位なのとは同列には語れない。
 
参照・総務省統計局『社会・人口統計体系』 (2008) 
国土交通省道路局 (2006) 「道路統計年報」
 
「黒曜石」や「翡翠」などが、半径二百キロ以上の交易圏を有していたことは、いまではよく知られた考古学的な事実だが、内陸で「岩塩」が採れる国や地域と異なり、「製塩」をもっぱら海水に頼らざるを得ない我が国の場合は、「塩」も、長い距離を運搬されただろうことは想像に難くない。ただ、交易圏が広かったと云うことだけで、特定の個人や集団がその全範囲を踏破するような交易の「旅」が存在したと考えるのは、やはり早計である。順繰りに物品が交換されていくこともあったであろうし、そもそも、まとまった貿易をするには、物理的な条件があまりにも満たされていなかったのである。

大体、「貨幣経済」もない中で、我々が想像するような商用の交易など可能だったのか。この後見るような艱難辛苦を乗り越えて「旅」を敢行したとして、牛も馬も、車輪すらない時代に、いったいどれだけの「黒曜石」だの「翡翠」だのを担いで人々は移動したのだろうか。仮に、大量に担げたとして、距離が長くなればなるほど野たれ死にの確率が極大化すると云うのに、誰が遠くまで交易に出掛けたと云うのだろうか。

ずっと後世の話だが、『世宗荘憲大王実録』によれば、一四二九年に来日した「李朝」の使節「朴端生」は、「貨幣経済」の発達した日本の様子を見て、通貨と云うものが、米や布に遥かに勝ることに感嘆している。復命した彼は、旅人はお金を持っているだけで、重い食料等を持たずとも、簡便に長旅も出来て、まったく便利だ、と云う内容の報告を「世宗」に奏上している。これは逆に云えば、十五世紀の「朝鮮」とは云えども、「貨幣システム」なしには、長旅は事実上不可能だったことの傍証となる。

また、『続日本紀』の天平宝字元年 (757) 十月条にある「孝謙天皇」の詔勅によって、我々は返って、「律令制下」における税の運搬の惨状を知ることが出来る。当時の庶民は、重い庸調の物納税を背に背負い、道中の食糧までが自弁と云う状況の中で、数百キロにも及ぶ移動をしなければならなかったのである。「貨幣経済」の発達していない時代のこと、「庸調」の他に往復分の食糧も担がねばならなかった。道半ばにして倒れ、餓死する者も多かったのは、当然である。
 
天平寳字元年十月 (中略) 勅曰、如聞、諸國庸調脚夫、事畢歸、路遠糧絶、又行旅病人、無親恤養。欲免飢死、餬口假生、竝辛苦途中、遂致斃。朕念乎此、深憫矜。宜仰京國官司、量給糧食醫藥、勤加檢校、令達本。若有官人怠緩不行者。科違勅罪。

訓読
天平宝字元年十月 (中略) 勅して曰く、かく聞けり、諸国庸調の脚夫、事畢りて郷に帰るに、路遠くして粮絶え、また行旅の病人、親しく恤養するもの無く、餓死を免れんことと欲し、口を餬して生を仮る、並びに途中に辛苦して遂に横斃を致す、と。朕これを念ふや、深く憫矜をす。宜しく京国の官司を仰ぎ、量りて糧食医薬を給ひ、勤めて検校を加へ、本郷に達せしむべし。若し官人の怠緩にして行なはざる者あれば、違勅の罪に科す、と。
 
「天平宝字元年 (757) 十月条」
編者多数 (797) 『続日本紀』延暦十六年

これは筆者の臆見かもしれないが、我が国が「律令時代」に早くも「貨幣鋳造」を試みたのは単に先進国「中国」を真似たからではなく、実は、ひとえに税を運搬する脚夫たちの負担を減らし、国家の税収を高めることが狙いだったのではないかとさえ思われる。「富本銭」「和同開珎」に始まり、いわゆる「皇朝十二銭」がもし普及していたならば、上記の脚夫たちの残酷な運命はいくらか軽減されたかもしれないのである。

忘れてならないのは、税を運ぶ人々は、それでも公用であるから、政府とていくらかの対策を講じたはずだと云うことである。それでなお、上に述べたような悲惨な状況だったのであるから、この時代、私用の「旅」などが可能だったかは、おのずと理解されよう。いずれにしても、食糧を携帯しての「旅」とあらば、行動出来る範囲は極めて制限され、とうてい長旅など不可能だったと考えるべきであろう。

総じて云えることは、「小野・矢彦神社」のような古社が発生した当時、庶民に「安全」を祈ったり、「守護を頼んだり」しなければならないほどの「旅」が、「旅の守護神」などと云う信仰を育んでしまうほど一般的に存在していたとは、筆者には思えないのである。しかも、「旅の安全」を祈るのは、きっと通りがかりの他所者であろうし、逆にその地の社を祀っているのは「旅」に出ない地元周辺の住民であろうから、何だか辻褄が合わないのである。それに、百歩譲って、仮に「旅」が行なわれていたとしても、それは命を賭した過酷なものであり、もしもそのような辛苦をなめている旅人に、いま神仏に祈るとしたら何を祈るかと聞けば、おそらくは綺麗な「水」とか、それ以上に何を置いても「食糧」と答えるのではないだろうか。長い間、「旅の安全=食糧」だったのだから、これは当たり前のことではないだろうか。

*

話をより「小野神社」に近づけて「古代」の「東山道」へと移そう。「古代」の「~道」と云うのは、現在の「北海道」同様、「道路」のことではなく「行政域」のことを指すと云う議論があるが、「北海道」と違うのは、政府によって造成された街道を指すこともしばしばだったと云う点であろう。例えば、『日本書紀』景行天皇五十五年二月五日条にある「彦狭嶋王をもて、東山道の十五国の都督 かみ に拝 まう けたまふ」と云うときの「東山道」は明らかに「道」ではなく「国」である。しかし、より後世の『延喜式』の中で、里程などを記されている「東山道」は「道」以外の何ものでもあるまい。

「古代」の交通の発達を、旧来の所説よりはかなり積極的に評価しようとする「武部」氏でさえ、「東山道」については、図らずも次のように述べているのである。以下は、筆者の要約である。
 
「東山道」は『延喜式』当時で、「近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽」の八箇国に属し、本路の他に「陸奥路・出羽路・飛騨路・北陸連絡路」がある「中路」であった。その際立った特徴の一つは、他の駅路の終点がそれぞれの先端の国の国府であるのに、「東山道」の場合は、その先端が「陸奥路」では「徳丹城」、「出羽路」の場合は「秋田城」と、いずれも城柵が終端になっていたことである。途中の「陸奥国」の「国府」も元は「多賀城」である。これは「東山道」の担う主要な役割が、「東北」の「蝦夷」との戦いのための前線基地に兵を送り、連絡通信をすることであったことをよく表わしている。
 
木下良/監・武部健一/著 (2004) 『古代の道畿内―東海道・東山道・北陸道―』吉川弘文館、p. 100

『延喜式』よりも時代を遡り、「応神紀」にも
橿原市大軽町付近」に比定される「厩坂道」の敷設を巡って東蝦夷悉朝貢、即役蝦夷而作厩坂道」の記述があり、往古から都の周辺にあってさえも、「征夷」と道路敷設は関連していたようなのである。

そして、筆者はむしろ、「小野神社」の信仰を考えるとき、「東征」の語の方が「旅」よりも重大なキーワードになるのではないかと考えている。このことについては、また後ほど触れることになる。

*

「縄文時代」から「弥生時代」初期にかけての交易の痕跡などはもちろんのことだが、既に本稿でも言及した「柳田國男」や「武田太郎」の見聞談や、筆者自身の聞いた話などからも、我が国土の「狩猟」に関わる人々は、ときおり、「狩猟」に関わらない人々から見たら想像を絶するような長距離の移動を行なうことがある。「狩猟」などと密接な関係にあると考えられる「林業関係者 (木地師 etc.) 」「鉱山関係者 (鉱山師) 」などの「山人」も同様な傾向にあったものと思われ、「奈良・平安期」以降は、「修験道」などの山岳修行者たちにも同様のことが云えるかもしれない。

筆者は、このような半定住漂流民たちの移動こそが、我が国の「旅」の概念に先立つ、個人あるいは一次的集団の動機による長距離移動の母体となったと考えている。しかし、この人々の移動と、後世の「旅」は、物理的な側面での類似とはおよそかけ離れて、認識論的には決定的に異なっていたのである。これはより簡単な比較を使って云えば、実は「獣道」と「道」の違いにもおおよそ相当すると云えよう。このことを「ドイツ」の哲学者「ジンメル」は、その 『橋の扉』と云う小考において的確に言い当てている。

二つの場所のあいだに道を作った人びとは、もっとも偉大な人間的事業のひとつをなしとげたことになる。無論彼らは二つの場所の間を頻繁に往復し、そうすることによって両地点は主観的に結合していたはずである。しかしやがて彼らが地面に道のかたちをくっきりと刻みつけることによって、はじめてここに両地点は客観的に結合され、結合への意志は事物の形態をとるにいたった。 (中略) 道づくりは人間固有の作業の一つである。動物もたえず、そしてしばしば驚くべきたくみさと至難のわざとをもって、距離を克服している。しかしこの距離の始点と終点とはついに結合されることがない。動物は道の奇蹟、すなわち、運動を凝結させてその開始と終結とをふたつながらに含む固定像をかたちづくる、という奇蹟を生みださない。

 
G. ジンメルら (1976) 『橋と扉』
酒田ら/訳 (1976) 『ジンメル著作集 12』白水社、pp. 36-37
Georg Simmel (1909) Brücke und Tür, K. F. Koehler Verlag 1957

「旅」と「旅以前」とは、そこに明確な人間の目的論的な意志による客観化が介在するかしないかによって、截然と峻別されるのである。それはちょうど「資本主義」と「近代工業」が「労働」の観念を根底から転換してしまったように、「移動」の観念は、「道」の制度化によって、まるで別の「旅」へと変換されてしまったのである。いったん、制度的な「道」がつくられると、我々はもはや二度とその認識的な束縛から自由になることはなくなるのである。我々は以降、必ずどこか具体的な場所へと、目的を志向して移動しなければならなくなったのであり、どこへ行き着くか分からない移動などは、原則として存在しなくなったのである。確かに、いまでもふらりと目的のない「旅」は出来る。しかし、それは明らかに「目的のある旅」を前提視した認識上の構図の中での「目的のない旅」に過ぎない。かつて、「道」以前の移動では、「地理的目的のある移動」と「地理的目的のない移動」との間に区別はなかったことを考えると、「ふらり旅」を特別視するのは、「釈迦」の掌を飛んでいた「孫悟空」に似る。
しかも、道なき道を行く移動と、「道路」や「鉄道」などの交通網が発達している中で、移動がそれらの物理的な構造物によって潜在的にではあるが自己目的化されている状況での「目的のない旅」などと、比較のしようがないのは明らかである。

「旅の安全」と云う観念は、そもそも、「道」がこのように制度化され、その上での移動が自己目的化した後、「ジンメル」の言葉を借りて云うならば、二点間の移動が「
客観的に結合され、結合への意志は事物の形態をとるにいたった」とき、初めて具体的な形をとり得るのである。かつての「狩猟民」の長距離移動は、例えば「獲物が沢山とれること」などが優先的な目的であり、身の安全は、日常のその他の全ての安全と同様に、本能的な前提としての「生命の保持」の原則と不可分な感覚に近かったと推定出来る。「旅の安全」と云う観念は、極めて抽象的な位相で合目的的なのである *。

* 水上交通の場合は、陸上交通とはやや異なった状況の議論が必要となる。航路と云うものが、道路や鉄道などの陸上交通設備と異なり、物理的な構造を前提としえないからである。しかし、だからこそ一旦、陸上での合目的的な移動に馴染んだ人類は、水上交通もそれとの類比の中で捉えるようになり、「羅針盤」の普及まで、大きくその認識的な枠組みに、自らの物理的な移動の側面を制約されることになったと考えられる。このことは、何故、今も我が国の「旅の神様」は「海の神様」の性格を強く持つものが多いかと云う議論に繋がるのだが、この件に関しては、また別の機会に譲る。ただし、本稿の中でも、「神坂神社」が海洋神である「住吉神」を祀ることには触れる。

「小野神社」が「旅の守護神」とは考えられないと云うとき、筆者は「小野神社」の信仰が、政治的な結合体による「道」の制度化より以前に発生している考えているため、その時代に「旅」の概念がない以上、「旅の守護神」の概念もなかったと推断するのである。

結局、「旅」は第一次的には軍用目的での街道整備と、それに引き続く新たに支配下に入れた地域の人々の貢納物を運ぶ財政的な希求に裏付けられた長距離間の移動として顕現したはずで、娯楽としての「旅」など論外として、個人あるいは集団単位の商用での「旅」でさえ、その芽生えはもう少し後の時代にあったのではないかと思われる。したがって、かなり古い時代に発生したと推定される信仰を対象とする場合、それに「旅人の守護神」としての性格を付与するならば、それは大きな時代的な矛盾を抱えることになるのである。このような意味で、筆者は『塩尻市史』の仮説をやや感傷的に過ぎる所説と捉えるのである。

ただし、もしも「小野・矢彦神社」の社会的な制度化と、「大和国家」の広域化とを結びつけて考えようとするのであれば、「旅人の守護神」説は、信仰の基層においてではなく、その二次的な発現を観察するのには面白い視点だとは思う。その意味では、「神坂峠」から「善知鳥峠」に至り、やがて「碓氷峠」にも至るルートに暗に言及しているのは、この「東山道」がそのまま「日本武尊」や「坂上田村麻呂」の「東征」のルートと重なるだけに、着眼点としては興味深い。その場合、「越後」の「弥彦神社」の基礎的な性格も考慮して、再度、「小野・矢彦神社」の信仰にフィードバックして考察を積み重ねるならば、何かしら共通点は見られるのではないかと疑われる。
 
*

最後に、蛇足として述べるならば、「小野神社」の発祥の時期に、「旅の神様」と云うものが仮に存在したとして、それはどこに祀られるものか、と云うことを考えてみた。先に結論から云ってしまえば、それは「旅」する人の故郷、と云うことにならないだろうか。もしも、諸姉諸兄がこれから「旅」に出るとして、どこで安全の祈願をするかを考えれば、簡単に分かることである。出立前に安全祈願をするなら、それは何も「旅の神様」でなく、自らの住む集落の「氏神」か「鎮守様」で十分である。「旅の安全」を祈るために、その前に神社参拝のための別の「旅」に出てしまっては元も子もないからである。

「安産」にしても「難病恢復」にしても、あるいは単なる「家業繁昌」や「縁結び」にしても、近くにそれ専門の神様がいなければ、普通は遠出してまでどこかの社には出掛けず、地元の霊験新たかな神社に行くのが筋だと思われる。交通機関と手段の発達した現代でも、「縁結び」のためにわざわざ「出雲」まで出掛ける人と云うのは極小の例外である。その意味では、御利益に特化した現在の寺社参拝の風習は、極めて都市的な性格を有するもので、その本格的な発生時期は、「京都」などを除けば、「近世」以降と考えても差し支えはないと思われる。もちろん、業病を治すためならば、特定の寺社を目指して「旅」に出ることもあったかもしれないが、その場合でも、やはり目指す御利益は「旅の安全」ではなかったはずである。

逆に云えば、行旅中の安全は、特定の寺社にはあまり祈願しなかったのではないかと考えられる。もちろん、「旅」の最中に、どこかの社に参拝すれば、「旅の安全」もついでに祈ったとは思われるが、そのためにその社に来たのではないことに変わりはない。

そもそも、「道の神」に対する信仰としては、国境などの「境界」で祭祀を行なうのが基本だったと思う。一つの完結した自然の領域から他の領域に移るとき、我々の体はただ単なる空間移動を遂げるのではなく、認識的には一種の侵犯行為を働いているのである。この侵犯行為は、それ自体が土地の神様を怒らせるかは別の問題としても、移動する主体である当人からすれば、それまで身を置いており、自らもその一部だった完結した世界の秩序から、別の新しい世界に移ることは、象徴的には一種の「死」と「再生」の過程を経由するのに等しく、そこには人生過程における「産」と「死」同様の、変成による凹凸が、「ハレ」と「ケ」の均衡に侵入して、「余剰」「欠落」と云う非日常的な吸引力を内包しつつ、発生させる不安定な空間を創出するのである。我々は、このような危機的な場面を無事に過ごすために、通常、社会生活のあらゆる場面で、その不安定な場を中和するための通過儀礼を身につけ、実行しているのである。例えば、家を出るときや帰ったときなどに口にする「行ってきます」「ただいま」などの言葉も、始源的には、「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」などの言葉とセットになって、一種の鎮めの呪ないになっているのである。

山国の日本では、このような「境界」は「峠」であることも多く、本来、「峠」は「手向け/たむけ」が転訛したものだと考えられている。したがって、この「峠」などの「境界」を越す瞬間こそが、旅人たちが最も敬虔な気持ちになるときであったと筆者は考えている。もっとも、「境界」と云う意味では、古い時代の我が国の人々には「道」そのものが「境界」として認識されていたと思われるので、「道」沿いには「地蔵」「道祖神」「馬頭尊」などの石仏が多く祀られたのであるが、これ自体は「近世」に勃興した流行である* 。中でも、「曲がり角」「切り通し」「崖沿い」「四辻」「峠」「岬」などは、特に日常と非日常のバランスが崩れるところだと考えられたらしく、最も多くの信仰物が祀られている。

* それだけ、「近世」に入ってから、交通が発達し、旅人が増えたと云うことの証ともとれる現象である。

したがって、「小野神社」=「旅の守護神」説を唱えるには、随分多くの障碍がある気がしてならない。時代的な齟齬もさながら、より単純には、「峠」の手前に神を祀ると云う感覚が、しかも二、三キロも手前と云うのが、どうしても筆者には腑に落ちないのである。実際、『塩尻市史』は、「峠」信仰を例として、
「小野神社」=「旅の守護神」説をとなえるのだが、それなら何故、「善知峠」そのものに社を造らなかったのだろうか。「古代・東山道」の宿駅で考えても、「小野」の地は、「深沢」と「覚志」の間である。「善知峠」の手前としては、『塩尻市史』自身が記すように、「市史」が「苅谷 (=仮宿) 」の地に比定する現在の「古町」地区の方が麓と云うに相応しい。

このことと関連して、考古学の「小野真一」氏は、次のように述べている。
 
山嶽信仰と関連するものに峠の祭祀遺跡がある。これはけわしい山を越えていく交通路に伴うものであり、山麓の集落民が祀った山麓の祭祀遺跡とは異なった存在である。古墳時代まではいまだ麓の台地や微高地で祭祀を行ない、高い山上では行なわれなかったが、山越えをする旅人は別であった。しかし、それは峠の性格上神体山を越えるものではなく、山岳地帯の主として鞍部を越えてゆくものであるから、そこから神体山を望見し得る場合、これに手向けの祭礼を行なったことが推察される。時代が歴史時代まで下ると、東海道の足柄峠などにも、その痕跡を求め得るが、古墳時代の場合は山嶽重畳たる東山道沿線に、この峠の祭祀遺跡が多い。 (下線、筆者)
 
小野真一 (1982) 『祭祀遺跡』ニュー・サイエンス社、p. 74

確かに、「小野真一」氏は、「律令制」以前の「東山道」に「峠」信仰があったことを確信しているようだが、それは明白に「古墳時代」程度にまで時代を絞っての話のようである。その上、やはり、「峠」の信仰は「峠」周辺で行なわれるものとして規定してもいる。

しかも、その上、「小野神社」の地は、「善知鳥峠」にはそっぽを向け、この峠から望見する「大芝山」ではなく、神社背後の「霧訪山」を仰ぎ見る位置にあると云う事実も、「峠」の地から神体山を仰ぎ見ることを基本と考えている「小野」氏の見解とは異なっており、「小野神社」の「峠」信仰起源説を疑わしいものにしている。「小野神社資料館」の方が、ここの神社は、元は「
霧訪山」に対する信仰として開始されたものへ、後に「小野・矢彦」の信仰が重なったのではないかと仰っていたことも気になる。

ちなみに、
「峠」信仰の例として「市史」が挙げている「神坂峠 (信濃坂) 」の場合、「神坂神社」は確かに「峠」の麓、数キロのところに鎮座している。しかし、この神社の場合、1) 海洋神の「住吉神」が祀られている (海洋信仰は目的地や通過点に神を祀る傾向が強いと筆者は見ている) 、2) 社の背面がまっすぐ「神坂峠」「神坂山」である、3) みずからも段地に鎮座している、と云う点で、「小野神社」に比べると遥かに「峠」の神として不自然でないのである。しかし、それでも『万葉集』の歌を見る限り、かつての「神坂」信仰は、確実に「峠」で執行されていたと思われる。
 
千早ぶる神の御坂に幣まつり斎ふ命は父母がため
巻二十『万葉集』4402

そもそも、「神坂峠」の「峠」祭祀は、「岐阜県中津川市」の東方一帯から始まり、点々と「長野県下伊那郡阿智村」に至るまで続くもので、「神坂神社」一つに限定されうるものでないことも挙げられる
(小野、1982, pp.74-77) しかも、「神坂峠」には、そのまさに鞍部に祭祀跡が遺されている。そして、これら遺跡の中には、「縄文時代」の住居跡も見つかっており (日本道路公団名古屋支社、1971) 、その時代の古さは驚くばかりだが、一方でそのことは、この地の祭祀が単なる「旅人」のための「峠」信仰などではなく、自らの住まう土地に根差した、より本質的な祭祀だったことを示唆している。このことは、安定的な「定住」生活を前提として始めて「旅」と云う概念が形成され得ると云う筆者の基本的な考えを裏打ちすることでもある。

以上のことから総合して、筆者は、「小野神社」の起源を「旅の守護神」と解することには疑義を呈せざるを得ない。そして、古い時代に存在した「峠」信仰に見られる祭祀は、「境界地」を越えることに対する畏怖の念に裏付けられた地元民の信仰に基づくもので、むしろ後世の「さえの神」の信仰につながるようなものだったと考えられるのである。後に、「さえの神」系統の神仏が「旅人の守護神」と転じた事実はあったとしても、それはやはり制度的な交通が成立かつ普及した時代のことであり、到底「小野神社」のような古社の起源に関わるような議論とは縁のある話ではないと考えている。


c) 「矢彦」と「洩矢神」2  附・社宝「鐸鉾」について

「矢彦神社」の社名に関して筆者が思う第二のことは、その漢字表記に関わっている。

「矢彦神社」は、古い時代には「八彦」とも表記されたようだが、「八」と「弥」は同じ語源から発する形容辞なので、「八」に特別な意味でも発見しない限り、このことはさして問題にならない。しかし、やや幼稚だと云う誹りを受けることも省みずに云わせてもらえれば、筆者は、「矢彦神社」を考えるとき、単純に「矢」つながりで、「洩矢神」を連想せずにはいられない。

「洩矢神」とは、「建御名方神」に先行する「諏訪地方」の土着神と考えられ、別名「ミシャグチ神」とも呼ばれる。『諏訪大明神絵詞』などの伝承によれば「出雲」から「建御名方神」が「諏訪」に入ろうとした当初、「洩矢神」は「鉄輪」を武具として迎え撃ち、「建御名方神」は「藤の枝」で「鉄輪」を朽ちさせて勝利したと云う。以降、「洩矢神」は「諏訪地方」の祭神の地位を「建御名方神」に明け渡し、その補佐をして、「諏訪信仰」の一翼を担うようになったと伝えられている。一般には、「蛇神」「山神」「狩猟神」などとされている。

また、地元の伝承によると、元は幾柱かの土着神だったものが、やがて「ミシャグチ神」に習合されたもので、古くは「モレヤ神」が「木石の神」、「チカト神」が「狩猟の神」、「ソソウ神」が「蛇神」だったとも云う (古部族研究会/編、1975, 1976, etc.) 。

ただ、「ミシャグチ神」を巡っては、確実に云えることはほとんどない。当然、筆者もその正体にメスを入れていく準備はない。将来的には「チカト神」について、考察を広げていきたいとは願っているが、今少し時間が必要である。「小野・矢彦神社」の「ミシャグチ神」に関しても、「小野」と云う「狩猟」と深い関係のある名前のこともあって、「諏訪信仰」の中にあっても、この「チカト神」の性格が強いのではないかと、今は漠と考えている。

だが、「ミシャグチ神」の性格についてほとんど何も云えないと云うことと、「矢彦神社」の信仰の基本的な性格が「ミシャグチ」信仰にあるのではないかと推測することは、別のことである。「神戸千之」氏の『信濃国二之宮・小野神社の研究』 (
伊藤新販社、1984) の中には、「小野・矢彦」両神社の「分割に当たり小野神社の最古の信仰の中心であった御左口神の石棒と、霊魂崇拝の若宮及び神代鉾一本を八彦神社へ譲渡した」と云う記述があり、筆者はこれを以ても十分に「矢彦の神=御左口神 (ミシャグチ) =洩矢神」と捉えることが出来るのではないかと思う。

*

申し遅れたのだが、筆者は当日いきなり「小野神社」参拝に出掛けつつも、役所で教わった氏子の方の電話番号に何度か電話を掛けて、運良く、開館日でもないのに資料館を案内して頂けることになった。この場を御借りして、氏子代表の方に、深く御礼申上げたい。この方の御蔭で、筆者はこの神社の「唐猫様」を始め、様々な「社宝」を直に拝観することが出来たのである。

さて、「小野神社」の資料館に入館すると、「参観のしおり」と云うのがもらえるのだが、その中では主立った「社宝」の解説が行なわれている (「唐猫」の解説はない!? ) 。中でも「鐸鉾 さなぎほこ 」は、珍しい神器である。以下に、しおりの解説文を引く。

鐸鉾 (神代鉾)  塩尻市文化財 (昭和四十九年八月二十八日指定)

一本の鉾に十二の鉄鐸 (一個は舌のみ) と多数の麻幣を結びつけたものである。この麻幣は、七年ごとに行なわれる御柱際にひとかけずつ結ぶ習わしである。鉄鐸はいずれも鍛鉄の粗造鉄板を巻き、大小さまざまで、厚さ・径・舌等もみな違っている。

境内南側の藤池東の玉垣内に「御鉾様」といわれる石があり、神聖な場となっている。おそらくこの石に鉾を立て、祭儀のときに神霊を招き降した重要な磐座であり、鐸鉾はこの祭儀に神の依代として使用した神器ではないかと考えられている。製作年代は室町時代前期と推定される。
 
小野神社 (1995) 「参観のしおり」小野神社社務所

「窪田蔵郎」氏によると、かつて、「諏訪大社」にも「さなぎの鐸」と呼ばれる、六個ずつ三組の鉄鐸が伝わっていたと云う。それは、「神長官」に属し、代々「守矢」姓を名乗る同職が所管していたもので、かつては神霊の依代として御神体に準じて秘蔵されていたそうである (窪田、1991, pp. 18-19) 。現在は、「茅野市」にある「神長官守矢史料館」に展示されており (複製品だと思う) 、史料館では「御宝鈴」あるいは「佐奈伎 さなぎ 鈴」と呼んでいる。

この「諏訪大社」の「鉄鐸」は、「鉾」の先には取り付けられておらず、「藤森栄一」説では、「大御立産 ママ  おおみたてまし の神事と称し、土地や水利などの争いの調停や取り決めの場所で、神の声として振られた」と云う (上掲書、pp. 19-20) 。これに付加えるならば、その「鉄鐸」は「鉾」先に吊るされるものだと云うことは云っておきたい。「諏訪大社」の方では、この形態は退化され、「鉄鐸」は、「鉾」から外され、「御頭祭」で使用する際は、
「御頭郷」から託宣で選ばれた六人の「神使」 (「おこうさま」と呼ばれる) が
首に「佐奈伎鈴」をかけ、「御杖柱」を負って、「諏訪祭政圏内」を巡幸して回る形になっているが (宮坂、1978) 、これは恐らく、「鉄鐸」と「御杖柱」が分離したものと思われる。

鐸鈴
「鉄鐸 (鐸鈴) 」 (神長官守矢史料館蔵)
博物館-よしこのワールド・トリップ「日本編」
http://www.amateras.com/trip/jp/museo/chubu/chino.htm


そこで、我々はそもそも「鐸」の字を「さなぎ (さなき) 」と訓むことの典拠となっている「斎部広成」の『古語拾遺』に目を戻す必要が出てくる。「広成」は、この書の中で、明確に「鐸」の字を「さなき」と訓じているのである。それが登場するのは、「記紀」神話でも有名な「天の岩戸」伝説の箇所である。以下、『古語拾遺』の当該箇所を概観してみよう。

「岩屋」に籠ってしまった「天照大御神」を何とか外に誘い出そうと、閉ざされた「岩屋」の前で神々が楽しそうに宴会を開いたとき、「天鈿女命」は胸乳も女陰も露出させて舞い踊ったのだが、そのときこの女神が身につけていた装束とその様子を、『古語拾遺』は、次のよう記している。

爰、思兼神、深思遠慮、議曰、 (中略) 令天目一箇神作雑刀・斧及鉄鐸古語、佐那伎。 (中略) 令天鈿女命 古語、天乃於須女。 其神強悍猛固。故以為名。今俗、強女謂於須志、此縁。真辟葛鬘、以蘿葛爲手繦蘿葛者、比可氣。竹葉・飫憩木葉手草今、多久佐。 手持鐸之矛、 而於石窟戸前覆二誓槽古語、宇氣布禰。約誓之意。庭燎、巧作俳優、相与歌舞

爰に思兼神、深く思ひ遠く慮りて、議りて曰く、 (中略) 天目一箇神をして雑 くさぐさ の刀・斧及鉄の鐸 古語に、佐那伎といふ を作らしむ。  (中略) 天鈿女命 古語に、天乃於須女といふ。 其の神、強く悍く猛く固し。故以て名と為。今の俗に、強き女を於須志と謂ふは、此の縁なり。 をして、真辟 まさき の葛を以て鬘と為、蘿葛 ひかげ を以て手繦 たすき と為 蘿葛は、比可氣なり。 竹葉 ささば ・飫憩 おけ の木の葉を以て手草 今、多久佐といふ。 と為、手に鐸着けたる矛を持ちて、 石窟の戸の前に誓槽 古語に、宇氣布禰といふ。約誓の意なり。 せ、庭燎 にはび を擧 とも して、巧に俳優 わざをき を作 し、相与 あいとも に歌ひ舞はしむ

 
齋部廣成 (807) 『古語拾遺』大同二年
西宮一民/校 (1985) 『古語拾遺』岩波文庫、pp. 19-20

要するに、「天鈿女命」は、蔓草で髪を飾って襷を掛け、手には笹や木の葉の採物をとり、さらには「鐸」をつけた矛を持って、神を招く芸を披露したのである。この場面で、「天鈿女命」が手にしているのは、『古事記』では「天香山」の「小竹葉」となっているが、これは採物のみを記したのだろう。その証拠に、逆に『日本書紀』では、「天鈿女命」が持っているのは「茅纏 ちまき の矟 ほこ 」となっている。この「茅纏の矟」とは、「茅」の茎葉を割いて「鉾」の先に「幣」のように垂れ下げたもののことであろう。

この「茅纏の矟」と云う描写が、「小野・矢彦神社」の信仰を考えるとき、いかに重要であるかは、まずこちらの神社の「鐸鉾」を一見してみれば良い。まさに、百聞よりも明白である。

鐸鉾鐸鉾02
「小野神社」の「鐸鉾」 (「参観のしおり」より)

神の降臨を祈る儀式の中心的な呪物が、この「鐸鉾」と相似したものであったと云うのは、ここの神社の信仰を考える上で極めて重大な意味を持っている。もちろん、この「鐸鉾」は、「室町期」の制作と考えられているで、この存在が即ちここの神社の古さや起源を示唆するとまでは云えない。「室町期」までに「中央」の神話の影響を受けてしまったとも考えられるからである (総合的に考えるとあまり考えられないが...) 。しかし、この祭具が何の為に、どのように使用されたのかを考えるに当たっては、「記紀」及び『古語拾遺』の神話は、ほぼ確定的なまでの示唆を与えてくれる* 。

* 「宮坂光昭」氏は、『諏訪上社の形態と発生』 (信濃毎日新聞、1978) の中で、「御頭御占神事」に触れ、「御頭祭」に奉仕する「神使」六人が「佐奈伎鈴」を首にかけ、御杖柱を負って、「諏訪祭政圏内」を巡幸して回るのだが、各地の「湛」と云う場所で「佐奈伎鈴」を鳴らして「ミシャグチ」の神降ろしをする、と述べている。
 
さらに云えば、「天岩戸」神話の場面では、「天香山」が果たす役割が大きいのも、気になる。神々が祈るときの中心的な祭具になるのも、この山から根こそぎ掘り起こした「真賢木」である。以前に、「犬供養」のことを書いた記事のときに、古い時代には生木を根こそぎ抜くか、枝葉を残して伐るかした木には特殊な呪力があると考えられたことは紹介したように思う。そして、根こじにした木も、枝葉を残した木も、しばしば逆さにして持ったのである。ここで興味深いのは、根こじにした木を逆さに持つと、その形状は、「神長官守矢史料館」の「鉄鐸」の一部が吊るされていた「贄柱」 (あるいは鹿の角) と酷似するのである。

この他、踊り狂う「天鈿女命」の手に持つ採物や身につける装身具も、すべて「天香山」由来なのである。さらには、『古事記』のみ「天の香山の眞男鹿の肩を内拔きに拔きて、天の香山の天の波波迦を取りて、占合ひ麻迦那波しめて」云々とあるが、要するに、「天香山」の鹿の肩胛骨を「朱桜」の樹皮を焼いた火に当てて「太占 ふとまに 」を行なったのである。これなども、「鹿」の贄を重視する「諏訪信仰」とのつながりを感じさせる記述である* 。

 
* 「吉野裕子」氏は、「鐸=さなぎ」の語を「小 さ + 蛇 なぎ 」と解釈している。そして、「蛇」は怒ると尾を震動させて音を出すと云う「高田栄一」の生態観察 (北隆館、1971) に基づいて、かつての「蛇巫」はこの微かな音とその変化を聞いて神意を知ったが、鉄・青銅の鋳造の進歩に伴い、金属で「蛇の尾」を造型し、これに「舌」をつけて音を出すように工夫したのが「鐸」の起源だと提唱している (吉野、1979, pp. 266-267) 。また、同氏は、「天香山」の「カグ山」も、元は「カガ山」で、「蛇」を表わすものだと述べている (吉野、1989, pp. 44-45) 。氏は、「ハハ」も「蛇」の古語としており、「天香山」の「波波迦」の木と云うも関連を疑わせる。

*

いずれにしても、「鐸鉾」は、数多くある器物の中から「明治天皇」が特に御気に入りになられたものの一つで、珍しい宝であることに間違いはないので、二百円を節約せずに、是非、「小野神社資料館」に御出掛け下さい。ただ、ここは氏子代表の方が応対して下さるので、毎月の第二・第四日曜日の他は、五月の連休や例祭日以外は開館していないので、お出かけ前に連絡を入れることをお薦めする。連絡先に関しては、「塩尻市役所」に問い合わせて下さい。


c) 「建御名方命」の「諏訪」入り前のことについて

「小野神社」の主祭神は「建御名方命」であり、この「建御名方命」が「科野」に降臨したとき、「洩矢の神」の抵抗に遭って、すぐには「諏訪」に入れず、しばらく「小野」の地に留まってから「諏訪」に移ったと云う由緒をここの神社は伝えている。

ここでは詳しく述べないが、「
建御名方命」と云えば、「国譲り」の神話で、「天孫」に「葦原中国」を明け渡すのを嫌い、力勝負に負けて「信濃」に逃げてきた神である。この神話を巡る評価はさて置き、この話は多くの神話学者、民俗学者、歴史家たちによって、古代に実際にあった政治集団間の争いを象徴していると考えられ、「建御名方命」の「信濃」入国は、仮称「諏訪族」が「出雲」方面から「信濃・諏訪」に大移動を行なった過去の歴史に対応するのではないかと推測する人も多い。

ただ、このような大移動であるにも関わらず、そのルートに関しては意見の一致を見ていないのが現状である。最も有力視されているのが「日本海」を北上して「姫川」を上り、一旦は「安曇野」に入った後に、「松本」を通って「諏訪」に進んだと云う仮説だと思うが、これにしても異論はある。「信濃川」から上ってきたと主張する一派も根強くおり、なかなか決着がつかないのである。

『先代旧事本紀』には、「建御名方命」は、「高志国」 (越の国=現・富山、新潟) の「沼河姫」の息子であると記されているのだが、この「沼河」とは「糸魚川市」を流れる「姫川」とされるため、「出雲」を逃れた「建御名方命」が「信濃」入りするならば、まずは母神の故地である「姫川」流域を足掛かりにするだろうと考えられているのである。実際、「姫川流域」は、古くから「諏訪神社」が多いことで知られ、このことも「姫川」経由説の傍証とされる。

ただ、ここにわずかな問題があり、「諏訪神社」の数の多さで云うならば、実は「信濃川」流域の「新潟県」が日本一であり、「姫川」流域の「富山県」は第五位なのである (何と、本拠地の「長野県」は第二位!! ) 。神社の数が多ければ、そちらの方が必ず起源地であるとは限らないが、有力な傍証であることは動かない。しかも、拙稿「長野県の猫神・建部神社の唐猫様」の中で「小泉小太郎」伝説を扱った箇所でも見た通り、仮定「諏訪族」が「諏訪」入りしたルートは、「信濃」及び「甲斐」の「蹴裂伝説」などを比較考量した結果、やはり「姫川」経由説の他、「信濃川」経由説、「信濃・甲斐」国境地帯の「佐久地方」経由説とが考えられたのである。しかも、「佐久地方」経由説の場合は、「信濃川」を経由する南下ルートと、「富士川」を経由する北上ルートとが考えられたのである。つまるところ、地域の開拓伝説から見ても、「信濃川」経由説は、決して軽々しく却下し得るほど脆弱な根拠に根差している訳ではないのである。

しかし、それでもこの二つの仮説は、概ね「日本海」から南行したと云う点で、「北方ルート仮説」とまとめることが出来るが、実は、「尾張」経由で、陸路、あるいは「天竜川」を経由して、南方から移動してきたと云う人々もいるのである。さらにはその中間のような、一旦、「伊那地方」深くまで南下した後、再び北上して「諏訪」の地に入ったと云う考えもある。

このような北上説の根拠は、いくつかあるのだが、中でも最も有力な証とされるが、『萬葉集註釋』巻一に載る『伊勢国風土記』逸文の記事である。以下に、必要な部分だけ抜粋した。

天日別命 *は、倭磐餘彥の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征 ちたまひし時、天皇に隨ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。天皇 (中略) 天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平 ことむ けよ」とのりたまひて、卽ち標 しるし の劒を賜ひき。天日別命、勅を奉 うけたまは りて東に入ること數百里なりき。其の邑にあり、名を伊勢津彥と曰へり。天日別命、問ひけらく、「汝の國を天孫に獻 たてまつ らむや」といへば、答へけらく、「吾、此の國を覔 ぎて居住むこと日久し。命を聞き敢へじ」とまをしき。天日別命、兵を發して其のを戮 ころ さむとしき。時に、畏み伏して啓 まを しけらく、「吾が國は悉 ことごと に天孫に獻らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。天日別命、問ひけらく、「汝の去らむ時は、何を以ちてか驗 しるし と爲さむ」といへば、啓しけらく、「吾は今夜を以ちて、八風を起して海水を吹き、波浪に乘りて東に入らむ。此は則ち吾が却 る由なり」とまをしき。天日別命、兵を整へて窺ふに、中夜 よなか に及 いた る比 ころ 、大風四もに起りて波瀾を扇擧 うちあ げ、光耀きて日 ひる の如く、陸も海も共に朗かに、遂に波に乘りて東にゆきき。 (中略) 伊勢津彥のは、近く信濃の國に住ましむ。
 
*
天日別命---「天日鷲命」とも。「伊勢神宮」神官の「渡会氏」の祖先神。 (筆者注)
 
『伊勢國風土記』逸文
秋本吉郎/校 (1958) 『風土記』日本古典文学大系 2、岩波書店、p. 433

すなわち、「伊勢」の神だった「伊勢津彦」は、「神武天皇」の命を受けた「天日別命」によって、国を譲らされるのだが、国を出て行くとき、大風を起して、波飛沫を打ち上げ、太陽のように輝いて去ったと云うのである。そして、後補ではあるが *、このくだりの注記には、この後「伊勢津彦」は「信濃」に遷ったと記されているのである。

* この部分は、『倭姫命世記』から補ったようなのだが、「日本古典文学大系」本の注では、「風土記記事とは認め難い」とある。
 
この「伊勢津彦」に関しては、応永年間 (1394-1428) に書写された『日本書紀私見聞』に載る
『伊勢国風土記』逸文にも記載がある。
 
伊勢と云ふは、伊賀の安志 あなし の社に坐す、出雲のの子、出雲建子命、又の名を伊勢彥命、又の名は櫛玉命なり。此の、昔、石もて城を造りて此に坐しき。ここに阿倍志の、來奪ひけれど、勝たずして還り却りき。因りて名と爲す。
 
『伊勢國風土記』逸文
秋本吉郎/校 (1958) 『風土記』日本古典文学大系 2、岩波書店、p. 437
 
仮に、「伊勢津彦」が「信濃」に遷ったと云う箇所を除外したとしても、上記二つの神話が、「建御名方命」の「信濃」入りの神話と酷似することは、「古典文学大系」本の校注者も認めている *。しかも、その上、『日本書紀』の持統天皇五年 (691) には、六月以来の長雨の被害を食い止めるために、七月に「広瀬・龍田」の二神に祭りをするが効果がなく、翌八月に、「使者を遣して龍田風、信濃の須波 すは 、水内等の**を祭らしむ」と云う記述が見られる。
 
* 「秋本吉郎」氏は、「建御名方命 (大国主神の子) の追放、信濃鎮座に似た伝承があり、神名も類する」と注記している (p. 437、注16) 。

** 「水内郡」と云うのは、現在の「長野市」を中心とした「長野盆地」一帯を指した「行政区分」で、かつてはこの地域の地主神として、現在「善光寺」のある土地に「健御名方富命」を祀った社があったのだが、これが「健御名方富命彦神別神社」である。「中世期」には「神仏習合」が進んだと見られ、延文二年 (1357) の『諏訪大明神画詞』には「善光寺」境内の「諏訪社」として描かれており、おそらくは「善光寺」の「地主神 (守護神) 」となったと思しい。「明治初」までは、「善光寺」北側にあって「年神宮」と呼ばれていたが、明治十二年 (1879) には、境内東の「城山」に移され、現在に至っている。右側の脇拝殿には「地主大神」と記された扁額が掲げられている。ちなみに、この神社も、「小野神社」や「葦原神社」 (後述) のように、
建御名方」が「諏訪」入りする以前に、この地にしばらく逗留したのが起源だと云う伝承がある。
 
天武天皇四年 (675) 四月十日条には、「風を龍田の立野に祠 まつ らしむ」「大忌を廣瀬の河曲に祭らしむ」とあり、以来、朝廷は孟夏四月・孟秋七月の「広瀬大忌神」と「龍田風神」の祭を恒例としていたが、持統五年は、これらの祭神だけでは長雨の害を払えなかったので、改めて「信濃」の「諏訪大社」と「健御名方富命彦神別神社」を祭っていると云う事実からも、「諏訪の神」が古くから「風神」「水神」として理解されていたことが窺え、『伊勢国風土記』逸文における「伊勢津彦」の描写が、『日本書紀』の記述とも重なるのである。

この他、「三河・遠江」を中心に分布し、恐らくは「濃尾平野」で鋳造されたものだろうと考えられている「三遠式銅鐸」が、「塩尻市・柴宮」の「大門神社」や「松本市・宮淵」の「本村二つ塚」から出土しており、「天竜川」を北上する人の流れが古くからあったことは証明されているのである (『長野県史・考古資料編』p. 865) 。また、「伊那谷」は「長野県内」の中でも「諏訪信仰」が盛んな地域で、「天竜川」水系には多くの「諏訪神社」が鎮座しているのも、「諏訪族」北上説の傍証とはなり得るのである。

古代史家「大和岩雄」氏は、「伊勢津彦」は「建御名方命」であると云う前提に立ち、旧「伊奈部村」 (元・伊那市) は、「伊勢津彦」と関係の深い「伊勢」の「猪名部氏」 (物部庶流) が「本家・物部氏」との争いを避けて「伊那」の地に開拓した土地だと考え、この神 (「諏訪族」の祖先) が、「猪名部氏」を従えて、「伊勢」から「三河」に渡った後、「豊川」を遡って、今の「佐久間ダム」辺りから「天竜川」沿いに「諏訪」入りしたのではないかと提唱している (大和、1987, 1989) 。

このように「諏訪明神」の北上説は、定説ではないが、必ずしも荒唐無稽なものとは云えず、一考の価値はあると云える。少なくとも、「諏訪族」が「諏訪」定着以前に、「伊那地方」に存在した形跡だけは、かなり明白に遺されているのである。

実際、「下伊那郡大鹿村」には、「建御名方命」がかつて「行宮」を築いたと云う伝承があり、「鹿塩温泉」などは「建御名方命」が発見したと云う言い伝えもある。「梨原」地区の「葦原神社」は、以下に見るように、自らを「諏訪神社本宮」と名乗るほどである。
 
大鹿村鹿鹽字梨原鎭座、諏方社祭は建御名方命にして、その創建遼遠に渉り詳らかならずといへども、太古大國主命の御子に二子あり、長子事代主命は天津の勅を奉ずれども、一人建御名方命は勅を奉せずして天使の二神と大に戰ひ逃れて洲國に至り、今の下伊那郡佐原に於いて和を講じ、それより命鹿鹽に入り葦原 (今転訛して梨原といふ) に行宮を建て、暫く山野に御狩をなされ、山鹽を發見して自ら捕獲せられし鹿肉の調理に用ゆ、故に地名を鹿鹽村と號す
 
しかして今諏訪に御遷居在らせられたる靈跡にして、今本殿の下に八尺四方位の塚あり、御分靈のおさまります所なりと傳ふ、後人是を尊崇し一社を創立して勸請す、これに依つて古來諏訪大社の御柱祭には、大祝にては幕を張り鹿鹽棧敷を設け特に待遇せられしをもつて、當方にては惣代をもつて饌物を供し參拜せし例なりき、古くより社前の額書に諏方本社と畫かれたり
 
「梨原家文書」
大鹿村誌編纂委員会/編  (1984) 『大鹿村誌』大鹿村誌刊行委員会

これもまた「『ハヤマ信仰』に関する一考察 5) 」で既に紹介したことだが、「松山義雄」も自著『山国の神と人』の中で、上の伝承を紹介している (松山、1961, pp. 121-122) *。この伝承は、当時の「諏訪湖」が現在の数倍大きく、その南端が「鹿塩・梨原」の辺りまで来ていたことから、「建御名方命」はこの地に仮宮を置いたが、湖水が引けて「鹿塩」が峡谷になると、本拠地を湖水の残った「諏訪」に移したと云う言い伝えを背景にしている** 。

*その他、「岩崎清美」の『伝説の下伊那』 (文星堂書店、1923)

** この伝承自体、以前に紹介した「泉小太郎」と「蹴裂伝説」とも通底する上、「建御名方命」が水に拘っていることから、この神が水神の性格を有していることも示唆している。ただし、「諏訪神」は、「風神」として最初に記録されていることから、「龍神」につながる「風雷神」ではないかと云う推測も立つ。しかも、ここでも「建御名方命」は同時に「狩猟神」の性格を見せているのである。

この伝えを無視出来ないものにしているのは、「大鹿村」が、かつて「諏訪大社」の祭礼に関して、特別な役割を担っていたと云う「鹿塩桟敷」の具体的な伝承を伴っているからである。また、「大鹿村」に残る文久四年 (1864) 「御宮再建御普請中記録帳」には、「一、今般御宮再建に付諏方大祝へ元諏方儀に御座候間、右再建の趣相届願可申候事、当春代参之者に願可申候相談に御座候」云々と云うくだりがあり、「諏訪大社」と「葦原神社」の間には、後者が前者の「元宮」であると云う見解に関して、ある一定の共通認識があったことが読み取れる。より細かく基礎資料に当りたい方は、『南信伊那史料』及び『大鹿村誌』などを参照されるとよい。

「小野神社」にも、「大鹿村」と同様の言い伝えがあることは、したがって極めて興味深い現象なのである。同じような話が離れた二つの地にあること自体、それらが後世の創作だと云う証だと捉える向きもあろうし、逆に、「大鹿村」から「諏訪」に向かうルートの間に「小野」の地があるために、返って二つの伝承は互いの信憑性を補完し合うのではないかと考える人もいるだろう。


*

いずれにせよ、「小野神社」の社伝によれば、ここの社地は、「建御名方命」が留まった旧跡で、「崇神天皇」の年代に「建御名方命」の分霊を勧請したのが始まりだと云う。以来、ここの神社は「信濃国二之宮」として、その信仰を広めたと云うのである。

隣りの「矢彦神社」にも似たような由緒が伝わっている。主祭神は、「正殿」に「大己貴命」「事代主命」、「副殿」に「建御名方命」「八坂刀賣命」を祀り、その他にも「南殿」に「天香語山命」「熟穂屋姫命」、「北殿」に「神倭磐余彦天皇」「誉田別天皇」、「明治宮」に「明治天皇」を祀っている。「神代」に、「大己貴命 (大国主命) 」がその国造りの大事業の過程で、御子である「事代主命」と「建御名方命」を従えて、この地に立ち寄ったのが始まりと伝えられている。

興味深いのは、「南殿」の「天香語山命」である。一般には、「天香山」と表記されることが多いが、この「天香山」は、山の名前であるだけでなく、上に見たように「矢彦神社」の祭神にも連なり、「越後・一之宮」の「弥彦神社」の主祭神でもある。したがって、この神は、「鐸鉾」を媒介して、「小野神社」の「諏訪信仰」と「矢彦神社」合わせての「ミシャグチ神」が、 遠く「越後」の「弥彦神社」ともつながることの証となっている。

「天香山命」は、「神武東征」にも功績のあった神で、武人からも崇敬を受け、「弥彦神社」では、後に「越後国」平定・開拓の詔を受け、「越後・野積の浜」 (現・長岡市) に上陸し、地元民に「漁撈・製塩・稲作・養蚕」などの産業を教えたと伝えられている。「天孫」の征伐を受けて「信濃」に入った点ではやや異なるが、その他の点ではそれとなく「建御名方命」の来歴とも似ているのである。
この神は、「刀剣」と関係が深く、「越後」を平定・開拓した神として知られている。


いずれにしても、「小野・矢彦神社」の信仰に踏み込んでいくと、それが元々、一枚岩のものではなく、いくつかの歴史的な層があることが見えてくるのは確かなようである。「中央」の神話では被討伐者である「建御名方命」も、「信濃」では「征服者」であるし、「矢彦神社」も、「越後・弥彦神社」とのつながりの中で、やはり「中央」による地方の平定・鎮撫と深い関係にある神を祭神として祀っていることが理解される。おそらく、「信濃国」は、この「征服/被征服」の関係が、他所の地―例えば、「越後」など―より、複雑だった所為で、後に伝わった神話や伝承が、多層的な構造を保持したまま遺されたのだろう。


d) 「小野郷」分断小史

この両神社は、創建後、それぞれに多くの由緒を伝えつつ、共に「信濃国二之宮」として地元の崇敬を集め、栄えた歴史を有している。「木曾義仲」「武田信玄・勝頼」などの参拝を受け、「近世期」には「幕藩体制」の枠組みの中で、地域の中心的な社として保護を受けると同時に、その氏子組織などの再編成が行なわれたのは、大概共通している。

ただし、「小野神社・矢彦神社」の由緒や歴史などについての詳細は、『塩尻市史』や『辰野町史』等に詳しいので、既に述べたこと以上のことは、そちらに譲ることとする。ここでは、現在の「小野」地区の特異な分断状況の歴史的な背景を軽く概観した後に、次節に移りたいと思う。

*

「戦国中期」の文安三年 (1446) 以来、「小笠原宗家」の宗主権の弱体化に伴って、「府中 (深志・松本) ・鈴岡・松尾 (共に飯田市域) 」の「小笠原」諸勢力の間で、「小野郷」付近の領有を巡る争いは顕在化していたのだが、「府中」の「小笠原長棟・長時」親子の代に、「鈴岡小笠原氏」を滅ぼし、「伊那小笠原氏」を「信濃」から駆逐することで、いったんは三勢力の再統一に成功したものの、天文十四年以降、「武田信玄」の「信濃侵攻」に悩まされ、「小県郡」の雄「村上義清」と連合して戦った天文十七年 (1548) 六月の「塩尻峠の戦い」に敗北した後は勢力を挽回することなく、同二十年までに「長時・貞慶」親子は本拠地を失って国外に亡命し、「信濃」国内から「小笠原」勢力はいなくなった。ちなみに、当初、「小笠原」親子は「村上義清」を頼ったものの、「信玄」に敗れて、「義清」もろとも「越後」の「上杉謙信」を頼ったことが、世に名高い「川中島の戦い」を引き起こすことになったのである。

天正七年 (1579) に「長棟」から家督を譲られた「貞慶」は、以降、諸家を頼って旧領回復を図り続けた。そして、「信玄」の死後の天正十年 (1582) 、「織田信長」が「徳川家康」らを先鋒に「武田攻め」を開始すると、「貞慶」ら旧「信濃」勢力の武士の多くがこの戦いに参加し、「武田氏」滅亡後、旧地に所領を得ている。「貞慶」も「筑摩郡」に所領を得たが、旧領回復にはまだ程遠い状態ではあった。

事態は、その後も急展開を見せ、同年中に「本能寺の変」が勃発、「信濃国」は再び戦乱の世を迎えた。翌年までに、この混乱を「家康」が収拾して「信濃」の再統一をなし遂げ、「甲信駿」を統合すると、それに協力した「甲信」の旧勢力は、多く本領に復帰することを許され、「家康」に従って自力で旧領を切り取った「貞慶」も、改めて「安曇・筑摩」二郡を安堵され、「松本城」に入った。

ここに、親子二代に渡る宿願を叶えた「貞慶」は、いち早く旧領での権威回復を狙い、地元の多くの寺社に安堵状を出した。中でも、「信濃国・二之宮」と謳われた「小野神社」には、天正十年七月十九日、「深志 (松本) 城」を奪回するといち早く筑摩郡南部に侵入し、「安曇郡西牧慶徳寺山屋敷」とその寺領を、「社領」として寄進して、その信仰圏における自らの政治的な優位を確保しようとした。そして、この事実が、後の「小野郷」分断の方便を胚胎させることになってしまうのである。

不運にも、「貞慶」を巡る運命は、この後も変転とする。天正十三年には、「石川数正」の出奔に巻き込まれる形で、「秀吉」の臣下に移ったかと思えば、その二年後には「秀吉」の直命で「家康」の家臣に復帰している。天正十七年には、家督を子の「秀政」に譲り、翌十八年の「小田原征伐」では「前田利家」軍の下での手柄が認められ、新たに「讃岐」半国を与えられるが、直後に、「秀吉」の勘気に触れて追放されていた「尾藤知宣」を庇護していたことが露見し、改易となる。

この時点で「貞慶」は、先祖伝来の「安曇・筑摩郡」支配を「小笠原氏」が維持する望みを「秀政」にかけていたと思われる。しかし、「小田原征伐」後、「関東」に覇を唱えた「後北条氏」を滅ぼし、「東北」の諸侯をも鎮撫したことで、「秀吉」は、「家康」の「関東移封」を敢行する。そして、「貞慶」の願った、「小笠原氏」による旧領安堵の夢は、この時点で潰えたのである。「秀政」は、当然の如く「家康」に従い、「下総国古河」二万石に封じられた。

この大きな政治変動によって、「甲信駿」地方の政治地図は、三度目の再編成を受けることとなった。結局、「家康」の移封後、「松本」を中心とした「安曇・筑摩郡」は「石川数正」に与えられ、「飯田」を中心とした「伊那郡」は「毛利秀頼」が領することとなった。しかし、早くも翌天正十九年 (1591) には、「伊那郡」の「小野郷」の帰属を巡って両者が激しく対立する事態となった。

この時の顛末について、後の寛文七年 (1667) に「松本藩」から「小野神社」に出された問合せに対して、「小野大祝部」が言上した返答書には、次のように記されている。
 
先年伊那領者毛利河内守様御持被成候時者八十年以前毛利河内守様被仰候者小野村之儀者伊那郡之内ニ而御座候と御申被成候ニ付松本領御領主石川伯耆守様之郡論ニ而三年之出入御公事ニ罷成京都江登リ御捌之上ニ而天正十九年夘ノ霜月廿三日松本領よりハ安彦源左衛門殿伴喜三良殿伴兵左衛門どの伊那領よりハ可知六左衛門どの御立会被成産神大明神田畑屋敷山川問屋荷物等ニ至迄二ツ割被成候

寛文七未年                     松本領小野村
  二月                        小野大祝部

参照・北小野地区誌編纂会/編 (1987) 『北小野地区誌』自刊、p. 247

「石川数正」は、天正十年の時点で、「小笠原貞慶」が「安曇・筑摩郡」から「小野神社」に「社領」を割いていることを根拠に、「小野郷」が「筑摩郡」内であることをし主張したものと思われる。

この争いは、最終的には「京都」の「秀吉」によって、「小野郷」を南北に分けて、北を「石川数正」領、南を「毛利秀頼」領とするよう決裁されたのであるが、この問題が解決するには天正十八年から同二十年の春まで、足掛け三年もの月日を費やしたのである。そして、この時の分断が、今日もなお、そのままこの地域の奇妙な行政区分に尾を引いているのである。

このとき、「小野村」は「南小野村」「北小野村」の二つに分割されたのだが、それに伴って神社も「小野神社」は「北小野」、「矢彦神社」は「南小野」に属することになったのである。それは上記史料で見たように「産神大明神田畑屋敷山川問屋荷物等ニ至迄二ツ割」にしたと云うほど徹底したものだった。

鳥居の立つ国道側から境内に入ると、いきなり左右に広い広場が現れ、「社務所」だの「社殿」だの、色々な建造物が建ち並ぶため、この敷地が、真ん中でまっぷたつに区切られていると云うことにはなかなか気づかない。少なくとも、筆者はそうだった。しかし、少しばかり奧に足を踏み入れて、敷地の中程をよく観察すると、実は「堀」とも呼べないほど小さな側溝の如き溝が東西に走っているのが分かる。石積みで側面を固められたその溝の底を、わずかな水流が流れているのだが、これは正式には「いち川」と云う小川らしく、両神社の境界線をなす目印となっている。本来は、これが郡境になるべきだったのかも知れないが、実際にはより南の「唐沢川」が境界として採用されたため、「矢彦神社」の境内だけが飛び地になって残ったのであろう。

この堀は、「社殿」群の後ろへと抜け、鬱蒼たる社叢林に入ると暗渠化され、樹木の間を逍遥とする小径へと変化する。この小径を辿っていくと、最後に小さな土饅頭のような場所に出るのだが、そこには石造の「社地境界標」がある。

既に述べたように、本来の「筑摩・伊那」の郡境は、「善知鳥峠」であるべきで、「小野」の地は、完全に「伊那郡」に入る訳なのだが、この天正十九年の分断が元となって、いまでは自治体の境界までもが歪なものとされ、本来「筑摩郡」の「塩尻市」が、「小野」の地まで出張ったままなのである。そのせいで「矢彦神社」の境内だけが、「辰野町・小野」と云う飛び地で、「塩尻市」の中に残る形となっていることも述べた。だが、自治体間で飛び地があると云うだけでは、そんなにも珍しいことではないじゃないか、と云う向きもあろう。いやいや、「小野」の地の分断と飛び地は、そんなどこにでもあるような代物ではないのである。

この不思議な自治体の分断で、最も奇妙な実態と云うのは、おそらく地元の小中学校の扱いであろうと思われる。過疎、とまでは云わなくとも、未成年人口の減少と云う全国的な傾向の中で、地方都市は、特に義務教育の通学圏を巡って様々な苦慮を強いられている。特に、この「小野」地域に関しては、そもそもが自然郡境が「善知鳥峠」なのに、そこを強引により南方に境界を持ってきてしまったのだから、「塩尻市・北小野」付近の児童・生徒が、仮に「塩尻市」内の別の地域に通学するとなると、子供たちは毎日二回、この難所の峠を越えなければならないことになる。これは、どう考えても、あまり現実的だとは云えない。一方、「辰野町」側の「小野」にしたところで、隣接する「辰野町」の集落とは決して近いとも云えず、元々、社会生活上、統合的な生活圏を維持していたのは「北小野」となのであるから、これまた遠く、「辰野町」の中心部まで子らを通わせると云うことになれば、無駄な労苦ばかりがかさむことになる。

そこで苦肉の策として考えられたのが、南北の「小野」地区で、「塩尻市」及び「辰野町」双方が出資して小中学校を共同運営する組合を設けて、その「組合立」として「小中学校」を設立することだったのである。結果、「両小野小学校」が「辰野町」側に、「両小野中学校」が「塩尻市」側につくられると云う、よその地域の人々からしたら実に不可思議な構図が出来上がったのである。実際、「塩尻市」の「市内小中学校の通学区」を閲覧すると、この二つの学校は、その対象が「両小野」と記載されていると云う。



4. 小休止


先日、ゴールデン・ウィークの最中に、七年に一回の「小野神社・矢彦神社」の「御柱際」が無事終了するとのニュースを見た。五月五日だったと思う。残念ながら、現地で見学することは出来なかったのだが、「人を見たけりゃ諏訪御柱、綺羅をみたけりゃ小野御柱」と謳われるきらびやかなお祭り装束の数々は、テレビの画面を通しても、晴れ渡った五月の空に映えていた。「千葉」ではとっくに散った桜がいまだ咲き残っている姿に、遠い空から「信州」の遅い春に思いを馳せたひと時だった。

筆者は、今回の記事を、「小野神社』の「御柱」が始まるまでに書き上げようと、秘かに目論んでいたのだが、お祭りが終わって一週間が経とうとしている今も、その目的を果たさないでいる。どんなに悔やんでも、こりゃとんだ後の祭りである。

とまあ、そんなことを悔やんでいるうちに、記事が予想以上に長くなってしまったので、今回は、久しぶりに分割して発表することで誤摩化すことにした。元々、計画的な中断ではないので、切れ目もいきなりぶった切った感が否めない。諸姉諸兄の御寛恕を乞う次第である。

と云う訳で、今回はここで小休止。
悪しからず御付き合い下さい。

(公開年月日は、当初の予定通り四月末日のままにしましたが、本当は五月十三日です。)



参考文献

A. 主要文献・地誌

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・信濃史料刊行会/編 (1959) 『信濃史料』第十三巻、信濃史料刊行会
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・今井野菊 (1964) 『洩矢民族千鹿頭神』中央印刷
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 柳田國男 (1998) 『柳田國男全集 11』筑摩書房
・坂本太郎 (1928) 『上代駅制の研究』至文堂
 坂本太郎 (1989) 『坂本太郎著作集 8』吉川弘文館
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・福田晃
(1976) 「『猫檀家』の伝承・伝播」
 
福田晃 (1976) 『昔話の伝播』弘文堂
 原題「昔話『猫檀家』の伝承」
 臼田甚五郎/編 (1974) 『口承文芸の綜合研究』三弥井書店
古部族研究会/編 (1976) 『日本原初考 古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』永井出版企画
古部族研究会/編 (1978) 『日本原初考 諏訪信仰の発生と展開』永井出版企画
・宮坂光昭 (1978) 『諏訪上社の形態と発生』信濃毎日新聞
・武田太郎 (1978) 『谷の思想』角川書店
小野真一 (1982) 『祭祀遺跡』ニュー・サイエンス社
・大和岩雄 (1987) 「諏訪神と古代ヤマト政権」
 谷川健一/編 (1987) 『日本の神々 9 』白水社
大和岩雄 (1989) 『神社と古代王権祭祀』白水社
・吉野裕子 (1989) 『山の神』人文書院
 再版 (2008) 『山の神』講談社学術文庫
・窪田蔵郎 (1991) 『増補改訂・鉄の民俗史』雄山閣
・松崎岩夫 (1991) 『長野県の地名その由来』信濃古代文化研究所
・宮坂光昭 (1992) 『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社
・黒坂周平 (1992) 『東山道の実証的研究』吉川弘文館
・児玉幸多/編 (1992) 『日本交通史』吉川弘文館
・武部健一 (2003) 『道  I 』法政大学出版局
・武部健一 (2004) 『古代の道畿内―東海道・東山道・北陸道―』吉川弘文館
・鈴木景二 (2004) 「立山浄土山と信濃善光寺」
 越中史壇会/編 (2004) 『富山史壇』第145号、自刊
はまみつを/編 (2006) 『信州の民話伝説集成』中信編、一草舎出版
・鈴木景二 (2004) 「立山浄土山と信濃善光寺」
 越中史壇会/編 (2004) 『富山史壇』第145号、自刊
・小林光一郎 (2008) 「踊り歌う猫の話』に歌が組み込まれた背景
 
神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」研究推進会議/編 (2008)
 『非文字資料研究の可能性 : 若手研究者研究成果論文集』自刊

E. 翻訳文献

石原道博/編 (1985) 『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波文庫
・G. ジンメルら (1976) 『橋と扉』
 
酒田ら/訳 (1976) 『ジンメル著作集 12』白水社
 Georg Simmel (1909) Brücke und Tür, K. F. Koehler Verlag, 1957

F. 参考サイト

・博物館-よしこのワールド・トリップ「日本編」
 http://www.amateras.com/trip/jp/museo/chubu/chino.htm


長野県の猫神・常光寺の唐猫

.26 2011 中部地方 comment(1) trackback(0)
常光寺の唐猫 ~塩尻市の猫神 1~

高野山・真言宗
飯綱山・常光密寺

塩尻市上西条 675
0263-52-2584


常光寺・唐猫01
「常光寺」の「唐猫」碑

1. はじめに

もうだいぶ前のことになってしまったが、去年の九月にとれた連休を利用して、近頃ようやく情報の集まりつつあった「長野県」の「猫神」探訪の旅に出てみようと決断したのは、実に決行日の数日前であった。行きたい、とは漫然と考えていたのだが、二つの理由から、最終的な判断が鈍っていたのである。

一つには、「福島県・信達地方」の「猫神」の再探訪も近々に実行したいと思っていたため、心の中で二兎を追っていたことが原因で、二つ目の理由は、「長野」の「猫神」のうち、訪問したい候補が、地理的に広範囲に分散し、なかなか一泊二日の日程に入れられそうになかったと云うことだったのである。その上、「長野県」に行くなら、どうしても泊まりたい宿もある、と云う下らない要素も加わっていた。

「長野県」を候補にする場合、筆者もそうなのだが、とりわけ妻が「長野」に行くなら「伊那地方」、特に一番南に位置する「遠山郷」に行きたい、と云うのである。「長野」と簡単に云うが、この県は日本でも有数の広い県で、「遠山郷」はその中でも最南端の地域にあり、現在の交通網からすらほぼ取り残されていることから、「本州最後の秘境」とまで云われる土地である。「平成の大合併」で「飯田市」の一部になったとは云え、「飯田市」の中心部から「遠山郷」までは自動車でたっぷり一時間以上はかかる上、その行路も悪路に次ぐ悪路である。路線バスはあると云っても、日に四五本であるから、高校のない「遠山」では、高校生はみな「飯田」に下宿することになると聞く。

要するに、「遠山郷」は外界と隔絶された土地であり、それがここの魅力なのだが、他の地域と併せて観光するとなると、そのために地域が非常に限定されるのである。しかして、筆者が訪問してみたい「長野」の「猫神」と云うのは、どちらかと云うと県北の地域の方に多く存在するのである。筆者の脳裏をかすめるのは、「大町市」や「青木村」、「千曲市」「坂城町」「上田市」「長野市」等々である。到底、「遠山郷」に立ち寄る地理的条件を満たしてはいない。

しかし、「遠山郷」に行きたいのは、筆者とて気持ちは同じなのだから、話は厄介なのである。それに、筆者は運転しないのだから、いつも辺鄙な山奥から海辺の突端まで、日本中の悪路をパワー不足のコンパクトカーで制覇してもらっている立場上、無下に妻の願いを聞かない訳にも行かないのである。そこで、今回の旅行は、「猫神」は抜きにして、「伊那地方」と「遠山谷」を漫然と巡る旅にでもしようかと思っていたことから、何もかも手配が遅れてしまったのである。心の迷いは、行動にも波及するから怖い。

それが、日にちが迫ってくるに従って、筆者は決然と考えを変えたのである。情報と知識の不足を理由に、「猫神」探訪をおろそかにして手をこまぬいているのは、いかにも情けない。情報や知識は、二本の足であっちからはやってこないのだから、以前調べて駄目だったからと云って諦めるのではなく、猛然と再挑戦すべきだと思い立ったのである。

それからは、残り時間のすべてを「伊那地方」の「猫神」探しに捧げることにしたのである。大体、いまのところ「福島北部・宮城南部」を除けば、我が国で有数の「猫神」の降臨地である「長野」にあって、筆者の大好きな「伊那地方」に「猫神」の気配が少ないのは、いかにも悔しいではないか。この思いから、図書館では唯一嫌いな国立国会図書館にも無理に足を運び (そして当然の如く嫌な思いをし) 、大の苦手である電話も、問合わせのためには何十本となくかけ、電子メールも無数に送る日々を続けた。もちろん、ネットを検索し続ける作業は、基本中の基本ではある。ネット上には、質の良い情報は皆無に等しいのだが、多くの人が接触するだけに、ヒントとなる事柄を知る切っ掛けにはなりやすいのである。

短兵急を要する調査の黄金律は、書籍やネットを渉猟して、どんな小さな情報も逃さずに、それを糧にして新たな情報を導き出し、関係ありそうな書籍雑誌を再び渉猟したり、ネットの多重検索を繰り返すことである。そして、地域が特定され始めたら、各自治体の教育委員会や図書館、郷土資料館などに、問合せのメールと電話の絨毯爆撃を仕掛けると云う手法に尽きる。当然、出来るだけの下調べはして、問合せ先に過重な負担をかけないようにしなければならない。大抵は、既に調べてあることしか回答されないのだが、時折、良質の情報を得ることもある。この情報を元に、また調査を繰り返す、そんな手続きである。

結局、今回の下調べでは、通える限りの近都県の図書館に足繁く通い、それぞれの館が所蔵する石造物調査に関する書籍や冊子を虱潰しに探すと云う手法が一番、実りが多かった。もちろん、木造物もチェックしなければならないが、残念なことに、木造物調査報告書と云うものは、一般的にあまり存在しない。こちらは、「都道府県史」や「市町村史」の「民俗編」などを片端から漁る他、手だてはあまりない。

そして、ある程度場所が分かっても、最終的な位置の確認は、どうしても自治体の役場や図書館の力を借りなければならないことが多い。一般の地図では、人口密集地でない地域の地図などは、縮尺の荒い、雑なものしか掲載されていないから、役所を通じて、住宅地図レベルのものの写しは最低入手しておきたいものである。この間の折衝が面倒だと思うなかれ、こう云う作業が、実際に調査旅行に出たときに、豊かな実りをもたらしてくれるのである。

かくして、純粋な怪我の功名で、筆者はいまだあまり知られていない (正確には知られていなくなってしまった) 「松本平」から「伊那谷」にかけてのいくつかの「猫神」を再発見する幸運に恵まれたのである。もちろん、地域の人たちは、そんなものの存在など、先刻承知のことと思われるが、ここでは「外部」に向けて「再発見」と表現しているばかりである。

今回の記事を手始めとして、今後は、何回かのシリーズに分けて、この度の調査旅行の成果を整理、発表していきたいと思う。ただし、今回見つけた「猫神」の多くは、その「再発見」に重点が置かれ、その由来や由緒などに関しては、いまだ何も分からずにいるものがほとんどである。この点に関しては、今後とも調査を継続していくので、分かることがあれば、その都度、加筆・増補していきたいと思っている。したがって、今回の記事は、それぞれの「猫神」の再発見に至った経緯の説明と、その位置の紹介と云う性質の記事が多くなることを了承されたい。そして、実際に辿った旅程と同じく、先鋒を務めるのは、「塩尻市上西条」にある「常光寺」なのである。

*

蛇足。

宿は、「遠山郷」でも最も南の方に属する「八重河内」地区の「島畑」にとった。筆者夫婦が、 そもそも「遠山」に行きたいと云うのは、この「島畑」に泊まりたいと云うのに等しいのである。特段、派手な施設がある訳ではないが、囲炉裏で食事を摂らせてくれる、いい宿である。ここの「鹿肉ステーキ」や「鹿肉メンチ」、それに「熊鍋」は、よそで食べるものとは次元がはるかに異なっている。敢えて挙げれば、匹敵しうるのは、同じ「遠山郷」の中心集落「和田」にある名門の獣肉屋「星野屋」くらいである。しかし、これは当たり前、こちらの御主人と「島畑」の御主人は御兄弟なのである。

とにかく、以前に獣肉を食べてあまり気に入らなかったからと云って、ここの料理を試さなかったら、それは生涯の損失である。伊達に「椋鳩十」が愛した「星野屋」ではない。

ちなみに、ここは「ヤマメ」や「アマゴ」の料理もうまい。剛直な「蕎麦」も実はハイレベルだし、「鬼胡桃」の味噌ダレを使った「二度芋」の田楽も絶品である。ほとんどの食材が隣近所で自給出来ると云うのも、ここの強みである。飲むお茶までが、裏山で作られている。そして、天婦羅の素材には、筆者は毎度、驚かされている。

いろりの宿
島畑

飯田市南信濃八重河内 580
0260-34-2286
http://irori-shimabata.com/

是非とも行かれよ。



2. 「常光寺」に着く

長野自動車道の「塩尻インターチェンジ」を「塩尻市街」へと向けて国道20号線に降りることから、今回の「猫神」探訪は、本格的に開始された。そして国道に出たら、最初の信号が、「田川橋」の手前にある「桟敷」の信号なのだが、これを左に曲がって県道63号・松本塩尻線に入ることになる。その先、「大正橋」で「田川」を斜めに渡り、そのまま道なりに進むと間もなく「日ノ出町」の信号交差点に出る。ここを左折して、国道153号線に入り、次の「下大門」でも左折方向に国道を維持すればよい。

「塩尻橋」で再び「田川」を越え、「大小屋 おおごや 」「堀之内」と二つの信号を通過して、三つ目の「塩尻町」の信号の数メートル先を右へと入る。この信号の手前、右側には大きな杉玉の提げられた「笑亀酒造」のゆかしい佇まいが見えるので、明るいうちは目印になるだろう。最近、「文化庁」によって「登録有形文化財」に指定された建物である。

この右に入った路地と云うのが、曲がった直後の道幅がかなり狭く、おまけにその先に「アルプス・ワイン」の大きな工場があるせいか、結構トラックとも行き交うので注意が必要である。その先、小さな橋で「四沢川」を越え、そのままJR中央本線の線路下をくぐって直進する。ここで三たび、今度はかなり細くなった「田川」を渡り、穏やかな水田地を抜けると、道は「権現川」の上を通って、事実上の丁字路にぶつかる。やや左前方に細い直進路が見えるが、これは「慈光院」へと続く道である。

常光寺・寺号
寺号標と石門

筆者らは、ここの丁字路を左へと曲がり、左右に穏やかな田園の住宅群を眺めつつ、やがて右に杉の丘陵を見上げて、その麓筋の坂を、右へと曲がりつつ上ることになった。杉林の切れた辺りで、右手には、しっかりと組まれた石垣が見え、その上の大きな石標に「常光寺」と刻まれているのが望まれる。その横には、石造りの門も見える。

ちなみに、筆者は寡聞にして、寺院でしばしば見かける、この「笠木」や「島木」のない鳥居のような形の石の門の正式な呼び方を知らない。諸姉諸兄の御教示を賜われたならば幸いである。

この石垣の右側 (つまり手前側) に寺への導入路があり、ここを入るとすぐ左手に数台分の駐車場がある。もっと上の方、寺の「庫裡」の真下ほどにも大きな駐車場があるが、檀家でもない筆者らは、ここらで降車して参道を上るのがよい。第一、初訪問の寺は、いつだって参道をきちんと歩いた方が風情もあれば、発見も多いものである。この小さい駐車場の東隣りには「上西条公民館」もある。

常光寺・山門

参道を歩き始めると、始めは舗装路の横に砂利敷きの細い露地があり、決して大きくはないが、繊細で立派な「山門」へとわれらを導く。ここの左手の植え込みには、二基の「庚申塔」が据えられている。一基は大きな礫碑に「庚申」の文字がくっきりと刻まれたもので、もう一基は、綺麗に加工され、精緻な浮彫り彫刻の施された重厚な板碑であった。「山門」には、「飯綱山」と額が掲げられていた。「山門」と書いたが、正式には「通用門」なのか、俄には判断できなかった。

常光寺・額
この額の縁の精緻な「龍」の彫刻が見事!!

常光寺・六地蔵
「六地蔵様」

門をくぐるとすぐ、左手に赤い頭巾と前掛けを着けた「六地蔵」様が控えている。その前を通って、坂道を登ると、右手に「狛犬」が一対構えており、そこから右上へと延びる石段が、台地の上に聳える勇壮な寺の伽藍へとわれらを導いている。この石段の参道の左右には、樹齢百年はあろうかと云う杉の古木も何本となく林立し、荘厳かつ幽玄な雰囲気を否が応でも醸成している。

筆者らの訪問は、車の給油が出来なくなってしまうほどの激しい雷雨の中になってしまったが、そんな悪条件もまた、この寺を見上げたときの厳かさに息を呑んでしまうことの妨げにはならなかった。それこそ、轟く雨音も雷鳴も、苔むす緑の境内に音無く「沁み入る」ようであった。「芭蕉」ほどの研ぎ澄まされた感覚はなくとも、ここで筆者らは静寂の生まれる瞬間を体験した。そう云う意味では、空前の雷雨も、しめやかな慈雨に等しかったのかも知れぬ。

一応、下に筆者の下手くそな写真を掲げるが、ここの景観の胸打つ美しさは、到底、写真では伝えられない。それにしても、筆者の写真の腕が、謙遜の域をはるかに凌駕して稚拙なのは、どのように詫びても許されまい、とは思っている。

常光寺・下から
この地点に立った時の荘厳な空気は、写真ではまったく伝えられない...

「狛犬」の後ろ、左手の杉の古木の根元からは、清冽な水が無造作に湧いており、それが細流となっては、小さな石橋の下を迸って山麓を駆けおりていた。普段は、より静かな沢水なのだろうけれど、この日の豪雨には、さすがに白波立てる勢いを得ていた。しかし、山裾の岩間から湧く絞り水だけに、他の川と違って、土色に濁ることはなく、飽くまで透きとおっていた。

石段の麓、左側には御手洗とお地蔵様があり、途中には「お大師様」の像が、植え込みと木立の間から姿を覗かせていた。この「お大師様」の前を左へと進むと、「庫裡」下の庭園となり、広い「蓮池」が水紋を立てていた。こちらは、さすがにわずかに濁っていたが、「泥中の蓮」と謂うくらいだから、これはやむをえない。むしろ、水面に広がる漣の縮れ模様の方に、池の風情はとられていたのは、蓮たちには口惜しいことであったろう。

石段の上、左に張り出した台地の突端からは、「鐘楼」が訪問者を見おろしており、その裏からは壮麗な仏堂群の甍が聳えつつ、覗いていた。石段を一段登りつめるごとに、諸堂の勇姿は漸次、その姿を現していく。ここの石段とその造り出す斜面と台地の景観は、壮大さと優美さを兼ね備えているのだが、それを可能にしているのは、台地が実はさほど高くもなく、つづまった距離の中に凝縮されていると云う事実なのだが、そう考えると、この地形をうまく利用した設計が、なお一層見事に感じられた。当然、石段も決して長くはなく、ゆっくり登って景色を味わっていれば、気づかぬうちに上の台地に到着する仕組みなのである。台地には居並ぶお堂の他に、瀟酒で清潔な上厠舎もあり、境内を巡るのには不都合のないように気が配られているのがよく伝わってくる。

「塩尻」の御当地カルタの一つに『塩尻・楢川かるた』と云うのがある。当寺はこれに、「若葉して 石楠花寺の 常光寺」と謳われていることからも分かる通り、地元では初夏の「石楠花」の咲き誇る寺として知られているようである。この寺の境内から裏山にかけては、二千本もの「石楠花」の株が植えられていると云うから、その季節にはさぞ匂わんばかりの薄紅の靄に全山が包まれることだろう。五月中頃が最盛期だと云う。

この全山を覆う「石楠花」は、「上条仙昌」住職が昭和四十五年 (1970) に、「高野山」参詣に行った際、購入してきたと云う五株ほどを植えたのが始まりだそうで、昭和六十二年 (1987) 頃までに、年々増やしていったものだと云う。

この規模の花々を管理維持するのは並大抵のものではなく、地元の有志の「花の会」の皆さんが季節季節に手入れをされているそうで、その管理費の捻出のためにも、「石楠花」の季節には拝観料が四百円かけられている。「石楠花」の季節は、境内の「躑躅」も美しく、夏の盛期には、三百株の「紫陽花」も花盛りになるらしい。

* ただし、同じ市内の「片丘北熊井」に、別の「常光寺」があり、こちらは「ぼたん寺」として知られているようであるから、訪問される際には間違わないように気をつけた方が良さそうである。

*

「飯綱山・常光寺」は、「塩尻市」の東部、「上西条」地区にある「真言宗」の古刹であるが、その来し方に関しては、不明なままの点も多い。『塩尻市誌』の記述によれば、応永年間 (1394-1428) に、「法印恵覚」によって「中興」されているが、後で見るように、「塩尻市史談会」の『塩尻の伝説と民話』 (1975) には、永徳二年 (1382) の中興され、応永三年 (1396) には「本堂」を再建していると記されている。前書は、この「本堂」再建を以て「中興 (再興) 」と見なしたのだろうか。『市誌』に従えば、せっかく再興された寺も、わずかに「法印祐忍」が次代を継いだのみで、文明四年 (1472) には、「祐忍」の遷化を以て一旦は法灯が中絶したと伝えられていると云う。その後、寛文九年 (1669) になって、「法印実清」が「高野山」から当地に来山して法流を継ぎ、今日に至っている。



3. 余談・「飯縄城」について

ちなみに、「常光寺」の裏山は、そのまま南へと「大芝山」 (1210m) に向かって尾根続きの山塊を形成しているのだが、この尾根沿いには、「西条山城群」として知られる三つの極めて類似した構造を持つ、相互に連携した「中世期」の城の跡地がある。これら三つの城のうち、最も規模が大きいのが「常光寺」裏山の頂にあった「飯縄城」だとされ、「常光寺」の北西側に張り出した斜面の向う麓には空堀跡も残されているが、往時、この堀は山上の堀切と連結していたものと考えられている。現在、この堀は「慈光院」の東で途切れているが、さらに東に百メートルほど行った先にほぼ南北に走る土塁と竪堀の遺構も残されており、かつては山麓に張り出す形で造られた、これら堀に囲まれた区域が、「飯縄城」の城主や家臣たちの平時の屋形や屋敷があった場所と考えられている。

「飯縄城」の名前は、実は古いものではなく、「堀内千萬蔵」が大正十四年 (1925) 発行の著書『塩尻地史』の中で、仮に命名したものである。恐らくは、主郭から東に延びる尾根上に「飯縄権現」を祀る祠があることから名づけたものとだろう。ただ、十八世紀前半に成った『信府統記』には、「上西条古城地、上西条村ヨリ巳午 南南東 ノ方二十五町」と云う記述があり、方角からして「堀内」氏の云う「飯縄城」と見て間違いなさそうである。同書には、その城主に関して、「小笠原簡斎居住アリシト云イ伝ウ」とあり、『塩尻地史』においても、宝永二年 (1705) に「豊前小倉藩」で編まれた「小笠原氏」の系譜である『笠系大成』の記載を根拠に、ここの城主を「小笠原持長流」の「小笠原宗則 - 光政 - 光保 - 貞保 - 頼貞 (簡斎) 」の五代と推定しており、築城年代は明確に宝徳元年 (1449) としている。

『塩尻市誌』の編者は、この城が、明確な「枡形虎口」を欠いていることなどを挙げ、その築城時期を十五世紀末から十六世紀初と推定する一方、「慈光院」のある山麓の郭は、構造上、十六世末に新たに構築されたものとも考えているようである。一方、「堀内」氏は、また、五代「頼貞 (簡斎) 」のときの天文十七年 (1548) に「塩尻峠の戦い」で「武田晴信」に敗れて落城したとしている。

前記『笠系大成』では、「頼貞 (簡斎) 」は天文十九年 (1550) に「旧・南安曇郡梓川村」での「野々宮の戦い」で負傷したと書かれているが、「市誌」の編者は、「二年前に塩尻峠の合戦で大敗した小笠原長時の没落期に、武田信玄支配下の塩尻に戻ったことはあり得ないと見るのが穏当である」 (「市誌」二巻、p. 352) と述べて、懐疑的な姿勢を示している。

ただ、「市誌」も、この城が「小笠原氏」の在地支配の拠点として「戦国末期」まで使用されたと云うことは否定しておらず、その構造からも十六世紀の末期まで使用されたと見ているようであるから、この城は、「小笠原氏」没落後も、「豊臣政権」の時期まで廃城にならなかったと見てよいのだろう。

しかし、この「飯縄城」の実戦で活躍した年代を見ていて思うことは、それが「常光寺」の中絶期にすっぽり収まると云うことである。寺伝によれば、中絶していたのは、文明四年 (1472) から寛文九年 (1669) と云うから、法灯が途絶えた時期と城が築城された時期とは、ほぼ一致する。現在、「飯縄城」の跡地に行こうとする場合、「慈光院」からのルートを模索するのでなければ、「常光寺」から登るのが最も簡便な方法である。既に見たように、現在「慈光院」のある土地は、かつて城の大手口を形成する根古屋だった可能性が高く、城の防備もこの正面口に集中させて形成されていたようである。「権現川」や「田川」「四沢川」などの形づくる沖積平野の水田地も見渡せる絶好の立地で、西から西南にかけては「嵐城」があり、南の向背地は「西条城」へと続く山嶺がある。

つまるところ、「飯縄城」にとって「常光寺」口のみが、防備が手薄になるのである。この緩やかな斜面を形成する「常光寺」口の谷がそのまま放置されていたとは考えにくいため、現在の「常光寺」の位置に、当時、何らかの柵なり砦なりが造られていた可能性は十分にありそうである。あるいは、万一の敵の駐屯を許さぬために、「飯綱不動堂」を除いて、伽藍は撤去されていたのかもしれぬ。「飯綱不動堂」を除いて、と云うのは、さしたる根拠あっての発言ではないのだが、「戦国武将」が戦勝の神様でもあった「飯綱権現」を排するとは思えないことと、現に「江戸期」になって法灯が復活するのだから、何かしらの信仰の母体が当地に残されていたものと推察されたからである。

いずれにしても、この時期の山城の築城と、「常光寺」の中絶には、何かしらの関係があったものと睨まれる。もちろん、現時点では、素人の勝手な想像に過ぎないのだが...。



4. 観音霊場としての「常光寺」

「常光寺」は「真言密教」の寺だけに、「本尊」は「大日如来」なのだが、別に「聖観世音菩薩」も奉じており、「松本市」周辺 (松本市、塩尻市、朝日村) に展開する「信州筑摩三十三ヶ所観音霊場」の「第十八番札所」ともなっている。この霊場巡りの歴史は定かには知られていないが、萬延元年 (1860) の記録は残されているので、「江戸末期」には、かなり盛んに行われていたのではなかろうか。

このことと関連してみておきたいのは、寺の近くにある「道祖神」である。「常光寺」前の道を東南へと二百メートルほど進むと、かつてはこの地を通る人々にとって、かなり重要な位置を占めたY字路に出ることになる。地元の人でも年配の方々は、「上手」と呼ぶ辺りで、かつては「上西条東塩尻駅交差点* 」などと呼ぶ人もいたらしい。そして、ここの辻には、いかにも「信濃」らしい微笑ましい「双体道祖神」と、それと一体化した古い道標が残されている。「ウメノキゴケ」のような白っぽい苔に覆われた碑面には、かなり小さくだが、確かに崩し字で「右やまみち」「左いせ道」と刻まれている。

* 東塩尻駅---正式名称は、「東塩尻信号場」。かつて国鉄中央本線にあった信号場。昭和十四年 (1929) に、輸送力増強のため、スィッチバック式の信号場として設置された。後に仮乗降場扱いで旅客も利用できるようになり、乗車券も販売していた。昭和五十八年 (1983) 七月五日に、「みどり湖/ (塩嶺トンネル) 経由の新ルートが開業すると、「辰野」経由の在来区間が支線化され、近くに新線の「みどり湖駅」が設けられたのを機に、同じ年の十月十二日で信号場は廃止された。

ここで云う「やまみち」とは、普通名詞としての「山道」ではなく、「常光寺」の寺山である「飯綱山」の東面の「飯綱久保」や、「城ヶ嶽」 (西条城跡地) の「北面」の「北ノ入り」、さらには「上西条村」の「入会山」であった「幸ノ田澤」などに入る、特定の山道のことである。昭和五十九年 (1984) までは、今は廃された中央本線の「東塩尻」駅 (正しくは「東塩尻信号場」) にまで続いた道でもある。

この道標の面白い点は、「道祖神」と一体となっていると云う形態上のことだけでなく、それがこの地域の住民の生活にとっては必要欠くべからざる分岐路に建てられていると云うことにある。要するに、地元の住民であったならば、誰もが知っている「やまみち」への方向を示していると云うことは、この道標が地元民のために建てられたものではない、と云う事実を明白にしているのである。

「左いせ道」と書かれていることからも推察出来るように、「江戸時代」の終わり頃に各地で流行った、寺社の回遊巡礼の旅にある人々のために建られたものと考えられるのである。これは取りも直さず、村の外からも、「常光寺」に参詣に来る人々がそれなりの数あったことを意味している。この「道祖神」には天保十二年 (1841) の紀年銘があるから、先ほどの万延元年からさらに時代を遡って、巡礼が行われていた可能性は、ほぼ確定的なのである。



5. 寺の裏山へ


しかし、今回筆者がこの「常光寺」まで来た目的は、諸堂を経巡り、近隣を闊歩して往時を偲ぶことでは毛頭ない (そう云うことは大好きではあるが...) 。何と云っても、第一の目的は、この寺にあると云う「唐猫」を見ることにあった。

と云う訳で、話を一気に「常光寺」探訪に戻そう。
寺に着くなり、筆者は「庫裡」の方に挨拶に出向いたのだが、お彼岸のさなかと云うこともあって、御住職は生憎不在であった。それでも、応対に出てきて下さった御婦人に簡単に質問などをすると、筆者の探している「唐猫」は、「護摩堂」の裏を登った広場にあると教えて下さった。

挨拶を済ませ、お礼を述べると、筆者は早速そちらに向かうことにした。だが、よく考えてみると、建ち並ぶ立派な伽藍のうち、どれが「護摩堂」か、筆者には分かりようがなかったのである。参道の正面にあるのが「本堂」だとしてぇ...などと思案しつつ、「庫裡」の横の建物から順に扁額などを確認したのだが、どれも「本堂」だとか「護摩堂」だとかと記されている訳ではないので、どれがどれだかなど分かるはずもなかった。それでも、「庫裡」に引返して再度尋ねるのも申し訳ないしなぁ...などと考えつつ、そのまま、一つ一つのお堂を覗き込む作業を続けたのである。

常光寺・本堂
「常光寺・本堂」

一方、妻はと云うと、全てのお堂や祠を巡って、お賽銭を供えてお参りをしていた。これは妻が信心深いからなのではなく、本人に云わせると具体的な感謝の気持ちから出る行ないなのだと云う。以前、筆者夫婦が交通事故に遭った時、たまたま乗り合わせていた我が家の白猫が、壊れてしまったキャリーから抜け出して、行方不明になってしまったのであるが、この時は、十日間、毎日足を棒にして探しまわったにも関わらず、猫は見つからなかったのである。絶望の中、事故現場の近くに佇む「庚申塔」などに妻は毎日、必死に手を合わせていたのだが、十一目の夜、国道を越えて数キロ、猫は我が家に自力で帰ってきたのである。以来、妻は寺社、特に路傍の石仏様には、手を合わせることを決して欠かさなくなった、と云う事と次第なのである。

常光寺・護摩堂
「護摩堂」

常光寺・薬師堂
「薬師堂」

常光寺・共栄社
「共栄社」

後になって分かったのは、参道正面のお堂は「本堂」ではなく「護摩堂」で、その左が「本堂」、右の南面しているお堂が「薬師堂」と云うことであった。したがって、筆者が左からお堂を確認している間にも、妻は右端の「薬師堂」からお参りしていたことになるのだが、その次に「薬師堂」の横の「共栄社」と云う小さな祠にお参りしていた辺りで、裏山への道があるよ、と筆者に声をかけてきたのである。そう、「護摩堂」と「薬師堂」の間のわずかな広場に立てば、山に向かって正面に、露骨に石段が見えたのである。

もちろん、山寺などの探索をするときは、下手な推測で動き回ると、一山登ってから自らの間違いに気づいて、大変な骨折り損をすることもあるのだが、筆者はどうも「下手に動き回る」性質らしく、このときも早速、裏山に登ることに決めた。

ただし、「共栄社」の小祠の左手、「護摩堂」のちょうど裏手辺りから設けられた石段は、二つあった。一つは、一般的な石段で、他方はその右手に作られたなだらかな坂状のものである。こちらは、石段とはやや形状が異なっていて、うまく表現出来ないが、瓦の背中を下にしたような、軽く凹湾した長方形のコンクリート製ブロック・タイルを敷き詰めたもので、手すりもあり、豪雨の中も、思いの外、登りやすいものであった。最初は、こちらが「女坂」なのかと思ったのだが、よく見ると「順路」と書かれた矢印付きの立て札がこの小径を指していたので、どうやら「石楠花」などを楽しもうと訪れたお参り客のための遊歩道のようだと知ったのである。

もっとも、お花の季節を大きく外れていたために、この遊歩道の脇からは、所々に秋草や灌木の枝などが延びていて、これをかき分けて登らねばならなかった。もちろん、そうは云ってもたいしたことではなく、この日が猛烈な雨だったからのみ、傘が枝につかえてしまって濡れずには通れなかっただけである。普通の天気であれば、何ほどもない障碍である。


途中、「百番供養碑」と刻まれた石碑を右に過ぎて進むと、すぐに諸堂の裏の台地に出る。ここは、整備された広場になっており、花の咲き誇る季節には、ゆっくりと花見が出来るよう、緋色の大傘を天蓋に、横に長い丸太の腰掛けも二つ据えられてあった。順路は、裏山の東の尾根伝いへと、さらに続いていたが、筆者は、ここの広場が目的地となった。迂闊にも、この尾根上に「飯綱権現」を祀る奥社の祠があると知ったのは、少し後になってからであった。

さて、ここ、「護摩堂」裏の台地は、そもそも前面の断崖部中央に、石の鳥居が立てられており、前に記した第一の石段は、直角に二度屈曲して、この鳥居の下に通じているのであるから、本来は、こちらの石段が参道だったのだと思われる。そして、鳥居がある以上、ここは古式ゆかしい「神仏混淆」の名残を強く残した寺だと云うことになる。

常光寺・鳥居
裏側から石鳥居に臨む
「護摩堂」の屋根が見える。

この鳥居を背にして立つと、正面の一段高くなった雛壇状の土地に、木組の覆屋となったお堂を望むこととなる。左右と正面の壁は、横木を一本おきに差し掛け、間に隙間を空けた吹き抜けの造りとなっているが、背は高く、なかなか立派なお堂と云える。筆者らは、さらに何段かの石段を上ってこのお堂の前へと進んだ。

覆屋の下には、まず前面中央に賽銭箱があり、その後方、左右には石のお狐様が控えていた。もちろん、覆屋の中には、「本殿」が祀られてあったが、これが小さいながらに精妙な彫刻を施された木造の祠で、かつてここの神様が篤く祀られていたことを物語っていた。



6. 「飯綱大聖不動堂」

さて、この覆屋のあるお堂なのだが、一瞥しただけでは何のお堂なのかがまるで分からないのである。建物の前面の廂下には「扁額」が掲げられていたが、永い間の風雪に耐えて、すっかり色が褪色してしまっていたため、その読み取りは事実上、不可能に思えた。そこで、堂内にお狐様がいることで、何となく「稲荷社」なのかなと思っていたところ、じっと「扁額」を見つめていた妻が、最初の文字は「飯」に見えると言い出した。なるほど、そう云われれば「飯」に見える。この時点で、寺の「山門」や仏堂の扁額のことが頭をよぎり、突如として、ああ、この神様は「飯綱 いづな 様」だと、理解したのである。

とりあえず、妻の勧めで、読み取れない扁額の写真を撮って、家に帰ってからパソコンであれこれ画像処理を施して陰影を浮かび上がらせると、当初は「不動尊」だと思っていた最後の三字は、どうやら「ふ動堂」らしいことが分かり、「木」に見えていた三文字目も、実際には「大」の字であり、その下が「聖」であることが見て取れた。かくして、扁額には、「飯綱大聖ふ動堂」と書かれていたことがほぼ判明したのである。

「大聖不動」などと云われると、一般に「不動明王」「不動尊」「お不動さん」などの名前にばかり親しんでいる耳には聞き慣れないが、「密教」ではしばしば「大日如来」の化身とされる「不動尊」を「大日大聖不動明王」と呼ぶのである。この事実を知っていれば、「飯綱大聖ふ動堂」と云う呼び名も決して不思議ではないのである。
常光寺・飯綱大聖不動堂
雛壇の上の「飯綱大聖不動堂」



7. 「飯縄信仰」について

※注!! この項は、特に筆者の記憶代わりに、「飯縄信仰」に関する筆者の覚書としてだらだらと書き記したものである。したがって、そのまま飛ばしても、記事全体としてはさして影響はないので、御興味のない方は、是非、そのようにして下さい。

「飯綱様」を巡る信仰を説明するのは、非常に難しい。元々が国家的仏教からは異端と排された非正統の「山岳信仰」に根ざした一派であり、呪法などの各種の秘法を行う性質の上からも、盛んに行われた「中世期」にあってさえ、謎多き信仰としてみずからを位置づけていたほどである。要するに、元々、外部から体系化して理解するのが困難な成り立ちだったと云えるのである。

「山岳信仰」に根差した「修験道」などの仲間は、「近世」にあっては「寺請制度」を中心に据えた「幕府」の人口統制策に馴染まないと云う理由で、常に為政者との間に軋轢があったため、さらなる地下組織化が進んだとされるくらいだから、中でも秘儀性の高い「飯縄信仰」の全貌はいよいよ見えにくいものとなったと考えられる。「修験道」はまた、各地の様々な民間信仰とも習合した来歴があり、さらには「明治維新」時の「神仏分離」および「廃仏毀釈」の流れの中で、その批判の矛先を直接に向けられて、多くの拠点を事実上、破壊・解体されてもいる。その後の我が国全体の「近代化」の波の中で、呪ないを大きな柱にする「修験」は、不合理な過去の遺物と認識されただけでなく、一般に邪法扱いされることも多かったため、信仰間の競合の中にあって必然的な劣勢に立たされ、各派の横のつながりすら失った中で、その歴史的な来歴や由緒などに関して、明確に跡を辿れる資料はほとんどなくなってしまったのである。


中でも、「飯縄信仰」は、「柳田國男」が「今日、いくらさがしても見当たられぬほどその影は薄く、たまにあったとしても、当事者自らが不思議がっている程度である」と云っているほどで、そのあとを追うことは極めて難しくなっている (柳田、1957、p.4) 。今回訪問した「常光寺」でも、「真言密」に関してはしっかりとした体系的理解がなされているようであったが、こと「飯綱権現」に関わる事象になると、「唐猫様」を含めて、不明になってしまったことばかりのようであった。

この「飯縄信仰」と云う難しい問題に近年手をつけたのは、「宮本袈裟男」や「佐藤憲昭」である。「宮本」氏の論考は、従来「飯綱使い」や「飯綱憑き」などの「憑きもの」現象に傾き過ぎていた関心を留保して、それらを含む「飯縄信仰」を全体として把握しようとする試みであった。そして、それを内容面から三分類して分析することで、「飯縄信仰」が従来考えられていたよりもはるかに作神的な性格を有していると指摘している。また、「飯縄信仰」の広がりが「戸隠修験」の講活動に負うところが大きいとしつつも、「飯縄山」の「里宮」と「戸隠山」側の間にあった本質的な断絶があったことも明らかにし、その結果、「戸隠飯縄信仰」の主導権を握った「戸隠修験」が、「明治」の「神仏分離令」によって「飯縄信仰」から手を引いたことで、「飯縄信仰」は決定的に衰退したと見ている。「荼吉尼天」との結びつきに関しては、「憑きもの」現象を中心に据えずに分析しているため、従来よりその重要性を小さく評価しているのも、「宮本」氏の功績の一つである。 (その他、多くのことを云っている) 。「佐藤」論文は、ただでさえ乏しくなった「飯縄信仰」の痕跡を、現在 (1980頃のことだが...) の、しかも都市部における「イズナ」や「イズナ使い」の事例に絞って紹介している労作である。この他に「知切光歳」氏は、その著書『天狗の研究』の中で「飯綱三郎」と「千日太夫」などの項目を設けて、概説的な説明を提供してくれている。その内容は当然「宮本」氏とは異なって、「天狗」や「飯綱の法」と云う呪法的な側面に重点を置いているが、入門編としては、分かりやすく、便利だ。

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「飯縄信仰」は、云うまでもなく「飯縄大明神」 (或いは飯縄大権現) を祀るもので、現在は、都下の「高尾山」が特に有名になっているが、その他ではあまり聞かなくなってきている。しかし、その本源地は、「長野市」の北方に美しい裾野を広げて聳える「飯綱山」であり、この山は、近くの「戸隠山」と手を携えて、古くから「修験道」の霊山として栄え、「飯縄大明神」が祀られてきたのである。にも関わらず、今回訪問した「常光寺」でも、御住職までが「飯縄信仰」を説明される時に、「高尾山で有名な」とおっしゃっていたほどだから、「塩尻市」くらいではあまり本場「飯縄山」の権威も残っていないようであった。

いま、「飯縄山」 (1917m) の山頂には、かつての繁栄の片鱗すら感じさせない石の祠が一つ、二つある程度だが、「長野市富田字荒安」には「飯縄神社 (皇足穂命神社) 」の「里宮」があり、さすがに立派な佇まいを見せている。この「皇足穂命 すめたるほのみこと 」の神名は、「近世期」の文献『菅江真澄遊覧記』にも見られるが、あまり耳慣れた神様とは云えない。おそらくは、「神仏分離」のごたごたの時に、一種の延命策として適用された祭神なのだと思う。今でも、「里宮」の参道入口には大きく「飯縄神社里宮」と刻した堂々たる社号標が立っている。念のため、以下に、この神社境内にある案内板の内容を載せておこう。
飯縄神社は、西暦二七〇年頃第十五代応神天皇の御代飯縄山山頂に天神大戸道尊を祭り、飯縄大明神と称したのがそもそもの起こりで、本地を大日如来とし八四八年学問行者が飯縄山に入山して、この如来の尊容を拝したと言われる。

西暦一二三三年に信濃国荻野 (信州新町) の地頭伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した。忠綱の子、盛綱も父に従い入山し、荼枳尼天の法を修得、父より飯縄の法 (管狐を使う独特の法術) を受継ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日太夫」と称し、飯縄信仰を全国に広げると共に忍法の祖となった。

又、武門の尊崇を受け、特に足利三代将軍義満は、紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山本地仏として寄進し、室町時代末期には武田・上杉両家の深い尊信を受け神領を寄進され、徳川三代将軍家光も朱印地百石を寄進するなど、飯縄信仰は全国的に伝播、万余の末社を有し、全盛を誇った。この里宮は、千日太夫の冬季居所に武田信玄が創建したものといわれる。

飯縄山は山頂より食べられる砂 (飯砂) を産し、参籠の行者等は、これを採って食べたことから飯砂山、転じて飯縄山と言い、これは保食神 (皇足穂命・すめたりほのみこと) * の霊徳として、明治六年長野県庁より皇足穂命神社の称号を与えられた。
現地案内板より

* 皇足穂命---現に「長野市信州新町」には「皇足穂命神社」の本家があり、「式内社・白玉足穂命神社」の論社の一つと目されている。

ここの社家は代々「千日太夫」を称して、かつては大きな勢力を誇っていた。「江戸時代」の『飯縄山略縁起』によれば、「飯縄山」は嘉祥元年 (848) 三月、「戸隠」の「学問行者」が「飯縄山」にて「飯縄明神」の尊容を拝して後、天福元年 (1233) に「千日太夫」の開祖「水内郡荻野」の城主「伊藤豊前守忠縄」が約四百年ぶりに「飯縄明神」の姿を拝したとして、山頂に「飯綱神」を祀り、大願を発して五穀を断ち、山菜、木の実を食して千日の間、祈念を凝らし、神通自在、不老長生の通力を得て下山し、修験道場を開いて、「飯縄山」を再興したと云う。世人はこれを「千日豊前」と称え、「飯綱の大天狗」と云って怖れた。息子の「次郎太夫盛綱」もまた、千日の荒行を修したのだが、実は「千日太夫」と云う呼称は、この「盛綱」の時に生まれたようである。

ついでに記すならば、この文書に先立つ、「室町期」の『戸隠山顕光寺流記并序』にも、「飯縄明神」について「吾は是れ、日本第三の天狗なり *。願わくは此の山の傍らに侍し、権現 (筆者注・戸隠の九頭竜権現) の慈風に当たりて三熱の苦を脱するを得ん。須らく仁祠の玉台に列すべし。当山の鎮守と為らん」と書かれており、「戸隠」と「飯縄」の起源的なつながりをよく表わしている。しかし、後世「飯縄の法」として知られてゆくことになる呪法は、「千日の荒行」に基づく「千日太夫」以来のものであり、より古層の「飯綱三郎天狗」を中心に据えた「戸隠修験」の「飯縄信仰」とは発生も、内容も異なる。
* 日本第三の天狗---一般に、「飯縄明神」は「飯綱三郎」と呼称されるが、これは「愛宕山太郎坊」「比良山次郎坊」に対する呼び方である。

「戦国末期」に入ってからは、「千日太夫」は「仁科氏」が務めるようになり (いっとき、「仁科甚十郎」を名乗った) 、「飯縄神領百石」を支配したのだが、この「仁科氏」は「飯縄山頂」を巡る「戸隠神領」との境界争いを長く戦ったため、「中世」以来、とうに進んでいた「飯縄山」と「戸隠山」の分断は決定的になったと云える *。「明治」以来、「戸隠山」が「飯縄信仰」から手を引いてしまった以上、「飯縄神社」が「飯縄信仰」の中心となりそうなものを、「高尾山薬王院」が独立した高い地位を維持しているのは、「高尾山」がある意味で「千日太夫」以前の「飯縄信仰」の名残をわずかだが残しているからかもしれないとは思ってみたが、ただの思いつきである。「戸隠」と分離した「真言派」に属している以上、その可能性は小さい。「高尾」の名が高いのは、単にそれが「徳川」以来の我が国の首府の近くにあることと、本家の「飯縄山」が衰退してしまったことに由来するのかも知れない。「常光寺」の御住職が「高尾山」に親近感を持つのも、同じ理由からなのだろうか (どちらも真言宗・智山派) 。

* 「知切光歳」氏は、「戸隠修験はもともと天台、真言に岐れて宗派を問わなかった。それが両派の間に隙が生じ、文永七年 (1270) 、真言派の修験が大挙して戸隠を離れ、飯縄の一峯、霊仙人寺に移ってから、両派の修験が対立するに至った」 (知切、1975、p. 60) 、「飯縄山は以前は戸隠の前山で、飯縄修験は戸隠に属していたものであるが、文永五年、山の修験が天台、真言の両派に岐れて隙が生じ、宝光院の真言派が大挙して離山し、飯縄の一峯霊仙寺に移って両山ははっきり分離した」 (上掲書、p. 346) 、「飯縄修験が戸隠から離脱したのは、文永七年 (1270) 、戸隠宝光社の大衆が離山して、飯縄の一峯、霊仙寺に移ってからだと考えられている」 (上掲書、pp. 393-394) と述べている。氏は、その上で、実際の分離のきっかけは、その三十七年前の天福元年 (1233) に「伊藤忠縄 (千日豊前) 」が「里宮」を開いて、独自の修法を弘めたことにあると理解しているようである。

*

ちなみに、「千日太夫」と云う呼称は、「伊藤豊前守忠縄」が食料を一切持たずに「飯縄山」に籠って行を行なった奇蹟に由来する。この山には、「飯縄神社」の案内板にもあった「天狗の麦飯」と呼ばれる「食べられる砂」が埋まっており、「千日太夫」は、おそらくこの「天狗の麦飯」を食べて三年間の厳しい修行に耐えたのだろうと云われている。

「天狗の麦飯 テングノムギメシ 」は、「細菌」や「黴」や「藍藻類」の群体からなる物質のような生命体で、黄褐色からより濃い色をした一、二ミリほどのゼラチン状の粒である。地表から近いところに層をなして埋まっていると云う。『菌類の世界』の著者「小林義雄」は、「桃の木から分泌される樹脂を少し堅くしたもの」を想像するとよい、と記している。筆者も直接見聞する機会に恵まれていないので、あれこれ想像を巡らすしかない。詳しくは、上記『菌類の世界』、あるいは「椿啓介」の 『カビの不思議』(筑摩書房 、1995) を見るとよい。

この「天狗の麦飯」については、『信濃奇勝録』や『善光寺道名所図会』にも記録され、かなり昔から人々に知られていたようであるが、大正十年 (1921) には、我が国の天然記念物にも指定されている。以下に、『善光寺道名所図会』の記述を掲げておこう。

さて嶺の内頂より五丁程北東へ根笹を分け行に沼田の畔の如く土和らかなり、小岩斑なる砂原の根笹なき所あり、是砂のある所なり、上面の砂をかき除き、岩の際を手にてすくひ出せば麥の如く粟の如し、採て服するに和らかにして、何の香氣もなく風味とてなし、腹に充るとて障なしとぞ。此砂みだりに取て下らん事山をしみ給ふといひ傳ふ。

豐田庸園 (1849) 『善光寺道名所圖會』卷三、嘉永二年
復刻・(1998) 『善光寺道名所図会』臨川書店

この「天狗の麦飯」は、他にも「飯粒・飯砂・餓鬼の飯・長者味噌・謙信味噌・米飯・麦飯・粟飯・味噌土」などの呼び名があるそうで、いままでに「小諸市・飯綱山・戸隠山・黒姫山・浅間山・唐沢温泉・妙高山・鹿沢温泉・斑尾山・志賀高原・嬬恋村」などから自生/棲息の情報が寄せられている。かつては、飢饉の時に人々が争って掘ったとも云われるが、いまではどの自生地でも限りなく絶滅に近い危機に瀕しているため、仮に所在地が分かったとしても、採取するのはやめましょう。

*

「知切光歳」氏は、「飯縄の法」の確立に当たっては、「京都」方面の「狐」を使う「荼吉尼天」の呪法である「愛宕の法」が強く影響していると見ている。これが「狐」を使う呪法であったため、元々「信濃国」に古くから伝わっていた「管狐」の呪法と「愛宕の法」が習合したのでないかと見ているのである (知切、1975、p. 397) 。確かに、「管狐」が「飯縄の法」と密接な関係にあることは、「オサキ狐」の優勢圏であるために「管狐」の伝承を伝えない「関東地方」にあって、「飯縄信仰」の普及した「千葉県」と「神奈川県」だけには、「管狐」の言い伝えが残されていることからも見て取れるのだが、果たしてこの「管狐」の伝承が「飯縄の法」の興された天福元年より古くから存在するものなのかは、証明できない。したがって、「知切」氏の説は、極めて魅力的なものではあるが、現時点では、「管狐」の影響で「飯縄の法」が起きたのか、或いは逆に、「飯縄の法」における妖狐の使役と云う行から、「管狐」の伝承が生まれたのかは、明確にすることは出来ない。しかし、この「管狐」のことを別にすれば、「荼吉尼天」の信仰を基盤として「飯縄信仰」が「中世」に成立したと云うのは、概ね研究者の一致した見解のようである (田村、1998) 。

その「荼吉尼天」とは、「インド神話」における「ダーキニー」のことで、「シヴァ神」の従者 (侍女) とも、妃「パールヴァティー」の化身の一つとも従者とも、あるいは又「カーリー女神」の従者だったとも云われ、「インド」では、単体の神格として扱われることもあるが、多くの場合は十五六歳の美少女の集団として現れるようである。魔術の力で、強風を起こし、虚空を飛ぶ魔女であるため、「荼吉尼」「吒枳尼」の他に、「空行母」と云う漢訳もあるらしい。

「密教」の世界では、「ダーキニー」は、太古、人の肝や肉を生きながらに喰らう「羅刹女」だったが、「大日如来」の化した「大黒天」に屍林で調伏され、以降、生者の心臓/肉を食うことを禁止され、死者の心臓/肉だけを食べるようさせられたと云う。このとき、「大黒天」は、代わりに「キリカク」の真言を授け、死者の心臓をいち早く食べられるよう、自由自在の通力と、半年前に人の死を予知する能力を与えたと云う。

我が国に入った後の「荼吉尼天」は、当初は半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿で描かれたが、やがて「白狐」にまたがった女天の形に変化した。そして、「荼吉尼天」の心臓を喰らうと云う嗜好と、自在の通力と予知能力を持つと云う性質から、「荼吉尼天」に自らの心臓/肝を捧げる契約を結ぶと、「荼吉尼天」がいかなる願いも叶えてくれると考えられるようになった。そのため、「愛宕の法」や「飯縄の法」に限らず、「密教」や「修験道」の各派では、広くこの「荼吉尼の法」を呪法として応用されたが、その呪術性の高さから一般には外法とされた。

しかし、火急の所望に利く呪法として、「中世」に大いに流行し、「愛宕の法」そして「飯縄の法」として取り入れられていくに従い、「火攻めの法」などとしても知られるようになり、敵を調伏する秘法として広く信仰されるようになったのである。

このようにして、変幻自在の天狗「飯縄大明神」は、「室町期」以降、守護神として殊に武士の信仰を集めて独自の発展を遂げ、「飯縄山」は修験者の一大霊場になった。「応仁の乱」の立役者の一人、「管領・細川政元」は、特に「飯縄の法」を熱心に修したと云われ、『足利季世記』は「四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ、魔法綱ノ法アタコノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ、或時ハ經ヲヨミ多羅尼ヲヘンシケレハ、見ル人身ノ毛モヨタチケル」とその様子を活写している。「政元」は、しかし、外法の習得の甲斐があったのかなかったのか、将軍を凌ぐ事実上の最高権力者となり、「半将軍」とまで呼ばれるようになった一方、四十二の歳の行水中、警護役のはずの家臣らに湯殿で暗殺された。『応仁記』には、これもまた「政元」が「飯綱」を信奉するあまり妻帯せず、そのために後継者を得ることが出来なかったことに起因すると書いてあると云う。実際、彼は「澄之・澄元・高国」の三人の養子を取っており、それが家内争乱の元となり、最終的には養子の一人「澄之」の指示によって暗殺されたのである。

「戦国末期」の「関白・九条植通」もまた、「飯綱の法」を修したことで知られている。一説によれば、「豊臣秀次」の死と豊臣家の没落を予言したとも云い、彼が行くところ、夜半にもなれば必ず屋根に梟が鳴き、道を行けば忽ち旋風 つむじかぜ が起ったとも伝わる。これらの逸話の典拠は何であったかうっかり失念したが、『大日本史』に類似したことが載っていたように思う。それにしても、「植通」の修行は「政元」より数段よかったのか、ついにこの貴族には非業の死は訪れなかった。「幸田露伴」の筆を借りれば、次のようになる。

關白、内大臣、藤原氏の氏の長者、從一位、かういふ人が綱の法を修したのである。太政大臣公相は外法のために生首を取られたが、この人は天文から文祿へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭はないで、無事に九十歳の長壽を得て、めでたく終つたのである。それは名高い關白兼実の後の九條植通、玖山公といはれた人である。

幸田露伴 (1928) 「魔法修行者」
幸田露伴 (1990) 『幻談・観画談 他三篇』岩波文庫

「戦国武将」では、「上杉謙信」と「武田信玄」が「飯縄」に熱心だった。「謙信」は兜の前立てに「飯縄明神像」を飾り、「信玄」は「甲州」に「飯縄大明神」を勧請して、持仏として身に付けていたとも云われる。さらには、弘治三年 (1557) に「上杉」方の「葛山城」を攻略した「信玄」は、代々の「飯縄大明神」の神官「千日太夫」に安堵状を与え、「武田家」の武運長久を祈らせている。元亀元年 (1570) には社領を寄進し、天正八年 (1580) には「武田勝頼」が朱印状をもって「里宮」の造営と遷宮を行なっている。

*

しかし、「荼吉尼天」の呪法に基づく「飯縄の法」は、常に外法として、世間からは白眼視はされたようで、「茅原虚斎」が『茅窓漫録』に「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」と書いたように、邪法として怖れられたのである。当時の人々が、どのくらい「飯縄の法」を異端視していたかは、有名な『老媼茶話』のくだりを見ればはっきりするだろう。内容の真偽は別として、周囲がどのような目で「飯縄使い」を見ていたかの漠たるイメージはつかめよう。

近世本邦に狐を仕ふ者有。呼て飯綱の法といへり。其法先 まず 精進けつさい 潔斎 にして身を清め、独り野山に遊び狐の穴居をもとめ孕狐を尋ぬ。此狐を拝して曰、「汝か今孕む所の狐、産れは我子とせん。必我に得させよ」と。それより日夜にしのんて食事をはこひて、母狐子を産に及ひ弥 いよいよ 勤て是を養ふ。子すてに長じて母狐子を携さへ術者の元に来り。子に名を付て「今日よりして如影隋身の儘にせよ」と云。術者児狐に名を付る。母狐悦ひ拝して子をつれて去る。是よりして後、術者集まれば潜然に狐の名を呼ぶに、狐形を隠し来りて人の密事を告、術者におしゆるまゝ、術者狐のおしゑのまゝに妙を断ずる間、則人、「神に通せり」と思へり。

三坂春/編 (1742) 『老媼茶話』寛保二年
高田衛ら/校 (1992) 『近世奇談集成 1』叢書江戸文庫 26、国書刊行会、p. 145

実際、「川口謙二」編著の『日本の神仏事典』は、「管狐」を使役した呪法としての「飯縄の法」に対して、「この修法があったがゆえに、世人からあまりにも怖れられて、飯綱権現の本源は滅亡したのではなかろうか」とさえ述べているのである。
*

しかし、「飯綱権現」は、単に「荼吉尼天」を投影しただけの神格ではない。「高尾山薬王院」では、「五体合相」と云い、「迦楼羅天・荼枳尼天・歓喜天・弁財天・宇賀神」を「不動明王」が統括する姿で示現したものと捉えている。既に「常光寺」の「飯縄大聖不動堂」の項で見たが、「飯縄信仰」で、「飯縄権現」を「不動明王」の示顕した姿と捉えるのは、「五体合相」の道理によってなのである。

このことを図像学的に見れば、「飯縄権現」は、「狐」に跨がった「烏天狗」なのだが、右手に「降魔の剣」、左手に「縛索」を持ち、火炎を負い、牙を咬む憤怒の相をしており、烏の頭と背中の翼を除けば、すべて「不動尊」の属性なのである。

一般に、「飯縄権現」は、「荼吉尼天」と「不動明王」が、国産の「天狗」と習合する形で産まれたのではないかと考えられている一方で、「飯縄権現」が「烏天狗」の姿をとることから、仏法の「八部衆」に属する「迦楼羅天」との習合をも唱える人々がいる。だが、これに対しては、しばしば「烏」の形態は、我が国古来の「天狗」から来るものだから、「迦楼羅天」とは直接の関係はないと云う反論がなされるようである (宮本、1989、p. 58, 61)

しかし、一方では「烏天狗」のイメージ自体が、「迦楼羅天」の影響を受けているとの見解もある。筆者の知る限り、古くは、「南方熊楠」が「天狗の情郎 かげま 」と云う随想の中で、「金翅鳥王 (迦樓羅王) が邦俗いはゆる烏天狗像の模範たるは、淺草堂後から見える襖、障子の觀音廿八部衆、それが今なくば『山靈圖彙』を見れば明らかだ」と述べている (南方、1915) 。この点について、「宮本袈裟男」は、次のように慎重な姿勢を保持している。

迦楼羅像と天狗像の共通点は、いうまでもなく喙、二翼を有した鳥頭人身ということであり、南方熊楠がいうように鳥類型天狗像 (烏天狗) の原型を迦楼羅像に求めることも可能である。しかしながら、天狗の原型を迦楼羅像に求めるには、両者の形態が類似している以外の充分なる根拠がないようである。

インド神話の鳥類の王としての金翅鳥を仏教に取り入れ、八部衆の一つ迦楼羅像として位置づけた点と、山中の主、山の神という信仰を発展させ、天空を自由自在に飛行できるという特性から、その図像を鳥類に求めた天狗とが、その発想の類似から、偶然に一致したとみることも可能であり、天狗像の原型を迦楼羅像に求めるには、いっそうの検討を必要とするように思われる。

宮本袈裟男 (1989) 「天狗の系譜と図像学」
宮本袈裟男 (1989) 『天狗と修験者』人文書院、p. 61

流石に、第一人者だけあって、良心的な慎重さを維持していると云えるが、「宮本」氏自身は、原型であるかどうかは別として、「迦楼羅天」の関与を認めてもいいのではないかと考えているようである (注・ここの部分は純粋に筆者の類推である) 。「宮本」氏は上記論文の別の箇所で、寛永二十年 (1643) に、「円融坊東海」が「日光山」に奉納した「稲綱本尊」の画像を挙げており、これが一般的な「秋葉・飯綱両権現」の「烏天狗」様式ともまったく異質な、両翼を広げた鳥類型のものであることから、「むしろ日光山の『稲綱本尊』の画像は、 (略) 天狗の原型を仏教の迦楼羅像に求める観念にもとづいて描かれたものとみることができるのではなかろうか」とも述べているのである。また別の箇所では、『山海経』巻二に載る「中国・陰山」の「天狗像」が「蛇をくわえた猫 (!!) 」であることや、「秋葉権現」の四足に「蛇」が巻き付いていることから、「龍」と「迦楼羅天」に注目して、同じく蛇を巻き付ける「迦楼羅天」と「天狗」との関係に注意を促しているのは、極めて慧眼であると思う (ibid., pp.58, 61) 。

しかし、ここでは百歩譲って、「天狗」はさておいたとしても、そもそも、「飯縄権現」は、その「五体合相」に「迦楼羅天」が含まれるほどで、しかも他の三つの神格よりも、明らかに「不動明王」と共通する紅蓮の炎を象徴することを考えても、「迦楼羅天」と「飯縄権現」の関係は、そんなにも否定しなければいけない性質のものではないように思われる。

しかも、「宮本」氏が述べるように、「龍蛇」と「迦楼羅天」との関係は、もう少し真剣に探求した方がよいように筆者にも思えるのである。何故ならば、その点にこそ、「戸隠山」と「飯縄山」の関係が象徴されているように思えるからなのである。また、筆者にとって、それは同時に、いずれは論じなければならない「猫神」と「蛇神」を巡る議論にも光を照らすものなのである。これらの点について、全容を開陳するのは別の機会にもう少し思索を深めてからにしたいと思うが、以下、その概略だけ紹介したい。

*

「迦楼羅天」は、別名「金翅鳥王」、「梵語」は「スパルナ (キンナラ) 」、「食吐悲苦鳥」と云う漢訳もある。元は「インド神話」の「ガルダ」と云う神格であった。この「ガルダ」は、「龍」を常食とすることで知られると云う (斎藤昭俊、1984、p. 94) 。

数千年に及ぶ歴史と数十にもなる民族を抱える「インド」にあっては、他のいかなる神話もそうであるように、「ガルダ」を巡る神話も、ヴァリエーションが多く複雑だ。ただ、その最も基本的な特徴のみを要約すれば、1) 炎と光に包まれる神鳥である、2) 「ヴィシュヌ神」の乗物 (ヴァーハナ) である、3) 蛇・龍 (ナーガ族) を喰らう大敵である、と云うことになろうか。そして、「ガルダ」を巡る最も有名な神話は、おそらく「ガルダ」がいかにして「蛇族」の大敵となり、不死の命を得て「ヴィシュヌ」の乗物になったかを語るものであろう。以下、やや長くなるが要約する (これでも、可能な限り短くしたのである) 。

「プラジャーパティ (造物主) 」の一人「ダクシャ」の二人の美しい娘、「ヴィナター (鳥魔・禽魅) 」と「カドゥルー」は、「ブラフマー (梵天) 」の子、「聖仙・カシュヤパ (北極星) 」の妻となった。「カドゥルー」は千疋の「蛇 (ナーガ) 」を息子とすることを夫に望み、「ヴィナター」は「カドゥルー」の子よりも優れた二人の息子を望んだ。やがて、「カドゥルー」は卵を千個、「ヴィナター」は二個産み、二人はそれを永い間温めたが、「カドゥルー」の卵は孵り、「ヴィナター」のは孵らなかった。恥じた「ヴィナター」が、卵の一つを割ると、未熟だったため上半身だけの子が産まれた。この子は「暁の神・アルナ」となったが、母を恨んで、母が競った相手の奴隷に五百年間なると云う呪いをかけた (同時に五百年後の「ガルダ」による救済も予言する) 。

その後、「カドゥルー」と「ヴィナター」は、神々が不死の聖水「アムリタ (甘露) 」を得るために「乳海撹拌」を行なったときに生まれた「天馬・ウッチャイヒシュラヴァス」の体の色について喧嘩をした。「ヴィナター」は、前身真っ白だと云い、「カドゥルー」は尻尾だけ黒いと主張し、負けた方が相手の奴隷になると云う賭けをした。「カドゥルー」は、息子の「蛇」たちに天馬の尾に取り付いて黒く見せるよう命じ、この賭けに勝ったたため、「ヴィナター」は「カドゥルー」の奴隷となってしまった。

さらに五百年が経ち、「ヴィナター」の残した卵から「ガルダ」が生まれ、空気に触れると忽ち大きく燃え上がり、炎と光で世界を焼き、神々を怖れさせたため、神々は「アグニ神」に助けを求めた後、「ガルダ」を賛美することで、炎を収めさせた。

その後、「ガルダ」は海を越えて母に会いに行くが、自身も「カドゥルー」と「蛇族」に隷属することになった。しかし、すぐに嫌になった「ガルダ」は、母が詐略によって奴隷になったことを知ると、母の解放を要求した。「蛇族」は、「インドラ」の守る、不死の聖水「アムリタ (甘露) 」を神々から略奪してくることを解放の条件として出した。

天上界に乗り込んだ「ガルダ」は、「アムリタ」の番人「ヴィシュヴァカルマン (毘首羯磨) 」を一蹴すると、「風神・ヴァーユ (風天) 」と神々の軍勢を打ち倒し、多くの神々を傷つけ、殺し、追い散らすと、「アムリタ」の壺を奪い去った。

「ガルダ」は帰路、「ヴィシュヌ」と遭遇した。「ヴィシュヌ」は、「アムリタ」を奪っても自らは飲まない「ガルダ」の無私に満足し、「ガルダ」に自分より上の地位を約束し、「アムリタ」を飲まずとも不老不死になると云う願いもを叶えてやった。それと引き換えに、「ガルダ」は「ヴィシュヌ」の乗物となることを誓った。

やがて、「戦闘雷神・インドラ (帝釈天) 」が「ヴァジュラ (金剛杵) 」を振るって攻撃してきたが、これも撃退したため、一切の生類と神々は「ガルダ」を賛嘆し、「インドラ」も「ガルダ」と永遠の友情を誓い、「蛇族」を餌とする許しを与えた。「ガルダ」は、母を解放するためには「アムリタ」を返せないことを告げ、しかし、「蛇族」が飲んでしまう前に「インドラ」が取り返せるようにすると約して飛び去った。

「蛇族」のもとに戻った「ガルダ」は、母を解放させ、「アムリタ」の壺を鋭い葉のある「クシャ草」の上に置き、沐浴をしてから飲まねばならないと告げた。すると、「蛇族」が沐浴している隙に、「インドラ」が「アムリタ」の壺を奪い返してしまった。「蛇族」は、壺のあった「クシャ草」の上を舐め回したため、舌が切れて二股になってしまった。

伝・ヴィヤーサ/著『マハーバーラタ』第一巻・十四章 - 三十章
参照・上村勝彦/訳 (2002) 『原典訳マハーバーラタ 1』ちくま学芸文庫、pp.141-178

* カドゥルー」は、自分の命令に従わなかった「タクシャカ」を中心とした子らが、「ジャナメージャナ」の手によって滅びるよう呪いをかけたため、「インドラ」の保護を得た「タクシャカ」を除いた「蛇族」の多くが滅んだと云う神話もある。

『マハーバーラタ』の他にも、「智者大師」の『観世音義疏』巻下には、「迦楼羅」が「龍蛇」を常食とするに至った由来が述べられていると云うが (宮本、1989) 、浅学のため、筆者はいまだその内容は知らぬ。『マハーバーラタ』の神話と似ているのだろうか、気になるところである。

ただ、『阿婆縛抄』にも「一の絵図あり、形迦陵頻鳥の如く、嘴あり、横に三鈷杵を含み、左右に各蛇を執り、左右足は各虵を踏む」と記されているそうであるから、「仏教」の世界でも、「蛇」の大敵として「迦楼羅」は描かれていることは確認出来る。「密教」の行法などでは、「八大龍王」を祈念した「水天供」が雨乞いの呪法として広く知られているが、「迦楼羅」を祈念する「金翅鳥法」が雨を止める呪法とされるのは、雨の神である「龍蛇」を「迦楼羅」が食して滅ぼすと考えられているからである。もちろん、「インド神話」以来、持ち続けられてきたこの「ガルダ」と「ナーガ」の対立図式は、それぞれが「火」と「水」を象徴する神格として感得されていたことから成立するのであろう。

天上の「甘露」や、「インドラの雷」に打ち勝つこと、さらには「インドラ」と表裏一体で語られる「風神・ヴァーユ」を撃退することなど、「迦楼羅天」は、今後の「猫神探訪」にとって、非常に示唆的な特徴を有しているのである。詳しくは書けないが、以前に「千葉県の猫山」として記事を載せた「大桶」の「猫」伝説は、「軍荼利明王」と密接な関係で結ばれていた。この明王は、「不動明王」とも多くの特徴を共有するだけでなく、何よりも「グンダリ」が元々「甘露」の意味であることや、その六臂に蛇を巻きつけていることなど、「迦楼羅天」や「秋葉権現」「飯縄権現」などと共通する部分を持っているのである。しかも、「千葉」の「軍荼利信仰」の一大拠点である「鹿野山神野寺」の土地神は、「仁王門」前に祀られた「九頭竜大神」だと云われ、しかもこの寺の奧院は、これまた「千葉」の「飯縄信仰」の中心地の一つとなっている「飯縄権現社」である。

「猫神」と「蛇神」が密接な関係で結ばれていることや、それと関連して、民話や伝説の中ではときに「猫」と「蛇」が相互に交換可能な記号となっていることがある、などと云ったことは、実地に「猫神」巡りをし、多く図書館に通ってさえいれば、おのずと気づかれることである。ただ、一方で、「山形」の「猫の宮」や、「仙台市」の「少林神社」などの「猫報恩型」の話では、「猫」は主人を「蛇」から守ろうとして却って首を斬られた後も、「蛇」に噛みついて殺すのであり、こう云った話が各地に分布していることからも察せられるように、「猫」は「蛇」と対立する項としても、我が国の民俗的想像力の中に登場する。「猫」と「蛇」は、そんな不思議な絡まりあいを見せてくれるのである。
今後、筆者はこの点での考察を深めてゆきたいと思っている。

また、このことを、「戸隠山」の地主神が「九頭竜」だとされることと関連づけて考えると、非常に興味深い事実に行き当たることになる。「飯縄山」が、「戸隠修験」からの自立の動きを見せ始めるのが、十三世紀のことで、その中から「千日太夫」の新たな一派が興ったことを考え合わせると、「龍蛇」を喰らう「迦楼羅天」を「飯縄山」側が、「戸隠」側の「九頭竜」に対置するものとして意識した可能性は否定出来ないように思われる。

筆者は、「迦楼羅天」が「飯縄権現」や「烏天狗」そのものの起源だと無理に主張しようとしているのではなく、十六世紀に「狩野元信」が『鞍馬大僧正坊図』において、鼻高大天狗の図像を世に問うてから、各山の「天狗」がこぞってこちらのイメージに乗り換えていった中で、何故、「飯縄修験」系統の「天狗」たちばかりが、「烏天狗」の姿を維持したのかを考えるに当たって、「戸隠」と「飯縄」の対立構図が、「九頭竜」と「迦楼羅天」の対立と云う形で潜在した可能性がある、と主張しているだけである。或いは、少なくとも「飯縄信仰」の側には、「鳥」のイメージに拘る強い動機があったと云うことは否定出来まい。このことの故に、筆者は、「飯縄信仰」には「
迦楼羅天」を重視する客観的重要性があったのではないかと推測しているのである。

このこと以外にも、すでに見た通り、「迦楼羅天」と「飯縄権現」を結びつける要素は、例えば「迦楼羅天」が「不動明王」と炎のイメージを共有すること、「飯縄権現」の「五体合相」のうちに、「迦楼羅天」が含まれていること、「宮本袈裟男」氏が指摘したように、「日光山」の『稲綱 いづな 本尊』がまったく「迦楼羅天」の姿をしていることなど、多々存在するのである。単に、「烏天狗」は日本古来のもので、「山の神」の発展系として生まれたものであり、そこから天空を自在に飛ぶ「鳥」のイメージが創出されたのだと云うだけでは、まるで攘夷論のようで、議論が寂しい気がしてならない。

*

上のことと関連して、最後の話題を一つ。

「宮本袈裟男」氏の「飯縄信仰」に関する初期の論考である「飯縄信仰試論」 (これが卒論要旨と云うのだから凄い!!) は、極めて短文ながら、「飯縄信仰」について何らかの考究をしようと云うものにとっては、どうしても目を通しておかねばならぬ必須の文献である。しかし、その中で、わずかばかり気になる点があるとしたならば、それは氏が、「飯縄の神」を「作神」と見なすときの諸前提がはっきりしないと云うことである。果たして、氏の云う「作神」と云うのが、「柳田國男」の議論の延長線上にあるのか、その批判的な継承として位置づけられるのかによって、議論がかなり変わってくるからである。特に「飯縄信仰」は、「山岳信仰」と直接に関わりを見せるだけに、「山の神」と「作神」の把握の仕方は、明確にしておかねばならないと思われるのである。

「柳田國男」は、自らの「祖霊信仰論」をベースにして、山と里を往来する神として「山の神」を描き出すことで、「山の神」を「田の神」と結びつけ、「作神」として位置づけて論じている。しかし、このような平野民から見た「山の神」観に対しては、近年、各方面から批判や修正が行なわれている。ただ、これら再考の動きが、肝心の「民俗学」プロパーの世界で最も鈍いように見えるのは残念なことである。

筆者は、「柳田國男」の遺産の偉大さが分からぬほど、間抜けでも傲慢でもないつもりである。いまでも、何かを調べようとすると、真っ先に手にするのは『柳田國男全集』である。そして、それを手にすればいつだって、限りない畏敬と憧憬を感じずにはいられないものである。したがって、「柳田批判」さえしていれば「斬新だ」と勘違いしたような、流行としての異議申し立てには違和感と嫌悪を覚えるのである。

しかし、一方で、その遺産を金科玉条として、一分たりとも修正を加えず、革新的な再検討の機運を認めようとしない継承者たちにも疑問は覚える。筆者如きに、「柳田学」の全体が見通せるはずもないのだが、そんな愚者の臆見として云わせてもらうと、「柳田民俗学」のアキレス腱になっているのは、実は「柳田」が晩年、渾身の力を込めたその「祖霊信仰」を巡る体系なのではないかと思う。もしも、「柳田國男」が後二十年も生きていれば、必ずや自ら修正を施したのではないかと思うのだが、平野民の視点からのみ考察したその「山の神」や「田の神」の観念は、現に山に生きる人々の生きた感覚や、あるいは水田農耕開始以前の人々の山に対する畏怖などを取り込むのに失敗しているようなのである。海外からは、「エバーハルト」や「ナウマン」などの「山の神」論が提出され、国内では「大林太良」が先鞭をつけ、「湯川洋司」や「佐々木高明」などの論考が、新たな「山の神」論の視点を提示している。そろそろ、我が国の民俗学会も、これらの思潮に対して、本格的な考証を開始すべきなのではないかと筆者は常々感じている。「ナウマン」がその膨大な「山の神」論を世に問うてから、半世紀近くが経とうとしているのであるから...。

このような視点に立つと、本項でも触れたような「山の神」の延長線上にのみ「天狗」を見る議論は、その「山の神」の概念をより精緻化することなく、無批判に受容されるべきものではないのは明らかである。レベルはまったく違うが、同じような意味で、「宮本」氏の「作神としての飯縄の神」と云うのも、今後、その「作神」の性格をより精緻化して議論しない限り、完全には「山岳信仰」を無視していないものの、やはり舌足らずな感を否めないことになってしまうのではないだろうか* 。

* このことに関して、最も単純な疑問だけでもここで提示するならば、「飯縄信仰」に「作神」的性格が優勢するのは、「農耕神」として祀られる (とされる) 「狐」を使うことから、後世、「稲荷信仰」の「作神信仰」と事実上習合されたことと関係するのか、それとも「稲荷」との習合などより本質的に古い、原初的な特徴なのか、と云うことであろう。

以上のような諸問題の探求は、「ハヤマ信仰」について筆者が「福島県の猫神探訪」シリーズの中で、少しく論じた以前の記事 (「ハヤマ信仰」に関する一試論) でも見たように、「祖先信仰」と「山の神」の議論を含む、膨大なエリアと関わってくるため、この議論を突き詰めていくのは、現時点では、筆者の手に余る。
もちろん、今後ともさらなる研鑽と洞察を深めていきたいとは思っている。

*

突然で恐縮だが、まとまりのない議論も、これで一通り列挙したので、この辺りで、「常光寺」の「飯縄大聖不動堂」に戻ることとする。



8. 「常光寺」の「唐猫」 : 実物

「常光寺・護摩堂」裏の棚地に戻ろう。

「飯綱大聖不動堂」に向かって右側を見ると、祭神不明の石祠が三つ、横に密着して祀られており、反対の左側には石灯籠が三基と、小さな石碑が建てられていた。地域柄、三つの石祠は「養蚕」関係の神様かとも想像したが、刻字も具体的な遺物も見当たらなかったため、何とも判断出来なかった。

しかし、お堂の左側に立てられていた灯籠群はさて置き、一基だけ佇んでいた石碑には、筆者は目を奪われた。このささやかな石碑こそが、筆者の目指す「猫碑」だったのである、などと書くと、さも冷静に聞こえるかも知れぬが、これを一目見た時の筆者の動揺にも近い興奮は、どのように記せばいいか分からない。おそらくは、喜びと驚きとで、顔は無表情になっていたのではあるまいか。

思えば、筆者が最初にこの「猫碑」の存在を知ったのは、ネット上の「塩尻の本」と云うサイトの中で、既に見た『塩尻・楢川かるた』なるものを紹介していたのを読んだ時であった。以下に、その小記事と画像をそのまま引くこととする。

常光寺・カルタ

若葉して 石楠花 しゃくなげ 寺の 常光寺

この寺で、楽しみなことは境内から裏山にかけて、石楠花がおよそ2000本もあることです。境内に古い石の唐猫があります。養蚕が盛んな頃は、鼠よけのお札をいただきに、県内はもとよ り、遠く岐阜・山梨あたりからきたそうです。

「塩尻の本」
http://greens.st.wakwak.ne.jp/home/note.cgi?id=902139&category=6&code=4&note_pw=

上の記事を読んだのを契機として、その後、「常光寺」の「石の唐猫」に関して情報を集め始めたのであったが、結果は芳しくなく、上記の情報以外は結局、何も手に入らなかったのである (その後、わずかばかりだが入手した) 。結果として、筆者は、この「石の唐猫」と云う言葉から、何やら「狛犬」のようなものを想像することになってしまったのである。

実は、順番は完全に逆になってしまったが、いずれ「南信濃・名古屋」文化圏に残存する「唐猫」信仰についても、紹介していくつもりなのだが、それら他の「唐猫」のうち、造形物が残っている限りのもの (筆者が見たことのある限りのもの) は、皆、「猫」と云うよりは「狛犬」と云った形態なのである。したがって、「常光寺」のものも、何となくそうなのだろうと思ってしまったのである。

あまりに情報が集まらなかったので、最後の手段として「常光寺」の御住職に直接、問合せの電話をさせて頂いたのだが、そのとき、筆者が「唐猫」と云うのは「狛犬」のようなものか、と尋ねると、ううん、対にはなっていなくて、単独だけどそんなものだと答えて下さったのである。いまとなってみると、あのときの御住職の「ううん」の苦慮の意味が理解出来るのだが、そのときは勝手に、やっぱり「狛犬」のような造形なんだな、と思ってしまったのである。

常光寺・唐猫01
白熱灯と青色LEDで撮影

しかし、いま目の前に実物を見て、いかに自分の先入見が過っていたかを思い知らされた。そこにあるのは、「唐獅子」のような彫像ではなく、板碑の正面に浮彫りにされた、正真正銘「猫」の像だったのである!! よその地の「唐猫様」に文句はまったくないが、やはり「猫神」を追い求めるものとして、その造形が「唐獅子」様であるものよりは、家猫の姿であるものを見つけたときの方が喜びは大きい。まあ、元が猫好きに端を発した探求なのだから、これは当たり前だろう。

それでは、やや丁寧に「常光寺」の「唐猫様」の姿を見てみよう。

まず碑面の中央には、体を (向かって) 左に向けた「猫」の浮彫り座像が刻まれている。顔は、正面を向いて、うつむき加減に、やや下の方を見据えている。耳はいかにも猫らしく大きく尖り、細くて長い尻尾は、体に巻きつけてある。碑面中央の最上部、すなわち「猫」の頭上には、「唐」と一文字陰刻され、右端には縦に紀年銘が彫られていた。

この紀年銘に関して、筆者は所々、判読が出来なかったのだが、ここでも妻の助けを借りて、おおよそ「文□十二己□□月八日」とまでは、読み取ることが出来た。六文字目は、「世」か「丑」かに見えたが自信はなかった。石碑の右側面部には、「小松曽右ヱ門」と刻字されており、おそらくは「願主」の名前なのだろう。石碑自体は、正面と側面のみを平滑加工した、荒造りの光背型・礫碑であった。

あまり楽観して物事を決めつけるのは良くないが、ここまでくれば、何月かを除いてほぼ復元出来るだろうと云う安心感があった。全国的に発見されている「猫」の石造物で、「江戸期」よりも遡るものはいまだ確認されておらず (と思う...) 、多くが「江戸中期」以降、特に「幕末」から昭和前半にかけて造られていることを考えると、「文□十二」と云う元号はほぼ特定出来る。この時代に適合して、さらには十二年以上あって、一文字目が「文」の元号などそうはない。その上、「十干」が「己」と分かっていて、「干支」と思われる部分の不明な字が「世」か「丑」に見えるのだから、なおさらである。帰宅後に調べると、時代を特定せずとも、我が国には「文」で始まって十二年以上続いた元号は、四つしかなかった。順次紹介すると以下のようになる。
文永十二年 (1275) =乙亥
文明十二年 (1480) =庚子
文化十二年 (1815) =乙亥
文政十二年 (1829) =己丑

したがって、条件に該当するのは「文政十二年 (1829) 」だけであった。これで二文字目が「政」であることと、六文字目が「丑」であることがほぼ確定したと云える。「文政十二年」が「己」の年とぴったり一致した上、「干支」も推測した通り「丑」だったのだから、これはもう間違いないと云える。

常光寺・唐猫03
青色LEDのみでの撮影

常光寺・唐猫04
上の写真のアップ



9. 「常光寺」の「唐猫」 : 伝説

以下、シンプルに「常光寺」の「唐猫」について紹介しよう。

常光寺の唐猫様

昔、「飯綱権現様」の御本体をお祭りするお社を造営するために、今の「常光寺」の伽藍の裏に、 一段高くなった棚状の台地を整地することになった。

ところが、地面を掘り進んでいくうちに、地中から、猫ほどの大きさの不思議な石の塊が出てきたのである。土を払って、綺麗にしてみると、それはまさしく猫の石像だったのである。

人々は、「飯綱権現様」の御本社を造る土地から「唐猫様」が出てきたことを畏れ多いことと思ったので、お寺の「護摩堂」に秘仏としてお祭りすることになったと云う。

そして、「飯綱権現様」の「御本社」が立派に出来上がると、そのお堂の真横に、「唐猫様」を尊んで、美しい「唐猫様」の石碑を建てたそうである。時に、文政十二年 (1829) 己丑の年、願主は「小松曽右ヱ門」であった。

「唐猫様」の御本体は、その後もずっと「護摩堂」で大切に祭られ、いまも秘仏として、お寺全体を鎮護している。現・御住職様も、過去に一度しか拝したことはないそうで、やはり等身大の猫の大きさの自然石と表現されていた。
(文責・筆者。御住職からの聞取りによる)

この「常光寺の唐猫」に関する書かれた文献としては、筆者は今のところ、次のものしか発見出来ていない。他に、何か別の資料を御存知の方がいらしたら、コメントあるいはメールフォームを通じて、ぜひとも御教示下さいませ。

常光寺の唐猫

常光寺 (真言宗) は、中央東線上りの二番目のトンネルのある、飯綱山の裾にある。創立年代は不明であるが、今から五百九十年ほど前、永徳二年* 法印恵覚上人の中興という。応永三年* 本堂建立のさい発掘された唐猫の石像がある。鼠除けを祈願すればその霊験あらたかであるというので、遠くは岐阜・山梨・本県はもちろん、護摩講という講があり、養蚕・農作物の鼠除けのお札を受けに、毎年五月、代参でにぎやかであったという。第二次大戦までは続けられていたそうであるが、養蚕の衰微と共に絶え、現在は、ときおり、山梨あたりからお札を受けに来る人がある程度だという。なお、寺には、部厚い信徒名簿が幾冊も補完されており、唐猫は寺宝として祀られている。

* 永徳二年---西暦 1382年。『塩尻市誌』では、中興を応永年間としている。
* 応永三年---西暦 1396年。

田中米吉 (1975)「常光寺の唐猫 」
塩尻市史談会 (1975) 『塩尻の伝説と民話』、自刊、pp. 58-59

ところで、文政十二年 (1829) に、「唐猫」の建碑が行なわれていると云う事実は、それに先立つ文政二年 (1819) に伽藍が焼亡して、天保年間 (1830 - ) になってようやく再建なったと云う『塩尻市誌』の記述と照らし合わせると、いささか興味深いと云える。同様に、同じく「市誌」は、「常光寺」の「飯綱大聖不動堂」が、「中興」の「恵覚」によって勧請された (『塩尻市誌』第三巻、p. 723) と記しており、これは当然「永徳」から「応永」にかけてのこととなるのだが、このことと、秘仏の「唐猫」が出土したのは、応永三年の「本堂」再建時だと云う『塩尻の伝説と民話』の記述も面白い。

何が面白いのかと云うと、これら四つの出来事と時期をすべて繋ぎ合わせてみると、元の「唐猫」像も、後の「唐猫」碑も、いずれも寺の再興の直前と云う、寺史上、極めて重大な時に発見、乃至は建てられていると云うことである。穿った見方をすれば、文政二年に焼失した諸堂を立て直したのが天保元年だとしたら、「唐猫」碑はその前年に計ったかのように建てられたことになるのである。また、諸堂の焼け落ちた跡地に、石碑だけ建てると云うのも何だか不自然であるから、もしかしたら文政二年の火災時には、台地上の「飯綱不動堂」だけは罹災しなかったのかも知れない。

仮に上記二つの推測がどちらもはずれていたとしても、「文政」の「唐猫」碑が、寺の伽藍が再建される以前に造られていたことは間違いがない。そして、これは取りも直さず、当時の「常光寺」の信仰において、いかに「唐猫」が重要な位置を占めていたかを示唆していることにもなるのである。



10. おわりに

今回、訪問した「常光寺」は、古い歴史を有する名刹ながら、その寺歴に関する史料をほぼ失ってしまったか、当初から作成していなかったのか、現在、遡って知り得ることは非常に限られている。「永徳・応永」頃の「中興」以前と、「文明」から「寛文」までの長い時期、廃寺かそれ同様の事態に陥っていたらしいことも、寺伝が詳しく伝えられていない要因なのかも知れぬ。あるいは、この寺院が「真言密教」の寺であり、本来的に呪術的な行法との縁も深いため、元々、口伝を重視していたのかもしれず、これもまた記録文献の欠如を説明する一因かも知れない。いずれにしても、外部のものがおいそれとその信仰の内容を理解できるものではなさそうである。

ただ、この寺が、ある時期この地域の「飯綱信仰」の中心的な道場であったことは、以下の諸事実からも明らかであると思う。

1. 山号が「飯綱山」であること
2. 寺院の石段がまっすぐ「飯綱堂」に続いていること
3. 現在も石段が「本堂」ではなく「護摩堂」の正面に来ること
4. 「飯綱堂」も鳥居も、諸仏堂よりも一段高い場所にあること
5. 寺山の山頂付近に、「飯綱権現」の奥社があること

問題は、寺の来歴についてすら明確なことが知れない中、「唐猫様」に関してはいよいよその正体が知れぬと云うことである。「護摩堂」に秘蔵される本体石像の方は、この寺の御住職でさえ暗い中で一度拝したきりだと云うのだから、その実態の解明が難しいのは当たり前である。

何故、仏像でさえない「猫」の石像が、寺で「秘仏」扱いされるようになったのかは、御住職にも謎と云うことであったが、「密教」とは云え、「大乗」の流れなのだから、「仏」であれば、どんな秘仏でも、何年かに一度くらいは衆生済度のために開帳しそうなものである。したがって、決して公開されることのないこの寺の「唐猫様」は、厳密には「秘仏」と云うよりは、やはりかつて存在した、何か呪法的な行と深く関わって祀られたのがもとではないかと推測される。実際、前立てと呼んでいいのかは分からないが、「護摩堂」裏に建てられた「唐猫碑」は、秘儀性の高い「飯綱堂」の傍らに据えられているのだから、このことは恐らく間違いあるまい。

御住職も、「唐猫様」については、会話の中でさらりと、お寺を鎮護する守り神である、と云うような表現をされていたが、おそらくその通りなのであろう。


*

「飯綱信仰」と離れて考えた場合にも、筆者が常日頃から、「猫神」が「風雨神」「水神」としての性格をその基底に潜ませているのではないかと主張していることを考えると、この地域一帯が、「日本海」へと流れる河川と「太平洋」へと流れる河川の「水分 みくまり 」の地となっており、湧き水も豊富であると云う事情は見逃せない。

「常光寺」北方の沖積地には三つの川が流れ、寺のすぐ南東には、民話や謡曲でも名が知れた「善知鳥峠」 (889m) がある。この峠こそ「信濃川」水系と「天竜川」水系の分水嶺となっており、「常光寺」の前を流れる「権現川」の水源ともなっている。また、この峠が、「松本平」と「伊那谷」を分ち、「筑摩地方」と「伊那地方」の境をなしていたことは広く知られるところである (今は行政区分上は境になっていない) 。

「常光寺」は、「上西条」集落の西側に位置するが、「善知鳥峠」を「権現川」に沿って、昔の「伊那街道」を下った辺りが「上西条」集落の東に辺り、この地には「上西条神社」が鎮座している。祭神には、「瓊瓊杵尊・倉稻魂命・象罔女命」ほか「水神」などが祀られているが、ここの境内には高名な「強清水」が湧いている。おそらくは、「象罔女命」を含め、原始的な「水神信仰」がこの社の原初の形態だったものと想像される。

この「強清水」は「権現清水」とも云い、地元の人が「西の沢」と呼ぶ「権現川」に豊かな水勢を足している。この「権現川」は、より上流で「東の沢」と二つに分かれ、この二つの流れで「上西条」の地を潤わせているのである。また、この集落には「清水田」と呼ばれる水田が畑の合間に分布しており、そもそも湧水に恵まれた土地であったことは間違いがない。

「常光寺」から湧く絞り水も、細流となって「権現川」に合するのである。その上、寺の裏山からも湧き水があり、その東の谷に当たる「飯綱久保」を流れくる「東の沢」と合流しているのである。

*

いつものことながら、今回もまた、歯切れの悪いところで筆を置くこととなる。「猫神」と云う、痕跡すらほとんど残さずに消えつつある神様を探求するとき、容易に結論を下せないのは、所与のことであると考えて頂けると有り難い。実際には、筆者も、あれこれ考えつつ、いまだに資料を蒐集しているに過ぎない段階にあるのである。

「長野県の猫神探訪」も、回を進める毎に、何か新しく見えてくることがあるのではないかと期待されたが、新発見は案に違わず多いものの、謎が謎を呼ぶような形で、整理出来ないことがほとんどなのを悔やむばかりである。それなのに、新たなことを考える度に、資料が決定的に不足すると云うジレンマに苦しむことになっているのだから、皮肉である。とは云え、早い時期に、現在「長野県の猫神」に関して考えていることだけでも、概要を明らかに出来ればいいな、と思っている。

と云う訳で、次回の「長野県の猫神探訪」は、この「善知鳥峠」の先、「筑摩」と「伊那」の境界地として、いまなお分断の爪跡が残ることでも知られる、「信濃国二之宮・小野神社」の「唐猫様」を訪なうことになる。

いずれにしても、「長野県の猫神探訪」は、まだまだ緒に着いたばかりである。


「常光寺」の地図は、こちら


参考文献
a) 主要文献

・田中米吉 (1975) 「常光寺の唐猫 」
 
塩尻市史談会 (1975) 『塩尻の伝説と民話』自刊
・塩尻市誌編纂委員会/編 (1992) 『塩尻市誌
第三巻、塩尻市
・塩尻市誌編纂委員会/編 (1993) 『塩尻市誌
第四巻塩尻市
・塩尻市誌編纂委員会/編 (1995) 『塩尻市誌
第二巻塩尻市

b) 「飯綱信仰」関係書
・作者年代未詳『足利季世記』巻二首「政元生害之事」
 近藤瓶城/編 (1990) 『改定史籍集覧』第十三冊、臨川書店、原版・明治三十六年
・天野信景 (1697-) 『塩尻』元禄十年以降
 日本随筆大成編輯部/編 (1995-1996) 『日本随筆大成・第三期・13-19巻』吉川弘文館
・茅原虚斎 (1819) 『茅窓漫録』文政二年
 日本随筆大成編輯部/編 (1976) 『日本随筆大成・第一期・二十二巻』吉川弘文館
・豐田庸園 (1849) 『善光寺道名所圖會』卷三、嘉永二年
 復刻・(1998) 『善光寺道名所図会』臨川書店
・朝川鼎 (1850) 『善庵随筆』嘉永三年
 日本随筆大成編輯部/編 (1975) 『日本随筆大成・第一期・第十巻』吉川弘文館
・谷川士清 (18C末-19C末) 『和訓栞』
 尾崎知光/編 (1953) 『和訓栞』成美堂
・南方熊楠 (1915) 「天狗の情郎 」『續南方隨筆』
 南方熊楠 (1971) 『南方熊楠全集』第二巻、平凡社
・幸田露伴 (1928) 「魔法修行者」
 幸田露伴 (1990) 『幻談・観画談 他三篇』岩波文庫
・柳田國男 (1957) 「序文」
 速水保孝 (1957) 『憑きもの持ち迷信』柏林書房
・阿部芳春/編 (1934) 『信濃名僧略傳集』信濃毎日新聞社
・宮本袈裟雄 (1970) 「飯縄信仰試論」
 日本民俗学会/編 (1970) 『日本民俗学』第七十一号、自刊、pp. 59-64
・知切光歳 (1975) 『天狗の研究』大陸書房
・佐藤憲昭 (1980) 「『イズナ』と『イズナ使い』」

 宗教社会学研究会/編 (1980) 『宗教の意味世界』雄山閣出版
・斎藤昭俊 (1984) 『インドの民俗宗教』吉川弘文館

・笹間良彦 (1988) 『ダキニ信仰とその俗信』第一書房
・川口謙二/編 (1993) 『日本神祇由来事典』柏書房
・中村友紀夫・武田えり子/編 (1998) 『天台密教の本』学習研究社
・田村貞雄 (1998) 「秋葉信仰研究史素描」 
 田村貞雄/監 (1998) 『民衆宗教史叢書 31・秋葉信仰』雄山閣出版
・吉田俊英 (1998) 「秋葉信仰の成立」
 上掲書、所収
・正木晃 (2003) 『魔法と猫と魔女の秘密』春秋社

c) 「天狗の麦飯」関係書

・小林義雄 (1975) 『菌類の世界』ブルーバックス、講談社
・椿啓介 (1995) 『カビの不思議』筑摩書房

d) 参照サイト
・「塩尻の本」
 http://greens.st.wakwak.ne.jp/home/note.cgi?id=902139&category=6&code=4&note_pw=



長野県の猫神・建部神社の唐猫様

.31 2011 中部地方 comment(0) trackback(0)
※本稿中の「唐猫」分布に関する表類 etc. を、新しく改訂しました (07/04/2012) 。

建部神社

東筑摩郡山形村 5094

建部神社・唐猫

「建部神社」の「唐猫様」
「古川敏夫」氏・提供

1. はじめに

「長野県」の地誌・民俗、あるいは民話・伝説などに興味のある人は、「上田市下塩尻」「坂城町鼠宿」「長野市篠ノ井」などに伝わる「唐猫伝説」のこと (以下、「塩田平の唐猫伝説」と言及する) は、先刻承知のことと思う。その知名度を考えるならば、「長野の唐猫」伝説を紹介するとき、本来なら、こちらの伝説から始めるのが妥当だと云えるかもしれない。筆者も当初は (と云っても数年前のことだが) 、そのつもりだったのである。だが、「長野県」の「唐猫」についてこの数年間調べているうちに、気が変わったのである。

しかし、そうは云っても、「篠ノ井」の伝説に馴染みのない人のために、便宜上、その伝説の骨子を、はじめに紹介しておくのも何かの役には立つだろう。ただし、細かい内容や諸伝による異同については、気にしないこととする。そして「塩田平の唐猫伝説」そのものに関しては、いずれ別個の独立した記事で詳しく紹介していきたいと思っている。

昔、今の「佐久」から「小県」にかけてが大きな湖だった頃、今の「鼠宿」に巨大な鼠が現れ、田畑を荒らして人々を苦しめた。 困った村人は、「唐」の国から大きな「唐猫」を連れてきて、鼠と対決させた。鼠は岩を登って逃げたが「唐猫」に追いつかれ、岩を噛み破って逃げようとした。すると、そこから一気に湖水が流れ出して、鼠も猫も飲み込んだ。この時、出来た流れが「千曲川」で、食いちぎられた断崖が、現在の「半過」と「塩尻」の「岩鼻」であると云う。結局、「唐猫」は「篠ノ井」の「塩崎」にたどり着いて死んたが、鼠は上がらなかった。このため、「岩鼻」の北の地を「鼠宿」と云い、「塩崎」の「唐猫」と呼ぶ地は猫が流れついた場所だと云う。人々は、この地に「唐猫神社」を造って猫を祀り、鼠は「鼠大明神」として「岩鼻」に祀った。

(文責・筆者)

今回は、この「塩田平の唐猫伝説」を足がかりに、「長野県」の「唐猫」の旅を開始したいと考えている。しかし、敢えて前置きしておくならば、この旅は始まったばかりで、およそ完結に近づいたものではない。そのため、これからの一連の「唐猫」に関する記事で、何かしら早急な結論を申し述べることもないし、仮に書いたとしても、そのほとんどが考察途中の事柄になると云うことを御断りしておきたい。

一方で、今回の記事において、「唐猫」の周辺を広く漁って、今後の議論の展開の土台にしたいとも考えているため、「建部神社の唐猫様」などと銘打っておきながら、現実は、筆者の「唐猫・総論」の「序曲編」のような体裁になっていることを御承服いただけると幸いである。したがって、「建部神社の唐猫」そのものに関しては、この記事の後半になるまで登場はしない。



2. 「唐猫」の周辺

全国の「唐猫」伝説を調べ始めた頃、「篠ノ井」の「唐猫」伝説について資料を集めている段階で、筆者はいくつか気づくことがあった。その一つは、「長野県」には、「篠ノ井」の伝説以外にも、「唐猫」の絡んだ、あるいはそれに絡むと疑われる伝説や信仰が所々に散在していると云うこと、そして、そのことが全国的に見ると、かなり珍しいことなのだ、と云うことであった。

二つ目のことは、一方で、それらバラバラに分布している「唐猫」伝承に、必ずしも強固なつながりを感じ得ないと云うことである。最もよく知られた「篠ノ井」の伝説とのつながりさえ、ほとんど見つけられないのである。これは取りも直さず、各地の伝承に共通するのは「唐猫」と云う言葉と、それが何かしらの寺社に関わっていると云う事実だけだと云うことを意味するのである。

三つ目のことは、全国的には珍しい「唐猫」の伝承が「長野県内」に多いと云うだけでなく、「長野」の南に接する「愛知県」にも若干見られる* と云うことである。「愛知県」では「唐猫」は、ほぼ明確に「狛犬」のことを指しているようなのだが、それでも遺物の残っているものに関しては、造形は「長野」の「唐猫」の遺物との類似性もないとは云えないため、何らかの関連があったとも疑えるのである。

* 「愛知県」の「唐猫」---「豊川市」の「法住寺」、「岡崎市」の「糟目犬頭神社」、「名古屋市」の「大直禰子神社」に「唐猫」の遺物、あるいは言い伝えがある。

「千曲川」の下流域に当たる「新潟」地方では、直接「唐猫」を語る伝承はいまだ発見するに至っていないが、現在の「長岡市」に含まれる地域を中心に、「猫」に関する伝説や信仰が濃厚に残る地方ではある。しかしそれらの中でも、「佐渡市・高瀬 たこせ 」の「相川・七浦海岸」に残されている「猫」譚が最も筆者の注意を引くのである。詳しくは、いずれ発表する「猫神探訪」の「新潟編」の中で別個に紹介したいと考えているので、ここではほんとにさっと紹介する。
 
七浦・猫岩02
「七浦海岸・大浦・猫岩」
佐渡島「大佐渡巡り」より
http://choichi.cocolog-nifty.com/photos/sadonoi/04_088.html

七浦海岸の猫岩


「伊弉諾尊 いざなぎのみこと 」と「伊弉冉尊 いざなみのみこと 」の夫婦は、「高天原」の神々に命ぜられた島産みに疲れ、七番目の「佐渡ヶ島」を産み終えた後、神々の目を盗んで、二人の分身を造って島産みを任せると同時に、「猫」を造って見張りに立てた。しかし、やがて「猫」の大欠伸が「高天原」に聞こえ、二人の策は露見する。怒った神々は、分身と「猫」と、そのとき二人が乗っていた舟を岩に変えたと云う。分身は「夫婦岩」、「猫」は「猫岩」、舟は「帆かけ岩」になったと伝えられる。

(文責・筆者)

上の伝説は、一見、「塩田平の唐猫伝説」と似たところはないのだが、「地形変成」神話に「猫」が関わっていると云う点で、二つの伝説は接近するのである。その上、「海」あるいは「湖」と云う本来、「猫」が活躍しそうにない「水界」との強い関連も、双方に相通ずる特徴として指摘しうると思う。そして、「地形変成」の最初の切っ掛けが「猫」にある点も同じである。また、このような共通項を持つ伝承は、「長野」にあってさえ今のところ筆者は見つけていないと云う事実が、なお一層、そのわずかながらの類似さえも際立たせているのである。そもそも、伝説などと云うものは、あまり露骨に似ているものは、近い時代に直接伝播した関係にあると疑われるものだから、筆者としては構造的な類似の方により興味を引かれると云うこともある。

面白いのは、この「佐渡の猫岩」の話と、「塩田平の唐猫伝説」以上にはっきりとした構造上の類似関係を示す伝承が「島根県・浜田市」の「唐金海岸・畳ヶ浦」にあると云うことである。しかも、この話には、「唐猫」が登場するのである。いや、正確には、「唐猫」は登場しないのだが、「唐」から渡ってきた「猫」が登場すると云う意味では、ただの「猫」よりは「唐猫」にぐんと近いと云ってもいいだろう。以下、これもさっと概観する。

猫島
左「猫島」、中央「犬島」
万葉の旅・辛の崎HPより
http://blowinthewind.net/manyo/manyo-karanosaki.htm



畳ヶ浦の猫島

「石見国分寺」の堂塔が太陽を遮り、「唐」の作柄に影響したため、「唐」から「赤猫」が嵐に乗じて一夜でやってきて、「国分寺」を焼き払おうとするのだが、「唐金沖」まで来たとき、「日本の犬」がこの「猫」を見つけて追いまわし、もろともに凍てつく海に飛び込んで死に、そのまま「猫島」 と「犬島」になったと云う話。

(文責・筆者)

上記の伝説で「猫島」「犬島」と呼んでいるのは、もちろん「佐渡」で云う「猫岩」などとまったく規模の変わらぬものである。敢えて云うならば、こちらの「猫島」は、「佐渡の猫岩」のようには、「猫」の形はしていない。

さて、「佐渡」と「石見」の伝説との間にある「地形変成」譚としての類似は、かなり明らかであろう。また、どちらも「海中の島/大岩」になると云う点でも共通している。そして「石見」の「猫島」の方が形態上「猫」に似ていないと云うことからも、二つの「地形変成」譚を、形の類似から来た偶然の一致として一笑に付すことも出来ない。

しかし、「佐渡の猫岩伝説」を挟んで、目を「長野」に戻すと、何よりもこの「石見の伝説」と「塩田平の唐猫伝説」との間の構造的な類似は、目を見張るばかりである。「猫」の善悪の立場 (語る側から見た) こそ逆転しているが、「唐 (海の向こう) から来た猫」と云う主モチーフの他に、「作物に対する害」や「二匹の敵対する動物の追いかけ合い」、それに「水死」と云う、大きなモチーフが「塩田平の唐猫伝説」と共通しているのは、俄然、注目に値する。「岩鼻」の聳え立つ岸壁を崩すと云うモチーフも、巨大な「国分寺」の堂塔を壊すと云うモチーフと、緩くだが、関連しているように思われる。

その上、上に挙げた三者に共通しているのが、それぞれの伝承に登場する「猫」の象徴的な役割である。いずれの場合でも、「地形変成」の最初の原因素として「猫」は存在しており、物語の中では「変成」を内包する兆しとしての位置に置かれている。そして、「猫」の具体的な行動の描かれ方に関しても共通した特徴がある。それは、常に中途で行動の目的遂行を遮られると云うことである。「篠ノ井の猫」も「佐渡の猫」も「石見の猫」も、みな鼠を追うなり、見張りをするなり、「国分寺」を焼くなり、それぞれの目的を持った直線的な行動を「宙吊り」にされ、首尾半ばにして、カタストロフィックな収束へと物語を導いているのである。

これらの説話で、「猫」は純粋に「変成」の発端に過ぎず、事件全体の経過の発端とはなっていないのである。にも関わらず、その「変成」を通して、最終的には事件全体の収束を呼んでいる、と云う点でも不思議な話素となっている。そう云った意味では、「猫」は、主要なキャラクターに見えつつ、実はその話における「変成」の媒介者として屹立しているばかりなのである。言い換えれば、「変成」の過程や結果などの具体的な形象を表すのではなく、「変成」と云う抽象的な概念そのものを表象しているとも云えそうなのである。それは「パンドラの箱」や「浦島太郎」の「玉手匣」のように、それ自体は空っぽの記号として存在し、それに触れた (開けた) 瞬間に、豊かな意味空間を解き放つかのようである。そして、その点でも「諸物/概念」や「時間」と云った特定の意味を指示していた前記の二つの「箱」よりも、「変成」そのものを指示する「猫」の方がさらに抽象度が高いとさえ云えることは、今後の議論の展開で自ずと見えてくる事実だと思う。「地形変成」は、飽くまでも「猫」のもたらす「変成」の極く小さな一局面に過ぎないからである *。

* 竜宮の猫---「熊本県」の「天草地方」には、「天草版・浦島太郎」とも云うべき「竜宮の猫」の話が伝わる。実際には、「浦島太郎」よりも、よほど「はなたれ小僧様」の話に似るのだが、神様に薪を差し上げると云う善行の返礼に「竜宮」に招かれ、帰りに不思議な土産をもらうと云う点で共通している。ただ、この説話では、主人公がもらうのは「金の糞をひる猫」であるのが、筆者の興味を引くのである。この猫も、結果的に貧乏人を富豪へと「変成」させる契機となると云う意味で、やはり「変成」を象徴している。原話は、濱田隆一 (1932) 「肥後天草島の民譚 (四) 」『郷土研究』六巻三号、郷土研究社に所収。同工の説話が、「長崎県・南高来郡・湯江村」 (現・島原市) でも伝えられている (山本靖民、1929) が、これは前記の説話と同じ一続きの「天草・島原地方」のことであり、隣県とは云え同一のお話だと云えるだろう。ちなみに、「沖縄」にも「黄金小猫」と云う類話が伝わる (下田、1984) 。「福岡県」にも類話が伝わる。

しかし、議論を理論的な方面に導く前に、もう少し具体的な話しを尽くしておかねばならないだろう。そこで、話題を三つの「猫」譚の類似性の話に戻すとしよう。これに関しては、もちろん、この程度の類似などさしたることはないのではないかと思われる向きもあろう。しかし、上記の類似の特異性を理解するために、全国に点在する「唐猫」の分布の貧困と、それら同士の類似の乏しさを振り返ってみれば、小さな類似でも大きな意味があることは一目瞭然となる。

そこで「唐猫」と云う言葉が、各地の伝承や遺物の名前などに登場する事例を探ってみると、筆者は一都二府十三県において、そのような事例を見つけることが出来た。具体的に挙げると、「青森県」「岩手県」「宮城県」「茨城県」「東京都 (三宅島) 」「神奈川県」「静岡県」「新潟県」「長野県」「愛知県「大阪府」「京都府」「兵庫県」「愛媛県」「熊本県」「鹿児島県」の十六の都府県である。探せば、きっともっとあろうかとは思うが、いまのところ、この数が筆者の調査能力の限界である。しかも、これらのうち「神奈川」「新潟」「大阪」「京都」のものは明白に「中古文」の文献的な意味 (『枕草子』『源氏物語』『更級日記』などの系譜) での「唐猫」を継承した語彙と見ることが出来、「長野」などに見られる、「変成」を具象化した記号としての「唐猫」とは根本的に概念が違っていると思われる。「兵庫」の例は、単に他の言葉から転訛したのではないかと疑われているため、現在のところ、評価が難しい。それでも、それらを網羅すると、以下の二つの表のようになる。

表1. 全国の「唐猫」伝承 (改訂版)
府県伝承地内容 etc.
青森津軽地方昔話の化け猫譚に「唐猫」登場。
青森津軽地方三毛猫を「カラネコ」と云う。 (『日本方言大辞典』)
青森津軽地方ねんねこ ねんねこ 寝えたこへ
  寝んねば 山がら モコぁ 来らね
  姉さま育でだ 唐猫
 (工藤・斎藤、1963)
青森〽かささき看板、唐猫コ、
姉コそだでた、ぶぢ猫。
 (北原、1949)
岩手気仙郡
三陸町
 (現・大船渡市)
「唐猫」の「猫檀家」伝承。
岩手盛岡市濃い茶トラを「カラネコ」と云う。
岩手三陸地方白黒のブチ猫を「カラネコ」と云う。
宮城南三陸町
歌津
田束山の「カラ猫」伝承。
宮城丸森町
水沢
「カラ猫」の「猫の踊り」譚
宮城〽仙台で、仙台で、大町ころの中頃で、
鼠一疋つかまえて、月代剃って髪結うて、
牡丹餅売りに出したれば、隣の唐猫ちょっと出来て、
牡丹餅がらみに占め込んだ、占め込んだ。
 (北原、1949)
秋田茶トラを「カラネコ」と云う。
茨城下妻市
高道祖
「唐猫塚」の伝承が二つ。
1) 「猫の踊り」系
2) 「椀貸し淵」系
東京三宅島泣く子に「薬師様のカラ猫だぞ」とおどかす。
神奈川称名寺
千光寺
「金沢猫」の祖としての「唐猫」伝承。
静岡御殿場市赤子に取り憑いて高熱を出させる「フーライ猫」を
退治するのに「カラネコ」と云う罠を使った。
新潟柏崎市
女谷・鵜川地区
高原田・下野
「重要無形民俗文化財」の「綾子舞」の狂言「唐猫」。
帝の大切にしている「唐猫」がいなくなり、
主人公・平六は、父親がそれを隠していることを知り、
父の命を助けるために帝に働きかけると云う筋。
新潟佐渡黒猫を「カラネコ」と云う。 (『日本方言大辞典』)
岐阜東飛騨地方鼠や小鳥を捕るための罠を「からねこ」と云う。
(『日本方言大辞典』)
長野別表参照別表参照
愛知別表参照別表参照
京都浄蓮寺
附近
浄蓮寺附近の猫塚に葬られているのが「唐猫」とも。
『雍州府志』陵墓門・愛宕郡にある「猫塚」に関して、
関靖 (1938) 『かねさは物語』は「私は是も亦唐猫を
葬つた塚ではなかつたらうかと考へる」と記している。
「金沢猫」からの「関」の個人的な術懐と思われる。
大阪四天王寺「猫の門」の「眠り猫」などと呼ばれるが、元文四年
(1739) 『四天王寺伽藍記』には「からねこ」とある。
兵庫たつの市「搦手谷」が「唐猫谷」に訛ったとも。
『西播怪談実記』巻四ノ十一に
「城の山唐猫谷にて山猫を見し事」と云う記事がある。
愛媛新居浜市地形地名。「唐猫鼻」。
熊本荒尾市地名。「熊本県荒尾市水野字唐猫」。
同市内「中一部」に「猫宮大明神」の伝承あり。
宮崎宮崎市高岡個人の祭祀する祠「カラネコ様」。木像あり。
鹿児島霧島市
国分敷根
明治四十四年 (1911) 三月二日『秋田魁新報』に、夢の
お告げで「唐猫」の木像を発見したと云う記事あり。
旧・姶良郡敷根村。
鹿児島霧島市
隼人町内
国分八幡
「本藩の俗、神前の隼人狗をから猫といふは
狛犬より訛ことゝ見えたり

白尾国柱 (1812) 『倭文麻環』巻十一より
鹿児島日置市
東市来町
大字湯田
稲荷神社境内。自然石塔婆の表面に「正徳五乙未天 (1715) 」「奉建立以庚申供養唐猫一宇也」「二月吉祥日」とある。
狛犬のこと。
鹿児島鹿児島郡
三島村
竹島
聖大明神社。社殿前に石造の「唐猫」が一対。
正徳五年 (1715)
鹿児島「唐猫」は「狛犬」の方言名。
 (小野、1973)
番外近松門左衛門 (1701) 『唐猫変成男子』元禄十四年
一溪庵市井 (1805) 『復讐奇談・七里濱』文化五年
後者には、「唐猫の香器」。挿絵では白黒のぶち猫。

表2. 長野県・愛知県の「唐猫」伝承 (改訂版)
県名伝承地内容 etc.
長野上高井郡
高山村中山
山田大杉神社。本殿の羽目板に「唐猫」の絵。
「唐獅子」と呼ぶ人もいる。
長野上高井郡
高山村高井
浄教寺。村指定文化財の「十六羅漢の欄間」に、
「唐獅子」と「唐猫」の彫刻。
長野長野市篠ノ井
塩崎字唐猫
軻良根古神社。「篠ノ井の伝説」
長野大町市社宮本仁科神明宮の「唐猫様」。
長野東筑摩郡
筑北村坂井真田
修那羅峠・安宮神社の「唐猫大神」。
長野小県郡
青木村田沢
子檀嶺神社。文明七年 (1475) 作銘の「唐猫」一対。
長野上田市
富士山
唐猫社。北二キロに猫山観音堂あり。
長野上田市保野鼠除韓猫明神。鹽野神社の境内社。
長野東筑摩郡
山形村上竹田
建部神社。木造寄木造の「唐猫様」一対。
長野東筑摩郡
山形村小坂
諏訪社。元熊野社の石造の「唐猫」一対あり。
『村誌』には諏訪社自身の瓦製の「唐猫」一対の
記述もあるが、現在は行方不明。
長野塩尻市
上西条
常光寺。
護摩堂の秘仏「唐猫」 (非公開) と、
裏山「飯綱大聖不動堂」脇の「唐猫」の石碑。
長野塩尻市
北小野
木造の「唐猫」一対。資料館に展示。
愛知豊川市
御津町
赤根百々
法住寺。伝「左甚五郎」作の「唐猫」彫刻。
愛知岡崎市
宮地町
馬場
糟目犬頭神社。石造の「唐猫」一対。
愛知名古屋市
中区大須
大直禰子神社。「おからねこ」の伝承あり。
愛知魚の「アカザ」のことを「カラネコ」と云う
 (梅村、1993)


図 2. 「カラネコ」の分布 (旧版)
「カラネコ」の分布

直接「唐猫」の語は登場しないものの、「唐」の国との関連の中で、「猫」が語られる伝説は、既に紹介した「石見の伝説」以外に、上記の表1. に付記した「熊本県・荒尾市」の「中一部」に伝わる「猫宮大明神」の縁起がある。これも、以下に簡略に紹介しよう。

猫宮大明神


「唐船」との貿易で栄えた「一部村」の「せなが長者」は、どんな犬猫にも負けぬ強い猫を飼っていた。あるとき、「唐船」の船主の飼っている無敵の犬と、長者の猫とで勝負させて、飼った方が相手の財産をもらうと云うことになった。猫と犬は凄惨な闘いの末、猫が勝ち、犬は死んでしまった。長者は「金の茶釜」を手に入れたが、自慢の猫は、闘いの怪我が元で、数日後に死んでしまった。長者はこれを悔やみ、祠を建てて猫の霊を慰め、これが「猫宮」となったと云う。*

(文責・筆者)
 
* この他にも、1) 漁師同士の争いだった、2) 漁師の家で大切にしていた三毛猫を祀った、などの異伝もあるが、筆者は、こちらの方が古い形を遺しているのではないかと考えている。これは、各地に無敵の犬と奇怪な猫との対決と云う話素を含んだ話が、猟師伝承として点在しており、民俗レベルでは猟師と漁師は、しばしばパラレルの関係にあることが知られているために、筆者が抱いている感想である。おそらく、現在の「猫宮大明神」の伝説は、原話のイメージが地元の特定の旧家と結びつけられることで、「長者伝説」と合わさる形で再形成され、伝承されたのではないかと思う。
 
これは余談なのだが、この「猫宮大明神」の伝えと、「天草地方」の「竜宮の猫」 (二つ前の注を参照) の伝えとの間には、両者が見かけ上は全く似通っていないにも関わらず、強いパラレルが存在している。
 
唐 (海の向う)外界との接触竜宮 (海の向う/底)
金の茶釜 (猫の勝利)福の授与金の糞をひる猫
猫の死福の喪失猫の死
猫を埋め、祠に祀る喪失への対処猫を埋める
火除け・鼠除け (家財の保護)後日の加護黄金がなる南天が生える

ここでも双方の説話において、「猫」は純粋な「変成」の発端として、事件全体の経過の発端とはならずに、しかもその「変成」を通して、最終的には事件全体の収束を呼んでいる、と云う意味では、既に筆者が述べたように、「猫」は、説話中の「変成」の媒介者、あるいは「変成」そのものとして、自らを表象しているのである。したがって、「竜宮の猫」の話と「浦島太郎」の昔話が類似していることと、「金の糞をひる猫」が「玉手匣」と同様の象徴性を有しているのは、偶然ではなさそうなのである。

さて、この「猫宮大明神」の伝承の面白いところは、同市内の近く* に「唐猫」と云う「字 あざ 」があることであろう。「猫宮」の縁起では犬こそ「唐」の犬だったが、「猫」に関しては特にどこの猫とは語られていない。しかし、近くに「唐猫」と云う地名が残っていると云う事実を、この伝説とは無関係だと云うことにして不問に付すわけにはいくまい。この縁起は、「変成」譚としての性格はやや薄れてしまっているが、原型は「長者 (没落) 伝説」だったのではないかと疑わせる要素もあり、その意味では「変成」譚の名残は見られる** 。あるいは、地名に「唐猫」が残るほどであるから、かつてはこの「唐猫」の地に「地形変成」譚があった可能性すらある。そして、それ以外でも、「犬と猫」の闘争と云う主モチーフなどは、「石見の伝説」とはっきり通ずるのである。以上の点から、「熊本県・荒尾市」もまた、「唐猫」伝承地の一つとして考えてもよいのではないかと、筆者は考えているのである。

* 「猫宮大明神」があるのは「荒尾市一部」の「中一部字猫宮」なのだが、この「一部」と隣りの「水野」が国道208号・三池街道で接する辺りが「水野字唐猫」の地である。二つの土地は近接し過ぎていて、無関係と判断する方が証明を要するだろう。

** 「長者 (没落) 伝説」に関しては、「鳥取」の「湖山池」に伝わる「湖山長者」と「猫薬師 (干猫薬師) 」の話があり (荻原、1951 etc.) 、構造的には上記の「猫宮大明神」の伝えと強い類似性を示している。

さて、先に掲げた二つの表を一見すれば分かる通り、「唐猫」伝承に関しては、やはり、「長野県」の圧倒的な事例の多さに目を見張らされる。表1. を見た限り、今のところ、「長野」は、「唐猫文化圏」 (仮称) の中心地であると云っても間違いはなさそうである。しかも、面白いことに県北に事例が豊かで、南に行くと、その数は小さくなっていくのが見て取れる。これは南に隣接する「愛知県」が、三つとは云え、事例の数では全国で第三位であるのを考えると、やや奇異な現象と云えるだろう。そして、この「長野」県内の南北差と、「唐猫」伝承が「長野県北」と南隣りの「愛知」に色濃く伝わっていると云う単純だが一見矛盾する事実は、この伝承が「天竜川」を伝って両県の間を伝播したのではないと云う可能性を示唆しているともとれる。だが、このことに関しては、現時点では確定的な議論はしないこととする。この議論に本格的に手を付けるのは、もう少ししつこく「伊那地方」における「唐猫」の存在の有無を調査してからのこととしたい。

*

ここで視点を変えて、全国の「唐猫」伝承の分布を観察すると、「長野」を中心とする「中部地方」を除くと、「唐猫」の伝承地は、我が国の末端部に点在している傾向が見て取れる。「柳田國男」が昭和五年 (1930) に発表した『蝸牛考』において提唱したように、言葉は文化の中心で発生して次第に周囲へと広がっていくが、中心部では言葉の変遷が早く、周縁部では遅いため、新旧の言葉の分布は、文化的中心地から同心円状に層をなして残存する傾向にあることが、しばしば観察されている。

「唐猫」の場合、「長野・愛知」圏を除けば、大まかに周圏論的な分布の傾向を残していると云える。しかも、一方の端が「津軽」や「気仙」で、他方の端が「熊本」や「鹿児島」であることを考えると、その伝播の歴史は必ずしも新しいものではない可能性すらある。もちろん、「方言周圏論」は、万能の仮説ではなく、他々例外も見られる上、様々な副次的要因が働くことによって、伝播経路が変形されることもある。「唐猫」伝承の場合も、何故、「長野」周辺のみに色濃く残存したのかを読み解いていかなければ、早急に「周圏論」的な伝播があったとは断定出来ないのである。
 
* ただし、言語や文化の伝播に関して、山岳・高地地帯が、地理的な辺境と同様に働くことは、しばしば観測されている。元々、「周圏論」は、「中央文化」の権威と優位と云う点の他に、「政治経済的な僻地=地理的な周縁」と云う前提に立脚し、周縁地の方が交通などの発達が遅れ、かつ経済活動などの活発さが中央に劣るため、文化的な交流や交換が激しくないと云う要因にも支えられているのである。このことを考えれば、山岳・高地も、地理的周縁と同様の性格を有していることは明らかなため、「長野県」に「唐猫」伝承が多く残っていたとしても、それ自体は、「唐猫」の「周圏論」的な伝播を否定することではない、とも理解できる。
 
念のために、「方言周圏論」と反対の立場に立つ、「方言孤立変遷論」についても、触れておこう。これは「金田一春彦」が主に提唱したものと記憶しているが、中央から遠く離れた地方では、中央の言葉の影響が薄くなり、伝わりにくくなると云う前提から出発して、それ故に地方ではその言葉が地方独自の変化を遂げていくと云う考え方だったと思う。この考え方の場合、「周圏論」とは逆に、同心円の外側の地方の言葉ほど新しいと云うことになる。ただし、この理論は一見正反対に見える「周圏論」と両立することも可能で、しかも「周圏論」が「語彙」の変化に強みを発揮するのに対し、「孤立変遷論」は、「音韻」や「アクセント」などの変化を見るのに有効なのが知られている。

「唐猫」伝承の場合は、明らかに「語彙」の変化に注目すべき対象なので、「周圏論」的な視座が、当てはまる限りにおいては、その有効性を疑う根拠は薄い。今後、調査が進むに従って、どのような結論が出るかは分からないが、取り敢えず、その過程において、「周圏論」の見方を念頭に入れておくのは、無駄なことではないと思われる。



3. 「唐猫」と「泉小太郎」伝説

結局、筆者が「唐猫」伝承の全国的分布と、「長野」での分布などを概観して思ったことは、「唐猫」の伝播には異なる二つの時期に、異なる二つの「唐猫」の概念が、これまた異なった経路で広まったのではないかと云うことであった。仮に、ここでは筆者が想定した「唐猫」に関する二つの伝播経路に関して、時代的により早い方を第一波、時代がより下って伝播したものを第二波と呼ぶこととして、この二つの異なる時期の伝播と云う仮説を考えるときにも、「塩田平の唐猫伝説」は極めて大きな有用性を有するのである。

具体的な「唐猫」の遺物は別として、「伝説」面から見た場合、「長野県」を代表する (と云うことは、我が国を代表する) 「唐猫」伝説は、間違いなく既に紹介した「塩田平の唐猫伝説」であろう。

ちなみに、河川の合流する出会いの地などで、湖や海を裂いて土地を開墾したと云う、規模の大きい「地形変成」伝説の典型を一般に総称して「蹴裂伝説」と云い、これは各地に伝えられているのだが、「塩田平の唐猫伝説」も明らかにこの類型に属するものである。敢えて、「塩田平の唐猫伝説」の問題点を挙げれば、病魔・害獣調伏に話の力点が置かれていて、耕地開拓の色合いが薄れてしまっており、その意味では典型的な「蹴裂伝説」とは云えないかも知れない、と云うだけのことである。しかし、興味深いことに、「塩田平の唐猫伝説」のこの欠落を補うかのように、「松本・安曇平」には、「唐猫」の伝説よりもはるかによく知られた「蹴裂伝説」がある。「泉小太郎」伝説である。

この伝説は、第四代「松本藩主・水野忠恒」の命により、家臣の「鈴木重武・三井弘篤」が享保九年 (1724) に編修した『信府統記』の「旧俗伝」の中にも記されている民譚で、かつて昔話研究家であり、児童文学者としても活躍する「松谷みよ子」氏によって「龍の子太郎」と云う名で創作民話が発表され、後にアニメ化されたり、「まんが日本昔ばなし」のタイトルのアニメに使われたりして、一躍有名になった話の原話である。以下、『信府統記』の記述に沿って紹介する。

泉小太郎伝説

昔、「安曇・筑摩」の二郡の間は広大な湖水で、そこに「犀竜」が住んでいた。その東の「高梨」には「白竜王」と名乗る者がおり、「鉢伏山」で「犀竜」と交わって子をもうけた。「日光泉小太郎」と名づけられた子は、「放光寺山」 (現・松本市城山) 辺で立派に成長した後、恋しい母を訪ねて、「熊倉下田」の奥の「尾入沢」 (現・松本市島内平瀬/田沢の境) で、巡り会った。

「諏訪大明神」の変身であることを告げた母の「犀竜」は、自分の氏子を繁栄させるために、「犀乗沢」で「小太郎」を背に乗せ、「山清路」 (現・東筑摩郡生坂村山清路) の巨岩を突き破り、さらに下流の「水内」の橋の下 (現・上水内郡信州新町久米路橋附近) の岩山をも突き崩し、湖の水を落して、「千曲川」から「越後」の海まで乗りこんでいった結果、「松本・安曇平」に、人の住める大地が生まれた。そして、「小太郎」と母「犀龍」が通った「犀乗沢」から「千曲川」と落ち合うところまでを、「犀川」と呼ぶようになった。

その後、この土地には田地が開け、「泉小太郎」は「有明の里」 (現・北安曇郡池田町十日市場) に住み、子孫は繁栄したと云う。

参照・鈴木重武・三井弘篤/編 (1724) 『信府統記』「旧俗伝」享保九年
小松芳郎/解題 (1996) 『信府統記』国書刊行会

ここら辺りで、先に断っておきたいのは、「泉小太郎」伝説と「唐猫」伝説のどちらがより古くて、どちらがより新しいかを決定することは、「唐猫」の伝播の跡を追うに当たって非常に重要な土台となる作業なのだが、その決定を下すのは必ずしも容易なことではない、と云うことである。と云うよりも、そもそもこの二つの伝説が順序に関わらない並立の関係にではなく、時代のズレに基づいてほぼ重複する関係にあると云う定かな根拠さえ見つけられるかどうかは分からないのである。

したがって、この二つの伝説の新旧を純粋に抽出するのが筆者の目的ではなく、その過程で両者がどのように関わり合って、類似するモチーフの伝説を、異なる現在の形で伝えるに至ったかの歴史的な状況を把握するのが狙いである。特に、「塩田平の唐猫伝説」の「唐猫」が、「長野」の中央部よりも北に広く見られる他の「唐猫」と果たして関係するものなのかを見るためにも、この「唐猫伝説」が他の伝説とどのように絡み合うかを見るのは極めて大切な手続きだと云える。

そして、そのような絡み合いを想定するに当たって、筆者にとって重要な指標となっているのが、「上田市国分」に伝わる「小太郎屋敷」伝承の存在である。この説話は、筆者が別途に「弥三郎婆」あるいは「鍛冶屋の婆」の系統の説話を収集しているときにたまたま知ることになったもので、内容的には典型的な「鍛冶屋の婆」話である。以下、簡略に紹介する。

小太郎屋敷


昔、ある「六部」が「根津村」の「長命寺大日堂」にお篭りしていると、子猫が沢山集まってきては、「国分寺」の「小太ばば」来なけりゃ踊りにゃならん、と云って踊り、やがて大きな怪猫が嵐と共に入ってきて子猫達と共に踊り狂った。「六部」が仕込杖で怪猫を刺すと、血を滴らせて逃げていった。

翌日、「小太ばば」が「国分寺」門前の「小太郎」の家の老婆であることを知り、訪ねてみると、老婆は昨日足を痛めて寝ていると云う。「六部」がお薬師様の御加護を祈願して「小太郎」の家に乗り込むと、老婆は怪猫の本性を現して「尾野山」に逃げ込んだ。探すと、家の縁の下から老女の白骨が出た。「小太郎」は薬師様に願をかけ、「六部」の助けで「尾野山」に飛びつけて怪猫を仕留めた。今も「国分寺」の裏に「六部」の石塔があり、「小太郎屋敷」と云う地名も残っている。

細川修・松本清人 (1987) 「第十二編・口頭伝承 第三章・世間話」
『長野県史 民俗編 東信地方 ことばと伝承』一巻三号、長野県史刊行会、pp. 532-533

この「小太郎屋敷」の伝説は、「泉小太郎」の伝説とは、ほとんど接点がないものかも知れない。ただ、そうだとしても、「泉小太郎」伝説の優勢する地域の外縁にあって、「小太郎」と云う主人公が登場しているだけでも、仮にわずかだったとしても、そこに関連がまったく存在しなかったと云うのは、やや説得力を欠くように思われる。したがって、この説話を、また一つの「鍛冶屋の婆」伝説だとして、「唐猫」と特別からめることなく等閑視することは許されないのである。

そこで、世に流布する典型的な「鍛冶屋の婆」「弥三郎の婆」の伝承と、「小太郎屋敷」の伝承を比較した時、そこには非常に重要な点で相違があることに気づかされるのである。それは主人公としての「小太郎」の存在である。あらゆる点で、「鍛冶屋の婆」「弥三郎の婆」の典型譚に相似する「小太郎屋敷」伝説ではあるが、大切な主人公の位置づけと云うか、主人公そのものの設定が異なっているのである。「鍛冶屋の婆」説話ではほとんどの場合、主人公は廻国の人物 (例 : 僧、六部、飛脚、武士 etc. ) などであり、「弥三郎の婆」では当然ながら「弥三郎の婆」本人が主人公なのだが、「小太郎屋敷」では「六部」は脇へ押しやられ、神通力を得て怪異を退治するのも「小太郎」本人の役割になっているのである。このことを根拠の一つとして、筆者は、「小太郎屋敷」の説話の基底には、退化した「泉小太郎」伝説か、あるいはその原伝説が流れていると考えるのである。

そもそも、主人公の件を除いても、この二つの「小太郎」伝説の間には、一見して分かるほどの類似点はないにも関わらず、その基底の構造にはいくつか共通のモチーフが含まれているのである。以下、そのような点を四つ程挙げてみよう。


1) 主人公と母親の話である。
2) 主人公の母親は怪異に変化する。
3) 主人公は、神仏 (諏訪明神・薬師如来・観音菩薩 etc.) の加護を得る *
4) 主人公は、話のクライマックスで、神通力を得て、空を飛ぶ。

*
「泉小太郎」伝説は、「安曇野」全域に伝わっているが、そのような代表地の一つに「大町市」にある「大町ダム」附近の地がある。この近くには、「小太郎」が、母の「犀龍」と会った「尾入沢」や、「泉小太郎」の名前の元になったと云う「大町市常盤字泉」の地などがある。「小太郎」は晩年、「大町市常盤字仏崎」の「観音堂」の裏山に姿を消したと地元では伝えられている。ここにも「仏」や「観音」とのつながりが見られる。

さらに付加えるならば、「泉小太郎」伝説は、「松本盆地」から山一つ越えて「安曇野」の北、「上田盆地」に移ると、「小泉小太郎」伝説として別の形を有していることが広く知られている。そして、上記の「小太郎屋敷」の伝説は、実は、その「上田盆地」の「東御市祢津」から「上田市生田尾野山」にかけての地域に伝わる話なのである。

「泉小太郎」伝説が「松本」と「上田」に分かれて、異なる様相を伝えていることに関しては、早くは「柳田國男」が『桃太郎の誕生』の中で言及しており、後に「松谷みよ子」らによって両者を統合する形で創作民話『龍の子太郎』が完成して世の喝采を浴びると、「小太郎」伝説は、俄然、知名度を上げることとなったことは既に述べた。

この二つの伝説について、「やまなみ芸術教育の会」の「深町修司」氏が簡潔にまとめているので、ここでは氏の文をお借りして読者の御参照に入れることとする。

 
ところで小泉小太郎の話の場合は、上田、小県地方のものと、松本、東筑摩地方のものとが、大きな特色を持って二つに大別できる。

つまり上田、小県地方のものは独鈷山の寺に夜な夜な通った、大蛇の化身である娘さんが産川上流で赤子を産み落とす。その子が流れ下ったのが産川で、下流の小泉村のお婆さんに拾い上げ育てられ、小泉小太郎と名づけられる。しかし彼は毎日大食をしてたくましい少年に成長するが、仕事らしい事は何一つしなかった。あるときお婆さんに頼まれて小泉山へ薪取りに行き、山にある限りの萩の木を取り集め束ねて持ちかえる。お婆さんが萩の束を解いたとたん萩がはぜくりかえって、家いっぱいになりお婆さんは押しつぶされて死んでしまう。

この様に小太郎の産まれ生い立ちについては伝承されているが、大人になってどんな生き方をしたのかは語り伝えられていない。

一方ここから西南の方に山をいくつも隔てた松本、東筑摩地方にある話は成長した小太郎が母である犀竜とともに岩山を切り開いて、当時湖であった松本平の水を千曲川まで流しだした。そしてこの川が犀川と呼ばれるようになったと言われ、彼は湖の水を流し出すために大活躍をした並ならぬ英雄的人物として伝えられている、しかしこちらでは彼の誕生のドラマも、少年時代の事も語り伝えられていない。

深町修司 (2001) 「民話紙芝居『小泉小太郎物語』―21世紀の子どもらへの贈り物―
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kotaro/kaisetsu.htm
 
「泉小太郎」伝説が、「小太郎」の幼少年期の伝えを欠くのに対し、「小泉小太郎」伝説が逆に、「小太郎」が長じてからの伝えを持たないのは、上に確認した通りである。しかし、「柳田國男」が「犀川盆地の泉小太郎と、元は一つであったろうことが注意せられる」と述べているように、この二つの伝説がかつては一つの「蹴裂伝説」を構成していたことは、ほぼ間違いないものと見なされている。

そして、この「小泉小太郎」伝説と、同じ「上田」地域の「小太郎屋敷」の伝承を比較すると、重大な共通点が上の四点以外にも現れるのだから面白い。それは「母殺し」のモチーフである。「小泉小太郎」の場合、正確には、育ての親の殺害と云うことになろうが、「小太郎屋敷」においても「小太郎」が殺すのは「母」に化けた「猫」である。しかも、「松本平」の「泉小太郎」伝説は、「湖」に住む「犀竜」が母なのだから、「湖」の破壊と枯渇は、「母殺し」のモチーフの変型だと見なすことさえ出来る。実際、「泉小太郎」伝説のヴァリエーションには、岩山を突き崩した「犀竜」が、その後に昇天すると云う伝えのものも存在するのだから、物語のクライマックスは、ある意味で母なる「犀竜」の死を象徴的に表わしているとも云えそうである。

ところが、両者の潜在的な関連性に対して、敢えて重大な異論を唱えるとするならば、「小太郎」伝説と「小太郎屋敷」の伝説との間で、大きな筋で共通しないのは、後者の伝説では、「化物退治」のモチーフが主題となっているのに対して、前者にはその要素が欠落していると云う点を挙げることが出来る。これはまさしく重要な相違なのだが、これも「母なる竜」が「断崖」を突き崩して湖の水を流すと云うモチーフを、河川の氾濫と奔流を表わしていると見なせば (そして、明らかにそうなのだが) 、これに乗り、御して、里に恵みをもたらすと云うモチーフは、一般的な「悪龍退治」の物語とさして大きな違いがないとも云えることになる。このことから、「小太郎」伝説もまた、「化物退治」譚の一変型だと見なすのは、意外にも容易なのである。

一方、「塩田平の唐猫伝説」に目を向ければ、「化物退治」のモチーフは歴然としており、三者を比較した場合、それらの基底には、同様のイメージが流れていると仮定することも無理ではないのである。いずれにしても、二つの「小太郎」伝説は、もう一つの「小太郎」伝説、すなわち「小太郎屋敷」の伝えと、根底の部分においてイメージの連環を保有しているだけでなく、「塩田平」の「蹴裂」伝説とも深層ではつながっている可能性が高いと云えそうなのである。

そして、この三者の時系列上の配置を考えて、それぞれを互いと比較させた時、これらの伝説の発生過程に関して、次のような仮定的な推論をすることが可能になる。


*

だが、その推論を開始する前に、三者の間で最も共通する性格に乏しい「小太郎屋敷」の伝えの扱いを決めておかなければならない。仮に、「小太郎屋敷」伝承を「泉 (小泉) 小太郎」伝説 (以下、単に「小太郎伝説」と記す) から派生したか、影響を受けたものとして捉えるならば、当然それは時系列的には「小太郎伝説」よりも後に成立したと云うことになる。一方、「小太郎伝説」と「小太郎屋敷」伝承が同一の起源から別の過程を経て形成された並立関係にあると仮定するならば、後者に「塩田平の唐猫伝説」との重大な共通項である「蹴裂伝説」の要素がまったく見られないために、「小太郎伝説」と「小太郎屋敷」伝承が分岐したのは、前者が「塩田平の唐猫伝説」と共通する要素を帯びる以前である蓋然性が極めて高いことになる。したがって、いずれの場合にあっても、三者の発生過程を見ていくには、まずは「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」を比較する作業から分析は開始するのが賢明だと云うことが明らかになる。

さて、そこでこの二者の比較をすることになるのだが、その争点となるのは、やはり両者に共通する要素と相違する要素をどのように理解していくかと云うことになる。抽象的な言い方で恐縮なのだが、二つの説話の間で共通する点も相違する点も、どちらもそれぞれの説話に本質的な部分であるため、両者が単純に類縁関係にあると考えるよりは、異なる要素を持った二つ以上の (おそらくは二つか三つの) 伝承が絡まり合ったものと考えるのが妥当かと思われる。いずれにしても、仮定出来るのは、大きく見て四つの混合・発生過程である。

1) 元々、二つの伝承は、二つの異なる伝承に発している。
2) 元々一つの伝承だったものが、二つの伝承に分かれた (=単純な類縁関係) 。
3) 元となる一つの伝承に、二つの異なる伝承が触れることで、類似した二つの伝承に変化した。
4) まったくの偶然で、互いに完全に無関係なまま、二つの伝承が発生した。

議論を始めるに当たって、4) の偶発的独立発生説は、取り敢えず除外しても問題はなかろう。隣接する地で、これだけの共通項を有する伝説同士を比較する際に、偶発的な独立発生を無根拠に唱えるのは、議論をしないのに等しいからである。今後、独立発生説を支持するのに十分な程の根拠が新たに出てこない限り、この手の議論には触れない。

1) と 3) は、かなり類似する過程だが、3) の過程では、二つの伝承の共通点は、第三の伝承から受け継いでいる形になるのに対し、純粋な 1) の過程では、二つの伝承が接触した結果、両者間の相互作用を通して互いに共通する要素を形成したと云うことになる点で異なる。しかし、互いの伝承以外の要素が影響して、1) の純粋な過程に作用した場合、そこにはその作用の起きた時点によって微妙な差異は生ずるものの、それは限りなく 3) に接近した過程と云うことになる。したがって、3) は、1) のより現実的な一変型と見なすことが出来るのである。

ここで筆者が、何故「現実的」と云う言葉を使用したのかは、二つの異なる伝承の間で、他の要素が加わることのほとんどない純粋な相互作用などが起きる可能性が如何に低いかを想像すれば分かると思うが、それ以上に、仮にそのような相互作用が起きたとして、それだけで「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の間に見られるような、深層の基幹部での類似と、表層での全般的な相違が生み出される可能性は、どう考えても高くないことを考え合わせれば理解してもらえると思う。そして、そのような特徴は、むしろ上記の 2) や 3) により発現しやすいものと云える。

さらに云えば、この 2) と 3) も、ある意味では類似した過程だと云える。何故なら、元々一つだった伝承が二つの派生譚へと分かれるには、その語り伝えられる周囲の環境に影響を受けて変化が生ずることになるため、結果として、二つの異なる環境因の作用を受けて説話内容の変化・分岐は引き起こされるからである。そして、このように記述すると、2) もまた 3) とほぼ同様の過程であるかのように映るかもしれないが、筆者は、二つの伝承の間の相違が、派生分岐と同時進行で形成されたものなのか (すなわち 2) ) 、それとも元から違ったものが、同一の環境因によって類似した影響を受ける結果となったのか (すなわち 3) ) のいずれの過程であるかによって、伝承の派生の歴史的な意味付けは大きく異なってくると考えているため、この二つの過程の区別を極めて重要視するのである。

以上のような考えから、「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の発生過程に関して考えるとき、特に注意を向けるべきは上記の 2) と 3) であると、筆者は考えている。

*

「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」を比較する時に特徴的なのは、両者の伝承圏の地理的な中間地帯に「上田 (小県) 」地域が位置しており、そこに「蹴裂伝説」を完全に欠いた「小太郎伝説」の亜型とも云える「小泉小太郎」の伝承圏や「小太郎屋敷」伝承なども存在し、「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の伝承圏がただ単に連続していると云うよりは、連続しているにも関わらず、同時に、その間には本質的な断絶もが形成されているものと考えられることである。

既に簡単に見たように、「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」は、上記に挙げた発生過程の分類の 2) か 3) に該当する可能性が高いと筆者は見なしているのだが、ここからようやく比較の作業に「小泉小太郎」や「小太郎屋敷」の伝えを参照していくことになる。

ただ、もしも一つの物語が二つに分かれ、その分かれた二つの物語に挟まれることで新たな第三の物語が派生したと仮定すると、その新物語に、前の二つどちらにも含まれない要素が入る込む可能性は一つでも極めて低くなるはずなのだが、「小太郎屋敷」の伝えは「塩田平の唐猫伝説」や「小太郎伝説」のどちらにも属さない話素を数多く有しているため、事実上、この後に行なう考察から、上記の2) の過程の可能性は排除しても大丈夫と云うことになる。

*

「小泉小太郎」の伝承を単純に、典型としての「泉小太郎」伝説と比べると、既に紹介した通り、両者の違いは、主人公の人生史のどの部分を切り取って語るかと云う点に集約される。ほぼ少年期のみを扱う前者と、それ以降のみを扱う後者とで、言い伝えの間に明確な区切りが設けられているのは誰の目にも明らかである。しかし、筆者は、この比較を行なうときに、「小太郎屋敷」伝承や、隣接する「塩田平の唐猫伝説」をも視野に入れることで、物語的な修飾を取り除くと、「泉小太郎」と「小泉小太郎」の伝承の間の最大の差異は、取り扱う主人公の人生史の時点などではなく、より明確に「蹴裂伝説」の存在の有無であると考えるのである。

地域的に連続し、共に同じ水系の「蹴裂伝説」の要素を色濃く残す (主たるモチーフとさえ云える) 「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の中間帯に、「蹴裂伝説」の要素をまったく持たない「小太郎伝説」の亜型及び類縁の説話が存在することの意義は大きい。そして、筆者が類似する二つの伝承の間の重大な断絶と云うのは、この「蹴裂伝説」の欠落のことなのである。

「蹴裂伝説」と云われても馴染みのない人でも、「ダイダラボッチ」「デーダラボッチ」などと呼ばれる巨人伝説についてなら聞き覚えのあることが多いのではなかろうか。元々、「蹴裂」のモチーフは、「ダイダラボッチ伝説」の主要な構成要素なのである。このことについて、「柳田國男」は簡潔に次のように述べている。

これは東国では利根・富士川、九州では筑後の矢部川、奥州では猿ヶ石川、その他多くの水筋において土地の神様の偉勲として伝うるところであって、実際地形を熟知する者には、信じかつ崇めざるを得ない神話の一つであった。
柳田國男 (1933/1942改訂) 『桃太郎の誕生』三省堂

そして、一般的に「ダイダラボッチ」と「蹴裂伝説」の距離が近いと云うことの他に、直接われらの「小太郎伝説」と「ダイダラボッチ伝説」の近縁性を物語るのが、両者にそれぞれ登場する「藤蔓」と「萩」の話素である。

小泉山に萩が一本もない由緒、これは関東などではもっぱら巨人説話に伴なうもので、たとえばダイダラ坊が富士を背負って立とうとして、その藤蔓の綱が切れたゆえ、相模野には藤が育たぬという類の話は、必ず大昔の山作りや蹴裂きの伝説を潤色しているのである。

柳田國男 (1933/1942改訂) 『桃太郎の誕生』三省堂

*

本稿では、「長野県」側の「蹴裂伝説」のみを細かく採り上げているが、実は「上田」から「佐久」、そして隣県の「甲府盆地」へと続く一帯、すなわち「千曲川」本流の上流地帯にも、「蹴裂伝説」は存在している。そして、本稿では詳細を見ることはしないが、こちらの伝説は、「唐猫」とは直接結びつかないものの、実は「猫」の言い伝えとの関連を指摘することが出来るのである。この辺りの事情に関しては、「猫神探訪」の「長野編」が一段落ついたら、「山梨編」に筆を進めて触れていきたいと思っている。ここでは、この地域の「蹴裂伝説」について、その概要が分かる程度にのみ、軽く触れることとする。

「上田盆地」から南東へと下ると、「佐久盆地」があり、「信州峠」を越えると、道はそのまま「甲府盆地」へと続く。そして、太古の「甲府盆地」も湖であったとする言い伝えがある。

有名なのは、「東八代郡中道町上向山」の「佐久神社」の伝説だが、『東山梨郡誌』によれば、二代「綏靖天皇」の御代に、「彦火火出見命」の末裔「向山土本毘古王 むかひやまともひこをう 」が、「長田足 おさだのたる 」などを道案内として「甲斐国」を訪れ、「西山」の「六道仙人」や「右左口 うばぐち 山」に住む「右左弁羅
うさべら 」らの協力を得て、「鰍沢」の南の山を足で蹴って切り開き、湖水を「禹の瀬」から「富士川」に落して、広大な平地を得て国造りをしたと云う。村人は「右左弁羅」を神として祭り、「右左口村」の名の起こりとなった、と云う。「佐久神社」の社伝では、後に王の葬られた地に祀られたのが「蹴裂大明神」とも云われる、今の「佐久神社」だと云う。

『北巨摩郡誌』も同じ伝説を伝えるが、「甲斐国」にやってきたのは「日向土本毘古王 ひむかともひこをう 」と云うことになっている。その後は、村人に稲作の技術を教え、初めは「右左口村」の「向山」で、続いて「北巨摩郡旭村」で米を作らせたのだが、これが「甲斐」での稲作の始まりだ、と同書は伝える。この功によって後に、王は「穂見大明神」として祀られたと云う。

この他にも、「地蔵菩薩」の発案で「蹴裂明神」らが切り開いたとも云うし、「甲府市」の「稲積神社」では、「四道将軍」の一人「武淳川別 たけぬなかはわけ 命」が切り開いたとしている。「甲府市」の「穴切大神社」では、「大己貴命」に祈願して、和銅年中に「国司」以下、多数の人々の力で土木工事をして切り開いたと云う。「韮崎市旭町」の「穂見神社」の伝説では、大洪水で「甲府盆地」が湖水と化したとき、「鳳凰山」に住む「大唐仙人」が、「蹴裂明神」と力をあはせて山を切り開いたとされ、この里の「山代王子」が新しい土地を開墾して米作りの道を教えたと云う。また、「蹴裂明神」とは「安曇氏」の祖神の「日金拆命」で、「治水の神」だとも云う。

こんな伝承の分布を受けて、民俗学の「谷川健一」は、「信州佐久地方」 (信州峠の北側) の「蹴裂伝説」の上に「甲府」の「金桜 かなさくら 神社」もあると云う。要するに、「裂く=佐久」「金桜=金裂く」に通じると云うのである。

鰍沢の蹴裂神社の祭神は、安曇氏の祖神の日金拆命を祀るか、治水の神霊と伝う、と『地名辞書』はいい、けだし延喜式内社の山梨郡の金桜神社や八代郡の佐久神社 (現在石和町) と同神であると述べている。佐久とか金桜とかに裂の意味のこめられていることがこれによっても推察できる。
 (中略)
金桜神社は現在、杣口と御岳の二ヵ所にある。杣口の金桜神社が式内社で古い。御岳の金桜神社は大和吉野の金峰山から移したものであるから新しいが、その「由来記」には、崇神帝の頃に全国に蔓延した疫病の平癒を祈願するために勅願によって建立されたとなっている。この縁起はオオタタネコの故事を思い出させる。オオタタネコはタタラを意味し、銅や鉄の精錬に密接につながりをもつ人物である。

谷川健一 (1979) 『青銅の神の足跡』集英社、pp. 255-256


開墾には鉄器が必需品だから、鉱山開発の絡んだ「蹴裂伝説」でもあると云う。「甲府」の「金峰山」周辺には金山や水晶山などあり、水晶は加工されて今日でも「甲府」の特産工芸品として名が高い。もしも「谷川」説を採るとすると、「日金拆命」と「金桜神社」のつながりは、かなり明白になる。そして、「右左口」と「金桜神社」には、「猫」の伝承も、後世、遺されている。ここに至って、「風雷神」「水神」「鉱山」「地形変成」「猫」と云った、筆者が注目する「猫神」の諸属性が、「甲府」の地にも集まりつどってきた観がある。

いずれにしても、「松本平」「塩田平」に限らず「佐久平」も含めて、「信濃川」水系の上流部には、ほぼ普遍的に「蹴裂伝説」が存在することは事実であり、それが果たして地質学上の歴史的事実を含んでいるかは別として、ある時期にこの地域全体に共通した伝説として存在したことはほぼ間違いないと云える。したがって、「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」の間に断絶地帯が存在するとすれば、その断絶には偶然だけではない、何らかの歴史的事情が絡んでいるのではないかと推測されるのである。

しかも、「諏訪」から「長野」にかけての「蹴裂伝説」が、一定の地域的な広がり、と云うかまとまりを持っているのに対して、「佐久」以南の「蹴裂伝説」は細分化された印象を受ける。開拓に関わったと云われる「神」の数も多く、それぞれの神社にそれぞれの言い伝えがあるものの、地元口碑ではまた別の伝承形があったりもしている。あまり簡単に軽率な推測をするのは誉められた話ではないのだが、さっと見た感じ、これはやはりそれぞれの伝承とその中心となる神を奉ずる社会集団がいたと仮定して、その地域的な統一があまり進まなかったことの結果なのではないかと考えられる。「釜無川」に沿って「諏訪湖」に接近する「韮崎」地域では、開拓の神が「穂見大明神」系に傾くようなのだが、この祭神は、元はどうだったかは置くとしても、いまは「諏訪明神」との距離がやや近くなっているようでもある。

要するに、筆者が云いたいのは、「千曲川」の本流沿いから、やがて水系を変えて「甲府盆地」に至るまで、基本的性格を一にした「蹴裂伝説」が存在していたことと、それが後世、その地域を支配した社会集団によって、それぞれの伝承形に変形されている可能性が高いことだったのである。そして、「甲府」地域とそれ以北とを引き比べたとき、「諏訪」から「長野」にかけての地域には、かつてより同族意識の高い、より大きな社会集団が存在したことが示唆されるのである。当然、その中でも伝承に変異が見られるのは、単に地理地形的な要因だけでなく、何かしらの社会歴史的な分断線が引かれた可能性を浮上させるのである。

*

ここで、話を「小太郎伝説」と「塩田平の唐猫伝説」に戻すこととしよう。これら二つの伝説が同一の説話から発しているものとして筆者は議論を進めているのだが、そもそも何故、「塩田平」までは「唐猫伝説」だったものが、山並み一つ越えて「松本平」に入ると、構造的な位相では類似点も多いとは云え、表面的には異質の説話と云える「小太郎伝説」に姿を変えてしまったのかが、不思議に思われるのである (もちろん、実際には「小太郎伝説」が「唐猫伝説」に変わったのかも知れないが...ここでは変遷はメタファーであって、そのベクトルの方向は問うていない) 。当然のこととして、「塩田平」と「松本平」の間には、地形的な山並みの存在以外に、説話の伝播に対して何らかの阻害要因として働く要素が介在したと考えざるを得ないのである。

このような分断線を引くこととなった大きな要因が、その地域を支配した領主あるいは開拓地主階層の人々が形成する同族集団の疎密や、離合集散だと筆者が考えていることは、既に述べた。そこで、ここでは「小太郎伝説」が、「小泉庄」を本貫地とする「小泉氏」の「始祖伝説」としての性格を有することに目を向けてみたい。正確に云うならば、「信濃」の「小泉氏」の出自に関しては明確に分かっていることは多くないのだが、「戦国末期」に、現在の「上田市」の周辺を本拠地として活躍した一族であることは間違いないらしい。

「泉氏」も、「小泉氏」と同じく「信濃国小県郡小泉庄 (現・上田市) 」を本貫地としたとされ、「清和源氏・源満仲」の五弟「満快」の曾孫「信濃守為公」の後裔と伝えられるが、この辺は実際にはかなり混乱しているのであまり参考にしない方が良いかも知れない。でも、一応、話しを続けると、かの「泉小次郎」の名前で知られる「泉親衡」は「満快」から数えて十代の孫に当たると云う。

「親衡」は、建暦三年 (1213) 、二代将軍「源頼家」の遺児「千寿丸」を擁立して、「執権・北条義時」打倒の反旗を翻そうとしたが露見し、派遣された追捕の兵と合戦の末、蓄電して行方をくらましたことで知られている。後世、その際の武勇が喧伝され、『泉親衡物語』などの「読本」の主人公にまで祭り上げられた。以降、荒唐無稽な伝説が次々と附与されたことで知られる。この人物を「泉小太郎」のモデルに比定する考えが根強くあるが、いずれも根拠はない。後に、現「飯山市」周辺を根城とした「泉氏」は、この末裔だと云われるが、これも確たる系譜がある訳でもない。また、この地域には「甲斐国」の「小泉氏」と云うのもいたらしく、それらの氏族が互いに同根だったのかも定かでない。

問題は、この「小泉氏」の「始祖伝説」が何故、「松本」地域にも広く伝承されているのか、と云うことになる。そして、「小泉氏」の本貫地に伝わる「小泉小太郎」伝説の方が、返って始祖伝説としての「蹴裂伝説」を脱落してしまった形になってしまっているのは何故なのかと云うことである。

第一の問いは、いずれにしても本貫地は「小県郡・小泉庄」とされる「小泉氏」あるいは「泉氏」の勢力圏の捉え方によって、解釈のかなり異なってくる問いかけではある。まず、「小泉氏」の勢力は「松本平」まで及んでいないと云う常識的な立場から見ると、「始祖伝説」としての性格は「上田」地域で後に付け足されたもので、伝説の骨子は「小泉氏」の「上田市域」での台頭とは無関係に、それ以前から存在した可能性が強く示唆される。

一方、「小泉氏」が「泉氏」と同族であると云うことを前提とした上で、「松本」周辺に多くの「泉」地名が残されていることを挙げ、かつて「小泉氏」は南の境を「諏訪湖」に接する版図を領していたか、元は「松本平」の出身か、少なくとも「松本」方面に分散して所領を持っていたかしたのではないかと推測する人もいる。この場合、この一族の「始祖伝説」に当たる説話が「塩田平」から「松本平」「安曇平」一帯に広がっていることは比較的すんなり理解できるのだが、残念なことに、このような版図の話は裏づけはほとんどなく、根拠とて「泉」地名があると云う程度ではいかんせん説得力がない (「泉」地名は、「泉氏」と必然的な関係がある訳でもなく、全国に多く存在するからである) 。また「小泉氏」や「泉氏」の系譜に関しても、既に述べた通り、詳しいことは分かっていないのが現状である。

筆者は、このような不確定な要素を仮定しつつ、過去から現在へと伝承の過程を追うよりも、むしろ、「小太郎伝説」内の「上田」と「松本」におけるそれぞれの伝承の形が異なっていることに、より意識を向け、その分断線を形成する下敷きとなった精神性を重視することから同じ問題を見ていこうと考えている。

既に指摘したように、二つの「小太郎伝説」の間では、「蹴裂伝説」の欠如が最も大きな違いとして挙げられるのだが、これと密接に関連する相違点として、「松本」の伝説には「諏訪明神」との深い結びつきが見られる点も挙げておきたい。

「泉小太郎」伝説では、「蹴裂伝説」は開拓領主としての「泉氏」の始祖を神霊視するための物語の体をとっており、それは「諏訪明神」の転生譚と云う形で権威づけされている。しかし、「小泉小太郎」伝説の方は、この「蹴裂伝説」を欠いており、当然、それに随伴する「諏訪明神」の転生譚も含んでいない。これは一体何故なのだろうか? 単に地理的な配置の問題―すなわち「塩田平」は「諏訪大社」の地からやや離れていると云うこと―だけでは、到底この事実を理解することは出来ない。何しろ、もしも「泉氏」も「小泉氏」も同族で、共に同じ氏神を奉ずる一族であったならば、「諏訪明神」の縁起譚が簡単に一方からのみ脱落すると云うことは考えにくいからである。しかもその氏神と云うのが、いまや忘れ去られた小さな一地方神と云うならまだしも、よりによって「諏訪大明神」なのである。

そもそも、「諏訪明神」の出自に関する伝え自体に目を向けても、そこには、現在、大きく見て三つの系統が知られている。一つは「建御名方神」系とする伝えであり、一つはそれに先立つ土着の神々の信仰であり、最後の一つは、恐らく「中世期」に醸成されたと思われる「甲賀三郎」系の伝えである。そして、興味深いのは、そのいずれにも、一帯の土地を開拓した「蹴裂」の神としての性質が見られないことである。これは、歴史のいずれかのときに脱落させてしまったからなのか、それとも元々なかったのか。いずれにしても、「蹴裂」部分がないと云う点では、この神が実は、意外にも新来の神なのではないか、と云う可能性を惹起することにもなるのである。

よく知られた話だが、「諏訪大社」のことが文献に見える初見は『日本書紀』においてである。「持統天皇」の五年 (691) 八月、降雨の多い災難のとき使者を遣わして、「龍田の風神」「信濃の須波・水内等の神」を祭らせたと記されている。「龍田」は「大和」の「龍田神社」であろう。「須波」は「諏訪神社」、「水内」は「善光寺」付近の「水内神社」のことだと推定される。この記事から分かることは、「須波 (諏訪) の神」は、古くは「風雨神」としても信仰されていたと云うことである。 ここにも、本質的に、「諏訪の神」を「蹴裂伝説」と結びつける接点は見られないのである。

筆者は、「蹴裂」の神と云うのが、全国的に見て、両義性の高い信仰的な性格をしているものが多いことに着目しているのだが、一方で、「小太郎伝説」にはその両義性が見られないことが気になっていた。この両義性と云うのは、その神話の中心となる神格が二人以上あったり、あるいはその神の性格が二つ以上の軸の間を揺らいだりすることを指している。

「蹴裂伝説」と云うものは「開墾」譚の一種であろう、と云う固定観念を抱くことをやめると、大規模な灌漑農耕としての「稲作」が入ってくる以前から、「地形変成」譚としての「蹴裂伝説」は十分に存在しうる、と云う単純な事実に行き当たるのである。どうして山が出来たか、どうして湖が出来たか、昔、川はどう流れていたか、などは、必ずしも灌漑農耕とセットでなければ発生しない民譚ではないはずである。

そのような物語が既に存在した地に、おそらくは鉄器などの新たな開拓道具を大量に伴って、山野を切り開く集団がやってきたとしたならば、受け入れる側の人々が、やがてその事跡を自分たちの語り継いできた土地神と習合させることも、逆に進入してきた開拓領主層の人々が、自分たちの氏神信仰と地元の諸伝説や信仰を習合させようとしたとしても、同様に驚くには当たらないはずである。

したがって、各地の「蹴裂伝説」を見ていくと、新しくやってきた神が、地元の神々と協力して大地を切り開くと云ったモチーフをしばしば見かけることになる。これは確実に云えることではないが、「犀竜」と「小太郎」の関係も、「大鼠」と「唐猫」の関係も、もしかすると、元々はこのような神々の両義的な存在性を反映していたのかもしれないのである。

例えば、「佐久」から「甲府」にかけての「蹴裂伝説」には、実際の「地形変成」を執り行った地元神と共に、「大和神話」系の外来の神を語ると云う基本性格があった。後に少し丁寧に見ることになる「秋田」の「蹴裂伝説」である「八郎太郎」の伝説でも、「南祖坊」と云う外来 (熊野から) の神格との格闘が主たるテーマの一つとなっている。「湯布院盆地」の伝説でも、「宇奈岐日女」は「蹴裂権現」とセットで語られている。「阿蘇」でも「健磐龍命」と対立する神格としての「大鯰」がある。本来の「蹴裂伝説」と云うのは、自然の山川とその霊威に対する畏怖の感覚と、それを二次的に切り開いた神格に対する敬意の念と云う、二重仕立ての精神性を表わしているように思われるのである。そして、その意味では、「蹴裂伝説」と云うのは、どの地域でも、新たにその土地に入植する開拓領主たちからすると、非常に便利な伝説の形態であったと云えるのだが、一方で、特定の氏神を強く志向する信仰とは親和性が高くなかったとも云える。

歴史的に見れば、「地形変成」譚は、別段、信仰と云うほどのものを形成することなく伝えられていた古い物語に、開拓領主たちが自らの一族の権威を仮託するようになって、はじめて信仰性を帯びていったのではないだろうか。例えば、「塩田平の唐猫伝説」は、随分と後世の変形を受けているものと筆者は解釈しているが、それにしても、何で「鼠」も「猫」も、共に神様に祀られるのだろうか、とは素直に思ったものである。だが、上記のような両義性を「蹴裂伝説」の基底に見出すと、古い土地の神を敢えて祀るのも、それが既に排除されたことの結果の行為なのだと云うことが、無理なく理解されるのである。この手の神格の両義性と云うのは、この辺りの成立事情に発しているのではないかと思われる。「塩田平」の伝説は、形の上でより率直に、その下敷きになった古い伝説の性格を伝えているからこそ、「鼠」と「猫」の対立と云う奇妙な組み合わせを以て「蹴裂伝説」を語っているのである。「小太郎伝説」は、特定の氏神信仰に力点を置き過ぎたことによって、おそらく、本来は対立項だったと思われる「小太郎/犀竜」を、親子として物語の枠組みに当てはめていってしまうことになったのであろう。

*

それでも最後まで残される疑問の一つが、「小太郎屋敷」伝承の扱いである。

「小太郎屋敷」の伝承は、そこに登場する「長命寺・大日堂」も「信濃国分寺」も、共に「小泉氏」の勢力圏に入ることから、かなりの確かさで「小泉氏」に関連する伝えと関連するものだと云える。その「小泉氏」の本拠地近くに、「始祖伝説」を含まない「小太郎伝説」のヴァリエーションが伝わると云うのは、この伝説が「小泉氏」の没落後に形成されたものなのではないかと云うことを強く疑わせる。

実際、このことは多くの含意を持ちうる事実なのである。「小泉氏」の本拠地に、「小泉大日堂」があるのは、ほんの偶然だとしても* 、「宮坂武男」氏の『図解・山城探訪』第三集によれば、「小泉氏」の館跡は、字「東寺畑」にあったものと推測され、その「小泉大日堂」のある「高仙寺」直下、「大日堂」への参道が通る台地の先端部にあると云う。背後の「城山 (朝日山) 」の頂と中腹にそれぞれ築かれた「上ノ城」「下ノ城」を後背の守りとして、館を中心とした「小泉郷」一帯を支配していたものと推定されていると云う。

* 「小太郎屋敷」の説話中の「長命寺・大日堂」と「小泉氏」の本拠地に「大日堂」が祀られているのとは直接的には偶然でも、「小泉氏」の関わる土地で、「大日信仰」が強かったと云う点においては、必ずしも偶然とは云えないかも知れない。「大日信仰」に見られるような「太陽信仰」に付随する「天神」観は、一部地域で、「猫神」とのつながりを見せることを指摘する向きもある (真喜志、1993 / 河村、2004) が、いずれも実験的な論考の域を出ていない。

「小泉氏」の本拠が分かること自体は、驚くほどのことではないのだが、現在の「上田市・小泉」に当たるこの地域を地図で概観すると、かなり控えめに表現しても「興味深い」事実に遭遇することになる。筆者にとっては、事実上、「衝撃的」な発見であった。それは、この地が、「半過」の東隣り、「鼠宿」「下塩尻」の対岸と云う、まさに「塩田平の唐猫伝説」の中心地にあると云う事実である。

この二つの系統の「蹴裂伝説」を知ったときの感想では、それぞれの守備範囲がしっかりとしたものだと勝手に想像していただけに、「小泉氏」の根拠地にその一族の始祖伝説としての「蹴裂伝説」がなく、「塩田平の唐猫伝説」の中心地とさえなっていると云うことに、新鮮に衝撃を受けたものである。何で「小泉氏」あるいは「泉氏」の始祖伝説とされるものが、その一族の本貫地において語られていないのか。

しかし、この問いは、また別の疑問を筆者の中に生み出した。それは、「松本」地域の「小太郎伝説」は、本当に「泉氏」と関係あるのか、と云うものである。「小泉氏」の場合は、自らの本貫地にさえ、「小太郎」を始祖とする伝説が残されていないのに、はたして「泉氏」が支配していない「松本平」全域にまで、どのように普及定着しえたのだろうか。

*

だが、これ以上、議論を進める前に、異説を一つ紹介しておこう。と云っても、誰かが唱えたとか云うほどのものではなく、単に筆者がふと思いついた可能性についてである。それは、実は「小太郎屋敷」の伝承と云うのが、「禰津氏」の伝承と習合しているのではないか、と云う視点である。確かに、「小太郎屋敷」の伝えに関しては、勝手に筆者が「小太郎伝説」と結びつけているだけであって、語り継いでいる人々が何も「これは泉小太郎の別伝でござい」と云っている訳ではない。

この「小太郎屋敷」伝承の発端となっている舞台は、旧「根津村・長命寺・大日堂」である。これは、現在の「東御市祢津」にある「東部湯の丸インターチェンジ」のすぐ東側の土地であるが、名前の通り、「信濃国」の名族「滋野氏」の一族「禰津氏」の根拠地である。「滋野三家」の中で嫡流とされる「海野氏」が、代々「小太郎」と名乗ったのに対し、それに準ずる立場にあった「禰津氏」の当主は代々「小次郎」を名乗ったとされる。『太平記』にも「武勇すぐれたるもの」として「禰津小次郎」の名が見える。

「小太郎屋敷」の一方の舞台である「国分寺」などが「小泉氏」の所領地帯であることは明白なのだが、かつての「禰津氏」の根拠地に「小太郎の母」を妖怪扱いする説話が残されているのには、何らかの意味があるのかも知れぬ。

ちなみに、現在、「上田市」周辺で、同地の「戦国時代」の領主の話を聞くと、ほとんどの人が「真田氏」と答える。確かに、全国的に「真田」と云うと「上田」のイメージはある。しかし、「幕藩期」を通しても、「真田氏」が「上田」を領したのは初代「信之」のわずかな期間 (六年) だけであり、その後に「仙石氏」三代、そして「松平氏」七代と入封している。町の基礎を築いたのが、「信之」の父「昌幸」であることを勘定に入れても、天正十一年 (1583) から元和八年 (1622) までの期間でしかない。

つまり、「上田」地域が「真田氏」の統治下に入ったのは、「武田信玄」の「信濃侵攻」以降の話で、それ以前の「戦国期」の大半は、初めは「海野氏」、次いで「小泉氏」が統治していた時代が圧倒的に長かったことになる。特に、「武田氏」の侵攻直前までの後半期は、「上田」周辺は基本的に「小泉氏」の統治下にあったと云っても過言ではない。

面白いのは、「真田氏」は、その本貫地が「小県郡真田郷」にあり、自らを「海野氏」流と名乗っていたことからも分かるように、「上田」地域では「真田」の統治開始は、ある意味では「小泉氏」からの支配権の奪回と云う意味もあったのかも知れないと云うことである。

しかし、この話はもう一押しすると、また一つ面白くなる。実は、「真田氏」の嫡流となった「松代藩・真田家」は、「江戸期」に自らを「清和源氏」の出としているが、これは本家の「滋野氏」「海野氏」に関しても同様のことだが、現在はあまりその信憑性を認められていない。ただ、「真田氏」が「滋野氏」の一族から派生しているのは間違いなさそうで、『滋野氏三家系図』に、「鎌倉中期」の「海野長氏」の子「幸春」を「真田七郎」 としているのが、系図類に登場する「真田」の始まりとなる。『大塔物語』に拠れば、応永七年 (1400) 守護「小笠原氏」に対する国人領主の抵抗として起こった「大塔合戦」において、「大文字一揆衆」の大将の一人「禰津遠光」の配下に「実田 さなだ 」の名が見られる。また永享十二年 (1440) の「結城合戦」に参陣した「禰津遠光」の配下として、「真田源太・源五・源六」がいたとする説もあり、「真田氏」は当初、「禰津氏」の支流だったのではないかと云う見方もある。

実際には、「真田氏」を引き合いに出さずともよかったのだが、筆者が云いたかったのは、「小太郎屋敷」の伝承地と云うのが、「小泉氏」と「海野氏」と「禰津氏」の境界地に当たるため、もしかしたらこの伝承の背景には、1.「禰津氏」の「海野氏」に対する対抗心2.「禰津氏」の「小泉氏」に対する対抗心、などがあったのかも知れないと云うことなのである。たいして大きな可能性ではなさそうなので、筆者とて拘泥する気はないが、この伝承の不自然な配置と云うのが、意外と、このような背景との混ざり合いから起きているのかも知れないと考えたのである。そして、「小泉氏」の没落以降、「小泉氏」と対抗した「海野氏」あるいは「禰津氏」系統の「真田氏」がいったん「上田」地域を統治したことで、「小県地方」における「小泉氏」の始祖伝説などの英雄譚は、意図的な忘却と変形を受けてしまったのかもしれない。

そして、筆者が興味をより強く抱いたのは、上記の仮説の発祥の方にではなく、仮定の終末部分において「小泉氏」のイメージが歴史的に矮小化される過程に対する推論の方なのである。

*

話を元に戻そう。

「小県郡」域に多大な影響力を誇った「小泉氏」の他、現在の「飯山市」で活躍した一族に、同系統の「泉氏」がいたことを鑑みると、実は「泉氏」「小泉氏」よりも大きく、両者を内包する氏族集合がかつて存在したのではないと想像したくもなる。はっきりと断っておくが、これは想像であって、筆者の側に何ら根拠はない。ただ、そのような集合を仮定すると、「小太郎伝説」の主人公が、その集合体の氏神として語られていたと仮定出来ることになり、説明上、大変便利だと云うだけである。

しかし、世の中には、別の切り口から同じような想像をたくましくする人々はいるようで、そう云う人々の間では、このような架空の氏族集合を「諏訪族」と云う仮定の氏族集団だったと見なすのが一般的なようである。これは非常に魅力的な仮説である。だが、いかに魅力的とは云え、筆者には「諏訪族」と云う集団の実体がいま一つ飲み込めていないので、このような過程には現時点では立てないでいる。敢えて上げるとするならば、「安曇氏」と云う方がまだ有力かも知れないのだが、「小太郎伝説」や「塩田平の唐猫伝説」の成立ちから推測すると、「安曇族」と云う集合は、もう少し古い時代に配置しないと、全体の整理がつきにくいのである。ただし、本稿では「長野県」における諸氏族の興亡史は扱わない。確たる資料と、それに対する十全な理解がない現時点では、筆者にいまだその準備が出来ていないからである。

ついでながら云うと、「小太郎伝説」の分布が歪なのは、この伝説はあるいは、元々、氏神としての信仰は薄く、「上田」地域において、たまたま「小泉氏」によって始祖伝説を仮託され、後に、「真田氏」支配体制、および「幕藩時代」になってから、消滅したものだからなのかも知れぬ、と云う可能性もある。ただし、伝説の実際の広い分布域を考えると、やはりこの可能性は低いだろうとは思う。

*

さて、ここで「塩田平の唐猫伝説」と「小太郎」伝説の成立の順序に関して、今度はより細かく、私見を確認していきたいと思う。

筆者は、元々、「信濃川」内陸流域に、おおまかに共通する「蹴裂伝説」があったところに、その二つがやがて「原・塩田平の唐猫伝説」と「原・小太郎伝説」へと緩やかに分立していった歴史があったのではないかと考えているのである。ただ、現在の「小太郎」伝説は、それが土地開墾伝説としての伝承形態を維持していると云う意味で、その原初的な形を遺しているのに対して、「塩田平の唐猫伝説」は「土地開墾」伝説の痕跡を遺しておらず、その意味で後世の脚色が、その物語のより基幹の部分に及んでいると考えられるため、こちらの方が時代的に新しく成立したのではないかとにらんでいる。

ただし、「塩田平の唐猫伝説」のすべてが「小太郎」伝説よりも新しいと主張するつもりはない。むしろ、筆者にとって、その最も肝心な部分である「唐猫」のイメージは、双方の伝説の原初的な核を形成していた話素に由来するとすら考えているのである。

既に「長野」県内の「唐猫」伝承の分布について述べた箇所で言及したことだが、何故か「長野県」の「唐猫」伝承は「松本平」を境に、その分布は「伊那盆地」へとは連続性を維持せずに断絶してしまうのである。しかも、「松本平」周辺にあっても、その分布は「上田」寄りの北東方向に濃密になる傾向がある。このことは、「唐猫」に限定せずに、「猫」伝説全般に調査の手を広げると、なお一層はっきりとしてくるものである。

したがって、筆者は現在、「塩田平の唐猫伝説」に代表される「唐猫」系の「蹴裂伝説」が、「松本平」の手前でその伝播を押しとどめられたのには、それに対抗する文化的な勢力が「松本」周辺に存在したからではないかと推測しており、「小太郎伝説」は、そのような文化的な勢力の掲げる伝承であった可能性が高いと思っているのである。このことに関しては、いずれ (近日中にしたいと願っている...) 「塩尻市」にある「常光寺の唐猫」や「小野神社の唐猫様」の記事を書くに当たって、もう一度触れていくことになると思う。

いずれにしても、三つの伝承を比べた時、我々はそこに「塩田平」の「唐猫」と「泉小太郎」との間に、不思議なつながりを見出せるのもまた事実である。ここまで来ると、考えねばならない問題は、何故、「唐猫」の伝説が「小太郎伝説」あるいはその元となった「蹴裂伝説」の上に被さり得たのかと云うこと、そしてその「唐猫」のモチーフはどこから来たのかと云うことになるのだが、これらの件に関しては、本稿では以下に、筆者の大まかな推論の道筋を提示するに止め、より細かい論証はまたそれぞれの項目について扱う機会に譲ることとする。



a) 「蹴裂伝説」の母体となる集団が「信濃/千曲川」に沿って遡上する形で、各地でおそらくは鉱山開発に類する生業に就く形で、「信濃国」の奥深くまで広がっていった。

これより古い時代の各地に、山川湖沼が出来た訳について説明する自然神話がなかったとは思わないが、各地に残される「ダイダラボッチ」系統の「地形変成譚」の間に、物語の本質と関わらない細かい部分で、無視出来ない類似が散見されることを考慮すると、やはり「山を突き崩す」と云うイメージを新たに現住の人々に与えた社会集団が全国に運搬したのが「原・ダイダラボッチ伝説」であろうと思わずにはいられない。

あるいは、この段階で、既に先住の鉱山技術集団との相克はあったかもしれないが、「蹴裂伝説」から遡行して類推する手法では、この点に関しては、明確なことは云えない。ただし、「日本海沿岸」に広がる「地形変成譚の猫」の存在を考えると、この「猫」伝承の根っ子は、この時代にまで遡るのではないかと推論出来ることは確かである。


b)  遅れて「長野県」の内陸部に移住し、大規模な灌漑農耕を持ち込んだ初期の開拓領主たちが、自分たちの一族に伝承された氏神説話を持ち込むことで、この地域の「蹴裂伝説」のより古い層 (開墾のモチーフのない層) から、まず「開墾」のイメージを有する「蹴裂伝説」を派生させた。

この移住のルートは、はっきりとはしないながらも、「姫川-千国街道」沿いのルートを通ったものと思われる。もちろん、現在の伝承の分布からの漠たる推測に過ぎない。もしも、「信濃/千曲川」ルートを辿ったとしたら、後世、「塩田平」と「安曇平」「松本平」、さらには「佐久平」の「蹴裂伝説」の間に、もう少しばかり表面的な類似が残されたのではないかと考えられるからである。

この第二次移動グループの主体は、「安曇野」から「松本平」に広く拡散する一方、そのうちの一派が、「犀川」を下って、「千曲川」との合流点近くで、「信濃/千曲川」沿いに遡上してきた集団と遭遇し、現住の人々と混合して定住した可能性を考えている。したがって、筆者は、a) とb) の時期は、かなり近接したものだと考えている。

筆者は、この段階で、「原・小太郎伝説」が形成されたのではないかと見ている。


c)  第三次の集団移動が起き、「松本平」を中心とした地域に定住した。

ただし、この移住のルートに関しては、筆者には定見がない。常識的に考えれば、「姫川-千国街道」ルートなのだが、南からの「天竜川」ルート、あるいは「釜無川」ルートも一応は可能性を残している。

いずれにしても、この移住は、第二次の移住までに比べると規模が小さく、おそらくは強烈な政治・軍事力を持った支配者集団が、同族出身か、あるいは極めて親和性の高い社会集団と習合する形で行なわれたのではないかと、筆者は推測している。


d)  第四次の集団的な移動は、ほぼ間違いなく「仁科氏」の「仁科」入りだと思われる。この出来事によって、「中世」までの「信濃」中央部の政治地理的な分布図は、全体的な流動期を終えたのではないかと考えている。


この一族が、「姫川-千国街道」ルートを辿って「安曇野」入りしたことは、ほぼ間違いなかろう。

「仁科氏」の出自・家系に関しては諸説あるが、「仁科氏」自身は、「平氏朝臣」を名乗っていた。しかし、近年の研究や調査によって、始祖は「大和朝廷」の命によって「越」の開拓に当たった「孝元天皇」の第一皇子「大彦命」の末裔と言われる「布施氏」「小布施氏」などと同族の「阿倍氏」であると云う説が有力視されている。

「阿倍氏」は「蝦夷」平定の兵站基地を求めて「姫川」を遡上し、「木崎湖」周辺に定着したものと思われる。「阿倍氏」が「仁科氏」に苗字を変えたのは、永承五年 (1051) 頃に「仁科御厨」が成立していることから、少なくともそれ以降のことと推測される。現在の「大町市」の「社」地域の南部が「伊勢内宮」の料地「仁科御厨」とされ、「阿倍氏」は現地の管理人「御厨司」となったのではないか推測される。そして、おそらくは居館を御厨のすぐ北方の「館の内」集落付近に築き、姓を「仁科」と改めたのだろう。「仁科御厨」の鎮護の神として、「伊勢内宮」より勧請された神社「仁科神明宮」を建立したのも、この頃と思われる。

「鎌倉時代」に入ると、武士勢力が朝廷・貴族勢力を圧倒していくことになるのだが、「仁科氏」は弱体化した朝廷・貴族政権に忠実に従ったことで知られている。「仁科盛遠」は中央での忠勤と同時に、地元に「仁科の庄」 (現・大町市) の町造りに当たった。「京都」を真似た短冊形の町割に、道の真ん中には川を流し、居館を「館の内」から町の西方、現在の「天正寺」付近に移した。「仁科氏」の祈願寺の「浄福寺」 (現・弾誓寺) も移転し、北端に「熊野神社」を勧請し、「若一王子神社」を創建した。多くの「京文化」や「禅宗文化」が「仁科氏」の努力で「安曇野」に生まれ、洗練された「安曇文化」として花開いた。

「中世」に渡って「仁科氏」は、現在の「南安曇郡・北安曇郡」の大部分を領し、一時は「糸魚川」付近までその勢力を伸ばしていた。既に見たように、「仁科氏」は「京都」と非常に関係が深いことが知られており、事実、「信州・京都」間を足繁く往復もしたようであるし、「京都」の「山科」には屋敷も持っていたと伝えられる。

*

「安曇野」を本拠地としていた「安曇氏」は、『高橋氏文』に記される「安曇氏」と「高橋氏」の「内膳司」としての神事の主導権争いに敗れ、「天皇」の調整にも反抗したことから、「人臣の礼無し」と断定され、「大不敬」「八虐」の罪に問われ、絞首刑と除名を宣告されたが、恩赦により死罪を免れ、「佐渡」に流されている。この事件で、「安曇氏」は中央における地位を大きく後退させたものと想像されるのだが、「安曇氏」がその本拠地を「安曇野」に移すきっかけになったのも、もしかしたらこのときの騒動だったかも知れないのである。

ちなみに「内膳司」と云うのは、もともとは「膳職」と呼ばれていた役職の一つで、「大宝律令」によって饗宴の準備担当を「大膳職」、「天皇」の食事の調理、配膳をの役目を「内膳司」としたところから誕生した。代々「高橋氏」と「安曇氏」が世襲し、官位は三位、後に「大納言」あるいは「中納言」が兼務したものであるから、決して軽い役目ではない。両氏の争いは、霊亀二年 (716) から開始され、「安曇氏」処罰で決着したのは延暦七年 (788) あるいは同十一年 (792) とされている。

「仁科氏」が「阿倍氏」であるなら、「安曇氏」と対立した「高橋氏」と同族と云うことになり、その存在が、それまでより大きな広がりを持っていた「中信」地域の文化的な連携を真ん中で断つ形になったことは理解に苦しくない。「塩田平」から「松本平」までの広がりを持っていた「小太郎伝説」も、この「仁科氏」の勢力拡大によって、分断されてしまったのではあるまいか。

そして、やがて文化的な優勢圏を創出した「仁科氏」の影響の下、「唐猫」と云う語彙が、この時期に二次的に広がった可能性がある。あるいは、「応仁の乱」後の、京都人たちの地方拡散に伴って広がったのかは、はっきりとは云えない。「長野」以外では、「三陸地方」や「鹿児島」などに強く「唐猫」の語彙が残されていることを考えると、この語の一次的な流行は、もう少し古い時代のことだったのかも知れない。

ただし、「長野県」及びその周辺域での「中世期」における「唐猫」の語彙の普及に関しては、「仁科神明宮」や「建部神社」、あるいは「小野神社」などの遺物からも見てとれるように、「中世」に確立した「社殿内装飾」としての木造の「獅子・狛犬」像とのセットでの伝播がほぼ確実視出来るため、地理的にも、時期的にも、「仁科氏」の文化的な繁栄と深い関係があることは、ほぼ疑い得ず、その文化的な影響を排除して考えることは出来なさそうである。したがって、
筆者はいまのところ「長野」「九州」「東北」の三つの地域の間に盛んな往来があったと仮定できる「南北朝」の時代を一つの候補と考えている。


e) 「武田氏」の「信濃侵攻」以降、「江戸幕府」成立までの間に、「中世」的な土着文化は破壊され、新来の領主や人民たちによって、「近世」的な枠組みが形成されていった。


「信濃」の北半分は、「戦国期」の終焉と共に、その「中世」的な面影を、かなり徹底的に払拭されたモデル地区のような存在となった。「武田信玄」による「信濃侵攻」で「古代」以来の名族はほぼすべて掃討され、その「武田氏」が「織田信長」によって滅ぼされるに及んで、旧勢力の失地挽回の動きは一時だけ騒がしかったが、最終的に「徳川家康」と「豊臣秀吉」の権力の線引きを巡る政治的な駆け引きの格好の舞台とされたことによって、「江戸幕府」成立までのわずか数十年の間に目紛しいほどの領主の交替を見ることとなった。「信越」国境地帯に至っては、「上杉氏」の移封の影響も甚大で、所によっては寺社村落を丸抱えで「米沢」に移った地域もあったため、旧領主系の伝承は、この時期を境に断絶したものと考えられる。

既に少し見たように、「小泉氏」の本拠地にあってさえ、「小泉氏」の始祖伝説と思しき「小太郎伝説」は払拭されているのである。そして「塩田平」以北では、その上に「唐猫伝説」が被さる形に変形していったことは現在観察される通りである。

筆者は、「諏訪地方」にのみ、「小太郎伝説」の始祖伝説としての要素が残されたことと、「小太郎伝説」が本源的に「諏訪明神」の信仰と直結して成立したと云う考えとは関連づけていない。筆者は、この伝説が「諏訪明神」と直接的な結びつきを持つようになったのは、「近世期」なのではないかと推測しているのである。何故ならば、この伝説以外の、在地領主と結びついた始祖伝説は、「安土桃山期」を境にこの地域から消滅している気配が強いにも関わらず、「泉小太郎」伝説のみが、比較的完全な縁起譚のような形で保持されているからである。

後世の人間から見れば、「諏訪大社」の影響だから残ったのだろう、と簡単に云えるものの、実際には「戦国末」から「近世初」にかけての「信濃」地域の政治的な変動は凄まじいものがあり、それは「諏訪大社」をすら例外とすることはなかったことを忘れることは出来ない。「諏訪信仰」を背景に、祭政一致の独特の統治を展開していた「諏訪氏」でさえ、現実には「武田信玄」によって事実上の分解を強制され、「信長」「家康」「秀吉」「家康」と変遷する大勢力との関係の中で、「諏訪大社」が古来の祭政一致の権威を取り戻すことは、以降、一度としてなかったのである。

「泉小太郎」伝承は、特定の地域の領主との縁故を断ち切り、既に現実の政治的勢力とは無縁になり、より大きな象徴的な信仰へと生まれ変わろうとしていた時期の「諏訪信仰」と結びつくことによって、むしろ偶然にも、その広範囲に渡る命脈を維持し得たのではないかと、筆者は推測しているのである。



ここまで議論してくると、「塩田平の唐猫伝説」のイメージ性は、「犀川」と「千曲川」の合流点前後を境として、上流へと向かうと急速にその勢いを失い、徐々に「小太郎伝説」にとって変わられていく様子を、通時的なイメージの中で把握し直すことが出来たと思う。

しかし、「唐猫」と云う語の広がりは、「仁科氏」の統治範囲から、俗に云う「仁科街道 (千国街道) 」に沿って、やや南へとまで延びることは、現在残される「唐猫」の遺物を追っていくことで明らかにされていく事実である。したがって、これらの事実を素直に受け入れたならば、「長野県」に残される「風水神としての猫」の文化的遺産は、より深い層では「日本海沿岸」に広がりを持つ「蹴裂伝説」と密接に関わり (「太平洋」側に「蹴裂伝説」がないと云っているのではない) 、その上で「仁科街道」沿いの文化圏と深い関わりを持って残存したと見なすべきなのかも知れない。前者が、筆者が当初に述べた第一次的な伝播であり、後者が第二次的な伝播だと云うことになる。

今後、筆者はこの「仁科街道」沿いの「唐猫」文化の広がりに着眼点を移して、「猫神探訪」の旅を続けることになったのだが、その間も常に頭を離れたなかったのは、「長野県」における「猫神」と「蹴裂伝説」との関係が、当初想像していたよりも、遥かに重要なもののようだ、と云うことであった。しかし、そのことをより明確にするためには、「猫」の「風水神」としての性格をはっきりとさせておく必要があるのも明らかであった。

そして、その点にこそ、本稿の表題として「建部神社の唐猫」を選んだことの意義の一半はあるのだから、ここでいったん「建部神社」の「唐猫」について概観してから、再度、「風水神としての猫」と「蹴裂伝説」の関係について、触れてゆくこととする。

キーワードは、やはり「雨乞い」。



4. 「建部神社」の「唐猫」

「建部神社」、と云っても、別段全国にその名が鳴り響く神社と云う訳ではなく、「長野県」にあってさえ、地元の人以外には知られていない御社だと云っても語弊はなかろう。しかし、「建部神社」は、地元「山形村」では村を代表する神社であり、実際、村の政治的な中心部に社域を有している。したがって、この「建部神社」への道は、「東筑摩郡・山形村」の位置さえ分かっていれば、そんなに難しい道のりではない。もっとも、筆者は、「建部神社」を目指す前に、「山形村」よりも北に位置する「松本市梓川」の「上嶋醤油」に立ち寄ったので、「関東」方面から向かう人間としては、少々、おかしなルートを辿ることとなった。

まずは、「上嶋醤油」のすぐ東の表通りを南へと向かい、「梓川倭」の信号を直進すると、道はそのまま県道48号・松本環状高家線になるので、しばらくはこれを道なりに辿る。「倭橋」で「梓川」を越え、国道158号松本電鉄と越えていく。やがて、「南和田」の信号に至るので、ここを右折して県道291号・新田松本線に入る。

この道をまっすぐ走っていると、二つ目の信号が「記念碑前」だったと思うのだが、これより手前、「竹田」のバス停の次の道を右へと曲がらねばならない。あまり分かりやすい曲がり角とも云えないが、道路の右の角に「はやし薬局」が見えたら、そこではなく、その次の角を右に入ると云うことである。自信のない人、あるいは行き過ぎてしまった人は、「記念碑前」まで行って右折した後、最初の交差点を左折すれば、同じ道に入るので安心である。

後は、「上竹田中村農業改善センター」の角で、少し左に崩れた形の交差点に出るが、これを直進方向に進めば、もう次の三叉路の正面が「建部神社」である。三叉路からは、少し左に入れば、すぐ参道入口が見えるはずである。あるいは、村の中心部から見れば、「記念碑前」の交差点を北へ進み、次の交差点を左へとゆくと、数百メートルで着くとも云える。「日本アルプス・サラダ街道」の信号を北上してもよい。村の中心部から見て云えば、「村役場」の北西、「唐沢川」の南、「三間沢川」の北と云うことになる。

*

筆者がこの神社のことを知ったのは、数年前、インターネット上で「山形村」の情報を載せた地域ニュースのページを訪れた時であった。今回、この記事を書くに当たって、そのページを探しては見たのだが、既に消去されているようで見つからなかった。いずれにしても、そのページ内で、わずか数行にも満たぬ程度の文だったが、「山形村上竹田」在住の「古川敏夫」さんが、
地区の農業と水への苦労を後世に伝えようと、一冊の地域史の本を自費出版されたと云うことを知った。本の題名は、『唐猫さまと雨乞い』であった。

この本の中で、「古川」氏は、古い時代に雨乞いの神事に使われ、「上竹田」の「建部神社」で平成十九年 (2007) 五月十二日、約七十年ぶりに発見された「唐猫様」と呼ばれる一対の「狛犬形」の木像について調べた結果を詳述している。

氏によると、「戦前」までは深刻な干害に襲われることの多かった同地では、その都度、「建部神社」の「唐猫様」や「水神様」に雨乞いの祈りを捧げる儀式を行なったと云う。それが、「戦後」、近代的な灌漑設備の整備を通して、徐々に雨乞いのお祭りは行われなくなり、いつからか住民たちの記憶からも薄れていってしまったのである。そして、
昭和五十年 (1980) の村誌編纂時には確認された「唐猫様」も、いつしか行方不明になってしまったのである。

そのような現状を憂えた「古川」氏は、最後の雨乞い祭の記憶を残す村の古老たちに話を聞いて廻って記録すると共に、「水神様」の祭りに併せて、主立った氏子たちで「唐猫様」を探すことを思い立ったのが数年前のことであった。話では、櫃の中に納められていると云うことであったが、いざ「神社」を探すと、肝心の「櫃」も「台座」もなかった。結果としては、一度、日を改めて仕切り直した後、再度執拗な探索を続けたところ、普段は決して入ることのない、「本殿外陣」の中で、バラバラに解体されて散乱している状態で「唐猫様」は見つかったと云う。「古川」氏らの、執念が実った形で、「唐猫様」は、三十年近くの時日を経て、再び陽の光を浴びることとなったのである。このときの自身の喜びと驚きを「古川」氏は、以下のように綴っている。

内陣と外陣の間は ママ 百五十センチ程の空間の下には ママ 格子の隙間から吹き込んだ木の葉や古い幣束やら何やらが埋もれているようでした。

その中からいろいろな物を外に出された ママ のですが、全くガラクタみたいなもので何なのか見当もつかないのです。一生懸命に私の頭の中にある狛犬や唐獅子に似たような物体を探すのでしたが。

ソフトボール位の大きさでずっしりと重さを感ずる木か泥で出来たような黒いかたまりを拭いていると、唐獅子の頭と同じような顔をした彫り物であった。

これだと思ったとたん、嬉しさのあまり「あったじ」
「唐猫様の頭 (カシラ) があったじ」

古川敏夫 (2008) 『唐猫さまと雨乞い』自刊、pp. 16-17

氏子一同は、この大発見を機に、古色を遺す「唐猫様」の本格的な学術調査を「長野県立歴史館」に依頼することにした。「歴史館」では、「唐猫様」の来歴を明らかにしようと、赤外線照射まで行なったが、残念なことに墨書銘など、確実な記録は見つからなかった。一方、X線調査では、「阿形」の胴体内部に内刳があることが分かり、発見された状態よりも、さらに小さな部分に分解出来る「寄木造」の彫像であることが判明した。

塗料については、その成分を判定することは出来なかった。目は金色、阿形の口の中・尾・胴体などに赤、阿吽両方の全身に濃灰色の塗料が塗られているのは、肉眼でも確認出来た。塗料の断層などからは、初めに全身赤く塗られ、その後に灰色を被せられたことが分かった。

この調査で、「唐猫様」に
新たな歴史の光が当てられることはなかったが、その来歴に関する口碑は伝えられている。

口伝によれば、大同年中 (806-809) 坂上田村麻呂東征の途路、島々谷の賊徒及び中房山八面大王退治のため、竹田山、宮沢の地に素盞鳴命の変身である牛頭天王を祀り、手づから作った唐猫様と称する駒狛 (狛犬か) 一対を神前に供えて祈誓をこめ盛大な祭りを行うと共に、この沢より上の峯の平らな所に軍旅を休め、島々谷を見おろして軍略を練ったという。

それ以来、この宮沢に祠があったのを安和二年 (969) に至り、竹田の村人たちがここを奥社とし、里宮を唐沢川が荒井を流れ三間沢川と合流するあたりに (今の殿村の東あたりか) に勧請して祠を建ててお祀りし、更に宝永元年 (1704)  (赤穂浪士大石良雄が切腹した翌年) 現在地に奉遷し今日に至っているという。

以来、唐猫様は神社の宝物として大切に保管されていて、雨乞いの際にはこの唐猫様を櫃に入ったまま桧の青葉にくるんで輿に乗せ宮沢の奥社まで担ぎ上げ、氏子一同奥社に参詣して雨乞い祈願をする風習が残っている。
山形村誌編集委員会/編 (1980) 『村誌 やまがた』山形村誌編纂会

竹田村では、一戸一人の男役で建部神社の社宝である唐猫様をかつぎ上げ、奥社に神官が祝詞を奏上し、山上において笹を刈り大火をたき黒煙をあげ、奥の院の近くにある池の水を替え干した。

若衆二人で交代しながら唐猫様を祠の前に供えて祭事をして雨乞いをしたのであります。かつてこの唐猫様を池に投げ入れて神威を冒瀆したので、神の怒りに触れ大雷雨となり氏子一同命からがら下山したことがあったと伝えられている。

山形村誌編集委員会/編 (1980) 『村誌 やまがた』山形村誌編纂会
古川敏夫 (2008) 『建部神社の唐猫様』自刊、p. 24



5. 「唐猫」と「蹴裂」伝説の間に ―「雨乞い」の伝承 ―

筆者は、「長野県の唐猫」を扱うに当たって、敢えて「建部神社」の「唐猫」を最初の表題に選んだのだが、既に何度も述べたように、単に「長野県の唐猫」と云えば、圧倒的に「塩田平の唐猫伝説」の方が有名である。

しかも、神社関係の「唐猫」に絞っても、実は「建部神社」よりもよく知られた「唐猫」がいる。「大町市」の「仁科神明宮」の「唐猫」である。神社の「社殿」自体が二棟「国宝」に指定され、「重要文化財」も二種・四十三点所蔵する古社なのだから、有名なのも当たり前。筆者が「建部神社」の「唐猫」について知る切っ掛けになったのも、「仁科神明宮」の「唐猫」について調べる過程で、近隣自治体の公報類などを漁っている、そんな一連の作業の途中でのことだったのである。

そして、この「仁科神明宮」の「唐猫」に関しては、「古川敏夫」氏も指摘されている通り、「建部神社」のものと類似する「雨乞い」の伝統があったことが知られているのである。これは日照りの時に、「神明宮」の「唐猫様」を「高瀬川」に放り込むと云うもので、「建部神社・奥社」の泉に放り込むと云う儀式とほぼ同一のものだと云えるのである。

「雨乞い」と「猫」を結びつける事象なら、「京都府京丹後市久美浜町」の「兜山」山頂に鎮座する「熊野神社」 (「猫石」の習俗があった) や「静岡県富士市柚木」の「天白神社」 (「猫の踊り」の伝えがある) などもある。これらの神社は、その地域では「雨乞い」の神様と見られていたようであるからだ。しかし、こんな間接的な例よりも、遥かに「猫」そのものの霊性を強調して、その「風水神」としての側面を直接披露しているものに、「奈良県吉野郡十津川村大字折立字大谷」の「猫又の滝」に関する伝えがある。

この滝に関しては、雨乞いや雨降りに関する言い伝えが多く残されているそうなのだが、本稿を記していてすぐに筆者の脳裡に浮かんだのは、『近畿民俗』誌の記事中に紹介されていた「室伏高信」の『随筆・山村記』の次の下りであった。

雨乞いの時は、ネコマタの滝に多人数が小便をすると滝の主が怒って雨を降らせるそうである。

参照・高谷重夫 (1973) 「雨乞の一方法 ―汚穢による雨乞― 」
『近畿民俗』通巻五十八号、近畿民俗学会、p. 13



猫又の滝
「猫又の滝」
taki3D様のサイトから
http://taki3d.la.coocan.jp/07kinki/nara/totukawa/nara_totukawa_nekomata.htm

しかし、折角、古いメモをほじくり返して見つけたところで、これだけでは「上湯川」の同名の滝と、いずれであるか区別がつかずに一頻り困った後、ようやく最初にこのメモを取ったときも同じ問題にぶつかったことを思い出し、同じ著者による同テーマの書籍からとっておいた別のメモを捜索することとなった。こんなことは若い頃には考えられなかったから、年はとりたくないものである。その後、目出たく発見されたメモの中に次の下りがあった。

奈良県吉野郡十津川村の玉置山の下に、ネコマタの滝という滝がある。雨乞には多人数で行ってここで小便をする。そうすると滝の主が怒って雨を降らすそうである。

高谷重夫 (1982) 『雨乞習俗の研究』法政大学出版、p. 440

この「猫又の滝」の「雨乞い」習俗は、ある意味では「長野」の二つの神社の「唐猫」のものよりはっきりと「猫」を「風水神」として扱っている気配があると云える。そして、「猫」を辱めて怒らせることで雨を降らせると云う基本的な思考法は、「建部神社」や「仁科神明宮」の「雨乞祭儀」とまったく変わらないことは注目に値する。

郡殿の池01
「郡殿の池」
ぽ・ぽ・ぽ・・さんぽ様のブログより
http://sanpopopo.at.webry.info/201007/article_12.html

次に挙げる事例は、「新潟県」に伝わるものである。「小千谷市大字東吉谷」にある「郡殿 こおりどん の池」は、浮遊性の植物群落と多くのトンボの貴重種の生息で
知られ、県の自然文化財にも指定されている。ここの池には、古くから多くの伝説が語り継がれてきているが、近年、地元の人々が口にするのは、主に三つの類型の物語である。そして、先に行っておくが、この三つのお話は本稿の主題とはほとんど関係がない。
 
「郡殿の池」の典型話・三つ
悪政をしく郡司「郡どん」の美しい奥方が、池の主の「龍神」に魅入られ、生け贄に捧げられることになった。「郡どん」は、以降、善政を行ない、後に「滝沢」姓を名乗って帰農した。
郡司の「郡どん」には美しい姫がいた。この姫を見初めた池の主が、毎夜、美しい若者に変身して姫の下に通った。やがて、池の主は正体を明かし、姫は池の底へと嫁入って消えた。「郡どん」は、以降、郡司を辞め、「滝沢」姓を乗って帰農した。
昔、「おいよ」と云う娘が小さかった頃、野良で蛇に小便をかけてしまい、祖父さまが「おいよが大人になったら嫁に遣るから、祟るな」と云った。美しい少女に育った「おいよ」が「光徳寺」の「多屋講」に出掛けると、焼田の淵で渡し舟が止まってしまった。誰かが池の主に魅入られている、と云うことになり、それぞれの持ち物を水に入れると、「おいよ」の手拭だけが引き込まれ、そのまま池に沈んでいった。

前の二つには、「奥方/姫」が池に輿入れに向かう途中小水をしたところが「バリ池」、化粧を直したところが「おはぐろ池」と呼ばれる話などが附属し、最後の話には細かい異同があるものの、大抵、「おいよ」が「多屋講」に出掛ける前に不思議な酒樽が現れる、と云うモチーフがある。また、「郡どん」の「姫」の婚姻が、「三輪山型」の説話になっているのは明らかだが、「おいよ」の伝説にも、子の出産に際して産屋の中を見ないでほしいと懇願したのに母親が開けてしまうと云った、「三輪山型」の婚姻譚に見られるモチーフが部分的に伝えられている地域もある。そして、どの伝説も、それ以降、「滝沢家」や村に水不足はなかったとか、雨乞いにはこの池に行けば聞き届けられるようになった、などと言い伝えられているようである。

さて、筆者が注目したのは、上のいずれの所伝でもなく、昭和三十年 (1955) に「新潟県民俗学会」が発行した民俗誌『高志路』に載せられたお話である。元々、極めて短い内容のものなので、あまり詳しいことは紹介出来ないが、ざっとまとめると次のような話である。

酒宴を開くと山伏がやってきたので、御馳走をした。翌日、山伏の姿はあったが、首がなくなっていた。百姓たちを助けるために、「郡殿の池」に「赤猫」を放り込んで大洪水を起こしたと云っていたが、それが池の主である「龍神」の怒りに触れて首を落とされたのである。

参照・渡辺善吉 (1955) 「霊池郡殿池の伝説 (二) 」
新潟県民俗学会/編 (1955) 『高志路』第三期二十号/通巻163号、自刊、p. 32

かなり率直、かつ激しい内容の説話ではあるが、雨を降らせるために「龍神」を怒らせること、そしてそのために「赤猫」を池に放り込んでいることなどが、「仁科神明宮」や「建部神社」の「唐猫」伝説と明らかに通じている。また、直接「猫」の伝承では触れられていないが、その他の「郡殿の池」伝承では、「尿」が大きな役割を果たしているが、これは「十津川」の「猫又の滝」の伝えと通ずる部分があるのは明らかである。

花渕山・雄沼・水分神社

「雄沼」の畔の「水分神社・石祠」

花渕山・雄沼
「雄沼」
画像は、二枚とも「ヤマレコ」様のサイトから
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-88776.html

そして、最後の決め手とも云えそうな習俗に、「宮城県」は「大崎市」にある「花渕山」の頂上 (九合目) 近くに鎮座する「水分神社」の「雨乞い」習俗がある。「宮城県」の公式ホームページ内にあった「みやぎの水にまつわるお話」と云うコーナー (?) には、次のような話が掲げられていた (今はもうない) 。

「花渕山」は、昔から「江合川」流域「大崎地方」の農民の雨乞いの山として信仰されてきたが、その対象はこの「雄沼」で、沼辺に「水分神社」が祀られている。水不足の年には、農民の代表者が「雄沼」に至り、素足で沼を駈け歩き、水を濁して霊神を怒らすと大雨がやってくると信じている。そして、それでも雨が降らない時は、猫を沈めると大雨を呼ぶと信ぜられ、「戦後」もそれが行われた。

参照・宮城県公式ホームページ「みやぎの水にまつわるお話」
http://www.pref.miyagi.jp/kikakusom/energy/03-00mizusigen.html (リンク切)

ここの習俗に至っては、もはや「建部神社」や「仁科神明宮」の「雨乞い」習俗と、ほぼ同一のものと云えそうである。さらには、「長野」の「唐猫」よりも、「何故、猫なのか? 」の根拠がはっきりしておらず、習俗としては唐突な観を避け得ないだけに、その分、より直接的なつながりがかつてあったのではないかと匂わせている。いやいや、それ以上に、何よりもこちらは本物の「猫」を沈めると云っていることを忘れていた。そりゃ、直接的にもなるって...。

『唐猫さまと雨乞い』を著した「古川敏夫」氏は、その本の中で「仁科神明宮」と「建部神社」が「仁科街道 (千国街道) 」と呼ばれる一本の道でつながっていることを指摘し、「長野県」にだけ、複数の「唐猫」が存在することの説明の端緒をこの事実に見つけようとしている。しかし、「新潟県」や「宮城県」にほぼ同様の習俗があるとなると、「雨乞いの猫」と云う部分は、単に「仁科地方」の一極小文化として捉えるのではなく、ややマクロな視点で、この習俗の発生や伝播を考えていかねばならなくなるだろう。

したがって、筆者は、上記の「古川」氏の見解をほぼ支持するものの、この街道沿いに広がったのは「唐猫」の信仰を形成する起源的な精神ではなく、「狛犬・唐獅子」様の図像と、「唐猫」と云う語彙だと考えている。そして、その言葉が広がったことによって、既に「風水神」としての「猫」と云う観念が薄れつつあったところに、新たに「唐猫」信仰圏とも呼べるものが中興されたのではないかと考えるのである。もっとも、「新潟県」や「宮城県」などの事例との最大の相違はその語彙としての「唐猫」にあり、また「長野県内」の最も顕著な特徴として「唐猫」の語があることを鑑みれば、むしろ当然の推論とさえ云えるのだが...。



6. ふたたび「蹴裂伝説」への回帰 
 
―いくつかの中間的なテーマの提示―

ここまでに、「東北地方」にも、「雨乞いの猫」の習俗があったことを確認出来たことは、色々な意味で収穫であった。何故なら、「長野」に限らず、我が国の他の地域でも、「猫」がはっきりと「風雨」や「水」と関連づけて語られている習俗があることを確認出来たからである。全国的に見られる「猫檀家」話では、「猫」が風雷雨をもたらすモチーフがほぼ普遍的に見られるのだが、どうしても棺桶を宙吊りにするイメージと、奇妙なお経のイメージに主役の座を奪われて、「猫」が「風水神」としての性質を顕していることには、あまり気付いてもらえないのである。実際、既に述べた「龍徳寺の猫」の話には直接「雨乞い」が関わるし、有名な「志津倉山のカシャ猫」の舞台は「雨乞い岩」と隣り合っている。

そして、実は「蹴裂伝説」との関係から見ても、「東北」には興味深い伝承が存在するのである。「秋田県」の「八郎潟」の名前の元となった「八郎太郎」の伝説である。

「八郎太郎」は、この地方の「ダイダラボッチ」に当たる巨人なのだが、異伝は多いので、その伝説を一つにまとめて紹介するのは困難である。ただ、その特徴をかいつまんで列挙すると次のようになる。

1. 「十和田湖」「田沢湖」「八郎潟」などの地形変成譚である。
2. 「南祖坊」に「十和田湖」を追われ「八郎潟」を造るに至る物語が有名。
3. 「田沢湖」の「辰子」との婚姻譚も有名。

付属的な特徴としては、次の事項が挙げられる。

・「八郎太郎」は竜の子らしい。自身、龍になってしまう伝説も多い。
・湖が凍ることと、主の婚姻を関係づける傾向がある。
・「糸巻型」「覗くなの間」などの「三輪型通婚譚」の特徴
・「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」の存在
・藤蔓で山を背負うモチーフ

本稿で特に興味を引くのは、上記の第二の伝承なのだが、「十和田湖」を追われた「八郎太郎」は、「米代川」をせき止めて、「鷹巣盆地」を湖にすると、そこに何年か住み着いたと云うのである。その地が、「七座 ななくら 神社」近くのだと伝えられる。

昔、この地に「八郎太郎」と云う巨人が川を堰き止めて住んでいたが、神々がこれを追い出そうとして白鼠を遣わし、土手に穴を掘り始めた。ところが、この鼠を襲おうと猫たちが集まってきたので、神々は猫をつないでこれを防いだ。それでここの地名は初め「猫繋 ねこつなぎ 」になったのだが、やがて転訛して「小繋」になったと云う。

「小繋」には「禁鼠大明神」の祠があり、「七座神社」で「鼠除けの札」を分けているのもここからきている。

参照・野添憲治/編 (1977) 『日本の伝説14・秋田の伝説』角川書店

この伝説は一瞥して、「ダイダラボッチ」系統のものであることが察知出来るのだが、実は本稿の冒頭の方で紹介した一群の「猫の地形変成譚」とも、偶然ならざる類似点を有していることに気づかれるだろう。

「七浦海岸の猫岩」伝説と比較した時、「地形変成」のモチーフ以外にも、「神々と対立する主人公とその分身の猫」と云う構図も共通している。「猫」が争闘の中断を呼び込んでいると云う点、前半で筆者が使った表現をそのまま使用するならば、「それぞれの目的を持った直線的な行動を『宙吊り』にされ、首尾半ばにして、カタストロフィックな収束へと物語を導いている」点でも共通しているのである。

本稿の前半部では紹介を見送ったのだが、実は「佐渡」には別の (より有名な) 「猫譚」も伝わっており、こちらの伝えは「小繋」の伝説との類似がより明白である。

昔、北から鬼が来て「佐渡」を取ると云ったら、「金北山大権現」が節分の豆から芽が出たら譲ろうと応えた。ところがある年、節分の豆から芽が出てしまったため、「金北山大権現」は「土竜」を作って「大豆」を枯らそうとした。これに対して鬼は怒って「猫」を作り、「土竜」を退治させた。だから節分の豆はよく炒らなければならないのだと云う。

参照・茅原鐵蔵 (1916) 「佐渡金沢村より」
郷土研究之会/編 (1916) 『郷土研究』第四巻一号、郷土研究社、p. 56

「山形県・新庄地方」にも類話が伝わる。以下に、筆者の要約を載せる。

昔、人をとって食う恐ろしい鬼がいた。そこで「釈迦」が、炒り豆を畑に蒔いて、この豆が生えてくるまで人を食ってはいけない、と云った。ところが、鬼が毎日毎日、水をやって、早く生えろ、早く生えろ、と願ったせいか、豆が生えてきた。鬼は喜んで「釈迦」に人間を食ってもよいとの許可をもらいにいくと、「釈迦」は、明日、自分が確認してからだと云った。そして秘かに鼠たちを呼び、豆を食べてしまうよう命じた。翌日、「釈迦」が畑を見に行くと豆は一本も生えていなかった。夜のうちに鼠が来て食ってしまったと聞いた鬼は怒って、猫を使って鼠を退治した。猫と鼠が仲が悪いのはこのためだ。

参照・「猫と鼠」『山形新聞』平成二十年 (2008) 七月十五日掲載
http://yamagata-np.jp/minwa/minwa59.html

「佐渡」の「猫と土竜」の伝えでさえ十分に「小繋」の伝説と類似するが、さすがに地理的な距離が近づく「山形県・新庄地方」の伝承となると、いよいよその類似は顕著となっているのが分かるだろう。

「小繋」の伝説は、「地形変成」のモチーフを残しつつ、大地の開拓と云う要素を含んでいないのだが、「佐渡」および「新庄」の伝えは、この「開拓」の要素を遺していることは明らかである。特に「新庄」の伝承では、鬼が豆に水をやって育てているところに、「開拓」の要素がはっきりと遺されている。

時代の流れの中で、元となった原説話は変質を遂げ、ほとんど原形を留めていないものになってしまっているのだろうけれど、「日本海」沿岸地方を縦断するかのように存在する「唐猫」の類縁譚を並べて整理すると、仮にそれらが一つの起源から発したものとするならば、その原型の主たるモチーフは次のように抽出出来そうである。

1. 「蹴裂」の要素を含む
 a) 「地形変成」を含む
 b) 「開拓・開墾」を含む
2. 「蛇神」としての土地開拓の神 (巨人) と、天の神との対立
3. 両者の争闘は、事実上、引分けに終わる

悪者扱いされている「鬼」や「八郎太郎」などを「土地開拓の神」とすることには抵抗があるかも知れないが、「小繋」では「七座神社」境内に「禁鼠大明神」の祠もあり、神々が送った「鼠」を禁ずる効験を謳っているのだから、その起源には「八郎太郎」や「猫」の側を神と見なす心性があったのだろうと思われる。我が国の「鬼」と云う概念自体が、平野民が貶めた「金工の神」の零落した姿だと云うことは、民俗学の世界からしばしば指摘されている通りである。「伊弉諾尊/伊弉冉尊」が神であることは疑いを入れない。しかも、これらにはみな「巨人」の匂いがついて廻る。

敢えて反論すれば、「塩田平の唐猫伝説」に登場する「鼠」のみが、どうにも「土地開拓の神」と云う柄ではなさそうだ、と云うことになろうか。しかし、既に触れたように、「蹴裂伝説」においては、そもそも大自然の相対立する二つの力の角逐こそが、その主たるイメージである可能性すらあるので、それがやがて二つの天敵動物の争いへと退化してしまったとしても、さほど不思議とは云えないのである。

今回重要なのは、これら一見バラバラに見えていた諸伝承が、一定の地理的な連続性を持って、緩やかではあるが、共通した象徴性の下で結びつけられたことである。「新潟県」や「長野県」を挟んで、「島根県」から「秋田県」に至る「日本海沿岸」地域に、いまや表面的にはほとんど読み取れなくなってしまった文化的な連続性を持った伝承母体の行き来があったことを示唆する今回の考察の結果は、筆者の「猫神探訪」に、わずかばかりの光明を与えてくれただけでなく、また新たな方向性を見出してくれたとさえ云える。

*

また、「長野県」の「唐猫」を巡る言い伝えの中に、「蹴裂伝説」との関わりが見えたこと、そして、その中で「唐猫」に「風水神」としての性格が、色々な角度から明確に立ち現れ始めたことが確認出来たのは、非常に重要な到達点であったと云える。そして、そのことを通して、いくつか過去にやり残してきた課題の方向性も明確になったと云える。

本稿も終りに近づきつつある現時点では、これ以上手を広げているゆとりはまったくないが、この結果を受けて、以前「栃木県の猫神」のシリーズで展開した「磐裂神社」に関する所説も、補強・修正しなければならないことは明確になった。

あの記事を書いた当時は、「日光信仰」の枠組みの中に、どのように始祖神としての「磐裂神・根裂神」を組み入れるものか、と云う点に必要以上に気をとられていたため、両神格を「明星」の象徴として理解することに説明の大半を費やしたと覚えている。そのこと自体は、いまでも間違ったとは思っていないのだが、その根源にあった「磐裂神・根裂神」の性格については、踏込んで理解しようとする努力を欠いていたと反省している。「磐裂神・根裂神」を「岩を裂く雷神」「木の根を裂く雷神」と理解する岩波の古典文学大系本の「記紀」の注釈にとどまらず、何故、他にも「雷神」がいる中で、特定の文脈では「磐裂神・根裂神」が選ばれるのか、と云う点により関心を寄せるべきだったと思っている。しかも、何故、裂くのが「岩」であり「根」であるのか、と云う点もより追求すべきであった。

結果として、「風水神として猫」と云う仮説を立てておきながら、どのような「風水神」なのかの性格付けが曖昧になり、それ故に「大黒天」の信仰とどのようにつながるのかと云う時点で大停止を喰らうこととなってしまった。図らずも、「長野県」の「猫神」の考察を行なうことで、「猫」の「風水神」としての、より具体的な性格が見え始めたと云える。

*

さらには、本稿でも少しばかり触れたが、「阿蘇山」にもよく知られた「蹴裂伝説」がある。こちらの伝承は、多くの点で「信濃」の「蹴裂伝説」とつながるのだが、実は「日本海沿岸」に広がる「唐猫伝説」との絡みで見たとき、果たしてこの地域の伝承もその一脈に通ずるものなのか、いまだ検証が必要と思えたため、敢えて大きく採り上げることはなかった。ただ、「蹴裂伝説」に見られる「鉱工業」との深いつながりを今後追究していくならば、「阿蘇」の「蹴裂伝説」もまた、重要な傍証となるだろうことは間違いない。既に、今までの稿で何度か触れているが、筆者は我が国の「猫神」信仰には、その古層で「風水神」としての特質が見え隠れすると述べてきたが、その流れの中で、それとは別系統と思える「鉱山」とのつながりも見えることを告白してきた。しかし、「蹴裂伝説」を媒介項とすると、もしかしたら今後は、この二つの「猫神」の性格が一つのものへと収斂される可能性も出てきたのである。

そこで、今後の探求の下地造りも兼ね、以下、「阿蘇」の「蹴裂伝説」に関して、障りだけでも紹介しておこう。内容は、諸書から筆者が要約したものである。

「阿蘇」の外輪山の内側は大きな湖であったのを、「神倭磐余彦尊 (神武天皇) 」の長子「神八井耳命」の子とされる「健磐龍 たけいわたつ 命」が、外輪山の西側を蹴り裂き、湖水を流して「阿蘇」を開墾し、「阿蘇神社」に祀られたと云うものである。細かい異伝は沢山あり、火口瀬の立野を蹴破って水を流したが、川上にいた「大鯰」が途中から水の流れ堰き止めてしまったため、命はこれを退治して、「阿蘇」の火口原の湖を平地にすることに成功したと云う話もある。

既に何度か登場している民俗学の「谷川健一」氏は、この伝説に関して、次のように述べ、「蹴裂伝説」が鉄器を用いての開墾や開拓を暗示していると云う。

湖を有明海に流したと伝えられるときの水路が今の菊池川なのであるが、菊池川の流域は肥後でも有名な砂鉄地帯であった。こうした蹴裂伝説が阿蘇国造の祖神であるタケイワタツ命にまつわっていることは、阿蘇君の性格、延いてはその同族である多氏の性格をつかむ手がかりとなる。

谷川健一 (1979) 『青銅の神の足跡』集英社、pp. 256-257

彼は、さらに『日本書紀』の「神功皇后摂政前期 (仲哀天皇九年四月) 」の記事を紹介して、明確にこの「蹴裂」の神が、「雷神」であることを指摘する。

福岡市中を流れる郡珂川の水を田に引こうとして、灌漑用の溝を掘ったが大岩がふさがっていて溝をとおすことができない。神功皇后は武内宿禰を呼ぴつけ、剣と鏡を神前にささげて祈らせたところ、雷がはげしく鳴り、その岩をふみ裂いて水が流れるようになった。そこで、その溝を裂田溝 たくたのうなで と称した、というものである。

ここにいう雷電とは、鍛冶神または金属神の別称でもあるから、おそらく鉄器をもって大岩をこわしたことを指すのであろう。

谷川健一 (1979) 『青銅の神の足跡』集英社、p. 257

「谷川」氏は、『古事記』によれば、全国各地に「蹴裂伝説」を残したと思しい「火君」「阿蘇君」「大分君」それに「科野君」などは、「神八井耳命」の末裔である「多氏」の同族とされるのだが、これら「多氏」は「朝鮮半島からの渡来人」であり、「金属精錬の技術をもち、それによって低湿地帯を開拓する技術にもまた長じていた」と、最終的には論じている。ただし、現在分かっていることの差異から、可能な限り理論的に再構成出来る過去に焦点を当てると云う筆者の論法で行くと、現在のところははそこまでは踏み込めないでいる。誤解のないように記すならば、筆者は「谷川氏」の資料や検証が不足していると述べているのではなく、恥ずかしながら、それを受け売り以上のレベルで筆者自身が消化し切れていないと云っているのである。

ただ、「猫神」の潜在的な性格として浮上してきた「風水神」と「鉱山神」としての性質を、別系統のものと見なすか、それとも同系統のものと見なすかは、極めて重要な理論的な分岐点を提供することになるかもしれず、その意味では「阿蘇」の「蹴裂伝説」及び全国の「多氏」の事跡の痕を、今後はより丁寧に考察していかなければならないことは、はっきりした。

*

今回は敢えて触れなかった事項で、全国の「ダイダラボッチ伝説」や「蹴裂伝説」などに関わる可能性があるものに、「蛇神」の問題もある。これは、上に掲げた「阿蘇」の「蹴裂伝説」や、「多氏」とのつながりとも深い関係にあることが知られている。

実際、「諏訪明神」や「甲賀三郎」と「蛇神」のからみもさながら、「小太郎伝説」はそのまま「龍」の伝説でもあるし、「八郎太郎」も「龍体」と考えられていた。「阿蘇君」や「大分君」の流れに当たる家系には、「蛇神」の血筋を唱える家も多い。そのような「三輪山型」の婚姻譚を持つ一族は、実は、今回触れてきた「蹴裂伝説」の地に多く見られる。『常陸国風土記』で有名な「くれふし山」伝説の地も、実は「ダイダラボッチ」伝承の地である。

「猫神」に関しては、「水神・風雨神・雷神」、そして各地の「蹴裂伝説」などに見られるように「地形変成の神」としての性格も見え始めたが、その神的性格が抽象的で、かつそれに対する筆者の理解がいまだ中途半端な段階に止まっているため、その全貌に迫るには至っていない、と云う印象は相変わらず拭えないでいる。

このように見ていくと、「唐猫」や「猫神」の伝説と、「蹴裂伝説」の地をつなぐ「蛇神」の要素をより積極的に探求しないのは、愚の骨頂なのではないかと思われるかもしれない。しかし、筆者は今回、その方向での探求を敢えて控えてきたのである。何故なら、現在でもかつての養蚕地に「猫神」の碑などが残されている場合、「蛇神」の碑などを伴う事例が極めて多く、そのために、単純に「猫神=蛇神」、あるいは「猫神」は「蛇神」の一側面を象徴しており、共に「鼠」を退治するため、農耕の守護神として祀られたのだと云う結論に急ぐ傾向の論者があまりに多いからである。

大体、昔話研究などでも、我が国では「鼠」が必ずしも「悪者」としては描かれず、福の神の使いの如く扱われると云う事実が指摘されているのに、「猫神」の話になると「民俗」関係の研究者たちがこぞって「鼠退治=養蚕」と持っていくのは不自然だと云わざるを得ない。大体、「鼠退治」ならば、何も「養蚕」に限る必要はなく、より全国的に「猫神」の信仰は波及していたとしてもおかしくないのである。

当然、筆者も「蛇神」は、「猫神」を巡る探訪をするに当たって、非常に重要な理論的構成要素になるだろうことは感じている。しかし、「蛇」に関する研究は、既に錚々たる専門家たちによって行なわれてもおり、いまさら一浅学の筆者がのこのこと足を踏み入れなくてもよい、と云う事情もある。それよりも、筆者は一見、共通する部分が多く見えながら、何故、そしてどの点において「猫神」は「蛇神」と峻別されるのか、と云う点に頭を悩ましてきた。それは、そのまま、かつては全国的に隆盛した「蛇神信仰」が衰えてしまったことと関係してか、「猫神信仰」はそれ以上にその姿を消してしまっていることとつながっている可能性すらあるから、もしもそれを掘り起こすとするならば、より慎重でかつ大胆な手法が要されることは疑い得ない。

幸いなことに、本稿での考察を通して、朧げながら、これらの問いに対する答えがようやく見え始めたのである。「建部神社の唐猫」の探求を開始した当初、自らの中で打ち立てた暫定的な目標とはだいぶ方向がズレてしまったことは認めざるを得ないが、間違いなくより大きな収穫を得ることが出来たと云える。

それは、この稿の中で何度か述べたように、「猫」が「変成」を象徴しつつも、その荒々しい「力」そのものよりは、その「契機」を表わしていることが多く、また往々にしてその「中断」をも表わしていることに注意を向けた結果、浮かび上がってきた事実ではある。ただし、今までにも「猫檀家」譚や、「唐鐘海岸」の伝説、「佐渡」の伝説等々を通して、この「中断」あるいは「宙吊り」の要素には気付いていたのだけれども、それを「蹴裂伝説」と結びつけることでようやくその象徴的な意味合いが、わずかながら浮上してきたのである。

そして、その象徴性の裏に潜むイメージと云うのは、おそらく「津波」や「洪水」なのである。今後、筆者の考察の方向は、これらの視点に重点をおいていくことになると思うのだが、その具体的な成果は、おそらく「猫神探訪」の「新潟編」に入った辺りか、あるいは早くとも「塩田平の唐猫伝説」の本編を取り扱うときになると思う。

本稿の後は、しばらくはブログが開始された当初のような、関連する「長野県」の「猫神」の簡単な紹介記事に終始することとなると思う。



7. おわりに


最後に、つけたりの観は否めないが、表題通りの話題に少しだけ触れることとしよう。

「古川敏夫」氏によると、同じ「山形村」の中にある「小坂」の「諏訪神社」にも「唐猫様」があるらしいのだが、そちらは石造りのものだと云う。石造りとなると、はたして雨乞いの儀式の時に川や池に叩き込んだかは疑わしくなるが、これだけ近接する地域の別の神社に、「唐猫様」が二組存在するのも興味深い。

いずれにせよ、「建部神社」の「唐猫様」が、図像学的には一般に「狛犬」や「唐獅子」と呼ばれる架空の動物と同じ系統のものであることは明らかである。「阿吽」で角のあるものとないものに分かれるのも、「狛犬」の古式に則った形態だと云える。

現在、「阿吽」をまとめて単に「狛犬」と呼ばれているものは、本来、「獅子・狛犬」と区別されていたもので、向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で「獅子」、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で「狛犬」だったのである。

我が国では、宮殿の守護獣として創出されたらしいのだが、ここで「狛犬」の歴史を概観するゆとりはないので、その辺の事情の説明はしない。しかし、一般に「狛犬」が現在のように寺社の門脇に、守護神のように鎮座するようになる前までは、木造の塗り物であったことが知られている。室内に祀られるもので、当然、規模も小さいものであった。それがやがて「石彫」に変化することで、屋外に据えることも可能になり、その大きさも増していくこととなったのである。

初めの「石彫」の「狛犬」たちは、そのため、現在の基準から見ると極めて小さく、台座もなかったため、銘文等は一般にその彫像の胴体部に直接に刻まれた。「本殿・外陣」から「拝殿」へ、さらには「拝殿前」そして参道入口へと、「狛犬」は移される度にその大きさもまして立派になっていったと云える。

「建部神社」のものは、「狛犬」が石造になってゆく前の時代の造形遺産だと云える。どんなに新しくとも、「室町時代後期」までのものだと考えられるのだが、確実な年代測定は現在の技術では無理だろう。

今後は、「長野県内」を中心に、他の地域に見られる「唐猫」とさらなる比較考量を重ねつつ、今回は辿り着けなかった先へと、議論を進めていけたら幸いである。

*


筆者の「唐猫」を巡る旅は、まだ始まったばかりである。

「建部神社」の地図は、こちら



参考文献

a) 主要文献
・古川敏夫 (2008) 『建部神社の唐猫様』自刊
・山形村誌編集委員会/編 (1980) 『村誌 やまがた』山形村誌編纂会

b) 各地の「唐猫」関係

「塩田平の唐猫伝説」関係
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 日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成 第二期 24』吉川弘文館
・小縣郡役所/編 (1922) 『小縣郡史』自刊
 復刻・小県郡/編 (1973) 『小県郡史』日本郡誌史料集成、明治文献
・小泉清見 (1932) 「長野縣傳說集」
 民俗學會/編 (1932) 『民俗學』四卷一號、自刊
・梶原末雄 (1932) 「信州寳ヶ池の傳說と蠶に關する俗信」
 三元社/編 (1932) 『旅と傳說』五卷・二號、自刊
・柳田國男 (1933/1942改訂) 『桃太郎の誕生』三省堂
 ちくま文庫版 (1990) 『柳田國男全集 10』
・橋詰三行/編 (1979) 「九、大鼠と唐猫」
 
坂城町誌刊行会/編 (1979) 『坂城町誌』上巻、自刊
・細川修・松本清人 (1987) 「第十二編 口頭伝承 第二章伝説 : 二、石の伝説」
 長野県/編 (1987) 『長野県史・民俗編・東信地方・ことばと伝承』一巻三号、長野県史刊行会
・矢部辰男 (1988) 『昔のねずみと今のねずみ』どうぶつ社
・谷川健一 (1989) 『青銅の神の足跡』集英社文庫
・長野地方事務所 (1993) 『長野地域民話集 昔々あるところより』長野広域行政組合
・長谷川恩 (1996) 『ネズミと日本人』三一書房
・和田登/編著 (2006) 「唐猫伝説」『信州の民話伝説集成・東信編』一草舎

「石見の伝説」
・千代延尚壽 (1934) 「犬島」
 
三元社/編 (1934) 『旅と傳說』七卷一號/通卷七十三號、自刊
・大庭良美/編 (1978) 「猫島犬島」
 
大庭良美/編 (1978) 『日本の民話 石見の民話・第二集』未来社

「荒尾市の伝説」
・広田正広/話・島本芳伸/画 (1986) 『火の国・熊本の昔ばなし』竹下隆文堂
・熊本史談会/編 (1989) 『肥後の民話と伝説』葦書房

その他
・下田博美/編 (1984) 『こちんだの民話・昔話編』東風平町教育委員会
・濱田隆一 (1932) 「肥後天草島の民譚 (四) 」
 郷土研究社 (1932) 『郷土研究』六巻三号、自刊
・荻原直正/編 (1951) 『因伯伝説集』鳥取県図書館協会

c) 「泉小太郎」関係
・鈴木重武・三井弘篤/編 (1724) 『信府統記』「舊俗傳」享保九年
 小松芳郎/解題 (1996) 『信府統記』国書刊行会
・降幡雎 (雷淵)  (1904) 『新撰仁科記』伊藤書店
・柳田國男 (1942) 『桃太郎の誕生』改訂版、三省堂 (原版 1933)
 ちくま文庫版 (1990) 『柳田國男全集 10』
・村澤武夫 (1943) 『信濃傳説集』山村書院
・松谷みよ子 (1960) 『龍の子太郎』講談社
・細川修・松本清人 (1987) 「第十二編・口頭伝承 第三章・世間話」
 長野県/編 (1987) 『長野県史』民俗編・第一巻三号、長野県史刊行会
・倉石忠彦 (1991) 「泉小太郎と小泉小太郎」
 昔話伝説研究会/編 (1991) 『昔話伝説研究』第十六号、自刊
・松谷みよ子 (2005) 『民話の世界』PHP研究所

d) 「唐猫」関係
・あづみ野児童文学会/編 (1998) 『あづみ野・大町の民話』 郷土出版社
・小野神社資料館運営委員会/編 (2005) 『小野神社誌』小野神社資料館運営委員会
・続小野神社誌編集委員会/編 (2005) 『小野神社誌・続』小野神社資料館運営委員会
・はまみつを/編著 (2006) 『信州の民話伝説集成・中信編』一草舎

e) 「千国街道」関係
・亀井千歩子 (1976) 『塩の道・千国街道物語』国書刊行会
・亀井千歩子 (1980) 『塩の道・千国街道』東京新聞出版局
・木下良/編 (1981) 『日本の街道』第三巻、児玉幸多/監、集英社
・郷津弘文 (1986) 『千国街道からみた日本の古代』栂池高原ホテル出版部
・田中欣一 (1982) 『塩の道・千国街道』銀河書房
・大日方健 (1990) 『千国街道ものがたり』郷土出版社
・大日方健 (1994) 『「塩の道(千国街道)」に歴史をひろう』ほおずき書籍
・田中欣一 (1997) 『塩の道500景・千国街道を歩く』信濃毎日新聞社
・田中元二/編 (2001) 『古道案内・塩の道千国街道』白馬小谷研究社

f) その他
・黒川道祐 (1686) 『雍州府志』貞享三年
 宗政五十緒/校 (2002) 『雍州府志』上巻、岩波文庫
・貝原益軒 (1714以前) 『朝野雜載』
 神道大系編纂会/編 (1992) 『神道大系』古典編 13、自刊
・菊岡沾涼 (1743) 『諸國里人談』寛保三年
 日本随筆大成編輯部/編 (1995) 『日本随筆大成 第二期 24』吉川弘文館
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・篠崎健一郎 (2006) 「仁科氏時代の安曇とその文化」
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参考サイト・新聞
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・『山形新聞』平成二十年 (2008) 七月十五日掲載
・『パワースポット in 佐渡』「夫婦岩の伝説」
 http://www3.ocn.ne.jp/~meoto/meotoiwa/meotoiwa.html
佐渡島「大佐渡巡り」』より
 http://choichi.cocolog-nifty.com/photos/sadonoi/04_088.html

万葉の旅・辛の崎HPより
 http://blowinthewind.net/manyo/manyo-karanosaki.htm

民話紙芝居「小泉小太郎物語」
 http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kotaro/index.htm
taki3D
 http://taki3d.la.coocan.jp/07kinki/nara/totukawa/nara_totukawa_nekomata.htm
ぽ・ぽ・ぽ・・さんぽ
 http://sanpopopo.at.webry.info/201007/article_12.html
ヤマレコ
 http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-88776.htm

『にゃん古譚』=めちゃくちゃ優良サイト!!
 http://nyankotan.bake-neko.net/index.html
日々是不思議也のコメント=めちゃくちゃ優良サイト!!
 http://blogs.yahoo.co.jp/onikirai_sat/5914256.html
・『
黒猫 : 江戸を斬る
 http://catmomoz42.blog.so-net.ne.jp/2006-05-23


静岡県の猫神・安養寺の猫

.19 2010 中部地方 comment(1) trackback(0)
曹洞宗
般若山・安養寺
富士宮市杉田 489
0544-26-3723


1. はじめに

俗に「狸寺」との異名をも持つ「杉田の安養寺」は、県道76号・富士宮由比線を東から「富士宮市」の中心部へと向かって走る途中にある。地図の上で見つけるだけなら、県道76号の「小泉若宮」交差点から東へ一・六キロほど入った地点とでも云おうか。

筆者が、この辺りを散策するきっかけとなったのは、そもそも「山梨県」の茶産地を巡っていたことなのである。「南部町万沢」の「まるわ茶園」に寄った帰りに、「南部町」から南へと向かい、東名高速道路に出て「千葉」に帰るのが常なのだが、ついでにその途中に散在する自園自製のお茶屋さんものぞいてみようと云うことになり、この辺りを徘徊したのである。したがって、この辺りは「富士宮市内」とは云っても、茶畑などが方々に広がる、農村の風情が色濃く残る一帯でもある。正直に云って、「まるわ茶園」ほどのお茶は結局、どこを訪ねても見つからなかったが、副産物として、猫がらみの地名や寺社・伝説などを発見・収集するのに成功した。そのような発見の一つが、「安養寺」なのである。

「関東」方面から「安養寺」に向かう場合、東名高速道路の「富士インターチェンジ」を降りて、西富士道路を使って北上すると到着が早まる。しかし、到着時間にそんなに差がある訳ではなし、途中色々と見ていくことが出来るから、実際には、「富士インター」からは下の道で行く方が好きである。その場合は、国道139号に右折して降り、七百メートルくらい先の「伝法沢」の信号を右へとハンドルを執って県道72号・富士白糸滝公園線に入るルートを選択する。ここからは、二、三キロ先の「中野」の交差点を左折して県道76号に入るのである。途中、一度越える小さな川が「伝法沢」である。いい名前である。

*

ちなみに、右折してしまった「伝法沢」の交差点を直進したやや先の方には、「保寿寺」がある。一般に、地名を頭につけて「伝法保寿寺」と呼ばれている。いまわれらが向かっている「杉田安養寺」の本寺である。

曹洞宗

保寿寺

富士市伝法上田端 1661
0545-52-2140



2. 「安養寺」探訪

県道76号を西へと一キロちょっと走っていると、「不動沢橋」で「不動沢」を越え、「富士特別支援養護学校」を右に見つつ、わずか数百メートルで「砂沢橋」を伝って「砂沢川」を渡る。橋を渡った後,右に見えるのは「新富士病院」。この先の信号を直進して百メートルかそこら、「千貫松」のバス停の先で、いよいよ市境を越えて「富士宮市」の「杉田地区」に入ったことになる。

その先、「木河橋」で「子安沢」を越えると、県道沿いに「安養寺」のバス停が現われ、橋を越えて最初の信号 (「中野」から数えると五個目) 、その名も「安養寺前」の信号に到達する。ここを右折すれば、もう「安養寺」の門前である。角には、かなり目立つ「そば処 岩平」の看板がある。

寺号標の石柱と大公孫樹

寺の入口には、「曹洞宗 安養寺」と刻まれた堂々たる石の標柱が立ち、その右下にはよくある寺の掲示板、左下には石碑があり、その裏手が駐車場となっている。石の標柱の左の進入路、と云うか参道の始まりに入って駐車場に至ればよい。石柱などと駐車場との間に、大きな観音像や石仏の類いが祭られていた。

参道入口を入らず、道をそのまま直進して、大きなタイヤ型の看板を目印に、お寺の裏へとまわる左への道を入ると、やがて第二駐車場が現われる。もっとも、何かの祭日でもない限り、第一駐車場が使えないと云うことは、まずないそうである。

参道左手の銀杏園

入口の石の標柱の真横には巨大な公孫樹の木が立っている。そしてその参道をはさんだ向かい側には、聖域を画された松の木や戦没者の慰霊碑などもあり、その裏手一面は、よく見るまでもなく、あまり見る機会のない銀杏園が広がっている。

銀杏園の先は、急に土地が落ち窪み、小さな谷地を形成しているのだが、この辺りに一むらの樹林がある。このわずか十五平方メートルほどの樹林は、しかし、「富士宮市」の保存樹林に指定されている貴重な植物層なのである。市街地の直近にも関わらず、「タブノキ」や「カゴノキ」などの貴重な樹種が生え、目通りが三メートル以上に達する巨木も三本あると云う。


両脇に杉の高木が立ち並ぶ参道を奥の方へと進むと、北の方角から、人工的に石組みされた小さな沢が流れて来る。「沢」というよりは、「禅宗」寺院に特徴的な石の「滝組」なのだろう。谷地の中に導かれる「滝組」と、参道脇に引かれる「滝組」との二つがある。


水流は、心地よい音を樹間に響かせながら、やがて参道脇の石組みの水場へと導かれ、最後の段差を下りつつ、横に延びた竹樋から石の水鉢へと清冽な水を分けてくれている。横に、黒い御影石の磨き込まれた小碑があったが、非常に個人的な母への供養碑だった。


ここでふと不思議に思ったのだが、参道に立つ杉と思しき樹々は、背こそ高いが、古刹にしばしば見られるような威圧するほどの古木ではないのである。決して若木ではないが、せいぜいが百年かそこらと云った感じである。この疑問は、後ほど「滝ノ上不動尊」を訪ねた時に解き明かされることになる。

あれこれと眺めつ考えつ、まっ直ぐ涼しい木蔭の参道をなおも進んで行くと、右手に一際立派な「狸の石像」が現れる。


台座正面には、堂々たる楷書で「安養寺 狸おしょうさん」と刻されている。土台の側面には、「狸寺のいわれ」と題された文が彫られている。さらに像の左側には、「安養寺」「富士宮市 歩く博物館 Lコース 7」と白文字で書かれた茶色い標識柱が建てられていた。

狸寺のいわれ

永正十三年 (一五一六年) 鎌倉建長寺より秀睦和尚が来住してから修行僧が多くなり境内の岩穴に住む古狸が旅僧に化身して修行したが寺で犬を飼うようになるとこの犬をひどく恐れるあまり和尚に礼状を残して旅立ったが十年ほどして犬が死ぬと再び訪れたが秀睦和尚が亡くなっていたので村人も立派になったこの僧を住職に迎えた。僧はよく人々を導いたが時々はだしで外へ出てあわてて戻ったり大いびきをかいて寝たり人前でけっして食事をしなかったりまた以前と同じく異常に犬を恐れることから怪しむ人もいたが当時法事に行く途中駕に乗った和尚を多くの犬が襲いかみつかれたことから病になり十日目に亡くなったがその亡きがらは十余年前に亡くなった秀睦和尚の姿であったといわれる。この後俗に狸寺といわれるようになった。

昭和六十三年十二月吉日 廿五世 清水俊雄

この「狸和尚」の像を過ぎると、左の土手際に多くの石仏が林立している箇所に出る。多くは「地蔵尊」とも「羅漢様」とも思われる端正な面立ちの仏様の一群である。覆い屋もなく、路傍に無造作に立ち並ぶ石地蔵の群れと云うのも近頃は珍しく、木陰のつくり出す陰影がなお一層その不思議な雰囲気を増幅させたせいか、筆者はすっかりこの仏像群に魅入ってしまった。あるいは禅寺独特の石像群なのかも知れぬ。


しかし、ふと気づくと、一群の中には、肉厚の味わい深い顔をした、なかなか個性的な仏様もいた。さらにその横には「恍惚の人」と云うか云わんか、汚れのない笑顔で座る石像があった。

ちなみに、寺の「本堂」へと続く石段が、石の仏様たちの手前から、見るものの目線を左手の壇上の「山門」へと誘っていたのだが、筆者は、石仏様たちに気を取られ過ぎていたせいか「山門」の発見が遅れてしまったのである。より正確には、勝手に「山門」は参道の正面にあるだろうと思っていたからかもしれない。そのため、始めは「安養寺」の「塔頭」の門ではないかと思ったくらいである。

*

「狸和尚」や石像群の先にには「石楠花」の木が植えられており、その木の奥手側に、「野鳥と女神」と題された不思議な像もあった。


台座の横に「贈 上杉柾四」と刻まれている他、由来書きとかは見えなかった。柵の向こうに立っていたので、もしかしたら、台座の反対側に何か由来が書いてあるのかも知れない。仏典中の逸話から引いたモチーフなのかは分からないが、古代インドのものと思われる装束を身にまとった胸も露わな少女が、左手を肩まで折り曲げ、手の甲に鳥を載せている姿である。ガンダーラ仏のような整った顔つきである。曲げた手の肘からは、地元の人の温かい心遣いだろうか、あるいはお寺の方によるものか、花を一杯に咲かせた花籠が提げられていた。

余談だが、「狸像」の足下には、「蕗」が繁茂しており、春先にはさぞ多くの「蕗の薹」が採れるだろうなどと下らぬことを思いながら、歩を進めた。

*


階段の上の「山門」の手前には、古色蒼然たる六地蔵などが立ち並び、屋根には「武田菱紋」が掲げられ、寺の来歴を無言のうちに偲ばせていた。この門をくぐると正面の石灯籠の向こうに「本堂」、そして右手前に石垣の土台の上に築かれた「鐘楼」が見えてくる。「鐘楼」の木組みは、「山門」の素朴さとは打って変わり、「禅宗様」らしい緻密な細工を施された絢爛たるものであった。


「本堂」の賽銭箱には金字で「佛前」と書かれており、左手の建物には「禅堂」と書かれた額が掲げられていた。「山門」を入ってすぐ左手には、侘び寂びた佇まいのトイレ舎があった。中も、清潔だった。

逆光で、「武田菱」が見えないのが残念...。でも、狸和尚は小さく見えている。

「山門」から振り返ると、「狸和尚」の像が、ちょうど正面になるように配置されていることに気づいた。目の前で見たときは、かなり大きく感じた銅像も、境内から見下ろすとまるで子狸が托鉢に来たのかとおもわれるほど愛らしかった。筆者の頭の中に、「新美南吉」の『手袋を買いに』がちらついた。まあ、あれは子狐だったけれど...。

*

寺伝によると、「安養寺」は「平安初期」の延歴三年 (784) に開創され、元享元年 (1321) に「臨済宗」となり、後に「今川義元」が「曹洞宗」へ改めたと云う。「武田氏」の外護を受けるようになったのは、その後と思われるので、まさに「信玄・勝頼」の時代と云うことになろうか。

「戦国期」には、「浅間神社・案主」の「富士氏」に連なる「地頭・富士図書助」によって畑・山林・屋敷が寄進され、「江戸期」は、朱印高七石となった。

「江戸期」は、寺の裏手数百メートルの位置に「塔頭・龍泉寺」があり、その足下に「杉田の大滝・不動の滝」があった。その他、末寺は七箇寺もあったが、「富士市」の「中之郷」にある「宗清寺」と同じく「久沢」にある「曽我寺」を除いて、すべて「明治初期」の「廃仏毀釈」の嵐の中で廃寺となってしまった。

「本寺」は、「伝法保寿寺」で、「開基」は「雲中慶公和尚」、「中興」は「雲峰智長和尚」とされ、「本尊」には「西方無量寿仏」と「阿弥陀如来」を祭っている。



3. 「滝ノ上不動」へ


正面の「本堂」と「禅堂」の間から、「本堂裏」へと降りてゆく道があり、ここを降りると「不動堂」の方へと続く草蒸した坂道に出る。ちなみに、これは後で知ったのだが、実際には、寺の北側に第二駐車場方面へと続く道があり、ここを辿って寺裏の道を左へと進み、突き当たりを右折すると云う進路もあるそうである。こちらだと薮道を抜ける必要もないし、急な斜面を下ることもないと気づいた。もう遅いって...。

と云う訳で、ここでは初めに言及した草道を強引に進むこととする。


草に覆われた竹林の中の急な坂道を下ると「安養寺裏」の道に出る。ところどころ、巨大な筍が竚立しているのも不思議な風情があった。この道をそのまま北へと歩き、坂の先の丁字路を左へと曲がる。右に曲がると、先程ふれた「安養寺」の「第二駐車場」に出ることになる。

ここから少し行くと、「天間沢」に沿った段丘上の細い道を進むことになる。沿った、と云ってもここはそこそこに広い川谷となっている上、暖かい季節は樹木が生い茂るため、川への距離はそれなりにあり、その姿を望むのも途切れ途切れにである。しかし、川はあまり見えない代わりに、晴れていれば、歩く先に「富士山」の美しい姿が浮かび上がるのは余得と云えよう。何しろ、「東京湾」の東から眺めるのとは違い、「富士宮市内」とは云え、「富士」の山裾の近くを歩くのである、見えるのはまさに威容である。快晴でなくともその姿を拝することが出来るのも、また嬉しい。

右へと湾曲しながら数百メートルも歩くと、道はわれらを小さな集落へと導くこととなる。道の左手の人家は一段下がった雛壇上にあり、右手の家屋は、石垣で根を固めた壇上に建てられていた。ここの集落を抜けつつ、右に二つの路地を過ぎると、今度は左側に、沢へと下ってゆく小さな道が現われる。歩いていると、実際には道が二手に分かれたように感じられる分岐である。


竹林の間を下るこの道を辿ると、「天間沢」に出ることになり、この川を渡れば、向こう岸の上に、われらの目指している「不動堂」がある。

向正面の石段が「滝ノ上不動」に続く

この沢から右を見上げると、大きな岩が重なりあった急な斜面が見えるのだが、これこそが「杉田の大滝」なのである。普段はあまり水は流れておらず、雨の翌日だけ、「大滝」を見ることは出来る。


水量の少ないこの日の「杉田大滝」。
後で、この滝の上の石段で休憩した。

この川に橋らしい橋はない。ただ、川底は浅く、水量も極めて少ない。川は随所をコンクリートで補修されており、そのコンクリートの段が事実上の土橋のような役割を果たしているため、この上を渡ることになる。川中を歩いても、水深は膝どころか、足首までもなさそうであったが...。

*

既に見たように、「天間沢」を渡って、対岸の階段を登った先にあるのが「滝ノ上不動堂」なのだが、ここでは「不動尊」の紹介に入る前に、「安養寺」から車で来た場合の経路を確認しておこう。

「不動堂」に車で直接行くには、県道76号から信号を曲がった「安養寺」入口の道を、「安養寺・駐車場」に入らず、そのまま辿っていけばよい。緩やかな左カーブを描く上り坂を道なりに進みつづけ、くねくねとした小さなS字カーブの先の「杉田不動橋」で「天間沢」を渡ったら、その少し先にある畑とハウスの間にある左への道が「不動堂」への入口である。「滝ノ上集会所」の少し手前と云えばよいだろうか。やや傾斜のある細い坂道であるが、普通乗用車ならまったく通行に問題はないだろう。筆者としては、途中、集会所の直前くらいに見えた「苺の自動販売所」が印象に残った。

坂道を下った先に、ただの「広場」と云った感じの駐車場がある。ここのトイレは、外観も瀟洒ならば、中も水洗になっており、ここの駐車場が、如何に地元の方々によって綺麗に整備・維持されているかが分かる。ただ、知らないと、駐車場だとは気づかず、整地中の工事現場だと思って、通り過ぎてしまうかもしれず、そうなると道はやがて行き止まるし、細い道を切り返すのも難儀だと云うことになってしまうのである。とにかく、畑地とハウスの間の細い道を下るのである。



4. 「滝ノ上不動」探訪

駐車場の二つの案内板には、次のように記されていた。


不動尊駐車場竣工記念

杉田区発祥の原点と云われる不動尊の歴史は古く、建久四年源頼朝が富士の巻狩りに立ち寄り、雲や霧を払うべく祈ったところ、すっかり晴れたと云われる事から「雲切り不動」と呼ばれる様に成ったと申し伝えられる。

昭和の初期に杉田区有志の浄財により、拝殿が建築された。

以来杉田区役員有志等を始めとし、区民の御協力による本殿の改修そして県・市への陳情による予算獲得等により周辺の環境整備など不動尊は立派に守られて参りました。

そして不動尊への参拝者も時代の進歩による車社会に伴い徐々に多くなって参り、参拝者の為の入口道及び駐車場の整備が必要となって参りました。区民永年の夢が、今回地主の安養寺様・稲葉芳正様の心良い御理解と有志の皆様の御協力と、浄財によって完成する事が出来ました。ここに竣工を記念し、末永く顕彰するものであります。


平成十五年三月吉日
杉田神社運営委員会



富士宮市 歩く博物館 Lコース 5
滝ノ上の不動さん


この辺りを滝ノ上といい、不動さんが岩屋の中に祀られている。昔、ここには、安養寺末寺の龍泉寺不動堂があったと言われ、釈迦如来や六観音・地蔵菩薩などの石仏と、恩智養宗和尚の顕彰碑がある。

養宗は、安養寺の住職となり、檀家の人々の天水に頼る生活を見て、用水路を開いて生活水を確保しようと考え、不動堂近くの湧水を引く計画を立てた。万延二年 (一八六一) に工事を開始したが、安養寺までの約五百メートルの隧道を掘らなければならず、掘削に大変な苦労をした。最初は寺山の木を売って人を雇い工事を進めたが、その財源もなくなると、一人で隧道を掘り進め、文九二年 (一八六二) に杉田用水の完成をみた。その後、杉田用水は百戸余りのの生活用水として、上水道が普及するまで利用されてきた。

富士宮市教育委員会




駐車場から「不動堂」へと進むと、すぐに左の壁面に「六地蔵」ならぬ、「六観音」と「釈迦牟尼如来」の七体の仏様が鎮座していた。みな丁寧に彫られた彫刻でありながら、どこか個性的な表情を湛えた魅力的な仏様たちで、いわゆる「高遠石工」の作品を彷彿とさせる、穏やかな顔立をしていた。中央の流れを汲んだ整った仏像も美しいが、この手の地方的な特徴を備えた作品からは、民間信仰の独特の篤さが伝わってくるようで、いつものことながら胸を打たれる。


左から「馬頭観世音」「准胝観世音」「十一面観世音」「釈迦牟尼如来」


左から「准胝観世音」「十一面観世音」「釈迦牟尼如来」「聖観世音菩薩」


左から「釈迦牟尼如来」「聖観世音菩薩」「如意輪観世音」「千手観世音」

これらの「観音像」の先、参道の正面奥に、質素な方形の「不動堂」があった。土壁漆喰造りの真四角なお堂の正面は、観音開きの扉となっており、賽銭箱もなく、静かに閉ざされているため、中をうかがい知ることは出来ない。施錠もされている。興味深かったのは、御堂の正面の軒の下に下げられた真一文字の太い注連縄である。神仏混淆もさながら、かつて、この地に「蛇神」の信仰があったことをうかがわせる民俗である。

御堂の右手の崖際には、由来を記した手書きの掲示物があったが、あまりの乱雑な (はっきり云うが達筆なのではない...) 書きっぷりに二三行で読むのを断念した。正直なところ、ざっと走り読みはしたが、「不動明王」の説明にばかり終始していて、由来書としてはたいした内容ではなかった。しかし、逆にその諄いまでの書きっぷりに、「おらが不動様」に対する書き手の熱い思いが横溢としていたことは間違いない。


茶系の銅板葺きの御堂の左手には、湧水池と云う立地にも関わらず、普通の蛇口と簡易設備のような水場が置かれていた。恐らく御手水を使うところなのだろう。地域の人々によって忍びやかに信仰が守られている寺社と云うものは、意外とこのようなところが多い。格好悪いと文句を云ったり、善意から勿体ながったりする人もいるのだろうけれど、筆者はこう云うのもまた好きである。水場の後ろには、素朴な彫りの地蔵様がいた。こちらは、さきほどの「六観音」などの幾層倍の「素朴」さであった。

「六観音+如来」よりも、さらに素朴...

この「不動堂」の右手には、「天間沢」へと降りていける階段があるのだが、「安養寺」から歩いて来ると出くわすコンクリートの渡場みたいな箇所につながっているのは、ここの階段なのである。われらは、本当はこの階段を上って、「不動様」にやってきたのである。したがって、駐車場からの案内は、われらが歩いた実際のルートを逆に辿って書いていたのである。

御堂の右手後方には、「不動堂」の裏へとも続く道があり、ちょっとした階段を上った後、さらに「不動明王」の岩屋へと続く道が敷かれているのだが、その石段の左には「富士山」をあしらったデザインの「保存湧水池」の標識が、そして右側には、なかなか立派な僧侶の青銅の胸像が据えられている。「湧水池」とは、先ほどの駐車場の案内板に記されていた湧き水のことである。確かに、看板の裏の草むらの中から、わずかに水が流れる音が聞こえてくる。

保存湧水池

面積      92.50m2
水量等     日量480m2 (年平均) の湧水量があり、市域の東部では
        数少ない湧水池で、古くから農業用水等に利用されている。
保存指定番号  第3号
保存指定年月日 平成4年1月20日
所在地     富士宮市 杉田768番地の1地先

                              富士宮市

石段の右に顔を向けて銅像を見ると、台座正面には、「安養寺二十二世 恩智養宗和尚顕彰記念像」と陽刻された銅板が嵌められていた。知的で温和な、如何にも「和尚」にふさわしい風貌の銅像だが、一体、どなたがモデルとなったのだろうか。


実は、ここ「滝ノ上不動尊」は、「杉田用水」の水源地で、用水と銅像の僧侶は深い関係があるのである。僧の名は、「恩知養宗」、「杉田用水」を多大な苦節の末に開いた人物であることは、駐車場の説明板で見た通りである。いま、この「杉田」の水源地は、「富士宮」の「保存湧水3号」に指定されている。


さて、銅像の先へと眼を移すと、そこには忽然と謎の洞窟が現われる。人によって感想は異なるだろうが、筆者は、初めてこの洞窟を目にしたときは、一瞬顔をしかめた後に、思わず笑ったものである。とにかく壮観と云うべきか、珍妙と云うべきか、ここを見ただけで、この日の労苦が報われたような、満足感とも脱力感ともつかぬ思いに包まれたのを覚えている。


洞窟は、石を積んで作られた人工的な柱で入口周囲を補強され、四手を垂らした注連縄の奥に小さな祠が据えられている。その中では、赤い賽銭箱を前にして、「不動明王」の石像が訪問者をねめつけて鎮座している。岩の天井からは、冷たい水の雫が滴ってくる。「不動堂」の奥の崖に穴を開け、「杉田用水」の一部が覗けるように近年作られたものだそうである。いまは、中に「不動尊」も祭られている。

この後、われら一行は、「杉田大滝」の真上の石場で休憩を取り、さきほど紹介した自動車ルートを逆に辿って「安養寺」へと戻り、この日の全日程を終えた。



5. 「安養寺の猫」を巡る小考

「安養寺」に関して、「狸和尚」の伝説は、すでに見た。それに、前回シリーズの「花蔵院の猫」で、我が国の民俗では、「狸」と「猫」に互換性があることの検証作業も行なっているため、まさか「狸和尚」の話を「猫」の代わりにするのではないかと心配されている読者がいたら、御安心を。いまでは、ほぼ忘れ去られているが、ここ「安養寺」には、古くから伝わる、次のような「猫」の伝説もあるのである。

安養寺の猫


あるとき、「安養寺」の和尚が可愛がっていた飼い猫がいなくなり、十年の後に十歳ばかりの小僧が寺にやって来て、自分はここでもと養われていた猫であり、恩返しをするために帰ってきたと云う。

聞けば、こう云うことであった。
さる西国の大名が「江戸」で死んで国元に運ばれることになるが、その途中、自分が「火車」になって死体を空高く吊り上げて、「杉田の安養寺」と呼ぶ。すると寺に迎えが来るから、お経を読んでくれれば、死体を降ろす、と云うのである。

それから三日後、その通りのことになり、和尚の名は上がり、お礼も沢山来た。

参照・静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版、p. 335
原版・静岡県女史師範学校郷土研究会 (1934) 『静岡県伝説昔話集』静岡谷島屋書店

この説話自体は、ごく普通の「猫檀家」型の伝えなのだが、その内容が微妙なところで、「世田谷」の「豪徳寺」の「猫」伝説と一脈通ずるところがあり、同時に、「神奈川」から「静岡」「南長野」などに伝承される幾つかの「猫檀家」譚に相通ずる特徴を持っているのも興味深い。

まず、「豪徳寺」伝説との明確な類似点は、それが近在の有力者ではなく、遠隔地の「大名」を相手に演ぜられる「猫檀家」話であると云う点である。当然、活躍する僧侶あるいは大名のいずれか、または両方かが旅の最中で、葬式での出来事は飽くまでも「通りがかり」の事件と云うことになる。

もちろん、これに対して、「豪徳寺」の伝えは、「猫檀家」話ではない上、雨中に難渋する「井伊直孝」を寺の猫が手招きする筋だと指摘する向きもあろうかと思う。

しかし、それでも、一番の際立った特徴である遠い土地の「大名」と云うモチーフは変わらないし、第一、「手招きする猫」と云う「豪徳寺」伝説は、寺の宣伝や一部の無責任な出版物の所為で広く普及しているだけで、「明治維新」以後、「井伊家」の保護を失った寺と檀家側が、新たな檀家や参拝客を集める手段として、「大正期」から「戦前期」にかけて創り出した創作話であることは、「長沢利明」氏の云うように、ほぼ間違いないのである (長沢利明『江戸東京の庶民信仰』三弥井書店、1996) 。それ故に、我が国で初めて本格的な「猫檀家」の伝播研究を行なった「福田晃」氏も、その論文「猫檀家の伝承・伝播」 (『昔話の伝播』弘文堂、1951) において、「豪徳寺の猫」の話として、「手招き猫」の伝承は採っていないのである。

「窪山天神の猫」の記事でも述べたが、「戦前」の我が国では、大衆娯楽としての空前の「御参りブーム」が巻き起こっていたのであり、各地の寺院は、新たなお遍路コースを創ったり、独自の縁起を宣伝するのに躍起になっていたのである。「曹洞宗」の「豪徳寺」の場合は、中々お遍路と云う訳にはいかないので (不可能ではないが...) 、このブームに乗って、新たな「手招き猫伝説」を創出することで、寺の衰運の挽回を図ったのだろう。

筆者が、「安養寺の猫」の伝えと「豪徳寺の猫」の伝えが似ていると云うとき、念頭に置いているのは、上記の創られた「手招き猫」伝説のことではなく、別系統の伝承のことなのである。ここで仮に、「豪徳寺の猫」伝説のうち、現在より広く流布している「手招き猫」の伝説を「豪徳寺の猫・B系統」とするならば、以下に紹介する別系統の伝説を「豪徳寺の猫・A系統」と呼ぶことにする。前述の「福田晃」氏が採用したのも、この「A系統」の「豪徳寺の猫」話なのである。

豪徳寺の猫・A系統の例 :


井伊直孝が没し、嗣子の直澄が父の遺骸を守って彦根に帰るときのこと、箱根の山中にさしかかると、激しい雷雨になり、火蛇が現れて直孝の遺骸を奪おうとした。すると、どこからともなく老僧があらわれて、雷雨をはらす祈祷をしよう、という。老僧が経文を誦むと、雷雨はやみ、火蛇も失せた。老僧は、世田谷の弘徳庵の住持である、と名告って消えた。

直澄はこの奇瑞におどろき、その高僧の住む寺こそ菩提寺にふさわしいと、箱根からもどって、父を弘徳庵に葬り、井伊家の菩提寺と定めた。寺号も、直孝の法号をとって、豪徳寺と改め、伽藍を営み、田地を寄進して繁栄の基をきずいた。箱根の老僧は、この弘徳庵の飼い猫が化けたもので、庵主の恩に報いたものであるという。

原話・矢野弦 (1930) 「東京郊外の伝説めぐり」
『旅と伝説』第三巻第五号、三元社

「安養寺の猫」と「豪徳寺の猫・A系統」を比較した場合、「江戸表」で亡くなり、西国の国元に帰ろうとする大名家の葬列と云う設定は、そう偶然には一致しないだろうから、互いに無視出来ない程度の類似性を呈していると云っても問題はないと思われる。しかも、「箱根」と云う具体的な地名こそないものの、「安養寺の猫」の舞台が、地理的に近接するのは明白と云える。そして、「通りかがり」と云うモチーフも、双方に生きている。ここまで分析すれば、実は、固有名詞を除けば、両者がほとんど同一の物語構成をしているのではないかとさえ思えてくる。

逆に、双方に共通しない大きな特徴は何か、と問うと、それは「激しい雷雨」と云うことになろう。しかし、この要素は、「豪徳寺の猫」のAB両系統に共通する最も重要なモチーフとなるのだから面白い。

一般的な (理想的な) 「猫檀家」の話と云うのは、「棺桶の宙吊り/死体を奪う」と云うモチーフと「激しい雷雨 (風雨・黒雲) 」と云うモチーフがセットで登場するのだが (筆者は「南無トラヤァ」の祈祷はあまり重視しない) 、これが各地の伝承によって、部分部分が退化して欠落していくこともよく見られるのである。ここでは深くこの議論に入らないが、この伝承の各モチーフの有無や濃淡の地理的な推移に関して、この分野の第一人者である「福田晃」氏は、地理別に「A・B・C」の三つの型に簡潔に分類している。

「猫檀家」譚のメッカである「東北地方」では、「A型」が圧倒的に優勢し、「棺桶の宙吊り」と「南無トラヤァ」系統の祈祷文が興味の中心となっているが、西南に向かうに従って、「棺桶の宙吊り」のモチーフが衰え、「暴風雨のために葬式が出せない」「僧が祈祷でこれをおさめる」と云ったモチーフの「B型」となり、不思議なことに地理的にはそれらの中間に位置する「東海地方」では、「猫の恩返し」のモチーフさえ退化して、「怪猫の起こした暴風雨を鎮めた名僧譚」としての「C型」になっていると云うのである (福田晃「猫檀家」稲田ら/編『日本昔話事典』1977、pp. 704-706) 。

筆者としては、「福田」氏の見解に概して賛同するのだが、どうも「東海地方」を中心とした地域の「猫檀家」譚の特徴に関してだけは、わずかだが見解の相違がある。それは、「東海地方」に見られる「C型」の特徴に関してなのだが、「福田」氏はそれを「怪猫の起こした暴風雨を鎮めた名僧譚」としているが、筆者はどちらかと云うと「暴風雨」よりは「死体を奪取される」と云うモチーフの方が優勢であると思う。以下、適当に手許にある資料からこの地の「猫檀家」譚を五つ抜き出し、その辺りのところを見てみたい。


1. 
曹洞宗 稲荷山 笠森峯 善住寺  
    浜松市天竜区水窪町地頭方 357-1

道中、峠に通りがかり、松の木の上に死体を発見。死体が盗られていることを葬家に告げ、取り戻す。

御手洗清 (1968) 『遠州伝説集』遠州タイムズ社
御手洗清 (1985) 『遠州七ふしぎの話 第二集』遠州伝説研究協会


2. 曹洞宗  久住山  洞慶院   ー   
    静岡市葵区羽鳥 7-21-9

「大川村栃沢」まで托鉢に出掛けると、雷雨の中、葬式に遭うが、死体がないとつぶやく。呪文を唱えて元通りにする。猫は登場せず。

静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』
静岡県の伝説シリーズ1・2 上下巻、羽衣出版


3. 曹洞宗  金龍山  洞善院   ー    
    島田市金谷 100

「江戸」で亡くなった西国大名の葬列が通りがかり、法要が予定されるが、一匹の大猫が遺骸を狙っていることが分かり、黒雲沸き起こる中、和尚が大猫に魔除けの数珠を投げつけるとおさまる。後に「猫塚」を建てた。

山田健治 (1979) 『かなやの史話・民話・伝説』金谷郷土史研究会、p. 46


4. 曹洞宗  太平山   ー   栄泉寺か?  
    周智郡森町三倉 707

「熊切村」の「胡桃平」で葬式に出会い、死体がないと云う。魔物にさらわれて木の上にあるのを取り戻 
す。明治初年まで「胡桃平」十二軒は檀家であった。

「茅山」で葬式に出ると、棺に死体がない。「鷹打抜」と云う深山の松の木の上にあるのを見つけ、取り戻す。「茅山」五軒は檀家に。

静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版、p. 341
加茂徳明ら編 (1982) 『日本伝説体系 第七巻 中部編』みずうみ書房、p. 203


5. 曹洞宗  梅月山  華蔵院   ー    
    小笠郡大東町神土方 (日向谷)   

「牧野ヶ原」の「高雄開山忌」に行く途中、死体がない葬列に遭い、それを取り戻す。犯人は「猫」ではなく「狒々」

静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版
加茂徳明ら編 (1982) 『日本伝説体系 第七巻 中部編』みずうみ書房、p. 203


このように見る限りでは、確かに「福田」氏の指摘される通り、「猫の恩返し」のモチーフは、かなり退化しているようで、上の五例だけで見れば、一つも「猫の恩返し」の要素は保たれていないのである。一方、「暴風雨」と「死体を奪取される」と云うモチーフの間では、「5 : 2」で後者が優勢しているのは否めない。

*

以上、見てきたように、本項では「安養寺の猫」の説話を、「東海地方」を中心とした地域の「猫檀家」譚と関連づけて比較考量することを通して、この地域の「猫檀家」譚が、全国の同様の説話の分類の中でどのような位置に立つのかをある程度明らかにすることが出来るだけでなく、その伝播の過程を考察をする一助になることをも示せたと思う。今後は、この成果をさらに精緻化した上で、他の地域の「猫檀家」譚の考察に敷衍して、分析を深めていかねばならないと考えているが、その具体的な方法に関しては、また稿を改めて示していけたら幸いである。

最後に、当ブログは、どちらかと云わずとも、あまり知られていない「猫神」「猫伝説」を発掘紹介することが目的の一つであるため、全国的に有名な「猫神」は、仮に登場するとしても、かなり優先順位は低くなる運命にある。したがって、「豪徳寺の猫」の記事も、他に書くことがなくなってから書けばいいと思っていたのだが、今回の「安養寺の猫」とのからみで登場させてしまったからには、近日中に「豪徳寺の猫」の記事も書かねばなるまい、とは思っている。ただし、既にいくつかの「猫神」の記事が順番待ちをしているので、それらが終わった後と云うことになると思う。



6. 蛇足 : 本日の猫...

「不動様」への途中、沢の近くの植込みにいた白猫。

「不動様」からの帰り道、「安養寺」の裏手の人家近くで目撃。



参考文献
・矢野弦 (1930) 「東京郊外の伝説めぐり」『旅と伝説』第三巻第五号、三元社
・御手洗清 (1968) 『遠州伝説集』遠州タイムズ社
・福田晃 (1977) 「猫檀家」稲田ら/編『日本昔話事典』弘文堂
・山田健治 (1979) 『かなやの史話・民話・伝説』金谷郷土史研究会
・加茂徳明ら編 (1982) 『日本伝説体系 第七巻 中部編』みずうみ書房
・御手洗清 (1985) 『遠州七ふしぎの話 第二集』遠州伝説研究協会
・静岡県女史師範学校郷土研究会 (1934) 『静岡県伝説昔話集』静岡谷島屋書店
    静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版
・長沢利明 (1996) 『江戸東京の庶民信仰』三弥井書店
・その他、現地説明板など


「安養寺」の地図は、こちら

静岡県の猫神・窪山天神の猫

.12 2010 中部地方 comment(2) trackback(0)
芭蕉天神宮
窪山天神

富士宮市内房字大晦日
0544-65-2806 (芝川町農林商工課)
旧・富士郡芝川町


1. はじめに


今回の記事は、はじめての県外探訪である。しかし、そう意気込んでみたものの、実際には「猫神」探訪と云うよりは、単なる旅日記になってしまいそうな気配がある。そもそも、「千葉県」の「猫神」を調査するときは、地の利を生かして徹底的な文献研究と現地取材を繰り返せると云う強みがあるが、遠隔地の日帰り旅行となると、なかなか行き届いた調査や取材が出来ないのが難点である。特に自分自身は車を運転しない筆者としては、まさか遠くまで連れていってもらって一日中現地の図書館に籠ると云う訳には行かない。しかし、そうは云っても、今後は「静岡」や「甲府」の図書館などにも足を運ばないといけないとは感じている。

いずれにせよ、今回の記事は、「千葉県の猫神」のシリーズに比べると、いかんせん資料不足のそしりは免れない。そして、「猫」の話は、わずかに終わりの方に登場するだけである。そちらだけを読みたいと云う人は、記事の終わりに飛んで下さい。



2. 天神様への経路

「窪山天神」、より広く知られた名称で云うなら「芭蕉天神宮」は、旧「富士郡・芝川町」の「内房 うつぶさ 」地区にある。「古代」、機織を職能とする「秦」一族の「倭文部」が多く居住していたとされるこの地域は、『駿河志料』によれば、そもそも、「秦氏」の長「秦酒公」が天皇より賜った「禹豆麻佐 うづまさ 」の姓が転訛して「内房」の地名になったのだと云う。この語源説話自体は、かなり怪しい眉唾物だが、この地にかつて「秦氏」が多く住み着いたと云うのは、どうやら事実のようである。

その旧「芝川町内房」の山深いところに、「大晦日」と云う地名の集落がある。「おおみそか」ではなく「おおづもり」と訓む。地元の説明板には「おおずもり」と振ってあったが、この訓みの起源は、太陰暦の月末を指した「大月隠り」から転じた「大つごもり」であることは明白なため、ここでは「おおづもり」と表記した (その後、集落内を経巡ったら、説明板によっては「おおづもり」と表記してあった) 。

「大晦日」集落のある地に接近するには、とにかく、身延道の主要なルートの一つと重なる県道75号・清水富士宮線に入って、「内房」地区にある「廻り沢」の集落に至るのがよい。筆者は、自宅から (東から) 直接接近するときは、静岡県道・山梨県道10号・富士川身延線を経由して行き、しばしば訪問する「山梨県南巨摩郡南部町」の「万沢」地区から (西から) 行くときは、県道190号・塩出尾崎線を経由して向かうことになるが、この他にもいくつかのルートはある。以下、それらのルートを簡潔に紹介しよう。


A. 「毛通り」経由ルート

まず、「北松野字山田」の「妙松寺」付近から「廻り沢」に至る「毛通り」と呼ばれる由緒ある道もあるが、このルートは「富士川」の北側を走る県道10号・75号を経由した道程と平行して、川の南岸を行く古道である。確かに距離的には短くなるが、ほぼ全行程が山岳道みたいなものなので、地元の人でない限り、県道を使ったルートの方が明らかに便利であり、結果的に早いだろう。ただし、こちらのルートは古道だけに、道が「廻り沢」の集落に到達するあたりの道辺に「右ハ芭蕉天神由井道 左ハ松野岩淵村 巡沢望月ふく建立」と刻まれた道標などがあり、いにしえを偲ぶには良い道ではある。ただし、この道標も、いまはもう碑面は読み取れないほどに風化しているそうである。


B. 県道76号・富士富士宮由比線経由ルート

南から「天神宮」に接近する場合、ルートは基本的に県道76号線経由のものとなる。

B-1) 「由比入山」~「大晦日」

本来の古道のルートである「静岡市清水区」の「由比入山」方面から、「大晦日」に直接つながる道である。行程のほとんどが、すれ違いが難しいほどの狭い山道である。

B-2) 「北松野 (ゴルフ場) 」~「泉水」~「大晦日」

「北松野」のゴルフ場から字「泉水」を経て「大晦日」に至る道もある。途中までの道路事情は、このルートが一番良い。ゴルフ場を周回する町道・峰山泉水線を進み、「はたご池公園」を過ぎて、左へと泉水林道を辿ると、最後に「天神道」の本道と合流して山道となる。この合流が結構な角度なので注意する。ちなみに、「右ばせう天神道」と彫られた往時の道標が、東海自然歩道の「はたご池」の畔にあると云う。今はゴルフ場になっている字「送り神」と云う所から、「芭蕉天神社」へと至る道標であったと云う。

ちなみに、「はたご池」と云うのは、姑の虐待に耐えかねた嫁が、織り掛けの布を持ってこの池に身を投じた後、雨の日や夜半には、池の中から機を織る音が聞えてくるようになった、と云う伝説のある自然湧水の池だそうである。

こう云った伝説は、実際にはそう珍しいものではなく、一般に「機織淵伝説」と呼ばれて、各地に伝承されている。筆者の知る限り、「千葉・静岡・愛知・長野・福井・福岡」などの伝承は、嫁と姑の関係を軸に話が展開する点で、「内房」の「はたご池」の伝説と酷似している。「愛知県春日井市六軒町」に伝わる話は、まったく同一のもので、「はたご」を「機具」と表記している点でも興味深い。


C. 「天神道」の本ルート

筆者は以下のルートを経て「天神宮」へと向かった。要するに、「廻り沢」を経る「天神道」の本道である。

まずは、県道10号で「釜口橋」の信号に至り、左折して「釜口橋」と「内房橋」を伝って「富士川」の広い川谷を渡る。この時点で既に県道75号に入っているのだが、突き当たりの「尾崎」の信号で左折して、県道75号を維持する。やがて、右に「浅間神社八幡宮」のある丘が現れる。地元の人はここの尾根の張り出し部を「宮峠」と呼ぶ。


「尾崎・相沼」地区の鎮守であるこの神社は、元はこの「宮峠」に「富士宮浅間神社」の「別宮 (奥宮) 」として建てられたものだそうで、かつては「瀬戸島」下流の「岩山」にあったものが、後に「尾崎・寺沢山」へと遷座し、さらに「穴山信君」が嫡男「勝千代丸」の武運長久と土地の人身掌握を祈って、字「宮」へと遷したものと伝えられている。神社の「本殿」は、この両側が切り立った狭い尾根の上に鎮座している。

門前には、「内房」からの道と「橋上」や「塩出」へと続く道が通り、付近には「瀬戸島」に行く道があるのを見ても分かる通り、かつてはかなり重要な社として、地域の交通の要衝をなしていたのである。境内には、旧・芝川町指定文化財に指定されている「庚申塔」や「石灯籠」もある。「廻り沢」に向かうには、この神社の鎮座する丘の突端部を回り込みつつ、カーブの終わり際の分岐は左へと辿り、やはり県道を維持せねばならない。

浅間神社八幡宮

富士宮市内房字相沼 3388
旧・富士郡芝川町

「浅間社」を過ぎ、「長田橋」で「内房境川」を渡り、左に「内房小学校」を通過したすぐ先を左折して「稲瀬川橋」で「稲瀬川」を渡ると「廻り沢」の集落に着いたことになる。「廻り沢」は、資料によっては「巡り沢」と表記されることもあって、どちらが本来のものなのか悩まされるが、本稿では、一応は地図の表記を採用して「廻り沢」と記すこととする。


駐在所のあるこの集落を抜けつつ、「穴山梅雪」で知られる「穴山家」の菩提寺として栄えた「祥禅寺」へ向かう左への道はやり過ごさねばならない。今は「本堂」と「庫裏」が残るばかりの「祥禅寺」門前には、立派な「庚申塔」が立ち、付近の「馬頭観音」碑を十八基、一括して合祀している。

創建については何も知られていないが、「武田氏」の「駿河国」侵攻後は、「武田一族」の「穴山氏」に外護されたと云われ、「穴山信君 (梅雪) 」は、永禄年間 (1558-1570) 、大檀那として当寺を中興し、「中世」の諸文献には、「正禅庵」あるいは「祥禅庵」と見えることの多い寺の庵号を、現在の寺号へと改めたと云われる。

臨済宗・妙心寺派
内房山・祥禅寺

富士宮市内房字廻沢 4069
旧・富士郡芝川町

ちなみに、この寺へと続く道こそが、上に紹介した「毛通り」で、そのまま進めば、「北松野字山田」の「妙松寺」付近に到達することになる。われらは、これをわずかに過ぎ、「廻り沢橋」で「廻り沢」を渡った後の左への分岐に入るのである。ここの角には「芭蕉天神宮」の看板も出ており、スピードさえ出し過ぎてなければ、難なく曲がれるだろう。右側に、古き良き床屋の看板を掲げた建物があるのも目印になるか。

この先、「天神宮」に至る道を「芭蕉天神道」と呼び、現在も町道が通るものの、かなりの難路である。よく、砂をかぶった、などと表現することがあるが、この道はほぼ全行程、道の真ん中には土塊や石ころ、落ち葉が盛られた感じである。丁寧に運転すれば大丈夫だが、スピードを出してすいすいと云う道ではない。

ただし、この道の歴史は非常に古く、身延古道の中でも「興津筋」や「岩淵筋」よりも昔から存在するものとされ、天文六年 (1537) の「甲駿同盟」に際して、「今川義元」の妻となった「定恵院 (武田信虎女・信玄姉) 」が、故郷の「甲州」から「駿府」へと嫁いでくるときにも使われた道だとも云われる。「清水区由比町北田」の旧「町役場」付近から、「芝川町大晦日」の「芭蕉天神社」を経て、「廻り沢」に至る道である。

ここで筆者の頭に「敵に塩を送る」と云う故事が浮かぶ。「信玄・謙信」の美化されたライバル関係を物語る美談として有名だが、そもそもこの故事が生まれたのは、「駿河」の「今川氏真」と「相模」の「北条氏康」が、戦略上の理由から、「甲州」への塩の交易を止める経済封鎖を断行したからであった。この時代、「甲州」へ塩が送られた主要なルートの一つがこの「天神道」であったことを考えると、この山道を往来するのも感慨深いものである。

以上のような勝手な感慨に筆者が助手席で耽っている間に、妻は、ギリギリの舗装しか施されていない、道幅が狭く曲がりくねった山道を、かれこれ十五分くらい、距離にして六キロほど登り続けることになる。標高差はおよそ三百メートル、勾配は五パーミルほどであるから、険しくはあるが、だらだらくねる坂道ではある。

陸塊に遮られたロータリーの中央部に掲げられたよく読めない案内板

途中、泉水林道への左分岐や樹々の生い茂る大きな陸塊に遮られたロータリーなどもあり、とにかくこの道を登り詰めていくと、正面に石柱が二つ立っている、少し開けた場所に出る。林道にしか見えない、鬱蒼たる杉林の斜面に築かれた参道入口は、この大小二つの石柱が左右に立っていなければ決してそれとは知れない佇まいである。右の石柱の方が大きく、「芭蕉天神宮」と掘られた赤塗りの刻字が鮮やかである。


この入口の右手に、「芭蕉天神宮」の説明板と、「天神」の由来を記した横長の石碑、それに「大晦日」集落の簡略な地図を記した案内図が建てられてあった。

右がほぼ北

ここの広場を起点に、すべて「望月」姓の九軒ほどの集落を周回するように山中の町道は走り、広場から見て左へと少し登った辺りから、「由比」へと向かう古道の続きが始まるようである。

ちなみに、「大晦日」には県指定の天然記念物の「五輪の大榧・大晦日のタブの木」があるのだが、その説明板には、「この地駿河の国大晦日部落は鎌倉時代七名の侍により住居をかまへたと伝へられます」とある。おそらく、これがこの集落での「望月」姓の発祥なのだろう。

それにしても、冒頭で「大晦日」と書いて「おおづもり」と訓むのは、古語の「おおつごもり」から来ているのだろうと記したが、この山道を登ってくると、本来は山の奥の奥地の行き詰まりと云う意味で「大詰もり (積もり) 」とつけられたものに、後になって「大晦日」の優雅な字を当てたのではないかと疑いたくなるほどである。

3. 「芭蕉天神宮」案内


初めに説明板を紹介するところから始めよう。まずは、由緒である。
芭蕉天神宮 由緒

祭神 右大臣菅原道真公 (九〇三年没)
   右大臣久我長道公 (一三三四年没)

この道は由比より甲州信州に至る塩の道です
明治大正時代は参謀本部の通達道路として清水郡役所と内房役場に結ばれておりました
時は後醍醐天皇の御代建武の改革を図る記録所を設けて国の政治を行いました 其の時の三役一人が久我長道公で天皇から重要されました天皇は鎌倉幕府の横暴を許さず新田義貞に命じて討幕に成功を納めました。

後醍醐天皇は兼ねてより富士宮浅間大社を深く信仰しており戦勝報告に大納言久我長道公を勅使として派遣されました 富士宮浅間大社第二十一代宮司富士時国氏に奉幣式を取り行ない富士下島郷の水田を浅間神社神領として奉納されました 一三三四年旧九月三日と印されています

任務を終えた久我大納言は白馬に跨り帰途につくも大晦日部落に至り持病の仙痛脱傷の発作を起こしました付人里人八方に手を配り 看護のかいもなく亡くなられました 其の時久我大納言は付人里人に対し「余は菅原天神を敬う此の地に祠を建て余も共に祀ってくれ」と遺言されました。時は旧九月九日。天皇政治の大立物重臣として国中より惜しまれ 大社殿が建立され 大祭日には国鉄に祭典列車の運行も記録されて居ります

 御神徳 学問成就 身体健全 子孫誕生
 家業繁栄
平成十九年二月吉日
芭蕉天神宮 名誉総代 望月旭建立

やや補足しておくと、「芭蕉天神宮」は、知恵と学問、厄除けの神様で、かつては「馬上天神」とも呼ばれていたが、境内に「芭蕉」が生い茂っていたことから「芭蕉天神」と改められたと云う説もある。毎年二月の第一日曜日には「芭蕉天神祭」が開催され、祭の間は参道・境内に屋台が立ち並び、普段静かな神社も、大変な賑わいを見せるそうである。

我が国の「戦前期」は、大方の国民の想像に反して極めて豊かで、国民の生活水準が急激に上昇した時代だったのだが、それに比して現代のような娯楽がほとんど皆無だったため、「江戸期」以来の物見遊山の延長線上で、空前の「お参りブーム」なるものが引き起こされたのである。この時期、由緒ある「芭蕉天神宮」への御参り熱もかつて見ない規模で高まり、ここの祭りに合わせて国鉄の臨時列車が「由比」駅まで出されたと云う記録も残されていると云う。当時は、およそ十万人の参詣者で賑わったと云うが、今は幾分静かな祭りとなっている。

説明板からは分からないことだが、「奉幣使」の「久我大納言」が亡くなったのは、正確には「天神」の境内ではなく、町道と「天神社」の分岐より少し「由比」方面に道を行った先、上に見える古い「天神道」が通る場所だと云う。今もその場所には、「大納言石」と称する岩が残されているそうだが、今回は諸般の事情で、ここまで探索の手を伸ばすことが出来なかった。

なお身分の高い公家が直接当地のような奥深い山中を通過することはありえないから、実際にはこの地を訪れたのはその使者だったのだろうと云う人もいる。しかし、これには筆者は少し引っかかる。そもそも、寺社の縁起などは正確な史実を反映しているとは言い難いのだから、そう云う意味でその史実性を追求していくならまだしも、むしろその時代の史実性に依拠せずに、他の時代の常識や、自らの生きる時代の感覚を優先した、この手の感傷的な「感想」をさかしら立って述べる姿勢には、嫌悪さえ覚える。

そもそも、「南北朝」の争乱史を少しでもひもとけば、「南朝」方の拠点のほとんどは深山幽谷に構えられていることや、「後醍醐」の死後、事実上「南朝」の軍事作戦の指揮を執りつづけた「宗良親王」が、「伊那谷」の秘境を縦横に往来した事実にも行き当たりそうなものである。「宗良親王」が闊歩した「大草」や「大河原」の地に比すれば、「大晦日」はまだまだ奥深いとは云えない。

しかも、「久我大納言」が、「富士浅間大社」に使いをしたのも、ただの「奉幣使」としてではなく、軍略上の工作のためだった可能性は極めて高いのだから、ある程度に隠密の行動が必要とされたはずであると云う意味で、「身延古道」は状況に符合する。「南朝」は、武家勢力を中心とした「北朝」と異なり、広大な荘園を有する「社家」や「寺家」の諸勢力と密接に結びつきつつ、その経済的な優位を以て、「北朝」の軍事的な優位に拮抗したのである。

また、その軍事的な劣勢を相殺するために、大河川の上流域の奥地に拠点を構え、その流域に即して軍事的な展開力を形成しようとした傾向も「南朝」には見られる。「身延道」は、「富士川」流域の諸勢力の糾合と、「甲駿」地域に強い影響力を持つ「富士浅間大社」や、「身延山」を中心とした「日蓮宗」の門徒との連携を構築し、協力を仰ぐためにはどうしても抑えておかねばならない要衝の道である。「南朝」の重鎮ともあろうものが、この程度の山道を避けていては、当時の戦乱渦巻く社会をとうてい乗り切れなかったのである。ましてや、平坦な表街道などをのうのうと「南朝」の重要人物が旅していたら、いくつ命があっても足りない御時世だったのである。「久我大納言」の「富士浅間大社」行きをただのお礼参りと考えるから、安易な結論に達するのであって、当時の政治社会的な文脈の中で考えれば、大納言の山中行も、決して不自然ではないのである。

ちなみに、この「久我大納言」は、「久我侯爵家」の先祖に当たるため、かつて「芭蕉天神宮」の寄付名簿には女優で、この「久我家」出身の「久我美子」さんも名を連ねていたと聞く。ただし、「久我家」は「こが家」と訓むのに対し、「久我美子」さんの芸名の訓は「くがよしこ」だった。「久我美子」さんは、本名も同じ漢字表記だったそうで、こちらは「こがはるこ」と訓んだと云う。「華族」の体面を重視した実家が、「こが」の名前を使うことをよしとしなかったそうである。

さて、次なる説明板にいこう。

芝川町指定文化財 (建造物)

芭蕉天神宮
所有者 芭蕉天神宮氏子
本殿 総欅素木造三間社流造銅板葺
幣殿 総欅素木造両下造銅板葺

この天神宮は菅原道真と久我長通を祭神としております。
神社建築は古い形式を保ちつつも明治以降の新しい様式が各所に見られ、特にここでは麒麟で表現されていますが、竹林から虎が出るというめでたい故事を物語的に彫刻した幣殿内は非常に細美なものであります。

平成十九年六月七日町指定
芝川町教育委員会

町道の「芭蕉天神社参道」との分岐点の少し先、参道を見下ろす位置に、「弘化三丙午 卯月日 右由井 ミち 左天神 □□□」と刻まれた道標が据えられている。「信州高遠」の文字もあった気がしたが、はっきりとは判読出来なかった。これ以外にもかつて「由比町北田」の東海道からの始発点にあった道標も境内手前に安置されている。他にも「猿田彦」や「庚申塔」がある。


さて、参道に戻って、そのまま道を車で進んでいくと、山中の森が、神社の境内らしい空間へと変わっていくのが返って神秘的であった。やがて、左手下に鳥居や祠が見え始め、道が大きく左へとヘアピン状に曲がる角辺に、やや開けた空間が左右にある状態になる。おそらく、ここが駐車スペースなのだろうと、ここで降車することにした。


上の道路からすぐ下に見えたのは「白髯神社」で、最初に参道の曲がり際に社号標の石柱が見え、その先に、参道と平行に建てられた赤い鳥居と、参道の屈曲の間の斜面に、石垣を築いて建てられたささやかな御社からなっていた。御堂は、流れ造りで、中に「本殿」を蔵した覆い屋となっていた。中の「本殿」の中には「白髯神社」と黒字で刻された駒型の石碑が祀られているのが見えたが、それ以上のことは分からなかった。その小さな「社殿」の右手方向の叢に、「馬頭観音」と思われる石仏が二体、静かに佇んでいた。神社自体は、「芭蕉天神宮」の鳥居の外にあり、境内社なのか、独立した社なのか、判断出来なかった。


右の石仏「文化十二乙亥年 十一月吉日」
左の石仏「寛政十□□ □月吉日」

「白髯さん」への参拝を済ませて、「天神様」の朱塗りの鳥居に至ると、一段低くなった鉢底状の窪地に「社殿」群が建てられているのが一望出来る。「窪山 (久保山) 」の所以か。

鳥居をくぐって、下の窪地におりていくと、まず右手にトイレ舎があり、左手に長方形の池と「手水舎」が見える。池の反対側の崖面からは、湧き余った清水が滝となって、大量に吹き出していた。


この池には、山の斜面から清水が集められているため、濁りのない澄んだ水が湛えられていた。しかし、池水に浮かぶ石の島や灯籠、あるいは石造りの鴨などが、どのような象徴的な意味があるのかは、ついに分からなかった。

トイレは、水洗式である上、保温式の便座となっており、こう云う山奥では考えられないような至れり尽くせりの設備だった。男性用の便器の他に個室が二つもあり、なるほど祭礼のときはかなりの人出があるのだなと、こんなところからも推測出来て面白かった。これだけの好環境だと、個室の扉の立て付けが悪くて鍵が締まりにくいのなぞまったく気にならぬ。地域の人びとに深々と頭を下げる思いで使用したいものである。


「手水舎」と「社務所」の後ろには、背の高い「芭蕉」の木が林立している。これははっきり云って、かなり異様かつ不気味な風景である。そも窪地になった擂鉢の底のような境内は、四面を深い杉林に見下ろされているのだが、その一角に、一所だけ色鮮やかな「芭蕉」の群れが立ち並んでいるのである。大体、「芭蕉」と云う樹木が、我が国の森の景観にあまり似つかわしくないのだから、これはもはや一種、壮観と云わざるを得ない。まあ、別名「ジャパニーズ・バナナ」と云うくらいだから... (でも、原産地は「中国」と考えられている) 。ただし、境内が狭い窪地となっているため、上に対する視界も狭くなりがちで、意外とこの「芭蕉」の樹々に気づかない参拝者もいるようである。何しろ、筆者に同行した三人は、誰も気づいていなかったほどであるから。

ちなみに、この「芭蕉」の木、実は幹に見える部分は、「葉鞘」が巻き重なって出来ている「擬茎」で、植物学的には「幹」どころか「茎」でさえなく、この葉っぱだけでも二メートルある巨大な植物は、分類上は「多年草」と呼ばれる「草本」なのである。簡単に云えば、「草」と云うこと。だから、筆者が「木」とか「樹々」とか書いているのは、飽くまでも見た感じを重視した表現に過ぎないことを了承されたい。まあ、あのでかい「孟宗竹」だって「草」だと考えれば、こちらもそうだと信じやすいかもしれぬ。

いくら何でも、筆者の写真の腕が悪過ぎる....

「幣殿」の前に進むと、左右に一対の「狛犬」がいるのは、どこの神社とも変わらぬのだが、ここの「狛犬」はまた特徴的なのである。優しく微笑んでいるかに見えるここの「狛犬」は、しかも、何匹か (四匹だったと思う) 子犬を連れているのである。小犬がこれほど目立つ「狛犬」の造形も珍しい。造立の紀年銘は、明治七年 (1874) 七月だから、さほど古いものではないが、「江戸末期」の華やかな石造物の流れを十分に汲んでいた。ちなみに、後ろ髪の、巻かれつつ流れていく造作などは、なかなかセクシーな「狛犬」様であった。

*写真があまりに酷いので、「神社探訪・狛犬見聞録」さまのサイトの「芭蕉天神」のページを訪問されることをお勧めします。すべての写真が美しく掲載されています。訪問するには、こちらをクリック!!

「幣殿」掲げられた扁額には「正一位 芭蕉天神宮」と、上品な萌葱色で書かれているのも、賽銭箱の横には、漢方のお店の薬戸棚のような古式ゆかしい御神籤箱が据えられているのも嬉しかった。国賽銭箱は、昔はみんなこんなだったのだろうか、都内でも探せば今もない訳ではないが、山中のお社で見るとやはり風情があって趣き深い。





「幣殿」と「本殿」の間の縁側にも、「狛犬」がいた。こちらも石造であることに変わりはなかったが、「幣殿」前の一対の活き活きとしたおおらかさと写実的な表現技法に比べると、こちらの一対は、子供の工作の如く、硬直した姿勢をしており、造りも素朴であった。正面から見た顔はかなり個性的で、やや開いた口の部分と目の周りが赤く、不気味で怖いような、あるいは間が抜けて可愛いような感じであったが、横から見るとカリビアンなヘアスタイルがなお一層印象的であった。

「芭蕉天神宮」のある「大晦日」の地は、現在ではすっかり山の中と云った場所だが、古い時代には身延街道沿いにあって、「由比」で作る「塩」を「富士宮」へ運ぶ街道の中間にあり、「江戸時代」には交易の中継地として栄えた地であった。そして、交易の中継地として栄えたこの村のかつての殷賑繁栄ぶりを現在に伝えるものが、「芭蕉天神宮」の豪華な「本殿」であり、中でも特に「本殿」に残る「海老紅梁」である。

「海老紅梁」とは、草花などを透かし彫りにして「海老」のように曲がっている「向拝」のことなのだが、「芭蕉天神宮」のものは、これが「総透かし彫り」になっているのである。さらに、柱の面にさえも、精緻な彫刻が施されている。寺社建築で、ここまで豪華な装飾は、全国的に見てもなかなかない。さすが「正一位」と掲げるだけあって、これだけの装飾建築は、「日光東照宮」クラスの神社でも、おいそれと見られるものではない。写真もたくさん撮ったのだが、筆者の腕ではとうていこの彫刻の素晴らしさを伝え切れないので、今回は写真掲載を避けることにした。この「海老紅梁」を見るためだけでも、曲がりくねる悪路を登ってくる価値は十二分にある。


「本殿」の横には、やはり赤い銅板葺きの「社殿」があり、正面に太い注連縄が一本差し渡してあるのだが、中には白い馬の像が祀られていた。「御神馬様」である。しかもこの馬の神様、何と草蛙を履いている。この地域は、ここの「天神」に至るまでの間にも強く感じたことだが、「馬頭観音」が多く、ここでも馬が祀られており、その馬が草履を履いている以上、旅人たちの交通安全などを主たる御利益とした信仰がある (あった) のだろう。「馬頭尊」や「不動尊」は、原始的には湧き水や滝などと関係の深い「水神」として祀られていたものだと筆者は考えているのだが、どちらも「近世期」の間に独自の信仰を発達させ、特に「馬頭観音」は、交通交易の発達に伴って、直接「馬」や交通の神様へと完全に転じてしまった経緯がある。ここの「御神馬様」にも、きっと同じような信仰があるものと推測された。

しかし、それにしても「驢馬」にしか見えない「白馬」であった。彩色されているのが、返ってキッチュな雰囲気を醸し出しているが、どことなく淋し気な、伏し目がちの表情も味わい深かった。

「芭蕉天神」の東側には、「芭蕉天神音頭」の石碑の横から、下を流れる沢へと続く石段と遊歩道がある。「泉水」があると云うので、筆者は重い体に鞭打って、果敢にも長い石段を降り、その先の遊歩道も数百メートル歩いたのだが、あまり湧水池に出る気配はなかった。あるいは、別の言い方をすれば、遊歩道の斜面と云う斜面、窪みと云う窪みから水は湧いているのである。筆者は、二つの木橋を渡って、眼下に「廻り沢川」を見下ろす辺りまで来て、ふとある重大な事実に気づいたのである。「泉水」と云うのは、湧き水や池水のことではなく、「大晦日」から「北松野」へと下ってゆく途中の地名なのである。きっと、この道は「泉水」の集落から「天神様」へと至るの古い参道なのだろう。危うく、数キロメートルも山道を行き来することになりかけたところで、筆者は引き返すことに成功した。しかし、途中から引き返したとは云え、運動不足の中年男には、帰りの石段の上りはつらかった。



4. 「窪山天神」と「山猫」の伝説

この「芭蕉天神宮」には、いまでは氏子の人々までが忘れてしまっている「猫」の伝説がある。言い伝えの中で中心的な役割を果たす人間は、「本成寺」の僧なので、あるいは「尾崎」の方に強く残存した説話なのかもしれないが、その辺りのことは、残念ながらいまだ調査出来ていない。伝説自体は、次のようなものである。

窪山天神と山猫


内房巡り沢より大晦日を過ぎて行く旧道に久保山という山があって、ここに窪山天神を祭る社がある。昔この地に葬式があって、棺を開いて見ると中の死人がいない。こまった村人は本成寺のご庵主様にこのことを申し上げ良い思案はないものかと相談をもちかけた。考えていたご庵主様はこれはきっと山猫のしわざにちがいないという。和尚さんはおごそかに呪文を唱え、さらにお前を天神として祭ってやるから、今後このような悪さをするでないといいきかせる。この山猫を祭ったのが窪山天神であるという。

芝川町誌編纂委員会/編 (1974) 『芝川町誌』芝川町
加茂徳明ら編 (1982) 『日本伝説体系 第七巻 中部編』みずうみ書房、p. 201


『静岡県伝説昔話集』にも、「富士郡」の伝えとして、次のような話を紹介されている。
葬式の時、死者との別れのために棺の蓋を取ると死体が亡くなっている。「本庄寺」の和尚を呼ぶと、山猫の仕業だと云い、天神様に祭ると云って祈ると戻る。

静岡県女史師範学校郷土研究会 (1994) 『静岡県伝説昔話集』羽衣出版、p .336


しかし、このような伝説の存在にも関わらず、現在、境内には「猫」を表すものは何一つ残されていないのは残念である。まあ、伝説自体が忘却されているのだから、遺物などが残されているはずもないのだが。

*

ちなみに、上の伝承に登場した「本成寺」は、県道10号沿いにあり、われらのとった順路で云うならば、「尾崎」の信号を左に曲がらず右へと進み、三百メートルも行けば到着する位置にある。「日蓮宗」としては、「日蓮」存命中に、他宗より改転した最初の道場として知られている。折角だから、寺についての概略を下に記すこととする。

十三世紀来、「駿河国庵原郡内房村」にあった「胎蔵寺」と云う「真言宗」の古刹が、この寺の前身である。「日蓮」在世当時には、「東林法印 (兄) 」「仏像法印 (弟) 」が住持であったが、いずれも後の「内房尼御前」の子である。この二人のさらに兄は「内房殿」と称されたが、「岩本」の「郡代官」をしていて「実相寺」の住僧「厳誉律師」とは俗縁の故を以て往来していた。そこへ「日蓮」が閲蔵のため、偶々来寺したのだが、寺主を始め、四十九院の僧たちはこれを嫌って入蔵させようとしなかった。「内房殿」は「日蓮」に畏敬の念を抱き、供奉して邸に帰り、母子ともに信伏随従するに至った。弟の両法印は「日蓮」と法論を交したが、終に説き伏せられて改宗の余儀なきに及んだ。時に「遠藤左金吾」の一族が来寺し、一夏九旬の間、当所に留まる内に一村悉く「日蓮」に帰依したと云う。即ち「東林房」は「日報」、「仏像房」は「日浄」と名を賜り、山号を「長遠山」、寺号を「久成寺」に改称し、「日蓮」を「開基」と仰いで本化の道場となった。当寺は、「日蓮宗」としては、他宗より改転した最初の道場として知られている。寺号は、さらに後に現在の「本成寺」に再度改められた。

日蓮宗
長遠山・本成寺

富士宮市内房字尾崎 2931
旧・富士郡芝川町
0544-65-0245


*

今回、「芭蕉天神宮」の境内で見つけることの出来た「猫」と関係のある物と云えば、下のトイレ内のカレンダーくらいであった (笑) 。でも、訪問日は、五月二日だったのに、カレンダーは四月のままであった。もしも、五月にめくられていたら、犬の写真になっているところだったので、これも「山猫様」のお力添えと云うことで...。



本当に、トイレは有難かった。大切に、綺麗に、使いましょう...。



5. おわり

「芭蕉天神宮」の地図は、こちら

いつもの「マップファン」では、「芭蕉天神」までの道が表示されていなかったため、今回は、「ちず丸」にお世話になりました。
参考文献
新宮高平/編・橋本博/校 (1930) 『駿河志料』静岡郷土研究会
桑原藤泰 (1932) 『駿河記』下巻、加藤弘造
内房尋常高等小学校/編 (1913) 『内房村誌』自刊
芝川町誌編纂委員会/編 (1974) 『芝川町誌』芝川町
斉藤静夫ら/編 (1976) 『志ば川の歴史』芝川町郷土誌研究会
静岡県教育委員会 (1998) 『静岡県歴史の道 身延街道』自刊
鈴木茂伸 (2002) 『古街道を行く』静岡新聞社
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